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1 【龍 谷 大学 学 長挨 拶】

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1 【龍 谷 大学 学 長挨 拶】
世界仏教文化研究センター設立記念
Hiroshima Peace Memorial
講演会名
開催日時
場所
舞台講話
挨拶
司会
主催
後援
ヒ ロ シ マ 被 爆 70 年 追 悼
特別上映
『知られざるヒロシマの真実と原爆の実態』
2015 年 11 月 30 日 ( 月 ) 10:45~ 12:30
龍谷大学
深草学舎
顕真館
田 邉 雅 章 氏 (映 画 監 督 )
赤 松 徹 眞 先 生 (龍 谷 大 学 学 長 )
鍋島直樹先生(龍谷大学世界仏教文化研究センター副センター
長、文学部
龍谷大学
真宗学科教授)
世界仏教文化研究センター
人間・科学・宗教オープン・リサーチ・センター
公益財団法人
広島平和文化センター
【龍谷大学学長挨拶】
が
年
あ
京
候
世
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に
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日
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へ
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り
都
補
界
た
て
に
界
る
と
向
成
の
究
し
の
じめに、赤松徹眞学長より開幕の挨拶があった。
1945 年 8 月 6 日 8 時 15 分 に 広 島 に 原 爆 が 投 下 さ れ 、 多 く の 人 々
牲 に な っ た 。そ の 年 の 死 者 数 は 14 万 人 に も の ぼ っ た 。ま た 、1945
月 9 日の長崎の原爆投下によって、その年に約 7 万人の死没者が
、現在もその被爆者の悲しみや苦しみは続いている。 実は、ここ
も他人ごとではなかった。京都の梅小路車庫も原爆投下場所の一
地 と 想 定 さ れ て い た こ と が 記 録 さ れ て い る か ら で あ る 。21 世 紀 の
は今、善と悪との二項対立的な構造になりつつある。 今後、そう
二極対立的な考え方を越えて、仏教的な視点から世界平和を構築
い く 道 を 考 え て い く こ と が 必 要 で あ る だ ろ う 。そ の た め に も 、2 0 1 5
第五次長期計画のもとで、世界仏教研究センターが設立された。
仏教文化研究センターは、仏教伝来の歴史と経論釈の文献を読解
基礎研究部門、仏教を機軸とした国際交流を進めるプラットホー
しての国際研究部門、さらには現代世界のさまざまな苦悩の解決
き合い、その課題解決に取り組む応用研究部門の三部門から、そ
果を広く世界に発信していくという重要な役割を担っている。本
特別上映会『知られざるヒロシマの真実と原爆の実態』は、応用
部 門 の 人 間 ・科 学 ・宗 教 オ ー プ ン リ サ ー チ セ ン タ ー に よ っ て 企 画 実
たものである。このドキュメンタリー映画をご覧いただき、広島
原爆投下がどのような「現実」であったのかを、しっかりと共に
1
学びたい。ご尽力いただいた映画監督ならびに関係各位に感謝申し上
げたい」というメッセージを聴衆に届けた。
【映画監督
田邉雅章氏
Masaaki Tanabe】
プロフィール
ヒ ロ シ マ 70 プ ロ ジ ェ ク ト 代 表
1937 年 、 原 爆 ド ー ム の す ぐ 東 隣 に 生 ま れ る 。 8 歳 の 時 、 原 爆 に 遭 い 、
二日後に入市被爆した。両親と弟が犠牲となり、現在もその遺骨は世
界 文 化 遺 産 「 原 爆 ド ー ム 」 の 敷 地 内 に 埋 ま っ た ま ま で あ る 。 15 歳 で 記
録映画監督を志し一筋に生きている。日大芸術学部映画科卒。還暦を
機 に 史 上 初 の 爆 心 地 復 元 事 業 に 取 り 組 み 、17 年 を か け て 6 作 品 を 完 成
した。広島と国連上映などで大きな反響があった。広島市民賞、広島
文化賞を受賞し、政府非核特使として活躍している。著書『原爆が消
し た 廣 島 』 な ど 。 2015 年 5 月 に ニ ュ ー ヨ ー ク の 国 連 本 部 な ど で 英 語 版
が上映された時、スタンディイングオベーションで拍手に包まれた。
関西で上映するのは、今回、龍谷大学が初めてである。
【映画の概要】
原 爆 投 下 ―― あ の 日 か ら 7 0 年 。 C G に よ っ て 復 元 さ れ た 田 邉 監 督 の
り し 日 の 生 家 か ら は 、産 業 奨 励 館 が す ぐ 近 く に 見 え て い た 。監 督 は 、
供の頃、この館でよく遊んでいたという。被爆以前と直後を知る田
監督は、数少ない生き証人として、その惨劇を語ることが、自分の
命であると語る。そして映画監督として、この地の「復元事業」に
り組むことは、自分の責務であるとも言う。
映画の中では、原爆が投下された時の惨劇が、現在ご存命の被爆者
の方々によって、多く語られている。焼けただれた人々が防火水槽に
飛び込む様子や、助けを呼ぶ声、体中真っ赤にやけどし髪の毛がすべ
て 逆 立 っ て い る 女 性 の 姿 、降 り 注 ぐ 黒 い 雨 … … 、凄 惨 を 極 め る 状 況 を 、
ある被爆者の方は「この世の地獄」と表現していた。
田 邉 監 督 は 、被 爆 前 の 広 島 の 街 の 様 子 を 、C G を 用 い て 再 現 し て い る 。
C G に よ っ て 、和 や か な 人 々 の 暮 ら し や 賑 わ う 繁 華 街 の 様 子 が 、生 き 生
きと甦っていた。一方で、本編を通じて、このような街を一瞬にして
消滅させる原爆の恐ろしさを改めて思い知らされた。消滅し、破壊さ
れるのは、街だけではない。そこに息づいていた地域の芸能や歴史、
伝統、子どもたちの遊びも失われた。
広島は、川とともに栄えてきた。運搬用の舟が行き交い、また そこ
は子どもたちの良き遊び場でもあった。憩いと風情の象徴であった広
島の川。被爆後 1 年経った夏の日、田邉少年は、この川に飛び込んで
みた。川底には、犠牲になった多くの遺骸があったという。
当 時 広 島 の 花 街 で 働 い て い た 人 々 の 内 、1 , 0 0 0 人 以 上 が 犠 牲 に な っ た
が、それは記録にすら残っていない。また陸軍病院に来ていた見舞い
の人々など外来者も多く犠牲になったが、それは「行方不明者」とし
て扱われている。記録はすべて焼き尽くされてしまい、その犠牲者の
全容を把握することはできないのが現状なのである。
学童疎開をしていた子どもたちは、「いつか両親が迎えに来てくれ
る」と信じて待ち続けた。しかし、そのまま農家に引き取られる子ど
も や 浮 浪 児 に な る 子 ど も が 多 く い た 。「 原 爆 孤 児 」 は 現 在 「 原 爆 孤 老 」
となっていることも多いという。原爆による人体への影響は大きく、
生 き 残 っ た と し て も 、 や け ど の 跡 (ケ ロ イ ド )が 残 り 、 ま た 癌 に な る 確
率も高く、そのせいで結婚なども困難になったという。
在
子
邉
使
取
2
今でも、平和公園の樹木の下には、粉末状になった遺骨が眠ってい
る。「戦争は悪、原爆は絶対悪」。私たちは、決して“あの日を”忘
れてはならない。
【対談の概要】
章
人
ン
鍋
談
生
原
さ
て
そ
ロ
と
る
よ
に
ざ
監
は
て
し
な
映画上映後、田邉雅
映画監督と聞き手の
間 ・科 学 ・宗 教 オ ー プ
リ サ ー チセ ン タ ー長 、
島直樹先生による対
が行われた。鍋島先
から「ご両親と弟を
爆で一瞬にして亡く
れた悲しみは今もと
も深いと思われる。
の悲しみの中で、ヒ
シマの美しい街並み
被爆の現実を再現す
映 画 が 17 年 も か け て
うやく完成したこと
心からありがとうご
いますと伝えたい。
督がこの作品を通じて伝
「表現者として、作品が
欲しい」と述べられた。
さを感じておられた日々
かったのか?」と語りか
両
っ
を
人
で
を
れ
向
っ
憎
で
親
た
志
が
は
平
た
か
た
し
あ
と弟を失い、子ども心に「いつか仇をとろう」と考えたこともあ
。しかし、自分にはこの世ですべきことがあるはずと思い、映画
した。このヒロシマ原爆の映画を製作する時に、多くのアメリカ
協力してくれた。長い時を経て、憎しみに対して憎しみを返すの
なく、ヒロシマ被爆の映画製作を通じて悲しみを表現し、憎しみ
和への道を築いていきたいと思った。孤児の自分を受け止めてく
寺院があった。自分にはこの世ですべきことがあるはず、それに
ってどのように生きればよいかについて教えてくれたのは仏様だ
。亡 く な っ た 両 親 や 弟 の お 墓 に お 参 り し 、仏 様 に 手 を 合 わ す 中 で 、
みに憎しみを返してはならないと思った。アメリカ人も同じ人間
ると思えるようになった」と語った。
最
書
も
す
気
次
宗
さ
に
し
さ
時
い
後 に 、鍋 島 先 生 か ら 田 邉 監 督 へ 、親 鸞 聖 人 の 教 え で あ る「 怨 親 平 等 」
かれた色紙がプレゼントされた。「怨親平等とは、恨み敵対した
親 し い 人 も 、偏 見 を 離 れ て み れ ば 同 じ 人 間 、同 朋 で あ る こ と を 意
る」と鍋島先生から説明されると、その言葉が田邉監督の平和へ
持ちと思い重なって、両手でしっかり受け止めてくださった。
に、本学学生を代表して、龍谷大学大学院実践真宗学研究科の臨
教師である戸田栄信さんと黒瀬英世さんが謝辞を述べた。戸田栄
んは、「田邉監督のおかげで、ヒロシマ原爆の真実をはじめて身
感じることができた。これからこのヒロシマ被爆の真実を宗教者
てしっかり受け止めて平和を伝えていきたい」と述べた。黒瀬英
んは「臨床宗教師研修で鍋島先生と共に広島平和記念公園を歩い
、この下には数えきれないたくさんの方々の遺骨が眠っていると
た 。田 邉 監 督 の お か げ で 、ヒ ロ シ マ の 被 爆 前 の 美 し い 街 並 み や 人 々
と
者
味
の
床
信
近
と
世
た
聞
田 邉 監 督 (向 か っ て 右 )と 鍋 島 先 生 に よ る 対 談
え
す
ま
の
け
た
べ
た
中
た
い
て
、
で
。
こ
。
鍋
、
田
と
自
島
な
邉
は
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ぜ
監
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自
生
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督
」
身
か
し
は
と
の
ら
み
、
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体
「
に
「
り
験
悲
憎
被
か
に
し
し
爆
け
置
み
み
直
た
き
や
を
後
。
換
憎
返
は
田
え
し
そ
、
邉
て
み
う
大
監督
考え
、悔
とし
切な
かたき
お ん し ん びょう と う
3
の
原
を
持
と
話
真
さ
田
れ
学
喜
っ
を
田
先
学
ン
伝
光
生
特
タ
え
田
めた
わっ
子
、
殊
ー
た
邉
拍
た
先
能
講
長
。
監
手
。
生
美
義
の
幸せを知り、同時に、
爆の恐ろしさや悲しみ
痛切に感じた。この気
ちを伝えていきたい」
感謝の気持ちを込めて
した。最後に、文学部
宗学科 3 年の井上睦美
ん 、笠 井 景 子 さ ん か ら 、
邉監督へ花束が手渡さ
た。田邉監督は、その
生たちの謝辞を聞いて
んでくださり、歩み寄
て学生たちと熱い握手
交わした。
終わりに、鍋島先生よ
り
、
この特別上映会のた
田 邉 監 督 へ 花 束 贈 呈
めにご尽力いただいた龍
谷大学社会学部教授、新
、ならびに、参加してくださった仏教の思想担当者の野呂
先生、佐々木大悟先生、高田文英先生と学生、文学部教義
A の 学 生 、人 間 ・ 科 学 ・ 宗 教 オ ー プ ン リ サ ー チ セ ン タ ー 副 セ
黒川雅代子先生、来聴者、スタッフ全員に感謝の気持ちを
督は鍋島先生にも握手を求めた。その時、会場から感謝を込
がわきおこった。平和への想いが確かに教員や学生たちに伝
【感想】
本
元
い
も
す
大
る
映
被
当
作
仕
の
こ
変
田
画
爆
の
業
事
だ
と
苦
邉
を
者
恐
」
で
っ
は
し
監
通
に
ろ
は
あ
た
、
い
督
じ
よ
し
、
る
で
被
作
に
て
る壮絶な証言からは、悲しみとともに原爆そして戦争の
さ が 伝 わ っ て き た 。一 方 、被 爆 前 の 広 島 の 街 の 様 子 の「 復
そこに生まれ育った映画監督・田邉雅章氏にしかできな
と感じた。同時に、この作業には、相当なつらさが伴う
あろうと推察された。在りし日の生家や遊び場を思い出
爆直後の惨状を思い出すことにもつながる、精神的にも
業だったであろう。それをご自身の責務だと捉え活動す
、敬意と感謝の意を表さずにはいられない。また、この
、改 め て 平 和 と 命 の 尊 さ に つ い て 深 慮 す る こ と が で き た 。
【文責】
龍谷大学世界仏教文化研究センター
鍋島直樹・唐澤太輔
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