Comments
Description
Transcript
中南米はスペイン語モノリンガル地域が都市
スペイン語学概論 I 2007 年度前期 中南米のバイリンガリズム −パラグアイの事例− 中南米はスペイン語モノリンガル地域が都市部を中心に広がり、先住民族の人口の多い地方部 では先住民語とスペイン語のバイリンガルである地域が少なくない。特にメキシコ南部やアンデ ス地域では、ナワトル語(メキシコ)、ケチュア語・アイマラ語(ペルー・ボリビア・エクアド ル)、アラウコ語(チリ中南部)が植民地時代を通じて民間伝承され、現代も日常的に話されて いる。 このような地域においても多くの人々は、(少なくとも学校教育を受けていれば)先住民語と スペイン語を併用するバイリンガルである。現地語は家族や地域社会の日常生活において集団的 に用いられる話し言葉である。民族の伝統文化、宗教、世界観などを理解し表現する手段として 大切に継承されており、地域社会の同族意識を強める働きがある。アンデス地域のような先住民 族の割合が高い国々の都市部では、民族の誇りとして日常的に愛用されている。したがって、近 年地方出身の若者が仕事を求めて都会に出たことで過疎化が急速に進んでいるものの、それによ って先住民語が途絶える心配は今のところなさそうである。 一方、スペイン語は、公文書、公共標識1、報道、及び他地域の人々との交流など、現代生活 を営む上で欠かせない言語である。地域の標準スペイン語を適切に運用する能力がなければ、現 代の経済社会で職に就くことはできない。これらの地域(特に地方部)では、高位変種のスペイ ン語と低位変種の先住民語がそれぞれ異なる状況下で用いられるダイグロシアdiglosiaが定着し ている2。 パラグアイは南米大陸の内陸部に位置し、長期に渡って独裁政権と戦争が続いたことによって、 周辺諸国との交流が停滞していた。スペイン系移民の割合が他のラテンアメリカ諸国に比して少 なく、歴史的に旧統治国スペインの文化的影響が最も少ない国の一つである。 植民地時代、スペイン人男性は、同郷の女性が少なかったため、先住民女性と婚姻した。その 家庭で生まれたメスティソは、父方からスペイン語を、母方から先住民語を学んだ。これがパラ グアイにおけるバイリンガリズムの始まりである。一方、地方に住むグアラニー族や、黒人と白 人・先住民族との混血児 mulatos などの下流階層は、近代的な教育体制が整備されるまで、専ら 1 スペインのカタルーニャ地方やアラゴン地方などでは、現地語とカスティーリャ語(標準スペイン語) の二重標記による交通標識が見られる。しかし、中南米において現地語を公的標識に採用している地域は ない。読み書きが出来ない先住民のために、施設を図示した標識が設置されている。 2 但し、若年層の間ではスペイン語の日常言語化が広まっており、緩やかな用語の使い方としてダイグロ シアと評するべきである。 1 スペイン語学概論 I 2007 年度前期 先住民語を用いていた。 現代でもグアラニー語話者の多いパラグアイでは、スペイン語とともに、この先住民言語が公 用語に制定され、国家の文化遺産として位置づけられている: Artículo 140. De los idiomas. El Paraguay es un país pluricultural y bilingüe. Son idiomas oficiales el castellano y el guaraní. La ley establecerá las modalidades de utilización de uno y otro. Las lenguas indígenas, así como las de otras minorías, forman parte del patrimonio cultural de la Nación. 同じ南米のペルーでもケチュア語やアイマラ語がスペイン語と併用され、現地語話者人口の多 い県では公用語に指定されている。パラグアイに隣接するアルゼンチン北東部のコリエンテス県 でも、2004 年 10 月、県議会がグアラニー語の公用語指定を承認している(法令 5.598 号) 。し かし、全国規模で先住民の言語を公用語に指定する国は、ラテンアメリカではパラグアイのみで ある。 1950 年から 1990 年の間、地方の都市化と教育の普及などによって、グアラニー語のモノリン ガルは減少し、その一方で、スペイン語モノリンガルが増加した。現代パラグアイにおけるモノ リンガルの割合は、スペイン語 7%、グアラニー語 2%と推定される。スペイン語モノリンガル はアスンシオンなどの都市部に多い。将来、都市への人口集中が一層進めば、スペイン語モノリ ンガルがさらに増えるものと予想される。 全国的にグアラニー語モノリンガルが減少する一方、バイリンガルが増加している。スペイン 語とグアラニー語の双方を話す人の割合は国民全体の九割にも達している3。その大半は二言語 をかなり自由に操れる「積極的なバイリンガルactive bilingual」であると見られ、日常会話では コード切り替えが頻繁に起こる。 しかし、どちらの言語が優先されるかは地域や社会階層によって異なる。都市部では、スペイ ン語モノリンガルが白人の上流階層に限られ、ほとんどの都市住民にとってスペイン語は第一言 語、グアラニー語は第二言語である。アスンシオンには地方からグアラニー語話者が流入してく るが、仕事や生活のために首都のスペイン語に順応する。都市部のグアラニー語は実質的にスペ イン語系語彙の多く混入した混成言語=ジョパラ jopará を指すが、1992 年の教育改革によって 3 およそ 40 年前にルビン(Rubin 1968)がアスンシオン近郊のルケ市において実施した調査によると、バ イリンガルは 52%に留まる(92%がスペイン語を理解する)。当時から現在に至る地方におけるスペイン語 話者の増加がバイリンガル率の上昇に寄与しているものと考えられる。 2 スペイン語学概論 I 2007 年度前期 バイリンガル教育が義務化されてからは、グアシュ(Antonio Guasch)やメリア(Bartomeu Melià) などのグアラニー語研究者の編纂した辞書や文法書に基づき教育が行なわれている。 一方、地方(特に農村部)ではグアラニー語を第一言語、スペイン語を第二言語とする人口が 多い。グアラニー語は家庭内や友人間で話され、スペイン語は役所や学校などの公的場面で用い られる。たとえ家庭内でスペイン語しか話さない白人系の上流階層であっても、従業員や家政婦 との人間関係を円滑にし、地域社会に溶け込むにはグアラニー語が話せなければならない。スペ イン語は公的身分として社会的に上位語に位置づけられるが、人々の情感を表現する日常語とし てはむしろ下位語であると言える。 教科教育の使用言語は基本的にスペイン語であるが、地方の農村部では指導時にグアラニー語 を援用する学校もある。校内の会話は二つの言語が使用されるが、都市部の学校ではスペイン語、 地方ではグアラニー語が優勢である。グアラニー語は初等教育課程の必修科目であるが、中等教 育以降は教員養成学校に進学しない限り学校で教わることはない。そのため、小学校を卒業して からグアラニー語リテラシーをいかに維持するかが教育的課題である。 学術用語(現地固有の動植物や文化的事物を除く)や科学技術用語は基本的にスペイン語であ る。グアラニー語は日常会話、特に心情的表現に好まれる。そのため、グアラニー語圏の学校で は算数や理科をスペイン語で教えようとしても児童の理解度が低く、目標学力の達成が都市部よ りも遅れるという不利がある。規範化の過程において、科学分野におけるグアラニー語の使用を 推進しようとする考えが出ているものの、まだ実現には至っていない。スペインへの出稼ぎ者が 多く、標準的な半島スペイン語を学習することが推奨されたり、グアラニー語よりもむしろ英語 教育を充実させたほうのが国際社会で働くのに有利だといった経済効果を優先する意見も聞か れる。加えて、南米共同市場 MERCOSUR の経済交流が盛んになっているため、近年はブラジル・ ポルトガル語の教育が活発なこともあり、グアラニー語の高等教育課程はなかなか促進されてい ない。 交通や行政機関の標識はスペイン語で書かれる。スペインのカタルーニャ地方やガリシア地方 のような二言語標識は設置されていない。テレビ・ラジオはスペイン語放送が主であるが、地方 局にはグアラニー語で放送する番組がある。全国的な人気を持つ大衆向け新聞のポプラル紙 (Popular)やクロニカ紙(Crónica)は、スペイン語を基盤とした記事にグアラニー語の語彙が 混在する4。グアラニー語のみで書かれた新聞は今のところ発行されていない。その理由は、主 4 機能語のコード切り替えがしばしば起こる:sus cuates kuéra(彼女の双子)kuéra=複数標識辞;la carne semi cocinada es re venenosa ra'e(半生の肉は有害であった)re=過去標識辞、ra'e=過去完了標識辞。 3 スペイン語学概論 I 2007 年度前期 要な購買層である中高年が、1992 年教育改革の前に教育を受けている世代であり、グアラニー 語を読み書きする能力や習慣がないためである。 多言語社会では現地固有の言語が社会的に下位に置かれることが多い。例えば、スペイン語系 クレオール=チャバカノ語chabacanoの話されるフィリピン・ミンダナオ島サンボアンガ市では、 「英語>フィリピノ語5>チャバカノ語」の順で社会的ステータスが下がっていく。確かにパラ グアイ(特に都市部)においても、グアラニー語は経済的に恵まれない貧困層しか話さないため 蔑視される傾向がある。だが、今や国民文化のシンボルとして法的かつ社会的に認められ、ラテ ンアメリカ諸国との差別化および国内の連帯を支えるという重要な役割の一端を担っている6。 一方、スペイン語は、他のラテンアメリカ諸国との対外関係を維持するための国際語であるため 政治経済的側面から重要視されている。このような文化的・社会的・歴史的要因によって、アメ リカを代表するバイリンガル国家が成立するに至っている。 スペイン語・グアラニー語以外の言語としては、東部のブラジル国境沿いにおいてポルトガル 語、イタプア県などの農業移住地において日本語やドイツ語が話されている。第二次世界大戦後 に移住した日系一世は共同体内で日本語を話していたが、グアラニー語圏である農牧業地帯では、 農産物取引のためにグアラニー語を学んだ。二世は現地の教育を受けており、家庭内で使う日本 語に加えてスペイン語とグアラニー語を話す。現代の若者層を形成する三世は、家庭内でも日本 語だけではなく、スペイン語やグアラニー語を併用するため、日本語を第一言語として流暢に運 用する話者が減少している。その他、最近の都市部では、朝鮮語話者が増加している。 (青砥清一) <参考文献> Dirección General de Estadística, Encuestas y Censos (DGEEC). 2002. Censo 2002. URL: http://www.dgeec.gov.py/. Melià, Bartomeu, Luis Farré, & Alfonso Pérez. 1997. El guaraní a su alcance. Asunción: Centro de Estudios Paraguayos “Antonio Guasch”. Pic-Gillard, Christine. 2004. Incidencias sociolingüísticas del Plan de Educación Bilingüe Paraguayo 1994-1999. Asunción: Servilibro. Rubin, Joan. 1968. National bilingualism in Paraguay. Paris: Mouton. 5 ルソン島マニラ市を中心に話されるタガログ語tagaloを指す。 象徴的な出来事として、サッカー南米選手権 1999 年パラグアイ大会では、大統領がグアラニー語を交え て開会宣言を行ない、国内外に祖国の独自性をアピールした。 6 4