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具体詩1

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具体詩1
具体詩テキストの自己言及性
―前衛言語芸術における伝統的技法の先鋭化―
序
本稿は、具体詩の特質の 1 つである、徹底した自己言及という手法に着目する。この特
....
質を主題的に扱った論稿は管見の限り見当たらない。具体詩は、一見すると、伝統の否定
の上に成り立つ現代芸術そのものであるが、自己言及という特質において、むしろ叙情詩
の伝統に連なり、いやそれどころか、自己言及の徹底性のゆえに、言語の形態と意味の一
致という詩芸術の根本規定を忠実に体現している。すなわち、具体詩を書くことは詩をそ
の根源-泉において書くことそのものである。本稿はこの点を論究する。
第1章
自己言及具体詩というジャンル
明確に具体詩(Konkrete Poesie)という名称が確立したのは 1953 年とされており,
1968 年頃から具体詩は衰えを見せるとされる(Kateřina, 10 (Vgl. dazu: Döhl, 232; Ernst, 262
ff.); Balci, 151)。確かに、ナチのプロパガンダ言語への反対運動として主に具体詩を捉え、
その政治的意義を強調する論、例えば Balci は、具体詩を、1950~1960 年代に限定された
叙情詩の一分野と見なす(Vgl.: Balci, a.a.O., 146 ff.)。 一方、言語記号を物体として・具
象的に(konkret)扱う詩作品全般を具体詩と看做す論、例えば Nickel は、未来派やダダ
イズム、超現実主義をも視野に入れ、1970~1980 年代の作品をも具体詩として取り上げ
る(Vgl.: Nickel, 1 ff.)。実際、一種奇態な視覚効果を狙ったおおむね戦後以降の前衛的
な詩作品が漠然と具体詩と呼ばれているのが現状であり、しかも何よりも重要な点として、
..........
具体詩は今日なお作られている のである1) 。さらにまた、言語の文字を絵のように配し
た詩そのものは、バロックドイツにおける図形詩は固より、遠く古典ギリシャ語において
も作られていたものであり、絵的な記号の使用という点では、象形文字にすら具体詩の類
縁的ルーツを求めることができるだろう。これら類縁ジャンルと具体詩はむろん区別され
る。例えば Švejdová は具体詩の特性を以下のようにまとめる。具体詩は、1) 伝統的な叙
1)
例えば Traumberuf – Konkrete Poesie(http://blogs.ubc.ca/germ200section004term1winter2011/)。
-1-
情詩の形式と内容を拒否する。2) 記号を物体化し、語りのシンタクスを拒絶する。3)言
語を要素に解体し、この要素から別の構成を作り出す。4) 国際性を有し、一作品に多言
語を使用しうる。5) 語を、活字による受容の規格・慣習から解放する。6) 出来合い品で
はなく発見プロセスを受容者に提示する。7) 完成作品を樹立するのでなく、受容側が完
成させる運動を提示する。8) テキストの構造から作品の言表が解明される。9) その作品
は、言外の含みを持たず、言表が全てである(Švejdová, 2.2. (s. p.))。
以上より、具体詩とは、戦後の約 20 年間に限られるとこそ言い難いが、しかし類似す
る古来からの詩作品とは明らかに区別される現代芸術であると見ることができる。だが問
題が残る。伝統的な形を拒絶したかに見える叙情詩ということでは、例えば H・バル
(1886–1927)のダダイズム詩 Gadji beri bimba などは、E・ヤンドル(1925–2000)の高
名な具体詩 schtzngrmm に劣らず《前衛的》である(どちらも特別な朗読を前提とした作
品)。また、慣習的な印刷規格の否定という点では、A・ホルツ(1863–1929)や S・ゲ
オルゲ(1868–1933)の詩集の独特な印刷体裁にすでにその端緒を見ることができる。で
は具体詩を全く独自たらしめている規定は何であるのか。今見たように、1) や 5) などは
この規定だと判断しにくく、例えばアスキーアートのように、2) も類例が他分野に見ら
れるため、1) ・5) 以外の規定であると考えられる。ところで 3) ~7) はすでに多くの先
行研究で主題的に論じられている。そこで本稿は、8) および 9) の特性、すなわち、テキ
...
スト(記号)の形態がテキストの内容と不二一如になるという、徹底的自己言及性という
具体詩独自の特性の 1 つに着目する。いま具体詩の自己言及手法の例を挙げると、一般読
者向けの詩論入門書において、G・リューム(1930–)の sonett(1970)が取り上げられて
いる(Gelfert, 157–158)。この作品では、以下のようにしてソネットの 4・4・3・3 の 14
行が書かれている。
erste strophe erste zeile
erste strophe zweite zeile
[…]
vierte strophe dritte zeile
Gelfert によると、この作品はパロディーではあるが、特定の詩人でなくソネット形式そ
のものをパロディーしている。そして注目すべきは、パロディーの特性である「無内容
-2-
(Banalität)」が極限まで推し進められて、全ての語が、テキスト内の自身の位置をただ
ただ直示しており、ここでは「直示的トートロジー」が成立している。これを言い換えれ
ば、テキストの形(記号とその配列)がテキストの内容そのものとなっている、言語記号
が自身のみを指し示しており、もはや自己言及以外の何物も残っていない、ということに
なる。
リュームの例は極端であるが、このような徹底的な自己言及は、ほとんどの具体詩人た
ちに見られる。再びヤンドルで言えば、例えば immer höher などはリュームの例に劣らず
自己言及的である。この徹底的な自己言及の手法を用いることで、具体詩は他の類似ジャ
ンルと一線を画すことになり、また、一定の伝統との接続を示すことになる、すなわち、
この手法に着目することで、本稿は、具体詩とそれ以外の種々の絵画的詩作品との相違、
具体詩と他の自己言及パロディー詩との接続、具体詩の自己言及法の独自性=徹底性なら
びにこれの意義を明らかにする。次章以下において、これらの解明を行う。
第2章
具体詩とそれ以外の絵画詩
具体詩の多くは言語記号を絵のように配するという手法を用いており、そのため具体詩
は一見して同時代の前衛詩と異なっていることが看て取れる。むろん schtzngrmm や sonett
のように絵的外観をしていない具体詩も数多くあり、絵的外観の作品も具体詩の一部にす
ぎなくはあるが、しかし具体詩ということで一般に理解されているのは、まずこの絵的外
観であろう。
全体が絵的外観を呈するように言語記号を配する手法は、
西洋では、はるか古典ギリシャ語の時代にさかのぼる。例
えば前 4 世紀ロードスのシンミアスは、何かの形をかた
どって言葉を配する作品を数点残している。その 1 つであ
る【図 1】は、戦斧の形をしている。内容は神話的であり、
斧の形と直接の関係はない。後には 6 世紀の V・H・C・
フォルトゥナトゥス、(フ)ラバヌス・マウルス( ca.
780–856)などが図像詩を残している。中世にも、数多く
の「図象詩(carmen figuratum)」において宗教上の図象
が描かれていた。ドイツバロック文学では「図形詩
(Figurengedicht)」が盛んになる。Ph・v・ツェーゼン
-3-
【図 1】
(1619–1689)や J・クラージュ(1616–一 1656)、S・v・ビルケン(1626–1681)、グラ
イフェンベルグの C・レギーナ(1633–1694)
といった高名な詩人たちはもちろん、Th・コ
ルンフェルト(1636–1698)や J・ヘルヴィク
(1609–1674)なども作品を残している。ヘル
ヴィクの著名な砂時計【図 2】(Helwig, 90)
は、1650 年刊の『ニュルンベルク』に掲載さ
れている。バロックの時代にはイングランドの
G ・ ハ ー バ ー ト ( 1593–1633 ) に よ る パ タ ー
ン・ポエムなどもあり、ドイツの詩人たちや中
世の図像詩と同様に、その内容は宗教的なもの
【図 2】
だった。近現代では、例えばスロベニアの F・
プレシェーレン(1800–1849)が、各スタンザを杯の形に模した Zdravljica(1844)を書き、
20 世紀には、有名な【図 3】(1915)(Apollinaire, 363) 等
のカリグラムを何点も残したフランス語詩人 G・アポリネール
(1880–1918)があり、ドイツで Chr・モルゲンシュテルン
(1871–1914)が、本稿のような文脈でしばしば引用される
Die Trichter【図 4】(Morgenstern, 67)を収録した詩集『絞首
台の歌』(1905)を発表する。これ
らにおいては、或る程度は言葉が絵
の意味になっており、作品の形=図
【図 4】
【図 3】
像とその構成記号とに一致も見られる。とはいえ、詩の各部分
すべてがその言表と一致しているというほどにではない。プレ
シェーレンでは、題名と一部のスタンザに「杯」「酒」という語が見られるが、作品全体
は頌歌である。アポリネールでは、例えば顔面部に「Oeil」、「Nez」、「La bouche」と
いう語を配してはいるが、このような一致が見られない箇所もある(例えば帽子の上部は
「Reconnais-toi」)。モルゲンシュテルンの場合も、漏斗の形の詩が「漏斗」という語を
用いてはいるが、やはりすべての言葉が自分自身を指す(=自己言及)ほどに内容と形式
が一致しているものではない。例えば「Nacht」や「Waldweg」がこの位置にある必然性
はなく、またその形も別に描かれてはおらず、あるいは「zwei Trichter」と言うが漏斗は
-4-
1 つしかない。
このように、古代から前近代、西洋詩では、その形でなければならないというものでは
ないところの、神話や祈り等を内容とする絵のような形の詩が作られていた。近現代には、
詩で絵を描く場合にそこで用いている語や主題が幾分かはその絵の意味そのものであると
いう状況も見られていた。ここに具体詩が登場する。しばしば論じられるように、具体詩
は図象詩や図形詩の伝統上に位置すると見ることができる。しかし具体詩において絵画的
な詩が作られる場合は、言葉が絵の意味そのものと化す。ここでも人口に膾炙した例を挙
げると、「Apfel」という語を多数並べてリンゴの絵を描き、その中に 1 語だけ「Wurm」
という語を忍び込ませている R・デール(1934–2004)の apfel(1965)の場合、使用語は、
詩が形作る絵の意味それ自体である。語「Apfel」はすべて絵=詩形を直示しており、こ
.......
......
の絵=詩形において使用語「Apfel」は無くてはならず、使用語は「Apfel」でなければな
...
...
..
らない。このリンゴに巣食う 1 匹の虫は、必然性の上では、1 つの語「Wurm」のみが直
示しうる。ここに具体詩と他の絵画詩との彼我の相違が存する。デールの通俗的な作品に
..
対して、リュームの作品では、言語 テキストの自己-言及における自己-反省的次元が高
まっている。
leib leib leib leib
leib leib leib leib
leib leib leib leib
leib leib leib leib
leib leib leib leib
leib leib leib leib
leib leib leib leib
leib leib leibleib(Gomringer, 120)
この作品は 1 行 4 語を 8 行繰り返した詩とも取れるが、人が整列している風景を描いた絵
画詩とも取れる。語「leib」と絵の意味(人体)は相互に直示し合っており、右下(また
は詩の末尾)において動きが見られる。寄り添った 2 人から、停止を命令する文「bleib」
が生じている(Hiebel, 187)。読者の視覚は上=前に無論向かうため、絵としては上方が
進行方向であり、集団が粛々と整列行進するなか、最後尾では 2 つの体を結びつける力
-5-
(「leib」のアナグラムとしての lieb)が詩形-集団秩序を破り、詩行-人間の冷厳なる進行
に対して停止を命じている。apfel が静物の単なる模写ならば、リュームの作品は、描写
.
に徹しながらも、同時に、新たな意味の生成、そして命令の《文》という、絵には不可能
.
.....
であり語において初めて可能な言語的意味の獲得に達している。その際にも、留まる 2 人、
あるいは留まれと呼びかける 2 人は、この 2 行為が唯一可能となる行進の最後尾におり、
......
.
.
.
よって「leibleib」は特にこの位置でなければならず、2 語が表すこの 2 人の 2 行為におい
て、やはり絵と語が寸分の狂いなく一致している。このようなものが、絵画詩としての具
体詩における至芸である。
古代から連綿と作られてきた絵画的な詩とは、具体詩は、必ずと言ってよいほど関係付
..
けて考察されてきた。しかし具体詩がそれまでの絵画詩と異なる点がその全的自己言及性
であることは明らかにされていない。ましてや、具体詩がこの自己言及の手法によって、
絵画詩とは別の伝統、自己言及的なパロディー詩の伝統に連なることは、未だ考察された
気配がない。次章よりこの点を考察し、具体詩の研究における未曾有の領野を本稿は開拓
する。その際、論述に用いるテキスト例は、ドイツ詩に的を絞ることとする。
第3章
自己言及パロディー詩の伝統における具体詩
詩という文学ジャンルは、表現手段である言語音声と表現の内容を、他の文学に比して
より多く一致させようとする。これは西洋詩の源流・ホメロスの時点ですでに顕著である。
『オデュッセイア』第 11 歌第 598 詩行が急速に転がり行くリズムを用いてシシュポスの
岩の動きを巧みに表現しているとハリカルナッソスのディオニュシオスが『文章構成法』
第 20 章において指摘したことは修辞学上の常識であるが、ディオニュシオスや他の論者
らによって明らかにされたホメロスの技法は数多い。後世に詩人たちは言葉の響きと意味
内容を常に一致させることはもちろんできないが、一致はおよそ可能な限りは図られ、規
模が膨らむ叙事詩では確率的にこの一致が少なくなるのが当然である一方、叙情詩などの
小規模かつ緊密な作品はこの一致を如実に示す。その際、ドイツ詩で言えば、光明や黎明
の場面に「明母音」を、水流の描写に摩擦音や破裂音を用いるといった極く基本的な事か
ら、韻律と音声の巧妙な配分による独特な心情や境涯の描出といった技法まで、数多くの
パターンがある。
こういった形態・内容一致という技法伝統を利用するのが、自己言及的なパロディー詩
である。例えば、なおホメロスに関して言えば、そのヘクサメタ韻律がドイツ詩に移入さ
-6-
れ 10 万行を遥かに超す詩行が書かれていた時代に、ドイツ語ヘクサメタの最大の巨匠と
して名を馳せていた J・H・フォス(1751–1826)が、詩学の主著(1802)において次の行
を提示した。
1
2
3
4
5
6
Höchſtdero Vers übertäubt unſer Ohr, gegen Zeitmaſsund Tonmaſs2)
‒ ‒⏑| ‒ ‒ ⏑ | ‒ ‒ ⏑ | ‒ ‒ ⏑| ‒ ‒ ⏑| ‒ ‒
フォスは同時代人の誤った音節長短規則(「Silbenmaſs」)を批判する上でこの詩行を提
示しており、クロプシュトック-フォス音律学の定義上長音を得る幹綴が第二音節(-der-,
üb-等)に置かれているためどの詩脚もダクテュルス( ‒⏑⏑)を実現出来ていないこの詩
行は、まさに「貴殿の詩行は長短尺も高低尺もでたらめ、身どもの耳をばかにいたします
る」という風刺文をその表現形態によって体現している。批判対象であるこの詩行が
《誤っている》という命題(言葉=音節列)は、その誤っている形(音節配分)によって
自己に言及している。フォスはリュームと同じく、ヘクサメタそのものをパロディーして
いる。ただし批判が目的であって、他の何らかの《誤った》ヘクサメタを特に標的として
おり、もはやパロディーのためのパロディーの域に達しているリュームとは異なる 3) 。
いずれにせよ、パロディー行為という点では、具体詩の自己言及法には長い伝統があるこ
とになる。実に、ドイツ語擬古詩盛期の後には、E・Fr・メーリケ(1804–1875)というパ
ロディー詩人が現れ、会話詩「家内情景」(1853)等でフォスに似た例を何行も示してい
る。また、詩論上紛糾しやすい古典韻律の枠外でも、近い時代には特に D・v・リーリエ
ンクローン(1844–1909)が、叙情詩において自己言及的パロディーを行っていた。一例
として、Zueignung (an Gustav Falke)(1893)の冒頭行は
Lieber Gustav Falke, schwer im Sechstrochäus
2)
Voß, 12. ただしフォスのこのパロディー試作行には、後世の韻律論大家により慎重な吟味が加えら
れている(Minor, 300)。
3)
よく知られたパロディー作家としてニーチェが挙がるだろうが、例えば『ファウスト』末尾の合唱
の語句を揶揄した短詩 An Goethe(『悦ばしき知識』所収)という特に露骨なパロディーなどを見る
と、パロディーは特に自己自身ではなくて原文にのみ及んでおり、フォスの例に見るような、テキ
ストがテキスト自身を指し示す構造は見られない。ドイツパロディー詩において自己言及パロ
ディーはその一部にすぎない。しかしながら、《無内容》(ひいては無目的・無意味)という点で
パロディー詩と自己言及詩は通じ合い、自己言及パロディーの徹底において「内容」や「意味」は
滅殺される。
-7-
である(引用は Liliencron, 7–14 より)。作品の韻律を重い 6 トロヘウス(‒⏑)にすると
‒ ⏑
宣言するこの詩行は、通常詩脚と一致させないコロンを敢えて一致させて( Lieber |
‒⏑
‒ ⏑
Gustav | Falke,)までトロヘウスの音節配分を強調し、言葉の内容(トロヘウス)とその
音声の形態(トロヘウス)とを一致させる。《これは重い 6 トロヘウス詩行である》とい
う命題が、重い 6 トロヘウス詩行である自己自身を直示する。同作はこうして自己反照-
‒⏑
‒⏑
‒⏑
‒ ⏑
‒⏑
‒⏑
省的に進んで行き、時には「Bitte, | bitte, | bitte, | immer | wieder | hören.」といった稚
拙にすら見える行をも置き、トロヘウスのリズムを諧謔的に表現する。そして「[…] beg
your pardon, / Denn verstümmelt ist der Tonfall dieses Verses.」と言い出したかと思うと、
⏑ ‒⏑ ‒
⏑
‒⏑‒
⏑
‒
「Glasklang: Es lebe hoch der Kritiker, hoch, hoch !」とヤンブス行に転じ、これを七行繰
り返して、「Hölle, lauter Jamben wurden es auf einmal.」と締める。この作品は詩節末詩行
以外はすべて弱音行末(weiblicher o. klingender Kadenz)であるが、この katalektisch のヤ
ンブス 7 行では、行末弱音を切り落とし(verstümmelt)、この音節を Glasklang の直後に
‒ ⏑
⏑
移動させ、Glasklang: Esというダクテュルスを作り、そうすることによって「一挙にヤン
⏑ ‒
ブスだらけにな」る。しかも 1 行をヤンブスに統一するためにGlasklangというスキャン
が行われる。こういった「音曲げ (Tonbeugung)」はドイツ語韻律論上広く周知された
議論を呼ぶ現象である。つまりリーリエンクローンはここでドイツ語の韻律論に関するメ
タ発言を、言葉の形=音声の形によって、詩の実践そのものを用いて行っている。このよ
うに、Zueignung においては、諧謔の調子、《遊び》の愉悦が花開いている。それは、
「Landphilistersippschaft」、「Nachtmützenmoral」といったリーリエンクローン特有の冗
長な合成語を置いたり、M・クラオディウス(1740–1815)の「春」という他人の作品を
挿入(!)したりしている点にも明らかであり、ここで叙情詩は、ほとんど遊びのための
遊びを示し、自己目的的、あるいは無目的的に近く、詩自身のための詩ともいうべき言語
空間を繰り広げている。そしてこれは、具体詩の―いかなる読者の目にも即座に明らかな
―顕著な特徴をすら想起させる。いや具体詩は、リュームのソネットに見たように、もは
や自己言及以外の何物も残っていないというほどに徹底的に己に/を遊ぶ。リュームに続
いてヤンドルのソネットを一瞥すればこのことはさらに明確になる。ヤンドルの sonett 1
(一九七四)は、「abnett /
benett […] wonett / zunett」といった 14 行(4・4・3・3)か
ら成る。接尾辞-nett に何らかの一音節の品詞が接続するのみ、いわば、全 14 行に渡って、
..
..
ソネットの形式が《これはソネットである》という内容の発言を繰り返す。ソネット韻律
で遊ぶパロディーの愉悦以外の何も残っていない。詩文学は元来作品の語り=テキストが
-8-
すべてである。詩の創作において人生や世界を探求したり、理念の構築に奉仕したり、政
治に献身したりするような、すなわち初めから外的目的を主眼とするようなテキスト超越
の態度は、外界に対して完全に無力であり言葉がすべてであるところの言語作品というも
ののあり方にそぐわない。《遊戯のための遊戯》といった類の批判は、批判というよりは、
詩芸術の基本的規定の確認にすぎない。その意味で、自己言及詩は詩としては健康な伝統
であり、具体詩の遊戯的性格はこの伝統を健康的に継承したものである。
第4章
自己言及テキストの極北
ここで具体詩における徹底的自己言及法の独自的意義が明らかになる。フォスの詩行は、
得るべき精確なドイツ語音節長短規則を企図する詩人が誤謬を正そうとする《批判》を
行っているものである。遊びに満ちたリーリエンクローンにおいては、こういった詩テキ
ストの外部に位置付けられる存在者、批判や目的といった形を取るテキストの《外部》が
.........
少なくともテキスト自体よりも重要であるものとされている気配が見受けられない。テキ
ストと自己言及はもはや手段ではない。とはいえ、ここにドイツ韻律批判という《目的》
を見出すことも無論できなくはない。それどころか、本稿自体が上で試みたように、
リュームの leib に社会的な《メッセージ》を見ることも無論できる。それは―具体詩の
もう一人の作者とされる―「受容者」の自由=恣意にすぎない。しかし leib のテキスト
..........
自体は、同一語の画一的な配列という外観によって第一には児戯的とすら言える遊びの印
象を惹起する。ここでは、目的は、たとえあるとしても、遊戯に優先され凌駕されている
はずだ。また、リュームとヤンドルのソネットが、例えば「ここ五文字/ここ七文字で/
ここ五文字」といったような自己言及詩と何が異なるのかというと、この日本語詩には本
当に全く何の内容もない一方、具体詩のソネットは、ソネットとは結局何であるのか、ど
のようなものになってしまったのかについての反省を含んではいる。単純な日本詩韻律と
異なり、西洋詩、とりわけドイツ詩の韻律においては膨大な議論と論争の蓄積がある。16
世紀にドイツ詩に移入されたソネットは、移入前からすでに、最も重要な規定であるはず
の脚韻規則が不統一であり、時には別の韻律(アレクサンドリーナ)と混交すらし、ドイ
ツ語ではエンデカシラボも実現されず、20 世紀にはリルケ(1875–1926)の『オルフォイ
スへのソネット』(1922)において 1 行 5 揚格の規則もヤンブスの原則も破られていた。
リュームらのパロディーは、《4・4・3・3 規則と何らかの脚韻さえ残っていればそれで
ソネットなのであろう》という揶揄を含んではおり、その意味ではメッセージ性がある。
-9-
「フツーのリルケ」の「鼻」や「靴」等を詠んだ連作 der gewöhnliche rilke(1975)の作者
ヤンドル、ここで「フツーじゃないリルケ」の聖性を剥奪し、その叙情詩をパロディーし
ているヤンドル(Puig, 138. (Vgl. auch: Uhrmacher, 37–42))が、リルケの高名なソネットを
意識していないとは考え難い。確かにそうではあるが、しかし進んで、リュームらのソ
ネットは、単なる文壇批判というよりは、ソネットの核となる型を、ほとんど児戯のよう
.....
...
な形で提示している、すなわち、遊びながらこの韻律の根源に立ち返っていると見るべき
ではないだろうか。ヤンドルの sonett 2(1974)がこのことを雄弁に証示するだろう。こ
の作品では、以下のようにしてソネットの 4・4・3・3 の 14 行が書かれている。
sonett
sonett
[…]
sonett(Jandl, 478)
ヤンドルの 2 つのソネットは、ヤンドルが「虚の型(Leerform)」と呼ぶテキストであり、
この型のテキスト「の中には何も存在せず」、これらのテキストは「詩作に関して言表し
且つ同時に詩作の内部に留まる」ものであり、虚の型の 2 ソネットにおいては「〔虚へ
の〕還元の果てにソネットの実体が独特の光輝を放つ」に至る(Jandl, 477)。ここで無
.. ..
内容は極限近くに達しており、別の言い方をすれば、言語の内容や意味といった桎梏から
詩がほぼ全面的に解放され、言葉が、即且対自とも言えるほど自己の元にあり自己に還っ
ており、自己自身以外のいかなる《外部》にも縛られず、ただに自己のみを語る。
...
本稿は無論ソネット論ではなく、あるいは詩論でもなく、具体詩論である。なお特定の
詩型について語っているに留まるヤンドルらのテキスト、その無-反「内容」の虚のテキ
ストをさらに臨界点まで蒸留させたものとも言えるのが、C・ブレーマー(1924–1996)
の一連の具体詩である。最も知られた次の作品(1967)(Gomringer, 29)
lesbares in unlesbares übersetzen
lesbares in übersetzen
unlesbares
lesbares
übersetzen
unlesbares
in
übersetzen
unlesbares
lesbaresin
- 10 -
..
では、読めるもの=(第 1)詩行が、読めないもの(「unlesbares」)へと(über-)移さ
..
れ、そこへと置く(-setzen)という作業によって、その読めなさ(unlesbar)が現前する。
.
.
...
この作業を指示する四語の作業全体は四行において移行的に(über)遂行される。このこ
........
とによるところの《だから何であるのか》は全く存在しない。この作業は何も呈示しない。
およそ「何」と一切無縁である。何らかの読めなさをただ実演しただけの作品に、それに
よって「何」かを示す・もたらす・伝える機能など期待できようはずがない。テキストと
........
いうものの存在性格である《読まれ(う)る》という規定をもテキストによって否定する
ほどに、反-テキスト的である。しかしながら、ただ 1 つ、この無意味・無内容の臨界点
....
において、この臨界的無意味・無内容によって、「これが具体詩というものである」とい
う命題が定立されている。この作品の唯一の《意味》(と言えるもの)は、具体詩で具体
.......
詩を実演すること、具体詩の具体詩 を書いていることであると本稿は考える 4) 。しかし
先がある。この作品、この、「使われる言語記号の表象性が〔中略〕全面的テキスト内在
性へと消失」するこの作品の「自己言及性(Selbstreferentialität)」を詳細に論じた Steiner
によると、ここでは、テキストの外へと「超越」させる「空想」が、伝統的叙情詩に不可
欠の内容・情感・意味が排除されており、およそ深度というものに欠落した「純粋実在」
.....
が見られるのみである(Steiner, 21–22)。だが一方で、そういった、テキストの内部以外
何も持たない究極の純粋形態において、この作品は、むしろ、詩文学の伝統的性格をこの
上なく純粋に想起させるだろう。言語が外界の転写ではないところに文学が成立している
以上、上に見たように詩テキストの自己-言及-遊戯的性格に古代以来の伝統がある以上、
........
《言語に淫する》がごとき、文学テキストにおける言葉のための言葉という側面は、詩の
宿命ですらあるだろう。すなわち、現実に対してという意味では空虚とも境を接する詩文
学/詩=文学(Dichtung)の規定に鑑みれば、ブレーマーの作品は、真の空無と紙一重の
.......
この限界ギリギリの局面において書かれた詩についての詩に他ならないのですらある。こ
ういったものが具体詩の至芸であり、大上段に構えた大詩人が詩人の人生論を熱弁する大
言壮語は、素朴な 4 つの語と 4 つの行で表されるのだ。ナンセンスなほどに素朴なブレー
..
マーの 4 行において、詩の《意味》が根源において提示されている。
4)
その他の解釈もあり、例えば Naumann は、この作品を、「理想的脱構築の実現不可能なアレゴ
リー」に成り損ねたものとしている(Naumann, 411–412.)なおこの作品に関しては、リュームやヤ
ンドルの例示した作品と異なり、他の言語で書いてもほぼ相同の効果を生む。Ihwe はこの作品の初
版である英語版(1963)との比較を行っている(Ihwe, 32 ff.)
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第5章
言語の限界
ブレーマーの作品は、純粋ナンセンスと紙一重の位置で詩言語の存在論へと読者を導い
.....
ている。ここではなお、テキストは左から右へ動き、右端で折り返して(vertere)下の行
.....
の左端へ戻っており、西洋詩(Vers)の根本特性が維持されている。すなわち詩に関する
何らかのテキストではある。その点、絵画詩としての具体詩は容易に通俗作品に堕する。
上に見たデールの作品がすでにリンゴの絵でしかなく、本当に児戯同然になってしまって
.......
おり、これまでの章で確認したような、遊びのための遊びでありながら、にもかかわらず、
言語が言語として維持され、社会的メッセージ性を帯びたり、言語による作品創造につい
て何かを語ったりする諸作品の付加的価値を有していない。しかしデールの作品にはまだ
自己言及という反省の契機が見られる。それすらないのが現代のアスキーアートである。
..
ここでは、言語記号が、本当に物体として具体的にのみ扱われており、従って、物体とし
て具体的に言語記号を扱うとしながらも、そしてそういった方法によって伝統の解体を行
いながらも、伝統を継承しつつ伝統について語る具体詩独特の《内容》が全く無い。第 2
章に見た図象詩や図形詩が、その絵である必然性が特にない有意味な言語記号による作品
ならば、アスキーアートは、その言語記号である必然性が全く無い(少なくとも手段とし
ての必要性しかない)言語記号による絵作品であると言えよう。そしてどちらの場合でも、
言語記号が絵のために用いられ、絵に従属している。一方具体詩で描かれる絵は、そこで
用いられる言語記号の意味そのものである。ここで具体詩は 2 重に言語の限界に接する。
絵画詩としては、言葉が本当の物体に堕する一歩手前に留まり、独特の芸風を開花させる。
パロディー詩またはナンセンス詩としては、無内容の空虚さに境を接しながら、いやそう
することによって、本来は空虚に極めて近い位置にある文学作品というもののあり方を想
起させる。いずれの場合にも、言語の自己言及という手法によって、言語の《向こう側》
への転落を免れる。具体詩がなぜここまで危険を冒すのかというと、それは伝統の解体と
いう作業の宿命と言う他はない。そして真の解体によって見えるものが常にそうであるよ
うに、具体詩の解体作業は言語や文学のあり方をこの上なく明瞭に見せる。具体詩を書く
ということは、文学言語=詩言語が自己自身を/に反照する反省的知性の 1 つの極致に他
ならない。
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