...

PDF版

by user

on
Category: Documents
13

views

Report

Comments

Description

Transcript

PDF版
佐伯胖「認知科学の方法」
- 2 章 人間の合理性 の要約 担当: 竹内俊彦
前書き
この本では「人間は合理的である」という仮説を立てる。この章では「規範的合理性」に
ついて、その歴史を振り返ろう。(「規範的合理性」に関しては 2.1 の最後に説明あり)
2.1 「人間の合理性」のメタ理論
・ 私はビーチ教授に共感し、「人間は合理的である」という仮説を持つようになった。
・ 私は「合理性派」に属すことにした。
・ 「合理性派」の主な敵は「経験主義」(すべて外的要因)、「非・合理主義」(人間はもと
もと不条理)、「記述主義」(予見を持たず、ただ記述しろ)だった。
・ 「合理性派」は、
「人間は複雑な環境でも 合理的な 判断や行動をしている」と考え、
そのようなモデルを探そうとするものだ。
・ 当時は経済学の世界でも、「人間は経済的な合理性をもって行動する」としたモデルで
説明しようとする風潮があった。
・ (余談) 信号検出理論なども「人間は合理的である」という風潮から産まれたのに、日
本では単なるテクニックとして紹介されており残念だった。
・ 「規範的合理性」とは、心理学以外の理論を用いて何らかの理想化を行い、それを心理
学モデルにあてはめたものである。たとえば経済学の消費者行動モデルである。
2.2 直感的統計学者としての人間
・ ビーチ教授は「人間の直感を支える情報処理は、確率・統計モデルをよく近似している」
と主張した。
・ その系統の研究の歴史をまとめよう。
・ 人間の数量データのばらつきに関する直感はすばらしい、ということがわかった。
・ ところが反例がつぎつぎ出てきた。たとえばベイズの定理に関する「ポーカーチップの
実験」では、人は確率判断の変更に関し、あまりに「保守的」だった。これは「人間は
合理的だ」
「いや合理的ではない」、という大論争になり、長く続いた。
・ ポーカーチップ実験はあまりに意外で面白いため、科学者たちは原因究明に夢中になっ
た。しかしこの実験のような状況は、日常生活では稀だ。科学者たちは原因究明に夢中
になるあまり、当初の「人間とはどういう存在か」という問いからは、ますます離れて
いった。
2.3 確率判断における「簡便法」の利用
・ トヴェルスキーとカーネマンは「少数の法則の信仰」という画期的な論文で、心理学や
統計の専門家でさえ、統計的検定に関する直感が狂っており、「被験者が少なくても有
意差はありつづけるだろう」と思いこむことを示した。
・ トヴェルスキーとカーネマンは、その後も次々と人間の直感の誤りを示す実験を繰り返
し、
「人間はベイジアンではない」「人間に規範的な合理性はない」という主張をした。
・ 確率に関する直感を狂わす人間のクセとは、たとえば「代表性」(サンプルは母集団の
縮図である、という思いこみ)、「利用しやすさ」
、「投錨と調整」
、「シミュレーション」
である。
2.4 簡便法と人間の合理性
・ トヴェルスキーとカーネマンの一連の実験によって、単純に「人間は確率に関するすば
らしい直感を持っている」とは言いづらくなった。
・ それでもなお「人間は合理的だ」と主張する方法として、
[1] 確率なんて人間の「合理性」とは関係ないと言い張る
[2] 確率に関する直感は正しいのだが、ベイズの定理だけがダメ
などの反論はあり得るが、いずれもだいぶ苦しい。
・ トヴェルスキーとカーネマンは、人間は「規範性」ではなく「簡便法」を使うのだ、と
言った。目的関数の「最大化」ではなく、「満足化」を図るというものである。
・ しかし私は「人間には合理性がある」とあえて主張したい。
・ それでは、カーネマンらの実験にはどう反論するのか?
・ 私は「人間は視点を適切に移動させることが苦手なのだが、それは克服可能なのだ」と
主張したい。
・ たとえば有名な「タクシー問題」「病気診断の問題」「3 囚人問題」で人が間違うのは、
つい証人/患者/囚人 A の視点に立ってしまい、その制約条件を他の視点の制約条件と混
同してしまうからである。
・ だから、視点を適切に移動させる方法、つまり「本気で他人の身になって考える」習慣
を身につければ、これらの問題は納得可能になる。
・ つまり人間はたしかに状況が複雑なときには、思いつきやすい知識を安易に利用する、
といった方法を取りがちであるが、確率に関する直感がどうしようもなく狂っている、
ということではない。
・ 「本気で」課題に取り組むときには、納得いく「解決の糸口」をみつけだすだろう、と
いうのが私の考えである。
・ カーネマンらの一連の実験も、「状況がわかりにくく、考える糸口がみつからない」も
のばかりであり、また被験者が、本当に時間をかけて、じっくり考えることも求められ
ない。そのような場合には人間は簡便法に頼る、とみなせば、人は合理的だ、という主
張を続けることができる。
・ 私がそこまでして「人間は合理的だ」と主張したがるのは、人間の教育可能性を信じる
からである。人間がもともと不合理であり、誤りは修正できないのだとしたら、間違わ
ないためにはパターンの暗記に走るしかなくなるからだ。
・ 「人間は直感的な確率学者だ」という規範的モデル以外にも、いくつかのモデルがある。
「演繹的推論」モデル、「生成変形文法」モデル、「物理錯視」モデルなどである。
・ 別の学問からモデルを借りてきて心理学を論ずる、ということは、危険な罠を含む。モ
デルはふつう、そのモデルが成立する前提・世界観を含んでいるからだ。
・ 規範モデル「人間は合理的である」も、「いっけん不可解な人間の行動にも、単なるエ
ラーではなく、かならず理由があるはずだ」と考えよう。
・ 私がここで提案する「合理性」は、被験者の課題に対する思考の合理性だけではなく、
被験者の状況・・・つまり、その問題は被験者にとって「意味のある」課題だっただろ
うか、ということも含んでいる。
・ この新しい「状況と内的プロセスを考慮に入れた合理性」については 3 章で説明する。
Fly UP