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日本国内企業の社会貢献

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日本国内企業の社会貢献
経営論集 第58号(2003年3月)
日本国内企業の社会貢献
71
日本国内企業の社会貢献
―もう一つの企業フィランスロピー
中 村 久 人
はじめに
1 企業と社会
2 日本社会とフィランスロピー
3 近世大阪商人のフィランスロピー
4 日本企業のフィランスロピー
あとがき
はじめに
日本における企業の社会貢献活動(Corporate Philanthropy)の源流はどこに求められるであろう
か。一つには米国に進出した日本企業が現地で学習したアメリカ流の企業フィランスロピーを「逆
輸入」したものである。こうした見解は日本企業のフィランスロピーの源流を辿る場合の最有力な
源泉であると思われる。この見解に立てば、それまで、個人はおろか企業においても特筆されるべ
きフィランスロピーの慣行や伝統などは日本に存在しなかったとする見方が支配的である。これま
での日本企業のフィランスロピーの研究もこの流れに沿うものが主流を占めていたと考えられる。
確かに、宗教的な観点からは、アメリカにおけるフィランスロピーの思想はキリスト教と深い関
わりがあることは否定し得ないであろう。しかし、日本人が千年以上影響を受けてきた仏教や神道
も、さらには儒教精神においてもフィランスロピーと無縁なものではなかったのではなかろうか。
本稿では、まず企業と社会との関係や社会の意味・概念を検討した後、これまで日本社会に古く
から存在した社会貢献の精神とその活動の源泉を歴史的に辿ってみたい。さらにその典型として江
戸時代に大阪商人によって開設された含翠堂と懐徳堂という両学塾の社会的成果について検討し、
日本企業の社会貢献活動のもう一つの源流として位置づけたい。それによってフィランスロピーと
いう名称は使わなかったにしろ社会貢献活動の萌芽とその実践が、日本国内でも古くから存在して
いたことを歴史的に跡づけ、その存在を明確にすることを目的とする。最後に、上記2つの源流の
到達点としての現代日本における企業フィランスロピーの現状と課題について考察したい。
経営論集 第58号(2003年3月)
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1 企業と社会
(1) 企業の利害者集団と地域社会
現代的企業においては、その内外環境にいかに効果的・効率的に適応していくかが企業経営の要
諦といえよう。ここでいう環境とは企業を取り巻く利害者集団(interest group)であり、現代的な
言い方では、ステークホルダーズ(stakeholders)である。企業も多国籍企業になれば、単一国内企
業の場合とは違って、ステークホルダーズの種類と数は大幅に増加することになる。
日本の経営学では、60年代位迄はステークホルダーズよりも利害者集団という用語を使っていた
が、企業経営に対して一般的に強力な影響力を及ぼしうる利害者集団と目されていたのは、株主集
団、債権者集団(特に、金融業者集団のような資本関係を持つもの)、さらには労働者集団、およ
び政府であった。
株主集団は、言うまでもなく、その所有株式に基づき株主総会を通じて、取締役の選出や株式配
当に影響を及ぼすことになる。銀行や、生命保険会社などの債権者集団は、株主集団と重複する場
合もあるが、主として企業への融資を通じて強い影響力を行使することが可能である。労働者集団
は、企業内の従業員としての側面と労働組合の組合員としての側面があるが、労働組合員としての
側面は、個人的にはほとんど無力であるとしても組織化された労働組合を通じて、労働条件、とり
わけ賃金や労働時間の決定に対して大きな拮抗力になり得るものである。また、政府は企業経営に
対して各種の制度的環境を形成しており、監督機能を発揮するという意味において強力な利害者集
団たりうるのである。その他、得意先集団や消費者集団は、販売関係を通じて、財貨および用役の
提供、価格形成などの側面から当該企業と緊密な関係を有する利害者集団として言及されてきた。
しかし、地域社会が企業経営に及ばす影響についてはほとんど触れられない状況であったといえよ
う。
日本の経営学会において、企業経営と利害者集団の関係を本格的に取り上げたのは山城章博士で
あったと思われる。同博士は、経営体が干渉・支配されようとするときそれが反発して自己を主張
する場合に「経営自主体」が生じると主張し、その経営自主体と利害者集団との関係を「対境関
係」と呼んでいる1)。山城博士は、経営自主体は対内的な活動だけでなく、対外的な活動において
も自主であり、自主とは何者かの支配に対抗して現れる相対概念であり、何者の支配も抵抗もなく
自由自在であるという関係ではない、と述べている。従って、企業は対境関係の内においてのみ経
営自主体として存在しているのである。
さらに、同博士は、この対境関係として株主以外に、金融機関、社債権者などの財務的対境関係、
労働組合のごとき社会的対境関係、政治との対境関係、消費者との対境関係、取引先との対境関係、
地域社会(community)との対境関係などを挙げている。注目すべきは、経営自主体はこれら利害
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者集団と利害をめぐる支配・統制の対立関係が存在するが、同時にこの関係において、単なる支配
や圧力の「力の関係」だけでなく、相互の協調や協約、さらに相互理解と親善によって円滑な関係
が形成されるとき、そこにパブリック・リレーションズ(PR)が形成されるとしている。すなわ
ち、PRにおいて、すべての利害集団間の利害が相互調和し、均斉化された関係が実現するのであ
り、利害者集団すべての利益になる「公益性」が実現するのである。
同博士は、利害者集団のうちでも地域社会との関係をいち早く重視した先覚者であったといえよ
う。今日のように企業と社会との関係が重視される以前から、経営体は社会的存在であり、孤立し
て存在することはできないのであり、他の多くの社会的存在と関係しあいながら、対境関係活動を
営む重要性を力説されていた。経営体の自主を生かす道は、むしろ世の中の他の存在を尊重し、そ
れらとの関連を円滑にすべきであり、それが対境的な見方であるとしている2)。経営自主体は地域
社会との対境関係をそのような見方で推進すべきであり、対境関係とその活動では、利害者集団へ
の分配に関する活動以外にも「市民としての公共性を活動の基礎とする」ことの重要性が指摘され
ている3)。
以上のような利害者集団あるいはステークホルダーズ、さらには対境関係などと密接な関係にあ
るのが経営者もしくは企業の社会的責任の問題である。
周知のように、企業の社会的責任論には否定、肯定の両論が存在する。否定論は、ミルトン・フ
リードマン(Milton Friedman)が旗頭であるが、肯定論の鏑矢はバーリ=ミーンズ(A. A. Berle &
C.C. Means)の「所有と経営の分離」の考え方のなかに看取することができる。つまり、大企業で
は株式が分散され、経営者はさまざまなステークホルダーズ(利害者集団)の利害の調整者として
社会全体の利益(公益性)に貢献するように行動する必要があるからである。特に、大企業では今
日企業の権力は強大であり、時には中央政府や地方自治体を越えるほどの絶大な影響力を有するこ
ともある。
否定論は、企業の目的は極大利潤を上げることであり、株主利益に貢献することであると説くが、
肯定論では企業は社会的・公共的問題に、自発的、積極的に参加すべきであり、企業は社会との関
わり合いを無視して、ただひたすら経済活動だけに専念できるような状態ではないと主張する4)。
先の山城博士によれば、経営者の社会的責任論は、わが国においては3つの立場が区別されず混
乱のまま使われているという。それらは、社会性、公共性、公益性である。まず、社会性について
は、経営者は、経営者である前に人(あるいは市民)でなければならないということ。公共性とは、
市民として公の秩序を維持し、社会生活において他人に迷惑を及ぼさず、法秩序を遵守することで
ある。公益性とは、経営者の場合、すべての利害者集団にとって利益になる、公正な配分を行うこ
とである。経営体は、生命ある社会的な制度として、ゴーイング・コンサーン(継続事業組織)と
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して長期にわたって生存するものであり、企業というものの長期の充実と発展を期するのが経営者
の責任である。
経営者あるいは企業の社会的責任は、本稿の主題である企業社会貢献の出発点もしくは基盤とし
て把握されるべきものである。
(2) 社会という言葉と概念
さて、個人にしても企業(組織)にしても、日本には昔から社会貢献の理念や活動(フィランス
ロピー)が存在しなかったとする見解が支配的である。果たしてそうであろうか。
これについて分析する前に、それと大きく関わる「社会」という概念について検討してみる。
「社会」という言葉の歴史を辿ってみると意外と歴史の浅い言葉であることが分かる。林雄二郎氏
によると、1875(明治8)年東京日々新聞の社説の中で福地源一郎が「社会」という言葉にソサイ
チーというふり仮名表記で使用したのが日本で初めてだという俗説があるが、それはいささか怪し
にしあまね
いと述べている。その前に既に 西周 が、『明六雑誌』のなかで社会という言葉を使っているからで
ある。いずれにしても明治以前の日本では社会という言葉はなく、この言葉が日本語として定着し
たのは、早く見積もってもほぼ明治中期の頃のようである。従って、「社会」という概念も当時の
日本にはなかったのである。例えば、明治新政府の岩倉具視使節団に書記官として随行した久米邦
武も1921(大正10)年に『解放』で書いた回顧録の中に、「社会ということは50年前まで全く思想
になく、『ソサイチー』の訳語に困るほどであった」と記している。この中で久米は西欧では個人
の集まりとして社会ができ、その結果国家があるのに対し、東洋では家族(家)が本であり、その
5)
家族が繁盛して国家になるという基本的な違いがあることを指摘している 。
また、林雄二郎氏は、社会という言葉が明治まで日本語としていかに馴染みの薄い言葉であった
かを知るために、当時の辞書に言及している。まず、1864(元治元)年刊行の村上英俊編纂になる
『仏語明要』
(仏和辞典の草分け)を引いてみると、
Société: 仲間、懇、交リ、
となっており、社会という言葉は登場していない。次に、1869(明治2)年の薩摩辞書の改訂版で
は、
Society: 仲ケ間、交リ、一致
とあるだけである。時代が下って、1886(明治19)年版のヘボンの英和辞書では、
Society: nakama, kumi, renchu, shachu, shakwai
とあって、やっと shakwai が登場する。ちなみに、同辞書では sociology は seitaigaku と訳されてい
る。生態学ではなく、世態学であろう。さらに、1897(明治30)年版の『ウェブスター英和辞典第
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44版』
(イーストレーキ、棚橋一郎共訳)では、
Society:
社会、会社、交際、合同、社友
と、はじめて一番先頭の意味として日本語で登場している。登場してはいるが、この言葉が当時定
もずめ
たかみ
着していたかどうかは必ずしも定かでない。なぜならば、1893(明治26)年に刊行された物集高見
編纂の宮内省蔵版『日本大辞林』には、「社会」や「志ゃかい」あるいは「志ゃくわい」の言葉は
6)
見当たらない 。
いずれにしても、「社会」という言葉は昔から日本語にあった言葉ではなく、明治の末頃でさえ
日本人には馴染みの薄い言葉であったことは明らかである。
日本人にとって、社会という概念が分かりにくかったのは、このように日本語に昔からあった言
葉でないということに加えて、国家、会社、学校、家族(家)といったような何らかの帰属意識が
自覚される集団にたいする認識は極めて明確であるが、不特定多数の集団とでもいうべき「社会」
については極めて理解しがたいものであったからであろう。日本には長きにわたって社会の概念が
欠落していたといっても過言ではなかろう。
社会という言葉が導入されたにも関わらず、社会の概念が日本に長く根づかなかった理由として、
明治以降の国家主義を挙げることができよう。すなわち、明治から第二次世界大戦の終結に至るま
での期間、日本人には国家というアイデンティティ以外の社会観念は排除されてしまったからであ
る。つまり、社会イコール国家であり、国家以外のことをイメージする社会概念は反国家的な思想
ひず
に通じる危険な思想と考えるようなかなり歪んだ考え方が次第に定着していったのであった。
日本人がこのような認識をするようになったのは政府による教育が大きく影響していると思われ
る。当時、例えば「教育勅語」なるもののなかにも公とか公益とか博愛といった言葉が出てくるの
であるが、よくみるとそれらのすべての対象は国家以外の何ものでもない。国家に対する公や公益
を考えること以外は全く考慮の外におかれている。
このような時代にあっても、特に第一次世界大戦の戦勝国の列に入ることになった大正期に、日
本はデモクラシーの洗礼を受けることになった。これを有効かつ正確に受けとめた庶民大衆のなか
には、公益と国益は必ずしも同じではないのではないか、国家に対する貢献と社会に対する貢献で
は必ずしも同じものではないかもしれない。そういったことを真剣に考える兆しが庶民大衆の間に
芽生え始めたのがこの大正デモクラシーの時期であった。そして、日本にもアメリカ型の財団がい
くつか誕生しようとしていた。
しかし、せっかく芽生え始めた新しい公益概念も国家による監督を受ける過程でその芽が摘み取
られてゆくのである。例えば、1923(大正12)年に文部省から設立を認可された財団に齋藤報恩会
がある。創立者の齋藤善右衛門氏は設立評議会における設立趣旨の演説において、人がその働きに
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よって得たものは天物であり、それは私物にすべきではなく、人類の幸福のために提供すべきもの
であること、評議員は神仏の代理としてこの天物を天意に背かぬよう公平に用いること、もし齋藤
の一家一族がことごとく滅亡してもその累を絶対にこの基本金に及ぼしてはいけない、等を明言し
ている。この設立趣旨には、素朴ながらも新しい近代的な市民社会の息吹すら感じられるのである。
ところが、いざそれが設立認可される段になると、理事長は齋藤善右衛門氏ではあるが、所管は文
部省、理事・評議員には地元の官界、学会、経済界の主要な人々が名を連ねている。その具体的事
業内容である、財団法人の寄付行為に関する条項ではこれが善右衛門氏の報恩主義の具体化とはと
ても思えないほどの、国家主義的な内容に変貌してしまっている。大正デモクラシーの新芽は結局
開花することなく昭和の動乱期に呑みこまれていくことになる7)。
さて、戦後日本人の社会の概念は変化したであろうか。終戦直後、新憲法が制定されるとき、
GHQ側の憲法草案中の people を日本政府が「国民」と訳し、GHQ側が反発したことが伝えら
れている。people を国民と訳されたのでは主権在民の民主主義の根本が崩されるというわけである。
国民は nation であって、nation と people では意味が異なるというものである。しかし、
「人々」で
も「人民」でも適訳ではない、「国民」以外に適切な言葉がないことがGHQ側にもしだいに理解
され、結局 people は「国民」に落ち着いたのである。そして、ほとんどの日本人がこのことに今
日に至るも何の違和感を感じていないのである。これはまさに日本人の意識のなかに、社会の概念
が現在でも適格に自覚されるに至っていない証拠といえないだろうか8)。
こうした状況のなかで、フィランスロピーだの、ボランティアだのという言葉に対応する日本語
やその概念が明確に規定されないのは当然かもしれない。社会貢献活動だとか、社会参加活動と
いった言葉も存在するが、明確な社会概念なくしてそれらの内容を理解するのは容易なことではあ
るまい。それでは日本では上記のように大正デモクラシーの時期を除いては、個人にしろ企業にし
ろ、あるいは財団にしろフィランスロピー活動は、欧米から導入されるまで、行われたことはな
かったのであろうか。この点については、次節以降で検討したい。
2 日本社会とフィランスロピー
フィランスロピーとは何かについては、現在必ずしも統一された定義が存在するわけではないが、
(財)公益法人協会刊行の『公益法人用語辞典』によれば、「フィランスロピーとは、ギリシャ語の
philein(愛する)と anthropos(人類)とを語源とするギリシャ語“philanthropia”
(人を愛する)の
英語で、博愛、慈善を意味するが、現代ではより広く個人や団体が、教育、研究、医療、福祉、環
境保全、芸術などのために寄付金を拠出したり、ボランティアの奉仕活動をしたりする非営利の社
会貢献活動のことをいう」と定義されている9)。
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フィランスロピーという言葉自体はごく最近になってアメリカから輸入された言葉であるから、
日本にはフィランスロピーなど存在しないといえるかもしれない。欧米人の目には、日本という国
はフィランスロピーの伝統がなく、社会貢献の芽が育ちにくい風土と映るようである。日本に長く
滞在し、日本文化に造詣の深いフランスのジャーナリスト、フィリップ・ポンスは、「日本には純
然たる人類愛の伝統がない」と言い、アメリカのフィランスロピー研究者、ナンシー・ロンドンも
「日本では、宗教団体、寺院、神社以外への個人の寄付はきわめて僅少である。
(中略)個人個人
が社会に対し、自発的に寄与する義務と能力とが存在することを認めかつ実践するという伝統が欠
如している」と述べている10)。さらに、ロンドンは、「日本には家族や企業という機能グループは
あるが、無差別の個人の集まりを前提とした西欧的な意味での『コミュニティ』や『ソサエティ』
というものが成立しておらず、したがって自己の帰属するグループに対する恩や義理を感じても、
抽象的あるいは一般的な『社会』への寄与・貢献という発想は出てこない」と指摘している。
確かに、西欧近代市民社会といった視点からすれば、そのように言われても甘受せざるを得ない
かもしれない。しかしながら、日本の歴史を振り返れば、民間の社会貢献活動に、西欧からの影響
ではないもう一つの大きな流れがあることが確認できる。それは明治の近代より遙か以前に源を持
つものである。その淵源は古代社会における聖徳太子・光明皇后をはじめとする皇族・貴族、ある
いは行基・空海らの僧侶による仏教的慈善活動にまで遡ることができる。しかも、古代の仏教的慈
善活動は、①貧民救済や医療を通じての福祉活動、②建設・土木事業による生活基盤・環境づくり、
③教育・学芸・文化などの振興、の3つの分野を主な対象としており、まさに今日の社会貢献活動
の原型をなしているのである11)。
1000年以上も昔の『日本書紀』では、恩という字を「恵み」とか「慈しみ」と読ませており、非
常に広い意味を持っていた。これが後世には親の恩、師の恩、主君の恩、といったように非常に限
定された狭い意味になってしまった。そうした広い意味での伸びやかな報恩思想というものが日本
人の価値観として古くはあったと思われる。
また、古くから日本人の思想に大きな影響力を与えている仏教においては、その内で最も基本的
な教典である「般若心経」のエッセンスは「色即是空」である。色というのは一切の存在物であり、
空というのは宇宙である。したがって、それは一切の存在物は宇宙とつながっているという意味で
ある。宇宙一切の森羅万象がことごとく相互に関わり合っていることであり、これがすなわち仏教
でいう「縁」である。さらに、釈迦の言葉として伝えられている「天上天下唯我独尊」は、自分だ
けでなく人間は誰でもかけがえのない存在であり、人間の尊厳、個の尊重を説いたものである12)。
また、奈良時代の高僧行基がおこなった道路開拓,橋梁架設や平安時代初期の高僧空海が開設した
私学の綜芸種智院などは紛れもないフィランスロピー活動そのものである。
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それ以上に古くからあった神道でも、それは「連続の思想」ともいうべき思考法であり、すべて
のものに神性を認め、それと現世の人々とは断絶していないという教えが基本にあり、これもフィ
ランスロピーに通じるものがある。
要するに、我々の先祖たち、古き時代に日本列島に生きた人々は、いわばフィランスロピー・マ
インドともいうべき心象を持っていたのである。よく日本人の大半はキリスト教徒でないから、日
本ではフィランスロピーの思想は育ちにくいと言われるが、上記のように日本には、仏教、神道な
どを基盤とした日本型のフィランスロピーが存在したといえるであろう。
ちなみに、キリスト教国であっても、宗教改革の進展度や、その歴史的状況、近代になってから
の政治・経済体制によってフィランスロピーの発展度合いは異なっている。フィランスロピーが一
番発達しているのはアメリカであるが、同じプロテスタントの国でも、北欧諸国では、長期にわた
り社会主義国家であったため民間公益活動としてのフィランスロピーは必ずしも発展していない。
概して言えば、カトリックの国では、福祉や教育の分野で依然として宗教の力が強く教会が権力を
持ち続けたが故にフィランスロピーはそれほど発達しなかったといえるであろう。
宗教とフィランスロピーの関係を論ずると、キリスト教は排他的な一神教であり、キリスト教の
フィランスロピーはキリスト教のコミュニティーでしか機能し得ないという限界があるとすれば、
他の宗教も許容しながら、グローバルにフィランスロピーを展開するには、むしろ多神教の神道、
寛容な教理を持つ仏教のほうが適しているとさえ思える側面もあるのである13)。
さて、室町時代後期になると、富裕な商人が台頭してきた。特に、京都を中心とした畿内の都市
では商業・貿易が発展し、大商人が誕生した。「京の3長者」の一人、角倉了以は本業の商業・貿
易に従事するかたわら、大堰川、高瀬川、富士川、天竜川などの開削工事に取り組み、舟運を開拓
している。その子、角倉素庵は、父の事業を継承すると共に、藤原惺窩を師として自ら学問を修め、
林羅山との親交も深かった。また、芸術・出版活動においても、本阿弥光悦や俵屋宗達の協力を得
て、「伊勢物語」、「方丈記」、「徒然草」などの古典を「嵯峨本」として出版しており、まさに彼は
江戸時代初期の文人墨客による寛永文化を支えた民間メセナ活動の先駆者といえる活動を行ったの
である。
江戸時代において、富を蓄えた商人たちが寄付や寄進をする場合、普通はその主たる対象は寺と
神社であり、あるいはまちの祭礼であった。それは家業の発展や利益を祈る行為でもあったが、
「勧進」や「奉納」の形で相撲や能、舞・踊りなどの芸能の発展を促し、文化の振興に貢献する側
うとくにん
面も有していた。彼ら旦那衆は「有徳人」と呼ばれ、世のため人のため何かをすることで徳を積む
という風潮が芽生えていったのである。
この時代に商業・経済の中心が大阪に移ると、「町人のまち」大阪では、商人の間に自立・自
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助・自由の風潮が醸成されていった。次第に社寺仏閣に寄進するだけでなく、公共の施設をつくる
いっこんりゅう
ために私財を投じる「 一建立」の気風が裕福な大阪商人の間に定着していった。例えば、大阪の
都市基盤として重要な運河の一つとして安井道頓がつくったのが道頓堀である。橋の建設でも、淀
屋による淀屋橋、末吉孫左衛門が架けた末吉橋、穴喰屋治郎右衛門による穴喰屋橋などは、数多い
14)
一建立の例である 。
また、芸術・芸能の分野では、例えば、初期豪商の淀屋や菓子商の名門鯛屋などは、自ら和歌、
俳諧、狂歌をたしなむ傍ら、多くの文人墨客を支援した。この時代、浮世草子、歌舞伎・人形浄瑠
璃などに代表される元禄町人文化は、多くの大阪商人の庇護によって開花し発展するのである。
3 近世大阪商人のフィランスロピー
江戸期において大阪商人が、民間の公益活動あるいはフィランスロピー活動に果たした役割は大
きい。本節では、特に、学問・教育分野における功績のなかで、町人による私塾として高く評価さ
がんすいどう
かいとくどう
れている「含翠堂」と「懐徳堂」について検討してみよう。それまでの高等教育機関は、貴族、僧
侶あるいは武士のための機関が主であって、町人が学問を学ぶとすれば、京都や江戸において学者
が僅かに開設している私塾の門をたたく以外に途はなかった。ところが、商人が力をつけるに従っ
て、商人の間にも商人の立場、商行為の正当性、商家経営の倫理的規範、などを明確化する欲求が
しだいに高揚し、学問の必要性が高まってきたのである。以下、この2つの町人による私塾につい
て概説しよう。
(1) 含翠堂
含翠堂は、1717(享保2)年、土橋友直をはじめとして6名の町人が発起人となり、摂津平野郷
(現大阪市平野区)に設立された私学である。発起人である創立興成員および賛助会員ともいうべ
き助力生員が年々の掛け金や寄付金を拠出し、それを基金として積み立て、その利息収入で運営さ
れていた。含翠堂は、その後1872(明治5)年の学制改革による廃止まで155年の長きに渡って存
続するのである。平野郷は、地方都市ではあるが、中世末期から堺などと並ぶ自治都市として栄え、
近世になっても綿作を背景として、農業、手工業、商業が発展した。平野では金山の開発や朱印船
貿易で名を馳せた末吉家を筆頭に「七名家」が町の指導者となっていた。発起人の土橋友直も七名
家の一つ土橋家であり、合薬業を営んでいた。彼は若い頃京都に学び、医学、和学を修め、儒学は
伊藤仁斎の古義堂に学んでいる。また、陽明学の三輪執斎にも師事している15)。
平野では、元禄の時代から七名家をはじめとする上層町人の間で、サロン風の漢学の学習会が活
発に催されていた。その中心メンバーが土橋友直や養父の三上如幽(やはり七名家の一つ)であり、
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これが含翠堂の発足母体になったといえよう。
含翠堂では学校を設立し、維持・運営するメンバーを「同士中」といった。これには既述のよう
に創立興成員と助力生員の2種類があり、前者には土橋友直の他、土橋宗信、成安栄信、徳田宗雪、
井上正臣、間宗好の六人が名を連ねている。後者には、土橋友直が京都以来親交の厚い三輪執斎や
懐徳堂の設立メンバーでもある道明寺屋吉左衛門を含め10名の名が挙がっている。また、学校運営
の面では、教授・講師の他に管理業務を行う留守居役がおかれていた。講舎は、創立興成員の一人、
井上正臣の旧宅を借用し、後にこの屋敷を含翠堂が買い取っている。教育は、年少者コースと成人
向けコースに分けられ、年少者でも、
「読み・書き・そろばん」だけでなく、
『論語』や『孟子』な
どの儒教の学習が行われていた。
含翠堂は、このほかにも貧民救済のために飢饉や急激な物価変動に備えて資金を拠出し、積み立
しんきゅうりょう
てを行い、窮民救済活動も行っている。この拠出される資金を「 賑窮料 」と呼んでいる。この拠
出金が底をつけば、改めて寄付を募り資金を補填し活動の継続に努めている。実際に、窮民救済活
動は、1732(享保17)年のイナゴによる災害から1852(嘉永5)年の飢饉まで合計8回行われてい
る。含翠堂はこのように私塾であるばかりでなく、地域の福祉にも貢献し今日のコミュニティ財団
16)
の性格をも有していた 。こうした含翠堂の社会貢献活動は、紛れもない画期的な日本のフィラン
スロピーとして特筆されるべきものであろう。
(2) 懐徳堂
懐徳堂は、1724(享保9)年大阪船場(現在の大阪市中央区今橋)に開設された町人出資の学塾
である。懐徳堂の誕生にもその前史がある。京都出身の三宅石庵が大阪船場に住み、町人に和学や
儒学を教え始めたが、1713(正徳3)年には、門人たちの財政的援助により私塾多松堂が建てられ
る。門人たちの中には、三星屋武右衛門(中村良斉)、道明寺屋吉左衛門(富永芳春、含翠堂の設
立メンバーでもある)、船橋屋四郎左衛門(長崎克之)らの大商人が加わっており、この3人に備
前屋吉兵衛(吉田盈枝)、鴻池又四郎(山中宗古)を加えた「五同志」が後に懐徳堂設立の中心メ
ンバーとなるのである。
懐徳堂の初代学主に迎えられた三宅石庵は、はじめ朱子学を学んだが、古学の伊藤仁斉や和学に
ぬえ
造詣の深い五井欄州とも交流をもち、その折衷的学問は「鵺学問」と一部の人から酷評もされた。
しか し 、彼 は 一つ の 学派 に こ だわ ら ない 「 天下 の 公」 た る 学問 を 目指 し た。 門 下生 に は 、
しゅつじょうごご
なかもと
『出定後語』を書いた富永仲基(芳春の子)や『夢の代』を書いた山片蟠桃(米商人升屋の番頭)
ら、儒教や仏教など既成の教学を批判する合理的な考え方を持つ異色の町人学者を生んでいる。ま
た、歌人学者の加藤景範(小川屋喜太郎)や古今の貨幣を実証的に調べて『3貨図彙』を著した草
間直方もいる。この自由で合理的な学風は、「書生の交わりは貴賤貧富を論ぜず、同輩たるべきこ
日本国内企業の社会貢献
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と」として、塾内では武士や大商人という理由で特別扱いされることもなかったのであり、そうし
た学風はその後も中井愁庵、五井欄州、三宅春楼(石庵の子)、中井竹山・履軒兄弟(甃庵の子)
らによって受け継がれ、大きな成果を上げることになる。
懐徳堂は、町人の学校でありながら、その後幕府の昌平坂学問所(昌平黌)にも肩を並べるほど
の高い水準を誇り、歴史に残る学問的成果と全国的な知的ネットワークの構築を成し遂げるのであ
る17)。
ところで、懐徳堂が輝かしい学問的成果をあげながら、その後明治の初めまで145年の長きにわ
たって存続し得たのは、組織・財政面での創意と工夫の賜物であるといえよう。その実績は、今日
の学校法人や財団法人等の公益法人の組織管理と財務管理に先鞭をつけるものとして高く評価され
るべきである。
まず、組織管理面での特徴は、研究・教育部門と経営・管理部門とを明確に分離していたことで
ある。これによって、学主は外部との交渉や雑事に煩わされることなく、研究・教育に専念できた
のである。この部門には、
、今日の大学では学長に当たる「学主」
、主任教授に相当する「学問所預
かり人」、さらに常勤および非常勤の教師陣である「助講」が置かれている。定約では学主の世襲
は禁じられており、血統よりも実力を重んじる合理性が伺われる。
経営・管理部門では、五同志がこれを担当し、合議の上で重要事項の決定を行っている。業務の
執行・管理のためには同志のなかから「年行司」を定め、また日常の事務処理の責任者として「支
配人」がこの任に当たっている。今日的に言えば、五同志は理事、年行司は理事長または専務理事、
支配人は事務局長に相当するといえよう。収支の状況は帳簿に記録され、監査の仕組みも定められ
ていた。
次に、財務管理面では、当初は五同志による拠出金がほとんどであったが、後になると資金を拠
出する同志の範囲を他の商人にも拡大し、資金確保のすそ野を広げている。これら同志の分担金や
寄付金は財力に応じて拠出すればよく、無理な場合は出さなくてもよいことになっていた。受け入
れた寄付金は「相談料(元金)」として長期間蓄え、両替商などに預け運用し、その利息を組織運
営に充当させるやり方をとっている。今日の財団法人等の、基本財産と運用財産とを分離する考え
方に通じるものであり高く評価できよう。さらに、災害にあったり学舎の修理など臨時の出費には、
その都度寄付金を募っている。幕末には、同志から5年間無利息で借り入れを行う「永続助成金」
制度を導入している。このような基本財産としての基金を消滅させない工夫と、大阪商人の学問・
教育への情熱とが相俟って車の両輪の如く機能したことが、145年の長期にわたって懐徳堂が存続
し得た大きな要因になったといえるであろう18)。
テツオ・ナジタはその著書『懐徳堂』のなかで、懐徳堂がなし得た社会的成果として、大阪商人
経営論集 第58号(2003年3月)
82
の「経世済民」への深い志の表明と「徳」の探求、階級と地域を越えたネットワークの構築を挙げ
ている。では、なぜ18世紀の享保期に大阪で商人出資によるこのような学塾が開花したのであろう
か。この時期は、今日的な言い方をすれば、高度経済成長の元禄期から低成長期への転換期であり、
商家は家業の安定と経営組織の確立に全力を尽くすことになった。住友、鴻池、三井などの大商人
も家 憲 や家 訓 を整 備 して 経 営 理念 と 行動 方 針を 明 確に し た 。ま た 、心 学 を説 く 石田 梅 岩 の
とひもんどう
『都鄙問答』にも見られるように、それまで商業や商人を低くみる当時の社会風潮に対して、商
業・営利の正当性と社会における商人の存在意義を主張する動きも現れていた。こうした状況の中
で、学問をすることにより、又「経世済民」によって徳を積み、浮沈の多い「商人」から堅実な
ゴーイング・コンサーン(継続事業組織)としての「商家」への脱皮を目指したという解釈が妥当
19)
なのではなかろうか 。
商人は、士農工商という当時の身分制度のなかで社会的弱者の地位にあったこと、また商いとい
う生業の本質からしても、社会に対して強い関心を持たざるを得なかったであろう。取引の基本に
は信用が不可欠で正直な商いを行い、相手も自分も立てることが重要である。また、「お陰様で」
という挨拶には、直接の取引先だけでなく「世間」への感謝の気持ちも含んでいる。早くから、畿
内の商人には、「売り手よし、買い手よし、世間よし」という「三方よし」の経営理念があり、こ
れは関西商法の伝統として後世にも影響を与えている。例えば、伊藤忠の初代伊藤忠兵衛やサント
リーの創業者鳥井信治郎の「利益三分主義」として関西の企業人に受け継がれている。
確かに、欧米流のシティズンシップやノブレス・オブリージュに基づく「義務や責任」とかキリ
スト教によるフィランスロピーの精神や活動は日本では最近に至るまで普及しなかったかもしれな
い。しかし、キリスト教の「個人と神との契約(自己の概念)」とか欧米流の「社会の一員」とし
ての意識や義務感が稀薄だからといって、日本にはフィランスロピーの精神や活動がなかったとい
うことにはならないであろう。
4 日本企業のフィランスロピー
(1) 日本企業のフィランスロピー前史
1980年代よりアメリカとの貿易摩擦の解消を目的として、日本企業はアメリカでの現地生産を急
増させた。その過程で現地社会での企業活動のあり方を模索するようになった。
1988年には、経済団体連合会(経団連)は「米国の地域社会における企業の社会活動に関する調
査ミッション」を派遣し、アメリカの企業フィランスロピーについて理解を深めている。また、翌
年には、経団連、海外事業活動関連協議会、日本国際交流センターの共催で、「米国地域社会にお
ける良き企業市民の条件」と題するシンポジウムが開催され、この席上で経団連の房野常務理事が
日本国内企業の社会貢献
83
アメリカ企業に倣って1%クラブを提唱した。
また、88年には、京都で「文化と企業」と題する第3回日仏文化サミットが開催され、日本でも
企業による文化支援を強化すべきであるという気運が高まり、90年には企業メセナ協議会が発足し
ている。さらに、90年には、大阪商工会議所が「コミュニティ財団調査団報告書」を発刊し、大阪
コミュニティ財団の設立を提唱(設立は翌年)している。そして同年には、先の経団連の呼びかけ
で「1%クラブ」が創設されており、1990年は「フィランスロピー元年」などといわれている20)。
しかし、本項では、日本企業がこのようにアメリカでの現地生産を開始したり、日経連の視察団
がアメリカに派遣されたりするまで、日本には企業フィランスロピーがなかったのかという問題を
さらに究明したい。
フィランスロピーの検討においては、個人のフィランスロピーと企業のそれとを区別し難い面も
ある。特に、昔の商家や同族企業では難しい面があるが、ここではさらにいくつかの企業フィラン
スロピーの源流ともいうべきものを検討してみよう。
1)関西経済人の企業フィランスロピー
懐徳堂を創設した五同志にせよ、含翠堂を支えた七名家にせよ、彼らは大商人であったのであり、
その社会的成果は企業フィランスロピーの範疇に入れられよう。既述のように、含翠堂は、私塾と
しての活動だけでなく、窮民救済活動も行っている。懐徳堂でも商人たちが塾の存在意義を充分に
認識しそれを支える過程で、大阪商人の「始末・才覚・算用」の経営ノウハウをフィランスロピー
活動に応用しているのである。
これら大阪町人のフィランスロピー思想は明治・大正時代の企業家にも引き継がれている。例え
ば、住友家15世吉左衛門友純は大徳寺家出身で、大阪図書館(現・大阪府立中之島図書館)の建設
をはじめ関西の社会・文化事業に大きく貢献している。また、大阪で洋反物商として成功した山口
玄洞は、郷里の尾道、大阪、その他において学校や病院などに多額の寄付を行った。彼は関西の寄
付王と言われたほどである。また、サントリーの前身である寿屋の創立者、鳥井信治郎は、既述の
ように「利益三分主義」を唱え、利益の三分の一は社会に還元するとの信念から多額の寄付を行っ
た。さらに、大阪毎日新聞の社長を務めた、本山彦一は、大阪毎日新聞慈善団を設立して理事長に
就任し社会・文化事業に尽くしたが、岡山孤児院の石井十次の事業を個人でも支援している21)。
2)クリスチャン事業家のフィランスロピー
倉敷レイヨン(現・クラレ)の大原孫三郎はクリスチャン企業家のフィランスロピストとしてつ
とに有名であり、彼は「自分は天職としてこの財産を与えられたものである」と述べ、財産の多く
をフィランスロピー活動に投じたのであった。彼も岡山孤児院の石井十次を全面的に支援している。
また、森村商事(株)の森村市左衛門も、森村豊明会の創始者としてだけでなく幅広いフィラン
84
経営論集 第58号(2003年3月)
スロピー活動を展開している。森村の事業上の片腕であり、森村の影響でクリスチャンになった村
井保固も、郷里の愛媛県吉田町に「村井保固愛郷会」を設立し、郷里の幼稚園、学校、教会、病院
などに多大の支援を行っている。
ライオン歯磨の創始者小林富次郎は、職工教育のためライオン夜学校を設立したり、また岡山孤
児院の支援者でもあった。彼は歯磨小袋に慈善券をつけて発売し、これに基づいて全国の慈善団体
に寄付を行った。これはおそらく現在のコーズ・リレーティッド・マーケティング(cause related
marketing)のはしりではなかろうか。
帝国劇場、東京海上火災保険、白木屋等の要職を務めた西野恵之助は、当時の山陽鉄道での入場
券の売り上げを岡山孤児院に寄付し、また岡山孤児院への寄付のために「慈善箱」を設置するなど、
顧客参加型のフィランスロピーを考案・実践している22)。
ここでは、さらに2名の企業フィランスロピストについてより詳細に紹介したい。
まず、日本におけるフィランスロピーの異色の先駆者として、ウイリアム・メレル・ヴォーリズ
がいる。ヴォーリズは、1880年アメリカで生まれ、二十四歳の時、英語教師として滋賀県立商業高
校に赴任した。宣教を熱心にやりすぎて僅か2年で解職されるが、コロラド大学で2年間建築を学
んでいたこともあり、その後京都YMCA会館建設の現場監督の職を得て、建築家としての道を歩
み始める。
その後ヴォーリズ合名会社を設立、以後建築家としての名声は高まっていった。ヴォーリズは設
計では正当な価格を厳しく請求し、利益を確保したが、それがフィランスロピーの財源になって
いった。その一方では「近江基督教伝道団」を組織し伝道活動も本格的に行っている。
彼は、事業と伝道の傍ら、地域でのフィランスロピーにも大いに貢献している。1918(大正7)
年には結核患者のための近江サナトリアム(現・ヴォーリズ記念病院)を設立している。本館の建
設費はアメリカからの寄付であったが、それ以外の費用数万円と開設後の運営費はヴォーリズ事務
所が負担している。この年、伝道関連および医療関連の事業を統括する「近江基督教慈善教化財
団」が設立された。近江兄弟社の前身である。
ヴォーリズは大正9年、子爵の令嬢一柳満喜子と結婚、昭和16年には日本国籍を取得し、一柳米
来留を名乗っている。大正9年にはヴォーリズ合名会社を解散して「近江セールズ株式会社」を設
立し、その定款には利益の大部分を「近江基督教慈善教化財団」に寄付することが明記された。ま
さにフィランスロピーのための会社である。この会社は主として建材の輸入を行っていたが、メン
ソレータムの輸入販売も行うことになり、これがもう一つの大きなフィランスロピーの財源になる。
それはメンソレータムの創始者アルバータ・アレキサンダー・ハイドがヴォーリズの伝道活動の支
援者で、代理店になる話を持ちかけており、ヴォーリズは昭和6年にはメンソレータムの国内生産
日本国内企業の社会貢献
85
を始め、大きな利益を上げている。
夫人の満喜子は、ヴォーリズとともに教育、福祉、文化面に尽力したが、特に大正11年には近江
八幡で最初の幼稚園、清友園を開設している。その後ハイドの夫人であるアイーダ・ハイドからの
3万ドルの寄付により、新園舎とアイーダ・E・ハイド記念教育会館も完成する23)。
その後「近江勤労女学校」や教養や文化の学習を目的とした「向上学園」が開設される。戦後は、
幼稚園から高等学校までを統合した近江兄弟社学園となり現在に至っている。さらに学校教育以外
でも、近江兄弟社図書館(現・近江八幡市立図書館)等を開設している。
次は、三井報恩会の米山梅吉である。1934(昭和9)年に設立された三井報恩会は、世界的にみ
ても大きな財団であった。当時の三井の総帥池田成彬の懇望によって初代理事長に就任したのが米
山梅吉であった。彼は自ら設立に関わった三井信託の会長職を退き、理事長を務めたのである。彼
は就任に当たり、「原資は三井十一家から出して貰うが、運営、施策は自分の理想を生かしてい
く」と述べている。米山は、アメリカ留学中にカーネギー財団やロックフェラー財団について見聞
し、助成財団の機能を熟知しており、米山自身がフィランスロピストであったので、まさに理事長
として最適の人物であった。
彼は、東京英和学校(現・青山学院)在学中かその後のアメリカ留学中のいずれかの期間に洗礼
を受けたのである。帰国後の1897(明治30)年、30歳の時に三井銀行に入り、以後金融界のみなら
ず広く経済人として活躍するが、その傍ら多くのフィランスロピー活動を行っている。幼年期を過
ごした静岡県三島の長泉村に教育基本金3,000円を寄付し(大正12年)、また長泉村立小学校に
6,130円を出して「米山文庫」を寄贈している(昭和6年)。昭和7年には、次男駿二の早世を悼ん
で、駿二の学んだ立教大学に心理学実験室を寄付している。昭和12年には、私財120万円を投じて
青山学院内に財団法人緑岡小学校を設立し、昭和21年に青山学院初等部として引き継ぐまで独力で
経営を続けている。
三井報恩会理事長としては、ハンセン病対策、農村振興、留学生や勤労学生への奨学金などに尽
力している。また、米山は、大正9年に東京ロータリークラブを創設し会長に就任している。軍国
主義の強まった昭和15年には解散の止むなきに至るが、戦後の昭和24年に日本ロータリークラブは
国際ロータリーに復帰している。昭和28年には米山の遺志を継いで東京ロータリークラブ内に米山
記念奨学金が創設された。その後この奨学金制度は全国のロータリークラブに広がり、現在のロー
タリー米山奨学財団は、日本最大の奨学財団になっている24)。
以上のように過去の日本の企業フィランスロピーは、関西経済人やクリスチャン事業家などによ
り大きな貢献がなされてきたのは事実である。しかし、それは彼らのみによって行われたわけでは
ない。例えば、明治初期の代表的フィランスロピストである渋沢栄一は論語とそろばんを手にもっ
86
経営論集 第58号(2003年3月)
て、儒教に基づくフィランスロピーを実践しているが、今回は紙幅の都合で割愛する。
(2) 現代日本企業のフィランスロピーの現状と課題
1)企業フィランスロピーの現状
企業フィランスロピーの手段には、大別して公益活動に対する寄付金による支援、製品をはじめ
とする物品の贈与、会社施設の提供、ボランティア活動(従業員の派遣)などがある。
国税庁の税務統計を見ると、日本における寄付額は企業と個人を合せて約6,000億円で、そのう
ち約90%が企業による寄付金である。ちなみにアメリカでは、企業と個人を合わせた寄付額は、約
15兆円(1ドル=120円換算)で、そのうち個人による寄付が約83%、企業によるものは5%である
(その他は、遺産、財団による寄付金で各6%)25)。個人の寄付金額ではアメリカが圧倒的に多い
のに対して、企業による寄付金額ではそれほどの違いはない。こうした状況から、日本社会では、
企業寄付金の存在が非常に大きく、企業フィランスロピーを抜きに日本のフィランスロピーを語る
ことはできない26)。
国税庁が毎年発表している『税務統計から見た法人企業の実態』によれば、年によって変動はあ
るものの、支払い寄付金額は所得の1%前後で推移している。2001年度の数字を見てみると、法人
企業の支出した寄付金額は4,785億円である。その内訳は、指定寄付金、特定公益増進法人に対す
る寄付金、その他の寄付金に分かれている。指定寄付金は835億円で、前年より19.41%増加してい
る。特定公益増進法人への寄付金は766億円で5.6%の伸びを示している。その他の寄付金には政治
資金が含まれるが3,184億円の2.8%減でほぼ横ばいである27)。
2000年度の日本の法人企業数は253万6,878社であるが、そのうち寄付を行った企業は252,657社
で9.96%に過ぎない。寄付金を支出した企業の割合は資本金規模別に大企業ほどその比率は高く
なっている。特に、資本金100億円以上の企業が支出した寄付金は、2,629億円で、全法人企業の支
出寄付金の55.9%に当たる。法人税法上の損金算入限度との関係では、大企業ほど寄付金の損金算
入率が高いが、業種による差も大きい28)。
さて、企業フィランスロピーに関して、経団連では1992年に初めての『社会貢献白書』を発表し、
その後1996年版、1999年版を刊行している。
1999年版(97年度の実績)によれば、回答企業376社による社会貢献活動の支出は1,557億円であ
る。この金額は、社会貢献を目的とした寄付金と社会貢献事業の経費の合計額であるが、資本金規
模別にみると、500億円以上の110社で半分以上の1,078億円を支出している。また、社会貢献活動
支出の経常利益に対する割合は、337社の単純平均で2.63%あるが、5%以上も36社ある。最も多
いのは、1~2%(93社)である。先の税務統計の数字と合わせてみても、日本の大企業は経常利
日本国内企業の社会貢献
87
益の1%程度をフィランスロピーに支出しているといえるであろう。
1999年版同白書では、回答企業による寄付金支出額の比率を分野別に集計している。支出割合が
高い分野は、
「学術・研究」
(17.6%)
、
「教育」
(14.3%)
、
「地域社会の活動」
(13.0%)などとなっ
ている。
さらに、企業フィランスロピーには、献金による貢献だけでなく、製品をはじめとした物品の寄
付や芸術・文化の振興、スポーツの振興等では会社施設の提供も行われている。
また、従業員のボランティア活動に対する支援制度では、同白書(1999年版)のアンケート結果で
は「ボランティア休暇制度」(96件)の導入が一番多く、次いで「青年海外協力隊参加休職制度」
(78件)
、
「ボランティア休職制度」
(53件)
、
「従業員表彰制度」
(35件)
、
「地域活動奨励休暇制度」
(24件)など回答企業のほぼ半数(205社、51.8%)が何らかの制度を導入している29)。この比率
は、アメリカ企業によるフィランスロピー活動と大きく異なっている。
最後に、企業財団については、91年に公益法人協会が企業財団に対して行ったアンケート結果で
は、460財団のうち回答のあった403財団で、助成のみを行っているのは241財団(60%)
、自主事業
のみを行っているのが60財団(15%)
、助成と自主事業の双方を行っているのが101財団(25%)で
あった。従って、助成を行っている財団は342財団ということになる。小規模な財団を別にすれば、
せいぜい300財団程度が助成を行っているのであろう。また、財団を設立年次別にみてみると、60
年代に設立数が増加しており、80年代になって加速している。財団の助成対象分野をみると、自然
科学分野が中心であるが、70年代から多目的化し、80年代にはいると文化振興や国際交流関係の財
団が増加している。
2)日本の企業フィランスロピーの課題
既述のように日本における企業フィランスロピーは、アメリカに進出した日本企業によって逆輸
入されたという側面は大きいが、それが日本国内で受け入れられるようになったのは日本の社会お
よび企業にもフィランスロピーを求める気運が醸成されつつあるからだと考えられよう。企業フィ
ランスロピーの内容は一言で言えば民間公益活動の支援であるが、日本では近年に至るまで公益活
動は国や地方自治体といった行政の責任であるといったコンセンサスが支配的であり、公益活動は
「お上」任せで頼りっきりというのが一般的であった。そのため、日本では行政とは別個に民間で
公益活動を行う米国のようなインディペンデント・セクターがあまり発達してこなかった。
しかし、日本でも高度経済成長の終わり頃から、お上任せの集団主義的な思考から、個別的・個
性的思考を重視する方向へ国民意識も変化しつつあり、画一的行政サービスではなく、より多様な
公益サービスを求める風潮が強まりつつある。つまり、行政とは別個の価値判断によって、非政府
の立場で公益活動を行うNGOやNPO等と、その活動を支えるフィランスロピーが期待されるよ
88
経営論集 第58号(2003年3月)
うになってきた。
本来フィランスロピーは個人個人で行うべきものであるかもしれない。しかし、日本では経済力
が圧倒的に企業に集中しているため、フィランスロピーについても企業に依存せざるを得なかった
という状況がある。また、企業にとってもその力とプレゼンスの増大にともない、社会的責任の範
囲が次第に拡大し、広く社会貢献活動が求められるようになってきたこと、さらにはCI(コーポ
レート・アイデンティティ)の一環として企業のイメージ・アップのための有力な経営戦略として
も取り上げられたと考えられる30)。
経団連の『社会貢献白書』(1992年版)でも、企業が社会貢献活動に取り組む理由について質問
しており、一番多かったのは「社会の一員として責任がある」(88.0%)であったが、次に多かっ
たのは「イメージアップにつながる」
(56.4%)であった。従って、企業としての課題は、国民の
社会的ニーズと企業の経営戦略をいかにバランスさせ調和させていくかということになるであろう。
さらに、1992年版同白書では、企業の寄付金税制についても調査している。これについては、半
数の回答企業が、「損金算入限度額が不足する」と答えており、また38.3%が「特定公益増進法人
が少ない」、36.9%が「指定寄付金の適用が少ない」と問題点を指摘している。また、15.9%は社
会貢献を目的に支出しても交際費になってしまう場合があると回答している。
日本の公益寄付に関する税制は、①国・地方公共団体への寄付金、②指定寄付金、③特定公益増
進法人への寄付金(以上の3項を特定寄付金という)、④一般寄付金、に分かれている。この内①
と②については全額損金算入できる。つまり、全額免税で寄付をすることができる。他方、特定公
益増進法人への寄付金の損金算入限度額については、次の算式による。
(資本等の金額×0.25%+所得金額×2.5%)×0.5
その他、一般寄付金についても、別枠でこれと同額まで損金参入が可能である。
尚、個人の場合、一般寄付金については所得控除は認められず、①~③の場合のみ、(年間所得
×0.25―1万円まで)所得控除が受けられる。住民税の場合、限度額は所得税と同じであるが、10
万円以上の寄付金でないと控除の対象にならない。
問題点は、日本では、指定寄付金の適用が少ないことに加え、特定公益増進法人への寄付にしろ
一般寄付金にしろ所得の損金算入額が1.25%と低い上に、特定公益法人の認定数が極めて少ないこ
とである(現在、約900法人)
。アメリカでは、81年の税制改正で、企業の非営利組織に対する寄付
金控除の限度額が税引前利益の10%に引き上げられており、寄付金控除の対象になる非営利組織の
数は約113.5万団体(1996年)にも上っている31)。
しかし、1999年版同白書では、寄付金税制の問題点として、法人税では「指定寄付金が少ない」
(27%)が「損金算入限度額が不足」(25.4%)を上回る回答となり、次いで「特定公益増進法人
日本国内企業の社会貢献
89
が少ない」
(24.7%)、[NPO・NGO支援が所得控除の対象外](20.3%)、
「プロジェクト経費の
一部が交際費となり課税される」
(10.7%)が続いている。
とはいえ、税制の基本があまりにも異なるため、アメリカ企業の寄付金控除の限度額を、たとえ
ば日本企業の「一般寄付金」のそれと比較しても意味がないのであり、問題とすべきは、どのよう
な相手に対する寄付が税法上の寄付金控除となるのか、どの時点の寄付が当該年度の寄付と認めら
れるのか、現物寄付を行った場合にはどのように評価されるのか、控除枠を越えた場合にはどのよ
うに扱われるのか、の4点についてのより詳細な検討が必要であろう32)。
では根本的な問題として、寄付金控除制度を認める理論的根拠はいかなるものであろうか。日本
ではほとんど議論されていないが、アメリカでは補助理論(subsidy theory)と公平理論(equity
theory)がある33)。補助理論とは「補助効率化」論ともいわれる。つまり、慈善団体の行う公益の
提供は一般の市場経済にはなじまないので政府からの補助を必要とする。但し、政府が直接税金を
補助金という形で分配するよりも寄付者が望む団体に寄付をし、その金額に対して控除をしたほう
が経済的にみて効率的であるという考え方である。他方、公平理論では納税者が利他的目的で寄付
をした場合と、自己の利益のために私財を費消した場合とを、同等に課税するのは妥当ではないと
いう考え方に立つ。つまり、課税の公平の考え方に立ち、慈善目的の寄付金には非課税もしくは控
除をして公平をはかるべきだとする考え方である32)。こうした理論に基づいて控除制度の根拠を明
確にしておかなければ、日米どちらが妥当な税制なのか明確にはならないであろう。
1998年、現行の公益法人制度では法人格をもてないボランティア団体にも法人格を与え社会的に
承認すべきだとの趣旨から「特定非営利活動促進法(NPO法)
」が制定された。
「ふるさと演劇工
房」が第1号として認証され、その後多数の団体(2002年末現在で約10,000団体)が認証されてい
る。しかし、その後の同法の改正(2003年5月1日施行)によっても、個人または法人が寄付金控
除等の課税の特例を適用されるのは、租税特別措置法に定めるところにより、国税庁長官の認定を
受けた特定非営利活動法人(認定NPO法人)だけ(現在12団体)に限定されている状態である。
あとがき
本稿の目的は、「はじめに」でも記したように、日本における企業フィランスロピーの源流が、
日本企業のアメリカ現地生産以前の時期において既に国内に存在していたことを歴史的に跡づける
ことであった。宗教的には、キリスト教のフィランスロピーへの影響力は大なるものがあるが、し
かし仏教、神道、さらには儒教的精神を有する日本人にもフィランスロピスト・マインドが欠落し
ていたわけではない。このことはこれまでの考察によって、個人のフィランスロピーだけでなく企
業フィランスロピーについても該当することが明らかになったと考える。
経営論集 第58号(2003年3月)
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経済学では、民間材は個人や企業の、公共財は政府部門の決定に委ねるのが原則であるが、両者
の間には価値材(merit goods)や準公共財のような中間財の領域があり、このような領域では新た
な創造を目指した実験が繰り広げられており、個人ボランティア、NPO、政府、それに企業も競
合することになる。こうした領域では政府だけに任せるより、多様な主体の参加が望ましく、一種
の拮抗力(countervailing power)の作用も期待できる。こうした領域では、企業も各種ステークホ
ルダーの合意の上で、財団設立、寄付金の提供、ボランティア社員の派遣などを通じて、一定の役
割を果たす充分な意味があると考えられる34)。まさに、「市場の失敗」や「政府の失敗」を解決す
る方法として、企業フィランスロピーの精神と活動が今日ほど期待されている時はないといえよう。
参考文献
1 山城章『現代の企業』森山書店、1961年、117-119ページ。
2 山城章『経営学原理』白桃書房、1966年、88-93ページ。
3 山城章、同上書、88-93ページ。
4 古川栄一『経営学通論』同文舘、1986年、88-90ページ。
5 林雄二郎「日本が知性を欠いた大国にならないために」
、林雄次郎・山岡義典編著『フィランソロピーと社
会』ダイヤモンド社、1993年、15-16ページ。
6 林雄二郎・山岡義典編著、同上書、16-19ページ。
7 林雄二郎「日本のフィランソロピー」
、林雄二郎・加藤秀俊編著『フィランソロピーの橋』TBSブリタニ
カ、2000年、82-85ページ。
8 林雄二郎・山岡義典編著、前掲書、20-22ページ。
9 松原明「NPO税制が日本を変える」
、林雄二郎・加藤秀俊編著、前掲書、137ページ。
10 伊木稔「近世大阪の知のパトロン」、林雄二郎・山岡義典、前掲書、110ページ。および、ナンシー・R・
ロンドン『日本企業のフィランソロピー』
(平山眞一訳)TBSブリタニカ、1992年
11 伊木稔、前掲稿、林雄二郎・山岡義典編著、同上書、111ページ。
12 加藤秀俊「公と私のあいだ」
、林雄二郎・加藤秀俊編著、前掲書、111ページ。
13 今田忠「日本人のフィランソロピー思想」、林雄二郎・今田忠編『フィランソロピーの思想、』日本経済評
論社、41-42ページ。
14 伊木稔、前掲稿、林雄二郎・山岡義典編著、前掲書、111-113ページ。
15 伊木稔、前掲稿、林雄二郎・山岡義典編著、同上書、114-115ページ。
16 伊木稔、前掲稿、林雄二郎・山岡義典編著、同上書、115-116ページ。
17 伊木稔、前掲稿、林雄二郎・山岡義典編著、同上書、117-119ページ。
18 伊木稔、前掲稿、林雄二郎・山岡義典編著、同上書、120-121ページ。
19 伊木稔、前掲稿、林雄二郎・山岡義典編著、同上書、122-123ページ。
20 今田忠「企業フィランソロピーの現状と課題」
、林雄二郎・山岡義典編著、同上書、259-260ページ。
21 今田忠「歴史に名を残す人々」
、林雄二郎・加藤秀俊編著、前掲書、296ページ。
22 今田忠、前掲稿、林雄二郎・加藤秀俊編著、同上書、297-298ページ。
日本国内企業の社会貢献
91
23 今田忠、前掲稿、林雄二郎・加藤秀俊編著、同上書、310-315ページ。
24 今田忠、前掲稿、林雄二郎・加藤秀俊編著、同上書、299-303ページ。
25 雨宮孝子「フィラソロピー税制の現状と課題」
、林雄二郎・山岡義典編著、前掲書、297ページ。
26 今田忠・高田幸詩朗「フィランソロピー関連組織」
、林雄二郎・今田忠編、前掲書、123ページ。
27 http://www.nta.go.jp/category/toukei/tokei/menu/kaisya/h13/0.6htm 2002/12/31
28 国税庁『税務統計からみた法人企業の実態 平成12年分』2001年、10ページおよび129ページ。
29 (社)経済団体連合会編『1999 社会貢献白書』
、日工フォーラム社、38-89ページ。
30 今田忠、前掲稿、林雄二郎・山岡義典編著、前掲書、272-273ページ。
31 レスター・M・サラモン『NPO最前線』
(山内直人訳・解説)
、岩波書店、2001年、44ページ。
32 松岡紀雄『企業市民の時代』日本経済新聞社、1992年、180-182ページ。
33 雨宮孝子、前掲稿、林雄二郎・山岡義典編著、前掲書、296-298ページ。
34 香西泰「企業社会との接点を考える」
、林雄二郎・加藤秀俊編著、前掲書、246ページ。
(2003年1月10日受理)
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