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東京三十三観音霊場巡り、中野四ツ谷青山コース 、午後2時半頃乃木坂
東京三十三観音霊場巡り、中野四ツ谷青山コース 、午後2時半頃乃木坂駅解散。 正式名称は「昭和新撰江戸三十三観音霊場札所」です、昼食は明治神宮外苑の予定、お弁当等ご持参下さい。 集合場所、東京メトロ千代田線国会議事堂前、丸の内線荻窪方面先頭ホーム8時 20 分。取手駅改札内 am7時。 取手~東京メトロ千代田線綾瀬~国会議事堂前で東京メトロ丸の内線に乗換~中野坂上で、方南町行きに乗換、 「中野富士見町」駅で下車 8 時 40 分着、参加費、五百円は、当日中野東園寺で集めさせていただきます。 第十九番、医王山 悉知院 東圓寺(いおうざん とうえんじ)、打始 東京都杉並区和田 2-18-3、真言宗豊山派、開基は祐海法印、天正元年(1573)創建、 ご本尊、聖観世音菩薩、真言 オン アロリキャ ソワカ ご詠歌、あなとうと救世の光り今の世に つきぬ利益ぞ有明の月 とてもきれいに整備された清浄感あふれる境内に好感が持てます。本堂以下、最近建て替えられたばかりで、 真新しいお寺です。そのせいか、やはり、伝統的な色合いはなくなりますが、外観は伝統的な造りを考慮したもの で、派手になっていなく、清楚な感じがいたします。 歴史的建築を守っていくのも大事ですが、やり方次第ではこういうのもあるのですね。 第十七番、如意輪山 寶福寺(にょいりんざん ほうふくじ)、中野観音、 東京都中野区南台 3-43-2、真言宗豊山派、開山は信行大僧都、創建不詳 ご本尊、如意輪観自在菩薩、真言 オン ハダマ シンタマニ ジバラ ウン ご詠歌、うつろなるこの世にありて頼みする 如意の観音至福の寺 このお寺はなんと聖徳太子の伝説が残るお寺です。聖徳太子が諸国を巡遊された時に、紫雲たなびくこの地を 霊地として堂を建立し、如意輪観像を奉安したのだそうです。 東京メトロ丸の内線始発駅「方南町」駅~中野坂上乗換「四ツ谷」下車、 厠 1/8 服部半蔵のお墓、浄土宗西念寺の墓地 文禄2年(1593)に服部半蔵正成(天文 11 年(1542)~慶長元年 11 月 4 日(1596/12/23)安養院として創建。 当初は麹町清水谷にあり、寛永 11 年(1634)の江戸城の拡張工事によって現在地へ移りました。 服部半蔵正成は、徳川家康の三河時代からの旧臣で、石見(いわみ)守正成という伊賀者のお頭でした。 天正 7 年(1579)家康の長男信康は、織田信長のために切腹を命ぜられました。後年、信康を供養するため半蔵は 仏門に入り「西念」と号し、寺名を「西念寺」と改名して建立しました。 半蔵は槍の名手としても知られ「槍の半蔵」の異名が残っています、当寺が所蔵する区登録文化財の槍は、半蔵 愛用のものでしたが、保存状態が良くない。ちなみに、服部半蔵というと忍者とおもわれますが忍者であったのは、 初代服部半蔵保長だけです。又「半蔵門」は服部屋敷の門前から発祥した地名です。 第十八番、金鵄山 真成院(きんけいざん しんじょういん)、 東京都新宿区若葉 2-7-8、高野山真言宗、開基は清心法印、慶長三年(1598)創建、 ご本尊、潮干(しおひ)十一面観世音菩薩、真言 オン マカ キャロニキャ ソワカ ご詠歌、世も人も変る浮き世に住む中に 変らぬ利益潮踏の里 潮干十一面観世音菩薩とは、観音様のお名前からも分かるように、昔はこの辺が海岸だったそうです。 太古の地名も潮干の里、潮踏の里と称したそうで、今じゃ考えられませんねー。 このお寺は、東京大空襲の際に焼失し、現代らしく総コンクリート造りのお寺に生まれ変わっています。 観音堂も屋上にあるという、何とも現代的?なお寺なのです。ガンなど難病の駆込寺として知られている。 「わかばのたいやき」は創業 28 年の老舗で、新宿通り「四ツ谷一丁目」交差点の路地奥にあり有名です。 四ツ谷須賀神社、主祭神は須佐之男命(須賀大神)、 赤坂の一ツ木村の鎮守であった稲荷神社を、寛永 11 年(1634)に江戸城外堀普請の為、現在地に移し奉ったものと 伝えられています。 寛永 20 年、大名主馬込勘由により、神田明神社内に祀ってありました日本橋伝馬町の守護神である、須佐之男命 を地元民の総発意で四谷に合祀し、御両社として祀る様になり、俗称四谷天王社と云い明治維新まで親しまれて来 ました。明治元年、須賀神社と改称。 須賀の名の由来は、須佐之男命が出雲国で八俣の大蛇を討ち平らげ拾い「吾れ此の地に来たりて心須賀、須賀し」 と宣り給ひて、宮居を占め給いし故事 に基づき名付けられた名称です。 三十六歌仙繪は、それぞれの歌人の肖像画に代表作一首を書き添えたもので、鎌 倉時代から江戸時代に隆盛を見ました。ここの絵は、画工四谷南蘋(なんびん)と 称された高芙蓉(こうふよう)の高弟、大岡雲峰(うんぽ)天保七年(1836)の作です、 在原業平、「 月やあらぬ 春や昔の春ならぬ 我が身一つは元の身にして 」 8枚中の右2番目の絵、業平 2/8 於岩稲荷田宮神社、新宿区左門町 17 ご祭神、豊受比賣大神(とようけひめのおおかみ)、田宮於岩命(たみやおいわのみこと) 四代目鶴屋南北の「東海道四谷怪談」の主人公お岩の伝承をもつ神社で、田宮の屋敷跡だそうです。 神社名の如く、四谷怪談の「於岩」の由来となっている所ですが、怪談とこの神社の縁起となっている事実とは かなり異なっているようです。神社の案内書によると、江戸時代の初期、ここ左門町に徳川家の御家人田宮又左衛 門の娘於岩と夫田宮伊右衛門とは人もうらやむ仲のいい夫婦がいました。 ところが禄高は少なく台所はいつも火の車でした。そこで於岩は家計を支えるために、とある商家に奉公に出 て生活を支えたそうです。田宮家の庭には屋敷社がありました、於岩は「家内繁栄」を願って毎日のように信仰し たそうです。おかげで、夫婦の蓄えは増え、田宮家はかつての盛んな時代に戻ることができました。 「於岩の稲荷信仰のおかげで田宮家が復活した」という話はたちまち江戸中の評判となり、近隣の人々は於岩の幸 運にあやかろうと屋敷社を於岩稲荷と呼んで信仰するようになり、田宮家でも祠を作り、一般にも参拝を許すよう になったとのことです。このようにこの神社の於岩さんは我々がよく知る四谷怪談の幽霊のかけらも出てきません、 於岩さんは寛永 13 年(1636)に亡くなり巣鴨のお寺にお墓も残っています。 二人のお岩さん お隣の陽運寺は太平洋戦争敗戦後の混乱時に建立されたお寺です。 陽運寺は現在、練馬霊園建設反対運動で練馬住民と摩擦中であり、案内を遠慮いたします。 詳しくは「練馬むねの木ガーデンと春日町住民反対運動」、http://members3.jcom.home.ne.jp/itoh58/index.html を御参照下さい。 四谷左門町の於岩稲荷田宮神社の向かい側には、お岩稲荷陽運寺がある。両者とも「お岩稲荷」と名乗っており、いわゆる本家争い を繰り広げている、現在はお互いの存在を無視しあう形で並存しているらしい。 お岩さんゆかりの地として探訪する人は多いが、この睨みあうようにして並び立つ2つの寺社には必ずと言っていいほど面食らわさ れる。なぜ?、結論から言ってしまうと、歴史的な背景を辿っていけば、田宮神社の方が本家である。元々この地は田宮家の旧宅跡で あり、屋敷は既に江戸時代に存在していたが、お寺の記録は全くない。 翻って陽運寺は、昭和の戦後にこの四谷に移転してきて創建された日蓮宗のお寺なのである。 一番肝心な点であるが、田宮神社に祀られているお岩さんは史実として田宮家に居った女性であり、それに対して陽運寺に祀られて いるお岩はまさに『東海道四谷怪談』に登場する主人公であると副住職はおっしゃり、幽霊話を歴史事実のように関連つけている。 之に対して田宮神社は、この鶴屋南北の芝居に登場するお岩はフィクションであると広言しているが史実としても明らかである。 また、田宮家は現在に至り、神主であった田宮氏は子孫であったという。当時は祠であったが参拝者の増加により神社となった。 陽運寺は積極的にこの物語のイメージを喧伝しつつ虚実を正当化しようとしている姿勢を疑わざる得ない。 田宮神社が主張する“お岩さん”は江戸時代の元和~寛永の頃に存命していた女性であり、それ以外に元禄頃にも“お岩”と名乗る 女性が存在していたことが判っている、こちらが『東海道四谷怪談』のモデルとなった可能性が高いといわれている。 しかもこの代から 100 年以上田宮の名前が過去帳に現れていない事実もある。お岩を名乗る別人物、それも全く異なる人物像を持つ 者があったために、こうした混乱が生じた可能性が高いという。 小池壮彦著書「四谷怪談祟りの正体」熟読した訳ではない。 関連する伝承地:於稲荷神社田宮神社(東京都四谷)、妙行寺(東京都)、於岩稲荷田宮神社(東京都新川)。 本性寺(須賀町)には、国学者塙保己一や老中松平定信などを養成した萩原宗固(そうこ)の墓が毘沙門堂の南にあ ります。 宗固は、江戸時代中期の国学者で歌人です。萩原家に養子に入り、幕府の先手組に所属し、与力として勤めた後、 隠居して宗固と名乗ります。烏丸光栄・武者小路実岳らに学び、のち冷泉為村の門人となり、江戸冷泉派を代表す る武家歌人と言われています。塙保己一が、晩年の加茂真淵に入門し、短い時間とはいえ真淵の学問に接すること ができたのは、萩原宗固の計らいによるものです。 塙保己一は、和学講談所を設立して多くの門人を指導し、41 年の歳月をかけて編さんした「群書類従」を刊行し た苦学の人です、近くの愛染院(若葉町)にお墓があります。 3/8 手塚治虫と四谷快談 『トキワ荘実録―手塚治虫と漫画家たちの青春』丸山昭(1950~60 年代、手塚 治虫担当の編集者として活躍した他、初期のトキワ荘に住む漫画家を発掘、育 て上げた編集者である)著によると、漫画家手塚治虫は上京してからトキワ荘 (建物は現存せず、記念碑が近隣の豊島区立花咲公園内にあります)に移るま での期間(1950 年前後) 「四谷にある八百屋さん(四ツ谷 1-3)の二階に下宿」し ていました。 漫画「手塚治虫物語」では中華料理屋の”来々軒”がバックに書かれている のですが、丸の内線四ツ谷駅前の交差点角に存在しています。手塚治虫物語は、 伴俊男+手塚プロダクションの著です。 漫画「四谷快談」は、於岩稲荷神社がでてくるのですが、ストーリーが違う ようです、それは題名から察することができます、 「四谷怪談」ではなく「四谷 快談」で、手塚治虫風パロディと思われます。四ツ谷在住時の作品です。 ストーリーは、若い美人のお岩さんが目の悪い子供のために自分の目をあげ る話になっています。 明治神宮外苑の御観兵榎(公園)で中食(ちゅうはん、昼食)、 厠 銀杏並木通り公園側 13:00 集合出発 外苑の敷地は造営前は青山練兵場でしたが、ここでは、明治天皇御台臨のもとに、明治 22 年 2 月 11 日の憲法発布観兵 式、明治 39 年 4 月 30 日の日露戦役凱旋観兵式などが行われました。その際、明治天皇の御座所は常にこの榎の大木の西 側に設けられていましたので、この木を「御観兵榎」と名付け、長く保存することとなり、現在に至ります。 神宮外苑の鳥瞰図。 トイレ↑ ↑集合場所のT字路 ↑ 御観兵榎〔昼食場所〕 明治神宮御苑の案内地図、地図右上「JR 飯田町駅」から昼食後「銀杏並木通り」を南下して青山通りへ出ます。 4/8 第廿四番、長青山 寶樹寺 梅窓院(ばいそういん)、 東京都港区南青山 2-26-38、浄土宗、開山は冠中南龍老和尚、寛永二十年(1643)創建、 ご本尊、阿弥陀仏、真言 オン アミリタ テイセイ カラウン 札所本尊、泰平観世音菩薩、ご詠歌、あこがれて天つみそらを眺むれば 心に見ゆる慈悲の面影 梅窓院は、徳川家光公の老中、青山幸成公が逝去の折に建立された、青山家の菩提寺です。 御本尊の阿弥陀仏は、聖徳太子の御作と伝えられ、山の手六阿弥陀の一つとして信奉されてきました。 札所御本尊の泰平観世音菩薩像は、三国伝来と伝えられ、 「青山の観音様」として親しまれていましたが、昭和二 十年の戦災で観音堂が焼失、その後、観音堂は昭和二十五年に再建されましたが、老朽化により平成七年に生まれ 変わった新しい観音堂に安置されています。 巡礼一筆 南青山の「超」がつく一等地にあるお寺です。昔のままであろう山門までの参道は、竹が植えられて間 接照明まである風雅な佇まいを演出していて、さすがは青山、センスが良いと思いきや、山内はここがお寺?と首 をかしげるほど超近代的建築物で、かなり度肝を抜きます。 墓地が無かったら、建築事務所のオフィスかと思うセンス良い建物に、観音様が祀ってあるのも何やら不思議と いうか、怪しいというか、将来はどこもこういうお寺になるんですかねー? 根津美術館、今回は通過しますが、是非個人的に訪れてみて下さい。03-3400-2536、入館料千円〔平常時〕 根津美術館は 2009 年 10 月 7 日、建 築家隈研吾の設計により3年の歳月 をへて新展示棟が新装開館しました。 新しいロゴデザインは、ドイツ・ペ ーター・シュミット・グループによっ て制作されたものです。 燕子花図(かきつばたず)屏風、琳派の尾形光琳筆、国重要文化財です。 庭園内の茶室、弘仁亭無事庵 東武鉄道の社長などを務めた、実業家で茶人の初代根津嘉一郎の収集品を展示するためにつくられた美術館で、 京都の藤井斉成会有鄰館、神谷町の大倉集古館、神戸の白鶴美術館、倉敷の大原美術館などと共に、第二次世界大 戦以前からの歴史をもつ、数少ない美術館のひとつです。 美術館の敷地は根津嘉一郎の私邸跡で、現在も広大な日本庭園があり、庭内には茶室が点在しています。 収集品は主に日本と東洋の古美術で、根津コレクションの特色はその質の高さとともに幅の広さにあります。 戦前の実業家の美術コレクションは茶道具主体のものが多いのですが、根津コレクションは、茶道具もさること ながら、仏教絵画、写経、水墨画、近世絵画、中国絵画、漆工、陶磁、刀剣、中国古代青銅器など、日本と東洋美 術のあらゆる分野の一級品が揃っています。 なお琳派の元祖尾形光琳の「燕子花図屏風」は毎年 4 月下旬~5 月上旬の期間限定で公開されます。 岡本太郎記念館。1996 年 84 歳で亡くなるまで芸術家岡本太郎のアトリエ兼住居でしたが、一般公開しています。 5/8 第廿二番、補陀山永平寺別院長谷寺(ほださん えいへいじべついん ちょうこくじ)、 東京都港区西麻布 2-21-34、曹洞宗、開山は門庵宗関禅師、慶長三年(1598)創建、ご本尊、釈迦牟尼佛、 観音堂本尊、十一面観世音菩薩、麻布大観音、真言 オン マカ キャロニキャ ソワカ ご詠歌、うららかや 麻布の谷の長谷寺 空吹く風も 法を説く声 日本三大長谷観音、奈良、鎌倉、西麻布の一寺です、曹洞宗の本山である大本山永平寺は、今から約 750 年前の 寛元2年(1244)道元禅師によって開創された出家参禅の道場で福井県吉田郡永平寺町にあります。こちらはその東 京別院です、同じ曹洞宗鶴見総持寺の歴史とは別格として江戸時代以降の曹洞宗江戸別院として御配慮下さい。 江戸幕府を開いた徳川家康公は、後に今川義元公の孫であり、家康公と幼な馴じみといわれる門庵宗関禅師(もん なんそうかんぜんじ)を招いて、赤穂義士で有名な泉岳寺などいくつかのお寺を江戸に開かせましたが、当寺もその 一つです。僧堂、曹洞宗禅寺ならではお堂なので採りあげます。雲水が坐禅をする場で、文殊菩薩(聖僧)を囲むよう に、一人一畳ずつ与えられます。禅刹に於いて最も重要で厳粛な修行の場所で、曹洞宗寺院に多い僧堂です。 十一面観世音菩薩像、日本芸術院会員 大内青圃の作。 左手に蓮華の宝瓶を、右手には数珠をかけ錫杖を持ち、左足は半歩全身す る独特の姿で、観音と地蔵両方の徳を持つとされます。 高さ3丈3尺(約 10m)木造として国内最大級の大観音像です。 巡礼一筆 初めて訪れたのですが、麻布大観音といわれる、高さ三丈三尺(約 10m)に も及ぶ楠一木彫りの十一面観音像を目の当たりにして、都内にもこんなに大きな木彫りの 観音様があったのかと、正直びっくりいたしました。 その大きさも然ることながら、優しいお顔をしたとても良い雰囲気の観音様で、何とも 言えない 包むような大きな慈愛を具現化したような存在に圧倒され、しばし魅入ってし まいました。 元々は日本三大長谷観音と称され、大和や鎌倉の長谷観音を彫像した同じ 木片から作ったと言われる小観音を宝冠に収めた二丈六尺の大観音だったのですが、誠に 残念ながら昭和二十年の戦火で、同宇と共に焼失してしまいました。現在の観音像は、昭 和五十二年に再建されたものなのだそうで、オリジナルでは無いのが本当に残念ですが、 それでもこの観音像は本当に一見の価値あり、美しい観音様です。 もう一つの必見が、本堂前にある本来なら高麗獅子であったろう、真新しい雷神風神像 です。中々迫力ある造形で、雷神風神好きなら唸ることでしょう。 長谷寺墓地に眠る有名人、所在場所は背景等により推察してお探し下さい。墓石場所は心苦しいので控えます。 ← エノケン、榎本健一さんと ↑ 坂本九さんのお墓です。 6/8 伊沢蘭軒(いざわらんけん、安永6年 11 月 11 日(1777/12/10)~文政 12 年3月 17 日(1829/4/20))、 江戸時代末期の医師、儒学者。名は信恬、号は蘭軒、通称は辞安、堂号は酌源堂。 多くの子弟を育てたが、榛軒、柏軒(伊澤磐安、福山藩典医を辞し後に幕府に仕える。黒田藩口中典医を勤める本 家伊澤道盛に医を教え、後に一子伊澤信平を道盛の養子とした)の二子の他、蘭門五哲(清川玄道、森立之、岡西玄 亭、山田椿庭、渋江抽斎)と呼ばれる五人が特に著名である、岡西玄亭以外は幕府お目見得医師に列している。 榎本健一(1904/10/11~1970/01/07)、 日本の俳優、歌手、コメディアンである。当初は浅草を拠点としていたが、エノケンの愛称で広く全国に知られ ていました。 「日本の喜劇王」とも呼ばれ、第二次世界大戦期前後に活躍した偉大な芸人でした。 坂本九、本名は大島九(おおしま ひさし、1941/12/10~1985/08/12)、奥さんは、女優の柏木由紀子さん。 1960 年 7 月に東芝音楽出版に移籍後に有名になる。同年 8 月に第 1 弾シングルとして発売した「悲しき十六才」 が 10 万枚を売り上げ、初ヒットとなった、この曲は、日航 123 便事故の慰霊式における鎮魂曲となっています。 1961 年の「上を向いて歩こう」は日本国外でも大ヒットして、1963 年にはアメリカでもっとも権威のあるヒッ トチャート誌『ビルボード』の "Billboard Hot 100" で「すきやき」としてランクインした、同曲は日本語版のま まで、3週連続第1位を獲得し、日本人初で最後の全米と全世界のヒット曲となりました。 「上を向いて歩こう」は歌いだしが印象的な歌で、レコーディングの時にその「上を向いて……」の部分を初めて聴いて「ウエヲムー イテ」が「ウヘホムフイテ」に聞こえたという作詞者の永六輔は、 「何だ、その歌い方は!」と九に向かって激怒したというエピソード を、永六輔本人が語っています(2010/04 現在)。 彼の独特の歌い方は、母がやっていた小唄とプレスリーやバディ・ホリー(&クリケッツ)の影響であるとも言われています。永六輔 は後に、九の母の話から、九と邦楽の歌い方を結びつけて考えるようになったそうです。 「上を向いて歩こう」の海外でのヒットにより世界的に名前が知られたことで、国際的な活動も多かった。1964 年の第 18 回オリンピ ック東京大会のウェルカムパーティーにゲスト出演し、「サヨナラ東京」「君が好き」を歌い。 また、1970 年の大阪万国博覧会の若手芸能人で万国博委員に起用されています。 歌手としての活動のほかに、テレビの司会や、映画、舞台などでも活躍し。また、「あゆみの箱」運動では手話を広げる運動、福祉 関係のボランティア活動に積極的に参加していました。 1985 年 8 月 12 日、日本航空 123 便の御巣鷹山墜落に遭い、43 歳で亡くなりました。 黒田清輝(くろだせいき、慶応 2 年 6 月 29 日(1866/08/09)~大正 13 年(1924)7 月 15 日) 、 鹿児島県鹿児島市出身の洋画家である。薩摩藩士黒田清兼の子として生まれ、伯父の子爵黒田清綱(江戸時代の通 称は嘉右衛門)の養子となりました。通称は新太郎。 「せいき」はペンネームで本名は「きよてる」です。 代表作「湖畔」(1897 年作、東京文化財研究所黒田記念室にあり重要文化財)のモデルは、友人の画家安藤仲太郎 が紹介した芸者で、当時 23 歳で金子種子といいましたが、のちに清輝の妻となり照子と改名しました。 描かれた処は、箱根芦ノ湖の観光船乗り場で、箱根駅伝スタート地点のすぐ近くでした。 乃木坂、東京メトロ千代田線乃木坂駅解散 pm14:00 予定 江戸時代には幽霊坂と呼ばれていた、また「行合坂」「膝折坂」とも呼ばれていました。 乃木坂の名は大正元年(1912)9 月、乃木大将の殉死を悼み、赤坂区議会が改名を議決したことに由来する。 更にその周辺の地域も乃木坂と呼ぶようになり、昭和 47 年 10 月 20 日に開業した営団地下鉄千代田線の駅が乃 木坂駅と命名されたことにより、地域名として一般化しました。但し住居表示としては使われていません。 国立新美術館、 独立行政法人国立美術館に所属している中で唯一コレクションを持たない、黒川紀章設計の美術館で 2007 年1月 に開館しています。常設展示が無いのでイベントが無いとお休みです。 東京ミッドタウン、 ショッピングセンター、オフィスビル、ホテル、美術館、ホール、医療機関、駐車場、公園など、多様な施設か ら構成されている複合施設ビルです。最も大きな構造物であるミッドタウン・タワーは、地下 5 階、地上 54 階、高 さ 248m あり、それまでの東京都庁舎第一庁舎に代わり、東京都内で最高層のビルで 2007 年3月に開業しました。 赤坂見附から移転したサントリー美術館が東京ミッドナイトタウン・ガレリア3Fにあります。 また、隣接する港区立檜町公園と合わせると 4 ヘクタールの緑地帯を確保しており、桜並木も移設されておりま 7/8 す。近年、他の再開発プロジェクトに比べて、敷地面積内に占める緑地帯の割合が大きいのが特色です。 飲食商業エリアの他、オープンスペースでは docomo Wi-Fi やフレッツスポットといった、公衆無線 LAN が利用 できるようになっています。余談ですが、つくばTXの 2000 系は車内無線 LAN が使用可能です。 乃木神社 乃木希典命(のぎまれすけのみこと)、乃木静子命(のぎしずこのみこと)。 明治天皇崩御に殉じて自害した陸軍大将乃木希典を祭神として、大正 12 年(1923)に創建されたが、昭和 20 年に 空襲で焼け、現在の社殿は昭和 37 年の再建したものです。その乃木将軍の旧宅が乃木神社の地続きに保存されてい る。外苑東通りに面して建つ古い煉瓦積みは、明治 22 年に作られた厩舎の外壁でした。 煉瓦の門柱は乃木邸建築当時からのもので「舊(もと)乃木邸」と書かれた石柱には昭和4年建設の文字が刻まれ ている。 旧乃木邸は、乃木将軍がドイツ留学中に見たフランスの連隊本部兵舎を自らスケッチして設計したもので、半地 下地上2階建て 168 平方メートルの木造建築で。明治 12 年に購入し、明治 35 年に改築されて現在の形になった。 デザインはコテージ風だが塗装は暗く、一切の装飾を廃した造りは軍人らしい質実剛健なものである。 建物は傾斜地に建てられていて、半地下の部分は頑丈な石造りになっている。 関東大震災後に作られた見学用のコンクリート製テラスからガラス越しに邸宅の内部が見学できるようになって います。内部は当時のまま保存され、将軍夫妻が自害した部屋には遺書もそのまま残されているが、内部の見学は 命日の 9 月 13 日と前日の 12 日のみに許可されています。 建物の裏側、右写真参照。 一番左の部屋が、乃木夫妻が自害を遂げた部屋。 二階は 24 歳と 26 歳でともに戦死した二人のご子息の部屋。 竣工:1902 年(明治 35 年) 所在地:東京都港区赤坂 8-11-32 設計:北沢虎造 構造:木造 2 階建て、石造地下 1 階 所有:港区、港区指定有形文化財 千代田線乃木坂駅周辺図、 サントリー美術館 ※ ミッドナイトタウン のガレリア3階に美術 館はあります。 定休日:火曜日 入場料はイベント内容 により異なります。 次回は結願コースを歩 きます、 am8:30 JR 山手線浜松 町駅北口集合、解散は JR 目黒駅 pm2:30 頃の 予定です。 企画 熊倉 2012/10/08 記 8/8