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授業配布資料
哲学・思想の基礎配布資料 2
2 正義を考える
そ の 2 : リ ベ ラ リ ズ ム の 立 場 ( 2 ) ―義 務 論 的 リベラリズム
功 利 主 義 の 思 想 で は 、関 係 者 の 幸 福 を 最 大 化 す る こ と に よ っ て 、個 人 が 犠 牲 に さ れ た り 、
人間が物として扱われることが起こる。しかし倫理学はそもそもひとりひとりの人間の権
利や自由や尊厳に注意を払うべきではないのか。これを論じるのが、カントの義務論的リ
ベ ラ リ ズ ム で あ る 。マ イ ケ ル・サ ン デ ル に よ れ ば 、カ ン ト に と っ て 、人 間 の 尊 厳 を 尊 重 す る
の は 、人 格 そ の も の を 究 極 目 的 と し て 扱 う こ と で あ る 。だ か ら こ そ 功 利 主 義 の よ う に 、全 体
の福祉のために人間を利用することは誤りなのである。路面電車を止めるために太った男
を線路に突き落とすのは、彼を手段として利用することであり、彼を究極の目的として尊
重 し て い る と は 言 え な い ( サ ン デ ル 『 こ れ か ら の 「 正 義 」 の 話 を し よ う 』 14 5 頁 参 照 ; C f. p . 11 0 )。
今日の道徳・法・政治哲学で顕著になっているリベラリズムは、その哲学的基盤の多く
の カ ン ト に 負 っ て い る 。 こ の リ ベ ラ リ ズ ム は 、「 善 に 対 す る 正 し さ (the right)の 優 先 」 を 主
張 し 、功 利 主 義 的 構 想 に 対 立 し て 典 型 的 に 定 義 さ れ る 倫 理 で あ り 、
「義務論的リベラリズム」
(deontolog ical libera lism) と し て も っ と も よ く 記 述 さ れ る ( サ ン デ ル 『 リ ベ ラ リ ズ ム と 正 義 の 限 界 』
1 頁 参 照 ; C f. p . 1 )。「 義 務 論 的 リ ベ ラ リ ズ ム 」 と は 、 正 義 に 関 す る 理 論 、 と り わ け 道 徳 的 ・
政 治 的 理 想 の な か で 、 正 義 を 優 位 と す る 理 論 で あ る 。 各 人 が 自 分 自 身 の 目 標 (aim) ・ 利 益 ・
善 の 構 想 を も つ 、 人 格 の 多 元 性 [複 数 性 ]か ら 成 り 立 つ 社 会 が 最 善 に 調 整 さ れ る の は 、 い か
なる特定の善の構想も前提としない原理によって支配されるときである。つまり、正しさ
(righ t) の 概 念 は 、 善 に 優 先 し 、 善 と は 独 立 に 与 え ら れ る の で あ る ( サ ン デ ル 『 リ ベ ラ リ ズ ム と
正 義 の 限 界 』 1 頁 参 照 ; p. 1 )。
「善」という言葉が用いられるとき、個々の善あるいは特定の善〔善いこと〕と普遍的
な善が区別されねばならない。通常、義務論的リベラリズムで「正義が善に優位する」と
語られる場合の善は、個々の善である。他方、普遍的な善はほぼ正義と同義に使われる。
リ ベ ラ リ ズ ム は 、今 日 の 民 主 主 義 社 会 で 特 定 の 価 値 に 基 づ く 善 を 他 人 に 押 し つ け る こ と を
拒否する。
サンデルによれば、正義の優位は、二つの仕方で理解できる。第一に、他の道徳的・政
治的利益がいかに緊迫していても、それらより、正義の要求が優る。正義は、必要に応じ
て重視され、考慮されるべき他の価値の中の、たんに一つの価値であるのではなく、すべ
て の 社 会 的 徳 目 (social virtue s) の な か で 最 高 の も の 、つ ま り 、他 の 徳 目 の 要 求 以 前 に 、満 た
さ れ ね ば な ら な い も の で あ る ( サ ン デ ル 『 リ ベ ラ リ ズ ム と 正 義 の 限 界 』 2 頁 ; p . 2 )。第 二 に 、
カントの倫理学のような十全な義務論的見解では、正義の優位は、道徳的優先だけではな
く 、 正 当 化 (justifica tion) の 特 権 的 形 態 も 記 述 す る も の で あ る 。 つ ま り 、 正 し さ が 善 よ り も
優先するのは、その要求が先行するからだけではなく、その原理が独立して導き出される
からでもある。正義の原理は、いかなる特定の善のヴィジョンにも依存しないように、正
当 化 さ れ る ( サ ン デ ル 『 リ ベ ラ リ ズ ム と 正 義 の 限 界 』 2 -3 頁 参 照 ; p . 2 . )。
2.1 正 しさの善 に対 する優 位 ―実 践 理 性 批 判 における方 法 の逆 説 ―
正しさが善に優位するという思想は、カント自身の言い方では「実践理性批判における
方法の逆説」として論じられている。サンデルがカントの義務論的リベラリズムの典拠と
しているのもこの箇所である。カントは『実践理性批判』で「実践理性批判における方法
の逆説」を次のように述べている。善の概念および悪の概念は、道徳法則に先立つのでは
な く て (善 お よ び 悪 の 概 念 の ほ う が 道 徳 法 則 の 根 底 に 置 か れ ね ば な ら な い と 思 わ れ る か も
し れ な い が )、道 徳 法 則 の あ と に あ り 、こ の 法 則 に よ っ て 規 定 さ れ な け れ ば な ら な い ( カ ン ト 、
-1-
波 多 野 ・ 宮 本 ・ 篠 田 訳 『 実 践 理 性 批 判 』 岩 波 文 庫 、 1 9 79 年 、 1 36 頁 ; S . 74 )。 カ ン ト が こ の よ う に 考
えるのは、通常考えられているような善の概念や悪の概念は、アプリオリな実践的法則を
基 準 と す る も の で は な い か ら 、善 ・悪 を 決 定 す る 試 金 石 は 、対 象 が わ れ わ れ の 快・不 快 の 感
情 と 一 致 す る こ と に な っ て し ま う か ら で あ る ( カ ン ト 『 実 践 理 性 批 判 』 1 36 頁 参 照 ; V gl . S. 7 4 )。
カントによれば、道徳法則に従って行為することが正しいことである。その場合、功利
主義が主張するような快をもたらすものが善と考えられると、人間は快によって規定され
てしまう。
カントは、実践理性の対象として、善と悪を考えている。このとき善は欲求能力の必然
的 対 象 を 意 味 し 、悪 は 嫌 忌( け ん き )能 力 の 必 然 的 対 象 を 意 味 す る 。し か し 、重 要 な こ と は 、
善 と 悪 と が い ず れ も 理 性 の 原 理 に 従 っ て い る こ と で あ る (カ ン ト 『 実 践 理 性 批 判 』 127 頁 参 照 ;
V gl . S . 6 8 - 6 9 )。 も し 善 の 概 念 が 、 そ れ に 先 立 つ 実 践 的 法 則 か ら 導 き 出 さ れ る の で は な く 、 か
えってこの概念が実践的法則の根拠に役立つべきだとするならば、善の概念は何か或るも
のの存在が快を約束するから、このものを生じせしめるように主観の原因性を、したがっ
てまた主観の欲求能力を規定するようなものの概念にすぎないことになる。しかし、どの
ような表象が快を伴い、またどのような表象が不快を伴うかということをアプリオリに洞
察することは不可能であるから、何が端的に善であり何が端的に悪であるかを決定するた
め に は 、 ま っ た く 経 験 に 頼 る ほ か な く な る ( カ ン ト 『 実 践 理 性 批 判 』 12 7 頁 ; S . 6 9 )。
何が善であるか、悪であるかをわれわれは理性に従って決定しなければならない。カン
トはこの世界において無制限に善と見なされうるものは「善意志」だけであると述べる。
「われわれの住む世界においてはもとより、およそこの世界のそとでも、無制限に善と見
な さ れ う る も の は 、善 意 志 の ほ か に は ま っ た く 考 え る こ と が で き な い 」( カ ン ト 『 道 徳 形 而 上
学 原 論 』 2 2 頁 )。 理 性 は 、 実 践 的 能 力 、 つ ま り 意 志 に 影 響 を 及 ぼ す 能 力 と し て わ れ わ れ に 与
えられている。理性の使命は、カントによれば、それ自体善であるような意志を生ぜしめ
る こ と で あ る ( カ ン ト 『 道 徳 形 而 上 学 原 論 』 2 8 - 2 9 頁 参 照 )。 し か し 、 善 意 志 は 健 全 な 自 然 的 悟 性
〔 常 識 〕 に す で に 備 わ っ て い る ( カ ン ト 『 道 徳 形 而 上 学 原 論 』 3 0 頁 )。
カントにとって、このような善意志から行う行為が正しい行為ということになる。この
こ と を カ ン ト は 、義 務 に 基 づ い た 行 為 と 呼 ぶ 。
「 お よ そ 傾 向 性 に か か わ り な く 、ひ た す ら 義
務に基づいて行動するならば、そのときにこそ彼の行為は、正真正銘の道徳的価値をもつ
こ と に な る ( カ ン ト 『 道 徳 形 而 上 学 原 論 』 3 3 頁 参 照 )。
カ ン ト は 功 利 主 義 の よ う に 幸 福 の 最 大 化 を 行 為 の 基 準 と は 考 え な い 。幸 い〔 幸 福 〕(Wohl)
あ る い は 禍 い 〔 禍 悪 〕 (Übel) は 、 つ ね に 快 適 (Anneh mlichkeit) あ る い は 不 快 適
(Unannehmlichke it) 、 快 楽 〔 満 足 〕 (Vergnüg en)あ る い は 苦 痛 と い う 、 わ れ わ れ の 状 態 に 対 す
る関係を意味するにすぎない。だからもしわれわれが、幸いあるいは禍いを基準として或
る対象を欲求しあるいは嫌忌するというのであれば、その客観が、われわれの感性と、そ
れ が 引 き お こ す 快 ・不 快 の 感 情 と に 関 係 せ し め ら れ る 限 り に お い て の み 、わ れ わ れ は 欲 求 し
も し く は 嫌 忌 す る こ と に な る ( カ ン ト 『 実 践 理 性 批 判 』 1 31 頁 ; S .7 1 )。
これに反して、善もしくは悪は、意志が理性の法則によって規定されて、何か或るもの
を意志の客観とする限りにおいて、この意志に対する関係を意味することになる。それだ
から意志は、
〔 意 志 の 〕対 象 や そ の 対 象 の 表 象 に よ っ て 直 接 に 規 定 さ れ る の で は な く て 、理
性 の 規 則 を 自 分 の 行 為 (こ れ に よ っ て 〔 意 志 の 〕 対 象 が 実 現 さ れ る )の 動 因 と す る よ う な 能
力 で あ る 。そ れ だ か ら 、善 も し く は 悪 は 、も と も と 人 格 に よ る 行 為 に 関 係 す る の で あ っ て 、
人 格 に お け る 感 覚 的 状 態 に 関 係 す る の で は な い ( カ ン ト 『 実 践 理 性 批 判 』 1 3 1 頁 ; S . 7 1 )。
2.2 理 性 、 意 志 、 命 法 、 格 率
-2-
カントによれば、理性的存在者は道徳法則という法則の観念に従って、換言すれば、原
理 に 従 っ て 行 為 す る 能 力 、す な わ ち 意 志 を 有 す る 。と こ ろ で 行 為 を 法 則 か ら 導 出 す る に は 、
理 性 を 必 要 と す る 。 こ の 意 志 は 実 践 理 性 と 呼 ば れ る ( カ ン ト 『 道 徳 形 而 上 学 原 論 』 6 5 頁 ; S . 3 2 )。
意志は、行為するために或る種の法則の観念に従って自分自身を規定するような能力と解
さ れ る ( カ ン ト 『 道 徳 形 而 上 学 原 論 』 9 9 - 1 00 頁 ; S . 5 0 )。 理 性 と 意 志 と の 関 係 で 、 カ ン ト は ま ず 意
志がそのまま理性であるような「理性的存在者」のことを考える。しかし、理性は、本来
は 意 志 を 規 定 す る 能 力 で あ る 。 そ こ で 、 も し 理 性 が 意 志 を 絶 対 確 実 に (unausbleiblich) 規 定
すれば、こういう場合の存在者の行為は客観的に必然的なものとして認識されるだけでな
く、主観的にも必然的として認識される。しかし、人間においてのように、理性がそれだ
けで意志を十分に規定することがないとすると、意志は必ずしも客観的条件と一致しない
よ う な 主 観 的 条 件 (或 る 種 の 動 機 )に 従 属 し て い る こ と に な る 。 す な わ ち 、 意 志 が そ れ 自 体
と し て 理 性 と 完 全 に は 一 致 し な い (人 間 に あ っ て 実 際 そ う で あ る )な ら ば 、 客 観 的 に は 必 然
的と認められる行為も、主観的には偶然的であり、またかかる意志を客観的法則に従って
規 定 す れ ば 、そ れ は こ の 意 志 に 対 し て 強 制 (Nötigung)と な る ( カ ン ト 『 道 徳 形 而 上 学 原 論 』 6 5 頁
参 照 ; V gl . S . 3 2 - 3 3 )。
あ る 客 観 的 な 原 理 の 観 念 が 、 あ る 意 志 を 強 制 す る 場 合 に は 、 そ れ は (理 性 の )命 令 (Gebot)
と 呼 ば れ る 。 こ の 命 令 を 表 現 す る 方 式 は 「 命 法 」 (Imperativ) と 呼 ば れ る 。 す べ て の 命 法 は
「 べ し 」(Sollen )と い う 語 に よ っ て 表 現 さ れ 、こ の 語 に よ っ て 、理 性 の 客 観 的 法 則 と 或 る 種
の意志、換言すれば、その主観的性質のために、かかる客観的法則によって必ずしも必然
的 に 規 定 さ れ な い よ う な 意 志 と の 関 係 (強 制 )が 表 示 さ れ る 。 命 法 は 或 る こ と を す る (tun) の
は 善 で あ る 、も し く は 、し な い (unterlassen) の が 善 で あ る と 言 明 す る ( カ ン ト『 道 徳 形 而 上 学 原
論 』6 5 - 6 6 頁 ; S . 33 )。完 全 に 善 で あ る よ う な 意 志 も 、や は り 客 観 的 法 則 (善 の )に 従 い は す る が 、
しかしこの場合には、法則に従って生じた行為を、強制された行為とみなすわけにはいか
ない。このような意志は、完全に善であるというその主観的性質にかんがみて、おのずか
ら善の観念によってのみ規定されうるからである。したがって、神の意志やまた一般に聖
な る 意 志 に は 、 い か な る 命 法 も 通 用 し な い 。 こ こ で は 「 べ し 」 は 場 違 い で あ る (カ ン ト 『 道
徳 形 而 上 学 原 論 』 6 8 頁 ; S . 3 4 )。
さ て 、命 法 は 、
「 仮 言 的 に 」(h ypothetisch) 命 令 す る か 、そ れ と も「 定 言 的 に 」(kategorisch)
命令するか、二つのうちのいずれかである。仮言的命法は、われわれが行為そのものとは
別 に 欲 し て い る 何 か 或 る も の (あ る い は そ れ を 欲 す る こ と が 、 と に か く 可 能 な 何 か 或 る も
の )を 得 る た め の 手 段 と し て の 可 能 的 行 為 を 実 践 的 に 必 然 的 で あ る と し て 提 示 す る 。そ れ に
対 し て 定 言 的 命 法 は 、行 為 を 何 か ほ か の 目 的 に 関 係 さ せ ず に 、そ れ 自 体 だ け で 客 観 的 -必 然
的 で あ る と し て 提 示 す る 命 法 で あ る ( カ ン ト 『 道 徳 形 而 上 学 原 論 』 6 9 頁 参 照 ; V gl . S . 3 4 )。
「嘘をつ
くべきではない」ということをカントは仮言的命法と定言的命法に関して次のように述べ
て い る 。仮 言 的 命 法 は 、た と え ば 、
「 も し 私 が 対 面 を 保 と う 欲 す る な ら ば 、嘘 を つ く べ き で
はない」と命じる。これに反して定言的命法は「たとえ私がそのためにいささかの不名誉
を も 招 く こ と が な い に せ よ 、 私 は 嘘 を つ く べ き で は な い 」 と 命 じ る (カ ン ト 『 道 徳 形 而 上 学 原
論 』 13 0 頁 ; S . 6 6 )。
道徳法則は定言命法という形で表される。その場合、カントは定言命法を定式化するに
当 た っ て 、 法 則 と 格 率 (Maxime )を 区 別 す る 。 格 率 は 行 為 を 規 定 す る 主 観 的 原 理 で あ り 、 客
観的原理すなわち実践的法則から区別されねばならない。格率は、理性が行為的主観の側
のさまざまな条件に応じて規定する実践的規則を含んでいる。格率は、主観がそれに従っ
て行為するところの原則にほかならない。これに反して法則は、すべての理性的存在者に
例外なく妥当する客観的原理であり、また主観が行為に際して則るべき原則すなわち命法
-3-
で あ る ( カ ン ト 『 道 徳 形 而 上 学 原 論 』 8 5 頁 ; S . 4 2 , An m. )。
そこでカントは定言命法を次のように定式化する。
「君は、
〔君が行為に際して従うべき〕
君の格率が普遍的法則となることを、当の格率によって〔その格率と〕同時に欲しうるよ
う な 格 率 に 従 っ て の み 行 為 せ よ 」( カ ン ト 『 道 徳 形 而 上 学 原 論 』 8 5 頁 ; S . 4 2 )。カ ン ト は 定 言 命 法
を幾つかの形で定式化しているが、その中で定言命法を義務の普遍的命法と呼んで次のよ
うに定式化している。
「 君 の 行 為 の 格 率 が 意 志 に よ っ て 、あ た か も 普 遍 的 自 然 法 則 と〔 自 然
法 則 に 本 来 の 普 遍 性 を も つ も の と 〕 な る か の よ う に 行 為 せ よ 」 (カ ン ト 『 道 徳 形 而 上 学 原 論 』
8 6 頁 ; S .4 3 )。
2.3 人 格 、人 間 性 、自 律 の原 理
カントは、人間は目的自体として扱われねばならない、と言う。人間ばかりでなく、お
よ そ い か な る 理 性 的 存 在 者 も 、「 目 的 自 体 」 (Zweck an sich selb st) と し て 存 在 す る 。 す な わ
ち、あれこれの意志が任意に使用できるような単なる手段としてではなく、自分自身なら
びに他の理性的存在者たちに対してなされる行為において、いついかなる場合にも同時に
目 的 と 見 な さ れ ね ば な ら な い ( カ ン ト 『 道 徳 形 而 上 学 原 論 』 1 01 頁 ; S. 5 0 )。
存在するもののなかには、その現実的存在がわれわれの意志に依存するのではなくて、
自然に依存しているものがある。そして、このような仕方で存在するものが理性をもたな
い場合には、それは手段としての相対的価値をもつだけであり、それをカントは「物件」
(Sache) と 呼 ぶ 。 こ れ に 反 し て 理 性 的 存 在 者 は 「 人 格 」 (P erson) と 呼 ば れ る 。 理 性 的 存 在 者
は、この存在者をすでに目的自体として、換言すれば、単に手段として使用することを許
さないような或るものとして際立たせ、したがってまたその限りにおいていっさいの選択
意 志 (Willkü r) を 制 限 す る (そ し て ま た 尊 敬 の 対 象 と な る )か ら で あ る ( カ ン ト 『 道 徳 形 而 上 学 原
論 』 10 1 - 1 02 頁 参 照 ; V gl . S . 5 1 )。
カ ン ト は 人 間 を 、 自 分 に 道 徳 法 則 (定 言 命 法 と 呼 ば れ る )を 課 す 、 す な わ ち 自 分 に 課 さ れ
た 道 徳 法 則 に 従 う 者 と 考 え る 。人 格 や 人 間 性 に 関 し て 定 言 命 法 は 次 の よ う に 表 さ れ る 。
「君
自 身 の 人 格 な ら び に 他 の す べ て の 人 格 に 例 外 な く 存 す る と こ ろ の 人 間 性 (Menschheit)を 、い
つでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として使用しては
な ら な い 」 ( カ ン ト 『 道 徳 形 而 上 学 原 論 』 1 0 3 頁 ; S . 5 2 )。
カントによれば、意志は自分自身に普遍的法則を与える。意志は、ただ訳もなく法則に
服従するのではなく、自分自身に法則を与える立法者と見なされねばならない仕方で服従
す る の で あ る ( カ ン ト 『 道 徳 形 而 上 学 原 論 』 1 08 頁 ; S . 54 )。 カ ン ト は 自 分 に 道 徳 法 則 を 課 す る こ
とできるところに人間の自由を見ている。そしてそのような人間のあり方を「自律」
(Autonomie)と 呼 ん で い る 。理 性 的 存 在 者 は 、お よ そ い っ さ い の 自 然 法 則 に 制 約 さ れ る こ と
なくそれ自体まったく自由であり、ただ彼が自分自身に与えるところの普遍的法則だけに
服従する。自律は、人間の本性およびすべての理性的存在者の本性の尊厳の根拠をなすも
の で あ る ( カ ン ト 『 道 徳 形 而 上 学 原 論 』 118 - 11 9 頁 参 照 ; V gl . S . 5 9 - 6 0 )。
2.4 義 務 論 的 リ ベ ラ リ ズ ム の 問 題 点
カントによれば、人間はいかなる場合でも命法という形の普遍的な道徳法則に従わねば
な ら な い 。し か し 、こ れ は 場 合 に よ っ て は 、深 刻 な 問 題 を 引 き お こ す 。す で に 出 て き た「 嘘
をついてはいけない」ということを、サンデルが挙げている例に則して考えてみよう。
友人があなたの家に隠れていて、殺人者が彼を探しに戸口にやってきたら、殺人者に嘘
をつくのは正しいことではないのか。カントの答えはノーである。真実を告げる義務は、
ど ん な 状 況 で も 適 用 さ れ る 。し か し 、い つ い か な る 場 合 で あ ろ う と 、
「嘘をついてはいけな
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い」という立ちで道徳法則に従うことは、極限状況では過酷なことになる。ナチスの突撃
隊員に、屋根裏にアンネ・フランクとその家族が隠れていることを告げることができるで
あ ろ う か ( サ ン デ ル 『 こ れ か ら の 「 正 義 」 の 話 を し よ う 』 1 7 2 - 1 73 頁 参 照 ; C f. p . 1 3 2 - 1 3 3 )。
この難問に対するサンデルの解決策を見てみよう。サンデルはカントの言い方を擁護し
よ う と す る 。し か し 、サ ン デ ル の 弁 明 は カ ン ト の 哲 学 の 精 神 に 即 し た も の で あ る と さ れ る 。
あなたが友人を自宅のクローゼットにかくまっていて、殺人者が戸口にいるという窮地に
陥っているとする。このとき、もちろん殺人者の邪悪な企みに手を貸したくはない。殺人
者が友人を見つける手掛かになることは何一つ言いたくはない。ではどうするか。サンデ
ル に よ れ ば 選 択 肢 は 二 つ あ る 。一 つ は 真 っ 赤 な 嘘 を つ く こ と で あ る 。も う 一 つ の 選 択 肢 は 、
真 実 で は あ る が 誤 解 を 招 く 表 現 (a true bu t misleading statemen t) を 使 う こ と で あ る 。 た と え
ば 、「 一 時 間 前 、 こ こ か ら ち ょ っ と 行 っ た と こ ろ に あ る ス ー パ ー で 見 か け ま し た 」。 カ ン ト
の 考 え で は 、後 者 の 戦 略 は 道 徳 的 に 許 さ れ る が 、前 者 の 戦 略 は 許 さ れ な い ( サ ン デ ル『 こ れ か
ら の 「 正 義 」 の 話 を し よ う 』 17 3 頁 参 照 ; C f. p . 1 3 3 )。
カ ン ト も こ の 戦 略 を 使 っ て い た 、と サ ン デ ル は 指 摘 し て い る 。そ れ は カ ン ト が『 宗 教 論 』
を出版しようとして、検閲にかかり出版を差し止められた経緯に関わる事柄である。カン
トは、プロイセン国王フリードリッヒ・ヴィルヘルム二世を相手に窮地に陥ったことがあ
った。国王と同国の検閲官たちは、宗教についてのカントの著作がキリスト教を中傷して
いると考え、宗教に対する発言を差し控えるよう彼に求めた。そこでカントは慎重に言葉
を 選 ん で 、次 の よ う な 声 明 を 出 し た 。
「 現 国 王 陛 下 の 忠 実 な 僕 と し て 、私 は 今 後 、宗 教 を 題
材 に し た 一 般 講 演 や 論 文 の 発 表 を い っ さ い 控 え る こ と に い た し ま す 」。こ の 声 明 を 出 し た と
き、カントは国王の命がそう長くないことが分かっていた。数年後に国王が亡くなると、
カントはもうこの約束に縛られること必要はないと考えた。約束は「現国王陛下の忠実な
僕 」と い う 立 場 で の み 、彼 を 拘 束 し て い た か ら で あ る ( サ ン デ ル 『 こ れ か ら の 「 正 義 」 の 話 を し
よ う 』 1 74 - 1 7 5 頁 参 照 ; Cf. p . 1 3 4 )。
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