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-ヘ ーゲルにおける 「矛盾概念」 の構造

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-ヘ ーゲルにおける 「矛盾概念」 の構造
ヘー〆ルにおける「矛盾概念」の構造 (中易)
へーゲルにおける﹁矛盾概念﹂の構造
は じ め に
中 易
良
弁証法論者の中にあっても宥和、妥協の性格に重点をおくもの、分裂、対立の性格に重点をおくものなどさまざま
って科学としての弁証法をつくり上げた。へーゲルに由来する弁証法は現在、肯定、否定の渦の中に立たされている。
へーゲルはそれまでの哲学が非合理なものとして却けてきた﹁矛盾﹂を存在論と論理学の中心にすえることにょ
K
である。いま、ヘーゲルにたち返って、かれの矛盾概念を検討してみることは、へーゲル弁証法のみならず、ヘー
ゲル以後に展開された諸弁証法の性格を解明することに役立つであろう。
一33,
一
小論はその第一歩として、へーゲルにおける矛盾概念を﹃大論理学﹄と﹃小論理学﹄との比較を通じて解明する
ことにかぎりたい。
テキスト
﹃大論理学﹄ラッソン版︵文中では書名を挙げず巻数と頁数のみで示す︶
﹃小論理学﹄グロックナー版全集第八巻︵文中では書名を挙げず、パラグラフ番号のみで示す︶
/
へ一ゲルにおける「矛盾概念」の構造 (中易)
へーゲルはその生涯を通じて論理学著作を七回も執筆している。そのいずれをとっても﹁本質論﹂を除けぽ、
﹁有論﹂と﹁概念論﹂の篇別、綱目、内容はほぼ共通しており、大差がない。しかし、﹁矛盾﹂の扱われる﹁本質
論﹂はかなりの異同が見受けられる。色々興味深い点があるが、今、﹁矛盾﹂に関することだけに限定すれぽ、つ
ぎの点に注目すべきである。
﹃大論理学﹄では仮象ー本質性︵同一ー区別ー矛盾︶ー根拠となっているが、他の著作では﹃大論理学﹄
以前に執筆された﹃哲学予備学﹄を含めて、 ﹃小論理学﹄第一版、第三版ともに同一ー区別ー根拠となってお
り、矛盾の表題は見当たらない。勿論、﹃大論理学﹄はへーゲルの唯一の本来的な論理学的著作であって、その内
容は詳細であり、他の著作は簡略化されている。しかし、この区分の問題は単に簡略化とはいえないものを含んで
いる。﹃哲学予備学﹄においては当面の問題に関して﹃小論理学﹄第三版と共通であるという以上に取り立てて見
るべきものはない。﹃小論理学﹄第一版も第三版︵現行版︶と余りちがいはない。現行版は第一版の内容をより正確
にするため、叙述を変えたり、注釈をつけ加えたりしたものである。︵﹁差別﹂の説明は若干異なる。︶従って、﹁矛
盾﹂に関しては﹃大論理学﹄と﹃小論理学﹄第三版とを比較検討するだけで十分であると考えられる。
へーゲルの矛盾概念を問題とする前に、へーゲル論理学の特質と、矛盾に関連した諸概念について簡単に検討し
ておくことにする。
へーゲルが論理学で扱う諸概念はすべて対立しあう二つの契機から成るという構造を有している。たとえばイ彫一ア
一は同一と区別という二契機をもつ全体であり、区別もまた区別と同一という二契機を自分のうちにもってい
テ ト ウンタびンロト
イ 一34一
る。。エ落上.那イ,嫉.剛.笥ど.層.イ箏.どいう二契機からなり、ゲ規郵。は肯定的なものと否定的なものという二契機を
もっている。これらの概念の内部構造における対立しあう二契機問の運動が原因となって、同一、区別、差別、対
立などの諸概念は相互に移行、矛盾︵目゜oo°博U︶しあっている。同一はAはAであるというような単純な自己関係
ニヒツ
ニヒツ ヘヘ であるが、これだけでは無意味で、なにも言わないのと同じである。つまり無を言っているにすぎない。このよう
に同一は自分の内に否定性をもっている。同一の否定は区別である。事実、AはAであるという時、すでに暗黙的
に主語としてのAと述語としてのAを区別した上で、同一であると主張することである。すなわち、同一はよくよ
レフレクテイロレソ
く考えてみると自分のうちに区別と同一という二つの契機をもっている。この同一の内部構造としての区別の契機
が同一に対立させられて自立的にとりだされてきた時、同一は区別へ移行するのである。
一35一
?揩チh︶対立は差別の内部構造の運動によって﹁同等と不等という二つの契機は一つの同一物における差別﹂︵HHQQ°
的なものは形式論理学でいう反対対立的なものであり、あれか、これかという形になっていない。︵H困・q。﹄U①めq。・
コントレニル
である。﹁ちがった観点﹂に同等、不等が割当てられているが故に、形式論理学でいう矛盾には該当しない。差別
はいるが、相互に無関心であって﹁ある観点﹂からは同等であるが、﹁他の観点﹂からは不等であるという外的関係
等と不等という契機は全くの無関係ではなく、外的な第三者の比較を通じて結びつけられている。結びつけられて
いる二つの契機はばらぽらにきりはなされており、全く無関係であるかのように独立している。差別の段階では同
また、これらの内部構造をなしている契機間の関係の仕方の相違に由来する。同一と区別の場合、内部構造をなして
このように内部構造をなしている二つの契機の関係が概念間の移行を行なわせるものであるが、各概念の相違は
へ一ゲルにおける「矛盾概念」の構造 (中易)
らに規定されて肯定的なもの、否定的なものという契機になる。この二つの契機は差別のように外的な第三者を介
潜O︶となったものであり、同一と差別の統一であり、従って区別の完成である。対立の契機は同等、不等よりもさ
b∂
した関係ではなく、排中的な関係で、形式論理学的にいえば矛盾対立的である。二つの契機は相互に他者があ
コントラデイクトじリツシユ
るかぎりにおいてあり、また同時に、他者がないかぎりにおいてあり、︵Hりω゜念︶相互転換をなしうる。従って、
二つの契機は排中的ではあるが、差別の場合よりも緊密な関係を保って、他者に対する関心をとりもどしている。
という点で共通基盤、内的な第三者ともいうべきものを有している。対立の命題は排中律で表わされるが、排中律
は第三者は存芒ないと言、いながら第三者を指示してい・。→ゲルに・れ甑と岨の他に囚ともいうべきAその
ものがある。これはいささか強弁的であるが、その主張する内容は、肯定的なものと否定的なものとが、双方とも
に自分の固有の他老として緊密に関係しあっている関係そのもの、Aと非Aをなり立たせる共通の場を第三者、A
そのものという言葉で表現したのであろう。勿論、対立の二契機を支える基盤はフユア・ウンスにしか存在せず、
あれか・これかのただ中にある対立には見えない。
ヘーゲル論理学の特質は以上のようにすべての概念は対立しあう契機という内部構造をもっている点である。こ
の契機は同一−区別︵絶対区別1ー差別ー対立︶という発展に応じて、はじめぼらばらで独立していたものが、
外的な第三者を介した相互に無関心な﹁反対対立﹂となり、最後に当事者には見えないが、内的な第三者という共
通基盤の上にある一対の﹁矛盾対立﹂となる。
以上でもって矛盾概念の解明に必要な検討を終わり、本論に入ることにする。
へーゲルの矛盾概念は﹃大論理学﹄では同一ー区別︵絶対区別ー差別ー対立︶ー矛盾の系列の中で述べ
二
一36一
肯定的なものと否定的なものは、Aと非Aというように表現できるが、Aと非Bではなく、まさにAと非Aである
へ一ゲルにおける「矛盾概念」の構造 (中易)
ヘーゲルにおける「矛盾概念」の構造 (中易)
られる。しかし、叙述は晦渋をきわめ、矛盾の契機として挙げられているのは対立の場合と同じく、肯定的なもの
と否定的なものであって、この面からは対立と矛盾の相違はつけにくい。へーゲルにとっては、事物の核心を単純
な命題の形にして述べることはすでに悟性的形式的論理︵同一律・矛盾律︶に縛られ、一面性に陥ることになるか
ら避けたのであろうと推測されるが、 ﹁矛盾とは⋮⋮である﹂というような定義めいた規定は一度もあらわれてこ
ない。﹁⋮⋮なのは矛盾である﹂というような個別的な実例の列挙が二・三あらわれるだけである。その上、﹃小論
ヒストリ 理学﹄では形式論理学でいう﹁矛盾対立﹂がそのまま矛盾概念であり、対立の中の一部、乃至は対立とほぼ同義に
使用されている点で、このヘーゲル哲学の核心的概念として重要な矛盾は近づけば近づくほどぼやけて曖昧となる。
﹃大論理学﹄で言われていることを整理すれぽ、同一と区別とが統一づけられた事態が矛盾である。対立の場合に
は即自的であった内的第三者が自覚的になった時、全体との連関の中に﹁矛盾対立﹂している契機が置かれた時、
フユアコジンヒ
矛盾という事態が明らかとなる。つまり、対立から矛盾への移行は存在論的には同じ事態に対する見方の移行、認
識の質的変化を表現している。﹁一般に分離に固執する抽象的悟性、分離的悟性﹂︵HQo°博①︶で把えた時、対立であり、
理性で把えた時、矛盾である。理性の本質は﹁悟性諸規定が自分自身と必然的に矛盾するのだという洞察﹂︵一げこ︶
も ヘ ヘ へ も ヘ ヘ へ
にある。悟性は規定し、分離し、対立させる。理性の働きはこの分離をもさらに包括して、関係づけを行なう。こ
の関係づけにおいて規定間の矛盾があらわれる。︵実は理性によって矛盾が把えられるということは矛盾が解消し
ヘ へ
ていることでもある。︶つまり対立と同じ事態が、顕在的となった否定的統一の場にひきだされた時︵これはもと
もとあった︶、それはあらわになった矛盾である。同一ー区別i矛盾は、矛盾が同一と区別の、言い換えれぽ、
同一と対立の真理であることを示している。すなわち、﹁対立の中にあらわれてくる矛盾は同一の中に含まれてい
る無の展開されたもの﹂︵︻同゜QD°いcQ︶であり、﹁区別一般も即自的には矛盾﹂︵一一゜ω゜お︶であり、対立は﹁定立され
37
た矛盾﹂︵口。ω゜Uo。︶である。矛盾はそれが潜在的であるか、顕在的であるかにかかわらず、真理として同一−区
別ー矛盾の全過程を貫いて存在する。そこで﹁思惟する理性は、差別されたものという鈍感な区別、すなわち表
象の単なる多様性を、本質的な区別、すなわち対立にまで尖鋭化する。こうしてようやく多様なものは矛盾の尖端
にまで駆り立てられ﹂る。︵HりQo°9︶対立の激化したものが矛盾なのではない。矛盾は実在においても、思准にお
いても遍在し、決して偶然性、異常性、一過的な痙 攣︵目゜ω゜切oO︶ではなく、真理として即自的に存在する。こ
パラロキスムス
の矛盾の激化したものが対立なのである。﹁対立は矛盾である﹂と命題化できるが、﹁矛盾は対立である﹂とは言え
ない。
一38一
矛盾という概念でへーゲルが念頭に置いているものは、運動ー﹁同一の今の瞬間においてここにあるとともに、
ここにないことであり、またこのここにおいてあるとともに同時にない﹂︵剛同゜ω・UO︶ーや自己運動︵衝動、欲求︶
のごときアリストテレス的な矛盾律を犯したものをはじめ、反対対立のごとき差別、さらには﹁上と下﹂ ﹁右と左﹂
﹁父と子﹂のごとき相対関係である。﹁表象はつねに矛盾をその内容としてもっているが、この矛盾についての意識
レラテイフ
はなく﹂︵一一・ω・OO︶矛盾を怖れ、却けるが、﹁即自的にはすべての事物は矛盾している﹂︵一目・の・いc。︶というのが真
相である。矛盾を本質的で内在的規定であゐと認めないのは﹁在来の論理学と通常の表象の根本的偏見﹂︵葦島︶で
ある。矛盾は﹁あらゆる運動と生命性の根であり、或るものが自分自身の内に矛盾をもつかぎり、それは運動し、
衝動と活動をもつ。﹂︵ま乙︶
同一、差別、対立はへーゲルにおいては構造性をもっていた。矛盾はそれらの真理としてさらに重層的な構造を
に・の自立的とい急強鴛において、・の他老を自分の内に含んでいる・なぜなら・﹂.勢規定である以上・
もっている。肯定的なものと否定的なものという二つの契機は各々他者を自分からしめ出して自立的であり、まさ
ヘーゲルにおける「矛盾概念」の構造 (中易)
自立的であるということは自己固有の他者を含まねぽならないからである。ところで他老を含むということは自立
性の自己否定でもある。従って、それぞれの契機自身も単一なものではなく、自分の内に自分の否定をもつという
構造を備えている。肯定的なものは、自分の内に自分の他者、否定的なものを含み、それ自身﹁絶対的な矛盾﹂で
ある。同様に否定的なものもそれ自身の内に自分の否定者としての肯定的なものを含む絶対的矛盾である。このよ
うに自分の内に否定を備えた二つの契機が、それはそれで対立しあっている。対立しあっているばかりでなく、こ
れら二つの契機はそれぞれが自分の構造の内にもっている自己否定性によって相互転換もし、全体は一つのものと
しての統一を保っている。矛盾はその契機自身も内部構造を備えているという重層的構造をもっており、その点で
一39一
対立とは異なる。矛盾は同一と区別︵対立︶との統一として、同一と区別のごとき内部構造をもつものを契機とし
てもつが故に重層的構造をもつものである。対立は一般に二つのものの対立を表わしているが、矛盾は対立しあっ
ている非両立的な二つのものが共通基盤の中で統一されて、自己内における、すなわち一つのものにおける対立、
自己否定性を示す概念である。
ントは力学的二律背反において、定立と反定立をそれぞれ地上の世界と叡知界に割当てることによって解決をはか
ツ・イデオロギー﹄ディーツ版全集3巻o。曾ミ。。︶カントの二律背反はドイツのこのような事態の哲学的反映である。カ
市とが対応していた。政治的集中は、そのための経済的条件が一切欠けている国では生じえない。﹂︵マルクス﹃ドイ
イツ的自由﹂の状態であった。ドイツ市民の﹁利害の分裂には政治的組織の分裂、小さな諸侯国と帝国直轄の自由都
主権を認められ、フランス、イギリスのごとき統一された単一の国民国家を形成しておらず、いわゆる無政府的な﹁ド
当時のドイツは﹁もはや国家ではない﹂︵へーゲル﹃ドイッ憲法論﹄︶という状況で、ドイツの諸都市と諸侯は完全な
へーゲルのこのような矛盾概念は恐らく当時のドイッ的現実に対するかれの関心と深く関連していると考えらる。
ヘーゲルにおける「矛盾概念」の構造 (中易)
った。マルクスは﹁前世紀︵十八世紀︶末のドイツの状態はカントの﹃実践理性批判﹄のうちに完全に反映されて
いる。﹂︵p°pO°ω.ミO︶﹁善意志の実現、この意志と諸個人の欲求や衝動とのあいだの調和は彼岸へ移された。カ
ントのこの善意志はドイツ市民たちの無力、沈滞、悲惨さに完全に対応する﹂︵ppOgoQ°一謡︶と述べている。現
実的感覚の豊かなへ!ゲルの最大関心事はこのようなドイツの分裂的現実、﹁実質的には独立単位の無政府的諸集
団﹂︵セーパイン﹃政治論史﹄℃しも。一︶を統一することであった。へーゲルは二律背反を指摘したカントを高く評価し
つつ批判を加、兄、二律背反11矛盾の真の意味は﹁あらゆる現実的なものは対立した規定を自分の内に含み、かくし
て対象を認識するということ、対象を概念によって把握するということは、対象を対立した規定の具体的統一として
ッすること﹂︵N器gNNニヨ竃。。︶であると述べ、彼岸に逃れることなく、矛盾そのものの中における現実的解決を
考、兄た。ドイツの対立しあっている分裂的現実をへーゲルは当否は別として、民族11民族精神、乃至は宗教という場
において統一しようとした。あらゆる現実生活における対立は、このように目には見えないが万人を結ぶきずなで
らのへーゲルの確信であった。民族とか宗教という否定的統一を構想することによってそれまで解け難かった二律
背反的なドイツの分裂は揚棄される。﹁弁証法と国民国家理論は分ち難く結ぼれている﹂︵セーパイン前掲書や紹令︶
のである。ドイツにおいて、民族や宗教という統一基盤を無視すれば、対立は全く外的な、対立でもないような対
立、よそよそしいものになってしまう。否定的統一を考慮してのみ、対立は自己内対立H矛盾となる。矛盾は対立
であり統一であるものである。このようなへーゲルの現実認識を論理化する時、かれ独自の矛盾概念が成立するの
である。 °
40_
立日心
ある民族乃至は宗教という場を設定することによって解消され、ドイツの統一が可能となるというのが青年時代か
ヘーゲルにおける「矛盾概念」の構造 (中易)
﹃小論理学﹄では矛盾という特別な項目はなく、対立の中で触れられているにすぎない。ここでは対立は排中律
によって説明され、形式論理学でいうところの﹁矛盾対立﹂の事態がもちだされ、この﹁矛盾対立﹂の概念が矛盾
概念におきかえられてゆく。すなわち対立11矛盾といえる。強いて矛盾と対立の相違を求めるならぽ、﹁矛盾概念
のもつ対立の空虚﹂︵⑳一一㊤︶や﹁矛盾として定立された対立のさしあたっての成果は根拠である﹂︵N器讐N博No8㈱
=㊤︶という文章から判断すると、対立の概念が基本的であって、矛盾は対立の尖鋭化したものといえる。﹃小論理
学﹄では同一ー区別︵差別−対立︶1根拠となり、矛盾は特殊的である。対立と矛盾はほぼ同義であり、狭
義においては矛盾は対立の尖端であると考えられる。﹁矛盾は対立である﹂が﹁対立は矛盾である﹂のではない。
﹁矛盾は考えられないと言うことは嘲うべきこと﹂︵N基舞N悼謡ヨ㈱=㊤︶ではあるが、﹃小論理学﹄では矛盾の普
遍性の思想はみられず、矛盾は同一と区別の真理でなく、対立の同一でもない。
解消としての根拠をめぐってである。﹃大論理学﹄においては、矛盾は普遍的なものであって、同一と区別とを統一
にもたらした時、顕在化する。この統一、乃至は同一という否定的媒介がなければ二つのものは矛盾ではなく、単
に無関係な併立であるにすぎない。二つのものでないかぎりにおいての二つのものの関係である矛盾の根抵には以
上のような否定的統一が存在する。この否定的統一はそれ自身矛盾の構造性に由来するものである。このフユア・
ウソスな否定的統一が前面におしだされること、言いかえるならば、矛盾の内部構造にあった自己否定性が働くこ
とは矛盾が統一の中へ自己解消することである。この矛盾の解消は矛盾の構造性の故に必然的である。矛盾の解消、
41一
三
矛盾と対立をめぐる﹃大論理学﹄と﹃小論理学﹄との相違に連関してもう一つの相違がでてくる。それは矛盾の
ヘーゲルにおける「矛盾概念」の構造 (中易)
ツ グルソドアゲ エソ
没 落は根拠へ帰ることである。仮象と本質は二つのものではなく一つのものである。単にみせかけだけの有論
的な存在とその本質との対立は、一つのものにおける矛盾である。この矛盾は一方が根拠づけられるもの、他方は
根拠づけるものという形で解消される。これが根拠なのである。﹃大論理学﹄においては仮象ー本質性︵同一i
区別ー矛盾︶1根拠となる。
従って同一と区別は統一される。それが根拠である。根拠もまた構造性をもっており、同一と区別との統一である
とともに、同一と区別の区別でもある。︵N二ω碧NN仁日㈱一ト⊃一︶つまり、﹃大論理学﹄における矛盾は﹃小論理学﹄に
おける対立と根拠の両面の働きをもったものである。︵逆にいえば、﹃小論理学﹄の根拠は﹃大論理学﹄の矛盾と根
拠の両面の働きを担っている。︶﹃大論理学﹄は矛盾に重点が置かれ、﹃小論理学﹄は根拠に重点が置かれている。
矛盾と対立との関係、根拠の位置づけをめぐる﹃大論理学﹄と﹃小論理学﹄との相違は結局、へーゲルの矛盾概
念の曖昧さ、動揺を示すものである。このようなことの原因として考えられる事情はつぎのようなことである。
一つは﹁大論理学﹄の形成は、それまでの哲学伝統に対するへーゲル独自の哲学の主張としての実体の主体化を
論理化することを意味していた。ゼノンのように運動する物は矛盾である、矛盾とはあり得ないことである、従っ
て運動する事物は存在しないと主張するにはへーゲルはあまりにも現実的であった。かれの現実感覚は運動する事
物が存在する以上、矛盾もまた存在すると考えざるを得ない。ここでまず、矛盾が把握される。ではこの運動し、
矛盾する多様な世界とパルメニデス的な絶対的存在者としての実体との矛盾をどう処理するかという問題がでてく
る。啓蒙主義の典型的な結論であるヒュームやカンー・の悟性的分析原理︵セーパイン︶では解くことができない。
アリストテレスは自体的と附帯的という条件をつけて矛盾を避けた。ヘーゲルはこの唯一実体と多様なものの矛盾
一42_
これに対し、﹃小論理学﹄においては、対立のもつ二つの契機は相互移行することにより、同一なものである。
へ一ゲルにおける「矛盾概念」の構造 (中易)
を﹁絶対の他在のうちに純粋に自己を認識する﹂︵﹃精神現象学﹄ホフマイスター版。。﹄心︶ことで解決を与えた。実体
は実体であるというだけでは空虚である。実体は実体の他在において説明されなけれぽならない。他在は実体の他
在である以上、他在も実体である。他在はまた多在である。実体は一つであり、不動であるが、多様な他在である
以上、不動ではあり得ない。不動であり得ない以上、実体は自分の内にあらかじめ非有、自己否定性を蔵するとい
う構造をもたねぽならない。動くもの、作用するもの、自分の内に否定性をもつものは主体である。この主体概念
を媒介させることによって唯一実体と他在を結びつけることができる。主体は自己内の矛盾によってつき動かされ、
実体は多様な存在として現象する。従来、﹁合理的思考﹂にとって、真空を怖れるかのように怖れられてきた矛盾
を﹃大論理学﹄が強調したのは以上のようなへーゲルの哲学的要求からであった。矛盾が変化、運動、発現︵外化︶、
らない。矛盾のこの動的性格を強調する時、﹃大論理学﹄の叙述となる。しかし、一般的に、悟性的思惟には矛盾
は許容し難く、矛盾の根抵をなしている統一基盤は理解できない。そこで矛盾の重層的構造性を二分して、すなわ
ち対立と統一の二面を二分して対立と根拠にした方が論理的に整合︵真理性ではなく妥当性である︶して理解し易
い。同一−区別ー根拠はまた有ー無ー成の弁証法とも一致する。同一ー区別ー矛盾ー根拠の場合は、
事物の核心としての矛盾の強調はよく理解できるが、同一と区別の真理であり、統一である矛盾がなぜさらに根拠
へゆかねぽならないか、その理由が薄弱である。﹃大論理学﹄と﹃小論理学﹄の相違は矛盾の動的性格を重視する
か、論理的に整合化を重視するかにある。
矛盾概念のずれを生ぜしめた事情として、言語表現上の問題もある。﹁無限への前進は一般に矛盾の表現﹂︵一・。。°
障卜。9。︶であり、無限と矛盾は類比できる。有限なものに対立する無限は悟性的思惟の術中にある無限であり、どこまで
一43
発展の原動力であるのは、矛盾が一つのものにおける対立、すなわち対立と統一の両面をもっているからにほかな
ヘーゲルにおける「矛盾概念」の構造 (中易)
も有限に対立する永遠の矛盾としての悪無限であるびへ㌃ゲルの﹁思弁的﹂理性のあり方ば対立する二契機を揚棄、
統一することである。無限についても同様である。有限と︵悪︶無限という対立しあう両老を揚棄したものがへー
ゲルの︵真︶無限︵H.。。﹄掌︶である。これはへーゲルの周知の無限論である。この場合、無限の概念についての混
乱は生じない。へ!ゲルは無限を悪無限︵対立的︶と真無限︵矛盾の解消︶という用語でもって区別しているから
である。これに対し、矛盾の場合、﹃小論理学﹄における対立も根拠も﹃大論理学﹄では矛盾として扱われている。
つまり、矛盾は一般的には対立の意味で使用されるが、へーゲルの場合はさらに対立の統一、対立物の同一、共通
基盤をも含んでいる。悪無限と真無限のような用語上の区別が矛盾にはない。ここに矛盾と対立、矛盾と根拠をめ
一44一
ぐる矛盾概念混乱の一因がある。
エァイソネルソグ
以上から﹃大論理学﹄と﹃小論理学﹄の相違についての結論を述べるならぽ、晩年のへーゲルはすでに完成した
体系からの回 顧として論理的整合性をとり、従ってかれの年来の希望であった﹃大論理学﹄の本質論、概念論
を改訂したとすれば、現行版の﹃小論理学﹄第三版の構成に近いものになったと思われる。しかし、私見を述べる
ならば、この論理的整合性は﹁角を矯める﹂ことであり、事物発展の弁証法の原動力としての矛盾のへーゲル的特
すべて矛盾であり、形式論理学でいう矛盾も、欲望も相対概念、相関概念もすべて矛盾の一形態である。このよう
ただ﹃大論理学﹄で問題となるのは矛盾の多義性であり、差別も対立も根拠︵解消された矛盾11新しい矛盾︶も
の内容の方がへーゲル的であるといえる。
事物の核心と考える立場がへーゲル的であるとすれば、論理的整合性に欠けているとはいえ、﹃大論理学﹄の矛盾
当るとすれば、運動の結果を静的に把えるのが﹃小論理学﹄に当るといえよう。この点で、矛盾を強調し、矛盾を
質である重層構造が害われ、矛盾の普遍性が消える。いわば、運動を運動として動的に把えるのが﹃大論理学﹄に
へ一ゲルにおける「矛盾概念」の構造 (中易)
な矛盾の外延の豊饒さは却ってその内容の空虚さに導くおそれがあるひ矛盾の普遍性から出てくる矛盾の規定の最
低線を挙げるならば、自分のうちにもっている自己否定性である。﹁実在性は本質的に否定的なものという契機を
含んでいるので、一切の実在物の総括は同様に一切の否定性の総括、一切の矛盾の総括になる。﹂︵H・。。﹂OO︶従っ
てヘーゲルが矛盾として挙げる概念を貫くものは自己否定性、内部構造としての否定性であると特徴づけることが
できる。
ここで付言しておきたいことは矛盾の普遍性と矛盾の解消の問題である。へーゲルの弁証法論理は抽象的乃至悟
性的契機、弁証法的乃至否定理性的契機、思弁的乃至肯定理性的契機から成り立っており、単に矛盾律に対立する
はない。より高次な形態の矛盾となり、それに応じた解消を通じ、さらに高次な矛盾となり、事物は自己運動をつ
る。特定の矛盾は特定の解消のされ方をして根拠となるが、矛盾そのものはこれらの解消を通じて消えてゆくので
一曽︶矛盾の揚棄としての根拠はふたたび矛盾であり、またこの矛盾はそれにふさわしい一定の解消のされ方をす
(H
一45一
ものを原理とするものではなく、矛盾律と非矛盾律的なものとの矛盾を揚棄したものである。従って、弁証法は矛
黶KQ自゜紹︶﹁さしあたって矛盾の揚棄として生ずる根拠はかくして新しい矛盾としてあらわれる。﹂︵N器毘NNロヨ㈱
それはそれでふたたび一定の差別された領域であり、従って一つの有限的領域であり、矛盾的領域といわれ、﹂
は保存される。矛盾は否定的統一へ反省したものとして解消された矛盾になるが、﹁その領域︵根拠のこと︶全体は、
ている以上、矛盾は解消された形の矛盾として存在する。解消は消失でない点で﹁揚棄され﹂た形で矛盾の普遍性
ヘ へ
則が保存されている以上、矛盾は自己の否定により否定され、解消される。揚棄された非矛盾律的なものも含まれ
ヘ ヘ ヘ ヘ へ
る。この事態を表明しているのが、﹁解消された矛盾﹂である。揚棄されたものといえども、矛盾律の無矛盾の原
盾律に対立するものではなく、矛盾律を契機として含んでいる。同様に非矛盾律的なものも揚棄されて含まれてい
へ一ゲルにおける「矛盾概念」の構造 (中易)
ヘーゲルにおける「矛盾概念」の構造 (中易)
づけてゆく。なぜなら、予盾そのものは消えず、自己運動の内的原動力はなくならないからである。この矛盾の普
遍性と特定の矛盾との関係はへーゲル以後にもひきつがれる重要な思想である。
本論の目的ははじめに述べたようにへーゲルならびにへーゲル以後の弁証法研究の基礎を築くための第一歩とし
て、まずへーゲルの矛盾概念を正確に把えることであり、へーゲル批判を目的とするものではない。疑問点は矛盾
の解消と予定調棉的な宥和の問題、悟性と理性の問題などいくつか残されている。
しかし、小論をとじるにあたって、矛盾の概念を通してみたへーゲルの論理学の性格について一言し、結論に代
えたい。
へーゲルの論理学の特質は、諸概念が固定化されておらず、流動的であって概念と概念との間に相互移行が行なわ
れる点にあった。この概念の自己運動は概念のもつ内部構造、対立しあう契機の関係から生まれてきたのであった。
ヘ へ
また、矛盾概念は内部構造に自己否定性をもつ点にへーゲル的特質があることも述べてきた。しかし、 ﹁矛盾の成
果は単なるゼロではない。﹂︵目゜Qo°蟄︶肯定的なものと否定的なものという二契機についても単にAと非Aという
抽象的な関係ではない。へーゲルも言うように﹁精神は白であるか、白でないか﹂︵吻=り︶というのは空虚である。
従って、否定は単に論理的な否定、ゼロではなく、特定の否定、他の肯定的なものによるおきかえである。たとえ
ば、精神は白であるか、劣であるかという命題の欝が抽象的な非白ではなく、特定の概念であるとすれぽ、この特
定の概念は純論理的に導きだせるだろうか。また、同一という論理概念を純粋に論理学的に突っつきまわすことに
よって区別、差別、対立、矛盾などが導出できるだろうか。また、同一、差別、対立、矛盾などの内部構造を純論
理的に明らかにできるだろうか。この小論でへーゲル論理学の特質について述べた事はすべて論理的にのみ導出す
る事は困難である。へーゲルによれぽかれの論理学は絶対理念の自己運動であり、トレンデレンブルク的に言えぽ
一46一
へーゲルにおいては純粋思惟は直観を拒否し、無前提に自分自身の必然性から出発する。しかし、本論における矛
対立の構造性も、否定の内容も、矛盾のもつ対立と統一、自己否定性もすべて実在する事物を分析した時、はじめ
て明らかにすることができる。かくして、弁証法は本来、存在の弁証法であり、ついでそれの反映としての認識“
思惟の弁証法である。これがへーゲル弁証法の真の意味である。直観の論理化を含まぬ絶対理念の自己運動である
ことを否定することは決してヘーゲルを歪めるものではない。へーゲル論理学の豊かさは存在と思惟との関係を逆
転させることによって真価を発揮することになろう。
一47
盾の考察より明らかになったへーゲル的な特質は純粋思惟から導出できない。概念から概念への移行も同一、差別、
へ一ゲルにおける「矛盾概念」の構造 (中易)
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