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子どもの心を育てる保育

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子どもの心を育てる保育
平成 25 年度 第 1 回共同機構研修会
京都市子育て支援総合センターこどもみらい館
子どもの心を育てる保育
講師
鯨岡
峻
中京大学教授
1.はじめに
昔から,子どもの心を育てるということは,子
ければならないという気持ちをおもちではない
育てや保育の中心的な問題であったはずです。で
ではないでしょうか。できないことも励まして頑
は,なぜ今,子どもの心の育ちを問題にする必要
張らせる,そうすれば保育の流れに乗って集団行
があるのでしょうか。この問いに答えるためには,
動が取れるようになる,そうでない子どもは保育
二つの視点を考えてみる必要があります。
者が引っぱっていかなければならないというの
一つは,現在の保育の世界が一つの対立軸によ
は、保育者,非常に考えやすいことです。そうい
って二分されているという問題です。もう一つは,
う人達は,子ども一人一人ではなく集団を全体と
これまでの発達の見方の問題です。そして,この
してみているからそうなるのです。集団の流れに
従来の発達の見方から派生する様々な問題から,
乗れない子どもに手厚く関わり流れに乗れるよ
一つ目の問いを問わずにはいられない理由が明
うにもっていけば,自分の保育が良くなると捉え
らかになってきます。
ているのではないでしょうか。
2.保育を二分する対立軸について
子どもに「力をつける」,子どもの「心を育て
る」ということは,どちらも大切なことであり,
保育者主導の「させる保育」,保育者の思いに
沿うように「頑張らせて褒める保育」に私は否定
的な考えをもっています。
「力」なのか「心」なのかの対立ではありません。
「保護者のニーズに応える」という理由から保
しかし,「力をつける」ことと「心を育てる」こ
護者の歓心を買うような「見せる」保育をして,
との,どちらを先に考えるかで、わが国の保育は
保護者の賞賛から保育者が充実感を得ていない
二分されていると感じます。数が多いのは,まず
でしょうか。子どもの為といいながら保護者の意
は「力をつける」ことが先行するという考えです。
向に沿った「保護者に見せる保育」になってしま
心が育たなくても良いとは思ってないでしょう
っていないでしょうか。「力を」と思うばかりに
が,まずは「力をつける」ことが先で,後から心
子どもの心に目が向かなくなっているのが現状
がついてくるという考えです。
ではないでしょうか。
しかし,私は「心を育てる」ほうが先で,力は
「心を育てる」というのは子ども一人一人の心
後からついてくるという考え方をとっています。
に目を向ける保育を離れては不可能です。一見,
その対立軸がなぜ生まれたのか,なぜ心より力
集団の流れに乗り問題のない子どものように見
をつける方が先になったのか,なぜ保護者もその
えても,心に目を向けてみれば,充実感や満足感
考えに翻弄されて力を先につけたいと思うよう
を十分に得られず,何かしら冴えない顔つきの子
になってしまったのかを考えていきましょう。
どもたちがかなりいます。乱暴で集団の流れに乗
メディアを通して宣伝されているように,少々
れない子どもに対してその行為だけをやめさせ
のスパルタを行ってでも力をつければ,それが子
ようとしても,それでは根本的な解決にはなりま
どもの自信になり結果として将来役立つはずだ
せん。心の中の負の部分が負の行為を導いている
という考え方が皆さんの中にないでしょうか。そ
のです。そして忘れてはならないのは,一見保育
こまでのスパルタでなくとも,やはり頑張らせる
の流れにも乗り,発達も順調で、保育者に大丈夫
ことは必要で,小学校に上がるための力をつけな
と見えて関心を傾けるのを怠る子どもの中に,心
に不安や葛藤を抱えている子どもが多数いると
てしまいました。それは,子どもの能力面を見る
う現実です。
視点であり,心を含めた子ども全体を見る視点で
このように子ども一人一人に目を向けてみる
はありません。能力面だけ見て子どもを分かった
と,やはりどの子どもも心の中で「先生,来て」
気になる,能力面が育っているのを見て子どもが
「先生,見て」と保育者に一対一の対応を求めて
育っていると捉えてしまう錯覚を生んでいる,そ
いることに気付くはずです。一対一で対応して欲
れが問題だということです。
しい,自分の存在を認めて欲しい,子どものその
心の育ちを含めて発達を見ていく必要がある
思いに応えていくのが保育の基本です。そして先
のですが,従来の発達の見方に心が入っていない
生にそのように対応してもらえれば、子どもは自
ことを皆さんは不思議だと思いませんか。
分の思いを保育者に受け止めてもらえたと安心
4.新しい発達の見方:身・知・心の面の発達
することができ,保育者に信頼を向け、そこから
新しい発達の見方として,私は子どもの身・
自己肯定感が育ってきます。このように子どもの
知・心の面の時間軸に沿った変容として発達を考
心が充実していくことが先決なのです。そして,
える必要があると思ってきました。
保育者がそのように子どもの心に目を向ければ,
本来,子どもは体も知恵も心も発達します。し
子どもたちを集団として捉える前に,やはり子ど
かし体の発達・知恵の発達は,右肩上がりなのに
もは一人一人なのだということが改めて実感さ
対して,心の発達はずっと右肩上がりというわけ
れるはずです。
にはいきません。心の変容は波動です。山谷の変
3.従来の発達の見方と問題点
化を繰り返しながら子どもの心は複雑にねじれ
では,どうして「心が先」ではなく,
「力が先」
ていきます。それが心の育ちだと考えます。心を
という見方が支配的な見方になったのでしょう
含めれば発達は右肩上がりというものではない
か。そこに,従来の発達の見方の問題が浮上して
のです。
きます。
身・知・心の三つの面の変化が撚り合わさって
従来の発達の見方は,「何ができて,何がまだ
一人の子どもの存在を形づくっています。そこで
できないか」というように、目の前の子どもの姿
私は,これまでの発達の考え方ではなく,『人間
を「発達の目安」と比較する見方を助長してきま
の一生涯は,その時間経過の中で<育てられる者
した。
>の立場から<育てる者>の立場に移行し,さら
こうした考え方から,目安をクリアしてないか
に<介護し・看取る者>の立場から<介護され・
ら頑張らせてクリアさせなければならない,クラ
看取られる者>の立場に移行していく過程であ
ス全員に目安を越えさせるのが自分の使命なの
り,しかもそれが世代から世代へと循環していく
だ,「頑張らせる=力」という考えが保育者の中
過程である』というように、人間の生涯に亘る関
に自然に生まれてきてしまいます。
係発達の基本構造を考えました。
保護者の側にも上述のような発達の見方が浸
一人の人間の一生涯を視野に入れ,その人の発
透し,発達の目安に引きずられて子どもを見るよ
達を<育てられる者から育てる者へ>という関
うになったために、わが子の心に保護者の目が向
係性の中で考えると,保育や教育も単に力をつけ
かわなくなり,心よりも力が先という状況を作り
ればいいというものではなく,次の世代を育てら
だしたのだと思います。
れるような心を育てるということが保育や教育
その発達の見方が,子どもの心から目をそらす
の目標に入ってくるのでなければなりません。そ
働きをしてしまったのではないかというのが私
のことを踏まえると、発達とは,人間の一生涯に
の考えです。子どもの行動を外側から見ることに
亘る身・知・心の面に現れてくる成長・変容の過
慣れてしまった大人は,子どもの心に自分の心を
程であると再定義することができます。
寄り添わせるという,それまではごく当たりまえ
このように心の面に目を向けると,改めて子ど
になされていたことがとても難しいことになっ
も一人一人が視野に入り,子どもの行動がみな子
どものさまざまな思い(心の動き)によって導か
耳に聞こえるものだけを問題にしようとしてい
れていることが保育者に見えてきて,保育に対す
ます。そこには接面の考え方は存在せず,ただ,
る構え方が大きく異なってくることが期待され
子どもの行動だけが問題にされます。
ます。そこに,子どもの心に目をむける必要があ
るという理由があります。
対象者
5.キーワードは「接面」
従来の発達の見方は,心に目を向ける見方では
ありませんでした。では,どうすれば心に目を向
研究者(観察)
けることができるのでしょうか。
「できる」「できない」は目に見えるため,簡
しかし,人と人のあいだで肝心な事は接面で起
単にキャッチすることができます。それでは目に
こっています。接面で起こっていることを当事者
見えない心をどのように見ることができるので
として経験しているから,エピソードを一人称で
しょうか。そのキーワードは「接面」です。
書くのです。一人称の記述が入らないと接面の動
人と人との関係を問題にしようとするとき,当
きは表現できません。そして接面を問題にしない
事者である子どもの心の動き,もう一方の当事者
と人間の心には迫れず,心の動きを人に伝えるこ
である人の心の動き,あるいは二人で作る雰囲気,
とはできません。
そういったものが二人の「接面」に生まれます。
接面で生じていることは子どもと保育者が共
同じ場面においても,子どもの気持ちが見えて
有している訳ですから,接面で保育者が感じてい
声をかけられる人,そうではなく見過ごし声をか
ることは子どもも感じています。保育者が嬉しく
けられない人がいます。ですから接面で何かを感
安定していれば,子どもの気持ちも穏やかになり
じることができるかどうかが問題となりますが、
ます。保育者の心のありようが接面を通して子ど
人と人がいれば自動的に接面ができるのではな
もにも伝わり,跳ね返り,それが子どもの心を動
く,接面ができるように相手の気持ちに自分の心
かし,子どもの心に蓄積されて,保育者への信頼
を寄り添わせることが必要です。そのようにして
感に繋がり,ひいては自己肯定感に繋がるのです。
接面がつくられるのです。接面に生じていること
保育者の気持ちのもちようがとても大事になっ
を無視して,あくまでも人と人の関わりを第三者
てきます。子どもの気持ちを受け止める,存在を
の観点,つまり行動と行動の関係として見て対応
認める、喜ぶ,包む,守るというような「養護の
を考えるのか,それとも接面で生じていることを
働き」を大切にしてほしいと思います。号令をか
取り上げていくか、これは一つの岐路です。
けて全体を動かして行くような保育は,子どもの
心が育たない保育だといっても過言ではありま
せん。
子ども
接面
保育者
また,保護者にも「養護の働き」がなくてはな
りません。しかし,今「できる」「できない」に
捉われてしまい,子ども一人一人の存在を見つめ,
「できる」「できない」だけを見る視点は,接
存在を喜び,存在を包んでいく,そういう姿勢が
面を消していく動きです。子どもにこう働きかけ
弱くなってしまっているのではないでしょうか。
るとこう変わる等のプログラムで働きかける学
そのために様々な問題が起こっているように感
問は,接面を失ったところでつくられている学説
じています。
なのだと思います。行動科学では,研究者は無色
6.エピソード記述の意味―なぜエピソードに描く必
透明となり,研究対象がどうしているかを外側か
要があるのか―
ら観察して記録をする客観主義が主流です。客観
的であろうとするあまり、目に捉えられるもの,
接面で当事者に捉えられるものは,その接面の
当事者以外には分かりません。そこを接面の外に
いる人(職員など)に知らせたいと思う場合,エ
ピソードを書くことを通して知ってもらうしか
方法はないというのが私の考えです。
この保育者は子どもや保護者と接する中で,と
てもすばらしい気付きをしています。
みなさんも,子どもと接面を生きながら様々な
学者にとって子どもの心を掴むのは難しいこ
ことをキャッチし,その都度自分はどうしたらい
とですが,現場で子どもに接している人,接面を
いのだろうと考えながら保育を営んでいるはず
上手につくっている人は,必ず子どもの気持ちと
です。それをエピソードに描くことで,保育とは
通じ合っています。保育の営みを客観的な観点か
どのような仕事なのか,保育者はどのようなこと
ら記録にとっても,保育の振り返りには役立ちま
を考えて保育しているのかを世に伝えることが
せん。子ども一人一人の心の育ちに繋げるために
できると思うのです。
は,接面が描かれていなくてはなりません。描い
8.最後に
てみることによって初めて気付くこともありま
人と人の間には接面ができます。それは物理的
す。これまで分かっているつもりであったことが,
な空間として接面があるのではなく,気持ちをも
実はそうではなかったというかたちで、改めて自
ちだすとそこに接面が生まれるのだと考えてく
分の保育が見えてくるということもあります。自
ださい。保育だけに限らず人が人と関わる仕事に
分の接面での体験をエピソードに描き,後にみん
おいては必ず接面が生まれます。接面が生まれた
なで読み合って振り返ることが「よい振り返り」
ところで,「自分はこんなことを感じた,だから
になり,保育の質を高めることに繋がるのです。
この人にはこういうことをしてはどうだろう」と
7.実際のエピソード記述を読んで
いうふうに進んでいくのだと感じています。
エピソード1「おかーちゃーん!」(割愛)
それゆえ,同じ子どもと関わっていても、人に
毎日の生活が大変で,子どもをかわいいと思え
よって接面は同じではありえません。客観的に見
なくなっている母親に対して,「もっと子どもの
ると同じ場面であっても,接面で感じることは一
ことを見てやってください」とストレートに言う
人一人違います。それはその人の保育の経験や考
のではなく,その願いをもちながらも、このエピ
え方,育ってきた経歴等が一人一人違うからです。
ソードの書き手は子どもの姿や言葉を通して,子
だからこそ,その接面で起こった出来事に対して
どもがいかに母親を愛しているかを母親に伝え,
当事者として責任をもってほしいと思うのです。
子どもに母親の気持ちが向くように接している
最後に,このエピソードの中には,子どもとの
のが分かります。また,この子に十分に関わりた
関係だけではなく,保護者との関係の大切さも描
いけれども,この子だけに関わるのではなく,他
かれています。
の子どもにも気持ちを向けていくことが大切で
あるとわかった上で保育をしています。
子どもに対してぞんざいな振る舞いをする母
親に「なんだこの親は」と感じられるかもしれま
みなさんの中にも,きっと同じような思いで保
せん。しかし,この母親の中にも自分を肯定する
育をされている方が多くいると思います。しかし,
気持ちがあります。ただそれが日々の忙しさの中
これまで接面を描いてこなかったために,そのよ
で凍り付いてしまっているだけです。氷ついた自
うな関わりの機微は消し去られてしまっていま
己肯定感は,他の人に自分の存在が肯定されたと
した。
きに溶け出して,立ち上がってきます。この保育
接面で起こっていることをエピソードに描く
者の配慮によってこの母親の自己肯定感が少し
ことで,どのようなことを視野にいれて保育をし
生き返っているのが分かります。その大切さをわ
ているか,どのように子どもの心を大切にしてい
かってほしいと思います。
るかが見えてくるのです。
エピソード2「あぁー,おべんとう,おいしか
った~!」(割愛)
共同機構研修会第 1 回
平成 25 年 4 月 19 日
於:京都市子育て支援総合センターこどもみらい館
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