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浄土第80誉 1 号 (毎月 1 回 1 日発行) 平成26年 1

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浄土第80誉 1 号 (毎月 1 回 1 日発行) 平成26年 1
.
浄土第80誉 1 号 ( 毎月 1 回 1 日発行 ) 平成26 年 1 月 1 日発行昭和 10年 5 月 20 日第 3 種郵便物認可
芝崎純
撮影 Keizo
S
.
ヨーロピアンフラワ ー連盟 講 師 資格を取得し、
2007 年から東京・日黒 (I 金台の自宅でフラワ ー サロンを t 宰 。
生花やプリザ ー ブドフラワー・アーティフィシャルフラワーなど
ヨ ーロ ピアンスタイルを基本の L esso n も開催するかたわら 、
フラワーギフトアレンジを提案 。
特に、仏リ[の供花を扱うプランド
[ 花写 ]
を立ちヒげ、
生花に特殊な加工をして長期保存できる 。
プリザーブドフラワ ー の仏花ギフ ト アレンジに定評がある 。
坐石用のア ー ティフィシャルフラワ ー のアレンジや、
仏培の供化は、
一 人暮らしで水替えが大変という年配の方々からも人 気で、
手元供旋で小さな花のアレンジを添えるのは、
毎日の供近の際、
辿された者の心に稔やかさ侵しさを与える、という 。
法 ']J やお盆、お彼岸など、
また、お悔やみのフラワーギフ トとし て注文も多く、
いま各界注日のアーティストである 。
TE 写:
http://www.ca-sha.net
浄土
2014/1 月号目次
法然 上 人の教えは 「 念仏為先」 … • •• … … • •• …… .. い …… … . . 阿満利麿
会 l, ヽた l, ヽ人
中村扇雀さん
(
J:)..
.
.
.い・・・ ・ ・・・・·…·· · ·········· … 関
2
容子
1
2
響流十方
................ . ... . ........ . ... .. ... . .. . ...... . . . ........ . ..... . ...... .. . 林田康順
20
連 載小 説
渡辺海旭 ... ….........
24
・・・ ・ ・・・ ・ ・・・ .... ・・ ・・ .. . 前田和男
江戸 を歩く •・ ・・・・・・・ ・ ・・・・・・・・・・・ ·· ··· · ···· · ······· ·· ·· ·· ··· ·· ·· ··· ·· ··· ·· · ··· · ·· · ·· 森
清鑑
さっちゃんはネ ッ... …..........…..…•…•…·かまちよしろう
30
4
4
47
編集後記 .. ・ ・・・ ・ ・・ ・・ ・・・ ・ ・・・ ・ ・・・ ・ ・・ ・・ ・・・ ・・・ ・ ・・・ ・・ ・・・ ・ ・・ ・・・ ・・ ・・・ ・ ・・・ ・・ ・・ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・. .. . .. . .. ..
48
誌上句 会· ·· ····· ·· ·· ·· ·· ·· ··· · ············· · ····· · ········ · ·········· · · 選者= 増田河郎子
マンガ
表紙 ・ 表紙裏 = 2014 「 浄土 」 表 紙 の 人
【 715'Ff. 】 芝 崎純 f
背表紙裏=泰去の美 味探油
表紙題字=中村 康隆元浄土 門 主
アートディレクション= 近藤十 四郎
協力= 迦陵頻伽 舎
ー1 法
ぅ疋は
」
阿満利麿
~~
法然上人の念 仏
ねんぷついせん
。
法然上人の教えは「念仏為先(本)」に尽きる しかし、なぜ念仏がすべてに侵先され
。
三 大法難をも
って歴史
るのか、また、その念仏の実践が私たちの暮らしにどのような意義をもたらすのか、につ
。
ったく私見なのだが、法然上人の仏教がいわゆる
いては、現代の念仏者の問で、必ずしも共通理解が得られているとはいえない
その理由は、ま
っているように思われる
。
もちろん、こうした見方には賛成しない人も少なくないであろう なぜならば、その後、
上消滅したと認めるかどうか、にかか
。
源智や弁長をはじめとする門弟たちの努力によって、法然上人の教えは守られ、浄土宗の
再興がなされた、と考えられるからだ
。
。
親梵の本願念仏の理解と、その曾
っ
しかし、私が問題とするのは、 三大法難後に再登場する浄土宗は、時の権力との妥協・
。
庇護によって実現したという歴史を経ているという点だ 同じことは、法然の門弟であ
た親梵を開祖とする本願寺教団の成立にもあてはまる
孫・党如にはじまる本願 寺教団の教学との間には、大きな隔絶がある
繰り返していえば、現代、 一人の念仏者として本願念仏の可能性を考えるとき、法然上
。
つまり、弾圧後に生まれてきた教団の教学のなかから、本願念仏の意義や可能性をあ
人の教えは 一度権力によって滅びている、という事実 に思いいたる必要があるのではない
か
らたに見出すことはむつかしいのであり、ありていにいえば、むしろ、教団の教学とは自
由な 立場から、法然上人とその直門弟たちの著作、語録を読みぬく努力のなかにしか、法
。
ったのは、少なくとも
二 つの理由がある
。
―つは、法然上人
然上人が掲げられた 「
念仏為先 」 の真意義を明らかにする道はないのではないか、という
ことだ
私がこのような考えにいた
3
うこと
っして政治権力との妥協を肯定するものでなかったとい
。二 つは、いわゆる「浄土宗」や「浄土真宗」といった教団成立後の本願念仏は、
の教えられた「念仏為先」は、け
。
それぞれの教団に都合のよいように変形されていて、法然上人の説かれた本願念仏の姿を
。
正しく伝えるものではないと私は思うのである
第 一の問題について
とになるはずだ
。
。
ことだ
。
。
「念仏為先」とは、暮らしの基準を念仏
それが、「現世を過ぐべき様は、念仏の申されん様に過ぐべし」という
。
。
。
いうまでもなく、権
つまり、「念仏為先」
だが、その後の念仏者には、それが、たまたま生じた偶然的なできごとであって、「念仏
。
ま、阿弥陀仏の慈悲に忠実であろうとされたがゆえに政治権力とぶつかられたにすぎない
。
もとより、法然上人は、政治権力との衝突をはじめから意図されたのではない たまた
を頁<生き方は、必然的に権力的志向とぶつかることになる
それが慈悲の精神と真反対にあることはいうまでもない
たちの利害に人々を従属させるために、最終的には法律をふくむ、強圧的な力を行使する
。
力は、人を人として遇するのではなく、人々を手段視する 権力は、特定の人びとが自分
さらにすすめば、権力そのものに正面から対峙する結果をもたらす
そしてこのような生き方を選ぶと、おのずと権力的世界に違和感を覚えることになり、
意味ではないか
におく、つまり、念仏に象徴されている阿弥陀仏の慈悲を経らしの基準におく、というこ
れている、ということにはとどまらないだろう
「念仏為先」は、たんに個人の心の持ち方において、いつでも念仏ができる状態が確保さ
*
4
法然上人の念仏
。
為先」が必然的に招来する出来事だとは認識できていないように思われる
だからこそ、その後の教団再興は、時の権力者の力を平気で借りて、あるいは自ら権力
。
者にすり寄って、つまりは、「念仏為先」を棚上げにしてなされてきたのであろう その
結果、念仏者はこの世の秩序のはらむ非道や不条理に無抵抗•無関心となり、現世のいか
なる現実をもまるごと容認するということになりがちとなり、その傾向は現在も変わらな
。
しかし、再興された教団のその後の
後にのべるが、念仏は阿弥陀仏の本願の裏付けをもつが故に、現世の
。
だが、法然上人の念仏は、現世のありようにまったく無関心•無抵抗であることを教え
ているのではない
あり方に深い関心をもつことになるはずなのである
。
それはひとえに、「念仏為先」の教えが消滅していたからだといわねばなるまい。
歴史では、現実社会の矛盾に積極的にかかわろうとする念仏者の姿を見出すことはむつか
しい
言 葉としてはよく知られて
極論をいえば、現代の既成教団において、「念仏為先」は、
。
いても、またなにごとにつけて称名が蒋重されはしても、その内実は、個人のたんなる心
のなかの私的な営みに矮小化されているように思われる
つまり、「念仏為先」のもっていた、阿弥陀仏の慈悲を暮らしの中心に据えるという
。
「激烈さ」を今一度思い起こして、念仏の豊饒なはたらきを回復する必要があるのではな
いだろうか
。
つまり、法然上人の教えは、「法難」後に再興されてくる教団のなかで
は、それぞれの教団の利害に左右された理解や解釈がすすんで、全体として当初の「念仏
二 つ目の問題
*
5
。
為先」が正しく継承されてきたとはいえないように思われる
。
私の
H から見れば、とくに浄土真宗が「信心為本」を強調するのは、先行
その典型的な例が、いわゆる浄土宗の「念仏為本」と浄土真宗の「信心為本」の違いの
強調であろう
。
する浄土宗教団との違いを明らかにするために生まれた旗印であり、親憫が法然上人から
学んだ本願念仏を正しく継承しているとはとてもいえない
とりわけ、本願寺教団の教学が本願のいわれを聞いて「信心」を得た瞬間に「往生」が
。
定まると強調するなかで、念仏を軽視し、その役割を「報恩」に限定したことは、本願念
仏の可能性を考える上で致命的な過ちを犯したことになるのではないか
。
ただ、法然上人の追著や法語、消息の類、また親界の
。
もとより、私は、本願寺教団の長きにわたる教学論争にはくらい まして、浄土宗教団
の「念仏為先」をめぐる教学にも
。
著作をくり返し読む中で、本願念仏が「報恩」に限定されるような、弱々しい内容に終始
するものではないと確信するにいたった
げゆ
う
たとえば、 「
選択本願念仏集 j の「本願卒」には、「名号はこれ万徳の帰するところなり」
親壼もまた 「
教行信証」 の「行巻」の冒頭に、称名という行には、 「もろもろ
として、阿弥陀仏の 一切の内証、 一切の外用がこめられたのが阿弥陀仏の名号だとのべら
。
。
の善法を摂し、もろもろの徳本を具せり」とし、その徳は称名するものの心中に速やかに
れている
満ちる、とのべている
。
。
その「信心」のあり方について洞察を加えたのが親憫だが、彼のいう「信
もとより、称名がこのような力を発揮するためには、阿弥陀仏の誓願に対する深い信心
が必要である
心」には 二重の意味がある
6
法然上 人 の念 仏
と二 つは、念仏によ
―つは、誓願に納得して念仏することを決断するこ。
。
って私たちの
。
。
って私たちの心にも仏性が生まれるのであり、その仏性に
。
。
心に生まれる「仏心」である 親界は、それを「(大)信心」とか「まことの心」という
つまり、念仏は阿弥陀仏が私のなかではたらくすがたなのであり、そのはたらきは凡夫
の私の深附慈識に阿弥陀仏の心を植えつける それが凡夫の心に生じる仏性なのである
信心」と称するから混乱が生まれるのであろう
この仏性を 「
いわば、念仏という行為によ
。
念仏が仏追なのである
。
。
うながされて私たちは仏道を歩むのである 念仏は決して、なにかの手段ではなく、目的
そのものなのである
。
念仏為先」の意味を明らかにしようとしただけのことな
要するに、親野は法然上人の 「
のである
。
。
あるいは、拡大する 一方の所得格 差 を容認できるであろうか
理や矛府を是正してゆきたい、という 気 持ちにもなる
。
。
。
それこそが仏逍の歩みにほかなら
私たちには、さまざまな不条理、矛盾、問題が見えてくるようになるし、さらにその不条
このように、念仏を口にすることが阿弥陀仏のはたらいている姿だとうけとめるならば、
定できるのであろうか
念仏がわたしのなかで阿弥陀仏のはたらく姿であることに思いいたると、念仏しながら
人々を、 差別したり、抑圧したり、排除することが、果たして認められるであろうか
現代社会の状況に照らしていえば、人々を恐怖と不安に陥れている原子力発軍所を新た
ある
に稼働しようとする目論見に、念仏をしながら校成できるであろう
かいは、働く
人々を正規と非正規に分断して怪しまない今日の労働環境を、念仏をしながら租極的に肯
*
7
ない
。
。
。
そもそも、念仏が私のなかではたらく
もとより、だからといって、現実の変革が容易なわけではない 念仏者だからといって
スーパーマンのような活動ができるわけではない
むつかしい
。
阿弥陀仏の姿だと認めても、私には特別の力が湧きあがってくるという実感を得ることは
。
。
そのこ
いな、念仏をしても、今までとは 一向に変わらない自分があるだけではない
か、とゆらぎもする
。
しかし、それは本願念仏が無力だからではない 私たちの業が深いだけのこと
。
そして深くなれば、いつしか、阿弥陀仏の心が、かすかではあっても匂
。
とを自覚すれば、ますます、阿弥陀仏の野願を頼むしかない そうすると、 一附念仏を頼
。
その匂いが私たちを励まして、この濁世を乗り切ってゆく希望と力を与えてく
む心が深くなる
。
ってくる
れる
だからこそ
、
、
。
これこそが、現代に
、
19
(了)
教養番組のディレクターを経て
。
念仏はまさしく阿弥陀仏のはたらくすがたにほかならない
。
。
。
、
行
著書に 「
法然の衝撃 j 「法然入門 j 「
に入局
念仏が現実の暮らしの基準となるのである
。
法然上人は、念仏には阿弥陀仏の香りがうつっていて、念仏するとその香りが身に燻ず
、
る、と教えてくださっている
のであり
生きる「念仏為先」の意味ではなかろうか
。
NHK
現在は同大名誉教授
。
京都大学教育学部卒業後
0 阿満利麿先生プロフィール
年京都市生まれ
年から明治学院大 学 国 際 学 部 教 授
1939
87
動する仏教 」 「
宗教は国家を超えられるか J (いずれも筑摩書房) など多数
8
仏像
入門
Books
石上善應著
写真撮影{匹馬園‘杉野孝典ヽ田枝幹宏ヽ
永野 鳴 鹿荘、湯川晃敏
見方が変わる、
人生が変わる
。
しかしその美しさゆえ、対峙するとき
仏像は観賞の対象ではなく、信仰の対象で
ある
。
。
それでは何度見ても
には、信仰という最も甚本的な部分が抜け落
ちてしまいがちになる
仏像の真の姿を理解することはできない
本書では如来、菩薩、天部、明王、童子、
羅漢、高僧、石仏それぞれの仏像の持つ意味
法隆寺・
。
をよく伝える写真を収録し、その背後にある
仏教思想を平易な言葉で解説する
百済観音像や広隆寺・弥勒菩薩像といったよ
く知られる仏像の他、今はなき地蔵院•阿閑
如来像や法然の一周忌に弟子・源智が造立し
。
2013
。
0発売
年 12
月 1日
。
四十四体の仏像を紹介 巻末には交通案内を
たことが近年判明した阿弥陀如来像等、東西
収録
撮影/タカオカ邦彦
会 いたい人
十八代目勘 三郎が平成 二十四年十 二月に急
逝し、翌年四月に新開場した歌舞伎座で、中
村屋が健在ならば当然つとめるはずだった持
ち役を、いろんな人が演じるのを観た。
中で最も意外だった配役は八月の第三部『江
こりこり
戸みやげ狐狸狐狸ばなし』の伊之助が扇雀
というものだろう。
感心したので、さっそく私は扇雀さんにそ
んなふうな薬内を苫いた。
この十月。国立劇場大劇場では『伊賀越追
中双六』が珍しく通しで、唐木政右衛門伊賀
上野の仇討までがていねいに上演されていた。
しかし考えてみると、伊之助は上方の女方役
その長男の翫雀‘平作の娘お米が次男の扇雀‘
衛が八十 一歳の坂田藤十郎‘老雲助の平作が
は成駒屋 一家の出演で、白塗りの呉服屋十兵
いつも単独で上演されることの多い「沼津」
者で、序幕では女房おきわの赤い蹴出しまで
とあったことだった。これはどういうことか。
洗濯してやっている設定なのだから、これは
十
という配役を知ったときもびっくりした
兵衛は実は子供のころに平作が没子に出した
。
本役なのかもしれない、と納得した。
それで出かけて観てみると‘勘 三郎とはま
扇雀さんを楽屋に訪ねる前に、まず舞台を
息子で、つまり親子の役を逆転して親子の役
がにプロ、という気がした。中村屋はこうい
観ることにする。振り分けの重い荷物を肩に
た別の味の肝の据わった伊之助になってい
うもの、たとえば『法界坊』とか『らくだ』
よろよろとついて歩く平作と、颯爽とした十
者がつとめる。これは前代未聞のことだ。
の屑屋久六を演じるとなると芯から楽しんで
兵衛が捨台詞(アドリプ)でやりとりしなが
て、喜劇を真面目に演じているところはさす
しまい、ときどき自分の芝居に吹いたりする
ら客席に降りてくる。まず十兵衛から。
「
あんた、年はいくつになる」
ことがあって、お客はまたそれを喜んだりし
ていたが‘喜劇は本来真顔で演じるのがプロ
11
狐狸狐狸ばなし」 で伊之助
平成 2年
5 8 月の 「
を演じる中村扇雀さん。
「
へえ‘七十に手の届くところで 」
「
わてはもう八十過ぎてるがな」
「お若つおすな。八十過ぎたお顔が見てみた
いもんやな 」
「
こんな顔やがな」
と十兵衛が顔を突き出し、この楽屋落ちに
場内は大爆笑。
扇雀さんのお米はしっとりとした情感が漂
満足して楽屋に廻ると、扇雀さんがまず
って、とても初役とは思えない出来だった。
『狐狸狐狸ばなし』を私が喜んだ話から始め
る。
の りあき
「八月の伊之助の役は、おかげさまでいろん
な方から褒めていただきました 。前 に哲明さ
ん(勘 三郎)が大阪松竹座で伊之助をなさっ
てたとき、僕は又市という頭の足りない男を
装っている狂言作者の役だったんですけど、
ある日、女房おきわ役の福助さんが急病で、
開演 一時問前くらいに僕に代役が廻ってきた
んです(又市の役は今の又五郎さん、当時の
1
2
会いたい人
歌昇さんでした)。でも毎日舞台に出てて芝
扇雀さんはプロフェッショナルとして、台
とでしょう。今でも好きな言葉 の ―つです」
本をじっくり読み、自分で役を研究し工夫す
居がわかってましたから大過なくつとめられ
た。
「
関西系の役者は特にそうですよ。東京 のお
ることをいつも心がけている。
きたね、お前いなかったらとてもできなかっ
客は、お父さんによく似てきたとか、誰々の
そしたら哲明さんがびっくりして、よくで
たね‘って 言っ てくれたけど、だって‘僕ら
型が身についてきた、ってそのまんまを喜ぶ
けど、僕の祖父( 二代目雁治郎)が若いころ
を曾祖父が観に来て、自分で工夫してへんや
僕の中でとても大事にしてきたのは、プロ
哲明さんはその意識がとりわけ強かったと思
ろ‘って激怒して楽屋に入ってきたそうです。
(初代脱治郎)の当り芸をその通りにやるの
いますよ。お金を払って観てくれる人で劇場
哲明さんにも関西の血が流れてるし(先代
京極の青年歌舞伎の座頭をつとめて‘曾祖父
を満員にすること、その人たちが喜んでくれ
中村屋のおじさんの父親は 三代目歌六で関西
フェッショナルという 言葉 なんです。お金を
て、また次につながること 。そう いう意識の
の役者ですからね)、人に教わって安心して
。
こ
れを省くとお客さんに意味がよく伝わらな
では省いている 言葉が見つかったんです
本じゃなく文楽の床本をよく読むと、歌舞伎
今の『沼津』のお米にしても、歌舞伎の台
。
りました。
強い人がそばにいたんで、僕も自然とそうな
いただいていることに対する責任というか。
はプロなんですからね。
。
しまうのは落し穴だと僕も思ってます
京都のあるお寺さんが、あんたにこの言葉
あげるわ、と 言っ て、『玄中玄』と書 いてく
ださった。この 言薬 が一番大事やで、って
玄は玄人の玄。プロ中のプロになれ、ってこ
1
3
ヽ4
、>
その件りとは、十兵衛がお金と共に置いて
ほぞのお
いった開緒甚きから実の兄とわかり、残され
ていた印籠が夫和田志津馬の仇敵沢井股五郎
。
の持ち物と知れて、あとを追いかけ、仇の行
方を訊き出そうとするところ
「平作が『これお米、わりゃ血相してどこへ
とと
行くのじゃ』って 言 う。『どこへとは父さん、
あに
この印簡を持っていやしゃんす兄さんは仇の
手がかり、あと追っかけて、志津馬さまへ』
役をつとめ、その後ずっと舞台から遠ざかっ
。
て大学を卒業し、 二十 二歳から歌舞伎に本格
復帰した
。
今ではその経緯が実感できないほど、本当
に頼もしい役者になったものだと思う
。
扇雀さんは昭和三十五年十二月、四代目坂
田藤十郎の次男として東京に生まれた
母は宝塚出身の女似で、のちに政治家とな
った扇千娯゜
い。で、床本を見てみると、『あと追っかけ
ドウに、「結ばれた二 つの扇」(藤十郎はその
の家のすぐ近くの新聞販売店のショーウィン
その昔‘ 二人の婚約が報じられた当時‘私
て股五郎がありかをたずね、志津馬さまへ』
ころ 二代目扇雀)というキャプションで美男
でもこれだとはっきりしな
と 言 っているんですよ。『沼津』には沢井股
し、楽しげに芝生で寄り添う写真が出ていて、
美女が「北」という文字のように足を投げ出
。
五郎が登場しないんで、これを 言 うとややこ
って言 うんです
しくなるというわけで、誰かがカットしてそ
さて、扇雀さんの初舞台は、昭和四十二年
。
は特に通しで上演してますし、これ 言 わない
十 一月歌舞伎座。曾祖父の
三十 三回忌追善で、
飽かず眺めたものだった
とお客さまによくわからない、と思うんです」
兄の智太郎(翫雀)、弟の浩太郎(扇雀)の
れが例になってるんだと思いますけど、今回
扇雀さんは六つで初舞台を踏んでいくつか
14
会 い た い人
披露のために川口松太郎が書き下した
曽我』に出演した。
『紅梅
「初舞台なのに『紅梅曽我』には台詞もかな
だそうです。兄の智太郎は御成婚当時の美智
生で、これは皇太子の浩宮様にあやかったん
父が八汐に出たときと 二回だけです
のときと、翌年五月に『先代萩』の千松で祖
父の役。僕が祖父と同じ舞台を踏んだのはこ
たちの母親の役で、祖父は伊藤祐親という祖
りあって大変でした。父が万却御前という僕
子妃殿下から川口先生が勝手に 一字頂戴しち
さんに本当に殺されちゃうんじゃないかと思
「僕の本名は浩太郎ですが、名付親は川口先
やったようですね。僕は次男でも浩太郎なの
うほど、毎日怖かったですね(笑)
。
。
政岡は
お祖父
せんまつ
は、兄弟平等に御自分の松太郎から太郎をく
歌右衛門(六代目)のおじさんでしたけど、
ごい拍手と「成駒屋!
」 という掛け声が間え
殺されてずっと舞台に倒れていても、ものす
やしお
ださったんだと思います」
初舞台当時の歌舞伎座筋苔に、川口松太郎
氏のこんな談話が載っていた。
太郎は次男坊タイプの暴れん坊で和極性を持
いたら、お祖母さんはずっと僕を見てたらし
を開けて少しずつ身体ずらして見ようとして
るから、今何やってるのか気になって‘薄目
っている。その性格そのままに、曽我兄弟の
くて『死んだ子が動きまっかいな』って、あ
「兄の智太郎はおっとりして和事型‘弟の浩
祐成、時政の幼少のころ‘ 一萬丸と箱王丸に
とで叱られましたけどね」
ばあ
当てはめた」
栽の浩太郎君は学校が大好きで、テストはた
受双したにもかかわらず、舞台からずっと離
(
三島由紀夫作)の島君で国立劇場特別買を
浩太郎は初舞台から 二年後‘『椿説弓張月』
いてい百点、九十五点以下は取ったことがな
れてしまう。
筋書には兄弟のインタビューもあって、六
い、と 言 っていた。
1
5
うんですって。『わてほんまはあんたとやり
言も
るが橋之助君。すると彼に向って何度で
の鳴門』)のお弓やってて、子役の巡礼おつ
すね。お祖父さんが『どんどろ』(『傾城阿波
けど、自然とそういう流れになったみたいで
「僕はいやだとはひと言も言ってないんです
慶應義塾幼稚舎の入学式でご両親と一緒に記念写真。
1
6
会 い たい 人
とうないんね‘孫としたいんやけどヨメが怖
うちにいないし、僕が中学くらいのとき国会
者の家の雰囲気じゃない 母は女優やってて
のか、あれは不思議でしたね だから全然役
議員になっちゃったし、親子の交流がほとん
。
言 ってたって、
おうて出してくれへんね』って
兄貴も僕も小学校から大学まで慶応でした
どなくて、僕の成績表なんか 一度も見たこと
。
いまだに 言われますよ(笑)。
から、舞台に出るために早退けしたりすると、
ないと思う
。
ほかの生徒に示しがつかないからこれ以上休
。
すが‘僕はその気になれなかった 大学を出
兄貴は十八くらいから舞台に出始めたんで
任の先生に 言われて、とにかく義務教育のう
たら役者になる、四年くらいスタートが遅れ
むんだったら別の学校へ行ってほしい、と担
ちは学業に専念させよう、せっかく慶応に入
ても真剣に努力すればそう変らないだろうと
いう理屈で、もう四年間僕にください、って
。
ったんだから、という気持が母親の中にあっ
両親に申し出たら、四、五日待たされて、い
昔の役者は中学くらい
たんだと思いますよ
あとから聞く
いよ、って返事が来たんです
。
わゆる役者バカではこれからの時代は通用し
までで、芝居のこと以外何にも知らない、い
だから本当は避けたいと思ったそう
。
になるルートを提案されたけど、僕はひと晩
で、僕が大 学二 年のとき、ある政治家の秘書
が悪い
いうのは同じ役を取り合ったりしてどうも仲
それに母親が見たところでは、役者の兄弟と
。
うで、それなら政治家に、と考えたようです
と、僕は役者にならないんだろうと思ったそ
」
ない、 一般常識を身につけないと、と思った
んでしょうね
。
それにしても、何度か舞台に立って拍手や
歓声を浴びた経験があって、そう簡単に遠ざ
かれるものなのだろうか
「
まず父はうちに稽古場があっても、まった
くうちで稽古をしないんです。どこでしてる
17
考えて断りました。もしなってたら、僕はそ
れなりの政治家になってたような気がします
けど、あくまで『たられば』の話ですからね‘
これは」
扇雀さんは慶応の法学部政治学科に入学。
体育会のゴルフ部に入る。
「慶応体育会というのは三百六十五日休みな
も子
。
昭和五十八年 三月、大学を卒業し、その五
月にはもう京都南座の舞台に立っ ている
「顔の作り方からしてわかりません 。で
供じゃないから顔突き出してや ってもらうの
て初日には自分で化粧もやりました
。父 の
は恥かしいんで、父のお弟 子に教えてもらっ
。
『只今御門前へ……』って赤穂義士 の訪
『土屋主税』で、僕は河瀬六弥という前髪の
役
れを 言 いに来るだけの役なんですが、終った
しのハードな練習なんです。 一日四、五百発
ラウンド駆け足で廻るような
2
ら父に『お前、焦点が合ってへんかったで』
球を打って、
ゴルフをするんですよ。まるで軍隊みたい。
と 言 われました(笑)
まった<党えてない
僕はやるんだったら徹底的にやるタイプなん
ですけど。
。
で、どっちつかずはいやだった。今はこれに
、
です。三年前の南座の顔見世で祖父が倒れて
その前月の四月十 三日、祖父が亡くなるん
いました。みんな卒業後にゼロからスタート
兄員が『曽根崎心中』の徳兵衛を代役でつと
専念して、卒業したら歌舞伎に就職する気で
するんだから、歌舞伎だって同じこと‘くら
めて評判になったんですが、そのときはゴル
。
いに思って何の不安もなかったんですが、や
。
フ部の冬合宿中でお見舞に行けないし、お祖
もう
僕は大人になってから祖父と 一度も歌舞伎
父さん大丈夫かな、と思ったくらいでした
一
はりこれはちょっと甘かったですね
日が四十八時問ほしい、と思ったくらい‘ 基
礎を身につけるのは大変なことでしたから」
の話をしたことなかったし‘ 一緒の舞台にも
18
会いたい人
立てなかった。もったいなかったと思います
なり、あるとき『野崎村』のお染の役が来た
。
ば中村屋の小山 三さんですよ(笑) 親父が
。
『ねえはんに問け』って。桜彩さんのことで
「うちには桜彩という古い女方がいて、言わ
僕の中に絶対先祖の役者の血が流れてること
すよ。でもお弟子は本舞台でお染なんかやっ
ね。それまで祖父は生きてたんだから。でも
んに感じが似てきた、ってよく 言 われますし
は確信しているんです。このごろお祖父ちゃ
たことないから、雛助さんのを見て党えてた
父が見に来て、ダメだ、それ‘ちゃうで‘っ
。
のを、僕に教えるわけですよ 初日の前の日‘
ね」
復帰の半年後、近松座の『姻山姥』で糸萩
の役がつき、初めて女方をつとめる。
の人だからヘソ曲げちゃって(笑)、あと教
って思いますよね 教えた
だったら最初から教えてよ‘
もに歩けない、あれもこれもできない、とい
えてくれなくなっちゃう
。
う状況なのに、父がお前が女方で智が立役だ‘
いても、それで結構‘私はよう知りまへん、
て変えられた
って言 っんです。このときは武智鉄 二先生御
「声の出し方がわからない、衣裳を行てまと
夫妻に徹底的に教えていただきました。その
なんて
。
も
ねス、でも 言っなれば、どうなの?
どうお?って訊
『
ねえはん』も昔
ころお 二人は鎌倉にいらっしゃって、逗子の
へえ‘言つ なればですねぇ‘って(笑)、そ
。
渚ホテルの奥の座敷で、奥様の川口秀子先生
れからやおらいろいろ 言い 始めてくれる
。
が地唄舞をひたすらお稽古してくださる。武
う本当に苦労しました」(つづく)
。
智先生は台詞を口写しで教えてくださって、
」
それでどうにか初めての女方の舞台に立てた
んです
それからはどんどん女方の役がつくように
1
9
こうる
じっ
ぼ
響流+方
う
。
仏は 一切衆生をあわれみて、よきをも、あしきをもわたし給え
ども‘善人を見てはよろこび、悪人を見てはかなしみ給えるなり
。
(
法然
t人
。
。
仏さまに喜ばれる日暮らしを
ー
。
「
念仏往 生義」)
肥
、
El
科ら
ですから
。
よき地によき種をまかんがごとし、かまえて善人にしてしかも念
仏をも修すべし これを真実に仏教にしたごう者というなり
悪人を見ては悲しまれるのです
、
阿弥陀さまはあらゆる人々を哀れみ、善 い人も悪い人もお浄士 へ粗き渡して下
さいますが ‘善 人を見ては 喜 び
沃な 土地に良い種を蒔けば良い作物が実るように‘是非とも善人としての
う者」 というのです
ー
しを送るよう心がけ、しかもお念仏を称えなさい こうした人を 「真に仏教に従
ぉ•も・て•な・し
閉流+方
。
。
平成 二十六年も「幣流十方」をどうぞよ
さて、昨年十 二 月 二日、ユーキャン新語流行語大賞が
あけましておめでとうございます
ろしくお願い致します
。
まずは
〈
今でしょ! 〉〈 じぇじぇじぇ
〉〈倍返し 〉 の 三語です
。
なるほど、
発表され、昭和五十九年の創設以来、史上初、何と四語が大代に選出されまし
た
そして、もう
―つの大箕は、滝川クリステルさんが、オリンピ ック招致
一年を代表するにふさわしい言葉ばかりで
どれもこれも多くのメディアを通じて繰り返し報道され、自然と私達の口をつ
。
いて出てくるようになった、まさに
した
〈
お
•も・て•な·し
〉 です
。
。
こちらは、日本社会に
活動の最終プレゼンテーションにおいて、パフォーマンスを交え、最後には合
掌の姿で紹介してくれた
根付いている、お客さまを歓待する心を見事言
にい表してくれました
。
日
一語で表現できます それは見返りを求
。
滝川さんは、流暢なフランス語のスピーチの中で、「オリンピックを招致し
〈
おもてなし 〉 という
ている東京は、私達にしかできない独自のやり方で皆さまをお迎えします
本語ではそれを
めないホスピタリティの精神であり、日本人が先祖代々受け継ぎながら、現代
本の最先端文化にも深く根付いている心そのものでもあり、お迎えするお客
H
。
さまを心から大切にすることを示しています」と述べられました
21
なるほど、さまざまな統計を見ても、わが国ほど、お客さまを丁寧に迎え入
〈
おもてなし 〉 の心は、滝川さんがおっしゃるように、私達のご先祖
。
れ、微に入り細に入り歓待する国は他には見あたらないようです もちろん、
そうした
。
。
そして、その源泉こそ、自分よりもまずは回りの人々のことを第 一
さまが、その長い歴史の中でゆっくりと育み、培って来てくれた大切な迫産で
あります
に考えようとする大乗仏教の精神に求められるものでしょう
わが国において宗派を越え、僧俗を問わず、広く仏教徒に唱えられている誓
い(総願)は、度(迷いの世界に生きるすべての人々を覚りの境地に渡[度]
らせるという願)・断(迷いを生み出す数限りない煩悩をすべて断滅するとい
う願)・知(数限りないみ仏の教えを学び知り尽くすという願)・証(この上な
。
このように大乗仏教の教えは、自身に利益を得ようとする願
い覚りの境地をわが身に体得[証得]するという願)の四つの段階から成り立
っています
。
(断・知・証)の前に、あらゆる人々を必ずや覚りの境地に救い導こうとする
願(度)を第 一に据えているのです
もちろん、法然上人がお示しのように、私達 一人 一人が成し得る仏道実践な
ど、まことに微々たるものであって、ましてや、この世において、この身この
22
愕流十方
。
ですから、浄土宗の教えに帰依した者が唱える総願には、これら四段階
ままで党りを目指すことなど、考えることさえおこがましいと 言わざるを得ま
せん
一節が加えられていることを忘れてはいけま
の誓いの後に、「お念仏を称える功徳にあずかり、皆共々に浄土往生を遂げて、
。
そこで此りを目指します」という
せん
しかし、だからといって、私達が成し得る仏道実践をおろそかにしていいは
ずなどありません 。「この身このままで鎚ることなど決してできない」という
倍返し(本来の「倍返し」の用例は「仕返し」ではなく、「ご恩返し」
〈
深い自省と謙虚な姿勢を保ちつつ、多くの方からこれまで与えていただいたご
恩への
。
そして、
〉 と心を決めて、
〈
おもてなし 〉を実践していくことこそ肝要なのです
今でしょ!
の意味です)〉 の思いで、それを先延ばしせず、 〈
周囲の人々への
そうした日暮らしを送っている念仏行者の姿を、阿弥陀さまは目を細めてお喜
〈じぇじぇじぇ
。
〉 なことに、そんな
びいただけることでしょう 。冒 頭の法然上人のご法語は、私達のそうしたあり
。
ようを優しく諭して下さるのです すると
念仏行者の心の内には、知らぬまに徳が積み重ねられていくようです
与えても減らぬ親切残る徳合掌(林田康順)
2
3
連載
一
ヽ
r.
ァ
r
J
田
和
男
宣
士~ ゜
,
~ 海
ヽ
こ旭
月
nを
求
め
て
壷 中 に月を求めて
。
家業 が 傾 き 寺 に 出 さ れ た 渡 辺 芳 蔵 は 、
*前号までのあらすじ
時は明治の中葉
。
オ気燦発ゆえ将来の宗門幹部として浄土宗学
小石川源覚寺住職端山海定の下、十五歳で得度し「海旭」
を名乗る
、浄土宗海 外 留 学 生 と し て 、 廃 仏 毀 釈 で 打 撃
(一九
00)
東京支校、同本校へ進学を許され、さらに明治三十三年
。
碩学ロイマ
を蒙った仏教再生の輿 望 を 担 っ て 、 当 時 印 度 学 の 拠 点 で
あったドイツはストラスブルク大学へ留学
ン教授の薫陶を受ける傍ら、キリスト教改革派、社会主
。
法名は三界の智者を意味するニャ
。
そんななか、ヨ—ロッパ初の比丘が誕生したと知
義者らと交わり、社会 福 祉 事 業 な ど 仏 教 以 外 の 知 見 を 深
める
。
しかし、すでに彼は、海旭と行き違いに、
り強い関心を覚える
ーナティロカ
。
。
すでに海旭は日本を代表する社会派和尚
。
ニャ
碧眼比
。
所は海旭が帰国して住職をつとめる深川は
爾来十六年、碧眼 比 丘 が 来 日 、 つ い に 二 人 に 邁 返 の
南伝仏教の聖地セイロン(現スリランカ)に渡って修行
中
。
時が訪れた
西光寺
ーナティロカは国際仏教界の泰斗となっていた
丘が、作曲家志望がビ ル マ で 比 丘 に な り 毒 蛇 に 悩 ま さ れ
。
ながらどんな修行生活 を お く っ て い る か を 語 り 終 え た と
ころで、話題はそれぞれの救貧活動に転じた
身内からの
抵抗を乗り越え
。
って周囲から激し
底辺の人々の救貧に地元の 寺
。
と
。
話しぶりでは 碧眼比丘の救貧事業は順調に
聞こえたが、始めるにあた
い抵抗をうけたのではないかと海旭は財った
自身も労働共済会を 立ち上げるときに周囲か
った
ら猛反対をうけたからだ 最初の抵抗は身内
からだ
って西光 寺 に 寄 宿している愛
して手を 差 し仲べるべきだと校意を求める
と、海旭をした
と 異 論が出て、
とは耶蘇の 専 売ですから、耶蘇にまかせてお
海旭先 生 、そんなこ
弟 子 たちの間からも、 「
けばいいではありませんか 」
海旭は思わず 言葉 を荒らげて 「こ、これこそ
。
仏教の仕 事 だ、な、なんとしてもやらねばな
。
周
自身の体験をふまえて碧 眼比
らない 」 と激論にな った
海旭はそんな
丘に訊ねた 。「すんなりといきましたか
囲から抵抗はありませんでしたか? 」
碧 眼比 丘 は苦笑 を浮かべた 。「ありました
25
とも
。
それはそれは激しいものでした
抵抗
。
の根拠は、間違 った因果応報論、輪廻転生論
の俗流解釈によるものですが、前世の行ない
。
尋ねたところ、私はキリスト教徒だと 後で
生活のための便法なのです
。
というわけで
わかりましたが、それは 信仰上の選択ではな
く
当初はアウトカーストからも抵抗がありまし
ったのだからアウトカーストに生まれ
「それでもロディヤーの中から私を慕
とい って碧 眼比丘は 一息い
が悪か
。
。
も出てきました
。
そうした見習い僧の中には、
って仏門に入り、島の隠遁所で修行するもの
れた
しかし ー」
た
特にカーストの最上位の有力支援者
。
たのだ、そんな連中に手を 差し伸べる必要は
ないと
にはそういう考えの方もいて、説得に苦労し
ましたが、最後は納得してくれました」
慈善は人の
財を奪う”弱盗
運営するにあたっての
”
関
門 “を思い出した
”
。
海旭は、もうひとつ労働共済会を立ち上げ
“か
内と外の両方からの抵抗はなくなりました」
おかげで
ロデイヤーの頭領の息 子がおりまして、私の
援助を受けるのはい
。
「当のアウトカーストの人々はどうですか」
。
「アウトカーストの人だけに許されてい
II
があります
生
業 II
周囲の誰からも敬愛されています
もとで比丘となり、いまや私の代理をつとめ
。
って大
「彼らを仏教に帰依
と海旭は質問を重ねた
ったのではないですか」
させるのは、生活にかかわることもあ
変だ
。
「おっしゃるとおりです」と碧眼比丘は頷い
た
る
。
。
そうそう、こんなこと
いが、場合によってはそれを捨てなければな
らないことにもなる
ある街なか
それは、畏友で東京帝大の宗教 学 の教授、姉
。
って最初は驚かされました
があ
。
。
姉崎はわざわ
崎正治からの
なぜ政府の替わりを仏教がしなければなら
「
った
で魚をさばいている人がいる セイロンやビ
ざ西光寺を訪れて悔旭にこう問い質した
って、殺生をしていいのかと
異議 “ だ
ルマはいわばほぼ国民皆仏教徒ですから、彼
も仏教徒だと思
26
壷中に月を求めて
ないのか
。
これについては、すでに仏教界に
きみ
そもそも私は幼少時には敬虔な
だろうと、良いことをなすのは良いことでは
。
然ということで育ってきたこともあるので、
ないですか
。
抵抗がないのかもしれません キリスト教の
も批判があることは知っているだろう
だと言っている、すな
II
カトリックで、貧しい人に施しをするのは当
わち楚人冠のいう慈善とはきみの社会事業、
よいところは大いに学べばいいのではないで
と同じ新仏教の同人の杉村楚人冠は、慈善は
また、私と同じ東京
。
労働共済会ではないか
すか」そこで碧眼比丘は逆に海旭に質問を投
II
弱
盗
帝大の宗教学の高楠順次郎くんは、仏教の慈
げ返した 。「では、貴僧はそうした周囲の反
人の財を奪う
善はキリスト教の模倣で仏教の真理から出て
論、異議にどう答えられたのか」
。
いないと断じている」
海旭は背筋を伸ばすと碧眼比丘の目を見据
えた 。「こう反論しました
海旭は姉崎とのやりとりを想起して碧眼比
求められる宗教とはなにかだと」海旭の口調
要は現代社会に
丘に質した「救貧は政府の仕事である、ある
の熱のこもった変わり様に、今度は碧眼比丘
的宗教は無用
。
った。「
神学的宗教、教会
牧師や僧侶を育てるだけの宗
。
社会生活に即した宗教こそが実に
ト教は貧富のすぐれた調整者であることを目
拙僧は、ヨーロッパの宗教、つまりはキリス
。
時代の要求する宗教というべきですその点、
教も無用
。
いは仏教がやることではないとは思いません
。
また、慈
が気圧される番だ
でしたか」
碧眼比丘は大きくかぶりをふった。「先ほ
った<効果をあげてい
どお話ししたようにセイロン当局の救貧政策
。
。
II
それは当然のとこだと
政府がやらなければわれわれがやる
は形だけのもので、ま
ません
しかない
さらに、
の当たりにして、日本では仏教徒こそこれを
。
弱盗“だなどというのは、
ためにする極論で私は採りません
担うべきだと」海旭はそこで 一息入れると語
善は人の財を奪う
キリスト教の模倣だという批判ですが、真似
27
気をいっそう強めた
。
「仏教は本来生活即宗
教であって、利楽有情だの衆生恩だのという
その立
「ご指摘のとおりで頭がいたい」心なしか海
教とは似て非なるのもではないですかな」
旭の語気がいささか弱くなった 。「それはわ
が導師、福田行誡師がかねてから嘆いておっ
。
道徳の根基を有しているではないか
たことです
他教には類のない飛び切りの社会道徳、公共
教の根底において現代社会の規範となり、社
まっていることに危機感を抱いて、新戒律主
そもそもわがセイロンでは、そして隣国
。
うとしているところです」
半島からの困窮者に
救済の手を
碧眼比丘は手をふった
。
「いやいや貴僧を
私も婦国してますますそれが強
会問題を解決するための思想上•実行上の基
義をとなえて、なんとか生活即仏教をめざそ
。
準を示すものということができる これぞ仏
教の精神だと思うが如何、と」
碧眼比丘は何度も深く頷いた。「生活即宗
。
。
教であれ、という考えには私も大いに同感で
す
責めているのではありません。貴僧の生涯不
のタイでもビルマでも、仏教がいわば国教
国民の八割九割が仏教に帰依しており、いや
犯、禁酒禁煙主義には大いに敬意を表したい
。
がうえでも生活即宗教ですから、疑念の余地
そしてそれが日本の仏教を再生させる弾みと
。
はありません」碧眼比丘は口調を厳しくして
。
そのためにも、
これから先、貴僧は社会事業をどうされるお
なることを願っております
つもりか」
。
つづけた
「実は日本もセイロンほどではな
いにしても国民皆仏教徒だと思っていました
しかし残念ながら正直いってがっかりさせら
「実は、来年からやろうと準備をすすめてい
ることがあります」海旭は目を輝かせて身を
れました 。在家 の手本となるべき比丘たるも
のが妻帯はするは酒は飲むは これでは仏教
乗り出した 。「それは、このところ急増して
。
の生活化であって、貴僧のいわれる生活即仏
28
壷中に月を求めて
。
いる半島の人々への救貧と教育感化事業です
そのための学校をつくるべく建物、職員は確
。
政治、それも国際問題と
旭には、どうしても訊いておかなければなら
ないことがあった
。
宗教とのかかわりである 実はこのとき海旭
彼らはアウトカーストではあり
。
保しました
はインド独立運動の闘士で宗主国の英国人総
いま
ませんが、ひどいことに日本ではそれに近い
。
目の前にいるニャーナティロカは、第 一次世
一党を支援していた
でありながら
界大戦勃発と同時に、仏教高11
リ・ボースとその
督を襲撃して日本に亡命していたラス・ビハ
。
扱いをうけています」
の浄土宗労働共済会では、設立以来、正月の
すでにその下地準備はなされていた 海旭
元日 二日に千食の雑煮の炊き出しを行なって
ドイツ人であるために、スパイの容疑をかけ
。
いたが、日本人も朝鮮人も区別なく接待され、
られて収容所に抑留された
。
某国からその疑いを抱かれている節があった
いや、今もなお
当時深 川枝川町にあ った朝鮮人居住地からも
大勢がやって来ていた
そんな人物だからこそ、海旭が抱えている
朝鮮半島からの困窮
者に対する本格的救済事業は、仏教によるも
「国際問題」にも貰重なアドバイスがもらえ
。
のとしては本邦初といっていい先駆的試みで
そう思って、今度は海旭の
についてうかがいたい」
。
(この項つづく)
。
るかもしれない
。
あった
ほうから会話に転轍機のスイッチを入れた
海
。
「それは素晴らしいことです ぜひとも成功
「そろそろ夜があけます 話はつきないので
。
することを祈っています」碧眼比丘はそう 言
。
すが、ここで話題をかえて、貴台の抑留生活
った
うと、手を差し伸べて海旭の手をしっかりと
握
。
ったが、時計をみると針はさらに
社会事業と仏教、宗教をめぐる議論をさら
に深めてい
一時間すすんで 三 時になろうとしている
29
柴又
大江戸ウォーカー
森消鑑
江戸を歩く
を描いている
。
このあたり、中川の流れは緩
新宿は、千住から最初の宿場で、上宿、中
。
やかで、周囲は、のどかな光景を醸している
宿、下宿と並び、宿場町の体裁を整えている
新宿(にいじゅく)
まず
葛飾柴又は江戸から 二里半、江戸郊外にあ
新宿でくつろいだ後、さらに東に歩くと、金
。
し
。
る
。
千住大橋を渡り、千住の宿場町(北千住)が
町村
。
終わる処で、奥州街道と別れて右に曲がり、
川(古利根川、江戸 川)である。その昔、利
。
通常、江戸っ子は水戸街道を行く
そのまま水戸街道を東に歩く 小菅村、砂原
根川はここを下って江戸筍に注いでいた
これが利根
村を抜 け 、 亀 有 村 に 着 く と 、 南 北 に 中 川 が 流
かし、度重なる大洪水に見舞われ、これに対
。
。
。
れており、ここで渡し船に乗り、対岸の宿場
に分流する大工事が連綿と行われ、本流は、
処するため、江戸初期から上流の関宿で 二 つ
にいじ*.`
った。このような経緯のため、今の江戸川は、
銚子へ、そして分流は江戸而に注ぐことにな
すると大きな流れに出る
この宿場を江戸っ子は、新しくで
町に粁く
広重はこの光景を絵にしている。中
。
そのた
きた宿と 言う意味で、新宿と呼んだ
。
め、この中川の渡しを「にいじゅくの渡し」
という
。
水 戸街道は古利
この分流の放水路として
。
そして利根川を渡
っ
根川にそってちょっと北上し、それから川を
の拡大工事はその後も続く
。
江戸時代には、そのまま利根川とか古利根川
。
川はゆるやかに流れ、 土手松林の側に渡り客
。
と、呼ばれている
。
。
鯉、
渡し場
二人
段々を川縁に降りる
の待機所というべき宿が描かれている 宿の
右手に渡し場
の処で小舟に乗って釣りを楽しむ
。
。
渡る前に、金町関所(松
ってさらに束進する
て下総の国に入る
戸関所)があり、ここで旅人は調べを受けて、
渡
この絵は、亀有側から新宿方向
スズキ、せいご、なまず、鮒などが釣れる
。
江戸に向かって荷物を運ぶ、帆掛け船が川の
中央を走る
3
1
それから渡しに乗るのである
。
。
なにしろ江戸
。
。
「入り鉄砲に出女」が厳しく詮
への入り口、出口であるから、箱根の関所に
。
次ぐ重関所
議された
この 関 所 の 手 前 に 、 南 に 下 る 道 が あ る 水
。
この分かれ道から北に上る水戸
戸街道を右に曲がって、しばらく歩くと、柴
又村に出る
。
街道沿いに、鎖座しているのが香取宮である
この辺り、旅人の通行址も多い
香取宮 (
葛西神社 )
江戸 期 に は 香 取 宮 と 呼 ば れ て い た 、 こ の 神
。
なにしろ利
。
社も明 治 以 降 、 葛 西 神 社 ( 東 金 町 六 丁 目 十 番
一帯の総鎮守府とし
ったのが
五号)となる 創建は平安末期( 一―八四)
始まりで、広い葛西地区
葛西 三郎消重が香取神宮の分霊 を祀
徳川家康も立ち寄ってい
。
そして当社で行われていた、人形芝居の
。
て崇められていた
る
。
。
家康は江 戸東の鬼門封じを
。
神事を見て大感激する その結果、御朱印を
送ることになる
当社に託したのではなかろうか
根川から東は下総の国なのだから
。
。
。
この時以
葛西囃子というが、単なる地方の存在
香取宮は「葛西ばやし」発祥の地として名
来、当宮でも家康を奉ることになる
高い
った
ではなく、後年、神田の天下祭り、赤坂の山
王祭、深川の八幡祭、浅草の 三社祭とい
。
五人ばや
別名 「
江戸を代表する祭りのお囃子の大半をこの葛
西囃子が占めることになる
。
し」 我々が今日、祭りで普通に目にする、
◆ 広● 「にいじゅくの渡し」手前は亀有、対岸
が新宿
32
江戸を歩く
柴又散歩
`渡し
.. 広重給方向 〇 内は給書
•
散今ルート
江戸城
下総 国
江戸 湾
◆散歩図
3
3
お囃子の源流ともいえよう
。
葛西囃子は、家
飢饉
。
日敬上人は、この板本蓉を背負って江
戸 の町を歩き、病気、災害で苦しむ人々を救
この頃、江戸中に庚申信仰が大流行
康も見た、かの名高い人形芝居操り狂言 (三
。
済した
。
番斐)のバ ックミュージックとして発展して
し、いたるところに庚申様や庚申塚が建てら
辺り
さんが活躍する舞台で、想像できる
。
この寺は幸いにして、第 二次大戦の戦禍を
。
。
次第に、門前町が形成され、そのよすがは寅
は、庶民の寺として親しまれることになる
。
きたようである
れていた
。
。
こうしたことから、柴又の帝釈天
柴又帝釈天
香取宮の祭りを楽しんだ後、利根川(江戸
。
まもなく帝釈天に着く 柴
を見ると、治々と流れる利根川の光景
川)を渡らずに、川に沿って、南に下る。左
は柴又村の田畑
免れたために、今日でも江戸情緒を残し、そ
。
又の帝釈天は、今また、映画「寅さんシリー
れが人々を惹きつけるもとになっている
。
商店街が終わると、独特な、跳ね上げ屋根の
と
ズ」で脚光を浴び、訪れる人が増えているが、
もあれ建造物は幾度も建て替えられている
。
。
。
当寺は、江戸に流行った、庚申信仰の
江戸時 代 に も 、 大 勢 の 参 拝 客 で 賑 わ っ た 処 で
ある
こしら
天門は明治 二十九年、名エ坂田留吉の招え
正式には
優美な張りを持つ 二天門が眼前に現れる 。ニ
。
メッカでもあった
柴又の帝釈様
経栄山題経寺(日蓮宗) 寛永の 一六 二九年
は小さな山門で、入ると正面に帝釈堂があり、
。
納められている 二天像は平安の作 江戸期に
板本尊が再発見されたのが
。
に開山。日蓮聖人が自ら刻んだ「帝釈天の板
本尊」を有する
右に祖師堂、左に庫裡が配置されている。ニ
に完成されたもので、昭和の名鐘とされてい
天門を潜って左側の大鐘楼堂は、昭和三十年
まさに、その日は庚申の日
。
以来、当寺はこの日を縁日と定め
一七七九年の春
。
時あたかも大勢の死者を出した天明の大
。
であった
る
34
江戸 を歩く
る
。
。
総ケヤキ造りの本堂(帝釈堂)も坂田留
。
そして帝釈堂の内殿に帝釈天板本尊
し
よっと川沿いを下ると歌で有名な矢切の渡
。
。
利根川の向こうは下総国である 渡ると
。
矢切村(松戸) 戦国時代、ここで国府台合
吉の作
。
。
。
。
江戸以前、下
矢切れへの渡し
矢が切れて敗北 地名として残った
っている
今日も
が奉られている 内殿の外部は全面装飾彫刻
そして釈迦
戦が行われ、里見八犬伝で有名な里見方は、
。
が、題経寺の本来の本堂である
。
で覆われている 帝釈堂の右側に建つ祖師堂
。
民営の渡し船が通
さらに南に下ると、国府台
。
堂は江戸末期に建立された当寺最古の建築
である
。
これは利根川に流れ着いた溺死者
かわ
川
鴻の台
釈迦堂には奈良時代作の釈迦如来立像がある
また、題経寺の慕地には、天明の大飢饉を
。
呼び起こした浅間山噴火溺死者の供整塔が立
っている
を柴又 村 の 人 達 が 引 き 上 げ 、 供 養 し 、 当 寺 に
。
建てら れ た も の で あ る ( 区 指 定 文 化 財 )
利根川
矢切の渡し
。
帝釈 天 か ら 利 根 川 ( 江 戸 川 ) に 向 か う と 川
ちゃ
沿いに今日も有名な川魚料理の店がある
千家は、安永年間( -七七 二\八 一)、川甚
ほんのち
帝釈天をお参りした後に
。
。
3
5
は党政年間の創業
酒を呑みながら旨い料理を味わう
◆広重「鴻の台、とね川風景」
総国の 国 府 が 置 か れ , 国 分 寺 が 建 て ら れ る
。
江戸期にはコウノトリが棲み着いたため鴻の
台。ここで下総国から江戸に向かって、広重
。
は「拇の台、とね川風景」を描く 鴻の台は
。
その果てに江戸城、浅草寺、東本願寺、
展望が良く、川を挟んでどこまでも拡がる平
地
。
。
荷物
その
上野の 山 が 見 え た 。 絵 の 右 端 中 央 に は 富 士 が
上で町民が江戸の方向を眺望している
描かれている 。左 側は鴻の台の高い崖
。
利根川の本流は関宿から銚子に
を積んだ帆掛け船が数珠つなぎに走り、真に
絶景である
。
下って い る が 、 江 戸 と 下 総 を 分 け る 、 こ の 分
流も荷物の運搬ルートとして大活用された
木川、 竪 川 を 通 じ て 江 戸 に 物 資 が 運 ば れ た の
。
● 広重「堀江ねこざね」
◆ 広重「利根川ばらばらまつ」
利根川の内側に流れる、中川に入り込む小名
。
堀江村、猫実村
である
利根川が江戸湾に注ぐ、下総側にあった村
が堀江 村 、 猫 実 村 で あ る 双 方 と も に 漁 村 で 、
ここで捕れた魚介類を江戸に行商に行く人も
ぷ~.,,
^ヽ
36
江戸 を 歩く
多か
った
。
。
両村の家並みを分けて中央に走る
そして古川、新川
。
。
っている
。
。
。
処の人は中川番所と略して 言っ
。
小名木川は、隅田川に直結し、
物資運搬と隅田川、中川の氾濫を防ぐ目的で
しともいう
ていたが、有名な番所で中川の渡しを番所渡
張
ろ塩などが運ばれるため、船役人が厳重に見
。
中川付近になると里の人は、船堀川とか行徳
川と呼んでいる 中川を渡り小名木川に出る
この渡しは番所渡しともいわれている 小名
榜川、その先は利根川
木川に入る右手に中川御関所があり、なにし
。
(新たに掘削された運河)を通して中川へ
。
。
絵の左上には富士と丹沢の峰が描かれて
さらに 小 名 木 川 を 通 り 、 大 川 ( 隅 田 川 ) に 出
る
いる
これを西に遡上すると中川に出る
江戸湾に接しているため、川幅は広い
。
帆掛け船が漁をし
。
利根 川 が 江 戸 湾 に 流 れ 込 む 広 瀬 、 つ ま り 堀
。
江、猫実村の前に中州の妙見島があり、渡る
と古川
広重がこの利根川河口域辺りの様子を描いた
ある
と思われるのが、「利根川ばらばらまつ」で
。
。
絵の中央正面が妙見島 そこに確かに松の木
。
。
上空には白鷺が 二羽飛んでいる自
中央右に投網が投げられ,白魚を獲
がばらばらと立っている
ている
っている
できかねる世界がそこにはある
。
然そのものの優雅な光景 今日では想像すら
。
37
中川
さて、古川、新川を西に江戸に向かおう
●広重「中川口」
。
。
。
絵の中央を横断するのが中川で、船
この辺りを描いたのが広重の「中川口」
掘削さ れ た 運 河 で 、 普 通 は お だ や か な 流 れ で
ある
である
人を乗せた船が行き交う、下の川が小名木川
。
。
この絵は縦横無尽に張り巡
。
江戸初期、下総国佐
これを佐倉街道という
。
となる
逆井の渡しや逆井村の語源は、江戸
。
。
絵の上部は下総側で、渡しの
湾の満潮時に海水がこの辺りまで逆流してき
たことによる
。
側に家々が集まっている 多数の白鷺が舞う、
。
。
「
広重の大江戸名所百景散歩」人文社
【参考文献】
美景である
下左が「入り鉄砲に出女」を厳しく取り締まっ のどかな風景 ここも現代人には信じがたい
。
た水上関所「御番所」である 絵の上部左、流
れる運河は新川
らされた江戸の川風景を見事に表現している
中川 を 渡 ら ず 、 船 舵 を 右 に と っ て 、 北 に 行
。
逆井村、
くともうひとつ、小名木川と並行して隅田川
につながる人口運河、堅川に出る
さかさい
小松川 村 と 堅 川 側 の 亀 戸 村 を 結 ぶ 中 川 の 渡 し
に向かって描いている
。
が「逆井の渡し」 この辺りを広重は江戸湾
倉に行く人々は隅田川を渡って、竪川沿いに
中川に 出 て 、 逆 井 の 渡 し で 小 松 川 村 へ ( こ の
。
小松川 村 の 特 産 が 「 小 松 菜 」 で あ る ) そ し て
佐倉へ と 向 か っ た
元禄の頃からは、水戸街道を行き、新宿を南
下し、もとの佐倉街道に出るコースが 一般的
◆広重「逆井の渡し」
38
謹賀新年
平成二十六年
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法王
文正
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大本山善導寺
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総本山知恩院門跡第八十八世
増上寺
伊藤唯顔
大本山
法王
高橋弘次
法王
大本山くろ谷
戒金
光明 寺
八木季生
野龍海
法王
大本山光明寺
宮林昭彦
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浄土宗宗務総長
豊岡鏡年
誕生寺
法然上人御誕生地
浄土宗特別寺院
美作
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住職粂原恒久
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。
。
雅子
信子
井村善也
昌秋灯や手相見の掌のやわらかし
道路のひと隅に小さい灯をともしていたの
。
手を開いて差し出すと片手
を、今はあまり見かけないだろうから、屋内
と見てよかろう
緊張感はふっとやわらぐ
。
佐藤
た
で受け止める その掌をやわらかいととらえ
〈佳作〉相輪に粉雪舞うや古都の街
斉藤
増田
猟期来る父子相伝の革帽子
村人の人相よろしき秋の暮れ
。
か月か過ごすと帰って行く 寒い間暮らして
湖があって、季節が来れば鳥が渡って来、何
人家から離れたところに、小さいとはいえ
特
〈 選ふる里に小さき湖あり鴨帰る
●湖
功
ってくる
。
。
浜口佳春
斉田
嘗間あき子
いた鴨がいま帰って行くところだ しばらく
すると夏を過ごす鳥 がや
人造湖落ら葉うら寄るひどどころ
冬紅葉湖のほどりの殉難碑
〈佳作〉山肌の色変わり来ぬ秋の湖
●自由題
ってきた
っている
。
。
鯉も底に沈んでいること
。
。
である 波も起きない
。
池田伊吹
〈
佳作〉履かぬままの下駄の埃や歳の暮
―つずつ点る島の灯冬めきぬ
黄瀬
遠井美智雄
静かに浮 かんでくる いまその鯉に日が当 た
鯉の日向ぼっ こと 言っ てもよい 姿
。
が多くな った 時々暖かい日がや ってくると、
寒 くな
吉崎美和子
浮かびくる鯉に日当たる小春かな
仁
鴻
玉葱を植えて雨待つ屋敷畑
4
5
〈
特選
〉
選者=増田河郎子
浄土誌上句会の
お知らせ
兼題
光
""題
"
●相
誌上句会
〈
編集部 選〉
名
。
冬の海入り日飲み込む相克図
耳うれし川音の時雨相模川
秋森や相合傘の落書見る
冬の日の金運海き手相待っ
寒灯のチラシや育児相談所
繋留舟相互に曳いて在の秋
蛇穴に入る相の手はどっこいしょ
■湖
秋深く湖面に群れる秋茜
遥かなる西湖にたゆた、つ冬綾
北砥俄となるや淡水 湖
3
り ません
締切・ニ0 ―四年一月二十日
発表 ・ 「
浄土」 二〇 ―四年四月号
選者・増田河郎子 (「南風」主宰)
応募方法
1
名・佳作各
● いず れ の題とも数の制限はあ
間乙
悼る奈仁人さ 栄
か子
子+
雅裔懐
さし
ヽ
宛先
月刊
O
「
浄土 」誌上 句 会係
050
,11
〒 10
東京都港区芝公園
4 ー 7 ー 4明
照会館内
葉書に俳句(何句 でも可)と、住所 ・氏名を必ずお書き下
● 特選各
懐あ女
喜
藤島田田
藤乙
は美
子栄人
子
エ水横斉森営早
佐早森
どこまでも地味な湖紅葉す
照柿や湖畔に集う漕艇部
船影ひとつ湖面を滑るように冬
冬の蝶冬の湖面でこときれる
笹鳴けばダム湖湖底の村のこと
湖の見えて霜夜のロビーかな
行濁るダム湖を今朝の冬とする
柴町神柳秋内届
田田崎田山藤羽
幸惣由義秀隼
生太利孝雄人梓
郎亜
し ひとり舞台の店かな
近道は団栗道となっており
新裔麦の 一本残る秋思かな
営間あさ子
村松芳郎
工藤悼
秋蝶の ほ つほつと湧く花野かな 長谷 川裕
流木の紆余曲折のまま乾<
斉田仁
吊り橋は手を振るところ薄紅策 村田篠
天高
■自由題
樹木なぎ競いすぎゆく野分かな 森懐人
飯島英徳
傘寿に元祖涅槃の命観る
早乙女喜栄子
浮雲や馬駆る野辺の秋深し
柿のれん吊るして湯の街客を呼ぶ佐藤雅子
.. .. ... .... .............. ...................................................
46
編集後記
いう過酷な場面を描きながら、そこを生
クルは、ナチスのユダヤ人強制収容所と
出‘仏様が喜んでくれる願いをいっぱい
様々な経典で説き続けている。 一年の門
ではなく‘人の幸せを願ったときにあると、
仏教で説く幸福観も、自分の欲望の達成
き抜く力として、「人生の意味は自分の
『夜と霧』の作者ヴィクトール ・フラン
成追会の講演会で没老孟司先生のお話
岱澗
を聴いた。演埴の前を歩きながら話され
中にはない」という言葉を語っている。
新年の東雲空に杯をあぐ
る、力の入らない自然な 話 し 方 は さ す が
人間が生きる意味は、人のためという考
佐藤成 順(品 川 ・願行寺)
中村瑞 貴(仙台・愚鈍院)
野上智徳 (静岡 ・ 宝台院)
藤 田得三 (鴻巣.勝願寺)
堀田卓文 (静岡・華賜院)
本多 義 敬 (両国・回向院)
真 野龍海 (大本 山 消浄華院)
肱博之 (網代・教安寺)
水科 善 陛 (長野・究慶寺)
宮林昭彦 (大本 山 光明寺)
( 敬称略•五十音順 )
.
八卜巻 一H サ
編邸チーフ
編集スタ ッ フ
浄土
発行
編集 人
発行人
印刷所
株式 会 社
頒価六百 円
年 会 四 六 千円
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・ 明照 会館内
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佐藤良純
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平成 二十五年ト ニ JI
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印刷
長谷川岱潤
斎藤晃道
佐山哲郎
青木照窓
村田洋 一
持って、歩き出したいものである。(長)
というほかない。しかし内容は大変深く、
ると何度も強調された。
え方を、価値観の半分には tdV
ぺきであ
を
人間の生き方に対する問 い か け だ っ た 。
ート
戦前は自分の命を、国家や社会や人のた
以前がんの告知を巡ってアンケ
う人と、家族にはしないでほしいという
採ったとき、本人に虹接し て ほしいとい
めという考え方があまりに強く、その反
動か‘戦後は自分とは何か、自己中心的
人が‘七割でほぼ同数であったそうだ。
ともいえる方向へ偏りすぎていないかと
いう問いかけだ。
どんな状況下でも‘否過酷な状況下なほ
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ホーム ペ ー ジ
自分の人生自分のものという考え方は‘
中村康雅 (ii'J水•実相寺)
ど、人は人への思いやりや気辿いによっ
佐藤良純 (小石 川・ 光闘寺)
東海林良 雲(塩釜.煤上寺)
須藤隆仙 (函館・称名寺)
高口恭行 (大阪 ・ 一 心寺)
田中光成 (町[[( • 投運寺)
中 島真 成 (ff 山・梅窓院)
明らかな間違えと指摘し、その考え方が
飯田実雄 (駒ヶ根 • 安楽寺)
巌谷勝正 (目馬 ・ 祐天寺)
魚尾孝久 ( 三 島 ・ 願成寺)
大江田博 導( 仙 台 • 西方寺)
加 藤 亮哉 (五反田 ・ より修寺)
熊 谷靖彦 (佐買•本應寺)
粂 原 恒久 ( 川 越 ・ 蓮啓寺)
佐藤孝雄 (鎌介 ・ 邸徳院)
て生きることができるのかもしれない。
特別、維持、賛助会員の方々
自殺を誘引しているとする。
雑誌 「 浄土 J
48
か まち o ら 3 乞)
窓磁も峠緯
静岡新聞
かまちよしろう先生作新聞四コマ漫画 「ゴンち ゃ ん」が各地方新聞に掲載されています 。(
中国新聞•四国新聞 )
・
福島民報•宮崎日日新聞 •新日本海新聞・神戸新聞・岐阜新聞
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冨拉
國 f)'し I€)
山梨日日新聞
・
北日本新聞
•
・
夫活
..,;,.~ 云
文と写真
浄土真宗東京東本願寺派
光徳寺•平井泰雲尼
茶道歴30年
甘味処『初音』 東京人形町
法楽、法楽 。
祝慈をこめて今年も相変わりませずという気持ちで、新年を
迎えることができました 。
今回は、新春に相応しい老舗の甘味処 「 初音 」 のご紹介です 。
「 初音 」 の創業は、犬保 8 年と東京で最も占い甘味処で、江戸
の芳町風梢が残る人形町の I 「酒横「から水反宮交 差点の中間に
位骰しています 。 人形町周辺はかって「元 tr 原」と呼ばれてい
ました 。 吉原遊郭が江戸の拡大にともない浅位に移転したため、
代わって中村座をはじめ歌舞伎の芝居小)点が立ち、今も明治座
があるように芝届との縁が強いヒ地柄です 。
そんなところから、店名は歌舞伎 HJ 来「義経千本桜の道行初
音」からとって「初音」 。
寒い季節になると恋しくなるのが、
です 。
この 「 初音 」 のおしる粉
とくに 1優しい甘味と滑らかなこし餡に、香ばしく焼かれ
たお餅が入った「御前しる粉」 。
つきあわせの紫蘇の実の塩味もほどよく、おしる粉を引きた
てて K 品な色合 。 お餅は 1旺 I I 杵でつくという、このお店の索材
の良さがどのメニューも窺われます 。
中央区日本橋人形 11!)1-15-6
五番街ピル 1
東京メト D 半蔵門線水天宮駅徒歩 1 分 、
営業時間
月 ~ 土曜日
日 ・ 祝日
定休日
F
033666-3082
日比谷線人形町駅徒歩 2 分 ( 230m )
1
1:
00-20:00 (
L019:
30)
1
1:
00-18:00 (
L017:45)
年末 31 日 ・ 元旦 1 日
待望の書‘刊行なる!
ブッダガヤ
•
1
発行人/佐藤良純編集人/大室了皓編集チーフ/長谷川岱潤
佐藤良純
本体
2
000
円
山喜房佛書林
ー新石器時代から現代まで|'
大蓄提寺
D0
J1
monthly 0
2014
著
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