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秋田県内における鉄の生産と加工

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秋田県内における鉄の生産と加工
秋汪1地名研究会シンポジウム基調講演資料
あきた文学資料館(2010.03,10)
秋田県内における鉄の生産とかエ
秋田県教育庁払田騰跡調査事務所
高橋 学
はじめに
金属製品との初めての出会いは秋田から、と言うとにわかには信じ難いかもしれない。 しかしであ
る。横手市(旧山内村)虫内Ⅲ遺跡の縄文時代晩期前半の土坑墓(SK91)から出土した鎬が付され
た石剣の刀身は(第1図)は、青銅製の剣をほぼ正確に模倣していると金属工学が専攻の佐々木稔氏
がその著書の中で紹介している。晩期の開始時期は今から約3、200年前である。精巧な石剣が秋田の
地で作られたものではないとしても、縄文時代の列島内に模写の対象となった青銅製の剣が存在して
いた可能性は否定できない、と佐々木氏は結んでいる。(佐々木稔2008『鉄の時代史』雄山閣、同氏は
秋田県出身で元新日本製鎌先端技術研究所勤務、工学博士)
1 鉄製品の生産開始から秋田での鉄の初見まで
鉄製品の初見は、トルコ北西部アナトリア地方のヒッタイト帝国の王墓から出土した鉄剣とされる。
墓が造られたのは紀元前2、500∼2、200年頃とされ、日本では縄文時代中期にあたる。鉄の素材は鉄
鉱石とされるが限鉄とする見解もある。鉄生産の技術は、ヒッタイトが滅亡する前1200年以降に西
アジア一帯に拡散し、紀元前7∼8世紀頃には中央ョーロッパ地域から東アジアを含む広い範囲に伝
播していった(岩手県立博物館1990『北の鉄文化』図録)。前出の佐々木氏によると北インドに製鉄
技術が伝わったのは、紀元前10世紀頃と見ている。
一方、国内で鉄製品が出現するのは、弥生時代早期(紀元前4世紀頃か)とされる。それは福岡県
曲り田遺跡から出土した小型の板状鉄斧破片である。この鉄斧については、鍛造品か鋳造品であるこ
とを含め、遺物資料としての評価が確立していないことも事実のようである。
国内で製作された鉄器が認められるのは、弥生時代中期以降である。中期は紀元前2世紀頃からと
されていたが、近年ではさらに遡る年代も示されている。国内生産といっても、おそらく朝鮮半島(韓
半島)南部で製作された半製品(鋼素材を板・棒状に加工)を九州北部に持ち込んで精錬後に製品に
仕上げたと想定される。
秋田県内での鉄製品の初現はいつであろうか。能代市浅内の寒川n遺跡では3世紀頃の続縄文期(古
墳時代前期に相当)の土坑墓が6基検出され、うち2基からは刀子(小型のナイフ)と板状鉄斧(鉄
素材=インゴットか)が出土した(第2図)。刀子は第2号土坑墓から土器と共に発見された。刀子
は2点が重なって出土し、1点の推定される長さは20
cmで柄には樹皮が巻かれている。鉄斧は第4
号土坑墓出土であり、土器と共に発見された。土坑墓の形態から埋葬者は、北海道に分布の中心をお
く続縄文文化の精神性を強くもった構成員のようであり、より北方の地から末代川河ロ域に南下した
−1−
集回の墓地であったと想定される。
次に鉄製品が認められるのは、古墳時代中期(6世紀)に入ってからである。横手市田久保下遺跡
(現在の秋田ふるさと村内)では土坑墓からマキリとも呼ばれる柄付きの刀子が副葬されていた。こ
れも土坑の形態から北方民が埋葬されていたと見られるのである。
以上の2遺跡での事例から続縄文文化の担い手である人々が当時、通常では手に入れることのでき
ない鉄製品を保有していたことは何を意味するのか、非常に興味深い点である。
2 秋田県の鉄生産の実態
鉄生産は古代遺跡での調査事例から、大きく次の三段階にわけて理解される。
①製錬(製鉄)、②精錬、③鍛冶である。
①は、原料となる砂鉄あるいは鉄鉱石を多量の木炭と共に製錬炉で溶解し、鉄の塊を作り出す工程
である。
②は、①で作り出された鉄塊はまだ多くの不純物が含まれていることから、別の炉(精錬炉)で加
熱して鉄の純度を高め、鉄器の素材とするために鍛造する。製錬鍛冶・大鍛冶とも称される。
③は、②で得られた鉄塊から製品を作る(鍛錬)工程、小鍛冶とも称される。
①∼③にはそれぞれ炉が存在するが、①②は同一の炉で連続して操業していた可能性もある。いわ
ゆる製鉄炉とされる遺構は、①②段階の炉であり、そのいずれかあるいは連続しての操業か否かは明
確ではない。なお、①の前段階には原料の採掘・運搬、製鉄炉の築窯や木炭の製造(木炭窯)などが
必要である。
秋田県内の考古学的な調査により発見された製鉄関連の遺構は、古代と申世に限られる。近世以降
の事例は未確認である。①②段階の製鉄炉が発見された遺跡は次のとおりである。
(1)古代
古代における製鉄炉が確認された遺跡は、次の5地区の18遺跡である。なお、所在地の次の数値
が検出された炉の数である。
米代川上流域(鹿角・大館地方)では、堪忍沢遺跡(鹿角市花輪、13基)、白長根館I遺跡(小坂
町白長根、3基)、釈迦内申台I遺跡(大館市釈迦内、14基)、大館野遺跡(大館市白沢、3基)。
米代川河口・下流域(能代地方)では、竜毛沢館跡(旧ニツ井町切石、1基)、十二林遺跡(浅内、
2基)、寒川H遺跡(浅内、1基)、平影野遺跡(向能代、1基)、竹生遺跡(竹生、1基か)、中音
遺跡(朴瀬、2基)。
ハ郎潟東岸域(三種町)では、中渡遺跡(旧ハ竜町鵜川、1基)、高田谷地遺跡(旧ハ竜町鵜川、
1基)、泉沢中台遺跡(旧琴丘町鹿渡、4基)、盤若台遺跡(旧琴丘町鹿渡、14基)、小林遺跡(旧琴
丘町鯉川、3基)。
秋田平野(秋田市)では、諏訪ノ沢遺跡(上北手百崎、2基)、坂ノ上E遺跡(四ツ小屋、1基)。
由理地方(由利本荘市)では、湯水沢遺跡(悪法、4基)である。
以上のように一覧すると、横手盆地での検出例はない。炉の構築時期は坂ノ上Eが11世紀代とさ
れ、他は9世紀後半から10世紀代に限定され、10世紀代が中心を占める。製鉄炉の構造は、竪形炉
と箱形炉に分けられるが(第3図)、県内では竪形炉が圧倒的であり、箱形炉の可能性のある例は申
−2−
渡遺跡のみである。代表的な事例を紹介する。
小林遺跡は、ハ郎潟東岸の丘陵地縁辺に立地し、標高は60m前後である。沖積面との比高は50m
以上である。 2000年に高速道路(日沿道)建設に伴う発掘調査が実施され、遺跡は10世紀代の製鉄
・鍛冶関連の集落・生産施設であることが判明した。その特徴は丘陵頂部平坦面上に製鉄空間、鍛冶
空間、炭焼空間が認められ、素材や燃料の供給から精練・鍛冶段階まで一連の工程が一か所で執り行
われていたことが判明している(第6図参照)。
湯水沢遺跡は旧本荘市街地の南、悪法丘陵地の西向き緩斜面に立地する。その標高は56∼67mで
あり、沖積面との比高は約40mである。道路建設に伴い、2004年に発掘調査が実施された。製鉄炉
4基の他、鍛冶炉3基、炭窯15基が検出された。出土した鉄滓(鉄を作る際に出る不純物)は16ト
ンにも速する。
(2)中世
中世に操業した製鉄炉が確認された遺跡は、堂の下遺跡(三種町〔旧琴丘町〕鹿渡)と堤沢山遺跡
(由利本荘市川口)である。
堂の下遺跡は、古代の製鉄炉が検出された小林遺跡の北側、ハ郎潟東岸の丘陵地縁辺に立地し、標
高は60m前後である。
1998∼2000年にかけて高速道路(日沿道)建設に伴う発掘調査が実施され、12
世紀後半代の精錬炉2基、鍛冶炉3基、溶解炉2基、炭窯128基等が検出された(第5図)。鉄滓を
含む鉄関連の遺物は10トン以上である。ここでは採掘(砂鉄)・製炭・製錬・精錬・鍛冶・鋳造とい
う製鉄の全工程を含む一貫生産型の遺跡であり、県内唯一である。
堤沢山遺跡は、小吉川河口域の丘陵部に立地し、標高は15
m前後である。 2003∼04年に高速道
路(目沿道)建設に伴う発掘調査が実施され、13世紀頃の製鉄炉1基、梵鐘鋳造遺構1基、溶解炉
1基、鍛冶炉1基等が検出された。ここでは出土した鋳型から、梵鐘や磐(読経等の際に打ち鴫らす
楽器の一種)など仏具を中心とした鋳造が主であったことが判明している(第8図上)。
(3)鍛冶
鍛冶関連の遺構が検出された遺跡は、実数の把握はできていないが100を越えると見られ、県内全
域に分布は拡大する。製錬・精錬関係の炉が確認されない横手盆地の古代集落にも鍛冶炉は認められ
る。鍛冶炉以外にも炉の存在が予想される鉄滓(鍛冶滓)やフイゴ羽口(土製の送風管)が出土した
遺跡も加えると倍増する。特に古代集落遺跡を調査すると、少なくとも1基の鍛冶炉や関連する遺構
・遺物が認められるのが通例である。
鍛冶炉は県内では8世紀後半代から認められ、製鉄炉の操業時期に先行する。 8世紀代の鍛熔炉は
秋田城跡内で確認されており、律令政府による官営工房としての位置付けが朋確である。同じ城柵遺
跡である払田柵跡(大仙市・美郷町)でも多くの鍛冶炉・関連する工房跡が発見されているが、上限
時期は9世紀中頃である。その他の多くの遺跡では製鉄炉と同様に9世紀後半以降に操業が開始され
る。下限時期は製鉄炉がほとんど確認されたない11世紀代にも一定数の鍛冶炉が操業を継続してい
る。また鍛冶炉は、掘立柱建物あるいは竪穴建物内に設置されるのが通例であり、いわゆる専用とし
ての鍛冶工房である場合、兼用としての鍛冶炉付きの竪穴住居跡(建物跡)として検出される。前者
は秋田城・払田柵跡等の城柵遺跡で、後者は一般集落で多く認められる。鍛冶・鍛造に欠くことので
きない台石(金床石)は、払田柵跡・小林遺跡等で確認されているが、意外と出土州は少ない。また。
−3−
鍛冶炉の側に土坑は、“足入れ穴”である場合もある。鍛冶工人がこの中に入ることで作業効率を向
上させることを意図して構築しているようである(第7図)。これも払田柵跡・小林遺跡で確認され
ている。
3 鉄生産遺跡拡大の理由とは
9世紀後半∼10世紀初頭の時期を境として、特にハ郎潟束岸域・米代川流域、すなわち北緯40°
以北の地に製鉄・鍛冶関連の遺跡が急増する。これは大きな流れとしては、城柵内での鉄生産(主に
鍛冶)技術が一般集落にも広く浸透したと言えるであろう。官から民への移行は、元慶の乱(878年)
と十和田火山の噴火(915年)が引き金となったと想定したい。
元慶の乱は、秋田城駐在の国司の苛政を直接的な契機として米代川流域の村々の構成員(いわゆる
蝦夷)が蜂起し、秋田城を焼き討ちするに至った事件である。最終的には律令側が勝利することにな
るが、蝦裏側集団の結束力の強さを見せつけられた一方で、敗者となった蝦夷側のダメージも大きか
ったと予想される。十和田火山噴火とは、現在の+和田淵中海が最後に噴火したもので、特にシラス
洪水と呼ばれる土石渡が末代川流域の村々を呑み込んだ。大館市域の沖積地では厚さ数mのシラスが
現在でも堆積している。元慶の乱の際に登場した村々の多くもこの災害で埋没した可能性が商い。北
秋田市〔旧鷹巣町〕胡桃館遺跡はシラスにより埋没した遺跡として著名である。
集落急増の時期とはまさしく火山災害後にあたり、集落立地が台地・丘陵部に集中することも沖積
地部での立村が不能となったことと符合する。鉄関連技術の習得は、集落復興と共に新たな生業の獲
得でもある。これが比較的短期間で広がりをもって考古学的に確認されることは、律令側の強力な支
援があったと考えざるを得ない。
律令側の支援としての一例は払田柵内の鍛冶工房域にも認められると推定する。払田柵跡長森丘陵
西側には、特定の範囲内に鍛冶工房が密集する。その時期は9世紀後半から10世紀前半に限定され
る。一般に城柵内の工居城は、官営工房としての配置や構造が認めらるはずである。 しかし、払田柵
跡内では特定の狭い範囲内に規模の小さい鍛冶工房が重複する。それはあたかも鍛冶炉を備えた工房
を造り、いくらかの操業を経てまた新たな工房作りに着手しているかのようである。工房は竪穴・壁
立式の建物であり、工房兼住居として、生業の修得と共に住居建設技術の獲得にもつながる。このこ
とから、私は払田柵跡の鍛冶工房域を“蝦夷に対する職業訓練施設”と位置付けている。
おわりに
律令側が鉄生産技術を蝦夷側に与える施策を決断したのは、直接的には元慶の乱や火山災害かもし
れない。 しかしその実態は違うところで動き始めていたと考える。 8世紀中頃から強制的に移民が東
国・北陸から送り込まれていること、気候の温暖化でより北方でも水田稲作が可能となり、自発的に
も北の地を目指して多くの人々が移入したと考えられる。そのー方で9世紀初頭段階までの蝦夷政策
は、「調米」に代表されるように米や布を与えることで、律令側一蝦夷集団の関係が保たれていた。
しかし人口増に伴う財源不足や城柵等の大規模施設構築に伴う森林伐採を契機とする耕地の荒廃・流
失が進んだことが、蝦夷の自立に向けての動きにつながると見たい。火山災害後、比較的短期間で復
興できた背景には、災害前から施策として既に動き始めていたからに他ならない。
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第1図 虫内Ⅲ遺跡 土坑墓と副葬品
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第2図 寒川Ⅱ遺跡 土坑墓と副葬品
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竪形炉
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竪形炉
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(操業時のイメージ)
※上部は煙突状を呈して
いたはずである
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竪形炉(中音遺跡)
堪忍沢・寒川nが斜面に、中台が平地に立地していることに着目
箱形炉
(福島県向田G遺跡の復元想定モデル)
向田G遺跡
3列
第3図 竪形炉と箱形炉
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第4図 秋田県鉄関連遺跡一覧
第5図 堂の下遺跡遺構配置図
(『堂の下遺跡II』報告書による)
※未調査や遺物採集のみの遺跡を含む
※中央の沢部を排擦傷として、南側に
製錬炉、北側に炭窯が配されている
(S)ぺ
sKT1447 \Q4
第6図 小林遺跡における製鉄空間(モデル図)
第フ 回
払田植跡(第121次調査区)における
鍛冶工房等の遺構配置
※SSが鍛冶炉、SBが工房となる掘立柱建物跡
堤沢山遺跡
約67cm
鋳型から復元された梵鐘・竜頭
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鋳型から復元された梵鐘・撞座
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想定復元された堤沢山遺跡の梵鐘
●〃
1
出土した磐の鋳型(左)と復元された磐(上)
⊃ 10cm
内耳鉄鍋
(参考)岩手翠柳之御所遺跡
0 10cm
三種町〔旧琴丘町〕狐森遺跡出土の
内耳鉄鍋(耳部破片)11世紀代
(参考)岩手県玉頁遺跡 o 10㎝
ぶ
第8図 鋳造関係遺物
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