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ジョン・ダンの宗教詩と"Devotions"を繞って

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ジョン・ダンの宗教詩と"Devotions"を繞って
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE
Title
ジョン・ダンの宗教詩と"Devotions"を繞って -自我意識と作品との
関係についての一考察-
Author(s)
鬼塚, 敬一
Citation
長崎大学教養部紀要. 人文科学. 1965, 5, p.68-82
Issue Date
1965-03-29
URL
http://hdl.handle.net/10069/9516
Right
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http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp
68
ジョン・ダンの宗教詩と"Devotions"を繞って
-自我意識と作品との関係についての一考察鬼塚敬一
1964.9.
i
ダンの恋人たちが『-』を希求する如く,彼の魂も神との融合の境位をひた
すらに夢想し,一途にそれを熱望する.
ところで,肉体と結合して一個の生ける人間を形づくっている霊魂にとって
は,神との融合のまえに,先決問題として霊肉の分離がたちはたがっている.
そして,死こそが最大の,唯一とは言わないまでも,霊肉分離の契機である.
But thmke that Death hath now enfranchis'd thee,
Thou hast thy'expansion now, and libertie;
Thinke that a rustic Peece, dischargd, is flowne
In peeces, and the bullet is his owne.
And freely flies : This to thy Soule allow,
Thinke thy shell broke, thinke thy Soule hatchd but now.
(Of the Progress of the Soule, ll. 179-84)
And gluttonous death, will instantly unjoynt
My body, and soule, and I shall sleepe a space.
(Holy SonnetsvI)
『死の詩人』と称される程,ダンが死にpreoccupiedされた主要な理由の
ひとつも,死の彼岸での神との合一を求める彼のこの`senseof unity'の強
烈な影響の中に見出されるだろう.
死の外にも人間の魂と神との結合状態をつくりだす契機がないではない.そ
れは霊的なEcstasyである.だがこのEcstasyは死のように恒久的な分離
ジョン・ダンの宗教詩とくでDevotions"を練って69
にあらず,一時的な神との結合に過ぎないし,特殊の神秘主義者などに許され
るものでしかない.
ところで,この肉体の殻から巣立った魂が見事,神に迎い入れられ,神と融
合するか否かが詩人の第二の関心の的となる.
ここで,この合一融合の達成までにまつわる数々の問題が狙上にのぼる.
詩人の過去の放逸な生活にたいする悔懐ザンゲ,つまり過去の罪に対する深
甚な悔恨,罪深い自己の魂の救いはいかにと思い惑う哀切の心情,そして,な
んとしてでも自己の魂の救いを神への信仰をたよりに哀願する詩人の赤裸々な
祈り等々,これがダンの宗教詩最大のテーマと呼び得るものであろう.就中,
彼の宗教詩篇中,最高の傑作と呼び名の高い``Holy Sonnets", "Hymnes'
は,その各詩篇が以上の如き内容で充ち溢れている.
罪の告白,悔懐,信仰が『人間から-神へ』というプロセスであるとすれ
ば,それに対置するものは,当然『神から-人間へ』というプロセスであり,
それほとりもなおさず,具象的には,神やキリストのgraceやmercyにつ
ながり,更に,これらを通じて,神の一人子なるキリストの降臨と十字架の死
による人間の霊魂のredemptionとなり, salvationとなろう.
このsalvationを問にはさんでの神と詩人とのいわゆる劇的関係,そして
この関係の発展し昇華した究極的境位としての神と詩人の魂のassimilation
こそ,ダンの宗教詩を通じての最大の意図であり志向である.言うなれば,ダ
ンが恋愛詩でうたった如く,二人の恋人が愛し合い結びあって究極的に霊肉の
『-』に帰すという,そういう意味での神との合一なのである.
ところで,宗教詩人としての(説教者,聖職者としてではなく)ダンの場合
見落すことの出来ない事実は,神との魂の合一といえども,この魂とはあくま
でも,己れ自身の魂の救いのことである.この点でも,彼の恋愛詩が強烈な
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egotismを発散させる, publicityの希薄な極めてpersonalな性格のもの
であることと完全に軌を一にしている.少くとも,聖職入り以前に制作された
宗教作品では,自己の魂以外の他の人間一般や隣人の魂の救済など殆どダンの
眼中にはなかった. Divine Poemsや恋愛詩を創った頃の詩人ダンには,
publicな関係,つまり,男女関係の一般論とか,人間各々の魂と自己の魂の
70
鬼塚vh-
連帯意識など,未だエゴの呪いにかかった詩人の視界には見えないものであっ
た.
根源的に遡行すれば,これらはダンの性格的な,あるいは思考パターンにお
けるego-centricityに由来するものであろうし,ひいては,これが『self』
と『other』,東には『one』と『many』という概念をもちきたし,そして,
これらのdichotomyの発展的解消を目指す`sense of unityを生み出す.
即ち, 『self』と『other』が融合して『-』に昇華し, 『one』が『many』の
中に吸収されて『many』の一部に帰す,という意味での`senseofunityこ
そ,ダンがひたすら指向せんとするものであり,このような指向性に目覚めた
ダンの自我こそ彼の全作品(Sermonsをも含めて)を通じての諸特質と深い
根源的関係を有つものである.
ii
恋愛詩の中では,詩人の指向するものは,ひとえに自己と相手女性との頁の
合一であり,この融合一体をもって自我意識を止揖したecstasyの境地によ
り高次のmicrocosmを築くことであった.
更に,ダンの場合見落すことの出来ない事は,彼にとって二人の恋人の
soulsの結合がfleshの合一を経てこそ到達され得るものであったと同様
("The Extasie"参照),彼が妻との愛の結合という感覚的な手段を手がか
りに,神との霊的な融合を模索せんと願ったことである.聖職入りを真剣に考
え,また人からも勧められていた時期のダンにとっては,この課題はまさに切
実な自己要請であった.
Here the admyring her my mmd did whett
To seeke thee God; So streames do shew their head;
(Holy Sonnets XVE)
ダンが妻の死後白から告白していることでもある.また若くからSt. Augustineへの傾倒者でもあった博学のダンが次のような彼の宗教観を知らない
はずはあり得なかった. 『被造物は,それ自体のために「享受」してはならな
い.むしろ,神を「享受」するためにこそ「用い」られるべきである.神の
ジョン・ダンの宗教詩とぐでDevotions"を繰って71
「享受」以外の目的に「用い」られるとき,それは, 「濫に用い」られたこと
になる(De doctrina, I, iii, iv)』 (1)
このような立場におかれたダンにとって,妻Anneの死がどのように大きな意
味合をもつものであったかは, "A Nocturnal upon St. Lucy's Day"や"The
Dissolution"が表白する通りである.妻の愛という河の流れをたよりにそれ
を遡行して遂に水源の神のみもとまで辿りゆかんとしたダンは,妻の死後,専
ら妻への愛を神への愛に昇華させようと専念した.
Since she whom I lov'd hath payd her last debt
To Nature, and to hers, and myEgood is dead,
And her Soule early into heaven ravished,
Wholly on heavenly things my mind is sett. Qibid.j
ところで妻の死後,ダンのこの昇華作用が希望の如く順調に果され得たであ
ろうか.つまり,この昇華過程に不可欠の自我の呪いからの解脱の途をすでに
神のなかに見つけ得たであろうか.
But though I have found税Iee, and thou my thirst hast fed,
A Holy thirsty dropsy melts mee yett. Cibid.)
ここではただ,生来感覚的な詩人が神の愛への感覚的アプローチの途を絶た
れたもどかしさと焦操が読者の心にひびくだけである.上につづく次の二行は
この印象を一層深めるのに役立とう.
But why should I begg more Love, when as thou
Dost wooe my soule for hers; off ring all thine: (ibid.}
ところで,このsonnet制作より更に5-6年程後の1623年頃のダンはど
うであったろうか.
Nor thou nor thy religion dost controule;
The amorousnesse of an harmonious Soule,
But thou wouldst have that love thy selfe: As thou
鬼塚敬一
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Art jealous. Lord, so I am jealous now,
Thou lov'st not, till from loving moreJ thou free
My soule: Who ever gives, takes libertie:
O, if thou car'st not whom I love
Alas, thou lov'st not mee. (A Hymne to Christ)
かって妻との問に相結んだようなゆるぎない自己完結的なmicrocosmの創
造そしてその中への自我の埋没という,これと同質の神との絶間ないintercourseを感得し,神の愛にエゴの脱却を見出し得た詩人の霊的歓喜は,殆どこ
こには感じ難い.ダンの宗教詩全体に, Holy Ordersにたずさわる人によく
みられるような`That mood of perfect joy and security'(2)が極めて
希薄であるのもその根源の原因は地上的愛のうちにダンが感じ得たと間質の,
神へのself-surrender,そして神との全き融合を果し得なかった点にこそ潜
んでいる.
ところで,まるで自分の恋人に対するかのような態度を持し,情熱をこめ
て, "Songs and Sonets'そのままの恋愛詩的修辞で宗教的思慕を描いてい
る作品だけ挙げすぎたようにみえる.だが実際は,このように`Love'として
の神にダンが愛人として己の思慕をうたう詩は妻の死後になるDivinePoems
のなかでは僅かにこの二篇のみである.
そのうちの-岩はいわば逝いた妻への烈しい愛慕のさめぬ問の作品である
し,他の一第は"At the Authors Last Going into Germany"の作であ
る.殊にこの大陸への派遣の旅が,未だ妻の生前の1611年の大陸旅行の際の妻と
の痛切な別離を想い起させ,これがきっかけで妻への思慕の念が烈しく延がえ
ったろうことは想像に難くない.このようなり旅だち"と云う特殊なoccasion
が喚起した精神的状況の下で,今や天国に逝った妻を神とidentifyすること
描,ダンの場合極めて自然であったろう.そして神の愛の中に自我の呪いを一
掃出来なかったダンが,妻への思慕の昂ずる折々に,せめて一時なりとこのか
っての妻への愛の回想を手がかりに`sinne of feare'の呪縛からのがれて超
越的なecstacyのたかみまで飛掬せんと願ったのもけだし自然なことであろ
う.
ジョン・ダンの宗教詩とでCDevotions"を繰って73
だが,ダンの場合この苦肉の策も,キリスト教徒が現世で到達し得る最高の
状態,つまり,神の啓示-神との絶間ないintercourse,そして神の愛と詩人
の魂との全き合一なるecstasyのたかみ,そこまでダンの魂を`ravishす
ることは至難の業であった.
Yet dearly'I love you', and would be loved fame,
(Holy SonnetsXIV)
と希求しながらも,その舌の根の乾かぬうちに,詩人をして次のように叫ば
せずにはおかない自我の呪いがつまり, `sinne of feareの呪いが心におおい
かぶさってくる.
But am betroth'd unto your enemie : (ibid.)
して,これに続く部分も未だにthe world, flesh, devilのevilにあが
く`Oh my blacke Soule!'を痛切に意識しながらも,それでもなお神との融
合を希い願わずにはおれない1609年頃の未だ`on the threshold of his
going into the ministry'に遅疑遮巡するダンの苦悩の葛藤をあらわすも
のである.そこには確かに,烈しい情熱もあり神への切望も感じられる.だが,
その情熱たるや神のBeatific Visionにこの世であずかれぬ者の苦闘であり
焦操であり,また神の恩寵とはダンにとって罪の意識との煩烈な格闘のなかで
こそ得られるものである.そこにあるのは神との合一を願う必死の意志と努
刀,常にぐらつきやすい`fantastic Agueつこも似た自己の`devout fits'へ
の絶間のない精神の緊張である.
正に,罪の意識から来る神と自己との断絶感は或る時には`low devout
melancholy'("La Corona")に,ある時は`dejection ("The LitaniOに,
また時には,
Despaire behind, and death before doth cast
Such terrour, and my feeble flesh doth waste
By sinne in it, which it t'wards hell doth weigh; (Holy Sonnets工)
ここにみられるようにdespairの感さえ漂よわせる.殊に"HolySonnets"に
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鬼塚敬一
充満している罪と神の裁きへの恐怖感は詩人の魂の病める姿をすら暗示する.
神の救済にたいする不信,その極端なあらわれとしての絶望,それに対する
罪の意識は未だ1623年の晩年近くまでなおもダンの心を少なからず占拠して
mm
I have a sinne of feare, that when I have spunne
My last thred, I shall perish on the shore;
(A Hymne to God the Father)
ちなみにSermonsを一瞥してみても,これらの諸罪に対するダンの執掬なま
での言及は彼の説教を一際異色なものにしている. L. P. SmithもDonne's
Sermonsの主要な三大テ-マとしてSin, Death, Godを指摘しているが,
その第一としてSinを掲げ, Godはかろうじて第三位に止まるに過ぎないと
いう(3)
`youths fires, of pride and lust,'(HThe Litanie")へのsufferance
Cindulgence)の罪意識と悔恨は他の宗教詩人にはみられぬ程職烈なものであ
ったろう.
ましてやsubtleな自己分析と反省を加えずにはおれない彼の強烈な自我意
識が,自己の'blacke souleつこ向けられるや,それはりHoly Sonnets"や
HHymnes"に於けるどとき赤裸々な罪の告白あるいは, hauntingな罪の意
識をうみだし,その結果摘出されるものは`an Executioner to himselfと
してasceticなほどに悔恨と魂の浄化を求めるダンの姿である.
また詩人の冷徹な眼光が現世や人間一般の状況に注がれるや,現世のsmalト
ness, sickness, disorder, decay,或いは`how poore a trifling thing
man is.等々についての深刻なmeditationをもたらし, "An Anatomie
of the World," "Of the Progresse of the Souleとなって結晶する.
罪意識は,死の恐怖にも直接つながり,痛烈なrepentanceを経てそれに
よる神の救いと恩寵の祈願へと真一文字に走ってゆく.そして,ひたすら死後
の魂の救済を求める.
こうして,ダンの神はG.HerbertがHLove"の中で描いているような`愛
ジョン・ダンの宗教詩とtぐDevotions"を繰って75
の神'というよりむしろ`裁きの神'であり,裁きを経ての後の救いの神
`baviourの性格を色濃くとどめざるを得ない.
たとえば, "Holy Sonnets"全19篇中, Last thingsをsituationの基軸
としてうたわれるmeditative formに倣った6篇からなるsequence中,第
1篇はこのsequenceのpreparatory prayerとして, `Why doth the
devill then usurpe on mee?/ Why doth he steale, nay rav`ish that's
thy right?を14行によみ込み,第2篤ではdeathbedを所謂`compositio
loci'として肉体の牢獄に苦吟し,あるいは堕地獄の宣告を言い渡されたその
`blacke soule'を適切卑近なsimilitudesで描破する.第4 ,第5は死の瞬間
とLast Judgementを各々のsituationの基軸にすえ, the world, flesh,
devilの諸罪に苦悶しながら,地獄を目前にしての魂のあがき,罪深い魂へ
の神の裁きの怖れを描く.次の第5では`Why should intend or reasorl,
borne m mee, / Make sinnes, else equall, in mee, more heinous?'と己
自身の意思や理性にまで裏切られる自我意識と懐疑の詩人の苦悶を吐きつつ,
せめて,自分の過去の罪を,神よ,忘れ給えと哀願せざるを得ない.かの有名
な`Death be not proud/で始まる第6はこのsequenceの結びとして,一
見,罪とは無関係な魂の新生をよんだものにみえるか,我々がそこに感じとるの
はやはり魂の死後の復活を確信できぬ詩人の不信感と死の恐怖をparadoxical
に空虚なまで威丈高にうたいあげたものにすぎない.
次に, 1635年のmanuscriptで追加されたSonnets(I) CM〕 CV) CM)
の4篇から成るsequenceは罪と悔罪をテ-マに一貫した作品であり,先の
sequence以上に罪の意識は影濃い.第工篤で詩人の魂を押し潰すのは彼の
`feebled flesh'の罪であり,第Ⅴ岩では彼の`a little world'を焼きつくすの
は`lust and envieのそれであり,第Ⅱで詩人が嘆くのは己れのsufferance
(-indulgence)の罪である.そして第Ⅷではこの罪にとざされた`pensive
soule'は救いを求めて,はるか天上を仰ぎみざるをえない.
伝統的なmeditative techniqueの影響でもあり,魂のおかれたsituation
についての先のmeditationと一対を成すとも云えるpetitionが, "Holy
Sonnets"でも(恰も二篇の・`The Anniversaries"にみられるmeditation
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鬼塚敬一
とeulogyの対比を想わせるかのように)各岩のsestetやその一部に現われ
ている.だが,この神の恩寵や魂の新生を哀訴する声も罪の意識の泥沼を経て
表面に浮び上って来る叫びあり,その極めてpersonalな基調はダンの罪の苦
悩に一種の戦懐をすら感じさせるものがある.
いちずに神を求める気持は強くとも,いかに焦ってもダンの冷徹な自我意識
は消え去らず,求神の祈念が烈しければ烈しいだけ,それに比例して却って自
我意識は目覚め,これは直ちに過去,現在,あるいは未来の自己の罪の意識とつながってゆく.それが,また,ますます神と詩人の隔絶感をよび醒し,更
に詩人をdejectionやdespairの罪に突き堕す.かのような自我意識の悪循
環こそはダンの殆どの宗教詩に共通の特質である.
iii
ついに,ダンは`aUnion of God in this life'の三味境に浴することは
なかったようである.
現世でかなわぬ神との魂の融合を彼の場合は,はるか死後の天国での
Beatific Visionの希望へと託さざるを得なかった.つまり,せめて死後の
自己の魂の救いと復活の確証を救世主たるキリストの信仰の中に見出し,その
信仰にこそ自己の現世の悲願を託さんと願った.
彼の恋愛詩にも亦次のような現象を発見出来る.つまり,どんなsensuous
な場面に於いても,女性美や自然美の称讃,誼歌に終始出来ず,あくまで自己
と対象との一定の距離感を意識しながら,彼我のrelationshipや対象の己に
及ぼす心情的影響を論理的確証や精緻な分析をもって,ひたすら自分自身に説
得せんと努めた.此の事実も自我意識の強烈なダンのような精神的メカニーク
の詩人にとって,本来,美を貢に享受するための最大要件たる美そのものの中
への`a surrender of selfが至難のものであったことを立証するものであ
ろう.これは恋愛詩でも宗教詩でもいづれにおいてもダンの創作パターンが同
一不変であったことの一つの証しでもある.
とに角,自我の呪いのため,現世で主の現在の享受を許されなかったその補
oooo
いに,ダンは神へのひたすらな自己滅却のなかに,なんとしても天上での神の
ジョン・ダンの宗教詩とででDevotions"を繰って77
救いだけでも自己に確かと立証し,説得してその上にこそ自己の信仰の確立を
得たかった.知的に認識するだけでは蒲足せず,確実に捉えて自己の所有とな
0
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すまでは安んじることが出来なかったのである.
これをHHoly Sonnets"にみれば, `The purpose of the technique is
to concentrate all the powers of the^soul, including the sensual, in
the act of prayer. So a man might present as vividly as possible to
himself the scene of the Nativity or the Crucifixion, or his own
deathbed'.c4)これを眼目とするIgnatian meditationの技法を借りてC5)`my
black soul'のさまざまのinterior dramatizaitonをもって,殊更に無理強
いとも思える程に罪の意識を強調することにより神の赦しを強要する(XIV.
XIのoctave参照).ダンの宗教作品にみられる伝統的なカソリックの
meditative techniqueの利用はこの点からも再考の余地がある.また,ある
時には, Vのoctaveに見られるようなスコラ哲学の援用やK, Xttのoctave
に於けるようなdiscursiveな知性の濫用等々は,これ全て,神の放しと救
いをなにがなんでも論理や教義をもって己に証し説得し我がものとせんとする
意志と努力のあらわれでもある.
そこにraptureが希薄であるのは無論のこと,未だ神の救済への確信すら
殆ど感じとり難い.
宗教詩篇の中でも最初の作品と目される1607年頃の"La Corona"以下7籍
のsonnetsに於けるダンのキリストに対する態度は,外部からキリストの生
涯の出来事を冷静につき離してみる者の眼であり,ために殆どimpersonalな
もので,情熱もなく平板であるのは当然としても,それと同時にダンが自己の
信仰を知性によって刺戟せんとしている姿勢がよみとれる.つ_まり,キリスト
の人・神の二重性,キリスト教に内在する逆説,キリストの秘蹟等を出来得る限
り列挙して,それを広義のwitとingenuity,それに加えるに旧いDominican meditationの技法を巧妙に活用しながら,それ等の真実性を自分自身
に信じ込ませようとしている態度が窺われる.
それは"The Litanie"の中で`The Trinity'に託して述べられたダンの
原望と同質のものであろう.
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鬼塚敬一
Give mee a such self different instinct
Of these; let all mee elemented bee,
Of power, to love, to know, you unnumbred three.
ダンが聖職入りする以前の最後の作品といわれる1613年作の``Good friday,
1613. Riding Westward"の冒頭には下のような祈願がみられる.
Let mans Soule be a Spheare, and then, in this,
The intelligence that moves, devotion is,
And as the other Spheares, by being growne
Subject to forraigne motions, lose their own,
And being by others hurried every day,
Scarce in a yeare their naturall forme obey:
Pleasure or busmesse, so, our Soules admit
For their first mover, and are whirld by it. CH-1-8}
私の魂が,全ての他事雑念にとらわれず,ひたすらに,自己を滅しても神へ
の信仰に生き, devotionの悦びと勤行をこそ唯一の指針と致しますようにと
詩人は神に祈って止まない.このことは,当時のダンの信仰が未だ,彼の自我
に隷属しながら,それを中心に廻りを回転しているにすぎない存在であったこ
とを物語ってくれる.この詩篇は"La Corona"やりThe Litanie"よりはる
かに自然の吐露感はあるが,古天文学の援用はまずまずとしても,上の引用か
ら後に続く散慢でmeditativeなトーンは十字架上のキリストの顔や各肢体
を,血や肉を逐次叙述しながら,同じく,知性に拠ってキリストの唐罪と復活
のrealityを全る面から己自身に納得させ信じさせようとしている知性と懐
疑に苦しむダンの姿をにじませている.
しかしながら, 1623年のtyphoid feverの大患の際に創られたといわれる
"Hymne to God my God, in my Sicknesse'や"A Hymne to Godthe
Father"は深甚なる宗教的経験とhumilityのムードに被われて,神の赦し
と救いへの確信に到達しえたダンの明澄な心境がほのみえる.
ジョン・ダンの宗教詩とく-Devotionsを繰って
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I have a sinne of feare, that when I have spunne
My last thredJ I shall perish on the shore;
Sweare by thy self, that at my death thy sonne
Shall shine as he shines now, and heretofore;
And, having done that, Thou haste done,
I feare no more.
(A Hymne to God The Father)
だが,これ等のHymnesの表白する詩人の静港の心境とて,そのなかに,秤
との合一に自我の呪いをすっかり滅却し得たraptureはみられない.たゞ,
生と死の問を紡裡した特殊な状況のもとで,自己の罪の意識と死の恐怖感を神
の救の信仰のうちに埋没させることが出来たという程度のものであろう.
しかも,かような`an unexpressible tranquillity of mindや`a
willingness to leave the world'c6)すら,これらが果してダンの死期まで
間断なく持続し得たものかどうかも疑わしい.ダン白身が無意識裡に時折ある
友人に語ったといわれる次の言葉からみても,彼が`joy'は感得したにしても
`raptureまではついに経験し得なかったことが判る.即ち,神との全き「-」
の境位まで飛掬することは難かしかったことがわかる.
The words of this Hymn have restored to me the same thoughts
of joy that possest my Soul in my sickness when I composed it. (7;)
こうして, "Holy Sonnets"やりHymnes"をはじめとするダンのDivine
Poemsは,神と自己との断絶の深測にcontritionをたよりに橋を架けんと
する信仰の苦闘の坤き声であったし,つまりは, `spiritual man'たることを
要請された`natural manの悲劇であったとも言える.そして,ダンの極めて
叙情的でmeditativeな宗教詩の主役たるものはDivinity (柿)そのもので
はなくて, devoteeなのであり,それも一人称単数形のそれである.それは
正しく,畏怖しおののきながら苦悶の中に自己の魂のsalvationを祈って止
まぬ孤独な自我のイメージでもある.
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鬼塚敬一
1V
聖職就任に際して示したダンの遅疑遺巡の主要な理由は一体なんであろう
か.若い`Jack Donne'時代の放逸な生活を恥じて聖職者としての自己の資
格に多大の疑問をもったためとか,世俗的な栄誉栄達への見果てぬ夢を断ち難
かったからとか,或いは,聖職に対する世間的評価の余りの低さ(`Lay-scorning of the Ministryつ(8)に対する不満のためとか,又は,それ等全てが
原因であろう,というのが一般の通説になっている.
だが,最も根源的原因は次の点にこそ求めるべきであろう.
恋人及び神としての『other』との合一にこそひたすら自我の呪いの滅却を
はかってきたダンは,今や,聖職者たる身の本分や義務を慮うにつけても
『many』としてのcongregationや教区民,更には人間全体の中へ自我を投
し,その`a memberとしての自覚に徹しきれるか否かに深い疑問と不安を
抱かざるを得なかったろう. temperamentalな強烈な彼の自我意識はここで
も,また`Jack Donne'から`Dr. Donne'への真の回心を苦懐に満ちたも
のとせざるを得なかったのである.最早聖職に入れば,彼はego-centeredな
自分自身だけのmicrocosmのanchoriteとして,頑なな自我の世界に安住
することは,良心的にも,自己の天職を全うする上からみても不可能と変って
ゆくのは必定であった.
Dr. Donneは必死に,この自我の呪いから解脱せんと指向する.ところ
で,このダンの苦心も聖職に就きほゞ8年も経った頃には,可成,実を結んで
いたかに思える.
事実,聖職者,説教者としてのserviceを通じて他者たる『many』に働き
かける活動のなかに,自我の呪いを滅却することに相当成功しているのが射
る.次はHDevotionsの中でのダンの言葉である.
The Church is Catholike, universally so are all her Actions; All that
she does, belongs to all. When she baptizes a child, that action
concernes mee; for that child is thereby connected to that Head
which is my Head too, and engraffed into that body, whereof I am
ジョン・ダンの宗教詩とぐ'Devotions"を繰って81
a member. And when she buries a Man, that action concernes me:
CDevotions XVII〕
このような教区民への連帯意識は,更に教区民-の合一感にまで発展し,そ
の人々の為には喜んで自己の死をもっても尽さんという覚悟にまで到達する.
To be an Incumbent by lying down in a grave, to be a Doctor by
teachir1g Mortification by Exampler by dying'-', yet I havegone a great way in a little time, by the furtherance of a vehement
Fever;
QDevotions
XVI)
ところで,唯の一個の人間として,重病の床の中(1623年冬)で,教会の鐘
を聴きながら`For whom the bell tolls?'と自問するダンの意識をかけめ
ぐったものは何であったか.一体,この頃の彼の心境は全く自我の呪いから解
放されていたのだろうか.次のダンの言葉をみよう.
And when these Bells tell me, that now one, and now another is
buried, must not I acknowledge, that they have the correction due
to me, and paid the debt that I owe? (Ibid.)
but this bell, that tells me of his (-another man's) affliction, digs
out, and applies that gold (-treasure) to mee; if by this consideration of anothers danger, I take mine owne into contemplation,
and so secure my self, by making my recourse to my God, who is
our
onely
securitie.
(Devotions
xi)
ここには,明らかにその鐘の音を自分自身の為のものだと思込まんとする強
い求心的意識が感じられる.聖衣を脱ぎ捨てた赤裸な一人の人間としての自我
意識が強く脈縛っている.
だが,それと同時に表裏の如く,彼の聖職者たるの意識は同じくこの鐘をき
いている教区民との扱い連帯意識を呼び覚し,それは融合意識にまで発展し,
遂には全人類の一人としての自己認識にまで到る.そして,ダンは叫ぶ.
鬼塚敬一
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No man is an Hand, intire of it selfe;every man is a peeceof the
Continent, a part of the mainc, - any mans death diminishes
me,
because
I
am
involved
in
Maタikinde;
And
therefore
never
send
to know for whom the bell tolls; It tolls for thee. (ibid.J
以上のように,一個の裸の人間としてのダンには,ややもすれば自我意識に
ひきずり込まれんとする求心力と,聴衆,教区民,はては人類全体の中に自我
を埋没させんという遠心力が常に働き続け,この無意識の葛藤が作品中に大き
く影響しているのがわかる.
〔註⊃
テキストとして次のものを使用
John Hayward : John Donne, Complete Poetry and Selected Prose; The
Nonesuch Press, 1962.
Helen Gardner : Donne the Divine Poems; Oxford, 1959.
H. J. C. Grierson : Donne's Poetical Works工, IE; Oxford, 1912.
Frank Manley : John Donne: The Anniversaries; The John Hopkins
Press, 1963.
Potter andSimpson: The Sermons of John Donne I, H; University of
California, 1955.
Theodore Redpath : The Songs and Sonets of John Donne;Methuen, 1959
但し"Holy Sonnets"各詩篇の番号は従来のものに従い, H. Gardnerのものは採
らなかった.
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(I)上野直蔵: 『中世文学研究における聖書釈義学』 ("英語青年,='Vol.110,
No. 10, p. 674.)
(2) J. B. Leishman : The Metaphysical Poets; p.88, Russel & Russel, 1963.
(3) L. P. Smith : Donne's Sermons Selected Passages; pp. xxv-xxvii,
Oxford, 1919.
(4) Frank Kermode : John Donne; p.38, (Writers and their Work: No.86),
1957.
(5) Louis L. MartzCed.) : The Meditative Poem; pp. xviii-xix, Anchor
Books, 1963.
(6) Izaak Walton HThe Life of Donne" in Lives; p.62, Oxford, 1956.
(7) ibid.
(8) "To Mr. Tilman after he had taken Orders", 1.3,
ll.25-8, ll.33-6等参照. (昭和39年9月30日受理)
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