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第 11 号 麻生ふるさと交流会

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第 11 号 麻生ふるさと交流会
ふ る さ と
第
早野どんど焼き
目
11
号
(撮影:辻村一男さん)
次
第 3 回お国自慢発表会(沖縄・福島) ……(1)
福島県浜通り・中通り発表要旨 ………(4)
新相馬節 解説 …………………………(8)
富士山麓一周バスツアー ………………(10)
<連載>隠岐流人秘帳(その 2) ………(16)
発行:2016 年 1 月 16 日(第 11 号)
発行:麻生ふるさと交流会事務局
担当:平塚 征英、横田 彰夫
麻生ふるさと交流会
平成 27 年度麻生区地域コミュニテイ活動支援事業の助成を受けて実施しています。
☆
「麻生ふるさと交流会」ホームページ
http://web-asao.jp/hp2/asao-furusato/
2015 年度第3回お国自慢発表会・懇親会
場
日
所:麻生市民交流館 やまゆり
時:平成 27 年 10 月 10 日(土)
15 時 00 分~18 時 30 分
参加人数 33 名、懇親会参加 28 名
第1部 お国自慢発表会 (15:00~16:45) 司会:宮本事務局長
1. 開会の辞・・・・・宮本事務局長の挨拶
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(以下、敬称略)
開会に先立ち11月12日の「富士山の世界文化遺産を訪ねて」の説明。現在参加申込者
は15名程度、会員以外の方にも開放をしたい。

今日のイベントの概要の説明、沖縄県人会の與那覇 榮長さんを紹介
2. 沖縄県人会:與那覇

榮長さんの講演
ふるさと沖縄は南西諸島の宮古島の出身、ふるさとと言う
言葉は親と一緒に子供の時に過ごした所と捉えたら良いの
ではないでしょうか。宮古島は東京からは2,700キロでそこ
で昭和36年高校卒業まで生活をしました。

宮古島の暮らしは、本土に渡るにはパスポートが必要だっ
た。当時政府は二つあり、琉球列島米国民生部と琉球政府
がありました。力関係は当然米国民生部の力が強かった。

琉球列島米国民生部では思想のチェックが行われていました。

琉球には米国の軍事基地が置かれ、日本全国の0.6%の土地に74%の基地が置かれている。
日本国民はその負担を全国民が行うべきではないか。

今回の沖縄をテーマにした講演会では、どうしても政治的な話に成ってしまうが、沖縄の
今までの苦労を考えると当然の事と思われます。本土の人々と沖縄の人々の意識の違いを
思わねばなるまい。
沖縄:空と海

沖縄県
宮古島は台湾に近い
平和の礎
沖縄での遊びの思い出:本土の人が憧れる海は大変危険な場所として、子供の時は親から
禁じられていました。

東京沖縄県人会についての説明:機関誌の発行の他に、「基地の無い平和な沖縄を作ろう」
の会もあります。
沖縄ビオス丘
首里城
万座毛
1
オスプレイ
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沖縄の食べ物の紹介。沖縄そば、泡盛。

松岡会員から、今後、沖縄のエイサーとか三線の音もお聞きしたいものです。
宮本さんから質問
ソーキそば
泡 盛
3. 福島県人会の発表
今日予定の梶俊夫さんに急用ができ、今回のイベントに参加できず、
会員の皆様に沢山の納豆をお土産に頂きました。

松岡さんから、今回出席できなかった梶さんからの伝言を披露。
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今回は松岡さんから福島のことを語っていただきました。

嘗ての東北地方での公演の話、小学校での公演の事、都はるみの
コンサートでのエピソードなど披露
★ 発表の詳細は、別途4ページに掲載しました。
4. 事務局からのお知らせ

11月の富士山麓一周バスツアーについて明細の説明、(宮本さんから)

1月16日
お城の話、江戸のお話
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2月13日
ふるさとの唄祭り⇒(変更)北海道・福島県会津地方、ふるさとの唄祭り

3月 5日
三重県、北海道 ⇒(変更)三重県

新しく入会された我妻さんの紹介
5. 目指せ 民謡素人名人コーナー
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松岡さんから新相馬節を解説、民謡をうまく歌うコツのテキストを用意して指導。
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新相馬節を千葉さんにお手本を頂き、宮本さんが素人名人?として美声を披露しました。
★ 新相馬節の解説は、別途8ページに掲載しました。
第2部 懇親会
(17:00~18:15)

新井さんの司会、松本会長の挨拶・乾杯で懇親会が始まりました。

今回も多くの方々から差し入れを頂きました。ご協力ありがとうございました。
・日本酒(一ノ蔵、いっちょらい、松緑、新潟のお酒)
、缶ビール、ワイン(フロンテラ、
ドン・ルシアーノ)…平塚、田中(幹)、五十嵐、宮本、千葉、吉岡、田中(元)の皆さん
2
司会の新井さん
本日の講師・お疲れさま
まだ飲み始めたばかり
笑 顔
両手に、、
、
松本会長挨拶
美味しいね
食べ物が終わり?
笑 顔
そろそろ中締めです
3
乾杯・講師の與那覇さんも
新相馬節・良かったです
こちらも?
笑 顔
恒例の後片付け
福島県浜通り・中通り
発表要旨
松岡 暁洲
かつて東北6県で年間約 120 ステージのコンサートを企画運営してまいりました。
福島県では福島、郡山、会津若松、いわき、白河、相馬、二本松、須賀川の各市でク
ラシックから演歌・歌謡曲、民謡をはじめ、タンゴ、フォルクローレなどの海外文化交
流コンサートを年に 20 回ほど行い、加えて学校コンサートを行って相当数の小学校の子
供たちと、音楽の楽しさ素晴らしさを共有してまいりました。我が青春のふるさとが福
島県です。
福島県は阿武隈高地と太平洋に挟まれた太平洋
側沿岸の「浜通り」、奥羽山脈と阿武隈高地に挟ま
れた太平洋側内陸の「中通り」、越後山脈と奥羽山
脈に挟まれた日本海側内陸の「会津地方」の 3 地域
に分けられ、59 の市町村から成り立っています。今
回は浜通りと中通りのふるさと自慢をさせていた
だきます。
福島県は大変に広くて、面積は北海道、岩手県に
次ぐ全国第 3 位。推計人口約 193 万人で全国第 20
位。人口密度は第 39 位にランクされています。
原発の放射能も、福島原発から会津若松市まで 100km、桧枝岐村まで 200km 近く離れて
いて、阿武隈高地と奥羽山脈があるために放射能の危険度は東京の方がずっと高いとい
われています。 相馬市と原町を除いた 12 地域が、福島第一原発の避難区域に指定され
ていますが、 何万人もの福島県民の皆様が震災以後、今も仮設住宅で暮らしておられ
ます。被災地の一部では、元の住民の再居住が認められましたが、問題はなく安全だと
いう政府の見解への不信が広まっていて、多くの元住民のみなさんは帰宅に難色を示さ
れています。
先日の豪雨では除染に使われた黒い除染土が流れ出
し、福島第一原発の汚染水も大量に海に流出しました。
まったく先が見えない廃炉と除染作業に、作業員の方々
は今も我が身を犠牲にして戦っておられるのです。
原発は日本国内で 44 基が稼働中、3 基が建設中。福
井、福島、新潟など限られた地域に集中していて、すべ
て海沿いにあります。
ドイツのメルケル首相は福島原発事故の直後、ドイツ国内の全ての原子炉を停止する
という英断を下しました。
日本の安倍首相は原発事故のあと、みずから新興国に原発を売り込むというトップセ
ールスを展開しました。本当であれば、全国にある原発の即時運転停止と全原発の廃炉
宣言を世界に先立って出すべきだと思います。
4
<浜通り>
浜通りにあるいわき市は、かつて常磐炭鉱で大変栄えた町でしたが、石炭産業が後退
して町は衰退しました。フラガールで有名なスパリゾートハワイアンズ、巨大なフタバ
サウルススズキイの化石がある石炭化石館、いわき・ら・らミュウ観光物産センターなど
が知られています。市民の憩いの場・松ヶ岡公園もあります。いわき市の鳥はカモメで
す。
野馬追いで有名な相馬市も大きな被害を蒙りました。国の重要無形民俗文化財である
野馬追いは、これまで 500 匹以上の馬を集めて毎年行われてきました。
平将門が軍事訓練のために、原野にいる野生馬を捕え、捕えた馬を神前に奉納したこ
とに由来して、一千余年の歴史を誇り、総大将の出陣式を皮切りに約 500 あまりの騎馬
武者が戦国時代絵巻を繰りひろげます。
警戒区域の双葉郡浪江町大字大堀一帯で生産されていた焼物・大堀相馬焼は、窯元が
壊滅的は打撃を受けてほぼ全滅しました。
イギリスのウィリアム王子
など、世界中の人々が復活を
望むバラ園が双葉郡双葉町に
あります。日本で最も個性的
で美しいバラ園だと称賛され、
約 2 万平米の敷地に 7500 株の
バラが咲き乱れる夢のような
バラ園でしたが、今や原発事
故で荒れ野と化してしまいました。復活は無理でしょう。
<中通り>
県庁所在地・福島市の中心市街地北部には、福島市街
を一望できる信夫山があります。戦後活躍した技巧派の
相撲取りに信夫山がいました。足腰を鍛えるために一本
歯の高下駄を履いて、山手線をつり革につかまらずに何
回も回ったという逸話を残しています。
福島盆地は全国有数の果物の特産地帯として知られ、
5
特に桃は皇室へ献上される最高級品です。桃に次ぐ特産品は萱場梨と呼ばれる梨。中通
り北部の伊達市は「あんぽ柿」と呼ばれる干し柿が有名です。そのほかに、イチゴ、ぶ
どう、りんご、さくらんぼ、ブルーベリーなどがあります。
福島市の奥座敷・飯坂温泉は、宮城県の鳴子温泉、秋保温泉と共に奥州三名湯に数え
られ、古くは「鯖湖の湯」と呼ばれていました。ヤマトタケル伝説にも登場する古い温
泉で 2 世紀頃からの歴史を持ち、飯坂町を流れる摺上川を挟んで 60 以上の旅館が立ち並
んでいます。
福島市郊外の南西には土湯温泉があります。安達太良連峰の中腹から峠付近に位置す
る温泉街で 10 種類以上の泉質を持ち、土湯こけしでも有名です。東日本大震災以降、廃
業が最も目立った温泉地として報道され、16 軒あった旅館は 11 軒に減少しました。
写真家の秋山庄太郎が「福島に桃源郷あり」と言った福島市花見山の百花繚乱の様子
は、まさに桃源郷を思わせます。アクアマリンふくしま海洋科学館も人気のスポットで
す。
郡山市は、商業・内陸工業地帯で、東日本の交通の十字路として拠点化が進み、経済・
内陸工業・流通・交通の要となっています。
郡山のお土産では「ままどおる」
「胡桃ゆべし」「柏屋
の薄皮まんじゅう」などがおすすめ。
二本松市には伊達政宗の名参謀・片倉小十郎の二本松
城があります。
「智恵子抄」の高村智恵子の出生地・安達
町は二本松市に編入されました。二本松市玉嶋屋の玉羊
羹は爪楊枝でつつくと中身が現れ、もらった人に面白がられるお土産です。
牡丹園や、たいまつ明かしで有名なのが須賀川市。日本三大桜で名高い三春町は古来
より馬の産地で、三春駒で知られています。
6
白河市は、古くから、みちのくの玄関口として関所が設けられていました。
「白河以北、一山百文」という言葉があります。
「白河の関所より北の土地は、一山で百
文にしかならない荒れ地ばっかりだ」と、戊辰戦争
以後、新政府の薩長土肥の側が東北地方をバカにし
て言った言葉です。西国地方の国が“みちのく”に
抱くコンプレックスの表れでしょうか。
白河の関は鼠ヶ関、勿来の関とともに奥州三関の
一つに数えられる関所であり、都から陸奥の国に通
じる東山道の要衝に設けられました。
陸奥は遥か遠くの“道の奥”にあり、いにしえの歌詠み人にとっては、詩心をかき立
てられるロマンあふれる未知の国でした。その玄関口の白河の関は聖地に等しく、心身
を清らかにして通るべき神聖な関所とされていました。
松尾芭蕉は白河の関に来て旅心が定まり、関を越える時には正装に着替えたといわれ
ています。
平安中期の歌人・能因法師(988-1050)が「都をば 霞とともに たちしかど 秋風ぞ吹く
白河の関」(後拾遺集)と詠んだことで、都びとの胸に遥かな“みちのく”を強烈に印象
付けました。実のところ能因は奥州へは行っておらず、あまりにも歌がうまく詠めたた
めに、京にこもって日焼けをして、いかにも現地に行って詠んだように見せかけたとい
われています。 白河ラーメンは、喜多方ラーメンと並ぶ県内二大ラーメンのひとつで
大変おいしいラーメンですね。
今年 2 月、西白河出身の津吹みゆが「会津・山の神」(作
詞:原文彦 作曲:四方章人)で歌手デビューしました。19
歳の本格派。うまく育ってほしい将来が楽しみな歌手です。
歌のなかに白河だるまが出てまいります。
JR 福島駅の発車メロディーは在来線ホームが「高原列車は行く」、新幹線ホームでは「栄
冠は君に輝く」が使われています。福島市が生んだ作曲家・古関裕而(1909-1989)が作曲
しました。
音楽は世界人類の共通語であり、人々の心を癒し、励まし、
明日への希望と生きる勇気を与えるものでしょう。共に歌うこ
とで人と人との心を繋ぎ、麗しい心の連帯を生み出すものこそ
音楽だと思います。
古関裕而は戦前から戦後にかけて、日本人の心に呼びかける
数々の名曲を作曲しました。もともとクラシック音楽の作曲家
になりたかったとかで、彼の曲は気品ある格式高い曲風が特徴
です。
古関裕而が作曲した曲は五千曲に及びますが「早稲田大学応援歌・紺碧の空」
「阪神タ
イガースの六甲颪」全国高等学校野球大会の「栄冠は君に輝く」
「東京オリンピックマー
チ」などが有名ですね。
戦時中には「露営の歌」
「暁に祈る」などの軍歌を作曲しましたが、彼の曲には戦争へ
7
の士気を鼓舞するというより、悲惨な戦争に直面させられた人間の行き場のない深い悲
しみ、理不尽な国家権力に対するささやかな抵抗が底流しているように感じられます。
戦後すぐの昭和 22 年作曲の戦争孤児をテーマにした「とんがり帽子(鐘の鳴る丘)」、
原爆による死者への鎮魂歌とも言うべき「長崎の鐘」には、戦争への怒りと悲しみに加
えて、明るい未来建設への光が差し込んでくるような曲想を感じさせられます。
東北はこれまでさまざまな飢饉や天災に見舞われ、今回も未曾有の災害が東北を襲い
ました。2020 年夏には東京でオリンピックが開催されますが、昭和 39 年の東京オリンピ
ックでは開幕を告げるファンファーレに続き、オリンピックマーチに合わせて行進する
日本選手団の姿が思い出されますね。
焦土と化した日本が戦後 19 年を経て見事に立ち上がり、復興を遂げた姿の象徴がそこ
にありました。
九州福岡県出身の古賀政男、大阪府出身の服部良一でもない東北福島出身の古関裕而
が作曲しました。“闇が深ければ深いほど暁は近い……”。苦難に遭遇しても、暁の黎明
を目指してひたすら歩む東北人の心の強さ、心の温かさからつむぎだされた曲ならばこ
そだと思います。(2015.10.10)
新相馬節の解説
新相馬節は、戦後、初代鈴木正夫(1900~1961)が唄い初めて全国に
知られ、福島県の代表的民謡となる。鈴木正夫の師匠である相馬市中
村の堀内秀之進(1876~1957)の手による新民謡。宮城の「石投げ甚句」
のハァーと、相馬の「草刈り唄」、酒盛り唄の「相馬節」を合成して
作られている。戦後、金の鈴と呼ばれた美声の鈴木正夫が改良を加え、
唄い出しのハァーに人気が集まった。これに尺八の名手・榎本秀水が
三味線の手を付け、民謡歌手の峰村利子が手を加えたりして今日の形
になった。
堀内秀之進は相馬藩家老職の家に生まれ「相馬流れ山」
「相馬二遍返し」の曲節を確立
するほか、大坪流馬術の免許皆伝で、野馬追い祭りでは藩主の名代として参加していた。
やたら美声を誇らず、民謡を唄う楽しさを存分に体現した初代鈴木正夫が榎本秀水の尺
8
八で唄ったものが絶品。
鈴木正夫は宮城県伊具郡に生まれ、縁あって相馬郡新地町駒ヶ嶺に婿養子に入る。唄
好きの鈴木は、民謡を相馬市百槻にいた堀内に師事するが、姑が唄嫌いのため、一家が
寝静まってから、およそ 9 ㌔離れた堀内の元に連日通ったという。
☆民謡をうまく唄うコツの一つは“こぶしを効かせる”ことです。
♪ハァー 遥か彼方は 相馬の空かヨ なんだこらよと(ア チョーイ チョイ)
相馬恋しや 懐かしや なんだこらよと(ア チョーイチョイ)
はぁーああ あぁあぁぁぁぁー
はるかぁ かなぁぁたーわぁぁ そーまのぉぉぉそぉぉぉらーかよーぉぉぉ
なんだあ こーぉらよーと
そおまーぁぁこいしやぁぁぁなつうぅかぁしやーぁぁぁ
なんだあ こーぉらよーと
<お勧めのCD>
◎初代鈴木正夫:
・ TFC-1206(99)お囃子方不記載。音源は SP 盤。曲のみならず、声も未洗練な野趣にあ
ふれた鈴木の声が聴ける。
・ VDR-25152(88)お囃子方不記載。ハイテンポ。手拍子入り。初期の形の曲節。
○三橋美智也:
・ KICH-2417(06)TFC-1209(99)三味線/藤本秀夫、藤本喜世美、尺八/渡部嘉章、囃子言
葉/渡辺美千代、佐藤房子。
・ 細部まで行き届いた絶妙の三橋節。昭和 29(1954)年、三橋はこの唄をアレンジした
「酒の苦さよ」(山崎正作詞、山口俊郎編曲)で歌謡界にデビューしている。
○杉本栄夫:
・ COCF-13286(96)三味線/本條秀太郎、本條武、尺八/矢下勇、囃子言葉/白瀬春子、白
瀬孝子。味のあるかすれ声。気取らず作らず自然体。
・ FGS-603(98)三味線/小関敬義、尺八/原田保久、囃子言葉/猪狩智子、馬場ルリ子。
9
富士山麓一周バスツアー
麻生ふるさと交流会の秋のイベント“富士山麓一周バスツアー”は、世界文化遺産「富
士山-信仰の対象と芸術の関連遺産群」の構成資産を効率よく巡って見学する企画で、曇
天の 11 月 12 日(木)に 38 名(会員は 20 名)の参加のもとに実施しました。
予定通りの8時に貸切バスは麻生区役所前を出発し、宮本幹事の挨拶後に本日のガイ
ドの恩田榮志氏の紹介がありました。恩田さんはサンキン会などに属し、数年前まで旅
行会社のガイドをしており、富士山麓一周ウオークを企画しガイドも数年行ったという
富士山に関する豊富な知識をお持ちの方です。続いて本コースの企画・準備等をされた
吉田さんから、本日のコースの見どころの解説書が配布されました。(以下の本文中のゴ
シック体の部分は、解説書からの抜粋です)
≪北口本宮冨士浅間神社≫
山梨県富士吉田市上吉田
延暦 7 年(788 年)に甲斐の守である紀豊彦が現在地に社殿を造営したと伝わる。中世には同社
が所在する郡内地方の領主である小山田氏からの庇護を受けた。古来より社中に「諏訪の森」が
位置し、諏訪神社の鎮座地に浅間神社を勧進したと伝わる。現在当社は浅間神社であり、祭神は
木花咲耶姫命を主祭神としている。元和元年(1615 年)、谷村城主鳥居土佐守成次が現在の社殿を
建立、一時荒廃していたが、富士講の行者であった村上光清が私財を投げ打って再興し、富士講
の参詣者を集めた。社殿の前の両脇には樹齢千年の「冨士太郎杉」「冨士夫婦檜」の名を持つ大
きな御神木がある。
富士登山道の吉田口の起点にあたる。江戸時代には富士講が流行し、周辺には御師の宿坊が百
軒近く建ち並んだこともある。
≪浅間神社≫
浅間神社のほとんどは、富士山に対する信仰(富士信仰、特に浅間信仰)の神社であるが、一部
浅間山に対する信仰の神社もある。
富士信仰に基づいて富士山を神格化した浅間大神、または浅間神社を記紀神話に現れる木花咲
耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)と見てこれを祀る神社である。
浅間神社と木花咲耶姫命が同一視されたのには、木花咲耶姫命の出産が関係している。中には
木花咲耶姫命の父神・大山祗神や姉神・磐長姫命を主祭神とするものもあり、それらを含めて全
国に 1,300 社の浅間神社がある。これらの神社は、富士山麓を初めとしてその山容が眺められる
地に多く所在する。その中でも富士宮市に鎮座する富士山本宮浅間大社が総本宮とされている。
≪木花咲耶姫命≫
日本神話に登場する美しい女神で瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妻。火中で 3 人の男の子(火照命(ほ
でりのみこと)-海幸彦、火蘭降命(ほすせりのみこと)、出見命(ほおりのみこと)-山幸彦=神武天皇は孫)を出
10
産したことから、火山である富士山に祀られるようになったという。
富士山本宮浅間大社の社伝では、木花咲耶姫命は水の神であり、噴火を鎮めるために祀られた
とされている。また、家庭円満・安産・子安である他、酒解子神(さけとけこのかみ)と呼ばれ、酒造
の神でもある。
約2時間で富士吉田市の北口本宮冨士浅間神社に到着。拝殿前で集合写真を撮ってか
ら、恩田さんの案内で本殿・西宮・東宮・富士登山道吉田口・太郎杉・夫婦檜などを巡
った。モミジの紅色と銀杏の黄色が印象的でした。
≪忍野八海≫
忍野八海は、山梨県忍野村にある湧水郡。富士山の雪解け水が地下の溶岩の間で、約 20 年の
歳月をかけて濾過され、湧水となって8ヶ所の池をつくる。忍野八海からの湧水は山中湖を水源
とする桂川と合流する。国指定の天然記念物、名水百選に指定され、世界文化遺産に登録されて
いる。
かって、この地に存在した忍野湖が干上がって盆地となり、富士山や近くの火山山麓の伏流水
を水源とする湧水の出口が池として残った姿が忍野八海である。平地となったこの一帯はコメの
産地となり、湧泉の水は飲料水、農業用水として利用された。
「八海」の名は、富士講の人々が富士登山の際に行った 8 つの湧泉を巡る八海めぐりからきて
いる(多数ある湧泉から 8 つに限ったのは、8を尊ぶ仏教的思想に基づく)。
※地元の旧家に残る古文書「宮下文書」の伝説では、もともと当地一帯には宇津湖と呼ばれる
巨大湖があったが、富士山の延暦噴火で流出した鷹丸尾溶岩により宇津湖が分断され、山中湖と
忍野湖に分れたと伝えられているが、標高差の観点および山梨県環境科学研究所のボーリング調
査により、宇津湖の存在は否定されている。
バス移動約 15 分で忍野八海に到着。第一印象は大声の中国人観光客が多かったこと。
お釜池・銚子池・湧池・濁池・鏡池・菖蒲池など、澄んだ湧水の池を巡りました。
11
今回は富士五湖には立寄らず、山中湖を車窓から眺めただけでした。
≪富士五湖≫
富士五湖は、山梨県側の富士山麓に位置する 5 つの湖の総称。下記の湖をさす。堀内良平(富
士急の創始者)によって命名された。
*本栖湖(4.7 ㎢)・精進湖(0.5 ㎢)・西湖(2.1 ㎢)・河口湖(5.7 ㎢)・山中湖(6.8 ㎢)
いずれも富士山の噴火による堰止湖で、平成 23 年 9 月 21 日に富士五湖の名称で5湖とも国の
名勝に指定され、世界文化遺産に登録された。
自然流出する河川を持つ湖は桂川(相模川)の源流である山中湖のみで、残る4湖は内陸湖であ
る。ただし、水位調整や発電用として河口湖、西湖、本栖湖には、それぞれトンネルによる人工
放水路が作られている。
西湖、精進湖、本栖湖はかっては剗の海(せのうみ)という一つの大きな湖であり、水面の標高
が連動しているため、地下で水脈を共有していると考えられている。
≪東口本宮冨士浅間神社≫
静岡県駿東郡小山町須走
平安時代初期・延暦 21 年(802 年)、富士山東麓が噴火したため、須走に斎場を設け祭事を行い
鎮火の祈願を行った。それにより同年 4 月初申の日に噴火が収まったため、大同 2 年(807 年)に
鎮火祭の跡地に、報賽のため社殿を造営したと伝えられている。
江戸時代には須走口登山道の本宮として、駿河国と甲斐国を結ぶ交通の要所であった須走村の
宿場町とともに栄えた。
富士山須走口登山道の起点に鎮座し、須走浅間神社とも称される。
昼食は「道の駅すばしり」で。時間が少なかったので、弁当購入の人が多かったが、
食堂でチャンと食事をした人もおりました。
食後には近くの東口本宮冨士浅間神社へ。本殿でお参りしてから、樹齢 500 年の天然
記念物のハルニレや根上りモミなどを見学。富士山はサッパリ姿を現しません。
≪富士山本宮浅間大社≫
静岡県富士宮市宮町
全国に 1,300 社ある浅間神社の総本社である。富士山を神体として祀る神社で、本宮-富士宮
市、奥宮-富士山頂上の2宮からなる。境内は広大で、本宮社地で 17,000 坪になるほか、富士山
の 8 合目以上の 385 万㎡も社地として所有している。本殿は徳川家康による造営で「浅間造」と
いう独特の神社建築様式であり、国の重要文化財に指定されている。また、本宮境内には富士山
の湧水が湧き出す「湧玉池」があり、国の特別天然記念物に指定されている。
「浅間」の語源については諸説あるが、長野県の浅間山のように火山を意味するとされる。「あ
さま」は古い呼称で、現在の「せんげん」は中世以降から用いられたと見られている。
※主祭神
木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)別称を「浅間大神」(あさまのおおかみ)とす
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る。別名は「木花咲耶姫命」とも記されるが、浅間大社側では、『古事記』に載る標記を正式に
採用している。「木花」は桜のことと云われ、神木として境内には 500 本もの桜樹が奉納されて
いる。
本日3ヶ所目の浅間神社の富士宮市までは、富士山麓を 1/4 周するので小一時間かか
り 14 時半頃に大鳥居駐車場に到着。富士山本宮浅間大社の鳥居前の売店で、富士宮名物
焼きそばを予約した人が数人おりました。立派な拝殿の前でお参りしてから、富士山の
湧水が湧き出す湧玉池を見学した。 池の水は一年間ほとんど増減なく、毎日約 30 万 t
(毎秒 3.5t)湧き出ていて、池のすぐ下流の神田川の水源となっている。
売店の写真です!
≪白糸の滝≫
富士宮市上井出
隣接する音止めの滝と共に、著名な観光地の一つとして知られ日本の滝百選にも選ばれてい
る。国の名勝、天然記念物。落差 20m、滝幅 200m、富士川水系芝川。
上流につながっている川から流れる滝と、断面(溶岩断層)からの湧水による無数の滝が並ん
でいる。水量は毎日約 13 万 t(毎秒 1.5t)
。幅 200m、高さ 20mの崖から絹糸を垂らした
ように流れる様子からこの名がある。
富士の巻狩りの際に、滝に立ち寄った源頼朝は歌を詠んでいる。
「 この上に いかなる姫や おわすらん おだまき流す 白糸の滝 」
30 分ほどで白糸の滝に到着。駐車場から滝への遊歩道沿いには土産店が並び、滝ま
では階段状の遊歩道が整備されている。最初に音止めの滝が見え、階段を下ると白糸の
滝の滝壺に着く。白糸の滝は、湾曲した絶壁の全面に大小数百の滝が絹糸のように落ち
ている。左岸側の階段を上り、「お鬢水」を見た後で対岸を見ると、なんと!富士山の
山頂が少し見え始めた。駐車場で、顔を見せた富士山を背景に集合写真を撮ることが出
来て満足でした。
≪朝霧高原≫
富士宮市北部
富士宮市北部・富士山西麓の標高 700~1,000mに広がる高原である。富士箱根伊豆国立公園
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に指定されている。その広大な土地全域で富士山を望める。
富士山を綺麗に望む著名なスポットであり、特に夏季には避暑地として観光客が訪れる。朝
に霧が発生しやすいことからこの名前が付いた。広々とした草原が広がっており、パラグライ
ダーなども行われている。また広大な面積に広がる茅は、
「朝霧高原茅場」として文化庁の「ふ
るさと文化財の森」に指定されている。
冷涼な気候であることと、古富士泥流を基盤とした黒ボク土という独特の地質から酪農が盛
んであり、ホルスタインを中心とする乳牛が群れ遊ぶ牧場が数多く点在する。
更におまけがありました。白糸の滝で紅富士の話を聞き、日の入り少し前までがチャ
ンスなので、朝霧高原に着いたら、まず展望台へ行って紅富士を撮るようにとのアドバ
イス。皆さん自分のカメラに紅富士を撮り納めたことでしょう。アドバイス通りで、集
合写真を撮った時間には、紅富士は終わっていました。
~赤富士山と紅富士~
ネットより
「赤富士」は夏の朝、山の地肌が日光で暗褐色に色づいた状態。葛飾北斎の「凱風快晴」。
「紅富士」は真冬の朝夕、雪が積もった白い斜面が光で照らされ、鮮やかな紅色に染まる状態。
朝霧高原を出発してからは、一路新百合ヶ丘を目指すだけ。朝と同様な談合坂SAで
トイレ休憩を取り、新百合ヶ丘に到着したのは予定の7時を少し回っていたようです。
多くの皆さんに参加して頂いたお蔭で、500 円コインの返金が可能になりました。
ガイド役の恩田さんには車中での説明を初め、現地での詳しいガイドをして頂きまし
た。改めて、恩田さんと参加者の皆さんに感謝いたします。
北口本宮冨士浅間神社
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白糸の滝・駐車場
富士山本宮浅間大社・湧玉池
朝霧高原・展望台
この原稿は、吉田謙司さん作成の「見どころ解説資料」を基に、
当日のエピソードや写真を編集係が追加したものです。
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隠岐流人秘帳(その2)~文覚上人~
松 本 良 樹
その昔、流人監視の島役人のいた西ノ島別府港から南に海路 50km ぐらいの焼火山南面
に、高さ約 150m、目もくらむような絶壁がある。この絶壁
の下は潮流の関係からか、いつも日本海独特の激浪が洗い、
打ち寄せる波の音は実にものすごい。その絶壁の頂上近く
に、大きな洞窟が二つある。これが有名な 『文覚の岩窟』
である。
僧文覚(もんがく)は隠岐に流されて以来、この岩窟にこ
もって後鳥羽上皇を恨み、
『呪いの秘法』である荒苦行を重
ねていたが、ついに精根尽きてこの岩窟で死んだ。
『隠岐古記集』には『文覚流罪の節、この穴にこもりて、
神護寺に残る文覚上人画像
帝および将を怨みし故、上皇云々……』と記されているが、
以前は“帝”の個所を恐れ多いこととして、文字不明ということにし、伏せていたらし
い。
文覚はもと遠藤盛遠という北面武士(上皇警護の武士)であり、流罪の原因は後鳥羽上
皇の政治や私行上のことを大いに批判し悪口を叩いたためで、ついこの間まであったよ
うな『不敬罪』という訳。文覚は正治 2 年(西暦 1200 年)この島に流され、わずか 2 ヶ年
余りの後、この岩窟で、はかなくも死んだ。
島前知夫村にある 『知夫旧跡要録』 から文覚に関するものを抜粋してみよう――。
源氏譜代の武士だった遠藤盛遠(文覚)は、武技にかけては抜群だった。そこで源頼朝
は 19 歳の彼を重く用い、大目付役に登用した。彼の得意や思うべしである。
ある日のこと、彼が大威張りで管内巡視の途上、ふと見染めた美女があった。盛遠は
その余りの美しさに見とれ、我を忘れてその後をつけた。そして二度びっくりした。そ
の美女とは、自分の幼友達だった従妹の“袈裟”が立派に成長した姿だった。だが惜し
いことに、袈裟はもう既に人妻だったのである。しかし、血迷った盛遠はすぐその足で
叔母を訪ね、
『袈裟をくれ、万一不承知なれば、刀にかけても申し受ける』と権力を笠に
着てかけ合った。驚き、恐れた叔母の衣川は恐怖が先に立ち、その場を納めるために、
承知してしまった。盛遠が帰った後、袈裟は母の衣川に呼ばれ、一部始終を聞かされた。
袈裟は、
『お母さんもご存知の通り、あの人は昔からいつも無理難題をいう人でした。し
かし、ことは私の問題だから、お母さんは決して逆らわぬように願います。私にも覚悟
があり、あの人に会って、きっと話をつけましょう』と、けなげにも言いきり、袈裟は
瞬きもせず、母の顔をじっと見つめたのである。このようなことがあってから数日のの
ち、袈裟の招きを受けた盛遠は喜び勇んで袈裟を訪れた。袈裟は静かに盛遠に相対して
言った。
『私の結婚生活は不幸の連続です。あなたの気持ちを聞いて、本当にうれしゅう
ございます。だが、昔から一婦、二人の夫に仕えずという言葉がございます。あなたが
私を本当に愛するならば、私の夫、源の亘(ワタル)を殺してからにして下さい。今夜、夫
が帰ったら風呂に入れ髪を洗わせた上、酒を飲ませて寝かせますから、その時に……』
喜んだ盛遠は、その夜同家に侵入、明かりを消して寝ている亘の首を難なく挙げた。し
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かしその首は以外にも“袈裟“の変わり果てた姿であった。自分の難題のため哀れ夫の
身代わりとなって死んだ袈裟の心を知った盛遠は、袈裟の冥福を祈るため、高野山に入
り、名を文覚と改めたのである。
『隠岐古記集』は『前世の悪縁まぬがれ難く、袈裟を斬って又之を着る、文覚の観念
いずれにあるや云々……』と、なかなかの名調子でこれを伝えている。
京都市下賀茂・恋塚寺
その後、高野山を下った文覚は京にいたが、しばらくしてから例の不敬の罪を犯し、
隠岐に流された。
隠岐に配流の際、その同志に安藤帯刀という者があり、安藤は知夫にいた。ある時文
覚は安藤を呼び『自分があの岩窟で呪いの修法を修めているのは、汝も知っての通りだ。
しかしわれは何といっても所詮は流人であり、二人は離ればなれである。めったに会う
こともできない。今日から後は、無事の日は毎日煙を上げて合図をしよう。もし煙の上
がらぬときは何事か起こったと見て必ず来てくれ』その時のことを『知夫旧跡要録』は
次のように伝えている。
『われら居所阻り、当時訪ふ能わず。故に今より無事の日は必ず
煙を上げて信を通ずべし。煙もし上がらざれば必ず事あり、子忘るる勿れ云々……』し
ばらくの間、煙が上がるのが遥か知夫島から見えた。だがある時遂にその煙が絶えた。
帯刀が急ぎ岩窟を訪ねてみれば、そこには精根尽きた文覚の痩せこけた遺骸が転がって
いたのである。哀れな袈裟。文覚もまた、それにも増して哀れな男だったが、島人は彼
の純情と闘魂を高く評価したのか、一流の傑僧として恐れ尊敬していたらしい。
こんな伝説もある――。
後鳥羽上皇があるとき、島流しになった文覚を笑って、
『文覚は広い世界を狭くして、岩の間に、身は隠岐の国』
とやられた。これを伝え聞いた文覚が、烈火のように怒り
『近い将来に、必ず上皇をこの隠岐島に引き寄せてみせる』
といったと言う――。
史実では、文覚が隠岐に流されて間もなく上皇も隠岐に
配流されてはいるが、伝説の真偽は別として、文覚の荒法
師振りを示す一コマとして面白い。
後鳥羽上皇画像
文覚は、この洞窟で呪いの秘法を続け、この洞窟の前を通る船があれば、岩窟から出
て鉢を出して食物の寄進を受けていた。ある時、心ない船頭がいて、その鉢の中に汚物
を入れた。文覚は怒って鉢を伏せ船頭の非を呪った。すると、たちまち船も船頭も海に
沈んで巌となった。島人はこの巌を“鉢が島”と呼んでいる。それからは、この洞窟を
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通る船は文覚の祟りを恐れ、帆を一杯に張ったままは通らない。必ず帆は八合に降ろし
て敬意を表しながら通ったという。
文覚の遺体は、僚友である安藤帯刀が背負って持ち帰り、同島知夫村に埋葬した。も
とは同村松養寺の境内にあったと同寺の由緒書にあるが、今は遥かに文覚の岩窟が見え
る所に建てられている。それはいかにも荒法師、文覚が好みそうな風の強い寒々とした
断崖絶壁の上である。と、ここまでは、元サンケイ新聞記者で隠岐出身の郷土史家、近
藤泰成さんの『隠岐流人秘帳』より転載したものです。
さて、文覚が歴史の舞台に登場するのは、承安 3 年(1173)4 月 29 日のことである。彼
が後白河院に提出した『文覚 45 箇条起請文』などによると、この日文覚は後白河院の法
住寺御所に推参して、弘法大師の聖跡神護寺が廃寺同然の状態で放置されているのは忍
び難いとして、これを復興するために荘園を寄進して貰いたいと訴えた。院は突然の寄
進強要を疎んじて、これを排除しようとすると激しく抵抗したので、やむなく逮捕して
伊豆に流した。伊豆に流された文覚は、そこで流人源頼朝に逢い平家打倒をもちかけた。
専横を欲しいままにする平家への反発が、彷彿として巻き起りつつあった世情を、彼は
敏感に読み取っていたのである。
『文覚 45 箇条の起請文』国宝
後白河法皇の御朱印と巻末 5 行に亘る宸翰
『神護寺勧進僧文覚四十五箇條起請、ひとえに是仏法興
隆の願、莫大なり、随喜の心、忽催し、結縁の思い、
こうかん
いささ
尤も深し、仍て後鑒のため、 聊 か手印を加えるなり』
そして治承 2 年(1178)、流罪から解放されると、院と頼朝が平家打倒の気脈を通じ合
わせるよう果敢な工作に乗り出して行った。周知のように、文覚の
奔走が功を奏して平家は滅び、後白河院は権力を回復し、頼朝も鎌
倉に幕府を創設することとなる。
こうして院と頼朝の双方に恩を売った文覚は、ここで一挙に二人
の権力者を神護寺復興の外護者に取り込み、広大な荘園を寄進させ、
神護寺のみならず東寺、西寺、高野山寺等、空海ゆかりの真言の大
寺院を次々と復興し修繕していったのである。今日神護寺、高山寺
後白河院
には数々の重要な文化財が伝えられているが、文覚の活躍に負う所
が少なくない。文覚が日本の文化史上に残した功績は誠に大きなものがあった。
しかし、後白河院が崩御し、ついで源頼朝も逝去すると後鳥羽院の反幕政策が急速に
膨張して、文覚は二度も遠流(佐渡と対馬)に処せられる。彼は栄光の頂点から奈落の
底に突き落とされたような形で最期を遂げたのである。
ところで、源平合戦という世紀の大動乱を語り伝える『平家物語』に、文覚が華々し
く登場してくることは言うまでもない。彼は実際にこの動乱の仕掛け人の一人であった
から至極当然であるが、
『平家物語』に描かれる文覚は実在の文覚とは、かなりかけ離れ
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た人物像になっている。
延慶本『平家物語』の末尾に文覚の後鳥羽院呪詛譚が載っている。佐渡に続いて隠岐
に流された文覚は、後鳥羽院を必ず隠岐に呼び寄せると呪詛し、
『わしの首は高雄の都の
見える高所に置け、都を睨み(院を)傾ける)』と遺言して死んだ。後年後鳥羽院が承久
の乱に敗れ隠岐に流されたのは、文覚の亡霊の仕業であったとなっている。この話文覚
の流刑地対馬を隠岐としているので、作り話だとすぐ解るのであるが、これほど堂々と
隠岐説がまかり通っているのは何故なのだろうか?おそらく承久の乱後隠岐に流された
後鳥羽院を、隠岐院と呼称する事が定着した頃(文覚死後ほぼ 30 年、承久の乱後 10 年
くらい経過した頃)、文覚の流刑地が何処であったか誰にも分からなくなっていて、その
頃巷に発生した伝承などを取り込んで作られた話だったのではないか ・・・・・・。
今日我々が文覚の流刑地を対馬だと知るのは、唯一『高山寺明恵上人行状』によるの
であり、更に鎮西で客死したのも『神護寺文書』に残された上覚の書状で辛うじて知る
事が出来る。こういう事実から推しはかると、文覚の流刑地、客死の情報は当時でもご
く一部の限られた人々にしか伝わっていなかったと考えられる。まして事件後 4,50 年
も歳月が経過すれば、
『平家物語』という大衆に直接語りかける芸能の場で、文覚隠岐流
罪説を打ち出して来れば、誰もこれを疑う者はいなかったに違いない。後鳥羽院呪詛譚
は、そういう状況の中で形成されたものと考えられるのである。
この上覚と明恵上人は紀州有田郡の出身で親戚同士。共に文覚の弟子です。
上覚は文覚より 8 歳年下で、対馬に流される時は同道して一
緒に行動を共にしています。
明恵上人は平重国を父とし藤原(湯浅)宗重(上覚の父親)
の四女を母として承安 3 年(1173)に生を受けますが、幼く
して両親を亡くし、9 歳のおり高雄山神護寺にあった叔父、
上覚の膝下に入り、16 歳で文覚について得度したとされてい
明恵上人
ます。後に戒律護持を志し実践することになったのは、文覚
から強い影響を受けたとされ、文覚の『45 箇条起請文』より知る事が出来ます。
つづく
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