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選手選考にかかる仲裁判断例に関する一考察
151 選手選考にかかる仲裁判断例に関する一考察 小川 和茂1 1 はじめに 2003 年 4 月、日本スポーツ仲裁機構(Japan Sports Arbitration Agency, JSAA)は、 財団法人日本オリンピック委員会(Japanese Olympic Committee, JOC)、財団法人日 本体育協会及び財団法人日本障害者スポーツ協会の支援のもと、競技者等と競技団体等と の紛争2の仲裁による解決を円滑に行うための事務等を遂行することにより、スポーツ界の 発展に資することを目的とし3、設立された4。JSAA は同年 6 月より案件の処理を初め、 2006 年 3 月現在まで、6 件の仲裁判断が下されている5。JSAA が下した 6 件の仲裁判断 には大きな特徴が実はある。すなわち、JSAA-AP-2003-002 号事案(テコンドー)をは じめとして、JSAA-AP-2003-003 号事案(身体障害者水泳)、JSAA-AP-2004-001 号 事案(馬術)、JSAA-AP-2004-002 号事案(身体障害者陸上)及び JSAA-AP-2005-001 号事案(ローラースケート)の 5 件が選手選考に関連するものであった。 近年では各国を代表する選手の選考をめぐって紛争が発生することを避けるために、一 部の競技では、国際競技連盟(IF)が直接に競技会参加資格等をある程度具体的に定め、 それに従いその範囲で国内競技連盟(NF)が代表選手を選ぶということも行われている6。 しかし、わが国においては特に、まだ少なくはない種類の競技において、選手選考基準は それほど具体的なものであるという状況にはないといえ、代表選手選考は潜在的な紛争の 種となっているのが現状である。 1 上智大学法科大学院助手、日本スポーツ仲裁機構事務局員。なお、本稿は筆者の個人的見解に基 づくものであり、上智大学法科大学院、日本スポーツ仲裁機構及びその他の団体の意見ではない。 2 例えば、選手選考に関連して競技団体が下した決定に対しての不服、競技団体が行った選手資格 ・コーチ資格の認定及び取消に関する不服などが想定されている。 3 JSAA 規程第 3 条。 4 JSAA については、設立後間もない時期の文献として、道垣内正人「日本におけるスポーツ仲裁 制度の設計---日本スポーツ仲裁機構(JSAA)発足にあたって」ジュリスト 1249 号 2-5 頁[2003]、 同「日本スポーツ仲裁機構(JSAA)」法学教室 276 号 2-3 頁[2003]、また 2 年が経過した時期の文 献として Masato Dogauchi, "The Activities of the Japan, Sports Arbitration Agency",in IAN BLACKSHAW/ROBERT SIEKMANN/JANWILLEM SOEK, THE COURT OF ARBITRATION FOR SPORT 1984-2004 (T.M.C.Asser Press, 2006), pp.300-312 がある。 上記のほか、菅原=川井=大川「寄稿 日本スポーツ仲裁機構」自由と正義 55 巻 2 号 50 頁 [2004]、萩原金美「スポーツ仲裁に関する経験的雑感 -日本スポーツ仲裁機構の第1号事件の仲 裁人として-」日本スポーツ法学会年報第 11 号 118 頁[2004]、大川宏「日本スポーツ法学会年報 第 11 号 124 頁[2004]がある。 5 JSAA で下された仲裁判断は、規則上原則として公開が義務づけられており(スポーツ仲裁規則 第 37 条 2 項。)、JSAA のホームページ(http://www.jsaa.jp/)で公開されている。 6 例えば、2006 年トリノオリンピックでは、スケート、バイアスロン、ボブスレー、リュージュ である。 151 152 他方で、国際的なスポーツの世界に目を転じてみると、スポーツ紛争解決のためには、 スポーツ仲裁裁判所(Court of Arbitration for Sport, CAS)がスイスのローザンヌに 1986 年に設立されており、これまでに多くの案件を処理してきている7。CAS において 取り扱われる紛争の多くはドーピング違反等により競技団体等が競技者に対して下した何 らかの処分に対する不服申立であるが、各国を代表する選手の選考に関連する紛争も CAS が処理した事案の割合からすれば極少数ながらではあるが取り扱われている8。 もっとも、後に紹介をするように、CAS で取り扱われた選手選考関連事案は、CAS が 支部を置いているオーストラリア国内の選手選考に関連するものがそのほとんどであり9、 果たして真に国際的なものであるかには疑問の余地があるのかもしれない10。しかし、選 手選考に関連して発生した紛争の解決のためのルールが未だに明確なものとは到底いえな い現状を考えれば、CAS が下した裁定例を検討することには意義があるといえよう。 以下では、JSAA 仲裁判断の特徴について簡単に述べた上で(2)、CAS 仲裁判断を紹 介したうえでその特徴を示す(3)。その上で、2、3、を踏まえ若干の検討を行うこと としたい。 2 JSAA 仲裁判断 (1) JSAA 仲裁判断により定立されていると思われるルール JSAA が下した仲裁判断は先にも述べたとおり、2006 年 2 月現在 6 件であるが、そのう ち 選 手 選 考 に 関 連 す る も の は 、 JSAA-AP-2003-002 号 事 案 ( テ コ ン ド ー ) 、 JSAA-AP-2003-003 号事案(身体障害者水泳)、JSAA-AP-2004-001 号事案(馬術)、 http://www.tas-cas.org に詳細な情報が掲載されている。CAS に関する邦語の文献としては、 小寺彰「スポーツ仲裁裁判所」法学教室 212 号 2-3 頁[1998] 、小田滋「長野オリンピックにおけ るスポーツ関連紛争の解決 -スポーツ仲裁について-」ジュリスト 1127 号 94-102 頁[1998] がある。 8 CAS において処理された選手選考に関する紛争の事案は、処理された事案全体の割合からすれ ば非常に少なく、公表された仲裁判断集によればその件数は CAS の設立以後わずかに 5 件である。 9 CAS の支部は、オーストラリアのほか、アメリカ合衆国にも置かれている。 10 CAS のほか、スポーツ関連紛争を解決するための機関としては、米国仲裁協会(American Arbitration Association, http://www.adr.org/) や 、 英 国 の Sports Dispute Resolution Panel(http://www.sportsdisputes.co.uk/) 、 カ ナ ダ の ADRSportRED(http://www.adrsportred.ca/)、ニュージーランドの Sports Disputes Tribunal of New Zealand(http://www.sportstribunal.org.nz/)などがある。これらは内国のスポーツ 関連紛争を取り扱う機関である。カナダ及びニュージーランドの機関では仲裁判断がホームページ 上で公開されている。本文でも述べたとおり、CAS の仲裁判断は国際的なフォーラムで下されたも のではあるが、ある一国内での選手選考という問題では国内的な問題であり、仲裁判断が公表され ているカナダ及びニュージーランドにおける仲裁判断も検討の対象として含めることが自然なこと であると考えるが、本稿においてはまず、CAS での仲裁判断の検討に専念することとし、カナダ及 びニュージーランドの仲裁判断に関する検討については別稿において検討を行いたいと考えてい る。 7 152 153 JSAA-AP-2004-002 号事案(身体障害者陸上)及び JSAA-AP-2005-001 号事案(ロー ラースケート)の 5 件である。すなわち、これまで JSAA が下した仲裁判断のうちほとん どすべての事案が選手選考に関連するものであった。 JSAA が下した仲裁判断例から、わが国において、競技団体が下した処分または決定が 取消されるのは以下の場合であるといえよう。すなわち、①国内スポーツ連盟の決定がそ の制定した規則に違反している場合、②国内スポーツ連盟の決定がその制定した規則には 違反していないが著しく合理性を欠く場合、③国内スポーツ連盟の決定に至る手続に瑕疵 がある場合11、④国内スポーツ連盟の制定した規則自体が法秩序に違反しまたは著しく合 理性を欠く場合12である。これら処分が取消される場合については、JSAA の比較的早い 段階において仲裁判断の中で言及され、JSAA で下されたほぼすべての仲裁判断の中で上 記の基準に言及がなされており、現時点においてはほぼ固定されている基準となっている といって良いと思われる。 (2) 選手選考に関する JSAA 仲裁判断の傾向 競技者から選手選考に関して不服申立のあった事案について、特殊な事案であった JSAA-AP-2003-002 事案13を除くとしても、JSAA が下した仲裁判断で、競技団体が下し た決定が覆されたという事例は今までない。しかし、選手選考に関する JSAA の仲裁判断 には 2 つの特徴があると思われる。 まず第一には、「結論重視」の傾向があげられる。JSAA-AP-2003-003 号事案では、 決定に至る手続に瑕疵があるか否かについて疑問無しとはしないとしながらも、競技団体 のした決定の当否については、「決定時及び事後の判断として、結論において著しく不合 理ということはできないものであるから、仮に手続に問題があったとしても、本決定を無 11 以上①から③につき、JSAA-AP-2003-001 事案。 ④につき、JSAA-AP-2003-003 号事案。 13 JSAA-AP-2003-002 事案は以下のような事案であった。テコンドーのコーチである申立人(X) が、JOC を被申立人(Y)として、Y が行った 2003 年テグ夏季ユニバーシアード大会日本代表とし て派遣されるテコンドーの選手を 1 名、役員を 2 名とする決定に対して、前記決定を取消し、派遣 選手を 2 名に増員すること等を求め仲裁を申し立てた事案である。 X は、Y が選考会を開催しないまま、代表選手を 1 名としたことは、代表選手選考についての Y の 裁量権を逸脱しており、違法であるなどと主張したが、仲裁パネルは、Y が選考会を開催しなければ ならない義務を負うものではなく、競技団体が正常化していない事情の下で、Y が行った過去の国際 大会などにおける実績を基準とした代表選手決定は、代表選手の選任に関する Y の有する裁量権を 逸脱したとは認められないとして、申立てを棄却した。 本件は、通常一つの団体であるはずの当該スポーツを統轄する団体が分裂し複数存在しお互いが 唯一の統一団体であると主張していたという異常な状態のもとで、やむなく Y がユニバーシアード 大会に選手を派遣すべく選考を行った事案であるという点に特殊性がある。その限りにおいては、 本仲裁判断での判示、すなわち、Y には代表選手決定について選考会を開催しなければならない義 務を負うものではないと判示した部分の射程については、各競技につき国内の統括団体が一つであ る通常の体制が敷かれている競技団体までには及ばないようにも思われる。 12 153 154 効にするだけの重大な瑕疵があったとはいえい難い」として申立人の請求を退けている14。 そして、JSAA-AP-2004-001 号事案でも、傍論部分ではあるが、第 4.判断の理由9.に おいて「前述のように当該選手選考基準および選考過程が著しく不合理だとはいえないと しても、いくつかの不適切な面があったことは否めない」としながらも、請求が退けられ ている。このことからは、JSAA の仲裁判断においては、手続的に不適切な面が若干あっ たとしても、結論において著しく不合理ではない場合には、競技団体の決定は維持される という競技団体の裁量権をかなり広範に認めるという傾向があるといえよう。 次にあげられる傾向としては、仲裁パネルの「意見」ないし「希望」が仲裁判断に付さ れるという傾向である。これらの「意見」ないし「希望」は、JSAA-AP-2003-003 号事 案 に 始 ま り 、 続 く JSAA-AP-2004-001 号 事 案 、 JSAA-AP-2004-002 号 事 案 、 JSAA-AP-2005-001 号事案においても付されている。これらは実際に紛争の当事者とな った競技団体に対する警告的な意味合いで付されているものと思われるが、JSAA の仲裁 判断は公開されることが原則とされているため15、後に不幸にして発生してしまった選手 選考に関する紛争のスポーツ仲裁による解決のための具体的指針、ひいてはスポーツ界全 体の透明性のさらなる向上のためのガイドラインとして働くことをも目的としているもの と思われる。これら仲裁パネルの「意見」ないし「希望」については、上記のような効果 が望めるのであれば積極的に「意見」ないし「希望」を付すべきであるという考え方もあ ろうが、本案の判断に関係のない事情であるために仲裁判断が公開されることを考えれば むやみに周辺事情を仲裁判断に書き当事者周辺でいらぬ紛争を惹起する危険性もあるため 書くべきではないとの考え方もあろう。いずれにせよ、今後さらなる検討が必要であるが、 本稿ではこれ以上立ち入らないこととする16。 3 CAS 仲裁判断例 (1) はじめに JSAA-AP-2003-003 号事案第 4.判断の理由 2.本案の判断(4)本決定に至る手続に瑕疵があるか 否かについて(v)を参照。 15 スポーツ仲裁規則 37 条 2 項。 16 なお、JSAA が下した仲裁判断の残る 1 件については(JSAA-AP-2003-001 号事案)、第 1 号事件としてまた、団体の行った決定が取り消される場合についての基準を提示したという点で非 常に重要であると思われるが、紙幅の関係上、重要な点のみを以下に引用することとする。 すなわち同仲裁判断でスポーツ仲裁パネルは、「日本においてスポーツ競技を統括する国内スポー ツ連盟-相手方もその一つである-については、その運営に一定の自律性が認められ、その限度におい て仲裁機関は国内スポーツ連盟の決定を尊重しなければならない」としたうえで、①国内スポーツ連盟 の決定がその制定した規則に違反している場合、②規則には違反していないが著しく合理性を欠く場合、 または③決定に至る手続に瑕疵がある場合等において、それを取り消すことができるにとどまると解す べきであるとした。 14 154 155 2において JSAA がこれまでに選手選考に関連して下した仲裁判断の傾向について簡単 に述べたが、以下では CAS における選手選考に関連して下された仲裁判断を検討するこ ととしたい。 JSAA がこれまで処理をした件数に対する選手選考がらみの事案の割合を考えると、 JSAA においては処理事案のほとんどが選手選考がらみの事案であるのに対し、CAS の仲 裁判断例にしめる選手選考がらみの事案は非常に少ない。具体的には、CAS の仲裁判断例 を掲載した仲裁判断集からの情報によるが17、仲裁判断集に掲載されている全 105 件の うち、わずかに 5 件のみである18。 CAS では国際オリンピック委員会(IOC)・国際競技連盟(IF)が競技者・国内オリン ピック委員会(NOC)・NF・IF 等に下した処分が争われる事案が多くを占めるため、相 対的に選手選考に起因する仲裁事案が少ないと思われる。もっとも、選手選考の問題は、 一国内における紛争であり、そういったケースがわざわざ CAS に持ち込まれることこそ がまれであるともいえる19。事実 CAS に持ち込まれた事案の多くは、CAS の支部がある オーストラリアにおける選手選考の問題がほとんどである。 そうだとすると、先にも述べたとおり選手選考問題に関する CAS の仲裁判断を検討す ることの意義に疑問が現れることになる。すなわち、CAS という世界的なスポーツ紛争を 解決するための機関の仲裁判断は、いわゆる国際的な慣習としてのスポーツ法の具現とし て検討するに値するかもしれないが、選手選考問題に限っていえば CAS の仲裁判断とは 言ってもオーストラリアの選手選考問題に関する仲裁判断であって国際的な通用性を持た ないのではないかという疑問である。 しかし、上記の点について筆者の見解は異なる。繰り返しになるが、たしかに選手選考 問題は一国の国内の問題であるが、これまでこれらの問題が紛争になった場合にそれを解 決するための場所というものがそもそも設けられてこなかったという状況があり(そもそ も、ここ数年前まで CAS 以外には、競技団体が下した選手選考に対して不服を申し立て る機関が一部の国を除き存在すらしていなかった。)、加えて紛争を解決するための基準 すらも明確ではなかったのである。他方で、JSAA で下された仲裁判断の数を考慮しても、 先例としては十分な数の仲裁判断があるわけではない。このような状況を考えると、JSAA に先行して仲裁判断を下してきている CAS における選手選考関連の仲裁判断の判断枠組 M. Reeb ed., "Digest of CAS Awards 1986-1998"[1998](hereinafter “CAS I”), M. Reeb ed. "Digest of CAS Awards II 1998-2000"[2002](hereinafter “CAS II), M. Reeb ed. "Digest of CAS Awards III 2001-2003"[2004](hereinafter CAS III)より。 18 アトランタ以降オリンピック会期中に設置されることとなった Ad Hoc Division で下された仲 裁判断を除く。 19 CAS の仲裁手続で利用される言語は英語またはフランス語であり、これら言語を母国語とする 者たちの間での紛争を CAS に持ち込む場合を除けば、わが国で著名となった千葉すず事件(後述) のように英語を母国語としない国の国内問題である選手選考問題を CAS に持ち込むことはあまり 17 155 156 を検討することには、JSAA において今後取り扱われることが予想される事案に対しての 方向性を与えるという意義があるように思われるからである20。以下選手選考に関する CAS の仲裁判断を簡単に紹介することとする。 (2) CAS 96/153, Watt / Australian Cycling Federation(ACF) and Tyler-Sharman, award of July 22, 199621 代表選手決定に先行して被申立人(ACF)が女子競輪選手である申立人に与えたオースト ラリア代表選手としての地位の保証があるにもかかわらず、正式な代表選手を決定する際 に申立人を選ばずに第三者 A を選んだことを不服として、当該決定を取り消すことなどを 求め仲裁申立が行われた事案である22。 仲裁パネルは、被申立人が申立人に与えた保証は「条件無しの保証(unconditional guarantee)」ではなかったが、それは申立人にして申立人が代表選手となることを合理 的に予想させるものであり、他方被申立人は自身が公開した選手選考基準及び手続からの 乖離(それは申立人に対して有利なものであった。)について認識しつつも、申立人に対 する代表選手としての保証をする決定を下していた。そして、その後の会合においても当 該決定については支持がされていたのであり、当該決定を申立人に伝えるに際しては、被 申立人は申立人が以後その決定に基づいて行動をすることや、申立人の地位を変えること を知りつつまた意図していたのであるから、被申立人は、申立人との約束を守る義務があ るというべきであるとした。そのうえで仲裁パネルは、代表選手としての地位が保証され ない除外事由の成立の有無を検討し、当該条件は満たされていないとし、被申立人の申立 人を選ばないとした決定を取り消した。 決定が取消された結果 X を代表選手とする旨の仲裁判断が下されたが、これについて、 仲裁パネルは次のように述べている点注意が必要である。すなわち、オリンピックにおけ る代表選手選考に関連する紛争は、仲裁人に競技においてより良い成果を残す蓋然性が高 いだとかメダルを取る可能性がより高いという選手がどちらであるかということを選ぶと いうことを求めるものではない。それらの問題は、その様な決定を下すために適切に資格 が与えられた人々(選手選考委員会等)の問題である。選手選考に関連する紛争で仲裁人 に求められているのは、選手選考をする権限を与えられた団体により、選考手続が適正か 余り現実的なオプションではないと思われる。 20 この意味においては、CAS のみならず、先に述べたカナダ、ニュージーランドにおける選手先 行に関する仲裁判断例の検討も重要な意味を持つと思われる。 21 CAS I , pp.335-349. 22 なお、現在は、オーストラリアにおけるオリンピック代表選手選考については、Australian Olympic Committee(AOC)、NF、競技者との間での合意により選手選考過程・基準について詳細 な取り極めがなされている(see, "OLYMPIC TEAM SELECTION BY-LAW" OF AOC. Available on the website of AOC(http://www.olympics.com.au/)。 156 157 つ公平に執り行われたか否かという問題についての判断なのである、と述べた点である。 この点は後述のように後の仲裁判断でも踏襲されている点であり、CAS の仲裁では選手 選考過程においてその手続の公正性・適正さが審査される旨を明確に示したという点で注 目される。 以上に加えて、本事案は CAS の仲裁手続において初めて選手選考の問題が取り扱われ たという点で重要な意義を有しているといえる。 (3) CAS 2000/A/260, Beashel and Czislowski / Australian Yachting Federation Inc. (AYF), award of 2 February 200023 本事案もオーストラリア国内の選手選考に関連して発生した紛争である。シドニーオリ ンピックのヨット競技における 49er 級の代表選手を 2 名選考するとの AYF の決定に対す る不服申立てであった。当該競技において、選手選考結果に対する不服申立ての手段につ いては、競技団体内での不服申立て機関及びその結果に対して CAS での仲裁を行うとい う 2 段階の不服申立てが許されており、まずは競技団体内の不服申立て機関で決定の当否 が争われた。しかし、競技団体内における不服申立て機関では、手続的に問題はあったも のの、 そのことは申立人が選考されるか否かについての結論に影響を与えなかったとして、 申立人の請求を退けていた。しかし申立人は競技団体内の不服申立て機関が「結論に影響 に与えない」とした点をさらに不服として CAS に仲裁の申立てを行った。 仲裁パネルは、どの選手が一番メダルを取る可能性が高そうであるのかという実体的な 判断は行わず、選考過程が選考基準に従ったものであったのか否かを判断するのが仲裁パ ネルの役割であるとの意見を示したうえで、①そもそも競技団体内の不服申立て機関が誤 った判断をしたのか否か、②もし、不服申立て機関が誤った判断をしていたのであれば、 選考委員会が選考基準に従った選考を行っていたか否か、が争点であるとした。 競技団体内の不服申立て機関が「手続的に問題はあったものの、そのことは申立人等が 選考されるか否かについての結論に影響を与えなかった」と判断した点について仲裁パネ ルは、結論(最もメダルが取れそうな人が選ばれるという結論)に影響がなければ手続は 問題としないというのでは、選考基準・選考過程についてルールを決めておく必要が無く なってしまうとして、同意できないとし、競技団体内の不服申立て機関が「結論に影響を 与えなかった」と実体面を判断した点についても、本事案のような、申立人と既に選考さ れた競技者とのレベルの差があまりないような場合には、きちんとした手続を履践してい た場合において、結論が異なっていた可能性があると述べて、AYF 及び選考委員会の決定 を取り消し、再度決定をやり直すよう AYF 及び選考委員会に命令した。 23 CAS II , pp.527-533 157 158 (4) CAS 2000/A/278, Chiba / Japan Amateur Swimming Federation (JASF), award of 24 October 200024 本事案はシドニーオリンピック日本代表チームメンバーとして申立人が選定されなかっ たことに関連して、①申立人を選ばないとする決定の取消、②申立人を日本代表チームの メンバーとすること、 ③申立人がシドニーオリンピックで競技を行うことができない場合、 そのことにより発生する損害の賠償、④申立人が要した仲裁費用の賠償、及び⑤仲裁パネ ルが適当と考えるその他救済を求めて、被申立人に対し仲裁を申し立てた事案である。わ が国では、千葉すず事件として有名な事案であり、「スポーツ仲裁」という言葉を世の中 に広く知らしめることになった。 本事案では、①選考基準が適正に策定されたのか、②策定された選考基準を適正に適用 し選考委員会は決定を行ったか否か、が主な争点とされた。 仲裁パネルは、 選考基準が適正に策定されたかという問題については下記のように述べ、 被申立人が選手選考基準を策定するにあたって不当な行為をしたわけではないとした。す なわち、たとえ選考前に選考基準が定められていたとしてもそれが競技者に対して伝達さ れていないのであったならば、代表選手に関する決定は破棄されることになるだろう。申 立人の様なプロ競技者(professional athlete)は、オリンピック参加資格を得るために必 要な NF または NOC の定めた基準を知る権利があると考える。選手選考の決定は1人の 競技者にとっては一生に一度あるか無いかの機会が得られるか否かのものであることを考 慮すれば、NF 及び NOC は、透明性及び開かれた情報となるよう務めなければならない。 しかし本事案では、被申立人は選手選考に関する自身の広範な裁量権を行使し、事前に 概略的で明確とはいえない選手選考基準を競技者に伝達し、その基準に従って代表選手選 考会の後に選手選考の決定を下している。つまり、被申立人は、代表選手選考会の後に自 身の裁量権を最大限に行使して、選考基準を確定させたのである。このような選考方法は 他の国では行われない様な方法ではあるが、オリンピック憲章・FINA(国際水泳連盟)規 則、JOC の規則及び被申立人の規則に反してまで、被申立人を代表選手として選ばないと いう決定が下されたわけではない。 以上のような状況から、仲裁パネルは、被申立人がシドニーオリンピックの選手選考基 準を策定するにあたって、不当な行為をしたわけではないと判断する。 また、上記のように策定された選考基準を適正に適用して選考を行ったか否かについて は、選手選考基準はすべての競技者に公平に適用されることが必要であるが、仲裁パネル は、被申立人が選手選考基準を日本の競泳選手陣に等しく適用したという結論に達したと 述べ、申立人の請求を退けた。 申立人は被申立人に対し、シドニーオリンピックで競技を行うことができないことによ 24 CAS II, pp.534-541 158 159 り発生する損害賠償も請求していたが、損害について申立人の十分な立証がなされなかっ たとされ認められることはなかった。 他方で、申立人は仲裁費用を被申立人の負担とする旨の命令も求めていたが、これにつ いては、選手選考基準を選考対象試合の前に公表していたのであれば、本件事案が仲裁に 申し立てられることがなかったことは疑いのないところであり、このような状況に鑑みれ ば、仲裁パネルは、被申立人に対し、申立人が支弁した仲裁費用の一部を負担させること が公平であると考えるとして、申立人の負担した仲裁費用の一部である 10,000CHF を被 申立人が負担するよう命令を下した。 なお、この事案でも、Watt 事案を初めとする CAS 仲裁判断例が述べたように、選手選 考に関する紛争で CAS が争点とするのは、選考を行うに際しての手続過程が適切に行わ れていたかであると述べている。 (5) CAS 2000/A/284, Sullivan / The Judo Federation of Australia Inc. , the Judo Federation of Australia Inc. Appeal tribunal and Raguz, Award of 14 August 200025 本事案もシドニーオリンピック選手選考に関連する事案であり、柔道 52kg 級の選手で ある申立人が、シドニーオリンピック代表選手に選ばれなかったという決定に対して、選 考基準に適正に従って行われた決定ではないとして不服を申し立てた事案である。すなわ ち、オーストラリアにおけるシドニーオリンピック柔道代表選手選考は、いくつかの大会 での競技成績をポイント化し獲得ポイントの多いものから代表選手とするというような選 考方法が採られていたところ、各大会で獲得できるポイントが決定されて公表されていた が、事後的に獲得できるポイント数の変更が行われ、新しいポイントによると申立人が代 表の座から外れてしまうために紛争が発生した。 仲裁パネルは、選手選考に関する競技者と競技団体及び AOC の合意を詳細に検討し、 選考基準が公表された時点においての合意の内容にシドニーオリンピックの柔道代表選手 として選考される可能性のある者は公表された後、競技団体がその合意に従うという期待 をするのは正当なことであり、ひとたび正式にポイントが与えられた後に事後的に修正を 行うことはすべきではないとして、申立人の請求を認容した。なお、本仲裁判断について は後にオーストラリアのニューサウスウェールズ州の控訴裁判所に仲裁判断取消の訴えが 提起され、判決が下されているが、取り消しにはいたらなかった26。 (6) CAS 2000/A/361, Berchtold / Skiing Australia Limited (SAL), award of 19 CAS II, pp.542-555 ANGELA RAGUZ v REBECCA SULLIVAN & ORS [2000] NSWCA 240 (1 September 2000) 25 26 159 160 February 200227 本事案はソルトレークオリンピックの選手選考に関する事案である。オーストラリアの モーグル選手である申立人が SAL を相手に、膝の怪我で前年度の結果は良くなかったもの の、選手選考がなされる直前のワールドカップ大会ではそれなりの成績を残したにもかか わらず、ワールドカップ大会の成績では格下であった選手が選ばれたことを不服として、 自らをソルトレーク冬季オリンピックの代表選手として選考するよう求めた事案であり、 結果的には、申立人の請求は認められることとなった。この事案でも、仲裁パネルはこれ までの選手選考に関連する CAS の仲裁判断と同様に、選手選考基準が適正に運用された 結果として選考がなされていたか否かを審理した。選手選考基準には、疾病・偶発事故等 の事由がある場合には選考委員会の裁量でそれら事情を考慮できるという条項が含まれて いたところ、選考委員会は考慮をしなかったと認定され、結果として、選手選考基準を適 正に運用していないとして申立人の請求が認容されたのであった。 (7) CAS 仲裁判断の特徴 まず、選手選考に関連して発生した紛争における仲裁パネルの役割について、仲裁パネ ルはどの選手が一番メダルを取る可能性が高そうであるのかという実体的な判断は行わ ず、選考過程が選考基準に従ったものであったのか否かを判断するのが仲裁パネルの役割 であると CAS が下した仲裁判断がほぼ一貫して繰り返し述べている点に大きな特徴があ るといえよう28。すなわち、ある競技における選手選考の基準については、その基準の策 定過程に不備がない場合には競技団体の決定を尊重するということであり、その基準の中 でどの選手がより選考基準に適合しているのかについても競技団体が決定すべきであると いう思想が貫かれているといえよう。この背景には、当該競技に固有の事情について専門 的な知見を有するのは当該競技団体の中の手続により正式に選ばれた者たち(選手選考委 員会等)であり、その者たちが決定をすることが望ましいという認識があると思われる。 そのために CAS 仲裁判断において、申立人の請求が認容された場合であっても、選考基 準を正確に適用した結果または選考過程を適切に行った結果として 1 人(組)選手が選ば れるという結論が出ない限り、被申立人であった競技団体にもう一度仲裁判断を考慮した うえでの選手選考をやり直させる仲裁判断が下されている。 しかし、選手選考における競技団体内部の実体面における審査はしないものの、選考過 程・手続における不備は、たとえ選手選考の結果を左右するものでない場合であっても、 治癒されるものではなく、不備がある場合には競技団体の決定が覆る傾向は顕著であると CAS III, pp.511-515 もっともオーストラリアでの選手選考問題については選手・競技団体・AOC との間での合意に より、選手選考に関する不服申立ての事由が、制定された選考基準が適切に運用及び適用されてい ないことと制限されているという事情が CAS 仲裁判断に影響を及ぼしている可能性がある。 27 28 160 161 思われる29。 そのほか、オーストラリア国内での選手選考事案については、選手選考及びその過程に ついてかなり明確な基準があるにもかかわらず、その選考基準・過程に沿った選考がなさ れていないことに起因する紛争が仲裁に持ち込まれているという点に特徴があるといえよ う30。 他方、わが国との関連でいえば、財団法人日本水泳連盟(水連)が行ったシドニーオリ ンピック代表選手選考に関連して発生した紛争が仲裁に持ち込まれた前掲 CAS 2000/A/278 事案では、仲裁パネルが「アスリートには、事前に選手選考基準を知る権利 がある」とした点、及び水連の行った選考方法に対して「他の国では行われない様な方法 ではあるが、オリンピック憲章・FINA 規則・JOC 規則及び被申立人の規則に反してまで、 被申立人を代表選手として選ばないという決定が下されたわけではない」と述べた点、す なわち当時の水連の選考方法は世界的に一般的なものではないとの指摘がなされた点は、 今後さらに明確でより良い選手選考基準及び選考過程を検討するうえで我々がしっかりと 認識しておかなければならない点であると思われる。 4 若干の検討 選手選考に関して JSAA の下した仲裁判断と CAS が下した仲裁判断とではその特徴に 異同があるように思われる。まず共通点については、どちらの仲裁判断(仲裁パネル)も 競技団体の行った実体面における決定については積極的には踏み込まないという点があげ られよう。すなわち、当該競技に固有の事情について専門的な知見を有するのは当該競技 団体であり、それが決定をすることが望ましいという認識は、どちらの仲裁手続において も持たれているといえよう。 次に両者が異なっている点であるが、こちらは共通点に比べると数が多い。第 1 に申立 人の請求が認容される割合である。JSAA での選手選考に関する仲裁判断で申立人の請求 が認容された事案は 1 件もないのに対して、CAS においては 5 件中 4 件において申立人 の請求が認容されている。この差異の原因は明らかではないが、オーストラリアの事案に おいては選考基準・過程がかなり詳細に決められており、それからの乖離・逸脱というも のの判断は比較的に簡単なものであるのに対し、わが国の場合には、最近でこそ選手選考 基準というものが事前に公表されるようになってきたものの31、依然としてその内容は詳 29 もっとも、競技団体の決定が覆されたのはすべてオーストラリアの事案である点注意が必要か もしれない。 30 オーストラリアにおける選手選考の仕組みについては別途研究を試みたいと考えている。 31 例えば、トリノオリンピックに際しては、JOC のホームページにおいて各競技種目の派遣枠獲 得条件及び選手選考基準が公表されている。アテネオリンピックの際にはなかったものであり、大 いに評価できるものと思うが、選手選考基準については各競技団体によって基準の詳細さはまちま ちである点今後の改善の余地があるように思われる。 161 162 細なものではなく、かといってそれが著しく不合理であるとも言い切れないため、JSAA における仲裁判断では仲裁人が申立人の請求を認容することに躊躇を覚えるという可能性 が否定できず、そこに CAS と JSAA の申立人の請求が認容されるか否かの差に原因があ るように思われる。 第 2 点として、CAS 仲裁判断では選考過程・手続における不備は、たとえ選手選考の結 果を左右するものではない場合であっても、治癒されるものではないとしているにもかか わらず、JSAA 仲裁判断においては、例えば JSAA-AP-2003-003 号事案のように、結論 的に問題がないようであれば多少の手続的な瑕疵は問題としないという傾向がある点、両 者に大きな違いがある。この差異の原因についても、筆者の推論ではあるが、差異の第 1 点の理由にもあげたことが原因と思われてならない。すなわち、わが国では選考基準のみ ならず、選考過程についても詳細な規定がなされていない(規定されていたとしても公表 されない)ことに理由があるように思われるのである。 第 3 点としては、仲裁判断末尾の仲裁パネルの「希望」ないし「意見」部分の有無であ る。既述の様に JSAA 仲裁判断では、仲裁判断末尾に仲裁パネルの「希望」ないし「意見」 が付されることがある。これは選手選考に関する CAS の仲裁判断では見られないもので ある。 以上のように、CAS 仲裁判断と JSAA 仲裁判断では共通する点もあるが、CAS をベー スに JSAA が設立されたという事実とは裏腹に下される仲裁判断の内容及び申立人の請求 の認容される割合に大きな差がある。その原因については筆者の推論を述べたが、上記の ような事態は決して望ましいものではないのは当たり前のことである。選考基準が曖昧で あるということはそれ自体が良い評価を与えられるべきものでは決してなく、そのために 競技大会に参加しようとする競技者には曖昧な選考基準があるがために無用な努力を重ね させ、良い意味でも悪い意味でも競技者の期待を裏切り、ひいては競技者の能力、わが国 のスポーツのレベルを落とすことになりかねない。今後は競技団体、競技者及び法律家が 共同して選手選考過程・選手選考基準を明確化していくための場所を模索していく必要が あろうかと思われる。JSAA にはその様な場所を提供していく努力も大いに必要なのでは ないかと思う次第である。 以上 162