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20 秋期例会報告

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20 秋期例会報告
20
発行日 H 19 . 2 . 20
発行人 東海銀杏会
編集人 角田 牛夫
〒456−0004 名古屋市熱田区桜田町19−21(株)山田商会内 TEL. 052−871−9811 FAX. 052−871−9869 E-mail:[email protected]
平 成 18 年 度
幹事/原野 素雄
(S46 工)
秋期例会報告
東海銀杏会の平成 18 年秋の例会が、9 月 25 日
(月)に名
古屋マリオットアソシアホテルで開催されました。講演
会に先立ち、午後 4 時から 17 階「桐の間」で開かれた役員
会には、18 名の方が出席されました。この日は多くの
議事があるため、自己紹介を省略し、長谷川 曼代表幹
事の挨拶に続いて議事に入りました。事務局長交替の件、
秋の例会次第の件、会計中間報告を受けての懇親会費値
上げの件、名簿作成の件、東大ホームカミングデイの件
など、各担当幹事からの報告をもとに討議し、午後 4 時
30 分に終了しました。
午後 4 時 30 分からは 16 階「サルビアの間」で、南山大
学教授・丸山徹氏(S57 人文博修了)による講演会が行わ
れました。演題は「『大航海時代』の語学書から学ぶもの」
で、大航海時代(16 世紀から 17 世紀)に、ポルトガル人
が日本を含む世界各地で布教活動を行ったことが、その
土地の現地語で記述された文献に残っている例を挙げ、
この中の日本語に関する記述について解りやすく解説さ
れました。なぜ日本のことを欧米人は“Japan”というの
かなど興味深いお話に、約 70 名の参加者は熱心に聞き
入っていました。時間さえ許せば、もっとうかがいたい
という思いを残した講演会でした。
▲
講演される南山大学・
丸山徹教授(左)と講
師の紹介をする鈴木
敦夫幹事
(右)
1
▲なにやら
お堅い話のようで…
▲カメラ目線でも、笑顔が結構
▲懇親会で挨拶する
永井副会長
▲懇親会で報告する
吉村幹事
▲美女の手つきが気になります
▲はじけるような笑顔は
周りを明るくします
▲
こんな若者が
どんどん入会してくれれば…
▲
男三人寄れば… お元気で何よりです
▲空き腹にお酒はよくないと
申しますが…
▲多酒多弁となりましたかどうか
▲
背すじはピン
としていらっ
しゃいます
▲
「ただ一つ」
の合唱が終わればおヒラキです
懇親会は、午後 6 時 15 分から 16 階の「アイリスの間」
に場所を移して行われました。永井恒夫副会長(S35 法)
が開会のことばを述べた後、渉外担当の吉村光正幹事
(H
4法)が「第 5 回東京大学ホームカミングデイ」について
報告を行いました。続いて、この日に講演をお願いした
南山大学教授・丸山徹氏の発声で乾杯、約 130 名の参加
者は 13 のテーブルに分かれて歓談しました。各テーブ
ルでは、出席者名簿をもとに、順番に自己紹介を行うな
ど会話が弾んでいました。
午後 8 時過ぎ、恒例の「ただ一つ」合唱へと移りました。
東海銀杏会応援団長の本田信浄幹事(S46 法)らが壇上に
上がり、そのリードで、みんなが声を張り上げて歌いま
した。一丸陽一郎代表幹事(S46 経)が閉会の辞を述べ、
司会者から、平成 19 年度総会はじめ東海銀杏会の同好
の皆さんによる行事(三英傑の遺構を訪ねる会、囲碁の
会、懇親ゴルフコンペ)についての案内がありました。
二次会は 17 階「桐の間」で開かれました。3 つのテーブ
ルに椅子を追加するほどに多くの皆さんが来られて、午
後 10 時ごろまで大いに盛り上がりました。
なお、平成 19 年度総会は 3 月 26 日(月)、秋の例会は 9
月 25 日(火)。いずれも名古屋マリオットアソシアホテ
ルで開催予定です。
▲
懇親会での司会がイタに
ついた原野幹事
▲閉会の辞を述べる一丸代表幹事
▲飲んでしゃべってごゆっくり
▼若者の立ちしゃべりは
気持ちいいものです
▲旧友交歓の風景ですネ
2
南山大学人文学部日本文化学科教授
丸山 徹(S57 人文博修了)
今日お話しするテーマの背景として、少なくとも理解し
ておかなければならない三つのキーワードがあります。 そ
れは、ルネサンス、宗教改革、大航海時代です。学生にも、
忘れちゃ った人は、もう一度復習しておいてといつも授業
で言うことにしています。
はローマ字原文またはその日本語翻字)
<ある犬、ししむらを含んで川を渡るに>、
「 ししむら」と
は肉のことです。400 年前の日本語ですから少し違う言葉
が出てきます。<その川の真ん中で含んだししむらの影が
水の底に映ったを見れば、おのれが含んだよりも一倍大き
なれば>、大体意味はわかりますね。一倍というのは二倍
の意味で、今でも「人一倍努力する」なんていう表現に残っ
ています。<影とは知らいで、含んだを捨てて、水の底へか
しらを入れて見れば、本体がないによって、すなわち消え
失せて、どちをも取り外いて、失墜をした>。失うというこ
とで「 失墜をした」というのです。
その次に、<下心>とありますが、この時代の「 下心 」と
いうのは「 先生は私にだけいい成績をくれて何か下心があ
るみたいだ 」という、そういう「 下心 」とは違って、その物
語の「背後にある道徳的な教え」
という意味です。もちろん、
現代の「 下心 」につながるような意味もありましたが、ここ
では、明らかに道徳的な教えという意味です。
<とんよくに引かれ>、
「とんよく」
とは、今でいう「貪欲」
です。<ふぢゃう(不定)なことに>、
「 不定」とは「不確か」
です。<頼みをかけて、我が手に持ったものを取り外すな
ということぢゃ>。
20 年ぐらい前までの学生ですと、それでよかったんです
が、5 年前ぐらいから、そういう話をしますと、
「 はい 」って
手を挙げ、
「 僕は日本史を選択したから、世界史は知りませ
ん 」と言う学生が出てきました。最近の学生の言葉を真似し
て「 マジ?」と言いたくなるのですが、
「 マジです 」と答える
から、
「 それじゃ逆に、世界史を選択したら、徳川家康を知ら
なくてもいいの?」と聞くと、非常に不満そうな顔をします。
今日は、私の専門に関することだけをお話してもおもし
ろくないので、そういう人も出始めた最近の大学生に、私
が専門領域から学んだことを、どのように伝えていったら
よいのだろうかということも、少し話したいと思います。
私の話には「 昔はよかった、今はよくない 」
という話が出て
くると思います。河合隼雄さんは「 昔はよかった、今はよくな
い」
というのは、今の流れについていけない年寄りの言うこと
だとどこかに書いていらしたと思いますが、私は、年とって、
今の流れについていけなくて何が悪いのかと思いますし、
「昔
はよかった、今はよくない 」という部分が世の中には、やはり
あるのではないでしょうか。逆ももちろんありますが.
.
.
。
私が教えを受けた亀井孝先生は、論文は何度でも校正で
きるが、講義とか講演は演奏会みたいなもので、ミスタッ
チがあったら、 そのままだよとよく言われました。 まさに
ミスタッチがあればそれまでですが、 私の話が思ったより
早く進んでしまって —— それもミスタッチの一種でしょう
か —— 話の種がなくなってしまったら、私が今進めつつあ
る研究についても、少しお話したいと思います。
いちいち訳しませんが、400 年前の日本語、口語ですと
このように大 体 わかるんです。1,000 年 前になるとわから
ないと思いますが、400 年前ですと、口語であれば大体わ
かるということです。
この「 イソップ物語 」 の表紙には、 < E S O P O N O
F A B V L A S >と書いてあります。
「NO」は格助詞、
「 私の
務め 」というときの「 の 」です。F A BVL A S はポルトガル
語で「 物語」のことです。
<Latinuo vaxite>、Latinはラテン語のことです。 uoは
格助詞の「 を 」
、vaxiteは「 和して 」で「 和らげる (
」 やさし
く言う、翻訳する )ということ。<Nippon no cuchito nasu
mono nari >、
「 日本 」という言葉があったことがわかりま
す。
「 日本の口 」
、
「 口 」というのは、今でも沖縄の一部では
本土のことをヤマトといい「大和口」
( ヤマトグチ)なんてい
う言葉が残っているように、それは標準語のことです。<日
本の口となすものなり>ですから、
「 ラテン語を翻訳して日
本の口語にしたものである」ということです。
400 年前のポルトガル人たちがもたらし、日本で印刷さ
れた「 イソップ物語 」から一つの話をとってみましょう。犬
が肉をくわえて橋の上にやってきて、橋の上から水の中を
見ると、同じような犬が大きな肉をくわえています。そっち
の方が大きそうなので、それをもらおうと思って、ワンとほ
えて水の中に頭を突っ込むと、自分の肉もなくなってしま
うし、水の中の肉も消えてしまったという話です。それを
400 年前のポルトガル人がどう訳したかと申しますと、こ
れはローマ字で書かれた日本語ですから、そのままわかる
と思います。題は「 犬が肉を含んだこと 」です。
( < >内
こういうふうに、今でも400 年前のポルトガル人によっ
てつくられた「 イソップ物語 」が残っていますが、その時代
3
す。しかし、イスラム圏のアラブ商人を通して買うと、何十倍
もの値段になってしまうから、直接取引をするためには、こ
のアフリカの南を回らなければいけないわけですが、そこが
どうなっているか全然わからないので(国王の命令もあって)
アフリカ西岸を少しずつ少しずつ南下するわけです。
このころの航海記を読むと大変おもしろく、バルトロメウ・
ディアスが左側に陸地を見ながらずっと航海して、羅針盤を
見ると、南へ南へ進んでいます。ところが、あるとき、陸地は
左側にあるのに、 船が東へ進んでいるということを知って、
「 あっ、これは回ったんだ 」ということがわかったと航海誌
には出てきます。それが本当かどうかはわかりませんが、と
にかく岬を回ったので、ここを回ればインドへの航路が見つ
かったも同じだということで、ここを「 嵐の岬 」と名づけて、
国王へ報告に行きました。たしか3 隻で行っていて、うち1隻
を帰したんだと思います。アフリカの南を回ったんだったら、
もうインドへの航路は見つかったも同じだと、国王は大変に
喜んで、ここをカーボ・デ・ボア・エスペランサ(=ケープ・オ
ブ・グッド・ホープ=喜望峰)
という名前にします。
そうこうするうちに、コロンブスが西の方へ行ってイン
ドを探します。イタリアにおける天文学の発展などから、地
球は丸いということが大体わかっていましたので、 こちら
からインド( 今のアメリカ「 西インド諸島 」
)に到達したのが
1492 年、バルトロメウ・ディアスから4 年後です。
コロンブスは初め、ポルトガルにも援助を求めます。後に
スペインに援助を求めるわけですが、そんなことにかける予
算がないと、どちらもあまりいい顔をしません。特にポルト
ガルがコロンブスを助けなかったのは、恐らく1487 年か 88
年には、喜望峰が見つかっていたからだと思います。この時
代、インド洋は既にイスラムの海だったわけです。イスラム
圏だったから、アフリカ東岸まで来れば、インドへ行くこと
は絶対にできたはずです。実際に、ヴァスコ・ダ・ガマは途
中からイスラム圏のインド人水先案内人に導かれながらカリ
カット
(インド)まで行ったという記録が残っています。いず
れにしましても、ポルトガルは、ここを回ればインドに到達
するということがわかっていたから、荒唐無稽なコロンブス
の計画に対する援助はしなかったのだと思います。
背景を少し説明します。
「 大航海時代 」とはいつからかとい
うのは、なかなか難しい問題です。本当は「 大航海時代 」よ
り少し前ですが、マルコ・ポーロあたりから考えた方がいい
んじゃないかと私は思っています。
ほぼ同じ時代を指す「 発見の時代 」というフレーズは、私
にとって懐かしい表現です。ここにいらっしゃる方は、
「 発見
の時代 」と申し上げても、それほど変には思わないというか、
そういう形で習ったかもしれませんが、今は「 大航海時代 」
と
言います。今でも、ポルトガルでは「 発見の時代 」を使ってい
ますが、ブラジルになりますと「 大航海時代 」です。
「 発見の
時代 」というのはヨーロッパ中心の表現で、そのころは南アメ
リカも北アメリカもアフリカも見つかっておらず、それが見つ
かったので、ヨーロッパから見て「発見の時代」
となります。
前からそこに人が住んでいたのに「 発見の時代 」というの
は何となくおかしいとわかりますが、実際、ポルトガルで生活
してみると、そういうことをひしひしと感じます。公園を小さ
な子供を連れて歩いていたりすると、ポルトガル人がやって
きて「 おまえはマカオから来たか 」とまず聞きます。
「 マカオ
じゃないよ。ジャポン、ジャポネーズだ 」
と言うと、
「 そうか、お
まえたちの国は1543 年に俺たちが発見したのを知ってるか 」
と大抵の人が言います。 非常におもしろい体験でしたが、彼
らは小学生のときから「 1543 年日本発見 」と教えられている
ようです。
「 その前から住んでたよ 」と反論するときもありま
すが、時々、
「 あっ、そうか 」と言ってやると、
「 オーストラリア
も俺たちが発見したんだ 」
とか言ってきます。ポルトガル人が
初めて日本に来たのは1543 年ですが、それは「 発見 」ではな
いということが、なかなかわかってもらえません。そのときに、
やはり「 発見の時代 」
と言われるのは、発見される方からする
と不愉快だなということがよくわかります。
マルコ・ポーロの話は、後でちょっとだけ言及しますが、ま
ずはバルトロメウ・ディアスがアフリカ南端を回ったあたりか
ら話していきます。彼がアフリカを回ったのが1488 年です。
この時代、ポルトガル人はインドへ行きたかったわけです。
その理由は、一般的に香辛料が欲しかったからと言われま
す。私も世界史で習ったときには、ヨーロッパは肉食であり、
当時、冷蔵庫がないから肉類の臭みを消すために、どうして
もコショウをはじめとする香辛料が必要だったということで
した。その頃の香辛料はまた、今日の日本における「 漢方薬 」
のように薬としても( ヨーロッパで )珍重されていたようで
スペインの後ろ盾で、コロンブスは 1492 年にアメリカを
「 発見 」します。そうすると、地球全体がスペインとポルト
ガルによって「見つかってしまった」ということになります。
そのころ、世界を支配していたつもりのスペインとポルトガ
ルは、どこからどこまでがスペインで、どこからどこまでが
ポルトガルかということを決めなければいけません。神様
の次に偉いローマ教皇にお伺いを立てたところ、ローマ教
皇(確かスペイン出身だったと思います)はヴェルデ岬沖に
線を引いて、ポルトガルとスペインの境界を決めました。つ
まり、それより東はポルトガル領、西はスペイン領としたわ
けです。それが 1493 年ですが、次の年に、この線が 270 レ
グア西に動きます。それは、ポルトガルの強い主張を教皇
4
が受け入れて、線を引き直しことによるものです。スペイン
のトルデシリャスというところで調印された条約なので、ト
ルデシリャス条約と呼ばれています。この境界線は現在の
ブラジルの上を通っています。ブラジルが見つかるのはこ
の後ですが、今でも南米はブラジルだけがポルトガル語で、
あとは全部スペイン語です。それは 1494 年のこの境界変
更が生きているからです。
コロンブスから遅れること数年、1498 年にヴァスコ・ダ・
ガマが喜望峰を回ってインドのカリカットに到達します。彼
は、かつかつに到達したわけで、決して余裕はありません
でした。このころ、インドは香辛料で潤っていますから、ど
んなお土産があるのかといったことを含めて、 さんざんば
かにされてポルトガルに戻るわけですが、一応コショウを
積んで帰ってきます。
もいれば、カトリック宣教師もいました。
その同じ年に、フランシスコ・ザビエルが日本に来ていま
す。今日の話もそれと関係するんですが、日本のキリシタン
史といっても、1549 年にフランシスコ・ザビエルが日本に
やってきたところからだけを見ていると、こういった歴史的
な背景が忘れられがちです。
「 イソップ物語 」
も含め、私の学生時代には、国語学の方で
「 キリシタン文献 」
と呼ばれ、国語史の資料として扱われてい
ましたが、それらもこうした時代にやってきたポルトガル人が
もたらしたもので、同じことをブラジルやアフリカ、インドでも
していたということを知らなければいけないと思います。
話は変わりますが、なぜ日本のことをジャパンと言った
のでしょうか。日本を指す最も古い言葉としては、中国で
「 倭 」という形で出てきます。どうして「 倭 」と言ったのかに
ついては諸説があり、ある専門家によれば、日本に来てみ
たら「 我が家 」とか「 吾妹( わぎも)」とか、みんな自分のこ
とを「 わ 「
」わ「
」 わ 」と言っているから「 倭 」と言ったのだそ
うです。冗談かと思ったら、それだってばかにできないくら
いわからないと言っていましたが、そうかもしれません。ま
た、どういう意味かというのも、漢和辞典を引くと、みにく
い( 醜い )とか、何かに従う様子とか、曲がりくねる様子と
か、遠回りをしていくこととか、いろいろな意味が出ていま
して、それが悪い意味だと言う人もいるけれども、必ずしも
悪い意味なのかどうかわかりません。
二年後の1500 年に、カブラル率いる船団が、ヴァスコ・
ダ・ ガマの跡を継いでもう一度インドへ行きます。今度は
大船団で大砲も持っていますから、現地をめちゃくちゃに
やっつけます。記録によれば、その際インドへの途上、カブ
ラルは大西洋を航行していて嵐に遭い、西へ流され「 ブラ
ジルを発見 」したことになっていますが、それが 1500 年で
あると言われています。しかし、今、それを信じる人はいま
せん。ウェルデ岬諸島西 100 レグアに線を引いたときに境
界線をもっと西へ動かせとポルトガルが教皇に主張したの
は、既に何かが見つかっていたからであろうと言われてい
ます。ブラジルがポルトガル領になったのは決して偶然で
はなくして、大陸かどうかはわからなかったにしても、その
辺に大きな島か何かがあるということは既にわかっていた
んだろうと言われています。当時の海図や航海者の手紙は
国家機密に属するものでした。
今、ポルトガルの教科書には、さすがに恥ずかしくて、
「 1500 年ブラジル発見 」とは書いてありません。英語に訳
すならオフィシャル・ディスカバリーにあたる言葉が使われ
ているようですが、いずれにしても、1500 年にブラジルが
「(公式に)見つかり」
、ここがポルトガル領になるわけです。
しかし、カブラルの船団が1500 年にブラジルを見つけて
も、ブラジルには大した産物がありません。今でこそ「 天然
資源の宝庫 」と呼ばれるブラジルですが、そのころはたい
したものは見つかっていませんでした。唯一の産物は、沿
岸で取れるパウブラジルという赤い染料の取れる木です。
「ブラジル」ということばは、もともと「炎色」という意味で、
赤い色の染料が取れるブラジル木からブラジルという名前
がついたのです。
「 炎色(の木)
」ということです。
それが日本に文字として入ってきたとき、日本には「 やま
と 」という言葉がありましたので、
「 倭 」という漢字に、今で
いうところの訓読みとして「 やまと」
、音読みとして「ワ」と
いう形が定着しました。これが8 世紀くらいに、平和の「和」
という文字に置きかわって、
「 和 」が「 やまと 」とも「 ワ 」と
も読まれるようになりました。
「 倭 」が「 和 」に置きかわったについても諸説あって、厳
密にはわかりません。一説には、
「 倭 」の悪い意味を嫌って、
「 和 」にしたと言う人もいますし、中国の旧唐書には、この
字の雅ならざるを嫌って(自ら)
「 日本 」にしたということが
出てきますから、そういうことがあったのかもしれません。
いずれにしても、大まかに言えば、
「 倭 」は中国で使われ、
これが文字として日本に入ってきて、
「 やまと 」とも「 ワ 」と
も読まれ、後にその文字が「 和 」に置きかわるわけです。現
在でも、
「 和服」
とか「和文英訳」
という形で残っていて、
「和
服 」と言ったときに「どこの服?」と言う人はいません。
この「 倭( やまと)」が、早い時代に「 日本 」という漢字に
置きかわります。
「日本 」が「 やまと 」と読まれるようになる
についても諸説があり、一説には中国だとか朝鮮半島で置
きかわったとも言われますが、 日本で置きかわったという
説だけ紹介しておきます。
昔から言われていた説の一つは、例えば、
「 飛ぶ鳥の 」と
いう枕詞のついた「あすか」
という地名を表すときに、
「飛鳥」
という漢字で「 あすか 」と読ませます。
「 花の都パリ」という
たいした産物のないブラジルはその後、 五十年ぐらい
ほっておかれました。すると、沿岸にフランスなど他国の
船が出没し始めました。他の人に取られそうになると、ここ
は自分のものだと主張したくなります。そこで、ポルトガル
はブラジルに大移民団を送りますが、それが 1549 年です。
1,000 人規模の大移民団が渡航し、その中には大工や医者
5
表現から「花都」と書いておいて「パリ」と読ませるようなも
のです。似たようなことが「日本」
という表記にもあって、
「や
まと 」に掛かる「 日本( ひのもとの )
」という枕言葉があった
のを、そこから「日本 」を「 やまと 」と読むようになった。そ
れが後の時代に音読みされて「 ジッポン 」になったというの
です。しかし、こうした解釈には反対する人もたくさんいて、
まだ何も確定的なことは言えないのではないかと思います。
ただ、
「ひのもと」
「やまと」
「ニホン」
「ニッポン」
「ジッポン」
は、ポルトガル人が 400 年前に日本にやってきてつくった
辞書に、すべて登録されています。400 年前の活字ですか
ら、ちょっと読みにくいですが、<Nifon. Iapa~o><Nippon.
Finomoto. Iapa~o >< Iippon. Finomoto. Oriente. i, Iapa~o >
<Finomoto. Iapa~o><Yamato>、すべて登録されていま
す。ですから、400 年前にこれらの形があったことは確かで、
それだけはそこそこの自信を持って申し上げられます。
言葉も入っています。どうしてそんなものをポルトガルの神
父さん達が学ばなければいけなかったのかというと、 カト
リックでは告白があるからです。つまり、説教するためなら、
上品な言葉だけ知っていればよかったわけですが、カトリッ
クの世界で大事なのは、説教よりも告白を聞くということで
す。告白を聞くときには、その土地の方言とか、卑猥な言葉
とかも出てきたはずです。女性しか使わない言葉ですから、
神父さんは普通は知る必要がないのですが、理解語彙とし
ては持っていなければならなかったのでしょう。今述べた女
性言葉の一つ目の型「 置き換え 」について、もう少し例を挙
げます。
「 豆腐 」のことを<CABE >と言っていたようです
が、これはウオールの壁です。すぐ続けて< To~fu>と書い
てあります。食べる豆腐のことを「壁」
と言ったんですね。ポ
ルトガル語の説明文にある「 大豆をつぶしてつくった食べ
物 」とは、豆腐のことです。どうして豆腐のことを「 壁 」と女
性が言ったか、どこにも理由は書いてありませんが、普通に
は白いからと言われています。それとも、形であったかもし
れません。いずれにしても、婉曲用法です。遠回しの言い方
です。下品なことを言ってすみませんが、
「 小便してくる 」と
言えないから、
「 お手洗い」というようなものです。
マルコ・ポーロが13 世紀に陸路で中国に来て、そこでは
じめて、この「 ジッポン 」を聞いたんだと思います。一般に
は「 日本国 」だったのではないかと言われていますが、この
「 ジッポンコク 」という音を聞いて、マルコ・ポーロは「 ジパ
ング 」としてヨーロッパに伝えたと言われています。いろい
ろなスペリングがありますが、今は、1559 年の版本に見え
る<Zipangu>という形が JR の「ジパング倶楽部」なんかに
も採用されています。これと英語の「Japan」とは直接にはつ
ながっていないようです。 むしろ、16 世紀に中国にやって
きたポルトガル人たちが中国の沿岸で「 ジッポン 」という形
に連なるような音を聞いて、それを< Jampon>あるいは<
Japongo>< Japam>などの綴り字でヨーロッパに伝え、そ
れが後に英語にも伝わり「Japan」になったのだと思います。
さて、先ほどの「 イソップ物語( エソポのハブラス)」は、
ローマ字で書かれていますが、日本語です。1593 年版で、
刊行地は天草、今は大英博物館にあります。このほかにも、
例えば、
「 日葡辞書 」があります。今では岩波から「 邦訳日
葡辞書 」が出ていて、ポルトガル語の部分を現代日本語に
訳したものを見ることができます。
この「日葡辞書 」に登録されている3 万語を超える語の中
で、
「 女性の言葉 」と注記のある数十の語の中から、三つの
パターンをとってみました。こんなところからも、その当時
の日本語について、そしてまた、現在につながる日本語に
ついて学ぶことができます。一つ目は、< ACA >と書いて
あり、その後に<i>、
「すなわち」
(i. e.)
ということに続いて、
<Azzuqi>。ブラジルやポルトガルで「 フェジョン 」といえ
ば、大豆のような豆のことです。ACA とは、すなわち小豆
のことであり、これは女性語ですよというわけです。 つま
り、その当時、< ACA >という言葉があり——これは赤い
の「 赤 」だと思いますが——それを女性は小豆という言葉
のかわりに使ったということです。
婉曲用法には別のパターンもあります。女性語の二つ
目の型は「 文字詞( もじことば )
」です。<Comoji>とか<
Fimoji >と書いてありますが、
「moji」はレターの文字です。
< Comoji >の後に< trigo >というポルトガル語が出てい
ますが、これは「 小麦 」のことです。女性は、小麦の「こ」を
とって「こ文字」
と言ったんですね。<Fimoji>もそうです。
ハングリーという意味の当時のことば「 ヒダルシ 」の「 ヒ 」
をとって「ひ文字」
です。
想像たくましくして言うならば、
「腹
減った 」とは言えないから「 ひもじい 」と、
「 ヒダルシ 」と言
えないから「ひ文字ぢゃ」と言ったんでしょう。
女性語の三番目の型は、私が勝手に「 お言葉 」と呼ぶも
のです。<Voaxi>の後に<Ieni>と書いてあります。これ
は銭、お金のことです。女性は「 銭 」と言わずに「 お足 」と
言ったということです。
その次に<Vocazu>です。
「 おかず 」とは、すなわち菜。
「 おかず 」は現代語になってしまっていますが、その当時は
「Sai」と言い、それを女性は「 おかず 」と言ったんです。
「お
足 」は、銭は足があるようにどこかに飛んでいっちゃうから
という俗説がありますが、
「 おかず 」は、たくさんあるから
「お数 」と言ったのかもしれません。
また、<Vonaka>は、
「 おなかが痛い 」
「 おなかが悪い 」
と言う「 おなか 」です。その後には日本語ではなくて、<
Barriga>、これはポルトガル語で、
「 おなかが悪い 」という
例文が出ています。
「 女性語 」と注記のついた数十の言葉だけでも、いろいろ
なことがわかりますが、いずれにしても、女性は、婉曲用法
を使ったようです。ほかに、和文献、国字で書かれたものも
あるんですが、基本的には、昇殿を許された、つまり上皇や
「 日葡辞書 」の中にはいろいろな語があり、卑猥な言葉な
どもたくさん入っています。例えば、女性の性器をあらわす
6
天皇が住んでいるところへ上ることを許された女房たちの
中で使われた言葉です。
江戸時代になると、こうした言葉のリストができて、例え
ば、小麦のことは小文字と言うとか、壁は豆腐なりとか書
いてあって、それらを教養として商人の娘なんかが勉強し
たという記録が残っています。
どこの土地でも、グループができると、そのグループでし
か通じない言葉が必ずできてきます。かつて南山大学の学
生たちが「 キリガイ」と言えば「 キリスト教概論 」
、
「 キリシ」
と言ったら「 キリスト教思想 」とわかりました。これによっ
て、自分たちは仲間だということを確認し合うわけです。あ
るときには、ほかの人とは違うエリートなんだということを
確認し合います。恐らく、昇殿を許された女性たちも、そう
いった婉曲用法を多用することで、自分たちにしか通じな
い言葉をつくっていったのだと思います。
「 おかず 」は今でも残っていますが、
「 お茶碗 」とか「 おは
し」で使う「お 」も、恐らくこういうところにルーツがあるん
だろうと思います。その証拠には、例えば、私が「 そこにあ
るおはしを取って」
とか「そこにあるお茶碗を取って」
と言っ
てもおかしくありませんが、
「 僕のお靴が汚れちゃった 」と
か「 僕のお洋服が 」と言ったら、変に聞こえるでしょう。つ
まり、何にでも「 お 」をつければいいというものではなく、
どういうものに「 お 」がつけられるかというのも、詰めて考
えると、なかなか難しい問題です。
こうしたものがどのようにして男性社会にまで広まって
いったかということも、なかなかにおもしろい問題です。恐
らく、高貴な女性たちの言葉をまねて、自分たちも上品に
なろうという一般女性にまず広まっていき、そのころの結
婚形態なども関係しているかもしれませんが、江戸期には、
女性を( あるいは遊女やお妾も )通し、男性にも広まって
いったのではないかと思います。
ところで、
「 羅葡日対訳辞書 」
、つまり、ラテン語、ポルトガル
語と日本語の対訳辞書もその頃、印刷されました。一昨年くら
いまでの数年間「 古典学の再構築 」
というプロジェクトに参加
していたのですが、その際、
「 古典 」って何のために必要なん
だろうか、そもそも「 古典 」って何なんだろうかと考えました。
そのとき一つの鍵になったのが、1595 年にポルトガル人たち
が編纂した
「羅葡日対訳辞書」
と、そこにある記述でした。
機を救うのが艦隊であり、人間が心の危機に陥ったときに、
その危機を救うような内容を持った書物をクラシックス
(「艦
隊」
)
と言うようになったのだ」
と教えてくれました。
私にとっては非常に示唆的で、昔書かれたものすべてが
古典ではなく、古典として生き残るのは、人間が心の危機
に陥ったときに、その危機を救うような内容を持った書物、
つまりそのように「 評価の定まったもの」が「クラシックス」
と呼ばれるのだということがわかりました。
二十年くらい前、学生にこういう話をすると、
「 へえっ、
じゃうちへ帰って徒然草でも読んでみるか 」と言う学生が
何人もいたのに、今の学生は「 へえへえへえ 」っと「 へえ 」
が幾つかで終わっちゃうんです。二十年前のように、
「 古典
の価値をもう一度考え直してみてよ 」と言っても、今の学
生の多くは家で古典を読んでくれません。古典の大切さを
どうやって学生に伝えていくかは非常に難しい問題である
と考えています。
実は、私は今、これまでお話してきたような活字のもの
はあまり扱っていません。ポルトガル人はアフリカの沿岸
を経て、その後ブラジル、インドへ来たわけですが、その土
地、土地で日本の文献と同じような文献を残しています。
私が語学書として整理したものが、アフリカですと、コンゴ
語・ポルトガル語の対訳キリスト教要理、キンブンドゥ語・
ポルトガル語の対訳キリスト教要理で、いずれも1600 年代
のものです。それから三つ目にキンブンドゥ語の文法書で
す。ブラジルでは、トゥピ語の文法書 2 点、トゥピ語のキリ
スト教要理 2 点、キリリ語のキリスト教要理とキリリ語文法
書各 1 点です。インドですと、タミル語・ポルトガル語のキ
リスト教要理、タミル語のキリスト教要理、今私がやってい
るコンカニ語のキリスト教要理、コンカニ語文法書、そして
タミル語・ポルトガル語の辞書もあります。
私の研究分野では、100 年前の研究が今でも十分生き
ています。今、私がやっているコンカニ語は、辞書が印刷さ
れた形では残っていません。つまり日本における日葡辞書
に当たるものはないんですが、写本( 手書きのもの )はたく
さん残っています。写本は早くに手に入れていたんですが、
とても読めません。ポルトガル語の部分はまあ読めるもの
の、コンカニ語の部分がどうにも読めないんです。
私たちが今使っている意味での「 古典 」という言葉は、明
治期に成立したもののようです。もちろん中国語における「 古
典 」は関係していますが、西洋からも「 クラシックス 」の意味
が入りました。
「 羅葡日対訳辞書 」の「 クラシックス」
というラ
テン語のところを引くと、ポルトガル語で<Cousa de armada
>と書いてあります。直訳すれば、
「 軍備を持ったもの 」とい
うことで「艦隊」
のことです。日本語では<Fio~xenniatarucoto
>。<Fio~xen>(「 ひやうせん 」
)
とは「 兵隊の船 」です。西
洋古典に詳しい方に、どうして艦隊が古典という意味になっ
たのか聞いてみますと「 国が危機に陥ったとき、その国の危
数年前にポルトガルの古書店で、ほこりだらけの棚に上
り、 はいつくばるようにして、 そこに置いてあるものを見
7
フランシスコ・ ザビエルは 1549 年に来ましたが、彼は、
ふらっと来たんじゃありません。きちっと計算しています。
ザビエルが来る前に、先遣隊として、アルバレスという船
長がやって来て、日本がどういう国かということをザビエ
ルに報告しています。その写本が( 後の時代に写された形
で )今でも残っていますが、その報告書の最後にはっきり
と、日本では種子島から都に至るまで一つの言語であると
書いてあります。
「 大航海時代 」の航海記を読みますと、この時代の通訳
はすごく哀れで、罪人なども多かったんですが、行く先々
で、
「 おまえ、この土地の言葉を覚えろ 」と言って降ろされ、
何カ月後かに戻るときに、バイリンガルになったその人を
連れ帰るというふうにして、通訳が養成されました。アフリ
カでは、この時代でも1,000とか 2,000 の言葉が話されてい
た可能性があります。ブラジル沿岸では、今は 350 ぐらい
と言われますが、その当時は 700ぐらいと言われています。
インドも、数え方に随分幅がありますが、200 から700ぐら
いと言われています。ですから、日本のように南の島から都
まで同じ言葉で通じるということは、ポルトガル人にとっ
て大変な驚きだったわけです。一言語だけだったから、あ
れだけ多くの文献ができたんだろうと思います。
当時の日本に通訳はいません。イスラム圏でしたら、現
地の言葉とアラビア語のできる人がたくさんいたはずです。
イベリア半島は長い間イスラム勢力に支配されていました
から、ポルトガルにはアラビア語とポルトガル語のできる
人がいくらもいたはずです。そういう意味で、中間に他の言
語を挟めば、通じ合う世界があったはずですが、日本の場
合にはそうはいきません。初めて種子島にポルトガル人が
来たときは、一緒に来た中国人と日本の役人が砂の上に漢
文を書いて意思疎通を図ったと言われています。
ただ、日本には既に多くの書物が存在していました。こ
れも、アフリカやブラジルとは相当違います。インドにも既
に写本がたくさんありましたが、アフリカ、ブラジルは全く
違います。それから、日本ではキリスト教が弾圧を受けまし
た。弾圧を受けると、印刷物を通しての潜伏宣教の重要性
が、さらに増します。それが、よい印刷物を増やした要因だ
と思います。
ていたら、恐らく50 年ぐらい前に誰かがタイプライターで
打ったコンカニ語・ポルトガル語辞書のタイプ本を見つけ
ました。それを買ってきて 17 世紀の写本と比べてみたら、
極めて正確なんです。たぶん、コンカニ語・ポルトガル語の
バイリンガルの研究者がつくったに違いないと思いました。
400 年前の写本( の写真 )と50 年前の無名の研究者がつ
くったタイプ本とを前にして、今はインターネットの時代で
あるから友人の力も借りて翻刻をつくろうと思い立ち、国
内外の多くの友人に助けてもらいながら 5 年ぐらいかかっ
て去年、翻刻が完成し、今、世界中に送っています。そこに
至るまで、この世に生かされていたことは、私の場合ちっ
とも当たり前ではないという個人的事情があったので、今、
感謝の気持ちで一杯です。
キリシタン文献の中には、キリストの言葉をそのまま翻
訳したものもあります。翻訳論の立場から見ても、この時代
の翻訳は極めて興味深いものです。有名なキリストの言葉
に、
「 私は道である、真( まこと )である、命である 」という
ものがあります。それを 400 年前のポルトガル人は、
「 我は
これ道なり、実( まこと)なり、寿命なり 」と訳しています。
初めてこれを見たときに、
「 我はこれ道なり、実(まこと)な
り 」はわかるんですが、
「 寿命なり 」って、どうしてこんな
ところに漢語を使うのか、 下手な訳だなあ、「 命 」 の方が
ずっといいのにと思いました。
私の師である亀井孝先生は、それを見事に解釈されまし
た。やはり私の考えはまったく甘かった、未熟だったのです。
原典のラテン語は<Ego sum via et veritas et vita>で、ギ
リシャ語では女性冠詞で統一されるはずですが、ラテン語は
冠詞がありませんから、その代わりに、v・v・vという形で韻
を踏んでいます。先生は、
「道・実(まこと)」
とmで始め、
「命」
じゃ m がないけれども、
「 寿命 」だったらm が入っているの
で、
「 道なり、実(まこと)なり、寿命なり 」と、m・m・mを重
ね、v・v・vと踏んでいる韻を写( 映 )
したんじゃないかと解
釈されたんですね。この最終的な翻訳文がよいものかどうか
が問題ではなく「 そこまで考えて訳されていたんだ!」という
ことを知った( 亀井先生に知らされた )
ときの驚きは、とても
言葉では言い表せません。翻訳論の立場から見ても、この時
代のキリシタン文献は極めて高いものを持っています。
キリシタン文献を「 大航海時代 」の語学書として見た場
合、印刷された文献の数の点でも、その内容においても日
本のものが一番充実しているようです。どうして日本のも
のが一番充実しているのかというと、いろいろな理由が考
えられますが、決定的なことは、言語の数が日本はたった
一つだったからだと思います。
印刷機は 1590 年にヴァリニアーノという人によって導
入されています。アフリカやブラジルのものは、その頃、ポ
ルトガルで印刷されましたが、日本のものは日本で印刷す
ることができました。これも、よい印刷物が残された一つの
理由だと思います。
それに、日本には教養人がかなりいました。
「 日葡辞書 」
やほかの文献を見ても、日本の教養人が相当に協力したこ
とは、絶対に確かですし、よい和紙の存在も大きかったと
思います。
口幅ったい言い方ですが、学生時代に国語学として習っ
たキリシタン語学の世界から、
「 大航海時代 」の語学書研究
8
私自身、現在自分のやっていることについて、まだまだ狭
いなと感じていることを申し添え、話を終えたいと思いま
す。ありがとうございました。
へという道を、開いたつもりです。数年前から「 宣教を通し
ての言語学 」
(Missionary Linguistics)に関する世界大会が
始まり、第 1 回はオスロ、2 回目がサンパウロ、3 回目がマ
カオで開かれました。オスロもサンパウロも招聘を受けまし
たが、そこで驚いたのは、スペイン語圏の語学研究が( ポル
トガル語圏のそれに比べ )すごくスケールが大きく、奥の深
いものであったことです。
「 大航海時代の語学書 」などと呼
んでポルトガル語圏の研究だけをしている自分が恥ずかし
くなりました。
<追記>
お二人の方にご質問いただき、感謝しています。まず一つは、こう
した文献に関しては、当時の日本語の音についての研究成果がいろ
いろあるのではないかということでした。まさにご指摘の通りですが、
今回はとても、そこまでのお話はできませんでした。ポルトガル人の
残してくれた諸文献がなければ、私達が今日学んでいる日本語史、取
り分け、音韻史は描けません。それほどに、日本語の音の歴史を知る
オスロの大会に行ったとき、オストラーというイギリスの
研究者が話しかけてきました。そのとき、直接に話をした
段階では、全く何も感じませんでしたが、少し後に、彼が壇
上に上っての第一声を聞いた途端、うしろから頭を殴られ
たようなショックを受けました。彼の第一声は「Missionary
Linguistics, WHY CHRISTIANITY ?」でした。私には、そ
れまでに全くなかった発想です。仏教やイスラム教の世界
だって、あちこちへ行っているじゃないか、三蔵法師やイ
ブンバットゥ ータだって長旅の中でいろいろな言語にぶつ
かっているはずなのに、 どうして言語研究をしなかったの
か。どうして 400 年前のカトリックの世界で初めて、こう
いった現地語研究の花が咲いたのか、そこから考えてみよ
うというのが彼の研究発表でした。これについての彼の解
釈や、その後みんなで議論した内容までは話せませんが、
上で、ポルトガル人の残してくれた資料は貴重です。それらについて、
全くお話できなかったのは、ほんとうに残念です。また、そうした当時
の音が現在でも、日本の諸方言に残っていますが、これも当日、テー
プでお聞かせできなかったのが残念でなりません。
もう一つの質問は、話の最後に言及した「 なぜ 400 年前のキリスト
教徒が初めて体系的な現地語研究を行いえたのか 」ということでし
た。様々な側面がありますが、ひとつ確実に言えることは、活字印刷
の時代が訪れていたこと、活字を作り印刷するには、字形、綴り字、
文法、表現法などにはっきりした規範を打ち立てなければならなかっ
たこと、そうした規範の確立には、まずその対象となる言語の分析が
不可欠であったこと、そして、この「 活字印刷 」という技術を歴史上
もっとも早く有効に利用したのが、キリスト教世界( プロテスタントお
よびカトリック )であったこと、それだけをここではお答えし、お許し
いただきたいと思います。
寄稿
JR 東海 吉村
光正(H4 法)
今回は 10 時に京都駅に現地集合ということでした
ので、多少「三英傑の遺構を訪ねる」という趣旨から離
れてしまいますが、特別に前座企画を用意させていた
だきました。それは「新幹線・京都駅の貴賓室見学ツ
アー」
で、12名の方にご参加いただきました。
京都には世界遺産を始めとする文化遺産が多く、ま
た皇室の本籍地である?京都御所(正式には東京の皇
居は仮のお住まいという考え方だそうです)が存する
こともあり、皇室の方々を始め、海外からの国家元首・
王室などの国賓等、さらには内閣総理大臣を始めとす
る大臣クラスなどのいわゆる内外からの賓客が頻繁に
大勢お越しになります。皆さまご存知のように京都に
は空港がございませんので、このようなお客様は、ほ
とんどのケースで新幹線をご利用になります。そこで、
新幹線の京都駅には、このような賓客の方々に、列車
お待合わせの時間等をおくつろぎいただくための特別
な部屋
「貴賓室」
が用意されているのです。
貴賓室は、皇室の方々のためのスペースとその他賓
客のためのスペースがあり、京都ゆかりの作家の作に
▲気品漂う空間でくつろぎのひととき
なる名画や美術工芸品などが添えられ、金屏風や専用
トイレも含め格調高い雰囲気でまとめられています。
なかでも皇室の方々のスペースは、椅子の配置などの
詳細に至るまで全て宮内庁の監修のもとレイアウトさ
れています。
今回案内役を務めました吉村光正(H4 法 )は過去に
2年間、新幹線京都駅の首席助役を務めた際に、この
部屋を利用し、数え切れないほど多くの賓客の方々を
ご案内させていただきました。秋篠宮同妃両殿下にお
声をおかけいただいたことや、とても腰が低く周りに
気を遣っておられたことが印象深い小沢・現民主党代
表や谷垣・前蔵相など、数多くのエピソードを交え、
新幹線京都駅貴賓室の設備のご案内をさせていただき
ました。
9
世話人代行 山口
代、1626 年 9月後水尾天
皇の行幸もありました。
その後火災などで荒れ
るままになっていました
が、江戸末期に将軍上洛のため再整
▲大徳寺の前で
備され、15 代将軍慶喜が大政奉還の決意
を告げた場所にもなりました。
ここで二条城組の 4 名と分れて、大徳寺組は 11 時に大徳
寺に到着。臨済宗大徳寺は鎌倉末期の元応元年
(1392 年)
に
禅林の双璧と称された大燈国師によって創建された洛北随
一の大寺院。洛北の苔寺とも称される「 龍源院 」 、国宝特
別名勝の庭園「大仙院」 、
紅葉で有名な
「高桐院」を三々五々
見学。千利休が「唐様山門」の上に金毛閣を造り自分の木造
を置いたことから秀吉の逆鱗に触れ切腹を命じられた、曰く
付きの赤い山門を背景に記念写真を撮り往時を偲びました。
昼食は二条城組と合流して嵐山へ。これが想定外の大賑
わい。嵐山での食事はあきらめて「 天王山」へ向かう車中で
コンビニのお握りで我慢。大山崎町歴史資料館では企画展
「戦国の騒乱と大山崎」を見学。大山崎は、天正 10 年(1582
年)の山崎合戦の舞台となったところです。淀川に臨む山崎
津(港)があったり、山陽道(西国街道)が通る等、水陸交通
の要衝でした。次にアサヒビール大山崎山荘美術館へ。夕
刻迫る中、山中秋一面の山荘のバルコニーから合戦の当時
を想像して歴史と景観のパノラマを楽しみました。16 時 40
分に山荘を出発。何とか予定の行程をこなし、17 時 10 分 京
都駅新幹線口で解散しました。
その後恒例の懇親会は新京極の花遊小路「 江戸川」に 11
名が参加して、由比健郎
(S27 工)
さんの乾杯の音頭で始まり
ました。これまでの想い出と京料理を肴に伏見のお酒を酌
み交わしました。山田英文(S30 経)さんの一本締めで、5 年
に亘る会もお開きとなりました。
啓(S51工修)
去る12月3日
(日)
、第10回三英傑の遺構を訪ねる会
(最終
回)
が16 名の参加で開催されました。
「最後は京都で」と折にふれ話題になっておりましたが、今
回当初の目論見どおり京都・大山崎への訪問が実現しまし
た。今回は世話人の清水順二さん(S49 工)の都合がつかな
くなり、世話人代行を山田豊久さん
(H16 工修)
と山口啓
(S51
工修)
の二人が務めることになりました。
集合は午前 10 時京都駅新幹線口向いのMKタクシー VIP
センター。師走といえ晩秋の京都、天候は快晴で寒風一切
なく、日本の秋をここ京都で満喫でき、まるで幼い頃の遠足
を想起髣髴させるような一日でした。
吉村光正さん(H4 法、JR 東海)から京都駅の貴賓室を見
せていただけるとの提案がありましたので、集合までの間、
希望者 12 名で見学させていただきました。助役さん、吉村
さんから興味あるお話を 25 分ほど伺いました。我々も来賓
用のソファーに腰掛けて暫し座り心地を確かめ、壁の絵画
を鑑賞し記念写真を撮らせていただきました。トイレは大理
石を基調に照明器具は菊の文様を感じさせるデザインです。
貴重な体験をさせていただきました。
(詳細は前ページ)
16 名は同門同輩のよしみ、ご夫婦同伴も 4 組で大坪彬良
さん
(S35 法)
ご夫妻は前日から京都に宿泊、はるばる東京か
ら田中茂義さん
(S54 工)
も加わって盛会となりました。
ジャンボタクシー2台に分乗して 10 時 20 分出発。午前の
部は運転手さんの説明を交え、車窓から本能寺址、現在の
本能寺、元本能寺跡、秀吉の邸宅であった聚楽第址を見て
二条城へ向かいました。二条城は関ヶ原合戦後の1601年
(慶
長 6 年)
に徳川家康が築城を指示、1611 年(慶長 16 年)の徳
川家康と豊臣秀頼の対面の儀や、さらに 3 代将軍家光の時
5 年半前、同窓会活性化
のための新企画活動に加わ
り、この企画を提案しまし
た。自分の興味もあって 10
回シリーズで年 2 回づつ開
催することを宣言しました。
早いものでもう 5 年が経過
し、昨年
12 月に京都での最
世話人
終回を迎えました。最後は
清水順二(S49 工) 所用で参加できず残念至極
でしたが、毎回 10 人前後の
参加で、延べ 125 名のご参加をいただきました。初回には今
は亡き藤村大先輩も参加いただいたり、長老の佐分さんや長
澤さんにも参加いただき、今となっては懐かしい思い出です。
ここで紙面をお借りして、この 10 回のシリーズで印象深
かったことを振り返ってみます。
三大贋
(にせ)
城;清洲城、墨俣城、小牧城
この三つは戦国時代にはありませんでした。あったのは館とか砦
であります。清洲城も墨俣城も平成になって作られました。小牧
城も昭和40年代に建てられたものです。
名古屋の街の生立ち
1610 年の名古屋城築城によって城下町も整備され、清洲越しと
いわれる町ぐるみの引越が行われました。当時の都市計画は大胆
で合理的で、その後の名古屋の発展に大いに寄与したように思
います。大須の萬松寺は、かつては今の丸の内3丁目辺りにあり
ましたが、街づくりのために現在の位置に移転しました。大須観
音も、築城に際し信長の信奉が篤かった岐阜羽島の大須の観音
堂を移築してきたものです。
名古屋の都市計画と文化
戦後の名古屋の都市計画は立派であったかも知れません。しかし
大須観音の境内を削る伏見通りや、建中寺の参道を横断する道
路を作ったのは残念なことに思えてなりません。
作らなくてもよい余計な物を造り、作らなくてはならない物
を造らない。その反省として、名古屋城の築城 400 年を記念
する本丸御殿の再建は、この地区の文化再生に大いに貢献す
るものと期待して、少々辛口のお礼のごあいさつといたします。
号は、丸山徹・南山大学教授の講演を軸に編集しま
今したが、清水順二さんが進めてこられた
「三英傑の遺
構を訪ねる会」
が10回で完結、
そのまとめを収載しました。
毎号、心当てにしていた玉稿だけに、その穴埋めが苦の
種になりそうです。諸氏よ、奮ってのご投稿を・・・。
会員からの投稿歓迎。宛先は東海銀杏会通信の題字下
事務局か、
[email protected] へ。(角田)
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