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ドイツさんと私 - タテ書き小説ネット

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ドイツさんと私 - タテ書き小説ネット
ドイツさんと私
吉田
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
ドイツさんと私
︻Nコード︼
N0649Z
︻作者名︼
吉田
︻あらすじ︼
見た目小学生のOL鈴木麦子が家に帰ると、そこにはなぜかゴリ
ラ︱︱のようなドイツ人。どこかすっとぼけた日本語を話すドイツ
人と、文字通りの意味で振り回される麦子との恋愛とビールと何か
の日々。●実際の人物とはまったく関係ありません ●ドイツ語は
●pixivに主人公編投
適当です ●主人公編四話完結。ドイツ人編六話完結。番外編完結。
続編完結。ありがとうございました!
稿済
1
玄関にゴリラ
ある日、家に帰るとゴリラがいた。
しかも、うちの玄関ポーチ。仕事柄目を使いすぎたのかな、と思
って擦ってみても、そのゴリラは一向に消えない。消えないどころ
か、すごい存在感を発している。
目算で身長二メートル弱。清潔感のある白いシャツからちらりと
見える腕には、むきむきの筋肉。
︱︱ん? 白いシャツ?
どうしてゴリラがシャツなんか着ちゃってるんだろう、と近くに
寄ってみる。すると、私のその気配に気がついたのか、それはくる
りと振り返った。
﹁コンバンハ!﹂
しゃ、しゃべったあああ!
どこぞで目にしたCMかくや、というテンションで、私は口を開
いたそれを見上げる。
ポーチに取り付けられた暖色の灯りの下、きらきらと光る金色の
髪。私を見詰める瞳は綺麗な青色。
つまり、ゴリラはゴリラではなく、ただのでかい外人だったのだ。
﹁こ、こんばん、は?﹂
だがしかし、なぜこの巨大な外国人がうちの前に居座っているの
か、という疑問はまだ解消されていない。
2
ものすごく威圧感のあるその顔を見上げながら、とりあえず私は
当たり障りない挨拶を返す。そして、じりじりと警戒心を露わにし
ながら玄関へと歩み寄った。うお、近くで見るとさらに巨大!
﹁隣に、来ました。オミヤゲ?﹂
なんで最後に疑問型、と心の中で軽く突っ込みつつ、外人が差し
出すそれに視線を落とすと。
なんということでしょう!
どこかの番組ナレーションのような感想が、頭の中を駆けめぐっ
た。外人が手にしているのは、あきらかにワイン。しかも、白。そ
してドイツ産。
一瞬にしてそれだけの情報を読みとった私は、自然とにやける顔
を直しつつ、差し出されたそれをうやうやしい仕草で受け取る。
﹁わざわざご丁寧に、ありがとうございます﹂
よそ行きの顔で笑ってみせると、なぜか外人はその白い頬をうっ
すらと染めた。顔とがたいに似合わず、照れ屋らしい。
にしても、でかい。近くで見れば見るほど、遠近感が狂う。
鍛え上げられた体躯はよけいなものの一切ついていない筋肉質。
それはボディビルダーのような不自然なものではなく、どちらかと
いえば軍人さんのような、持久力ありますって感じの付き方。私の
好みだ。
その上に乗っかっている顔も、いかにも外国人ですっていう彫り
の深さ。整ってはいるのだけれど、いかつさが全面に出ているため、
これ絶対子供泣くよねっていう仕上がり。もったいないなあ。
薄い金色の髪は短く整えられ、青い瞳が少し柔らかく私を見つめ
ていた。
ん? そういえばなんで見つめ合ってるわけ?
3
﹁あのう、ええっと⋮⋮﹂
﹁オリヴァーです。オリヴァー・ロルフ・ビルケンシュトックです。
ドイツから来ました﹂
﹁オリヴァー、さん?﹂
﹁オリーのフロインドゥ、オリーと呼びます﹂
フロインドゥってなんだよ、ドイツ人。
よくわかんないけど、とりあえず笑っとけ、と再びよそ行き笑顔
をむけると、ドイツ人も今度は満面の笑みで答える。ただし、顔は
怖い。
すずきむぎこ
それが、私︱︱鈴木麦子と隣のドイツ人、オリヴァー・ロルフ・
ビルケンシュトックとの初遭遇だった。
***
引っ越しの挨拶にいただいたワインは、さすがドイツ産。
甘くて、スパークリングで、めっちゃうまかった。あんまし誉め
られたことではないが、近くのスーパーで同じ銘柄の値段を見てみ
れば、そこそこいいお値段。ダンケ、ドイツ人!
両親はともにアルコールを摂取しない人たちなので、二本あった
それはすべて私の胃の中に消えた。
小さなコップ半分のビールでも酔っぱらう両親から、どうしてこ
んな酒豪が生まれたのかはわからないが、ただで飲む酒ほどうまい
ものはないね!
現金にも、そんなことでお隣さんを敬っていた私だったのだが。
4
﹁オカエリナサイ! 夕飯はおでんです﹂
なぜそのドイツ人がうちにいる!
会社から帰って玄関に入ったら、いきなり壁があった。というか、
壁だと思ったら、件のドイツ人だった。
見慣れた玄関が、すんごく小さく見えるのは私の目の錯覚じゃな
いと思う。
品のいいグレイのシャツと黒いスラックスに身を包んだドイツ人
は、私からの返答を待っているのか、にこにことしたまま動かない。
いや狭い、狭いから。
﹁た、ただいま?﹂
﹁今日、ドイツのビーア持ってきましたよ。コムギ、ビア好きです
よ﹂
好きですかって訊いてよ、そこは。まあ、間違ってはないけれど
もさあ。ていうか、ドイツ産? ドイツ産のビールって言ったか、
今!
いやいや待て待て、落ち着け私。その前に正すべきことがひとつ
あったぞ、ドイツ人。
﹁コムギってなに、コムギって。私は麦子!﹂
﹁ムギコはコムギ。ムッタァ、オリーにコムギいいよって﹂
確実に五十センチは上にある理性的なゴリラ顔を睨み付けると、
ドイツ人はいたずらを怒られたような表情をして、たどたどしく弁
解する。
えらい低音のいい声でんなしゃべり方されると、殴りたくなるく
らいに可愛いじゃないか。
というのはおいといて。
5
﹁つまり、お母さんがオリーに﹃麦子のことはコムギって呼んでい
いのよ∼﹄なんて勝手なことをぬかしやがったと。そういうことで
オーケー?﹂
﹁Ja!﹂
あの天然母がよけいなことを!
ただでさえ低身長に童顔のこの外見のせいで、不当な扱いを社会
から受けているというのに。できれば、正しく﹁麦子さん﹂と呼ん
でいただきたい!
二十五歳の淑女らしく扱ってもらいたいんだよ、無理っぽいけど
ね、すでに。きょとんとしてこちらを見ているドイツ人に、私は大
きくため息をつく。ここは気を取り直して!
﹁オリー、おでんは初めてなの?﹂
﹁初めてです。ムッタァ、オリーのうち来て、入れって言いました。
オリーはとても嬉しゅうございます﹂
なぜ最後だけそうなる。
吹き出すのをこらえ、目をキラキラさせるドイツ人を従えてダイ
ニングへと移動。 本国にいる時、知り合いの日本人と日本映画で
言葉を学んだという彼は、時々面白い言葉遣いをする。あえて、訂
正はしない。
部屋に入ると、母はテーブルにおでん鍋をセッティングしている
ところだった。冬はこれこれ、これだよねえ。
あ、そういえば重要なことをさっき聞いた気がする。
﹁ドイツビールあるって?﹂
﹁あら、おかえりなさーい。オリーちゃん、誘っちゃったあ﹂
﹁ああ、うん。今さら言われなくてもすごい存在感あるしね﹂
6
私と母のやり取りをにこにこしながら見ているドイツ人は、やっ
ぱりいかつい。
これで﹁悪い子いねがあ!﹂って来たら、なまはげに勝てる。ぶ
っちぎりで。
﹁コムギ、ビーアはここです。オリーのダチ、送ってくれたよー﹂
﹁おっ、オリー、すっかり﹃ダチ﹄をマスターしたね﹂
﹁した!﹂
誉めて伸ばす。うん、成功成功。
初めて会った時にドイツ人が言っていた﹃フロインドゥ﹄っての
がわからず、辞書を引いた私。それが日本語で言うところの﹃友達﹄
だとわかって、斜め上に教えました。いいんだ、﹃ダチ﹄って格好
いいし。
まるで忠実な大型犬種のように、できたできたと喜ぶドイツ人の
腹を、よしよしと撫でてやる。できれば頭を撫でてやりたいところ
だけれど、悲しいことに私の手が届くのは腹あたりまでだった。屈、
辱!
それをくすぐったそうに受けていたドイツ人。何を思ったのかそ
けいつい
のでっかく厚い手で、お返しとばかりに私の頭を撫で回してきた。
ちょ、やめ、首が首ががくがくするから!
﹁あらあ、仲良し! 素敵ねえ﹂
﹁お母さんっ、止めてっ! 止めてよ、私死ぬから! 頸椎やられ
て死んでしまうから!﹂
﹁コムギ、バカかわいいですねえ﹂
﹁いやそれ嬉しくないから。全然嬉しくないかんねっ!?﹂
なんとかその手の下から抜け出した私は、とにかくまずは着替え
7
てくる、と慌てて自分の部屋へと一時避難したのだった。
8
おでんとすき焼きとソーセージ
﹁いただきまーす!﹂
部屋着に着替えた私が食卓につくと同時に、三人手を合わせて鍋
に一礼。ちなみに、部屋着がユニクロの子供用だということは、私
だけの秘密だ。
さっそくビールに手を伸ばす私を、それを持ってきたドイツ人は
嬉しそうに見ている。
﹁コムギはドイチュの人みたいですね﹂
﹁まあ、負けないくらいにビール好きなことは認めるよ﹂
日本人がドイツドイツと呼ぶ国は、本来は﹃ドイチュランド﹄と
発音するらしい。
このムキムキのドイツ人が、﹃ドイチュ﹄と口にする様は、激し
く可愛い。チュってもう、ねえ?
そのドイツ人も持参した馬鹿でかいジョッキでぐびり、とビール
に口をつけた。彼が言うにはこれが普通サイズとのことだが⋮⋮あ
などれんな、ドイツ!
にしても、うまい。
ワインに引き続き、これだって輸入食品を扱う店に行けば、けっ
こうな値段するぞう。しかもわざわざ本国から送ってきたって。も
しかして、金持ち?
ちくわぶの熱さに、はふはふ言いながら涙目になっているドイツ
人を横目で見ていると、何を思ったのか新しくビールを開けて差し
9
出される。
そうかそうか、あんたの中では私はそういう生き物か。よし、あ
りがたくいただく。
﹁麦子ったらあ。本当に、誰に似たのかしらねえ。こんなちっちゃ
いのに、そんなにどこに入っていくのかしら﹂
﹁ちっさい言わないっ﹂
﹁コムギ、バカ可愛いですよ﹂
﹁フォローになってないっ﹂
お客様の中に、ツッコミの方はいらっしゃいませんか!と叫び出
したくなるような惨状に、今はここにいない父の存在を思う。が、
よく考えれば気の優しい父は常識人ではあるが、天然おっとりの母
にさえツッコミをいれられない人なのであった。
しかたなく、昆布を口に放り込みながら考える。ここは話題転換
を要求しよう。うん、それがいい。
﹁ねえ、オリーは日本でなにやってる人なの?﹂
なぜかおでん鍋の中に入っているソーセージを箸で器用につまみ
ながら、ドイツ人は私の問いかけにこちらを見る。ドイツ人とソー
セージ。絵的には間違ってない。
どうせ母が﹃ドイツ=ソーセージ﹄くらいの短絡的な勢いで、普
段は入れないそれをぶちこんだということだろう。味は悪くはない
けどさ。
﹁オリーは、守る人です﹂
﹁守る人? なにそれ、何から?﹂
なぜか甲斐甲斐しく手渡された三本目のビールを飲みながら、私
10
は首を傾げる。
ていうか、おまえは私の嫁さんか。ふたまで丁寧に開けてくれて
るから、私は飲むだけ。それでいいのか、ドイツ人!
﹁タマが飛んでくる。オリーはそれから、守る人です。仲間に指示
します。怒ります。蹴り返して、仲間助けます﹂
うええええ。なにその危険なお仕事。
そのがたいからして、どうやっても堅気のお人じゃないとは思っ
たけれど、それはつまり︱︱。
﹁まあ、かっこいいっ。SPねっ、SPなのねえっ﹂
﹁SP? オリー、GKですよ?﹂
﹁ドイツではそう言うのかしら? 身体をはるお仕事なのねえ﹂
もっと食べなさい、と何やら感激しきりの母が、ドイツ人の皿に
大根やらはんぺんやらを特盛りにする。
SPかどうかはともかく、このドイツ人が何かの警備員らしいっ
てことはわかった。
見た目はともかく、意外と細やかで優しい彼がそんな荒事を生業
にしているとは、意外である。怒るところなんて、想像もつかない
けれどねえ。
見慣れてくると多少可愛く感じられるその笑顔を見つめていると、
何を思ったのかドイツ人、今度は袋の中からワインを取りだしてみ
せた。
﹁ヴァイスヴァイン?﹂
﹁オリーは私を正しく誤解しているよ! いただきますっ﹂
文句は忘れず、しかし私は素早く立ち上がって食器棚からワイン
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グラスを二脚取りだし、目の前に置く。
心得ているとばかりに見事な所作で手早くコルクを抜いたドイツ
人が、なみなみとそれに淡い金色の液体を注ぎ、私たち二人は気分
良く杯を持ち上げた。
﹁こういう時、ドイツではなんて言うの?﹂
﹁プロースト!﹂
嬉しそうにそう言う彼につられて、私も思わずにっこりと笑う。
﹁プロースト!﹂
***
そんなこんなで始まった、いかついドイツ人とのご近所付き合い。
その私たちふたりは今、なぜか近所のスーパーで一緒に買い物なん
かをしてしまっている。
しかも、まるで恋人のように手まで繋いでいる。な、なぜ?
隣で口笛を吹いてご機嫌なドイツ人を恐る恐る見上げると、それ
に気がついた彼はますますその笑顔をきらめかせた。
こらこら、そこらの子供さんが顔を引きつらせていますよ、ドイ
ツ産なまはげに。
﹁ムッタァが、今日はスキヤキですよ。お買い物、行って来い! オリー、スキヤキの歌、歌います?﹂
﹁歌わんでいい、てかスキヤキの歌ってなんぞ!﹂
ぶんぶんと繋いだ手を振るドイツ人に、私は文字通り振り回され
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る。やめれ!
合わさった手のひらの大きさもそうだが、歩幅もずいぶんと違う
はずなのに、気がつけばドイツ人は私に合わせて歩いていてくれて
いた。
それに気付いて、なんとなくそわそわする。この小学生的外見か
ら、今まで学校や会社ではさんざん子供扱いはされてきた。けれど、
こういう風に女の子扱いされたことはない。欧州的エスコート術な
のか!?
しかし、所詮はゴリラと見た目小学生。スーパーに入ったときか
ら、周りの目が痛い。
なんていうか、﹁あれは親子?﹂﹁いや、違うでしょう﹂みたい
な会話がね、背中から聞こえてくるわけですよ。
うう、早くお買い物すませて返ろう。
﹁ええっとオリー、野菜から行くよー⋮⋮っておい! 何してんの
!﹂
渡された買い物メモを見ていた私がそう言って、静かになった隣
を見てみれば、店内で目立ちに目立ちまくっているドイツ人の姿は
ソーセージコーナーの前。お前はパブロフの犬かっ!
慌ててそちらに近寄って行くと、その気配を感じて振り返ったド
イツ人の瞳がすっごく輝いている。もう眩しいくらいの青い瞳。
﹁コムギ! これ素敵ですね! グートゥシェーン!﹂
﹁はあ?﹂
野球のグローブかと思えるほどにでかいその右手に握られていた
のは、まさかの子供用ソーセージ。魚肉。しかも、戦隊もの。
まだ隣の女の子向け魔法少女にひかれなかっただけ、マシなのか?
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﹁これ、カコイイ! コムギ、買って! 買って!﹂
﹁どこのお子様なのよ⋮⋮﹂
ものすごい勢いでアピールしてくるドイツ人に呆れた視線を送る
が、当人はどこ吹く風でこちらに迫る。だから、遠近感狂うからそ
んなに近付くなって。
﹁そんなの、高い割には中身があんまし入ってないし、却下﹂
﹁悲しゅうございますよ! オリーはこれが必要なものだと考えま
す。素晴らしいデザイン、オリギネル! 中には四つ。ファータァ、
ムッタァ、コムギにオリー。最高です。仲良しの証ですね! いか
がですか?﹂
﹁いかがですもなにも﹂
あなたはなぜスーパーのソーセージコーナーで、とどろく美声を
使って演説なんかを始めちゃったりしているんですか、と小一時間
こっちが問いつめたいわ。
さっきまでは怖いもの見たさだったお客さん達が、あまりのくだ
らないこのやり取りに、くすくすと笑い声を漏らしている。
期待に満ちた顔でつきだされたそれを受け取るかどうか迷ってい
ると、くいっと服の裾を誰かに引かれた。
驚いてそちらを見れば、小学生低学年の男の子がひとり。何だか
したり顔で私を見詰めている。
﹁姉ちゃん、買ってやれよ。可哀想だろうが!﹂
哀れむような瞳を向けられたドイツ人は、わかってるんだかわか
ってないんだか、思わぬ援護射撃に大きく頷いた。なにこれ、私悪
もんくさくない?
頼んだぞ、となぜか偉そうに言い置いて、同じソーセージを掴ん
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だ男の子は、先で待つ母親のもとに走っていく。た、頼まれてもな
あ。
﹁コムギ⋮⋮﹂
﹁あーもう、わかった! ひとつね、ひとつだけだからねっ﹂
やけになってそう叫ぶと、オリーはぱっと顔を輝かせ、突然私の
身体をぎゅうっと抱き込む。ええええ。
大きな背中を折り曲げて私を胸の中に閉じこめると、頭のてっぺ
んに頬をすりすりとすり寄せてきた。
Dich、コムギ⋮⋮﹂
bei
mir
nahe
z
ちょ、ちょ、ちょ! あの、なんか心なしか私の身体、地面から
liebe
浮いてますよね!?
﹁Ich
immer
﹁わわわわかった、よくわかんないけどわかったからっ﹂
doch
Greifen⋮⋮﹂
﹁Sei
um
ええい、何を言っているのかわからん! ジャパニーズプリーズ!
ドイツ人はじたばたと暴れる私の身体をそっと離すと、少しだけ
頬を染めて微笑む。その青い瞳がなんだか熱っぽく私を見つめるの
は、なんでだろう?
呼吸的な意味で真っ赤になった私に、再びそのいかつい顔が近付
いて、そして。
ちゅっ。
鈴木麦子二十五歳、初めてのキスは近所のスーパー。しかも、ソ
ーセージコーナーの前でした︱︱。
15
16
日独同盟破棄!?
﹁日独同盟を破棄したい。切実に、ものすごく!﹂
日本酒の入ったコップを割れない程度にがつん、とこたつの天版
に叩きつけ、私は隣に座るでかい生き物を睨み付けた。
ダイニングから続く居間、テレビの前のこたつにて。なぜか満足
げな顔をしたドイツ人は、心得たように私のコップにお酒をつぎ足
している。いや、間違ってないけどそうじゃないっ。
﹁みかん、おいしいですね﹂
﹁田舎からの直送だぞ、当然! ⋮⋮じゃなくて、ちょっと近いっ﹂
そもそもこたつって四面あるじゃないの。どうしてわざわざ隣に
座るのかなあ!?
しかも、無理矢理隣に身体を押し込んできたドイツ人は、ぎゅう
ぎゅうと私に寄ってくる。おいこら、懐くんじゃないっ。
﹁狭いっ! オリーはあっちに座ってっ﹂
﹁狭い? オリーは狭くないですよ?﹂
でっかい手でちまちまとみかんの皮をむくドイツ人は、私の言う
ことがまったくわからないとでもいうように、ことっと首を傾げて
みせた。か、可愛くなんかないんだからねっ。
﹁誰があんたの意見を訊いた! 私が狭いのっ。潰れるのっ﹂
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その言葉にドイツ人は大きく頷くと、むき終わったみかんを黙っ
てこちらに差し出した。反射的にそれを受け取ると、私はなぜかそ
のまま彼に抱き上げられてしまう。えええええええ!
両脇に差し込まれた大きな手のひら。それがふわっと私の身体を
いとも簡単に持ち上げる。そうして自分の足の間へと私を降ろし、
そのごっつい腕が腹にぎゅっとまわって、拘束完了。
﹁これでコムギ、狭くないですね?﹂
﹁ばばばばばばば﹂
あまりのことに、罵声さえ出てこない。
それをいいことに、ドイツ人は私の耳にやたら可愛らしいリップ
音を響かせてキスをした。なんだこれなんだこれなんだこれ。
そして、匂いを嗅ぐように首筋にその高い鼻を埋められたところ
で、私はギブアップ。あぐあぐと白いタオルを求めて、ちょうど追
加のみかんを持ってキッチンから戻ってきた母に、必死に手を伸ば
す。れ、レフリー!
﹁あらあ、素敵! 昔のお父さんと私を見てるみたいっ﹂
﹁娘の貞操の危機だっつの! ここは怒るところだから! ボケる
とこじゃないからっ﹂
﹁えー? だって、ハーフの赤ちゃんて天使みたいでいいわよねえ
?﹂
﹁オリー、頑張りまするよ!﹂
﹁あんたは余計なところに参戦すんなっ﹂
首にキスしてくるドイツ人を、手のひらで押しのけて、私は叫ぶ。
するとそれ以上のことはせず、彼はとろけるように甘い笑みを私
に向けた。自然と自分の顔が赤くなるのがわかる。く、悔しい。
18
﹁に、日本酒、おかわりっ﹂
﹁Ja!﹂
***
あのあと、なんでか客室にお泊まりしていたドイツ人に私が叩き
起こされたのは、次の日の朝。日曜日の七時三十分。正気の沙汰と
は思えない。私の日曜日を返してよう!
ていうか、未婚女性の寝室に勝手に入ってくるって、あんたの国
は騎士の国だろうがっ。
﹁コムギ、早く早く。始まりますよ!﹂
﹁ううう、何がよ⋮⋮? って、ちょ、抱き上げるなっ﹂
何かそわそわしているなと思っていたら、なかなか起きあがらな
い私に焦れたドイツ人は力業に訴えた。
つまり、パジャマ姿の私をベットから抱き上げ、そのまま階段を
下りて居間へと向かう暴挙に出たのだ。。小学生体型とはいえそれ
なりに重いはずの私を抱えても、ちっとも危なげのない足取り。素
早くテレビの前までやってくると、こたつの中に私を押し込んだ。
そして、キッチンからオレンジジュースを持ってきて私に渡す。
そのまま当然のように私を背後から抱き締め、彼もこたつへと足を
伸ばした。待て、この位置はもう決定なんですか。
寝起きの頭に次々と浮かぶ疑問は、あわあわという不明瞭な言葉
でしか出てこない。そんなことにおかまいなし。ぷちん、という音
とともにテレビを点けると、ドイツ人は私の頭を顎でぐりぐりと撫
でてきた。
19
痛い痛い痛いってばっ。
﹁ソーセージ、始まりますね﹂
﹁意味がわからない!﹂
画面を太い指でさすドイツ人に不機嫌を伝えつつ、私はオレンジ
ジュースを一口飲む。気遣いのできるいい人ではあるんだよ。ちょ
っと斜め上に行きがちだけど。
まだ眠気の取れない目をごしごしと擦っていると、どこから出し
てきたんだか、まだほかほかしている濡れタオルで顔を拭われた。
なんか、介護?
少しずつ覚醒していく頭の隅でそんなことを考えていると、目尻
にちゅっとキスされる。
ゆ、油断も隙もあったもんじゃないね!
﹁ほら、コムギ!﹂
赤くなった頬を誤魔化すように首を振った私に、妙にはずんだ声
でドイツ人が再び話しかけた。だから、なにがどうしてなんだとい
うの!
促されるまま、仕方なくテレビに目をやった私がそこで見たもの
は︱︱。
﹃あーいーとーゆーうきー! かかげーてーゆくーんーだー! ラ
イオンジャー!﹄
⋮⋮ああ、ソーセージ。うん、ソーセージね⋮⋮。
何が悲しくて二十五歳独身女性が、三十五歳ドイツ人と一緒に日
曜の朝から戦隊ヒーローを見なければならないのか。
そんな疑問に思いっきり脱力してしまった私は、背後にある広い
20
胸に背を預け、大きくため息をついた。その行動に何を勘違いした
んだか、より密着してきたドイツ人は、ライオンジャーについて一
所懸命説明をしてくれる。
﹁ライオンジャー、悪いと戦います。レッヒトウントフライハイト
!﹂
﹁うんうん、はいはい。ライオンジャー、かっこいいねっ﹂
いい加減あきれて適当にそう返すと、ドイツ人はなぜか一転、悲
しそうな顔になる。
まるでジャーマンシェパードがご主人に叱られて、耳と尻尾を垂
らしているが如く。あれ、でも今私、ちゃんと同意したでしょうが。
何が不満じゃっ。
﹁オリーとライオンジャー、どっち?﹂
﹁は?﹂
﹁オリーとライオンジャー、どっちが素敵ですか? どっちを愛し
ていますか?﹂
ええええええええ。そういう話なの!?
口元は微笑んでいるけど、真っ青なその目がまったく笑ってない。
顔怖い、顔が怖いよ。
どう答えればこの地獄から抜け出せるっていうのっ。
﹁コムギ!﹂
ええいっ。
迫り来る悪鬼の如き顔に耐えきれず、私は思わずぎゅっとその首
に腕を回した。しかし、太い首に身体だ。膝立ちになって両腕を回
しているというのに、私では彼の身体を抱き締めきれない。
21
その鍛え上げられた固い身体の感触に、走り込みと筋トレを趣味
とする私はつい感動してしまった。胸板厚いなあ!
すると突然、強い力で抱き締め返される。ぐああああっ。さばお
りっ、さばおりになってるってえ!
﹁ラブ注入!﹂
du
meine
Frau
w
﹁どこで覚えたそんな言葉ーっ! ていうか出ちゃうっ、内蔵が出
ちゃうっ﹂
﹁コムギ、Moechtest
erden!?﹂
﹁くくく、苦しいってば! もうっ、わかった、わかったってばあ
あああ!﹂
その後さんざん締め付けられてぐったりした私の顔に、ちゅっち
ゅとキスを降らせたドイツ人は、朝ご飯までしっかり食べて自分の
家へと帰って行った。
この時、自分が何に同意してしまったのか、私はまだ知らない。
なんていうか、ドイツ語なんて嫌いだっ。
22
モアフェイマスセレブゴリラ!
そんなこんなでひどい週末を送った、月曜の朝。
いつも通りに出勤した私は、隣の席の後輩がいそいそと机の下に
何かを挟み込んでいるのを目撃した。あれは⋮⋮グラビア?
ようこ
﹁羊子ちゃん、羊子ちゃん、なになに、それ。沖縄消防団の半裸カ
レンダー?﹂
﹁いやだ、麦子先輩っ。いつ私がそんな破廉恥なもの持ってきまし
た?﹂
﹁先週﹂
お弁当組がお昼を食べる会議室で披露したことを、よもや忘れた
とはいわせんぞ!
しかも、それはいまだこの残念な美人である後輩のロッカーに、
思いっきり貼られている。どの口が言うかっ、と後輩をぴよぴよ口
の刑に処した私は、改めて机の下の写真に目をやった。
それは、どこかで見たような、いかつい顔の外人が写ったポスタ
ー。
薄い金色の短髪に、青い瞳。高い鼻にがっしりとした輪郭。太い
首に分厚い身体は、何かのユニフォームに包まれ、白い網の前で仁
王立ちになっていた。なんていうか、浅草によくいる風と雷の神様
っぽい感じ。写真なのに、威圧感が半端ない。んん?
いやあ、世界にはよく似た人間が三人いるっていうけれど、ねえ?
﹁あらっ、麦子先輩も好きですか、この人! いい具合にムキムキ
23
で素晴らしいですよねえ。この不動明王かってところが素敵⋮⋮﹂
うっとりと舐めるような視線で、羊子ちゃんは机に挟んだその写
真を見つめて言う。
普段から﹁細マッチョとかもうあり得ないです! マッチョって
単語に謝れ!﹂と憤慨する後輩は、無類の筋肉好きだ。
羊子ちゃん、お願いだから帰ってきて! 現実に!
﹁いや、好きっていうか、なんかよく似た生き物を最近見かけるっ
ていうか﹂
﹁えっ! それ本人じゃないんですかっ。彼、日本に長期滞在中な
んですよ!﹂
﹁ち、違うと思うなあ。だって、その人警備の仕事してるって言っ
てたし﹂
俄然本気モードに入った羊子ちゃんをいなしながら、私は誤魔化
すように笑う。
いやいや、まさか、ねえ。だってこれ、どう見ても有名人じゃな
いの。ばりばりに。
あのすっとぼけた日本語を話すドイツ人と、絶対違うって。違う
違う。違うはずだ!
﹁なんか、飛んでくるタマから何かを守ってる人らしいよ。部下に
指示出したり、蹴り返して助けるんだって。だから、こんな風に雑
誌に載ってるわけないってえ﹂
﹁せせせせせ先輩?﹂
前にドイツ人から聞いたことをそのまんま伝えた私に、羊子ちゃ
んがイケてるDJ状態に陥ってしまう。なになに、どうした。
そして、がしりとおもむろに私の肩を掴み顔を近付けると、内緒
24
話でもするようにひっそりと口を開いた。
﹁先輩、その人もしかしてオリヴァー・ビルケンシュトックさん、
じゃないですよね?﹂
﹁え、オリーだけど?﹂
何で知ってるの、と私が訊き返そうとした瞬間。
羊子ちゃんが爆発した。
﹁のおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!﹂
幸いにしてまだ出勤ラッシュには早い時間だったため、遠くにい
る営業部長がびくうっとこちらを振り返っただけで済む。
私は片手を上げ、何でもないことをアピール。部長は私にむかっ
て軽くうなずくと、またもとの体勢に戻ってくれた。いい人だなあ。
当の羊子ちゃんといえば、思いっきり叫んだきり、そのまま真っ
白い灰になっちまっている。叩いたら直るかな、これ。
しょうがなく、私たちが社内で密かに作っている、自主的運動部
の合い言葉をささやいてみた。
﹁好きな痛みはっ?﹂
﹁筋肉痛! って違あああうっ!﹂
反射的に反応して復活してくれた羊子ちゃんは、ひとりで見事な
ノリツッコミをしてみせると、ぶんぶんと首を大きく振って仕切直
した。
﹁麦子先輩、よおおおく聞いてくださいね。そのオリーはですね、
サッカー選手なんですよ! しかも、超有名所ですっ。世界レベル
ですっ。モアフェイマスセレブ!﹂
25
なんだその怪しい英語は、と突っ込もうとして止まる。今、なん
て言った?
サッカー選手で、有名人。しかも世界レベルで? あのドイツ人
が?
いや、だってあの人、日曜だって土曜だって家にいるし。そりゃ
あ、毎朝一緒に走り込みしたりしてるけど、基本仕事してるのかし
てないのか怪しいところだし。
まあ、平日私が会社にいる間は何をしているのか知らないけどさ。
お金にはまったく困ってもないみたいだけどさ。
﹁ないない! 他人のそら似に違いないよ!﹂
﹁同姓同名のそっくりさんは、もうそれ本人ですから!﹂
﹁だだだだって、このゴリラがサッカーしてるの見たことないよっ。
身体は鍛えてるみたいだけど、基本自宅警備員だよっ﹂
﹁引退したんですよ、ついこの間。ドイツの名門クラブでずうっと
第一GKで、しかもドイツ代表選手。なんでかすぐに来日して、ど
っかのチームの臨時コーチしてるはずですよ?﹂
﹁サッカー詳しくないし!﹂
ショックから回復した羊子ちゃんに代わって、今度は私がガクガ
クブルブルと震え出す。聞いてない。まったく聞いてない。
いや、ドイツ人は言ったつもりかもしれないけれど、私を含めて
母も彼が警備の仕事をしてるって今の今まで信じてたんだよ。母は
きっとまだ信じているよ!
油が切れたロボットのような動作で、私はショック状態のまま無
言で席に戻り、ノートパソコンを開く。忘れよう。ここから一時間
前の記憶を削除しよう。ええと、デリートボタンはどこだ。
﹁麦子先輩、それ電源入ってないです。それに、デリートキーをど
26
んだけ押しても、現実は消えないですからねー﹂
冷静な後輩のツッコミが痛い。ううう。
そんな風に始まった私の月曜日が、前日のごとく散々だったこと
は言うまでもない。あきらかに挙動不審な私を、同僚や上司は心配
そうに遠巻きに見る。なぜか色々な菓子を献上されるのは、私の見
た目があれだから。
いつもなら﹁Not!子供扱い﹂と断るが、今日はそんな余裕す
らなかった。頭の中をゴリラ的な何かがぐるんぐるんと駆けめぐる。
午後になっても立ち直れない私は、上司から早退命令を発令され、
会社から帰されてしまった。しかも、なぜか羊子ちゃんがロッカー
に常備していた、あのドイツ人の写真集なるものも持って︱︱。
***
﹃オリヴァー・ビルケンシュトック 霊長類最強ゴールキーパー!﹄
会社から帰り、早々と部屋着に着替えてベットに転がった私は、
羊子ちゃんから借りてきたその本をぱらぱらとめくってみた。中身
は意外と硬派な記事と写真が満載。いい太股だあ、とか思ってない
よ、多分。
そこに写っていたのは、雄叫びを上げているような顔。横っ飛び
になってボールをキャッチしている姿。仲間と肩を組んで笑って、
時にゴールに寄りかかり涙を落とす写真たち。
それは私の見たことのない、隣のドイツ人の姿だった。なんとな
く、赤面。
恥ずかしさを誤魔化すように、私はひとりごちてみる。
27
﹁これ、本当にオリーなのかなあ﹂
﹁本当にオリーですよ﹂
﹁うわあああああああっ﹂
こっそりとエロ本を見ていたら、母親に乱入されてしまった男子
中学生かってくらい、私はベットの上で跳ねる。かけられたその声
に振り返れば、奴がいた!
だから、なんで、うちにいるの! ドイツ人!
私は慌てて枕の下に写真集を隠そうとするが、間に合わない。そ
れはさっさとドイツ人に取り上げられてしまった。
そしてなにやら真面目な顔で写真集と私を見比べると、満面の笑
みになる。うわあ、嫌な予感しかしない、この展開。
﹁本物がここにいますよ、コムギ⋮⋮﹂
ぎしっとドイツ人の重みにベットが軋む。ななななんだ、この生
々しい音っ。
寝っ転がった私の身体を、囲い込むようにのしかかってくるドイ
ツ人に息を飲む。そっと、その手のひらが私の頬に触れ、親指がゆ
っくりと肌を撫でた。
ぞわり、と不快ではない感覚が背筋を駆け上る。
﹁フォートよりもオリーのほうが、ガンツグゥート!﹂
そう言うなり唇に柔らかい感触。何度されても慣れない口付けに
身体の力が抜け、私はベットへと沈み込んでしまった。よくわから
ないけど、ずるい、と思う。
角度を変えて何度でも重なってくるそれが、いつの間にか私の唇
を割って深く深く。何もかも飲み込むように、奪うように、どこま
でも追いかけてくる舌。
28
酸素を求めてドイツ人のがっしりとした肩を叩けば、ものすごく
未練たらしく、最後に軽いキスを残してそれは離れていった。
甘く痺れる頭も身体も、筋肉質な彼の高い体温に支配されている。
ざらりと耳に触れたドイツ人の顎。その髭のそり残しの感触にまで、
反応してしまう。
﹁アレスクラァ?﹂
上質のベルベットでも撫でているような低音を耳に吹き込まれ、
私は意味もわからずがくがくと頷く。
そんな私にドイツ人は満足そうな笑顔をむけた。
大きくて固い手のひらが、乱れた私の前髪をさらりと撫でつけ、
bin
in
dich
verliebt.﹂
そのこそばゆさに私は少し肩をすくめる。
﹁Ich
小さくささやかれた異国の言葉が切なく響いて、私はそっとドイ
ツ人に手を伸ばし︱︱むにっとその頬を思いっきり摘んだ。調子に
乗るでないっ。
多分真っ赤になっいるであろう顔のまま、四つん這いで私を覗き
込むドイツ人を睨み付ける。それでもへらりと嬉しそうに笑うドイ
ツ人は、もう本当にどうしようもない。
再びゆっくりと寄せられる唇に、私は今度こそ諦めてそっと目を
閉じた。
29
モアフェイマスセレブゴリラ!︵後書き︶
ドイツさんと私、ここでいったん完結となります。
このあと、オリー視点のお話を続けようと思っていますので、よろ
しければそちらも覗いてくださると嬉しいです。
30
妖精との出逢い
初めて彼女を見たとき、俺の身体はパンツァーファウストの直撃
を受けたかのように、ものすごい衝撃にみまわれた。
ドイツからほとんど身ひとつで来日して三日目の夜。
引っ越しの挨拶は大事だろうと、本国から持参したワイン二本を
手に隣の家までやってきたはいいが、チャイムを押しても返事はな
し。そのまましばらく反応をうかがうが、どうやら留守だったらし
い。
多少がっかりして、また後で来ようと振り返ったそこに、彼女が
いた。
見るからに華奢な身体はぴっしりとしたスーツで包まれ、一見し
て働く女性なのだとわかる。しかし、肩から提げた鞄のほうが大き
く見えるくらい、彼女は小さかった。
自分が手をかざせば余裕で包み込めるほどに小作りな顔には、印
象的な大きな黒い瞳。繊細な睫毛に縁取られたそれが、綺麗に切り
揃えられた前髪の下から、警戒心も露わにこちらを見つめていた。
がん、と脳みそを揺さぶる衝撃。これは、まさか妖精か!?
﹁コンバンハ!﹂
反射的にかけた俺の声に、小さな彼女はびくうっと肩を揺らす。
大きな瞳がさらに大きくまん丸くなり、魅力的な桜色の唇がぽかん
31
と開けられた。
彼女はどうやらこの家の住人らしい。警戒しながらも意を決した
ように、そろりそろりとこちらに歩み寄ってくる。
その姿たるや、まさに皇帝ペンギンのヒナ!
いや、むしろ俺の大好きなティディベアそのもの!
今すぐにでも抱き締めて、自分の家まで持って帰りたい衝動を抑
えつつ、俺はすぐそばまでやってきた彼女に持っていたワインを差
し出した。
﹁隣に、来ました。オミヤゲ?﹂
その言葉に彼女の視線は俺の手元に落とされ、一瞬の後、ぱっと
上げられた顔には大きな喜びが溢れていた。
輝かんばかりのその可愛らしい笑みに、俺の胸が不規則に脈打つ。
おかしい。健康面に不安はなかったはずだが。
ぼんやりと彼女を見つめる俺にむかって、小さな手がそっと差し
出された。俺ははっと我に返り、袋を渡したところで細い指に指が
触れ、再び身体にびりびりとした何かがほとばしる。不快ではない。
むしろ、快楽に近いその感覚。
﹁わざわざご丁寧に、ありがとうございます﹂
そうして、ずいぶんと高い位置にある俺の顔を覗き込むように、
彼女はもう一度にっこりと笑顔を見せてくれた。
三度目の衝撃。
チャンピオンズリーグの決勝でPK合戦になった時にも感じなか
った、興奮。息切れ。目眩の症状に、俺は自分の頬が熱くなるのを
感じる。これは、もしや⋮⋮恋、なんだろうか。
できるならばこのまま、ずっとずっと彼女の姿を目に焼き付けて
いたい!
32
そんな風にじっと凝視している俺に、彼女は少しいぶかしげに眉
をひそめ、困ったように声をあげた。
﹁あのう、ええっと⋮⋮﹂
﹁オリヴァーです。オリヴァー・ロルフ・ビルケンシュトックです。
ドイツから来ました﹂
すかさず自分をアピール。ナイスパンチングだ、俺。
絶対絶対絶対絶対、彼女に自分を覚えてほしい!
その小鳥のような声で自分の名前を呼んでほしい!
﹁Sie﹂なんてすっとばし、﹁du﹂と話しかけられたって、
喜んでそれに応えよう!
﹁オリヴァー、さん?﹂
﹁オリーのフロインドゥ、オリーと呼びます﹂
そう俺が重ねて言えば、彼女は少し考えた後、大人びた微笑みを
こちらに向けた。俺も今度こそとびっきりの笑顔でそれに応える。
本国にいるときのように、この可憐な妖精にどうか怖がられてい
ませんように、との願いを込めて。満面の笑みで。
それが俺︱︱オリヴァー・ロルフ・ビルケンシュトックと、隣の
小妖精、鈴木麦子との運命の出逢いだった。
***
そもそも俺が本国ドイツから、遠く離れたここ日本にやってきた
のは、日常につきまとうわずらわしさから逃れるためだった。
33
長年人生の一部だったゴールキーパーという仕事を辞してから、
俺を追いかける記者たちときたら、やれいつ監督になるんだ、いつ
結婚するのかとこうるさい。
心底疲れていたそんな時に出会ったのが、かの有名な日本のアニ
メーション。
それは古き日本を舞台にした、心温まるファンタジー。二人の幼
い姉妹がふくろうのような森の妖精と心を通わせる物語。素晴らし
すぎる!
俺は泣いた。三日ほど泣いた。号泣だった。
話自体もそうだが、俺が特に心惹かれたのは森の妖精。その中で
も、あの小さい白いやつ。それがちょこまかと歩く姿は、俺のゴー
ルマウスを見事に突き刺さった。
こんななりをしていても、昔から小さく可愛らしいものが大好き
で、本当のプライベートな寝室にはこれでもか、というほどシュタ
イフ社製のティディベアが並べられている。もちろん、ひとりひと
りに名前まで付けて。
幸い俺は独り者だし、金にも困ってはいない。そこで急に思い立
つ。そうだ、日本、行こう!
そうして、取るものも取りあえず、俺は憧れの地日本へとやって
来たのだった︱︱。
﹃聞いてくれ、モトハシ。俺は昨日妖精に会った。いや、天使かも
しれない﹄
﹁スタッフー、医療スタッフー!﹂
開口一番俺がドイツ語でそう告げると、クラブチームで一緒だっ
たことのある元MFで現コーチのモトハシは、青ざめた顔でスタッ
フを呼んだ。
34
﹃なんだ、誰か怪我でもしたのか? この大事な時期に﹄
﹃うん、なんか確実にひとり、痛いこと言ってる人がいるよね。俺
の目の前に﹄
季節は冬だというのに、なぜか額から汗を流しながら、モトハシ
はわけのわからないことを口にする。思わずしかめっ面になった俺
を見て、呼ばれて出てきたスタッフは一瞬にして回れ右。そのまま
スタッフルームへと戻っていった。
怖がられるのには慣れているが、さすがにちょっと寂しい。
あからさまにへこんだ俺を見て、モトハシは笑って肩を叩いた。
Kommt
Zeit,
kommt
Rat.﹂
﹃すぐ慣れるって。時が経てばわかることがあるって言うだろう?﹄
﹁Ja,
﹃そうそう、それ。せっかく日本語だって勉強したんだし、どんど
ん話しかけてみろって。特にキーパーたちなんか、おまえに憧れて
目ぇきらっきらさせてんだから。俺がお前を引っ張ってきた時なん
か、しばらく俺、神様扱いされたもんね﹄
にやっと彼独特のいたずら坊主のような笑顔に、俺もつられて笑
みをこぼす。
俺が今臨時コーチをしているこのクラブチームは、現在ドイツで
言うところのツヴァイテリーガに位置している。
現役時代、日本から移籍してきたモトハシと俺とは、彼が帰国し
て引退してからも交流が続き、今回来日するにあたって色々と世話
をしてもらったのだ。
その中のひとつに今の住居もあったが、そう考えるとモトハシは
俺と彼女の恋のキューピッドなのかもしれない。
ここはひとつ、モトハシの言うように日本語を使ってこの気持ち
を伝えてみようか。うむ、それがいい。
35
﹁モトハシサン、オリー、あなたを大切にしたい!﹂
俺が最大限の感謝の意を声高に叫ぶと、練習場で柔軟をしていた
選手やスタッフ一同が、一斉にこちらに顔を向けた。何か、見ては
いけないものでも見てしまったかのような彼らの表情に、モトハシ
は泣きそうな顔で叫ぶ。
﹁ちがああああうっ! 誤解だっ! 誤解すんなああああっ!﹂
感謝を受けて当然だというのに、謙遜をするモトハシは本当にい
い奴だ。
日本人とは本当にシャイな民族だなあ、と俺は微笑ましくそれを
見守るのだった。
36
妖精との出逢い︵後書き︶
オリー編、はじまりました。
彼の性格からして麦子の時とは違い、ちょっと固めな感じになるか
とは思いますが、しょっぱなから一目惚れしてましたw
まさかのドイツ版オトメンです。また、しばらくお付き合い頂ける
と嬉しいです。
37
キスとみかんとミソズッペ
初めて彼女︱︱コムギにキスをしたのは、近所のスーパーのヴル
ストコーナー前だった。
﹃ずっと、俺のそばにいてくれ⋮⋮﹄
そうささやいて、この胸の中に抱き締めた彼女の身体は予想以上
に小さく細く、そして今まで感じたことのないくらい柔らかかった。
強く強くそれを感じたいような、壊してしまいそうで怖いような、
相反する幸福感に俺の頭はどうにかなってしまう。
サッカーで鍛えた理性を総動員しようやく身体を離した俺が、そ
っとコムギの顔を覗き込むと、彼女は可愛らしく赤く染まった顔で
こちらを見上げた。
少し、非難するようなその瞳は、しかし俺のなけなしの理性をぶ
ちやぶる破壊力を持っていた。苦しかったせいか、大きな黒い瞳が
うるんで。
そして俺は、思わずその薄紅色の唇に自分のそれを重ねていた。
信じられないほどの甘い、甘い感触。一瞬だけのその触れあいに、
暴走しそうになる自分自身を抑え付けるにひどく苦労する。
ここは人前だ。人前なんだ。押し倒すわけにはいかない。⋮⋮多
分。
何か他のことを考えろ、考えるんだ、オリヴァー。そう、ローマ
教皇だ。教皇の顔を思い出せ!
﹁おっ、オリー? 大丈夫?﹂
38
一瞬にして赤から青へと変わった俺の顔色に、恥ずかしそうに辺
りを気にしていたコムギが慌てて手を伸ばしてくる。
さすがは教皇。想像以上の破壊力をもって、俺の中の悪魔を追い
払ってくださった。気分は⋮⋮あまりよくないが。
しかし、小さなコムギの手のひらが心配そうにお腹をさすってく
liebe
dich
immer
und
れるのは、嬉しい。もしかして、これが試練を乗り越えた俺への恩
恵か!
﹁コムギ、Ich
ewig.﹂
永遠に君を愛する、なんてまさか自分が誰かに告げることになろ
うとは、今の今まで想像もしていなかった。
むしろ、そんな風に愛に夢中になっている奴らを、﹁イタリア人
でもあるまいし﹂などと冷ややかに見たこともあった。そんな自分
が、今や目の前の妖精に夢中。
その言葉に、コムギは仕方ないとでもいうような優しい目をして、
ぽんぽんと俺の腕を叩いて頷いた。
﹁わかったってば。もう、早く買い物しないと遅くなっちゃうよ?﹂
﹁Ja!﹂
当然のように指しだした俺の手に、少し戸惑ったようなコムギは、
それでもそうっとその手を重ねてくれた。潰さないように、傷つけ
ないように、小鳥を包み込むような繊細さをもってその手を握る。
その時俺は確信したのだ。絶対に、彼女と結婚するんだ、と。
***
39
﹃ということで、日本式プロポーズの言葉を教えてくれ﹄
﹁またパンチングでゴール狙うようなことを⋮⋮﹂
本屋でそれらしい本を買い込んだはいいが、自分が日本語は話せ
ても読み書きがまだ完璧ではない、ということをすっかり忘れてい
た。
そう言って、すべての本をどさっとモトハシの目の前に置く。す
ると彼は頭を抱えて机に突っ伏してしまった。既婚者である彼が頼
りなのに。
ドイツであれば同棲したままの事実婚でもいいだろうが、ここは
日本、そうもいかない。特に、コムギに対して俺はいい加減なこと
はしたくないのだ。
将来をしっかりと約束する前に手を出せば、あの優しい両親が心
配するだろう。正直、このままでは俺の理性が保たない。
﹃⋮⋮婚約して、彼女に早く手を出したい﹄
﹃いやいや、その本音は隠しとけよ!﹄
ぼそりと俺が呟けば、机から勢いよく顔を上げたモトハシが叫ぶ。
そうして再び頭を抱えると、何かを思いついたのか、ばしりと机を
叩いて立ち上がった。
﹁こういう時こそ、うちの選手たちだろう!﹂
﹁センシュ⋮⋮シュピーラァ?﹂
﹁そう、シュピーラァ。その彼女と歳が近い奴らに助言してもらっ
たほうがいいって。ラートだよ、ラート。そうすりゃ懇親にもなる
しなっ﹂
﹁Rat⋮⋮﹂
40
なるほど、そう言えば主力選手はみなコムギと歳が近い。意外と
参考になるかもしれないな。さすがだ、モトハシ!
﹁ダンケシェーン、モトハシ!﹂
﹁ぐわあっ﹂
感謝を伝えるべく、俺は目の前のモトハシを強く強く抱き締める。
何から何まで、本当にしてもしたりないくらいだ。
腕の中で照れて暴れるモトハシの身体をいったん離し、その頬を
両手で挟み込む。そして、俺はドイツ人はあまりしないキスという
やり方で、最大限の感謝を示した。
右に、左に、もう一度右に、とその時。
がちゃっとミーティングルームのドアが開き、事務の女性が顔を
覗かせた。彼女は俺たち二人を見て瞬間的に固まると、そのままそ
っとドアを閉めて出て行ってしまう。
﹃なぜだ、ササキサンが戻ってしまった。俺かお前に用事ではなか
ったのか?﹄
﹁うわあああああああ!!﹂
俺がモトハシにそう告げると、彼はなぜか叫び声を上げ、出てい
ったササキサンを追いかけて行ってしまう。現役時代と変わらず熱
いな、モトハシ!
日本人は本当に仕事熱心だ、と俺は感心してそれを見送ったのだ
った。
41
そんなことがあってから、数日後。待ちに待ったチャンスが俺の
前にやってきた。
コムギのムッティに﹁田舎からみかんが届いたの、食べに来て来
て!﹂との誘いを受けたのだ。神は俺を見守ってくださっている!
俺は多少よそ行きの服に身を包むと、いそいそと隣の家のチャイ
ムを鳴らした。
少し間があって開けられたドアから顔を覗かせたのは、毎日でも
見ていたいほど愛しいコムギだった。ああ、今日もあの日本アニメ
の妖精のように、可愛らしい⋮⋮。
﹁あ、オリー、早かったねえ﹂
﹁グーテンアーベントゥ、コムギ!﹂
﹁こんばんは、かなあ?﹂
﹁Ja!﹂
聞き取れたドイツ語に喜ぶ顔にすかさずキスを贈ると、コムギは
手にしていた調理器具で俺の頭を軽く叩いた。照れる姿も初々しく、
たまらない。
こちらを睨み付ける彼女は、まるでコアリクイの威嚇姿にも匹敵
する可愛らしさだ。
﹁もう、油断も隙もないなあ。早く入って! おみそ汁火にかけた
ままなんだから!﹂
﹁ミソズッペ?﹂
ぱたぱたとキッチンにむかって駆けていく小さな背を追って、俺
も今や自分の家並みに慣れてしまった廊下を抜ける。キッチンから
続くダイニングに入ると、ミソ独特の匂いが鼻に届いた。
なんだろうか、この幸福感。この場所こそが人類の追い求めてき
た楽園なんではないだろうか。そんな感激にひたりつつ、俺はこち
42
らに背をむけて立つ彼女の背に近づいた。
﹁今日はコムギ、食事つくるですか?﹂
﹁みそ汁だけね。お母さん、ご近所にみかんのおすそわけ行ってる
けど、もうすぐ帰ってくるよ。あ、そこのお椀取ってくれる? 三
つね。お父さん、今日も残業だから﹂
真剣な表情で鍋を見つめるコムギが、こちらを見ずに指示を出す。
これは⋮⋮なんだかとても、新婚ぽい!
俺は言われたとおり、食器棚から三つ分の木でできたお椀を出す。
そうか、コムギのファータァは帰っていないのか。できれば家族が
全員揃ったところでプロポーズしたかったのだが、仕方がない。
﹁オリー、みそ汁よそうから、悪いけどあっちのテーブルに持って
いってくれない?﹂
﹁かしこまった!﹂
大まじめに頷いてみせた俺に、コムギはなぜか爆笑しながらお椀
を渡す。﹁熱いから気を付けてね﹂という言葉だけで、天にも昇る
心地だ。
結婚すれば、これが毎日⋮⋮そう思うと、自然と気合いが入る。
それに、昼間若い選手たちから教えてもらったプロポーズの中に、
確かミソズッペに関するものもあったはず。
よし、それでいこう!
決意を新たに、テーブルにミソズッペを並べ終えると、俺はいそ
いそと再びコムギのもとへとむかった。
43
コムギのムッタァが帰ってきたところで、俺たちはダイニングで
の食事を開始した。
コムギの手料理、コムギの手料理、コムギの手料理。しかも、初
めて味わうのだから、感激も深まる。
﹁オリー、みそ汁の味、大丈夫?﹂
一口一口大事に味わっている俺を見て、みそ汁が苦手だと誤解し
たのか、心配そうにコムギが訊いてくる。
ああ、もうだめだ。コムギのことが愛おしすぎて、我慢できない!
俺はお椀と箸を置き、目の前に座る彼女の目をしっかりと見つめ
る。緊張のため、顔が引きつっているのがわかるが、仕方がない。
そんな俺の態度に何かを感じたのか、コムギとコムギのムッタァ
も箸を置いて俺を見つめ返してくる。こんな緊張感は、W杯決勝で
も味わえないだろう。
﹁コムギ、オリーは大切な話をします﹂
そう前置きをすると、コムギはかすかに首を傾げながらこくりと
頷く。
こうなればもう、後には引けない。俺は昼間、チームの第一GK
であるイリエに聞いたセリフを、必死に頭に思い浮かべた。
彼曰く、日本で最もポピュラーなプロポーズの言葉らしい。
それさえ言えば絶対に伝わる!と、モトハシも自信を持って後押
しをしてくれた。もしもそれで駄目だったらと、第二案まで考えて
くれたキーパーチームにも感謝。しかし、緊張でそのふたつのセリ
フを正確に思い出すことができない。
まあ、あとは勢いでなんとか伝わるだろう! 大切なのは気持ち
だ!
ごくり、と生唾を飲み、俺は覚悟を決めてその言葉をコムギに放
44
った。
﹁毎日みそ汁で、オリーのパンツを洗ってほしい!﹂
﹁無理です!﹂
一世一代のプロポーズは、その日、なぜか失敗に終わった。
やはり日本語は難しい。機会を見てまた明日、今度はドイツ語で
頑張ろうと、俺は決意を新たにしたのだった︱︱。
45
独日友好条約!
﹁オリーとライオンジャー、どっちが素敵ですか? どっちを愛し
ていますか?﹂
俺の軽い嫉妬に、情熱的な抱擁で答えてくれたコムギ。その柔ら
かい感触に、俺の理性は一瞬にして吹き飛んだ。コムギが、照れ屋
のコムギが、自分から、俺に!
気がついたら俺は思いきりその細い身体を抱き締めていた。恥ず
かしさに逃れようとするそのささやかな抵抗が、なお俺の欲望を煽
っていく。
﹃コムギ、俺の妻になってくれないか!?﹄
顔を真っ赤に染め、俺の腕の中でなおも恥ずかしがるコムギに、
昨日言えなかったその言葉をささやく。やはり、母国語で話すのが
一番伝わる気がするな。
俺のその懇願に、彼女は何度も何度も頷くと、くたりと力を抜い
てこちらに身を預けてきた。心なしか上がっている吐息が、妙に色
っぽい。
ああ、早く。早くこの奇蹟を俺だけのものにしてしまいたい!
コムギの了承は得られたのだから、あとはファータァとムッタァ
Länder,
andere
Sitten.
に報告をして、それから日本ではどういう順序を踏むのかを教わら
ないとな。
﹁Andere
﹂、郷に入らば、郷に従えとはよく言ったものだ。
46
おそ
﹁おはよう、オリーちゃん。朝食食べていくわよね?﹂
﹁モルゲン! ムッタァ、恐れます!﹂
ひとときの熱い抱擁の後、照れたのか荒い息をしてぐったりとし
てしまったコムギを残し、俺は一足先にキッチンへと足を運んだ。
もちろん、朝食を用意してくれているムッタァに、機を見て婚約
の相談をするためだ。
やはり、これに関しては女親のほうがいいのだろう。
てきぱきとチーズオムレツやコーンスープなどを並べていくムッ
タァを、それとなく手伝う。といっても、俺ができることといえば、
出来たての料理をダイニングに並べていくくらいだが。
﹁オリーちゃんのところでは、朝はどんなものを食べるのかしら﹂
﹁ドイチュでは、朝と夜は冷たいです。温かいは、お昼。お腹空い
た時、午前中にちょっと食べるますよ﹂
﹁あらあ。じゃあ、こういうのは嫌い?﹂
ほかほかと美味しそうな湯気をたてるオムレツを指さし、ムッタ
ァは眉尻を下げる。それを見た俺は、慌てて首を振った。
﹁ムッタァの料理、レッカー! おいしい!﹂
﹁そう? ならよかったわあ。これが鈴木家のスタイルなの。だか
ら、麦子と結婚したらこういう朝食になると思うのよねえ﹂
にっこりと、俺を見上げてコムギによく似た笑顔を見せたムッタ
ァは、ちらりと居間のほうを見ながらひそひそと続ける。
﹁麦子の指のサイズは、七号よ!﹂
﹁ムッタァ⋮⋮!﹂
47
﹁日本では婚約指輪を贈るのが、そこそこポピュラーなやり方なの。
オリー、頑張るのよっ﹂
何も言わずとも理解してくれているムッタァに、俺は感激のあま
り少しだけ涙ぐんでしまった。これで、ムッタァの了解はとれたも
同然!
ファータァにはおいおい挨拶に来るとして、まずは指輪だな!
そう決意を新たにした俺は朝食をとってから家に帰ると、そのま
ま即行宝石店へと駆け込むこととなった。
***
﹁で、さっそく指輪を注文してきたって、そういうことか?﹂
﹁です!﹂
俺のプロポーズ大作戦に協力してくれたお礼に、キーパーたちに
はみっちりとしたトレーニングを、モトハシには居酒屋での食事を
贈る。
今日のトレーニングにイリエたちは、途中から涙を流して喜んで
くれていた。指導する俺も、とても嬉しい。明日からずっとこんな
感じでいこうかと思っていたら、モトハシに慌てて止められてしま
ったのだが、なんでだろう?
俺は頼んだビールピッチャーを傾けながら、それをなぜか唖然と
した表情で見守るモトハシに頷いてみせた。
﹃すぐにでも欲しかったんだが、こういうのは焦っても良いことは
ないからな。せっかくなので、俺とコムギが会った日付も一緒に彫
ってもらうことにした﹄
48
﹃ああ、うん。おまえから
焦っても仕方ない
みたいな言葉が聞
けるとは思わなかったんだけどその前にちょっといいか﹄
モトハシの真剣な顔に、俺も手にしていたピッチャーをテーブル
の上に置いて向き直る。もしかしたら、婚約指輪についてなにか助
言があるのだろうか。
まさか、日本では指輪は一緒に選ばなければならなかったのか!?
だったら、もうひとつ購入することも検討しよう。いや、むしろ
何個でもコムギと一緒に指輪を選んでみたい。
彼女の喜ぶ顔を想像して笑顔を浮かべる俺に、モトハシは呆れた
ように口を開いた。
﹃オリー、悪いんだけどビールのピッチャーってのは、ひとり分じ
ゃないんだぜ?﹄
﹃何を馬鹿なことを。モトハシ、このピッチャーというのはどこか
らどう見ても、ひとり分だ。日本ではひとりワンピッチャーだろう
? 安心しろ、もうひとつちゃんと頼んである﹄
﹃ものすごく遠慮したい、その飲み方!﹄
まったくモトハシは⋮⋮というか、日本人というものは慎み深い
人たちだ。こちらの奢りなのだから、遠慮せずともいいんだが。
タイミングよく店員が持ってきたピッチャーを受け取り、俺はモ
トハシを安心させるように微笑んだ。
﹃俺とお前の仲だ。遠慮はするな﹄
﹁命の危険を感じる仲だな⋮⋮﹂
ぼそりと日本語で何かを呟くと、モトハシは急にテンションを上
げてピッチャー同士をごつんとぶつけた。
49
﹃もういいっ、とにかくオリー、おめでとう!﹄
﹃ありがとうモトハシ!﹄
そのまま一気に半分ほどあけてしまう。これぞ、男同士の語り合
いに必要なもの。
最初、日本のビールはなぜこんなに冷えているのだろうかと不満
だったが、今やこの冷たさが逆にいい。
頼んだヴルストやエダマメをつまみながら、ピッチャー三杯目に
なった辺り。とろんとした目のモトハシは、なんだか楽しそうに左
右に揺れながら、ばしっと目の前の机を叩いた。
﹁オリー、とにかくなあ、しーずーかーにぃなんだぞおっ﹂
﹁しーずーかーにぃ?﹂
﹁そうだっ。相手はぁ、一般人なんだからなっ。あんまし騒がしく
しちゃあ駄目だ! できるだけスマートに、静かに事を運ぶのが鉄
則だっ!﹂
確かに、一理ある。
コムギはそんなに騒がしいことが好きではないみたいだし、ここ
はモトハシの言うように﹃静かに﹄行動したほうがいいのだろう。
静かに
行動しますよ!﹂
さすがモトハシ。いい助言だ!
﹁モトハシ、オリー、
﹁それでよしっ﹂
再びプローストと声を上げ、俺たち二人はピッチャーを空にする。
そしてその後、なぜかたったのピッチャー四杯でふらふらになっ
たモトハシを、俺が家まで送っていくこととなった。あれだけで酔
ってしまうとは、モトハシはよっぽど疲れていたに違いない。
それでも俺のために時間を作ってくれた彼に感謝して、俺は飲み
50
足りなさにもう一軒、居酒屋へと足を向けた。
そしてそれからひと月後。指輪を受け取った俺は、静かに行動を
開始した。
コムギのムッタァから聞いた住所を便りに、彼女の勤める会社に
向かう。途中、やはりこれは外せないだろうと、花屋で真っ赤な薔
薇の花束を購入し、俺はひたすら静かにひと言も話さずに、その扉
を開けた。
﹁いらっしゃいま、せ⋮⋮!?﹂
受付カウンターのような席についていたコムギが、入ってきた俺
の姿を目にとめて言葉を失う。
この日のために新調したスーツだったが、気に入らなかったのだ
ろうか。俺は密かにそんなことを心配しつつ、けれどここまで来て
逃げることは許されないと決意を新たに彼女へと歩み寄った。
コムギが立ち尽くしているのを見て、隣に座っていた同僚らしき
女性もこちらに向き直り、そしてそのままあんぐりと口を開けて固
まる。同じように、そのフロアにいるすべての人々が俺に注目して
いた。
俺はそれにかまわず、足音すら立てないよう、静かに静かに彼女
に近づく。そして、あと数歩のところで立ち止まると、おもむろに
静
片膝をつき、指輪の入った箱を開け花束とともに、コムギに差し出
した。
言葉はなくとも、俺の気持ちはきっと彼女に伝わる!
コムギに求婚したのだった︱︱。
そう信じて、俺はモトハシの助言通り、ただひたすら無言で
かに
51
52
プロポーズ大作戦 1
君に夢中なんだ。
そうささやくと、腕の囲いから手を伸ばしたコムギが真っ赤な顔
で、ぎゅっと俺の頬をつねり上げた。
ひどく甘いその痛みに、自分の顔がとんでもなく緩んでいくのが
わかる。彼女はなぜこんなに可愛らしいんだろうか。そんな気持ち
を抑えきれずに、もう一度唇を寄せた俺に、コムギはゆっくりと目
を閉じた。
ハレルヤ!
あの時、絶対に彼女は俺を好いてくれていると思っていた。
だがしかし、モトハシの助言通りプロポーズをした俺に、コムギ
は﹁絶交﹂を言い渡した。
ぽかんとしている彼女の右手に指輪をはめる俺に、その場にいた
誰もが惜しみない祝福を贈ってくれたというのに。
きっと、突然のことだったからだろう。最初、俺の行動に真っ赤
になったコムギは、次に周りのその反応を見て、今度はその顔を真
っ青に変えた。そして、心配してその頭を撫でる俺の手を振り払い
早口で何かをまくし立てると、さっさと俺を会社から追い払った。
やはり、静かすぎたのだろうか。帰り道、さきぼとの彼女の言葉
を思い返して、自主反省会。
それとも、持っていった指輪が気に入らなかった? 薔薇の本数
53
が足りなかったとか?
なぜかはわからないが、何となくまた失敗してしまったことだけ
を理解した俺は、そのままひとり寂しく家へと帰ったのだった。コ
ムギの家へと。
﹁あらあ、どうしたのオリーちゃん。しょんぼりして﹂
﹁ムッタァ⋮⋮﹂
﹁入って入って。今日はいいホッケが手に入ったのよ!﹂
にこにこしながらそう促すムッティに逆らわず、俺はうなだれた
まま家の中へとお邪魔した。もうすでに、ここは第二のマイホーム
である。
早くに両親を失った俺にとって、コムギのムッタァやこの家は、
夢に描いた温かい家庭の姿だった。
﹁はい、ココア。外は寒かったでしょう?﹂
そう言って手渡されたカップの温もりに、俺の涙腺はみるみるう
ちに崩壊した。
ココアを手にしてしくしくと泣く俺は、端から見たら情けないこ
とこの上なかっただろう。この姿をかつてのチームメイトが見たら、
神に祈りを捧げるかもしれない。世界に終わりが来ないようにと。
しかしムッタァはただ優しく俺の頭を撫でてくれた。
﹁ムッタァ、オリー、コムギに駄目って言われたです﹂
﹁いやねえ、あの子ったら。照れてるのよ、それは。昔からちょっ
と意地っ張りなのよね、麦子ってば﹂
ぽんぽんと自信をなくして丸まった俺の背を、宥めるようにムッ
ティが叩く。そうして、手にしたままのココアを﹁冷めちゃうわよ﹂
54
と勧めてくれた。
それに逆らわず一口飲めば、悲しい心の中に染みるように穏やか
な甘さが広がる。少し、気持ちが落ち着いたのが自分でもわかった。
そんな気持ちが伝わったのか、ムッタァはにっこりと笑う。
﹁大丈夫よ、オリーちゃん。麦子だって今頃言い過ぎたなあ、なん
て落ち込んでる頃だから。一所懸命ちゃんと説明すれば、気持ちだ
って伝わるわ。オリーちゃんが諦めないかぎり、ねっ﹂
﹁Ja、ダンケシェーン、ムッタァ﹂
ようやく顔を上げムッタァを見て笑顔をになった時、玄関から恋
い焦がれてやまないコムギの帰宅を告げる声が聞こえてきた。
俺は慌ててカップをダイニングテーブルに置くと、ムッタァに大
きく頷いて見せ、急いでコムギのところへとむかう。そうだ、もう
一度だけでもきちんと話そう。
俺がどんなにコムギを愛おしいと思っているのか、そばにいてほ
しいと思っているのか、それだけでも伝えたいんだ。
﹁コムギ!﹂
﹁どわあっ、おっ、オリー!?﹂
ひどく疲れたようなコムギの姿にたまらずぎゅっと抱きつけば、
彼女は拒絶するでもなくそれを受け入れてくれた。
むしろ、恐る恐るではあるが俺の腰に手を回し、優しい手つきで
さすってくれる。
その彼女の行動に俺は嬉しくなって、少し身をかがめると頬をコ
ムギの頭へと擦りつけた。
﹁痛い痛い痛いっ、痛いってば、オリー!﹂
﹁コムギ、オリーは話がしたいです!﹂
55
﹁わかった、わかったから、ちょっと離れてっ。首がもげるって!﹂
ばしばしと背を叩くコムギに、俺は名残惜しくもゆっくりと身体
を離す。そしてコムギを見ると、彼女は頬を赤く染めたまま、二階
の自分の部屋を指さした。
﹁とにかく、私も今日のこととか訊きたいことあるし。私の部屋に
行こう﹂
﹁Ja!﹂
どこか怒ったように、ぶっきらぼうに告げられた言葉に俺は同意
して、階段を上がるコムギのあとに続く。
コムギの部屋⋮⋮それは、この前初めて深い深いキスをした思い
出の場所でもある。どうか、最後まで理性が保ちますように、と気
合いを入れて俺は神に祈った。
部屋に入るとコムギは鞄を降ろし、小さな丸いテーブル近くへと
腰を下ろす。﹁座って﹂と俺も促され、大人しくコムギを抱えて座
ろうとして、叩かれた。
﹁そうじゃなくて! オリーはそっち! 私の前に座るの!﹂
﹁えー﹂
﹁えーじゃないっ!﹂
思わず不満の声を上げた俺に声を荒げたコムギは、それでも大人
しく指示に従った俺を見て、再び真面目な顔へと戻る。
腕を組んでこちらを睨む彼女は、可愛い。座っていても体格差に
よって、少しこちらを見上げるようになる黒い瞳が、俺の理性を試
しているかのようだ。頑張れ、俺。
﹁それで、どういうこと? これ、どういう意味?﹂
56
コムギがテーブルの上へと置いたのは、昼間俺が彼女に渡したエ
ンゲージリングの箱だった。多分、指輪はその中にそのまま入れら
れているんだろう。
身につけてもらえていないことに軽くショックを受けながら、俺
は気を取り直して彼女へと説明を始める。
俺はコムギの笑顔が欲しいのだ。ずっと傍にいて、笑っていて欲
しいのだ。
静かに
やりなさいって言った﹂
﹁オリー、コムギに楽しくしてもらいたい。だから、ダチに相談し
ました。ダチ、オリーに
ムッタァの言ったとおり俺は一所懸命コムギに説明するが、なぜ
か彼女の顔はだんだん曇っていく。どうしたことだろうか。
﹁静かにやるって、どういうこと?﹂
いつもと違って固く感じるその声に、俺は少し焦る。
どう言えば彼女はわかってくれるんだろう。できれば、ちゃんと
彼女の国の言葉で、日本語で伝えたい。
コムギに喜んでもらいたくて、サプライズのプロポーズをしたの
だと。サプライズ⋮⋮サプライズ⋮⋮これは日本語でなんて言うん
だ? ええと、確か⋮⋮。
﹁ドッキリです!﹂
そう、多分この単語で合っているはず。
そう自信満々に答えた俺に、コムギは見る見るうちに顔を強張ら
せた。なぜだ?
57
﹁ドッキリ、って⋮⋮﹂
﹁オリー、コムギ笑わせたい。だから、静かにこっそりドッキリし
ました。コムギ、楽しい? コムギ、笑える?﹂
俯いてしまったコムギの顔を覗き込むように、そう俺は言葉を重
ねる。
俺のこの気持ちはコムギに伝わったのだろうか。彼女の笑顔を、
答えを知りたくて近づいた俺に、コムギはがばっと顔を上げると突
然大きく腕を振りかぶって、そして。
﹁さいっていっ! 大っ嫌い! 出て行ってよ、オリーのばかあっ
!﹂
叩かれた頬の熱さに呆然とする俺を無理矢理部屋の外へと追いや
り、コムギは泣きながら部屋へと閉じこもってしまった。
俺はわけもわからず部屋の前に立ち尽くし、何度もコムギに声を
かける。
しかし返ってくるのは沈黙ばかりで、仕方なく、俺は張り裂けそ
うな胸を抱えてムッタァのもとへと戻った。
ムッタァは俺の顔を見て何かを理解し、心配いらないと言ってく
れたが、俺はその言葉に首を振ってコムギの家をあとにする。
嫌われてしまった、その事実だけがひどく重く俺の心にのしかか
っていた。
58
プロポーズ大作戦 2
︵さいっていっ! 大っ嫌い! 出て行ってよ、オリーのばかあっ
!︶
愛しいコムギにそう拒絶されてから二週間あまり。俺は彼女とま
ったく顔を合わせることはなかった。
なにしろコムギは徹底的に俺を避けていたし、俺は俺でリーグが
終盤戦ということで地味に忙しく、アウェイやなにやらも重なり、
なかなかまとまった時間がとれない。
それに加えて、断り切れなかった取材を受けていたりしたら、あ
っという間にそれだけの時間が経ってしまっていたのだ。
俺は焦る。
もうコムギは俺のことなんか忘れてしまったんじゃないのだろう
か。
もしかして、落ち込んだ彼女を誰か他の男が慰めていたりするん
じゃないだろうか。
そんなことばかりが頭の中をぐるぐると回り、ついに俺はお気に
入りのテディベアを抱いても眠れなくなってしまっていた。
﹃オリー、今日はいいから早く帰って休めって﹄
目の下に隈をつくった俺にモトハシが声をかける。
俺が黙って首を振るとその背後から、いつかのスタッフがひょっ
こり顔を覗かせた。前に俺を怖がっていたその女性は、緊張したよ
59
うな面持ちでこちらになにかを差し出した。
そして意を決したように口を開く。
﹁あのっ、お疲れだって聞いて⋮⋮その、この栄養ドリンクけっこ
う効くんです!﹂
見ればその手に握られていたのは、金色のラベルの栄養剤。
言い切って少し笑みを浮かべた彼女の手から、俺は驚きを隠せな
いままそれを受け取った。怖がられているとばかり思っていたんだ
が。
きょとんとしたその顔がよっぽど面白かったのか、モトハシが笑
いながら俺の肩を叩いた。
﹃だから言っただろう。時が経てばわかってもらえるって﹄
その言葉に、改めて目の前でこちらを見上げるスタッフを見る。
彼女は緊張していて、けれども俺と目が合うとにっこりと笑ってく
れた。
最初に会ったときには、こちらを見るのも怖がっていたのに。
ドリンクを受け取ったまま無言でいる俺の脇を、モトハシが肘で
つついた。ぱちり、と器用に片目をつむって見せ、俺に何かを促す。
そうか。
﹁ダンケシェーン! オリー、ちょう頑張りますよ!﹂
できるだけ優しそうに見えるように微笑むと、スタッフはとても
嬉しそうに笑顔を返してくれた。そして勢いよく頭を下げると、ス
タッフルームへと戻っていく。
その姿に俺は、ここしばらくのみんなのことを思い出した。
めっきり食欲の減退している俺を、ご飯を食べに行こうと誘って
60
くれたキーパーたち。来日してからの疲れが出てきたんじゃないか
と心配して、休みを調整してくれたフロント。いつも何かと声をか
けてくれるモトハシ。他の選手たちもみな、最近は覚え立てのドイ
ツ語で話しかけてくれていた。
そしてこの栄養剤。
不覚にも俺は泣き出しそうな心地になって、ぐっと奥歯を噛み締
めた。
そうだ。諦めなければ、伝えようと努力すれば、きっと気持ちは
伝わるんだ。
俺はコムギに対して自分を押しつけるばかりで、きちんと彼女の
気持ちを考えていただろうか。わかってほしいと言うばかりで、彼
女の言葉を訊こうとしただろうか。
﹃元気が戻ってきたみたいだな、オリー﹄
﹃モトハシ!﹄
﹃俺の知ってるビルケンシュトックは、一回の失敗くらいじゃ諦め
ない奴だったと思うけどなあ?﹄
いつもの彼の笑みに、俺は大きく頷いてみせる。
大事な試合でミスしたときもあったし、あと少しのところで力及
ばず優勝を逃したこともあった。けれど俺は絶対に諦めなかったか
ら、今こうしてここにいるんだ。
﹃ということではい、これチケット。ホーム最終戦のやつ。これ持
って会いに行ってこいよ﹄
﹁モトハシ⋮⋮! オリーはモトハシが大好きですよ!﹂
﹁なんでそういうとこだけ日本語になるんだあああっ﹂
叫ぶモトハシをぐっと抱き締め感謝の意を表すと、俺はありがた
くそれを受け取り、彼が勧めてくれたようにそのまま早めにグラウ
61
ンドをあとにした。
コムギにこの気持ちをわかってもらえるまで、コムギの気持ちを
聞かせてもらえるまで、絶対に踏ん張ってみようと心に誓って︱︱。
***
ところが、である。
コムギの帰宅を、彼女の家の前で︱︱今日はムッタァが留守であ
ったため︱︱待っていた俺の目に入ってきたのは、抱き合うように
して歩いてきた男女の姿。
薄暗い街灯の明かりに照れされたその顔は、間違いなく俺の愛す
るコムギ。そして、その身体に手を回して歩いてくるのは、俺の見
知らぬ男。
それを見た瞬間、体中の血液が沸騰したような、反対に凍り付い
たような。そんな強く複雑な想いが駆けめぐり、俺は無意識にその
二人に向かって駆け出していた。
﹁コムギ!﹂
ありったけの大声を出して近づくと、名を呼ばれたコムギよりも
先に、男のほうがびくりと肩を揺らしてこちらを見た。
一見すると真面目そうな若い男。そいつはなぜかぐったりとして
いるコムギの腰に手を回し、その身体を支えている。俺は威嚇する
ようにそいつを睨み付けた。
﹁コムギ、どうしたですか! あなたは悪いことをしてますか!﹂
﹁えっ、あの、俺⋮⋮﹂
﹁Scheisse!﹂
62
吐き捨てるようにそう言って、俺は強引に男からコムギの身体を
かっさらう。
その小さくて華奢な身体をそっと持ち上げると、俺は再び目の前
の男を射殺す勢いで睨んだ。男はその俺の顔をまじまじと見つめ、
それからなぜか満面の笑みを浮かべる。
﹁ビルケンシュトックさん!? オリヴァー・ビルケンシュトック
さんですよね!﹂
﹁⋮⋮Ja﹂
﹁すっごい! 本物! 俺、ドイツ代表のファンで、ビルケンさん
のことすっごい尊敬してました! チャンピオンズリーグのPKの
時とか、マジ神がかってて⋮⋮やっばい、俺本物に会っちゃったよ
!﹂
なんだか変な方向に行っている気がする。
男のあまりに無邪気な様子に、俺は入っていた肩の力が抜けてい
くのがわかった。どうやら、俺が考えていたようなことではないら
しい。
抱え上げられ、俺の胸に寄りかかったコムギが低く唸る。それに
気がついた男が、あっと声を上げて口を開いた。
﹁今日、会社で早めの忘年会だったんですけど、なんか鈴木さんす
っごくペース早くて、潰れちゃったんですよ。普段はこんなことな
いんですけど⋮⋮。それで俺が同じ方向だってことでここまで連れ
てきて⋮⋮あっ、変なこととか下心とかまったくないですから! 俺、ちゃんと彼女いるし!﹂
ころころと変わる表情に完全に毒気を抜かれた俺は、わかったと
いうように頷いてみせる。とりあえずこいつは悪い奴ではないらし
63
い。
﹁ダンケシェーン、あー⋮⋮﹂
﹁木村です!﹂
﹁ダンケ、キムラ。コムギ、オリーが持って帰ります﹂
ぺこりと日本風に頭を下げると、キムラはひどく恐縮してしまっ
た。そこでモトハシからもらったチケットが二枚あることを思いだ
した俺は、お礼にとそれを彼に渡す。すると、キムラは目をきらき
ら輝かせて喜び、﹁必ず彼女と見に行きますっ﹂と宣言し、来た道
を戻っていった。
サッカーを愛する人間に悪い奴はいない。
俺はひとつ大きく頷くと、気持ちよさそうに眠ったままのコムギ
を抱え直し、家へと歩みを進めた。まあ、とりあえず俺のうちに運
んで寝かしつけよう。
寝室のテディベアに囲まれ眠るコムギを想像し、俺はちょっとだ
け湧いた下心を神に懺悔した。
64
プロポーズ大作戦 3
すやすやと、俺のベットでティディベアに囲まれ眠るコムギ。
そのあまりの可愛らしさに焼き切れそうな理性をなんとか押しと
どめ、俺は﹁これくらいなら⋮⋮﹂とか思いつつ、携帯電話でその
寝顔を写したりした。ここまでなら、まだカードは黄色のはず。
そしてゆっくりと髪に手を滑らせ、そのなめらかな感触を楽しん
でいるうち、いつの間にかうとうとしてしまっていたらしい。
﹁オリー、オリーってば!﹂
ぺちぺちと小さな手に頬を叩かれ、俺は深い眠りの中から意識を
浮かび上がらせる。ゆっくりと目を開くと、目の前には天使。
ベットサイドの小さな明かりに照らされて、真っ直ぐな黒髪が濡
れたように光っている。それと同色の瞳は、どこか気まずそうに俺
を見つめ、小さな唇から俺の名前がこぼれた。
﹁オリー、起きて!﹂
﹁コムギ⋮⋮?﹂
ベットの隅にうつぶせになっている俺の頭に、コムギの華奢な指
がそっと触れた。あまり上等とはいえないだろうごわついた髪を、
さっき俺がそうしていたようにゆっくりとすいてくれる。
ここはなんていう天国なんだろうか。
俺がそんなことを考えながらまた瞳を閉じようとすると、その手
が頬をぎゅっとつまんだ。痛い。⋮⋮痛い?
65
そこでようやく、はっきりとした意識が戻る。
がばりと身を起こした俺は、今し方つねられた頬に手をあて、そ
れからベットの上にちょこんと座るコムギを見た。
﹁ようやく起きた! ずっと呼んでるのに、全然反応ないんだもん。
黙って帰るに帰れないし﹂
少し拗ねたような言い方に、俺は胸がぎゅっと掴まれたような感
覚を覚える。この目の前の可愛らしい人は、もう俺と目も合わせて
くれないんじゃないかと、そう絶望していたのに。
泣きそうになりながら恐る恐る伸ばした俺の手を、コムギは拒絶
することなくじっと見つめる。
そうっと触れた頬は、アルコールの余韻が残って少しだけ熱い。
目の下を親指で撫でれば、コムギはくすぐったそうに身をすくめた。
そして、両手でそっと俺のその手を包み込む。
﹁コムギ⋮⋮コムギ、ごめんなさい。ごめんなさい、だから聞いて
欲しい﹂
﹁オリー?﹂
頬から手を外し、包んでくれていたその手を改めて握り直して、
俺はもう一度自分の気持ちを伝えることから始める。
何回でも、何回でも。つたない日本語でも、わかってもらえるま
で。
﹁オリーは、コムギの笑顔が好き。天使みたい。コムギが笑うと、
オリーの胸がとってもあったかい。だから、オリーはずっとずっと
コムギに笑顔してほしい﹂
どこに恋したのか、なんで彼女だったのか。
66
一目惚れなんて本当に存在するのか⋮⋮そんなこと、本当にどう
でもいいくらいにコムギが好きだ。
この出逢いのために全部の運を使い果たしたんだって言われても、
ちっとも惜しくなんかない。むしろ、それ以上のものを、もうもら
った気分でいる。
俺の言葉に、戸惑ったように彼女の黒い瞳が揺れた。
﹁オリーの隣で、いてほしい。他の男性に笑うの、だめです。オリ
ーはコムギを独占したい。だから、指輪買いました。コムギ、指輪
嫌い? オリーのこと⋮⋮嫌い?﹂
﹁え⋮⋮﹂
一番訊きたくて、一番訊きたくなかったことを告げると、コムギ
は大きな瞳をさらに大きく見開いた。握っている手が、少し震える。
その右手の指のどこにも、俺が贈った指輪はつけられていない。
それがすべての答えのような気がして、俺は不覚にも泣きそうにな
ってしまった。コムギの手から片手を外し、慌てて顔を覆い隠す。
情けないことこの上ない。
そのままひどく落ち込んでいきそうになった俺の頬に、今度はコ
ムギの手が触れた。ちょっと髭がそり残されたそこを、小さな手が
撫でていく。
俺がびっくりして覆っていた手を外すと、真剣にこちらを見つめ
るコムギの瞳に囚われた。
﹁ねえ、ドッキリってどういう意味なの?﹂
問われた言葉の真意がわからず、俺は軽く首を傾げた。すると、
むにっと再び頬をつままれる。少し痛いけど、嬉しい。
思わず緩んだ顔を見て、コムギは機嫌を損ねたように眉を寄せた。
67
﹁真剣に訊いてるのっ! 大事なことなんだからね!﹂
﹁Aua! 痛いですよ、コムギ!﹂
その声に限界まで引っ張られた頬をぱっと離して、コムギは不機
嫌な表情のままで俺を睨む。腕組みをして、怒っているんだぞとい
うアピールをするコムギは、やっぱり可愛い。
今、携帯を取りだしたら⋮⋮駄目だろうな、やはり。
俺はじんじんする頬をさすりながら、さっきのコムギの問いに口
を開いた。
﹁ドッキリは、コムギをびっくりさせる。びっくりするのは、喜ぶ
ですね。オリーの日本語、間違ってますか? サプライズ、ドッキ
リ言わない?﹂
﹁サプライズ⋮⋮のことだったの?﹂
﹁Ja﹂
逆に問い返されて頷けば、なぜかコムギは後ろに向かって倒れ込
んでしまう。
まさか気分でも悪くなったのだろうか、とびっくりしてベットに
上りその顔を覗き込めば、コムギは瞳を涙で潤ませていた。
泣いてる! 俺のせいか!? そんなにプロポーズが嫌だったの
か?
軽くパニックになる俺に気がつかず、コムギはぽろぽろと涙を流
しながら俺を見る。
﹁馬鹿オリー! そんなの、ドッキリって言わないよっ﹂
﹁コムギ、ごめんなさい。コムギ、怒った? オリーのこと嫌い?﹂
﹁違うの!﹂
仰向けになっていたコムギががばりと起きあがり、覗き込むよう
68
にしていた俺の首に強く強く抱きついた。
突然の柔らかな感触に戸惑いつつ、それでも俺はその身体を壊さ
ないようにそっと抱き締め返す。これは⋮⋮どういうことだろうか。
肩に寄せられた頬から涙が流れていくのがわかって、俺はとりあ
えず宥めるようにその薄い背中を優しく撫でる。
すると、耳元で涙に濡れたコムギの声が聞こえてきた。
﹁ドッキリっていうのは、いたずらってことだよ、オリー。私ね、
オリーにからかわれたんだって思ったから怒ったの。プロポーズさ
れたと思ったのに、それがいたずらなんだよって言われたから、す
ごく悲しかったの﹂
﹁コムギ⋮⋮違いますよ、コムギ。オリーはいたずらしてないよ!
オリーはコムギにプロポーズしましたよ、本当のことですよ!﹂
﹁うん⋮⋮﹂
うち明けられた言葉にびっくりして、俺はコムギの顔を見ようと
その身体をゆっくり離す。
覗き込んだコムギの顔は涙に濡れて、けれど何だかとても嬉しそ
うに微笑んでいた。それは、俺が一番見たかった彼女の微笑み。
本物の、俺の天使。俺だけの。
何だかとても眩しく感じられて、俺は少し目を伏せ、そして吸い
寄せられるようにその唇に自分のそれを近付ける。コムギは頬を染
め、拒絶することなく俺を受け入れてくれた。
最初は軽く重ね、それから舌で可愛らしい下唇を舐めてやると、
コムギはくすぐったそうに身をよじる。それがまたたまらなく愛お
しくて、唇で唇を挟みこみ、その先を促した。
恥じらうように薄く開けられたそこに、深く、深く俺が入り込む。
直接的な感触を甘いと感じるのは、俺の頭がもういかれてしまっ
ているからだろうか。
それでもこの腕に彼女がいて、こうして口付けができるのなら、
69
もうそれでいい。
それ以上いけばもう戻れない、というぎりぎりのところで俺はな
んとか踏みとどまり、コムギから唇を離した。
ひどく名残惜しくて、そのまま鼻や目元に口付けると、彼女はう
っとりとした吐息を漏らす。俺の我慢は限界だったが、でもまだ肝
心なことを彼女に訊いていない。
この先は、それからでも遅くはない!
﹁コムギ、オリーと結婚してくれますか?﹂
両手で小さな小さな顔を包み込み、そう真面目に問えば、コムギ
はその手に手を重ねにっこりと美しい笑みを俺にくれる。
軽く頷いて、さっきとは違う感情のこもった涙を流して。
﹁仕方がないから、オリーのパンツ、毎日みそ汁で洗ってあげるよ
!﹂
その言葉に、俺は比喩ではなく本当に天にも昇る気持ちでコムギ
を抱き締めた。世界で一番の幸せを手にしたのは自分だと、今なら
どこへ向かっても恥ずかしくなく宣言できる。
そうして俺はコムギと一緒に寝転がる。ここがベットの上だなん
て、最高の奇蹟だ!
俺はコムギの額に軽くキスをすると手を伸ばし、ベットサイドの
明かりを落とした。
明日の朝、この天使を腕に抱いて目が覚ますことできるそのこと
を、神に感謝しながら︱︱。
70
プロポーズ大作戦 3︵後書き︶
オリー編、これにて完結です。ありがとうございました。
この後、ちょっと時間をおくかもしれませんが、番外編を書いてみ
たいと思います。
71
ゴールキーパーはテディベアの夢を見るか? ︽オリーと麦子︾
︵前書き︶
直接的な表現はありませんが、事後の雰囲気があります。
苦手な方はご注意下さい。
72
ゴールキーパーはテディベアの夢を見るか? ︽オリーと麦子︾
︵コムギーっ! コムギコムギコムギーっ!︶
真っ暗闇の中、私はなぜか巨大なテディベアに追いかけられてい
た。
真っ黒なビーズの瞳にふかふかの茶色い身体。丸く可愛らしい耳
をぴこぴこと動かしながら、水兵さんスタイルのそのクマは嬉しそ
うに私の名を呼び走ってくる。しかも、顔に似合わず野太い声で。
当然、私は全力疾走で逃げまくる。じょ、冗談じゃない!
いくら相手が見るからに柔らかそうな、可愛らしいぬいぐるみで
あっても、自分の十倍もありそうなものがどすどすと走ってくれば、
逃げる。
︵コムギーっ、大好きですよ、コムギーっ︶
︵ぎゃああああ、来ないでええええっ︶
くりんくりんの毛に包まれた丸い手がこちらに伸ばされ、抵抗虚
しく私はその巨大テディベアに、呆気なく捕獲されてしまった。そ
のままぎゅうぎゅうと抱き締められる。
よっぽどいい素材なのか肌触りはよく、押しつけられる丸いお腹
もちょうどよい弾力。これが普通サイズで家にいたなら、私も素直
に愛でられただろう。
けれど。
︵コムギ!︶
73
体毛が鼻に入ってこそばゆいとか、もう、そういう問題じゃない。
息もつけぬほどの強い抱擁に、私は命の危険を感じ、必死に手足
を動かしてそこから抜け出そうと試みる。が、そんな私を逃がすま
liebe
Dich!!︶
いと、そのテディベアはさらに腕に力を込めてきた。
︵Ich
くくくくく、苦しいぃいいいいいいいっ!
このままでは死ぬ、と遠のく意識の中でそう思った瞬間、私はぱ
ちりと夢から目を醒ました。
目の前には見慣れない部屋の壁。控えめな青色で塗られたそこに、
うっすらとした光があたって、まるで海の中にいるような錯覚を覚
える。
ここはどこだっけ、と思う前に、先ほどまで見ていたのが夢だと
わかり、ほっと息を吐いた。⋮⋮いや、つこうとして、ひどく胸が
苦しいのに気がつく。
何かが私のお腹に巻き付いて、そこを締め上げている。く、苦し
いっ。
あんな夢を見た原因はこれかと、とにかくそれを取り外そうとし
て⋮⋮。
それは人間の腕。
光が当たって輝く薄い色の毛に包まれた、男の人の。
私の倍はありそうな、がっちりとした筋肉質の、腕。
オリーの。
そこまで確認すると、それに釣られるように甦ってきた昨夜の記
憶に、私は声にならない悲鳴を上げてしまった。意味もなくじたば
たと暴れてみる。
74
その動きに、腕の持ち主であるオリーが、私の背後でもそもそと
動く気配がした。背中側があったかいと思ったら、彼は私を抱きか
かえるようにして眠っているらしい。
大きな大きな体温に包まれた私は、まるでぬいぐるみにでもなっ
たよう。
ぬくぬくで、少し気だるくて、胸を占める安心感に私はため息を
つく。そして何だか薄れていく意識に、これが幸せってやつなのか
なあ、と思い始め︱︱再び覚醒。
いやいやいや、違う違う。これ、酸欠だから! 惑うことなく酸
欠だから!
﹁オリーっ! ねえ、ちょっとオリー!﹂
べしべしと唯一自由になる手で、腹に回ったオリーの腕を叩く。
すると、背後の身体がまたかすかに動いて、冬眠明けのクマのよ
うな唸り声が聞こえた。耳元で低く掠れたその声に、自分の中のど
こかが不快でない震えを覚える。
ち、違う! そんなうっとりしてる場合じゃない! 命危険!
﹁起きてってば、オリー! 苦しいんだってばあっ!﹂
遠慮容赦なく後ろに向かって入れた肘が少しは効いたのか、よう
やく腹を締め上げていた腕がゆるまった。そこでようやく深呼吸。
真面目にちょっと花畑を見た。あ、危ない⋮⋮。
いまだ抱きかかえられたまま、それでも少しは自由になった私は、
改めて部屋の中を見渡した。
もうすでに日は高いところまで昇っているらしい。小さく灯った
ベット脇のスタンドより、薄く引かれていたカーテンから入ってく
る光のほうが、強く部屋の中を照らしていた。
目が覚めて初めに見た薄い青色の壁。落ち着いた緑色のカーテン。
75
それがかけられた窓辺に置かれているのは、小さな観葉植物。空い
た壁のスペースには、水色のユニフォームと赤いタオルマフラー。
ベットサイドのシンプルな棚の上に、電気スタンドと何個かの写
真立て。その中で笑う小さな頃のオリーと、優しそうな男女の姿。
これは、お母さんとお父さん?
そうしてなんとか顔をそらしてベットの上を見ると、そこにあっ
たのは︱︱。
﹁く、クマ?﹂
ちょこんと行儀よく並んだ六体のクマ。
それぞれに個性的な服と姿をして、黒い瞳がこちらをじっと見つ
めていた。
ある子はどっかで見たような水兵服に身を包み、ある子は首に大
きな赤いリボン。毛並みも短いベージュから、くるくると癖のある
焦げ茶色と、多種多様。
それにしても、なぜ、クマ!
む、とその疑問に眉を寄せた時、そこに柔らかなキスが降ってき
た。
﹁モルゲン、コムギ⋮⋮﹂
﹁うあおっ、おっ、おはよう、オリー!﹂
挨拶というには少々過剰なほどのキスに、私が動揺しながらなん
とかそう返す。すると、少しだけ身を起こしてこちらを覗き込んで
いた青色の瞳が、すっと優しげに細められた。
ひどく甘ったるいその顔に、知らず知らず頬が熱くなる。
確かにゴリラというか、ドイツ式なまはげというか、いかついん
だけども。でも、基本的にオリーって整った顔をしてるんだよね。
左右対称で、鼻がすらりと高くて、金色の眉毛はちょっと薄く感
76
じるけど、その下にある瞳は深い青色でとても綺麗。こんな近くで
見て初めて、睫毛まで金色なんだってわかった。
つまり、こんな近距離で微笑まれると⋮⋮照れる。
﹁コムギ、身体痛いですか? オリー、昨日頑張りましたよ﹂
﹁そういうこと言わないっ!﹂
満面の笑みで甘い空気をぶち壊したオリーの頬を、私は軽くつね
ってやる。すると、へらりとさらに相好を崩したオリーは、私のそ
の手をそっと掴むと、そこにも軽く唇を当てた。
なっ、なんじゃこりゃああああ!
酸欠の金魚のようにぱくぱくと口を開け閉めする私に、続いてち
ようこ
ゅっとリップ音を立ててキスをすると、オリーはベットの上に起き
あがった。
何も身につけていないその上半身に、羊子ちゃん並とはいかない
までも、筋肉大好きな私の目が釘付けになる。
厚みのある肩に、背中に、綺麗についた良質の筋肉。どこにも丸
みのない身体は、すべて真っ直ぐな線で構成されている。女性の、
曲線でできた身体とはどこもかしこも違う、安定感のある造り。
その腕に、胸に、身体全体に包み込まれると、もう怖いものなん
てなんにもないって気持ちになる。何があっても、大丈夫。
じっと見つめる私の視線に気がついたオリーが、ちょっと照れた
ようにその頬を染めた。
﹁コムギ、オリーの身体、気に入りましたか?﹂
﹁だからっ、そういうこと言わないでってばっ﹂
直接的な表現の、その裏に込められた意味まで正確に理解してし
まった私は、真っ赤になってオリーの腕をぺしりと叩いた。
嬉しそうに笑ってオリーは、ベットから立ち上がり、下に落ちて
77
いた衣服を手早く身につけていく。異性の生着替えなんて刺激が強
すぎて、私は慌てて目を逸らした。み、見てないからねっ、あんな
ところやこんなところなんて、見てないからねっ! お尻にえくぼ
ができてるなんて、思ってないからねっ!
ぶるぶると頭を振りながら私も毛布で身体を隠し、自分の服をか
き集める。ちょっとしわになっちゃってるけど、まあ帰る家は隣だ
し、この際気にしないで身につける。
しかし、ものすごく気恥ずかしい。はたしてこれに慣れることが
できるんだろうか、私。
ん? 慣れるって慣れるって慣れるってなんだ!?
自分のその想像力に頭を抱えていると、突然ふわりと抱き上げら
れて、気がついた時にはオリーの腕の中にいた。
背後にそろそろ馴染みつつある、少し高めの体温。
するっと髪をかき上げられ、うなじに唇の感触。それが恥ずかし
くなるくらいの音を立て、そこにひとつ、キスを落として離れた。
﹁コムギ、辛いですか?﹂
﹁だだだだ、大丈夫だってば! ええと、その、あの、いっぱい気
を遣ってもらって、えっと﹂
いかん。口を開けば開くほど、どつぼにはまっていく。
こういう時なんて答えればいいのかなんて、そんなん道徳の教科
書にも書いてなかったよ! 書いてあっても嫌だけど!
なんとか、なんとかそういう話題から離れなければ、ときょろき
ょろと視線を巡らせる私の目に飛び込んできたのは、さっき見てい
た六体のクマだった。
﹁おっ、オリー! なんでこんなにクマがいるの!?﹂
﹁Nein! クマ違います。ヴィンセント、アンゲラ、ルートヴ
ィヒ、ヨアヒム、ハイディ、ミヒャエルですよ!﹂
78
﹁わかんない、ドイツ人わかんない⋮⋮﹂
どうやら一体一体に名前までつけているらしいオリーに、私はさ
っきとは別の意味で頭を抱えた。これがドイツ基準なの? いや、
絶対違うだろうな⋮⋮。
そんな私に構わずに、オリーが綺麗に並んでいるテディベアの中
から、ひとつを取りあげて私に差し出す。
﹁オリー?﹂
﹁ヴィンセントです。オリーのムッタァとファータァ、オリーが短
い頃くれました。オリーの一番のフロインドゥ。誰もいなくなって
も、ヴィンセントがいてくれました﹂
﹁オリーのお父さんとお母さんがくれたの?﹂
﹁Ja﹂
そっと背後から私の膝に乗せられたそのクマは、小さな頃から一
緒だという言葉通り、少しだけ毛羽だってしまっている。けれど、
とっても大事にしてきたんだろう。ちっともくたびれた感じはしな
かった。
私が優しく頭を撫でてやると、オリーはクマごと私をぎゅっと抱
き締める。
﹁ムッタァとファータァ、ワーゲンにぶつかりました。だからオリ
ーは、ひとりです﹂
肩口に埋められた唇からそんな言葉がぽつりとこぼれ落ち、私は
はっとしてベットサイドに飾られた写真に目をやった。
優しそうに、楽しそうに、幸せそうに笑うオリーと両親の姿。そ
れはまだ少年といってもいい姿をした彼までで、大人になってから
のものはない。ワーゲン︱︱車の事故で⋮⋮?
79
﹁オリー⋮⋮﹂
今、彼はどんな顔をしているのか、背後から抱き締められている
私には見えない。
もしかしたら見せたくないのかもしれないけど。それでも、私は
彼をぎゅっとしてあげたくなって、何とかもぞもぞと動いてみる。
すると、突然またふわりと身体が浮いて、今度はオリーと顔を合
わせるような体勢に変わった。
驚いて腕の中のクマを抱き締める私に、オリーはにっこりと無邪
気な笑みを浮かべてみせる。
﹁だから、コムギ。ふたりは、いっぱいいっぱい子供、作りますよ
!﹂
なに、その、超展開!
ていうか、今の今まであった私の切ない気持ちを返して!
あまりのことに言葉を失った私に気がつかず、オリーは額に頬に
とまたキスを降らせていく。ちょ、ちょ、ちょ!
﹁子供っ、子供って!﹂
﹁Ja! オリーはサッカーチーム作るですよ! いっぱいで賑や
かは素敵で楽しい! コムギも一緒に頑張る!﹂
﹁ちょっ、ちょっと待って、頑張るって頑張るって、えええええ!﹂
素早い仕草で腕の中のクマを取り上げられたかと思ったら、なん
でかそのまま再びベットへと寝っ転がされ、私は悲鳴を上げる。
じたばたと暴れる私をマウントポジションで見下ろし、オリーは
﹁コムギ、落ち着いて﹂なんて声をかけてきた。
いやいや、どう考えてもそっちが落ち着いてよ!
80
するっと耳元から首筋に流れた、厚く固い感触の手のひらに、私
の身体が知らずに揺れた。それを見て、オリーはますます嬉しそう
に笑う。
ちちちちち、違うっ、これは違うのっ!
﹁コムギ、可愛い⋮⋮﹂
近づいてきたその青い瞳が、もはや止められないほどの熱を孕ん
は
でいるのが見え、そして私の言葉も何もかもが唇の中へと吸い込ま
れてしまう。
上唇を軽く食まれ、背筋を走る甘い痺れに思わず開いたそこへと、
オリーの熱が入り込んで追いかけられる。そんなことを繰り返して
いるうちに私の身体からはすっかり力が抜けて、それを感じたのだ
ろうオリーはそっと身を離して微笑んだ。
﹁頑張りましょう、コムギ!﹂
息も絶え絶えでそれに反論もできない私は、オリーのそのあらゆ
る意味でやる気満々の顔をただただ睨み付けるだけだった。
そしてそれが、ますます彼の熱を煽るだけのことだったと知るの
は、また別のお話。
とにかく今は、再びゆっくりと近づいてきたオリーの瞳にそっと
目を閉じ、私はそれを受け止めることに集中した︱︱。
81
鈴木家の野望 ︽麦子の両親︾
家に帰ったら、居間でゴリラが雄叫びを上げていた。
居間に置かれたこたつでテレビを見ながら、その大きな肩を震わ
せ﹁サツキっ、メイっ﹂と、どこかで聞いた名前を呟いている。涙
声で。
︱︱ん? 名前を呟いている?
どうしてゴリラが言葉を話せるんだろうと、よくよくその姿を見
てみれば、そこにいたのはゴリラではなく、ものすごく大きな外国
人だった。
ここは自分の家だよな、と確認しながら近づくと、その気配を感
じたのか外人がくるりと振り返る。
﹁コムギのファータァ!﹂
青い目を真っ赤にしたゴリラ︱︱もとい外人は、大きな身体の割
に機敏な動きで立ち上がり、数歩で僕の前までやってくるとおもむ
ろにがしっと抱きついてきた。
その精神的衝撃に、持っていた通勤鞄を床に落とす。とりあえず、
いったい君は誰なんだ!
﹁あら、敦行さん、おかえりなさい﹂
﹁お父さん、お帰りー﹂
あらん限りの力を持って僕に抱きついている外人の後ろから、探
し求めてやまない家族のおかえりコールがかかる。それに僕はほっ
82
と胸をなで下ろ︱︱せないほど苦しいので、そちらにむかってギブ
アップの信号を送った。
﹁あっ、こらっ、オリー! お父さんを絞め殺す気!?﹂
﹁コムギ、これはオリーの気持ちの強さです﹂
﹁いいから離して! 死んじゃう! 死んじゃうから!﹂
駆け寄ってきた麦子がべしべしとその広い背中を叩くと、オリー
と呼ばれた外国人はようやく僕から離れてくれた。ああ、空気って
素晴らしい!
ネクタイをゆるめ深呼吸をする僕の背を、麦子が心配そうにさす
ってくれる。娘よ、ありがとう。
﹁大丈夫? お父さん﹂
﹁だ、大丈夫。もう大丈夫だよ、ありがとう﹂
不安そうにこちらを見上げる麦子に笑ってそう言うと、僕は改め
て目の前に立ちはだかる外国人を見やった。
黄金色の髪は短く整えられ、青い瞳は今は私をとらえて細められ
ている。なんだかとても恐ろしい形相に見えるが、多分、これは微
笑まれていると思っていいのだろう。いかつい。とてもいかつい。
鍛え上げられた体躯はさっき締め上げられて充分に理解したし、
とにかく近年稀に見る巨人ではある。それも、筋肉のしっかりつい
た、まさに欧米人。
しかし、とそこまで彼を観察しながら、僕は首を捻った。
この外人さんを、僕はどこかで見たことがあるような気がするの
だが︱︱。
﹁お父さん、こちらオリー。一週間前に隣に引っ越してきたの。お
父さんは出張だったから、知らなかったよね﹂
83
﹁Ich
freue
mich,
Sie
kennen
zu
lernen! オリバー・ロルフ・ビルケンシュトックです。
ドイツから来ました! ムッタァ、コムギ、大変親切でした﹂
低く心地よい声で挨拶の言葉を告げると、そのオリーは分厚く大
きな手で僕の手をがっしりと掴む。そしてぶんぶんと上下に容赦な
く振った。
シェイクハンドだとはわかるが、その力に手だけではなく腕全体
が持っていかれて、僕はがくがくと揺さぶられながらなんとか頷く。
すずきあつゆき
﹁は、初めまして、ビルケンシュトックさん。僕は鈴木敦行です﹂
﹁オリーはオリーですよ! あー、アチュユキ?﹂
﹁敦行です﹂
﹁アチュ⋮⋮アチュ⋮⋮﹂
どうも﹁つ﹂の発音が上手くできないらしく、ビルケンシュトッ
ク︱︱本人が言うにはオリーは、一所懸命その大きな口の中で僕の
名前を転がす。
その様子がなんだかとてもおかしくて、僕は出会い頭の衝撃から
ようやく肩の力を抜くことができた。
﹁オリー、あなたの好きなように呼んでください﹂
笑ってそう言えば、オリーはその青の瞳をぱっと輝かせ、傍で成
り行きを見守っていた麦子に確認するように口を開いた。
﹁コムギ、ファータァだから、オオムギ!﹂
﹁それはなしっ!﹂
思いがけず被って否定した私たち親子を見て、オリーはなぜか嬉
84
しそうに笑う。
それが私と隣のドイツ人、オリバー・ロルフ・ビルケンシュトッ
クとの異文化交流の始まり。
そのうち家に入り浸るようになった彼が、私のことを﹁ファータ
ァ﹂と呼び始めるのは、このすぐあとからだった︱︱。
***
﹁これはね、鈴木家最大のチャンスだと思うのよ﹂
たまな
夫婦の寝室のベットの上、のんびりと新聞を読んでいた僕にむか
って、そう強い口調で宣言したのは僕の奥さん︱︱玉菜さんである。
いつも後ろでまとめられている真っ直ぐな黒髪は、寝る前という
こともあって、今は肩まで降ろされている。それが、ぐっと拳を握
る彼女の動きとともにさらりと揺れて、僕は少しだけどきっとする。
何かを決意した大きな黒い瞳は、娘である麦子とお揃いで。奥さ
んの素敵なところはすべて娘にきちんと受け継がれたんだなあ、と
僕は嬉しく思っていた。
﹁鈴木家最大のチャンスって何ですか、玉菜さん﹂
﹁聞いてくれる?﹂
﹁もちろん﹂
読んでいた新聞をサイドボードへと置き、ついでに眼鏡も外して
その上に乗せる。そうして奥さんに向き直ると、彼女は満足そうに
微笑んだ。
僕は何はともあれ、彼女が嬉しそうにしているのが好きなのだ。
85
﹁ねえ、敦行さん。私とあなたが付き合ったきっかけを覚えてる?﹂
﹁忘れるわけないですよ、玉菜さん。それは、僕が﹃鈴木﹄であな
たが﹃佐藤﹄だったからじゃないですか﹂
彼女と最初に出会ったのは大学生になりたての頃。
流されるままに入った、﹃お馬さんを愛でる会﹄という競馬サー
クルの新歓コンパの席でのことだった。
競馬観戦という活動内容に反して、そこそこ女性の姿もあったサ
ークルだが、僕と奥さんが言葉を交わすようになったのは偶然では
ない。実は僕も彼女も、飲み会に参加していながら、お酒はほとん
ど飲めない体質だったのである。
なので、必然と盛り上がる中心からは外れ、静かな隅のほうで料
理をつまむことになる。そこに奥さんはいた。
ああ、なんて可愛らしいんだろう。
それが第一印象。今から思えば、僕はもうその時点で彼女に恋し
ていたんだ。
ナンパなどしたことがない僕が、さっさとその隣の席を確保して、
多少強引に自己紹介など始めてしまったのがいい証拠。
﹃こんばんは、初めまして。僕は鈴木敦行といいます。よろしけれ
ば、お名前を教えて頂けませんか?﹄
その僕の言葉にちょっときょとんとして、彼女はそれからくすく
すと笑い始めた。
何かおかしなことをしてしまったのだろうか、と不安になりかけ
た僕に﹁ごめんなさい﹂とひと言そえて、彼女は言う。
﹃私、佐藤玉菜。ねえ、面白いと思いません? 鈴木と佐藤なんて﹄
問われた内容に僕は首を捻る。
86
生まれてこの方、鈴木という名字で笑われたことも面白がられた
こともない。むしろ、歩いていて石を投げれば、高確率で﹁鈴木さ
ん﹂にあたるくらいの、ありふれすぎた名前だ。
そこまで考えて、彼女の名乗った名字に思い当たる。その僕の表
情を正確に読みとって、彼女は頷いた。
﹃私たちの名前ってありふれていて面白くないでしょう? しかも、
うちの両親なんて二人揃って佐藤なものだから、私は小さい頃から
こう言われてきたの。﹁結婚するなら絶対に三文字以上の名字の人
にして﹂って﹄
﹃奇遇ですねえ。僕もそうですよ。特に僕は次男だから、婿に行っ
て名字を変えろって半ば本気で言われてます﹄
﹃まあ。じゃあ、残念ね﹄
僕がそう言ったとたんに形の良い眉を下げ、心底悲しそうにこち
らを見つめる彼女に、僕は胸がぎゅっと詰まるのを感じた。
その時はよくわからなかったけれど、ただこの人にこんな風な顔
をしてほしくない、そう思った僕は、慌てて言葉を重ねる。
﹃何か、不快なことでも?﹄
すっかりしょげてしまった彼女は、小さく首を振ってから顔を上
げ、真っ直ぐにその黒い瞳で僕を見つめた。
その深い色に、僕はお酒を一滴も飲んでいないのに、くらくらと
囚われてしまう。
そして彼女の次の言葉で、僕は完全にダウンしてしまうのだった。
﹃だって、それじゃああなたと恋ができないわ﹄
87
そう言われて﹁そうですね﹂と引き下がれるほど、僕の一目惚れ
は軽くなかった。
強引に、ひどく滅茶苦茶に説得の言葉を重ね、僕は彼女︱︱今の
奥さんと恋に落ちることになる。
大学を卒業しても僕たちの恋人関係は続き、いざ結婚の段になっ
て両家に挨拶に行った僕たちは、お互いの両親からものすごくがっ
かりされたりもした。よりによって、鈴木と佐藤が、なんて。
だから、娘が産まれた時に僕たちは冗談半分に言ったのだ。﹁こ
の子こそは珍しい名字の人と結婚できればいいね﹂と。
もちろん、素敵な人と出逢って素敵な恋をして、幸せな結婚をし
てくれればそれでいいのだけれど。
そこまで思い出していた僕は、それを察して黙っていてくれた奥
さんに笑いかける。
﹁そうか、そんなこともありましたよねえ﹂
﹁思い出してくれた? じゃあ、オリーちゃんの名字もついでに思
い出してみてくれない?﹂
﹁オリー君の?﹂
言われて、近頃とても頻繁に家へと遊びにやってくる、あのいか
つい彼の顔を思い浮かべる。
確か、彼の名前は︱︱。
﹁ビルケン、シュトック⋮⋮じゃないですか?﹂
﹁ぴんぽーんっ。さすが旦那様! ねえ、敦行さん、数えてみてよ。
ビ、ル、ケ、ン、シュ、ト、ッ、ク! 八文字よ、八文字! 素晴
らしいことじゃない?﹂
﹁はあ⋮⋮﹂
88
なんだか急に飛んだ展開にうまくついていけず、僕はきらきらと
目を輝かせる奥さんに、気の抜けた返事を返す。奥さんは天然だ。
いつもその突飛な言葉にツッコミを入れてくれる娘は、今ここに
はいない。
﹁あの、それがどうしましたか﹂
﹁どうしましたじゃないわよ、敦行さん。これで、鈴木家佐藤家の
野望がついに結実するんだわ! 麦子・ビルケンシュトック⋮⋮素
敵!﹂
﹁ええっ﹂
あまりのことに、思わず大きな声を出してしまう。
いつの間にそんな展開になったのだろう。僕の可愛い娘と、その
倍以上はありそうな立派な体躯のドイツ人。
確かに、やたらとオリー君が娘のことをかまっているように感じ
たが、それは彼が意外と可愛らしいものが好きらしい、ということ
なのかと思っていたのに。
なんだか、悲しい。
﹁あら、反対なの? 敦行さん﹂
﹁そうではないのですが⋮⋮なにか、切ないものですね。ついこの
間まで小さかった︱︱いえ、今でも充分小さいんですけど。その娘
が、もう恋をする歳になったのかなあ、と思うと。ねえ⋮⋮﹂
﹁ちょっと遅いくらいじゃないかしら? あの子の年の頃は、もう
私たち付き合っていたんだし。私ねえ、もうお義母さまに電話しち
ゃったわよ! ついに鈴木家から八文字の名字が産まれますって﹂
﹁それは、その⋮⋮よかった、ですね﹂
複雑に響いた僕の言葉には気がつかず、奥さんはにこにこと﹁お
89
義母さま、とってもお喜びだったわよ﹂と教えてくれる。あの母は
⋮⋮諦めていなかったのか。
はあ、と思わず出てしまったため息に何を感じたのか、奥さんは
僕に身を寄せると、頭を優しく撫でてくれる。
﹁大丈夫。オリーちゃん、麦子とちょっと歳も体格も離れてるけど、
とってもいい人よ? 麦子のこと一番に考えてくれて、愛してくれ
てるわ﹂
﹁そうですね⋮⋮二人を見ていると、何だか僕たちを思い出します﹂
﹁私も! ねえ、きっと私たち、すぐにお祖母ちゃんとお祖父ちゃ
んになっちゃうかも﹂
ちゅ、と額に軽く触れたその柔らかな感触に、僕はいつまでも慣
れることなく胸をときめかせる。そして、その心のままに奥さんを
強く抱き締めた。
この人と出会ってそんなに時間が経ったのかと、僕はその切なく
なるくらいの幸せを噛み締める。
﹁愛してます、玉菜さん﹂
﹁私もよ、敦行さん﹂
額をくっつけて、思い出が刻まれてお互い少し増えたしわにキス
を贈りあって。
そうして僕たちは、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんになってしまう
前に、まだやり残したことがあるとベットの中に沈んだのだった。
90
鈴木家の野望 ︽麦子の両親︾︵後書き︶
麦子の両親は熱々。
91
彼女はそれを我慢できない ︽羊子と和久井部長︾
小さい頃から、白馬に乗ったきらきらの王子様にはなんの魅力も
感じなかった。
あんな乳臭くてほっそい男のどこがいいんだろう、なんて幼いな
がらませたことを考えていた私の好みといえば、筋肉。その一言に
尽きる。
それも無駄に鍛えられた装飾的な筋肉では駄目。例えば消防士や
自衛官、サッカー選手や柔道選手に格闘技の、そういう必要なとこ
ろに必要な筋肉が必要なだけつきました!って感じの奴じゃないと
駄目。肉は赤身が一番!
だからむしろ、王子様の護衛役だとか傭兵だとかはたまた敵役だ
とか、昔っからそういうムキムキな男臭い人に惹かれる質なのであ
る。
その筋肉大好きのある意味肉食系である私が、どうして今現在、
ほっそり草食系代表みたいな営業部長さまに押し倒されていたりす
るんだ!?
かのうようこ
﹁狩野羊子さん、何を考えているんですか?﹂
﹁き、筋肉について色々と回想を!﹂
﹁お好きですよね、筋肉﹂
わくいはじめ
私に覆い被さっている細身の営業部長様︱︱和久井基さんは、こ
んな状態だというのに、いつもと変わらないのんびりとした口調で
問いかけてくる。
92
それについ答えてしまう私も私だけれど、いやこれはその、パニ
ックです。プチどころがメガトンパニックです。
そんな場合ではないでしょう!と私の中の仕分け人が声を上げる
が、筋肉愛にはうち勝てなかったらしい。思い切り筋肉への想いを
叫んでしまった。
﹁大好きですよ、筋肉!﹂
﹁そうですか。それならよかった。僕の努力も報われます﹂
え、え、えええ!?
にっこりと笑ってそのまま私へと近づいてきた唇に、反射的に目
を閉じる。
ふわっと重なったその温度は思ったほど不快ではなく、いつも微
笑をたたえている薄い唇の形がくっきりと感じられた。男の人だか
らだろうか、少しかさついたそれは軽く触れたと思うと、呆気なく
私から離れていく。
もっとすごい展開を頭の中で瞬時に妄想していた私は、ほっとし
た反面﹁これだけ!?﹂という複雑な気持ちを心で叫びつつ、目を
開けた。
別にそれ以上のめくるめく何かを期待してたわけじゃないけどね
! ないと、思うけど。
そんな私の葛藤を知ってか知らずか、和久井部長はやっぱり優し
い微笑みで口を開く。
﹁僕ねえ、最近ボクササイズを始めたんですよ﹂
この、いかにもこれから僕たちアハンウフンなことおっぱじめま
すよって体勢で、突然そんなことを言い始めた部長に、私は思いき
り﹁はあ!?﹂と声を上げてしまった。
あ、いや、その、上司にむかってその口の利き方はないだろうと
93
は思ったが、それを言うなら部下に対してこの体勢もないだろう。
あああ、もう何言ってるの、落ち着けっ! 落ち着け私っ!
﹁だって狩野さん、格闘家みたいな割れた腹筋がお好きなんでしょ
う?﹂
﹁ちょう好きですけど! 否定しませんけど! それが今この状態
と何か関係があるんでしょうか!﹂
言った。言ってやったよ!
うっかりと部長のかもし出す癒し的マイペースに飲み込まれてし
まったが、ようやくここからは私のターン!とばかりに反撃を開始
する。
両手を部長に掴まれ、ベットに縫いつけられていなければ、ここ
でガッツポーズも追加したかったが仕方ない。すると、部長は変わ
らず笑顔のままで次の話題に移る。
﹁狩野さん先週、営業の神林君に告白されましたよね﹂
﹁なななな、なんで知ってるんですかあっ﹂
﹁僕、営業部長なので﹂
﹁関係あるかああああっ﹂
相手が上司であるという遠慮をかなぐり捨てツッコミを入れた私
に、よくわからない答えを出す部長。営業部長って、営業部長って、
そんなことまで仕事ですか!?
予想外のところから入ったジャブに、わたわたと動揺する私を見
て、部長は﹁まあ、それは嘘ですけど﹂っとしれっと追加した。
この人、黒い。絶対に、六代目三遊亭圓楽さんより腹黒い!
﹁ボールペンのインクが切れてしまいまして、備品倉庫に行ったら
たまたま、ですよ﹂
94
﹁のおおおおおおおおおおっ﹂
のたうち回りたいっ。のたうち回りたいので、離してくださいっ、
部長!
見る見るうちに自分の顔が赤くなっていくのがわかって、私は上
からその様子をじっと見ている部長から目を逸らす。そう、確かに。
確かに告白されました。はい、さーれーまーしーた!
半ば自棄になって、私は先週備品倉庫で起こった甘酸っぱい記憶
を引きずり出す。あれはいつも通り、切れたコピー用紙を補充する
ため倉庫に入った時だった︱︱。
コピーしようと思ったら紙切れで、しかもいつもの棚にすら用紙
が入っていなくて。
仕方なく私は隣の席の麦子先輩に声をかけ、事務から離れた場所
にある備品倉庫へと赴いたのだった。
ここからA4コピー用紙の束を五つほど運ぶとなると、すごい重
い。だから、いつもなら少し在庫が減るたびに使用者がきちんと補
充することになってるはずだったんだけれども。これは営業の男ど
もの仕業に違いない!
もう、使っていて切れたら補充しろよなあ、なんてぶつくさ呟い
ていた私の後ろから、その営業さんが同じように倉庫に入ってきた。
見慣れないその顔は、確か今年入社したばかりの新人君で、名前
は⋮⋮肉は赤身君だ!
正式名称は思い出せないが、筋肉名称は私の中でばっちり管理さ
れている。
多分、学生時代はサッカーとかバスケとか、そういう有酸素運動
激しい系の部活とかサークルとかで活躍してましたって感じの、柔
95
らかそうな脂肪の少ないいい筋肉を持っている。これでその若さゆ
えの細さがなければ、私の中の筋肉番付ではもっと上位を取れただ
ろう、という将来有望な新人君。
その彼が、なぜか顔を真っ赤にして私へと迫ってきた。えええ。
﹁狩野さんっ、あ、あのっ、俺っ、好きですっ﹂
﹁備品倉庫が?﹂
﹁狩野さんが!﹂
ちっ、ノリツッコミで誤魔化そうとしたのに。
私のその﹁あらやだ私ったら天然なの﹂という擬体をあっさりと
跳ね返し、赤身君はがしっと私の肩を両手で掴んだ。そしてそのま
ま、倉庫の壁に押しつけられる。
﹁ちょ、ちょっと!﹂
﹁好きなんですっ! 俺と付き合ってください!﹂
﹁却下!﹂
言うが早いか、私は即座にお断りの言葉を告げる。すると赤身君
はちょっと泣きそうになりながらも、ぐぐっとさらに私に顔と身体
を近付けてきた。
例えるならば、雨の日に捨てられた柴犬の子供みたいな黒い瞳で、
じっと私を見つめてくる。ごめん、私猫派だし。
﹁何でですか!﹂
﹁圧倒的な筋肉量不足です! ミルコ・クロコップまでとは言わな
いけど、もう少しないと駄目! なので却下!﹂
﹁そんなあ! だったら俺、これから鍛えますっ。俺の伸びシロに
期待してくださいっ﹂
﹁なし! 私が男性に対して期待する筋肉は、三十代から光る筋肉
96
です。あと十年後に期待します﹂
そう言ってぽんぽんと自由な手で尻を叩いてやると、赤身君はが
っくりと肩を落とし、しかも涙ぐんで倉庫から退場していった。う
む、素直なのはよいことだ。
いい筋肉育てろよ!と、その後ろ姿に敬礼を送り、私はまたコピ
ー用紙補充の作業へと戻ったのだった。
まさか、その一連のやり取りを、この和久井部長に目撃されてい
たとは⋮⋮!
﹁圧倒的な筋肉量不足が原因だと知って、神林君ジム通いを始めま
したよ。先週から﹂
若いっていいですよね、とどこか他人事のように寸評を下した部
長に、私は心の中で十回くらい呪いの言葉を送りつける。禿げろ禿
げろ禿げろ禿げろ⋮⋮。
しかし、私を押し倒している部長の髪の毛は、四十代に差し掛か
ろうというのにふっさふさのさらさらで、とてもじゃないが近いう
ちに禿げそうにもない。
むしろ、女の私から見ても羨ましいくらいのキューティクルの持
ち主だ。栗色の髪に、薄いフレームの奥からこちらを見つめる、同
色の瞳。全体的に色素の薄いその顔立ちは、柔和に整ってはいるが、
決してなよなよとはしていない。簡単に言えば、美中年様だ。
前任である営業部長も、ワイルド熊系な美形だったが、それとは
また正反対の美形。私たち営業事務員たちの、密かなアイドルであ
る。
97
いや、見ているだけならばいい。だがしかし、私の好みは筋肉!
筋肉一筋!
﹁焦りましたねえ。あのまま神林君に若さで押し切られたんじゃ、
僕には太刀打ちできませんから。せっかく、ボクササイズで頑張っ
て腹筋を割ったのに、それじゃああんまりでしょう?﹂
﹁腹筋!?﹂
この期に及んでそこに反応してしまう自分を、私は愛おしいと思
うんだ。うん。誰も言ってくれないので、自分で自分を全肯定。
それでよく、隣の席のちっちゃくて可愛いハムスター的な麦子先
輩には、ピヨピヨ口の刑という懲罰をくらうが、それはそれで萌え
るのでよし。違う、そうじゃなくって!
私のその反応に気をよくしたのか、部長は何か黒さ漂う微笑みを
一変させ、なんだかお気に入りのおもちゃを自慢するような笑顔に
なって私に問う。
﹁見たいですか?﹂
何気なさを装ったその声音に騙され、危うく素直に頷きそうにな
って︱︱かろうじて止める。今年最大級の理性を動員した。もう、
今年も残すところあと一週間だけども。
そう、そうだ。さっきまで営業と事務との忘年会だったはずだ。
なんでかいつも以上にハイペースで飲み続ける麦子先輩は、珍し
いことに早々と沈んでしまって、それを営業の木村さんに預けたと
ころまでは記憶にある。男の人に可愛らしい先輩を預けるのは心配
だったが、この和久井部長が﹁彼なら大丈夫でしょう﹂とのお墨付
きを出した為、そのまま見送った。
確かに、木村さんには彼女もいるらしいし、普段から馬鹿正直で
曲がったことは嫌いな人柄なので信用はある。そのまま、じゃあ僕
98
たちも帰りましょうか、と部長に言われてそれに頷いたらこんなこ
とに。
ああ、気付いてなかったけど、私めちゃくちゃ酔っぱらってまし
た。今さら、もう遅い気もするけど、そんなことを思い出す。
﹁ぶ、部長、早まらないで! 奥さんが家で美味しいお茶漬けつく
って待ってますよ!﹂
﹁今からお茶漬け作っていたら、漬かりすぎで美味しくないですよ。
あと、僕に奥さんと呼べる方はおりませんので、安心してください
ね﹂
安心できません、まったくできません。むしろ、危険な香りがし
ています!
その言葉にぶるぶると首を振る私に何を思ったのか、少し悲しげ
に眉をひそめた部長がひっそりとため息をついた。麗しいです、部
長。
﹁なんとなくこの歳まで独身を通してきましたが、どうも最近周り
がうるさくて困りますね。ジムに通って体を鍛えだした辺りから、
営業さんたちが僕にゲイ疑惑をかけまして。僕としてはもう少し穏
便にゆっくりとあなたを落とすつもりだったんですが、まあ、そろ
そろ頃合いということなのかな、と思ったんです﹂
﹁ここここ、頃合いって! 落とすって!﹂
﹁ずっとあなたのことを想って、あなたのために腹筋まで割ったの
に、ぽっと出の男なんかにあなたをかっさらわれたりしたら、僕は
泣くに泣けませんから﹂
だから、先に既成事実を作ってしまおうかなあ、と。
そう続けられ、私はあまりの言われように頭がくらくらしてきて
しまった。なんだこの告白。ていうか、告白!?
99
﹁ねえ、狩野さん。僕の腹筋、触ってみたくありませんか?﹂
私がショックとパニックと何かでぐるぐると目を回していると、
いつの間にか上半身裸になった部長がこちらを見て妖しく微笑んだ。
ぐわあああ、なんだその色気! 四十手前の男の色気!
言われるままに視線を落としていけば、程良く引き締まった胸板
の下に、美しく割れた腹筋がこれでもか!と私に自身を主張してい
た。しかも、私の好みにドストライクな奴。
無意識にこぼれそうになるヨダレを飲み込めば、私たち以外に誰
もいない静かなやる気に満ちあふれたホテルの部屋に、ごくっとい
う生々しい音が響き渡った。あわわわわ。
気まずくなってちらりと部長の顔を見上げると、なぜか彼は物凄
く満足げな表情をしている。
﹁ね、我慢しなくていいんですよ。これはあなたの腹筋なんですか
ら﹂
﹁わ。わ。私の腹筋⋮⋮﹂
その甘美な響きに、私の理性は崩壊寸前だった。
だって、私の腹筋だよ!? 私がなぞったり、叩いたり、キスし
たりしてもいい腹筋てことなんだよね!?
色々な角度からライトを当てて陰影を造り、それを一眼レフカメ
ラに収めた上で、私だけの腹筋写真集を作っても許される被写体だ
ってことだよね!?
﹁ほら、早く触ってみてください﹂
ささやくようにそう言った部長は、押さえていた私の両手を離し、
そうしてゆっくりと自分の腹筋へと導いた。
100
そっと手のひらで触れたそれは固く、お酒のせいなのか少し熱く
感じられる。そのまま人さし指でなぞると、部長の身体がぴくりと
揺れた。その可愛らしい反応に、ついに私の理性は爆発し、木っ端
微塵にどこかに吹き飛んだ。
がばりと勢いよく身を起こし、ぐるんと部長と自分との体勢を入
れ替えると、おもむろに私を誘う腹筋に唇を寄せる。ああ、この感
触! この感触なんだよおおお!
しっかりとついた段々ひとつひとつにキスをして、頬を擦りつけ
ていた私の身体を、突然部長の腕ががっしりとホールドした。えっ、
なんですか。
きょとんとして私が部長を見上げると、彼の人はすっごくとって
も果てしなく黒い微笑みで口を開いた。
﹁触りましたね? 舐めましたね?﹂
﹁えっ﹂
﹁もう返品はききませんよ? 食品会社の事務さんなら、わかって
ると思いますけど﹂
﹁ええっ﹂
その言葉に、今自分が部長の腹筋に対してやってしまったことを、
思い返す。
さ、触りましたとも。な、舐めたというか、吸い付きましたとも。
ええと、これ、生もの? 食品!?
ざーっと血の気の失せていく私に対して、物凄く機嫌の好さそう
な部長がぐいっと私の身体を自分のほうへと引き寄せた。近づく部
長の瞳が、そらせないほどの欲望を内に秘め、私を見つめている。
ああ、もう⋮⋮。
﹁やっ、やっちまったー⋮⋮﹂
﹁はい、やられました﹂
101
再び満面の笑みを浮かべ、今度は突然に深く口づけてきた部長を
受け止め、私はついに降参する。さすが百戦錬磨の叩き上げ営業部
長!
これ以上ないというくらいに隙間なく合わせられたその唇に、悔
し紛れに軽く食いつくと、ますます口付けは深くなる。仕方がない
ので、私はそっと目を閉じてその部長の動きに応えた。
だって私は今、この気持ちを我慢できそうにないのだから!
102
彼女はそれを我慢できない ︽羊子と和久井部長︾︵後書き︶
肉食系女子、草食系男性の反撃をくらう。ビバ腹筋!
103
そして私は途方に暮れる ︽オリーと麦子︾
想像してみてほしい。
日曜日のゆっくりとした朝。いつもより遅い時間に起きて二度寝
の誘惑を振り切り、ぐうぐうと存在を主張するお腹を宥めながら階
下のキッチンへ行くと、そこにあった。
すでに高く昇った陽の光に、きらきらと光る金髪を後ろへ撫でつ
けて綺麗に固め、見るからに上等なモノトーンのスーツに身を包ん
だ巨体が。そしてそれが、なぜかピンクのふりふりエプロンをつけ
てキッチンに立っている光景が!
思わず三回は見直した。もちろん、寝ぼけた私の頭が生み出した
妄想だと思いたくて!
するとその気配を感じたのか、キッチンに立ったそのある意味R
指定本体が、くるりとこちらを振り返る。そして、破顔一笑。
﹁モルゲン、コムギ! 今、オリーが朝ご飯製造していますよ!﹂
﹁ああ、うん、おはようございます⋮⋮﹂
ねえ、なんでオリーはふりふりエプロンなの?
この短い朝の挨拶の間に、私は何か人生に大切なものを諦めた。
ものすごい勢いで。
その格好についてどこから突っ込もうかと思案する私の鼻に、何
かが焼ける香ばしい香り。釣られてお腹が大きく音を立てた。
それを聞き逃すことなく、なんでかすっごく嬉しそうに笑ったオ
リーが﹁コムギ、フェアフンゲレですよ﹂と、われのわからないこ
とを言う。
104
こういう時、そろそろ私も少しドイツ語勉強しようかな、と思う。
今までありとあらゆる重要な場面において、このドイツ語に誤魔化
されてきた気がするからね。
そんなことを考えている間に、ダイニングテーブルについた私の
前に、美味しそうな料理ののったプレートが置かれた。加えて、生
Appetit!﹂
クリームたっぷりのコーヒー。
﹁Guten
自信満々に差し出されたそれを、とりあえずじっと観察してみる。
スライスされた何か肉っぽいものの上に、しっかりと焼かれた目
玉焼き。付け合わせには薄く切って炒められたじゃがいも多数。目
玉焼きの黄色の上に乗せられたハーブの緑が、おしゃれである。
悔しいことに、とても美味しそう。
用意されたナイフとフォークを握りしめ、ちらっとオリーを見れ
ば、なんか珍しい生き物の食事シーンでも見るかのように熱い瞳と
かち合う。
﹁オリー、その⋮⋮そんなに見られてると食べにくいんだけど﹂
﹁オリーは今からベルリンの壁です﹂
﹁もうそれ崩壊したでしょ!﹂
会社の後輩羊子ちゃんにするように、ついそのほっぺを挟んでピ
ヨピヨ口にしてやる。すると、オリーはむしろ嬉しそうに笑って、
私の手のひらにちゅっと音を立ててキスをした。ななな、なにをす
る!
もう、私の人生に置けるキスの容量を超えてるよ!
﹁冷たいの美味しくないよ、コムギ﹂
﹁わかった、わかったから手を離す!﹂
105
唇を付けたままで喋り出したオリーから、素早く手を取り戻す。
そして、私はちょっとだけ赤くなった頬を誤魔化すように、目玉焼
きにナイフを突き立てた。
固めの焼き方は、私の好みである。
もしかして、前に一緒に食事した時のその言葉を、ずっと覚えて
いてくれたんだろうか。
Scho
n!﹂
﹁あのね、その⋮⋮ありがと﹂
﹁Bitte
いつ見てもどこから見ても、捕らえた獲物を今から食べますって
いう肉食獣的笑顔を浮かべ、オリーは手を伸ばして私の頭を撫でた。
珍しくそうっと、繊細な動きで乱れた前髪を整えてくれる。
優しいけれど、明らかに父親とは違う触れ方をされた私は、ひど
く恥ずかしくなってしまって無理矢理会話の方向を変えた。
﹁きょ、今日はどこか出かける予定なの? なんかスーツとかだけ
どっ﹂
﹁Ja、オリー、今日はメンセツです。モトハシと一緒します﹂
﹁面接!?﹂
オリーの口から似合わない単語が飛び出して、私は思わず声を大
きくして訊き返した。
そういえば、サッカーチームの臨時コーチだとかそこらへんの、
オリーのお仕事事情を私は詳しく知らない。
もしや転職するとか? ていうか、モトハシさんて、誰?
頭の中にいっぱいの疑問符を浮かべている私を見て、何を思った
のかオリーはテーブルの向こう側から身を乗り出し、唇に軽いキス
をした。
106
⋮⋮私、オリーといるうちに、来世分までキスするかもしれない
⋮⋮。
私のその気持ちを知ってか知らずか、とたんに機嫌がMAXにな
ったオリーは、エプロンを外してきっちり畳むと、﹁イッテキマー
ス﹂と元気よく出かけていった。
お、おまえはイタリア人かっ!!
追いつかなかったツッコミを心の中で入れつつ、私は急激にあが
ってしまった体温にくらくらしながら、ブランチを続けたのだった。
まさかその時、あんな悲劇が起きるとも思わずに︱︱。
***
﹁おや、今日はオリー君、いないんですか?﹂
夜になってお母さんとのデートから帰宅したお父さんが、開口一
番そんなことを訊く。
ああ、うん。あのでかいの、いないとすっごく目立つもんね。い
るだけで威風堂々だもんね。
簡単な夕食を済ませ、いつも通りにこたつに入っていた私は、ネ
クタイをゆるめているお父さんを振り返った。
﹁なんかねえ、面接だって言ってたよ﹂
﹁面接? オリー君はコーチの職についているんじゃなかったかな
?﹂
﹁そうだと思うんだけど、詳しく聞く前に出かけちゃったから⋮⋮﹂
もっともなお父さんの疑問にろくに答えることもできず、私はみ
かんを口に放り込んだ。何気なく時計を見れば、もうすでに午後十
107
二時に迫っている。
帰ってくれば必ずうちに寄るはずだから、オリーはまだその﹃面
接﹄とやらから帰宅してないってことだよね。なんだか、こうして
ひとりで過ごす休日も、久しぶり。
私が会社に行っている間や、本腰を入れてコーチの仕事をし出し
たオリーとは、平日はすれ違い気味。なので、休日の夜は必ずオリ
ーがべったりと私に引っ付いているが、もはや私の日常になりつつ
あったんだけれども。
背中に感じない体温や、その大きな身体がないだけで、こんなに
心にぽっかりと穴が開いてしまったような気持ちになるとは思わな
かった。
﹁麦子、オリーちゃんがいなくって寂しいんでしょう!﹂
﹁何言ってるの、お母さん!﹂
ぼんやりしていたところを不意に突っ込まれ、私はむせながら否
定する。う、みかん丸飲みしちゃったよ⋮⋮。
その慌てようにお父さんのあとから入ってきたらしいお母さんが、
にやにやと意地悪な笑みを浮かべている。素直になっちゃいなさい、
とでも言うように。
ああいやだ、この万年新婚夫婦め!
スーツを脱ぐお父さんの手伝いを、甲斐甲斐しくしているお母さ
んを横目で睨みながら、私は大きなため息をついた。まあ、少しく
らいは寂しい、けどね。
そんな気持ちを誤魔化すようにお茶を飲みつつ、私はテレビの電
源を点ける。すると、そこには︱︱。
﹃はーい、今週も始まりました、たべっちFCでーす!﹄
﹃本日はスペシャルゲストとして、元日本代表MF、本橋涼太郎さ
んと︱︱﹄
108
﹃なんと、世界的GK、元ドイツ代表、オリヴァー・ビルケンシュ
トックさんにお越し頂いていまーす!﹄
ぶほわあっと思い切り茶を吹く。吹いただけにとどまらず、気管
に入ったそれにむせる。
﹁あらやだ、大丈夫なの、麦子!﹂と背中をさすってくれるお母
さんに何度も頷きながら、私は涙目のままテレビ画面に釘付けとな
った。
そこには、どこからどう見てもお昼に私が見たままの服装をした、
オリヴァーがいつものなまはげスマイルで映し出されている。めめ
めめめ、面接って言ったじゃんよ!
﹁あれ、これはオリー君じゃないですか﹂
﹁まあ、本当! スーツがよく似合ってるわねえ﹂
﹁なななななな、何で!?﹂
テレビの中のオリーを見て、こたつに寄ってきたマイペース両親
はこの際無視する。
ちょっと待って、ちょっと待って。面接ってこんな意味があった
っけ!?
面接って就職のために色々と履歴を訊かれるってことでしょ、簡
単に言うと!
﹃やー、そうですかあ、オリーさんは正式にゼームレング街田にG
Kコーチとして就任なさると!﹄
﹃Ja、これが最初のアルバイテですよ﹄
﹃お陰様で、来季J1昇格なもんで、フロントから宣伝に行ってサ
ポーター倍増させてこいって厳命されまして!﹄
﹃それは、オリーさんを客寄せパンダにってことですかあ?﹄
﹃パンダというより、ゴリラ的な何かですけどね﹄
109
﹃それではここで、お二人の現役時代の活躍映像を見てみましょう
!﹄
⋮⋮しゅ、就職のために色々と履歴を訊かれるってこと、ですね。
うん、間違ってない。
なんか負けた気がする、と私はものすごい疲れを感じて、ただ呆
然とテレビ画面を見つめ続ける。
そんな私に﹁お父さんとお母さん、部屋にいるからね﹂と、両親
はなにか斜め上のほうに気を利かせて引き上げて行ってしまった。
別に、いてくれて構わないんだけど。
その私の目に、次から次へと現役時代のオリーの映像が飛び込ん
できた。
彼の部屋に飾ってあったユニフォームに身を包んで、今よりずっ
とずっと険しい顔で何かを叫んでいる。
肩を組んで見守るチームメイトの前を通り、ゴールの前に立つオ
リー。これはPKってやつかな。蹴られたボールを何度も華麗には
じき飛ばして、そして最後。オリーが歓喜の雄叫びを上げて走り出
すと、チームメイトや監督までも興奮してその身体を抱き締めた。
﹃以上、オリーさんのチャンピオンズリーグでのPK戦を見ていた
だきましたが⋮⋮﹄
﹃いやあ、めっちゃすごいじゃないですかあ。神がかってますよね
!﹄
﹃ダンケ! でも、オリーだけじゃないです。他のセンシュ、決め
ました。だから、勝てたですよ﹄
きっと、その時すごく嬉しかったんだろうな。
画面からでも伝わってくる彼の喜びに、私の頬が無意識に笑みの
形になる。今日は遅くなるだろうから、明日の夜にでもその時のこ
と聞きたいなあ。
110
なんて私がいい話だなあ、と油断していたそこに。
﹃ところでオリーさん、ご婚約されたとか!﹄
﹃Ja﹄
﹃えぇー、幸せオーラですねえ、羨ましいですっ。お相手はどんな
方なんですか?﹄
司会であるたべっちと女性アナウンサーの問いに、オリーはにっ
こり満面の笑みを見せた。やややややや、やばいやばいやばい。こ
れすっごくやばい予感がしまくるよ!
オリー、壁になって! 今だけでいいからベルリンの壁復活して
えええええ!!
﹃コムギはとっても優しいですね! 来る時、オリーにちゅうして
くれたですね!﹄
﹃うわあ、のろけだあ!﹄
嘘つくなあっ、オリヴァー・ビルケンシュトック!
したのは、あなただ、あなた! どっちかって言うまでもなく、
私は奪われました!
強く強くテレビ画面に呪いの視線を送ろうと、その口を閉じさせ
ることは敵わない。しかも、この番組、生放送⋮⋮終わった。私の
人生、終わった。
ていうか、これサッカー番組でしょうっ。もっとサッカーの話し
てよおおおおっ。
﹃じゃあ、そんな幸せいっぱいのオリーさん、最後にひとつだけそ
の婚約者さんの素敵なところを教えて下さい!﹄
そんなたべっちの余計極まりない質問に、オリーは眉を寄せて考
111
え込んだ。
よおーしよし、そのまま時間切れになれっ。生放送だもん、あん
まり悩む時間だってないはず。ほら、ね、そろそろ次のVTRとか
にいっちゃってよ。いってよ!
なんて私の祈りも虚しく、すぐにぱっと顔を輝かせたオリーは、
なぜか自信満々に言ってのけたのだった。
﹃オッパイ大きいですね!﹄
ビール樽で溺死すればいいのに、このドイツ人。
その後、一週間鈴木家に出入り禁止の上、完全なる無視をくらっ
たオリーが本橋さんに泣きつき、事の真相を明かされることになる。
それはふたりがドイツで同じクラブにいた時のこと。チームメイ
トであるイタリア人に、本橋さんが日本語を聞かれたことが原因だ
った。
﹁女の子にカワイイねって、日本語ではどう言うの?﹂との質問
に、いたずら大好きな本橋さんはこう答えたというのだ。﹁オッパ
イ大きいですね﹂だと。
それを伝え聞いて真面目にメモまで取って勉強してしまったオリ
ーは、だから私の魅力について聞かれた時に答えたのだ。﹁可愛い
ところです﹂と、教えられたその日本語で!
必死に土下座をする二人の男に、私はもうため息しか出てこなか
った。
そして決める。すぐにでも独和辞典を買いに行こうと!
その後、この話の顛末を聞いた本橋さんの奥様から、本橋さんが
苛烈な制裁を受けたというのはまた別のお話︱︱。
112
113
そして私は途方に暮れる ︽オリーと麦子︾︵後書き︶
オリーが作っていたのは、レバーケーゼ。そして日曜夜のサッカー
番組といえば、あれです。
おっぱい云々の話は、元大リーガー佐々木選手の話を元にしました。
なにやってんだ、佐々木!
114
緑の海の騎士は恋する 1 ︽入江君と駒子さん︾
あ、と思った時にはもう遅かった。
突き刺さるような衝撃と、あとからやってきた痛み。ひどい、苦
痛。息が苦しくて、暴れ出す前に全身から力が抜けていくのがわか
る。誰かの声。悲鳴。真っ白になっていく意識の中で、俺はただ緑
の海に沈む幻を見ていた。
最初に目に飛び込んできたのは、今にも泣き出しそうな大きな茶
色の瞳。それから、肩の辺りでどことなくユーモラスに揺れる、ポ
ニーテール。
﹁⋮⋮内藤、さん?﹂
乾いた喉からなんとか声を絞り出すと、目の前の見慣れた顔がぐ
ないとうこまこ
しゃりと歪んだ。まだぼんやりと霞む頭であれっと思う間もなく、
俺の身体にぎゅうっと彼女︱︱内藤駒子さんが抱きついてくる。柔
らかで温かな感触。
そこでようやくばっちりと目が覚めた俺は、みっともなく動揺し
てなんとか起きあがろうと試みる。そういえば、俺、なんで寝てる
んだろう?
そんな俺から身体を離した内藤さんは、身を起こそうと慌てる俺
をベットに押しとどめた。
115
﹁駄目だよ、入江君。もう少し寝てなくちゃ! 今、先生呼んでく
るからね!﹂
﹁あ、いや、その、俺⋮⋮どうして﹂
﹁覚えてないの?﹂
きょろきょろと辺りを見回せば、ここはどこかの病室らしかった。
クリーム色の清潔な室内には、俺と内藤さんのふたり。
寝かされていたベットには、今まで首辺りを冷やしていたと思わ
れるアイスノンがひとつ。
ずきっと痛んだ頭に手をやれば、額にはガーゼが当てられていた。
それに触ったとたん、その時の記憶が鮮やかに甦ってくる。
前がかりに攻め込んでいたところへのカウンター。
懸命に戻ってくるDF。間に合わない。
その網を抜けて正面にやってきた敵FW。手強い相手。一対一。
少し焦った相手が蹴りこんできたボールを受け止める。いや、取
りこぼす。まずい。
転がった身体を伸ばし、ぽつんと残されたボールに必死に近づく。
もう少し。
グローブに包まれた手がボールに届く。抱え込もうとした、そこ
へ。
迫るスパイク。衝撃。
白。
暗転。
﹁ああ⋮⋮!﹂
一気に戻ってきた記憶に、俺は思わず顔をしかめた。
サッカー選手として、ゴールキーパーとして多くの試合でひやり
とした経験はあるが、こんな風に激突したことは初めてだ。しかも、
116
フィールドで気を失うなんて。
﹁そうだっ、試合! 試合はどうなったの、内藤さん!﹂
﹁起きちゃだめだって! 大丈夫、試合勝ったよ。佐々さんが交代
して﹂
﹁そっか⋮⋮よかった﹂
ほっと息を吐くと、安心したからなのか急に痛みを意識して、小
さく呻いてしまう。すると内藤さんは顔を青くして、﹁ごめんっ、
すぐ先生呼んでくる!﹂と大慌てで病室から出ていった︱︱と思っ
たら、すぐに引き返して来た。そして、どことなく決まり悪そうに
俺を見て言う。なんだ?
﹁あの、目が覚めたらナースコールしてって言われてたんだった⋮
⋮﹂
赤くなったその顔に俺は思わず吹き出して、そんな俺を見てほっ
としたように、内藤さんは照れたような笑みを浮かべた。
俺が頭の上にぶらさがるナースーコールを押すと、内藤さんは横
になってる俺のところまで近づいてくる。そして、なんだろうと見
ている俺の頭に、恐る恐るそうっと触れた。びっくりして彼女を見
上げれば、満面の笑顔。
﹁入江君頑張ったね。あそこで身体張って止めてくれたから、今日
勝てたんだよ﹂
その言葉に、俺は見る見るうちに顔が熱くなるのを感じた。そし
て離れていったその手を惜しみながら思う。
ああ、俺、内藤さんのこと本当に好きなんだ︱︱と。
117
***
俺がゴールキーパーを目指すようになったのは、今から十五年前
のこと。テレビであるひとりのキーパーの言葉を聞いてからだった。
それは彼のチームがアウェイに乗り込んでの試合。当然、サポー
gibt
gegen
ターは相手側が多く、常にトップに君臨する彼のチームはひどいブ
ーイングの嵐に見舞われていた。
wird
schoeneres
Stadion
was
ganze
そんな中、彼が放ったひと言。
﹁Das
sein,
nicht.﹂
uns
es
︵スタジアム全体が俺達の敵だ、こんなに素晴らしいことはないだ
ろう?︶
ひどく楽しそうな笑顔の中で、挑戦的に輝く青い瞳が強烈に俺の
印象に残った。
それまで背が飛び抜けて高いから、との理由でキーパーをさせら
れていた小学生の俺は、その日から熱心に練習を重ねるようになる。
今まで目立つポジションであるFWやMFなんかを羨ましく感じ
ていたが、それは違うってことに気付いたんだ。キーパーって格好
いい、心の底からそう思わせてくれた。
俺もいつかあんな風になりたい。
まるで神様を崇めるような気持ちを抱いてきた、その世界的ゴー
ルキーパー。元ドイツ代表オリバー・ビルケンシュトックさんは今、
俺の目の前で︱︱おにぎりを頬張っている。
﹁イリエ! 頭おかしい?﹂
118
練習場に入ってきた俺に気がついたオリーさんが、あらゆる意味
で足りない日本語をかけてくる。もはや、その言葉の意味を正しく
理解することにも慣れてきた、冬。
俺は笑って彼に近づいた。
﹁もう大丈夫ですよ。今日から練習復帰っす!﹂
冗談めかしてこんこん、と自分の頭を叩いてみせると、おにぎり
を飲み込んだオリーさんは満面の笑顔になった。多分、子供だった
ら泣く感じの。
そうしてそのでかくて厚い手のひらで、俺の頭をわしわしと撫で
る。これのほうが、スパイクと激突した時よりも痛い気がするんだ
けど。
﹁Bravo、Bravo、イリエ! 身体は大切に。だけど、キ
ーパー、あの気持ちも大事ですよ﹂
﹁あっ、ありがとうございますっ﹂
憧れの人からかけられた賞賛の言葉に、俺は涙ぐみそうになって
頭を下げる。その俺の肩をばしばしと叩いていたオリーさんが、ふ
っと視線を俺の背後に流した。
それにつられるようにして振り向けば、そこにはいつもの茶色い
ポニーテール。ユニフォームを両手に抱えた内藤さんの後ろ姿があ
った。
冬の寒空の下でも、ぴんと伸びた背筋が綺麗だと思わず見とれる
俺の頭を飛び越すように、オリーさんが彼女の名を呼ぶ。
﹁コマコ!﹂
﹁あっ、オリーさん、と入江君!﹂
119
その声に驚いたようにこちらを振り向いた彼女は、オリーさんと
俺を見てにっこりと笑った。俺の見間違いでなければ、特にオリー
さんにむけての笑顔だった気がするけど⋮⋮このふたり、いつの間
に名前で呼び合うようになったんだろう。
ついこの間までは、いかつくて大きくて、どこか厳格な雰囲気を
発するオリーさんのことを、内藤さんはちょっとだけ苦手にしてい
たはずなのに。
嬉しそうにこちらに駆け寄ってくる彼女に、俺はざわざわとする
胸の内を隠すように、笑顔を返した。
﹁入江君、もういいんだ?﹂
﹁この通り、ばっちり。あの時はついててくれてありがとう、内藤
さん﹂
﹁い、いいよう、そんな! 入江君はこっちにご家族いないし、頭
は本当怖いからね﹂
改めて頭を下げた俺に、内藤さんは少し顔を赤くして首を振る。
俺が病室で目を覚ます前から、内藤さんがずっとついていてくれ
たんだと、さっき本橋さんが教えてくれた。その顔がにやにやして
いたのは、この際忘れることにする。
﹁コマコ、いい子ですね﹂
俺たちのやり取りをそばで聞いていたオリーさんが、そう言って、
さっき俺にしたように内藤さんの頭を撫でた。俺よりは少し、優し
い力加減で。
すると、内藤さんは少し首をちぢこませ、ひどく眩しそうにオリ
ーさんを見上げた。その表情に俺はあっと軽い目眩を覚える。
だって、それは︱︱。
120
dann!﹂
﹁おーい、オリー! ちょっといいかあ!﹂
﹁Ja! イリエ、コマコ、Bis
遠くから彼を呼ぶ声に答え、オリーさんは俺たちに軽く手を振る
と、そちらのほうへと走って行ってしまった。
なんとなく、自分的に微妙な雰囲気になってしまったその場を誤
魔化すように、俺はオリーさんの消えたほうを見ている内藤さんに
声をかける。
﹁あー、内藤さん、オリーさんと仲良くなったんだ?﹂
俺のその言葉にはっと我に返った内藤さんは、顔を真っ赤にして、
さっきよりも激しく首を振る。もう、それだけで答えをもらって気
がしないでもないが。
﹁なっ、仲良くなったっていうか、あの⋮⋮話してみたらなんてい
うか、イメージと違って。その、優しくてっ。だから、怖くなくな
ったというか⋮⋮﹂
﹁そ、そうなんだ。わかるよ。ぱっと見はすっげえいかついけど、
中身はけっこう可愛いとこある人だよな﹂
﹁そうなのっ! 可愛いのっ! やっぱり入江君、いつも一緒にい
るからわかるんだね!﹂
俺の何気ない感想に、内藤さんは目をキラキラさせて大きく同意
する。その笑顔に俺は引きつった笑みを返すしかない。
後半四十分。一対零で迎えたところで、だめ押し点を入れられた
気分。
俺はほんのわずかに残された期待にすがるように、内藤さんに問
いかける。
121
﹁もしかして、オリーさんのこと好き、とか?﹂
瞬間、これ以上ないってくらいに赤くなった彼女は、手にしてい
たユニフォームをすべて芝生に落としてしまった。あー⋮⋮。
小さく悲鳴を上げてそれを拾い始める彼女を手伝いつつ、俺は複
雑なため息をついてしまった。それをどう捉えたのか、内藤さんは
慌てて俺に言い募る。
﹁ち、違うよっ! じゃなくて、その、間違ってはないんだけどね
! あの⋮⋮﹂
ちょっと悲しそうに眉を下げて、口だけで微笑む。
なんだかこっちまでぎゅっと胸を掴まれたような、そんな切ない
表情をして彼女は言う。
﹁知ってるんだよ、婚約者さんのこと。だからね⋮⋮﹂
片想いなの、となぜかすごく嬉しそうに呟いて、﹁秘密だからね
!﹂と俺に念を押し去っていった。俺はなんとかそれに頷き返し、
そうしてその小さな背中を呆然と見送る。マジかよ。
別の意味で痛くなってきた頭を抱え、俺はゾンビのようにふらふ
らとロッカールームへ向かったのだった。
いりええいじ
入江衛司、二十五歳。
J2ゼームレング街田の正ゴールキーパー、三年目。
今、この瞬間、片想いから失恋に降格が決定しました︱︱。
122
緑の海の騎士は恋する 1 ︽入江君と駒子さん︾︵後書き︶
オリーにプロポーズの言葉を伝授してくれたキーパー入江君の話。
少し続きます。
123
緑の海の騎士は恋する 2
オリーさんの婚約者である鈴木麦子さんを、ひと言で表すなら﹃
ミニハム﹄だ。
癖のないさらりとした肩までの黒髪に、同じ色のくりっとした瞳。
つんと通った鼻に桜色の唇。それがすべて小さな顔に可愛らしく配
置されて、華奢な身体とも相まってすごく美少女なのだ。美女、と
呼ぶべき年齢だけれども。
オリーさんと並べば、どこからどう見ても立派な美女と野獣。ゴ
リラと小学生。犯罪者とロリータ⋮⋮は言い過ぎか。とりあえず、
そんな麦子さんが俺と同い年だってことは驚きだった。
﹁入江君、どうしたの? 遠慮しないでどんどん食べてね!﹂
﹁あ、はいっ。頂いてます!﹂
黒目の大きな瞳に見つめられ、俺はどきりとする胸を誤魔化すよ
うに、鍋から白菜と肉をお椀に移す。
すると今度はその隣に座っているオリーさんが、俺に大量のしら
たきを突き出した。ええと、食べろってことですかね。
﹁オリーのしらたきランドゥ、直輸入です!﹂
﹁鍋の中に勝手に領土作らないっ! そもそもなんでしらたきかな
あ?﹂
そう文句を言いながらも、麦子さんはオリーさんのお椀に野菜と
肉を取り分けてやる。その甲斐甲斐しい仕草に、もはやオリーさん
124
のいかつい顔はとろけかけていた。
これは、もしや俺ってお邪魔なのでは?
そもそも、なんで俺がこの熱々なふたりの夕食にお邪魔しいてる
かというと、すべては先週の怪我が発端だった。
あの後病院で精密検査をし、異常なしの診断は出たものの頭部を
強打して意識を失ったことを考慮に入れて、俺は三日間の休養を命
じられた。そして、後々何か危険な症状が出た時にひとりでいるの
は危ない、という判断で俺はオリーさんに連れられ、彼の家へとや
ってきたのだ。
憧れの人のプライベート空間万歳!とここぞとばかりに、現役時
代のユニフォームだとかグローブだとか見せてもらったり、この間
の試合についてアドバイスをもらったりと、非常に濃いサッカー的
時間を過ごしたのは夕飯まで。
会社から帰宅した麦子さんが、お鍋の材料片手にやって来たとた
ん、俺の憧れのオリーさんは彼女にメロメロなただの人になってし
まった。
何だかんだと彼女にちょっかいをかけては、怒られる。それがま
た嬉しいらしく、とにかくでかい身体を小さな麦子さんにまとわり
つかせていた。なんていうか、空気が桃色。
支度を手伝おうとして、﹁怪我してる人は安静に!﹂と言われた
俺は、そんないちゃいちゃっぷりをただ見ているしかなかったのだ。
さっきのまでの二人のラブラブっぷりを思い出し、思わず大きな
ため息をついた俺に、麦子さんが心配そうな目を向ける。
﹁疲れた? 気分悪い?﹂
﹁あー、ええと、鍋とかってすっごい久しぶりだなあと思って﹂
そうだ。なんかこう座り心地が悪いというか、むずむずするよう
なこの気持ちはなんだろうと思えば、誰かとこうして鍋をするのが
久しぶりだったんだ。
125
チームメイトとももちろん飯を食べに行ったりはするが、たいて
い大盛りのできる定食屋なんかだし。
﹁そうなんだ。じゃあ、これからも時々鍋とかしようよ、他の人も
誘って﹂
﹁Ja! モトハシとフラウ、それとイリエのためにコマコも呼び
まするね!﹂
無邪気な麦子さんの提案に、オリーさんが笑顔で付け加えた最後
の人物の名前に、俺は思わず咳き込んでしまう。俺のために内藤さ
んって、それって!
涙目になりながらオリーさんを見れば、彼はいつもはへの字にな
っている口をにんまりと笑みの形にしている。な、なんでバレてる
んだろう!
﹁オリーは、とっても観察うまいですよ?﹂
いやいや、完全に自分にむけられてる好意には気付いてないです
よね!?
得意げに胸を張るオリーさんに、麦子さんの前でそんなことを突
っ込めるはずもなく、俺はさっき彼に入れられた大量のしらたきを
食べてその場をしのぐ。
その俺の微妙に複雑な表情を読んでくれたのか、麦子さんからは
特に追求もなく、その後は穏やかに夕食を終えたのだった。
だけど、俺でもあてられまくったあの二人のところに、オリーさ
んに片想いな内藤さんが来るってのはまずいよな、いくらなんでも。
126
でも、オリーさんのことだから何の悪気もなく誘いそうだし、内
藤さんは内藤さんでちょっと天然入ってるから頷いちゃいそうだし
なあ。あああ⋮⋮どうする、どすうるよ、俺!
なんて広い居間のソファーで唸り声を上げると、シャワーを浴び
に行っていたオリーさんがいつの間に戻って険しい表情でこちらを
見ていた。
﹁あ、オリーさん﹂
﹁イリエ、頭悪い?﹂
﹁え﹂
突然の言葉に、俺はその意味を理解しかねる。頭は悪いけど、な
んで?
するとオリーさんは自分の額を指さし、それから俺の頭を同じ手
で示す。ええと、ああ。俺が唸ってたから、また頭が痛み出したと
思って心配してくれたのか。
﹁平気っす。すみません、迷惑かけて﹂
﹁Nein、オリー迷惑ないよ? 接触、キーパーは怖いです。だ
けどイリエ、怖がってはダメ。乗り越えるよ﹂
真剣な瞳でそんなことを言うオリーさんに、俺は戸惑いつつも頷
いた。確かにひどい出来事だったけれど、軽い脳しんとうで済んだ
し。ちょっとくらい額に傷が残るかもしれないとは聞いたけど、ま
あ男だしな。
そんな俺をじっと見ていたオリーさんは、もう何も言わずに少し
だけ息を吐く。そうして﹁シャワー空いてます﹂とだけ言うと、台
所へと姿を消した。
この時、オリーさんが伝えたかったことを、俺は次の試合で身を
もって知ることになる。
127
***
それは怪我から復帰した最初の試合。
残り試合数のなくなってきたこの時期、アウェイでの貴重な勝ち
点がかかった試合だった。前半、キャプテン河合さんのシュートが
決まり、1対0。相手は格下で、きちんとやれば勝てる相手だった。
なのに︱︱。
ネットに突き刺さったボールが、跳ね返って俺の目の前を転がっ
ていく。それを嬉しそうに抱え上げて走っていく背中に、駆け寄っ
てきた相手チームの誰もが喜んで、抱きついて。
それを見てうなだれるチームメイトたちに、俺はなにひとつかけ
られる声を失ってしまった。
アウェイで勝ち点を逃した。
今のチームの得点を考えれば、ひとつだって取りこぼせないはず
だ。チームは今、二位につけている。J2優勝だって狙える位置だ。
この間と同じ状況。DFを抜かれて迫ってくるFWとの一対一の
場面で、いつもの俺だったら余裕を持って処理できていたはずだっ
た。
それが、芝生に縫いつけられたように動かない両足。全身から吹
き出す嫌な汗。仲間が俺にむかって何かを叫んでいるのに、まるで
耳に届かない。なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ。
そして我に返った時にはもう、そこには相手チームの歓喜の瞬間。
俺は一歩も、動けなかった。
あの時の痛みを鮮明に思い出した俺は、ただひたすらに恐れてし
まったのだ。自分が立つ、この緑の海を。
128
﹁入江、俺が言いたいことはわかってるな﹂
結果、1対1での引き分けとなった試合の直後。
誰しもが険しい顔でロッカーに戻っていく背を呆然と見ていた俺
に、監督がそう声をかけた。俺が拳を握りしめ﹁はい﹂と答えると、
監督は小さく頷きこちらに背を向ける。
﹁チームが今大事な時だってことはお前もわかるだろう。俺がどん
なにお前を使ってやりたくても、今日みたいんじゃ降ろすしかない
からな﹂
次は絶対に、そう言おうとして俺は唇を噛んだ。
次こそはなんてそんな甘いこと、通用するはずがない。無言で立
ち去る監督の背が視界から消えても、俺は自分への苛立ちをうまく
処理できずに立ち尽くしていた。
﹁くそっ﹂
吐き捨てて、握りしめた拳を壁に叩きつけようと振り上げる。そ
の手を、いつの間に近くに来ていたのか、内藤さんが押しとどめた。
そんなに身長が高いほうではないのに、必死に手を伸ばして、俺の
拳を両手で包む。
その温かさに俺の身体から力が抜け、静かに手を降ろすと内藤さ
んはほうっと安心したように息を吐き出した。そして、ぎこちなく
俺に微笑みかける。
﹁駄目だよ、入江君。手を傷つけたら、試合に出られなくなっちゃ
うよ﹂
129
﹁内藤さん⋮⋮﹂
言われて初めて、今自分が何をしようとしたのか気付く。この手
を壁に叩きつけて、それで俺はどうしようと?
怪我をすればここから逃げられる。怪我をすれば、駄目だったこ
とに理由がつく。諦められる。仕方がなかったんだ、そう自分誤魔
化して︱︱。
恥ずかしい。
一瞬でも楽な方を無意識に選択しかけた自分が、ひどく醜い。
本当に悔しいのは、責めたいのはチームメイトたちだろうに。そ
れなのに、俺は今自分のことしか考えてなかった。そうして暗い沼
に沈み込みそうになった俺の頬に、ふっと優しい温度が触れる。
驚いてぎゅっと閉じていた目を開ければ、この間俺を覗き込んで
いた茶色の瞳が深い感情をたたえてそこにあった。
﹁格好悪くても、大丈夫。入江君は、大丈夫﹂
頬を包んだ手が俺をなだめるように、目の下を小さく撫でていく。
傷つけないようにと気遣われるその言葉が、今は痛い。
俺はその手をそっと外し、きっとひどく不細工だろう顔をそらし
た。かっこわりい。
﹁無責任なこと、言うなよ︱︱﹂
こんな気持ち、何もわからないくせに。
絞り出すような俺のその拒絶に、彼女が目を大きく見開いたのが
わかった。
柔らかなそこに俺が今、たった今、傷をつけた。それは荒んだ俺
130
の胸の内に、どこかほの暗い喜びを与えて⋮⋮それだけだった。
さっきの恥ずかしさと比べものにならないくらいの、自己嫌悪。
どす黒い独占欲。嫉妬。自分の苛立ちを彼女にぶつけて、それで満
足するなんて︱︱最低だ。
凍り付いたように立ち尽くす内藤さんをその場に残し、俺は振り
切りようにしてロッカールームへと走り去った。ただ、消えてしま
いたかった。
131
緑の海の騎士は恋する 3
余裕がある時には優しくできるなんて、そんなの当たり前なんだ。
ぎりぎりの淵に立った時にどれだけ色んなことを考えられるのか、
それが本当の気持ちのような気がする。
それなのに、俺は初めて経験する大きな挫折に、ただただ戸惑う
ばかりだった。
﹃今日は佐野でいくから﹄
告げられた言葉に、俺はなにも言えずにただ奥歯を強く噛み締め
た。
チーム状況を考えたら、当然の選択だ。使えるかどうかわからな
い俺よりも、安定している佐野を出す。俺たちはプロなんだ。これ
は、仲良しごっこじゃない。
ベンチの中で、ただじっと目の前の試合を見つめる。それは不思
議な感覚だった。
プロになってから七年、幸運なことに俺はほとんどの時間をフィ
ールドで過ごしてきていた。
高校卒業してすぐにプロになり、とんとん拍子で結果を残し、J
2のこのチームで今は正ゴールキーパーをやれている。
考えてみれば、こんな風に立ち止まって考える時間はまったくな
かった。小さな挫折は確かにあったけれど、それも努力で乗り越え
てきた。
だけど今は、どうやって何をすればいいのか、全然わからなくな
ってしまったんだ。そんなこと言ってる場合じゃないのに、変なプ
132
ライドが邪魔をして、ゴールに立つのが怖いなんて誰にも言えない。
考えないようにすればするほど、今度は練習中にも動きはぎこち
なくなる。そうして余計なところに思考を取られている分、判断力
も何もかもが遅れてしまう。泥沼だった。
今週の俺の練習を見ていれば、誰だって今日の試合には出さない
だろう。
内藤さんとも気まずく、俺はできるだけ彼女を避けていた。
ずるい、卑怯な奴。苛立ちを八つ当たりしたのは俺なのに、謝ら
なければいけないのに、俺はそこから逃げ続けている。時々遠くか
ら、彼女が心配そうな悲しそうな視線を投げてくるのに気がついて
いながら、俺はそれを無視していた。 もう、何もかもわからない。
どうしたらいいのか。
﹁イリエ﹂
隣に座っていたオリーさんが、そんな俺に声をかけてきた。
飽きもせずに暗い思考の沼へと沈み込んでいた俺は、はっとして
真っ直ぐに試合を見つめるオリーさんの横顔を見上げた。
﹁今日の試合のあと、話しますよ﹂
﹁え⋮⋮?﹂
﹁練習場、オリーは許可を取りました﹂
淡々とこちらをむかずに続けられたその言葉に、俺は面食らう。
それは試合の後に練習場に行けってことだろうか。使用許可を取
ったってことは、特別メニューか何かがあるのか?
わけのわからないまま、それでも俺が﹁はい﹂と返事を返すと、
オリーさんは黙って頷いた。
その日の試合は2対0で街田の勝利で終わり、俺は複雑な気持ち
のまま、笑顔で帰ってくるチームメイトたちを迎えたのだった。
133
***
いつもと違い、ほとんど言葉を発することなく練習場へとやって
来たオリーさんと俺は、そこで先に来ていたらしい本橋コーチと合
流した。
相変わらず飄々とした本橋コーチは、内心どきどきしている俺を
見てにんまりと笑う。
﹁おまえ、ここでオリーにぼこられると思ってただろ﹂
﹁えっ、いやっ、そんな!﹂
﹁オリー、そんな乱暴したことないですよ、モトハシ﹂
悲しげに眉をひそめてそんなことを言うオリーさんに、コーチと
俺は思わず﹁いやある!﹂と同時に突っ込んでしまった。
だってオリーさん、あなた昔なかなかPKを蹴らない相手チーム
の選手の、首根っこ掴まえて引きずり回したりしましたよね。
加えて、監督に﹁相手に噛みつくつもりでいけ﹂って言われたか
らって、相手選手の耳噛んだりしてましたよね!?
俺たち二人のその視線をものともせず、オリーさんは﹁試合して
る時のオリーはオリーじゃないのです﹂と、しれっと言い放った。
﹁イリエ、身体暖めてゴールに立ちましょう。オリー、蹴ります﹂
﹁え、あ、は、はいっ﹂
ゆるみかけた空気を一新するように、オリーさんが厳しい顔のま
ま俺にそう指示する。
慌てて着ていたベンチコートをその場に脱ぎ捨て、寒さに固まっ
134
ていた身体を伸ばす。素早く、けれど怪我をしないように身体を温
めた俺は、急いでゴールマウスへと向かった。
その間に本橋コーチがボールを用意し、オリーさんに渡す。
﹁オリー、まっすぐ走ります。まっすぐ蹴ります。止められますね
?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
予告されたシュートに、俺はグローブをはめながら答える。
そんな風に言われること自体、俺にとって⋮⋮いや、キーパーに
とって侮辱されたようなものだ。
険しくなった俺の顔を見て、オリーさんは満足そうに頷く。煽ら
れたんだ、ということはわかったが、点いた火を消そうとは思わな
い。
少し距離をとったオリーさんが軽く手を挙げ、始まりを合図する。
俺はそれをじっと睨み付け、いつものように両足を小刻みに動かし、
中腰の姿勢を作る。落ち着け。
真正面から宣言通りにオリーさんが走り込んでくる。緑の海を泳
ぐように。現役を離れてからしばらく経つが、その走りやボールさ
ばきに衰えは見られない。
その大きな姿がセンターラインを越え、こちらに迫ってきた、そ
の瞬間。
﹁っ!﹂
意志とは関係なく震え出す両の手。額から流れる汗。フラッシュ
を焚いたように、怪我をした時の光景が次々に甦る。 痛み、より
も恐怖。
違う、違う違う!
今はあの時じゃない。怪我もしていない。怖くないはずだ。怖い
135
自分なんか必要じゃない!
極度の興奮状態なのか、緊張状態なのか、迫ってくるオリーさん
がひどくゆっくりと動いている。その右足が思い切りボールを蹴り
飛ばす。ゆっくりと、でも確実にこちらへと飛んでくるボール。
動け、動かなければ︱︱!
ぱちり、と瞬きをひとつ。固まったままで視線を横にやれば、そ
こにはネットに当たってはじき返されたボールが転がっていた。無
意識に止めていた息を、吐く。
まっすぐに来ると予告され、実際にまっすぐ入ってきた、そのシ
ュートを。俺は、一歩も動くことができず、止められもしなかった。
力が、抜ける。
放心状態になっている俺を見て、それでもオリーさんは﹁もう一
回やりますよ﹂とだけ言い残し、またセンターラインの向こうへと
歩いていく。その背中が、やけに大きく見えた。
それから何度も何度も、それこそ何十回と同じことを繰り返した
が、俺の身体は慣れるどころかますます固くなり、ゴールを許し続
けた。
遊びでも、練習でも、ゴールを入れられ続けるということは、キ
ーパーにとっては辛い。
数え切れないシュートのあと、俺はついにゴール前で膝をついて
しまった。ぽたぽたと芝生にこぼれ落ちていくのが汗なのか涙なの
か、わからない。
なんだかおかしくなって、笑い声を上げる。なんて、滑稽な自分。
﹁かっこわりい。こんなに自分が弱っちいなんて、思ってもみなか
った⋮⋮﹂
自嘲気味に呟いたその言葉に、目の前に立ったオリーさんは少し
136
の沈黙の後口を開いた。
﹁弱いイリエは、いらないイリエですか?﹂
﹁え⋮⋮﹂
﹁弱いイリエ、全部捨てるですか? イリエ、今までいっぱい頑張
りましたね。でもそのたくさん、ひとつのため諦めたら、全部ダメ。
全部やらないことになってしまうですよ﹂
見上げれば、すっかり暗くなったピッチを照らす光に影を作りな
がら、少し悲しげな顔をしたオリーさんと目が合った。透き通るよ
うな青い瞳に、息を飲む。
ここで諦めたら、全部無駄になる。
今まで俺がやってきたことが、全部やらなかったことに変わって
しまう。
﹁怖いのは怖いこと違いますよ、イリエ﹂
膝をついたままの俺と視線を合わせるようにして、しゃがみ込ん
だオリーさんが言う。俺は汗と涙とでぐしゃぐしゃになった顔のま
ま、その瞳を見つめた。
﹁怖いのは、怖いこと怖いと思うイリエですよ﹂
﹁怖いことを怖いと思う、俺⋮⋮?﹂
よく意味がわからずにきょとんとした俺に、オリーさんの後ろか
ら歩み寄ってきた本橋コーチがフォローを入れてくれる。
﹁あー、つまり、だ。恐れることを恐れるな、それを恐れる自分を
恐れろってことかな?﹂
﹁Ja!﹂
137
言われたその言葉の意味を考え、俺ははっと目をみはった。
弱い俺はいらない俺?
︱︱違うだろ!
迫ってくる相手選手も、避ける間もなくあたったスパイクも、痛
みも、怖かった。でもさっきまでの俺は、怖かったなんて認められ
なかった。そんなこと、情けないと思ってた。
でも、違うよな。そうじゃないよな。
そんなの、怪我をすれば怖いと思うのは当たり前だ。痛みを覚え
た身体が反射的に逃げようとするのだって。俺が怖がっていたのは
そんなことじゃない。俺がずっと怖がって、認めたくなかったのは、
怖がっている自分だった。
nichts! イリエは緑の海のリッタ
好きな人を傷つけてまで、守っていたのはそんなちっぽけな自分
macht
だったんだ。
﹁Das
ーですよ!﹂
﹁緑の海の、リッター?﹂
﹁騎士ってことだ。緑の海の騎士﹂
満面の笑みで俺の肩を叩いたオリーさんの言葉に、本橋コーチが
意味を話してくれる。
緑の海の騎士。
なんだかその言葉がひどく勇ましく、俺の胸の中にすっと入り込
んだ。ぎゅっとそこを握りしめれば、温かい何かが沸き上がるのを
感じた。腕でぐいっと顔を拭い、俺は前を向いて立ち上がる。
︵格好悪くても、大丈夫。入江君は、大丈夫︶
あの時の内藤さんの言葉が脳裏に甦り、俺は大きく頷いた。
138
俺はもう、大丈夫。
そんな俺の様子を見ていた二人は顔を合わせ、なぜかにやり、と
妙な笑みを浮かべて見せた。その小学生男子的な笑顔に、俺は嫌な
予感を覚える。
﹁イリエ﹂
﹁入江くーん﹂
﹁な、なんですか、俺なんかしましたかっ﹂
焦って訊ねる俺の後ろを、本橋コーチがちょいちょいっと指さし
た。その仕草に眉をひそめつつ俺が後ろを振り返ると、そこには︱
︱。
﹁なっ、内藤さん!﹂
﹁ご、ごめんねっ、大事な時に! あのね、なんかもうずっとだか
ら、少し水分とかとったほうがいいかもって思って、えと、これ⋮
⋮﹂
俺以上に慌てた様子の内藤さんは、あわあわとしながらもタオル
とスポーツドリンクを差し出してくれた。いつものように。ひどい
ことを言ってしまった、俺に。
受け取っていいのかと思いながらも、必死にそれをこちらに差し
出している内藤さんに気圧され、恐る恐るそれを受け取った。
とたん、今にも泣き出しそうだった内藤さんの顔が、一瞬にして
ぱあっと晴れやかな笑顔に彩られた。その不意打ちの笑顔に、俺の
胸が性懲りもなく高鳴った。
﹁内藤さん、俺⋮⋮﹂
﹁待って、入江君! 私っ、よ、余計なこと言って、ごめんなさい
!﹂
139
あの時のことを謝ろうとした俺を遮って、なぜか内藤さんのほう
が頭を下げる。
俺はただそれにびっくりして、言葉を詰まらせた。なんで彼女が
謝るんだろう?
そう思って眉を寄せた俺の顔をどう見たのか、内藤さんはなぜか
顔を真っ赤に染めて続きを口にする。
﹁私、すっごい嫌なこと考えたの! 入江君が大変だってわかって
たのに、なんでかわからないけど、私が一番に慰めたかったの。一
番最初に大丈夫って言ってあげたくて⋮⋮なんか自分のことばっか
り優先して、入江君のこと傷つけちゃった⋮⋮﹂
﹁え﹂
おい、ちょっと待てよ。それって、それって、そういうことです
か!?
今俺が考えたその予測が正しいのかを判定してもらいたくて、さ
っきまでそばで見ていたオリーさんと本橋コーチの姿を探すが、彼
らはいつの間にかどこかへと立ち去った後だった。ええええ。
﹁本当に、本当にごめんなさいっ﹂
また泣き出しそうな顔になってしまった内藤さんの頬を、俺は慌
ててグローブを外した手で撫でる。突然の接触に少しびっくりして
身体を強張らせた彼女は、それでも俺の手の感触に安心したように
瞳を閉じた。
ええええええええ。
待て待て待て待て、落ち着け俺!
確認⋮⋮そうだ、確認だ。チャンスだと思って攻めていっても、
カウンターくらってがら空きのゴールに突っ込まれたんじゃあ、あ
140
まりにひどい。
よ、よおし。
﹁ええと、その⋮⋮こんな時になんだけどさ。内藤さんって、オリ
ーさんのこと⋮⋮好きなんだよね?﹂
ものすごい不自然にどもりながら、俺が目を閉じて俺の手に頬を
寄せていた内藤さんに尋ねると、彼女はきょとんとした顔をしてか
ら大きく頷いた。あ、やっぱり?
﹁こ、婚約者がいてもいいくらい、好きなんだよ、ね?﹂
﹁うん。婚約者さんをものすごく大事にしている、オリーさんが好
きだよ?﹂
﹁え?﹂
﹁え?﹂
確認に返ってきた言葉が、ものすごく恐ろしい予想を俺にもたら
した。
オリーさんが好き=婚約者がいても好き=切ない片想い。
オリーさんが好き+婚約者がいる=そんなオリーさんが好き。
あああああれ、おかしいな。これって小さいけど、大きな違いじ
ゃね!?
﹁それ、片想いって言わないよね!? それ、憧れの人ってことだ
よね!?﹂
﹁え、え?﹂
俺の怒濤の突っ込みに、内藤さんが目を白黒させる。そんな彼女
も可愛らしい⋮⋮いや、そうじゃないだろ、今はそこじゃないだろ
俺!
141
もしかして、もしかしてこの人。
﹁⋮⋮天然?﹂
﹁ち、違うよ! オリーさんは、初恋なの。だって初恋って実らな
いものじゃない?﹂
それに好きな人を大切にしてる人って素敵だし、と続ける内藤さ
んに、俺はなんだかおかしくなってきてしまって、発作的に笑い出
した。
それを見て、最初はむっとしていた彼女もつられて笑い出す。
こんなところにもいた、俺の中の弱い俺。勝手に好きになって、
何にも言わないうちから﹁どうせ﹂って諦めて。振られたら格好悪
いと思って、ただそういうふりをしたんだ。
内藤さんのこと笑えないかも。
さっきまでの俺の気持ちは、彼女にとってのオリーさんと同じだ
った。でも、今は。
﹁俺、君のことが好きだよ。すごく、すごく好きだよ﹂
ひとしきり笑った後にするりと出てきた言葉に、内藤さんどころ
か俺自身まで驚いて赤くなる。あー、言っちゃったよ。そんな気分。
でも、なんだかひどく爽快な感じがして、俺はパニックになりか
けている内藤さんをえいやっと抱き締めてしまった。
﹁いいいい、入江君!?﹂
﹁残りの試合、俺絶対に出るから。そんでもって、一点だって取ら
せない。約束する。だからさ、内藤さん﹂
そこで言葉を区切って、そっと身体を離し、俺は真っ赤になった
彼女の顔を覗き込む。
142
心配してくれたり、俺の言葉に傷ついたり、よくわからない独占
欲をぶつけてみてくれたり。そんな内藤さんの茶色の瞳をじっと見
つめて。
﹁J1に昇格したら⋮⋮っていうか、絶対にするけど。そしたら返
事、聞かせてよ﹂
俺の言葉に、内藤さんは首が千切れちゃうんじゃないかと思うく
らい、何度も何度も頷いてくれた。ああ、もう負けられないなあ。
負ける気もないけど。
久しぶりの晴れやかな気分に背伸びをして、俺はそっと片手を内
藤さんに差し出した。
﹁じゃあ、帰ろっか﹂
﹁⋮⋮うん﹂
乗せられた彼女の手は小さくて、でも温かくて、俺は壊さないよ
うにそっと握りしめる。
練習場の出口へと歩きながら、もう少しだけこの緑の海に彼女と
いたいと小さく願いながら︱︱。
そうして、なんとか戦線に復帰した俺とチームがJ1昇格を決め
て。彼女がどんな返事を俺にくれたのかは誰にも教えない、ふたり
だけの秘密だ。
ただ今は、麦子さんのお鍋が楽しみでしょうがない、とだけ言っ
ておく。
143
緑の海の騎士は恋する 3︵後書き︶
入江君編、終了です。一番難しかった!
144
これもすべて年の瀬の一日 ︽オリーと麦子︾︵前書き︶
下品な言葉や表現が出てきます。苦手な方は注意してください。
145
これもすべて年の瀬の一日 ︽オリーと麦子︾
今日も今日とて、まるでぬいぐるみのように抱きかかえられテレ
ビを見ていた私が、オリーの異変に気がついたのは、夜も大分更け
てから。
夕食の時にビールを飲んで、その後もこたつに入って日本酒をち
ろちろと舐めていたから、最初は酔っぱらっているのかな、と思っ
ていたんだけども。どうも、背中に感じる体温がかなり熱い。しか
も、なんだかゆらゆらと不思議に揺れている。
何事かと包み込まれた腕の中で、背後のオリーを振り返ってみれ
ば、彼はその顔を見るからに赤くして、ぼんやりと宙を見つめてい
た。おかしい。
﹁オリー? ねえ、酔ったの?﹂
﹁コムギ、可愛いですね﹂
へらり、としまりのない顔で笑いかけたオリーの額に、私は手を
当てた。すると、これでもかと言うほどの熱。高熱。心なしかその
青い瞳もうるんで見える。
どんなに体格のいい人でも、風邪ってひくもんなんだなあ、なん
て変に感心している場合じゃなかった。
いつから発熱していたのかわからないが、体力の限界がきたらし
い。そのまま、ずるずると私に覆い被さってくる巨体に、冗談では
なく命の危険を感じる。おおおお、重いっ。
﹁こらっ、オリー! しっかりしてよ! 私じゃ支えきれないんだ
146
ってばあっ﹂
﹁コムギぃ。コムギは柔らかいですね⋮⋮﹂
﹁ちょ、乳を触らないっ!﹂
どさくさに紛れて、するりとお腹から胸に移動してきた手を払い
落とす。その大きな手も、今まで感じたことがないくらいに熱を持
っていた。あああ、もう、どうしよう!
ここが家なら両親に助けを求めるところだけど、あいにく今いる
のはオリーの家。携帯はダイニングテーブルの上。電話はさらに遠
く。
つまり、ここでオリーに押しつぶされかけている私に、助けを求
める手段がない。
い、いやだあああ! ドイツ人に潰されて圧死とかいやだからあ
ああ!
あんまり想像したくない光景が頭に浮かび、私はぶるぶると首を
振った。そうして、なんとか堅固な腕の中でもがき、オリーと向か
い合うような形に持っていく。ひとまず座っていた状態から膝立ち
になって、その重い体を支える。そして正気取り戻させるように、
どかどかと目の前の厚い胸板を叩いてみた。こっちの手が痛くなる
ってどういう筋肉してるの!?
﹁オリーっ、しっかりして!﹂
私の呼びかけに、熱でぼうっとしているらしいオリーは緩慢な唸
り声を上げる。そしてむしろ、さらに強く私を抱き寄せた。オイル
ヒーターのきいた室内は暖かく、少し薄着のオリーの身体から伝わ
る熱が、ダイレクトに私を浸食していく。熱い、熱いってば、オリ
ー!
これ以上ないっていうくらいに密着した肌から、なんだか決して
不快じゃないオリー自身の匂いが鼻を掠める。なんていうんだろう、
147
お日様をいっぱいに浴びたひまわりみたいな。なんだか身体がムズ
ムズする。
膝立ちで抱き締められたまま肩に顎を乗せ、全身で感じる熱さと
苦しさに、私は大きく息を吐き出した。するとオリーの身体がぴく
り、と反応する。そしてその大きな手が私の背骨をなぞり、繊細な
動きでするりとすべり落ちた。
﹁うひゃっ﹂
へ、変な声出た!
びくっと身体を揺らした私の耳に、今度はちゅっともはや聞き慣
れたリップ音。それに一瞬フリーズした思考が、かりかりかりかり
と音を立てて再起動する。
これは、その、あらゆる意味で命が危険!?
続けて首筋からうなじへと触れてくるその唇に、思わずぞくりと
甘い震えを覚え、身体の力を抜きかけて︱︱待て待て待て待て待て
えっ!
﹁いい加減にするっ! 熱が出てるって言ってるでしょうが!﹂
﹁違うです。これは、コムギが欲しいだけ﹂
﹁だが断るっ!﹂
唇の動きがわかるほど近く、耳に低く囁かれた言葉をびしりと却
下。すると抗議の意味なのか、耳たぶを甘噛みされて私はついに実
力行使に出た。
ホールドされて反撃の余裕がない手足は諦め、唯一自由になる頭
を思いっきり左へとスイング。ごすっと音がして、身体に回されて
いた腕がゆるんだ。
﹁コムギ、ひどい。オリー、目が回りますよ﹂
148
﹁私だって痛い! それと、目が回るのは熱が出てるからだから!﹂
私の頭が当たった左頬を押さえ、私から身体を離したオリーは床
にへにょりと転がった。だーかーらあ! ここで寝るなっ。
Nacht⋮⋮﹂
その巨体を私はゆさゆさと揺り起こす。とにかく、寝室まで行っ
てもらわなければ。
﹁こんなところで寝ちゃだめだってば﹂
﹁床冷たい。オリー、ここで寝ます。Gute
﹁寝るなあっ! 寝たら死ぬんだからねっ﹂
むう、と眉を寄せ、ラグの引かれていないフローリングに頬を擦
りつけたオリーは、本気でそのまま寝入る体勢に入ろうとする。リ
ーグも終わり、しばらく休暇に入ったからって、風邪をひいたら何
にもならないじゃん!
私はそのオリーの身体を再び仰向けに転がすと、勢いよくその鍛
えられた腹の上に飛び乗った。こうなれば、両頬を引っぱたいてで
も起きあがらせてやる!
固い腹筋を持っているとはいえ、さすがのオリーも突然腹にのし
かかった重みに咳き込む。苦しげなその様子に、私は上体を曲げて
顔を近付けた。
小さく開かれている唇から、苦しげな荒い呼吸が漏れている。い
つもは白い頬は上気していて、閉じられた目元にまで赤が広がって
いた。
はい、惑うことなく、風邪!
mich
nicht
wohl⋮⋮M
﹁起きてよ、オリー! 私じゃ寝室まで運べないんだって! ねえ
!﹂
hle
heiss⋮⋮﹂
fu
ist
﹁Ich
ir
149
﹁もおお、ドイツ語わからんっ。何でもいいから、早く寝室に行き
たいのっ﹂
もごもごと何事か唸っていたオリーが、私のその叫び声にぱちり、
と目を開いた。
熱のためか少し充血している青の瞳が、ゆっくりと腹の上に乗っ
かっている私を見定める。そうして、その大きな手のひらががしり、
と私の腰を掴んだ。うん?
﹁コムギ、とても寝室行きたいですか?﹂
なんだかひどく真剣な顔でそんなことを訊いてくるオリーに、私
はきょとんとしたまま小さく頷く。そりゃあ、ベットに寝てくれな
いと看病もできないんだけど。
するとなぜか、さっきまで熱に浮かされぼんやりしていたオリー
の顔が、きらきらと輝きを放ち始めた。えええ?
がばり、と見事に腹筋だけで起きあがると、私の腰を掴んでいた
手を滑らせる。えっと思う間もなく、オリーはそのまま立ち上がっ
た。腕の中の私に何の重みも感じないような、その動き。
ぐるん、と回った視界に私が唖然としていると、オリーは私を横
抱きにしたまま歩き出してしまった。まったく意味がわからないん
だけど!?
ダイニングを抜け、廊下を通り、階段を上って目指しているのは
寝室?
﹁お、オリー?﹂
﹁早く行きます。寝室、早くたどり着きます﹂
﹁え、あ、うん?﹂
さっきまでの駄々はどこへやら。なぜか寝室にむかう気満々にな
150
ったオリーが、どこか焦れたような口調で私にそう宣言した。やあ、
まあ、当初の目的は果たされたような気がするからいいんだけども。
でも、何でオリーだけじゃなくて私まで寝室に行くの?
行動理由がわからないままにたどり着いた寝室の、しかもベット
に直行したオリーは、そこに私の身体をそっと横たえた。あれ?
ja?﹂
﹁ま、待って、なんか誤解が生じてない?﹂
﹁Ach
寝転がされた私の上に、ぎしりと音を立ててオリーの身体が覆い
被さってくる。なんていうか、既視感。それも、ものすごく悪い予
感の。
こうなる状況を生み出すような言葉があったかどうか、必死に回
想している私の唇に、あっさりとその熱っぽい唇が重なった。
いつもよりも乱暴に割り開かれた口腔に、侵入してくる舌もまた
熱を持っているのか熱く、私の脳みそは一気に沸騰寸前まで追いや
られる。ちょっと待てえええ!
さんざん私を蹂躙し、下唇を舐めて離れていったオリーに、私は
両手のひらを見せてストップをかける。
﹁病人が何をおっぱじめようとしてるの!﹂
﹁コムギとオリー、今からするは性行︱︱﹂
﹁何でそれは日本語なの!? ていうか、そういうことじゃなく!﹂
満面の笑みで嬉しそうに答えようとするオリーの口を手で塞ぎ、
私は大声を上げる。かかか、風邪っぴきが何を言うか。
﹁落ち着いて。落ち着いてよ、オリー。あのね、オリーは病気なの。
熱が出てるの。だから、大人しくベットに横になって早く寝なきゃ
いけないの﹂
151
﹁熱出たら、汗を掻くのがいいですね﹂
﹁布団を被ってひとりで汗を掻いてよおおおおっ﹂
私の言葉なんぞなんのその、不埒な動きを始めたオリーの手。そ
れにうっかり翻弄されてしまった私は、そのままベットに沈んでし
まうのだった。この元気はどこから来るんだ!
翌朝、いやにすっきりとした顔で見事に熱を下げたオリーとは反
対に、私はそのまま風邪をひいて寝付いてしまったのであった。オ
リーのが遷ったっていうか、これ絶対、冬に服を着ないで寝るのが
悪いんだよ!
人間、肩を冷やしたら風邪をひくんだよ! 例え基礎体温が高い
人に抱き締められてようとも!
またオリーが風邪をひいたとしても、次は絶対放置して家に帰ろ
うと、心に深く刻んだ年の瀬の一日。心配そうに頭を撫でるその暖
かさに私は、再び眠りの中に沈み込んでいったのだった。
152
これもすべて年の瀬の一日 ︽オリーと麦子︾︵後書き︶
クリスマス創作をしようとしたら、クリスマスのクの字も出てきま
せんでした。
153
誰がためにゴリラは笑う 前編 ︽本橋とオリー︾
﹁メリークリスマースっ! いい子のみんなに、サンタさんとトナ
カイさんが来てくれたよーっ!﹂
優しい保育士さんのその言葉に、部屋の中で遊んでいた子供たち
がぱあっと目を輝かせてわっとこちらに寄ってきた。うんうん、つ
かみはオッケーだな!
扉の外で待機している俺たちに、中の彼女から目配せの合図。よ
おし、地域交流、いっちょ頑張りますかあ!
﹁行くぞ、オリー﹂
﹁Ja!﹂
小さく頷きあった俺たちは、派手に目の前の扉を開けて部屋の中
へと突入する。そして、できるだけ子供受けするように楽しそうな
声を上げた。
﹁メリークリスマースっ! つぼみ幼稚園のよい子のみんなーっ、
Weihnachten! オリーサンタですよ!﹂
涼太郎トナカイさんだよーう!﹂
﹁Frohe
トナカイの格好をした俺の後ろから、どう見ても気の早いなまは
げか節分の赤鬼、みたいなオリーが顔を出したその瞬間。園児たち
の期待に満ちた笑顔は凍り付き、そして部屋中が阿鼻叫喚の地獄絵
図と化してしまった。
154
ああ、うん、わかってた。このイベントを引き受けた時から、わ
かってた。こういうことになるって。
大慌てで園児たちをなだめ始める保育士さんたちを見つつ、俺は
ちらりとサンタの格好をしたオリーに視線をやれば、彼は呆然と固
まってしまっていた。そうしてしょんぼりと肩を落とす。
﹁まあなんだ、ほら、お前んとこは悪いサンタもいることだし﹂
﹁でもオリー、今日はシュヴァルツ⋮⋮黒じゃないですよ。赤いの
と白いの、素敵ヴァイナハツマンですよ。良い子、プレゼントあげ
るほうなのに⋮⋮﹂
肩に担いだ大きな袋を床に降ろし、紅白の衣装に白い髭姿の元ド
イツ代表GKは、とうとうしゃがみこんでしまうのだった。
本国でも子供に近づけば泣かれるこの男が、こんな風にその悲し
みを露わにする姿に、俺は少しだけ笑みを零す。前ならば、そんな
素振りは見せずに見方によっては不機嫌そうにも思える無表情でや
り過ごしていたはずだ。人に弱みを決して見せない、緑の海のキャ
プテン。
これも麦子ちゃん効果かなあ、なんて喜ばしく思いながら、俺は
ふと彼と初めて出会った時のことを思い出していた。
あれは、俺がまだ現役の選手だった頃。
日本代表でのプレーが認められ、ドイツの名門クラブに移籍した
時のことだった︱︱。
﹁日本から来た本橋です。本橋涼太郎。ポジションはMF。よろし
く!﹂
155
いつかはと夢見ていた頃から勉強してきたドイツ語は、多少ぎこ
ちなくとも通じたはずだ。それなのに、俺の目の前にベルリンの壁
の如く立ちはだかったその男は、かすかに眉を動かしただけで、俺
の挨拶を見事にスルーした。おいおい、ちょっと待てよ。
﹁日本から来た本橋です。本橋涼太郎。ポジションはMF。よーろ
ーしーくっ!﹂
綺麗に言い直して再度アタック。一回蹴りこんだボールが防がれ
跳ね返っても、誰が諦めるかっつうの。
そんな俺の行動に今度は軽くため息をついたそいつ︱︱オリヴァ
ー・ビルケンシュトックは、ようやくこちらを真っ直ぐに見下ろし
た。悔しいが、身長的にはこいつのが圧倒的有利だ。そうして、目
の前に差し出してやった俺の手を、思いっきり握る。痛い痛い痛い。
﹁オリヴァー・ビルケンシュトック。第一GK﹂
妙にいい声でそれだけ言うと、オリヴァー⋮⋮オリーは今度こそ
俺を通り過ぎ、ロッカールームへと消えていった。無愛想もここま
で来るといっそ気持ちがいいくらいだ。
その大きな背中を目で追いながら、俺は久々にふつふつと沸き上
がる熱い気持ちを自覚する。なんていうか、野良猫てなづけてやる
ぜ、みたいな?
まあ、日本と違ってこっちじゃあ個人主義なのかもしれないが、
俺は楽しくみんなでサッカーがしたいんだよ、コノヤロウ。甘った
れた関係じゃなく、信頼できる仲間と。憧れの選手と。
﹁ぜってぇあいつと仲良くなってやるかんな!﹂
移籍早々、本業に関係あるようなないようなところで気合いを入
156
れつつ、そうして俺のブンデスリーガは始まったのだった。
***
﹁ダメだ、どうしてもあのベルリンの壁が崩せねえ⋮⋮﹂
練習後、シャワーを浴びて戻ってきたロッカールームでそう愚痴
る俺に、その場にいたチームメイトたちが野次を飛ばしてくる。
﹁ついに諦めんのか、リョウ!﹂
﹁三ヶ月か、保ったほうかもしれないな﹂
それは、日本にいた頃にはテレビでしか見ることの叶わなかった、
世界屈指の名プレイヤーたち。中でもフランス代表のジェラールと、
その悪友でもあるイタリア代表ロレンツォが、にやにや笑いながら
俺の両隣へと腰掛けた。そして、悪巧みでもするように顔を寄せて
ひそひそと話し出す。
﹁おまえなあ、簡単に諦めんなって。まだ一ヶ月目だぞ﹂
﹁Si! リョウなら大丈夫さ。そのガッツでもうひと月くらい、
いけるって﹂
﹁いくら賭けてんだ? ん?﹂
妙に真剣なその顔に俺はあるひとつの可能性を思いつき、ふたり
の額をべしべしと叩く。
すると、とたんにジェラールはそのそこそこ秀麗な顔をにやあっ
と崩した。ロレンツォなんぞは、いまさら何を誤魔化したいんだか、
口笛を吹いて明後日の方向を向いている。
157
こいつら、俺とオリーをダシに賭けを主催でもしてんだろ。
反対に言えば、それくらいオリーは人間関係において頑なだった。
それは昨日今日ここへやってきた俺よりも、元々のチームメイトた
ちのほうが身に染みて知っている。
仲が悪いわけではない。ただ、ある一点より先に決して踏みこま
せない、そんな壁が奴の中には存在しているようなのだった。
﹁別に悪い奴じゃないんだけどね。僕にはドイツ人のイメージその
まんまだし﹂
逆にイタリア人のイメージそのままのロレンツォが、頭を振りな
がら言う。
いつの間にか、ロッカールームには俺とロレンツォとジェラール
だけが取り残されていた。その彼の言葉に、ジェラールもうんうん
と同意する。
﹁いかつくて、論理的で、ルールはルール絶対厳守! んでもって、
何事にも全力だろ。なんつうか、真面目すぎてぶっ飛んでる辺り、
ちょっと日本人も似てるとこあるよなあ﹂
﹁この間なんてさあ、オリーの奴、せっかく休暇だってのに練習に
来て﹃休暇に飽きたから参加する﹄とか言い出してさあ。ゆるーく
やって帰ろうと思ってたみんな、すっごいびびっちゃって、疲れた
なあ﹂
﹁なんか、ツッコミたい場所が色々あるけど、やめとくわ﹂
のほほんと語るふたりに、俺はため息をついて立ち上がった。こ
んなとこでのんびりしてる場合じゃなかった。
日本にいる姪っ子にねだられてるものを買いに行く予定だったの
だ。
下着の上から手早く洋服を身につけ、俺はいつの間にかドイツ人
158
女性の魅力について熱く討論し始めたふたりを置き去りに、ロッカ
ールームを出た。つきあってられん。
駐車場を自分の車へと歩きながらふと、そういえばオリーは車を
持っていなかったことに気付く。
ドイツは確かに電車でも便利は便利だけれど、外人にしては珍し
いなあ、と思い、しかし俺はそれをすぐに忘れてしまったのだった。
今年五つになる姉の子供は、俺がドイツに行くと知った瞬間、ま
るで恋人とでも引き裂かれるかのように大泣きしてくれた可愛い奴
である。
まあ、決して暇なわけではないが比較的会社勤めよりも時間の自
由がある俺が、それこそ産まれた時から世話してきたのだから、当
然っちゃあ当然。しかし、子供っつうのがあんなに可愛いもんだと
は思わなかった。
電話するたびに﹁いつ帰ってくる? 明日?﹂とぐずる彼女に、
こっちまで涙腺ゆるませながら﹁代わりに何か贈るから﹂と約束し
たのは、つい先日。何が欲しいのか姉にリサーチしてもらったとこ
ろ、ドイツといったらテディ・ベアでしょ!と返されたので、それ
に素直に従うことにした。
しかし、あれが年頃になってとんでもねえ彼氏とか連れてきた日
には、義兄さんよりも俺が先にぶちきれる自信がありまくりだ。そ
んなことを考えながら、俺は街のデパートに足を踏み入れる。
ぶらぶらしながらぬいぐるみ売り場を目指していた俺の目に、そ
の恐ろしい光景が飛び込んできたのはその時だった。
思わず、固まる。
どこからどう見てもメルヘンチックなぬいぐるみ売り場の、クマ
というクマが陳列されているそこに立っていたのは、俺の悩みの原
159
因であるオリヴァー・ビルケンシュトック、その人だった。
そんな危険な幻覚を見るほど、今日の練習はきつくなかったんだ
けどな、といったん後ろをむいてみる。眉間を手でもみほぐしなが
ら、気のせい気のせい、ドイツの陽気な妖精さんにでも化かされた
んだ!ともう一度振り向いて轟沈。
いる。なんか、いる。なんか、ゴリラ的に威圧感満載の何かが、
いる。
しかも、キーパーグローブを付けていなくてもでかいその手に、
ふわっふわで愛らしいクマのぬいぐるみを持ち、じーっと見つめ合
っている。え、これドイツでは当たり前の光景なの!?
半ばパニックになりながら辺りを見回せば、それなりに有名人で
ある彼を遠巻きに見ているお客さんを多数発見。ですよねえ。
俺はとりあえず、大事な場面でPKを蹴るよりもひどい緊張感を
覚えつつ、ゆっくりとそのオリーへと近づいていった。そうして、
できるだけ自然な笑顔を心懸けつつ、その肩を叩く。
﹁よ、よお、オリー。ぐ、偶然だな!﹂
﹁⋮⋮モトハシ?﹂
びくっとその大柄な身体を揺らし、オリーが青い瞳をまん丸にし
て俺を振り向いた。こいつも驚くことがあるんだな、なんて変な感
想を持つ。
オリーはしばらく俺と見つめ合ったあと、はっと気がついたよう
にその手の中のクマを陳列棚へと戻した。心なしか、その頬が赤く
なっているのは俺の気のせいだろうか。
﹁え、ええと。お前も買い物、とか?﹂
﹁⋮⋮﹂
なんだろう、この四方八方が地雷原みたいな空気。
160
そこまで暑いはずがないのに、俺の額からはだらだらと汗が流れ
ていく。そんな俺を、オリーはいつもの無表情でじいっと見下ろし
ていた。
なんか、会話が途切れた瞬間パンチングのひとつでも喰らわされ
そうな緊張感に、俺は聞かれてもいないことまでべらべらと話し出
す。いのちだいじに!
﹁お、俺はさあ、日本の姪っ子にねだられちゃって。ほら、ドイツ
って確かこういうのが有名なんだよな! クマのぬいぐるみ!﹂
﹁クマではない﹂
﹁は?﹂
可愛らしい様々なぬいぐるみが置かれている棚を指さし、俺が笑
顔でそう言うと、そこで初めてオリーが口を開いた。
なぜか、さっきよりもものすごく眉間にしわが寄っている。この
間、失点した時にロッカールームで二時間説教をくらっていたDF
って、こんな気持ちだったのかもしれない。
﹁クマではない。テディ・ベアだ。それと、彼はアンディで彼女は
エイミィ。断じてクマではない﹂
﹁⋮⋮﹂
オリーは俺が指を指した水兵さんスタイルのクマを見て、そう説
明してくれる。今度は俺が絶句する番だった。ええと、なんですと?
﹁ちなみに姪御さんがいくつかは知らないが、お勧めはこの﹃おや
すみテディちゃんピンク﹄だ。これは丸洗いができる上に、人体と
環境に無害なもので作られている。何でも口に入れたり汚したりす
る子供には最適なパートナーとなるだろう﹂
﹁え。あ、じゃあ⋮⋮それにする﹂
161
﹁かしこい選択だ﹂
そこはかとなく満足そうなオリーを見ながら、俺は勧められたと
おりのぬいぐるみを手に取る。ふわふわの茶色い毛並みと、ピンク
色のパジャマがなんとも可愛らしい。
姪っ子の喜ぶ姿を思い描き、俺はさっきオリーの口から出た﹃お
やすみテディちゃんピンク﹄なんていう単語を抹消する。聞いてな
い、俺は何も聞いてないぞ。
﹁オリーったら、やっぱりここにいたのね!﹂
﹁アンゲラ﹂
ぬいぐるみを手にしたまま固まる俺と、それを満足そうに眺める
オリーのところへ、エスカレーターの方向から声がかけられた。
見れば、長身の美女がひとり、こちらへ足早に歩いてくる。それ
はもう、どこのモデルだってくらいの。
オリーと似たような、きらきらの金髪はゆるくカーブして背中に
かかり、小さな顔にくっきりとした目鼻立ち。多少化粧をしている
んだろうが、それがなくても華やかさのある美しい造作だった。
かつかつ、と赤いヒールを踏みならし近づいてきた美女は、なん
の遠慮も恐れもなくオリーの脇腹を思いっきりどついて見せた。う
わあ。
﹁エスカレーターのところで待っててって言ったでしょうが! ま
ったく、目を離すとクマに吸い寄せられる癖、なんとかしなさいよ
っ﹂
﹁く、クマではない、テディ・ベア⋮⋮﹂
軽く呻きながら、それでも律儀に訂正を入れるオリーにもう一発
お見舞いした美女は、唖然とそれを見ていた俺に視線を移した。ひ
162
いい。
﹁オリー、こちらはお知り合い?﹂
﹁あ、俺は本橋って言います。オリーとはチームメイトで⋮⋮﹂
﹁ああ! 今季加入したMFね! オリーからよく聞いてるわ!﹂
﹁え?﹂
大輪のバラのような笑顔に思わず見とれて聞き逃しそうになった
が、俺のことをオリーがよく話してるって、嘘だろう?
にこにこしている美女に、いったいどんな話をと突っ込んで聞こ
うとすると、脇腹を押さえ痛みを堪えていたオリーが焦ったように
俺たちの間に割り込んだ。
﹁アンゲラ、時間がない。早く行こう﹂
﹁ええ? 私はもう少しモトハシと話が⋮⋮﹂
﹁時間に遅れるのはよくない!﹂
美女の手を引っ張り、オリーはさっさとエスカレーターへと移動
していく。
アンゲラ、と呼ばれた彼女はわけがわからない、という感じでそ
れに従いつつ、それでも残された俺に大きく手を振って別れの挨拶
をしてくれた。美人て癒しだな。
そうして俺は、短い時間で起こったありとあらゆる超常的な出来
事に、ついていききれずにぽかんとその場に立ち尽くすのだった。
その後、遠慮がちに店員に声をかけられた俺は、無事そのクマ︱
︱ではなくテディ・ベアを購入し、姪っ子へと贈る。ものすごく喜
ばれたから、まあ良しとしよう。
今思えばここから俺とオリーの関係は少しずつ変わっていくこと
になる。
163
誰がためにゴリラは笑う 前編 ︽本橋とオリー︾︵後書き︶
本橋さんとオリーの出会い編。﹃おやすみテディちゃんピンク﹄は
実在しませんが、﹃おやすみクマちゃんピンク﹄はシュタイフ社か
ら発売中です。
164
誰がためにゴリラは笑う 後編
そんなことがきっかけで、俺とオリーはそれからちょくちょく会
話をするようになっていった。
それは本当に些細なことで、例えば﹁おはよう﹂の挨拶から、こ
こらの方言での言い方だとか。けれど、それまで頑なに他人と関わ
ることをしてこなかったオリーのことだけに、周りの驚きようった
らない。
あの悪童コンビから年下の選手から、用具係やユニフォーム係、
果てはフロントのお偉いさんたちまで﹁どうしたんだ、なんてこと
だ﹂の大合唱。終いには俺を﹃猛獣使い﹄だとか、﹃飼育員﹄なん
て呼びだす始末。気持ちはわからないでもないけれど。
﹁オリー、おまえどんだけ人見知りだったんだよ?﹂
﹁人見知りした覚えはない。必要がないから話さなかっただけだ。
試合の時にはきちんとコーチングもしている﹂
呆れたような俺の言葉に、オリーは眉間をぐっと寄せながら、い
かつい表情でそう真面目に返してくる。だから、顔が怖いっての。
ロレンツォが主催のホームパーティに参加していた俺たちは、夜
も遅くになって辞し、風に当たりつつ俺の車を目指して歩いていた。
そもそも、こんな公式でもない私的な集まりに、こいつが顔を出す
というのが珍しいらしい。
来る時には別々だったが、オリーが手土産を持ってロレンツォの
家に姿を現すと、なぜか参加者大興奮。びっくりしたらしいオリー
が、反射的に帰ろうとしたのを取り押さえるのは苦労した。
165
美味いビールで釣りつつ、終電でまたもや帰ろうとするオリーを
﹁送るから!﹂と引き留めた俺の尽力を、あいつらはあとで返すべ
きだな、マジで。そのために今日はノンアルコールを通してきたん
だからな!
俺たちの家はここからそんなに遠くないし、家同士も比較的近い
場所にある。戸惑うようにしていたオリーをそう言って説得すると、
俺はこっちに来てから奮発して買った車にオリーを押し込んだ。ア
クセルを踏みこんで、出発。やっぱドイツ車はいいよなあ。
そうしてしばらく無言で運転していた俺は、車が流れに乗ったこ
ろに再びさっきの続きを口にする。
﹁でも、わかるだろ。オリーが俺と話すようになってから、他の奴
らもおまえに話しかけるし、くだらないことでも笑いあえてれば試
合の時もまとまりやすいし﹂
ちらりと右を見れば、オリーは眉間にしわを寄せたままじっと前
方を睨み付けている。んなに難しい顔して考え込むようなことかね。
悪い奴じゃないのは承知だが、どうもこいつは真面目すぎるとこ
ろがある。理由はよくわからないが、どうも軽々しく他人を自分の
内には入れたがらないというか。
なんか、過去にあったのかもしれないが、そこには触れないでお
く。他人に言われるよりもずっと、本人がわかってるんだろうから。
﹁みんなおまえのこと好きなんだよ﹂
なんでだろうか。こんな恥ずかしいこと、日本語だったら絶対に
言わないのに。
俺は今さらながら照れて、少し乱暴にアクセルを踏みこんだ。カ
ーブを曲がり、街の中心から少し離れていく道に入る。それだけで
行き交う車はほとんどなくなり、両側に立ち並ぶ木々が風に揺れて
166
いるだけ。
車内は沈黙に満たされている。エンジン音を聞くのが好きだから、
俺の車にはカーラジオなんていうものは装備されていない。
いつもよりオリーの中に深く踏みこんだ自覚はあったので、なん
となく気まずくなって、俺は黙り込んだままのオリーに視線をやっ
た。
﹁オリー?﹂
いつの間にか、渋面の彼の顔に脂汗が浮かんでいた。あきらかに、
どこか体調がすぐれないとわかる、その表情。
暖色の街灯と薄闇の中でも、顔色が紙のように白くなっているこ
とがわかる。俺は動揺しつつ、ゆっくりとスピードを緩めて路肩に
車を止めた。
﹁おいっ、オリー! 車酔いか!?﹂
﹁モトハシ⋮⋮﹂
サイドを引いて俺はオリーに手を伸ばす。
そういえばこいつ、いつも電車だったな、とその時ふと思いつく。
もしかして、乗り物酔いしやすい質とか。チームで移動する時も、
一番後ろを陣取って目を閉じていることが多かったかもしれない。
少し外に出して休ませた方がいいんだろうか、と俺が思案してい
る間に、オリーは自分でシートベルトを外し、車外へと出ていった。
それを俺も追いかける。
反対側から回り込んだ俺の目の前で、その大きな身体が崩れるよ
うに地面にしゃがみ込み、隠すようにして二、三度吐瀉した。
それを見て俺は一度戻って車の中からミネラルウォーターを手に
取り、オリーのもとへと近づいた。
167
﹁大丈夫か、オリー。これ、開けてあるけどまだ口はつけてねえか
ら﹂
﹁⋮⋮っ﹂
まだ大分苦しそうなオリーの背中をさすりながら、俺はペットボ
トルを彼へと渡す。オリーは軽く頷くと無言でそれを受け取った。
誰かに連絡したほうがいいのか。もしかして、ずっと体調が悪か
ったんだろうか。俺が無理に引き留めたりしたから、言い出せなか
ったんだろうか。
ちょっとしたパニックに陥りかけていた俺に、水で口をゆすいだ
オリーがようやく顔を上げて口を開いた。
﹁もう、大丈夫だ。すまない⋮⋮﹂
﹁や、別に俺はいいけど、本当に平気なのか?﹂
俺の言葉に頷いてみせるけれど、オリーの顔にはまだ血の気が戻
ってきていない。もう肌寒くなってきている季節だから、あんまり
外にいさせるのも心配だ。
いまだ立ち上がれずに何かを我慢するような顔をしているオリー
に、俺はとりあえず自分の着ていたコートをかけてやる。
﹁気分が悪いのか? 車に弱いとか? 誰か呼んだほうがいいか?﹂
矢継ぎ早の質問に、オリーは少し口元に笑みを浮かべて首を振る。
水を一口飲んで、それからぽつり、と呟いた。
﹁車が、苦手なんだ﹂
﹁やっぱり! ごめん、俺⋮⋮﹂
﹁そうじゃない﹂
168
無理を言ったから、と頭を下げようとした俺を押しとどめ、少し
その青い瞳を彷徨わせたオリーは、意を決したようにこちらを真っ
直ぐに見た。俺は黙ってその続きを待つ。
どこかに痛みを覚えているような、そんな複雑な表情がその顔に
浮かんでいた。
﹁俺がサッカーを始めた頃、両親がいつも送り迎えをしてくれてい
た。その日も試合の帰りで、運転は母が。父はその隣で試合につい
て批評していて、俺は後ろでそれを聞いていた。今と似たような道
だった。前から走ってきた車がハンドル操作を誤ったらしい。スピ
ードも出過ぎていたように思える。そのまま、こちらに、突っ込ん
で︱︱﹂
そこまで言うと、オリーは絶句した。
聞かなくてもその続きを容易に想像できて、俺もかける言葉を失
う。
多分、それが大きな心の傷なんだろう。今でも、決して自分から
は車に乗らないように。
﹁俺、何も知らないで⋮⋮ごめん﹂
﹁モトハシは悪くない。謝らないでくれないか。このことを知って
いるのは、コーチたちとアンゲラだけだ﹂
﹁アンゲラ?﹂
その名前に、俺は前にデパートで会ったあの長身の美人を思いだ
した。もしかして、恋人かなにかなんだろうか。
俺の疑問は口に出すまでもなく伝わったらしく、少し赤みの指し
てきた顔をオリーは横に振った。
﹁アンゲラは、従姉妹だ。両親を亡くしたあと、俺を引き取ってく
169
れた叔母さんたちの一人娘。俺とは兄妹みたいに育った﹂
﹁そうか﹂
﹁初めてだ、これを人に話すのは。今までは知っている人間と、話
さなきゃならない人間としかいなかったから。⋮⋮親しい関係が苦
手なわけじゃないんだが、少し怖かったのかもしれない。失うこと
を、考えてしまうから﹂
今まで見たこともない弱々しい笑みで、オリーが静かにそう告白
する。俺は黙ってその金色の頭を乱暴にかき回した。
いかつくて、生真面目で、厳格で、戦争よりもあいつが怖いなん
てチームメイトにからかわれたりして。誰よりも、強い、俺たちの
キャプテン。
初めて明かしてくれた心の内に、俺はちょっと感動して泣きそう
になるのを誤魔化すように、その筋肉のついた肩を引っぱたいてや
った。
﹁うちのチームメイト、誰ひとりとっても殺しても死にそうにねえ
って。ロレンツォなんか、可愛い女の子が前を通りゃ、墓場の下か
らだって甦ってくるし。ジェラールは絶対ゾンビになってもボール
追っかけてくるぜ。サッカー馬鹿だから!﹂
﹁モトハシも?﹂
﹁あったりまえだろーが。こんな寒くてじゃがいもばっか食ってる
国に来てまでサッカーしてんだぜ! ⋮⋮おまえに背中預けて、目
一杯楽しいサッカーしてえよ﹂
まくし立てるように言って、俺はオリーを安心させるように笑っ
てみせる。
暗いところにひとり閉じこもってないで、こっちに来て一緒にサ
ッカーをしよう。みんなで。
そんな思いを込めて俺は先に立ち上がると、手をオリーへと差し
170
出した。オリーは少しぽかんとしてような顔で、目の前の手を黙っ
て見つめている。
これで断られたら俺はどうするんだ、と悩み始めていたその時、
ぐっと強い力でその手を握りしめられた。
それは、初めて会った時の握手のように。
﹁俺も、お前らの背中を怒鳴りつけて、サッカーしたい﹂
﹁あれ以上は勘弁してくれ!﹂
混ぜっ返すようにそう言うと、オリーは初めて見るような無邪気
な顔をして大笑いを始める。
こんな顔できるじゃねえか、と俺もつられて笑う。深夜の道ばた
で、大柄な男二人が大笑いして、なんて滑稽なんだろう。
そうして俺たちは、再び固く握手を交わす。
﹁優勝しかないな﹂
﹁だな﹂
多分、俺とオリーはその時ようやく友達になったんだと思う。
そしてそれは俺がドイツを去り日本に帰ったあとも、選手を引退
したあとも、ずっとずっと続いている。彼が日本にやってきてから
も、それは変わらず︱︱。
﹁サンタさん、泣き虫めーなのよ! ほらマナが、いい子いい子し
たげるねっ﹂
しょんぼりとしゃがみ込んでいたオリーに、ひとりの園児が声を
171
かける。
長い長い記憶を思い返していた俺は、その声にはっとしてそちら
を見やった。オリーのひよこのような金の髪を、ようやっと背伸び
した少女が、わしゃわしゃとその小さな手で撫でている。
するとそれまで、不幸のどん底とはここである、といった風のオ
リーが、そのガラス玉のような目を輝かせて少女を抱き上げた。
﹁マーナ? よいこですね! オリーはマーナ大好きですよ!﹂
﹁すごーいっ。高いねえ!﹂
突然のことに泣き出すかと思われた少女は、反対に急に高くなっ
た自分の目線にひどく喜んだ声を上げた。
それを聞いた他の園児たちが、さっきとは打って変わって、我も
我もとオリーの足下にむらがってくる。子供って、好奇心には勝て
ないんだよな。
オリーに比べると本当に小さな子供たちに、彼は戸惑いつつも嬉
しそうに次から次へと子供たちを抱き上げてやる。終いには、両手
に何人もぶらさげてゆっくりと回ってやったり、床に座って子供た
ちが珍しがる金の髪を引っ張られたりして。
その厳めしい顔が、いつかのように無邪気に笑う。
﹃あらあ、心配して来てみれば。オリー、人気者じゃない!﹄
華やかなその声に振り向けば、そこには予想通りの姿があった。
オリーによく似た金色の髪を波打たせ、彼よりも濃い青の瞳が嬉
しそうに子供に囲まれているオリーにむけられる。
﹃アンゲラも来たのか﹄
﹃あなたたち二人じゃ心配だったんだもの。でも、余計だったみた
いね﹄
172
大輪のバラのように綺麗な顔をほころばせ、彼女はそっと俺の腕
に手を絡めた。俺もその髪に唇を寄せ、笑う。
俺がドイツで得たのは大親友だけじゃない。この、美しい奥さん
も。
﹃オリー、麦子ちゃんに会ってから本当に変わったよな﹄
もはやオリー対ちびっ子怪獣の戦いになりつつある光景を眺めな
がら、俺が愛しの奥様であるアンゲラにそう言えば、彼女は﹁そう
かしら﹂といたずらっぽい笑みを浮かべて俺を見た。
﹃私は、あなたと会ってからだと思うわ。ありがとう、リョウ﹄
﹃アンゲラ⋮⋮﹄
その言葉に感極まってしまった俺が、思わずその唇に自らのもの
を重ねようとした、その時。
﹁あーっ、お姫様がちゅーしてる!﹂
﹁ちゅー!﹂
﹁ちゅーしてるうっ﹂
いつの間にやら集まってきていた園児たちが、俺たちふたりを見
上げてはやし立てる。それを、オリーまでもがにやにや笑って見つ
めていた。
ほんっとにいい性格になったもんだ!
ちょっと頬を染めたアンゲラは、女の子たちに引っ張られるよう
にして、子供たちの輪に入っていく。どうやら、金色の長い髪が、
彼女たちにとっては物語のお姫様に見えたようだ。アンゲラも満更
ではないらしく、楽しそうに少女たちと片言の日本語を交わす。
173
そろそろ、本気で子作りしようかなあ。こういうのが幸せってい
う奴なんだろう、と俺も笑ってその輪の中に入っていくのだった。
それが、俺たちのクリスマスの一幕。
﹃なあ、もしかしてお前がこのチームに移籍してきたのってさあ、
ベアード
くんだ!﹄
マスコットがクマだからじゃねえの?﹄
﹃クマではない、あれは
﹃はいはい⋮⋮﹄
174
幸せは味噌汁とともに 1 ︽本橋とアンゲラ︾
﹃日本人の男なんて﹄
私が結婚すると言った時、相手が日本人だと知ると本国の友人た
ちは口をそろえてそう嘆いた。
確かに彼と知り合うまでは自分もそうだったから、彼女たちをと
やかく言えない。私はただ微笑んで肩をすくめるだけ。それでも、
結婚前にその友人たちに彼を紹介したあの時の優越感たらなかった!
モデルをしている私よりも頭ひとつ分は高い背丈。それも高いだ
けじゃなく、サッカー選手として鍛え上げられたその身体は、そん
じょそこらのドイツ男よりも引き締まって、うっとりするくらい美
しい。特にすらりと長い足は、女の私も見とれるくらいだ。
健康的に焼けた素肌に、神秘的な黒い涼やかな瞳。短く整えられ
た同色の髪。にっこりと彼が笑えば、その少年のような無邪気さに、
友人たちはみんな頬を染めた。
﹃本橋涼太郎です。よろしく﹄
緊張しているのか、少し低めの心地よい声が話すのは完璧な標準
ドイツ語。
挨拶をしてこれから練習があるから、とお茶のあと早々に彼が立
ち去ると、友人たちは悲鳴を上げて私を質問攻めにしたのだった。
﹁あれ本当に日本人!?﹂と。
そんな素敵で愛おしい旦那様と一緒に、この日本にやって来たの
は三年前。
175
今では片言ながら日本語も話せるようになったし、こちらで少し
モデルの仕事も再開して奥様友達もできはじめた。旦那様の仕事も
順調で、結婚生活は順風満帆!
そう思っていた、二人で迎える四年目の朝。私は悲しみのどん底
に突き落とされることになる。
それは、愛しの旦那様、リョウのひと言から⋮⋮。
﹃アンゲラ﹄
﹃あ、おはよう、リョウ! ご飯できてるわよ!﹄
朝の弱いリョウはまだ少し眠たげな顔で、ダイニングへ顔を出す。
ぴょこんと立ち上がった寝癖が可愛らしい。
私はテーブルにご飯とおみそ汁を並べると、そんな彼に近づいて
朝のキスを頬に贈った。その欧米式の挨拶に最初は照れていた彼も、
今では私の腰に手を回し、挨拶にしては少し情熱的すぎるくらいに
応えてくれる。
名残惜しむように唇を離せば、彼はその黒い瞳を少しだけ細めて
私に微笑んだ。
﹃おはよう、奥さん﹄
周りからはいつまでも熱々ね、なんて言われるけれど、こんな素
敵な人が傍にいるんだから仕方がないと思う。そうして食卓につい
た私たちは手を合わせ、日本式で﹁いただきます﹂を言うと、朝食
を開始した。
今日はリョウのリクエスト通りの和食。一週間で半分ずつくらい、
ドイツ式と和食とをわけている。最初は﹁温かい朝食? なにそれ
美味しいの?﹂だった私も、もう手慣れたもの。だからリョウも毎
朝﹁美味しいよ﹂と喜んで︱︱。
176
﹃アンゲラ﹄
なぜか複雑な顔をしたリョウが、静かに箸を置いて私をまっすぐ
に見た。
いつもにこにことしているその目が、まるで仕事をしている時の
ような真剣さをたたえているのを感じて、私は小首を傾げる。
そして何だかひどく辛そうな表情をすると、彼は意を決したよう
に口を開いた。
﹃味噌汁に、きゅうりとトマトは、ない﹄
﹃え?﹄
苦しげに吐き出されたその言葉に、一瞬耳を疑う。目の前のリョ
ウの瞳が今にも泣き出しそうに歪み、整った眉がぎゅっとひそめら
れた。
ぽかん、と思わず口を開けたままそれを見つめている私に、彼は
もう一度暖かな湯気を上げている味噌汁を指さし繰り返す。
﹃味噌汁にきゅうりとトマトは、あり得ない!﹄
数十分後、私は号泣しながら家を飛び出すこととなった。
名前を叫びながら追いすがるリョウを足蹴にし玄関で踏みつけ、
私は振り返ることなく、いつの日かドラマで見た有名なセリフを口
にするのだった。
﹁ジッカニカエラセテイタダキマス!﹂
***
177
﹃それで、なぜその
実家
というのが俺の家なんだ?﹄
すべての事情を涙ながらに話し終えた私に、こたつの真向かいに
座って渋面を作ったオリーがため息混じりにそう言った。ちょっと、
問題はそこじゃないでしょっ。
差し出されたティッシュで豪快に鼻をかみ、私はそのいかめしい
顔を睨み付ける。
﹁私の実家、とても遠いよ! オリーの家、電車で一本ね。オリー、
冷たいっ﹂
﹁そうだよ、オリー!﹂
しくしくとまた泣き始めた私の肩を優しく撫でながら、隣に座っ
たコムギがオリーに反論してくれる。やっぱり、持つべきは女友達
なのよね。
ちょこまかと動いて温かい紅茶をいれてくれた彼女に、私は少し
だけささくれた心が癒されるのを感じる。なんていうか、実家で飼
っていたフェレット?
﹁それにしても、本橋さんたらひどい! きゅうりのどこがいけな
いのっ。トマトは⋮⋮この際おいといて、味噌汁にきゅうりってす
っごく美味しいのに!﹂
﹁コムギ、論点はそこではないですね﹂
﹁オリーは黙ってて!﹂
なぜか私よりヒートアップしているコムギに、オリーが恐る恐る
ツッコミを入れるけれど、それは彼女の怒りを煽るだけに終わる。
紅茶を飲みながら少し落ち着いてきた私は、そのやりとりに思わ
ずにやりとしてしまった。
178
あのオリーが、引っ込み思案で人見知りで友達はクマのぬいぐる
み!なオリーが、このちっちゃな日本人女性に怒られ、大きな身体
を縮こまらせている図なんて、誰が想像できただろう。
﹁オリーの家じゃなんだから、アンゲラさん、私の家に泊まるとい
いよ! 明日は土曜だし、思いっきり女子会しようっ﹂
﹁ジョシカイ?﹂
﹁あ、ええと、そう! パジャマパーティ!﹂
﹁それ、とっても素晴らしいアイデア! コムギ、お菓子と飲み物、
買いに行くね!﹂
﹁行こう行こうっ﹂
私のパジャマじゃ入らないから、お揃いの可愛い奴買おうよ、な
んてうきうきと私に話しかけてくるコムギの笑顔を、向かいに座っ
たオリーがじとっとした目で眺めている。悪いけれど、今日は我慢
なさいよ。
ふふん、とどこか勝ち誇ったように笑った私に、オリーはただた
だ苦虫を噛み潰しまくったような顔を向けたのだった。そして、嬉
しそうに今夜の計画を立てるコムギにむかって、精一杯の哀願を試
みる。
﹁コムギ、そこにオリーは混ざれ⋮⋮﹂
﹁無理です!﹂
ああ、私って罪な女。
オリーの家をあとにして、私たちは駅前のスーパーでお菓子や飲
179
み物をこれでもかと買い込んだ。そしてコムギ御用達の雑貨屋に寄
ると、お揃いのふわふわあったかなパジャマを購入。真っ直ぐに家
に帰り、コムギの部屋にて﹃ジョシカイ﹄スタート。
見た目を裏切る酒豪らしいコムギはビアを、飲めない私はノンア
ルコールの梅ソーダを片手にとりあえず乾杯、とグラスを鳴らす。
しばらく、色々買ってきたお菓子について﹁これが冬季限定で美
味しい﹂だとか、﹁こうやって食べると意外な味が!﹂なんて下ら
ないことを喋りつつ、コムギがビアを六缶、私がソーダを二缶空け
た頃に、彼女がそれを口にした。
﹁アンゲラさんて、本橋さんのどこを好きになったの?﹂
久しぶりに楽しい女の子トークに心地よさを感じながら、私は新
しい缶を開け、日本酒に移行していたコムギに笑いかける。
﹁すべてよ!﹂
その私の言葉に、頬を少しだけ赤くしたコムギは、うわあと歓声
を上げる。それから私にむかって杯を掲げると、﹁そんなアンゲラ
さんにかんぱーいっ﹂なんて可愛らしいことを言ってくれた。
私もそれに答えながら、けれどそっとため息をついてしまう。
﹁でも、リョウはワタシのこと、もう好きじゃないかもね。ワタシ
の味噌汁、好きじゃないからね⋮⋮﹂
﹁そんなことないよ! こんっな美人妻もらっておいて、そんなの
私が許しません!﹂
﹁コムギ⋮⋮﹂
一升瓶を片手に、リョウと同じ真っ黒な瞳を怒りに滾らせ、コム
ギがそう言い切ってくれる。ああ、この姿、やっぱり実家のフェレ
180
ットにそっくり⋮⋮。
その小さな頭を撫でくり回したくなるのをかろうじて押さえ、私
はソーダを飲み干した。コムギも新たに日本酒をそそぎ、口を付け
る。
﹁そもそも、二人はどうやって知り合ったの?﹂
興味津々、といった感じでこちらににじり寄り、コムギは空にな
っていた私のグラスに今度はオレンジジュースをそそいだ。私もそ
れに口を付けつつ、なんだか昨日のようなその思い出を語り始める。
そういえば、二人の出逢いを人に話すのなんて、これが初めてじ
ゃないかしら。少し照れるわね。
﹁最初ね、オリーがとても彼の名前を口にする、気になったよ。あ
の他の人駄目なオリーが、会うと﹃モトハシ、モトハシ﹄って。ど
んな人かな、ワタシ興味あった﹂
こちらをまっすぐ見つめるコムギの瞳に、私はリョウの黒い瞳を
重ねながら、懐かしい記憶を振り返る。
それは今の季節と同じ冬。
すべてはいかつい従兄弟とテディ・ベアから始まったのだ︱︱。
181
幸せは味噌汁とともに 2
﹁いいこと? 必ずここにいるのよ、オリー。絶対よ? 絶対に、
勝手にどこかへ行かないでよ?﹂
﹁アンゲラ、しつこいぞ。わかっているから、早く買い物をすませ
てこい﹂
﹁本当にわかってるのかしら!﹂
しっしっ、と失礼なことに手を振ってこちらを追い払うオリーに、
憤慨しながらもその場を離れた私は、目的の下着売り場へと歩を進
める。
相変わらずにいかつい従兄弟は、デパートでの買い物には快く付
き合ってくれていたが、最後にその店に寄りたいと言ったら、顔を
真っ赤にして断固拒否。別に照れることないのに!
むしろ、今後できるかもしれない恋人のために、流行を追ってお
いたほうがいいんじゃないの、と心の中で文句を言いながら私は店
員へと声をかけた。そうしてまあまあ満足する買い物を終え、さっ
きのエスカレーターへと戻った私を迎えたのは、彼の不在。いった
い何がわかってるって!?
この際迷子のお知らせでも頼んで、恥をかかせてやろうかしら、
なんて意地の悪い考えが一瞬浮かぶが、即却下。そんなことをして
恥をかくのは私のほうな気がするから。
大きなため息をつき、私は気持ちを切り替えると、多分彼がいる
であろう売り場を目指してその場を離れる。あとでたっかいデザー
ト、奢らせてやるんだから!
彼がいるであろう場所、それは﹃ぬいぐるみ売り場﹄に他ならな
182
い。
さっきあれだけここにいろと念を押したのに、きっと子供か何か
が買ってもらったぬいぐるみを抱えているのを見て我慢できなくな
ったんだろう。もう、あれは病気ね病気。
今度からはエスカレーター付近での待ち合わせも一考だわ、と考
えていた私の前に、見慣れた巨体が誰かと立ち話をしている姿が目
に入ってきた。それも、相手にむかってクマのぬいぐるみをしきり
に薦めているらしい。
あの人見知りが珍しいこともあるものだ、と少し驚きつつ、私は
その背に声をかけた。
﹁オリーったら、やっぱりここにいたのね!﹂
﹁アンゲラ﹂
いたずらを見つかった子供のように、ものすごく気まずい!みた
いな顔になったオリーの脇腹に、私はとりあえず一発拳でパンチを
入れる。待ってろって言ったでしょ!
痛みに顔をしかめるオリーを、私は怒り満タンで睨み付けた。
﹁エスカレーターのところで待っててって言ったでしょうが! ま
ったく、目を離すとクマに吸い寄せられる癖、なんとかしなさいよ
っ﹂
﹁く、クマではない、テディ・ベア⋮⋮﹂
問題はそこじゃないっ。
容赦なくもう一発パンチをお見舞いしてあげて、そして私はこち
らを唖然とした表情で見つめている男性へと目をむけた。
百九十近いオリーよりも低いが、私よりも頭ひとつ分は高い身長。
均整のとれた体つき。清潔感のある服装は、少し幼く見えるその顔
立ちにとてもよく似合っていた。
183
私を見つめる瞳は黒。短く整えられている髪もまた黒。それは一
瞬にして私を虜にしてしまった。
﹁オリー、こちらはお知り合い?﹂
多少上擦ってしまった私のその言葉に、その彼はにこりと笑みを
浮かべる。
涼やかな目元に、どこか少年のよう笑顔。モデルを職業にしてい
る私でも、見惚れてしまうくらいに彼は素敵だった。
﹁あ、俺は本橋って言います。オリーとはチームメイトで⋮⋮﹂
﹁ああ! 今季加入したMFね! オリーからよく聞いてるわ!﹂
﹁え?﹂
聞き覚えのあったその名前に私が声を上げると、彼はその瞳を丸
くして驚きの表情を見せた。最近、オリーがよく﹃モトハシが、モ
トハシが﹄なんて言うものだから、てっきりお友達になったんだと
思ったんだけれど。
違うのかしら、と当のオリーを見上げれば、彼は心なしかその頬
を染めて私と彼との間に割り込んできた。
﹁アンゲラ、時間がない。早く行こう﹂
その言葉にちらりと腕時計に目を落とせば、確かにデパートを出
発する予定の時間だった。今日はこれから、両親の結婚記念パーテ
ィなのだ。
けれど、そんなに慌てなくてもいいじゃない、ともう一度私はモ
トハシに話しかけようと口を開く。
﹁ええ? 私はもう少しモトハシと話が⋮⋮﹂
184
﹁時間に遅れるのはよくない!﹂
そうしてオリーに手を掴まれ、私は文句を言う間もなくモトハシ
の前から遠ざけられてしまった。もうっ、なんなのよっ!
仕方ないので、私は彼を振り返りなんとか手を振ってみせると、
彼も笑って振り返してくれる。やっぱり笑顔も素敵⋮⋮。
あとで何としてもオリーに彼を紹介してもらおう、そう意気込ん
だ私はとりあえずもう一度オリーの脇腹にパンチを入れたのだった。
***
その彼が、オリーとはまだ友達でも何でもないと知るのはそのす
ぐあと。
何をもたもたやってるのよ、さっさと仲良くしちゃいなさいよ!
と端から見ている私は思うのだけれど、これはそうも言えないオリ
ーの事情というものがある。
両親を不幸な事故で早くに亡くした彼は、親族である私の両親に
引き取られてから、とても引っ込み思案な少年になってしまった。
それまでも、少し人見知りをするようなところはあったけれど、活
発で友達もそれなりにいるほうだったのに。
大きな悲しみをひとりで耐えているように、寡黙でなかなか人に
心を開かない。そんな彼は五つ年下の私を、まるで本当の妹のよう
に可愛がってくれた。今では両親も、私のことはオリーに聞いたほ
うが早い、と言うくらい私たちは仲良しだ。
だからね、オリー。私の頼み事を聞いてくれるわよね?
﹁モトハシを紹介して!﹂
﹁無理だ﹂
185
﹁紹介してくれるだけでいいの!﹂
﹁駄目だ﹂
さっきからこの繰り返し。
今までこんなに頼み込めば、断られることなんてなかったのに!
その頑なな青の瞳をじっと見上げれば、オリーは少しだけ困った
ように視線をそらす。ああ、わかった。まだ仲良しになれてないの
ね。
それじゃあいくら頼んでも無理ね、と私はため息をついて諦め、
身を引いた。あからさまにオリーがほっとした表情になる。この見
かけ倒しがっ!
ぐっと私が拳を握れば、後にくるだろうパンチを予測して、オリ
ーはいち早く玄関へと逃げ出してしまう。
﹁お、俺はこれから出かけてくるから!﹂
﹁あら珍しい。どこへ行くの?﹂
そういえば、今日はカジュアルながら少しよそ行きの格好をして
いる。手には美味しいと評判のバウムクーヘンが入った袋。
そんな姿で近所に買い物、でもないだろう。けれど、サッカー馬
鹿で友達もいないオリーが、おしゃれして手土産を持ってでかける
場所なんてあったかしら。
首を傾げてそう訊いた私に、オリーはなぜか気まずそうにもごも
ごと答えた。
﹁ロレンツォの、チームメイトのホームパーティに呼ばれている⋮
⋮﹂
﹁ええっ!﹂
思わず声を上げる私に、二言三言なにかを言うと、オリーは慌て
186
て玄関から外へと出て行ってしまった。そこまで恥ずかしがること
じゃないのに。少々呆然とその背を見送って、私はこぼれだす笑み
を抑えることができなかった。
誰がオリーを誘うのに成功したのだか知らないけれど、私はその
人に目一杯のキスを贈ってあげたい!
車に乗りたがらない彼のことだから、きっと終電までには家に戻
ってくることになるんだろうけれど、それまではたくさん楽しい思
いをすればいい。仲間っていいなって、彼が思ってくれればいい。
そんなことを願いながら、私はいつまででもくすくすと笑ってい
た。
けれど、その嬉しさも時計の針が深夜一時をまわったところで、
心配にとって変わられた。
帰りの電車はとっくになくなってる時間だし、かといってオリー
は車が苦手だからタクシーをつかまえてるとも思えないし。どこか
に泊まるんだったら連絡のひとつもあっていいのに!
まるで年頃の娘を心配する父親のように、フェレットを抱いて部
屋の中をうろうろする私に、両親は﹁オリーのことは心配いらない
わよ﹂と笑って寝室へ引き上げてしまった。だって、心配なんだも
の!
そうしてうろうろすることさらに一時間。すでに可愛い私のフェ
レットも就寝中。
外から聞こえてきた車のエンジン音に、私は座っていたソファか
ら急いで立ち上がる。それはすぐに静かになり、代わりに誰かの話
し声が家へと近づいてきて、そして。
﹁ただいま、遅くなった﹂
187
﹁オリー!﹂
扉の向こうから顔をのぞかせたオリーに、私は思いっきり抱きつ
いてしまった。だって、ものすごく心配でたまらなかったから。そ
の私を受け止めたオリーは、安心させるように優しく背中を二、三
度叩く。
それを合図にして顔を上げれば、少しだけ青ざめて見えるけれど、
どこか楽しそうなオリーの笑顔。こっちは何か事故にでもあったん
じゃないかと心配してたっていうのに!と、怒りをぶつけようとし
て、その背後にもうひとり誰かがいることに気がついた。
﹁ええと、こんばんは﹂
﹁モトハシ!?﹂
オリーの背中からひょっこりと顔をのぞかせたのは、私が会いた
くて仕方のなかったモトハシ、その人だった。
ついついオリーの癖がうつって呼び捨てにしてしまった私に、彼
は少年のような笑顔をむけてくれる。そして、いきなり私に頭を下
げた。
﹁ごめん! オリーを引き留めたの、俺なんだ! 君が心配してる
かもって聞いて、どうしても謝りたくてお邪魔しました!﹂
﹁あ、そんな⋮⋮﹂
こちらを窺うようにちらりと上目遣いで見られれば、その深い色
の瞳に私は自分の顔が赤くなっていくのがわかった。困ってオリー
を見れば、彼はなぜかにやにやと笑っている。そして、﹁もう遅い
し、泊まっていくといい﹂と遠慮するモトハシを強引に家の中へと
連れ込んだ。私はまたそれにびっくり。
夕方まではあんな感じだったのに、この数時間でどこまで親しく
188
なったわけ?
疑問を視線に混ぜてオリーを見つめても、彼はただただ笑ってそ
れを誤魔化すだけ。車で帰ってきたらしいことにだって驚きなのに。
そうして頼まれるまま、客間の用意をしていた私に、てっきり居
間でビアでも開けているだろうと思っていたオリーが、そっと近づ
いて耳打ちした。
﹁モトハシ、おまえのことをひどく気にしてた﹂
その言葉に真っ赤になった私は、黙っていつものパンチをお見舞い
してやるのだった。
189
幸せは味噌汁とともに 3
そんなことをきっかけにして、私とリョウはゆっくりとお付き合
いを始めた。
どちらからともなく連絡先を交換しあい、それなりに愛の告白を
され、順調に愛を育んでいった。もちろん夜、私だけが見ることの
できる彼の姿も、私を魅了してやまない。
そろそろ一緒に住もうかなんて話が出ていた、その頃。
﹃アンゲラ、モトハシが怪我をした。今から言う病院に、着替えな
んかを持っていってやってほしい﹄
突然かかってきたオリーからの電話に、私は頭が真っ白になるの
がわかった。
聞き慣れたその声が、どこか遠くから響いているようで、よく頭
に入ってこない。ただ、﹁もう一度言って﹂を虚ろに繰り返すばか
り。
動揺が激しい私に、電話の向こうのオリーが大きな声で一喝した。
﹃落ち着けアンゲラ! 特に命に関わることでも、選手生命が断た
れたわけでもない! こんな時にお前が支えてやれないで、どうす
る!?﹄
﹁オリー⋮⋮﹂
﹃あいつはこちらでひとりきりだ。チーム外で頼れるのはお前しか
いないんだぞ?﹄
190
その言葉に、私ははっと目を見開いた。
そう、そうだった。リョウは単身でこちらに来ているんだから、
すぐに家族に来てもらうなんてことはできないんだ。私が、しっか
りしなくちゃ。
自分を取り戻したのが伝わったのか、オリーは改めてリョウが入
院した病院の名前と場所、病室の番号を伝えてきてくれた。お礼を
言って電話を切った私は、すぐにリョウの家へとむかって準備をす
ませると、その足で急いで病院へとむかう。心細い思いをしていな
ければいい、ただそれだけを願って。
ところが。
﹁アンゲラ、わざわざ来てくれたのかー、悪いな!﹂
見た目も気にせず急いで病室へと駆けつけた私を出迎えたのは、
いつものリョウの笑顔だった。
落ち込んでいるものと思っていた私がぽかんとしていると、彼は
ちょっと困ったような顔で笑い、自分の左足を指さす。そこは白い
テーピングが巻かれ、U字型のギプスのようなもので固定されてい
た。
﹁大袈裟だろ? ちょっとして捻挫なんだけどさあ﹂
のほほんとそう言う彼に近づいた私は、ようやく安堵の息を吐い
てその身体を抱き締めた。
ベットの上で上半身を起こした状態の彼は、私の腰を片手で引き
寄せて﹁心配かけてごめん﹂とささやく。私は髪をひと撫でしてキ
スを落とすと、改めて彼へと向き直った。
﹁どのくらいで治るの? 痛くない?﹂
﹁とりあえず、一、二週間はこれで固定して、その間に少しずつ治
191
療って感じ。それと並行して理学療法やったり、無理なく運動した
りするらしい。それからはまた、経過次第だって言われた﹂
﹁そう、そんなひどくなくて、ほっとしたわ﹂
﹁俺も﹂
もう一度身体を寄せて額にキスすれば、彼もまたその私を見上げ
るようにして、今度は軽く唇にキスをくれた。
よかった、思ったより怪我も軽いみたいだし、リョウもそれほど
落ち込んでないみたい。安心した私は、リョウの家から見繕ってき
た着替えや洗面具、タオルなんかを彼に差し出した。
﹁これ、オリーに言われて適当に持ってきたんだけど、なにか足り
ないものはない?﹂
﹁助かる! 動けないし、チームメイトに頼むのも悪いしさー﹂
﹁こういう時には私を少しは頼ってよ! それじゃあ、私帰るわね﹂
﹁ありがと、アンゲラ﹂
いつも通りの無邪気な笑顔に、私も笑みを返して病室を後にする。
明日はリョウの好きな果物でも持って早めに来よう、とエレベー
ターまで来たところで、あっと声を上げてしまった。リョウに渡し
た袋の中に、自分の携帯を放り込んで置いたのを忘れてた!
慌てて今来た廊下を引き返し、リョウの病室まで戻る。そうして
そっと扉を引き、中にいる彼に声をかけようとした、けれど。
﹃くそっ! なんで、こんな時にっ﹄
強い口調で、私にはわからない言葉で吐き出されたそれに、びく
りと肩を揺らす。
小さく開いた扉の隙間から見えたのは、ひどく思い詰めたような、
今まで私が見たこともない険しい表情をしたリョウの横顔。どす、
192
とおさまりきらない感情をぶつけるように、両手がベットに勢いよ
く落ちる。
なんだか、見てはいけないものを見たような気がして、私は声を
かけずにそのまま扉の前から離れた。握りしめた手が、震える。
それは私が初めて見た、彼の弱さ。
どうしたらいいのかわからずに、私はまたエレベーターへとふら
ふらと歩き始める。鼻の奥がつんとして、何だか大声で泣いてしま
いたい気分に駆られ、それをなんとか飲み込んだ。私が泣いても、
しようがないじゃないの。
明日、またここへ来てきちんと話をしよう。
とにかくそう結論づけると、私は家へと戻ったのだった。だけど
︱︱。
﹁しばらく会いたくないってどういうこと!?﹂
次の日にまた病院に行こうとした私は、﹁今日から一週間は治療
で忙しいから﹂とのリョウの言葉で、会いに行くタイミングを失っ
てしまった。
それでも、仕方がないとこちらも仕事に専念して待ち、今日はそ
れから一週間目。今日なら大丈夫よね。
そう思って、リョウのところへ行く支度をしていたところにかか
ってきた電話。携帯は彼のところに置いたままだから、家のほう。
受話器から聞こえてきたのはその恋人のもので、だけど少し張りつ
めたような声に何事かと思ったら。
﹃違うよ、アンゲラ。しばらくリハビリに専念したいから、待って
てほしいんだ。会いたくないわけじゃない﹄
193
﹁そんなの、言ってることは変わらないじゃない! ⋮⋮私が行く
と、迷惑なの?﹂
自分らしくなく、なんだか弱々しく響いた声に、さらに情けなく
なる。
こんな時にこそ力になりたいのに。何もできないけど、欲しいも
のがあれば届けるし、話し相手にだってなりたい。彼の心を、ちょ
っとだけでも軽くできたら⋮⋮そう思っていたのに、何で。
﹃そうじゃないんだ。とにかく、今日は会えない。携帯はオリーに
預けたから。⋮⋮また、連絡するよ﹄
﹁リョウ!﹂
ふつり、と電話は一方的に切られてしまった。
私は呆然と無情な無音を響かせる子機を握りしめたまま、立ち尽
くす。なんでなの。そのまま私は自室へと引きこもり、思いっきり
涙を流した。
恋人が大変な時に、傍に寄らせてももらえないなんて。まだそん
なに長いこと付き合っているわけじゃないけど、それなりに信頼を
おいているしおかれていると思ってた。辛い時には、傍にいて欲し
いって、そう思える人だと思ってた。
だけど、そういう風に考えていたのは私だけだったのかもしれな
い。リョウは、ただ楽しくすごすだけの相手として私を見ていたの
かもしれない。
その心の中に、私は入れてくれないのだから。
そうやって夜までずっと泣き通して、心配したママが時折かけて
くれる声にも満足に返事もできなくて。考えすぎて泣きすぎて、少
しばかり頭が痛んできた頃に、ドアの外からそっと声をかけられた。
﹁アンゲラ、ショコラーデ作ってきた。飲まないか?﹂
194
﹁オリー⋮⋮﹂
その声に、私はすがりつくようにしてドアを開け、胸に飛び込む。
予想していたのかカップを持ったオリーは慌てず、片手で私の身
体を支え、﹁入ってもいいか﹂と優しく訊いてくれる。私はまた新
しく流れ出した涙を手で拭いながら、黙って何度も頷き、オリーを
部屋へと招き入れた。
ふたりとも、小さい頃から変わらない定位置に座り、私はオリー
の作ってくれたショコラーデを口にする。甘くて、あったかい。朝
から何にも食べていない胃に、身体のすみずみにその優しさが染み
渡り、私は胸一杯になって息を吐く。
﹁リョウから、預かってきた﹂
静かな言葉とともに、私の携帯が小さなテーブルの上にことり、
と置かれる。
ついこの間までは、彼からの連絡がないだろうかと愛しく見つめ
ていたそれから、私はそっと目を逸らした。
﹁⋮⋮リョウは、私のこと大事じゃなかったのかしら﹂
﹁アンゲラ!﹂
﹁だって、リョウが苦しい思いをしてるのに、私は傍に近づかせて
ももらえないのよ? 頼ってももらえないのよ!? どうしてなの
⋮⋮っ﹂
カップを握りしめる両手が、震える。
本当は、否定してほしいの。オリーに、そんなことないって言っ
てほしいだけ。
﹁そうかもしれないな﹂
195
﹁オリー!﹂
突き放したようなその言葉に、私は思わずかっとなってオリーの
頬を平手で打った。
夜の静かな部屋に、ぱしん、という乾いた音。よけられただろう
に、律儀に私の怒りを受けたオリーは、その手を掴んでいたわるよ
うな瞳を私にむけた。
その瞳の強さに、私の胸が震える。
﹁そう言えば、おまえは仕方がないと諦めるのか? お前の気持ち
こそ、そんなものだったのか、アンゲラ﹂
﹁私っ⋮⋮﹂
﹁今辛いのは誰だ? 苦しい思いをしているのはおまえか? 違う
だろう。あいつは、モトハシは今、チームの中でようやくポジショ
ンを確立できたところだったんだ。それが、最低でも二、三週間は
治療にとられる。そしたらどうなる? また振り出しじゃないか﹂
はっと息を飲んだ。そんなこと、私、ちっとも知らなかった。
リョウはいつも余裕で、楽しそうで、サッカーでの悩みなんか全
然感じさせなくて。でも。でも、そうやって彼の表面しか見てこな
かったのは、私のほう?
もしかして、今までもずっとひとりで悩んでいたの?
自分のほうが彼のことを知ろうとしていなかったことに気がつき、
私は愕然としてただオリーの瞳を見返すだけだった。ふ、とオリー
がそんな私を甘やかすように笑微笑み、そして優しく頭を撫でる。
﹁それを意地はって、おまえに悟らせまいとしたあいつもあいつだ
けどな。なんとなくわかる気はするんだ﹂
﹁なんで⋮⋮﹂
﹁男だろう? 好きな女には、自分の格好悪いところなんか、見せ
196
たくないじゃないか﹂
当たり前のことみたいに言われたその言葉に、今度はみるみるう
ちに頭に血が上っていくのがわかった。
さっきまで青ざめていたはずの頬に、赤みが差すのが感じられる。
それを目の前で見ていたオリーは、その変わり様に目を見張ってい
た。ていうか、馬鹿じゃないのっ。
﹁男って馬鹿じゃないっ!?﹂
﹁あ、アンゲラ、静かに⋮⋮﹂
﹁バカバカバカバカっ、ほんっとうに大馬鹿! そんなの、女のこ
と⋮⋮私のこと馬鹿にしすぎなのよっ。私が苦しんでるリョウを見
たら、愛想尽かすとでも思ってるの!? そんな侮られていたなん
て、心外だわっ!﹂
﹁落ち着け、アンゲラっ﹂
﹁もう切れた。私、リョウになんて遠慮しないから。絶対にしてや
らないんだからねっ﹂
びしり、とオリーに指を突きつけてそう宣言すると、私はショコ
ラーデの残りを一気に飲み干し、カップを押しつけて彼を部屋の外
へと追いやった。
わけがわからない、という顔をしたオリーは、それでも急激に元
気を取り戻した私に安心したのか、素直に﹁おやすみ﹂を言って部
屋に戻っていく。
そういえば、オリーは今日まで海外遠征だったはず。疲れている
はずなのに、真っ先に私の愚痴を聞いてくれたんだ。そのさり気な
い優しさに、私はまた少しだけ涙を流す。そうして、部屋の中に消
えたその大きな背に、﹁ありがとう﹂と心から囁いた。
197
幸せは味噌汁とともに 4
それからの私は、ものすごく忙しかった。
私にできることはなんなんだろう。それを考えることから始めた
私は、まずは両親に意見を訊いて、友人たちにも、もちろんオリー
にも訊いて回った。その結果は、﹃美味しいものを食べさせる﹄と
いうこと。
落ち込んでいる時には、お腹から満たしてやるのがいいのよ、と
いうのがママの談。
なんとなく単純すぎてどうなの、とは思うけれど、私には彼の怪
我を治すこともリハビリを手伝うこともできないし。かといって、
ただ傍にいるだけでは負担になるだけ。だったら、どんなに見当違
いでも、やってみる価値はある。
あなたのことを心配していると、押しつけじゃなく伝わればなん
だっていいの。
そこで、オリーに彼の好物を訊ねたんだけれど︱︱。
﹁そういえば、前に﹃ミソシルが食べたい!﹄って叫んでいた気が
する﹂
﹁﹃ミソシル﹄ってなに?﹂
﹁わからない。多分、奴の故郷の食べ物なんだろう﹂
要領を得ないヒントだったけれど、とりあえず﹁ありがとう﹂と
だけ言って、すぐさま私はパソコンで検索を開始した。ミソシル、
ミソシル、ミソシル⋮⋮。たどり着いたのは、何やら茶色のズッペ
らしきもの。これ、食べ物?
198
ひととおり色んなサイトを開いてみたものの、わかったのはこれ
が﹃ミソ﹄という謎のペーストを溶かしたズッペだということ。具
は家庭や人によってまちまちで、決まったものはないということ。
プリントアウトしたものを目の前に、私は大いに悩む。
まずは﹃ミソ﹄を手に入れないとならないわね。まあ、中心部に
出れば比較的日本人も多いことだし、日本食コーナーに置いてある
と思う。調べたところ、日本人の定番食みたいだし。
具は、どうしたものかしら。ベースが茶色ってところが味気ない
し、少し色味が強いものを入れたほうが、彩りがいいような気もす
る。
﹁トマトとかきゅうりとか入れれば、鮮やかでいいかしら﹂
ひとりそう呟いて頷くと、私は早速車のキーを手に、中心部へと
買い出しに出かけたのだった。
荷物を抱えて家に帰って、私はペットボトルから直接水を飲み干
す。ようやく一息ついた。買い物は、こんなものでいいわね。
中心部の日本人むけスーパーで﹃ミソ﹄を買い、そのついでに恥
ずかしながらその場にいた日本人女性たちに﹃ミソシル﹄の作り方
を尋ねてみた。特になんてことはない、こちらのズッペと似たよう
なもの。具にはじゃがいもも入れても美味しいわよ、とのことで、
ドイツ定番のじゃがいもも用意。
あとは市場で買ってきた新鮮なトマトときゅうりを切って、と。
じゃがいもから入れて、その次にきゅうり。火が通るまでに少しの
味付け。最後にトマトを入れてから﹃ミソ﹄をスプーンにすくって
溶いていく。
199
味は好み次第って言っていたけれど、あんまりしょっぱいのは駄
目だって言うし⋮⋮日本食って繊細ね。
少しずつ﹃ミソ﹄を溶きながら微調整。私の舌だからどうなのか
はわからないけれど、とりあえず自分が美味しいと感じるところで
﹃ミソ﹄はストップ。じゃがいもも火が通ってるみたいだし、これ
でオーケーね。
サーモ容器に入れて、全ての準備は整った。ここからは、決戦よ!
ここ数日ろくに寝てないから肌はボロボロだし、髪の毛はぐちゃ
ぐちゃだし、服だって部屋着と変わらない適当なものだけど。でも、
一刻も早く彼にこれを届けたい。気持ちを伝えたい。何より、リョ
ウに会いたい。私は感極まって泣きそうな自分を叱咤すると、再び
急いで車へと乗り込んだ。もう、絶対に私に会うのが嫌だなんて言
わせないんだからね!
そんな怒りにも似た強い感情を抱え、私は先に病院に訊いていた
リハビリ終了時間に間に合うようにと道を急ぐ。その間に、私の頭
には今まで見てきたリョウのことが駆けめぐっていた。
無邪気で、楽しくて、優しくて、でも時々繊細で。決して声を荒
げたりしない、人間の大きい人。私は気がつかなかったけれど、故
郷から遠く離れたこの場所で、きっと寂しく思うことも孤独を感じ
ることもあったんだろう。
けれど、彼はオリーに光をくれた人。
私に、こんなに素敵な思いを与えてくれた人。
彼が優しく触れるだけで、私はたまらない気持ちにさせられる。
意外に乱暴な口付けも、性急な触れ方も、恥ずかしいくらいに私を
乱れさせてしまう。
きっと、どんなに格好悪くても、いいの。
あなたが、いいの。
それを、伝えなきゃ。
200
思い立ったら一直線。﹁少しは加減を覚えろ﹂と何度となくオリ
ーや両親に嘆かれた情熱そのままに、私は駐車場に車を頭から突っ
込ませ、取るものもとりあえずサーモだけをひっつかんでリハビリ
室を目指す。
どんな風に拒絶されても、私は諦めない!
そうして目的の場所にたどり着いた私は、勢いよくその扉を開け
放った。
﹁リョウ!﹂
﹁あっ、アンゲラ!?﹂
そこには、白いシャツとトレーニングパンツに身を包んだ、私の
愛しい人。と、療法士と他の患者さん多数。みんながみんな、突然
の闖入者にぽかんとした顔をして私を見た。
その視線なんか気にもせず彼にむかってまっすぐ進むと、私は同
じように唖然としてこちらを見ていたリョウに抱きつき、その唇に
唇を重ねた。沈黙の後、おおっ、という歓声がわく。
驚きのあまりされるがままだったリョウも、その声に我に返ると、
顔を真っ赤にして私の身体を突き放す。口元を、手で覆い隠すよう
にして。
﹁な、なんで!? ていうか、俺、待っててって言ったはずじゃ⋮
⋮﹂
﹁待てるわけないでしょ、リョウの馬鹿! 愛してる人が落ち込ん
でる時、力になりたいって思っちゃいけないの? 私、そんなにあ
なたの邪魔なの?﹂
﹁え、その、ちょ﹂
ぽろぽろと涙を流し始めた私を見て、また周りの患者さんたちや
201
療法士たちやらが、今度は﹁あーあ﹂みたいなため息をついた。多
少、大袈裟なところも入ってるけれど、正直な気持ちなんだからし
ょうがない。
おろおろと私の肩に手を置いたままうろたえるリョウに、ちょっ
とだけ意地悪な気持ちを持ったりする。
激しい運動
はもっ
﹁リョータ、今日のリハビリは終わってますから、あとはご自由に
どうぞ? ただし、安静にしてくださいよ。
てのほかですからね﹂
側に立っていた療法士が、ため息をつきながらリョウにそう言う
と、彼は真っ赤になってがくがくと頷き、私の手を取ってゆっくり
とその場を離れた。
後ろから、なにやら色々な応援や罵声が飛び交う中、私はその手
に引かれて病院の中庭までやってくる。人もまばらなところに置か
れたベンチに、とりあえず二人して座った。
﹁それで、アンゲラ。突然どうしたんだよ。俺、治るまでちょっと
待っててって言ったよな?﹂
大きなため息とともに吐き出されたその言葉に、私はずきっと胸
が痛むのを感じる。呆れられたかも、重いと思われたかも。そんな
考えが頭を過ぎり、けれど私は強い気持ちを奮い立たせるようにし
て、黙ってサーモを取りだした。
きょとんとするリョウにお椀と箸を持たせ、そこにサーモから暖
かなミソシルをそそぐ。湯気と一緒にふんわりと広がる独特の香り
に、彼はその瞳を丸くした。
﹁味噌、汁?﹂
﹁本当は、こんな時に迷惑だってわかってたのよ⋮⋮。だけど、少
202
しでもあなたが元気になればって思ったの。私が作ったものだから、
本物とは違うかもしれないけど、もしよかったら⋮⋮﹂
﹁アンゲラ⋮⋮!﹂
否定されたらと思うと、怖くてリョウの顔が見られない。私は彼
の真っ直ぐな黒い瞳から目を逸らし、小さく言い訳のように呟いた。
すると突然、彼の声が大きくなったかと思うと、そのまま胸の中へ
と抱き込まれる。
ちょ、み、ミソシル! ミソシルこぼれちゃうから!
﹁りょ、リョウ! ミソシルがっ﹂
﹁あ、ああ、ごめん。大丈夫! ⋮⋮すっげえ懐かしい。嬉しいよ、
アンゲラ﹂
勢いでお椀から少し手にこぼれたそれに口付けて、リョウは久し
ぶりに見るいつもの笑顔を私にむけてくれた。それだけで、感極ま
って泣きそうになってしまう。
﹁あったかいうちに﹂と遠回しに勧めると、彼は素直に頷き箸を
を持ってそれに口を付けた。そして一気に掻き込んでしまう。ミソ
シルって一気飲みするのが作法⋮⋮?
﹁すっごいうまい! ありがとう、アンゲラ!﹂
﹁リョウっ﹂
空になったお椀をひっくり返して見せるリョウに、私は今度こそ
遠慮なく抱きついた。彼もベンチにお椀とお箸を置くと、強く抱き
締め返してくれた。久しぶりに感じる彼の体温に、泣きそうなくら
い安堵している自分に驚く。
いつの間にか、こんなに、こんなに大好き。
ふっと離れた身体に寂しさを感じてリョウの顔を覗き込めば、彼
203
の深く黒い色の瞳はちらちらとした欲望をまとわりつかせ、こちら
を真剣に見つめていた。それに誘われるように、さっきよりもずっ
と深く、私たちは唇を重ね合う。
優しく愛おしむように、彼の右手が私の耳を弄び、それからろく
に整えてもいないぼさぼさの髪を梳いていく。私も彼の短く切られ
た前髪をかき乱すようにして撫で、それからその背へと腕を回し、
よりいっそう自分の身体を密着させた。
すると、リョウは突然口付けを中断し、ほのかに赤く染まった顔
を私からそらした。
﹁ごっ、ごめんっ、俺っ﹂
﹁何で謝るの、リョウ。私とキスするの、嫌になったの?﹂
再び胸の中に広がった不安に、彼にすがるようにしてそう問いを
ぶつけると、リョウはぶんぶんと思い切り首を横に振って否定した。
その真正直な態度に少しほっとして、私は﹁あー﹂とか﹁うー﹂
とか意味不明なうめき声を上げるリョウの答えを、ただじっと待つ。
﹁えっとさ、俺がアンゲラに待っててって言ったの、何でだと思っ
た?﹂
突然の質問に私はちょっと目を瞬かせ、それからあの日の電話の
あとに思ったこととオリーから言われて気がついたことを口にして
みた。
自分の領域に私を入れてくれないんだと思ったこと。オリーから
チームのことを聞いて、弱みを見せたくないって言われて悲しかっ
たこと。実は病院に行った日、悔しがるリョウの姿を見てしまった
こと。
それを黙って聞いていたリョウは、何だかものすごく情けない顔
をして唸る。
204
﹁ていうか、オリーって真面目すぎんだよ⋮⋮。俺がいつポジショ
ンの心配したって? それで落ち込んでるってなんじゃそりゃ!﹂
﹁え、でもリョウ、あの時すっごく悔しがってて﹂
﹁あー⋮⋮うん、その、だな。それは、その⋮⋮違う意味で悔しか
ったっていうか﹂
﹁違う意味?﹂
ますます頬を赤くして視線をあちこちにさまよわせるリョウに、
私は追求の手をゆるめることなく畳みかけた。こんなに私のこと振
り回しておいて、曖昧に誤魔化して終わらせようだなんて、甘いわ
よ!
両手で頬を挟み込み、こちらにまっすぐむかせてその目をじっと
見る。さあ、話してごらんなさい!
私のその眼力に負けたのか、今までで特大のため息をついたリョ
ウは、何かを決意したようにひとつ頷いて再び口を開いた。
﹁だから、アンゲラといるとしたくなっちゃうんだよ、俺!﹂
は?
小声で、しかも早口で言われたその言葉の内容が、うまく頭で理
解できない。なんですって?
﹁だーかーらあ! そりゃあ怪我したのが嬉しくないのは当然だけ
ど、ポジションなんて俺、怪我が治ったらとっとと取り返しちまう
し。そんなん楽勝だし。問題はそういうことじゃなくてさ、もうす
激しい運動
は控えなさいって、
ぐクリスマス休暇に入るって時に、朝から晩までアンゲラといちゃ
いちゃできるってときにだ! どんだけ俺、不幸なんだよ! これが悔しがらないでいられるかっ
ての!﹂
205
⋮⋮リョウ?
﹁でもさすがに無茶して長引かせるわけにいかないだろ。だけど、
アンゲラの顔見てるとどうしてもムラムラしちまうし、そんなこと
ばっか考えちゃうし。だから俺、ちょっと待っててって言ったんだ
よ。かんっぺきに治してから思う存分⋮⋮むふっ﹂
言葉の途中でちょっと引くくらいとろんとした顔になったリョウ
に、私は思わず得意の脇腹パンチを一発お見舞いしてやる。なんか、
色々と情けないわ⋮⋮。
この間、自分はリョウの上辺しかわかってなかったなんて反省し
たけど、別の意味でまったくわかっていなかったのかもしれない、
この人のこと。﹁ひどいっ、俺怪我人! 俺怪我人!﹂と騒ぐリョ
ウを、黙殺。
私の冷たい視線を受け、彼は急速にその身体を縮こまらせた。ば、
か、じゃ、な、い、のっ!?
﹁そうねえ。怪我が治るまで、そういうことはよしておいたほうが
いいわねえ。大丈夫、私、あなたが完璧に治して元のポジションに
復帰するまで、ぜっっったいに会いに行ったりしないから! 安心
してちょうだいっ﹂
﹁えええっ﹂
立ち上がってそんなことを言う私に、飼い主に捨てられたシェパ
ードのような顔をしたリョウががしっとしがみつく。ええいっ、鬱
陶しいっ!
とりあえず、怪我をしない程度にその腹に膝を入れてみるけれど、
いやいやと無言で首を振りながらリョウはその両腕を離そうとしな
い。ちょ、ちょっとだけ可愛いなんて、全然思ってないんだから!
206
﹁そんなん俺、我慢できなくて爆発するって!﹂
本気で涙目になってそんなことを言うリョウに、私はいいことを
思いついたと、もう一度ベンチへと座り直した。そうして彼の髪を
撫でながら、耳元にそっと唇を近付けささやく。
無理しない範囲でリハビリを終えて、休暇前までにチームに合流
できたら。そしたら、ね。
﹁ものすごおく、とびっきりの、めくるめくアンゲラスペシャル、
してあげるっ﹂
﹁ものすごおく、とびっきりの、めくるめくアンゲラスペシャル⋮
⋮!?﹂
ごくっとリョウが生唾を飲み込み、ぼやっと妄想の世界に旅立っ
たところで、ゆるんだ腕を振り払って私は彼に背をむけた。再び悲
痛な呼び声が聞こえてきたけれど、そこは無視。さあ、頑張ってち
ょうだいね、リョウ!
﹁アンゲラスペシャルって、アンゲラスペシャルってなんなんだあ
ああああっ!﹂
そして私はここ数日抱えていた重しが解消され、気分良く家路へ
とついたのだった。
***
﹁っていうのが、ワタシとリョウの一番の思い出ね。彼がまずい言
207
ったミソシル、その時の思い出のミソシル。もう、忘れられちゃっ
たよ⋮⋮﹂
﹁なんて残念なイケメン⋮⋮﹂
話をすべて聞き終え、ケンカの原因を思い出してへこむ私以上に、
なぜかそう呟いてコムギがばたりと床に転がった。それからごろご
ろっと私の近くまで寝転がってくると、ちょっとだけ酔いに染まっ
た瞳を細めて笑う。
﹁でも、すっごく好きなんですよね、本橋さんのこと﹂
﹁⋮⋮Ja﹂
ストレートなその問いに、思わず頬を染めて小さく頷けば、コム
ギは自分のことのように嬉しそうに笑って私の手を握りしめた。そ
の手に引かれるように、私も毛足の長い絨毯の引かれた床へとダイ
ブする。まるで、子供時代に戻ったみたい。
くすくすと二人で密やかに笑いあっているうちに、なんだか悲し
い気分はどこか遠くにいってしまった。
﹁明日、ワタシ、ちゃんと帰るね。帰って、リョウと話すよ。あの
時も、話したからワタシたちここにいますね。ワタシちょっと、勢
いつきすぎましたね﹂
﹁うん、それがいいかも。きっと本橋さん、今頃オリーに泣きつい
てるころだと思うし﹂
﹁仕方がないね﹂
﹁仕方ないよ、男の人は﹂
女同士の秘密の合い言葉のようなそれは、甘いため息とともに夜
に溶けて消えていく。私たちはそのまま毛布を身体に掛け、ふたり
してくっついて目を閉じた。今頃、隣ではどうしようもなく不器用
208
な男二人が、情けない声でも出して話し合っているのかもしれない。
朝一番、彼がその予想通りに私を迎えに来てくれたら、全部許し
てその腕の中に飛び込んでいこう。そんなことを思いながら、私は
ゆっくりと夢の中へと入っていった。
翌日、夜更かししたわりに早めに目が覚めた私たちは、一緒にキ
ッチンで美味しいミソシルの作り方講座を開講していた。
コムギ曰く、﹁トマトはともかく、きゅうりは入れ方とか火の通
し方によって、もっと美味しくなると思う!﹂ということで、早速
そのレシピを頭に叩き込む。今度は文句を言われたとしても、﹁食
べてみて﹂って自信を持って言えるように。
そうして出来上がったミソシルとご飯とスクランブルエッグで朝
食をとったところで、家のチャイムが激しく鳴り響いた。なんだか
焦ったように、しつこいくらいに何度も何度も。私たちは顔を見合
わせて、くすりと笑みを零す。
何事かと顔をのぞかせたコムギの両親に頭を下げた私は、はやる
気持ちを落ち着かせながらそのドアを開けた。
﹃あっ、アンゲラっ!﹄
﹃おはよう、リョウ。人の家なのよ、ちょっとは遠慮してちょうだ
い。ご近所迷惑でしょっ﹄
﹃え、あ、その、俺さあっ﹄
腰に手を当てて軽く睨む私に、リョウは頭を掻きながら一所懸命
に言葉を紡ぐ。それはいつかのあの時のような。
あれからずいぶんと時間は経ったはずなのに、彼はまっすぐで変
わらないその瞳を私にむける。
209
﹃俺、忘れてて。あれは君が初めて作ってくれた味噌汁だよな。あ
の時は強がって変なこと言ったけど、本当は違って⋮⋮いや、アン
ゲラがほしくてたまらなかったってのは、あの時も今も変わらない
んだけどっ。そうじゃなくて、その⋮⋮本当はさ、本当は、オリー
が言ったみたいにちょっと落ち込んでてさ、そんな時にアンゲラ、
君が一所懸命味噌汁作って持ってきてくれて、すごく嬉しかった﹄
﹃リョウ⋮⋮﹄
初めて聞く気持ちと、はにかんだような笑みに、私の胸はぎゅっ
となって苦しくなる。やっぱり、気を遣ってくれていたんだと思う。
私が、彼以上に落ち込んでしまうから。
﹃君がそばにいてくれることが当たり前みたいになってて。前と変
わらないくらい愛してるのに、伝える努力もしないでわかってて当
然みたいに思い始めてて。だから、⋮⋮ごめん、アンゲラ﹄
﹃違うの、私のほうこそ。私のほうこそ⋮⋮また、あなたの話を聞
かないで﹄
昨日とは違う感情によって、私の頬に涙が流れ出す。
それをのびてきた指が、優しくすくって乾かしてくれた。何にも
変わらない⋮⋮ううん、もっと素敵になったリョウに、私は微笑む。
いつだってこの人の隣で、この人に恥じない人間でいたい。
頬に触れたその手のひらに唇を寄せると、彼はもう一方の手を差
しだし甘くささやいた。
﹃アンゲラ、これからも俺と一緒にいてくれませんか?﹄
それは懐かしいプロポーズの言葉だった。
あの時以上に熱烈に私を求める瞳に、私ははい、と頷こうとして
210
突然ふらりとめまいを覚えた。
あれ、と思う間もなく、急速に景色が色を失っていく。目の前で
微笑んでいたリョウの顔が、凍り付いたようにこちらを見つめてい
る。なに、なんなの?
ふわっと宙に浮くような感覚の後、何か温かいものに包まれたと
ころまでで、私の意識は途切れてしまう。ただ、必死に私の名を呼
ぶリョウの声だけが真っ暗闇にこだまして、消えた。
ざわり、ざわり、と空気の動く音が絶え間なく私の意識に届く。
遠くから人の話し声。少し湿度の足りない空気。忙しなく動き回
る人の足音。何かを探し求めるように無意識に伸ばした手が、温か
くて優しい温度に包まれた。そこで、私はうっすらと目を開く。
始めに見えたのは、白い天井。まだ安定しないゆらゆらと揺れる
思考で、知らない場所だわ、とだけ思う。ここは、どこ?
ぼんやりと首を巡らせれば、そこにはこちらを心配そうに見つめ
ているリョウの顔。私の手を両手でしっかりと握りしめ、なんだか
泣きそうな表情をしている。
﹃リョウ⋮⋮?﹄
﹃アンゲラっ、よかった⋮⋮っ﹄
泣くんじゃないかと心配になるくらい顔を歪ませて、リョウは私
の額に自分の額をくっつける。そのこそばゆさに、私はくすりと笑
った。
それを見た彼は、やっと安堵したように微笑みを返してくれる。
﹃ここ、病院なの? 私⋮⋮﹄
211
﹃倒れたんだよ、麦子ちゃんちの玄関で。覚えてない?﹄
﹃あ⋮⋮﹄
二度目のプロポーズ。その手を取ろうとしたら、急に目眩がして、
それで。
びっくりして起きあがろうとした私を、リョウがその手で制して、
もう一度ベットへと寝かしつけられる。私、何か悪い病気なのかし
ら。どうしよう!
﹃今、先生が説明に来るから。安静に。な、アンゲラ﹄
何にも心配いらないよ、というような、彼のいつもの笑顔に私も
笑みを返す。それだけで、胸に巣くった不安はどこかへ消えてしま
った。彼が傍にいてくれるなら、どんなことでも大丈夫。
私がそんな気持ちを込めて頷いたその時、病室の扉がノックされ、
白衣を着た男性の医師が中へと入ってきた。ゆっくりと身体を起こ
そうとする私に、﹁ああ、そのままで結構ですよ﹂と柔和な声で言
うと、医師は手にしていたクリップボードに目を落とす。
ぎゅっ、と私がつながれている手を握りしめると、リョウも強く
握り返してくれた。
﹁先生、アンゲラ⋮⋮妻はどこか悪いんですか!﹂
﹁え?﹂
﹁なにか、重い病気でも! あの、隠さないで全部教えてほしいん
です!﹂
勢い込んでリョウがまくし立てるのを、医師は目を丸くして聞き、
それからまあまあと腰を浮かした彼を再び椅子に座らせる。そして、
いたずらっこのような笑顔を見せてひと言。
212
﹁おめでとうございます。妊娠されてますよ﹂
それからはもう、大騒ぎ。まあ、騒ぐ人間はこの場所にはひとり
しかいないんだけれども。
医師は呆れて﹁くれぐれも安静に﹂と言って早々に退出してしま
い、それでもおさまらない興奮に叫びまくっているリョウに、看護
士が雷を落としても止まらなかった。なんとか私が落ち着かせ、コ
ムギやオリーへと連絡を取ってもらったのは、妊娠を告げられてか
ら二時間も後のこと。
大事をとって三日ほど入院したんだれども、退院する時はまたひ
と騒ぎ。とにかく、妊婦である私よりもリョウのほうが神経質なく
らいで、ぴったりと私に寄り添って離れてくれないのが大いに困っ
た。
今も、一緒に買い物をしながら彼はどこかそわそわしていて落ち
着かない。
カートは絶対に私に押させてくれないし、何か取るにも全部自分
が取ると言って聞かないし、走り回る子供たちが近づいて来ようも
のなら、体を張ってディフェンス。私、現役時代にもこんなに真剣
に相手をブロックするあなた、見たことないんだけど⋮⋮。
﹃卵に、大根に、油揚げに⋮⋮あと何か買うものある?﹄
カゴに入れたものを確認しながらこちらを振り返ったリョウに、
私はにっこり笑って大きく頷く。あなたと私の、肝心なものが足り
てないじゃない?
その笑顔に何かを悟ったのか、彼もにんまり笑うと近くのカゴか
ら目的のものを手にとって見せた。
﹃あと、味噌汁のためにきゅうりも、だろ?﹄
﹃正解!﹄
213
そうして私たちは、今夜も普通ではない味噌汁を一緒に飲むのだ
った。
だってこれは、私たちの幸せとともにあるものなんだから︱︱。
214
幸せは味噌汁とともに 4︵後書き︶
個人的に、何度も言いますが、味噌汁にきゅうりは美味しいと思い
ます!
番外編はここで一区切り。しばらく書きためて、今度はまたオリー
とコムギと謎のひとの話を、新しく続ける予定です。
215
日本女性のドイツ語的愛情 ︽オリーと麦子︾
すみません、てひとこと言うのに﹁エントゥシュルデグング﹂っ
てどうなのよ。
さよならなんて、﹁アウフ ヴィーダァーゼーエン﹂⋮⋮って舌
噛むわ!
極めつけは数字。
なんで3489が﹁ドゥライタウゼントゥフィアフンデァトゥノ
インウントゥアハツイッヒ﹂って。どこの魔法少女の呪文なの!
もういや。全部いや。ドイツ語なんて嫌い。
それで、今目の前でドイツ語を話している美人ふたりも、それに
etwas
trinken
にこやかに答えているどこぞのゴリラもみんな嫌いなんだから!
Klar?﹂
wir
Olli!﹂
Gehen
Danke
﹁Alles
﹁Ja!
﹁Olli,
!﹂
どこからどう見ても、見事なアルプス山脈を胸にお持ちの美人さ
んふたりは、それを有効に生かすべく、さっきからぐいぐいとオリ
ーの腕にそれを押しつけている。
わあすごーい。私じゃあ、絶対にあんなことできないもんね。や
ったとしてもきっと、﹁鳩胸?﹂って聞かれるだけだもんね。てい
うか、それってただ胸板押しつけてるだけだよね。
地図を挟んでまだまだ続いている三人のやりとりを、側に立って
216
nicht.﹂
いた私は表面上の笑顔で聞いている。
﹁Leider
﹁Schade⋮⋮﹂
困ったように笑ってオリーが彼女たちから腕を取り戻すと、美女
Reise﹂
二人はものすごく残念そうに眉を下げた。
﹁Gute
オリーがそう言って手を振ると、彼女たちは渋々と、それはもう
渋々と私たちに背をむけて歩き去って行った。去り際、私に鋭い視
線を投げることは忘れなかったけれど。
sslich﹂﹁ki
そうして私に聞こえるように、表面上は小声っぽくして何事かを
囁きあう。漏れ聞こえてきたのは、﹁ha
ndisch﹂﹁Schlampe﹂。
悔しいことに意味は理解できなくても、悪口だってことはフィー
リングで伝わるんだな、これが。ふふふふ。
﹁コムギ、ごめんなさい。待たせましたですね!﹂
﹁⋮⋮ラッタ﹂
﹁なんですと?﹂
満面の笑みで私に向き直ったオリーに、私は幾分かひび割れてし
!
まったような笑顔で答える。そうね、オリーはドイツ語も英語も日
本語もできるもんね!
言語的に残念な私が今味わった屈辱は、一生わからないよね
きょとんとその青い瞳を丸くして、どこか可愛らしく感じる仕草
で首を傾げたオリーに、私は思いっきり叫ぶ。
217
﹁バケラッタ、バケラッタ、バケラッタ!﹂
言葉の通じないこの気持ち、思い知るがいいよ!
***
ということから一週間。
今日も、私たちのディスコミュニケーションは続く。
﹁モルゲン、コムギ! 今日もマックロクロスケみたいに可愛いで
すね!﹂
﹁バケラッタ﹂
﹁カフェ飲みますか、ミルヒカフェーにしますか?﹂
﹁バケラッタ、バケっ﹂
﹁了解ですよ。ミルヒたっぷりでカフェーしますね﹂
﹁バケラッタ!﹂
なんだろう、このスムーズな流れ。ねえ、どうしてなの!?
通じちゃってない? 私のこれ、まったく意味なく、オリーに通
じちゃってない!?
むっとして、キッチンで忙しく朝の支度をしてくれているオリー
を睨み付ける。その視線に気がついた彼は何を勘違いしたのか、と
ろりと胸焼けするほど甘い笑みを浮かべたかと思うとちゅっと私に
キスをかました。ちちち、違うっ、何か違う!
sschenしてほしいは、きちんと言いましょ
﹁バケっバケっ﹂
﹁コムギ、Ku
う。オリー、いくらだってあげますね!﹂
218
﹁バケラッタァアアアアアアアアアアっ!﹂
するり、と両腕で私の腰を拘束し、何度も小鳥のようなキスをか
ましてくるオリーに、私は叫び声をあげながら抗議する。言ってな
い。誰もそんなこと言ってない!
そんな私の抵抗なんかまったくお構いなしに、オリーは額に鼻に
目元に頬にと、どんどんとキスを降らせていく。く、くすぐったい
っ。
ぎゅっと目を閉じてひたすらそのこそばゆさに耐えていた私の腰
で、今度はオリーの大きくて厚い手のひらが不穏な動きを始めた。
こ、こらあっ。
﹁コムギ、可愛いです⋮⋮﹂
﹁んっ﹂
さわりと尻を撫でられたところで、思わず出てしまった﹁バケラ
ッタ﹂以外の声に、私は顔全体が真っ赤になってしまうのがわかっ
た。オリーを見てみれば、そんな私の反応にそこはかとなく満足げ
に笑みを浮かべている。こ、この万年発情ゴリラがあっ。
そのまままたちゅうっと頭のてっぺんにキスされ、たまらなくな
った私は目の前にあるオリーの胸板をぼこぼこと容赦なく叩いた。
こんな抵抗、彼にとっては蚊に刺されたくらいのものなんだろう
けど。
﹁シット﹂
﹁バケ?﹂
﹁コムギ、この間のフロイラインにシットですね。オリー、愛され
てますね。でも、オリーの全てはコムギのものなのですよ。わから
ないですか?﹂
219
低く、身体の芯まで震わせるような声が、甘く耳元に吹き込まれ
る。
それにびくっと反応した私の身体を、オリーはますます深く抱き
締めて、これ以上ないっていうくらいに密着。あああああ朝だよっ、
オリー、朝ですよ!
せっかくの日曜日、こここ、これで終わらせられてたまるかあっ。
﹁バケラッタあっ!!﹂
﹁Aua!﹂
身長差を生かした見事な頭突きがオリーの顎にメガヒット。
さすがの巨人も鍛えられない場所ということもあり、彼は私の身
体を離すと床にしゃがみこんで悶絶した。なんか、ごめん。
私は悪くない悪くない、と思いつつも痛みに耐えるその姿があん
まりにも不憫で、私はそっと丸くなったその巨体に近寄り、頭を撫
でてあげる。すると。
﹁ホカク!﹂
﹁ぎゃあ!﹂
膝裏に腕が回ったかと思うと、いきなりすくい上げられ、目線が
ぐんと高くなる。
今度こそマイルールのバケラッタ言葉なんて置き去りに、私の身
体を担いでいるその大きな身体にしがみついた。私は米俵か!
そのままゆっくりと見慣れたルートを移動していく背中を、私は
無駄だと悟りながらもぼっこぼこ叩いてやる。なんだこの、鎧の如
き筋肉はあっ。
背中を叩いても駄目。手を伸ばしてお尻をつねっても駄目。⋮⋮
ていうか、お尻つねったらちょっと嬉しそうな悲鳴を上げるって。
助けてえええ、変態がっ、変態がいるうう!
220
私の重みも抵抗もなんのその、危なげなく階段を上がって嫌な予
感通りに寝室へとむかっていくオリーに、私はもう意地も何もかも
捨てて日本語で叫んだ。
オリーもヤリたいこと色々あるですね﹂
﹁にっ、日曜日はいろいろやりたいことがあるのーっ!﹂
﹁Ja.
﹁なんか違う! それなんか絶対に違うから!﹂
優しくベットの上に降ろされて、その上から逃がさないように覆
い被さってくるオリーに、私は最後の抵抗を試みる。
﹁わっ、私っ、今日は一日ドイツ語を勉強しようかと思ってるの!
そしたら、オリーだってもっと自由に会話できるでしょ!? だ
から、ねっ?﹂
思い詰めたように真剣な顔で、多少獲物を前にして舌なめずりす
る肉食獣のように私を見つめていたオリーが、その言葉にふわっと
笑顔になる。
とんでもなく甘ったるく、情けないくらいにゆるんだその顔に、
ああ助かったと息を吐いた︱︱んだけど。
いつもよりも乱暴に口づけられて、私は驚きに目を見開いて固ま
った。
全部、自分の全部を飲み込まれ、それでも足りなくて。もっとも
っとと、どこからか引きずり出されていくような、そんなキス。無
理矢理入ってきた舌が、私のそれを絡め取ってちゅっと吸い上げる。
空気がほしくてあえぐ私に、オリーはまったく手加減なし。
助けを求めるように、溺れた人が海面へと伸ばすようにした手。
それを大きさのまるで違うオリーの手が握りしめ、ベットへと縫い
つける。そうして、それとは違うほうの手がベットと私の間に入り
込み、腰より少しだけ下のあたりでくるくると円を描いて私を試す。
221
なんでっ、なんでっ、なんでえええええええ!!
心の中の悲痛な叫びが伝わったのか、その激しいキスをふっと中
断したオリーが、苦しくて涙目になった私の顔を覗き込んだ。なん
か、すんごい満足げなのがまた腹立つんだけど。
﹁コムギはドイチュの言葉、必要なのはあまりないですね﹂
﹁はあ?﹂
﹁必要な言葉、ひとつだけですね﹂
なんのことだろうか。
﹁はい﹂と﹁いいえ﹂はわかるけど。
突然投げかけられた疑問に頭をぐるぐると回している私に、オリ
ーは再び唇を寄せてささやいた。重なるか重ならないかのその距離
liebe
Dich.
これだけでオリーはとっても
で、優しく動く唇の動きに私はもどかしい何かを感じて、発熱する。
﹁Ich
幸せなのです!﹂
それは私が彼から何度も何度も聞かされている言葉。
﹃あなたを愛してます﹄
そう言って心の底から幸せそうに微笑むオリーに、私も仕方なし
に笑みを返す。
身長は全然釣り合ってないし、彼は有名人で私はただのOLで。
あんなばいんばいんな美人さんたちに誘われるくらい素敵で、優し
くて、時々ちょっと可愛らしい人。
私は彼の手にあまるほどの胸もないし、自分で言って傷つくけど
幼児体型だし。それでも、通りすがりのファンなんかには、負けな
いくらいにこの人が好き。
オリーがいない日常なんて、もう考えられない。だから︱︱。
222
bin
glu
cklich、コムギ⋮⋮﹂
﹁オリー、イッヒリーベディッヒ!﹂
﹁Ich
返事の意味はわからなくても、彼の青い瞳が全部全部伝えてくれ
る。
今度は自分からオリーの頬に手を伸ばし、その優しくも激しい口
付けを受け入れながら、私はなんで彼に﹁バケラッタ﹂が通じてい
たのか、ようやく思い至ったのだった︱︱。
223
日本女性のドイツ語的愛情 ︽オリーと麦子︾︵後書き︶
突然降ってわきました。
例によってドイツ語は適当です。フィーリングでお願いします⋮⋮。
224
プロローグ あいつこそがドイツの王子様?
後輩の結婚式からほろ酔い気分で帰ると、家の前に王子様が立っ
ていた。
正確には自分の家ではなく、婚約して一年になるオリーの玄関ポ
ーチ。
きらきらと光るプラチナブロンドと、神様が気合い入れて作りま
したって感じの端正で繊細な横顔。それだけでもう、王子様。冷た
い風が吹く中、その形の良い鼻も真っ赤になってしまっている。
見慣れたドイツ人よりも、すらりと高い身長。品のいい黒いコー
トに包まれた身体は、何かスポーツでもしているんだろうか、均整
がとれて見るからにモデル体型。うわあ、王子様って生き物はディ
ズニーランドにしか存在しないものだと思ってたけど!
なんてぼうっと見とれていた私に気がついて、その王子様がこち
らを振り返った。
透き通るような青の瞳。この冷たい空気に冴えるような、アイス
ブルー。少し釣り上がり気味の、どこか血統書付きの猫を思わせる
その瞳が、私の姿を見つけてちょっと見開かれる。え、私?
まるで映画でも見ているような、非現実的なものを眺める感覚で
その王子様を見上げる。ええっと、なんだろうか、この状況。
一年前の冬、うちに例のゴリラっぽい何かがやって来た時と似て
いる気がする。
﹁ええと、その⋮⋮何かうちにご用、ですか?﹂
見つめ合うこと数分。
225
待っても何も言わない王子様に焦れ、私は恐る恐るそう切り出し
てみる。日本語が通じればいいんだけどなあ。
駄目だったら、途中のコンビニでビールとおつまみ調達中のオリ
ーを待とう。一応外見はゴリラ的な彼だけど、中身は日本語英語ド
イツ語を操る人間翻訳機だからね!
と、後ろを振り返っていた私の頭に、ぽふり、と何か温かいもの
が乗せられた。んん?
驚いて視線を上げれば、頭の上に王子様の手のひらが。
見上げればにこおっと、なんだか滅茶苦茶無邪気な笑顔をむけら
れた。んんん!?
﹁拙者、ミヒャエル・ベルンシュタインと申す! フロイライン、
この家の者でござるか?﹂
拙者!? 拙者ってなに!?
びしっと固まってしまった私の頭を、王子様は撫でる。撫でる撫
でる、そりゃあもう撫でる。な、な、なんだろう、これ。
あの、結婚式ということで振り袖に合わせてせっかく髪も整えて
あるんで、あんまし撫で回さないで欲しいんですけど⋮⋮。ついて
いけないぶっ飛んだこの状況に、半泣きになりながら私がそのミヒ
ャエルさんを見つめると、彼はちょっとだけ頬を染め、今度は私の
手を取った。
﹁失礼つかまつった! フロイライン、名は何と申す?﹂
そうしてちゅ、と手にした私の指先に唇をつけ、その整った顔を
近付けてくる。⋮⋮初めて知ったね。美貌は暴力!時に、美貌は暴
力!
慌てて彼から手を取り返すと、私は本格的に涙目になりつつ自己
紹介。
226
﹁鈴木です! 鈴木麦子ですっ﹂
﹁スズキ、ムギコ⋮⋮?﹂
それまで愛想のよかったその顔が、私の名前を聞いたとたん、び
きっと凍り付く。そしてさっと距離をとり、鋭い瞳でこちらを睨み
付けてきた。ええええ。
何だその変わり様は!とむっとした私も負けずに睨み返す。なん
ていうか、意地?
この寒い中、慣れない着物は苦しいし草履を履いた足は痛いし、
そろそろ化粧も落として結婚式の感動的な余韻に浸りつつ、オリー
が買ってきてくれるはずのビールを飲んでベットでごろごろしたい
のに!
半ば八つ当たり気味に相手を威嚇しつつ、横を通って家へと駆け
込もうとダッシュして︱︱私は見事に捕獲された。
﹁拙者のTorは割らせぬ!﹂
﹁まったく何言ってるんだかわかりませんよ、このエセ侍が!﹂
左腕一本、小脇に犬猫のように抱えられた私は、底意地悪そうな
笑みを浮かべてこちらを見下ろす王子様の顔を睨み付ける。綺麗な
だけあって憎さ倍増。ていうか、なんで私がこんな目に!?
ぐぎぎぎぎ、とまた睨み合いに発展しかけた、そこに。
﹁コムギ!?﹂
聞き慣れたオリーの声が響き渡り、私は王子様改め拙者王子に抱
えられ、間抜けにお尻をむけたままで声を上げる。
﹁オリー!!﹂
227
同時に重なった声に、拙者王子と私は思わず顔を見合わせた。真
面目に、あんた誰!?
まさに猫とネズミ、蛇とマングース。
またもや睨み合いになったところで、ひょいっと私の身体は馴染
んだ腕の中へと抱え上げられた。いや、オリー、そこは地面に降ろ
してくれていいんだけどね?
横抱きにされて見慣れたゴリラ顔を見上げれば、オリーは目をま
ん丸くして王子を見つめていた。
﹁ミヒャエル? なんでここにいますか!﹂
﹁無論、拙者、オリーに会いに来たでござるよ!﹂
ほんと、最近ドイツって国がわからないよ!
この日のこの出会いが、鈴木麦子と拙者王子ミヒャエル・ベルン
シュタインとの、よくわからない戦いの始まりだった︱︱。
***
﹁やはり、寒うござる時にはビアに限るでござるな!﹂
﹁めちゃくちゃだ⋮⋮、その日本語めちゃくちゃすぎる⋮⋮っ﹂
﹁Nein、本当に寒い時にはアツカンがいいですね。コムギ、オ
リーはアツカンを作りますか?﹂
﹁アツカンとはなんでござる? 拙者も頼もう!﹂
﹁いやいや、拙者王子はちょっとは遠慮しようよ!?﹂
﹁本当は火にかけますが、時間がないのでチンしますよ﹂
﹁苦しゅうないぞ、オリー﹂
﹁もうやだこのドイツ人たち⋮⋮﹂
228
衝撃の出会いから三日。
オリーの家の居間、うちと同じくこたつが鎮座するそこに三人仲
良く足を突っ込みつつ、会話の中心は酒である。なんか間違ってる
でしょ、多分。
決定的におかしいことになってるのは、この﹁こたつとは拙者初
めてだが、なかなか良い物でござるな﹂なんて、顔に似合わないど
てらを着込んでくつろいでるこいつだ!
その名をミヒャエル。悔しいし、うまく発音できないので、拙者
王子で通す。
オリーの一番仲の良い後輩で、現役のドイツ代表GK様らしい。
しかし、サッカーをまったく知らない私に、そんな後光は通用せん
ぞ、ドイツ王子!
私がオリーと楽しもうと思っていたアサヒビールロング缶を次々
と空け、その上で私の日本酒を飲もうとは⋮⋮いい度胸してるじゃ
ないか。
なんでか名乗った瞬間から敵視してくる王子の足を、私はこたつ
の中で蹴りつけてやる。
﹁やめろでござる、チビスケ!﹂
﹁なんだって?﹂
﹁短い足で、頑張らないほうがいいでござるよ、チビスケ﹂
﹁切れた。かんっぜんに切れた!﹂
にやにやといやらしく笑うその端正な顔に、私はむき終わった後
のみかんの皮を投げつける。それは見事なまでにびしゃっと真正面
から貼り付いた。おかしいのは、あんたらの国の平均身長だっ。
壮絶なまでに美しい怒りの表情で、拙者王子はゆっくりと顔から
みかんの皮を取り除くと、手元にあったみかんそのものを私に投げ
つけた。それはぼこっと私の額にヒット。みかん、意外と痛い⋮⋮。
229
投げつけられたみかんを拾い、赤くなっているだろう額に手をや
ると、拙者王子はそれを指さし大笑い。うんうん、そうかそうかあ。
そんっなにみかんが好きなら、心ゆくまでその口に詰め込んでやる
わ!
私は無言で立ち上がると、思いっきり王子の身体へとダイブした。
ごつん、といい音をさせて拙者王子は仰向けに倒れる。そこへ私
が馬乗りの状態。
突然の暴挙に、彼はあんぐりと口を開けてこちらを見上げ、固ま
る。そこに、私はみかんを皮のまま丸ごと押し込んでやった。ほら
ほら、いくらでも食べなさいよ!食べてみなさいよ!と、勝利の微
笑みを浮かべたそこで。
﹁コムギ! 食べ物で遊ぶのよくないですね! あと、オリー以外
の男の上に乗っかるのは、絶対禁止ですね!﹂
こたつテーブルの上にアツカンを置いたオリーが、ほとんど子供
を叱る親のようにそう言って、私の身体を持ち上げる。そして﹁だ
ってこいつが!﹂と愚痴る私を宥めるように、額と頬にキスをして、
そのままこたつに腰を下ろした。
いつもの通り、背後から私を抱きかかえてそこはかとなくご満悦
なオリーに、むくっと起きあがった拙者王子が顔をしかめる。
﹁ハレンチでござるよ、オリー﹂
﹁拙者王子、いったい何を見て日本語覚えたのよ⋮⋮﹂
﹁ハレンチ? それは性的に興奮する意味ですか? 教えて、コム
ギ﹂
﹁面倒くさあああい、何もかもがもう面倒くさああいっ﹂
甘えるように顔を寄せてくるオリーの鼻っ柱を叩き、私は早々と
戦線離脱を宣言し、テーブルの上の熱燗に手を伸ばした。ダブルボ
230
ケって、深刻なツッコミ不足だよ。
ならば負けじと同じように熱燗を手にした拙者王子は、ひとしき
り匂いを嗅いだ後、危なっかしい手つきでお猪口にそそぎ、ぐいっ
と一杯⋮⋮いったと思ったら思い切り咳き込んだ。日本酒なめんな!
﹁ミヒャエル、イッキは駄目ですね。ちびちびいきますよ?﹂
﹁この者、何やつ⋮⋮﹂
苦しそうな王子にコップの水を手渡し、背中をぽんぽんと叩いて
介抱してやっているオリーの姿は、なんだか本当の兄弟のよう。
その様子を飲みながらじっと見ていた私と、少し潤んだ王子の目
がばちり、と合う。初めて会ってからこっち、なぜか一方的に絡ま
れている私としては、ここで目を逸らすのもむかつくのでそのまま
睨み返してみた。
すると、何を勘違いしてるんだか、﹁へへん、おまえのオリーは
俺のほうが好きなんだぜ!﹂みたいな勝ち誇った笑みをむけられる。
brigens、ミヒャエルは何をしにヤーパン来ましたか
なんか、今ものすごく下らない敵意を感じ取ったよ、私。
﹁u
?﹂
再び私を抱きかかえる定位置についたオリーが、それを悔しそう
に見ている拙者王子に問いかけた。そうよ、それ。それが聞きたか
ったの!
頷きながら、なきにしもあらずな下乳とお腹の境界線で何やら怪
しい動きをするオリーの腕をつねって牽制。最近この人、人前でも
遠慮しなくなってきたから、なにか考えないと。
上を向いて睨み付ければ、オリーはただへらりと嬉しそうに笑う
ばかり。
そんな彼に王子は、ものすごく不満そうな顔をしつつも、近くに
231
置いてあったスーツケースの中をごそごそと漁り始めた。
﹁これでござるよ!﹂
そうしてその中から取り出したものを、ひどく誇らしげにテーブ
ルへと置いた。
どん、と途轍もない存在感をかもし出して私たちを見つめている
のは、こけし。どこからどう見ても、こけし。しかも嫌に巨大。
なんとなく、微妙な空気が流れる。え、何これを見て私にどんな
ツッコミを期待してるの、この王子様!
﹁す、素敵なこけし、ですね﹂
思わず敬語。むやみやたらに刺激してはならない種類の人なのか
もしれない、こいつ。
すると、その張りつめた空気をまったく読む気配もなく、拙者王
子は大きく満足げに頷くと自信満々な笑みをむけた。
そしておもむろに、こけしの頭を掴んで左右に回す。
︱︱きゅっ、きゅっ、きゅっ。
⋮⋮うん、鳴るね。なんていうか、鳴子こけしですね。
もうすでに号泣したいような気分に駆られたまま、私はどうしよ
うもなく、王子のうっとりとした顔を見つめることしかできない。
そんな私に、王子は少し照れたような、いくらか可愛らしい顔をし
てさらにもう一体のこけしを取りだした。ま、まだあるの? どん
な顔をして荷物検査を受けたの!?
﹁おぬしにこれをやってもよいぞ﹂
232
うわあ、いらないっ。
とは言えず、私は勢いで、ごつごつして不格好なそれを受け取っ
た。受け取ってしまった。何だろうか、この手作り感満載のこけし
は。描かれている顔が、呪われそうなほどに怖い。
これはもしかして、もしかしなくとも。
﹁拙者の手作りでござる! 今回、拙者は日本でこけしを心ゆくま
で集めるでござりまする!﹂
﹁それは芸術的な休暇ですね、ミヒャエル!﹂
なんでこけし!? これなんて残念王子!? どうしてそこでオ
リーも喜ぶ!?
スーツケースからこけし取り出す美形とか、もうどこから突っ込
んでいいのかわからないよ!
恍惚の表情でこけしを撫でるその手つきがどこか卑猥だ、なんて
現実逃避をしつつ、私はどうしようもない疲れに撃沈してしまった
のだった。
233
こけし様が見てる 1
拙者王子こと、ミヒャエル・ベルンシュタインはどうやらオリー
には何も告げず、いきなり来日したらしい。
期間は二週間と少し。欧州のサッカーチームはこの時期、みんな
クリスマス休暇を取るのだと、オリーが教えてくれた。普通なら、
その休暇中は家族や仲間と過ごすらしいのだけれど⋮⋮。
﹁よいでござるか、お主はこの﹃愛屋特製お子様うどんセット、限
定こけしストラップ付﹄を注文するでござるよ。日本の国旗も立っ
ているし、量もそこそこ。なによりチビスケ、お主にはぴったりの
セットでござろう!﹂
平日昼過ぎの和風ファミリーレストラン。
その店内の一角で、なぜか偉そうにメニューを指定してくるのが、
謎の来日中である王子なのだった。そこはかとなく上から目線の彼
が指さすのは、さっき口にしたとおりのお子様セット。しかも小学
生まで限定の。
私は頭の中に、本日すでに何十回目かのゴングが鳴り響くのを聞
いた。よおし、いい度胸だ、このガッカリ王子め!
黙って静かな笑みを浮かべ、目の前にあった温かいおしぼりを彼
に投げつける。使用済みじゃないだけましと思えよ!
それは見事、どこか興奮気味にこちらに身を乗り出していた王子
の顔にヒット。びちっといい感じの音を立てて貼り付いた。うん、
凹凸の激しい顔だと付きやすいかもね。
234
﹁なにをするでござるっ﹂
﹁それはこっちが訊きたいわ! なんで二十六の社会人が、ファミ
レスでお子様セット頼まないといけないのっ!?﹂
﹁拙者のこけしコレクションのために決まってるでござる﹂
だから何でそこでふんぞり返るわけ!?
喋っている内容と口調さえ気にしなければ、ものすごい美形であ
るその顔を睨み付け、私は腹立ちまぎれに奴のおしぼりを強奪した。
むっ、と整った眉がひそめられるが、文句を言わないのは限定こけ
しストラップのためだろう。
仕方なく、投げつけられたおしぼりで手を拭きながら、王子は再
び口を開いた。
﹁無論、チビスケが何を不満に感じているかは、わかっているでご
ざる﹂
﹁よし、言ってみて﹂
﹁あれだ、お主はストラップがひとつしかもらえないことが不満な
んでござるな? そこは拙者がふたつもらえるよう、取り計らって
やるでござる。それでよいのだろう?﹂
﹁問題はそこじゃないっ﹂
ふふん、と偉そうに言われたことを、私は間髪入れずに切り捨て
てやる。こいつ、人類の誰もがこけしを欲してやまないと思ってる、
確実に。
ここまで何でこけしに執着するの、この人。最初にそんな危険な
ものをこれに与えたのは、どこのどいつだ!
﹁とにかく、私はこっちの味ごよみ膳を頼むんだから、邪魔しない
でっ﹂
﹁注文できたら、でござるな﹂
235
むかつくほどさらさらと流れる、短めのプラチナブロンドを掻き
上げて、拙者王子は楽しげにアイスブルーの瞳を細める。それはど
こか、なぞなぞを出す前の笑う猫のようで、私はむっとして眉をひ
そめた。
男の人にしておくのは勿体ないくらい美しい顔立ちは、けれど決
して女々しくはない。目も鼻も口も、顔全体が優雅で丁寧に作り込
まれて、きっと神様の一番のお気に入りなんだろうって思える華や
かな容姿。挑戦的な笑みを浮かべながら、ここの椅子だと足が余る、
とでも言いたげにゆっくりと長い足を組み替えた。
何ていうか、何もかもが私のカンに障る。有り体に言えば、むか
つく腹立つ。
﹁王子、私のことバカにしてるでしょう﹂
怒りにまかせて低く問えば、拙者王子はふん、と一度鼻を鳴らし
た。言葉での回答はないが、それだけで充分。充分、彼の気持ちは
伝わってきた!
初めて会って名乗ってからこっち、延々となんでかチクチクチク
チク嫌みを言われ、突っかかられ、そろそろ私の堪忍袋も限界です。
なんでそんな風に私に意地悪を繰り返すのかはわからないけど、そ
っちがその気ならもう遠慮しないもんね!
大好きな人の家族のような人だっていうから、表面上はにこやか
に接していたというのに!
絶対に負けられない戦いが、ここにもある!
﹁すみませーん!﹂
﹁はい、ご注文ですか?﹂
決意を固めたところで、ちょうど通りかかった女性の店員さんに
236
声をかける。
いいぞ、コムギ。ここは私のホームグラウンドだ。遠征してきて
る残念王子なんかに、絶対に負けたりしないんだからっ。
もはやファミレスで食事を注文するという以上の情熱を燃やし、
私がサービススマイルを浮かべて待つ店員さんに話しかけようとし
た、その時。
﹁Aua!﹂
短い声が目の前で上がり、私と店員さんははっとしてそちらに視
線を向ける。
見れば、王子がテーブルの水を倒し、それが黒いズボンへとかか
ってしまっていた。何やってんの、この人⋮⋮と私が思うよりも早
く、プロ意識に秀でた店員さんは、同じくテーブルの上にあったお
しぼりを手にとって、彼の前に跪いた。
﹁お客様、大丈夫です、か⋮⋮?﹂
太股から膝の辺りにかけて染みた水におしぼりを当て、そう言っ
て王子を見上げた店員さんの語尾が不自然に消える。そして、その
フラウ。拙者の間違いでござる。かたじけない﹂
顔が見る見るうちに真っ赤に染まっていくのがわかった。ええええ。
﹁Danke,
﹁あっ、その、いいえっ﹂
すっと膝に置かれていた手の上から、王子は自分の手を重ね、ゆ
っくりと持ち上げていく。それを呆然とした顔で見つめながら、店
員さんはしどろもどろに答えて首を振る。
彼女をじっと見つめ、王子は目を逸らさない。手も放さない。そ
のままで、彼はとても心地の良い声を出してさっきの言葉を繰り返
237
した。
﹁﹃愛屋特製お子様うどんセット、限定こけしストラップ付﹄と、
拙者はこの﹃夢御前を﹄頼むでござるよ。フラウ、よいか?﹂
﹁はははは、はいっ。ご、ご注文を繰り返します! ﹃愛屋特製お
子様うどんセット、限定こけしストラップ付﹄と﹃夢御前﹄ですね
っ﹂
﹁Ja﹂
店員さんの震える復唱に頷いた王子は、おもむろに掴んでいた手
を口元に持っていくと、その指先にちゅっと軽くキスを落とした。
それは、初日に私がされたのと同じ、本物の王子様のような振る舞
い。
呆れたようにそれを見ている私の前で、店員さんは声にならない
声をあげた。そして、素早く立ち上がって一礼すると、ダッシュで
厨房のほうへと走り去ってしまう。
ぽかん、とそれを見送った後、私は指先でテーブルを叩かれる音
に我に返った。あ、あれ?
﹁それで、チビスケ。お主は何が食べたいって?﹂
にやにやと笑われ、私は今のが全て王子の作戦だったことによう
やく気付く。
わざと水を零して店員さんを引き寄せて、そのまま自分の魅力全
開で有無を言わせず注文を終わらせる⋮⋮なんて無駄な美形!
私はどっと疲れを感じ、机の上に突っ伏してしまった。子供、子
供の喧嘩⋮⋮。
そんな私の様子に、王子が喉の奥で笑うのが聞こえた。獲物を掴
まえた猫が喉を鳴らすように。⋮⋮もう、何とでもバカにすればい
いっ。
238
テーブルに置いた手をぐっと握りしめて屈辱に耐えていると、不
意に伏せた頭の上に何かの温もりが乗っかった。え、と思う間もな
く、わしゃわしゃと髪の毛をかき乱される。
驚いて私が身を起こすのと、拙者王子が手を引くのとは同時。さ
っきまで敵としか認識されていないと思っていた彼に、そんな風に
優しく触れられたなんて信じられず、私はただ黙ってその端正な顔
を見つめた。
すると、ちょっとだけ気まずそうな表情をした王子は、その白い
頬をかすかに染めてそっぽを向いてしまう。ええと、今のは何です
か?
﹁おっ、お主なぞ家の犬と同じでござるっ﹂
﹁犬⋮⋮﹂
﹁Ja!﹂
慌ててそんな言い訳をする王子に、私は肩の力が抜けてしまった。
あんまりに不器用な親愛の表し方に、思わず笑みがこぼれる。それ
を横目で見ていた王子も、ほんの少しだけその口元を引き上げた。
ちょっとした和解が成立したところで、さっきの店員さんがぎぐ
しゃぐと料理を持って現れる。なんか、ものすごく即行だけど、大
丈夫かこの人。
未だ頬に赤みが残る彼女は王子の前に夢御前を置くと、迷うこと
なく私の前にお子様セットを並べた。そして、手にしていたバスケ
ットの中身を示す。なんというか、やっぱり色々と屈辱⋮⋮。
﹁これがオマケの限定こけしストラップですっ。お嬢ちゃん、ピン
クと水色、どっちいいかな?﹂
にこっと素晴らしい笑顔をむけてくれる彼女に罪はない。罪はな
い。罪はないっ。
239
口の中でぶつぶつと呪文のように繰り返す私に、店員さんは決め
かねていると勘違いしたのか、テーブルの上にそのふたつをそっと
置いた。
驚いて見上げると、彼女は秘密、とでも言うように唇に指を当て
てこっそり囁く。
﹁ピンクのほう、前に私がもらった奴だからあげるね。内緒だよ?﹂
﹁あ、ありがとうございます!﹂
純粋な好意が嬉しくて、私もふたつのこけしストラップを握りし
めて笑顔を返す。
店員さんは軽く首を振り手を振るとその場を後にした。なんとい
うサービス精神。その好意の約三分の二は、この残念王子にむけら
れたのだと思うと⋮⋮。
﹁最高でござる! ふたつ一度に手に入れられるとは!﹂
﹁あーはいはい、よかったねー。ほら、ピンクと水色こけし﹂
こっちはこっちで無邪気に喜んでいて、ますます毒気を抜かれて
しまった。
確か四つほど年下らしいけれど、ちょっとしたファミレスのおま
けで喜ぶその姿は、十歳くらいの男の子のようにも見える。弟がい
るってこんな感じかなあ。
そんなことを考えつつ、私がいただきますと料理に口を付けよう
としたら。
﹁ん﹂
ずいっとピンクのこけしが目の前に差し出される。
何だろうと思って見れば、何かすごく恥ずかしそうな顔をした王
240
子が、私にそれを押しつけてきた。思わず受け取って、首を傾げる。
なんだろう。このこけしで一句ひねれ、とか言い出すんじゃないだ
ろうか。
不審そうな目を向けた私に、一瞬にして不機嫌な顔に戻ってしま
った王子は、ぶっきらぼうに小さく呟く。
﹁チビスケにやるでござるっ﹂
﹁え、なんで? これ、両方とも欲しかったんじゃないの?﹂
﹁拙者がやると言ったらやるでござるっ。文句を言わず受け取るで
ござるよ!﹂
そうして王子はあとはもう何も言わず、さっさと食事を始めてし
まった。
私はといえば、手の中のピンクこけしを見つめて考える。これは
その、呪いとかじゃなくて良い意味でプレゼントしてくれたってこ
とだよね?
何だろう、なんかちょっと⋮⋮大分、嬉しいかも。こけしだけど。
朝から今まで受けた意地悪の数々を払拭するその好意に、私はに
っこりと笑う。お礼を口にしようとこけしから王子へと視線を上げ
た、そこに。
﹁なんでこけし並べるの!?﹂
﹁チビスケ、食事中は静かにするでござるよ﹂
ファミレスのテーブルの上に、午前中回った土産物店で手に入れ
たこけしがずらり、整列してこちらを見ていた。大・中・小と色も
形も様々なそれ。
一点一点吟味に吟味を重ね、王子が納得して購入したこけしたち
は、テーブルの上で⋮⋮いや、店内で異彩を放っていた。ねえ、や
めて。マジやめてください!
241
周りのお客さんたちから、居たたまれなくなる視線が突き刺さっ
てくる。違います、違うんですっ、変態じゃありません!ちょっと
異常なくらいにこけしが大好きな残念王子なんです!
心の中で叫びながら、私はその人たちに何でもないような笑顔を
返すしかなかった。
﹁やはり、さっきチビスケが選んだこれが一番かもしれないでござ
るな﹂
﹁わあい、とっても光栄だから早くしまえとにかくしまえ﹂
﹁なぜでござる? 拙者はこれからこれを愛でつつ和食を堪能しよ
うかと⋮⋮﹂
﹁お願いです王子様! どうしようもない私のために、それをしま
ってくださいお願いします!﹂
究極のへりくだりをかまし私が素直に頭を下げると、王子は仕方
がないな、なんてため息を零してこけしをバックにしまった。いい
んだ、私は価値ある自分の何かのために頭を下げたんだ!
﹁こけしを愛でながらの食事は格別でござるのに⋮⋮﹂
何その人生で最も苦渋の決断をしたみたいな顔は。
周りの女性客からほうっとため息がこぼれるのを聞いて、私は首
を振る。待って待って待って、こけしですよ、こけし!?
いいな、美形って。ちょっとアレでも許されて。
﹁早く食べろでござるよ、チビスケ。この後、まだ回りたいこけし
屋があるでござるからな﹂
﹁まだ買うのかっ﹂
﹁今度はもう少し小さなものがあればいいでござるな﹂
242
もうやだっ、この王子様もうやだっ。
ある意味で泣きそうになりながら、私は今この場にいないもうひ
とりのドイツ人を思い浮かべて文句を言う。どうして私にこんなの
の世話を任せちゃったの、オリー!!
それは今朝、彼らの口喧嘩から始まった不幸だった。
243
こけし様が見てる 1︵後書き︶
2/3、改稿しました。
244
こけし様が見てる 2︵前書き︶
︵1︶を大幅に改稿しました。
245
こけし様が見てる 2
隔週の平日休みの日、私はいつものようにオリーの家にやって来て
いた。
勝手知ったる婚約者の家。渡されている合い鍵でドアを開け、廊
ist
ganz
fa
下を通って居間の扉を開けたとたん、何やら刺々しい声が耳に飛び
込んできた。
﹁Nein!﹂
das
denn!?﹂
sagst,
das
du
﹁Warum
﹁Was
lsch﹂
﹁Olli!!﹂
何やら早口のドイツ語で、この家の主であるオリーと二週間の居
候である拙者王子が言い合いをしている。喧嘩、なんだろうか。
いかつい顔と大柄な身体に似合わず、普段は細やかで繊細なオリ
ー。その彼の初めて見せる厳しい表情に、私は居間に一歩踏みこん
だ姿勢のまま固まってしまった。ふと、その気配に気が付いたオリ
ーがちらりとこちらを見て、軽く頷く。これは入っても大丈夫って
ことだろうな。
すぐに王子に視線を戻してしまったオリーを窺いつつ、私は二人
jetzt
gehen.﹂
の邪魔にならないよう、静かにダイニングへと移動した。ここから
muss
なら、居間の様子もわかるしね。
﹁Ich
246
﹁Ich
u
berzeugen
nict!﹂
再び刺々しい声が二人の間を飛び交う。
何を言っているのかはもちろん私にはわからない。けれど様子だ
け見ていると、何だか王子のほうがオリーに食い下がっているみた
い。それに対してオリーのほうは、肩をすくめて首を振り、話は終
わったとばかりに彼に背をむけてしまった。そうして、私のいるダ
イニングへとやって来る。
﹁モルゲン、コムギ。今日はお休みですか?﹂
私に話しかけてくる表情は、もうすでにいつものもの。いつもの、
優しい笑顔だった。伸ばされた腕に身体を引き寄せられ、頭のてっ
ぺんにキスを落とされる。
さっきまで部屋を満たしていた緊張感に、強張っていた身体がオ
リーの温度で溶かされていく。私はほっと小さく息を吐いた。
﹁そう、隔週のね。オリーは今日もお仕事だよね?﹂
﹁⋮⋮Ja﹂
腰に手を回され、より近くへと抱き寄せられた私は、同じように
オリーの身体へと手を回す。そして自分よりもずいぶんと高い位置
にある顔を見上げて、首を傾げた。なんか、オリーにしては歯切れ
が悪いような?
そんなことを考えているうちに、少しごつごつしている指が顎に
かかり、近づいてきた唇が軽く私のそれに触れた。そのまま角度を
変えながら、何度も何度も重ねられる。その先を促すように、オリ
ーが下唇を舐めたところで私ははっと我に返った。人前っ、人前だ
よ、オリー!
とんとん、とストップの意味を込めてオリーのお腹を叩けば、名
247
残惜しそうに唇が離れていった。
それでも顎にかけられていた指が、未練がましく唇を何度も撫で
る。
﹁ジュウデンブソクだと思うですよ、オリーは﹂
捨てられた野ゴリラのごとく、大きな身体を丸めて情けない顔に
なるオリーに、私は不覚にも胸がきゅっとなってしまう。これ、ず
るいと思うんだよね。
そして私がこれに弱いって、最近オリーは確実に気付いてやって
いる気がする。
﹁⋮⋮頭、撫でてあげるから﹂
最大の譲歩としてそう提案してみれば、オリーは瞳を輝かせ、お
辞儀をするように金色の頭をこちらへと突き出した。三十六のいい
大人がどうなのこれ、とも思うけれど、言い出したのは私だし。仕
方なく少し固い感触のその髪を乱さないよう、撫でつけるようにし
て梳いてやった。
ふふふふ、なんてちょっと引くような笑い声が、俯いているオリ
ーからこぼれる。これ、いつまでやればいいんだろう⋮⋮なんて思
っていたら。
﹁コムギっ、三十分でいいです! 三十分あればできます、大丈夫
!﹂
﹁ぎゃああっ、却下ああっ﹂
オリーがまた私をぎゅうっと抱き締め、ささやかな胸に顔を押し
つけてくる。感触を確かめるように、何度も何度も頬ずり。こここ、
こらあっ。
248
離してくれないと本気で怒る、というオーラを発したところで、
それを性格に読みとったオリーは渋々と私から身体を離した。まっ
たく。
⋮⋮まあ、確かに拙者王子がオリーのところに押し掛けてきてか
ら、二人きりで過ごす時間はめっきり減ってしまっている。特に最
近は同棲に近い生活だったからそう感じるのかも。
客間は一階にあるし、オリーにとって彼は弟のようなものだから
遠慮しなくていい、とは言われたけれど、やっぱりなんか恥ずかし
いし。だから、私は彼の滞在中だけ実家に戻ることにしたのだった。
﹁情けないでござるよ、オリー! 拙者はその様なオリーの姿を見
これが本当のオリーですね﹂
たくて来たわけではないでござる!﹂
﹁Nein,
見かねてこちらへ近づいてきた王子に、オリーは自信満々に答え
る。別に、今のは胸張って言うような内容じゃない気がするんだけ
どね。
blo
Ku
mit
de
Verlobte,
ist
そんなオリーを睨み付けながら、彼はその整った顔立ちに再び怒
eine
zusam⋮⋮﹂
hast
Spinnst! Sie
りを甦らせた。
﹁Du
h! Du
Ernesta
﹁Michael!!﹂
吐き捨てられた言葉に、オリーが厳しい声を上げる。
名前を呼ばれた王子だけじゃなく、まだ抱き締められたままだっ
た私も、びくりと肩を揺らしてしまった。それに気が付いたオリー
が、顔をしかめて小さく謝る。
王子が何を言ったのかは、早口だしドイツ語だから私にはわから
249
ない。ただひとつ、﹃エルネスタ﹄って単語だけが耳に残っていた。
誰か、人の名前なのかな。
ちらりとオリーを見上げれば、彼にしては珍しく不機嫌を全面に
出した顔をして王子を睨み付けている。王子のほうもオリーのその
視線を正面から受け止めてはいたけれど、ひどく傷ついたような、
今にも泣き出してしまいそうに顔を歪めていた。
私は慌ててオリーの腕を叩く。
﹁あ、ねえ、オリーっ。もうこんな時間だよ、仕事は大丈夫なの?﹂
﹁Echt? ⋮⋮ああ、そうですね﹂
私の身体に回していた腕を離し、時計を確認したオリーは、それ
までの重い空気を一新するように微笑んだ。私の頭に軽く唇を落と
し、﹁Danke、コムギ﹂とささやく。それは多分、時間のこと
よりも王子のことへのお礼だと思う。
そして、唇を噛み締め俯いている王子を見てため息をつき、けれ
ど何も言わずにダイニングから玄関のほうへと歩き出した。私もオ
リーを追って玄関までお見送り。
そこに置いてあった鞄を肩から提げ、靴を履く大きな背中が何だ
かしょんぼりして見えるのは、私の気のせいじゃないと思う。
身支度が済むと彼は私を振り返り、何か迷うように口元に手をあ
て考え込む。何だろうかと黙って見守る私に視線を合わせ、それか
らオリーは意を決したように私に頭を下げた。
﹁コムギ、今日一日ミヒャエルと一緒してください!﹂
﹁ええ!?﹂
***
250
やっぱり自分は、オリーのあの必死な瞳には弱いんだと確信する。
潤んだ青い瞳に、情けなく下がった眉ときつく結ばれた口元。そ
れはまるで夜、彼が私に見せるせっぱ詰まった時の表情によく似て
いて、思い出すだけでお腹の辺りがぎゅうっとなってしまう。
あんな顔されると、嫌って言えなくなっちゃうんだよね⋮⋮。
﹁いつの間にか、すっごい好きになってるのかも﹂
最初はオリーの引くことを知らない攻勢に、押し切られるように
してつきあい始めたのに。今は私のほうがずっとずっと、彼に依存
しているような気すらしてくる。
それが嬉しいような、少し不安なような複雑な心境で、私は誰に
言うわけでもなくそんな呟きを漏らした。
ところが、その独り言に背後から突然肯定の声が上がる。
﹁そうでござろう! こけしとは、そういう不思議な魅力に溢れて
いるのでござる!﹂
﹁お、お、王子っ﹂
不意の乱入に声を上げて振り返れば、そこにはいつの間に近づい
たんだか、満足げな笑顔を浮かべた拙者王子が私を見下ろしていた。
そして何も言わずにこちらに手を伸ばすと、私の前に飾られてい
た中くらいのこけしを手にする。ああ、そうだった。
ぼんやりしてしまったけど、昼食を食べてからまた、飽きもせず
にこけし屋さん巡りしてる最中だった⋮⋮。
薄暗く、決して広いとは言えない店内を見渡し、私はため息をつ
いた。そこら中、形も大きさもバラバラなこけしたちが、所狭しと
並べられている。
さっき、店主であるおばさんから聞いたところによると、こけし
251
の蒐集家っていうのはそれなりに存在しているらしい。本当、人の
趣味ってわからないなあ。
とはいえ、自分の後輩にもひとり、﹁筋肉筋肉﹂と毎日楽しそう
にしている子がひとりいるわけで、人のことは言えないかも。
﹁チビスケ、お主はこれが気に入ったでござるか?﹂
﹁え、いや、その﹂
﹁恥ずかしがらなくてもいいでござる。別に、拙者はこれがよくな
いとは言ってないでござる﹂
﹁う、うん﹂
どうやらこの王子は、さっきの私の独り言を、今手にしているこ
けしへの感想だと勘違いしているらしい。
なんだかこの上なく優しい微笑みを口元にたたえながら、王子は
そのこけしをじっと見つめている。朝からわがままと買い物に付き
合っている私には、一瞬たりともそんな笑顔はむけないけど。
﹁これは、拙者が初めて手にしたこけしに、よく似ているでござる﹂
﹁最初のこけし?﹂
﹁Ja。名をシャルロッテとつけた﹂
﹁⋮⋮そりゃあ、素敵な名前、だね﹂
うっとりとこけしを眺める王子から、自然と一歩分距離をとる。
テディ・ベアまでなら名前を付けて可愛がるのはまだわかるけど、
こけしはちょっと無理だな。無理だなあ!
当然、私の心の悲鳴が一切聞こえていない王子は、うむ、とひと
つ頷くと、それを手に持ってレジへと歩いて行った。か、買うんだ、
また⋮⋮。
彼は帰国する時の荷物検査で、いったいどんな顔をするんだろう。
そこだけは、めちゃくちゃ気になる。
252
程なくしてほくほくとした笑顔で戻ってきた王子が、私を店の外
へと誘導した。
﹁本日の買い物は、これにて一件落着!でござる﹂
﹁や、やっとこけし三昧から開放される⋮⋮っ﹂
どこかの殿様かという﹁お家に帰ろう﹂宣言に、私は心の底から
歓迎の声を上げた。
このまま延々とこけしばかり見ていたら、絶対に今夜はこけしに
追いかけられる夢を見てたと思う。絶対。
買ったものがものだけに、ずいぶんと増えてしまった荷物をコン
ビニから家へと送ってしまう。そうして大分身軽になった私たちは、
少しお茶でもしようと適当に歩き始めた。
﹁王子はどういうとこがいいの? 普通の喫茶店でいい?﹂
店があった閑静な道から表通りへと進みながら、私は隣を歩く王
子を見上げて言った。彼はいくらか思案しながら、何かを言おうと
したその時。
﹁ベルンシュタイン!? ミヒャエル・ベルンシュタイン!?﹂
突然、少し離れた場所から王子の名前を呼ばれ、私たちは足を止
めてそちらを振り向いた。
道の反対側、スポーツ用品の専門店の前にいた若い男性が、興奮
気味にこちらへと走り寄ってくるのが見える。そうして彼は、目を
輝かせながら王子へと声をかけた。
﹁あの、ドイツ代表GKのベルンシュタインさんですよねっ。俺、
すっげえファンなんですっ。よければ、これにサインしてください
253
っ﹂
一気に日本語でまくし立てた後、彼はあっと声を上げてから、今
度は片言の英語で﹁サイン、プリーズ﹂なんて言う。
差し出されたのは、ちょうど横に立つ拙者王子が表紙になってい
るサッカー雑誌だった。
特に驚くこともなく、自然にペンと雑誌を受け取ってそれにサイ
ンをする王子を見て、やっぱり有名人なんだなあと思う。知識とし
て、最初に紹介された時から知っていたけれど、こうして有名人ぽ
いところを見ると、なんだか衝撃だ。前にオリーをテレビで見かけ
た時みたい。
それでも、オリーといる時には今まで一度もこんな状況に遭遇し
たことはなかった。基本的に、ふたりで出かけるのは近所が多いし、
どちらかといえば家でゆっくりしているのが好きだし。だけど、オ
リーも本当は私とは違う世界の人なんだろうな、と思ったら少しだ
け胸が痛んだ。
scho
n﹂
﹁あっ、ありがとうございましたっ﹂
﹁Bitte
その声にはっと我に返る。
慌てて隣を見れば、サインを書き終えた王子が男性と握手を交わ
しているところだった。彼は本当に嬉しそうで、大興奮していて、
それを道行く人たちが振り返ってみている。
誰もが王子のことを知っているわけじゃないと思うんだけれど、
とにかくただ者じゃあないなっていうのは、この美しい外見だけで
わかるみたい。次第に、私たちのところに人が集まり始めてしまっ
た。
そうするともう芋蔓式に、﹁なになに有名人?﹂って感じで、人
が人を呼ぶ結果に。
254
遠巻きにこちらを見ている女の子たちなんか、﹁モデル? 俳優
?﹂なんて言いながら、携帯のカメラを王子にむけた。
﹁どうしよう、どうするの、王子っ﹂
こんな状況に慣れていない私は、思わず情けない声を上げて隣の
王子を見上げる。すると、王子は不意に私の手を握り、その人垣へ
と歩き始めた。
そうして近くの人たちに、あの得意の王子様スマイルをかまし、
ドイツ語で話しかける。
すると、聞き慣れない言葉に戸惑った人たちは、自然と彼をよけ
るようにして一歩ずつ下がっていった。
﹁チビスケは、堂々としてればいいでござる﹂
私の耳元でそう囁くと、王子はそのまま臆することなく人垣を抜
けてしまった。
ちらりと後ろを振り返ってみれば、私たちを囲んでいた人たちは、
追ってくるでもなくぽかんとこちらを見るばかり。
ああ、そっか。変に動揺したりしないで、普通にしていればいい
のか。
やっぱり慣れている人は違うんだなあ、と自分よりずっと高い位
置にある横顔を感心して眺めていると、その視線に気が付いた王子
の瞳とぶつかった。
氷みたいな色の、綺麗な目。
それが私を見て戸惑ったように揺れ、それから繋ぎっぱなしだっ
た手に落とされた。
﹁なっ、何をいつまで繋いでいるでござるっ﹂
﹁いや、だってこれは王子が⋮⋮﹂
255
﹁せ、拙者は知らないでござるっ。とにかく、早く茶屋に入るでご
ざるよ!﹂
私の手を失礼なくらい乱暴に振り払い、王子はこちらに背をむけ
ると、さっさとひとりで歩き出してしまった。むっとした私は立ち
止まって彼の背中を睨み付けたけれど、すぐに慌てて追いかけ始め
る。
歩幅が違うから、ちょっとでも油断するとはぐれてしまいそうだ
し。
そこでふと、気が付いた。
今日、一緒に歩いていても全然そんなこと感じなかった。王子、
私の足に合わせてくれてたんだ。
何だかんだと文句をつけては突っかかってくる癖に、と驚いて足
を止めるのと同時に、前を行く王子の足も止まった。ぎこちなくこ
ちらを振り返ったその顔は、耳まで真っ赤に染まっている。どんだ
け純情なんだ!
﹁騒がれるのは好きではないでござる。だから、そこのラウンジに
するっ﹂
﹁わ、わかった﹂
怒ったようにそう宣言され、私は示された建物を眺める。
そこは高級感漂う有名ホテル。お仕着せを着たドアマンがぴしっ
とした姿勢で佇む玄関の横、ガラス張りの中に心地よさそうな喫茶
ラウンジが見えた。
どことなく品のいい身なりをした人たちが、思い思いに午後の一
時を過ごしている。私、思い切り軽装なんだけど浮かないかなあ。
王子はブランドもののコートと、気軽にも見えるけれど、全体的に
は落ち着いた服装をしている。
256
﹁チビスケ、行くでござるよ﹂
焦れたように私を呼ぶ声に、やっぱり他のところにしようよと提
案しかけて、言葉を失った。
ふと視界に映り込んだ、見慣れた大きな身体。金色の髪。
ラウンジの片隅、外からは少しだけ視覚になるその位置に、オリ
ーが座っていた。大きな手にコーヒーカップを持ち、楽しそうに誰
かと話している。
見ないほうがいいと、頭の中で誰かが私に警告するけれど、私の
視線はそのままオリーの前に座る人物へと寄っていってしまう。
オリーのものよりずっと薄い色の金髪。すっきりと短く整えられ
たそれは、小さな顔をより魅力的に見せていた。
意 志の強そうな眉と、すらりと通った鼻。くっきりとした二重の
瞳は、薄い青。透き通るように白い頬は薄紅に染まり、赤く塗られ
た唇は上品な微笑みを浮かべていた。
誰もがきっと、美女だというだろうその人は、オリーの前に座り
楽しそうに何かを話している。
明らかに、プライベートな空気。
﹁チビスケ?﹂
いつまでもラウンジを見つめたまま動かない私に、玄関へと歩き
始めていた王子が声をかける。
なんでもないよと笑って、早くこの場を離れなくちゃ。そう思う
のに、私の足はその場に縫いつけられてしまったかのように動かな
かった。
近くまで来た王子が、私の顔を覗き込んで眉をひそめる。そうし
て、視線の先をたどるように、同じくラウンジに目をやって︱︱息
を飲んだ。
257
﹁Ernesta⋮⋮!?﹂
王子の口からこぼれたそれに、私はその横顔を見上げる。
私と同じように驚きに見開かれた瞳は、オリーよりもその前に座
る女性にそそがれているようだった。
エルネスタ。
それは朝、彼がオリーに対して言った、誰かの名前。
あの時、なんで王子はその名前をオリーに言ったんだろう。オリ
ーは、なんであんなに怒ったんだろう。まるで、私に聞かせたくな
いって感じで。
意図せず、ぼろっと私の目から何かがこぼれ落ちるを感じた。何
かを言おうとしてこちらを振り返った王子が、ぎょっとした顔で身
体を強張らせる。
﹁ちっ、チビスケ!﹂
﹁オリーっ、仕事だってっ、言ったのにっ﹂
やっと出てきたのはひどい声だった。
次から次へと流れ落ちる涙をこらえようとするから、不自然に途
切れ途切れで、駄々をこねる子供みたいな響きをして。
我慢できなくなって、私は残酷な光景に背をむけてひとり歩き出
す。
﹁チビスケっ﹂
叫んで追いかけてきた王子が、黙ってさっきのように私の手を取
った。
八つ当たりみたいに振り払おうとしたけれど、私の力では外すこ
ともできなくて。諦めてそのまま、私たちは家に戻るまでずっと手
を繋いだままでいた。
258
王子はなんにも言わず、ただ乱暴に頭を撫でた。そうしていつの
間にか、私は疲れてオリーの家のこたつで眠り込んでしまったのだ
った。
259
こけし様が見てる 3
泣き疲れて眠ってしまった後、オリーがいつ帰ってきたのかはわ
からなかった。
顔を合わせる前に朝早く彼は出かけてしまったようだし、私はひ
どい気分を引きずったまま、会社へと出勤した。
こたつで眠ったせいか、身体はあちこち痛いし、泣いたせいで瞼
も腫れてる。会社の窓口である受付に座るにはどうなのよ、という
惨状だったけれど、他の人たちはなんにも言わないでいてくれた。
その日は一日奇跡的に来客もなく、伝票整理をしながら私はほっ
と胸をなで下ろす。情けないなあ、私。
そうして就業時間を過ぎ、帰り支度をするためにロッカーへ入っ
たところで、それまで何も訊かないでいた羊子ちゃんが突然私の身
体を抱き締めてきた。えええ。
﹁私、オリバー・ロルフ・ビルケンシュトックに復讐を誓います!﹂
﹁なんでいきなりそんな不穏!?﹂
﹁そんなひどい顔をさせるために、私は麦子先輩をゆずったわけじ
ゃないですっ﹂
﹁初耳だよ!﹂
身長差のため、羨ましいくらいに豊かな胸に抱かれて、私はそん
な羊子ちゃんの言葉に少し心が軽くなるのを感じた。何にも訊かな
いのに、寄り添おうとしてくれる気持ちが嬉しい。
私が、自分のことのように悲しそうな顔をしている後輩の背を宥
めるように軽く叩くと、それを合図に羊子ちゃんは私から身体を離
260
した。
﹁それで、どうします? 復讐、闇討ち、どちらも松竹梅と取り揃
えてますけど!?﹂
羊子ちゃん、それどうなの。
珍しく筋肉以外のことで頬を赤くして、新婚さんである羊子ちゃ
んは鼻息荒く私に迫った。ちょっと、落ち着こうか。
﹁えっと、まだただの勘違いとか誤解かもしれないし﹂
﹁大丈夫です。何が原因か知りませんけど、先輩に勘違いとか誤解
をさせるのがまず悪いんです。もし間違ってたら、やってしまった
後で謝ればいいんですからっ﹂
﹁怖いよ羊子ちゃん、その考え怖いよ!﹂
まあまあと羊子ちゃんを諫めつつ、私たちは着替えのためにしば
し沈黙。
ふっふっと興奮した闘牛のような鼻息が隣からするけれど、とり
あえずは聞かなかったことにして、私はふとさっき自分の口から出
た言葉を思い返していた。
︱︱勘違いとか、誤解かも。
今までオリーは私に隠し事や嘘をついたことがなかったから、昨
日はひどく動揺してしまったけれど。そうだよね、もしかしたら仕
事関係の人だったのかもしれないし!
と、浮上しかけた心に、またもやふっと影が差す。
王子の口からこぼれた言葉。﹃エルネスタ﹄という、名前。だっ
たらなんで、王子があの人のことを知ってるんだろう。なんであん
なに驚いてたんだろう。
ぐるぐると思考の迷路に入り込んだところで、隣のロッカーをば
んっと乱暴に閉めた羊子ちゃんが、再びこちらに向き直る。
261
﹁そもそも婚約してから一年も経つのに、結婚のけの字も出さない
ってどういうつもりですかっ、あのゴリラめ!﹂
﹁あ⋮⋮﹂
言われて初めて気が付く。
そう言えば、勢いよく押されるように婚約したのはいいけれど、
その後具体的な話が二人の間ではちっとも出ていなかった。
オリーの指には揃いの指輪が今でもしっかりとはまっているし、
今はほとんど一緒に生活もしているし。なんだかそれが普通で、結
婚のことなんて頭から飛んでいた。今の、今までは。
﹁麦子先輩?﹂
羊子ちゃんの言葉に固まってしまっていた私は、顔を覗き込まれ
て少し動揺する。
けれど、それをなんとか笑顔で覆い隠すと、私は羊子ちゃんの頬
をむにむにと引っ張った。美人、という言葉がぴったり当てはまる
その顔が愛嬌のあるものに変わって、今度は自然な笑みがこぼれた。
﹁ふぇんふぁい?﹂
﹁えっとね、大丈夫だから。だから⋮⋮ありがと、羊子ちゃん﹂
﹁⋮⋮ふぁい﹂
なんとなく納得し切れていない表情で、だけど羊子ちゃんはそれ
以上追求することなく頷いてくれた。会社の外まで一緒に出て、そ
こで待っていた旦那様である部長と帰っていくのを見送る。
なんかいいなあ、ああいうの。
ぽつん、とそんなことを思って、私は首を振る。違う違う、そう
いう風に人の幸せを思ったら失礼だ!
262
反対方向の駅に向かって歩き出しながら、私はぎゅっと肩から提
げた鞄を握りしめる。
私がちゃんとオリーの口から聞かなくちゃ。そう決意して、真っ
直ぐにオリーの家へと帰ったのだったけれど︱︱。
﹁オリーならまだ帰ってないでござる﹂
居間で私を出迎えた王子は、開口一番、気まずそうな顔をしてそ
う告げた。
なぜなのかわからないけれど、こたつやその周りは昨日買い込ん
だこけしだらけになって、なんというかある意味壮絶な光景になっ
ている。か、片付けようよ、怖いから!
どん引きしている私にかまわず、王子はこたつの中に入って、そ
のまま目の前に置かれたこけしと見つめ合う。
﹁お、王子?﹂
﹁拙者、練習に連れて行けと申したでござるよ。拙者直々に、オリ
ーがいるチームを見たかったでござる。なのに、オリーは何度言っ
ても﹃Nein!Nein!Nein!﹄。本当に、昔から頭が固
いのでござる!﹂
﹁それで⋮⋮拗ねてこけし並べてたの?﹂
﹁拗ねているわけではない! 拙者は怒っているでござる!﹂
同じことだと思うんだけどなあ。
なんか、中学生くらいの男の子のようにぶすっと拗ねる王子を見
て、せっかくの決意はどこかへと霧散してしまった。まあ、肝心の
オリーもいないし。
263
私はがっくりと肩を落とし、鞄をそこらに放り投げると、王子の
向かいへと腰を下ろした。
なんか、こけしの視線が痛いんだけども。
﹁昔からって、王子とオリーはいつからの知り合いなの?﹂
かごに入れられたみかんに手を伸ばしながら、私はぶつぶつとこ
けしに向かって文句を並べている王子に話しかけてみる。なんてい
うか、こけしが友達?
すると、王子はその薄い色の瞳をちらり、とこちらにむけた。
﹁オリーから、何も聞いてないでござるか?﹂
﹁う、うん﹂
私が頷くと、王子はそのアーモンド型の綺麗な瞳を一瞬細め、何
も言わずにふうんとつまらなそうに返す。そうして自分もみかんへ
と手を伸ばし、皮をむきながらぽつり、と言った。
﹁オリーは元々姉上︱︱エルネスタの婚約者だったでござる﹂
不意のその言葉に、私はみかんを机に落としてしまう。それを見
ていた王子は、なんだか難しい顔になって、だけど気にせず先を続
けた。
﹁エルネスタと拙者は歳が離れているでござる。エルは写真家で、
ある時代表の写真集を撮ったことでオリーと知り合ったでござるよ。
拙者にとっても、オリーはその前から神様みたいに憧れの存在で、
彼と家族になれるかもしれないと思って、めちゃくちゃ嬉しかった
⋮⋮﹂
264
口元に浮かんだ素直な微笑みとは反対に、私は無意識に唇を噛み
締めた。
私の知らないオリーの過去。
そりゃあ、オリーだっていい大人なんだし、今まで誰とも付き合
ったことがないなんて思っていなかったけれど。でも、頭で納得す
るのと心で納得するのは違うみたい。きりきりと、胸の辺りが痛む。
﹁拙者は両親にとって遅くできた子供でござるから、甘やかされ放
題で育って、わがままで友達も少なかったでござる。その拙者に根
気よく付き合ってくれて、サッカーを教えてくれて、叱ってくれた
のもオリーでござった。いずれは自分も選手になって、そしたらオ
リーにコーチしてもらうのが夢だったでござるよ。エルと結婚すれ
ば、それが全部叶うって、勝手に思いこんでいたのでござる﹂
王子と知り合って日はまだ浅いけれど、彼がどんなにオリーのこ
とが好きかなんて、充分態度でわかっていた。なんていうか、大好
きなご主人にまとわりつく子犬みたいな。そんな微笑ましさが、彼
らの間にはあったから。
ふと、懐かしそうに話してくれていた王子の眉が、ぎゅっとひそ
められる。そうして吐き出された言葉は、とても苦々しいものに満
ちていた。
﹁でも、引退する少し前、オリーは突然エルとの婚約を解消したで
ござる。しかもヤーパンなんかに来て、オリーの経歴には到底見合
わないクラブチームのコーチなどやって! それでヤパーナリンな
んかと⋮⋮っ﹂
そこまで言って、王子ははっとした顔で私を見る。私は何とも言
えず、ただ黙ってなんとか微笑んで見せた。
彼にとっては、私はオリーを盗っちゃった人なんだ。だからあん
265
なに、名前を聞いただけでトゲトゲしてたんだなあ。なんて、なぜ
かほっとした気持ちでそんなことを思う。
理由もなく嫌われているよりは、そっちのほうがいいなと、それ
だけ。
だけど、言ってしまったほうの王子が、何だか傷ついたような表
情で私から目を逸らす。
﹁⋮⋮婚約したって聞いて、どうしても確かめたくて、クリスマス
休暇を使ってきたでこざる。エルよりも劣るような女であれば、無
理にだってオリーを連れ返すつもりで、拙者は⋮⋮﹂
﹁お姉さんも、同じ気持ちなのかな⋮⋮﹂
ぽつっと呟いた言葉に、王子はみかんの皮をむく手をびくっと止
めた。すぐにその動揺を隠すようにして、むき終わったみかんをひ
とつ口に放り込む。私も同じように手にしていたみかんを食べて、
しばらく二人して沈黙した。
私はオリーのことが好き。
オリーも私のことが好き。
たったそれだけのことなのに、確信が揺らいで初めて、それがど
んなに奇跡的なことなのかを痛感していた。
一番好きな人が、自分のことを一番好きでいてくれるなんて、そ
んなのはありふれたものじゃなくて。私はちゃんとそれをオリーに
伝えていたのかな。彼の気持ちに甘えて、仕方ないなんて大人ぶっ
て、そこから逃げてなかったかな。
彼のこと、わかろうとしたのかな。
﹁⋮⋮拙者は、エルが日本に来てるとは知らなかったでござる。そ
んなこと、ひと言も言ってなかったし、オリーと今でも連絡を取っ
てるとはわからなかった。だから、その、あれは偶然で、拙者は︱
︱﹂
266
﹁うん、わざとじゃないって知ってるよ。王子は、そんなことしな
いでしょ﹂
私とオリーを引き離そうと、わざと王子があそこへ連れて行った
のかも⋮⋮というのは、まあ正直少しは考えた。
だけど、短いつきあいかしれないけど、この真っ直ぐな瞳をして
いる王子様はきっとそんなことはしないだろう。そんな、変な確信
めいたものが私の中にはあった。
そんな小細工するくらいだったら、最初からかっ飛ばして刺々し
い態度ではこないと思うんだよね。
﹁こけし好きには悪い人いないって言うし﹂
言わないけど。
気まずそうにしている王子にそう言って慰めると、彼はあからさ
まにぱっと嬉しそうな表情を見せた。気持ちが全部表に出てる、晴
れやかな笑顔。
﹁そうでござる! 拙者、こけしに誓ってだまし討ちはしないでご
ざるよ!﹂
その真剣なんだけどどこかとぼけた言葉に、私は思わず吹き出し
てしまう。あれだけチクチクいじわるしておいて、これだもんね。
それでも、何だか仕方ないなあ、なんて思わせる雰囲気が王子に
はあった。昨日一日だけでも、少しは距離が近づいたからかもしれ
ない。
一気に機嫌の直った王子は、ひとつ目のみかんを食べ終えると、
ふたつ目を手に取る。こたつにみかんに、こけしにきらきらドイツ
の王子様。すごい取り合わせ。
ふう、と私はため息をつきながら、まだ手元に残っているみかん
267
に視線を落とした。
私は王子やエルネスタさんや、本橋さんやアンゲラみたいに、オ
リーのことそんなに詳しく知らない。
だから、どうしてオリーが仕事だなんて嘘を付いて、エルネスタ
さんと会っていたのかなんて想像もつかない。ううん、嫌な想像ば
っかりしてる。
そんな自分がすごく嫌だけど、これもオリーを好きだって気持ち
の中に入っていたものなんだ。
私はずっと、自分が傷つかないでいいように、オリーに甘えてた。
好きだと言われても、頷くだけで返さない。そういう私を、オリー
はずっと待っていてくれてた。そのことに、今さら気が付いた。
私の気持ちが自分に追いついてないって、そう感じていたからオ
リーは結婚の話を無理に進めなかったのかもしれない。
オリーがエルネスタさんに気持ちを残してたら、私、すごく真っ
黒な気持ちになる。そんなの、わがままでも何でも、すごく嫌だ。
オリーが優しい瞳をむけるのも、その唇が触れるのも、その手が
辿る身体も、どこか切なく歪む表情も。熱い吐息も、心地いい低い
声で呼ぶ名前も、過ぎてむせび泣く私を、時に強引に追い立てるそ
の仕草も全部。
全部、全部、全部、私だけのものにしたい。
︱︱あ、と思わず声に出してしまう。
今自分が何を考えていたのかに、心より遅く頭が追いついて、そ
してその貪欲さに顔が真っ赤になってしまった。まるでオリーの厚
い手のひらが撫でた時のように、お腹の辺りがむずむずして。
私、好き。
心だけでも、身体だけでもなくて。全部でオリーが、好き。
強烈なその気持ちに私自身がまだうまく対応できなくて、何事か
とこちらを見ている王子の視線を避けるように、テーブルにうつぶ
268
せになった。
好きで、たまらなくて、オリーに欲情してるなんて。こんな気持
ち、初めてでどうしたらいいかわからない。
優しくて穏やかなだけが好きの気持ちじゃないんだって、今、初
めて思い知る。
初めてオリーを好きだと思った時の気持ちだって本物だったけど、
それ以上に強烈な焦燥感に苛まれた。もしかして、オリーはずっと
こんな風なの?
それを確かめたい。すぐに。
がばり、と身体を起こし、意味不明な一連の動作に唖然としてい
る王子をほったらかして、壁の時計を見る。どんなに遅くても、そ
ろそろ帰ってくるはず!
そう思ったちょうどその時、玄関で鍵を開けるがちゃがちゃとい
う音が聞こえてきて、私は弾かれるように立ち上がった。オリーが
帰ってきた!
顔を合わせるのが辛いな、なんて考えていた朝とはまるで正反対
に、私は逸る気持ちを抑えきれず、玄関まで走って出迎えに行く。
慌てたように後ろから王子もついて来る。
Abend!! Ich
komme
aus
D
そして、私が玄関までやって来た時、ゆっくりと扉が開かれてそ
こに︱︱。
﹁Guten
eutschland!!﹂
華やかな声とともに、目の前に現れたのは昨日の密会の相手。
王子のお姉さんである、エルネスタさん、その人だった︱︱。
269
こけし様が見てる 4︵前書き︶
ドイツ語は間違ってるかもしれないです。ごめんなさい。
270
ist
sehr
こけし様が見てる 4
﹁Sie
attraktiv!﹂
突然玄関先に現れたエルネスタさんは、驚いて固まる私と王子に
かまわず、何やらうっとりとしたようにドイツ語でまくしたてると、
そのままぎゅうっと私を抱き締めた。あれ、うん、なに!?
羊子ちゃんのような柔らかさはないけれど、細くしなやかな印象
のその身体からは、なにやらとってもいい匂いがする。なんていう
か、大人の女!っていう感じの。それがまったく押しつけがましく
はなく、ほんのりと私を包み込んでいる。
昨日見たのとはまた違う、シンプルで機能的な黒いシャツに、細
くて長い足を包むのはカジュアルなジーンズ。足下の無骨なデザイ
ンのブーツが、それらを引き締めて見せていた。
bin
glu
cklic
決して派手な装いではないのに、彼女が着るとどこかのブランド
ss⋮⋮Ich
zufrieden⋮⋮﹂
su
の一点もののように思えてしまう。
und
﹁sehr
h
息を吹きかけるように、女性にしては低めの声が耳元で響き、私
は思わず声を上げそうになった。壮絶に色っぽい。
ますます腕の中で身を固くする私を見て、彼女は少し笑ったよう
だった。
﹁ムギコサン?﹂
271
﹁はっ、はい!?﹂
艶を含んだような声で名前を呼ばれ、私が勢いよく返事をすると、
頬に柔らかな感触が。えええええ!
ちゅっと音を立てて彼女の唇が離れるのを感じる。えーと、えー
と、えーと、挨拶。そう、挨拶⋮⋮だよねえ?
あまりその手の欧米的なものに慣れていない私が慌てていると、
今度はするりと長い指がうなじを辿る。なぜか、こう、性的なもの
を感じる動きで。ぞくり、と身を震わせた私に口笛を吹いて、次に
gar
keinen
Fall
その手が背中へ降りてお尻に到達しようとした、その時。
﹁Ernesta!! Auf
!!﹂
すごい勢いで走り込んできたオリーが私と彼女の間に割り込み、
それを阻止。私は久しぶりにオリーの大きな胸の中に抱き込まれる。
﹁Mist!﹂
﹁コムギ! コムギ、大丈夫ですかっ。変なことされないですか!
?﹂
﹁へ、変なこと!?﹂
引きはがされたエルネスタさんが頬を膨らませるのを見ながら、
私は何か必死に肩を揺さぶってくるオリーに問い返す。ちょ、ちょ
っとあんまし揺さぶられると、気持ち悪くなっちゃうから!
突然の出来事の連続に私がうまく答えられないでいると、オリー
はますます悲壮な顔をして揺さぶりを強くした。待って、待って、
ちょっと、待てえっ。
私が助けを求めるように手を伸ばしたのを見て、それまで唖然と
事の成り行きを見ていた王子がオリーを後ろから取り押さえてくれ
272
る。
﹁オリー! デンチュウでござるっ!﹂
うん、それ使い方あっているようで間違ってるから!
王子のお陰で乗り物酔いを回避できた私は、ようやく深呼吸。そ
うして、まだじたばたと暴れるオリーと止めようとしている王子、
それをにやにやと笑って見ているエルネスタさんを見回した。ある
意味、この上のない地獄絵図。修羅場。
しかし、いつまでもここで騒いでいるわけにはいかない。とにか
く、色々と聞きたいこともあることだし。
﹁オリー、ちょっと落ち着いてよ﹂
﹁コムギぃ﹂
浅草の雷門に立ってるあれのようなオリーに近づき、いつものよ
うにそのお腹をぽんぽんと叩いてあげると、とたんに彼はご主人に
叱られた子犬のように肩を落とした。
それを見て王子が手を離してやると、オリーは私に近づいて、そ
の大きな身体を丸めるようにして訴える。こう、お母さんに言いつ
けるいじめられっこ?
﹁コムギ、エルはひどいです! コンビニでビア買う言ってオリー
騙したですよ。オリーの鍵盗って逃げたです! オリーはコムギを
魔の手から守りたかったのに⋮⋮﹂
﹁よしよし、わかった、わかったから! とりあえず部屋に入ろう
よ、ね?﹂
太い眉を下げて情けない顔をするオリーの頭を撫で、私はなんと
か居間へと誘導する。こんな姿、元カノに見せて幻滅されたりしな
273
いんだろうか。
心配になってちらりとそちらを振り返れば、彼女はなぜかものす
ごく満足げににんまりとした笑みを浮かべていた。なんか、物語に
出てくる笑う猫みたい。
bitte?﹂
﹁ええっと、エルネスタさんもどうぞ!﹂
﹁Wie
ああ、彼女は日本語わからないのかあ。ここ最近、妙に日本語が
達者なドイツ人ばかりと話してたから⋮⋮。
どうしようかと思案している私の横から、王子が何かを彼女にド
イツ語で言う。そういえば、王子はドイツ語話せるんだったよね。
ていうか、ドイツ人だったよね!
﹁拙者が通訳してやるでござる﹂
﹁か、かたじけない﹂
そうして、私と三人のドイツ人はこけしだらけの居間に集合。こ
たつに入ってようやく一息ついたのだった。
いつものように私を抱えて座るオリーの正面にエルネスタさん。
その横に、臨時同時通訳である拙者王子。﹁コタツ! ミカン!﹂
と片言の日本語で喜ぶ彼女に緑茶を勧めつつ、私は口を開いた。
﹁あの、どうしてこちらに?﹂
私の言葉を王子が伝えれば、彼女は待ってましたとばかりに勢い
よくドイツ語で話し始めた。それをまた、王子が同時に日本語にし
てくれる。
﹃一昨日まで仕事でね、せっかく日本に来たんだからオリーにも会
274
いたかったし、婚約者でもあるあなたにも会ってみたかったの!﹄
そう言って私の手を握ろうとする彼女を、素早くオリーがブロッ
ク。しばし睨み合い。のち、エルネスタさんはその美しい顔に似合
わず、ちっと舌打ちをして手を引っ込めた。なんだろう、この二人
の間に漂う緊張感は。
どう考えても、一度は婚約までいった元恋人同士っていう感じじ
ゃないんだけど。
当てつけるように大きなため息をつきながら、エルネスタさんは
geisig!﹂
so﹂
ist
短く整えられた薄い金の髪を掻き上げた。
﹁Du
﹁Ach
王子が訳してくれないところを見ると、どうでもいい言い争いの
よう。
﹁コムギ、これは魔女です。口を聞いたらダメですよ!﹂
﹁オリー、苦しい苦しい苦しい!﹂
お腹に腕を回してぎゅうぎゅう抱き締めてくるオリーに、ギブア
ップサインを送れば、エルネスタさんははっと馬鹿にしたような声
を上げた。
﹃力を込めればいいってもんじゃないのよ、オリー。女の身体は繊
細なの! 特に、コムギってばとっても感じやすいみたいだし⋮⋮。
私だったらもっと素敵な体験をさせてあげられるのにっ﹄
﹁Nein! コムギはオリーのですっ。そうですよね、コムギ!﹂
﹁え?﹂
﹁は?﹂
275
ドイツ語日本語の入り交じった言い合いに、私もそれを訳した王
子も首を捻る。今、何かとんでもないことをエルネスタさんが言い
だしたような気がするんだけど。
通訳した王子を見れば、彼も間の抜けたような顔をして姉である
エルネスタさんを凝視している。そのふたつの視線を受けて、彼女
は少し困ったような、悲しそうな笑みを浮かべた。
﹃私、恋愛対象は女性のみ、なのよね﹄
さらり、とそう告げてお茶に口を付けた彼女に、オリー以外、私
と王子はぽかんと口を開けたまま沈黙。だって、彼女はオリーの元
婚約者、だよね?
助けを求めるように背後のオリーを見上げれば、彼もまた微妙な
顔をして微笑んでいた。いったい、何がどうなってるわけ?
固まる私たち二人をおいて、当のエルネスタさんといえば、テー
ブルの上に置かれていたビール缶に手を伸ばした。
ぷしゅり、と酒飲みならば心騒ぐ音を立ててプルトップを開ける
die
Freundschaft!﹂
と、それを高く掲げてにっこりと笑う。
﹁Auf
***
﹃つまりぃ、私もオリーもその頃周りの目が窮屈で仕方なかったの
よぉ。私はようやく写真家として世間に認められたところだったし、
大きな仕事も舞い込み始めてたし。オリーはオリーで、サッカー選
手として一番いい時だったでしょ? もう、マスコミがうるさくっ
276
てねえ﹄
白い頬を赤く染めながら、いつの間にかビールからワインに変わ
ったグラスを手に、エルネストさんはそう言った。
衝撃の告白の後、﹁素面じゃこんな恥ずかしいこと語れないわ﹂
とのことで、彼女の希望通りにそのままこたつ宴会へと突入したの
はいいんだけど。言い出したこの人が一番お酒に弱いって、どうい
うことなの。
弱いというか、すぐに酔っぱらっちゃったというか。
私はいつものように、オリーが温めてくれた日本酒をちびちびと
舐めるように飲む。テーブルの上には他に、おつまみとして乾きも
のなんかが並べられているけれど、ここにいるドイツ人たちは飲む
時にはあまり食べないほうらしい。私だけが、なんでかオリーにチ
ー鱈で餌付けされている。じ、自分で食べられるから!
抗議の意味を込めてべたべたと引っ付いているオリーを睨めば、
へらりと相好を崩した彼に、今度はサラミを差し出されてしまった。
﹁コムギ、あーんですよ、あーん﹂
﹃ちょっと、私が真面目な話してるのに、なんであんたはいちゃい
ちゃしてんのよ! ずるいっ、ちょっとくらいコムギを貸してよっ。
nicht!﹂
私も餌付けしたいっ﹄
﹁Leider
もう半分やけ酒になってる王子が、丁寧にそんなことまで訳して
伝えてくれた。⋮⋮うん、強く生きてよ、拙者王子。
私は争いの元を断つために、オリーの手を叩いてサラミを落とす
と、三秒ルールでそれを口に入れた。あーっなんて声が後ろから上
がるが、無視。
﹁エルさんごめんなさい、続けてください﹂
277
背後にひじ鉄をかましながら私が言えば、エルネスタさんは心底
おかしそうに華やかな笑い声を上げた。
﹃あのオリーがねえ!﹄
そうしてグラスに残っていたワインを一気に煽り、またさっきの
話の続きを語り始める。
﹃私とオリーが初めて会ったのは、お互いまだがむしゃらにもがい
ていた時なの。急速に自分たちに集まる注目に、本当の自分を押し
殺して。代表の写真集を撮った時だったわ。彼の目をファインダー
越しに見つめて、気が付いた。この人もそうなんだって﹄
ボトルからグラスにワインをそそぎ、今度はゆっくりとそれを飲
みながら、彼女は遠い目をして言葉を紡ぐ。
それは私の知らないオリーの過去の断片。
﹃周りのイメージと本当の自分のギャップに、この人も苦しんでる
んだって一目でわかったわ。だから、私から飲みに誘ったの。他の
人たちは、もっと色っぽい理由だって思ったかもしれないけど。⋮
⋮そんな風に何度か会ううちにね、この人ならうち明けても大丈夫
だって確信したのよ。私の、この性癖を、この人はきっと馬鹿にし
たり蔑んだりしないってわかったから⋮⋮﹄
伏せた目の上で、髪と同じ色をした睫毛が光る。
彼女の苦しい気持ちを、私はきっと理解することはできないんだ
ろうけれど。だけど、好きな人に好きと言えない気持ち。それだけ
は自分の心でわかる気がした。ただ、好きなのに︱︱。
278
﹃その頃、ミハもサッカー選手として注目され始めていたし。私の
このことが世間にばれれば、私だけじゃなく彼もひどい中傷を受け
るでしょ。それは何としても嫌だった。だけど、私にはその頃愛し
てる人がいて、幸運なことに彼女も私を愛してくれていた。いくら
女同士だからって、あんまり親密にしていれば疑われるでしょう?
だから、オリーに頼んだの。表面上でいいから、私と婚約したこ
とにしてくれないってね﹄
﹁⋮⋮偽装婚約?﹂
彼女の言葉にそう声を上げれば、オリーはいたずらに成功した子
供のような顔で頷いた。
﹁オリー、しつこくしつこく聞かれました。﹃好きな女性は? 結
婚は? それともゲイ?﹄。本当にくだらない。オリーはただサッ
カーに夢中でいたかったですよ。オリー、女性は嫌いじゃないけど、
一生過ごしたい人、まだいなかった。だから、エルの言葉に﹃Ja﹄
言ったです﹂
﹁それじゃあ、オリーとエルさんて⋮⋮﹂
﹁ダチですよ、ダチ! エルはとっても楽しいダチです﹂
ふわりと笑ってオリーがエルネスタさんを見れば、なんとなく意
味は伝わったようで、彼女も手を振りそれに答えた。
私は明かされた事の真相に、一気に緊張がとかれて脱力してしま
う。意味不明の唸り声を上げながら腕の中に沈む私を、オリーは大
事そうに抱き締めた。すりすりと、頬を頭に擦りつける。
﹁でもオリー、嘘をつき続けるの、疲れました。やっぱりまた、周
りは言うですね。﹃エルとの結婚はいつ?﹄。オリー、うんざりで
した。だからヤーパン来たです﹂
﹁オリー⋮⋮﹂
279
包まれるほどに大きさの違う手に取られ、ちゅ、と甲に口付けを
落とされる。
まるで大切な大切な宝物に触るようなその仕草に私は、どうして
こんな風に触れてくるこの人を疑ったりしたんだろうと、そう思っ
た。
セロファンみたいに綺麗な青の瞳は、いつだって情熱を込めて私
を見つめていてくれるのに。
﹁オリー、ごめんね。ごめんねっ﹂
﹁コムギ?﹂
その暖かな胸にすがりついて涙ぐむ私に、戸惑ったようにオリー
が腕を回す。さっきまで強く求めていたその手が、私の背筋を優し
く宥めるようになぞった。
﹁私ね、昨日オリーがエルさんと会ってるの、見ちゃったの。仕事
だって言ってたのにって⋮⋮私、オリーが浮気してるんだって思っ
て︱︱﹂
﹁オリー、コムギを愛してますよ!?﹂
﹁うん、だからごめんなさい。信じられなくて、ごめんなさいっ﹂
﹁コムギ⋮⋮﹂
ぎゅうっとオリーのシャツを掴んで謝る私を、オリーは壊れ物で
も扱うかのようにそうっと抱き締め返してくれた。鼻先に香る彼の
匂いはいつだって私を安心させてくれる。この腕の中にいれば大丈
夫。
そんな想いに満たされて、私は顎に触れてきたオリーの指先に従
って顔を上げ、近づいてくる唇に瞳を閉じ︱︱。
280
﹁ハレンチでござる!﹂
重なる直前、そんな王子の声が居間に響き渡り、私ははっと我に
返るとオリーの口を手のひらで押さえた。ああああ、危ないっ。流
されるところだったよ!
誤魔化すように王子にむかってへらっと笑えば、彼はそんな私以
上に真っ赤な顔でそっぽを向いてしまった。ご、ごめん。
﹁コムギ。オリーがコムギに嘘言ったのは、オリーのシットです﹂
﹁嫉妬?﹂
キスを邪魔されたことでがっくりと肩を落としながら、オリーは
思い出したように話し始めた。心なしか、恨めしそうな視線を王子
に向けながら、頷く。
﹁エルとオリー、ちょっと好きな女性のタイプ似てますね。エルと
コムギ会わせたら、大変危険なことになりますよ! だからオリー、
秘密にしました。秘密にして、さっさとドイツに返すですよ!﹂
敵意むき出しの言葉を、にやにやと笑いながら私たちを見ていた
エルさんが、ふんっと鼻で笑い飛ばした。豪快、だなあ⋮⋮。
ボーイッシュなスタイルは、ちょっと宝塚の男役さんみたい。
﹃汗くさいゴリラより、私のほうがよっぽど美しいわ。でも、残念
ね。私にはもう、心から愛を捧げる相手がいるの。それを、オリー
とミハ、ふたりに伝えたくて来たのよ﹄
突然名前を呼ばれた王子が、はっと顔を上げてエルネスタさんを
見た。
彼にとっても、驚きの連続だったに違いないこの告白の数々。よ
281
く似た美しい姉弟は、そのまましばらく無言で視線を交わす。
王子の瞳の中に、エルネスタさんを侮辱するような、否定するよ
うな感情の色はなくて。それがわかったのだろう彼女は、ふ、と安
堵の息を吐いた。
お姉さんの顔で優しく微笑んで、王子に何かを言うと、彼もまた
少しだけ泣きそうな顔でそれに言葉を返した。
私にはその意味はわからないけれど、きっとわかりあえたんだろ
うな。
自分が女の人しか愛せないって告白して、大切な弟さんに嫌われ
たら、軽蔑されたらどうしようって、きっと怖かったはず。
だけど、彼女は大事な人を得て、それを一番大事な家族に理解し
てもらうために来たんだ。
そう思ったら、なんだか私まで泣けてきてしまった。ぽろっとこ
ぼれ落ちた涙を、オリーの指がそっとなぞった。
見上げれば、限りなく優しい瞳がこちらを見下ろしている。
﹁オリー、あのね、あの⋮⋮。私、オリーにどうしても伝えたいこ
とができたの。聞いてくれる?﹂
今度は、私が勇気を振り絞る番だ。
オリーへと向き直り、私はきょとんとしてこちらを見ている彼に
それを告げる。
﹁私と、結婚してください!﹂
282
こけし様が見てる 5
半ば睨み付けるようにオリーを見つめてそう叫ぶと、目の前数セ
ンチの距離にある青い瞳がまん丸に見開かれて、固まった。
それまでドイツ語で話していたエルネスタさんと王子も沈黙。図
らずも部屋の中は少しの緊張を含んだ沈黙に満たされた。
オリーの足の間に膝立ちになり、筋肉に覆われた厚い肩に両腕を
置いた私は、今にも飛び出してきそうな自分の心臓を必死に抑える。
そのせいか、お酒のためではなく頬が赤く染まっていくのがわかっ
た。
私の腰に両手を添えたまま、オリーはひたすら硬直している。な、
何か言ってよ!
焦らされるのに慣れていない私は、告白テンションのまま、だめ
押しとばかりに勢いよくオリーの唇に自分のそれをぶつけた。
びくり、と大きな身体が動いたけれど、拒絶することなくオリー
は私を受け止める。
男の人の唇って、もっとがさがさしているイメージだったのに。
それが違うって私に教えてくれたのは、この人。
どこもかしこも直線的な線で構成されている身体は、抱きついて
もちっとも柔らかくなくて、でもどんなに頼っても崩れることのな
い安堵感をくれる。筋肉って熱いくらいだし、こんなに重いものだ
なんて思わなかった。
それを全部受け入れられる自分の身体の柔らかさにも、気付かせ
てくれたのは全部、この人。
そっと唇を離して、再び青い色を覗き込む。すると、突然その瞳
からほろり、と一粒涙がこぼれ落ちた。
283
﹁おっ、オリー!? どうしたの、どっか痛いの!?﹂
次から次へといかめしい顔を流れ落ちていく涙に、私はさっき彼
がそうしてくれたように手を添える。指先で触れたそれは、ひどく
温かかった。
その手を、大きさのまるで違うオリーの手がぎゅっと握りしめる。
﹁コムギ、オリーはとてもとても嬉しい。言葉にならないです、コ
ムギ⋮⋮っ﹂
﹁オリー⋮⋮﹂
鼻の頭を真っ赤にしながら、オリーはそう言って私に軽く口づけ
る。涙に濡れたせいか、少しだけしょっぱい。
bist
mein
Ein
und
alles⋮⋮﹂
そのまま二、三度キスを繰り返し、私たちは額を合わせて見つめ
合う。
﹁Du
目を細め、とろけるように優しい微笑みを浮かべたオリーが、低
く呟いた。何て言ったんだろう?
やっぱり少しはドイツ語、勉強したいなあと思った私の後ろから、
君が全てだ
、と言ったでござる﹂
ため息混じりの声がかけられたのはその時だった。
﹁
﹁お、王子!﹂
その声にびくっと肩を揺らした私は、まだぐすぐすと鼻を鳴らす
オリーから顔を離し、さび付いたブリキ人形のようにぎぎぎ、と振
り返った。
284
そこには、頬を染めてこちらを睨んでいる拙者王子と、いたずら
っぽく笑っているエルネスタさんの姿。おおおお、忘れてたよ!
瞬間沸騰した私を見て、ふたりは視線を交わす。そして、こたつ
Sich!﹂
から立ち上がるとコートを手に玄関へと続く扉へと歩いていった。
Sieht
﹁え、あ、あのっ﹂
﹁Man
ちゅっと投げキスをこちらに贈ると、晴れやかな笑い声をたてな
がらエルネスタさんは廊下へと姿を消した。
王子もその後を追いかけて、ふっと足を止めて振り返った。
﹁いつかドイツにも遊びに来るでござる! 仕方がないので、拙者
が歓迎してやるでござるよ!﹂
赤い顔をしてそれだけ言うと、王子はそそくさと部屋を出て行っ
てしまう。
ばたん、と玄関で扉の閉まる音が聞こえて初めて、言われた言葉
の意味に気がついた。王子は、オリーが日本にいることも私が婚約
者であるってことも、認めてくれたんだ!
嬉しくなって、走ればまだふたりに追いつけるかも!と立ち上が
りかけた私の腰を、それまで黙っていたオリーがぐいっと掴んで自
分のほうへと引き寄せた。
﹁わっ、オリー!?﹂
バランスを崩して胸の中に倒れ込んだ私を、オリーはぎゅうっと
抱き締める。そこは世界で一番安全で、危険な場所。
﹁聞かせて、コムギ。どうして? どうしてオリー、結婚してくれ
285
ますか?﹂
怖いくらいに真剣な表情で、オリーが私の顔を覗き込んだ。
キスをする時のように後頭部に回されていた手のひらが、優しく
肩より少ししたまである髪を梳く。その甘やかされているような仕
草に促されるように、私は口を開いた。
うまく言い表せないけれど、少しでもこの気持ちが彼に伝わるよ
うに︱︱。
﹁私ね、オリーと会うまで恋とかってよくわからなかったの。二十
五過ぎても彼氏とかいたことなくて、もしかしたら自分は一生そう
いうの、わからないままなのかもしれないって思ってた。でもね、
オリーがうちの隣に来て、コムギコムギってわたしのことかまって
くれるうちに⋮⋮恋、してたんだと思う。自分ではわからなかった
けど、オリーに惹かれてたんだと思う﹂
﹁コムギ⋮⋮﹂
ぽっとオリーの顔が赤くなる。釣られるように、私も。
一目惚れ、とかそういうのなのかはわからない。どこかの芸能人
が言い表すような、電流が走ったわけでもなんでもなくて。それで
も、なぜかその明るい色の瞳から目が離せなくなったことを覚えて
る。
私よりもずっとずっと大きな身体をして、ゴリラみたいないかめ
しい顔で、それでも素直にこちらに好意を示してくれるオリーを、
私はいつの間にか好きになってた。
そうじゃなきゃ、いくらなんでもキスなんてさせないし!
﹁ずっと、恋ってもっと物語みたいに劇的に始まるものばかりだと
思ってたの。だから、こんな風にゆっくりと穏やかに変わっていく
気持ちが、自分でわからなくて⋮⋮。でも、オリーが好きだって、
286
結婚しようってプロポーズしてくれてすごく嬉しかったよ? 抱き
締められるのも、キスされるのも、オリーのものになったのも、全
部全部嬉しかった!﹂
彼は不器用なほどまっすぐに、私を抱いてくれた。
私が女であることは、この人とこうするためだったんじゃないか
ってそう思えるくらい、それは素敵な出来事だった。
どちらか一方的にじゃなくて、労りあって慰め合って高めあって。
欠けていたものがぴったり重なり合うみたいに、私は満たされた。
オリーも、そうだったとしたら嬉しい。
﹁私、ずっと意地っ張りだった。それでわがままで⋮⋮。オリーが
好きだよって伝えてくれて、いつでも求めてくれることに甘えてた。
自分からは何も行動しないで、ただ黙ってそれを甘受するばっかり
で、私はオリーにひどいことしてたよね⋮⋮﹂
オリーの短く切られている前髪を、そっと手で後ろに撫でる。
彼は髪質が硬めのことを気にしているみたいだけど、全然そんな
ことない。柔らかくて、とってもいい感触。私は好き。
小さい時の写真の彼は、今よりもずっと金色の髪をしているけれ
ど、私は今のほうがいい。私の名前と一緒の小麦色。
﹁違いますよ、コムギ。オリーはそんなこと、思ってないですよ?﹂
同じようにオリーもまた、後頭部に回していた手を外し、私の前
髪をさらりと撫でた。
そのこそばゆい感触に少しだけ首をすくめ、私は頷く。
﹁うん、大丈夫、知ってる⋮⋮。でも、私、自分がそんなふうにオ
リーの気持ちにただ寄りかかっていくの、嫌だったの。ずっと気付
287
かないふりをして、そうすれば楽で傷つかないかもしれないけど、
でも⋮⋮好きだから﹂
﹁コムギ⋮⋮﹂
﹁オリーのこと、本当に好きだから。私だってオリーのこと求めて
る。それをちゃんと伝えたかったの。だから、私からプロポーズの
やり直し!﹂
なんだか急激に恥ずかしくなって、それを誤魔化すように私はオ
リーの鼻の頭にキスをする。
すると、額のあたりを撫でていたオリーの手が、指先で私の輪郭
を辿るようにして頬に触れた。親指が何かを促すように、唇をなぞ
る。ゆっくりと、官能的に。
求められている何かを正確に感じ取った私は、少し唇を開いて舌
を出すと、その親指をいたずらに舐めてみる。ぴくり、とオリーの
指が揺れ、そして。
﹁コムギ⋮⋮っ﹂
焦れたように呼ばれた名前に顔を上げるのと同時に、さっき自分
から触れたオリーの唇が重なった。ちょっとの隙間もないくらいに、
このまま食べ尽くされてしまうんじゃないかと思うくらいに、しっ
かりと。
言葉も気持ちも全部、吐息ごとオリーの中に吸い込まれて、そう
して熱になってまた私の中に返ってくる。身体の線をなぞるように、
ここにいることを確かめるようにオリーの手のひらが動く。
ただ撫でられているだけなのに、どうしようもないくらいお腹が
疼いた。
﹁コムギ。オリー、コムギが欲しいです⋮⋮﹂
288
そうっと絨毯の上に私を横たえて、オリーが静かに笑って言う。
こんな風に直接的に言葉にされたのは初めてで、私は一瞬言葉に
詰まる。そんな私の首筋を、オリーの指が意地悪くなぞった。びく
り、と反応すればますます嬉しそうに笑う。
むっと眉を寄せたそこにキスをして、もう一度耳元で囁かれる。
︱︱あなたの中に入りたい
目眩がするほどの欲求に、顔を上げてこちらを覗き込んだオリー
に、私はようやく了承の言葉を口にした。
﹁あのね、ここじゃその⋮⋮こけしさんたちが見てるから⋮⋮﹂
﹁Sicher!﹂
王子が置き去りにしていった無数のこけしたちの視線を感じ、私
たちは少しだけ気恥ずかしく微笑み合う。
オリーは私を抱え上げると、ものすごい勢いで居間を出て廊下を
抜け、階段を駆け上がって寝室の扉を少々乱暴に開け放つ。そして、
あまりのスピードに驚いて彼の太い首にしがみついていた私を、優
しくベットの上へと降ろした。
そこを軋ませて私を閉じこめるように乗り上がってきたオリーを
見上げ、私はなんだかおかしくなって忍び笑いを零してしまう。
﹁寝室到着最短記録かも﹂
﹁オリーはこれから、寝室滞在最長記録に挑戦したいですよ!﹂
﹁あの、私、明日も仕事︱︱っ﹂
そんな私の言葉は、再開されたキスによって阻まれてしまった。
これはもう、だめだ。
明日は極度の疲労と寝不足と、筋肉痛も覚悟して出勤しなきゃな
289
あ、なんて考えながら、私は次第にそのキスに夢中になってしまっ
たのだった。
これが、私とオリーの二年目の冬の物語。
そして︱︱。
﹁コムギ! ジサンキンの牛はどの種類がいいですか? オリーは、
クロベワギュウがいいと思うのですよ﹂
﹁ちょっと待って、ちょっと待って! 何で牛!?﹂
﹁だって、モトハシが日本ではヨメになる人に牛を贈るのナラワシ
って言いました。それにヨメ乗せて教会に行きますって聞きました
よ?﹂
﹁⋮⋮本橋さん、あんちくしょうめ⋮⋮﹂
﹁内緒でドッキリすると思いましたが、指輪の時みたいなるの嫌で
すから、今回は先にコムギの意見を聞きます。コムギ、どの牛がい
いですか?﹂
﹁いらないのっ、牛なんていらないからっ﹂
﹁でも、そしたらコムギ、オリーのヨメにならないですね⋮⋮﹂
﹁すぐ泣かない! 落ち込まない! 牛なんかもらわなくっても、
私はオリーのお嫁さんになるからっ。なんだったらオリーをもらっ
てあげるからっ﹂
﹁コムギっ﹂
Dich! Ich
liebe
Dic
﹁うわあああっ、オリー! 場所を弁えてっ。まだ衣装合わせ終わ
liebe
ってないからっ、店員さん困ってるからっ﹂
﹁Ich
h! コムギ!﹂
290
これもまた、二人の幸せな日常の一日。
291
こけし様が見てる 5︵後書き︶
この後、エピローグ的なもので完結となります。
292
エピローグ ドイツさんと私︵前書き︶
少し下品な表現があります。ご注意下さい。
293
エピローグ ドイツさんと私
一年前の冬に隣に越してきたドイツ人は、その後彼の愛するどこ
ぞの妖精のように、いつの間にかうちに住み着いて。その厳めしい
顔や体格に反比例した人懐っこさでこちらの懐にあっさり飛び込む
と、あれよあれよといううちに、私の初めてをいくつも奪っていっ
た。
キスされてからなんとなく恋人になって、指輪をプレゼントされ
てからプロポーズを理解する。なんて、どこかちぐはぐな事を重ね
ながらの二年目の冬。
遅いにもほどがありますよ!なんて後輩に呆れられながらも、自
分の気持ちを強く自覚した私と、それをずっと待っていてくれた優
しいゴリラはようやく真の﹃婚約者﹄となったのだった。
それから数ヶ月。
彼の仕事であるサッカーリーグが今季閉幕したのに合わせ、私た
ちは結婚式をあげた。
﹁コムギっ⋮⋮コムギぃ⋮⋮っ﹂
﹁ああもう、いつまで泣いてるの、オリーってば﹂
﹁だって、オリーは嬉しいんですよ!﹂
無事に結婚式も披露パーティも済ました私たちは、ちょっと張り
込んでとったホテルの一室でさっきからそんなやり取りに終始して
294
いた。
目の前にいるこのゴリラさんは本当に感激屋らしく、式が始まる
前にすでに涙ぐんでいたことを私は目撃している。そのお陰で、本
来なら泣くはずの私がまったく泣けなかったという⋮⋮。
キングサイズのベットの上、隣に座り背中を丸めるオリーの頭を、
私はため息をつきながら優しく撫でてやった。それにしても。
﹁花嫁からお父さんへの手紙で、なんでオリーが一番泣いてたんだ
ろう⋮⋮﹂
﹁オリーだったら耐えられませんね! オリーとコムギの娘、連れ
て行かれたらオリーは泣き暮らしますね!﹂
﹁まだ欠片も存在してないけどね!﹂
何を気の早いっと、ちょっと動揺しつつオリーの頭を叩き、私は
ごろりとベットに寝転がった。なんというか、飲み過ぎた。
会社の同僚たちからも、自分の結婚式であんなに飲酒する新婦を
見たことがない!とつっこまれる程度に、飲んだ。えらい勢いで飲
んだ。オリーの親戚や関係者であるドイツの方たちに釣られるよう
にして、飲んでしまった。途中からビールが底をつきかけて、ホテ
ルの人が真面目に青ざめてし。
パーティはお腹が締め付けられないタイプのワンピースで正解だ
ったよ、羊子ちゃん。
﹁コムギ、疲れましたか?﹂
アルコールのもたらすぼんやりとした心地よさにそのまま身体を
委ねていたら、青い目を真っ赤にしたオリーが寝転がった私を覗き
込んできた。
少しだらしなくゆるめられたシャツの隙間から、太い鎖骨と筋肉
がちらりとのぞく。今さらながら、なんとなく気恥ずかしい。だっ
295
てさ、今日ってその、初夜だよね。初夜!
いやまあ実際には初めての夜ってわけじゃないんだけど、それは
まあその、なんていうの?もうその言葉自体の響きがあれっていう
か。
ひとりであわあわする私を見降ろし、オリーは首を傾げている。
﹁コムギ?﹂
﹁えっとね! つ、疲れたけど平気だよ!? あの、えっと、その
⋮⋮オリーも疲れたでしょ! お、お風呂でも入ってあったまれば
!?﹂
わわわわ、私の馬鹿ああああ!
自らやる気満々なことを示してどうする!どうするの!?
いや、やる気があるのかないのかと問われれば、それはもうあり
ます。充分にあるんだけど、その⋮⋮奥さんになったんだなあ、と
か思うと気恥ずかしいというか。
そのままごろごろとベットの上を転がりながら唸る私を見て、何
を思ったのかオリーも一緒になってごろりと寝転がってきた。そし
て、自分のほうへと私を引き寄せる。
﹁コムギ、一緒に入ってくれますか?﹂
﹁なっ﹂
ぎゅっと広い胸の中に抱き留められて、耳元でささやかれた言葉
に全身が即発熱する。
なにその高度なプレイ。無理だよ、無理。無理無理無理無理無理
っ!
ぶるぶると首を振りながらオリーの顔を見上げれば、彼はそんな
こと予想してました、とでもいうようにいたずらっぽい笑みを浮か
べてこちらを見つめていた。
296
ちゅ、と額に優しいキスが落ちる。
﹁冗談ですね、コムギ﹂
﹁じょっ、冗談てっ⋮⋮オリー!!﹂
﹁でも、いつかは実現したいですね。オリーはコムギの全部優しく
洗ってあげたいです⋮⋮﹂
少しだけ欲望に掠れる声でとんでもないことを耳に吹き込まれ、
私はただ無言で口を開け閉めするだけ。いっさい反論できない。
すると、それを見ていたオリーは突然吹き出し、私の首筋に顔を
埋めたまま堪えきれないといった感じで笑い出してしまった。厚い
筋肉に覆われた肩が、大きく震えている。た、謀ったな、オリー!
﹁か、からかうのよくないよ!?﹂
﹁だって、コムギ可愛いのが悪いです。でも本当に、オリーはいっ
ぱいコムギとしたいことあるですよ。一緒にお風呂もそうだし、眠
る時もずっとコムギの中に入ったままとか⋮⋮﹂
﹁却下! 特に二つ目は絶対に却下!!﹂
﹁えー﹂
﹁えーじゃないっ!﹂
神聖な新婚初夜にこのドイツ人は何を言い出すんだ、まったく。
私はさわりさわりと腰とお尻の間で怪しく動くその手の甲を、制
裁の意味を込めてぎゅっとつまんでやる。するとオリーは小さなう
めき声を上げて、手を元の位置に戻した。欧州人、マジそちら方面
の思考がぶっとんでる。
﹁あのねえ、日本では結婚式の夜はね、﹃初夜﹄って言ってとって
も神聖な時間なの! そういう危険思想は捨てないといけないの!﹂
﹁ショヤ、オリーは知っています! でも、オリーとコムギは初め
297
ての夜ではないですね。どうしたらいいですか?﹂
く、くそう、真正面からきやがった!
青い瞳を睨み付ければ、その中に面白そうにこちらを窺う感情が
見え隠れしている。わ、わかってて聞いてるなっ。
どう答えたものかと唸る私の背中を、今度は指が下からつうっと
なぞりながら上がっていく。その何とも言えない感覚にびくっと身
体を震わせて、私は小さく息を吐いた。だ、だめだ。早く答えない
とこのまま食われる!
えーと、えーと、えーと。
﹁しりとり!﹂
﹁え?﹂
がばりと半分身を起こした私は、そう叫びながらオリーの逞しい
胸に両手をつく。そうして今度は私が上からオリーを覗き込んだ。
﹁そうよ、オリーとはまだしりとりしたことなかったし、初夜には
ぴったりだと思うんだよねっ。何も必要ないし、ベットに横になっ
たままできるし!﹂
﹁⋮⋮ずっと、しりとり?﹂
﹁﹃ん﹄でどっちかが負けるまでは、ずっとしりとり!﹂
﹁⋮⋮﹂
複雑そうに顔をしかめたオリーも同じように身体を起こし、ふか
ふかな枕に背を預けるようにして再び私を抱え込んだ。しばらくそ
のまま考え込んでいたオリーは、わかりました、とやけにあっさり
と頷いてしまう。
あ、あれ?思ったより抵抗が少ない?
298
﹁え、しりとりで一晩ゴー?﹂
﹁Ja、しりとりしましょう、コムギ。オリーからでいいですか?﹂
その、ひどく無邪気な﹁世の中に悪い人なんてひとりもいません﹂
的な笑顔にだまされたんだ。ほっとした私が﹁うん﹂と言ったその
瞬間、ぐるん、と世界が回転した。
えっと声を上げる間もなく、オリーの唇が私のそれを求めて重な
ってくる。半端に開けられていたそこから、すぐに熱い舌がするり
と入り込んできてしまった。えええ!?
口の中、意外と敏感な上の辺りを尖った舌が試すように舐めて、
私は身体の中心に火をつけられたようにすぐに熱くなってしまう。
舌が、舌の上をなぞる感覚。
微妙に香る、アルコールの匂い。
首を横に向けてそれらから逃れようにも、大きな手のひらが両頬
を包み込んでいて動けない。いつもよりずっと性急に、どこか高い
場所へ昇っていく感覚。
舌先にちゅう、と吸い付いたオリーはそこでいったん私の唇を開
放した。
あまりに突然の行為にいまだ混乱中の私は、とにかく乱された息
を整えようと大きく息を吐く。それを、オリーは熱の籠もったよう
な瞳で見つめていた。
﹁⋮⋮ず、ずるいっ。ルール、違反だよっ﹂
半分涙目になってそう訴えれば、彼はまたにっこりと満面の笑み
を見せた。そしてぐっと私に顔を近付けて、ささやく。
﹁だって、オリーはちゃんと﹃オリーからでいいですか﹄って始め
ましたよ? そしたらコムギ、﹃うん﹄って﹃ん﹄言いました。そ
れに﹃か﹄からでもないので、コムギの負けです。負けた人は、勝
299
った人の言うことなんでも聞きますね?﹂
な、なんじゃそりゃああああ!!
しりとりの始めっていったら、古今東西﹁しりとり﹂の﹁り﹂か
らに決まってんでしょうが、このバカチン!
しかも何その恐ろしいマイルール!
何でも言うこと聞くって、何!? 何を聞かせるつもりなの、こ
のドイツ人!!
上機嫌にこちらを見下ろすオリーの顔を唖然と見つめながら、私
の脳内にはめくるめく桃色なあんなこんなが駆けめぐる。
どうしよう、お父さんお母さん。娘はついに新しい境地へと旅立
つことになりそうです!
﹁じゃあコムギ、何から始めますか?﹂
﹁なにって、なにって、なにがあるのおおお!?﹂
ぐいっと私の身体を抱き込んで、オリーはもぞもぞとベットの中
へと潜り込む。ふたりとも、もうカジュアルな寝間着姿だけど、お
風呂も入ってないし今日は色々汗も掻いたし、できるなら綺麗な身
体になってから⋮⋮!
と、半ば覚悟を決めつつ顔を真っ赤にしていた私の額に、オリー
はまた優しいキスをした。それからぽんぽん、と宥めるように背中
を何度か軽く叩いてくれる。
それはまるで、むずがる子供を落ち着かせるみたいなもので、決
して何かを求めるような仕草ではなかった。
てっきりあれやこれやの酒池肉林を想像していた私は、さっきと
は反対の驚きをもってオリーを見る。
﹁お、オリー?﹂
﹁コムギ。オリーはコムギに色んなことを知ってほしいです。オリ
300
ーの産まれた家のこと、ファータァ、ムッタァのこと。小さい時お
気に入りだった鉄道のおもちゃとか、好きだった食べ物、学校で一
番怖かったレーラァ。⋮⋮なんでも聞いて欲しい。そして、オリー
もコムギのこともっとよく知りたいです﹂
頬をゆっくり撫でる手が、繊細な動きで私の前髪をそっと後ろへ
と流す。そうされながら私は、オリーから穏やかに告げられた言葉
の意味を、胸の中で反芻していた。
オリーの小さい頃、両親、思い出。それらは全部、まだ私が知ら
ないオリーの過去だ。この人が日本に来るまで、私と出会うまで、
どうやって生きて何を考えて、笑って、傷ついたりしたのか。
同じように私のことも知りたいと、そうオリーは言ってくれた。
たったそれだけのことなのに、なぜだかすごく嬉しくてじわりと
涙が浮かんできてしまい、私は慌てて目を閉じる。そこに、オリー
がそうっと唇が押し当てた。
﹁これは、一晩かけてもやる価値のあることですよ?﹂
﹁うん⋮⋮﹂
そして私たちは語り出す。
離れていた時間がどういう風にお互いを作ったのか。ドイツと日
本、遠く離れた場所からゆっくりと歩み合うようにして、一歩ずつ。
こんなにも優しく過ぎていく夜は今まであっただろうか。
ひとりじゃなくて、今日からはふたり。当たり前のようで、奇蹟
みたいな一日が近づいてくる。愛しい、愛しい、私たちのこれから
の人生。
これが、海を越えてやって来た、大好きなドイツさんと私の物語。
ちなみに、夜更かししすぎてチェックアウトの時間に寝坊して、
フロント係からの催促電話で飛び起きるのは、また別のお話。
301
302
エピローグ ドイツさんと私︵後書き︶
これにて完結しました。長い間読んでくださってありがとうござい
ました!
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n0649z/
ドイツさんと私
2016年7月23日13時53分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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