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『星の夜のカフェ』について

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『星の夜のカフェ』について
『星の夜のカフェ』について
昭和50年10月11日
1105 井上 敏夫
私は中学校の頃、絵を書くのが好きで将来画家になろうと考え
たものだった。
そんなある日、『この絵は俺の絵にずいぶん似ているなぁ』と
思って真似して書いたのが、ゴッホとの初めての出会いだった。
書いたその絵はもうどこかへ行ってしまったが、私の部屋には
高校時代、油絵の具を手にして最初にキャンバスに描いたゴッ
ホの作品の模写が飾ってある(というよりは半分捨てた状態で
あるが)。
私の三畳の狭い部屋に、油絵を置くのは調和を欠くし何より邪
魔なのであるが、押し入れにしまってしまおうとその絵をもう
一度見るたびにどうしても捨てられず、もう5年も私の部屋の
一角を占領してしまっている。
ゴッホの作品群を見た当初はゴッホ自身には何の興味もなか
った。彼の作品だけ見て感心していた。それが一変してゴッホ
そのものに傾倒しはじめたのはテレビで見たカークダグラス主
演の映画だった。あとから考えてみると、ゴッホの伝記を読ん
で映画にしたくならない映画監督がいるわけがないと思うほど、
彼の生涯はロマンチックというか劇的であるのだ。さすがの私
もその映画をみて『へー、ゴッホってこんな人なのか』と感心
せずにはいられなかった。
さっそく、私は本屋へ行って『炎の人 太陽の画家』とサブタ
イトルのあるゴッホの伝記を買って一気に読んだ。感動した。
私も こんな人生を歩みたい いや フィンセント・ファン・ゴ
ッホ自身になりたいと思ったものだった。
しかし、時が経つにつれて天動説のごとくゴッホを中心に美術
界が展開しているような気持ちだった私にも、美術史の知識が
増すにしたがってゴッホは美術史の流れの一点でしかなく『井
の中の蛙 … 』を思い知らされているこのごろである。
☆『星の夜のカフェ』の自己流の所見☆
さて、私は芸術至上主義的立場から、私の部屋の『星の夜のカ
フェ』を見ながら それについて所見を述べたい。
伝記の中には「この時期の傑作でありゴッホ芸術のもっとも円
熟した作品と言えよう 青い夜 大きなガス灯でテラスを照らさ
れたカフェ… 隅に星を散りばめた青い空が見える さらにロー
ヌ河に写る星空… 九月の夜は濃い青と黄の世界であり それを
詩情がやわらかく包むのである」とその絵について述べている。
この引用文の「この時期」というのは1888年2月からのアルルに
移った頃である。フィンセントはその年の12月24日耳切り事件
で最初の精神異常を起こしているから「天才と∼∼は紙一重」
的に考えれば『星の夜のカフェ』を書いた頃の彼は天才と狂人
の間を彷徨っていたと言えるかもしれない。
さて、この絵を構図上の見地からみると対角線構図のようにも
思えるが、やはりL字型つまり、この場合だと建物を画面の右
側に描き遠景に家並みを扱い 建物の方を明るく遠景を暗くし
て画面をL型に切り左側と右側を明暗で対比させている構図と
いえる。L字型の中味がカフェの中と道端の暖色系でL字型以
外の部分が青と黒の寒色系になっている。
色彩を考えるにあたって、別表のように128の等面積の区分に
分けてみることにした。そのほうが答えが数字で出るし絵を客
観視できると思ったからである(しかし区分や色相番号・トー
ン名にはいささか自信がないので一つの試みとして見てもらい
たい)。
暖色系(緑を含む)が128中59で46%寒色系が69で54%となって
いる。トーンとしてはディープトーンが39%で次にダークの
22%と続く。
色相として面積が多いのは黒の22%その次がダーク20が14%、
ヴィヴィト8が13%と続く。
左の黄色と右の黒の対比は配色の中でも、もっとも目立つだけ
に、黄色が鮮やかである。また、黄色の中にもヴィヴィトから
ブライトへ ディープへと粗いグラデーションがあり黄色の中
にもう一つのより鮮やかな色彩を演出している。
よくよく、イエローのテラスを見つめるとガス灯の輪郭が次第
に浮かび、そこからの採光が四方へ波紋のように影響を及ぼし
ているのが見えてくる。沈の中の一筋の黄色の光は神の啓示に
も似た引導性をもたらしている。
また、さらに、この炎に頼ってテラスを眺めると散在した木の
椅子や白いものがテーブルであることがわかってくる。
ここまで鑑賞者が理解してくると、まるで、ストップモーショ
ンがかかっていた映画のフィルムが急に回り始めたように『 …
…カフェのざわめき 木の葉が風でさやけく音、星の煌々と輝い
ては吹き消されるように点滅する様子が、ほら、伝わってくる
じゃないですか 』
※に続く
※もうここまでいくと、これは絵ではない。
さあ、一歩 踏み出し あのカフェのあの黒い人影に紛れて あの
白い給仕さんにオーダーをとってもらうことにしよう。
☆『星の夜のカフェ』の夢想☆
まあ、椅子に座ってゆっくりしよう。
あの白い服の給仕が水をもってきた。
『 コーヒー 』
『 …… 』
と給仕は部屋に入り、私のオーダーを奥に伝えている。
ああ、それにしても いい気分だ。でも今日はちょっと風が強い
なぁ。
… こんな風の中で描くのはフィンセントもたいへんだ。
ぼくは道路側の手前から3番目のテーブルに道を背にして、座
っているのだが、後ろでは近所の奥さんが大きな声でスキャン
ダラスなゴシップを種に話が弾んでいるようだ。私の左横のテ
ーブルの2人はおばさんと25歳ぐらいの娘さんだが、ちょっ
と深刻そうだ。前に居て壁に寄りかかっているのは仕事からの
帰りがけに一杯ひっかけている連中だ。中には眠りこけてるや
つもいるぞ。店の中のほうの人影はまばらだ。
右側から馬の足音が近づいてきた。ひょいっとそっちを向くと
野良仕事の帰りの荷馬車だ。乗っている青年は昼間の労働に疲
れたのか淀んだ目を光らせながら、こっちをうらやましそうに
眺め、それでも馬を小走りに進めて向こう側の闇へと消えて行
った。
『 お待ちどうさま 』
ぼくはミルクをいれてコーヒーをすする。
『 ああー、うまい 』
コーヒーを飲むと、カフェの灯りが、また格段と明るさを増し
たようだ。ガスの炎は明るくて見ていられない ̶ しかし、それ
にしても あの炎は明るく あくまでも冴えて
あくまでも透明だ。まるで炎天下の夏にイエローに染まった透
明な海に潜って、そこから、見上げた太陽光線だ。
『 ああ、目がくらむ 』
ぼくは眼を外に向ける…。
あたりはだいぶ更けて人も遠くに黒く一人とぼとぼ歩いている
だけになった。
ぼくは、ため息をついて、ちょっと顔を上げると満点の星だ。
「ああ、きれいだ。生きていてよかった」と思う瞬間だ。
ひょいっと思いついてフィンセントの方へ体を向け直すと、ま
だ、あきもせず描いている。ときおり、吹いてくる強い風に彼
は迷惑そうな顔をしながらも一心不乱だ。
でもよく見てみろ、あのゴッホが描いているキャンバスの裏側
を!
『 あれ! 』
俺の勉強机がのぞいているぞ!彼がキャンバスをしまう前にあ
のキャンバスをくぐって夢の世界から抜け出なくちゃ。
̶ とばかりに、ぼくは冷めたコーヒーをひと飲みにして勘定も
済ませないまま、フィンセントの方へ歩いて行く、どうやら店
員も不審におもったのか、こっちへ追いかけてくるぞ、 ̶ 冗談
じゃない、つかまってたまるもんか俺は文無しなんだ ̶ うわぁ
ぁ 駆け足で追いかけてくるぞ ̶ 大変だ∼∼
ああ楽しかった ̶ これであの店員に追いかけられるのは何度
目だろう。
今は、もう、その絵を見ても単なる絵でしかなくなってしまっ
ている。
あのthe world of yellowに神経を集中しない限り入れない世界な
のだ…… 。
☆『ゴッホの晩年の2年間』☆
フィンセント ファン ゴッホは、この「星の夜のカフェ」を描
いたときは35歳。すばらしい色彩だ。35歳にもなってよく
もまぁ ああ 大胆にイエローを使えるもんだ。超人的とでも言
える色使いだ。
その超人性からして、例の耳切事件は必然性をもったものなの
かもしれない。この事件の後というもの、フィンセントは超人
的ではなく超人そのものになってしまった。
彼にもっとも似た色彩感覚を持つカンディンスキーの風景描
写でもゴッホの晩年の2年間に描いた作品の傾向だけは絶対に
真似できないであろう。それこそ、「炎の人・太陽の画家ゴッ
ホ」の唯一無二性を示す作品群であるからだ。 『糸杉と星の
道』を思い出してもわかると思うが、あの流れるようなムーブ
マン。あのひとつひとつの色の線分は、ひとつひとつが生きて
いる微生物のようだ、そしてそれぞれの線分は見る物に襲いか
かるような色の志向性をもたらしている。
言わば、その絵は生きている、息づいているのだ。
彼の断末魔の呼吸をしようと懸命になっている荒い息づかい
が聞こえてくるではないか 「はぁーはぁあハアッ ンゥー」。
最期の彼の作品群は、彼の願いを何でも聞いてあげたくなるよ
うな、そんな気持ちにさせ、その絵のタッチが、こちら側に絶
対的寛大さを要求する。
『そうか、フィンセント、さぞかし苦しかったろう、辛かった
ろう』
そんな一方的対話を、その絵を見ている間中しなければならな
いのだ。言わば臨床のゴッホ自身と接しているのと何ら変わり
がなくなってしまう。そして、作者を尊重しなければならない
という義務を見る側に与え、見る側の主観的自由度が微塵もな
いのだ。
そうなってくると、見る側のストレスは相当なもので全く疲れ
てくる。
結局、正直のところ私はゴッホの晩年の作品はどうしても付合
いづらいのだ。
耳きり事件以前の作品は、その絵自体に普遍性を感じる言わば
慣れ合いの絵らしい絵で、絵を見ればゴッホのハツラツとした
表情が浮かぶのに、以後の作品は彼自身の独白のような悲壮感
に溢れたものになってしまっている。
それは、日記が人に読まれるために書かれていないのと同様、
人に見られることを拒絶している、ひょっとしたら、公開して
はいけなかった作品をわれわれは見ているのかもしれない。
☆ 狂人は天才である ☆
ゴッホの生涯は波瀾万丈、特に「手を炎に入れる話や」「耳切
事件」それに「自殺を計って家へ血まみれで戻るシーン」など、
映画の脚本の筆がすらすら走るようなシーンばかりだ。もし、
これらの話がすべて真実なら、彼は一級の役者である。彼のド
ラマチックな役回りを演じさせた原動力は何だったのだろう
か?
それは彼の狂人性である。私は昔の他のいろいろな画家たちの
プロフィールなどを知るうちに狂人の多いことにびっくりして
いる。
そんななか、私は有名画家=天才=狂人という公式を創ってし
まった。
そして、このごろ私には、狂人になりたいという気持ちが潜在
するようになり『お前は馬鹿だ』とか『お前は変人だな』と言
われると、あの公式からして、俺は天才かもしれない、しいて
は有名画家になれるかも?と、御満悦?するようになってしま
った。
☆私もゴッホになれる ☆
「夜のカフェ」に見られるあの色彩計画さえ浮かべば、ゴッホ
のように心を病むことなく私もゴッホになれるはずだ。
それにはどうしたらいいのか?
今の私には、色の勉強こ
そ最大の課題である。
そして、私の独自の色の世界をつくりあげ、ゴッホに負けない
色彩を編み出してやるのだ。
『将来の画家というものは、今までになかった色彩師だ』
(弟テオへの手紙より)
参考文献
ゴッホ 嘉門 安雄 (著)
旺文社文庫
アトリエNo.513構図の研究 アトリエ出版社
色彩と配色
グラフィック社
夜の画家たち
坂崎乙郎 著
あとがき
私が20歳頃1975年に、学校の美術史の課題用に提出した文章で
す。
わらばん紙に手書きしたものを今まで残していたのですが変
色して紙もボロボロになってしまい、スキャニングしてもきれ
いに画像化できないので、文字を打ちしてPDF化しました。印
刷やコピーはできません。
読み直すと言い回しが変なところがあります。しかし、それを
直してしまうと、当時のゴッホへの情熱を伝えられないような
気がするので修正は最小限に留めています。
ゴッホ好きな方のなにかの参考になれば、と公開しました。
手書きの原文
黄色は、思った以上に赤く澱んでいた、
美術館の絵を照らす照明が、もうすこし
明るく色温度が高ければレモンイエロ
ーも見えていたかもしれない。
あの手前の石畳?の墨の筆のタッチ、盛
り上がっているのだ、あれは絵の具のチ
ューブを直接押し付けて描いたのでは
ないのか?
初恋の人に会えた気分だった。
しかし、見た後に痛感したのは、
30年間抱いてきたこの絵のイメージ
とこの展示会でこの絵を見た時の一瞬
の現実、そのギャップである。ギャップ
が埋まらないのだ。
初恋の人に会うことは、回想というゲー
ムにさよならをすることでもあった。
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