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高齢社会における医療政策――介護保険と医療制度改革の動向―― 1

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高齢社会における医療政策――介護保険と医療制度改革の動向―― 1
高齢社会における医療政策――介護保険と医療制度改革の動向――
2002.01.16
澤見よしみ
はじめに
わが国の国民医療費は、これまで増加の一途をたどり、30 兆 9337 億円(1999 年度)に
のぼる1(図 1,表 1)。なかでも老人医療費2は国民医療費の 35.6%(約 11 兆円)を占めてお
り(図 2)、老人医療費の抑制は中心的課題としてさまざまな対策がとられてきた。しかし、
1994 年に先進国でも類を見ない速さで高齢社会(高齢化率 14%)に入り、2025 年には高齢
化のピークを迎えるとされる。このような本格的高齢社会に向けて、高齢者医療への対策
は急務とされている。
とりわけ、医療保険の財政赤字は深刻である。老人医療費の 70%は各医療保険者からの
拠出金によって賄われているが(図 3)、高齢化が進むにつれて拠出金は医療保険財政を圧迫
し、医療保険の多くが財政赤字となっている。不況の長期化によって、健康保険等の事業
主として財源の約半分を負担する経済界から、老人医療の効率化と拠出金の見直しを求め
る声が高まっている。加えて、高齢者の増加と若年労働者の減少によって、現行制度のま
までは現役世代の負担がより大きくなると予想され、世代間の公平性を欠くとの声が強い。
こうしたなかで、厚生労働省は 2001 年 11 月に「医療制度改革大綱」を発表した。医療制
度改革案は、小泉内閣の進める「聖域なき構造改革」の一環として政府や経済界を中心に
進められた。おもな改革案は、老人保健保険料の引き上げ、老人医療費拠出金の軽減、高
齢者が保険料負担する新たな高齢者医療制度の設立のほかに、医療の市場化に向けた案も
含まれている。これは、2000 年に導入された介護保険制度によってつくられた「福祉の市
場化」の流れにつながるものとして、懸念されている。
本稿では、高度成長期以降の高齢者医療に対する老人福祉法、老人保健法、介護保険法
を振り返り、現在の高齢者が置かれている医療・介護状況を点検する。そして、今後の医
療制度改革における「医療の市場化」の流れと、その問題点を考える。
1.
これまでの高齢者医療政策
(1)老人福祉法から老人保健法へ
医療保険制度は、敗戦後の復興期に企業の社会保険や公務員の共済組合などが分立して
始まり、1961 年に国民皆保険が開始される。しかし、高齢者については年金制度による老
1
齢年金の支給と生活保護法による扶助としての養老施設への収容等があるのみで、特別な
医療保障制度は設けられていなかった。
だが、経済の成長につれ次第に国民にも老後への関心が強まり、1963 年に老人福祉法が
制定される。老人福祉法は、福祉サービスの給付を受ける主体として 65 歳以上の年齢区分
による「老人」概念を導入した。その上で、「老人」を「生きがいを持てる健全で安らかな
生活を保障」する主体として(同法第二条)とらえていることから、高齢者の健康権を積
極的に具体化するものと位置づけられている3。
また、老人福祉法は 1972 年に改正され、老人医療の「無料化」が福祉措置として開始さ
「無料化」を
れる。老人医療「無料化」は当初、岩手県沢内村で始まったものであったが4、
求める運動が各自治体へと拡大し、国民の世論となって議会を動かし、法改正に結びつい
た。老人医療「無料化」が開始されたことで、他の年齢層に比べて 65 歳以上の受療率は 1970
年代後半から急増した。特に入院に関する受療率は、1965 年に 1500(人口 10 万対)であ
ったのが、1980 年では 4100(人口 10 万対)まで上昇している(図 6)。このような高齢者
の受療率増加にともなって国民.医療費は急増し、1970 年代後半から国民医療費の対 GDP
比は 3%から 5%台へと上昇した(図 1)。
高度成長期には、国民医療費の増加がそれほど問題視されることはなかった。しかし、
1973、79 年のオイルショックを機に経済は低成長期に入り、税収の減少、財政赤字が拡大
し、健康保険制度への国庫補助が大きな財政負担となる。1981 年に発足された第二次臨時
行政調査会の答申は、行財政改革の一環として社会保障費にも効率化を求めた。
これを受けて医療政策も大きな転機を迎え、1983 年に老人保健法5が施行される。老人保
健法では、70 歳以上の対象者(65 歳以上 70 歳未満の「ねたきり老人」を含む)にかかる
医療費を老人医療費として切り離し、これを老人保健制度によって賄うこととなった。
老人保険制度の医療費は、各医療保険の制度間で分担する「老人保健への拠出金制度」
で賄われることになった。これは、老人医療費の自己負担分を除いた 3 割を公費で負担し、
残りの 7 割を各医療保険制度が負担する制度である(図 3)。それまで、財源の 50%を国庫負
担である国民健康保険(国保)は、70 歳以上の加入割合が高いため財政危機にあった。拠
出金制度の導入によって、財政の豊かな健保組合などに拠出金を負担させることで、国保
への財政移転がなされ、同時に国庫からの財政支出の削減にもつながる。財政再建をはか
る政府にとって最も負担の少ない制度であった。
老人医療費の「無料化」開始以後に医療費が急増した原因は、医療費の「無料化」が高
齢者の安易な受診行動につながったためだとの批判がなされた。そのため、老人保健制度
では老人医療の「無料化」は中止され、患者の自己負担(定額)が開始された。そして、
同法は「老人の特性にふさわしい医療」を提唱し、高齢の長期入院患者に対する診療、投
2
薬、注射などを「みだりに行ってはならない」として、高齢者が他の年齢層よりも低い医
療水準であるよう求めた。
このように、経済が低成長に入ったため、老人保健法によって医療費抑制への対策がと
られたが、それでも医療費は増加を続けた原因は何であったのか。次節ではその要因とさ
れた高齢者の長期入院について述べる。
(2)
高齢者の長期入院と医療費の増加
第二臨調の答申を受けて行財政改革が進められるなか、国民医療費は毎年約 1 兆円ずつ
増加した。ここで問題とされたのが、いわゆる「社会的入院6」の問題である7。
「社会的入院」は、医学上の入院の必要性はないが、家庭において介護、在宅療養をお
こなうには医療や社会福祉資源が未整備であるなど、社会的な理由のために入院を続ける
ことをさしており、高齢者の長期入院(6 ヶ月以上)の約 6 割が「社会的入院」だといわれ
る。『患者調査』によると、老人医療長期入院患者は、53.4%が 4 か月以上で、30.3%が1
年以上もの入院を続けている8。
小椋氏らが老人保健の医療費を分析した結果9、高額医療老人の 80%が 90 日以上の長期
入院老人であり、老人医療費の 3 分の 1 が長期入院に費やされていると報告している。そ
の上で、高齢者が長期に入院する原因は、入院以外の介護サービスが供給不足であると結
論づける。このように、積極的な医療行為を要しないが、介護が必要な高齢者を、福祉で
はなく医療施設によって入院させ続けてきたことは、医療費を増加させたといえる。
これを裏付けるように、老人医療費の地域差を検証した報告がある10。報告は、一人当た
りの医療費が最も低い長野県と、全国で 5 番目に多い山口県の違いを調べたものである。
長野県は高齢化率が 19.0%(全国平均 14.5%:2000 年国勢調査)と決して低くないが、老
人一人当たりの医療費が低いことで知られる。報告によると、要介護老人のうち病院入院
数の割合は、山口県が 48.0%であるのに対し、長野県は 12.3%と低い。また、山口県では
要介護老人のうち 20.7%が在宅療養であるのに対し、長野県では 45.5%と高い。
長野県では「治療は病院で、療養は家庭で」という気風が病院や患者に共通しており、
これを支える制度が充実している。例えば、保健婦の数が全国で 3 番目に多く、健診活動
を積極的に催され、在宅患者には、訪問診療と健康指導が連携して行われる。また、他府
県に比べて老人病院が少なく、一般病床数も少ない。農林業従事者の割合が多く、都市部
より家屋が広く、大家族であるため、家庭での介護が可能であるなどの条件が整っている。
このように、長野県の例は、行政による保健活動が積極的に行われると同時に、住居が広
く、家族の協力が得られるという条件が加わったため、高齢者が在宅での介護が可能なケ
ースが多かった。
3
しかし、同県でもサラリーマン家庭では、在宅療養よりも入院療養を希望する家庭が増
えており、世間体や病院が引き取ってくれないという理由で、やむを得ず在宅療養してい
る、との声も出ている。要介護高齢者を自宅で介護することは、家族に大きな身体的、精
神的負担を強いるものであり、施設による介護は不可欠である。これまでは、介護施設で
ある特別養護老人ホームや、有料老人ホームなどが不足していたために、医療施設がその
受け皿となってきた。そして、福祉による措置費で賄われるべき介護費用が、老人保健へ
の拠出金として医療保険から賄われてきたのである。
このような要介護者の医療施設への長期入院を抑制するために、1986 年の老人保健法改
正で「ねたきり老人」を対象にした「老人保健施設」(以後、老健施設と記す)が創設され
る。老健施設の財源は、半分を医療保険者からの拠出金でまかない、残りを国と各自治体
によって支払われる。対象者は、病状の回復期、安定期にある「ねたきり老人」や、痴呆
性老人で、医療ケアと生活サービスをあわせて提供する施設であり、リハビリテーション
を行い、家庭復帰することを目的としている。そのため、入所者 100 人当たりにつき作業
療法士または理学療法士 1 名の配置基準が設けられ、介護職員を充実させている。
ただし、患者の機能回復を目的としていても、現実には家庭復帰が順調に進んでいると
はいえない。老健施設の入所者数 22 万 3 千人(1999 年)の構成割合をみると、「ねたきり
老人」が 28%、
「ねたきり」に準ずる老人が 34%、ついで痴呆性老人が 36%となっている。
このように約半数が「ねたきり」の状態にあるが、ある施設では約 7 割が家庭復帰できる
が、残りの約 2 割が医療機関への入院、そして他施設への転出となっている。また、約 1
割が 1 年以上入所しており、その中には 2 年 3 年の長期入所者も含まれる。入所者の半数
が再利用者で、そのうち医療機関からの再利用が約 7 割であることから、病院と老健施設
とを行き来する例も少なくないことがわかる1112。このことから、老健施設が機能回復だけ
でなく、要介護者の受け皿となっていたことがわかる。
1990 年には、診療報酬の改定によって高齢者診療報酬に「包括支払制度」が導入された。
医療費は「出来高払い制」がとられるため、医師はさまざまな治療法を選択できる反面、
過剰診療が問題とされている。例えば、医療費の増加要因に関する医療経済学的分析でし
ばしば用いられる「医師誘発需要仮説」によると、患者は医師に比べて知識や情報が少な
い「情報の非対称性」が存在することから、医師(供給者)が需要を誘発するという13。こ
のような懸念から、患者 6 人に対して介護職員 1 人以上のスタッフを備えた特例許可老人
病院(老人病棟)に対して、看護、投薬、注射、検査の診療報酬を包括化した「入院医療
管理料」を導入した。
包括払い制の導入は、医療者にコスト意識を芽生えさせた。出来高払い制では利益を生
んだ薬剤費、検査費は、包括払いでは支出となる。その結果、薬剤費、検査費の大幅な減
4
少をもたらし、導入以前の 50%削減された報告もある14。また、看護職員が強化されたこと
で褥瘡予防、オムツはずし、入浴介助等のケアが充実し、患者の死亡率が低下し、ADL が
改善するなどの成果をあげている15。一方で、定額診療報酬では、一定額以上の治療を行う
ことは病院にとって不利益になるため、高度な治療を要する重症患者の入院拒否や、退院
の強制などを引き起こしたとされる16。
包括払いに加えて、1992 年の医療法改正で療養型病床群が認められた。療養型病床群は、
老人病棟と同じ人員配置で、診療報酬も包括払いであるが、老人病棟が病状の急性期又は
慢性期の治療を要する老人を対象とするのに対して、病状の安定した長期にわたり療養を
要する患者を対象とする。そのため、長期の療養生活に配慮して、浴室、機能訓練室等の
環境を整えることが条件となる(表 3)。このようにして、要介護者を医療施設に長期入院さ
せる「社会的入院」を追認しながらも、高齢者の長期入院患者に対して診療報酬の包括化
によって医療費を抑制させる試みがなされる。しかし、前述したように医療費の増加によ
って各医療保険者は赤字財政が続き、医療保険制度の維持も危ぶまれるに至り、何らかの
対策を講じる必要があった。そこで導入されたのが、介護保険法である。次節では、介護
保険制度導入の経緯と施行後の問題点、そして現在の高齢者の置かれている状況について
述べる。
(3)
介護保険の導入とその問題点
「社会的入院」を引き起こす原因とされた在宅ケアと介護施設を拡充することは、医療
費抑制にとって不可欠だとの認識が高まり、厚生省は、1989 年に高齢者保健福祉推進 10 か
年戦略(ゴールドプラン)を立て、1994 年にはこれを見直した「新ゴールドプラン」を発
表する。
新ゴールドプランは、高齢者が自立して高齢期を過ごすための福祉の拡充を目的とした
もので、施設サービスおよび在宅サービスの充実及び、そのためのマンパワー育成を謳っ
た。これによって、それまで不足していた特別養護老人ホーム、老健施設、介護利用型軽
費老人ホーム(ケアハウス)などの福祉施設を増床させる計画が始動した。
このプランは、1995 年から「高齢社会」に入った日本の社会福祉を充実させる点で評価
されるものだが、財源の問題を残していた。当初、消費税による税法式が予定されていた
が、1994 年当時、細川内閣は国民福祉税として消費税を 7%に引き上げようとするが頓挫
する。国民から強い批判を受けると予想される税率の引き上げを避けて、社会保険料に財
源を求めたものが、2000 年 4 月から施行された介護保険法である。
介護保険の財源は、40 歳以上の国民の保険料と公費(税金)、及び利用者負担によって賄
われる新たな保険制度である。利用者負担分は全体の 1 割で、残りを公費と保険料で半分
5
ずつ賄う。介護保険の導入は、老人医療費に含まれている介護色の強い部分を切り離すこ
とも目的とされていた17。それは、老人医療を介護保険へと移行させる制度からも伺える。
例えば、これまで医療保険によって賄われていた老人保健施設は、介護老人保健施設と
いう名称に変更され(図 4)、財源は介護保険料と公費から 50%ずつ支払うことになった。ま
た、療養型病床群、老人病棟の中から、申請があり許可を受けた施設は、介護療養型医療
施設となって、介護保険料と公費を財源とした介護保険制度下に入ることになる。これに
伴って、2003 年には老人病棟が廃止される。
このように、介護保険制度の導入は、長期入院高齢者を医療保険制度から切り離す制度
である。これによって、2000 年度に長期入院高齢者の医療費から介護費用に移行した額は
1.28 兆円であった18。
介護保険によって在宅介護支援が充実し、これまで施設入所を余儀なくされていた長期
入院高齢者が在宅で療養が可能になる事は、「介護の社会化」という介護保険の理念を実現
するものである。また、これまでの福祉が「お上」からの措置であったのに対し、利用者
が消費者としてサービスを選択し、購入する点で「利用者本位」であると評価されている。
その一方で、介護保険制度が始動して 1 年 9 か月を経て問題点が表出している。ここで、
介護保険の問題点を点検しておかなければならない。何故なら、それは次節でも述べる医
療制度改革と関連するためである。今後、政府・厚生労働省は医療の非営利原則を緩和し、
市場原理の導入を図る計画を立てており、その前段階として介護保険による福祉の市場化
が導入された。従って、介護保険による問題点は、今後の医療制度改革での課題だといえ
る。
それでは、以下にその問題点を 4 点あげる。1 つ目は、保険料負担の問題である。介護保
険は 65 歳以上の第一号被保険者と 40 歳から 64 歳までの第二号被保険者に区別される。第
一号被保険者の保険料は、政令の定める基準に従い各市町村が条例で定めるため、市町村
毎に異なる。自治体によって保険料に 3 倍近い格差が生じているが、全国平均で月に一人
3,000 円弱となっている。高齢者は、月 15,000 円以上の老齢年金があれば、保険料が年金か
ら天引きされる仕組みになっている。また、本人が無収入の場合には世帯主や配偶者に保
険料納付義務が課せられており、これに対して年金生活者からの苦情や、憲法違反だとす
る訴訟まで起きている。そのため、独自の減免を行う自治体も出ているが、厚生労働省は
保険料の減免を適当ではないとの姿勢を示して牽制いる19。
高齢者にとって、在宅サービスの 1 割負担や、月に 3,000 円の保険料はどれほどの負担な
のであろうか。統計によると、65 歳以上の者のみで構成する高齢者世帯は、夫婦二人ある
いは単独世帯がほぼ半々で、その収支をみると所得は年間 316 万円、そのうち 197 万円(約
60%)が公的年金または恩給によるもの、その他に雇用者所得、事業所得、農耕・畜産所
6
得といった稼働所得は 84 万円となっている20。貯蓄は平均して 1,588 万円あるが、これには
大きなばらつきがある。貯蓄が 2,000 万円以上の割合が約 37%、そのうち約 10%が 5,000
万円以上であるのに対して、貯蓄が 300 万円以下の世帯の割合が約 10%と大きな格差がみ
られる。高齢者世帯の生活費は平均して月額 27 万円であるが、年間所得 200 万円未満場合、
生活費は月 16 万円となっている。このように、高齢者の収入は老齢年金を中心とした所得
に頼っており、所得の大半は生活費として消費される。貯蓄は備えとして確保しているが、
中には貯蓄も少なく年金を頼りに生活する人々が 1 割存在している。
低所得者層にとって、
介護保険の負担は決して安いものではないことがわかる。
2 つ目は、施設志向と施設入所の長期化という問題である。介護保険は在宅サービスと施
設サービスがあり、認定された要介護度に応じてサービスが受けられるが、在宅サービス
の場合は自己負担額が利用料の1割であるため、重度になれば経済的負担が増える。その
ため、サービス利用の抑制が起きている。また、施設であれば 24 時間体制で必要な介護が
受けられ、利用額が一定であるため、施設志向が強まると同時に、施設への入所期間も長
期化している。厚生労働省によると、介護老人保健施設の退所者の平均入所期間は、1999
年度の 199 日から 210 日(2000 年度)に増加している21。その理由は、これまでの医療保険
では入院期間が長引くにつれて診療報酬が逓減したのに対し、介護保険では要介護度別に
保険給付額が決まるため、施設側に在宅復帰させようとする介護報酬上のインセンティブ
がなくなったため22とされる。このように、在宅サービスの利用が抑制され、施設入所の希
望者が増えることは、「利用者本位」の理念に逆行すると指摘されている23。
3 つ目の問題は、介護施設の不足である。要介護者数が推計 100 万 4 千人(1998 年)24に
対して、特別養護老人ホームが 27 万 6 千床、老健施設は 20 万 7 千床、療養型病床群が 18
万 3 千床、老人病棟が 25 万床、合わせて 91 万 6 千床となっている。しかし新ゴールドプ
ランによる増床計画の目標数は達成しておらず、特別養護老人ホームへの待機者が 2∼3 年
待ちになるほど施設不足が深刻である。在宅サービスが拡充したとはいえ、今後も介護施
設は必要である。なぜならば、在宅サービスの適応は介護者が同居することを条件として
いるため、270 万人(1999 年)25にのぼるひとり暮らしの高齢者のうち相当数が、施設介護
へ移行すると予想されるからである。
介護保険の 4 つ目の問題点として、「福祉の市場化」に対する懸念である。これまで福祉
は行政によって供給管理されていたが、民間サービスによる市場化が始まり、最終的な責
任の所在が曖昧であるとされている26。例えば、在宅介護に参入した民間企業に対して、行
政はサービスの質の評価、チェックを行っていない。また、利用者に必要なサービスが行
き届かない状況が放置される27、過疎地域のサービス事業者が撤退するといった問題も生じ
ている。これは、行政責任の放棄ともいえるが、後で述べる医療制度改革はさらに医療の
7
分野にまで市場化をすすめようとしている点で懸念される。
ここまで述べてきたように、老人医療費抑制のために社会的入院による介護費用を切り
離す制度が介護保険制度であった。これによって、2000 年度に医療費から介護保険に移行
したのは、老人医療費 11 兆円のうち約 1.28 兆円であった。介護保険は老人医療費を 1 割削
減させる効果を見せたが、反面で、低所得者に厳しい保険料の負担、施設志向と施設入所
の長期化、依然続く介護施設の不足、行政責任の後退などの問題を提起した。そして、福
祉から医療の市場化へ向けた準備がなされつつある。次章では、医療制度が具体的にどの
ように改革されようとしているのかを述べる。
2.
医療制度改革案とその問題点
厚生労働省は、2002 年度開始をめざした医療制度改革を前に、2001 年 11 月に医療制度改
革大綱をまとめた。医療制度改革大綱の主な項目は、1. 保健医療システムの改革 2. 診療報
酬の改定 3. 医療保険制度の改革 4. 高齢者医療制度の改革を柱とする。具体的には、サラ
リーマン(健康保険組合の被保険者)の患者負担を 2 割から 3 割に引き上げ、老人医療費
の伸びを抑制するための「総額抑制」を導入する。また、新たに 75 歳以上を対象とした高
齢者医療制度を設け、負担能力にあわせた保険料の自己負担を求めるとともに、70 歳以上
の自己負担は現行の 1 割から 2 割負担へ増やす。反発の強かった医療保険の拠出金を減ら
し、国庫負担を増額する。そして政府官掌健保などの保険料引き上げなどである。
改革案は、労働者である若年者層の自己負担と、高齢者への負担増加が求められる。ま
た、新たに創設される高齢者医療制度は、疾病罹患率の高い高齢者を現行の医療保険から
切り離し、高齢者に保険料を求めるもので、全体に労働者、高齢者、患者の負担増である
のに対し、保険者の拠出金を減らし、国庫負担を減らすものである。
厚生労働省は、医療保険制度の維持には消費税等の増税なしには困難だとの見解を示し
ながら28、増税は政治的に困難であるため、最終的に負担割合を増やすという方策をとった
と考えられる29。このような改革案成立の要因は、改革までの過程をみるとわかる。
今回の医療制度改革が進められた過程がこれまでと異なる点は、経済界の圧力である。
医療政策は、ながく旧厚生省と日本医師会との対立の中から生み出されてきた30。医師会は、
武見会長時代、集票力を背景とした政治的影響力の強さで医療行政を積極的に牽引した。
武見氏退任後、政治的発言力は後退した31ものの、医師の裁量権を確保しようとする医師会
と、効率的な医療によって医療費削減をはかろうとする厚生省の両者が、政策を摺り合わ
せてきた32。だが、今回は、経済財政諮問会議や総合規制改革会議からも医療制度改革の要
求があり、これまでの二者に経済界が加わった形となる。経済界の主張は、厚生労働省と
8
通じる部分が多く、改革案にも反映された。
経済界の圧力が強まった原因は、一つには医療保険の財政赤字にある。企業は、健保組
合の事業主として加入者と保険料を折半しているが、長引く不況のために老人医療費の拠
出金に対する不満は強い33。老人医療の拠出金制度は、開始当初から健保組合が強く反発し
たにもかかわらず、政府は世代間・制度間の公平な負担だとはねつけた。その結果、財政
状態の良好であった健保組合の 7 割が財政赤字となり(1999 年度)、赤字額は約 2000 億円
にのぼる。また、政府官掌保健や国保は約 3000 億円の赤字、政府官掌保険は 2002 年度に
積立金が枯渇すると予想され、このままでは医療保険制度全体の維持も危ぶまれるほどに
財政が悪化している。健保事業所の中には、拠出金の負担を拒否するケースも出ており、
老人医療に対して感情的ともいえる反応もみられる34。
しかし、経済界が介入するもう一つの理由は、医療にも市場原理を導入することで、医
療経営の効率化を図ると同時に、医療分野での新たな市場を創出することにある。医療制
度改革大綱の中には、「医療法人の理事長要件の緩和」が盛り込まれている。これは、病院
経営への株式会社参入などの規制改革を行い、医療分野における競争原理の導入を求める
もので、経団連・日経連のまとめた「高齢医者医療制度に対する基本的考え方35」や、規制
改革会議答申にも明記されている。
また、大綱には「公的医療保険の守備範囲の見直し」も含まれている。その意図すると
ころは、経済同友会医療保険制度研究会の提案36から伺える。具体的に、公的保険は公的財
源と私的財源の併用(混合診療)が禁止されている。そのため、画一的・標準的な医療が
平等に受けられる反面で、患者が先進医療や画期的新薬のような選択的治療を希望しても、
自費負担せざるを得ない。公的医療保険の守備範囲の見直しとは、選択的な部分に関して
は、民間保険や自費などの私的財源によって対応できるよう混合診療の禁止を見直すこと
を示唆しており、目的は、民間生命保険が疾病保険の商品市場を拡大することにある。
上に述べた医療の民間参入や公的保険範囲の見直しは、果たして患者の利益につながる
のだろうか。医療施設が営利目的に営業した場合、老人医療費の包括化で述べたような、
診療報酬上で不利益となる患者の入院・診療拒否や、退院の強制などを引き起こすことが
予想される。また、利潤獲得のためには消費者の購買力の大きさと市場の規模が問題とな
る。そのため、過疎地域は、医療機関の競争によるサービスの改善など望めず、介護保険
で民間サービスが撤退したように、医療環境の改善は見込めない。そればかりか、もし行
政責任において医療の供給管理が行われなくなれば、深刻な医療不安を引き起こすであろ
う。また、公的医療保険と民間生命保険の混合診療が導入された場合、持てるもの・持た
ざるものの階層化進み、疾病リスクの高い高齢者や遺伝子診断などによる差別化が懸念さ
れる。
9
おわりに
本稿では、これまでの高齢者医療政策を振り返った。老人福祉法による医療費の高騰、
オイルショック後の老人保健法への移行、包括払い導入による老人医療費の抑制、社会的
入院に対する介護保険の導入、福祉の市場化から医療の市場化へ向けた今後の医療制度改
革という政策の流れから読みとれることは、社会保障への責任を有する国家の役割の後退
といえる。
ほんらい社会保障は、疾病、老齢、障害などの社会生活上の事故に対して、世代を越え
た共助として成立したもので、社会全体で弱者を支える仕組みである。しかし、福祉・医
療の分野の市場化の流れは国民不在の中で進められている。市場原理を導入は、階層化、
差別化の拡大をもたらす。これは、自由権から社会権へと拡大された社会保障制度の成立
に逆行するものだといえる。すでに介護保険導入によってサービスの利用抑制が生じ、行
政による供給管理が放棄されていることは、看過できない。
本稿では、医療保険財政の悪化と老人医療費の関連について、あるいは国民医療費への
国庫負担の推移などを詳しく論じることができなかった。今後の課題としたい。
1
厚生労働省大臣官房統計情報部編『国民医療費』(平成 11 年度)厚生統計協会、2000 年、8
ページ。
2
平成 11 年度の一人当たり医療費は、65 歳未満が 11.3 万円に対して、65 歳以上は 57.3 万円。
厚生労働省、『国民医療費の概況』。
3
井上[1995]165 ページでも、老人福祉法が、高齢者の権利を守るものであったと評価され
ている。
4
沢内村については前田信雄『岩手沢内村の医療』日本評論社、1983 年に詳しい。
5
老人保健法に対する問題提起は数多くなされている。ここでは、井上[1995]を参照した。
6
厚生省は、「社会的入院」の存在を公式には認めていないため、「社会的入院」という用語は
統計や白書等では用いられていない。
7
滝上[1995]、19 ページ以降参照。滝上氏が「参議院国民生活に関する調査会」に参考人と
して呼ばれた際、社会的入院について説明したもの。
8
厚生省老人保健局『老人の保健医療と福祉』1996 年。
9
小椋[1998]参照。
10
田中[1995]参照。
11
浅野[1993]の中で、第七章「老人保健施設の現状と課題」187 ページを参照。
12
前掲、井上[1995]のなかで 136 ページ以後の山本忠「老人保健施設」参照。
13
「医師誘発需要仮説」に関しては西村[1984]に詳しい。
14
浅野編[1993]、209 ページ参照。
15
同上、210 ページ参照。
16
具体的な重症者の入院拒否の例は見あたらなかったが、一般にこのように受け止められてい
10
る。例えば浅野編[1993]、伊藤周平[2001]など。
17
介護保険の制定過程については、伊藤周平[2001]52 ページ参照。
18
『週間社会保障』2001 年 9 月 3 日号、3 ページ参照。
19
伊藤周平[2001]の『賃金と社会保障』20 ページに詳しい。
20
以下、データは『生活と貯蓄』平成 11 年度版 109 ページ以降による。
21
介護保険制度の中間総括は医療白書[2001]が詳しい。
22
同上 147 ページ以降、川渕孝一「介護保健施設の経営課題」より。
23
篠崎[2001]8 ページ参照。介護保険制度の現実を問題視している。
24
統計情報部「平成 10 年国民生活基礎調査」(Web)より。
25
統計情報部「平成 11 年国民生活基礎調査」(web)より。
26
篠崎[2001]4 ページでは、座談会で福祉と医療の市場化に関する問題点を洗い出している。
27
同上、27 ページ参照。
28
近藤純五郎厚生労働省事務次官は、医療費の財源は当面、医療保険を中心にするとし、消費
税について、「主婦層を中心とした国民のアレルギーが強い」ために「その引き上げは容易では
ない」とコメントしている。『週間社会保障』、2001 年 2 月 12 日、4 ページ参照。
29
中村周一厚生労働省大臣官房審議官がインタビューに答えて、このような見解を示している。
『週間社会保障』2001 年 4 月 30 日、8 ページ参照。
30
武見太郎氏は、吉田茂氏ほか有力な政治家との人脈、牧野伸顕氏との姻戚関係、自民党への
多額の政治献金、医師会推薦議員などによって強い政治的影響力を持ち、医療行政に関与した。
日本の医療政策に関しては、池上、キャンベル[1996]、伊藤[2000]。
31
日本医師会の組織構造に関して、最近では伊藤幹彦[2000]
前掲、池上、キャンベル[1996 年]の 9 ページ参照。
33
健康保険組合の 8 割が赤字となっており、拠出金の負担を拒否する健保も現れている。経済
界では強い不満がみられる。
例えば、
「老人医療費拠出に非常手段も辞さず!!サンリオ健保組合が下した決断」
『実業界』1999
年 8 月や、
「健保を崖っぷちに追い込んだ老人保健拠出金に不満爆発」
『週間ダイヤモンド』1999
年 9 月など。
34
「キリギリスには払わない!−サンリオが老人医療費一部負担拒否−」『サンデー毎日』1999
年 6 月、「不況で老人医療まで面倒見切れない」『エコノミスト』1999 年 8 月といった見出しが
踊る。
35
医療制度改革に対する経済界の姿勢は、
『賃金と社会保障』No.1229,2001 年 57 ページに詳し
い。
36
同上『賃金と社会保障』38 ページ参照。
32
参考文献
赤木博文「包括支払制度の導入が治療レベルの選択に与える効果」『季刊社会保障研究』36−3、
2000 年。
浅野仁、田中荘司編『明日の高齢者ケア No5. 日本の施設ケア』中央法規出版、1993 年。
池上直己、J.C.キャンベル『日本の医療』中央公論社、1996 年。
伊藤幹彦「日本の医療政策一日本医師会を中心に一」『昭和大学教養部紀要』31 巻、2000 年。
伊藤周平「介護保険法の制定施行過程と情報アクセス権・参加権」
『賃金と社会保障』No.1307、
2001 年。
伊藤周平『介護保険を問い直す』筑摩書房、2001 年。
井上英夫、上村政彦、脇田滋編『高齢者医療保障−日本と先進国』労働旬報社、1995 年。
医療経済研究機構編『医療白書』2001 年。
11
医療保険制度研究会編『目で見る医療保険白書』、(平成 13 年版)。
小椋正立「日本の老人医療費の分配上の諸問題について」『日本経済研究』No.36、1998 年。
厚生労働省大臣官房統計情報部編『国民医療費』(平成 11 年度)厚生統計協会、2000 年。
篠崎次男、二宮厚美、横山寿一「福祉・医療の市場化はどこに着地するか」
『賃金と社会保障』
No. 1299・1300、2001 年。
神野直彦、金子勝編『福祉政策への提言一社会保障の新体系を構想する一』岩波書店、1999 年。
綜研データベース部編『生活と貯蓄 関連統計』貯蓄広報中央委員会、1999 年。
滝上宗次郎『福祉は経済を活かす一超高齢社会への展望一』頸草書房、1995 年。
田中實雄「老人医療費の高い地方(山口県)と低い地方(長野県)の相違について」
『健康保険』
1995 年。
地域差研究会編『医療費の地域差』東洋経済新報社、2001 年。
西村周三「高齢社会と医療の政治経済学」『季刊現代経済』57 巻、1984 年。
ポール・タルコット「圧力グループと日本の医療政策(1995∼2000 年)
」
『季刊・社会保障研究』
37-1、2001 年
前田信雄『岩手沢内村の医療』日本評論社、1983 年。
「老人の社会的入院は 33%」『週間社会保障』No.2131、2001 年。
「2002 年医療制度改革に向けて(資料)」『賃金と社会保障』No.1299,2001 年。
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