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16巻 6号 (1985年3月発行) - 東京大学 大学院理学系研究科・理学部

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16巻 6号 (1985年3月発行) - 東京大学 大学院理学系研究科・理学部
16巻
6号 昭和 60年 3月
東京大学理 学部
●
日 次
・
・……………………………… 1
表紙の説明………………・
‐
│…
…
お別れ三題 ………… …………………。
江止信雄 … 2
・
・嶋 昭紘… 3
江上信雄先生の東大御退官 によせて…・・
磁気嵐研究と広報活動…1‐ "・ ………¨'… …福島 直… 4
福島先生の御退官に よせて……………・……小 日 高… 6
回想40年 ………………・Ⅲ… ・………………高倉達雄… 7
高倉達雄先生 ……………… ・…・
・・…………吉村宏和… 8
・
乾燥地域 と共に… …………… ・…………小堀 巌「,,10
小堀先生のプロフィル……………`… ………阪 口 豊… 13
・
・………………………平川浩正… 14
宮川正雄 さん………・
・
・
(学部消息 〉・………………・ ………・
・……………… 15
,・
`・
=・
,・
,・
,・
'・
表
紙
の
説
明
半導体超格子模型
いまや私 どもは,天 然 にない物質をつ くり出 し,こ の新物質 の開発か ら新 しい現
象を見つ け,新 しい概念をつ くり,そ の機能を生か して実生活 に役立 てる時代を迎
えつつある。図 に模型で示 された半導体超格子 も,ま さにこのような意味で新 しく
誕生 した新物質である。
1970年 に江崎玲於奈氏は,
RoTsu博 士 と共同で, 層 ごとに半導体物質が変わる
●
ヘ テ ロ構造を多層 に積み重ねた超格 子物質を提案 し)分 子線を用いた新 しい物質合
成法である分子線 エ ピタキ シー法 (Molecular Beam Epitaxy,略 してMBE)
を用 いて この物質を作製 した。それ以来,MBE,さ らには金属有機物法などの薄
膜結晶成長技術は急速 に進歩 し,今 日では単原子層 の厚 さの程度で組成が急激 に変
化 し,電 気的に も光学的 に も良質なヘテ ロ接合をもつ単一界面や,そ の多層構造で
ある超格子構造をもつ新 しい物質が数多 く設計,合 成されるよ うにな り, これ らの
物質 に関す る研究は,そ の応用へ の可能性 も含 めてますます活激 になりつつ ある。
新物質 の誕生以来, この物質系 は従来予想 もしなか った興味ある現象を数多 く示
し,非 整数量子ホール効果や 2次 元励起子など物理学 の分野で新 しい基本的問題を
提供す るとともに,そ の新奇性 に富んだ特徴を生か して新 しい電子・ 光素子を開発
す ることも可能な ことがわか って きた。 これ らの研究は,物 質内の電子や発光を所
望 の層内に閉 じこめてお くことのできる物質群をつ くり出す ことを可能 に し,高 移
動度 トランジス タ,量 子丼戸 レーザ ーの誕生 などを通 じて新たな研究開発分野 を切
り開きつつ ある。
図 にはⅢ― V族 の代表的半導体 で あ るGaAs
ねてつ くった超格子
3層 とAlAs 3層 を交互 に積み重
(GaAs)3 (AlAs)3の
模型を示す。 (模 型 の作製 は筆者
の研究室 に よる。また写真は,培 風館 め御好意 により, 日本物理学会編「半導体超
格子 の物理 と応用」 (培 風館,1984年 ))よ り引用させて頂 いた)。
物理
-1-
上
村
洸
●
お 別 れ 三 題
江
(1)さ よ うな ら理 学部 の皆 々様
上
信
雄 (動 物 )
気 にな りま した。今 一つ , これ らの ケヤキや近 く
つ い先 日,私 の還 暦 誕生 日のパ ー テ ィーを して
に あ るサ ン ゴ ジュな どの樹木 と密 着 して生活 して
いただ き,永 い間 に身 につ いて しま った東大 の生
い る小 さな動物達 (た とえば数種 の クモ や美 しい
活 に ピ リオ ドを打 つ 日が近 づ いた こ とを感 じま し
ダニ な ど)の 四季 の変化 に こっそ りと関心 を持 ち
,
た。 しか しなが らこの ところ忙 しい 日の連 続 で
朝早 く採集 や観察 を して過 ご して きま した。動物
,
まだ停年 を迎 え る実感 がわ いて こな いのが 今 日こ
といえば,二 号館周辺 に棲んで い るダ ンゴム シ
の 頃 の正 直な気持 です 。今 まで飼育 を続 けて きた
シマ ミミズ,サ カマ キガイ, キセ ル ガイ類 , コ ウ
多数 の メダカ を どの ょ うに整理 し,今 後 の研究 に
ガ イ ビル,ハ リガネ ム シ,そ れ に数種 のハ ム シな
つ な げ るか,年 末位 まで に き りが つ くよ うに計画
どの細 か い動物 もまた私 の 目と心 を楽 しませて く
した筈 の数 篇 の論文 の後始末 を ど うす るか ,大 学
れて いたの です。実 は これ らの樹 々や動物達 との
院学生諸君 の実験 や研究 の ま とめの ことな ど,誠
別れ に もち ょっぴ り淋 しさを感 じて い ます。
にお恥 づ か しい幕切れ に な りそ うです。
(3)さ よ うな らク ロよ ,キ ャ ンパ スよ
,
実 はそん な 自分 自身 の ことよ りも, この 3月 末
コ ウガイ (井 )と い って もご存知 ない方が多 い
に60才 停年制 に よ って理学部 を去 る ことにな った
,
私 よ り御年配 の 多数 の職員 お一人お一人 の こと
,
それ らの方 々の後補充 の ことな ど が気 にな ります。
その ため まだ 落 ち着 いた気持 に はな りきれ ません。
そ して どれ 程 の こと もで きな い もどか しさ も感 じ
か も しれ ませ ん。 これは昔女性が髪 を掻 き上 げ る
の に使 った小道具で,日 本髪 の 飾 りに もな った独
特 の形 を もつ ものです。 私 は小学校 時代 ,一 時麻
布 の算小学校 にい たので ,特 に この 名 を 知 って い
ています。 しか し, ともか く永 い間勉 強 させて い
ま した。 ところで ,理 学部 2号 館や懐徳館 の近 く
に その形 が コ ウガ イに そ っ くりな,コ ゥガ ィ ビル
ただ い た 東大 理 学部 にお別れ の 日が近づ き,今 ま
が数 匹すみ つ いて いて,暖 い雨 の 日の朝 は 時 々お
で い ろい ろ御迷惑 をおか け した に もかかわ らず
目にか か りま した。 私 は この 虫 に固有名詞 をつ け
,
お 目 こぼ しいただ き 自由 に勝手 に過 ごさせて 下 さ
てお り,そ の一 匹が “ク ロ"な ので す。 ク ロの行
った理学 部 の教官,職 員 そ して学生等 の皆様 ほん
動 は私 に と って興 味 の対象 の一つで した し,ク ロ
とうに有 難 うござい ま した。
の平 素 の棲み家 を発見 した時 は, これ を誰 に も話
(2)さ よ うな ら樹 々達 よ ,小 さな動 物達 よ
しませんで した。 そ の平 静 な生 活 を破 りた くない
理 学部 2号 館 の周辺 の ケヤキ も40年 前 よ り大 き
気 が したか らです。 つ ま らな い ことの よ うで すが
くな り毎年私 の 目を楽 しませて くれ ま した。 寒 々
私 に とって この ク ロとも当分別 れ なければ な りま
と した冬 の姿 ,春 か ら初夏 にか けての新緑 ,よ く
せん。 ク ロに限 らず,東 大 の構 内 にはまだ まだ い
茂 った真夏 の 美 しい葉 ,そ して秋 の紅 葉 と移 り行
ろ い ろな小 さな生物達 の棲 む空間が残 って ぃ る こ
く季節感 は改めて想 い 出 とな ります。 台風 に よ る
とは, うれ しい ことで す。 この愛す べ き大 学 の キ
樹 の損傷 ,潮 風や 日照 によ る季節外 の枯葉 には
ャ ンパ スが,完 全な コ ンク リー ト砂漠 にな らない
自然現象 とはいえ何か しら心 の痛みを感 じま した
よ うで あ って ほ しい とひそか に思 って い ます。
,
し,秋 の 落葉 に は これ を清掃す る方 々の御苦労 が
-2-
,
江 上 信雄先生 の東大御退官 によせて
嶋
昭
紘 (動 物)
江止信雄先生は昭和22年 に本学理学部動物学科
理学 部長,が ん対策専 門家会議 な ど,学 内外 の 多
を卒業後,故 岡田要先生 の もとで無脊 椎動物や魚
方面で教育・ 研 究行政 に深 くた ず さわ られ,多 大
類 の性分化 の研究をは じめ られま した。大学院特
の貢献 を され ま した。
別研究生,動 物学教室助手,講 師を経て,昭 和36
超早起 き (先 生 の言で は他 の ヒ トが遅過 ぎ るそ
年 に科学技術庁放射線医学総合研究所 (放 医研)
うで す ), 超早朝 出勤 (上 に 同 じ), 超甘 党 な ど
へ生物第一研究室長として赴任 され,39年 には生
な ど,先 生 に まつ わ るエ ピソー ドは 山 とあ ります
物研究部長 に昇任。放医研では,変 温動物 である
が ,去 る 1月 5日 に ご く内輪 で先生 の 御還暦 を御
魚類 の特徴を活か して,細 胞再生系 に対する放射
祝 い した折 には, 140余 人 の 老若男女が全国各地
線 の作用を細胞周期 との関連で解析 され,世 界的
か ら駆 けつ けた こ とは,先 生 の御人柄 を物語 るに
に高 い評価を受けたユニークな成果を挙 げられま
充分か と思 い ます。
した。また, 5年 間 に亙 る連続観察 の結果,メ ダ
4月 か らは,山 口大学理学部生物学教室 で,待
カの生命表をは じめて作成 され, これは今 日の私
共 の エイ ジング研究の基礎 になっています。 昭和
望久 しい 山 と水 と緑 とメダカとの生活 をは じめ ら
れ る御予定です。 私 は58年 9月 に先生 の元 へ 戻 っ
45年 には本学理学部教授 として動物学第二講座を
て きま したが ,今 日まで の 1年 半 は誠 に御多忙 な
48年 以降は放射線生物学講座を担任 され,放 射線
先 生 とのお付 き合 いで ,あ っとい う間 に過 ぎて し
生物学,生 殖細胞,老 化,発 癌 の広 い分野 に亙 っ
ま い ま した。 先生が新任地で落 ち着 かれ ま した ら
て多 くの業績を挙げて こ られま した。その間,学
弟子 ど も大挙 して ナ ン ドカ屋 の ヨウカ ンで も持 っ
生・ 院生 の教育・ 研究指導 と並行 して, 日本学術
て修 学旅行 に 出掛 け ることを楽 しみ に して い ます。
,
,
会議,学 術審議会, 日本学術振興会 ,本 学評議員
先生 の益 々の御健 勝 を御祈 り申 し上 げます。
,
│あ
L==_=_=_=_=一
なた で す ノ
=一
=一
-3-
│
=一
=一
=一
=一
十
一
=』
磁 気 嵐 研 究 と広 報 活 動
福
1.理 学部広報発 刊 の頃
直 (地 球物理研究施設)
2.K.Birkeiand教 授終 焉 の地 を眺め続 ける
理学 部広報が創刊 されてか ら満 16年 にな ります。
私 は初 代理学部 弘報 (広 報 )委 員 で ,昭 和 44年
島
私 は「地球磁場 変動現象 Jの 研究 を多年行 って
きま した。 磁気 嵐現象 につ いてパ イオ ニ ア的業績
1
∼ 3月 に毎月 2回 弘報 を発刊 し,そ の後毎 月 1回
を残 した ノル ウェー人 Kristian Birkeland教 授
広 報 を出 して ,昭 和45年 1月 に,和 田昭允教授 に
は,1917年 の初夏 に上野 の精養軒 附属 ホテルで 客
引 きつ いで い ただ きま した。理学部 弘報発刊 の契
死 して い ます。 岩波文庫 の「 寺 田寅彦随筆」第 5
機 は,い わゆ る大学紛争で した。 当時 の久保理学
巻 に収録 されてい る「 B教 授 の死 」 と題 す る随筆
部長か ら弘報 委員 (委 員長兼小使)就 任 を依 頼 さ
の主人公が Birkeland教 授 で,も しこの随筆が世
れ ま した とき,そ の 頃流行 して いた「 大衆 団交」
に 出て い なか った ら (寺 田先生 は この 随筆 を発表
や「交渉 」 を苦手 と してい る私で もお役 に立 てば
された半年 後 に逝去 ), Birkeland教 授 と日本 と
と思 って 引受 けま した。発刊 の辞 と して ,久 保学
の縁 につ いて今 日語 り継がれ ることはなか ったで
部 長が「 物事が平常 的 に行 なわれて い るときには
しょう。 私 の 学位 論文 は,第 2回 国際極年 (1932∼
多 くの人 々は 自分 の まわ りに しか あま り注意 を払
33年 )期 間 中 に世界数十地点で得 られた地 磁気変
わ な い し,そ れ以外 の ことを知 ること も知 らされ
動観測記録 を解析 して磁気 嵐現象 を研究 した もの
ること もわず らわ しい とさえ感 ず る。 しか し,昨
で,当 時英 国派 の勢 いに押 されて磁気嵐 現象 の平
,
年来 のよ うな異常 な状態 にな ると,知 らな い こと
均 的特性 を論 じることが主 流 にな って いた と ころ
知 らされない ことか らくる不安 は,次 々に困難 を
に,40年 もの 間埋 もれて いた Birkelandの 業績 を
拡大 す る要素 とな る。 この 弘報 は,理 学部 の 中 に
掘 りお こ し,個 々の典型 的磁気 嵐 の様相 は平均像
風 を通す一 つ の助 け と して始 め る もので あ る。 い
とはあま りにか けはなれて い ることを 強調 しま し
ま の ところ,は なはだ無味乾燥 な記 事 的 な もの に
た。其 の後磁気 嵐現象 の理 論 的解釈 に お いて,s.
す ぎな いが , しか しそれで も……」 と書かれて い
Chapman教 授 を総 帥 とす る英米 派 に,ス ェーデ ン
ます。迅速 な刊行 が必 要で した ので ,無 理 を聞 い
人 H.A lfv6n教 授 (電 磁 流 体力学 の 開祖 ,1970年
て くれ る印刷社 に頼 んで,予 め打 合せてお いた 日
ノーベ ル賞受賞 )率 い るJヒ 欧派が激 しく対立 し
に活字 組 み の人手 を理 学部弘報 のために総動員 し
1967年 9月 ノル ウ ェーで Birkeland生 誕 100年 記
て もらい,朝 渡 した原稿 の活字組 み校正届1を その
念 シンポ ジウ ムが 開催 された頃 に は,両 派 の対立
日の 夕方 に届 けて もらい,私 が そ の 晩校正 をす ま
はその極 に達 して い ま した。 その シンポ ジウムの
せ ,帰 途 印刷社 の郵便受箱 に投 げ こむ と,翌 朝始
直後 に,ふ と した き っか けで「 地上で観測 され る
業 とと もに訂正 を施 して印刷 にかか って くれ る段
磁場変動 を もとに地球周辺空 間 におけ る電流分布
取 りにな って い ま した。理学部広報発足 当時 に 多
を我 田引水 的 に議 論す る ことは全 く無意 味であ る。
くの記事 (退 官教授訪 間記をふ くめて )を 急 いで
勝負 は人工 衛星 に よ る観測結果 が 出た とき に 自ず
書 いて いた私で はあ りますが ,自 分 の こ とを書 く
ときまる筈 で あ る」 とい う こ とに気付 いて両派 の
とな ります と,急 に筆 がすす まな くな りま した。
仲裁役 を演 じえた ことは,私 に とって一 生 忘れ ら
,
,
れ ない思 い 出です。 その後人 工 衛星観測 に よ り
,
-4-
(Birkeland教 授が半世紀以上 も前 に その存在
任者 に任命 されて しま い ま した。 かね て こ うな っ
て しま うので はな いか と覚悟 は して い ま した ので
を予言 して い ま したので,今 で は Birkeland電 流
ど うせ逃 れ られ な い ものな らば,何 か 自分 で も楽
とよばれて い ます )の 実在 が証明 され ま した。米
しめ るよ うな ことを企 画 しよ うと考 え ま した。 そ
国 NASAが 約 5年 前 に打止 げた地球 磁場精密観
の結果実現 した ことの 一つ は,国 際地球観 測百年
測用衛星 MAGSATに
よ って 得 られ た資料 を用
記念 メダルをつ くって ,50年 前 の第 2回 極年観測
いて,私 た ちは Birkeland電 流 に対す る研究成果
に尽 力 された 3人 の長老 には金 メ ダル ,25年 前の
を多 く出 しま した。 このよ うに私 自身 の研究 は
国際地球観測事業 の指導者達 には銀 メダル を贈呈
Birkelandに 多 く影響 されて い ます。彼 の先 駆 的
した こ とです。 そ して この記念 メダル を外国 の観
業績 が 今再 び認 め られ るよ うにな って ,彼 もあ の
測所 に も寄贈 した ところ大変喜 ばれ ま した。 た と
世 で さぞ喜んで い る こ とで しょう。 東京大学で過
えば 1983年 9∼ 10月 に筆者が ノル ウェーに招 かれ
した40年 の生活 の うち後半 の 20年 間は私 の室か ら
て い ま した時 に,Tromsё 大学 の極光 観測所で メ
窓越 しに Birkeland教 授が志半 ば に して没 した地
ダル寄贈希望 を申出た ところ,大 学 の事務局長 を
を眺め続 けて い ま した。
招 いて大学 と して正式 な受 章式 を開 き,そ の晩 に
地球周辺空 間中で磁力線 に沿 って 流れ て ぃる電流
,
3.国 際地球 観 測百年記 念 メダル
,
は事 務局長 が招待 の宴 を開 いて くれ ま した。 翌朝
地球物理学 に おけ る大 規模 な 国際共 同観測 は
の新 聞 の第 一面 には写真入 りで献 呈 の辞 が トップ
,
1882年 8月 か ら翌年 8月 にか けて行 なわれ た第
1
記 事 と して大 き く出ま した。 その とき Birkeland
回国際極年観測 で,そ の50年 後 1932∼ 33年 には第
教授 が築 い た Haldde観 測所 を修 復 して記念 館 に
2回 国際極年観測が実施 されま した。戦後 1957∼
す る計画 を聞 きま した ので,そ こに も金 メダル を
58年 には観測 対象地域 を極地 に 限 ることな く地球
寄贈 しま した。 また 1984年 春 に 中国 に招待 された
全地域 に拡 げ,国 際地球観測 年 の名称 を用 い る こ
ときに は,中 国地磁和高空物理学委員 会 委員長劉
とにな りま した。 わが国 にお け る南極地域観測事
慶令教授 に国内 の各地磁気観測 所 に届 けて下 さい
業 お よび宇 宙空間観測事業 は この国際地球観測年
と銀 メダル を数個 ま とめて置 いて きま した。 つ い
が契機 とな って い ます。 この よ うな歴 史が あ る国
最 近 同教授 か ら届 いた写真 を見 ます と,訪 問 した
際地球観測が始 ま ってか ら 1世 紀 にな るの を機会
蘭州 と烏魯木斉 の地磁気観測所で メダル贈呈式 を
(ICSU)で
は,傘 下各国際
行 わせ ,記 念講演 を して い ます。 蘭州 での式 典 で
団体 および加盟各 国 に対 し,「 先人 の努 力 によ る
は,式 場高 く張 られ た赤 い幕 に大 き く “国際地球
成果 を顧 み,ま た将来 の研究 へ の展望 を得 る」 に
率
観測百年′
己念 "向 蘭州地磁台贈銀質紀念章 儀式 と
役立 つ 諸記念事業 を 1982∼ 83年 に適宜 実施す るよ
書 かれて い ま した。私が 寄贈 した メダル は各地で
に,国 際学術連 合
ICSUの
対応 窓 口 と
国際地球観測 の意義 と重要性 を宣伝 す るため に使
な って い る 日本学術会議 にお いて ,国 際地球 観測
われ て い るよ うで ,メ ダル作成 のため に苦労 した
百年記念事業 を計画立案す る委員会 をつ くる こと
甲斐が あ った と自分で大 いに楽 しんで い る次第で
にな り,私 の海外 出張 中 に開かれ た会 議で私が責
す。
う勧告 しま した。 日本で は
-5-
福 島先 生 の御退官 によせて
小
日
高 (地 球物理研究施設)
福 島先生 とおつ き合 いを頂 くよ うにな ったの は
以後 の ことにな る。結果 は,極 域 を中心 に起 る磁
私が学部 三 年生 の 頃 の ことだか らもう30年 以上 に
場変動 に関す る限 り,ノ ル ウ ェー学派が主張 して
な る。 当時 ,第 2回 国際極年観測 の地球 磁場変動
きたよ うに,地 球磁気 圏か ら電離層 に流れ込み
の記録 を精 力的 に解析 され,博 士 論文 をま とめて
流れ出 して行 く電流が主役 を演 じて い る ことが 明
お られ た部屋 の灯 りは,私 の知 る限 り消えて い る
らか に され た。
ことは殆ん どな く,一 体 ,い つ 眠 られ るのか不思
議 に思 った こ とで あ った。
,
この 頃か ら福 島先生 は,イ ギ リス学派 の電流系
とノル ウェー学派 の電流系が地上 には 同 じ磁場変
この研究 は,当 時 ,地 磁気変 動 の研究で世界 の
動 を斉す こ と,電 離層 よ り上 に存在す る電流 の 作
主 流 と目されて いたイギ リス学派 の立場 と根本 的
る磁場 は 直接 に は地上で観測で きな い ことな どを
に異 な り,地 球上で観測 され る磁場変 動 はイギ リ
直観的 に説 明 され ,両 派 の論争 に終止符 を打 って
ス学 派 の主張す る平 均的な乱 れの場 と著 しく違 う
行 かれ た。 これ ら一連 の研究が ,今 世紀初頭 に発
,極 光帯 を中心 と した限 られた地域 に その起源が
表 され たまま半世紀以上 も埋 もれて いた ノル ウ ェ
あ ることを明 らか に した もので ,そ の 頃 まだ少数
ーの ビル ケ ラ ン ドの業績 の再評価 に貢献 した とい
派 で あ った ノル ウェー学派 の立場 に近 い もので あ
う点 を含 めて ,昨 年 , ノル ウェーの科学 アカデ ミ
った。 これか ら数年 の後 ,昭 和 36年 に京都 で 開か
ー会員 に推挙 されたの も,ま こ とに尤 もな ことで
れた国際会議 の席 で福 島先生 が 論文 を発表 され る
あ る。
とイギ リス学 派 とノル ウェー学 派 の リー ダ ーが立
研究以外 で も先生 の御活 躍 は,国 内は もとよ り
上 って ,演 壇 の福 島先生 をそ っちの けで大論争 を
国際学会 や委員会 な ど多方面 にわた って い る。 殊
始 めた ことが 思 い 出 され る。
に この数年 間 ,
IAGAの
Secretary― General
地球止で測定 され る磁場変動 は地球周辺 を流れ
と して 手際 よ く国際学 会 をま とめて来 られた。 気
る電流 の変動 によ る もので あ るが , もち ろん ,地
くば りのすす めで はないが ,先 生 は細か い所 に ま
上 での観測だ けでは,ど こを流れて い る電流か を
ことによ く気 くば りの届 く方で ,論 文 の校正 な ど
知 ることはで きな い。論争 の主 な点 は,電 流が主
われわれず ぼ らな仲 間 は折 におゝ
れて感心 させ られ
と して電離層 内で 2次 元 的 に 閉 じるのか ,そ れ と
た り叱 られ た り して来 たが ,Secretary― General
も更 に遠 く,地 球 磁気圏か ら電離層 に流れ込 み
の仕事 を されて い る間 に ます ます磨 きがかか って
,
,
流れ 出 して行 くのか とい う所 にあ った。 後者 は
きたよ うに思われ る。英語国民 と英語 でや り合 う
今世紀初頭 にノル ウェーの物理学者 ビル ケ ラ ン ド
こつ は「相手 が英 語 しか話せ な い気 の毒 な人だ と
が北 極地方 での観測 に基 づ いて 提案 した モ デル
思 え」 との こ とで ,投 稿 論文 の レフ エ リー コメ ン
,
,
前者 が イギ リスの チ ャ ップマ ンを総 帥 とす るイギ
リス学 派 のモ デルで あ った。
トな どにいつ も腹 を立 てて い るわれわれ にはなか
なか 到達 で きな い心 境 に達 して お られ るよ うで あ
この大論争 に最終 的 な結論 が得 られ たのは人工
衛星 を使 って地球周辺で の磁場分布 を測定 し,電
流 の 直接的 な効果が測 られ るよ うにな っだ 1967年
-6-
る。
今後 の一 層 の御活躍 をお祈 り しつつ 筆 をおかせ
て頂 く。
回
想
40
年
高
退官の年 を迎 え, この40年 を振 り返 って み ると
,
長 い様 な短 い様 な気 がす る。終戦後 1年 過 った 昭
倉
達
雄
(天 文 )
先ず デ シメー トル波帯 の太陽電波 の動 スペ ク トル
装置 の 開発製作 を手掛 け る こととな った。
昭和 32年 の夏 よ リー 年 間,米 国 ミシガ ン大学 に
和 21年 9月 に大 阪帝 国大学 の物理学科 を卒業 し
,
23年 頃は,同 大学 の大学院特別研 究生 と して,一
留学 ,ハ ドック先生 の厚意 によ り,当 地 に完成 し
人分 の奨学金 を杉本健三君 (前 ,原 子核研所長 )
たての動 スペ ク トル装置で観測 された生 デ ー タを
と分 け合 い,私 は林龍雄 先生 (故 人 )の 研究室で
意 の まま に使 わせて頂 い た。帰国後暫 くた って
マ イ ク ロ波電子管 の研究 ら しき ものを して いた。
畑 中先生 を中心 に,我 等今後何 をなす べ きや と
一 方 ,現 在宇 宙科学研究所長 を してお られ る小 田
将来 計画 をね り始 めた。 そろそ ろ 日本 で も宇宙電
稔 さんは,渡 瀬譲先生 (故 人 )の 下 で宇 宙線 の研
波 に手 を出す時期で はなか ろ うか と も思われたが
究 を始 めてお られた。或 日,小 田 さんが室 に来 ら
先 ず太陽電波 の観測装 置 の充実 を先行 させ る こと
れ,渡 瀬先生 が ,「 最近電波天 文学 とい うものが
とな り,数 名 の部員が手 分 け して,電 波観測所 の
あ る らしく,面 白そ うだか ら手 を出 してみな いか」
適地探 じと,装 置 の立 案 ,設 計 を始 めた。 用地 の
と言 って お られ るので,一 緒 にや って みませんか
交渉が はか ど らず ,昭 和38年 にや っと概算要求 を
,
,
,
,
と勧誘 され た。 これが ,そ れ まで特 に天文学 に興
出す運 び とな ったが ,不 幸 に して , この年 の 11月
味 を持 った ことの無か った私 が ,現 在 まで太陽電
畑 中先生 が急逝 され,そ の後 の重 責 を私が背負 う
波 関係 の研 究 を続 け るき っか け とな った。
羽 目とな った。 全体計画 を縮少 し,や って 昭和42
,
旧海軍潜水艦 に搭載 されて いた レー ダーの受信
年度 の予算 と して,野 辺 山太陽電波観 測所 の建設
器 (周 波数 3,300 MHZ)を 改造 し,金 工 室で造 っ
が認 め られた。干 渉計 のア ンテナが広範囲 に分布
て もらった ホ ー ンア ンテナを阪大 の屋上 に あ った
して い る為 (全 長 2.4× 1.2 km)用 地交渉 に手 間
探照灯 の架 台 に取付 け,手 動 で太陽 に向け たが
取 り,何 十 回 とな く,村 役場 ,農 協 ,地 主 ,信 州
,
そ う簡単 に太陽電波 は受か らなか った。受信器 の
大学 ,東 京教育大 ,県 庁等 々飛 び回 らされ,予 算
改良 を重 ね,昭 和 24年 頃始 めて太 陽電波が検 出 さ
折衝 も難航 し,な さけな い思 い 出だ けが残 って い
れた時 の感激 は今 も忘れ られな い。
る。
昭和 25年 ,大 阪市立大学 理工学 部 に研究室 ご と
この 間,研 究 と して は太陽面爆発 に伴 って発生
移 られた渡瀬先生 の 助手 に採用 され,太 陽電波 の
す る10Kё v∼ l Mevの 電子が, 黒点 磁場 の 中で
観測 を市大 の屋上 で続 け る一方 ,ア ー ク放電や
放 射す る磁 場制動放 射 の計算 を し,マ イク ロ波 バ
,
爆薬 の爆発 した時 に生ず る電波雑音 のス ペ ク トル
ース トを定性 的,定 量 的 に説 明す ることを手掛 け
等 を漫1定 して ,電 波発生機構 を調 べ て いた。
て いた。 一 方此等 の電子が ,粒 子衝突で放 射す る
硬 X線 バ ース トが,昭 和 33年 頃,始 めて米 国 の気
そ の 頃東京天 文台で は,萩 原雄 祐台長 (故 人 )
球 観測で見付 か り,そ の後 OSO衛 星 によ り昭和
によ り,天 体電波部が新設 され,畑 中武夫部 長
(故 人 )の 下で主 と して メ ー トル波帯 の太陽電波
37年 よ り本格 的 な観 測が始 ま った。電波 で得 られ
X線 で観測 され る情報 を総合すれ ば
の観測が始 め られて いた。畑 中先 生 の勧 めで,昭
る情報 と,硬
和 29年 10月 よ り,東 京天 文台 に転職す る事 とな り
高 エ ネ ル ギ ー粒子 の振舞 が よ り正確 に わか り,ひ
,
-7-
,
いて は太陽 面爆発現象の解 明 に役立 つ のではない
機 に病み 付 き とな った。
か とい う目論見の下で研究 を進め る ことと し,現
昭和 56年 2月 宇宙研 に よ って 打上 げ られた太陽
在 もまだ この路線 の延長上 にい る こととな った。
X線 観測用 の ひの と り衛星 に は,宇 宙研 の小 田研
昭和46年 10月 よ り,理 学部 に移 る こ ととな った
と協同で造 った硬 X線 望 遠鏡が搭載 されて い る。
が ,天 文台 の住 み心地が良 か ったので,実 はあま
幸 い太陽活動 も活澄で ,多 くの デ ー タが記 録 され
り気乗で はなか った。理学部 3号 館 はj隣 りに計
た。 現在 は, これ の解析 におわれてい るが ,人 手
算 セ ンタ ーが有 り,又 計算機 の機能が どん どん良
不足で,ま だ手付か ず の デ ー タが 沢 山残 って い る。
く成 って来 た事 もあ り,昭 和 50年 頃か ら,数 値 シ
退 官後 も当 分 この仕事 を続 け る積 りで あ る。研 究
ミュ レー シ ョンを始 めた。 50の 手 習 で あ る。 太陽
意欲 ,ス タ ミナ と も,現 役 の諸君 に まだ まだ負 け
か ら飛出す電子流 と コロナプ ラズマ の相互作 用 と
な いぞ と自分で は思 って い るが ,は た して ど うな
これ に伴 う電波放射 の計算 で ,そ の後数年 間計算
りますか。
,
高 倉 達 雄 先 生
吉
村
宏
和 (天 文 )
第 二 次大戦後 ,世 界 中で急激な発展 をみせて い
を歩んだ の と奇 しくも同 じ道 を歩 まれて, 日本 の
る電 波天文学 は,戦 時下 の レー ダ ー研 究 者 たちが
電波天文学 を創設 された ので あ る。戦後 の情報交
,
戦 後 , レー ダ ーの部品,ケ ー ブル をあつ めて ,宇
換 の少 なか った 時期 に,世 界 中で若 い研究者 たち
宙 に電波 の 目をむ け,研 究す るよ うにな ってか ら
が ,ほ とん ど独立 に 同 じよ うな ことを考 え,夢 を
始 ま った ときいて い る。宇 宙電波 は 1932年 に ジ ャ
見て,新 しい学 問を切 り開 いてい った こ とを知 る
ンス キ ーに よ って ,ま た太陽電 波 は 1942年 に ヘ イ
と不思議 な気持 にな る もので あ る。 しか し,そ れ
とサ ラス ワ ース によ り, レー ダーの ア ンテナを使
ぞれ の研究者 は,そ れぞれ の方 法 と考 えを も って
って発見 されて い る。 しか し,本 格 的 な電波天 文
い る。 あ る人 々 は対象 を銀河か らの電波 をは じめ
学 の 開始 には, レー ダーの 開発 ,発 展 に よ って可
とす る宇宙電波 に もとめ,あ る人々は この電波 が
能 とな った指 向性 の 高 いア ンテナ,受 信機等 が必
惑星 間空 間を伝 わ る様 子を研 究 して,惑 星間物 理
要 だ ったので あ る。 イギ リス,オ ース トラ リアを
を研究す るよ うに な るとい う状 況であ った。高倉
は じめ とす る世界 中で の初期 の はなばな しい電波
先生 は,一 貫 して ,研 究対象 を太陽 に もとめ られ
天 文学 の成果 は, このよ うな研究者 によ って得 ら
日本 の太陽電波天文学 の先駆者 とな られたので あ
れ た もので あ る。理学 部広報 の編集 部か ら,高 倉
る。 このよ うな時 期 ,先 生 は大 阪府立大学 ,東 京
先生 を送 る言葉 を書 くよ うに依頼 され ,先 生 の昔
天 文台 に奉職 されて い る。 太陽 はプ ラズマのか た
の お話 しを うかが って,は か らず も日本 の電 波天
ま りで あ るか ら,先 生 の 御研究 はプ ラズ マ物理学
文学 もまた, レー ダ ーの研究か ら始 ま った こ とを
を含む よ うにな り,マ イク ロ波 バ ース トの発生機
知 った次第で あ る。 高倉先生 は大 阪帝 国大学 の物
構 と して の プ ラズマ 中 の磁力線 の まわ りを回 る電
理学科 に入学 されて ま もな く, レー ダ ーの研究 に
子 に よ る電波放 射線機構 で あ る ジ ャイ ロ シンク ロ
参加 され,す ぐに終戦 をむかえ られ た。先生 は
,
トロ ン放射 の御研究 は,相 対 論的 エネル ギ ーを も
,
世界 の 多 くの レー ダ ー研究者 が電 波天 文学 へ の道
-8-
つ 電子 によ る シュ ヴ ィ ンガーの シンク ロ トロン放
射 の研究 の一 般化 と して ,世 界 の 中で も高 い評価
太 陽面爆発 で あ るフ レアがお こ り,世 界 で 初 めて
を うけて い る もので あ る。
フ レアの硬 X線 撮像 に成功 され ,「 ひの と り」で
そ の後 ,現 在 の 日本 の電波天 文学 の大 きな基地
は, これ もまた,世 界 で初めて ,フ レアの硬 X線
にな ってい る野辺 山 の地 を選択 し,開 発す る作業
源 の 3次 元構造 を推定す る こ とに成功 されたので
に 参加 され ,野 辺 山太陽電波観測所 を設立 された
あ る。
あ と,先 生 は東京大学理学部 へ 移 られた。 その間
,
先生 の御研究 は この よ うに,一 人 の研 究者 の研
,
先生 の 目は,電 波放 射機構 と密接 な関係 を もつ 太
究か ら,チ ーム ヮー クを必 要 とす る研究 へ と変 わ
陽 X線 の研究 にむ け られ るよ うにな った。人工飛
って い き,履 歴書 を拝見す ると,様 々な委員会 に
翔体 による宇 宙空間か らの観測 と,そ の結果 の理
名 を連 ねて い られ ることがわか る。 しか し,私 に
論的解釈 をは じめ られたので あ る。 これ には,初
は,先 生 の御本領 は,一 人 の研究者が , 自か らの
期 の太陽電波研究か らの先輩 で あ られ る小 田稔先
夢 を見 ,そ れを実現す るため に, こつ こつ と努 力
生 (現 宇宙科学研究所所長 )と の友情 が大 きな役
をつ み か さねて い く過程 に あ ると思われ る。 毎 日
割 をはた し,創 造的 な共 同事業 へ と結 びつ いて い
毎 日,規 則 正 しい生活 をお くられ ,天 文学教室 の
った もの とうかが って い る。小 田先生 は,御 研究
小 さな端末室で , こつ こつ と,宇 宙科学研究所 の
の対 象 を,そ の後 ,太 陽以外 の天体 に もとめ られ
計算機 を,ま た東京大学 の大型計算機 セ ンターの
たが ,高 倉 先生 は, X線 の研究 で も,対 象 を太 陽
計算機 を操作 され る先生 の御姿 をみ るにつ け,私
に もとめ られ ,小 田先生 の考案 されたす だれ コ リ
には,研 究者 とはか くあ るべ きだ と教 え られ るこ
メータ ーを,ま ず気球 にのせ (1969年 )つ いで
とが多か った もので あ る。 先生 は,御 退官後 も
,
,
,
日本 では じめて の本格 的 な太陽観測 衛星 で あ る
フル タイ ム リサ ー チ ャー と して ,研 究 に没頭 され
「 ひの と り」 にのせ (1981年 ∼ 1982年 ), エ ネル
る ことを楽 しみ に して い られ る とうかが って い る。
ギ ーの高 い硬 X線 で 太陽 の像 を撮 るのに成 功 され
今 後 の先生 の御 多幸 と,御 研究 の発展 を祈 って
たので あ る。 1969年 の気球飛 翔時 には,幸 いに も
筆 をお く次第で あ る。
演
題
「 イ ン ド・ 西太平洋海域 の深海生物 とその群集 」
教授
講演者
東京大学海洋研究所
日 時
昭和 60年 3月 16日 (土 )
場
所
堀
越
増
興
午後 2時 ∼ 4時
総合研究資料館講 義室
総合研究資料館より,理 学部 に関係 の深 い催 しとして,上 の
講演会 の開催通知を広報に掲載するよう依頼 されま した。
-9-
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東京大学 総合研究資料館主催第31回 講演会
,
― 乾 燥 地 域 と 共 に一
小
堀
巌 (地 理)
私 は,旧 制 高校 を卒業す る時,寮 の友人達 との
提 出 した助手 論文 の補充及 び発 展 を考 えだ しま し
交流や,故 矢 内原忠雄先生 の名訳 ,ク リス テ ィの
た。 ところが,か つ て学生 時代 ,旧 満州国行 の途
「奉天二 十年 」 (岩 波新書 の第一号 )な どの影 響
次知遇 を得 た故泉靖一先生 のすす めで ,比 較研究
が重 な りあ い,中 国 の研究 , とい うよ りは何 か技
の よい機会 だか らとい うこ とで,故 石 田英 一 郎 先
術 を身 に つ けて,中 国人 のために働 きた い と思 っ
生 を団長 とす るア ンデ ス学術調 査 団 に加 えて頂 き
て,大 学志 望の順位 をいろい ろ考 え ま した。 い ろ
考古学 を主 と したチ ームなが ら, 自由 にア ンデ ス
い ろな条件 を捨象 してゆ くと,結 局理 学部 の人類
諸 国 の乾燥地域 を歩 くことがで きま した。 その報
や地理が一 番授業時間が少 く,好 きな勉強がで き
告書 を書 き終 え るか終わ らな い か とい う間 に,今
そ うだ とい う ことで受験 した のが,そ もそ も理学
度 は,か つ て入学 を辞退 した人類学教室 の鈴木 尚
部 2号 館 とのかかわ りの始 ま りで す。 両方 と も合
先 生 と,地 質学 の高井冬 二 先生 か らのお誘 いで
格 しま したが ,結 局地理 に入学 した の は1943年 の
西 ア ジアの古人類調査 に関係 す るよ うにな り,イ
秋 で,故 辻村太郎先生 と故 多田文男先生 の御指導
ス ラエル, シ リア, レバ ノ ンな どの旧石器遺跡 の
を受 けま した。 辻村先生 の講義で,フ ランスの故
発 掘,或 い は遺跡 リス ト作 りの仕事 をす る一方
オ ー フ レール教授 の砂丘地形 の話 を伺 った こ と
未見 の乾燥地域 (ア フ リカ大 陸 の乾燥地域―特 に
多 田先生 の満 蒙交界地方 の地理 の話 な ど,今 で も
サハ ラー )を 歩 く機会 も得 るこ とがで きま した。
不思議 と記憶 にの こ ります。中期 の とき,「 大東 亜
考 えて み ると,私 が,学 生時代 に志 し,イ ラク
集落 の地理学 的研究」 とい う研究費 を頂 き,旧 満
0イ ラン調査以後 ,フ ィール ドとして とりくんだ
州国 を 3ケ 月程歩 きま した。 ホ ロ ンバ イル の草原
乾燥地域 は,何 れ もこの よ うな大 先輩 に機会 を与
で砂丘 の 陰 に光 る細石器 を拾 い,黒 龍江河 畔 の 曖
えて頂 いたのでで きた よ うな もので した。
,
,
,
,
暉 で,満 州族 の集 落調査 な どを行 な ったのが,そ
この よ うなフ ィール ドでの研 究 の合 間 に,多 田
もそ も私 の現地調査 の最初で した。 しか し,そ の
文男先生 のお供 を して,1962年 に ク レタ島で の ユ
頃か ら敗戦 後 の 1955年 迄 は,江 上 波 夫先生 のイ ラ
ネ ス コ主催 「半乾燥地域 シンポ ジウム」 に 出席 し
ン・ イ ラク遺 跡調査団 の メ ンバ ーに加 えて頂 いて
従来 の仕事 のま とめを発表 す る機 会 を得 ま した。
西 ア ジアの地 をおゝむ まで (1956年 ), 全 く現地調
地理学 者 ばか りで な く,植 物学者 も交 って,地 中
査 の機会 もな く,故 飯塚浩二 先生 のおすす めで 職
海 の 島 々の巡検 を行 な ったので よい勉 強で した。
を東洋文 化研究所 に移 し,専 ら文献 によ る中国地
その折 , は じめて言葉 をかわ したフ ランスの地理
理学 史 の勉 強 を してお りま した。
学界 の長老 ジ ャ ン 0ド レ ッシュ先生 やパ リ第 四大
イ ラク・ イ ラ ンか ら遠 くエ ジプ トまで足をのば
′
す ことがで きた 56年 の調査 は,私 に乾燥地域 に
学教授 プ ラニ ヨール君 な ど とは,以 来 20年 近 い交
おけ る水 の問題 の重要 性 を強 く印象 づ けま した。
基石 にな りま した。 また, 日本人 に も知人 の 多 い
その結果 ,地 理調査 と文献 資料 を併用 させ なが ら
故 トロール教授 (ボ ン大学 )の 傑 出 した学 識 と人
自分 な りに,西 ア ジア独特 の地下水灌漑方 式 の研
柄 に感銘 を受 けた の も忘 れ られませ ん。
,
誼 を頂 き,私 個人ばか りで な く, 日仏学術交流 の
究 に しば って ゆ きた い と思 い,東 洋文化研究所 に
この よ うな基礎 的な個人研究や調査 の合間 に
,
10-
応 用問題 と して いわゆ る技術協 力 や援助 の仕事 に
た。 これ は国連大学で その前年 中国地理学界 の重
手 をかす機会 もでて きま した。 最初 の もの は,ク
要人物 を呼んで いたのが,よ い導 入 口で あ った こ
レタ島の会 議 の前後 にた ちよ った エ ジプ トで,西
とは否 めず ,一 期一会 の縁 を思 い ます。私 1人 の
部砂 漠開発 の現地調査 の機会 を与 え られ,そ れが
ために 2週 間程 , ウル ムチ, トル フ ァンまで中国
発展 して,結 局 “日本 の エ レク トロニ クスに よる
科学院 の友人 が 現地 を案 内 して くれま した。 ウル
西部砂漠 開発技術援助 の可能性 "と い うことで数
ムチの新彊大学 で中国か らアフ リカ大陸 にかけて
次 の調査団が派遣 されま した。 しか し,当 時 の 日
分布す るカ レーズ灌漑 (中 国語 で は玖井 )に つい
本政 府 の外交方針上 ,ナ セルの エ ジプ トは好 ま し
て講演 した ところ,子 供 を抱 いた女子 の事務 員ま
か らぎ る ものが あ った らしく, この話 は立 消え に
で ま じって 300人 はどの大 講堂 を うめ つ くして熱
な って しま い ま した。 もしもこの時少 しで も二 国
′73年 の石油 シ ョックは免 れ
間 の協力が あれば
心 に きいて くれて ,教 授 や学生 ばか りのいわゆ る
α
学会 "で はみ られ ぬ感 動 を うけま した。
,
幸 いに して,私 自身 , 1977,1978,1980-81と
た と思われ ます。
また,イ ン ドのハ イデ ラバ ー ドを中心 とす る国
三 回 にわた って, シ リア,ア ル ジェ リアを,フ ィ
際半乾燥熱帯作物研究所 の理 事 を 6年 ほどつ とめ
ール ドと して,オ ア シスの比較調査 を課題 と して
ま したが,こ れ は私 に と って,雨 量が 200∼ 800
海外学術調査 を行 う こ とがで きま した。両国 の友
ミリメ ー トル もあ る半乾燥地帯 を イ ン ドか らサ ヘ
人 ,研 究者 ばか りで な く,オ ア シスの村人達 の 暖
ル諸国迄 つづ けて考 え るよい機会 を与 えて くれ ま
か い受 入れが あ り,土 木 ,建 築 ,民 族学 な ど もお、
した。 しか し, この よ うな国際機 関 に対 す る 日本
つ
くむ学 際チ ームで したが ,貴 重 な モ ノグ ラフを
くることがで きた と思 って お ります。 又 ,こ の三
政府 の援助方 針や ,国 際機 関 の研究者 の採用規準
,
回 にわ た る調査 レポー トが機縁 にな り,イ ランや
中国 な どか らフ ィール ド調査 の誘 い も くるよ うに
な どについて ,い ろい ろ考 え させ られた こと も事
実 で す。
私 のテ ーマ と して きた地下水灌漑 は,イ ランな
な りま した。
どの西 ア ジアばか りで な く,中 央 ア ジアに もあ り
このよ うに,私 の理 学部で の二 十 一 年 は,海 外
ます。幸 い に して, ソ ビエ ト領 中央 ア ジアについ
で のフ ィール ド調査 とそれのま とめに終 って しま
て は,1976年 の国際地理学会議が モス クワで開催
った よ うな気 も します。 その間, この よ うな 自由
され,乾 燥地域 の分科会 はア シュハバ ー ドで ひ ら
な研究 を許可 して くれた理学部 ,特 に地理学教 室
かれ ま した ので , レニ ング ラー ド大学 の故 ペ トロ
の伝統 には深 く感謝 の意 を捧 げ ざるを得 ません。
フ教授や , トル コマ ン科学 アカデ ミー総裁 のババ
教育者 と して は,私 は欠点 も多 く,必 ず しも合格
エフ博士 な どの支援で ,カ ラ・ ク ム砂漠 のなかま
点 とは思 い ません。 それで も何人 か,私 が関心 を
で,フ ィール ドの足 をのばす こ とがで きま した。
も った地域 の研究者 がで き,何 れ も現在 国際的 に
また, この会議 の あ と,コ ーカサスの巡検で ,偶
活 躍 して くれ て い るの は教育者 の一 人 と して冥利
然 フ ライ ブル ク大 学 のマ ンスハ ル ト君 に あ い,丁
につ きます。
度 日本 の国連大学 の 天 然資源担 当副学 長 と して就
理学部 もあ と数 年 とい う頃 ,突 如 と して, 日本
任 す る直前 で したので ,す っか り意気投合 し,以
館 の仕事が ま い こみま した。 前述 のよ うな人脈 か
後彼 の在任 中,国 連大学 の仕事 を手伝 う機会が多
らいえ ば,私 はパ リにでかけ る ことは,た め らう
く,乾 燥地域 全体 について の視野 をひ ろげ ること
もの はなか ったので す が,激 務 で研 究 は停止 す る
がで きま した。
といわれて い るポ ス トだ け に,慎 重 に考 え ま した。
中国 とは, 日本学術振興会 の第 1回 学者交換 で
,
1981年 春 )は じめて 現地 を訪 れ ることが 出来 ま し
-11-
しか し, これ も人 間 に は,は か りしれ ない何 かの
指令 と考 え, 2年 2ケ 月 の任期 をつ とめま した。
幸 いに して 従来 の研究歴か らして,東 洋学者 や
朝 日 ジ ャー ナル や 大学 問題 の単行本 な どがでて き
,
地理学 ,民 族学 ,砂 漠研究者 な ど と,情 報交換 を
ま した。 理 学部 の幹事 と して,又 その後 ,広 報 の
す る ことによ り,何 とか一定 の学界 の水準 を保 つ
委員 と して ,二 号館 の みな らず い ろい ろな研究室
ことは出来 ま したが ,現 地調査 はいた しませ んで
を訪 問 した 日々が走 馬燈 の よ うに思 い 出 され ます。
した。 68∼ 69年 の大学 紛争や ,そ の後 ,加 藤総長
植物園で の 園遊会がや っと再 開 された 日の光 景 な
の下 で全学 の大学 院学生委員長 と して務 めた体験
ど もま るで昨 日の如 しです。
を いか し,全 力を, 日本館 の管理運営 と,学 術文
乾燥地域 は, 日本 に存在 しな いので,現 地調査
化交流 の基礎 づ くりに はげんだ つ もりで す。
が必要 であ る とい う こ とで,フ ィール ド中心 に仕
事を して い る間 に, 自分 な りの考 え方で乾燥地域
忙 中 に も楽 しい ことはあ りま した。 1929年 の 開
館以来 の貴重 な芳名帳 に,故 水 島三一 郎先生が
の概 論 を書 く仕事が延 び延 びにな り,今 日迄 にい
,
達筆でかかれた和歌 とその仏訳 を発見 し,理 学部
た りま した。 幸 いに して,私 が今 までや って きた
の大先輩 の傑 出 した教養 を偲ぶ こと もあ りま した
個 人研究 に して も,又 上述 の概 論 に して も,友 人
し,理 学部関係 で , 日仏交流 のす ぐれた仕事 と し
達が ,と ヽして待 って くれて ます ので,退 官後 は,与
てお られ る彊永 昌吉先生 を は じめ,何 人 かの先輩
友人が訪ねて下 さ ったの もよ い思 い 出です。 又
え られた時間を有 効 に利用 して,そ の刊行 の努 力
,
をか さね たい と思 って お ります。
,
創設 100年 目の国際地理学会議 (第 1回 もパ リ)
最後 に一 言。 私が乾燥地域 の研 究 に志 した40年
が , 日本館 の あ る大 学都市 で ひ らかれ , 日本 か ら
近 く前 か ら較べ ると, 日本 の学界 の乾燥地域 に対
の 150人 近 くの 参会者 に若千 のお世話 もで きたの
す る関心 は,か な り増 えて い るよ うに思ゎれます。
も,地 理学で退官 まで研究 して きた もの と して は
ところが それの研究 に対応す る しっか り した研 究
よい記念 にな りま した。
所 もな く又 自然史関係 の専門家 を育 て る場 は,次
日本館で ,若 い大学院 ク ラス の学 生諸君 に接 し
第 に減少 して い ます。 東大 と して は,勿 論全学 的
て い ると, 日本社会 の縮 図をみて い る気が します。
見地 か ら検討す べ き問題で しょうが ,身 近 な地理
しか し,兵 役 の義務 もな く,成 田→ ドゴール 空港
学 の みな らず ,理 学部 を構成 す る学 問分野 のなか
と飛 んで くる若者 に は,私 達 の二 十代 とは異 った
において も, これ に対応す る叡智が生 れて くる こ
将来が あ るので しょう。研究室 を整理 して い ると
′68-69の 紛争 時 に あ つ めた大 学 紛 争 時代 の
代
,
-12-
とを切 に希 望 して筆 を置 きた い と思 い ます。
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阪
ゲ ラ シモ フ とマル コフの共著 で 1939年 にモス ク
□
豊 (地 理)
誉教授 を団長 とす る西 ア ジア洪 積世人類 遺跡 調査
,
ワか ら出版 された「第 四紀地 質学」 につ いて は
そ して 自 ら団長 とな って行 った 1977,1978,1980
日本 で はほとん ど知 られて いないが,本 書 こそ第
年 の 旧大 陸フ ォ ッガ ラオ ア シス比較調査 な どほと
四紀 学 にお け る最初 の教科書で あ った。 この本 を
ん ど毎年海外調査 を重 ね られ,そ の足跡 は 中国
私 が手 に入れ るき っか けを作 って 下 さ ったのは小
ソ連 中央 ア ジア,西 ア ジア,ア フ リカ,南 北 アメ
堀先生で あ った。私が大学 院 に入 って 間 もな くの
リカ大 陸 に及んで い る。 先生 の 中心課題 は砂漠 の
頃だ った と思 う。 あ る 日先生 に さそわれて代 々木
生 活 の基礎 とな る水 の 問題 , と くにフ ォ ッガ ラ
,
あた りの飲 み屋で ,先 生 と親 しい古書店 の主人 に
(カ
,
ナ ー ト)と い う地下水道 によ る乾燥地域 に発
紹介 され,そ の時 の 話 しのい きさつ で後 日,大 陸
達 した灌漑組織 の比較研究 で あ る。先生 の豊富 な
の見知 らぬ人 々の手 を経てす っか り黄 ばんで しま
経験 と地理学者 と しての綜 合的 な見 方 が評価 され
った本書 を手 に入れ ることがで きた。 その 時先生
各 国か ら呼ばれ技術援助の あ り方 を献策 され る こ
の関心 とつ き合 いの広 さに感心 した もので ある。
と も多 い。
1956年 ,私 はな くな られ た 多田文男先生 と小堀
,
先生 の推挙 で ,江 上波夫先生 を団長 とす る東京大
先生 はす ぐれた外交手 腕 の持 ち主で あ る。人 を
く
して 彼 は道 を誤 った。外 交官 にな るべ きだ った "
学 イ ラクイ ラ ン遺跡調査 団 の一 員 に加 えて頂 いた。
といわせ るほどの交渉の うま さは,緊 迫 した国際
小堀先生 とは分担 した仕事 の ちが いで行 を共 に し
関係 に あ る調査地 域で の海外調査 を成功 させ る大
たのはイ ラ ンの数 日間だ けで あ ったが , 日本で の
きな原 動力 にな った。私 は先生 と行 を共 に した調
準備段 階か ら一 年近 い期間,先 生 か らさまざまな
査団 員か ら,先 生 の適切 な判 断 に よ って危機 を避
形 で探検 学 の何 た るか を教 えて頂 いた。
け る ことがで きた とい う話 を い くつ も聞か されて
先生 は砂漠 につ かれた男で あ る。先生 はまだ学
い る。
部 の学生 だ った 1944年 ,か つ て の満洲 に 出張 ,ホ
先生 は外 国 の研究者 との交際 も広 く,外 国 の研
ロンバ イル の草原 を調査 し,そ の 時 のフ ィール ド
究者・ 大学 。研 究機 関 につ いての 驚 くほど豊 富 な
ノー トの一 部 は後 に「満洲 族薩満 の祭杷 を見て 」
情 報 を もって お られ,先 生 の御努 力で多 くの著 名
な どの最初 の学 術論 文 とな った。 この 時,先 生 の
な地 理学者が地理 学教室 を訪 問 され,私 たち に良
畢生 の 仕事 とな った乾燥地域 の研究 の第 一 歩 が 踏
い刺 激 を与 えて くれ た。 1975年 以来 日仏地理学会
み出 されたので あ る。 しか し,中 国 の東北地 区 に
の会 長 と して フ ラ ンス との学術 交 流 を深 め られ
あ るの は半乾燥地域 で あ って 本 当 の乾燥地域で は
その功績 に対 し1977年 フ ランス政府 よ リ レジ ョン
ない。 1949年 東洋文化研 究所助手 ,1954年 地理学
・ ドヌ ール 0シ ュヴ ァリエ勲章 を授与 された。
,
教室講 師 にな られ,間 もな く行 われ た イ ラ ンイ ラ
先生 はまた本 の 虫で もある。 冒頭 の話 もまたそ
ク遺跡 調査 は先生 に とって初 めての本 当 の砂漠 を
の 現われで あ るが ,先 生 に西 ア ジア と北 アフ リカ
見 るチ ャ ンス で あ った。以後 1958年 故泉靖一 東 文
の地下水灌漑組織 の比較研究 を決意 させ たのは
研 教授 を団長 とす るア ンデ ス学術調査 ,1961,
1957年 ,イ ラクイ ラ ン調査 の帰途 カイ ロの書 店で
1964,1967/68,1970年 の人類学教 室 の鈴木尚名
,
見 た一冊 のフ ランス語 の地理書 カポ ー・ レイの
13-―
O
「 仏領 サハ ラ」 に記述 されて い るサハ ラのフ ォ ッ
さか堅 くな り,プ ロフ ィル な らぬ正面像 にな って
ガ ラの説明で あ った とい う。 旅行先 で書店 をたず
しま った。先 生 は新 年度か ら二重 大学 に移 られ
ね ,書 物 を集 め ることを無二 の楽 しみ に して お ら
そ この新設学科 の育成 0充 実 に御多忙 な毎 日を過
れ る先生 のおか げで地理学教室の アフ リカ・ 西 ア
され る こ とにな ろ うと思 われ るが , これ まで集 め
ジア関係 の 図書 は他 の分野 に くらべ 格 段 に充実 し
られ たぼ う大 な研究 デ ー タを一 日も早 くま とめ ら
た もの にな って い る。
れ,御 研 究 の真価 を世 に問 うて頂 きた い と心か ら
先生 の お人柄 を気楽 な気持で書 くつ もりが い さ
宮
正
,
願 ってい る。
雄
さ
ん
平
川
浩
正 (物 理 )
私 が物理 学教 室 の金 工 室 に 出入す るよ うにな っ
まを して負荷 をか けす ぎ ると, この ベ ル トが はず
たのは,学 部 の 3年 (旧 制 )の 特別実験 を始 めた
れて旋盤が止 って しま うので あ る。 当時 の学生 は
頃で あ る。金工室 は規律厳正で ,工 作 の手順 を教
勤 労 動員で 中学・ 高校 の時代 に働 い た経験が あ る。
えて も らうに も,お そ るおそ るお うかが い を立て
私 も 1年 余 り日立製作所 の工 場 で零式戦 闘機 の主
た もので あ るが,宮 川 さん はいつ も親切 に相談 に
脚 を作 った。 当時 と して は最新 の ス イ ッチひ とつ
の り,大 きな声 で返事 を して こころよ く工 具 の貸
で 自由 に動 く旋 盤 の並んだ工場 に くらべ ,大 学 の
出 しに応 じて くれ た。宮川 さんは昭和 14年 の春 に
金工室 は いか に も見劣 りが した。 その ころは工 作
日給 1円 の「 職 工 」 と して物理教室 に入 った。採
を外部 に注文す ることは少 く,実 験 に必要 な もの
用 の ときの 面接 は工 場掛 の小穴純先生 が され た由
はなんで も教室 の金工 室で作 るのが建前 で ,金 工
で あ る。 その ころの金工室 は,現 在 とほぼ同 じく
室 はいつ も混 み合 って お り,営 繕関係 の 窓 の金 具
理学部 1号 館 の 14∼ 28号 室 の 廊下 をは さむ一画 を
の 修理や ドアの Yale錠 の暗証 の差換 まで ,工 場
占め, 7名 の人員 を擁 して いた。戦争が始 ま り
の レパ ー トリーの うちで あ った。 その後 ,野 上燿
教室 の一 部 は長野県諏訪 に疎開 したが ,宮 川 さん
三・ 三須 明・ 鈴木秀次 の諸先生 を経て現在 の 山本
,
,
は金工室の一 員 と して本郷 の職場 を守 り続 け,そ
祐靖先生 に工 場掛 が 引継がれ る うち に,金 工室の
の 間 に宮永 町 の 自宅 を空襲で失 って しま った。終
近代化が進んで,年 輪 をか さね た機械 はす べ て 置
戦 にな って ,疎 開先か らの 引上 げ と戦地 か らの復
換 え られ ,控 室 には風 呂桶 の かわ りに テ レビが お
員 で 教 室 は もとの活気 を取戻 したが,住 む所が な
かれ るよ うにな った。
くて研究室 に寝泊 りす る人 もあ り,
1号 館 はお、く
物理教 室 に金 工室が あ る ことの意義 は大 き い。
れ上 って はちきれんばか りにな った。 私 は 昭和 23
作 りた い ものが あ って も,図 面 だ けで は表 現す る
年 に入学 したが,始 めて見 る金 工室 の光景 はあま
ことがで きず外注 に頼 る こ とので きな い要点 とい
リパ ッと しなか った。 カ ウ ンタ ー方式 とい って
う ものが あ る。新 しい実験 のための装置 を手 探 り
,
へ や ご とに大 きな モ ーターが 1台 ず つ 天丼 に取付
で試作 して行 くとき,設 計 と工作が密 接 に協力 で
けて あ り,そ の動力 を長 い シ ャフ トで伝 えて行 っ
きるのは換 えが たい利点 であ る。宮川 さんの定 年
て ,革 の ベ ル トを介 してそれ ぞれの工作 機械 を ま
まで の46年 になんなん とす る仕事 は,学 問 に対す
わす仕掛 け にな って い る。悲 しい ことに:一 寸 ヘ
る この よ うな貴重 な助力 に捧 げ られて い るが ,こ
14-
の伝統はこれか らも生かされるであろう。 いば ら
こされて い る。第二 の人生 の門 出を祝 う こと切 な
ず,か ざらな い宮川 さんの人柄 は,皆 の印象 にの
る ものが あ る。
《学 部 消 息 》
教
1月 16日 の
授
△
2月 20日 (水 )定 例 教 授 会
定例教授会
理 学部化学教室本館 5階 講 堂
議
題
理 学部 4号 館 i320号 室
(1)前 回 議事録承 認
議
(2)人 事異 動等報告
(31 寄附 の受 入れ につ いて
題
(J 前回議事録承認
侶)人 事異動等報告
B)理 学部規則 の一 部改 正 につ いて
に)人 事委員会報告
14)学 士 入学 にっ いて
b)会 計委員会報告
G)教 務 委員会 報告
け)学 部長候補者 の選 出 につ いて
旧)企 画委 員会報告
5)転 学部 につ いて
鯰)転 学科 につ いて
仔)寄 附 の受 入れ につ いて
は)人 事委員会 報告
0)会 計 委員会 報告
(9)そ の他
001 評議 員 の改選 につ いて
01 企画委員会 報告
02 分 光化学 セ ンタ ー長 の選 出 につ いて
09
人事委員及 び会 計委員 の半数 改選 に
つ いて
lJ 遺伝 子実験施設長の選 出につ いて
D その他
〔
(次 回予定
:3月
毎 月 1日 は
「省 エ ネ ル ギ ー」
の 日 で す。
-15-
20日 囲 13時 30分 より)
海
外
(1
所属
物
理
名
氏
官職
助教授 釜 江
物
助
手
物
理
教
授
情
報
教
授
素粒子
助
手
月)
渡航先国
渡航期間
渡
航
目
的
常
好
アメ リカ合衆国 60.1.8∼ 1.16
良
隆
シ ン ガ ポ ール
117∼
1.30
丸
節
夫
アメ リカ合衆国
1.21∼
4.14
プ ラズ ム物理学 の理論 的研究 のた
め
井
利
泰
アメ リカ合衆 国
1.11∼
1.16
コ ンピュー タ, グ ラフ ィ ックに関
す る研究 の ため
林
富
雄
ス
岡
國 小
動
者
航
渡
イ
ス 変更 1.13∼ 3.26
(2
墨李碧業基箱埋馨 青養 』黒孟 字慢
出実験」 出席 の ため
分 翻御 麗 畠響 2器 雰通総 告甕徴
動
e+e 相 互衝 突装置「 LEP」 に
於 け る万能型測定装置「 OPAL」
建設 のための調 査研究 のため
月)
物
理
教
授
宮
本
健
郎
ア メ リカ 合衆 国
2. 2∼ 2.10
日米 ワー クシ ョップ「逆 転磁場 ピ
ンチ」 出席 のため
情
報
助教授
榎
本
彦
衛
シ ン ガ ポ ール
2.11- 2.23
グ ラフ理 論 の研究 のため
素粒子
助
手
蓑
輪
真
ス
22∼ 2.9
国際協 同実験電子 ,陽 電子衝突実
験 のため
天
文
助教授
吉
村
宏
和
ア メ リカ 合衆 国
210∼
太陽 の グ ローバ ル な流れの電磁流
体 力学 的研究 の ため
素粒子
助教授
折
戸
周
治
ス
2. 9- 2.22
地物研
助
手
三
浦
彰
ア メ リカ 合 衆 国
2. 3∼ 2.18
物
理
助
手
三
明
康
郎
ア メ リカ 合衆 国
28∼
地
質
教
授
飯
山
敏
道
オ ー マ ン首 長 国
2.20- 3. 5 オ ーマ ン首長国地質 図検討委員会
化
学
教
授
不
破
敬一 郎
ア メ リカ合衆 国
2.24- 3. 4
ピ ッツバ ー ク分析化学・ 応用分光
学会議 出席 のため
数
学
助
手
斉
藤
秀
司
ア メ リカ合衆 国
2.18∼ 7. 1
高次元類体論 の研究 の ため
中間子
助
手
今
里
純
ス
2.24- 3. 8 60年 度 ミュオ ン実験打合せ緊急会
数
教
授
藤
田
宏
シ ン ガ ポ ール
学
イ
イ
ス
ス
3.31
屡 踏燿 国
イ
ス
61.
2.7
実験電子 ,陽 電子衝 突 実
第 2回 宇 宙空間プ ラズ マ計算機 シ
ミュ レー シ ョン国際学校 出席 のた
め
陽子 ,陽 子衝 突型加速器 によ るク
ォー ク間 の相互 作用 の実験 的研究
の ため
出席 のため
議 出席 のため
―-16-
2.28∼
3.10応 用解析 の研究 お よび 同研究 の 推
進 のため
理 学 部 長 と理 職 と の 交 渉
理学部長 と理 職 (理 学部職員 組合 )の 交渉 は昨
年 12月 20日
,今 年 1月 28日 及 び 2月
18日 に行われ
3.教 務職員 の助手 化 について
理職 は「 近年 中 に退 職す る教 務職員 は定 年が 60
た。主 な内容 は以 下 の とお り。
才 にな る うえ長 く昇給が頭打 ち に な って い るので
1.定 員外職 員 の定員化 について
助手 に振替 えて は しい。」と要求 した。学部長 は
理職か ら,85年 定年制 の実施 に伴 って生 ず る欠
「 努 力す るが制 度 その ものの 問題 も考 えつつ 対処
員 を利用 し,期 限な し定員外職員 の希望者 全員 の
して い く。」 と述 べ た。
定員化 の要求 が あ り,こ れ に対 して学部長 は「 現
4.メ ール システム
在 もで きる限 りの努 力を して い るが ,本 人 の都合
4月 か ら発足す る理 学部 内 の郵便物集 配 シス テ
と各教室・ 施設 の希望 とが合致 し協力が得 られ る
ム に関 して ,理 職 は「 3月 か らテ ス ト予定 の 現在
こと も必要 で ある。」と述べ た。
案 で は 1人 で集 配す ることにな って お り,労 働量
2.技 術職 員 の専 門技術職俸給表 へ の移 行 につい
体 暇 な どの点で無理が あ る。 要員 を 2人 に増 やす
て
べ きだ詞 と主張 した。学部長 は「 病欠 な どの 際 の
理職は「技術職員 の専門技術職俸給表へ の移行
こ とは考えて あ る。 3月 のテス ト結果 を見 た うえ
を可能 にす るため,そ の職務内容 と責任を規定す
で 問題 を検討 して い きた い。」と答 えた。
る省令改正をするよ う総長・ 国大協等 に働きかけ
してほ しい。」と要求 した。 学部長 は「今後 も努力
を続けてゆ く必要がある。」と述べ た。
この他 ,継 続雇用 の待遇 問題 ,行 日 か ら行 l―lヘ
の移行 問題 な どにつ いて,意 見が 交換 され た。
-17-
,
人
事
異
動
報
告
(講 師以上 )
所属
化
官
学
助
氏
職
教
授
名
発令年 月 日
異動内容
昇
薬
師 久
桶
50. 1.16
鈴
木
薫
60.1,15
武
田 洋
幸
東
島
勉
60.2.1
60.2.1
任
備
考
講師か ら
手)
(助
職
体
用 職
採
化
復
生
手 手
物
手
動
助
ミ
│
助 助
化
員)
(職
事
務
用 度 掛長
久
我
正
弘
59.12.31
勧奨 退職
生
化
教 務 職員
西 貝
正
明
59.12.31
勧奨退職
植
物
教 務 職員
松
田 弘
明
59.12.31
勧奨退職
事
務
用
務 員
倉
持
よ 志
59.12.31
勧奨退職
数
学
用 務 員
三
宅
キ
ョ
59.12.31
勧奨退職
地
物
用 務
員
峯 岸
富
代
59.12.31
勧 奨退職
天
文
事 務
官
小 俣
春
江
59.12.31
辞
事
務
事 務
官
野
口
宏
60. 1. 1
配 置 換
ら
そ
朝
層
璽
窒
菫
暑
陽
象
ヤ
事
務
事 務
官
中 村
次 郎
60. 1. 1
配 置 換
大学院掛か ら教務掛ヘ
事 務
事
務
官
小 杉
真 人
60. 1. 1
採
用
地 物
事 務
官
齋 藤
重
子
60. 1. 1
採
用
地 物
教務 職 員
工 藤
恵
60. 1. 1
採
用
事 務
用度 掛 長
渡
rie隆 夫
60. 1. 1
昇
任
官
事
務
事
務
官
60. 2. 1
60. 2. 1
-18-
(大 学院掛)
菫程穀普
用 用 用
務
採
事
採
学
60. 1.25
採
数
敏 子 美
官
厚
務
将 雅
事
邊 ヽ
水
報
渡 須 林
情
職
計課 予算 第一掛
山梨 医科大 か ら転任
(人 事掛 )
編
集
後
譴
て報華し`
て下さ
ましたoお忙しい時間卿 `
│け
れ婿轡様にぷがら鳥礼申し上│げます。いろいるお助 ぃただいた編集委員の方
々 どうも,あ りがとつございまし,た 。また●途中病気のた.4撃 恐関係担当の
菊地さん:研究室の秘脅0お二人に臓大変d逃薄をかけまし,た。お諸び雄 礼
1絣 Jの 11年がようや く終
'り
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を串し上が憲筑
こ,れ から朝理騨理岬帥働姿くの機義 赫議論養廟融場経 して利用き‐
れま
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すよう,1鋏 協力を鰤 い催します│
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