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シュタイナーにおける現象学的教育学の展開

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シュタイナーにおける現象学的教育学の展開
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シュタイナーにおける現象学的教育学の展開
シュタイナーにおける現象学的教育学の展開
渡 辺 英 之
Hi
deyukiWATANABE
教育学は, 教育という現象に準拠する。その際教育現象は, 自然的事実であるとともに文化
現象でもある。いわば,外面的な事象でありながら, 同時に概念や理念の内面的体験でもある。
そこで教育学は,教師と生徒との関係を,内面と外面, 事実と体験, そして文化と自然などの
交錯を通して生きられた体験として問い出さなければならない。 そのような両義的事象を主題
化するのに, 現象学は適している。というよりも体験的に生きられたままの 「
事象そのもの」
に準拠するというごく一般的意味において, 教育学は, ある種現象学的要請の具体化を必要と
するといってよい。とりわけ, 体験源泉に準拠し, 概念であれ理念であれ, それがそれとして
与えられる直観に還帰する点で, シュタイナー教育学は現象学的であり, しかもフッサール現
象学的発想を教育現象に展開したものとみなしうる。
しかしながら, 方法の外面的導入にとどまらない現象学的教育学の可能性は, シュタイナー
教育学が, 現象学の学的基底を共有しうるかどうかにかかっている。いわばシュタイナーの探
究が, 方法の依拠する学的地平形成において, 学とその主題的事象の基底づけ連関の問い返し
を遂行しうるかどうかにかかっている。シュタイナーによる教育現象の探究が, 現象学の理念
の現実化とみなされうるとき, 現象学的教育学は現在する。ということはつまり, 現象学的教
育学は, 現象学的問題構制に伏在する諸問題や困難を共有しつつ, 教育現象の究明場面でそれ
らに応答する必要があるということである。小論の課題は, 方法の依拠する地平形成場面に立
ち返って, 現象学的教育学の可能性を, シュタイナーの探究の内に探ることにある。そこで以
下の考察では, シュタイナー教育学と現象学との外面的な共通項の確認によるプラス面の証示
(
1)
よりも , あえてむしろ現象学のマイナス面を取り上げ, それを内在的に克服する可能性をシュ
タイナー教育学の内に探ることにしたい。そのためにまず, フッサール現象学そのものに対す
る根本的批判を検討し, 次に批判への応答の可能性をシュタイナーの内に探ることになる。
京都精華大学紀要 第十六号
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1 ハイデッガーのフッサール批判
外在的批判にとどまらず, 内在的批判を通して現象学の基底そのものを問い返しているのは,
ハイデッガーである。 ハイデッガーのフッサール批判は, 批判を通してフッサール現象学の基
底を問い出すのに役立つというだけでなく, 現象学そのものの困難と説得力を反語的に際立た
(
2)
せている。 その場合, ハイデッガーによるフッサール批判の要点は二つある 。
A志向性ないし意識の存在についての問いの不在
B現前の形而上学という批判
以下それぞれについて, フッサールの側から解答の可能性を検討する。
A 志向性ないし意識の存在についての問いの不在
まず, 批判が問い出している当の現象学について, 概説しよう。
確かにフッサールにおいて, 領域を形成する事象であれ, 志向性や意識であれ, その存在に
ついては問題にならない。 存在措定は括弧に入れられ, 存在はすべて意識の現象に還元されて
いるからである。 その場合, 「
現象学的エポケー」 の二つの評価水準を区別する必要がある。
一方で, 世界についての 「
一般措定」 は括弧に入れられ, 現実的客観はすべて意識の志向的客
観に変容する。 その結果リアルな実在は, ノエシス−ノエマの不可分の相関性のもとで, ノエ
マ的意味として記述される。 他方で, 存在がノエマ的意味に還元される場としての意識につい
ても, その存在は問われない。 なぜなら, 一切がそこに帰還的に関係づけられる意識ないし体
験は, 世界に内属する心理学的領域ではありえないからである。 世界への内属から解き放たれ
た意識の領域は, 自己と世界, 主観と客観, あるいは現実と想像といった対立がそこに差し戻
されるべき, 絶対的源泉として確保される (⑤ S.117)
。 こうして, 純粋意識の志向的分析に
よって, 存在論が, 本質学・形相学として基礎づけられるはずであった。 すなわち,様々な対
象所有の仕方を貫く諸作用の原形式をもとに, 形式的存在論と領域的存在論との基礎づけ連関
(
3)
が解明される 。 したがってフッサールの目論見では, 存在論を基礎づける解明それ自身は,
存在論的ではありえない。
そこでハイデッガーは批判する。
「志向性を現象学の主題的領野として取り出す場合, 志向的なものの存在についての問いは
究明されないままになっている」
( ① S.
157)
。なぜなら 「
還元は, その方法的な意味によれば,
∼を度外視することとして, 意識の存在を積極的に規定するのに原則的に不適当である。 還元
の意味するところでは, 志向的なものの存在が問われる地盤が放棄される」 (① S.150)から
である。
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シュタイナーにおける現象学的教育学の展開
すると現象学にとって問題は, 現実存在一般についての究明の可能性が遮断されるというこ
とではない。したがって, それは自明の前提であるなどと答えることはできない。批判の眼目
は, 源泉として確保される意識ないし体験の存在が, ということは現象学的探究そのものの体
(
4)
験が, さらには現象学する反省のまなざしが, 「
完全に関心を離れた観察者」 として等閑に
付されたままになるということである。内在的批判として受け取るなら, 批判の骨子はそうな
る。
こうした批判に対する応答の可能性は, フッサール自身による後期における現象学の捉え返
(
5)
しの内にある。 なるほど確かに, 「
哲学的省察を行っているわれわれ自身の自己忘却」 が克
服されなければならない。自己忘却は, 意識を生ないし世界生として受肉させることで克服さ
れる。そのとき反省は, 関係を離脱した純粋反省ではなく, 一切を超越論的生において主体的
に取り戻そうとする歴史的運動になる。「
原初の流れは, それ自身の内に志向的変様体として
の過去を含蓄し」(
⑥ S.586)
, しかも 「
志向的変様はすべて, 内部における外部を構成する」
(
⑥ S.554)
。 現象と現象学的反省の二元性を, 意識生の生成に帰還的に関係づけることで,
「生ける現在」 を原初の流れとして反省すること自身が,根拠から一切を取り戻す歴史的運動
になる。
「
超越論的−反省的態度への移行は, ……意識生に対する普遍的かつ徹底した反省を意味す
るばかりでなく, この生の遂行様式の新たな様態を意味する」(
⑥ S.537)
。
このように後期フッサールでは, 現象学的反省そのものでもある意識生の歴史的生成の運動
が, 探究の地平をなす。そこでは存在のすべては, 生世界と世界生との普遍的相関関係のもと
で, 生の全体性の内に取り戻されるべき課題になる。ある意味で存在者は遮断され超えられる
ことによって, 生の一局面として取り戻される。この意味で, 存在者を超越することは, 一切
を生に内在化する運動でもある。現象学的反省は, 内在と超越の相即性のイデーを堅持するこ
とによって, どこまでも超越論的哲学の運動なのである。そのようなイデーに定位して, 存在
は現象学的に究明される。しかしそれによって, 内在と超越, 意識と存在, あるいは現象と現
象するものとの対立は, 生という名の能作の側から克服されることになった。差異を通底する
場となるのは, どこまでも私の意識ないし生だからである。Aの批判への解答は, それによっ
てBの批判をいっそう先鋭化するのである。
B 現前の形而上学という批判
ハイデッガーによる批判の眼目は, 端的に言えば 「
存在忘却」にある。その場合すでに明ら
かなとうり, フッサールにおける存在問題の遮断は, 方法前提の自明な帰結にすぎないなどと
答えることはできない。フッサールにおいて, 存在はノエマ的意味として志向的に解明される。
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いわば存在が, 意識に与えられる意味に還元されること, したがって存在者から区別される存
在そのものが, 表象を経由した私の意識体験の相関項としてしか主題化されないということ自
体が問題化されているのである。 もちろんフッサール自身は, 現象概念を, 主観に対置された
客観の現れだけに限局したことはない。 したがって現前の哲学という批判が, 主観−客観の対
置的思惟に向けられたものであるなら, 現象学の記述の領野は, 単なる主観的領野ではないと
いうだけのことである。 ではあるがしかし, それはどこまでも体験記述の領野として, 事象が
意味として直観される自己能与の場であることは確かである。 対立の要点は, 現象概念ないし
直観概念の拡がりをどのように思惟しているかにある。
周知のようにハイデッガーは, フッサールによる直観概念の拡張を高く評価している。 「
表
現に対象を与える具体的直観は, 隔離された単段階の感性的知覚ではなく, 段階づけられ範疇
的に規定される直観である。 こうした十分に段階づけられ範疇的に規定された知覚によって初
めて, そうした知覚に表現を与える言明の充実化が可能になる」 (① S.93)
。 直観概念のこの
ような拡張によって, 範疇的なものとして与えられた現象性, ないし存在者から区別される存
在そのものの了解が, 主題的に問われうるようになる。
しかし他方でハイデッガーの論点からすると, 拡張された直観領野を, 「
形式と質料という
概念対」 (① S.96)を用いた判断モデルによって究明しようとすると, 存在そのものは逸せら
れる。 なぜなら存在そのものは, 存在者として現象しないというだけでなく, 存在者を存在者
として成り立たせる地平としての世界, ということは現象の現象性と等置されると, 存在の人
間化という存在忘却に陥るからである。 存在そのものは, 現象に対する 「
他者」 である。 がそ
れは, 完全な他者なのではなく, 現象を通して了解されている。 「
仮象があるだけ, それだけ
存在もある」 (① S.119)
。 したがって, 現存在の現の構造を展開する実存論的分析論を経由
(
6)
するにせよ, あるいは 「
不安」 という卓越した情態性を通して思惟するにせよ , 存在は, 仮
象を通して, あるいは仮象のさなかで思索されるしかない。 存在経験は, 超越と内在の一致の
イデーの枠内では主題化されえない, 他なるものの開示という体験そのものなのである。
しかし事情がそのようであれば, フッサールの側から次のように言いうる。 フッサールにお
いて存在が対象存在と同一視されており, そのため志向性や構成する意識そのものが主題化さ
れえないという批判は, 「
事象そのもの」 として主題的に与えられることがない存在そのもの
に定位する 「
存在の思索」 の立場から初めて可能なのである。 フッサールは, 体験されうる事
象のすべてを 「
現象」 と規定し, 内在と超越との相即性のイデーを堅持して, 一切を体験領野
における構成論として究明しようとしている。 したがって, この批判が可能であるとすれば,
それは従来の知の枠組みではけっして主題化されない事象に定位するかどうかという, 存在の
思索と超越論的哲学との, 架橋されない相違に基づくのである。
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シュタイナーにおける現象学的教育学の展開
批判を先鋭化して, 両者の対立点を徹底化すると, 批判はむしろ学の立場に忠実なフッサー
ル現象学の説得力を証示する。ところが, ハイデッガーとフッサールが共に現象学者として交
錯するある一点において, フッサールには解答できない批判が存在する。ハイデッガーはいう。
「
しかし存在者の〈何 (
Was
)
〉がまさしく存在することであり, 存在すること以外の何も
のでもないというような存在者があるとするなら, こうしたイデア的考察は, そうした存在者
を最も根本的に誤解するものであろう」(
① S.152)
。
現象学が, その存在ないし現実性について, あるいは存在の現実的可能性について問わざる
をえない場面, それを問わずには現象学の現実的可能性を課題とすることができなくなる事象,
それが, ハイデッガーのいう 「
還元」という営為の現実存在, ということは, 現象学の営みそ
のものの存在, 現実的可能性なのである。その存在論的究明がフッサールにとって困難なのは,
還元の成就とは, 純粋意識の絶対性への完全な還帰を意味するからである。換言すれば 「
生け
る現在」の生動性を, 追遂行によって現に今あるがままに取り押さえることだからである。そ
のような困難をハイデッガーは, 存在経験と名づける。だからハイデッガーの場合, 原理的難
題をなすことはないが, しかし意図的探究にとっての困難をなすことになる。翻って言えば,
フッサール現象学は, 新たな探究や経験, 新たな存在開示を包括しうる直観概念の徹底した拡
張を必要としている。シュタイナーの教育学が, フッサール現象学的な直観主義を継承しなが
ら, しかも現象学のさらなる展開として登場しうるのは, まさにこの点においてである。現象
学的教育学は, 子供という内在的他者, そして学習という非連続的変容の経験に定位しなけれ
ばならないからである。
2 シュタイナーにおける批判への応答の可能性
A 志向性ないし意識の存在についての問いの不在という批判への応答
ハイデッガーのフッサール批判をシュタイナーに向けて反復し, 応答の可能性を探ることに
(
7)
しよう。その際考察の手引きとして, 『心の謎』 でのブレンターノ注解を手がかりとしたい 。
心の謎をフッサール現象学的に問い出しながら, シュタイナー独自の観点を明瞭にしているか
らである。
さて, シュタイナーにおいて, 志向性の存立する場としての意識ないし体験領野の存在は,
どのように究明されているだろうか。そのように問うならシュタイナーの場合も, 意識ないし
体験の存在は等閑に付されると言わざるをえない。存在は体験に遡源して究明されるのであって,
源泉となる体験領域そのものは, 通常の領域範疇の用語では解明されないからである。そこで
シュタイナーは, 意識ないし体験, あるいは心 (
Seel
e)の領域を物理的事象に対置し,
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孤立した一領域として記述するブレンターノの分析を批判する。 要約しよう。
「
一切の心的出来事に特徴的なのは, 客観となる何ものかへの関係である」
。心的体験の固
有性をこのように対象の志向的内在に認めた上で, ブレンターノは, 心的体験の三つの基礎領
域, すなわち表象, 判断, 情動を区別する。 彼が通常承認されている三分類−表象 (思考 )と
感情と意欲−の代わりに,こうした分類を立てたのは, 真理を正しき判断に, 道徳的善を正し
き情動に依拠させようとしたためである。 しかしそれによって, 真理は表象に対する主観的承
認あるいは否認を根拠とするにすぎなくなり, 道徳的行為は外的現実への関係を欠くことになっ
た。 物理的世界への関連を欠いた心という一領域の出来事として, 真理と善とを基礎づけよう
としたからである (
Vgl
.⑦ S.86− S.89)
。
しかし他方でシュタイナーは, ブレンターノのこの分類を, あるいは心的体験の志向的分析
をそのまま評価している。 分類が不適当なのではない。 そうではなく, 心的体験あるいは記述
の進行する意識そのものが, 身体あるいは現実世界に条件づけられたままであるという事実性
が問題なのである。 フッサール的にいえば, 世界に条件づけられた自然的意識を括弧に入れ,
「
イマジネーション」 = 想像変容, ということはつまり, 自由変更の場で読み替える必要があ
る。 そのように読み替えるなら, 世界に条件づけられた意識の事実は, 意識の可能性に向けて
開放される。
以上の注解を通して, ブレンターノの人間学に対比される人智学的認識の本質が明らかにさ
れる。 問題は, ブレンターノが身体という鏡に写った心の鏡像に囚われていることである。
「
鏡像が鏡なしに存在しないように, この像は身体なしに存在しない。 しかしながら, この
像によって現出する当の心的な物自体は, 鏡の前に立っている観察者と同様, その本質からし
て身体という道具には依存していない。 身体という道具に依存しているのは心ではなく, 心に
ついての通常の意識にすぎない」 (⑦ S.91)
。
鏡に見えるのは所詮写像にすぎない。 鏡から目を転じ, 事象自体を見るべきである。 しかし,
あまりにわかりやすい正論であるため, 逆に多くの疑問を招来させるこの鏡のメタファーにつ
いては, 解読が必要だろう。
人であることの条件性をなすところの意識あるいは認識そのものが, 事象を写す鏡としてし
か可能でないとも考えられる。 単に物理的現実に条件づけられ, 従来の認識の構図に依拠した
自然的意識だけではない。 自己の前にある何かを, 自己ならざる何かとして認知する働きその
ものが, 自他の存在を距離として開く隔たりを必要とするということである。 結局のところ,
人間存在という一種の鏡に写った宇宙の反映だけしか問題にならないのではないだろうか。
しかしこうも考えられる。 全てが鏡像であるとしても, そこには実像と虚像との差異, さら
にそこでの程度的段階の違いがあるのではないだろうか。 その場合, 反映論に組みすることな
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シュタイナーにおける現象学的教育学の展開
しに, 実在の開示を探究の進展に呼応させるような考察の地平が可能ではないだろうか。実在
開示を課題とするそのような探究の地平の可能性の条件は, 何だろうか。そのように問えば,
問いの内に, 解答は示唆されている。意識ないし心的体験を, 自然的事象への関連から切り離
すこと。従来の認識の構図, そして存在論の領域範疇措定の妥当を停止し, 括弧に入れ, 体験
源泉に差し戻して問い返すこと。当然ながら, 括弧に入れられた事象は, 括弧に入れられたも
のとして記述され, その由来から究明されることになる。由来から, すなわち存在者を存在者
として妥当させる妥当根拠から, 存在が究明される。存在を根拠から究明するその歩みを, フッ
サールは超越論的現象学という。シュタイナーは, それを人智学という。したがってシュタイ
ナーにあってもフッサールと同様, 存在論の地平そのものを究明しようとする人智学的観点は,
存在論的ではありえない。ならばシュタイナーもまた, 存在を意識の存在措定に帰還的に関連
づけることによって, 存在を意識から認識論的に究明しようとするのだろうか。それについて
は, Bの批判への解答に委ねよう。
B 現前の形而上学という批判への応答
今一度, 素朴に問い返そう。現前の形而上学であることの,何が問題なのか。そこで存在は,
意識の現象に還元される。事象は, 意識によって意味として了解された客観としてしか問題に
ならない。現象の現象性は, 現象的所与性ではない? ならば, 現象の概念を拡張すればよい
だけのことである。問題は, フッサールの場合現象がどこまでも, 超越論的自我である現象学
する自己に関係づけられている点にある。端的に言えば, 帰還的であるために, 意識の新たな
可能性を主題化することができず, 一面化された表象の光が, 他者を抹消してしまう。
しかしながら他方では, けっして主題的に現前しない 「
存在そのもの」に定位するハイデッ
ガーは, 現象学的方法を標榜する限り, 「
現象しないものについての現象学」というパラドッ
クスを抱え込むことになる。それを回避しようとすれば, 存在者とその存在との間を往還する
解釈の運動を, 「
存在の思索」として脱現象学化するしかない。
現象学的意識の一元論か, 存在の思索か。ところがここに第三の可能性があり, それがシュ
タイナーの人智学における現象学的展開の方向なのである。
教育学者でもあるシュタイナーの教育学は, 常に子供という内在的他者に向き合っている。
子供の他者性を大人性に回収するのでないような, 子供の心の変容の可能性に定位している。
他者の開示性と変容の可能性という課題が, 単に教育学の要請にとどまらないとすれば, それ
を可能にする理論の基底はどこにあるのだろうか。解答は, 先のブレンターノ注解の同書 「
志
向的関係の真の基底について」(
⑦S.143−S.149)と題された一節にある。解釈を加えながら,
要約しよう。
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表象 (思考 )・感情・意欲の三分類であれ, 表象・判断・情動の三分類であれ, 心的体験の
そうした様相分類は, 身体に条件づけられた人間学的図式を前提している。 そのために, 表象
ないし思考が決定できない存在命題の真理性を, 判断に委ねることになるのである。 しかし個
別に分化されて決定不可能な問いは, 組み合わせて決着づけられるものではない。 事象が事象
そのものとして与えられる開示性の場は, 人間学的観点を遮断し, 人智学的観点に移行すると
ころにしかない。 当面のところ, 人間学の遮断そのものが人智学への移行を意味する。 それに
よって, 表象や判断,あるいは感情は孤立して取り出されなくなる。 仮に便宜的かつ操作的に,
「
表象」 が原初的なものとして取り出されるなら, 「
表象」 は判断や感情に対置される一領域と
してではなく, 他者の開示を含む開示性の 「
現象」 として問われることになる。 そうした表象
は, 表象というより, 現象あるいは 「
直観」 と呼ばれるにふさわしい。 シュタイナー自身は,
むしろ 「
知覚 (
Wahr
nehmung)
」 を基礎として一切を解明しようとする。知覚の内に全てが
含蓄されている。 ということは, シュタイナー的には, 「
感覚」 の内にということである。 い
わゆる五感だけが感覚なのではない。 彼はそれに加え, 思考感覚や言語感覚, さらに自我感覚
など, 十二感覚を数え上げている (⑦ S.146f
.)
。
感覚が感性的与件の受容であるとするなら, 視覚や聴覚から区別される思考感覚や言語感覚
の与件とは何なのだろうか。 たとえばシュタイナーは, 他人の言葉を聞く際に, そこに含まれ
る三つの感覚活動を区別しなければならないという。 すなわち 「
聞くこと」 と 「
言葉の受け取
り」
, そして 「
考えの把握」 である (⑦ S.146)
。 したがってシュタイナーによれば, 最下の所
与であるはずの感覚与件は, この場合には三重の統握作用によって活性化されている。 形式を
欠いた生の与件が三重に統握されるのではない。 むしろ, 形式と素材, 能動と受動, 意識と
その所与性といった二元的図式が,原初の開示性に向けて還元されているのである。だからこそ,
言葉の受け取りと考えの把握を通して, あるいはそれらと重なり合って, そこでは他者の自我
が感じ取られている。 原初の開示性の次元で, 自他の峻別は問題にならない。 換言すれば, 自
己と他者は呼応して形成される。 他我と同様, 自我もまた他我に呼応して感じ取られるのであ
る。このように,直観ないし知覚,あるいは感覚の概念を拡張することによって, シュタイナー
は現前性の閉域を突き抜ける。 現前に不在を, 存在者に無を対置することによってではなく,
現前を風化させるほどまでに概念を拡張し, 開示性の次元に至ることによってである。
フッサールがブレンターノの 『経験的立場の心理学』 を超越論的現象学的に読み替えること
によって遂行した 『イデーン』 での転回を,シュタイナーもまたブレンターノ注解を通して遂
行する。 ただし, デカルト的なアルキメデスの点に至るのではない。 人智学的観点は, 徹底し
て事象そのものに準拠するという現象学の精神を堅持することによって, 自我の閉域を突き抜
け, 存在のロゴスともいうべき宇宙の理に定位することになるのである。そうした学のイデー
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シュタイナーにおける現象学的教育学の展開
において, 意識の変容という課題は存在開示の要求と, したがって認識論は存在論と区別され
ない。変容の可能性に定位するシュタイナーの構想が, それでもなおかつフッサール現象学と
地盤を共有しうるのか, 現象学的教育学の可能性は, この一点にかかっている。
3 現象学的教育学の可能性
本考察は, 現象学的教育学の可能性を検討課題としているが, それによって新たな教育学を
構想しようとするものではない。むしろ直接の課題は, シュタイナー教育学やその教育実践の
依拠する壮大な宇宙・人間存在論すなわち人智学 (
Ant
hr
opos
ophi
e)を照明するための学的
地平を現象学の内に探ることにある。人智学固有の問題構制を現象学の見地から検討する, そ
の試みが外面的対比や単なる補完的接合にとどまらず, 豊かな対話を可能とするための条件は,
両者が探究の根本動機において通底していることである。そのために考察は, シュタイナー教
育学の内に現象学のさらなる展開の可能性を探ってきたのである。残された課題は, シュタイ
ナー教育学が提起する変容ないし生成, あるいはこの文脈で言えば 「
人間学的観点」から 「
人
智学的観点」への移行が, 「
現象学的態度変更」の名に値するかどうかである。その移行を現
象学的的転回とみなすことが可能なら, 現象学と人智学との間の深淵とも見える疎隔を架橋し
たことになるだろう。そのために, 人智学の森の内に踏みいる必要はない。概略的構想を課題
とする本考察の目論見にとっては, むしろシュタイナーのいう人間学の限界が, 人智学への移
行を示唆する地点を名指すことができれば十分である。そこで以下の考察では, 迂遠ながら哲
学的人間学の代表者M・シェーラーの 『宇宙における人間の位置』 を手引きとすることで, シュ
タイナーの試みを, 近代の人間形成論の依拠する地平を転回する試みとして意義づけることに
(
8)
したい 。
さて, 現象学者でもあったシェーラーの 『宇宙における人間の位置』 は, シェーラーのみ
にとどまらず,哲学的人間学の発想を思想として集約している。周知のように事象そのものの内
にア・プリオリな不変の本質を取り出そうとするシェーラーは, 人間の本質を, 逆説的に開放
性によって定義している。宇宙における人間の位置は, 一義的に確定できないという動態性に
よってしか洞察されない。要点整理のために, それを三点にまとめよう。
A 世界開放性:人間は環境世界の函数として世界に存在するのではない。 人間は世界に対
峙することによって世界の内にある。人間はいわば, 世界に対してあることが内にあること,
この意味で外にあることが即ち内にあることという両義性において, 開かれた世界内存在であ
(
9)
る 。
B 精神としての人格:したがって人間の本質は, 脱領域的な超越作用としての精神性にあ
京都精華大学紀要 第十六号
−95−
る。 人間の精神性, すなわち純粋な作用中心Xとしての 「
人格」 は, 事象に距離を取る可能性
として実現されるべき課題であるとともに, 人間が 「
否を言いうる者」
, 「
生の禁欲者」 (⑪ S.
55)であることによって, 常にすでに告知されている。
C 絶対的なるものの生成:自己意識が私
私という原初の分裂によって可能になるとすれ
ば,一切の事象から距離を取ることは, 全体的なるものにおける自覚, あるいは全体的なるも
の自身の覚知の成立を意味する。 人間は, 精神としての人格性によって,「
自己神化」 (⑪ S.9
1)「
神の生成の場所」 (⑪ S.92)である。
このように人間を徹底して開かれた存在として構想しようとするシェーラーの試みは, しか
しどこまでも, 人間における精神性の両義性に係留されている。 有限なる人間の事実としての
被造性は, 課題となる精神の能動性から取り戻されるが, それは再び人間の事実性を形成する。
その時精神としての人間性は, 客体性を主体的に回収することによってその都度実現されるべ
き課題になる。 そこでは確かに, 一定の人間像による疎外や, 像に向けての統制は回避されう
る。 だがしかし, 人間形成が純粋なる作用中心からの一切の事象の獲得を課題とするとき, 出
会われる全ては, 人間の主体化のための形成素材に転落する。
それに対し, シュタイナーの試みの特徴は, 像を相対化する拠点を無内容な論理的同一極と
して想定せず, 存在経験の更新とともに展開される生の局面として実践的に探究する点にある。
シェーラーと対比的できる区分にしたがって, 整理してみよう。
a 存在への開け:人間本質の開放性は, 経験する主体としての人間の多元性と, 開示され
る存在の多元性との相関関係の生成として思惟される。 そこでたとえば, 思考と感情と意欲と
いった従来の図式が,身体存在,生命存在, 感情存在, 精神的存在を開示するための指標とし
て操作的に用いられる。 シュタイナーの独自性は, そこで汎通的な法則性の確立を目指さず,
その都度独自な領域的本質を開示する実践的探究にある。 人間本質の閉鎖性の問題点は, 存在
開示の途上でその都度明らかにされる
(
10)
。
b 精神 (
Gei
s
t
)としての人間:精神の概念は, 社会的存在としての人間の内世界的自己限
定を突き抜けてなおかつ見出される本質秩序の指標である。 それを見出すために, 内世界的に
条件づけられた因果的反応に還元されないような私の同一性が必要となる。 私の同一性は, 思
惟の論理的根拠としていかなる場合も要請できるというものではない。 人間は, 内世界的存在
者を像として相対化しつつ, しかも像としての存在者を存在そのものと体験的に峻別するよう
な自己の生成において, 精神を実現していく。
c 開かれた人間形成:シェーラーにおいて主観性は世界性と等置されるので, 世界と私と
の相関性の存在意味を問うとき, 人間は 「
絶対無」 (⑪ S.88)を観入する。 この無の拠点から
内存在は全て批准され, 事実的自己への主体的自己形成の道が確定的に指定される。 シュタイ
−96−
シュタイナーにおける現象学的教育学の展開
ナーの場合, 新たな存在開示の次元をいわば超越論的経験の現実的可能性として想定すること
によって, 思惟の図式のみによる形成の道の閉鎖性は克服される。そこで人は, 世界とは別の
彼岸へ超出するのではない。むしろ人は, 内世界的に条件づけられない恒常性の創設という精
神性の実現を通して, 現象界そのものの生成を経験する。
このように並行的に対比することで明らかなように,人間学と人智学は, 基礎となる人間観
や人間存在の行方に関して対立するのではない。決定的相違は, やはり探究の地平をいかに意
義づけているかにある。微妙ながら決定的なその違いは,どこから来るのか, まとめてみよう。
自己意識に定位すれば, 人間は一切の判断を可能にする同一性と差異性との媒介関係の拠点
として, 常にすでに精神である。したがってシェーラーの図式の下では, 精神という課題は,
自己意識の本性を純化するという無限の課題になる。自我の同一性は, 思惟の論理的拠点とし
て要請として前提されている。
しかし, 人間はいつも同一の私であるといえるだろうか。
論理的に思惟する限り, 自我の同一性は原的に確証できない論理的要請ないし拠点として前
提される。また自我の根源的自己構成の探究は, 探究者自身の同一性の確認に行き着いてしま
う。そこでこうした光の下では, 精神としての人格の同一性は, 同一性と差異性との普遍的連
関の下で予定された自己同一化としてしか問題にならない。したがってシェーラーの図式では,
全ての探究は,能動と受動,思惟と思惟されたものとの普遍的相関性の内部を動くので, 自己
と世界との相関性を問い返すとき, 人間は無を観入するとしか言えない。それによって, 彼岸
への超出を思弁的に思惟するか, 事実的自己形成の道に帰るかの二者択一しかなくなってしま
う。
それに対して, シェーラーが無を観入するところで, シュタイナーは存在を体験する。シュ
タイナーの探究は, シェーラーの思惟の到達点から始まる。ということは, シェーラーの思惟
の図式の挫折するところに, シュタイナーの開かれた探究は成立する。とそのように言うこと
で, 両者の相違は名指されることになる。人間学は, その探究の構想が依拠する人間理解を超
えることができない。 人間学を体系として完結する基礎づけ連関の根拠となる人間性に定位し
続けているからである。逆に言えば, 可能性に定位する人間の生の展開の構想は, そうした予
断を括弧に入れ, 探究の進展につれて人間理解そのものを更新し続けるような開かれた試みを
必要とする。
そのような探究は, その可能性を必ずしも予断せずに遂行されうる。ところがシェーラーの
場合, それは原理的の不可能であると予断されている。「
精神と生との対立」(
⑪S.80)が,
内世界的自己の事実性と脱世界的自己の超越性と重ね合わせられるとき, 自己と世界との相関
性の意味を問うことも不可能になる。こうした相関関係そのものを問うためにその妥当を停止
京都精華大学紀要 第十六号
−97−
し, 探究を可能とするための距離を創設する試み, それこそが現象学的還元に他ならない。 そ
れによって, 見るための距離というより, 探究の活動空間が可能になる。 そうしたごく一般的
意味において, シュタイナーの探究は, 現象学的転回によって可能になっているのである。
しかしながら, 自己経験と世界経験の普遍的相関関係を突き抜けたところで, 自己経験や存
在経験は可能だろうか。 内世界的自己に還元されない自我の恒常性を課題とすることは, 可能
だろうか。 そのような原理的問いあるいは疑問に応答しようとするとき, 人智学は現象学と常
にすでに共働している。 共働の可能性は, 限りない。
〔注〕
以下の主要参考文献は, 以下の数字で示す。
① M. Hei
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⑪ M.Sc
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⑴ シュタイナー教育学とフッサール現象学の内面的共通性, およびその共働の可能性のプラ
ス面については,拙稿 「
シュタイナー教育学における現象学の可能性」(
『京都精華大学紀要』
第 14号 1998年3月 )を参照。
⑵ 『時間概念の歴史への序説』 は,
『存在と時間』 (
1927)に先立つ 1925年夏学期に,
『存在
と時間』 に結晶していく現象学的存在論の構想を概略的に提示した講義録である。特にその
−98−
シュタイナーにおける現象学的教育学の展開
前半部分では, ハイデッガー自身の現象学理解と対比しながら, フッサール現象学に対する
根本的批判が展開されている。
⑶ Vgl
.E.Hus
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⑷ Vgl
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Phanomenologie, Hus
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l
i
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⑸ i
bi
d.
, S.187
⑹ Vgl
.③ そこで不安の体験は, 存在者を全体として問題化することによって存在論的差
異を顕示するような, 存在そのものの体験を意味する。
⑺ 『心の謎』 でシュタイナーは,哲学的人間学を主題的に論究し, 哲学と人間学との結び
つきを突破する可能性を人智学的発想の内に探っている。 そうした構想は,フッサールによる
哲学的人間学の批判とも重なり合うと考えられる。
⑻ 「
この著作は,『哲学的人間学』 の若干の主要点に関する私の見解を簡潔に,きわめて圧
縮した形でまとめたものである」 (
⑪S.5)
。 シェーラーが問題とするのは 「
植物並びに動物に
対する関係における人間の本質」 (
⑪S.10)である。 したがって考察を主導するのは, 人
間のイデア的本質への還元としての本質直観である。
⑼ 「
人間は無制限に世界開放的に行動しうるところのXである」(
⑪S.40)
。
⑽ Vgl
.⑪ S.60 そこで人間存在は, 七段階に領域区分されている。
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