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ヘーゲルの 『法哲学』 一 その成立の背景(ー) Eine~Untersuchung der
ヘーゲルの『法哲学』 その成立の背景(1) 下城 一 Eine Untersuchung der Rechtsphilosophie Hegels Uber die Hintefgru:nde des Zustande:kommen der Rechtsphilosophie Hegels(1) 現代哲学ではミッシェル・フーコL一がその権力論のルーツとして、遡ってはマルクス主義哲学が その生誕地のひとつとして、ヘーゲル『法哲学』の哲学的意義については繰り返し注目がなされて きた。翻って然し、ヘーゲルは何故その体系哲学の構築に於いて『法哲学』の執筆に向かわねばな らなかったのだろうか。『法哲学』はヘーゲルの哲学体系に於いてどのような位置を占め、また体系 的に如何なる意義を有すのであろうか。 この点を巡っては、ヘーゲル研究史上、国家論へと収敏していく初期ヘーゲルのロマン主義的民「 族精神論と『法哲学』との関連が指摘されてきたが、一方、カント哲学に対するヘーゲルの哲学的 対質の核心、主客二元分離図式批判と、それに基づく認識論的論考、『精神現象学』『大論理学』『エ ンチュクロペディー』と続く一連の弁証法的論理学一形而上学的体系を構築しながらヘーゲルは、 他方、なぜ再びまた近代市民社会的な、即ち主客二元分離に基づく個人主観の欲望に還帰した、選 択・自由を起点に構成される市民社会の∫法一権利の哲学」を構想、執筆せねばならなかったので あろうか。その理由、換言すればヘーゲルの形而上学的体系全体に対して『法哲学』が占める形而 上学的意義の解明は、まだ充分ではない。 本稿は、ヘーゲル『法哲学』の体系的形而上学的意味を解明するべく、初期ヘーゲルの思想形成 過程に遡り、とりわけ、ヘーゲルのカント哲学との批判的対質を巡っては、カントが超越論哲学の 形而上学的スタンスから終生一貫して法論と一対のものとして構想した徳論(道徳論、倫理学)の 形而上学的体系的意義の解明に遡って、それをヘーゲルがどのように見定め、且つ乗り越えて自身 の形而上学体系を構築して行ったのか、且つ又そこでヘーゲル自身が改めて直面せねばならなかっ た自身の体系上の本質的困難が何であったか、を明らかにする試みである。 導燈には、カント超越論哲学の出発点はニュートン力学の形而上学的基礎付けにあった。但しこ れは、通例そう理解されているようなニュートン力学の単なる哲学的素描といったものではなく、 カント独自の形而上学的スタンスから 一 即ち批判哲学を介した超越論的立場から 一 ア トミズム的な自然科学的世界観それ自体を批判しっっ、ニュートンその人が、自然科学的な立場か らは形而上学的として立ち入る術のなかった「重力」、即ち世界の「根本力」の規定にまで遡って、 新たなその規定から展開し直された、ニュートン力学的世界観のカント超越論哲学的な補完の試み、 ないしは寧ろニュートンから出発したカント独自の超越論哲学的世界観の新たな体系的構築の試み なのに他ならなかった。 とは言え然し、ニュートン力学的な自然科学的世界把握の成功を担保としっっ、「根本力」「因果 律」といった力学的概念、力学一世界観図式を襲用して展開された超越論哲学は、その点で多大な 2 下城 困難をその体系的展開の内に引き込むことになる。即ちカント自身が『純粋理性批判』体系に於い て当初よりその超越論哲学固有の問題性を認めないわけにはいかなかった超越論的「根本力」「根本 原理」等の「統制的使用」という問題、また、その根本として改訂が繰り返されねばならなかった 「超越論的演繹論」構想それ自体の問題である。実際上の問題としては、自然哲学と同趣の構成の もと想定された道徳原理の演繹、展開に際して、理性が範とする力学的図式上の制約から、感性的 な現実の偶然的多様性が把握されえない、という問題が生じる。とりもなおさずこれは、カント道 徳形而上学において一体として構想された徳論から法論への展開に関わる問題だが、その対質から ヘー Qル『法哲学』が構想される6 力学から有機体論への時代の自然科学的発展を踏まえて、カント超越論哲学の根本的問題点がそ のニュートン起源の力学図式の襲用にあることをヘーゲルは見逃さなかった。ヘーゲルは、その初 期宗教論的論考の当初から、宗教論の形を借りながら実質的には法体系、自然科学的法則性双方の 本質である法則論的問題についての思考を巡らしている。本来、永遠の無始無終の流動相にある世 界の真理が、この世界の表現にもたらされることにおいてこの世界の連関に捉えられ固定されてし まうこと、それが問題であった。 イエスという一人物をモデルに検討された「実定性」問題、即ち無始無終の永遠相にある神の真 理が時間的偶然性に支配されざるを得ない歴史の相でイエスという肉体、人格、言葉に固定され、 その真理は最早定言命法の形で垣間見られるより他なくなるという問題は、世界の真理としての「万 有引力」と、「引カー斥力」いずれかの形を取らざるを得ない「根本力」が、個々の偶然性を免れな い定数を含む特殊方程式に固定されざるを得ないという問題と同相である。 初期ヘーゲルの宗教論的思索は以上のように、そのうちに図式的に力学的世界観に対する批判 を抱懐する形で展開されたが、翻ってそもそもカント超越論哲学の体系的目標は、因果論的に決定 されているニュートン力学的物質世界の基礎上に、如何にしてその因果性に囚われない選択の自由 を持つ意志主体を立て、これに実践的に自由な選択を可能にしつつ歴史を歩ませ、他方、物理的決 定性ではない社会的・法的義務の存在を説明し、経験:的にはそれに従いつつ、内的にはそれからも 自由な定言命法的義務にのみ従う内的道徳主体の可能性とその存在を如何に説明して見せるか、に あった。 このような見通しの下、先ずはニュートンカ学的決定性に支配された物質世界の哲学・形而上 学的基礎付けから出発したカント超越論哲学が、その因果決定性と自由の関係説明に苦慮しっっ 一 超越論的演繹論の度重なる改訂の眼目も、形而上学的決定性を起源に種々の次元における因 果的決定性を説明しっつまたそれと関連して内的義務にのみ従う超越論的理性の選択の自由を規定 しようとすることにこそあった 一 方法論としての三批判を踏まえ、自然哲学の形而上学的基 礎付けと平行して、人倫(法論・徳論論)の形而上学的基礎付けを志向し続けたのは、ぴとえにそ れをもってはじめてカント・ニュートン的世界観における体系的哲学・人間理解のヴィジョンが完 成するのであったからに他ならない。 それ故カントはその倫理学をて批判哲学を踏まえ形而上学的に規定された義務概念の超越論的規 定から説き起こし、内的義務にのみ従い、超越論的な選択の自由をもつ実践理性の教説と、それと 一対の、人倫の形而上学的基礎付けの上に立った、人倫の表現系である外的義務に従うべき経験的 感性主体に適用される法論として構築することを志向した。従って現実を生者る「人間」は、「理性 的存在者」として先ずその理性主体の基底を実践理性の超越論的自由に拠らずに物質界に拘束され ヘー Qルの『法哲学』 その成立の背景(1) 3 る経験的主体として、換言すれば因果論的な自然法則に服従するしかないものとして把握されねば ならず、併せてそれに拘束されない自由な実践理性と一緒にその全体として把握されねばならない。 問題はその因果必然性に拘束されざるをえない経験的物質的身体と、それから自由な超越論的理性 の関係をどう説明付けるかであり、またそうした超越論的観点からの形而上学的展開の方途として 超越論的演繹論に侍む以外なかった人倫の表現形としての外的義務の法的必然性をどう説明し返し て見せるかにある。 ヘーゲルの法哲学を理解するとき、先行するカントの超越論哲学体系の如上の根本問題をヘーゲ ル哲学体系構築の出発点として看過してはならない。しかもそれは、カント的世界観の第一の問題 点が、その二昇一トン力学的・因果論的堆界観にあることをヘーゲルが根本的に看破し、その超越 論的論理学からの全面的乗り越えを図って、ヘーゲルが改めて概念と現実の関係問題の再考の方向 にその哲学的思索を展開した、という構図での理解を必要とする。従って、ヘーゲルの先ずは宗教 論的論考から出発する表面上の思想形成過程を理解するに際しても、その水面下の、より根本的、 より哲学的な豊饒なる思想的伏線の数々が見落とされてはならない。 第一章 初期ヘーゲルの思想形成過程 第一節 初期宗教論成立の背景と実相 最初期のヘーゲルの思想形成として知られているのは、民族宗教を主題に書き残された諸論考で ある1。だが当時ヘーゲルが、そもそもなぜ民族宗教の考察へと向かったのか、そのそもそもの動機 の解明と、その思想形成過程の背景的状況の包括的理解が不可欠である。 寧ろ最初期のヘーゲルの関心は宗教そのものよりは先ず眼前の現実から出発していた2。宗教を主 題とした諸論考も、宗教的関心そのものからというよりは、未だ国民的統一を欠いて欲望赴くまま 散り散りの個人としてしか存在していないかの如き眼前のヴュルテンベルク市民を3、如何にして理 想の民族へと教養形成すべきかという観点から、その精神的主柱の構築の必要のために構想された ものである。 ヘーゲル初期の諸論考の理解には、表面上の主題以上にそこに流入している種々の文脈、伏線へ の充分な留意が重要であり、民衆の素朴な心情を出発点とするヘーゲルの民族宗教についての評価 は更にまた、重ねてそれがヘーゲル以前の啓蒙を軸とするどんな思想展開にも結果的には満足せず、 さしあたりは別の観点から、即ちヘーゲルのその飽くことなき眼前の現実への関心から不断に構想 しなおされたものであることに留意することが重要である。 では、ヘーゲルのその飽くこと無き現実への関心を培ったものは何であったか。 ヘーゲルの生国ヴュルテンベルクは4、1514年のチュービンゲン契約以来英国憲法と並び称される ヨーロッパ屈指の憲法制度を持ち5、専制君主カール・オイゲンに対するに、宗教改革以来ルター主 義的教会と結んだ当時ドイツで群を抜く民主主義的な議会、民会制度6を擁してその民主主義的自由 を行使していた7。このことはまた、後に家庭教師先としてへ}ゲルが赴くことになるベルンも更に 劣らずヨーロッパ屈指の民主主義的な体制を持っていたことと併せて銘記しておいて良い事柄であ る。ヘーゲルの父はヴュルテンベルクの君主に仕える財務官であり、母はその民会の有力な役員の 家系であった8。要するに、後に『法哲学』で展開されることになる最高の統治形態としての立憲君 主政治とそのもとにおける民主主義的自由の実現は、ヘーゲル自らがその迎い立ちに於いて目の当 4 下城 たりにし、呼吸していた時代精神そのものだったのである。 ヘーゲルはその最初期の民族宗教に関する手記で、理想の民族精神をギリシャの若者に喩え、そ の父をクロノス(時代)、母をポリテェイア(政治・国憲)に擬iして、以下のような賛歌を捧げてい る。 「遥かなる過去より一つの像が、天才的民族の像が、偉大なるもののうちの偉大なるものを、 美を感じうる魂に輝いてくる、幸運(クロノス・時代)と自由(ポリテェイア・国憲)との息子 であり、美しき構想(宗教・芸術)の教え子である民族の像が。 …彼に従うものは喜悦(アグラ イア)と歓喜(エフロシュネー)と優美(タリア)。彼の魂はその力と自由との意識に溢れ、彼の まこころの伴侶は友情と愛、林の山羊のように心清く情深きアモール、心胸の魅力と愛しき夢も て飾られたるアモール」9 民族精神の父に擬された「クロノス・時代」はそれを、ヘーゲルを取り巻くフランス革命の熱狂 に増幅された当時のドイツ民族の新人文主義的精神的高揚を背景に考えれば、民族のルーヅ、ギリ シャ時代を連想させるものとして理解されるだろう。然し、ギリシャ時代も含めてすべてがそこか ら生じてくる根源的な時代の流れそのものと捉えかえすならば、まさにそれはすべてを現代に流し 込む歴史とその先端、即ち今まさにヘーゲルの眼前に展開されるヴュルテンベルクという現在その ものを意味し、それに合わせて母なる「ポリテェイア・政治」も、ヴュルテンベルクの自由そのも のである民会の母胎、つまり「憲法」こそを指し示すと言えよう。そうだとすれば、ヘーゲルの眼 前でヴュルテンベルクに展開する市民社会そのもののうちに、ヘーゲルは理事の民族精神の誕生を 夢見、そこに生まれる民族精神を「美しき構想」、即ち宗教、芸術によって育まれねばならないと考 えていることになる。そうした現在それ自体への不断の注目と民衆教化を含んだその運動としての 時代のダイナミックスへの包括的志向が、初期ヘーゲルの思索の根本動機といえる。 85年7月1日の日記にヘーゲルは次のように書いている。 「実用的歴史(J.M. Schr6kh)とは、単に事実を物語るだけでなく、有名な人物や全国民の性格、 その風俗・習慣・宗教等といった様々な変化と他国民からの相違を、そのうちで展開し諸大帝国の 興亡を跡付け、国家にとってあれこれの出来事や変化が国民に如何なる憲法を、如何なる性格を 結果としてもたら、したかというようなことを示すものである」10 しかも、その現実重視にあっても、とりわけヘーゲルが早期に、ギムナジウム時代86年日記から 国民を「教養層」と「一般民衆」とに分け、教養層の啓蒙は芸術で事足りるにしても、民衆の啓蒙 は「時代の宗教」が担わざるを得ないとみなしていることは特筆に価しよう。 「…ここでは、学問と芸術による啓蒙のみが問題である。が、それはまた教養ある身分だけ に限定して言えることである。 というのも一般民衆に対する啓蒙の企ては、殆ど大部分の教養ある者にとって困難であり、こ とに私にとってはより困難なことがらだからである。なぜなら、そのためには歴史を哲学的にだ けでなくひろく根本的に身につける必要がある。従って、一般民衆の啓蒙は時代の宗教に求めら ヘー Qルの『法哲学』 その成立の背景(1) 5 れるべきである(それは学問芸術の方向にではなく、むしろ技術や便利さの方向に展開するであ ろう。)」11 ヘーゲルの思索が一貫して眼前の現実から展開され、そこを離れないためにこそ繰り返し体系の 変更をも辞さないという事実は、体系哲学者ヘーゲルという一般的批判を他所に、銘記すべき真相 である。民族精神を主題にその最初期の思索を展開するヘーゲルは、一方然し、その宗教的、歴史 的主題の中に、ヘーゲル眼前の現代の問題のすべてを辱めて展開しようと試みたのである。 逆に捉えれば、ヘーゲルの眼に映じたヴュルテンベルクの現実は、然るにまだ理想の民族精神と いう目標にはなお遠かったということをそれは示唆している。そこにあるのは、フランス革命の熱 狂とともに進行する勝れて啓蒙主義的な市民社会、欲望に彩られた経済社会であった。 程なく卒業後ヘーゲルが出版する最初の文書が、家庭教師先のベルンを弾劾する政治文書、「カル 親書訳」12であり、次いで取り組まれたのが「今ここに在るものの了:解」のために、と銘打たれ理 想のドイツ憲法を構想した「ドイツ憲法論」であることは想起しておいてよい。 とはいえ、その試みが挫折に終わる原因の本質は、統一ドイツ建国に盛り上がった時代的機運そ のものの衰退もさることながら、ヘーゲルの構想する理想の世界像が未だ現実と噛み合わず、現実 から遊離し、重ねて概念の側の反省的再検討を余儀なくされたからにほかならない。周知の通り、 民族精神を鍛え上げる「宗教・芸術」も、『精神現象学』以降その表象性のゆえに「哲学」、即ち概念 に取って代わられ、「国憲」は概念としての「国家」に深められねばならなかったのである。 では、青年ヘーゲルの抱く理想を他所に当時のヴュルテンベルク、ヨーロッパで進行していた歴 史的現実、即ち近代市民社会の現実はいかなるものであっただろうか。 後年、ヘーゲル自身が『歴史哲学講義』でそう規定しているように13、「歴史の最後の段階」であ る「我々の時代」の「原理」は「啓蒙」であった。十七世紀以降のヨーロッパでは、自然認識、心理現 象、歴史、国家、道徳、芸術、宗教等において、あらゆる迷信、超越的根拠が否定され、ニュート ン力学的な自然科学を規範に、すべての事象をそれ自体の内的根拠から説明しようとする啓蒙思想 が、大々的な民衆教化運動に発展して風靡していた14。無論青年ヘーゲルも、その学的認識の原点 に於いて、優れて啓蒙主義的な認識態度を出発点とする。後年『法哲学』序文に集約される「思想 のうちに把握されたその時代」としての哲学、或いは「哲学の課題」としての「あるところのもの の把握」というヘーゲル哲学の認識論上の根本姿勢も15、ヘーゲルがギムナジウム時代に接した啓 蒙思想家ガルヴェにそのルーツをたどることができる16。 当時の啓蒙思想の基盤の上に、ヘーゲルはその思索を開始する。既に然し、ヘーゲルの思索開始 以前に啓蒙思想は、様々な発展的展開、並びに批判的反動、修正の歴史を蓄積していた。具体的に は、筆頭にニュートン力学の完成を頂点とし啓蒙思想全体の牽引車的役割を果たした自然科学思想 の圧倒的展開が検討されねばならないが、それは次節のカント思想の発展史的検討で改めて取り上 げるとして、ここでは、初期ヘーゲル研究の常道である宗教史的展開に触れておく。 先ずは、メランヒトン以来スコラ化していた正統ルター派に対し、人間理性と道徳心にかなう教 義のみを啓蒙主義的に認め、三位一体説、購旧説、原罪一恩寵説等を認めない新教義学の勃興が注 目される17。とりわけその正当性の傍証として進められたゼムラ「による新約聖書文献学、聖典形 成史、教会教義史の研究は、キリスト教を内面的礼拝に基づく普遍宗教と規定し、外面的礼拝をこ 6 下城 ととするユダヤ教の特殊的宗教性と区別して、新約聖書の内容上からの画期的な吟味を行い、そあ 影響はカント、とりわけヘーゲルの初期ユダヤ教論考に及んでいる。が、のみならずそれは方法論 的側面に於いて、近代科学主義的な批判的検証精神の確立として、以降の近代哲学㍉とり,わけその 形而上学、論理学的展開の基本的学的精神を形作ったといえる。 一方然し、そみ新教義学派が、啓示の内容自体は理性的に許容し得るとしたことから、更にそれ を理性主義的科学主義的に批判して、非科学的要素の徹底排除に向かったのが、メンデルスゾーン、 レッシング、ライマールス等の啓蒙主義者であった。レッシングは、ユダヤ教、キリスト教以後の 「人類」の究極目標として、徹底した理性宗教を構想している18。理神論者ライマールスは、「復活」 や「三位一体」の啓示等はイエスの死後、使徒達が捏造したものであると主張して、原点である「イ エスの生涯」に対する人々の関心を高めた19。ヘーゲルの初期論考「イエスの生涯」のルーツの一 つは、この啓蒙主義的展開に辿り返されるものである。 一方、啓蒙主義のこうした理性一辺倒の姿勢に対する反動として、直観、信仰、宗教的感情の復 権を説いて啓示の真理性を擁護しようとするハーマン、ラーヴァーター等の思想が興隆する20。と は言え然し、こうした思想は感性的契機の復権を主張しつつも方法論的には理性主義を否定するも のではなく、啓蒙それ自体の否定というよりは、啓蒙がその科学主義的理性主義ゆえに切り捨てた 部分にこそ人間性を見出し、それを補って啓蒙の補完、完成を目指したという・ミき方向のものであ った。これにヘルダー、ヤコービ、ゲーテ、シラー、カント等の一学展開が続き、啓蒙主義的悟性 の科学的無味乾燥に対し、感覚、感情を補完する形で理性概念の改定を志向しっっ、啓蒙主義的思 想展開をリードしていったということができる。 なかでもヘルダーは、レッシングの普遍的人類史を受け継ぎつつも、各民族固有の歴史的意義を 認め、聖書中の迷信や奇跡の意義も、当時のユダヤ民族固有の「心の真理」として再評価しうると 主張した21。またヤコービは、「悟性」的認識を「間接的認識」とし、対するに「信仰」を「理性」 的な「直接的確信」として「生」の神秘を「愛」で捉えられるとした22。総じて啓蒙を補完する彼 らの思想的意義は、啓蒙の理性主義を無味乾燥な悟性にとどまるものと再定義し、それを超える理 性認識の可能性を追求し、それを基に啓蒙が排除した感性的要素、即ち民衆の宗教的生を感化して いる奇跡謳や迷信、儀礼等の思想的哲学的意義を復権して、より歴史的現実に肉薄しようとするも のであったということができる。 その方向で群を抜く概念史的深化を示したのは、やはりカントの超越論哲学である。カントは、 その批判哲学により、「悟性」、「純粋理性」のいずれによる神認識も認めず、啓蒙の自然科学主義を 全面的に担保しながら、他方、「実践理性」による「道徳的信仰」を超越論哲学的に主張した。その 意味でカント哲学は啓蒙の自然科学主義、理性主義を哲学的にバックアップし啓蒙思想の哲学的意 義を全面的に保障する一方、自己の内なる道徳法則への尊敬を優先しっっ実践理性による道徳的信 仰を提唱して、宗教的現実に対する保障も与えたということができる。 然しながら、ニュートン力学を範とするその真理観、法則観からカントは、超越論的演繹による 自己の内的法則への尊崇を主張して、教会の礼拝は外的な物神崇拝として批判した。その点では、 カント哲学は時代の啓蒙主義を哲学的に基礎付け補完したと同時に、啓示等の意義の復権を目指し た修正主義的流れに対しては両義的だったと言える。ヘーゲルの出発点はまさにその現実の復権に こそ求められ、そしてまたその点こそがヘーゲル哲学のカント哲学との根本的対質の出発点であっ たのである。 ヘー Qルの『法哲学』 その成立の背景(1) 7 啓蒙主義の哲学的基礎付けに多大な貢献をしたカント哲学が、他方、キリスト教、正統ルター派 等の教義と衝突するという問題は、既にヘーゲルが入学したチュービンゲン大学教授陣の問題であ った。 宗教改革と関係の深いヴュルテンベルクで、改革以来ドイツ民族の自立精神が拠り所としてきた 伝統の新人文主義的教育をギムナジウムで学んだヘーゲルは、チュービンゲン大学では啓蒙主義的 な国家学・法学、教育学、道徳学、心理学等を学んでいる。ギムナジウム時代、チュービンゲン大 学時代(1789∼93:88∼90哲学科、90∼93神学科)に於けるヘーゲルの受講歴は、ヘーゲルの関心 がまさに時代の啓蒙主義、新人文主義の本流の内で、同時に鋭く現在に注がれていたことを示して 余りある6が、とりわけ道徳感情に根ざす自然法を普遍理性的として国家毎の人為的な実定法に優 位させ、市民社会を国家と同「奏して国家契約説を是認する啓蒙主義的なズルツァーの国家学は、 ヘー Qルの初期国家観を規定しているものとして留目される。とともにそれは、道徳を起点として 理性的法体系を捉える点でカント哲学的である23。総じてごの時期のヘーゲルの思想動向は、宗教 改革を端緒としてドイツ自身の民族精神の鼓吹と結びついた新人文主義を基礎に、キリスト教文化 に批判的文献学的な距離を保ちっっ、ギリシャ・ラテンの古典を範と仰ぎながら民族精神論を構想 する一方、その歴史学的思索が同時に眼前のヴュルテンベルク市民社会を教育、統治する実践的思 索、即ち国家学、法学、教育学、道徳学へと向かう方向で展開されている。 カント哲学の問題を承けて展開されたチュービンゲン大学神学部教授陣のキリスト教理解のなか では、シュトールの超自然主義が注目される。シュトールは、啓蒙主義的・科学主義的な聖書理解 に抗して、正統ルター派の立場かちカント哲学的な感性界一叡智界の区別を援用しっっイエスにお いて示された神の啓示を超感覚的作用としてイエスの人格を通じて理解する超自然主義的キリスト 教理解を展開し、ルター派正統の『和協(一致)信条』の全的理解に応用した。シュトールに拠れ ば、カントがその理性主義的道徳哲学に於いて啓示等の超感覚的作用を認めないのは、却って理性 の「偶像崇拝」に陥っている24。その点の再考に立脚し直せば問題は、カントを含めた啓蒙主義的 科学主義が許容できない歴史的現実的な啓示や慣習、儀礼等を超越論的なものとして復権させ、そ れを叡智界から感性界にどう演繹し、その現実の展開をどう説明してみせるかであり、故にそれは まさしくカント超越論的演繹論の問題そのものであったということができる。その問題をヘーゲル がその構図ごと引き継いだのが、95年以降、ベルン時代に取り組まれる「イエスの生涯」である。 イエスその人を通じて示された超感覚的な神の啓示を超越論的な民族精神として、カント批判哲学 を踏まえっつ定言命法的に理解しようとした、ヘーゲルの論考「イエスの生涯」、とりわけその「実 定性」問題との思想的格闘は、それ故この時期のシュトールの構想そのものに倣って啓蒙主義の欠 を補完し、チュービンゲン神学校のカント主義的なキリス.ト教理解を忠実に引き継ぎつつ、且つ歴 史的現実の把握を巡ってカント哲学の欠をも補完しようとする構図から出発したものであったと言 うことができる。 また、同様の問題意識から実際の啓示等の歴史的事実の存在を回復しなおす試みとして、ノヴァ ーリス、シェリング、シュライエルマッハー等によるロマン主義的な啓蒙批判は、ヘルダー、ヤコ ービ等の信仰神学を受け継ぎつつ、宗教の本質を思惟でも行為でもなく宇宙との一体性を感取する 「直観」と「感情」にある等と主張し、その現実への展開法を模索した。ヘルダーリンは理論的自 我によっても実践的自我によっても捉えられない「生」を「愛」「知的直観」により捉えられるとし、 それを通じて地上に演繹される宗教を「本質上、詩的である」としている25。 8 下城 奔放なギリシャ民族精神を賛美する新人文主義を基礎教養として、フランス革命の自由賛美に増 幅されたドイツ民族の精神的自立を夢見る新世代が希求してやまなかったのは、イエスの奇跡諌を 科学的範囲で理解しようとする啓蒙主義的聖書理解の生硬さを超えて、自分達をはぐくむ眼前の歴 史的現実それ自体の理想化であり、そのためのカント哲学の理性概念の改鋳を辞さない新たな哲学 の構築にほかならなかった。ヘーゲル哲学の出発点も、まさにそこにこそ求められねばならない。 以上の解明が示す通り、啓蒙主義と新人文主義の主潮流に学び、かつそのいずれをも超えようと する最初期のヘーゲルの思想形成をその根底で主導していたのは、第三の契機、即ち理想とは程遠 いヴュルテンベルクの現実にそれ故にこそ透徹してその哲学化を志向するヘーゲルの徹底した現実 志向であったということができる。その志向が結果的にヘーゲルのカント哲学受容を徹底して深化 させた点に一層の留目を必要とする。 ヘーゲノヒは書く。 「悟性の啓蒙はたしかに人を今までより利口にするが、善良にするわけではない」26 言うまでも無く、チュービンゲン大学の主流を占めていたカント哲学的な道徳の理解では、道徳 (Moral)は実践理性を主体とする行為において要請される絶対的義務であり、普くすべての行為に 適用されるべきその絶対的義務の表現形式としては唯一定言命法に拠る以外無い例外なき絶対的法 則的事態であった。後にイエスの口を借りて、こうした定言命法的道徳律を語らせようと試みるヘ ーゲルだが、然しその当初はまだ、他の啓蒙主義的なカント主義者同様、事態は単純に捉えられて いた。現実の側に忠実に即する限り、道徳はカントが説くような例外を許さない絶対的な道徳哲学 的、理性法則的事態ではなく、遥かに微妙な、謂わば人間の弱さにそって現象する、感性的事実、 人間的事実である。 「人間は感性と理性とから合成された存在者である。…それらすべてが形作られる素材は唯一 感性である。…人間のあらゆる行動と努力における主要要素は感性である」27 前述の通り、既にシュツットガルト・ギムナジウム時代にヘーゲルは教養層と単純な民衆、一般人 の啓蒙を区別し、前者の啓蒙が学問芸術に拠るのに対し、後者は「時代の宗教」に拠るとの考えを 示していたざカント道徳哲学の流れを汲み、ヘーゲルにとっても、宗教はあくまで実践理性の要求 にもとつく問題であり、「感性と理性から合成された」道徳と不離の問題であるのだが、なお理性を 補完するために人間という弱い存在を丸ごと認めることではじめて捉之られる現実、そうした現実 把握の上にヘーゲルがこのとき理解していた宗教はある。 「宗教は心胸の事柄である」28 近代の現実を「分裂せる国民」「身分と職業」と否定的に捉える評価をリパルダやメンデルスゾー ンに学び、啓蒙を民族の教養形成の問題と捉えていたヘーゲルは、更に古代の単純性の称揚を「古 代一近代論争」を展開したガルベやヘルダーに学んで29、その上でヘーゲルが「時代の宗教」とし ヘー Qルのr法哲学』 その成立の背景(1) 9 て範と仰いだのはギリシャ文化である。ギリシャ文化を模範として仰ぐ理由は、それが「分析的な 悟性」に拠るのではなく、「単純1で感覚的表現に富み、「民衆」と結びついた「感情」に拠るから である30。そこでは迷信とされる民衆の祭りや慣行も「感情」と結び付けられてその意義を復権さ れ、今わばまるごとの現実が把握可能と見倣されていた。 然し、にも拘わらずヘーゲルは再びカント哲学の研究へと転回する。何がへ「ゲルを再びカント 哲学へと向かわせたのか。 巷間、体系哲学としてヘーゲル哲学とその論理的体系性を比較されるスピノザ哲学に対し、この ときヘーゲルはそれを次のように批判している。 「諸真理は人間に道徳性を与えうるごとき性質のものではない。それらは心胸の善良と純潔さ とに比較するならば、価値において劣ること無限である。それらは本来これらとは通訳不可能な ものである… …それ(真実の宗教が与える知恵Weisheit)は、啓蒙ともレーゾンヌマシとも異なったあるも のである、知恵は学問ではなく、それは魂を高揚せしめるものである。 …それは殆どレーゾン ヌマンを行わない。それはまた幾何学的方法(スピノザ)で概念から出立してバルバラとかバロ コと呼ばれる推理の系列を辿って、その真理とみなすものに到達するのではない。 …それは心 胸の横溢よりして語るものである」 「時代の原理」とヘーゲル自らが呼ぶ「啓蒙」の本質、自然科学的思考法の本質である理性主義 がスピノザの体系哲学に重ねて批判されている。「真実の宗教が与える知恵(Weisheit)」は、啓蒙 が志向する「諸真理」によっては与えられない。「知恵」は理性主義として積み上げられる「学問」 とは別のものとして、教養層のみならず、一般民衆に普く普遍的に「善良で純潔なる」「心胸の横溢」 において現れるものである。カント道徳哲学の実践理性が定言命法以外の表現法を許さないその理 性主義ゆえに汲み取ることのできない弱き人間の全体、歴史的偶然でしかない慣行、その堆積とし ての諸儀i礼を包括的に汲み取ることのできる真実の宗教、それが求められている。ヘーゲルは確か にここで、当時のチュービンゲン大学を取り巻く思想状況、すなわち啓蒙主義的理性主義に対する 修正的、補完的潮流を全面的に引き継いで、その「宗教的知恵」を構想していると言えよう。 然し、今ここで注目したいのは、ヘーゲルのここでの理性批判の核心が「幾何学的方法」 一 「概念から出発してバルバラとかバロコと呼ばれる推理の系列を辿って、その真理と見なすものに 到達する」 一 即ち因果論的推論法に照準されているということである。デカノレトの合理論哲 学を噛矢として、ニュートン力学の圧倒的成功に極まった近代の精髄、自然科学的理性主義の本質 である因果論的弓論法そのものが、「レーゾンヌマン(厩理屈付け)」にも比され、「それが道徳性を 与え得ず」、道徳感情の純潔に比して「その価値に於いて劣ること無限」であると批判されている。 だが、チュービンゲン大学教授陣がその哲学的基礎をそこに求め、剰さえシュトールの超自然主 義がそこから超感性的啓示を引き出し、既にしてフィヒテ、シェリングが世界全体をそこから説明 するそれぞれの哲学を導き出しつつあったカント道徳哲学、実践哲学の鍵鎗、超越論的演繹論の実 相が世界の単純な合理論的推理連関性に尽きるものでないことは、ヘーゲルにも周知の事実であっ たに違いない。では、それらの超越論哲学的な試みとスピノザとの差異は何か。とりもなおさずそ 10 下城 れは超越論的演繹論が立脚する超越論的論理学の実相そのものと関連する。ヘーゲルの批判は正確 にその核心に向けられている。実際カシト超越論哲学構想の原点に立ち返れば、その超越論的論理 学こそは、果敢に現実に立ち還ろうとしたカントの優れて革新的な試みであったことが明らかであ る。 ヘーゲル哲学の、かたやヴュルテンベルクの分裂せる現実から不断に眼を離そうとしないその基 本姿勢と、時代の原理である啓蒙の理性主義から学んでいまや理性概念そのものの見直しにまで進 みつつある思想的深化に於いて、待望の世界認識の哲学的方法を最も深遠な層で提供してくれるカ ントの超越論的道徳哲学、とりわけその超越論的論理学が、一体どのように受け止められていたか、 その解明が不可欠である。 第二節 カント超越論的演繹論の実相 チュービンゲン大学教授陣の超自然主義的立場を前衛として啓蒙補完的な立場によって、その原 理的不足 一 民衆の習慣、儀礼的慣行の意義を原理的に展開し得ず、総じて弱さを含む現実の 人間を包括し得ない原理的制約 一 を批判されてきたカント道徳哲学の啓蒙主義的理性主義は、 然しその実その形成に遡って検証しなおすならば、当時趨勢の合理論哲学の論理主義、形式主義の 現実乖離的本質に抗して徹底した現実把握を目指した哲学でこそあった。然るに、その本来の企図 にもかかわらず、結果として理性主義的な現実阻却が非難されねばならない側面が何故生じたのか。 前節で確認したように、ヘーゲルの批判の核心であるカント超越論哲学本来の論理性、形式性が立 脚する因果論図式それ自体に問題の核心があるのか。実際、カント理論哲学の中枢は周知の通り「超 越論的論理学」にあるが、その成立はカントが長年現実把握を目指した以下のような経緯を踏まえ ている。 カント理論哲学の根幹である「超越論的論理学」は、アリストテレス以来ほぼ完成したとカント 自身認める従来の伝統的論理学=形式論理学が、その論理性、形式性ゆえの本質的限界を免れない という制約(BV皿)に対する革:新として構想された。即ち伝統的論理学、形式論理学が、「認識にと っての必要条件」ではあるものの「真理の消極条件」でしかなく(A59/B84)、「内容について全く 教えるところがない…対象に関わりのない形式的条件を示す」「一般論理学」にとどまっている(A 61/B86)ことに批判の焦点がある6伝統的論理学が、「形式に関する誤謬は発見可能にしても、内容 に関する誤謬を発見しうる基準をもたない」(A59/B84)のに対し、「超越論的論理学」は、その対 象的内容と 一 単に経験的・応用的に関わるだけの文字通りの形式論理学とは異なり 一 「超越論的に関係」(A57/B 81)しうる普遍学であり、「認識の根源、範囲、客観的妥当性を規定 する学」(ibid.)であるとカントは宣言する。 それこそが、「超越論的論理学」が「超越論哲学の最高原則」として、「経験一般の可能性の制約 が同時に経験の対象の可能性の制約である」と主張される(A111,A158/B 197)所以に他ならな いのだが、問題は、理論上、対象志向的とされた「超越論的論理学」が、一体如何にしてその「超 越論的」真理性を保ちつつ実在的対象と関係し得るのか、という一点に尽きる。カント自身、従来 の形而上学が陥ってきた誤謬の大半は、元来「単に論理的判定の消極的基準 Kanonでしかない一 般論理学を、あたかも客観的対象と関係しうるもののように扱い、認識の積極的用具 Organonで あるかのように使用」(A61 B 85)してきたことに起因すると主張してきたはずだからである。誤 ヘー Qルの『法哲学』 その成立の背景(1) 11 謬の核心である「仮象の論理学」・即ち「弁証論」(ibid.)は、そうした一般論理学の本来許され ない対象関係的使用を原因として生じるとされているのに他ならない。 「超越論的演繹論」は、まさにその超越論的論理学がいかにして実在的対象と関係しうるのかと いう課題に正面から応えるべく、「範疇がいかにして対象と超越論的に関係しうるかということの 説明」(A85/B 117)をその主題とする。「範疇が如何にして客観と関係しうるか」、換言すれば「如 何にして思惟の主観的制約が客観的妥当性をもつか」(A89/B122)、その解明が、「超越論的演繹論」 の課題である。 「超越論的論理学」のもう一方の中枢・「超越論的分析論」にしても、その成立史に鑑みれば事情 は同様である。 矛盾律を絶対原則とする形式的整合性の追求を極限まで推し進め、結果的に極度の観念性、実在 乖離に陥っていたCh.ヴォルフの一般存在論 一 「可能的なものが存在である」31 一 に 対する批判から出発したカントは、1755年に発表した『形而上学的認識原理の新解明』で、クルー ジウスの「実在根拠」説に与する32。カント哲学の実在志向を決定付けたこの論考に続いて、折り しも伝統形而上学の失墜を憂慮して企画された1761年目ルリン・アカデミー懸賞にカントが応じた 懸賞論文『自然神学と道徳の原則の判明性』ではカントは、数学的概念と実在世界の全面的対応性 を認める極めて独自な数学観を展開し 一 「数学はすべてその定義に総合的に到達する」(H 276)一 それを基礎として「超越論的分析論」構想に想到する。そこで、「如何にして超越論的 綜合判断は可能か」(Vgl.B19)との問い、即ち概念と実在の対応関係を模索する「概念の分析論」 が主題化されるに至る。 だが、想像に難くない通り困難はここから始まる。概念と実在の対応関係、即ち概念と実在の因 果論的対応関係 一 客観的叡智界を原因とし、それと概念との関係を結果と見倣しうる対応関 係 一 の基礎付けを巡り、カントはその「超越論的総合判断」論に於て当面、実在の種類に応 じた四通りの区別を検討する。 先ずは第一の「概念に対応する直観のアプリオリな表示」を「対象」とする純粋理性認識、即ち 「数学」的認識の場合には(A713f/B741f)、その「対象」の純粋数学的、直観的「=構成」性ゆえに 「超越論的総合性」の立証はきわめて容易だが、数学以外の学的対象、即ち、第二、「純粋自然学的」 対象、第三、「素質としての形而上学」的対象、第四、「学としての形而上学」的対象(B20ff)、と なると、カント自ら認める通り(ibid.)、それらの対象が経験の直観に関り、直観を通して把握さ れる現実の実在性との対応関係を考慮せねばならなくなるところがら問題が一挙に困難化せざるを 得ない。換言すれば、一方で物的な自然対象性と「超越論的」に関わりつつ 一 つまり、いず れにせよなんらかの仕方で経験的感覚与件・実在与件と関係しながら 一 他方その「超越論的」 真理性を失わない論理構制を構築すること、それがカント「超越論哲学」が目措した課題の核心で あった。 「如何にして自然そのものは可能であるか」、超越論哲学が「その限界ならびに完成として到 達すべき二丁の点」がそこに極まることを、カント自から認めている(Vgl.Prolegomena§36、IV 313) 。 つまり、悟性常識的にはそれ自体で客観的な実在の典型と見なされる「自然」それ自体が、そも そもその全体を通じてカント哲学にあっては「超越論的概念」・「超極論的真理性」に侯って初めて 「可能」な「超越論的対象」であるのに他ならないのである。 12 下城 留目すべきは、カントが、自然認識と形而上学的認識とを区別していないことである。ニュート ン力学に確実に裏付けられた自然認識の真理性とカントが考える形而上学的認識とは、その真理根 拠設定の点でパラレルに想定されている。即ち、層これを道徳哲学に当てはめれば、道徳法則も、個々 人の内面に於いて、自然認識同様、その真理根拠を超越論的根拠によって演繹されることになる。 実際、先に掲げた『懸賞:論文』(公刊は1764年)でカントは、’自身の形而上学的方法論について次 のように述べていた。 「形而上学の真の方法は、根抵的には、ニュートンが自然科学〔自然哲学〕.に導入し、その 領域で有益な成果を挙げた方法、即ち確実な諸経験:に従い、必要なら幾何学の助けにも拠っ て、自然現象がそれに則って生じる諸規則の探究を枢要とする自然科学の方法、と同一であ る」 ・ (H286) 見られるとおり、カントは「形而上学」と「自然科学」を方法論的に区別しぜいない。その意味 は勿論、哲学史上誤解されてきたように、客観物理学的に純粋に実在的であるべき自然科学に未だ 無批判に未熟な形而上学を混入させているという独断論的なものであるはずがない。それどころか 上述の通り’ A』 ゥ然現象の真理性とそれを基礎付ける形而上学の双方がともに拠って立つ超越論的概 念体系の探求をカントは志向しているである。 とは言え、面ここで問題にしたいのは、その形而上学的方法をニュートンの力学的方法に沿わせ ることの認識論上の是非である。 その点の解明の為に、ニュートン自然哲学とカント形而上学の継承関係を一瞥しておく。 先の引用に立ち戻ると、その典拠である『懸賞論文』(1761・1764)は、カント自身の証言に拠る批判 期の区分一 1769、ないし1770年(Vgl. X 115,)q 226) 一 に基づけば、「前批判期」 に算入されるものだが、現下の自然哲学研究の進展に鑑みるなら、問題はそれほど単純なものでは い。 従来、科学思想史的には、先ず「ニゴートン力学」を「近代自然科学」の典型として、純粋に経 験科学的=現象主義的と捉え、その上でカントの上掲のスタンスを前批判期特有の未熟な物理学主 義と解するのが通例であった33。だが、先ず以って近代科学主義的なその遡及史観を排し、歴史的 実相に徹して捉えなおすなら、ニュートンその人が一壷かに『プリンキピア』執筆に際して は自然形而上学の典型である「デカルト渦動説」を批判する必要上、有名な「我仮説を作らず Hypotheses non fingo」34に象徴される努めて現象主義的な姿勢を標榜して見せたとしても 一 その元来の傾向として、自然全体の本質として、実在する「エーテル」=「引カー斥力」を認める 形而上学的色彩を色濃く持していたのであり、その一斑は『プリンキピア』並びに『光学』にも実 のところは明瞭に認め得るのである35。剰えカントが継承したのは 一 『自然モナド論』等か ら窺える通り36一 ニュートンカ学中の極めて形而上学的な側面、特にその「引カー斥力」説 に他ならなかったことは銘記されていてよい。 更にまた、「批判期」に算入される「ディセルタチオン」=『感性界と叡智界との形式と原理』 (1770)に於ける「叡智界」の論理構制からも同様のニュートン力学とカント超越論哲学との密接 な形而上学的継承関係を明らかならしめることができる。 ヘー Qルの『法哲学』 その成立の背景(1) 13 発展史的に言えば、既にカントはランベルト宛書簡(1765/12/31)で『自然哲学の形而上学的原 理』の執筆を表明し(Vgl. X 53)、その構想上、前掲『懸賞論文』の実在原理論を端緒としつつ、 感性的認識が叡智的認識を侵犯しないための「予備学propaedeutica」(Vgl.§24,H441)、 「感性的認識と叡智的認識との区別を説く学」(§8,H395)、即ち「批判哲学」の必要性を自覚 していた。そうだとすれば、批判哲学構想のその最初の成果がこの「ディセルタチオン」であるこ とになる37。 にも拘らずカントはそこで純粋知性に拠る「叡智界mundus inteligibilis」 一形而上学的物 自体界一 の認識を疑わず、のみならず「叡智界の形式」としての「客観的原因」性、換言すれ ば「存在物それ自体の結合を成立させる原因」性さえ認めるに至っている(§13,H398)。「感 性界」と「可想界」とは「対象が精神の性質において二重の仕方で現出する」区別を言うとされ(Vgl. §1,H387ff.)、既にそこで「空間・時間」が後の『純粋理性批判』同様、純粋な直感の形式と されているにも拘らず(Vgl.§14, H 399)、「実体性」、「因果性」等の 一 きわめて力学主義 的、力学世界観的な 一 基本的諸概念については、それを可想界そのものの実相とすることに 箇肥し続け、「諸実体の普遍的交互作用」として「物理的[力学的]影響による」「実在的・物理的調 和」(§22,H409)さえ認めているのである。 この時期のこうした物自体認識に関し、その顕著な感性的表象、力学的表象の混入を、依然その 過渡的段階固有の批判哲学の不徹底と見るか、それともそれが相応の超越論的論理学上の目算に基 づくカント本来の自然形而上学構想に発するものと見るか、それが問題である。 実のところ問題は、それを単なる過渡的状況下の不徹底と見なして済ますことはできない丁丁を 示す。「沈黙の十年」を経て世に問われた『純粋理性批判』にも力学的表象の混入は跡を絶たず、そ の典型が「理性」の「統制的使用ゴとして導入された諸力の統一原理構想、「根本力」構制である。 『純粋理性批判』「超越論的原理論」末尾にわざわざ「超越論的弁証論 付録」と銘打ってカント は、「純粋理性の理念の統制的使用について」述べている。超越論哲学の本務は経験:の可能性の確定 であるとは言え、然し事実上「多様な力を体系的に表象しようとする」際、少なくとも問題となる 「根本力(Grundkraft)の理念」(A648f. B676f.)が、理性の「統制的使用」としてであれ、限定 的にでも「要請」されるのでなければ、世界はただの「寄せ集め(Aggregat)」に過ぎなくなってし まう(A645 B677)。「そうしたものが実在するかどうか論理学はもとより決して突き止めることは できない」が(A649 B677)、「事実、力による体系的統一が客観そのものに付随するものとしてア プリオリに必然的であると想定する理性の超越論的原理が前提されない限り、理性の論理的原理が 如何にして生じうるか見極めることはできない」(A650 B678)、そうカントはいう。 見られる通り、カントは批判期に至って猶、客観的叡智界の実在門真理性を限定的にではあれ前 提し続けているのであり、しかもそれが特殊「力学的」と見なされ得ることは、その法則観として、 例えば「諸知覚の連結の必然性」を考察する「経験の第二類推」(B219)で、「純粋悟性概念」 にのみ帰される「綜合的統一の必然性」が無条件に「因果」連関の事実性に帰せられてしまうこと 一 「諸現象の継続を、従ってすべての変化を因果性の法則に従わせる」(B234) 一 等の 構制に顕著である。 元来「因果性」概念は、存在観的には要素主義を前提として、要素相互の一方向一義必然的連関 性のみを想定する極めて特殊な概念構制に他ならない。だが、カント超越論哲学では、それが「要 14 下城 請」として、客観的叡智界の事実法則として、構図上そのまま『実践理性批判』に於ける実践哲学 においてまで選択され続けることになる38。「独断のまどろみを覚まされた」として有名なヒューム による因果律批判が、カント哲学の核心を直撃した所以である。 以上明らかな通り「超越論哲学」はその実、批判期にいたってなお、叡智的実在世界の客観的真 理性を自明の前提として構想されているのであり、換言すれば、超越論哲学の構想においてカント は本来的に叡智的世界の実在を前提に考え、その構造を物理学的、力学的に限定的に想定している のである。先に引いたカント自身の言葉に従えば、「形而上学の真の方法」は、「根抵的には、ニュ ートンが自然科学に導入し、その領域で有益な成果を挙げた方法、即ち確実な諸経験に従い、必要 なら幾何学の助けにも拠って、自然現象がそれに則って生じる諸規則の探究を枢要とする自然科学 の方法、と同一」なのである。当然ながら、この構想は形而上学全般、即ちその道徳哲学の構想全 般に及ぶものである。 k 一言しておけば、然るにその実在の在り様は、「超越論的弁証論」・「アンチノミー」に徴する限り、 明らかに論理矛盾の相で現象せざるを得ない。が故に、「コペルニクス的転回」以降の「批判哲学」 の真の課題は、改めて実在世界の「矛盾」を通じてその真理性の権利付けを可能とし得るべく、論 理的誤謬・仮象の原因を見定める普遍的真理の学としての新たな論理学を構成し直すことにあった ことになる。とはいえ、そこにこそカント超越論哲学構想の成否の鍵鎗である最大の困難が存した ことは想像に難くない。 カント超越論哲学・論理学構想の認識論・真理論上の三三である超越論的演繹論の実相の解明に先 立って、さしあたり先ず、以上の超越論哲学の構成上の特質を、カント道徳哲学構想の最初の表明 である『道徳の形而上学の基礎付け』、第三論調四節、「定言命法はどうして可能か」に確認してお くことにする。 周知の通りカントは、もっぱら自然哲学的研究を思想課題としていた最初期から道徳の問題を不 断に取り上げている。1750年代の終わりの頃から『形而上学的認識の第一原理』(1755)1『オプテ ’イミズム試論』(1759)等、独立の著述に於いて道徳の問題を取り上げ39、65年の終わりには、書簡 で「実践哲学の形而上学的基礎原理」の材料が既にできあがっていることを表明、68年には著作と しての「道徳の形而上学」の構想について述べている40。にもかかわらず、著作は完成せず、81年 の『純粋理性批判』の出版を垢面とする批判哲学の確立を待って漸く、その概要である『道徳の形 而上学の基礎付け』を85年に出版しえたにとどまる。批判哲学構想の発表以降、最初の批判的倫理 学であるこの著作の出版後も依然として、かねてよりの構想であった「道徳の形而上学」を十全な ものとして完成させたいという希望をカントはシュッツに宛てた書簡で表白している(1785年9月 13日付)41。 だが、それより先に世に問われたのは周知の如く88年の『実践理性批判』であり、道徳形而上学 の体系的著述というよりは、85年の『道徳の形而上学の基礎付け』を更に批判哲学的に突き進める 内容であった。そこに於いてカントは、自ら確立した批判哲学の立場から実践理性一般を批判し、 超越論哲学的に人格の概念的、形而上学的構造とその究極の意義とを解明してみせた。残るは、そ の超越論的演繹論の観点から、道徳の原理がいかにして現実の生活に適用されるのか、その展開の 実際を体系的に著述することであったが、それに先立って『判断力批判』がなお完成されねばなら ヘー Qルの『法哲学』 その成立の背景(1) 15 ず(1790年)、更にまた「超越論的演繹論」の度重なる改訂というカント超越論哲学自身を揺るが す困難もなおそこに立ちはだかっていた。87年12月24日付のヘルツ宛の書簡にカントは書いてい る。66歳になってなお自身の企図の完成のためにクリアしておかねばならない煩雑な課題として、 『判断直批判』最終部分の完成と、「この批判哲学の要求に従って自然の形而上学、並びに道徳の形 而上学の体系を完成すること」が先決であると42。 然し実際には『判断力批判』の出版(90年)以降もカントは、数々の書簡で表白している通り、 その道徳の形而上学構想に取り組みつつもそれを完成できずにいる。その理由としては、カント自 身が述べる種々の理由一高齢、宗教哲学上の著述の禁止、三一が知られているが、真 相はカント自身書簡で述べている通り、その構想がカント超越論哲学の深奥の鍵鎗を成す「超越論 的演繹論」の成否に関わるものであったであろうことが付記される。カント自身次のように書いて いる。「…わたしの問題は本来最広義の形而上学であり、従って神学、道徳学(それゆえそれとと もに宗教)、並びに自然法(それとともに国法及び国際法)を含んでいるので、しかもそれには現に 検閲官の手が厳しく加わっており、これらの諸方面の一つに於いて企てられる著述全体が検閲官に 抹殺されてしまわないかどうか知れたものではない」(1794年11,月24日ド・ラ・ガルド充書簡)43。 カント自身が述べる「再広義の形而上学」としての超越論哲学それ自体というべき道徳哲学体系 の出版は、97年に漸く果たされたものの、にも拘らず極めて不評なものであったことが知られてい る。例えば、ショーペンハウアーはその主著に於いて、出版された『道徳形而上学』「法論」につい て、老衰でただ死を待つばかりのただの年寄りの著作と酷評している44。だが、そうであろうか。「 カント自身の老衰によるといった通俗的な理由付けは措いて 一 カント自身の書簡での表白に も翰晦ゐ可能性が付度されうる 、一 その真の理由の解明が必要である。 先述のカント超越論哲学の体系構想からすれば、問題は、力学的自然解明を範とするような、普 遍的原理の特殊現実への適用、応用編といった本質のものではなかったはずである。如何にして実 践理性的に確立された道徳形而上学的原理の真理性を、感性界の道徳的真理として演繹、展開して みせるか、即ち、すぐれて法則論、真理論的な現実説明の課題にカント超越論哲学は直面していた のに他ならない。 『道徳哲学』の体系的著述に先立って、その批判哲学を踏まえた方法論を明らかにすべく『純粋 理性批判』出版(1781年)湿ただちに執筆された『道徳形而上学の基礎付け』(1785年)は、次の ような章立てで構成されている。「前書」に続く、第一章「道徳に関する常識的な認識から哲学的な 理性認識への移行」、第二章「通俗的な道徳哲学から道徳形而上学への移行」第三章「道徳形而上学 から純粋実践理性批判への移行」。 その構想から窺い知れる通り、常識的立場を去っ.て批判哲学的な理性認識の立場から超越論哲学 的な道徳形而上学が目指され、最終的に実践理性を通じてのその演繹、現実的展開が志向される。 問題は超越論哲学を踏まえたその形而上学の内容であり、次いでそこからの超越論的演繹を通じて の現実界への実際的展開である。 道徳形而上学を踏まえた超越論的演繹の解明である第三章第四節「定言命法はどのようにうして 可能か」をカントは以下のように書き出している。 「理性的存在者は、叡智者としては叡智界に属する。意志と名づけられるのは、この叡智界に 16 下城 属する作用原因としてのその原因性に限ってのことである。かたや他の側面とレて、この同じ理 性的存在者はまた自分を感性界の一員として意識している。感性界では、彼の行為は物自体を原 因性とする発現であるにとどまる。然しこの原因性は我々には不可知であるから、我々はかかる 原因性から現象の可能性を知ることはできない。故に彼の行為は、かかる原因性の代わりに別の 現象、即ち欲望や傾向によって規定せられたものとして感性界に属すると解せられるしかないこ とになる。私が叡智界にだけ属するとしたら、わたしの一切の行為は純粋意志の自律の原理に完 全に従っているだろう。また、わたしが感性界にだけ属するとしたら、わたしの一切の行為は欲 望と傾向という自然法則に、つまり完全に自然の他律にしたがっていると解されねばならないだ ろう。(前者は道徳の最高原理に、また後者は幸福の原理に依拠する)しかし叡智界は感性界の根 拠を含み、従って感性界の法則の根拠をも含むのである。またわたしの意志(叡智界にのみ属す る意志)について言えば、叡智界はこの意志に直接に法則を与えるものであるし、またそのよう なものと考えられねばならない。それだからわたしは、一方で自分自身を感性界に属する存在者 と見なさねばならぬにせよ、それにも拘らず叡智者としては叡智界の法則に従うものであること、 換言すれば自由の理念の中に叡智界の法則を含むところの理性に従い、更に意志の自律に従うも 。 のであることを知るのである。従って叡智界の法則は、わたしにとって命法と見なされ、またこ の原理に従う行為は義務と見なされなければならない」 (IV453f.) 見られるとおり、、人間は理性的存在者として「叡智界」と「感性界」にまたがって存在する。叡 智界の法則性は、感性界に属する我々の認識にとっては、批判哲学に基づき「物自体」として「不 可知」にとどまると言われざるを得ないが、とはいえ「叡智界」に「純粋意志の自律の原理」とい う法則性が支配することは事実として自信の前提とされており、その‘「原理」は「叡智界」の「原 因性」である「意志」.,が従う法則性であり、「叡智界」が「意志に直接法則を与える」という事実が 存在し、また「そう考えられねばならない」とカントは言う。感性界に所属する経験的意識は、こ の理性、意志の二重性に基づいて、叡智界に根拠を持つ「意志」に支配され、「理性」を通じてその 「意志」の内にある叡智界の法則性を「自由の理念」として理解し、「意志の自律」を通じて実現す る。従って、経験的意識の側面からは不可知の物自体に発する「義務」としか捉えられない「叡智 界の法則」は、言い換えれば絶対的「命法」の形式をとることになるB 明らかな通りカントは、『純粋理性批判』出版後ただちに執筆されたこの『道徳形而上学の基礎付 け』に於いても、批判哲学を踏まえながらも「叡智界」の存在を認め 一 精確には「そう考え ねばならない」とし 一 、そこに感性界における力学的現象と同様の「原因性」を想定して、 これを「意志」と規定し、それが服する「原理」「法則性」の存在を想定している。叡智界と感性界 にまたがって存在する「理性」の関係を、両界を縦断する「意志」の原因一結果の関係として因果 論的に連続的に捉え、その感性界に於ける発露を経験:的意識には「不可知」ではあるが絶対的な「義 務」「命法」として説明して見せるのである。最早、この道徳形而上学的構想に於いても、カシトが、 自身の言明どおり、ニュートン力学的自然科学的な方法論、認識論の構図で、感性界だけでなく叡 智界にまでその図式を推及して論じていることは明らかであろう。 直前の箇所でカントは次のように言っていた。「理性的存在者」は、「叡智者としては、・…自分自 身を感性界ではなくて叡智界に属するものと見なさざるを得ない」。それゆえ「理性的存在者」は叡 智界に所属する者としてと感性界に所属する者として、「二つの立場を持ち、それぞれの立場から自分 ヘー Qルの『法哲学』 その成立の背景(1) 17 自身を観察し得るし、また自分の能力を使用する場合の法則や自分の一切の行為の法則を認識できる」 と。そこから「こめ理性的存在者は第一に、もっぱら感性界に属する者としては自然法則に従うし (他律)、また第二に、もっぱら叡智界に属する者としては、自然にかかわりのない法則、換言すれ ば経験にではなくて、理性にのみ根拠を持つような法則に従う」とカントは言う(IV 452)。 とはいえ、「理性的存在者」としての「人間」の「意志」の「原因性」は、それが「叡智界」に発 するものであることから、「自由の理念の下でしか考えることができない」。「理性の自由」は「感性 界の規定原因に全くかかわりのない「自主性」である。「自律の概念は、自由の理念と分離しがたく 結びつき、また道徳の普遍的原理は自律の概念と結合」している。それ故「道徳の原理が理念とし て理性的存在者の一切の根底に存するのは、あたかも自然法則が一切の現象の根底に存するのと同 様なのである」(IV 452f.)。 先の引用に続けてカントは次のように言う。 「このようなわけで定言命法は、自由の理念がわたしを叡智界の一員にすることによって可能と なる。そこでわたしが叡智界の一員であるだけだったとしたら、わたしの一切の行為は常に意志の 自律にしたがっているぢろう。ところがわたしはそれと同時に、自分を感性界の一員と見なすとこ ろがら、わたしの行為は意志の自律に従う「べき」だ、ということになる。そしてこの定言的な「べ し」がア6プリオリな綜合的命題であるのは、感覚的欲望によって触発されるわたしの意志の上に、 同一の意志ではあるが叡智界に属する純粋な、またそれ自体だけで実践的な意志という理念が付加 されることによるのである。このような意志は、感覚によって触発される意志が理性に従うための 最高の条件を含んでいる。この間の事情は、感性界の直観に悟性の概念が付加されて、自然の一切 の認識の基礎となすア・プリオリな綜合的命題を可能にする仕様と大略同じである。 常識を実践的に使用してみると、この演繹の正しいことが確証される一」 (IV 454) 問題は然し、言うまでもなく、こうした超越論的演繹の妥当性である。カントが繰り返し述べて いるように、その道徳形而上学における当否は、自然科学的認識におけるア・プリオリな綜合判断の 成否とパラレルである。ではカントは、その自然科学的認識に於けるア・プリオリな綜合判断の可 能性をどう証明して見せていたのだったか。 『純粋理性批判』出版の六年後、1787年に発表された『自然哲学の形而上学的原理 (Principia metaphysica)』 一 以下『原理』と略記 一 第三部門「力学(Mechanik)」に於てカントは、 ニュートン力学の所謂「三法則」1を踏襲しつつも自身の『純粋理性批判』に於ける「カテゴリー」 表(「実体性」・「因果性」・「相互性」)に基づき、その「第一法則」「第二法則」を変更している(Vgl. IV 452f) 一 「第三法則」はカテゴリー表の「相互作用」にあたり、これは両者とも「作用一 反作用」則で同一である 一。 問題は、ニュートン力学の近代性・定量的科学性を最も体現していた「第二法則」 一 運動 量の変化率・時間微分 一 をカントが採用せず、「保存則」をその第一法則とし、「第二法則」 にニュートンの「第一法則」・即ち「慣性則」を配当している点にある45。 「力学の第二法則. 物質の変化はすべて外的原因をもつ(如何なる物体も外的原因に 18 下城 よって状態を変えさせられない限り、静止あるいは同一方向と同一速度の運動状態に不変にと どまり続ける)」 (IV 543) カント自身、上に引用した「第二法則」を「慣性則」と呼んでいるとは言え(Vgl.551)、それ をニュ「トンの定量的な「第二法則・運動量の変化率」に代えて第二法則に据えたカントの形而上学 志向に鑑みるなら、アクセントは後半の科学的規定ではなく、寧ろ冒頭の事実的「因果法則」の提 示にあると考えられよう46。 ニュートン力学の科学的特質を柾げてカントが自身の「カテゴリー表」に固執したのには無論理 由がある。『原理』執筆の根本動機、即ち「本来的にそう呼ばれるべき自然学は、先ず第一に自然の 形而上学を前提する」(IV 469)との信念から直載「第二法則」の改訂は発している。カントに拠れ ば、「全ての力学的法則は動力学的法則を前提する」のであり(IV 536)、先のニュートン力学「三 法則」の変更もカテゴリー表で「質」に相当する(Vgl. IV 474)「動力学(Dynamik)」を前提とし ていた。 「動力学」の「第一定義」でカントは次のようにいう。 「物質とは空間を充当する限りにおける運動するものである。空間を充当するとは、自らの 運動によって一定の空間へ侵入しようとする一切の運動に、抵抗することである。充当されて いない空間は虚空間である」 ’・ (IV 496) 見られる通りここで言う「抵抗力」、即ち「斥力」(Vg1, IV 536)こそ、「動力学に対する総註」 で「物質の種別」’一 「個体性」 一 を成立させる物質存在の第一原因、言い換えれば「根 底のカ」、即ち「根源力」としての「引カー斥力」であるのに他ならない(Vgl。 W 498)。何故なら カントが「不可心性」概念の観念性を嫌いあくまで実在的な「起動力(die bewegende Kraft)」 であると定義した「運動の原因」(VgL IV497)としての「引カー斥力」の持つ意味は、カテゴリー 表「量」に相当する『原理』「第一部門 運動学Phoronomie」の「第一定義 一 物質とは空間 において運動するものをいう」(IV 480)に則れば、まさに「物質」に他ならないからである。 要するにカントはその「力学 第二法則」に於いて、ニュートンを修正して、物在・世界を可能に する根本原因としての根源的な「力」の実在を主張しているのであり、前掲『純粋理性批判』「超越 論的弁証論 付録」に於ける「実体の原因」・「根源的で絶対的な唯一の根源力(Grundkraft)」(A 648f B676f)と同様の世界の根源的実在原因としての力の存在がここで主張されているのである。同様の 主張は『純粋理性批判』「経験の第工類推」に於ける実在的「因果律」の主張に於いても一貫してお り、その「プレディカビリエ」は文字通り「力」なのであった(A82 B108)ρ 『天界の一般自然史とその理論』(1655)で夙に示されていた「力」の定義 一 .「質量を結合 せしめた最初のモチーフ、物質に本質的に内在し、従って自然が最初に発動する際のその運動の最 初の原因にふさわしい」「天体の全運動の源泉」としての「引力」(1340)の規定一 以来そ れはカントに於いて一貫して堅持されている世界の根本原因なのに他ならない。 カントの哲学的営為に於いて常にその念頭を去らなかった上記の自然形而上学的・ニュートン力 学的構想の実相に着目する限り、実際のところその営為は当初より、批判期、『原理』に至るまで一 貫して、ニュートン力学が『プリンキピア』でこころならずも隠匿した自然形而上学的な「エーテ ヘー Qルの『法哲学』 その成立の背景(1) 19 ル」実在説、即ち「引カー斥力」説を継承的に展開し、それをさらに形而上学的に踏み込んで基礎 付けした、その補完、完成であり続けた。 が然し、となれば更めて、一体「批判」の画期とされる「コペルニクス的転回」の意味とは何だ ったのか、更にそこで革新された新たな超越論的論理学の論理構制が、批判期前後を通じて体系上 同一の「純粋自然学的」内容を保証しうる論理たりえていたかどうか、それが問題化せざるをえな い。 既述の通り、カントはその思想形成の最初期から、因果律を根本原則としたCh.ヴォルフの伝 統形而上学に対抗する必要上、「矛盾律」には懐疑的であった。このことは、換言すれば、判断の質 として肯定・否定の二値以外にそれ以上の連続的値が存在しうることをカントが構想していた意味 をもつ。つまりそれは「言葉」であらわされた肯定命題・否定命題双方がともに否定されるとき(も しくはともに肯定されるとき)、それ以外、それ以上の別の存在がその否定によって志向されうる可 能性を含意している。カントがそのような判断様態として、「判断表」の第三に「無限判断」を掲げ ていることは周知の事実であるが(A70 B 95)、その命名の理由は、「[否定的排除の後の]余領域 が無限であるゆえに」(XXIV/2931)と説明されている。 「無限判断」については既に伝統論理学のうちで繰り返し取り上げられていた。例えばヴォルフ はそれを「否定判断の外見を呈しながら、実は肯定判断であるような判断」と七47、同趣の規定をバ ウムガルテン、クルージウス、ランベルト等々に見いだすことができる48。また当時一般的だったラ イ\マールスの『論理学』には次のような内容が見られる。「言葉上は否定を呈し乍ら、実際は規定的な 意味を持つ場合。例えば、不死(Unsterblich)、無辺(Unermeβlich)、無限,(Unendlich)」49。が、 そうした謂わば論理的「仮象」を、新たな論理学の主題に据えるまでに発展させたのはカントを以 て弓矢とする。 カントは言う、「超越論的論理学」は「否定的述語を付しただけの論理的肯定値ないしは内容に関 してもその判断を考察する」(B97)。然しそれが「真理の論理学」・「超越論的分析論」ではなく、 「仮象の論理学」としての「超越論的弁証論」に於いてであることは銘記されておいてよい。 既にして、『否定量の概念を哲学に導入する試み』(1763)でカントは次のように言っていた。 「宇宙の全ての実在根拠は、一致するものを加え合わせ対立するものを差し引けば結果的に ゼロに等しい。世界の全体は自体的には無である。他の何かの意志によらない限り無である」 (H197) ニュートン「引カー斥力」説を髪髭とするその概念構成が銘記されるべきだが、併せて元来ニュ ートンを発見者の一人とする「微分」法は「極限値ゼロ」という否定的表示のもと「微分小」とい う肯定的存在を顕すのであったことを想起しておきたい50。 カントのこうした「無限判断」論に結実する思想的経緯の傍証として、所謂「沈黙の十年」にあ たる七十年代のカントの次のような遺稿が存在する。 「分析判断では述語bは主語概念aに向かう。然るに綜合判断では述語は主語概念aの客 体Xに向かう。何故ならば述語bは主語aに含まれていないからである」51 20 下城 「矛盾律」を絶対とし「可能的なものが存在である」とする伝統形而上学の観念性に飽き足らな かったカントにとって、主語概念が指し示す実在的客体Xへと向かう「綜合的判断」こそは採るべ き方途であった。「形而上学は概念の分析による認識である」と考えていたカントにあって(H274)、 今やその課題は「ア・プリオリな綜合判断の可能性」の解明へと「転回」する。 問題は、「私に平行して存在する或るもの」52、即ち「超越論的主語」53にabを共属させ得る論 理の究明に三二する。「無限判断」を基に考えれば、abは相互に否定されねばならないのであり、 その否定において無限な肯定的領域としての「超越論的主語」が確保される。一方、同時にそれは理 性内部の論理的矛盾・論理的破綻の存在一 「アンチノミー」一 を認める意味をも持つから、 超越論的対象の確保は最早理性以外の「感性」を通じるよりないことになる。「超越論的主語Xの感性 化」54一 所謂「物自体」の論理の発見 一 それがカントが辿り着いた、「矛盾」を内含し て成立する画期的な結論であった。 「光明の69・年」(Vg1.租69)ではまだ「懐疑的方法」(Vgl.B451)として朧に捉えられるに留ま っていた「無限判断」論が、「超越論的綜合判断の可能性」の探究に拡張され、「アンチノミー」の 発見に至って決定的となる。実のと’ころ「超越論的弁証論」・「アンチノミー」の機縁となったとさ れるヒュームが既に次のように言っていた。 「我々は、外的対象のうちに宿るあるものとしての究極的かっ作用的な原因を知りたいと言 うとき、明らかに自己矛盾に陥るか、無意味な言明を口にするか、どちらかである」55 世界の形而上学的第一原因として実在的「カ」・実在的「因果律」を考えてきたカントにとって、 ヒュームのこうした問いが一連の「数学的」「力学的」「アンチノミー」にパラフレーズされたこと は推察に難くない。そのうちの「第一アンチノミー」、即ち「世界の空間・時間的有限性・無限性」 (A426ff B 454ff)を例にとれば、そのテーゼもアンチテーゼもともに偽である以上「世界」は 有限・無限いずれの時空量も持たない存在であることとなり、即ち「世界」はその無限存在性を肯 定されて「超越論的主語」化されることになる馳一併せて、空間・時間については、それを主 観の形式とする以外なくなる 一 。カントによれば「あらゆる仮象は、判断の主観的根拠が客 観的と見なされることにおいて成立する」(IV 328)。その「仮象」 一即ち矛盾の外貌を呈し ていながらその実、真の矛盾対立をなさず、反対対立もしくは小反対対立にしかなっていないケー ス 一 を真の「無限判断」にまで深化させ、「超越論的主語」としての「世界」を「無規定的」 =「物自体」的に確保していくのが、「超越論哲学」核心の「超越論的弁証論」である。それは『原 理』では、ランベルトに倣って「仮象の学」とされる、「第四部門 現象学」に継承される56。 「定理二 物質の円運動は、空間の逆方向の運動とは違い、物質の実在的述語である。対 するに、物体の運動の代りに相対空間の逆方向の運動が想定されると、それぽ何ら物体の実在 的運動ではなく、もしそう見なされるとしたらそれは単なる仮象である」 (IV 557) 言うまでもなくこれは「天動説」の仮象性について述べた「コペルニクス的転回」のイラストレ イトだが、抑々ニュートンの「万有引力」、即ち「天体を結びつける見えざる力」(BXXII Anm.) の発見にしても、悟性常識的には月とリンゴが「地面に落ちる」/「落ちない」という見かけ上の ヘーゲルの『法哲学』 その成立の背景(1) 21 矛盾関係を形成していたのに対し、宇宙規模に視点を移すことでその矛盾は解消され、「万有引力」 と言う新たな「超越論的主語」にそれぞれの現象がともども共属されることになる、そうカントは 主張するのである・。. そのうえで、然しそうした「世界」の「無限判断」的な発見 一 理性的諸命題内部の矛盾の 否定を基にした「世界」の「超越論的主語」としての発見=「物自体」としての発見 一を方 法とする「超越論的論理学=認識論=存在論」は、一体充分にそれ自体「真理」としての普遍性を 有しているのだろうか。それが更なる問いである。 先の懸賞論文『自然神学と道徳の原則の判明性』(1764)でカントは、「形而上学」を「数学の定 理」同様明らかな普遍的真理であるとしつつ、然し「証明不可能な根本命題」を単数とのみ考える 常識の独断性を批判して(Vgl. H 281)次のように述べている。 「そのような命題は、直観的認識同様、具体的考察による解明のみ可能である。然し決して 証明はされない」 ’ 1(H281) クルージウスに倣って、論理的認識根拠と区別して実在的真理根拠の必要性に想到していたカン トは、ここに至っていよいよ両者を峻別し、形而上学的実質原理の必要性 一 即ち「アプリオ リな綜合判断」探究の端緒57一 に既に気づいていたと見ることができる。 「実体、因果性、正しさ、公正さというようなア・プリオリに与えられた概念も、厳密に言 えば定義されるものではない。 …概念分析の周到性は常に疑わしく、従って周到性は、しば しば適合する実例によってのみ蓋然的には確実となり得るが、然し必然的には確実になりうる ものではない。そこで私は、定義という語の代りに証示(Exposition)という語を使用したい」 (B 756f.) 『純粋理性批判』の要である「カテゴリー」に関しても本質は同様である。 鵠 「私はこれらのカテゴリーに定義付をおこないたいのだが、この論文では故意にそれを省略 する。私は後の著作で方法論に関して必要な程度までこれらの概念を分析するであろう」 (A82fB108f) さりながら、事はかかる真理性の事実的本性に関わっている。『批判』全体の末尾「超越論的方法 論」でカントは言う。 「生起するものはすべて原因を有するといった命題[因果律]は、そこに与えられた概念だ けからでは決して根本的に理解され得るものではない。 …それは他の見地、厳密に言えばそ の可能的使用の唯一の分野である経験においては、十分に必当然的に証明されうるけれども、 とはいえそれは本来的にはまだ証明を必要とするものであり、原則とは呼ばれても、決して定 理と呼ばれるべきものではない。というのも、この命題はその証明根拠である経験を先ず自ら 可能化し、しかもこのような経験において常に前回されねばならないという特殊な性質を持っ 22 下城 一 からである」 (A 737 B 765) 「対象に意味を与え、それを定義する仕方」が「カテゴリー」の機能なのだから、当然「カテゴ リー自身は定義されえない」(A241)。さながら「超越論的概念」の「統制的」使用を髪髭とさせ るが、第二版でのこの文言の削除が示すようにここに問題の鍵鎗があったことは問違いない。それ が「超越論的演繹論」を紛糾させた原因でもある。 が然し、ここに累ねて「権利根拠」についてのカント独自の思考を考え併せる必要がある。「論理 的真理根拠」を明らかにする「証明根拠」に対し、カントがそれとは明確に区別する必要を認めた 先の「実在根拠」に対するそれが「権利根拠」である。そしてその内容こそ 一 当時の法廷論 争用語から採られ、相手方の論証の論理矛盾を否定的に論証することで自身の主張の肯定性を担保 する、頗る「無限判断」的な一カント独自の「演繹」概念の意味内容であった(Vgユ.B116)58。 「それゆえ哲学は公理を持たず、さりながらア・プリオリな原則をそのまま思考に押しつける ことも許されない。寧ろ哲学は、そのア・プリオリな原則が有権的であることを、根本的演繹に より弁明することを以て満足せねばならない」 (B761f) 「権限、あるいは権利要求を明きらかにすべき証明を演繹と呼ぶ」 (ibid.) 「概念の所有の起源」を問題にする「事実問題」から区別して、哲学が取り組まねばならないこ とは、「そのような概念をいかなる権利で所有し、またそれを必要とするのか」という実際的・実在 的な「権利問題」に他ならない(Vgl. X∼皿267)。 「批判はいかなる付与された表象も生得的表象も絶対許さない。表象が直観に属するものであ れ、悟性に属するものであれ、批判はそれらをことごとく獲得されたものと見なす。然るにそこ には(自然法学者が言うように)根源的獲得、即ち以前にはまったく存在せず、この獲得という 行為に先立っては何ものにも属さないものの根源的獲得というものもあるのである。批判の主張 するところによれば、このような根源的獲得は、第一に空間・時間における物の形式、第二に概 念における多様なものの綜合的統一である」 (皿211) 従って実の処それは「実践哲学」的課題に全く相即することともなる。『実践理性批判』の課題は 周知の通り、「純粋理性の事実」の「演繹」、「即ちこのような最高原則の客観的・普遍妥当性の弁明」 であったのに他ならなかった(KpV. V 80f.)。 翻って惟えば、「純粋理性の事実」を前にしてカント批判哲学が採るこの「超越論的演繹」法は、 ニュートンが『プリンキピア』で採ってみせた方法論 一即ち「物質量」「内在力」「外在力」 等の「定義」から出発し、そこで用いられている「空間」「時間」「位置」「運動」等の基本概念につ いては周知のものとしていっさいそれら自体は定義せず、ただ実例を「注解」として示すにとどめ る構制 一 と同趣のものである。両者ともその根源的原則の証明は、論理的に遡源不可能であ る故に、「事実に訴える」以外無いとする。 ヘーゲルの『法哲学』 その成立の背景(1) 23 カントは、先に例証したニュートン「引カー斥力」説の継承的展開を端緒として、新たに構想し た「無限判断論」・「超越論的論理学」を駆使して、『プリンキピア』の方法論 一 「近代自然科 学j的方法論 一 を哲学的に「基礎づけ」、補完、完成したと言えよう。『原理』冒頭に掲げら れた次の言葉は、それゆえそうした経緯を持つ超越論哲学全体を貫通する通奏底音である。 「すべて特殊自然論においては、そこに数学が認められる程度によってのみ本来的な科学が’ 認められる」 (IV 470) 無論その意味は、「数学」が「理性の事実」として事実正しく真理であり続ける限り、という限定 付きであり、その限り、理性構造そのもののうちに含まれる矛盾的契機の否定を媒介に「無限判断」 的に発見された「理性の事実」に対して「超越論的哲学」は、それが「何か」を問うのではなく「如 の 何にそれが可能か」を問う「超越論的根拠付け」・「超越論的演繹論」をこととするのである。その 意味でそれは「予備学」』と呼ばれるのに他ならない(VgL B 19)。 「超越論哲学」の真相が以上のようなものであるとき、その延長として標貌されるカントの「意 志の自律」の漏壷学・「純粋統覚」論の意味合いち当然変化せざるを得ない。 カントは、「直観の多様」を綜合する必然性の根底として、その「超越論的根拠」・「超越論的制約」 としての「超越論的統覚」を提起し(A106f.)、その本質的規定としてそれに自発的能動性を与え ていた(ibid.)。かかる「自発性」は然しまだ、「直観的所与としての多様の綜合」に侯つものと して経験を免れないが、直観の多様が綜合される際の主体=「思惟する自我(lch denke。)」と「多 様」との「必然的関係」は、この主体性の全き「自発性の作用」のみに拠るものとして、それをカ ントは「純粋統覚」と定義する(B132)。「全き自発性」としてのこの「純粋統覚」は、純粋に能 動的な「規定する自己(besti㎜ende Selbst)」として 一頗る「力学的」に、即ち一方向一義 必然的に 一 受動的な「規定される自己(besti㎜bare Selbst)」と区別され(A 402)、「悟性」 に上位する「純粋活動1生」、即ち「理性(lch will/lch handle)」(A 546f B574f)として定式化さ れる。「悟性」が従うべきは対象存在の「事実必然性(Sein)」であるが、「理性」の従うべきは「当 為必然性(Sollen)」のみとされ、これを以て理性の全き「自律」、理性の「自由」が確保されると カントは主張するのである(Vgl.IV 452)。 問題は無論その全き「自律」である。先に見た超越論哲学の根本性格に徴するなら、「無限判断」 を通じた「超越論的主語」としての「物自体」としてであれ、どの様な判断もそれが真なるもので ある限り、経験的実在成分、即ち所与としての受動性、を何がしかは含まねばならなかった筈であ る。 その点に鑑みるとき、然し更に検討されるべきは、純粋な自律的理性が関わるとされるその「当’ 為必然性(Sollen)」、即ち「法」の存在性格であろう。 カ「ントは『実践理性批判』でそ.の点を考察して次のように言う。道徳主体としての「理性」は、 髄かに「感性的」要素からは独立でありその限りそれは消極的「自由」を達成しているのだが(V30)、 一方「法」は形式的条件としての「立法」を通じて「意志」を規定する。 丁自由な意志は、法の実質から独立しているにしても、なおその規定根拠を法のうちに見い ださねばならない」 (V29) 24 下城 従ってそれ示それ以上に積極的自由、即ち真なる意味での「自律」を獲得するためには、主体は 「自身の意志の格率が、常に普遍的法則となるように」、不断に意欲を続けなければならないのであ る。「意志」は、「自己立法的なものとして、まさにそのゆえにはじめて法に服従する」(Vgl. IV 431)。 見られる通り「自己立法する」「自由な意志」も、その全き「自律」を獲得するためには自身の立 法内容が「常に普遍的法則となるように」現実的実在と関係しないわけにはいかないのであり、そ の論理が、法廷論争的に問主観的承認を得るために「事実に訴える」、.「超越論的演繹論」同様の論 理構立 一 即ち、矛盾する現実の自由な批判的否定を通じて自己を無限の肯定的領域=「法」 領域に置く、「無限判断」論的論法 一 だったとしても、尚のことそれは「感性的」にではあれ 「物自体」的実在 一 如実には自ら「構成」する力学的表象 一 に律せられざるを得ず、 その限り「全き自発性」「純粋統覚」に拠る「自由意志」・「理性の自由」も、実際には経験的実在に、 対し完全に「自発的」な、即ち極めて力学的な一方的r一方向的一因果連関性を維持することは不 可能なのである。実際その関係はあくまで双方向相互的でなければならないというのが、「超越論的 哲学」本来のの結論である。 カント自身『批判 第二版』の加筆では、「超越論的演繹論」を相互承認論的な「法廷」モデルに 依拠させて展開しており、虚心にそれに即して思考していれば、「意志の自律」の相互承認的本質は もとより、「法(Gesetz)」の実践・自然両哲学横断的な 一 まさに「数学」がそうであるよう な 一 優れて「自己立法的」な本質も見抜かれ得た筈である。 近代自然科学の強固な実在主義も容易に相対化し得る筈のその洞察を然しカントが採らなかった 理由は、結局、「超越論哲学」を最後まで主導していたのが 一 「自己立法的」な「数学」では なく 一 やはり「実在的」な「カ」の学、即ち「ニュートン転学」であった事実に尽きる。 如上のような本質をカント超越論哲学が有するとき、先に引いたとおり、スピノザを例にその演 繹的な法則性のあり方を問題にしていたヘーゲルにとって、否応なくカント超越論哲学との全面的 な対質へと進まざるを得なかったであろうことは容易に想像される。95年の1月の終わりにヘーゲ ルはシェリングに宛て書いている。 「…暫く前からまたカントの研究に取り組んでいる。(中略)…時間が得られれば、道徳的信 仰の確立によって正当化された神の理念を用いて、それを逆にどの程度まで、例えば世界の目的 関係性の解明に用いてよいのか、目的関係を道徳的神学から物理的神学にまで及ぼし、そこを支 配するもとのなしうるのかどうか…、これこそ摂理の理念、奇跡、ないしはフィヒテのように啓 示の理念の解明に当たってそもそもの我々の採るべき途だと思われるのだ。…」59 この直後にヘーゲルが取り組むことになるのは、イエスの口からカントの定言命法を語らせ、ま たその道徳法則の感性界への発現にともなって不可避の実定性問題と回り組んだ「イエスの生涯」 であり、「ドイツ憲法論」であることは既に繰り返し指摘した通りである。 カント超越論哲学の問題を自然哲学の方向に遡って捉え返し、自然哲学とパラレルに構想されて いる道徳形而上学の法則を概念的に問題として、実定性問題に取り組んだヘーゲルがやがて突き進 む方向は、その超越論的演繹、展開法の批判として現象学的弁証法を対置した『精神現象学』であ ヘー Qルの『法哲学』 その成立の背景(1) 25 り、それをもとに超越論的論理学の改訂としての『大論理学』、そして「道徳形而上学」が超越論的 演繹論を通じて展開しようとして力学的因果法則性の制約から果たせなかった、現実の法体系の弁 証法伊興展開としての、『法哲学』に他ならなかったのである。 註 ’カントからの引用はアカデミー版全集により、括弧内に巻数と頁数のみ略記する。 『純粋理性批判』は慣例に従い第一版をA、第二版をBとして頁数を括弧内に略記。 Kant’s gesammelte Schriften.且erausgegeben von der K6nighch Preu6ischen Akademie der Wissenschaften. ヘーゲルからの引用はズールカンプ社版全集により、括弧内に巻数と頁数のみ略記。 Hegel samtliche Werke in zwanzig Banden,Suhrkalnp. また、ノール編『ヘーゲル初期神学論集』については、括弧内に略号Nと頁数のみを略記。 Hegels theologishe Jugendschriften, hrsg. v. Nohl,H.,1907 第一節 1 テクストは以下の通り。ノール編集『ヘーゲル初期神学論集』の該当稿、該当頁と、.シューラ 一による初期断片のクロノロギーを掲げる。 1 , 「民族宗教とキリスト教」:VbU二sreligi・n und Christe・・tum 予稿 ノLル、353−359頁(Sch貢1er N五29−31. 1792/93) 基本稿 』 3−29頁(Sch丘ler M31. 1792/93) ・ 続稿 30−71頁 359−360頁(Sch負ler Nr.37,39−42,44−46 1793/94) (1 9−103) Vg工;Nohl, a.a.0., ;Sch並le葛G.,Zur Chronologie von Hegels Jugendsschriften.,Hegel−Studien,Bd.2, $.111−160 2 例えばヘルダーリンと比較した場合、少年時の日記等に於いてヘノヒダーリンでは顕著な三度主 義的表白がヘーゲルには見られない、ということが報告されている。 る 久保陽一「啓蒙と宗教」、加藤尚武他門『ヘーゲル哲学の現在』世界思想社 1998.69頁参照。. 3 リパルダは、当時のヴュルテンベルクに代表される市民社会を、近代化により「分裂した国民」 と評している。 Vgl.;Ripalda,J.,Poesie und Politik beim fr曲en Hegel,in且egel−Studien,Bd.8,s.110f :Fuhrmann.M., Die QuereUe des Ansience und des Modernes der Nationalismus und die Deutsche Klassik.,in Studien zum achzehntenJahrhundert,Bd2/3,1980,s.49−67. 4 ヴュルテンベルクに関する資料としては以下のものを参照。 Vgl., Hegel,Uber die neuesten inneren V6fhaltnisse Warttembergs,1798,Vbrhandlungen in der Vbrsammlung der:Landstande des K6nigsreiches Whrttemberg im Jah士e 1815 und 1零16, 1−XXX皿:,Abteilung,1817 Rosenzweig,E,且egel und der Staat,1920 5 「ヨーロッパで憲法と称されるに値する二つのものは、英国憲法とヴュルテンベルクの憲法」 と賞賛したのは、英国の政治家C.G. Foxであるが、ヘーゲル自身、少年時の目記(85年12,月4 7 26 下城 一 日)で民会の法律顧問J.J. Moserを「我々の国の最高の華」と賞賛している Vgl.,Documente zu H:egels Eh.twicklullg,hrsg.vJ.Ho血eiste葛1936, s.24 6 ルター派教会は、ヴュルテンベルクの民会に管長を代々送る慣わしだった。また、後に触れる、 ルター派の根本信条宣言「和協(一致).信条」(1580)の成立には、ヴュルテンベルク、チュー ビンゲン大学教授アンドレーエがその編者として関わっている。 7 1770年の相続協定は民会がオイゲンの課税権に強力な制限を設ける内容であり、国王に対す る民会の充分な民主主義的権力を示して余りあるが、その保証者として、プロシア、イングラン ド、ハノーヴナー、デンマルク等当時ヨーロッパ屈指の鐸々たる都市が名を連ねている点を見て も当時のヴュノセテンベルクのヨニロッパに占める高いステータスを窺い知ることができる。 8 Vgl., Rosenzweig,E,Hegel und der Staat,1920 9’ ugl.;Nohl, s.3」〔f lo Vgl.,Documente zu且egels Entwicklung,hrsg.vJ.Ho血eiste葛i936,s.9f ll Vgl.,Op.cit.β.37. 12Vg上,Vbrtra面chβBriefb曲er das vormalige staatsrechtli6e Vbrhaltnis des Wadtlandes(Pays de Vaud)zur Stadt Bern.1798(,Documente zu且egels Entwicklung,hrsg.vJ.Ho雌neiste葛 1936,s.9f,247−257,457−465) ファルケンハイムの発見によりヘーゲルの最初の出版物として知られるようになったこの文 献は、ベルンの開平ヴァートの法律家カルがベルンの革命家ラ・アルプに宛て’た書簡の形式でベ ルン政府を弾劾した内容の出版物を、ヘーゲルがその翻訳とともに自身のベルンの国法に関する 詳細な研究を基とする丹念な注解をつけて出版したもの。フランス革命の余熱が色濃い内容では あるが、家庭教師先のシュタイガー家文庫、トゥシュク城文庫等の目録から、ヘーゲルが極めて 特殊なベルン国法関連の文献まで研究レたことが知られてい.る。 Vgl.,Falkenheim,且., Eine unbekannte politisdhe Druckschrift Hegels(Preu6isch Jahrb貢che葛 :Bd.138) Stram,H., Aus Hegels Berner Zeit(Archiv fUr Geschichte der Philosophie,Bd.41) .13Vgl.:(X掻5’24) 14Vgl.,Documente zu Hegels Entwicklung,hrsg.v:J.Ho血eiste葛1936, Vbrwort. 15Vgl.,(V旺26) 16Vgl.:Dokumente zu Hegels Entwiddung. hrsg.田of㎞eiste篤E.und Michel,KM,1969f, 421,405,424f usw. 17Vgl.,且irsch,E.,Geshichte der neuem evangehschennTheologie,Bd.4,5,1952,1954. ,18VgL;G.E.レessings Werke,Bd.7,且rsg訊G6pfbrt,H.G.1976,s.311f 19 ugl. Reimarus,且,S,Apologie oder Schutzschrift fhr die vern並nftigen Vbrehrer Gottes, hrsg.v; Alexande鴨G,1972,Bd.皿,s.20f 20’ ugl.,Unge蔦R,且arpann und die Aufklarung.1963. 2王 ugl.,且erde鴻J.G.,Samthche Werke,!877−1913,Bd.7,hrsg.vSuphan,B., Bd.16,s.479f Bd.5,s,519. 22Vgl.,Jacobi,E且.,t「ber die:Lehre des Spinoza,1785,s.215fusw. 23 @ヘーゲルによるズルツアーの著作からの抜粋が遺されている。 Vgl., Documente zu且egels Entwicklung,hrsg.vJ.且。血eisteU936,s.109−115. 24Vg1。,Storr, G.C.,Bemerkungen廿ber Ka耳t’s phiosophiesche Religionslehre,1794,s.2f£ ヘー Qルの『法哲学』 その成立の背景(1) 27 25Vgl.,H:61derlin,J.C.E,Samtliche Werke,hrsg.vBeisslle葛F.,Bd.6−1,s.181. 26且egels theologishe Jugendschriften,hrsg.vNohl,且.,1907,s.12. 27 ebellda. 28 @ebenda 29Vgl.:久保注14 30 ugl.:D48f’久保70頁 第二節 一 カントからの引用は、『純粋理性批判』は、慣例に従い第一版をA、第二版をBとし各 価数を、その他はアカデミー版の巻数頁数を括弧内に記す。 31 bh.WolePhilosophia prima sive ontologia.;Gesammelte Werke Bd.1.2§135, s.116. 32VgLKant;Principiorium phmorum cognitionis metaphysicae Ilova dilucidatig(1393). 33 @こうした解釈め定番として、その時期のカントの志向を「物理学者の物自体」と評したアデ才 ッケスを参照 Vg1.Adickes,Kants Opus Postumum,239 34Newton,Isaac Newtolゴs Philosophia naturahs Principia mathematis 3rd ed.(1726),p.764 35 @第二版(1713)で追補された「総註」末尾でニュートンは、神の世界創造の賞揚に続けて、あ くまで自身の論考が重力現象の解明に留まり重力そのものの解明には立ち入らないとした後、に もかかわらず、一転、以下のような自然汎通的な「微細精気(spiritus subtilissimus)」論を展 開する。ニュートンの隠された真意に対する丁度を誘わずにはいない箇所である(Vgl. Westfall;Force in Newton’s Physics, p 391f)。 「この精気の力と作用によって、諸粒子が近距離で互いに引き合い、接触物は結合し、帯 電物体は遠距離で作用し、隣接の粒子を引きつけたり退けたりする。またそれによって光が 放出、反射、屈折、回折され諸物体が回せられる。更にまた、全感覚が刺激され、動物の分 肢が意のままに動かされるが、それはこの精気の振動が神経繊維を通って外官から脳へ、脳 から筋肉へ伝わることによる。」 (Principia 764f, Vgl.16) 並びに『光学』「疑問31」(Opticks;Opera omullia,260)参照。 因に、ニュートンはその修学時代以来デカルト的実在「力」の概念として 一 「力学」 的には不要の 一〒 「内在力(vis insita)」概念に固執し続け、現象主義的な方法論上不要 である筈の『プリンキピア』でもあえてそれを「外力(vis impressa/actio作用)」に抗す る受動的・内在的な 「ポテンツ(potentia)」と呼びi換えてその維持に努めただけでなく (VgLPrincipia 40)、第;版追補の「哲学の規則!ではそれを物体の基本性質に算入するに及 んでいる。ニュートンの形而上学的 側面 一 「カ」の実在視 一 の実際を窺わせる ものとして興味深い。 36 @松山寿一 『ニュートンとカントーカと物質の自然哲学』(晃洋書房1997)第三章「引カー 斥力とモナドー ニュートン派の引カー斥力説とカントの自然モナド論」、142頁以下参照。 37 38 ugl.Peter Plaa6;Kants Theorie der Naturwissenshaft.1965, Vbrrede§3. @こうしたカントの事実追認的態度・物理学主義に関連して以下の論考を参照。 28 下城 一 カントのカの概念に関して、 , Vgl. H.H;eilns6th:Metaphysische Motive in der Ausbidung des kritischen Idealismus,ip Studien zur Philosophie Immanuel I(ants, s.189f£ 黒崎政男 「『純粋理性批判』と力の概念 一 自然の統一と多様性をめぐって 一 (東京 大学文学部哲学研究室、『論集1』 1972 所収)、 またそのカント超越論哲学が未だ払拭し切れずにいる物理学主義的「力」学的世界観を、カン トによる「因果律」の無批判的受容を攻略拠点に本質的に批判したのが、ヘーゲルr精神現象学』 「意識」最終節「カと悟性」.である。 拙稿「力と悟性一ヘーゲル「カ」概念批判の射程」(『倫理学年報』45集慶応通信1996 所収 83」97頁)参照。 39 @例えば、カント全集第2時前批判期論集■岩波書店2000、所収の『形而上学的認識の第一 原理』(1755年、特に第三章222頁以下)『オプティミズム試論』(1759年、274頁以下)等、参 照、 40 i40,X73),1768年5月9日ヘルダ曲球書簡(括弧内はアカデミー版の書簡番号、巻数、頁数)。 カント全集第21巻 岩波書店2003、42頁以下参照 41 i243,X406),1785年9月13日シュッツ宛書簡。カント全集第21巻岩波書店2003、223頁 以下参照 42 i312,X512),1787年12,月24日ヘルツ宛書簡。版カント全集第21巻2003、290頁以下参照 43 i643,)q530),・1794年11,月24日ド・ラ・ガルド宛書簡。カント全集第22巻岩波書店2005、256 頁以下参照. 44Vgl.;Schopenhaueゆie Welt als WiUe und Vbrstellung,1818,viertes Buch,§62, Samthche Werke,hrsg.v:Frauenstadt.1873,Bd.2,s.410f£ 45 46 シ山寿一、前掲書211頁以下参照。 @先に註(35)で指摘しておいた通り、ニュートン自身一件の現象主義的な『プリンキピ ア』内部においてさえ 一 実在的な「慣性力」に拘泥した事実を想起。 47Vgl.,Ch.WoE a.a.0.,§209,s.201. , 、 48Vgl.,:Lambert,Neues Organon.1764(Phiosophiesche Schriften. Bd. H 1965),s.217. Baumgarten,Acroasis logica.1761,§126.s.38f Crusius, Weg zur GewiBheit und Zuverla6igkeit der meIIschlichen Erkenntni6. 1747(Hauptwerke Bd.皿.1965.)§226Ls.426. 49Reimarus,Die Vbrnunnftlehre,1766(1979),§151,s.149. 50Vgl.Hermann Cohen,Werke Bd.IV,:Logik der reinen Erkenntnis s.124. 51Kant,Der Duisburg’sche Nachlas串und I(alltsKritizismus um 1775,18(7)s.97 52Der Duisburg7sche Nachlass,a.a.0.,8(5) 53 @a.a.0.,10(18) 54 a.a.0. 55David Hume,The philosophycal Works,vol 1,p.546. 56:Lambert,Neues Organon, Philosophische Schriften, Rd I,215. 57 ugl. Dieter且enrich,Kahts Denken 1762/3,亡ber den Ursprung der Unterscheidung analytischer und synthetischer Urte丑e,in Studien zu Kants Philosophischer:Entwicklung. ヘー Qルの『法哲学』 一 その成立の背景(1) 58 ホ川文康 『カント第三の思考 一 法廷モデルと無限判断』(名古屋大学出版会1996) 151頁以下参照。 59Hege1,Briefb von und an 1ヨ:egel,hrsg.vJ.Eof6meiste葛1952(PhB235),Bd.1,s.17. 29