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『伊藤熹朔 舞台美術の巨人』
編集:俳優座劇場 出版社:NHK出版
定価:本体 2,100 円+税 ISBN:978-4-14-009355-9
荒井 修子
脚本家 序章で、現日本舞台美術家協会の理
藤道郎、弟に演出家・千田是也(本名・
オペラ、ミュージカル、日本舞踊、バ
事長、堀尾幸雄がお言葉を寄せてい
伊藤圀夫)がおり、ほかの兄弟たち、
レエ、ダンス、人形芝居と、大小を問
る。
(以下、敬称は略させていただきま
親戚たちの多くが芸術家である。
わず、あらゆるジャンルの作品を果て
す)
子供の頃から弟である後の千田是
しない数、デザインした。
「早い話『舞台美術家とは=伊藤熹
也と父の建築図面や建築模型、野外の
1954 年 4 月に俳優座劇場が開場し、
朔だ』と言っても過言ではない」と。
パノラマを真似して遊んでおり、13 歳
伊藤熹朔は代表取締役会長の久保田
この本は、俳優座劇場が 2014 年に
のときにはすでに、兄、道郎らが創立
万太郎に次ぐ、代表取締役社長に就
創立 60 周年を迎え、その創設者・伊
した演劇集団「とりで社」の第 1 回試
任。劇作家・菊田一夫が、時に書き悩
藤熹朔の業績や個人の背景、考えなど
演で小道具の燭台を作り、舞台美術と
んでいると、熹朔が先に舞台を作っ
を 1 冊にまとめた著作だ。
「伊藤熹朔」
出会っていた。
て、それを見て書いたと語ったほど信
と言えば、舞台関係者の方々には説明
その後、青山学院中等科から東京美
頼されていたという。
不要の人物であり、舞台美術、映画、
術学校西洋画科に進み、その後は、小
脚本の理解に長け、劇作家が心から
テレビなどの舞台美術家として、あら
山内薫らと築地小劇場を興した土方
信頼する舞台美術家、それが伊藤熹朔
ゆる作品を手掛けて来られた先駆者
与志が、築地小劇場を始める前に行っ
であった。
と言うべき方であるが、この本には、
ていた土方模型舞台研究所に参加し、
しかし、著名な作家から信頼をされ、
業績のみならず、生い立ちからその哲
舞台美術助手となってから、本格的な
舞台美術の第一人者でありながら、こ
学に至るまで、かなり詳細な記述があ
キャリアをスタートさせる。
の本に掲載された遺稿からは、舞台作
る。
舞 台 装 置 家 として のメジャーデ
りに対する真摯で謙虚な姿勢が多く
この本を読んでいると、伊藤熹朔が
ビューは、1925 年 1月の築地小劇場公
見受けられる。
歩んだ道は、日本の大正、昭和期にお
演第 19 回公演『ジュリアス・シーザー』
中でも、舞台美術が演劇の中で独自
ける舞台芸術の歩み、そのものである
だった。
な価値を主張したいと考えて、舞台美
ということがわかる。恥ずかしなが
裕福な家庭の子息として何不自由
術だけが拍手喝采を得ようとするこ
ら、私も、その偉大な功績のほんの一
なく過ごしてきたかと思うが、そうで
とを「無駄な努力」と一蹴している。
端を知るに留まり、その人となり、考
はない。
「舞台装置は演劇という総合芸術の
え方などを深く存じてはいなかった。
1923 年には関東大震災があり、築
一つの部分(中略)劇作家の心を、俳
この本で新たに知ったことは、まず、
地小劇場はそれを機に建設されたと
優の心を自分の心としなければ舞台
伊藤熹朔が芸術界の「華麗なる一族」
いう経緯からしても、伊藤熹朔の若手
装置の仕事はできない」と書いてい
であることだ。
時代は世間の動乱期であった。また、
る。
「画家であってはいけない、舞台
彼は、1899 年 8月1日、東京・神田で、
裕福な家庭ではあったとはいえ、父・
装置家になれ」とも。卓越した能力が
伊藤為吉の息子として生まれた。
為吉の人生は、浮き沈みが激しく、家
ありながら、周囲と調和することこそ
為吉は、アメリカに渡って建築を学
族は常に翻弄されたという。
が作品を最良のものにするという考
び、初代銀座服部時計店などを作った
しかし、そんな中でも、伊藤熹朔は、
え方ができること。伊藤熹朔が、周囲
著名な建築家である。兄に舞踊家の伊
新劇、歌舞伎、新国劇、新派、商業演劇、
から第一人者と言われ、ともすると傲
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Journal of Japan Association of Lighting Engineers & Designers
慢になりかねない立場にありながら、
る苦労話も多く語られているが、それ
ビなどの関係者が大勢集まり、盛大な
真摯で謙虚な気持ちをもち続けられ
以上に印象深かったのは、舞台の裏方
演劇葬が行われたのだが、その後の惜
るということに、才能以上に彼の心の
の人を紹介するくだりだ。
別の思いを綴った言葉もこの本には
深さを感じる。文中には、
「この世で
「縁の下の力持ちで一生終わってし
綴られている。舞台美術家の金森馨
決して怒らないという人は傑物に相
まう人もいる」
は、
「伊藤熹朔先生の舞台装置の概念
違ない、それが彼だ」と伊藤熹朔を称
そういった人の話はあまり知られる
とその世界。それは非の打ちどころが
した文章もある。
ことがないからと、詳細に紹介してい
なく、
“舞台の法律”ですらあった」と
この本を読んでいると、才能という
る。それも、すべての人の仕事を褒め
書いている。だが、その文章の最後に
ものは、強く正しい精神の中にこそ宿
ている。その描写が細やかであること
は、師の打ち立てた至上の舞台装置の
るのだと再認識させられる。彼が、自
を見ても、伊藤熹朔が、どんなにその
法律、モラルからの脱出を図らなけれ
分が名をあげることばかりに執着す
人々を愛し、尊敬し、信頼しているか
ばならないと述べている。
る人柄であれば、どんなに才能があっ
がわかる。上辺を見て褒めているので
「師の後を追い、師を越えようとし、
ても、総合芸術である舞台芸術の世界
はない、思いがそこに通っている。
師亡き後の日本の舞台装置をさらに
で大成されることはなかったのでは
さらには、仕事が舞台だけではな
育て、師の作り上げたものを守ろうと
ないかと思う。
く、映画、テレビに及ぶので、
「テレビ
すれば、時に師の教えに背くこともあ
この本には、伊藤熹朔が経験した舞
は装置材料のストックを作れ」などの
るかもしれぬ事を、恩師・伊藤熹朔先
台美術に関する大切な事柄、細やかな
実用的なアドバイスも豊富だ。まだ、
生に今、頭を垂れて許しを乞うのであ
注意点が、惜しみなく説明されてい
テレビも今のように確立されたもの
る」と。
る。舞台装置図が沢山掲載されている
がない時代だったはずで、それは、彼
私は、この言葉こそ、
「私は若い人々
ことで、かなり見やすく、舞台の詳細
が経験によって編み出したものだ。
が私の仕事を踏み台として、より良き
を知らずとも想像できるものになっ
彼は、その自分の蓄積を惜しみなく
仕事をしてもらいたいと願っている」
ている。
「幕間時間を短くする方法」
後進の舞台美術家に伝える。
と言った彼への最高の惜別の言葉な
など、過去に書かれた短いコラムのよ
この本の中にこんな一文がある。
のではないかと感じた。
うなものも挟まれており、楽しめる。
「私は若い人達に、私の歩いた回り
あとがきの株式会社俳優座劇場元
生前最後の構想ノートである 1966
道を再び歩かせようとは思いたくな
代表取締役・原恒雄の言葉にあった
年、現帝国劇場開場記念帝劇グランド
い。私の知っていることは、若い人達
が、この本は、まさに、舞台美術にと
ロマン『風と共に去りぬ』などの装置
に教えたい、そして、若い人達は、五
どまらず、舞台、映画、テレビなどす
年もかかれば私を卒業するだろう。
べての創作に携わる人々への「道しる
図がカラーで掲載されていることも、
この本の贅沢な点の一つだろう。ま
(中略)この仕事はますます栄える事
べ」である。我々が生きる現代よりも
た、
『風と共に去りぬ』の装置図など
と思う。私は若い人々が私の仕事を踏
過酷な時代の中、舞台芸術という未開
多くの資料が入ったバッグが、新幹線
み台として、より良き仕事をしてもら
の荒野を開拓してきたフロンティア、
の特急券を買っているわずか1分ほど
いたいと願っている。そして、これか
伊藤熹朔の生き様は、私たちに、
「舗
の間に盗難にあったという話も面白
ら若い人達と大いに張り合いたいと
装された道ばかりを行って満足して
かった。結局、バッグは戻ってきたそ
いう気持ちでいる」
いてはいけない」と、投げかけている
うだが、専門的な話以外にも、こう
こうした伊藤熹朔の人柄ゆえか、こ
ように思える。伊藤熹朔ほどの偉大な
いった当時のエピソードが添えられ
の本は、中盤、日本の元祖マルチタレ
存在も、常に模索を重ね、学び、一つ
ていることが、伊藤熹朔への親しみを
ントと言われる徳川夢声との対談、海
一つ前進していた。無駄を恐れず、大
より深いものにしてくれる。詳細なエ
外への旅行記を挟んで、その後は、同
きく知の翼を広げることによっての
ピソードが満載なのは、やはり、この
輩、後輩の舞台美術家、著名な舞台、
み、芸術の未来は拓ける。
本を俳優座という身近な存在が編集
映画、テレビの制作者、俳優、学者の
時を越えてなお、伊藤熹朔の生き方
しているからであろう。
方々の文が沢山寄せられている。
は、そのことを私たちに教えてくれる
彼の人柄が滲み出るようなエピ
さまざまな分野の人々から尊敬さ
のだ。
ソードに事欠かない。読み進めている
れ、慕われていたことが、ここからも
うちに、会ったこともない伊藤熹朔と
わかる。
いう人が浮かび上がってくるように感
伊藤熹朔は、1967 年 3 月31 日に 67
じられる。
歳で亡くなられた。その折りに里見弴
自分が手がけた数々の舞台におけ
葬儀委員長のもと、舞台、映画、テレ
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