Walden Pond in Concord on Dec. 22. 2007, photo by Irie
by user
Comments
Transcript
Walden Pond in Concord on Dec. 22. 2007, photo by Irie
Walden Pond in Concord on Dec. 22. 2007, photo by Irie Henry David Thoreau (1817-62) 2008年度2学期木曜1時限 「哲学基礎B」 「認識するとはどういうことか?」 第12回講義( 回講義(2009年1月8日) §11 正当化の 正当化の外在説 Externalism of Justification 1、復習 ■伝統的な知識の定義: Knowledge=JTB(Justified True Belief) SがPを知っているとは、次のときそのときに 限る。 ①Pが、真である。 ②Sは、Pを信じている。 ③Sは、Pを信じることにおいて、正当化 されている。 ■ゲティア問題 ゲティア問題 JTBであっても、 であっても、知識であると 知識であると言 であると言えない場合 えない場合 がある。 がある。 ゲティア反例 ゲティア反例 ■ゴールドマンの ゴールドマンの知識の 知識の因果説 *ゲティア問題に対する解決の試みとして、ゴールドマンは 「知識の因果説」(causal theory of knowledge)を主張した。 *ゴールドマンによる ゴールドマンによる知識 による知識の 知識の定義 Sが がpを知っているとは、 の信念p っているとは、事実p 事実pが適切な 適切な仕方で 仕方で、Sの 信念p と因果的に 因果的に結合しているとき 結合しているとき、 しているとき、そのときに限 そのときに限る。 S knows that p, if and only if the fact p is causally connected in an “appropriate” way with S‘s believing p. この条件 この条件を 条件を付け加えることによって、 えることによって、 ゲティアの ゲティアの反例が 反例が知識の 知識の定義から 定義から 除外される 除外される。 される。 ケース1の場合、スミスが採用され、スミスの ポケットに10個のコインが入っていたことが 原因となって、スミスの「採用される男のポ ケットに10個のコインが入っている」という信 念が引きこされたのではない、ゆえに、ゴー ルドマンの知識の定義は満たされない。 ゆえに、スミスの信念は、知識ではない。 (ケース2の場合にも同様である。) 「適切に 適切に」知識を 知識を生産する 生産する因果過程 する因果過程には 因果過程には、 には、次 のものがある。 のものがある。 (1)知覚 (2)記憶 (3)パターン1 2の例となっている因果連 パターン1or2 となっている因果連 鎖、これは推論 これは推論によって しく再構成されて 推論によって正 によって正しく再構成 再構成されて おり、 おり、それぞれは保証 それぞれは保証されている 保証されている。( されている。(それら 。(それら が真である場合 である場合のみ 場合のみ、 のみ、背景命題は 背景命題は、推論を 推論を 保証する 保証する助 する助けになる) けになる) (4)( (1)(2 )(2)と(3) の結合 注:パターン1 パターン1とはFigure とはFigure1 Figure1&2、パターン2 パターン2 とはFigure とはFigure3 Figure3を指す 知覚による 知覚による経験的知識 による経験的知識 p → Ps(p) → Bs(p) 事実pがSの知覚pの原因となり 原因となり、 となり、 Sの知覚pがSの信念pの原因となる 原因となる ■知識の 知識の因果説の 因果説の欠点4: 逸脱因果(deviant causation) 事例1: 「俺の部屋に相棒のヴィンセントがヤクを運んでく ることになっている。警察も俺を狙っているので、お れがヴィンセントと打ち合わせをして、奴が扉をノッ クするときに「コンコココンコン」とたたくようにと言っ た。俺は奴を待ちに待った。ようやく扉をノックする 音がした。俺は安心のあまり、ノックの取り決めのこ とは忘れ、外にヴィンセントがいると信じて扉を開け てしまった。ラッキーなことに扉の外に立っていたの はヴィンセントだった。ヤバかったぜ。」(戸田山和久 著『知識の哲学』、p.64) 事例2: 「ヘンリーがある地域をドライブしている。彼が対象 を弁別する能力には問題がない。ところが彼は知ら ないが、その地域には張り子というか、納屋に似せ たつくりものがいっぱいあって、それらは道路からは 本物の納屋に見える。ヘンリーがこの地域にさしか かって拵えものを見たら納屋にみえることだろう。彼 は一軒の納屋を見たが、じつはそれは本物の納屋 であった。このとき、ヘンリーはそれが納屋であるこ とを見て知ったといえるか」(Alvin Goldman, ‘Discrimination and Perceptual Knowledge’, The Journal of Philosophy, 1976, p.773) (土屋純一「知覚による知識」『現代哲学のフロンティ ア』勁草書房、p.23からの孫引き) 第一回レポート 第一回レポートの レポートの課題 1 ゲティア反例の例を挙げなさい。 2 知識の因果説への批判となる 逸脱因果の例を挙げなさい。 復習終わり ドレツキによる逸脱因果の問題の解決 1971年 1971年にフレッド・ フレッド・ドレツキが ドレツキが提案した 提案した解決 伝統的定義に次の した解決は 解決は、伝統的定義に ④を付け加えるものだった。 えるものだった。 SがPを知っているとは、 っているとは、次のときそのときに限 のときそのときに限る。 ①Pが、真である。 である。 ②Sは、Pを信じている。 じている。 ③Sは、Pを信じることにおいて、 じることにおいて、正当化されている 正当化されている。 されている。 ④SがPということを信 ということを信じるためにもっている理由 じるためにもっている理由Rが、 次の条件を 条件を満たす。 たす。すなわち、 すなわち、もし現実 もし現実の 現実の事態が 事態がPで なかったなら、 なかったなら、SはRをもたなかっただろう。 をもたなかっただろう。 (戸田山、 からの書 書き換え) 戸田山、前掲書、 前掲書、p.64 からの Fred Dretske,’Conclusive Reasons’, Australasian Journal of Philosophy, 49. 1971. Fred Dretske, Knowledge and the Flow of Information, Basil Blackwell, 1981. これによって、 これによって、ゲティアの ゲティアの反例は 反例は、知識から 知識から除外 から除外される 除外される。 される。また、 また、知識 の因果説の 因果説の欠点の 欠点の逸脱因果の 逸脱因果のケースを ケースを知識から 知識から除外 から除外することがで 除外することがで きる。 きる。 (正当化の 正当化の)外在主義 ゴールドマンやドレツキは、真なる信念の正当化のため には、適切な仕方で因果関係が存在することが必要だ と考えていた。事実pによって信念pが生じること、ある いは、事実pが成立しないことによって、信念pが成立 しないこと、というような因果関係である。 このような因果関係は心の外部にあり、我々が常にそれ に気づいているとは限らない。真なる信念は正当化さ れていなければならないが、その正当化は客観的に成 立していればよく、知られている必要はないと考える立 場を「外在主義」という。 (正当化の 正当化の)内在主義 (internalism) 内在主義とは、真なる信念の正当化を、信念を 持つ者が知っていることが必要であると考える 立場、つまり、正当化は、心の中の認知状態に よって決まると考える立場である。 ある人がpを知っているとすれば、その人は常 にpを知っていることを知っていることになる。 外在主義では、ある人がpを知っていても、知っ ていることを知っているとは限らないことになる。 内在主義の 内在主義の分類 1、信念論的で内在主義的な基礎づけ主義 (doxastic internalistic foundationalism) 2、非信念論的で内在主義的な基礎づけ主義 (nondoxastic internalistic foundationalism) 3、整合説(coherentism) 1、信念論的で内在主義的な基礎づけ主義 は、可能か 可能か? ミュンヒハウゼンの ミュンヒハウゼンのトリレンマにより、 により、 不可能である 不可能である。 である。 「非信念論的で内在主義的な基礎づけ主 義」とはどのようなものか? 「(a)基礎的信念の正当化理由は信念というかたちで心 の中にあるのではない。 (b)基礎的信念の正当化理由は信念よりももっと原初的 な何らかの認知状態というかたちで心に抱かれている。 (c)その認知状態は信念ではないのでそれ以上の正当 化を必要としない。 (d)しかし、その認知状態は信念に正当化を与える能力 は持っている。」 (戸田山和久『知識の哲学』産業図書、p.47 非信念論的な 非信念論的な内在主義によれば、< によれば、<もっと 、<もっと も基礎的な 基礎的な信念( 信念(命題知) 命題知)は、信念( 信念(命題知) 命題知) ではない認知状態 ではない認知状態によって正当化 によって正当化される 正当化される> される>と いう主張 いう主張である 主張である。 である。 たとえば、「 たとえば、「これは あるいは「ここは赤 ここは赤く 、「これは赤 これは赤い」あるいは「 見える」 える」は、ある知覚 ある知覚によって 知覚によって、 によって、正当化される 正当化される のである。 のである。 感覚によって 感覚によって信念 によって信念を 信念を基礎付けることが 基礎付けることが可 けることが可 能だろうか? だろうか? 感覚や知覚によって命題を正当化するときに、 私たちはどのようにそれをおこなっているので しょうか? これは何でしょうか? 「これは亀です」 真理の対応説 命題が真であるとは、それが事実と対 応することである。 命題 「これは亀です」 事実 命題 「これは黄色です」 事実 この命題と事実は、どこが一致しているの でしょうか? 命題 「私の車は、青色です」 事実 <私の車、青色> ・事実には上のような構造があって、その構造が命題 に対応しているのでしょうか? ・しかし、その構造もまた命題で表現されていないで しょうか。 ・そうだとすると、その構造を表現する命題の真偽が 問題になります。 ・この命題の真偽をまた事実との対応によって 説明 するのだとすると、無限に反復することになります。 感覚や知覚によって命題を正当化す ることに対する批判として有名なのは、 セラーズ(Wilfrid. Sellers 19121989)が「所与の神話(myth of the given)」と名づけた批判である。 Wilfrid Sellars(1912- 1912-1989) 1989) Robert Brandom 「セラーズは セラーズは、所与というもの 所与というもの(つまり内在主 つまり内在主 義的な 義的な基礎付け 基礎付け主義が 主義が要求するような 要求するような認知 するような認知 状態) 状態)は次の二つをまぜこぜにでっち上 つをまぜこぜにでっち上げら れた幻 れた幻に過ぎないとした。 ぎないとした。 (1)特定の 特定の対象からやってくる 対象からやってくる光 からやってくる光や音を感覚 すること、 すること、つまり感覚印象 つまり感覚印象をもつこと 感覚印象をもつこと、 をもつこと、 (2)どう見 どう見えるかについての命題的内容 えるかについての命題的内容をも 命題的内容をも つ知識を 知識を非推論的な 非推論的な仕方でもつこと 仕方でもつこと。」 でもつこと。」 (戸田山、 戸田山、p51) 「直観や 直観や直接の 直接の気づきという認知状態 づきという認知状態が 認知状態が、命 題的内容をもち 題的内容をもち判断的 をもち判断的なものだとすると 判断的なものだとすると、 なものだとすると、たし かに他 かに他の認知状態を 認知状態を正当化することができる 正当化することができる が、自分自身も 自分自身も正当化を 正当化を必要とする 必要とする。 とする。 逆に、そうした認知状態 そうした認知状態が 認知状態が命題的内容をもた 命題的内容をもた ず非判断的なものだとすると 非判断的なものだとすると、 なものだとすると、こんどは正当 こんどは正当 化を必要としなくなるが 必要としなくなるが、 としなくなるが、その代 その代わりに他 わりに他の認 知状態を 知状態を正当化することもできなくなってしま 正当化することもできなくなってしま う。」(戸田山 。」(戸田山、 戸田山、pp.50f.) 蛇足: 蛇足:欲望に 欲望に関する知識 する知識について 知識について 欲望についての信念は、心の非認知状態につい ての信念である。 欲望は、感覚などの非信念的認知状態と同様に、 言語とは独立に存在しているのだろうか。社会的な 欲望は、すでに言語によって構成されているが、そ うではないような基礎的な欲望が生得的にあるのだ ろうか。 もしそのような基礎的な欲望、あるいは生得的な欲 望があるとすれば、その一つの候補が、「私は生き たい」 たい」という欲望 という欲望(欲求) 欲求)であろう。それをPとしよう。P があり私がそれを感じているとしよう。しかし、感覚 の場合と同様に、それには概念が含まれていないと すると、 「pは、「生 、「生きたい」 きたい」という欲望 という欲望だ 欲望だ」という信 という信 念を正当化することは 正当化することは出来 することは出来ない 出来ない。 ない。 「生きたい」という欲望は、言語によって構成されて いる社会的な欲望である。 1、これまでの復習 これまでの復習 ■伝統的な知識の定義: SがPを知っているとは、次のときそのとき に限る。 ①Pが、真である。 ②Sは、Pを信じている。 ③Sは、Pを信じることにおいて、正当化 され ている。 ■「正当化」 正当化」を論理的演繹に 論理的演繹に限る と・・・ もし③の「正当化」を<他の正当化された信 念からSが論理的に導出することである>と すると、他の正当化された信念の正当化が問 題となり、無限遡行となる。ミュンヒハウゼンと 同様の問題が生じて、信念の正当化は不可 能となり、どのような知識も持ち得ないことに なる。 ■すべての信念 すべての信念が 信念が、何らかの正当 らかの正当 化を持つとすると・・・ つとすると・・・ 我々が何かを信じるとき、何らかの正当化を 行っている。何の正当化もなく何かを信じると いうことは通常はないだろう。そこで、すべて の信念が何らかの正当化を持っているとする と、ほとんどすべての信念は正当化されてい ることになり、②と③を区別する意味はなくな る。そうすると、知識の定義は①と②を満たす 信念ということになる。つまり、「知識とは、真 なる信念である」という定義になるだろう。 ■「非信念的正当化」 非信念的正当化」を考えてみ ると・・・ ると・・・ 次のように非信念的に「正当化」を考えてみよう。 「信念Pが正当化されているとは、他の正当化さ れた信念Qや感覚や知覚などの非信念的な認 知状態から、Pが導出されることであり、最も基 礎的な信念は、非信念的(nondoxaitic)な認知 状態によって基礎付けられている。」 しかし、感覚や知覚だけから、なんらかの基礎 的な信念を導出することは、困難であった。こ れは「所与の神話」として批判されていた。 では、外在主義がただしいのだろうか? 外在主義の問題点 外在主義の 外在主義の問題点:感覚や 感覚や知覚を 知覚を因果説で 因果説で説明 できても、 きても、それについての命題知 それについての命題知を 因果説で説明すること 説明すること 命題知を因果説で は出来ない 出来ない。 ない。(「所与の 所与の神話」 神話」への批判) 批判) しかし、 しかし、もし心身問題に関して一元論 して一元論の 一元論の立場をとるならば 立場をとるならば、 をとるならば、 <Pという事実 という事実から ある知覚が 因果的に生じて、 じて、その知 その知 事実から、 から、ある知覚 知覚が因果的に 覚からさらに「p」 からさらに「p」という 「p」という命題知 という命題知が 命題知が因果的に 因果的に生じる> じる> と理解することも 理解することも可能 することも可能にな 可能になる。 その場合 その場合には 場合には、 には、知識の 知識の因果説によって 因果説によって、 によって、知識を 知識を基礎付ける 基礎付ける ことが出来 ことが出来ることになります 出来ることになります( ることになります(認識の 認識の外在的基礎付け 外在的基礎付け主義)。 認識の 認識の外在的基礎付け 外在的基礎付け主義のためには 主義のためには、 のためには、次 の二つの証明 つの証明が 証明が必要である 必要である。 である。 (1)Pという事実 という事実からある 事実からある知覚 からある知覚が 知覚が因果的に 因果的に生じていることの 証明 ある脳状態 ある脳状態がある 脳状態がある知覚 がある知覚と 知覚と同一であること 同一であること( であること(同一説)、 同一説)、ある )、ある いはある脳状態 いはある脳状態はある 脳状態はある知覚 はある知覚が 知覚が随伴すること 随伴すること(supervene) (随伴現象説) 随伴現象説)を証明しなければならない 証明しなければならない。 しなければならない。 (2)ある知覚 ある知覚からそれに 知覚からそれに関 からそれに関する命題知 する命題知が 命題知が因果的に 因果的に生じること の証明 もし、( もし、(2 、(2)は証明できず 証明できず、( できず、(1 、(1)しか証明でき 証明できないのだとす ると、 ると、そのときには、 そのときには、世界との 世界との因果関係 との因果関係によって 因果関係によって基礎付 によって基礎付け 基礎付け られるのは、 られるのは、感覚や 感覚や知覚だけであることになる 知覚だけであることになる。 だけであることになる。 そうするとそこから他 そうするとそこから他の命題知を 命題知を基礎付けることは 基礎付けることは出来 けることは出来な 出来な いことになる。 ことになる。 ミニレポートの ミニレポートの課題 これは何ですか これは赤い四角です。 なぜそういえるのか、その理由を説明し てください。