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科学史2:科学と女性の社会史 2009年6月18日(木)2限 聖心女子大学

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科学史2:科学と女性の社会史 2009年6月18日(木)2限 聖心女子大学
科学史2:科学と女性の社会史
2009年6月18日(木)2限 聖心女子大学
担当:隠岐さや香
第九回
1.
男性科学者と「天才」神話の形成(1750-1900)
天才神話とロマン主義
「天才」とは何か?
「天才」のイメージがつきまとう分野について考えてみよう
19 世紀 「天才」の称揚
ロマン主義との関連 芸術と科学
「天才」…語源:ゲニウス(genius) ラテン語で男性の生殖能力と家の繁栄を守護す
る精霊
18 世紀半ば以降:「天才」論の流行
カント、ルソー、ヴォルテール、コールリッジ、アーサー・ヤング…
エキセントリックな変わり者 生まれつきの才能 努力や勤勉なしに何かをやっての
ける 周りを忘れて何かに没頭する 情熱的・感受性豊か 両性具有的(ただし女性で
はない)…
男性科学者「天才」神話の典型例:「天才数学者」エヴァリスト・ガロア(1811-1832)
の生涯の例
【業績】ガロアの理論で知られる。現代数学の基礎とも言える体
論や群論の先見的な研究を行った。N. アーベルによる「五次以上
の方程式には一般的な代数的解の公式がない」という定理の証明
を大幅に簡略化したのみならず、一般にどんな場合に与えられた
方程式が代数的な解の表示を持つかの特徴を考察した。
群論は数学や物理学全般にわたってさまざまな構成に対する基礎
的な枠組みを与えており、例えばアインシュタインの相対性理論
や 20 世紀の量子力学などにおいても欠かせない。
【俗説】
天才少年ガロアは幼少の頃から素晴らしい数学の才能を発揮したが、無理解な社会は彼
を受け入れかった。エコール・ポリテクニークの試験でも認められず、たった一人で研
究を続けた。しかも20歳の時、うっかりと誘惑に負けて関係を結んだ「つまらない色
女」のために決闘をすることとなり、それで命を落とす。現代数学の基本となった彼の
数学的業績は、決闘の前夜彼が友達に送った手紙のおかげでかろうじて奇跡的に知られ
ることとなった。
誤解1:社会が認めなかった
〔 試験の直前に父親が自殺、政治運動への関心など他の要因がある
誤解2:一人で研究を続けた
〕
〔 一流の数学者の激励を受けていた
誤解3:女性にうっかり現を抜かしたために身を滅ぼした
〔 相手は比較的良家の子女で「誘惑者」という描写に相応しいか不明
知られざる側面〔 熱烈な共和主義者で政治活動に専心していた
2.
〕
〕
〕
「天才神話」が生まれる条件と女性
ルソー『エミール』(1762)
「女性は一般に、芸術的な感性を有していないし…天才をも有していない。彼女達は勤
勉さを通して得られる類の知識を手に入れることは出来る。だが、魂を燃やし照らし出
す天の炎がそこには欠けているのだ。」
→「女性は真面目にこつこつやるがインスピレーションがない」「女性は生殖と家庭の
義務にエネルギーを吸い取られる」という見方
通俗的な天才神話は女性の才能や、それを伸ばそうとする野心にとても否定的に
埋もれた女性数学者達
ソフィー・ジェルマン(1776-1831) 整数論 弾性の研究→様々な困難と妨害 孤立
エイダ・ラブレイス(1815-1852) プログラミングなどコンピュータ科学の基礎とな
る理論 独立した出版をせず早逝。後に「人類最初のプログラマ」との伝説が生まれる
が業績の評価は困難。詩人バイロンの娘。
■数少ない「成功例」の数学者ソーニャ・コワレフスカヤ(1850-91)の生涯から考え
る
ロシアの貴族クルコフスキ家の長女として生まれる。子供のころ、
父が壁の穴をいらない数学の本を破いて目貼りしていたところ、
そこに見たと同じ微積分の記号をやがて学校で学び、 「知って
る!」と感激し数学が好きになった。
12 歳のとき、近所に住んでいた物理学の教授が光学に関する本
を彼女に与えたところ、当時まだ三角関数を知らなかったソフィ
アは自力でそれを解釈しようとした。彼女は三角関数が数学の歴
史において展開されてきたのと同じ方法でそれについて説明し
てみせたので、仰天した教授は彼女を「パスカルの再来」とまで
呼び、家庭教師をつけて数学の研究を続けさせてやれと彼女の父に嘆願し、父も折れた
という。
第一の難関 〔 高度な教育を受けられるか 〕
→偽装結婚で解決
女性の独立が認められない時代にあって当時、急進的な政治思想に支持され、流行だっ
た偽装結婚による方法でロシアを離れる。相手はウラデイミル・コワレフスカヤといい
地質学を専攻していた。数学者ワイヤストラスに弟子入りを申しこみ、大学では女性の
聴講は認められなかったので、 4 年間ワイヤストラス宅に通って学んだ。
第二の難関 〔 学歴・資格取得(学位など) 〕
大学図書館をコワレフスカヤが使用できるようになるにはワイヤストラスの援助が必
要だった。彼は口述試験の免除も取りつけた(学校教育を殆ど経験せず、淑女として教
育された当時の女性にとって、見知らぬ男性に取り囲まれ試験を受けるのは大変なスト
レス)。
1874 年、ゲッティンゲン大学からコワレフスカヤの 3 つの論文に対し、数学の学位が
与えられた。これらの論文のテーマは「偏微分方程式についての理論」
「(それを適用し
た)土星の環の形についての研究」「アーベル関数についての研究」である。特に『ク
レレ・ジャーナル』
(Crelle's Journal)に発表された偏微分方程式(多変数の微分方程式)
についての研究は、初期値問題の解が 1 つであることを示したもので、現在では「コー
シー=コワレフスカヤの定理」
(Cauchy-Kovalevskaya theorem)として知られる(コーシ
ーが特異解を、コワレフスカヤが一般解を与えて理論を完成させた)。
第三の難関 〔 就職 〕
同年に彼女はロシアへ戻ったが、この学位とワイエルシュトラスの強い推挙により数学
者としての名声は知れ渡っていたにもかかわらず、やはりサンクトペテルブルク大学で
職を得ることはできず、声が掛かった中で最もまともな職は小学校の算数の先生であっ
た。落胆の上に父の死なども重なったため、コワレフスカヤは気晴らしのため社交界デ
ビューや文学に手を染め、以後 6 年間にわたり数学からは手を引くこととなり、ワイエ
ルシュトラスとの交友も途絶える。容姿が優れていたため社交界では有名になるが、
1878 年に娘を産んで周りが静かになったのをきっかけに再び数学への情熱が目覚める。
第四の難関 〔 私生活の影響(パートナーとの関係など) 〕
同じころ(1878)夫が事業に失敗し、救おうと努力するが意見が合わず別居する。ベルリ
ンで再度研究生活に入るが、1883 年 3 月、パリ滞在時に夫が自殺。ショックを受けた
彼女は、引きこもり、拒食、失神、目を覚ますと同時に手元のノートに数式を書きなぐ
る、という荒んだ生活を続けることになったが同年の秋には立ち直った。
1884 年秋、ミッタク=レフラー(スウェーデンの数学者)の招聘により、ついにスト
ックホルム大学の非常勤講師の地位を得て、のち 1889 年にはロシア人女性としては初
の大学教授になった。
アーベル関数についての新しい理論を適用することにより論文『固定点をめぐる剛体の
回転について』を完成させ、1888 年にこの研究論文に対してパリの科学アカデミーか
らボルダン賞が与えられた。この分野における第 2 の研究成果によってスウェーデン科
学アカデミー賞を受賞した。また同年、チェビシェフらの推挙によってコワレフスカヤ
はサンクトペテルブルグ科学アカデミー初の女性メンバーになった。
1891 年、コワレフスカヤはストックホルムでインフルエンザと肺炎を併発し、41 歳の
若さで没した。
第五の難関 〔 語り継がれるかどうか 〕
(別の女性数学者の例を挙げます)
同僚や科学者コミュニティは評価しているが、一般には余り知られないままに終わるこ
とが多かった
例:アインシュタインによる数学者エミー・ネーター評
“Fraeulein Noether was the most significant creative mathematical genius thus far
produced since the higher education of women began.” (May 1, 1935 letter to the New
York Times)
エミー・ネーター(1882-1935)…数学者 ガロアが始祖となった流れを受けつぎ、抽
象代数学において重要な役割を果たした ネーターの定理で有名
→仲間内では知られるが世間ではあまり知られず 通俗的な伝記、偉人伝などでの不人
気
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