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近代日本の教科書の歩み 図画工作
図画・工作教科書 はじめに 日本の図画・工作(美術)教科書の変遷は、明治から平成における日本の社会・文化の変革 に深く関わりその相貌を移行させてきた。明治から昭和戦前期までの図画・工作(美術)教科 書の変遷を、明治前期、明治後期、大正・昭和戦前期の3期に大別し、美術教育史に合わせて 考察してみた。 日本において美術教育の端緒が開かれたのは、西洋文化の吸収がようやく盛んになった幕末 ばんしょしらべじょ の1857(安政4)年である。江戸九段坂に蕃書 調 所が設けられ、外国図書の翻訳が行われた。 が がく その中に天文学、医学などとともに画学が加えられた。蕃書調所が後に名を改め開成所となり、 かわかみとうがい その中に画学局が置かれている。一般に知られる開成所画学校である。川上冬涯がその局長と なり、西洋式教育法による図画の指導をはじめた。日本における美術教育の出発点である。 図画が初等教育の教科として正規に取り入れられたのは、1872(明治5)年8月の「学制」 公布以後のことである。図画は当初から欧米の学制を踏襲して教科として認められてはいたが、 最初は小学校の低学年(下等小学)では図画を欠き、高学年(上等小学)に週2時間の「幾何 せい が し なん 学罫画大意」を課していた。1871(明治4)年に文部省から、『西画指南』(口絵グラビア2頁 図3)と題する上・下2巻の木版和装の図画教科書が出版された。図画教育は教育思想全般の 変遷にともない、思想、技法、用具を三位一体として発展し、今日に至っている。 1 明治前期の図画教科書 けい が この期は欧米模倣、鉛筆画時代である。図画は文部省の「小学教則」で教科名を「罫画」と し、中学校には「画学」として設置された。「罫画」の内容は「南校板罫画本ヲ用ヒテ点線正 形ノ類ヲ学ハシムル事習字ノ法ノ如シ」(6級)と示され、その習画法は、物の形の正確な描 写の訓練に終始し、鉛筆を用い手本にならって、幾何学的基本形体をもっぱら模写、すなわち りんしゃ 臨写することにあった。 当時の教育状況をみる貴重な資料として、英人ロベルト・スコットボルンが1857年に公刊し た画学書を、川上冬涯が「文部少助教川上寛」の名で纂訳した大学南校『西画指南』1871(明 ― 72 ― 第Ⅰ部 明治期から昭和戦前期の変遷 ゆう び 治4)年がある。その凡例に「図面ノ有用欠クヘカラサルヤ文ノ尽ス能ハサルヲ補ヒ幽微ニシ たす 教化ヲ裨ケ功ヲ六籍卜同フス」と述べている。描くことは、文字と同様に自己の見解を表現す るものであり、実用欠くべからざるものと考られていたことがうかがえる。第一の学習として 「輪廓ヲ描ク法」では垂直な平行線、水平線、斜線、曲線などの基本線のひき方や、葉花など の描き方、第2章では「物形ノ陰陽ヲ分ツ法」、第3章では「人物ノ描法」を述べている。 ず ほうかいてい このほかの教科書として東京開成学校『図法階梯』1872(明治5)年、文部省『小学画学書』 1873(明治6)年、宮本三平『小学普通画学本』1878(明治11)年(図1)がある。守住勇魚 編『大成普通画学本』三友舎 1882(明治15)年も出版されている。 いずれの教科書も風景・人物など外国の農村がそのままとり入れられている。当時はすべて が文明開化で、外国のものを珍重する風潮があり、そのほうが文明開化の教育として高く評価 された。この期の図画教育の目標は、児童の美的感覚を養い、創造性を育成するという問題よ り、むしろ美育を軽視し、ひたすら生産と結びついた実利的な説明図を描く技術の訓練に終始 した。それは欧米を追い越し、追い抜けという時代の勢いでもあった。 図画 1880(明治13)年の「改正教育令」に基いて翌1881(明治14)年、罫画は図画と改め られ、中等科において随意科目、高等科においては必須とされた。「図画ハ中等科ニ至テ之ヲ 課シ、直線、曲線及単形ヨリ、漸次、紋画、器具、花葉、家屋ニ及ブベシ」とある。 りん が 1878(明治11)年ごろから鉛筆が市販されるようになり、臨画教育は一層促進されるように なった。この頃になると盲目的な欧米心酔に対する自己反省のきざしが現われ始め、教科書の モチーフも西洋的題材から、日本的なものに変更するようになってきた。1885(明治18)年に あさ い ただし 浅井忠が編纂した『小学習画帖』(文部省)をみると、モチーフもことごとく日本の風景・人 物となり、1頁に一つの画を入れている。これを鉛筆で臨画する鉛筆デッサン主流の教本とし て、わが国の独創による初の教科書となり全国的に普及した。 けい が 罫画 方眼紙又は紙に罫を引き、対象の形体に応じて点を打ち、打った点を結んで形を写し 図1 『小学画学書』1873(明治6)年、宮本三平『小学普通画学本』1878(明治11)年 ― 73 ― とる方法。 りん が 臨画 既成の絵を紛本(手本となる絵)にして、手本と全く同じように形体や彩色を写し取 ること。明治の初めから大正期の自由画運動が起るまで、日本の図画教育の中核を形 成した。 2 明治後期の図画教科書 毛筆画と鉛筆画の優位論争 ず が とりしらべ がかり おかくらかくぞう てんしん 文部省は1885(明治18)年に専門学術局に「図画取 調 掛」を設け、岡倉覚三(天心)・米 人フェノロサを委員に任命、西欧の図画教育の実態調査を委嘱した。岡倉とフェノロサは米国 を経由してヨーロッパに渡り、1887(明治20)年に帰国、図画教育の目的・手段・教授に関す る次のような意見書を文部省に提出した。 「普通学校ニ図画ヲ設クルノ目的ハ 固ヨリ実利ヲ計ルニ有リ」 「美術画法ヲ能クスルモノハ 容易ニ他ノ画法ヲ修ムベキヲ以テ 画法中最モ重要広大ノ 実用ヲ達スルモノト謂フベシ 故ニ普通教育ニ設ケル図画ハ美術画法ニヨラザルベカラ ズ。欧米諸邦ニ在リテハ(中略)陰影画法理学画法ヲ課スルノ幣害ヲ認メ 美術画法ヲ採 用スルノ傾向ナリ」 思想的には国粋主義を提唱し、図画教育が西欧の方法のみによって行われていることに深い よう き が 疑問を投げかけている。技法としては用器画の精確なる画法を排し、その幣害を指摘し、美術 上、社会上にわが国の伝統の美と芸術の風趣を増す美術画法をとった。用具は、下記の理由か ら毛筆の使用を主張した。 「筆ハ線ノ肥痩ヲ自由ニ現ハシ 且ツ清潤ナル鉛筆 クレヨンノ及ブトコレニ非ズ 是 レ従来本邦人ノ慣熟スルモノナリ 美術画法ニ適切ノモノニシテ且ツ我ガ普通教育上習 字其他ニ於テ運筆ヲ教フルヲ以テ 本邦ノ美術画法ハ筆ヲ使用スルヲ最モ便ナリトス」 この考えは時の文部大臣森有礼の国粋主義的教育の気運と合致し、その勢を急速に増した。 ここに鉛筆を排した毛筆画の時代に入ってゆく。この期を国粋保存、毛筆画の時代と定義する ゆえんである。 毛筆画の主張は、鉛筆画の主張と対立するところとなり、鉛筆画、毛筆画の優位論争は、時 を経てその論争は激しさを増した。やがて鉛筆画論者の旗手小山正太郎は論争に敗れ、取調掛 を辞職する。ここに毛筆画全盛の時代を迎えることになる。1886(明治19)年の「教科用図書 検定条例」以後、ほぼ10年間に現れた教科書は、毛筆画121種、鉛筆画27種、用器画8種、水 彩画1種であった。 鉛筆画と毛筆画の論争は、その背景に時代の思想と国風尊重の復古的勢力、日本画を再認識 ― 74 ― 第Ⅰ部 明治期から昭和戦前期の変遷 する美術界の動向と絡みあい、ほぼ明治全期にわたり、その優位論が並行して論ぜられた。や がて両者の長所を採る折衷混用の方法が最良であるとする方向に向っていった。しかし、用具 の差異はあっても基本的には大人の画家が描いた絵を手本として、それを一線一画そのまま模 倣してゆく臨画教育にはあまり変化はなかった。 日清戦争による日本の国際的地位の確立と国民の自覚は、教育的自覚として美術教育もまた 新しい方向を模索していた。1902(明治35)年に文部省は「図画教育調査会」を設け、正木直 彦を委員長に、再び欧米各国の実情を調査した。調査結果は1904(明治37)年に発表され、い ま鉛筆画・毛筆画の両論の得失を論ずべき時ではなく、児童を中心として、普通教育の立場か ら図画教育の研究に進むべきであると報告した。欧米の進歩的な方法をよく整理して、和洋の 芸術教育を折衷する道をとる教育的に視野の広いものであって、当時の教育の原動力ともなり、 図画教育を樹立する基礎となっていった。 国定教科書 小学校図画教科書は1905(明治38)年4月から国定教科書が使用された。『尋常小学鉛筆画 手本』『高等小学校鉛筆画手本』『尋常小学毛筆画手本』『高等小学毛筆画手本』(図2)の4種の 国定教科書が編纂された。『尋常小学鉛筆画手本』をみると、「図画ハ第一位置ヲ整フルコト第 二形態ヲ正確ニスルコト」とあり、習画法は相変らずの臨画中心の内容であった。 図2 『高等小学毛筆画手本』女生用・第一学年乙種 1905(明治38)年 『新定画帖』の刊行 文部省は1910(明治43)年に米人フロエーリッヒ(H. B. Froehlich)・スノー(B. E. Snow)共著のText books of Art Education を範とした国定教科書『新定画帖』(図3)を完成 しら はま あきら させた。これは図画教育調査委員の白浜 徴の帰国報告がかなり色濃くにじみこんだ内容とな り、当時としては画期的な色刷りの教科書となっている。特筆されることは教師用と児童用、 男子用、女子用にわけられ、児童の心身の発達に応じて用具を選択し、鉛筆画、毛筆画の区別 ― 75 ― を廃止したことである。 従来第5学年より実施した色の 使用を第1学年より色鉛筆を使用 させ、第5学年より絵具を使わせ ることにした。習画法も臨画だけ でなく、説明、考案画を加え、臨 画・写生・記憶画・考案画の4種 としている。用具、教材が児童の 心理的要求に合うように配慮され、 図3 『新定画帖』 第六学年 男生用 1910(明治43)年 「正シク画クノ能ヲ得シムルコト美 感ヲ養フコト」を目標にしている。当時としてはすこぶる教育的に配慮されたものであった。 しかし、この教科書の趣旨を全国に徹底させるにはなお多くの年月を必要とした。 3 明治期の工作(手工)教科書 工作教育が普通教育にとり入れられたのは、1886(明治19)年文部大臣森有礼によって行わ しゅこう か れた初等教育改革の時である。教科の名称を「手工科」とし、師範学校の工業科を手工科(中 学校は工業科のまま)、高等小学校に新しく随意科として加設したのが、普通教育に手工科が 設置された最初である。日本における工作教育の始まりは、1876(明治9)年に東京女子師範 学校附属幼稚園で行われたフレーベルの恩物教育の導入による立体構成である。折紙・組紙・ 豆細工・粘土による基本的造形手技がそれである。 文部省は1887(明治20)年より3ヶ年、手工教育を普及させるため、上原六四郎を主任講師 として手工講習会を開催した。同年わが国最初の手工教科書『小学校用手工編』が発刊されて いる。これは工作法と使用法を解説した3冊の技法書からなり、第1冊は百工総論、(手工の 意味、種類用具)、木工。第2冊は金工。第3冊は陶工・石工・織工・製糸工・染工・仕立 工・塗師・仕立屋・彫師・画工である。翌1888(明治21)年米国で出版された技法書を編者の 見聞をもって編纂した『手工教科書』が発刊されている。 1890(明治23)年、尋常小学校に手工科が加設され、尋常、高等共に随意科目となった。 1891(明治24)年に「小学校教則大綱」が示され、手工教育の教育目標が明らかになった。 「手工ハ眼及手ヲ練習シテ簡易ナル物品ヲ製作スルノ能ヲ養ヒ勤労ヲ好ムノ習慣ヲ長スルヲ以 テ要旨トス」とされた。勤労を好む習慣の養成、職業的能力の附与、感覚の訓練が手工教育の 目標とされ、手技的な性格のもので有用性を重視した教科であった。 1892(明治25)年に尋常小学校、高等小学校とも手工科は随意科となり、これを修めようと する者が急速に減少した。減少の背景にはヘルバルト派の人文的教育学説の道義的品性陶冶論 ― 76 ― 第Ⅰ部 明治期から昭和戦前期の変遷 があり、実利的教育を極端に軽 視する風潮が手伝っていたこと は見逃せない。しかし、日清戦 争後、教育対策の一環として普 通教育における手工教育の振興 が再び関心をよび、1900(明治 33)年に『小学校手工科教授細 目』を公刊、手工を図画と同様 に取扱い、普通教育的性格を一 段と強めた。 1904(明治37)年に文部省は 図4 『小学校教師用手工教科書』 1904(明治37)年 『小学校教師用手工教科書』(図 4)を出版、手工教科書としてより整備された内容と方針をもち、手工教育の興隆に大きな役 割をになった。その後思想的動揺と世相の変遷に伴い種々の迂余曲折をたどりつつ、普通教育 の一教科として明確に位置づけられ大正期に移行してゆく。 4 大正・昭和戦前期の図画・手工教科書 第一次世界大戦を契機として、世界的にデモクラシーの風潮がひろがり、わが国でもブルジ ふう び ョア民主主義的色彩の濃い大正デモクラシーが全国を風靡した。こうした風潮のなかで図画教 育では形式的な臨画一辺倒の教育を見直す新しい方向と視点をもった革新的な運動が起った。 やま もとかなえ 1918(大正7)年、画家山本 鼎が提唱した自由画運動である。山本はフランスに遊学中、フ ランスの子供たちが自分の思いを自由に描く絵を見て驚き、モスクワの農民美術運動に感動し て帰国、その終生を自由画教育と農民美術の普及に活躍した。 山本の主張する自由画教育とは、模写を主とするそれまでの図画を排し、児童は自然をお手 本としてそれを自由に写生し、自分の記憶をたどって絵に描いたり、自由に想像して絵にする ことだとするものである。今日ではきわめて普通の主張であるが、当時の図画教育界にあって は大きな衝撃であった。 山本は、 「自由画教育」について次のような主張をしている。 子供にはお手本を備えて教えてやらなければ画は描けまい、と思うなら大間違いだ。 吾々を囲んでいるこの豊富な自然は、いつでも色と形と濃淡でかれ等の眼の前に示されて いるのではないか。それが子供らにとって唯一のお手本なのだ。それ等のものが直覚的に 或は、幻想的に自由に描かれるべきである。教師の任務はただ生徒らをこの自由な創造的 活機にまで引き出すのだ ― 77 ― この運動は自由思想と新しい芸術思想の普及にのって、1918(大正7)年ごろから10数年問、 国民的支持をえて全国的に拡大した。1917(大正6)年に新しい描画材料クレヨンが輸入され つづいて国産品も発売され、色を自由に使える描画材料の魅力とあいまって、小学校の図画教 育に大きな影響を与えた。 山本の自由画運動は、美術教育の重要性とその意義を知らせ、児童の個性を尊重し、それを 自由にのばす教育の普及で、日本の美術教育界に残した功績は大きい。しかし、基本的には写 生万能主義の自由画運動は、それを押しすすめると、大人の世界でのみ通用するものとなり、 また自然の中に児童を解放する作画態度の解放はあったものの、写生という習画法は臨画教育 とあまり変らない障害に直面する恐れがあった。また、美術性のみが前面に押しだされるとの 批判や、図画教育が絵画のみに内容が限定されるとの批判もあった。 自由が放任に転嫁され、教師の指導が成立しないとする反論と、文部省を背景とする官憲主 義者の反発とあいまって、次第にその影響力を弱めていった。自由画運動の行き詰まりと、新 しい教育指導の方向性を志向して、忘れられていた教科書への関心が呼び起された。文部省は こうした現場教師の意見を取り入れ、1931(昭和6)年に『尋常小学図画』の編集に着手、 1934(昭和9)年に完成した。この教科書は当時の混迷した図画教育を救うものとして全国の 小学校で活用された。編纂趣旨は美育尊重、実生活に即すること、児童心身の発達に適合させ ることをあげ、論理的な教育的態度がとられた。 国民学校「芸能科図画」 1941(昭和16)年、4月に小学校は「国民学校」と改称され、12月8日に第二次世界大戦に 突入した。図画科は「芸能科図画」となり、「皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基 礎的練成ヲ為ス」ための教科と位置づけられた。文部省は、1941(昭和16)年に国定教科書 『ヱノホン』を小学1、2年生用に発行、翌1942(昭和17)年に『初等科図画』を発行した。 ジュン カ 「芸能科図画ハ形象ヲ看取シ表現シ 且作品ヲ鑑賞スルノ能力ヲ養ヒ国民的情操ヲ醇化シ創造 力ヲ涵養スルモノトス」と定めた。すべてを皇国民練成のための教科とし戦時下の生活に役立 たせるもので、色感の訓練一つとっても戦争の必須技術に直結するものとされた。 創作手工 明治末期までかなりの隆盛をきわめた手工教育も、大正に入ると再び加設する学校数が減少 しはじめた。文部省は1904(明治37)年に『小学校教師用手工教科書』を発行したが、以後大 正から昭和の国民学校「芸能科工作」に至るまで手工教科書の改訂、発行をすることはなかっ た。こうした手工科衰運の情勢の中で、1913(大正2)年に岡山秀吉が米国留学から帰国、科 学的論理的なフランス式手工教育と、自由な趣味的教材のアメリカ式手工を紹介し、手工教員 ― 78 ― 第Ⅰ部 明治期から昭和戦前期の変遷 養成、教授法、教材体系の整理、動力機械の利用など、普通科目としての位置の確立に尽力し た。 1918∼19(大正7∼8)年ごろから自由教育思想の影響は手工教育にも現われた。従来の技 術に焦点を合わせたものから、自由な創造に視点をおいた芸術的手工の運動が活発になった。 それは自由手工、芸術手工、創作手工とよばれ、児童の創造性に訴えて創造性をかりたて、芸 術的表現を豊かにさせる造形教育であった。 1926(大正15)年、高等小学校の手工科が「実業科」と区別され独立の位置をもち、必須科 目となった。1941(昭和16)年の「国民学校令」により手工科は、初等教育においても必須と なった。手工がもっていた普通科的性格と実業科的性格の分化が図られた。手工の名称は手技 的な印象が強いとして「工作」と改称され、翌1942(昭和17)年『初等科工作』の国定教科書 が発行された。「芸能科工作は物品の製作に関する普通の知識技能を得しめ機械の取扱に関す る常識を養ひ工夫考案の力に培ふものとす」と、その目標をのべている。工作をたんに趣味的 なものから脱却させ、機械器具の操作・分解・組立・修理などについての科学技術的指導が求 められて、芸術主義に偏することをさけた技術教育が小学校から設置された。 中学校においては、1931(昭和6)年「中学校令」の改正によって「作業科」が新設された。 作業科は、「作業ニ依リ勤労ヲ尚ビ之ヲ愛好スルノ習慣ヲ養ヒ日常生活上有用ナル知能ヲ得シ ムルヲ以テ要旨トス」と定められ、園芸、工作、その他の作業が課された。工作の内容は、木 工、金工、塗り仕上げ、コンクリート工など、当時の経済的不況を乗り切る生活上有用な知識 技能の習得が課されている。しだいに戦争が激化するにつれ、作業が集団勤労作業、工場動員 に直結され、初期の目標とはほど遠いものとなっていった。 おわりに 日本における美術教育の歴史は、明治初期の欧米模倣に始まり、欧米崇拝一辺倒の反省から 鉛筆画・毛筆画の優劣論争を経て、さまざまな迂余曲折を重ね大正の自由画運動までたどりつ いた。それまでの美術教育の内容は臨画中心の教育が中核となっていた。 図画・工作(美術)教科書の変遷をみるとき、明治・大正・昭和と改元されるごとに、全体 の内容が検討され、修正が施されてきている。そして、教科書編集の背景にある国情と国民の 教育観もまたたえず変化し、変化に応じ内容が修正されている。図画・工作(美術)教科書も また、その時代の社会、経済、文化を包括した貴重な生きた時代の資料である。美術による教 育が、新しい時代の方位を拓くには、これまでの美術教育がたどった歴史を改めて見直し、立 ち返る原点と地平を再考する必要がある。 (秋元 幸茂) ― 79 ―