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ユネスコ「基幹事業」 - Hiroshima University

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ユネスコ「基幹事業」 - Hiroshima University
広島大学教育開発国際協力研究センター『国際教育協力論集』第 16 巻 第 1 号(2013)15 ~ 27 頁
1950 年代ラテンアメリカにおける初等教育普及事業と
開発思想- ユネスコ「基幹事業」からサンチアゴ会議へ
江 原 裕 美
(帝京大学外国語学部)
はじめに
発展という用語が散見されるようになった
(UNESCO 1957b)。初めは散発的な出現で
1950 年代後半から 1960 年代初めにかけ
あ っ た が、1960 年 頃 か ら 増 加、1961 年 以
て、ユネスコはカラチ、アジスアベバ、東
降明らかな傾向となり、1962 年のサンチア
京、サンチアゴと世界各地で地域教育会議
ゴ会議では、アメリカからラテンアメリカ
を開催し、教育普及への活発な働きかけを
に対する大規模な援助枠組みである「進歩
行っていた。カラチプランはその先導的な
のための同盟」を推進力に、経済成長に向
存在であったが、ラテンアメリカでは、そ
けた教育拡大の数量的目標を掲げるまでに
の以前から「基幹事業 (Major Projects)」と
至る。これは教育が「人的資源開発」の有
呼ばれる活動があり、それが 1962 年のサン
力な手段として開発戦略に組み込まれたこ
チアゴ会議に発展していった。この経緯は、
とを示すものであり、開発と教育の関係を
教育が経済開発と結びつけられて論じられ
辿るうえで重要な時期である。本稿では、
るプロセスの一端を明らかにする上で重要
1950 年代の「基幹事業」からサンチアゴ会
な材料を提供している。
議にかけて、ラテンアメリカにおける教育
第二次大戦後、ユネスコは各国の教育整
計画というアプローチの受容を追い、教育
備への努力を続けており、その経緯はユネ
開発の萌芽期の動向を歴史的に明らかにす
スコの各種記録からたどることが出来る。
ることを目的とする。
隔年の総会の記録、ユネスコと国際教育
局 (International Bureau of Education, IBE) が
1.ユネスコ「基幹事業」とは何か
まとめた前年度の国別教育発展の記録集で
ある国際教育年鑑 (International Yearbook of
(1) 「基幹事業」の成立
Education) における動きを眺めると、1950
ユネスコは創立以来の 10 年間、
「情報の
年代末期に一つの変化が現れていることに
交換を通じた教育の改善」
「教育の拡大」
「国
気づく。すなわち教育と経済成長の関係を
際理解のための教育」という 3 つの主要な
前提とし、教育計画をたて、経済開発計画
仕事に取り組んでおり、2 億 5 千万人とさ
に組み込もうとする傾向である。これは教
れる不就学の子どもの就学を目標に掲げて
育における開発思想の一つの表れと捉える
い た (UNESCO 1956d, p.26)。 本 論 の 対
ことが出来る。
象となるラテンアメリカでも初等教育普及
1950 年代前半においては、教育を経済
を 推 進 し て い た (Brock and Lawlor, 1985,
発展の要件と見る考え方は、毎年の上記年
p.5.)。しかしその優先的実行政策は必ずし
鑑に一般的な言及としては存在したが、そ
も明確ではなかった (UNESCO 1954a)。
の数はごく少なかった。1957 年のユネスコ
1954 年 11 月のモンテビデオにおけるユ
第 49 回執行部会の記録のあたりから経済
ネスコ総会では、無償かつ義務の初等教育、
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江原 裕美
基本的教育 (educación fundamental)、人種的・
(un proyecto principal relativo a la extension
社会的・国際的緊張、東西の文化的価値の
de la enseñanza primaria en América Latina
相互評価、という4つの優先的分野を定め、
(formación de maestros))」
を承認し (UNESCO
その中で重要問題の解決に向け限られた期
1956a, pp.14-15)、
「乾燥地域のための教育
間で成果が期待される具体的な事業「基幹
計画」と合わせた予算として 796,720 ドル
事業 (Major Projects)」を事務局長が準備す
を了承した (UNESCO 1956c)。ラテンアメ
るよう求めた (UNESCO Conferencia General
リカはこの種の計画の先導的存在となった。
1954, pp.54-55.)。それによれば事務局長
それはあくまでも初等教育の普及を目的と
は、1955 年中に候補を選定、1956 年には詳
した教員養成を中心とする限定された事業
細な計画を準備、1957-1958 年には資金配
であった。その始まりから 1962 年のサンチ
分のめども示すこととなっていた。同総会
アゴ会議に至る過程は文末の表 1 に示され
における「計画と予算委員会」の報告書も
る通りである。
これに従い、初等教育と基本的教育の充実
が強調されるべき (UNESCO 1954a, p.69.)
(2) 「基幹事業」の内容と実行組織
との方向性を示した。
この「基幹事業」は、ラテンアメリカに
1954 年 12 月のユネスコの第 40 回執行部
おける無償義務教育の拡大を究極の目的と
会は、無償義務教育について 1956 年にリ
し、具体的には 1957-1958 年度を皮切りに、
マで事務局長による会議の招集を認め、同
6 年から 8 年、
最長でも 10 年間で、
各国にとっ
時に前年の秋にブラジルで開催が予定され
て十分な数の初等教員と教育専門家を養成
ている米州機構 (1) の会議において教育大臣
しようとするものであった。それは米州機
会議を開催できるかどうかについても検討
構や国連ラテンアメリカ経済委員会などを
と協力を要請することとなった (UNESCO
巻き込んだ多国間の事業として進行した。
1954b, p.3)。
第9回ユネスコ総会は決議 1.81 として、
1955 年 4 月のユネスコ第 41 回執行部会
加盟各国に国家計画の立案、資金投入、早
は事務局長に対し、米州機構とラテンア
期の目的達成を求めるとともに、事務局長
メリカ経済委員会の加盟国に、ユネスコ
に米州機構との協力と以下のような活動を
の会議への参加要請を行うことを承認し
許可している。すなわち、1) 専門家派遣な
た (UNESCO 1955, pp.7-8)。これを受け、
どによる教育計画策定の支援、2) 教員養成
翌 1956 年 4-5 月ユネスコ招集による「ラ
大学の設立や教員研修コースの提供による
テンアメリカにおける無償義務教育に関す
初等教員の供給数と質の改善、3) 米州農村
るユネスコ地域会議」および米州機構招集
師範学校と連携した教員養成校の教官の訓
による「第 2 回米州教育大臣会議」がリマ
練、4) 奨学金やフェローシップによる教育
で開かれ、ともに満場一致で無償義務教育
専門家育成支援、5) 無償義務教育の拡大に
の 拡 大 を「 基 幹 事 業 (Proyecto Principal)」
ついての教育指導者セミナー開催、6) 広
と す る こ と を 決 議 し た (UNESCO 1959a,
報活動、といった活動であった (UNESCO
pp.9-10)。
1956c, pp.42-43)。この計画に用いられる
1956 年 12 月のニューデリーで開かれた
予算は 1956 年まではゼロであり、1957 年
第 9 回ユネスコ総会では、リマ会議に基づ
には 224,470 ドル、1958 年 225,500 ドルと
き、最低6年間の無償義務教育を全員に
な っ て い た (UNESCO 1956c, pp.42-43)。
与えるため、
「ラテンアメリカにおける初
ここでわかるように教育への支援は技術援
等教育拡大に関する基幹事業(教員養成)
助的なものであり、資金もごく限られてい
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1950 年代ラテンアメリカにおける初等教育普及事業と開発思想- ユネスコ「基幹事業」からサンチアゴ会議へ
た。
門家や奨学金支給などを通じて行うもので
同じ 1956 年 12 月に開かれた第 46 回ユ
ネスコ執行部会は計画の立案実行に関し
(UNESCO 1960a, p.36)、教育の質的側面
に集中した小規模な技術援助が主であった。
て事務局長を補助するための諮問委員会
(the Advisory Committee on the Extension of
(3) 「基幹事業」への「教育計画」の影響
Primary Education in Latin America, またの名
ラテンアメリカ諸国は基幹事業第1号に
は el Comité Consultivo Intergubernamental del
関して、どんな進歩を遂げたのか。当時は
Proyecto) を組織することを定めた (2)。諮問
就学率が示されておらず、絶対数でどれだ
委員会は 1957 年 2 月にはハバナで第 1 回会
け就学者が増えたかという数値とその伸び
合を開き、
「基幹事業」の行動計画と規則な
率が示されている。それによると 1956 年か
どについて話し合い、ユネスコの事務局長
ら 1959 年にかけて、実数では、ラテンアメ
に提案した
(3)
。
リカ全体で、2,082 万 4,000 人から、2,476
この第 1 回の諮問委員会はリマの会議で
万 9,000 人 へ と 初 等 教 育 就 学 者 数 が 増 加
指摘されたラテンアメリカが解決すべき教
し、地域平均で 18.9%の増加であった。同
育問題として、1) 就学年齢人口約 4,000 万
じ く 教 員 数 は、587,583 人 か ら 686,428 人
人のうち、初等教育を受けているのは 1,900
へと増加し、増加率は地域平均で 15.8%で
万人にすぎない、2) 初等教育修了率が 20%
あった。その一方で師範学校の修了者数は
未満、3) 平均教育水準が人口全体で小学校
42,191 人から 44,235 人へと少数の増加に
1年を超えず、就学できた子どもでも 4 学
とどまっている。また無資格教員の割合、
年まで至らない、4) 出生率 2.6%という人
視学官一人当たりの教員数、教育予算の伸
口の急増と学校不足、5) 教員不足 50 万人
び率や一人当たり公的教育資金等が報告さ
と教室不足、6) 教員の資質の低さ、7) 教育
れた (UNESCO 1960b, pp.46-60)。
政策の非継続性と管理の欠陥を挙げている。
こうした調査からユネスコの報告書は、
そしてこれらをふまえ、1) 教育計画の作成、
1)1956 年から 1960 年にかけて 400 万人の
2) 大規模かつ継続的な初等教育の拡大、3)
在籍者増と 10 万人の教師増、教育予算増
初等学校のカリキュラム見直し、4) 教員養
加、2) 師範学校卒の教師不足と質の問題、
成制度の改善と教職の地位向上、5) 教育指
3) 視学官不足、4) 生徒一人当たり投資金額
導者や専門家の養成センター設立、という
の絶対的不足を報告した。同書は、建設す
目標を定めた (Informe 1960, p.34)。
べき初等学校数は巨大なもので、金融機関
実行組織のトップには事務局長の代理と
による融資なしには満足すべき結果は出せ
してユネスコ教育局の局長が就き、専門家
ないだろうと述べ、基幹事業は 1956 年に生
の委員会で援助を得る。活動の本部はハバ
まれたばかりであるが、ラテンアメリカの
ナに置かれ、教育、統計、計画化などの専
発展と進歩のための決定的な試みとなった
門家を増やして、連携する師範学校の直
(UNESCO 1960b, pp.60-61) と評価した。
接支援を行うとともに、各国の教育大臣と
このように「基幹事業」はカラチプラン
関係を持ち、ユネスコ国内委員会に付属す
などに先駆けて、ユネスコを中心に教員養
る「基幹事業委員会」を組織してその代表
成の改革により初等教育の拡大を一定程度
が諮問委員会に参加する構成になっていた
果たした点で重要な役割をラテンアメリカ
(UNESCO 1960a, p.35)。ユネスコの役割
で担っていたが、その過程で、教育拡大の
は組織の性質、そして資金の制約から、上
ためには対外援助機関からの大きな融資を
述したような活動を国連技術援助計画の専
必要とするという予測に直面したのである。
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江原 裕美
こ の プ ロ セ ス と 相 ま っ て、
「教育計画
社 会 開 発 に 関 す る 米 州 会 議 (Conferencia
(educational planning)」 と い う 用 語 は ユ ネ
Interamericana sobre Educación y Desarrollo
スコの報告書に数多く表れるようになっ
Económico y Social)」を、米州機構も支持す
て い っ た。1958 年 の 第 2 回 諮 問 委 員 会 で
ることに合意しており、国連ラテンアメリ
は、事業の中に「教育計画」を含むことが
カ経済委員会 (Economic Committee for Latin
決 ま り (UNESCO 1962b, p.166)、 メ キ シ
America, ECLA、以下ではスペイン語名称
コ シ テ ィ で 開 か れ た 1960 年 3 月 14-19 日
からの CEPAL と略称 ) も同計画への支持を
の「諮問委員会第3回会合」では、
「基幹事
表明 (UNESCO 1959b, pp.59-60) した。そ
業」の名称を「ラテンアメリカにおける初
して 1959 年 10 月末のリオデジャネイロに
等教育の拡大及び改善に関する基幹事業第
おける国連諸機関と米州機構等による準備
1 号 (Proyecto Principal No.1 Sobre Extensión
会合、1959 年 12 月 11 日パリのユネスコ本
y Mejoramiento de la Educación Primaria en
部会議における CEPAL の会議共催の申し
América Latina)」と変更することが提言さ
出、1961 年 2 月の米州機構の共催申し出を
れた (UNESCO 1960c, p.73)。その理由は、
経て、上記会議の三者による共催が決まっ
基幹事業は初等教育を対象としているがそ
たのである。同年 5 月 22日 から 6 月 3 日に
の結果はそれ以降の教育段階に反映するた
はサンチアゴの CEPAL 本部で再度の準備会
め、ますます初等以外の教育制度と社会経
合が開かれた (UNESCO 1962a, pp.9-10)。
済発展に強く結びつけられなければならな
同時期、アメリカはケネディ新大統領が
いからであると特に言明している (UNESCO
就任し、対外援助体制の一新に向けて精力
1960c, p.73)。初等教育の普及は中等教育
的に活動を開始していた。
「低開発国」の
進学者を増大させるのであり、その対応の
経済成長が共産主義化への防波堤となると
ためには多大な経費の必要が見込まれた。
の考えから、開発援助は重要だった。その
こうした推移を背景に、初等教育を対象と
象徴的存在がラテンアメリカに対する「進
して出発した「基幹事業」は、他の教育段
歩 の た め の 同 盟 (the Alliance for Progress)」
階も含めたセクター全体として教育計画を
である。教育が経済や軍事と並ぶ重要性を
作り、さらにそれを開発計画に組み込むと
持つべきという考えを持つケネディは教育
いうアプローチに多大な影響を受けるよう
文化担当の国務次官補ポストを新設し、ユ
になった。
ネスコの地域教育会議に代表を送ってい
る。 ア メ リ カ の 主 導 で 1961 年 8 月 2 日 か
2.サンチアゴ会議 開催過程と成果
ら 15 日にかけて、ウルグアイのモンテビデ
オ郊外で開かれた米州機構経済社会理事会
(1) サンチアゴ会議開催の経緯
(Consejo Interamericano Económico y Social)
こ の 間、1958 年 4 月 か ら 5 月 に か け て
の特別会合は「進歩のための同盟」を発
のパナマでの諮問委員会の会合を経て、同
足させる「プンタ・デル・エステ憲章 (the
年のユネスコ総会は「基幹事業」の進歩を
Charter of Punta del Este)」を採択、決議 A-1
多 と し た (UNESCO 1959a, p.10)。 同 じ
により上記「教育と経済社会開発に関する
年 1958 年 6 月には、ワシントンでの「教育
会議」に、ラテンアメリカにおける今後 10
の総合計画立案に関する米州セミナー (el
年間の教育発展の目標と手段の決定を委ね
Seminario Interamericano sobre Planeamiento
た。会議は 1962 年 3 月 5 日から 19 日まで
Integral de la Educación)」 で、 ユ ネ ス コ
チリのサンチアゴで開催されることに決
提 案 の「 ラ テ ン ア メ リ カ の教 育 と 経 済
まった。
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1950 年代ラテンアメリカにおける初等教育普及事業と開発思想- ユネスコ「基幹事業」からサンチアゴ会議へ
この過程で、1) ラテンアメリカの経済社
ビッシュ (Raul Prebisch)、米州機構からソ
会人口的状況が教育にもたらす影響と対策、
ル (Jorge Sol)、ユネスコ執行部副議長のバ
2) 経済社会発展における国民教育制度の役
ロン・カストロ (Baron Castro) も同調した。
割、3) 開発総合計画における教育プロジェ
先の目標4項目については、最初の全体会
クト策定実行の基準、4) 決議 A-1 に基づく
では第一項目を扱い、率直で現実的な教育
教育発展 10 カ年計画の決定と効果的実行
の問題点と経済社会的な構造問題が報告さ
という4項目について結論と実用的提言を
れ、これをふまえて残り三項目は三つの分
出すことが会議の目標となった (UNESCO
科会で今後の対応策として、
「経済社会開発
1962a, pp.9-10)。
に貢献するための教育の拡大と改善」
「教育
会議で得られる提言の実行に関して、プ
の経済社会計画への統合」
「前述の目的を達
ンタ・デル・エステ憲章付録の決議 A-1 は、
成するために必要な国際協力」が話し合わ
教育大臣会議で今後 10 年間の政策を検討す
れた (UNESCO 1962a, p.11)。
ることを求めていた。そのために提言は、
第一の問題に関しては、それぞれの教育
「教育と経済社会開発に関する会議」に引
段階について現状が報告され、改革の方向
き続いて 3 月 20 日から 23 日にかけて開か
性、望ましい構造や現代の要求にかなう要
れる「基幹事業第1号」の政府間諮問委員
件などを示した。この会議では就学率の数
会第4回集会と 1962 年 11 月の第 12 回ユネ
字が用いられているほか、様々な統計資料
スコ総会、さらに 1962 年 6 月にボゴタで開
が示された。初等教育は就学率 78%にとど
催される米州機構第三回米州教育大臣会議、
まっている上、留年や中途退学が多く、卒
および同じ日程・会場でユネスコが招集す
業に至る率は 17%に過ぎないこと、また中
るラテンアメリカ教育大臣会議においても
等段階では就学率 15%、入学者中卒業する
検討されることとなった (UNESCO 1962a,
率 22%であること、資格不足の教員は初
pp.9-10)。このようにサンチアゴ会議はラ
等段階で 44%、中等段階では 70%を占め
テンアメリカの教育に関する国際会議とし
る、などの数値が上げられている (UNESCO
てはかつてない規模の参加を得て高い目標
1962b, p.66)。就学の障害は、経済、社会、
を掲げることになった。
運営管理、教育という 4 つの面から詳しく
分析されている。
(2) サンチアゴ会議の成果と特徴
これらをふまえ、初等教育については 60
サンチアゴ会議では、各国は特に教育計
年代中の普遍化を目指し、教員養成と変化
画及び経済社会開発計画に教育計画を組み
に対応する教育が主張された。中等教育に
込むことにかかわる経験を持ち寄ることが
ついては職業技術教育に注目して社会の文
強調された。報告書は、この会議をラテン
化的経済的発展計画と関連させること、大
アメリカの教育に関するこれまでで最も重
学に関しても国の経済社会的発展計画の作
要な集会と位置づけているが、会議は非常
成に協力するため専門職養成で貢献すべき
にポジティブで希望に満ちたものとなった
ことが述べられている。初等教員の養成を
という (UNESCO 1962b, p.5)。
目的としてきた「基幹事業」はこうした全
ユネスコ事務局長のレネ・マヒューが教
体的動きを構成する一部となったといえよ
育は権利であり、それ自体が目的であると
う。教育は経済成長の前提条件とされ、
「基
同時に経済社会進歩は最終的にはこれを達
幹事業」で提案された「教育総合計画」を
成するための手段であると述べ、この考え
さらに経済社会計画に統合する方法、そし
方が会議の貴重となった。CEPAL からプレ
てそのための国際協力の内容という点が関
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江原 裕美
心の的となった。先に見てきたように、ユ
的資金の 15%は教育に用いられること、そ
ネスコの教育への援助活動は資金的制約か
して多くの国際機関や援助国に教育計画の
ら「質的」援助に集中せざるを得なかった。
実行支援を呼びかけることなどであった
ここでいう「国際協力」とは、教育機会の
(UNESCO 1962b, p.6)。50 年 代 か ら 開 始
拡大や就学率の上昇のため、これまで行わ
された「基幹事業」は、初等教育の教員養
れてきた小規模な技術援助的活動を超え、
成と教育の総合計画作りに取り組むもので
大きな資本を投じる援助を指していた。ユ
あったが、サンチアゴ会議では、
「教育計画」
ネスコにとって、それは資金難を克服して
をさらに「総合開発計画」に統合するとい
教育拡大を実行するための絶好のチャンス
うアプローチに席巻された形となった。
だった。
ユネスコによる費用の試算は興味深いも
のであった。中等教育普及の水準から、ラ
3. サンチアゴ会議における教育開発
の課題
テンアメリカ諸国を三つのグループに分け、
1970 年の目標教育普及率を達成するための
サンチアゴ会議では以上のように、教育
5 年ごとの初等、中等、高等の教育段階の
を経済社会開発計画のなかに組み込む計画
登録者数を割り出す。そして各段階にかか
策定 (planning) がその重要主題であり、教
る一人当たりの経常経費と投資経費を登録
育拡大に必要な金額を算出して、そのため
者数で乗じて必要経費を算出するのである。
の国際協力体制を作ることが目的の一つで
これによると、1960-1965 年の 5 年間で 135
あった。しかし、その高度な目標に比して
億 6,400 万ドル、
1965-1970 年で 204 億 5,900
現状は問題を抱えていた。
「計画策定」と、
万ドル、
すなわち 10 年間で合計 340 億 2,300
議論の前提となる教育と経済成長の関係を
万 ド ル も の 金 額 が 必 要 に な る (UNESCO
めぐる当時の状況を眺めてみよう。
1962b, p.143-161)。しかしこれは途方もな
い金額であった。プンタ・デル・エステ会
(1) 教育計画策定の課題
議で、アメリカが「進歩のための同盟」に
「 基 幹 事 業 」 が 始 ま っ て 以 来、
「教育計
よって 10 年間に用立てることが出来ると提
画」はラテンアメリカの教育の特徴的な潮
示した外部資金の合計額が 200 億ドルであ
流となった、と報告書が述べているように、
り、それを全部投じても算出された必要金
1962 年時点で様々な形態ながら 16 カ国に
額に達しないのである。
おいて教育計画が行われており、11 カ国
当然、資金の捻出方法や用途について
がこのための新しい組織を編成中であった
様々な論議が交わされた。ユネスコの試算
(UNESCO 1962b)。
がそのまま取り入れられることはなく、最
ただしその実質が問題であった。それら
終的に、サンチアゴ宣言には次のような事
の活動は一般的助言、研究調査、教育政策
柄が盛り込まれた。その第一の目標は、な
の統合、経済社会開発計画と教育計画の統
るべく早期に経済社会開発計画に統合され
合などとされていたが、実際それは行われ
た教育計画を作成すること、第二に 1965 年
ておらず、活動があったとしてもせいぜい
までに各国の総生産の 4%を教育に振り向
一般的な助言かそうでなければ純粋に教育
け、まだその割合が低い国は、1965 年まで
学的な内容の活動にとどまっていた。
に少なくとも 1%、1970 年までにあと 1%
サンチアゴ会議の報告書は、全体的に見
を達成すること、第三に「進歩のための同
て計画化の組織のほとんどは初期段階に
盟」の手続きの簡素化と「同盟」による公
あって、その活動は教育状況の単なる描写
- 20 -
1950 年代ラテンアメリカにおける初等教育普及事業と開発思想- ユネスコ「基幹事業」からサンチアゴ会議へ
や主観的な判断、量的な見通しの「一覧表」
リードリッヒ・エディングは、上記報告書
「目録」に過ぎない、と手厳しい (UNESCO
において、世界の経済発展は大きく教育の
1962b)。教育計画といっても大部分は、行
広がりと科学研究に負っていると述べ、経
政に要求された部分的改革の準備をし、異
済発展の段階の異なる国々の国民所得に占
なる部局間でバラバラに行われた活動の見
める教育支出の割合を観察し、教育支出
直しや調整を示しているに過ぎなかった。
が絶えず増大している傾向を論じている
未だどれ一つの国にも、
「総合的 (integral)」
(UNESCO 1959c, pp.11-16)。また、同誌
と呼べるような教育計画は作られていない
の他の部分では、ラテンアメリカにおける
(UNESCO 1962b) と断じている。
教育支出の 1930 年代との比較や 1950 年代
計画立案組織が出来たことで、徐々に客
の教育予算の伸び具合、国民所得における
観的、体系的な活動の精神ができつつある
国の教育支出の割合といったグラフが掲げ
という肯定的な面も見られたものの、政治
られている (UNESCO 1959c, pp.17-27) が
家や役人の交代、予算や人材の不足、計画
経済成長との関係は明示されていなかった。
担当部署の権限の不足、計画という概念の
こうした 50 年代末期の状況が変化した
なさ、既得権益を侵されることへの恐れ、
のは主にアメリカ合衆国の動きによってで
などが障害として立ちはだかっていた。
ある。アイゼンハワー政権は南米における
反米運動を目の当たりにして 1958 年後半か
(2) 教育と経済成長の関係
ら対ラテンアメリカ政策を一変させる ( 江
1950 年代、
「基幹事業」についての認識
原、2012a)。当時隆盛に向かっていた近代
は各国とも非常に好意的なものであり、目
化論をふまえ、安定的な近代化を推進する
的や手段について満足すべき合意があった。
ために経済援助の投入と社会開発を目指す
しかし、教育と各国の経済社会条件との関
ようになったのである。折しも 1960 年のア
係は明らかになっておらず、根拠となるべ
メリカ経済学会におけるセオドア・シュル
き理論は主観的印象や体系的でない分析に
ツ (Theodore Schultz) の 発 表 は、 経 済 成 長
よるものでしかなかった (UNESCO 1959c,
の前提条件としての教育を根拠づけ、教育
p.4)。
経済学の研究が盛んとなっていく ( 江原、
「基幹事業」の報告書は、特定の国の経
2001)。ケネディ政権はアイゼンハワー政
済力に応じた教育投資額、経済社会発展の
権の変化を引き継ぎ、さらにスケールアッ
ための教育制度改革、その手段といった問
プしたものとして「進歩のための同盟」を
題への正確な答えは出すことが出来ないで
提唱した。反米運動の盛り上がり、キュー
おり、ラテンアメリカ各国の違いも知ら
バ革命、激しい社会変動を目の当たりにし
れていないことを指摘している (UNESCO
て、共産主義化を予防することが対ラテン
1959c, p.5)。そのための努力をコーディ
アメリカ政策の最重要目標であった。そこ
ネートする場こそが、チリで計画されてい
から、各国に経済社会開発計画に則った国
る教育と経済社会開発に関する会議だとい
内改革を奨励し、そのための外部資金を供
うのである。
給する仕組みがこの「同盟」であった(江
しかし上述のように、1950 年代末、教育
原、2012b)
。
「開発計画」は国内改革の鍵で
と経済発展の関係について明確な理論があ
あり、教育は成長をもたらす魅力的な要件
る訳ではなかった。1959 年頃、教育と経済
として、そこに組み込まれることが必要だっ
の関係は主に国の支出に占める教育支出の
た。アメリカはユネスコが主催する地域教
割合から論じられていた。キール大学のフ
育会議に次々に参加、OECD の政策会議 (4)
- 21 -
江原 裕美
も開催して、教育と経済成長の相関を打ち
成人識字、民衆文化の育成という面に集中
出し、教育計画とそれの「開発計画」への
することが選択されたことであった。当初
統合を説いた ( 江原、2013)。
「計画」は資
「初等教育拡大(教員養成)
」として始まっ
金割当と直結するものであり、教育の資金
た「基幹事業」は 4 年前に「教育計画」の
難を克服する手だてに思われた。
「進歩のた
実施を含めたのであり、今回も事業の範囲
めの同盟」成立を受けて開かれるサンチア
を広げるかどうかが問われたが、最初の初
ゴ会議ではこうした経緯からも、
「教育計画」
等教育拡大と質の改善に事業を限定するこ
と「開発計画」が重要テーマとして扱われ
ととなったのである。
たのである。
委員会は、イニシアチブを発揮して「教
育と経済社会開発に関する会議」を準備、
(3) 「基幹事業」の行方
実行したこと、また、多くの国で担当機関
「教育と経済社会開発に関する会議」が閉
が設置され「教育計画」が促進されている
幕した翌日、第 4 回基幹事業政府間諮問委
ことは、
「基幹事業」の成果であるとして
員会会合 (UNESCO 1962b, p.162) が開催
自己評価しながらも、熟慮された計画の
された。
「基幹事業」の経過をユネスコ総会
少なさ、にわか仕立ての新組織づくり等
に諮るための準備が目的であった。前日ま
での会議と対照的に抑え気味の展望で限定
が見られることを指摘し、
「一過性の方法」
「えせ科学的な基礎に基づいた拙速な改革
された議題を扱い、親密な雰囲気で行われ
(UNESCO 1962b, p.188)」 と 懸 念 を 表 明
た。
している。前節でも述べたように、各段階
前記の会議を開いたこと自体が「基幹事
にわたる教育の総合計画を作ること自体、
業」の成功を示しており、その成功は諮問
まだ 1958 年頃から提案された新たな考え
委員会のイニシアチブに大きく負っていた。
方であるのに加え、教育以外の多数の部門
そしてこの諮問委員会は 1960-62 年の主要
と関係する「経済社会開発計画」にそれを
事業の発展を検証し、前記会議の提言をふ
組み込むことは、当時の教育行政の能力範
まえて主要事業の再方向付けを行うという
囲を超える作業であった。加えて「開発会
意味で重要であった。会議では、まず、こ
議」開催準備のために「基幹事業」の人員
のプロジェクトの成功が讃えられた。56-61
のかなりの部分が用いられてしまい、
「1961
年の 5 年間で約 800 万人の子どもが新たに
年後半と 1962 年前半がそれで忙殺された」
登録され、増加率は 34%であり、この間の
(UNESCO 1962b, p.209)、との記述もあり、
人口増加率 13%と比べても大きいこと、教
実行可能な当初事業に限定するという結論
員や教室の拡大だけでなく、教授技術や管
が出されたと考えられる。このように「基
理運営でも大きな成果があったことなどが
幹事業」は、サンチアゴ会議の準備を進め
紹介された (UNESCO 1962b, pp.162-164)。
てきたものの、その成果である総合的な「経
そして中途退学の多さが最大の課題である
済社会開発計画」事業とは一定の距離を置
と述べ、提言として教育計画における初等
くことになったのである。
教育予算の優先、制度改革、初等教育の普
遍化、学校の提供、授業の確保、カリキュ
おわりに
ラム改善、社会的援助の提供、教員養成を
挙げている (UNESCO 1962b, p.177)。
第 4 回諮問委員会において、
「基幹事業」
興味深いのは今後の「基幹事業」は、事
の 1963 年以降の事業計画と予算は、この会
業の拡大よりも、初等教育の拡大と改善、
議で出された方向性に沿って再構成するよ
1950 年代ラテンアメリカにおける初等教育普及事業と開発思想- ユネスコ「基幹事業」からサンチアゴ会議へ
た。同地域内の平和と安全、民主主義の強化、
う、ユネスコ事務局に託されることになっ
域内紛争の防止などに取り組む。
た。一方、サンチアゴ会議で確認された教
育目標は、進歩のための同盟や教育大臣会
(2)
メンバーはアルゼンチン、ボリビア、ブラジ
議といった枠組みの中で高いレベルで推進
ル、コロンビア、チリ、アメリカ合衆国、ハイ
されることが求められた。1950 年代の初等
チ、グアテマラ、メキシコ、ニカラグア、ペ
教育開発政策である「基幹事業」は、初等
ルー、ベネズエラの 12 カ国であった。(UNESCO
教育段階以外をも包含する「総合教育計画」
を推進し、
「経済社会開発計画」との統合を
1956b, p.3, Annex)
(3)
諮問委員会のメンバー構成を定めたほか、教員
実現しようとしたが、人材、制度、概念、
養成のための連携師範学校、連携大学などや
知識、リソース、などの点で大きな障害が
フェローシップの選定や、加盟国の参加を促す
あった。
「基幹事業」がサンチアゴ会議の準
点について事務局長に権限を与えること、委員
備と実施に注力したものの、会議終了後、
の旅費をユネスコが負担するよう求めること
限定された本来の活動に集中することを選
択したのは、
「経済社会開発計画」への「教
などを決めた。(UNESCO 1957a, p.7).
(4)
正 式 名 称 は Policy Conference on Economic
育計画」統合の難しさ、ひいては教育開発
Growth and Investment in Education といい、1961
への接近方法の違いを示している。
年 10 月 16-21 日にワシントンで開催された。
教育経済学が本格的に登場したのは 1960
年代初めであった。教育計画理論が基調と
なり、地域の本格的な開発目標の設定が成っ
たことは大きな意味を持っていた。1962 年
サンチアゴ会議は、ラテンアメリカにおけ
る教育開発の「出発点」となったと解釈で
きよう。ただし現実の状況を見るかぎり、
教育投資が本格的に実施されるまでには今
しばらく条件の整備や時間が必要であった。
また「基幹事業」が原点回帰に向かったこ
とが対照的に示すように、教育開発の動き
の違いを内包したものともなった。開発思
想は「教育計画」として大いに主張され受
容されるに至ったことは確かであった。同
時に、教育開発への多様なアプローチがあ
り得るという示唆も遺されたのである。会
議のあとの実質的な展開については稿を改
めて検証してみたい。
注
(1)
英語名称は Organization of American States(略
称 OAS)。1951 年に設立された南北アメリカ諸
国の汎米国際機関。当初はアメリカ合衆国主導
の反共産主義同盟という色彩が強いと言われ
- 23 -
- 24 -
1962
1961
1960
1959
1957
1958
3 月 5-19 日、サンチアゴで「教育と経済
社会開発に関する会議」。「サンチアゴ宣
言」が出される。
12 月、ユネスコ本部で国際機関代表の会
議、CEPAL がユネスコとの会議共催を申し
出る。
年末の総会で、主要計画の再確認と進歩
への評価。
12 月、ニューデリーでのユネスコ総会で
リマ会議に基づき、「ラテンアメリカにお
ける初等教育拡大の基幹事業 ( 教員養成 )」
が承認される。決議 1.81。
12 月、主要計画の立案実行のため事務局
長を補佐する諮問委員会の組織を決定。
ユネスコ総会および本部レベル会議
ユネスコ執行部会議
ユネスコ地域会議
11 月、モンテビデオにおける総会で 4 つ
の優先分野を定め、「基幹事業」を作るこ
1954 とを決議。
12 月、第 40 回執行部会で 1956 年にリマ
で無償義務教育会議を招集することを決
め、ラテンアメリカ教育大臣会議も開催
できるかについては 1955 年秋のブラジル
における米州機構会議で検討依頼するこ
とになった。
4 月、第 41 会執行部会はユネスコ会議に
1955
米州機構と CEPAL を招待することを決定。
4-5 月に無償義務教育に関
するラテンアメリカ地域
1956
会議がリマで開かれる。
8 月、モンテビデオで米州機構経済
社会理事会。プンタ・デル・エステ
憲章の決議 A-1 で「教育と経済社会
開発に関する会議」にて今後 10 年
間の計画を決定することとなった。
2 月、米州機構が会議共催を希望、
UNESCO と CEPAL から承認された。
6 月、OAS、UNESCO 後 援 で 教 育 計 画
立案に関する米州セミナーが開かれ
る。ここでユネスコのイニシアチブ
による教育と経済発展に関する米州
会議開催を指示する合意がなされ
た。
4-5 月に米州機構招集の第 2 回米州
教育大臣会議がリマで開かれる。
米州機構 (OAS)
表1 1950 年代から 1960 年代初めにおけるラテンアメリカ教育普及政策の形成過程—ユネスコを中心に
5-6 月、サンチアゴの
CEPAL 本部で準備会合。
10 月末にリオデジャネイ
ロで、国連諸機関と米州
機 構、 カ ー ネ ギ ー 財 団、
学者らを集めた準備会合。
国連諸機関、特に CEPAL
3 月 20-22 日、サンチアゴにて「開発
に関する会議」に引き続き第 4 回会合。
初等教育中心の活動を確認し、次年
度以後の計画を事務局に一任。
(筆者作成)
3 月 14-19 日、メキシコシティで第 3
回会合。名称を「初等教育の拡大及び
改善に関する基幹事業第 1 号」とした。
2 月ハバナで諮問委員会第 1 回会合。
4-5 月パナマで第 2 回会合。
ユネスコ基幹事業諮問委員会
江原 裕美
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- 26 -
1950 年代ラテンアメリカにおける初等教育普及事業と開発思想- ユネスコ「基幹事業」からサンチアゴ会議へ
Extension of Primary Education and Development Thought in
Latin America:
From the UNESCO’s Major Project to the Santiago Conference
Ehara Hiromi
Department of Foreign Languages, Teikyo University
In 1950’s UNESCO lead regional education policy around the world. In
those days so-called development thought began to have influence on educational
policy in the developing world. Latin America soon got involved in such “education
for development” movement and began to act on their own. How did it appear in
the education sector policy in Latin America in 1950’s and what did it bring in the
1960’s?
In Latin America the “Major Project” was established by the initiative of
UNESCO to extend primary education and train more primary school teachers.
During the project, UNESCO supplied technical assistance to almost all the Latin
American countries and noticed immense need for capital resource to achieve the
goal.
In this process, education began to be seen as a pre-requisite of economic
growth and “educational planning” was thought to be the most effective mean to
grow the necessary manpower. Education should be planned as a whole sector
and be integrated into the “national economic and social development program.”
This idea was especially emphasized at the Conference for Economic and Social
Development and Education in Santiago, Chile. The Santiago Declaration
indicated the percentage of education sector in the whole national budget and the
external resource supplied by the “Alliance for Progress”, which was a big step to
show the importance given to education sector.
But easier said than done. The problem was in the very way to make
“educational planning” and to integrate it into the national development program.
Also there was a movement with a different direction toward concentrating efforts
on primary education sector. This article trails the interrelationship between
primary education policy and development thought symbolized by “educational
planning” in the 1950’s and early 1960’s Latin America and UNESCO.
- 27 -
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