Comments
Description
Transcript
死神の目と神の手 - Endo Lab.
L I F E o f P R O T E I N S FCS に巡り会ったのは引きこもりだった私を某シンポジウ 胞生物学しか知らない人間にとって実に妙なものだった。かけ ム開催に巻き込んで戴いたことがきっかけだった。21 世紀は 算だけで 1 分子が測定領域から逃げる割合がわかる,しかもノ 生物物理の時代と思い,四方哲也さんに organizer を頼んだら イズのように見える蛍光の揺らぎがきれいにフィットできる, 体よく断られて,札幌なら金城さんに頼んだらと言われたので, これは驚異だった。それが面白くて,その頃,いいモデルにな 初めて北大の電子研なるところに行った。シンポジウムは札幌 るのにと思ってた分子を測ってみた。それにはフォールディン 医大の鳥越さんの獅子奮迅の働きで盛大に終わり,私はやるこ グを同調させるのに温度を一定にしないといけなかったので, となかったので金城さんと,顕微鏡の上で揺らぎを測るとかい プラスミドを打ち込んだ細胞を札幌医大から北大電子研までタ う FCS の話ばかり聞いてた。その式は,タンパク質化学か細 クシーで 20 分程度の間,40 度にした BlueIce を詰め込んだス ラ イ フ オ ヴ プ ロ テ イ ン ズ の裏街道 死神の目と神の手 遠藤斗志也 2005年の個人的 TV ベスト(ミーハー)エンタテ インメントが「女王の教室」なら,2006年は「デス ノート」だっただろうか。マンガ版の最終回が終わっ て久しく,また映画版は興味が持てなかったのでしば らく忘れていたが,年末に深夜アニメが放映されてい るのを発見,マンガの雰囲気を見事に再現,いやマン ガ以上にその世界を表現していることにちょっと感動 した。アニメは毎週放映後ただちに有志(?)たちの 手によって動画サイト YouTube にアップされ(それ も英語字幕付き) , それに対する「cool」 「awesome」 等の単語が飛び交うレスからも分かるように,海外で も人気に火がつき始めている。 「デスノート」は,死神のノートを手に入れ,この 世界を変えようとする主人公キラとそれを捕らえよう とする L との闘いの物語だ。どんな人でも顔と名前 が分かれば,デスノートに名前を書きこむだけで自由 に殺すことができる。キラが片っ端から犯罪者を殺し デスノート 80 ていくことで,世界中の犯罪は激減する。ネット世界 を中心にキラの行動は支持を集めていき,そのような 共感のあり方はまた,読者/視聴者に対しても妙に説 得力を持つ。 犯罪のない理想的に浄化された新世界で, キラは神になれるか…。 もっと小さな超能力も含めて,「超越した力」が, 時代の空気に不思議にマッチし始めている。伊坂幸太 郎の「魔王」でも,不思議なカリスマ性とストイシズ ムで次第に大衆の支持を集めていく若き政治家と,彼 の力によって現代版ファシズムに束ねられていく流れ に漠然と不安を感じる兄弟の,小さな超能力を介した 対決が主題だ。先が見えない時代における超越した力 への願望は,科学的思考力の衰退を意味するのだろう か? * * * 90年代末に登場し,じわじわとその勢力を広げて いるのが「インテリジェントデザイン」だ。進化論で は説明しにくい事象を根拠として,「生命は知性ある 設計者によってつくられた」とする説である。実はこ れ,宗教色を脱色することで,学校教育への再侵食を 図る聖書信仰の新たな戦略なのであるが,これに対す る反論が 誌に載ったりするのであるから, 彼岸の火事とも言えぬ。たとえば受容体の基質認識を 鍵と鍵穴にたとえるなら,複雑な鍵は複雑な鍵穴なし には選別され得なかったであろうし,複雑な鍵穴は鍵 なしには進化しえなかったであろう。ここに「複雑な 分子認識」 は鍵と鍵穴が互いに相手を必要とするため, 進化によっては生じえないというパラドックスが生 ずる。この問いに対する科学的解答は 誌に 直接あたっていただく(Bridgham .: 312, 97(2006))として,社会性を持った動物の 行動様式をはじめ,「進化」には依然,奇跡のように 見えることが少なくない(もちろん,Lindquist の Hsp90の「進化におけるリザーバ」説をもってして も) 。 さらに言えば,生命誕生そのものが,実はほとんど 奇跡に近い。宇宙には地球と同じく水が存在し,同程 度の安定した気候に恵まれた惑星は無数に存在するだ ろうが,たとえそうした条件が整っていても,生命が 誕生する確率が極めて小さいことは,この地球上にお いても40数億年の歴史のなかで生命は1回(一系統) しか誕生しえなかったという事実から容易に推察でき るからだ 1。 しかしもしこの宇宙のどこかにいつか,生命を自在 に作り出せるまでに進化した知的生命が出現したと考 えたらどうなるだろう。その知性は,おそらくは生命 を次々に生産していく。そうであれば,われわれはそ うした知的生命が出現する以前の奇跡的存在であると 考えるよりも,知的生命が出現した後,その知的生命 が作り出す膨大な種類の生命系統の一つに属している と考えたほうが,ずっと自然ではなかろうか…少なく とも確率論的には。おっと,これではインテリジェン トデザインの正当化になってしまう。 * * * すでにお気づきのように,こうした考え方は,宇宙 論の「人間原理」 (anthropic principle)に極めて近い。 量子論ではシュレディンガーの猫 2 は,箱のフタを開 けるまでは生きている状態と死んでいる状態の重ね合 わせだが,フタを開けた途端どちらかの状態に収束す る。この「コペンハーゲン解釈」の直感的な居心地 の悪さを解消してくれるのが「多世界解釈」 (manyworlds interpretation)で,猫が生きている世界と 猫が死んでいる世界が同じ量比で存在し,観測者はフ タをあけるまで自分がどちらの世界にいるか分からな いだけだということになる。さらに,この宇宙を司る 物理法則が非常にうまく「微調整」されているように 見えるのも,多重世界,多重宇宙の存在を考えれば, 確率は小さいが「あり得ること」になる(本誌12号 本コラム)。他の宇宙では,この宇宙とは別の物理法 則が支配していて良いし,そもそも物理法則が刻々と 変化している宇宙があってもよい(そんな世界では狭 義のサイエンス(再現性云々)なぞ成り立たないので 科学者という職業もあり得ない!)。そして,われわ れが存在できるようにこの宇宙が奇跡的に微調整され ているのは,そのような宇宙でなければわれわれが存 在できないからであり,逆に言えば,観測者であるわ れわれが存在するために,この宇宙は多重宇宙の中か ら必然的に選ばれてしまう,というのが人間原理であ る。 ここで先の生命誕生のアナロジーだ。もしこの宇宙 のどこかにいつか,宇宙を自在に作り出せるまでに進 化した知的生命が出現したと考えたらどうなるだろ う。そんなことあり得ない,と言ってしまえば終わり L I F E o f P R O T E I N S チロール箱に入れて測りに行ってた。 グには細胞骨格の裏打ち構造の写真がでてたので,ならば小胞 その後の 5 年間は,ひたすら幸運だった(感謝至極)。書く 体だって見えるだろうと思ってといじってたら,突然 ER 内で のも恥ずかしいくらい。だから詳細は略。FCS を札幌医大の 激しく動く 1 分子が見えだした時の興奮は忘れられない。その 助教授室に設置したときには目眩がした。福島に FCS と共に 瞬間,FCS でも拡散に見えることを平均してではなく,一つ やってきて地方の豊かさを満喫してたら,大学からスタート 一つを調べることができるかもしれないと思った。 アップにと,量子効率の改善もほぼ限界にきた CCD と全反射 少し説明しよう。FCS では数百 n 秒の間に共焦点空間への 顕微鏡を買ってもらった。何て事。全反射顕微鏡はエバネッセ 数十個の蛍光分子の出入りを猛烈な数だけ計測して平均として ント照明を使うので細胞膜限定と聞いてたが,ニコンのカタロ 表す。FCS の拡散測定としての異様なほどの正確さはここか だが,ワームホールを使ってタイムマシンを実験室レ 意識を越えるためには,夫の死後はじめて,「もとも ベルで作れるかどうかが真剣に議論されている(?) と裏切られていたということになった」という系譜学 昨今の物理学者のコミュニティである。ミニ宇宙の製 的認識を通じて,「それでも自分が裏切られていない 造が将来も絶対不可能とは言いきれまい。そうした知 幸せな日々があった」という納得のいく自己解釈を作 性は,おそらくは宇宙を次々に生産していく。そうで り出す作業が必要となる。そのとき系譜学は解釈学に あれば,われわれは奇跡的に選ばれた微調整された宇 転じ,幸せだった日々の記憶が確かな実在性をもつこ 宙にいると考えるよりも,知的生命の作品としての膨 とになる。チルチルとミチルにとっても,青くない鳥 大な数の微調整された宇宙の一つに属していると考え とともにすごした悲しい幼児期の記憶は,そうしては たほうが,ずっと自然ではなかろうか 3。そしてまた じめて現在の彼らにとって意味のあるものとなる。 そう考えれば,この宇宙がなぜわれわれごとき存在に しかし永井は,さらに過去への別の視線がありうる 理解可能にできているのか 4, もうまく説明がつく(知 と言う。他人が<私>のためだけに存在しているので 4 4 4 4 的生命は理解可能な宇宙しか製造できない) 。おっと, はないように,過去もまた,ただ現在のためにだけ存 またもやインテリジェントデザインに戻ってきてし 在しているのではない。過去は現在との関係ぬきに, 地球も生命もすべて高度な知的生命からの特注品?(映画 「銀河ヒッチハイクガイド」 ) まった。 それ自体として存在したはずではないか,過去がいま * * * 存在している視点との関係で問題にされること自体を インテリジェントデザインなぞハナから相手にして 否定したらどうなるのか?そうであれば,「鳥はもと の哲学的思考が今こそ重要になるのだろう。というわ いないはずでも,いつのまにかそこに捉えられてしま もと青くも青くなくもなかった。そんな観点はもとも けで,筆者に欠けているのは科学的思考力ではなく, うのは,筆者の科学的思考力の低下を意味しているの となかったのだ」ということになる。本当は幸福で 哲学的思考力であったことになる。筆者は理学教育を か,とがく然としていると, 「永井均の文章,東大の あったか不幸であったかといった問題視点そのものが 担当しているので,とりあえず不適格教員の烙印は押 入試にも出てるよ」との(今回も登場する)息子から なかった,彼らはそんな生を生きてはいなかった,と されずにすみそうだ。 の情報。永井均は「翔太と猫のインサイトの夏休み」 いうのである。永井はこうした視点を「考古学的」視 など子供向けの哲学書もいろいろ書いている哲学者 点と呼ぶ。考古学的事実は,現在との間に掘り起こさ 1 班会議の夜の部で,吉田賢右さんからは, 「この で,引用されていたのは「解釈学・系譜学・考古学」 ( 「転 れるべき意味上のつながりをもたず,それはたとえ掘 地球上で生命は何回も発生したが,単に現在の生 校生とブラック・ジャック」収)という文章。これは り起こされても,意味連関の欠けた単なるエピソード 命の系統に駆逐されただけだ」との指摘を受けた。 時間に関する永井流の考察だ。 (個的事実)としか理解されない。自己も現在も,た この問題については,今後10年の間に地球上の 幸福の青い鳥を探す長い旅から帰ったチルチルとミ だそれがたまたま自己であり現在であるという事実以 現在の生命とは別系統の生命が発見されるかどう チルは,もともと家にいた鳥が青いことに気づく。そ 外に,何の意味もない,のだと言う。こうした理解 か,で賭けをすることになった(筆者はもちろん れでは「青い鳥はいつから青かったのか?」青い鳥に は,因果関係を暗黙の前提とする科学的論理とは一見 見つからないほうに賭けた)。 気づいたのだから,その鳥はもともと青かった。自分 なじまない。しかし一方で,時間を変化を記述するた 2 ラジウム,α粒子検出器につながった青酸ガス発 たちの生はもともと幸福だったというのが 「解釈学的」 めの手段と考えるのではなく,それ以上分解できない 生装置とともに箱の中に入れられた猫。α粒子の 理解である,と永井は言う。一方外部の視点から見れ 時間の最小単位,プランク時間(10−43 秒)ごとに 発生は量子力学的確率の問題なので,箱の中の猫 ば,記憶は後から作られたものであり,その記憶に基 各瞬間に対応する宇宙があり,時間はそれらの宇宙に は生と死の重ね合わせの状態にあることになる。 づく彼らの人生は虚構でありうる。その鳥はもともと 順番をつけるやり方だする多重宇宙的な考え方には近 3 班会議の夜の部で,秋山芳展さんからは, 「無限 青くなかったのかもしれず,青くなかった事実こそ, い。存在しうるすべての状態がプランク時間ごとに存 どうしの大小は比較できないので,無限に存在す 後にそう信じ込ませることになった本当の理由なのか 在し,時間の経過はそれを観察することによって実感 る宇宙の中でどの宇宙にいる確率が高いかといっ もしれない。つまり外部からの視点に基づくなら,鳥 されるに過ぎないというわけだ。 た議論は,そもそも意味がない」との(かなり鋭 はもともと青かったのでもなければ,ある時点で青く 現在と過去の関係は,この宇宙と別の宇宙の関係に い)指摘を受けた。つまりこれも,最後のパラグ なったのでもなく,ある時点で「鳥がもともと青かっ 近く,私のいる宇宙と存在し得る他の宇宙の関係は, ラフで言及した「論理の展開が不完全」な例かも たということになった」のである。これは「系譜学的」 <私>と他人の関係に近い。時間論も宇宙論も単なる しれない。 理解であると言う。シュレディンガーの猫の例になら 物理学を越えて,突き詰めれば哲学の領域に侵入して 4 「宇宙の一番理解しがたい点は,それが理解可能 えば,解釈学的理解は多世界解釈であり,系譜学的理 いる。しかるに,哲学的観点から見れば多世界解釈も だという点である」(アインシュタイン) 解はコペンハーゲン解釈であると言えるだろうか。 人間原理も未成熟で,仮定や論理の展開が不完全で 夫の死後,夫には長年愛人がいたことを知った妻に あったり,循環論法に陥ったりして,論理的あいまい とって,幸せだった夫との日々はどのような意味をも さを免れていない。そうした欠陥を見つけ出し,厳密 つのか。「もともと裏切られていた」という解釈学的 な論理を組み立てるには,「何の役にも立たないハズ」 | March 2007| No.16| 81