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「パウロ年」開始ミサ説教
「パウロ年」開始ミサ説教 2008年6月28日12:00~ 麹町教会にて 朗読箇所 第1朗読 イザヤの預言49.3,6-6 第2朗読 使徒パウロのガラテヤへの手紙1.11-20 福音朗読 マタイによる福音10.16-22 本日、2008年6月28日より「パウロ年」が始まります。来年の6月29日 までの一年、特に使徒パウロの教え、その生涯に学びたいと思いま す。 先日、6月6日、この主聖堂におきまして日本カトリック司教協議会 主催による「パウロ年公開講座」が開催され、聖パウロ修道会の澤 田豊成神父様(さわだとよなり)と朴憲郁(パクホンウク)先生に よる講演、両講師と三管区大司教とのパネルディスカッションが行 なわれ、多数の皆様が参加されました。お二人から非常に示唆に富 んだお話をうかがうことができ幸いでありました。この一年、この ような研修の機会が多数設けられますよう願っています。 ご存じのようにミサの第二朗読は使徒パウロの手紙からとられるこ とが多いです。主日の福音との関係でパウロの教えを学ぶのも一つ の有益な方法だろうと思います。また一年をかけてパウロの全ての 手紙を深く読み黙想、観想する、いわゆるlectio divinaに挑戦するの もすばらしいことです。 本日の朗読、ガラテヤの信徒への手紙が告げているように、パウロ は元来熱心なユダヤ教徒でありました。「わたしは、徹底的に神の 教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を 守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりも ユダヤ教に徹しようとしていました。」(1.13−14)。そのパウ ロがダマスコへの途上で劇的な回心を遂げます。「突然、天からの 光が彼の周りを照らし」(使徒言行録9.3)「サウル、サウル、な ぜ、わたしを迫害するのか」( 同9.4)という声を聞きます。この ときからパウロはイエス・キリストに捕らえられた人となったので す。サウロはアナニアという人に上から手を置いて祈ってもらい (按手)、聖霊に満たされて、「目からうろこのようなものが落ち」 ( 同9.18)、洗礼を受け、早速、イエスこそ神の子であると宣べ伝 え始めます。 このパウロの回心の体験とは何であったのでしょうか。わたしはし ばしば思い考えます。まさに一方的な話です。一方的にキリストか ら声をかけられ捕まえられたのです。そのときからキリストが彼の 中で働き始めました。殉教の最期を遂げるまでキリストはパウロの なかで生き続け、働き、彼を動かし続けました。それはまさにパウ ロ自身が言っているとおりです。「生きているのは、もはやわたし ではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです」 (ガラテヤ2.20)。自分で努力してキリストに出会いキリストを信 じて使徒になったのではなく、ただ選ばれ召し出され、恵みに与っ て生きた人です。この体験が使徒パウロの信仰の根底にあったのだ ろうと思います。 パウロという人は人間としてどんな人だったか、関心がもたれる点 です。非常に強い行動的な人、博識で雄弁な人という印象ですが、 そうでもないという見方もあります。「わたしのことを、『手紙は 重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまら ない』という者たちがいる」(二コリント10.10)という箇所もみら れます。また彼は人間としての弱さをもっていたらしく、それを 「とげ」と言っています。(同12.7)そのとげとは何であったのか諸 説があるようですが、彼はそのとげを取り除いてくださるよう三度 主に祈ります。しかし、主の返事は次のようなことばでした。「わ たしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮 されるのだ」(同12.9)。そこで彼は言います。「だからキリストの 力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇 りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして 行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。 なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(同12.9-10)。 すごい信仰、強く深い信仰だと感嘆します。そのような信仰に少し でも与りたいと思います。 今日の福音でイエスは言われます。「何をどう言おうかと心配して はならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話 すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父 の霊である」(マタイ10.19−20)。父の霊は聖霊であります。パ ウロに宿ったのも聖霊であります。聖霊はパウロの弱さの中で働き ました。 今日のイザヤの預言では、主の僕は次のように言います。 「主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたし の力」(イザヤ49.5)。パウロの力はパウロのものではなく、キリ ストのもの、神の力でした。 さて2008年、日本の教会では11月24日、列福式が行われます。188 人の殉教者たちは、17世紀前半の日本で、「わたしの神こそ、わた しの力」の信仰を証ししました。今のわたしたちの証しは何でしょ うか?人々は精神的に非常に困難な状態に置かれているように思わ れます。人々は孤立し孤独な状態に置かれています。人と人とのつ ながりが薄く弱い時代です。人と人とのしっかりしたつながりはど うしたらできるでしょうか?ここにわたしたち教会の役割があると 思います。信仰においてつながる、そのような人と人のつながり、 かかわり、それが求められています。そのためにパウロ年を捧げた い、パウロの信仰をわたしたちにお与えくださいと切に祈ります。