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本文ファイル - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ

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本文ファイル - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE
Title
長崎, 1995年の私
Author(s)
井川, 惺亮
Citation
長崎大学教育学部人文科学研究報告, 53, pp.13-29; 1996
Issue Date
1996-06-28
URL
http://hdl.handle.net/10069/33374
Right
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http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp
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長崎大学教育学部人文科学研究報告 第53号13∼30(1996)
19
長崎,1995年の私
井川怪亮
Mon travail artistique sur le theme“paix”
aNagasaki,1995
Seiryo IKAWA
はじめに
昨年,すなわち1995年,日本では戦後50年と言われ,長崎においても「被爆50年」という
節目の年であった。韓国では「美術の年」というスローガンを掲げた年であり,長崎に住
む私にとってこの「美術の年」と「被爆50年」とが交互に絡み,絵画制作をする上で「平和」
を問う意義深い出会いと出来事があった。
「美術の年」の韓国での発表
この1年間に韓国から3つの展覧会に招待出品の依頼があり,これらの展覧会について
下記のようにまとめてみた。
1.光州国際現代美術展(’95 Kwang−ju International Contemporary Art Festival)
に出品するため初春,渡韓した。私は,この地域の若者たちが力を結束し,光州ビエ
ンナーレに先がけて, 「美術の年」として企画したところに注目した。出品した作品
は和紙に着心し,紙を折り込み,平面的な作品と立体的な作品の2点を発表。
会場 光州市立美術館
会 期 1995.1.11(水)∼1.30(月)
出品者 韓国37人,日本11人,アメリカ4人,オーストラリア1人,オーストリア1人,
イギリス1人,ハンガリー1人,タイ1人
日本側コミッショナー 山岸信郎
2.パダ美術祭(THE 8th PUSAN INTERNATIONAL SEA ENVIRONMENT ART
FESTIVAL)に出品するため秋に,釜山に出向き広大な海浜を舞台に,着彩した紐を
大きな岩場に巻きつけて作品づくりを行った。この展覧会については,作品設営の時
大きな感動をしたのですぐ様,前号で既にノートにした。光州ビエンナーレとしばし
ば比較されたとのことだった。
会場 海雲台(釜山)
会期 1995.9.22∼10.1
出品者 韓国24人,日本3人,フランス1人,アメリカ1人,フィリピン1人
20
井川 慢亮
3.ソウル環境美術祭(SEOUL ENVIRONMENTAL ART FESTIVAL)にも,釜山
に続き,再々度渡韓し,釜山で使用したように着彩した紐作品を設置した。釜山では
大自然(海原)を相手にしたが,ソウルでは“ソウル”という大都会(建築及び建造
物)に体当たりした。 (写真⑨∼⑭)
ここでは発表者が現代美術のねらいとして余りにも概念的であり,それだけにより現
代美術らしかうたのと,リサイクルアートも登場して,直観的に環境とは何なのか,
その表現までは今一つの観があった。私には釜山の海雲台の作品設置の体験の方が,
はるかに大きなものを感じた。
会 場 芸術の殿堂(ソウル)
会期 1995.10.18∼10.31
出品者 韓国23人,日本2人,フランス1人,ブイリピン1人
以上3つの作品発表を行ったが,海雲台で昌原大学の姜淑子先生との出会いにより,六
原大学校生と私のゼミ生との『…海に面した美術…』のタイトルで学生たちの自主企画に
より11月長崎で実現した。
井川 慢亮展〈半島へ〉
会 場 山口県立美術館
会期 1995.4.20∼5.28
オープニングパーティーの席で,作者としてスピーチをするように伝えられ,「私は終
戦直前に大陸で生まれ敗戦の知らせを受け,シリンゴールより北京を経由して天津まで南
下し,そこから船で引き揚げ,日本に上陸後,博多から汽車で山口を通り,被爆の広島を
目の当りに見て瀬戸内海の島に無事帰国した。そういう意味では生まれた時から山口県と
は因縁があり,一方,今年は戦後50年と私の50歳が重なり合い,ここで作品発表が出来るの
は嬉しい限りです。」と語った。
それにしても,このワンマンショー企画を最初に伝えられたときは,本当にまさかとぴ
っくりした。しばらくして,学芸員の河野通孝氏がタイトル名をく半島へ〉名付けたとい
った時も何だか妙に感動した。このく半島へ〉については同館が発刊している“天花”第
16号に河野氏が執筆している。
また,本展については,今春,報告書としてカタログが同館より発行される予定である。
これらの作品について多くの方々より,特に64mの渦巻き状作品に接した体験として「歩
くことによって風を切っていることを,つまり風圧で紙がガサガサと音がなりとても面白
かった」とか,また「館外の大きな樫に紐を巻きつけた作品はとても印象に残った」等感
想を聞いた。 (写真①∼⑧)
被爆50品詞長崎平和展
長崎に住んでいると「平和」とか「原爆」とか「地域」とかいう言葉が,耳からでなく
躰ごとに伝わってくる.何よりも源爆で破壊され帳崎のまちを忘れてはならない〆
長崎,1995年の私
21
このことは長崎にあってすべての原点はここにあることを教えてくれる。そして,来る年
毎にじっとしておれなくなるのだ。地元長崎ではこの50年に因んでいろいろな企画が行われ
た。私はこれまで毎年のように平和の日に向けて長崎で美術展の企画やその実践を行って
きた。(註1)
こうした中で, 「長崎を最後の被爆地とする誓いの火」灯火台モニュメント制作は美術
が直接「平和」に関わるものとして,また,慈悲とか悲惨さとかを被爆の直接のテーマと
せず,もっと未来に向けて,明るく,大空を仰ぐイメージを,そして,モニュメントの形
体をシンプルにすることによって,これからの新しい平和への祈りの姿を表現した。一昨
年暮れより,被爆50年を念頭にこのモニュメントを中心として野外展を開催し,同時に洋館
群にも作品展示を行うプランを私のゼミナール生やそのOB生だちと話し合っていた。
同時に公開講座案も練っていたところへ,昨年2月初めNHKから共催として「被爆50年祈
念アートフェスティバルながさき・水の波紋’95」の話があった。この平和展は公開講座「被
爆50年を考える現代美術」 (註2)の一環として,幾多の波紋や困難をクリアして盛大に実
現した。その規模は全国から約152人が参加し,しかも手弁当であり,遠方は仙台からバイ
クで5日間かけて来られた方,東京から20人も参加があり,その中にはクレーン車で乗りつ
けた方が数人いた。長崎市内の8会場で行われたが作品群は芸術のユニークさや優雅さ等
の問題でなく,切実に被爆50年への祈りの姿だった。 (註3)
東京の青山で行われた「水の波紋」展は,TVや美術の雑誌で話題となったようだが,私
たち「ながさき・水の波紋’95」展は主役は一般参加者であり,彼らの作品によって「平和
の輪」を広げたと自負している。そして,本展のカタログもどうにか12月末,発行された。
しかしながら,このカタログ作りにおいて事務局長である私も本命の経過報告文を書く
こととなり,反省や展望を含めてまとめたが,その内容についてNHKからクレームがつ
き,実行員委員長を通して,拙文の『招待作家についての項』を削除することとなった。
それでも私は,被爆50年に相応しい内容の持つカタログとしての記録集を願い,事務局長
の立場としてアドバイスや提案をして来た(註4)。この一連の流れの中で,誠に残念な
のはヤン・ブート氏からの「平和」のメッセージが届かず,この記録集に残らなかったこ
とである。
そして,平和を思えば思うほど,参加者や一般の方々,それに今後の人達のためにもお
知らせすべきだと判断し,本丸カタログの拙文の“削除される前のコメント”及び事務局
よりヤン・ブート氏ヘカタログ文記載にあたりコメント依頼のやり取りの“FAX2枚”
を以下に記すことにした。
〈経過報告〉
本山の出発と招待作家について
ヤン・ブート氏が長崎に来ると聞いたとき,一瞬,私は驚いた。彼はどうして,わざわ
ざ長崎までと思ったからだ。念を押して,長崎大学と共催を申し込んだNHKの,担当者
22
井川 慢亮
田中氏に確認したところ,ブート氏は被爆50年を念頭に長崎を選んだと言うことであった。
私の研究室とNHKとの打ち合わせを進めて行く中で,平和展そのものを打ち出し,長
崎独自の方法を提示しながら,全国規模で美術作品を一般公募し,平和の主旨に賛同して
下さる全ての作品を展示することや,また,昨暮より,私の研究室は長崎大学公開講座案
『被爆50年を考える現代美術』と爆心地公園にある『長崎を最後の被爆地とする灯火台モニ
ュメント』周辺の野外展や洋館などを使った作品展を8月9日に焦点を合わせて,企画案
が固まりかけていたこともあり,NHKからの申し出に実現に向けて余りにも日数的には
急な話であったが,被爆50年という節目のこの大きな平和展にタイアップさせ協力すること
にした。
実行委員は10人のメンバーで結成されたが,予算面と招待者(ラメット氏ら)については
NHKが担当し,事務の実務は長崎大学の私の研究室計4名が連日,こと細かく行った。
長崎新聞社も共催であり,報道キャンペーンに乗り出し,NHKからの必要な情報を誌
上で流したりしたにもかかわらず,面諭開催間近になって,招待作家の変更や助成金作家
の不参加等があり,NHKの都合でこのような事態となったことは,誠に遺憾であり,賛
同された出品者や期待して下さった一般市民の方々に,深く詫びを申し上げる次第である。
この企画変更の主な内容を述べておく必要がある。ブート氏が選出した3名の世界的アー
ティストの参加で官展の盛り上がりの契機としたが,途中,変更し新しく4名となり,結
果的には招待作家として長崎に滞在し,制作したのはうメット氏だけであったこと。また,
助成金で参加してきた宮島氏がいつの間にか招待作家になってしまったことだ。もう一つ
の疑問点はブート氏の長崎におけるシュチュエーションである。新聞誌上では彼は総合監
督となって報道された(*1)。しかしながら私の認識は,彼は招待作家を選定したコミ
ッショナーであり,他方長崎大学の公開講座の講師であり,その講師料と旅費が支給され
た。本展のため,彼は2度来諭したが招待作家らの作品設置場所を指定しただけであり,
私の研究室と本式一般参加者に関する打ち合わせば何もなかった。 (但し長崎大学公開講
座については別である。)
ブート氏の本展における最大の課題を,つまり,米国人であるアコンチ氏が原爆投下地
点にどのように展開させるかと,私たちは見ていた。偶然にも,宮島氏が設置した場所に
である。アンコチ氏はその場所を懸命にカメラのシャッターを切っていた。ところが彼は
アイディアスケッチとメッセージをFAXで送信してきたにとどまり,このことは,私た
ち事務局をあわてさせたばかりでなく,ブート氏が長崎に抱いていたイメージを見事に裏
切ってしまったのではなかろうかと私は気掛りである。それから,最終的にブート氏が全
出品者の中から1点選出した行為については平和をメーンに考えてきた美術展であっただ
けに,私たち実務を担当してきたものにとっては誠に残念に思う。因に,選出されたA氏
からも「選出されたことは寝耳に水で,私は公募展に入選じたのではない。(略)東京の“水
の波紋95”と紛らわしい名称なので,本編は平和島にウェートを置いてもらいたい」旨の申
し出があった。
長崎,1995年の私
23
本展準備及び経過の報告
2月上旬 NHK長崎放送局から“水の波紋”展開催について長崎大学井川研究室に相談
本展企画書作成(NHK)
長崎大学公開講座『被爆50年を考える現代美術』の枠組みにヤン・ブート氏を講
師として依頼,了解を得て,このプランを文部省に申請(井川研究室)
3月下旬 展覧会場案を数三所選出。実行委員会のメンバーを決め,各々に依頼
水の波紋展募集要項案骨子作成(井川研究室)
4月31日 第1回実行委員会(被爆50年祈念アートフェスティバル,ながさき・水の波紋
’95,以下,本展という)本四募集要項案について
5月12日
第1回事務局委員会 日程表
18日
第2回実行委員会 企画書記載上の募集要項の検討 招待作家の企画変更
20日
市内8つのゾーンの展示実施場所使用許可申請手続きを開始
25日
30日
本展チラシ印刷仕上げ(デザインは山崎氏)
31日
6月1日
ブート温品会場を視察
作品公募開始 チラシ・作品募集要項を全国の関係者に郵送
4日
長崎新聞記載「8月に水の波紋展/現代美術が公開講座」
5日
チラシ・作品募集要項を追加郵送
7日
長崎新聞記載「8月に水の波紋展/ヤン・ブートさんに聞く」
10日
第3回事務局委員会
16日
第3回実行委員会。NHKより助成金による国際作家が参加協力の報告
21日
長崎新聞記載『平和祈念アートフェス「水の波紋’95」/海外作家の参加相次
ブート高来崎
ぐ』。NHKイブニングネットワークにて“ながさき・水の波紋展”を紹介
7月1日
県内美術関係者に説明会及び報告会(井川研究室)
2日
応募された出品表集計及び展示会場配置検討開始
3日
展示会場追加を検討(長崎大学内会場)及び各会場ゾーンの図面確認
7日
出品者を各ゾーンに振り分け開始
9日
ブート氏,アコンチ氏,ラメット氏ら来崎。ブート氏による左記2名作家の場
所指定。ラメット氏は長崎で制作開始(公開制作を行う。滞在は8月3日迄)
12日
出品参加者へ各会場ゾーン別及び展示配置場所指定し,その会場図面と返信用文
を,また,本丁案内状DM(デザイン山崎氏による)を20部添えて郵送開始。
14日
長崎新聞記載「作家らが現地下見」
15日
出品者からの問い合わせによる対応開始。以後連日
20日
助成金で参加の宮島氏が来崎し,作品設置場所を検討(パフォーマンスも含む)
案を提示
長崎新聞記載「波紋展招待作家ラメットさん」
21日
第4回実行委員会。実施にあたっての現状報告(応募人数及び会場拡張その他の
井川怪亮
24
件についての確認)。NHKより招待作家の変更連絡。
24日
出品者の作品運送による受付開始,28日まで(井川研究室)
25日
長崎新聞記載「ながさき・水の波紋展ボランティア募集」
26日
ボランティア説明会(NHKにて,担当井川,田中)
28日
毎日新聞(夕刊)記載「歴史を振り返る美術計画」
各会場室内展示場にてパネル設置作業(30日迄)
30日
長崎新聞記載『「水の波紋」展1日に開幕/多彩な公募作品国内外の招待作家も』
31日
作品搬入及び作品設営を各ゾーンで行う
長崎新聞記載「被爆50年・平和祈念アートフェスティバル:ながさき・水の波紋’
95/明日から開催!」
8月1日
被爆50周年祈念アートフェスティバル:ながさき・水の波紋’95開催(10日迄)
2日
長崎新聞記載『異空間の美術展/平和の願い世界に発信/長崎で「水の波紋’95
始まる』
3日
長崎新聞記載「水の波紋展から/①内田邦昭氏作品について」
4日
長崎新聞記載「水の波紋展から/②城戸孝充氏作品について」
毎日新聞(夕刊)記載「ながさき・水の波紋’95/静かに訴える作品群」
5日
朝日新聞記載「爆心地周辺で美術展」
長崎新聞記載「水の波紋展から/③野中京子氏作品について」
7日
作品搬出チェック表作成
8日
長崎新聞記載「水の波紋展から/④今泉憲治氏作品について」
9日
長崎新聞記載「水の波紋展から/⑤柴清文氏作品について」
10日
ブート氏長崎大学公開講座「被爆50年を考える現代美術」テーマ「文化を通して
の街づくり」で講演
長崎新聞記載「水の波紋展から/⑥フィリップ・ラメット氏作品について」
11日
12日
作品搬出日,パネル撤去(12日)
17日
読売新聞記載『「被爆50年」の美術 若い世代に可能性』
22日
23日
24日
9月7日
長崎新聞記載「現代美術の波紋く上〉平和への願い作品に」
各会場整備及びチェック(14日)
長崎新聞記載「現代美術の波紋〈中〉過去と将来見つめる視点を」
長崎新聞記載「現代美術の波紋〈下〉ポスト被爆50年へ」
第5回忌行委員会 本展カタログ製作案について,及び反省会
出品作家と会場作りについて
本展作品募集がたった1カ月間という短いものであったにもかかわらず152人となった。
締め切り1週間前になっても思いの他集まらず,被爆50年だから50人ぐらい来ればと考えて
いた。締め切り後1週間になってから,どっと増え会場スペース作りのやりくりに気を使
った。特に,野外作品の多くを見込んでいたが,室内展示希望者が多く,また,各出品者
長崎,1995年の私
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に各ゾーン別希望を第3希望まで記入してもらい,出来るだけその意向に添えるように努
力したが,展示中に場所の移動などお願いしたケースもありご迷惑をおかけした。
市内8会場のうちCゾーンの長崎大学には総出二者の半数以上を割り当てた。私は個人
的に見て長崎大学の景観は,快適空間から程遠くハンディなスペースと建築の作りで今一
つという観がある。出品者の方々の力作により,芸術的素晴らしい空間に変わった。特に
中部講堂はこんなにも存在感があったのかと,その見栄えはまさに開かれた大学のキャン
パス像となり,そのイメージを高めた。
Aゾーンは作品点が少な過ぎであるとか,Gゾーンは混線して多すぎではないかという
意見があったが,A∼Hまでの渦が広がる波紋のリズムを全体から常に考えていた事と,
8月9日の焦点を合わせた行事なども展示配慮したことで,結果的にはスムーズに人々が
流れた空間配置となったことである。
大きな作品の方には,予め,小さなものでお願いしたり,また,本展の主旨についてそ
の扱いや解釈からそれにどう対応すればよいのか,私たち事務局は頭の痛い連日となって
しまった。特に,被爆50周年の平和展となったため公平さをモットーにすればするほど,平
和への道でありながら芸術的で自由な表現の枠を狭くしかねないのでその点を大変苦慮し
た。
本展の課題と展望について
本展が進展して行くに従い,恐ろしい程の忙しさに巻き込まれ,長崎大学側(私の研究
室)とNHK側と事務局が2分していった観がある。私はこの両者を結ぶコーディネーター
の必要さを強く実行委員会にも訴えたが,このような状況ではどうにもならなかった。や
はり,実現に向けての熱意とその可能性は,お互いの誠意がなくてはならない。ある確か
な情報を基にしながら私たちは事務局を進めてきたが,情報の修正を誠意でもって行うこ
とにある。
本展のような主旨や規模の美術展を開催するには,市や県が積極的に1,2年前より準
備し,その実現に取り組んでくれるべきであった。私たちのように草の根的活動は内容の
あるものに対して,どんなに忙しい時でも,また,どんな急な話であっても,すぐ対応し,
その実現に向け,努力するしかない。実現が無理であろうと思われても,その道を切り開
いて行く情熱を必要としている。Gゾーンの石倉は,県外からの観光客が多く,彼らから
『市はどのくらいの予算をかけてこの美術展を開催したのか』会場受付のボランティアに
何度か尋ねたそうだ。
ところで,本展の開催中のボランティアは手弁当であり,延べ数は270人に達した。ボラ
ンティアの方々に事務局がどのように接していくかが1つの大きな課題である。まず,彼
らに対して,事前のオリエンテーションが必要であろう。ここで大切なことは,仕事内容
を出来るだけ分かりやすく伝達することであり,何よりも全体像や本四の主旨にも充分理
解してもらうことだ。特に,飛び入りで急に協力してくださる方の対応には,何よりも感
謝の念でもって接することだ。私はこのボランティアが美術展で活動しているのをみて,
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井川捏亮
これは教育そのものにつながっているのを見た。私の研究室も正にボランティア活動の一
色に染まった実感である。
最後に事務局は,あらゆる情報を参加者や一般市民に提供し,それらがすぐ分かるイン
フォメーションスペースがどうしても必要である。日本人は多目的スペースが好きのよう
であるが,市や県の文化活性化のために是非とも公的なインフォメーションスペースをも
った事務局を設置してもらいたいと切望している。折角,全国より力作が揃ったのに,そ
の1部でも収蔵して行く新しい美術館設置を期待したい。そして長崎でないと出来ないよ
うな美術展を地元の美術家や関心のある方々と結束して考えて行きたいものだ。特に長崎
は被爆都市であり,また,文明開化の歴史を持った街であり,だからこそ,文化的な役割
や人道的な道の方向をこれからの人たちや子供達に伝えて行く任務がある。
以上,摩耗は被爆50年という節目にあたり,その祈念展を出品参加者の御協力で実現出来
たことで,どうにか美術が平和に貢献した1つの証しを記した意義は高いと自負している。
実行委員会の反省会においても,いろいろ意見が出されたが,全員,やって良かったとい
う結論に達している。本展の記録をここに納め,私たちは被爆51年へ向けてあらたなる道を
歩もうとしている。
事務局長 井 川 怪 亮
(*1)長崎新聞記載’96 6月7日付
以上がカタログへの私のオリジナル原稿である。続いて以下のFAX文はカタログによせ
てヤン・ブート氏にコメントをお願いしたが,秘書を通して返信FAXがあり,ブート氏が
返答出来ないという内容であった。
1e 27 0ctobre 1995, a :Nagasaki
Mus6e de l’art contemporain de GENT
Cher Monsieur le Directeur Jan HOET
KONNICHIWA!
J’ai l’honneur de vous remercier pour la conf6rence sur l’art contemporain
que vous avez bien voulu faire pour les etudiants, les artists et les habitants
de NAGASAKI al’Universite Nationale de NAGASAKI.
Je suis heureux de vous dire combien les assistants ont ete nteresses, et
combien ils vous sont reconnaissants de cette soir6e.
Au comite executif de NAGASAKI−MIZUNOHAMON 1995,0n est en train
de faire un catalogue de cette exposition. A propos de, je vous demande
aeCrire Un COmmentaire SUr Ce CatalOgUe.
ft ptbl,1995 ff Og
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En attendant votre r6ponse par FAX, je vous prie d'accepter. mon cher
directeur, 1'expression de mes salutations tr6s distingu6es.
Seiryo IKAWA
Charg6 du bureau de NAGASAKI-MIZUNOHAMON 1995
numero de FAX
OOI-81-958-44-0401
------t----------t---------------{eite}--------ei--------e-}t--e-}--t---------{--t-t------------e--------------tt-e--------e----
MUSEUM VAN HEDENDAAGSE KUNST GENT
director; Jan Hoet
CitadeSpark, B-9000 Gent
DatumiDate:21 novembre 1995
rel, (09) 221 17 03
Fax (09) 221 71 09
Fax vanlfrom: Jan Hoet
Fax aanlto:Seiryo IKAWA
Aantal bSadzijdentNurnber of pages:I
Faxnummer:eedteSl-95S-4`l-C)401
Chcr Seiryo IKAVVA,
Je veus remerci beaucemp de votre ftrSc et lettrc du 27 ectobrze ct 15 novembre 199S,
Je suis cldso16 dc devoir vous annoncer le fait qu'il est impossib!e a rvfr. Jan Hoet dq rependfe poshivernent a
'
votrc demande coRcernant "d'ecrire un cornmentaire sur l¢ caulogue de l'expositio4 de Nagasaki"
lvfizunQhamon l995.
Nous vous sotthaitons bc:aucoup de sqcces avec le catalvgue.
En csp(!rant votre compretension,
Veuillez croire, eher Seiryo Ikawa a nos sentiments ies meilleurs.
pour Mr, Jan Hoet
Dirccteur
Chrigtine Maes
井川 怪亮
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結 び
被爆50年はr平和」という意味を,どのようにとらえ,その巾や新しい可能性の側面を美
術活動を通して打ち出し広げることが出来たかを問う年であったと思う。
先に述べた「被爆50年祈念アートフェスティバルながさき・水の波紋’95」に参加された
多くの方々が「平和」をテーマにして制作に取り組まれ,そして同展を支えて下さった多
くのボランティアめ方々にも同様な思いであり,来場して下さった一般市民の方々の暖か
な支援を頂き,ここに深く感謝いたします。
私は原爆ドーム(広島)を背景に今夏,または来夏の8月6日その横に流れている元安
川約300mを使ってアートパフォーマンスをして欲しいとHAP(Hiroshima Art Project)
から依頼を受けた。今,そのプラン練りにスタートしたばかりである。
爆心地に設置された「長崎を最後の被爆地とする誓いの火」灯火台モニュメントは来年
で早くも10周年を迎えようとしている。
註1 1987
1988
長崎は生きている(絵画)旧雨森邸
「長崎を最後の被爆地とする誓いの火」灯火台モニュメント制作 爆心地公園
1989
鐘の塔モニュメント制作 国立諌早少年自然の家
1990
Mus(免一JR JR九州
1991
なつ一ナガサキー絵画’91 東山手洋館群(長崎)
1992
絵画少92Nagasaki ギャラリー西沢(長崎)
1993
有明/杵島・歌垣山 杵島山うたがき自然の家
1994
騨美術館(湯布院)’94 JRゆふいん(大分)
註2 長崎大学公開講座「被爆50年を考える現代美術」1995.7.14∼8.11
高橋眞司「核時代における創造」8月3日 ヤン・ブート「文化を通しての街づくり」8月
10日 関 月子「抽象表現主義とその周辺」7月27白 白浜清司「古代からのメッセージ」
7月28日 井川慢亮「折り鶴と現代美術」7月14日,21日,28日,8月4日,11日
註3 「戦後」を再度考えようとした1995年,歴史や場所に直接コミットしょうとした『50周年祈
念アートフェスティバル/ながさき・水の波紋95』は,自身が含みこまれている“現在”
をどこまで真摯に問うのか,視ようとするのかという切実な意識や方法だけが,生の悲惨か
ら世界の豊潤さまでを表現へと取り込みえるのだし,そこを抜けていけるのだということを
逆接的に示したようだった。
朝日新聞(’95 12月22日付)’95 この1年美術(アートコーディネーター阿部文範著より
抜粋)
註4 白浜 波多野 私の3人で12月初め,NH:Kチーフディレクターの上司であるNHK放送部
長にまで面会を求めカタログ作成の方法や内容についての問題点を指摘した。しかしこのあ
長崎,1995年の私 2g
とNHKの要望でカタログ編集から事務局長(私)ははずされることとなった。
最後に,私の研究室で「1995年」を取り組むうえで,陰となって協力していただいた方々の名を記
し,ここに感謝の意を述べます。
波多野慎二、森永 昌樹、白浜 清司、小松 幸子、山村 知宏、村上 優子、川田 剛
〆
田中 裕美、藤本愛一朗、崔 榮均、田中 みき、吉岡由紀子、増田 和剛、4年ゼミ生
3年ゼミ生
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