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民主化前韓国における 「与村野都」 の構造
論説 ホ 民主化前韓国における﹁与村野都﹂の構造 一 問題設定 若 畑 省 二 第二次世界大戦後日本をはじめとする東アジア諸国では、共通して農地改革が行われ、戦前における極めて不均 等な土地分配構造は大きく是正された。それにともない農村は東アジア諸国における保守政権の強固な支持基盤と なり、農村の住民は長期にわたり選挙において政権与党を支持し続けることとなった。韓国でも民主化前の選挙政 治における最も大きな特徴としてこれまで指摘されてきたのは、農村地域において与党が、都市地域において野党 が相対的に多く得票するという、いわゆる﹁与村野都﹂の構造であった。 民主化前の韓国の選挙は公正に行われてきたとは言い難い側面があり、官権の介入による選挙結果の操作などは これまで多く指摘されてきた。しかし行き過ぎた介入は一九六〇年の四月学生革命に見られるように国民からの大 若畑 民主化前韓国における「与村野都」の構造 87 きな反発を招いたのであり、また大統領選挙が間接選挙であった時期にも定期的な国会選挙は継続して行われてお り、選挙が政権与党にとって正統性保持のため重要な役割を担っていたことは否定しがたい。頻繁な政治変動にも かかわらず、時・の政権与党は大統領選挙国会選挙を通じて常に勝利を収あてき旋・先程の﹁与村野都﹂の構 造とあわせて考慮すれば、民主化前の韓国の政権にとって農村地域は重要な支持基盤であったということができる であろう。 成果が蓄積されてきているが、民主化前の選挙政治についての体系的研究は、まだなされていないといってよい。 ︵ 2 ︶ これまで日本語による韓国研究では、民主化後の選挙政治に対しては﹁地域主義﹂についての分析を中心に研究 このことは、民主化前の韓国の選挙に対する相対的無関心を反映していると考えられるが、前述のように、民主化 前においても選挙は決して無意味なものではなかった。本稿では、﹁与村野都﹂の構造を詳細に分析することによ り、民主化前韓国の選挙政治に対する研究上の空白を、少しでも埋めることを目指したい。 ﹁与村野都﹂の難について呆での研究蓄積は少な馳・韓国の学界ではヂ天柱氏による先駆的な麹をはじ めとして、これまで多くの研究が蓄積されてきた。これまでの先行研究を整理しながら、なぜ農村地域において与 党が、都市地域において野党が相対的に多く得票する構造が生まれたのかという点について検討してみよう。 ︵5︶ 前述のサ天柱氏は、﹁与村野都﹂が形成された要因について、﹁遵奉投票﹂と﹁関心投票﹂という概念を用いて説 明している。つまり相対的に近代化が﹁遅れた﹂農村地域では官権からの干渉・介入に影響され政権与党に対し遵 奉的な投票を行う人々が多いのに対し、近代化が﹁進んだ﹂都市地域では個々人の政治的関心に基づいた自主的な ︵6︶ 判断による投票が多くを占めるようになると説明するのである。 一方、サ天柱氏の都市.農村という居住地域間の政治文化の相違による説明を批判した李甲允氏は、政治的社会 88 東洋文化研究6号 ア 化の違いから生まれる社会心理学的な要因に焦点を当て、より洗練された説明モデルを提出した。韓国人の投票行 動に大きな影響を与える社会経済的・人口学的属性としては、性別や職業などの比重が小さく、年齢と教育水準の 比重が大きいことが指摘され麗・年齢が高ければ高いほど、教育水準が低ければ低いほど罪Lあるいは皮L 民主的な政治的性向を持つようになり、権威主義体制に対し体制遵奉的な投票行動を行うとされる。逆に年齢が低 く教育水準が高い人々は、より民主的な政治的選好を持っており、民主化前においては体制批判的な投票行動、す なわち野党を支持する投票行動を行いやすい。近代化の過程における農村から都市への若年人口の移動や、都市に おける教育機会の速やかな増大などの要因により、農村地域には都市地域に比べ年齢が高く教育水準が低い人々が 偏在するようになり、このことが農村の与党に対する強い支持につながったと解釈されるのである。 サ天柱氏が都市・農村間の政治文化の相違を重視するのに対し、李甲允氏は年齢と教育水準の格差からもたらさ れる﹁民主対反民主﹂の政治的性向の相違を重視するという点で、両者には大きな違いがあるが、ともに都市.農 村間の近代化の格差を主な要因として想定しており、いわば近代化論的視角としてあわせて扱うことが可能であろ う。この近代化論的視角による﹁与村野都﹂の説明に対しては、合理的選択論の視角からの趙己淑氏による批判が 献琵。これによると、農村住民の政権与党に対する強い支持は、地域開発を求めて与党候補者を選好する利益追求 的な合理的行動として解釈される。しかし、この解釈には十分な検証がともなっておらず、農村の住民が具体的に どのような経済的利害から合理的な行動をしたのか明らかになっていない。 近代化論的視角・合理的選択論的視角以外の説明としては、国家論的視角による説明が挙げられる。植民地支配 や朝鮮戦争などの過程を通じて過大に成長した国家が、農村を効果的に脱政治化することに成功し、農村は権威主 義体制の政治的基盤とな・たというもの鼠翻・農村が簾主義体制の政治的藍とな・た・とを歴史的禽造的 若畑 民主化前韓国における「与村野都」の構造 89 に捉える点は傾聴に値するが、国家の役割の肥大化について農村地域で具体的にどのように国家の領域が拡大して 90 東洋文化研究6号 いったのかが明らかにされておらず、実証面で問題点が残る。合理的選択論的視角・国家論的視角のいずれも実証 的に難があり、﹁与村野都﹂の構造が成立した要因については、近代化論的視角が韓国の学界において通説的な地 ︵11︶ 位を占めているものと考えられる。 本稿では、以下統計的実証により﹁与村野都﹂についての近代化論的視角を、批判的に検討していく。近代化論 的視角は確かに説明力が高いが、それだけでは十分に説明できない事象も存在する。代替的ないしは補完的解釈と して、農村の経済的社会的構造を考慮に入れた仮説を立て、それについて検証を行う。最後に﹁与村野都﹂の構造 を考察する上で、都市.農村間の近代化の格差だけではなく、農村に対する国家の介入・浸透の様態を検討するこ との重要性を提起し、論述を終えることとする。 ︵12︶ 近代化論的視角の検証 部選挙区において相対的に少なく、郡部選挙区において相対的に多く議席を獲得してきたことが分かる。この関係 た民主党が与党として臨んだ選挙であるので、これも例外的である。それ以外の国会選挙では一貫して、与党は市 で、例外的である。六〇年国会選挙は、四月学生革命によって李承晩政権が倒れ、第一共和国期の第一野党であっ たものである。四八年.五〇年国会選挙は、第一共和国期の政権与党である自由党が成立する以前の選挙であるの ︵15︶ ︿表1>は各国会選挙の地域区における与党と非与党の獲得議席を、市部の選挙区と郡部の選挙区に分けて表示し ︵41︶ まず民主化前の選挙結果の分析を通じて﹁与村野都﹂の構造がどのようなものであったのか、確認してみむ発。 二 表1 各国会選挙地域区における与党・非与党の獲得議席 S部 v 54年 26 P19 30 市部 P70 郡部 P45 Q00 計 与党議席 非与党議席 市部 15 27 S部 X9 U2 P14 W9 v 与党議席 非与党議席 58 S部 P17 v 与党議席 非与党議席 11 s・郡部 Q0 @郡部 V1 @計 P02 73年 24 P429 市部 与党議席 非与党議席 計 39 43 P47 P67 P86 Q10 与党議席 非与党議席 計 42 市部 P61 郡部 14 48 62 P12 T9 P71 Q03 計 P26 P07 Q33 計 63年 与党議席 非与党議席 62 市部 16 P71 市・郡部 P3 Q33 郡部 T9 W8 計 計 71年 35 市部 Q1 市・郡部 V5 郡部 P31 計 計 78年 19 与党議席 非与党議席 9106786 67年 P75 計 58年 与党議席 非与党議席 W1643 市部 45458 60年 計 50年 42024 市部 与党議席 非与党議席 45155 48年 36 計 35 Q1 V5 P31 計 45 P0 Q0 Q1 W8 U7 P53 与党議席 非与党議席 計 市部 16 18 34 市部 17 25 42 s・郡部 @郡部 Q5 Q1 S6 市・郡部 Q2 R0 T2 R2 R4 U6 郡部 Q9 R1 U0 V3 V3 U8 W4 P54 @計 81年 与党議席 非与党議席 P46 計 計 85年 与党議席 非与党議席 計 市部 30 30 60 市部 23 33 56 s・郡部 @郡部 Q9 R1 R3 R3 U6 R1 R3 U0 市・郡部 U4 郡部 Q9 Q9 T8 X5 P80 @計 X0 X4 P84 計 91 民主化前韓国における「与村野都」の構造 若畑 W5 表2 各大統領選挙における与党候補絶対得票率 52年 56年 63年 67年 71年 市部得票率 473% 35.8% 28.5% 38.2% 34.5% S部得票率 U6.7% T7.7% R9.9% S2.2% S5.3% が有意であるかを確かめるたあに、全体の議席比率から期待値を計算してズ検定を行ったところ、 第一共和国期後半の五四年・五八年国会選挙と、第三共和国期の三回の国会選挙についてー%水 準で有意であった。 しかし、第四.第五共和国期の中選挙区制下の選挙では、それまでの小選挙区制下の選挙と異 なり、そもそも市部選挙区と郡部選挙区の格差がそれほど見られず、検定の結果も有意ではなか った。選挙区定員二名の中選挙区選挙では、与党は多くの場合一つの選挙区に1名しか候補者を 立てなかったので、与党と野党が一名ずつ議席を分け合う選挙区が多数出現して政党間対立がう すれ、都市・農村間の亀裂が鮮明に現われにくかった。また、各選挙区内部で候補者ごとの地盤 が顕わになる場合が多く、与野党を問わず候補者が自分の出身地域で独占的に得票する事態が生 ︵16︶ じた点も、与党と野党の間の政党間対立をうすめる効果を持ったものと考えられる。以下の分析 では、これらの点を考慮して中選挙区制下で行われた選挙は、対象から外すこととする。 次に大統領選挙についてみてみよう。︿表2>は大統領直接選挙における市部・郡部それぞれ での与党候補の絶対得票率︵与党得票数を有権者数で除したもの︶をあらわしたものである。民 主化前に行われた五回の大統領直接選挙︵六〇年大統領選挙は現職の李承晩のみ出馬したため検 ︵17︶ 討の対象から外している︶のうち、六七年選挙を除く全ての選挙で与党候補の得票率は、市部と 郡部の間で10%以上の差が出ている。市部と郡部の間で見られる与党候補得票率の格差が有意な ものであるかを確かめるため、各市・郡・区を単位として有権者数による重み付けをした上でt 検定を行った結果、六七年大統領選挙を含む全ての選挙において有意な格差が認められた。以上 92 東洋文化研究6号 の分析から、統計的に都市地域と比べ農村地域において与党支持が強く、民主化前の韓国の政権与党は農村を支持 基盤としてきたということが言える。 ︵18︶ それでは、このような農村における強い与党支持はどのような要因によってもたらされたのであろうか。以下、 第一共和国期後半・第三共和国期に小選挙区制で行われた計五回の国会選挙と、五回の大統領直接選挙を事例に検 討を進めていく。被説明変数としては与党の絶対得票率をとる。ただし五四年・五八年国会選挙では、有権者数が 判明せず投票率や絶対得票率を算出できないので、相対得票率︵与党得票数を有効投票数で除したもの︶で代替し ︵19︶ た。分析単位は、六三年・六七年・七一年国会選挙は選挙区、その他の選挙では市・郡・区とし、有権者数︵五四 年・五八年国会選挙は有効投票数︶によって重み付けを行った。説明変数として用いる経済社会的・人口学的変数 については、六〇年・六六年・七〇年の各センサスと六〇年・七〇年農業センサス・六六年度版農林統計年報によ った。ただ、残念ながら五〇年代の経済社会的・人口学的変数を入手できなかったので、やむをえず第一共和国期 の選挙については六〇年時の数値を使用した。そのため第一共和国期の選挙についての分析には、大きな留保が必 要であることを断っておきたい。 前述したように、韓国人の投票行動は年齢と教育水準によって大きな影響を受ける。近代化論的視角に従うと、 年齢が高く教育水準が低いほど与党に対して投票する傾向が強くなり、また農村地域には年齢が高く教育水準が低 い人々が偏在しているため、農村では与党支持が強く現われるとされる。確かに農村地域住民に占める高齢者の比 率は都市に比べ明らかに高く、教育水準においても農村では文盲者や不就学者の比率が都市に比べ相当に高い。各 市・郡・区の与党得票率と、六〇歳以上の高齢者比率・文盲者の比率︵六七年・七一年選挙では不就学者の比率︶ の間の相関関係を検討してみると、民主化前の選挙においてこれらの変数の間に、かなり強い有意な相関が確認さ 若畑 民主化前韓国における「与村野都」の構造 93 表3近代化の程度を示す諸変数と与党得票率との相関関係 各変数と与党得票率の相関係数 52年 蜻I 54年 56年 蜻I 国I 58年 63年 63年 67年 67年 国I 蜻I 蜻I 国I 71年 国I 71年 蜻I 国I 0.653** 教育程度 w諶メ比率 0,042 0,043 0.340** 0.359綿 0.757** 0.539** 0.312** 0.720** 0.449** O.239** O,051 O.333*宰 O.305*宰 O.719** O.510躰 O.260** O.635** O.383** O.638** _家人口比率 O.407** O,150 O.421林 O.405率* O.607** O.455** O.224紳 O.718林 O.369** O.637** 63年 63年 教育程度によって統制した偏相関係数 52年 蜻I 54年 56年 蜻I 国I 58年 国I 蜻I 高齢者比率 0.350*傘 0,028 0,089 0,003 _家人口比率 O.572*宰 O.188* O.265** O,209林 │0,108 0.178* 67年 67年 国I 蜻I 71年 71年 一〇.057 一〇.080 一〇.160* 0,067 O,120 │0.330* O,002 蜻I 国I 0,084 │0,020 │0.312* 63年 67年 国I 高齢者比率によって統制した偏相関係数 52年 蜻I 教育程度 _家人ロ比率 一〇.266** 54年 56年 国I 58年 63年 0,112 0.198* 0.379* O.284** O.297林 │0,133 蜻I 0,001 O.406** O.214** 国I 蜻I 国I 蜻I 0.222* 0.187* O,024 │0,034 63年 63年 67年 67年 71年 71年 国I 蜻I 国I 0.445** 0.297** 0.191* O.443** O,012 O,111 農家人口比率によって統制した偏相関係数 52年 蜻I 教育程度 w諶メ比率 52年 56年 蜻I 蜻I 58年 国I 蜻I 国I 蜻I 一〇.441** 一〇.441* 一〇.007 0,058 0.577** 0.325** 0.378** │0.236** │0.236*零 │0,080 │0,106 O.499** O.259串* O,141 67年 71年 国I 0,143 │0,099 71年 蜻I 国I 0.420林 0.187* O,110 O,121 被説明変数は与党絶対得票率,54年・58年国会選挙は与党相対得票率 教育程度は,52年大統領選挙から63年選挙までは文盲率,67年選挙以降は不就学者率 *は5%水準で有意,*’は1%水準で有意 れる︿表3参照﹀。つまり、高齢 者の比率が高ければ高いほど、ま た文盲者・不就学者の比率が高け れば高いほど、与党支持が増加す るのである。ただし、高齢者比率 と与党得票率の相関関係は、教育 に関する変数によって統制してみ ると、特に第三共和国期において、 相関関係が顕著に弱まるか符号が 逆向きになる。逆に教育に関する 変数と与党得票率の相関関係は、 高齢者比率によって統制してもお おむね有意である。このたあ、年 齢よりも教育水準の高低が与党支 持の強弱の主たる要因ではないか と考えられる。 ︵20︶ 次に都市化の影響についてみる ために、各市・郡・区の農家人口 東洋文化研究6号 94 表4 教育程度・投票率・与党絶対得票率のパス解析 63年 52年 0,340 0,757 0,539 0,312 0,720 0,449 0,653 O,468 O,680 O,595 O,693 O,812 O,901 O,686 O,821 O,854 O,845 O,091 O,569 O,683 O,988 O,758 ソ600 │0,357 │0,235 O,703 O,145 │0,242 │0,169 │0,072 Oユ61 比率を都市化の指標として採り、与党得票率との相関関係を調べてみた。両者は五四年国 会選挙を除く全ての選挙において有意に相関しており、農家人口比率が高いほど、つまり 都市化が進んでいない地域ほど与党得票率が高かったことが分かる︿表3参照﹀。しかし これについても、教育に関する変数によって統制してみると、特に第三共和国期において、 多くの場合符号が逆向きになった。逆に教育に関する変数は、農家人口比率によって統制 してもおおむね有意である。つまり居住地域の都市化の水準ではなく、やはり教育水準の 高低が与党支持の強弱の主たる要因であったと想定しうる。 教育水準の高低が、どのような因果関係で与党支持の強弱に影響を与えるのか考察する ために、投票率が得られる選挙について、文盲者比率︵不就学者比率︶と投票率、与党得 票率の三つの変数を用いパ・解析をだ付・乱絶・それぞれの標準化回帰係数の値を検討し てみると、文盲者比率︵不就学者比率︶は投票率を媒介して与党得票率に影響を与えてお り、文盲者比率︵不就学者比率︶から与党得票率への直接的な影響は小さいことが分かる ︿表4参照﹀。すなわち教育水準が低い市・郡・区ほど投票率は高くなり、投票率が高けれ ば与党得票率が高く現われるのである。投票率を政権与党からの干渉・介入や動員の度合 いを示す指標として想定してみると、農村地域における教育水準の低さは政権与党からの 動員の容易さをもたらし、その動員の結果として強い与党支持が見られるようになったも のと考えられる。 以上の分析結果は近代化論的視角と適合的である。すなわち教育水準に代表されるよう 若畑 民主化前韓国における「与村野都」の構造 95 0,042 ウ育程度→投票率 兜[率→得票率 ウ育程度→得票率 71年 71年 国I 蜻I 67年 蜻I 国I 67年 国I 63年 56年 蜻I 蜻I 蜻I 教育程度と得票率の間の相関係数 表5歴代選挙における地域別・市郡別の与党得票率 52年大統領 市部 郡部 市部 郡部 市・郡全体 京畿道 江原道 忠清道 全羅道 慶尚道 済州道 全国 67.4% 74.8% 72.2% 京畿道 30.4% 43.8% 37.9% 78.7% 83.6% 44.6% 57.9% 57.3% 55.9% 73.0% 23.8% 43.2% 42.0% 39.8% 63.4% 19.6% 34.5% 32.8% 34.8% 60.0% 83.4% 江原道 7L8% 忠清道 60.6% 全羅道 54.7% 慶尚道 32.7% 37.0% 36.1% 一 30.4% 30.4% 一 68.4% 39.5% 37.6% 47.3% 66.7% 市・郡全体 54年国会 68.4% 済州道 63.4% 全国 29.5% 市部 郡部 市・郡全体 23.6% 47.5% 36.1% 40.1% 45.2% 44.6% 61.3% 44.5% 京畿道 8α2% 江原道 59.6% 忠清道 32.9% 49.3% 48.0% 34.1% 55.0% 52.0% 全羅道 37.2% 45.5% 44.3% 38.2% 49.3% 28.1% 46.8% 41.6% 58.7% 79.1% 39.4% 27.8% 30.5% 35.8% 57.7% 46.3% 慶尚道 74.4% 済州道 52.5% 全国 28.6% 46.7% 42.3% 56年大統領 市部 郡部 京畿道 江原道 忠清道 全羅道 慶尚道 済州道 31.1% 57.1% 56.1% 83.1% 37.3% 全国 63年大統領 市部 郡部 京畿道 江原道 忠清道 全羅道 慶尚道 済州道 全国 22.0% 27.0% 27.5% 32.4% 26.1% 32.6% 30.2% 449% 37.6% 47.8% 51.7% 57.7% 28.6% 40.0% 市・郡全体 58年国会 市部 郡部 市・郡全体 23.9% 京畿道 31.6% 江原道 13.7% 18.1% 15.1% 22.8% 23.3% 23.1% 31.8% 忠清道 42.5% 全羅道 44.3% 慶尚道 16.4% 24.8% 23.0% 21.1% 23.8% 23.0% 28.0% 30.7% 29.3% 56,2% 済州道 36.3% 全国 33.1% 32.3% 32.8% 20.9% 25.1% 23.2% 市・郡全体 市・郡全体 63年国会 67年大統領 市部 郡部 市部 郡部 京畿道 江原道 忠清道 全羅道 慶尚道 済州道 全国 29.4% 33.3% 3α8% 京畿道 2L6% 42.3% 27.5% 42.0% 43.5% 433% 江原道 32.8% 50.2% 42.8% 40.2% 37.2% 48.2% 46.9% 35.9% 34.8% 41.8% 39.8% 53.0% 54.6% 34.2% 44.8% 39.1% 44.7% 46.5% 44.5% 38.5% 42.2% 38.2% 42.2% 37.6% 忠清道 35.6% 全羅道 54,0% 慶尚道 46.0% 済州道 40.8% 全国 41.5% 34.2% 29.8% 44.6% 37.6% 市・郡全体 67年国会 71年大統領 市部 郡部 市部 郡部 市・郡全体 京畿道 江原道 忠清道 全羅道 慶尚道 済州道 全国 28.5% 40.0% 31.8% 京畿道 25.0% 36.4% 27.7% 42.4% 51.3% 39.4% 42.4% 41.1% 40.1% 42.9% 38.6% 39.6% 39.4% 21.2% 27.5% 49.6% 江原道 42.4% 忠清道 26.2% 全羅道 29.5% 40.8% 37.6% 47.1% 63.5% 31.7% 43.1% 37.0% 38.9% 46.4% 49.9% 39.8% 46.0% 34.5% 45.3% 56.6% 慶尚道 44.3% 済州道 40.8% 全国 29.5% 40.7% 35.0% 市・郡全体 71年国会 数値は与党絶対得票率,54年・58年国会選挙は与党相対得票率 京畿道はソウルを含む。63年・67年・71年国会選挙では市部に市部選挙区と市・郡部混成1 の選挙区が含まれる 東洋文化研究6号 96 な都市.農村間の近代化の格差が、政権与党からの動員可能性に影響を与え、その結果与党支持の強さに違いが現 ︵22︶ われてくると解釈されるからである。 しかし、選挙結果を地域別に検討してみると興味深い関係が浮かび上がってくる。ここでは韓国の地域を、ソウ ルを含む京畿道.江原道.忠清南北道・全羅南北道・慶尚南北道・済州道の六つに分けて検討してみることとする。 ︿表5>を見ると、各地域とも市部と郡部で与党得票率に大きな差があるが、同時に市部・郡部とも地域間で投票 行動に大きな相違が見られることが分かる。また、この地域間の投票行動の相違には、時期によって大きな変化が あることを確認することができる。第一共和国期の大統領選挙・国会選挙では江原道などで与党支持が強く、全羅 道.慶尚道などで与党に対する投票が相対的に少ないという﹁南北対立構造﹂が見られる。この﹁南北対立構造﹂ は、六三年選挙では逆に京畿道.江原道で与党支持が弱く、慶尚道などで与党支持が強いという形態で﹁再現﹂さ れるが、六〇年代後半に入ると消滅に向かっていく。かわって、特に六七年・七一年大統領選挙では、与党支持が 慶尚道において強く、全羅道において弱いという﹁東西対立構造﹂が現われるようになった。 市部と郡部の与党得票率の格差は、近代化論的視角によって説明することができるとしても、同じ郡部でも地域 により投票行動に大きな相違が見られることや、さらにその地域間の相違も時期によって大きな変化が見られるこ とは、近代化論的視角のみによっては十分に説明できない。教育水準の高低は、市部・郡部の違いを統制すると、 地域間でそれほど大きな格差が見られないからである。それでは、郡部における地域間の与党得票率の格差は何に よって説明することができるのであろうか。この点について次に検討してみよう。 若畑 民主化前韓国における「与村野都」の構造 97 三 農村の経済的社会的構造 第一共和国期に見られた﹁南北対立構造﹂について、一つの考えられる説明は、朝鮮戦争の影響である。北朝鮮 に隣接する江原道など韓国北部地域は、朝鮮戦争による被害が甚大であり反共意識が強固に形成されたため、政権 与党によるイデオロギー操作や動員を受けやすく、結果として与党支持が強く現われるようになったとされる。し かし、それならば江原道内部で見ても、より北朝鮮に近く朝鮮戦争の前線にあった地域が、最も与党支持が強いは ずである。しかるに第一共和国期の選挙の結果を通してみても、江原道内部でそのような傾向は確認されない。江 原道を北緯三八度線以北に位置する鉄原郡、金化郡、華川郡、楊口郡、麟蹄郡、高城郡、嚢陽郡の各郡とそれ以外 ︵23︶ の市・郡に分けて、それぞれの与党得票率を五六年大統領・副統領選挙と五八年国会選挙についてみると、両者に 大きな相違はなく、五六年大統領選挙と五八年国会選挙ではむしろ三八度線以南の地域の方で与党得票率が高い。 このことは、朝鮮戦争の影響による説明が不十分であることを示唆している。 六七年・七一年大統領選挙で現われた﹁東西対立構造﹂について通常行われる説明は、候補者の出身地域の相違 を強調するものである。現職の朴正煕は両選挙において、出身地域である慶尚道で圧倒的な票を集め、また七一年 選挙では野党候補である金大中が出身地域の全羅道で多くの支持を獲得した。この説明は非常に説得的であるが、 若干の留保が必要である。与党候補の全羅道・慶尚道・その他の地域における絶対得票率が、六三年.六七年.七 一年大統領選挙においてどのように推移したのかを調べてみると、慶尚道では傾向的に与党得票率が増加し、逆に 全羅道では減少している。六三年・六七年の第一野党候補であるサ漕善の出身地域は、慶尚道.全羅道のいずれで 98 東洋文化研究6号 もない忠清道であったことをあわせて考えると、候補者の出身地域の相違ということ以外の、何らかの構造的な要 因を考慮しなければいけないように考えられる。 それでは、これらの地域的な投票行動の相違やその時期による変化は、何によって説明できるのであろうか。こ こでは農村の経済的社会的構造による影響を仮説として提示したい。植民地期の赤色農民組合や解放直後の左翼系 農民運動の活動を指標とし、歴史的な階級矛盾の大きさ・﹁進歩的な﹂勢力の強さが大統領選挙に与えた影響を考 察した先行研究として、孫浩哲氏の研究募絶・五六年肇で野党候補の曹奉岩が多く得票した地域と・六三年選 挙で朴正煕が多く得票した地域が重なっており、それらの地域の特徴として植民地期の赤色農民組合や解放直後の 左翼系農民運動の活動が盛んであった点が指摘されている。歴史的に階級矛盾が大きく、﹁進歩的な﹂勢力が強か った地域で、左翼政治家である曹奉岩や、思想的背景に疑いがつきまとった朴正煕への投票が多かったと解釈する のである。しかし、この解釈には二つの点で無理がある。五六年選挙以外の第一共和国期の選挙全般において、イ デオロギー的に政権与党と大差の無い保守野党が主たる挑戦者であったにもかかわらず、五六年選挙と類似の地域 的投票行動が見られる点と、曹奉岩の得票は都市を中心としたものであり、農村を中心に得票した朴正煕の得票構 造とは大きな違いがあるという点である。試みに五六年大統領選挙と副統領選挙の与党絶対得票率の相関係数を計 算してみると0.9を超えており、与党候補に対する対抗勢力が左翼であろうと保守野党であろうと、投票行動に 大きな違いがなかったことが分かる。 左翼系農民運動の活動に代表される階級矛盾の大きさは、説明変数としては適切ではないため、ここでは単純に、 各農家の耕地規模のばらつきを示す指標としては、耕地規模の標準偏差を平均耕地規模で除した変動係数と、全農 99 農地の分配状況による階層分化の度合いを説明変数とし、具体的には各農家の耕地規模のばらつきを検討してみた。民 若畑 主化前韓国における「与村野都」の構造 家戸数のうち耕地規模が五段歩から一五段歩までの中農が占める比率を用いた。変動係数の値が大きければ耕地規 模のばらつきが大きく、階層分化の度合いも大きいと考えられ、逆に中農比率の値が高ければ中農層が厚く、階層 分化の度合いが小さいと想定できる。各道別にみると全羅道で階層分化の度合いが大きく、江原道.忠清北道.慶 尚北道などで階層分化の度合いが小さい。平野米作地帯である全羅道は、植民地期において典型的に地主制が発達 した地域であり、農地改革後も他地域に比べ階層分化の度合いが大きかったことが窺える。第一共和国を通じて最 大の野党であった韓国民主党1民主国民党−民主党は、全羅道などの旧地主勢力が中心になって結成された政党で あり、全羅道を最も強固な地盤としていた。第一共和国期の﹁南北対立構造﹂は、各地域の農村社会における階層 分化の度合いの相違を背景としており・旧地主の勢力髭に伴い消滅へ向か・てい・たと考えられるのではないだ ろうか。 一方﹁東西対立構造﹂については、次のように考えられる。六〇年代以降農村に対する国家の介入.浸透が大き め く進み、農村地域の住民は行政・準行政組織の強い支配を受けるようになった。農村社会の階層別に見たとき、国 家の介入・浸透の主たる対象は中農層、すなわち中程度の耕作規模を持つ農家の層であったものと考えられる。第 三共和国期の三回の大統領選挙において、傾向的に慶尚道における与党支持が強まり全羅道では弱まっていったこ とは、相対的に階層分化の度合いが小さく中農層が厚かった慶尚道と、階層分化の度合いが大きかった全羅道との 間の相違から説明できるのではないか。 これらの仮説を検証するために、郡部における与党得票率と前述した耕地規模に関する変動係数.中農比率との 相関関係を、各選挙について分析してみた︿表6参照﹀。まず大統領選挙について検討してみると、第一共和国期 の二回の大統領選挙では与党得票率と耕地規模のばらつきとの間にかなり強い負の相関関係が認められ、階層分化 100 東洋文化研究6号 表6 歴代選挙における郡部での与党得票率と耕地規模変動係数・ 中農比率との相関関係 蜻I 国I 0,105 一〇.042 一〇.529林 一〇.132 │0,019 O,088 O.531** O,073 71年 0.473** 0.241* O,053 黹ソ476** │0.251* ?_比率 一〇.071 一〇.170 O.186睾 O,204* 一〇.298** 一〇.540** 変動係数 O.516** 58年 蜻I 国I の度合いが小さいところで与党支持が強かったことがわかる。一方、第三共和国期 の三回の大統領選挙は若干複雑である。六三年選挙では正の相関関係であったのが、 六七年選挙を経て七一年選挙ではかなり強い負の相関関係へと転じた。つまり階層 分化の度合いが小さく中農層が厚い農村地域では、朴正煕政権の当初は与党支持が 弱かったが、時期が下るにつれ与党支持を強めていったということが言えそうであ る。同様のパターンは国会選挙についても弱いながら観察される。つまり、第一共 ︵27︶ 和国期には階層分化の度合いが小さく中農層が厚いところで与党支持が強かったの が、第三共和国初期に逆転し、さらに第三共和国末期には再び階層分化の度合いが 小さいところで与党支持が強くなるのである。しかし、相関係数の値が有意でない ものが多く、拙速な判断は慎まなければならない。 上記の関係が地域の違いによって擬似的に生じたものではないか確かめるために、 五回の大統領選挙について京畿道・江原道・忠清道・全羅道・慶尚道の地域別に、 与党得票率と耕地規模に関する変動係数の相関関係を調べてみた︿表7参照﹀。京 畿道・江原道などはケースの数が少ないため難しい部分があるが、地域によって若 干の違いはあるものの、五二年選挙と七一年選挙では地域ごとに見た場合にも全国 と同様の関係が認められた。つまり地域の違いによる影響を統制した上でも、階層 分化の度合いは与党支持の強弱に影響を与えているということが分かる。ただ六三 年選挙は若干異なっている。全国的には階層分化の度合いが大きい郡で与党支持が 若畑 民主化前韓国における「与村野都」の構造 101 71年 国I 67年 蜻I 国I 蜻I 63年 67年 63年 蜻I 56年 54年 蜻I 52年 被説明変数は与党絶対得票率,54年・58年国会選挙は与党相対得票率 分析単位は63年・67年・71年国会選挙では市・郡部混成の選挙区と郡部選挙区,それ以 外の選挙は各郡 *は5%水準で有意,**は1%水準で有意 表7 各大統領選挙における郡部での与党絶対得票率と耕地規模変 動係数との相関関係 71年 一〇.512** 一〇.551* 52年 56年 京畿道 一〇.235 一〇,045 0,054 0,046 一〇.381 江原道 一〇,359 0,232 一〇.540 一〇.301 一α143 忠清道 一α480* 一〇.306 0,313 0,160 全羅道 一〇.560** 一〇.289 一〇,133 一〇.053 慶尚道 一〇.455** 一〇.157 0,173 0,419* 一〇.356* 全国 一〇.540** 一〇.298** 0.473** 0,105 一〇.529** 67年 63年 *は5%水準で有意,’*は1%水準で有意 強いのであるが、地域別ではそのような関係は観察されない。これは、耕地規 模のばらつきが比較的大きい全羅道や慶尚南道で与党候補に対する支持が強く、 ばらつきが比較的小さい京畿道・江原道・忠清北道などで与党候補に対する支 持が弱かったことが、耕地規模に関する変動係数と与党得票率の相関関係に影 響を与えていて、地域の違いによる影響を統制すれば、階層分化の度合いは与 党支持の強弱に大きな影響を与えていなかったものと見ることができる。 以上の結果を要約すると、第一共和国期の農村地域において、階層分化の度 合いが大きいところでは与党の支持が弱く、小さいところでは与党の支持が強 かった。全羅道・慶尚道などで与党に対する投票が相対的に少なく、江原道な どで与党支持が強いという﹁南北対立構造﹂は、両者の間における階層分化の 度合いの相違を反映していたと見ることができる。第三共和国期に入って、階 層分化の度合いと与党支持の関係は不透明なものになったが、七一年大統領選 挙では再び階層分化の度合いが大きいところで与党支持が弱く、小さいところ で与党支持が強いという関係が見られるようになった。与党支持が慶尚道にお いて強く、全羅道において弱いという﹁東西対立構造﹂についても、やはり両 者の間における階層分化の度合いの相違が、一つの要因となって形成されたと 考えることができるだろう。 これまでの分析の結果を整理してみよう。民主化前の韓国の選挙では、中選 102 東洋文化研究6号 挙区制の下で行われた第四・第五共和国期の国会選挙を除いて、都市地域に比べ農村地域において与党支持が強い という﹁与村野都﹂の構造が顕著に見られた。選挙における与党支持の強弱は、投票率を媒介変数として教育水準 の高低と強く相関しており、農村地域における教育水準の低さは政権与党からの動員の容易さをもたらし、その動 員の結果として強い与党支持が見られるようになったものと考えられる。この点で近代化論的視角の説明力は高い が、一方で同じ農村地域においても地域間で投票行動の相違が見られたことを十分に説明できない。しかもこの地 域間の投票行動の相違は、時期により変化が見られた。この点について、農村地域の与党支持の強弱は、階層分化 の度合いという農村の経済的社会的構造と相関しており、時期別に変化が見られる農村地域の与党支持の濃淡は、 各地域の階層分化の度合いにより説明できる部分が大きいことを示した。それでは、なぜ農村地域において階層分 化の度合いと与党支持の強弱とが結びつくことになったのだろうか。最後にこれについて理論的な検討を加えてみ ることとする。 四 分析結果の理論的検討 農村地域における与党得票率は、階層分化の度合いによって規定される部分が大きいことをこれまでの分析で示 してきたが、階層分化の度合いの小ささと農村における与党支持の強さを結びつける関鍵になったのは、農村社会 に対する国家の介入過程であると考えられる。解放後様々な紆余曲折を経て農地改革が実施に移された結果、農地 ︵28︶ の分配状況は大きく平準化され、植民地期の強固な地主小作関係は基本的に解体された。一方で農地改革によって も韓国の農家の零細性は全く解消されず、また高利の私金融の蔓延、低い農産物価格、分配農地償還や臨時土地収 若畑 民主化前韓国における「与村野都」の構造 103 得税の負担などにより、農家の経済状況は非常に困窮なままとどめおかれた。農地の再分配問題が解決された後も 韓国の農業にとって重大な課題として解決が迫られたものとして、農業金融・生産資材の供給・農産物流通の三つ を挙げることができるが、五〇年代にはこれらの課題に対し充分な解決がなされなかった。その中で、階層分化の 度合いが大きく旧地主の影響力が残存していたような地域では、与党支持が比較的弱く野党の影響力が相対的に強 かった。注意をしなければいけないのは、五〇年代の第一野党は、旧地主勢力が中心になった保守政党であったと いう点である。同じ農村でも階層分化の度合いにより与党支持に強弱が見られたことの要因は、階級矛盾の大きさ によって﹁進歩的な﹂勢力に支持が集まったためではなく、旧地主の影響力により政権与党からの動員の影響が緩 和されたためと考えられる。しかし、旧地主の影響力が後退していくにつれ、階層分化の度合いと与党支持の関係 は弱いものになっていった。 その後、六一年に軍事クーデターによって成立した朴正煕政権は、五〇年代の農村の困窮を打開するために一連 の﹁重農主義﹂的農業政策を展開し、農協による農業金融の整備・肥料供給の改善・糧穀管理制度の改革などの政 策が採られ、農家の経済状況を改善するために国家による積極的な介入が試みられた。さらに七〇年代に入るとセ マウル運動による農村の近代化や農村における制度的金融の拡大、米の政府買上規模の増大・買上価格の大幅な上 昇などの政策が行われ、より実質を伴った国家の介入が進展していった。その結果、韓国の農民は行政・準行政組 織の強い支配を受けることとなり、農民が政府の意向に逆らって行動することのコストが大きく引き上げられた。 また、農地改革や農村から都市への人口移動により伝統的な農村の権力構造が弛緩していく中で、六〇年代以降急 速に﹁上からの﹂農村の組織化が進んでいき、行政組織と強い連関を持つ里長などの公式的指導者がそのまま大き ︵29︶ な影響力を保持する、一元的な権力構造が成立していった。行政組織と強い連関を持つ村落内の有力者が、選挙に 104 東洋文化研究6号 おいて農村住民の投票行動に大きな影響を与麓・とにより・農村の政権与党支持が確保された。以上のような農 村社会に対する国家の介入過程は、中程度の耕作規模を持つ農家の層を主たる対象としており、これを背景として 第三共和国末期には、特に階層分化の度合いが小さく中農層が厚い地域において、与党支持が相対的に強まってい ったものと考えられるのである。 農村社会に対する国家の介入・浸透の程度を示す指標を市・郡単位で得ることは難しいが、可能なものの一つと して農地改良組合によって水利が改善された耕地の比率を挙げることができるだろう。農地改良組合は、組合長が 政府による任命制であるなど政府の強い支配を受けた組織であり、六〇年代以降朴正煕政権の農業政策に従って、 水利の改善をはじめとする農地改良事業に精力的に携わっていった。市・郡単位での数値が得られる七二年度の農 地改良事業統計年報を用いて、農地改良組合によって水利が改善された耕地が全耕地にしめる比率と、階層分化の 度合いを示す指標である耕地規模に関する変動係数との相関関係を、各郡を単位に計算してみると相関係数は0. 6を超えており、両者は強く相関していた。すなわち階層分化の度合いが小さい地域ほど農地改良組合によって水 利が改善された耕地の比率が亀・・の・﹂とは・六〇年代以降の国家の介入・浸透の主たる対象が中程度の耕作規 模を持つ農家の層であり、中農の層が厚い地域ほど行政・準行政組織の強い支配を受けるようになったという想定 を裏付けてくれる。 都市・農村間の近代化の格差を﹁与村野都﹂の主要な要因とみる近代化論的視角は確かに説明力が高いが、それ だけでは十分ではない。本稿では、階層分化の度合いという農村の経済的社会的構造が﹁与村野都﹂の時期的変化 をもたらした可能性について検討した。農村社会の構造の違いを考慮に入れることにより、同じ農村地域でも時期 により地域ごとに異なった投票行動が現われた要因について明らかになった。階層分化の度合いが農村住民の与党 若畑 民主化前韓国における「与村野都」の構造 105 支持に影響を与えた背景としては、農村に対する国家の介入・浸透が、階層分化の度合いに応じて地域的な偏差を ︵1︶ 第一共和国期に行われていた副統領選挙においては、 一九五六年選挙において野党候補である張勉が当選し た例がある。また一九七八年国会選挙では、第一野党 である新民党が得票率で与党を上回ったが、獲得議席 106 東洋文化研究6号 ともなっていたという点を考えることができる。農村に対する国家の介入・浸透を重視するという点で、本稿の分 析は国家論的視角と問題関心を共有するが、国家論的視角に基。ついたこれまでの研究は、国家の役割の肥大化を主 に暴力装置の整備やイデオロギー的教化の側面で捉えており、経済面で具体的にどのように国家の領域が拡大して いったのか、また地域的にどのような偏差があったのか等の点は十分に扱われておらず、その点でも研究上の示唆 を与えることができたのではないかと思う。 民主化前韓国の農村地域における強い与党支持を詳細に考察するためには、単に農村地域の近代化の﹁遅れ﹂に 焦点を当てるだけでは不十分である。農村に対する国家の介入・浸透がどのように進んでいき、農村住民に対する 行政.準行政組織の支配がどのように展開していったのかという点を具体的に検討しなければならない。本稿で行 った分析が、民主化前韓国の選挙政治について実証的な貢献を既存研究に付け加え、農村社会の構造が歴史的にど 本稿は現代韓国朝鮮学会第二回研究大会︵二〇〇一年 う変化してきたのかという課題を分析することの重要性を喚起できたならば、望外の幸せである。 * 一一月於慶応義塾大学︶での発表を元にしたものであ る。貴重なコメントを下さった有田伸、磯崎典世、大 西裕、倉持和雄、林成蔚各先生と匿名の査読者に対し、 深く感謝申し上げる。 注 では与党が過半 数 を 占 め た 。 ︵2︶ 民主化後の韓国の選挙について取り上げた日本語に ︵6︶ 農村地域で﹁遵奉投票﹂が行われていたことの論拠 の一つとして、高い投票率が挙げられる。与党得票率 と同様に、農村地域では都市地域に比べ一貫して投票 率も高く、官権からの干渉・介入や選挙動員が大きか ︵7︶ 李甲允一九九八﹃韓国到選挙外地域主義﹄ユ暑 ったことが窺われる。 ︵韓国語︶、二九−三六頁を参照。 なった。 ︵8︶ 李甲允前掲書三四−三五頁、民主化後の投票行動で は、年齢と教育水準の与える影響は大きく減少し、代 わって出身・居住地域が圧倒的な影響を与えるように よる研究としては、福井治弘・李甲允一九九八﹁日韓 国会議員選挙の比較分析﹂レヴァイアサンニ三、出水 薫一九九六﹁韓国政治における地域割拠現象﹂外務省 調査月報一九九六年三月号、出水薫一九九八﹁韓国国 政選挙における地域割拠現象再論﹂九州大学政治研究 四五、出水薫二〇〇一﹁民主化後の韓国政党制﹂AP Cアジア太平洋研究八、文京殊二〇〇〇﹁第一六代国 会議員選挙と韓国政治の刷新︵上︶︵下︶﹂アジアアフ ︵12︶ 通常韓国の用語法では、四八年−六〇年の李承晩政 ミ℃o§帖8ω蒔−ω.等が挙げられる。 卑巳oQo。巨U①︿①一〇b日①暮言GQo暮﹃國g$.、層きミミ﹄ q㊤Φ臨○ロ内一ヨ卸ゆ゜ρ国oげ一㊤謡゜.、国一Φ90﹁巴ゆ①げ9︿一〇弓 ︵11︶ 近代化論的視角に基づいた計量的実証研究としては、 学博士論文︵韓国語︶等がある。 一九九一﹁韓国到農民運動叫国家﹂高麗大学校政治 編﹃韓国現代政治論1﹄叶甘出版︶︵韓国語︶、金台鑑 主義到条件斗展望﹄叶甘出版︵韓国語︶、金台鑑一 九九〇﹁農村社会到構造変化斜農民政治﹂︵韓培浩 ︵10︶ 代表的な研究としては、崔章集一九九六﹃韓国民主 ︵9︶ 趙己淑一九九六﹃合理的選択﹄越音︵韓国語︶、一 〇〇1一一八頁を参照。 リカ研究三五四 ・ 三 五 五 等 が あ る 。 ︵3︶ ﹁与村野都﹂について扱った数少ない日本語による 研究としては、木村幹二〇〇二﹁韓国における民主化 と﹃政府党﹄1﹃与村野都﹄から﹃地域感情﹄へ﹂︵片 山裕・西村茂雄編﹃講座東アジア近現代史四一束アジ ア史像の新構築﹄青木書店︶がある。木村氏の分析対 象は﹁与村野都﹂が成立した五〇年代に集中しており、 農村の与党支持が時期により地域ごとにどう変化して いったのかという点を十分に把握できておらず、問題 点が残る。 ︵4︶ ヂ天柱一九八七︵初版一九六三︶﹃改訂版韓国政治 体系﹄刈音大学校出版部︵韓国語︶ ︵5︶ サ天柱一九九四﹃全訂版投票参与舛政治発展﹄刈 音大学校出版部 ︵ 韓 国 語 ︶ 、 四 三 − 五 〇 頁 を 参 照 。 若畑 民主化前韓国における「与村野都」の構造 107 権を第一共和国、六〇1六一年の張勉政権を第二共和 国、軍政より六三年に民政に移管してから七二年に維 ζ9詳電巴⋮∪①霞①pωぎσq勺9憎受ωξ℃o巨qa霞爵㊦ とについては、冒①ρ内pマ網‘戸お⑩O°、.日ゲ①<08°。 ︵16︶ 中選挙区制が政党間対立をうすめる効果を持ったこ 展を背景に行われ、また朴政権の農業・農村に対する ︵17︶ 六七年大統領選挙は、都市部における経済開発の進 勺話ωω.を参照のこと。 ≧り〒早§馨、S貯ぎ欝⊂づ一くΦ邑身ohζ8臣σq導 討喜§﹂き、§い§亀ぎξ§黛き§、簿⑩9亮貯 ︵一り刈GQI一㊤刈Qo︶、、闇言uubδh目きΦけ㊤ピ巴ω.史①a§G。 弓≦O−ζ①日げ興︼︼°。三9ω裳弓くQっ団ω8ヨ言閑o円$ る。 二年から七九年朴正煕が暗殺されるまでを第四土ハ和国、 新体制が成立するまでの朴正煕政権を第三共和国、七 でも以下これに な ら う こ と と す る 。 八〇年−八七年の全斗換政権を第五共和国、八七年の 民主化以降現在に至るまでを第六共和国と呼ぶ。本稿 ︵13︶ 民主化前の韓国の選挙制度は様々に変更されたが、 詳細についてはここでは扱わない。韓国の選挙制度に ついては、鄭栄国一九九七﹁政党と選挙制度﹂︵孔星 国現代政治﹄東京大学出版会、第二章を参照のこと。 ︵41︶ 六三年以降の国会選挙は、地域区と全国区に分けて 得票率をみると、市部の与党得票率が郡部の与党得票 は相対的に伸び悩んだ。実際絶対得票率ではなく相対 軽視が重要な争点になったこともあって、与党は都市 部で比較的多くの支持を得たのに対し、農村での支持 行われた。全国区の議員は、第三・第五共和国期には 率を上回っている。 鎮・川勝平太編﹃韓国の政治−南北統一をめざす新・ 先進国﹄早稲田大学出版部︶、森山茂徳一九九八﹃韓 変則的な比例代表、第四共和国期には大統領の推薦に よって選出された。以下の分析では、地域区選挙のみ タを用いたものである。民主化以前の投票行動につい ては、信頼すべき標本調査のデータが存在しないため、 ︵18︶ 以下の分析は、選挙区あるいは市・郡単位の集合デー を対象とする。 集合データを用いた分析しか行うことができず、個々 ︵15︶ 市部・郡部は地方行政単位における位相の違いであ るが、一九六〇年センサスの結果によって計算をする 検証を行うには限界があることを付記しておきたい。 轄市に昇格してから行われた六三年選挙以後では区を ︵19︶ソウルは全ての選挙で区を単位とした。釜山は、直 の有権者が行った投票行動の実態について十分な仮説 と市部の農家人口の比率は9・5%、郡部の農家人口 の比率75・0%となり、市部は都市地域、郡部は農村 地域にほぼ重なることが分かる。なお表における市・ 郡部選挙区とは市と郡によって混成された選挙区であ 108 東洋文化研究6号 ていない点や、都市・農村間の近代化の格差を表わす 部であるか︶のみを用いている点など、いくつか補完 指標として単純に行政組織上の位相︵市部であるか郡 以上の高齢者比率、教育水準を表わす変数として文盲 は投票が行われなかった。 ︵23︶ 五二年大統領・副統領選挙と五四年までの国会選挙 では、北緯三八度線以北のいわゆる収復地区において ︵20︶ ここでの分析は年齢構成を表わす変数として六〇歳 単位とし、それ以前の選挙では市を単位とした。 率ないし不就学者比率を用いたが、その他、年齢構成 についての変数として有権者の平均年齢、教育水準を 表わす変数として学生以外の住民の平均教育年数を用 対する国家の介入・浸透の詳細については、若畑省二 二〇〇一・二〇〇三﹁権威主義体制下韓国における農 ︵26︶ 韓国において六〇年代以降進展していく農村社会に 代以降激減している。急激な工業化の過程において農 業の占める比重が減少していったことと相応している ものと見られるが、旧地主勢力が国会で代表される傾 向が後退していった表れとも解されるであろう。 ︵25︶ 国会議員の職業をみると、農業出身の議員が六〇年 〇年到韓国政治﹄川4︶︵韓国語︶を参照。 岩、朴正煕得票とし残存左翼斜支持銀叶?﹂︵﹃解放五 ︵24︶ 孫浩哲一九九五コ九五六年叫六三年大選一曹奉 すべき点が存在している。 いても同様の結 果 が 得 ら れ た 。 ︵21︶ 文盲者比率︵不就学者比率︶と与党得票率の間の相 関係数︵与党得票率を文盲者比率あるいは不就学者比 率によって単回帰分析した場合の標準化回帰係数と等 しい︶は、投票率を媒介した間接的影響と、直接的影 て表わされる。 響に分解することができる。間接的影響は、投票率に 対する文盲者比率の標準化回帰係数と、与党得票率に 対して投票率と文盲者比率によって重回帰した場合の 投票率の標準化回帰係数の積として表わされ、直接的 影響は与党得票率に対して投票率と文盲者比率によっ て重回帰した場合の文盲者比率の標準化回帰係数とし 投票行動の相違は、そもそもそれほど大きなものでは なかった。大統領選挙に比べ国会選挙で地域間の投票 ︵27︶ 民主化前の国会選挙は、大統領選挙に比べ地域間の =六巻五・六号を参照のこと。 ︵22︶ 注11で挙げた金在温氏と高乗諾氏が行った先行研究 業政策と農村社会−朴正煕政権期を中心に︵1︶︵2︶ ︵3︶﹂国家学会雑誌=四巻一・二号、一一・=一号、 でも、本稿と同様に選挙区単位の集合データを用い、 地域ダミー変数と都市部ダミー変数によって六三・六 七・七一年大統領選挙における野党支持に対する回帰 分析を行い、近代化論的視角を実証的に検証している。 ただし上記の研究には、国会選挙に対する分析を行っ 若畑 民主化前韓国における「与村野都」の構造 109 選挙では候補者個人の属性︵与野党の別・出身地域︶ 行動の相違が小さかったことの原因としては、大統領 中心に農地改良組合に依存せずに耕地の水利改善が進 ているありさまが、実際の見聞に基づいて描かれてい 組合が、受益農民の利害とは離れて官僚的に運営され 一九七六﹃韓国農地改革の再検討﹄アジア経済研究所 一方、階層分化の度合いが小さかった慶尚道は、民間 んでいたためと考えられる。植民地期以来の米作地帯 である全羅道は、前述のように階層分化の度合いが大 きかったが、地主を中心とした水利組合が古くから発 達しており、六〇年代後半以降の農地改良組合による 水利改善以前に、水利の安全がかなり確保されていた。 ︵32︶ 階層分化の度合いが大きい地域では、地域有力者を る。 によって対立軸が鮮明に表出されるのに対し、国会選 挙は各選挙区独自の政治構造に大きく左右され、全国 的な政党間対立がなかなか展開されにくかったという が詳細な分析を加えている。韓国語文献の研究成果は、 組合に依存する比重が高かった。農地改良組合の活動 ︵28︶ 韓国の農地改革については、日本語文献では桜井浩 二八を参照。 金聖昊他一九八九﹃農地改革史研究﹄韓国農村経済研 究院︵韓国語︶ 等 を 参 照 の こ と 。 ︵29︶ 李萬甲一九七三﹃韓国農村社会到構造舛変化﹄刈 てあったということができるだろう。 正煕の出身地域に対する配慮とは別に、階層分化の度 合いという経済的社会的構造の違いが、その要因とし 点が考えられる。高選圭一九九九﹁日本・韓国の選挙 における政党政治の全国化と候補者補充﹂社会学年報 音大学校出版部 ︵ 韓 国 語 ︶ を 参 照 。 ︵30︶ 姜乗根一九六四﹁韓国地域社会到政治的分析﹂行 ※本稿は学習院大学東洋文化研究所﹁戦後東アジアにお は、全羅道に比べ慶尚道において活発であったが、朴 の水利組合の発達が遅れ、水利改善において農地改良 政論叢ニー一︵韓国語︶、 一五一−一五五頁、李萬甲 前掲書、三〇八 − 三 一 一 頁 を 参 照 。 ︵31︶ 水利の改善は農地改良組合の活動により六〇年代後 半以降急速になされていき、水利安全田率は六七年の の成果の一部である。 ける国際秩序﹂プロジェクト︵代表研究員 磯崎典世︶ による水利管理の実態については、即.乏巴①一㊤゜。b。. 58%から七八年の85%へと急上昇した。農地改良組合 き﹁§≦①ω薯冨≦℃奉ωω。を参照。そこでは農地改良 守、粛ミ帖§§亀︾鴫蕊§騨ミミ℃o﹄ミ8 詳⑦o§譜 110 東洋文化研究6号 The Political Mechanism of “Yeochon−Yado”in Authoritarian Korea shoji wAKAHATA Key words: Korea, Election, Voting Behavior in Rural Area, Modernization Theory, Socioeconomic Structure in Rural Area There was some political cleavage between the rural and urban areas in Authoritarian Korea: the ruling party had received much more political support from the rural, area and the opposition party, on the other hand, had their stronghold in the urban area. The so−called “Yeochon−Yado” phenomenon is ordinarily explained by the modernization theory that has focused on the authoritarian character of rural people, which was due to their old age and low educational level. This conventional view is statistically accepted, but has difficulty in elucidating what made the diversity of the support for the ruling party in the same rural area. It has a relation to the socioeconomic structure in the rural area:the support for the ruling party was stronger in the regions where it had been less stratified and where there were more middle farmers. This correlation was caused by the diversified capacity of the statistic penetration into the rural area. The authoritarian state had penetrated well into the less stratified regions, like Kyeong−sang−Do, and accordingly, strong support for the ruling Party had apPeared in those regions. On the other hand, the statistic penetration had difficulty in the more stratified regions, such as Cheol−la−Do;therefore, the opposition party could find their constituency in those regions.