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Page 1 2012年11月、第33号 (秋号) ロングステイ横浜、会報 (http
溶北分会 山 田信 子 写真 :並木繁嗣 。2 それからは早か った 1 月 、 半ば サポ セ ン9階 のフリー 、 スペ ースに集ま った のは 藤 、 、 、 。 本 日井 立 川 山 田 の4人 、 だが この時 にはまだ護も こ の旅 行が 実行され る確信 はな 。 か った 其 府が 顕ほ楢 いてい 、 る ことも違 い 自 分が 行け る 状 況にあ るかど うかも分から 。 な い 取りあえす皆 に提案 し 、 、 てみよう 話はそれから つ 。 ぶれ る のもそれか ら いすれ 、 にせよ 1月末 のサ ロンは﹁イ 、 タリア ・デ ー﹂と し て シチ 、 リア のDVDなどを披軽 し 。 皆 の心を つかむ こととな った いを つかむな らます胃袋か 。 ら これは浮 の東 西変わ らな 、 。 い パ スタにピ ッザ シチリ 。 ア ・ワイ ン そう いう手配な 。 ら喜 ん でいた しますとも 、 2月初旬 の 南 イタリア旅 、0 行初日打 ろ合わせ会には 2 人 ほど の方 々が サポ セ ンに集 、 まり 代表とな ってくださ っ た藤 本さ んが皆 の気持ちを 一 、 つにまとめ て 大まかな行き 、 、 先 日程を決め 参加書を努 って2週間後にはそ の確 認。 、 2月末には 私はパ ソ コンか 。 らチケ ツトを叩き出 していた 1 一時 は 1 人が 行 く こと と 、 な ったが 行きた い気持 ちと 。 事稽が 許す かは期間題 無念 にも航空券 のキ ャンセ ルを し 、 た方 もあ り 結局残 った のは 、 、 増 渕さん 日井夫妻 並本夫 、 妻 阿部亜生さんに出 田 の7 。 人 ﹁男女七人夏物語 ﹂となる 、 、 やと 見えたが 増 渕 日井組 は 日程をす らし て の個人旅 行 、 とな り グ ループ 旅行は残る 。 4人と相成 った そして始ま る ﹁ナポ リ ・シチリア 男女 。 四人 の旅物語 ﹂ 一 ナポ リ それは 一 吾■ ︿ mCじ 並 本 夫 妻 と 私 の3人が ナポ 、 。 リに書 いた のは 5 月 9 2日 ユー □圏と いう メリ ット でミ ュン ヘンで乗り換 え の際 入国 、 手続き を済ませ てあ る ので 0 すポ リ空 港 到着 のほぼ 3 分 、 、 後 には 中央駅歪近 のホ テル メルキ ュール ・ナポ リ ・ガ リ 。 バルデ ィーに入 っていた 、 阿郡さ ん 日井さんは昨晩 から ここに泊ま っておられ る し、増 渕さんも この日に合 わ 。 せ て近 辺 に お ら れ る は す 、 我 々 の到着 を待 って このホ 。 テルに集合と決ま っていた 、 さ て LSYナポ リ大集合と 。 な る のかならぬ のか 、 部屋に 入り ますは泊ま っ ている力 衆 の部屋 に電話をす 。 ると ・・いた いた 荷物も解 金 かす に 下 の ロピ ーに集合 阿 、 部さ んは前 日だが 密井さ ん はも う3適間近 く前 にイタ リ 、 ア入りして ある こちを 回ら 。 れ ている これま で毎 日雨だ ったとか、 あそ こは こうした 、 ほうが いいとか 色 衆旅 の攻 、 皓方 法を同 っている内 に あ っと いう間に時 間が 過ぎ た。 。 あれ? 誰か足りな い 7 人 で撮 る予定 の写真 に6人 じ 、 。 か いな いのが と ても残念 0 。 翌 3 日 四人組 の南 イタリ 。 ア旅 行開始 ますほナポ リ郊 外 のカゼ ルタ ヘプ ルボ ン家 の 。 王宮を観 に行く だが 広大 な 室目は少々管理費 不足 のよう 、 で こ れ を ベ ル サ イ ユや シ エーンプ ルンと並 べようとす 。 る のはち ょ っと無理が あ る 私たちは馬車と し ゃれ込んだ 、 のが 災 いし て 庭園は中 ほど 、 ま でしか行かなか ったが こ こは是非 ミ ニバ スに乗 って 一 番奥 の大滝 ま で行くべきだ っ 、 。 た 見学後かわ いい町に出 て 。 初め て4人甑 っての昼食 レ 、 スト ラ ン マ ツサ ・ダ ルー8 48 の緑あ ふれる中庭は シ ャ 、 、 レていて 料理もお いしく ますは今後 の旅 の成功を 期 し 、 。 て 白 ワインで乾杯 。 年後はナポ リ見物 阿部さ んは前 日にすポ リ全部を歩き ArercllFe Napdi Gattbaldl て L S Y ナ ポリ集会 ロングステイ横浜 男女四人の旅物語 ︿それ は こう し て始 ま った ﹀ L S Y に 入 って何 年 に な る 。 か 世 界 を 熊 す る便 ︵よす が ︶ 、 に と 楽 しみ に し て いた のが 、 、 ま こん な と ころか そ ろ そ 棚 削 ・ シ甲 解 ろ潮 時 か と 愚 い始 め て いた 矢 、 先 南 イタ リア に 行 き た いと 、 言 う 私 に費 同 し てく だ さ る ま た は そ のふ り を し てくだ さ 。 1 る方 々が 現れ た 昨 年 1 月 の 。 総 会 の後 の食事 会 の こと だ イタ リ ア の資 料 を 出 ほど お 持 、 ち の藤 本 さ ん 歴史 大 好 き 臼 、 。 丼 さ んだ そ れ に 先 立 ち 立 、 川 さ んは も う 2年 も 前 か ら 一緒 に 行き ま し ょう ! と お っ 。 し ゃ って くだ さ って いる こ のチ ャ ンスを 逃 す 手 は な 。 、 い ﹁ほん と です よ 日だ け じ ゃだ め です よ 1 ﹂。シ ツ コイ 私 、 。 は 食 い 下が る ﹁い い です ね え 行き た い ですね え ﹂と お 世辞 で つ い言 って しま った お 気 の 、︲ 毒 な 方 衆も 3 っ込 みが つか 。 。 な く な った様 子 シ メ シ メ 、 □ ったと のこと で 残る 3人 でま す中央 駅か らタクシ ーで 。 サ ンタ ・ キ アラ数会 へ向 か う 、 ヌオ ーボ 教会 続 いてジ ェス ・ 、 サ ン セ ヴ ェー ロ礼 拝 堂 サ ン ・ロレ ンツオとサ ン ・パ オ 、 日の両 マ ツジ ョーレ教会 そ して最後 にド ゥオーモと、す ポ リ の旧市衛 スパ ツカ ・ナポ 、 リを歩 いた のだが 佳代夫人 、 は教会ば っかり とご 不満 の 。 様 子 私は教会もせせ こま し 、 い通りも面白く 個悟も の時 。 間 を過ご したか ったほどだ 、 一言 でいえば すポ リは 不 。 憲 な 力 の密 頭 に浮かぶ 議 魅 。 ユ的co と い う 言 葉 の は ゴキ ﹁スリ﹂だ の ﹁ ご み の出﹂だ の散 衆 いやな ことを閣かされ 、 ていたが 私は少 しも違 和感 。 を持 たなか った カ イ Bのバ ザ ールでは 早く逃げ 出 した く 、 て 同行 の度人に つまらな い 、 。 人 と 言われた のに 、 そ の晩夕食時に 増 渕さ ん 、 。 が現れ る まさに ﹁何々 何 。 とか のご とし﹂翌早朝に帰国 、 の途 に つく 臼井夫妻を除 いて 5人 で食事。またまた旅 の成 、 功を祈 って 乾杯 ! 増渕さんと夕食 ヽ1月 第o3号 (秋号) 2012年 五″賀品り ,研け θみa247(ht「 〃WWW geccttesjp湾 ongstayyokohama/) ロングステイ横浜 会報 ア マルフ イ ツレ ント﹀ ︿ 、 ︲ 3 日は電車とバ ス おまけ 、 に船 にも乗 ってポ ジ タ ーノ 、 アマ ルフ イに行き ソレ ント 。 ま で戻 ってそ こに1泊す る 、 そ して帰りにポ ンペイを観 て 。 も う 一度ナポ リに帰る計画だ この計画は 元々ナポ リ6泊と 、 いう のが 基本にあ って 色 々 勉強 した末 の希望と そ の元々 、 の計画 の摺含せ でこうな った 。 と いうと ころだ 結果から み 、 ると 私は 日井さんが提案 し 、 た ように ナポ リ の後半を ソ レ ント泊 にする のも よか った 。 と思う すポ リ6泊と い って も実際 のすポ リ観光は2日ほ 、 、 、 ど で 後 はカプ リ ポ ンペイ 、 ア マルフ イなど の観光 であ り それら の場所にはナポ リか ら よ りむ しろ ソレ ントから のほ 。 うが 近 い 最後 に シチリアに 移動す るとき の列車 インタ ー シテ ィ ︵iC︶が ナポ リ中央 駅か ら出る関係 ですポ リ違 泊 、 の計 画にな った のだが l C は ア マルフ イの先 のサレルノ 、 でも止ま る ので そ のあた り 、 をよく研究すれば よい案が 、 。 出 ると思 う それに すポ リ 、 の宿はご みご みした衝中か 宿泊料が 高 いサ ンタ ・ルチア 、 か で ツレ ント のほうが 磨も 。 探 じやす いのではな いか 私 たちはすポ リの後半 3日間は サ ンタ ・ルチア の小さなホ テ 、 ルに泊ま った のだが これは 難 しい選択肢 の中 で結構 うま 。 く い ったほうだ ろう 。 話を戻そう 私たちは荷物 、 をガ リバ ルデ イーに預け 1 、 泊 の必需品だけを背負 い ま すヴ ェスヴ ィオ周遊 鉄道 でソ 。 レ ント ヘ そ こから バスでボ 、 ジ タ ーノ ヘ行き 後は船 でア 。 マルフ ィヘ向か った ア マル フ ィは そ の書 イタリアの四大 海浮都市 の 一つと し て栄 えた 、 町で 繁栄は海からや ってき 、 た だ からアマルフ ィは是非 海から訪れ ると問 いていた の 、 、 。 で 船 に乗れ て 私は満 足 この船が ど のような スケジ ュールな のか、ネ ツト でも晴 、 報が 曽 無に等 しく は っき り 、 した ことが 分からす 心配 の 。 種だ った だが そ こはLSY 。 集団旅 行 の強み 船が 間違 い なく出 ている ことをナポ リで 、 日井さ んから聞 いていた ので ポジ タ ーノで費 心 してバ スを 。 下りる ことが できた次第 おもち ゃのようにかわ いい 、 ポ ジ タ ーノ 少 し観光客慣れ し ているア マルフ イ。どち ら も絵蕪 書と同じに美 しい港 町 。 だ 散 々 テレビなど で見慣れ 、 た場所 で そ の場に自分が い 。 る のが 不憩議な気が した ポ ジタ ー ノ 、 帰り は ソレ ントま で また 断崖 の上 の細 い道 を バスで戻 、 り 今夜 の借グ ラ ンド ・ホ テ ル ・ヨー ロ ツパ ・パ レス ヘは 。 駅から歩 いて5分 この旅行 、 略 一の四 つ皇ホ テルで ソレ 。 ント特有 の岸壁 の上に建 つ 夕方 にはウ ミネ コの鴫き 声を 。 聞き なが ら テラスで食前 遷 少 しば か リゴ ージ ャスな気分 。 を味わ う 岸壁 の下にプ ール 、 が あ り そ こへは エレ ベータ ーで下りる。沖 には大き な白 、 いク ルーズ船が 停泊 し 夜 に 、 なるとそ の船 に明か りが 灯り 、 朝には 他 の国 へ出航 した の 。 、 か 船 の姿は見えなか った 翌朝再度ヴ ェスヴ ィオ周遊 、 鉄遣 に乗り ポ ンペイに向か 。 う 駅 の地 下でます荷物を預 、 、 け さ て いよ いよ遺跡見学 、 と張り切 った のだが 周囲 の 、 。 様 子が 何かおかし い な んと 今 日は遺 跡鶴係者 のシ ョーペ 、 □ つま リイタリア名物 のス 1 トラ イキだと いう。1 時半か 、 らは 開くそうだが 2時間も 、 無駄 にする のはお しいと 今 。 日はナポ リに戻る こと に決定 、 さ て くや しい のは預けたば 。 か り の荷物 ほん の数 ユーロ 、 。 とは いえ 気分が 悪 い そ こ 、 は百戦錬磨 の阿部さん スト 、 、 だそう で と交渉す ると な 、 んと 預かり栂を返 してくれ た! 似たような ことが この 。 後も数回あ った イタリアで 、 は少額 の返金 でも 言 ってみ 。 るほうが いい ポ ンペイ見学が時わすナポ 、 、 リに戻 り ますは宿 を サ ン タ ・ルチア のヴ イラ ・マルゲ 。 リータに移 した ヴ オメ ロの 丘 の中腹 に建 つ個人 の館を改 、 造 したホ テルで 部屋 によ っ 、 ては海も 見え そ この住 民に な った気分が味わえる小さな 。 唐だ 建物がお い ので排水闘 、 係 に少 々難 あ りだが サ ン タ ・ルチア で泊ま ろうとすれ 、 、 、 、 ば 料金 か 場所か 設億 か 。 何かを強慢せねばならな い 、 チ エツクイン後 ますは地 下鉄 で2駅 目 の ﹁目立者古 学 。 博物館 ﹂ へ 現地 で見られな 、 か ったポ ンペイから の発掘 品 ギ リシ ャ ・ローマ時 代 の大理 。 石彫刻 などを見学 さすが 質 。 の高 いも のが 揃 っている お 昼 は お い し いパ ニ ー 二 ︵イタ リア式サ ンド イ ツチ︶ 、 。 を食 べ 年後は阿郡さん休養 残る3人 でサ ンタ ・ルチアカ 、 、 。 面見物 ヌオ ーヴ ォ城 王宮 、 サ ン ・カ ルロ劇揚 最後 に卵 城を 見 てガ ンプ リヌ スでド ル 、 チ ェ ︵お案 子︶を食 べ 一体 。 み 後 はウ ンベルト ー世ガ ツ レリアを通 ってフ エクラ ︵ ケ ーブ ルカ ー︶でホ テルに帰 る ポンペイ ・レッドの壁画 、 、 が このフ エクラが 丘に広 、 が る この衛 にはと ても便利 で そ の後も 大 いに利用する こと 。 になる カプ リ﹀ ︿ 。 6月2日はカプ リ見物 ﹁ 脅 、 の洞題 ﹂に関しては 出発前 、 、 から す んなりとは 入れな い 、 天気を選 べ カプ リ港 に替 い ここで ﹁カ ンパ エア ・ア ル テ ・カ ード ・プ ラス﹂ のこと 。 を書 いてお こう ナポ リにも 種々の旅 行者 用 の乗 り物割引 。 カ ードが あ る それらは本当 、 に使 いこなせる のか 却 って 割高 に つく のではと迷うと こ 、 、 ろだが 私たち の場合 この 7 カ ード の中 で 2 ユ ︲ 口 の 3 、 日用と いう のを買 い 6月1 、 日ま で の3日間 すポ リ市 街 、 、 はもと より カゼ ルタ ア マ 、 、 ルフ て ツレ ント ま で の電 、 、 車 バ ス フエクラに至るま 。 、 で す べてに利用した そ の 、 上 観光地 の入場料 の無 料だ 、 の割 引だ のも ついており 大 、 いに活 用した上 毎 回乗り物 の明符売 り場に並ぶ ことが な 。 、 く これは大変便利だ った ヌ オー ヴ ォ 明 (秋 暑 ) 第 33号 11月 2012隼 ロ ングステイ横浜 会報 /www揮 octtesjp力 ontttayyokohama/) てhttpノ Lω 貿 品印 乃胤力α例 ヴ ェスヴ ィオには 二つの頂 、 が あ るが 面白 いのは ここか ら見るヴ エスヴ イオは左 の頂 、 が高 く すポ リか ら見ると右 、 が高 い つまり反対側か ら眺 。 め ていると いう ことだ が そ のま ま 船 に 積 み 込ま れ て メ ッシ ーナ 海 峡 を 演 る のを 経 。 験 した か った か ら だ ナポ リ ・シ チ リア 間 は 列車 の他 に 飛 行 機 も 船 も 就 航 し て 。 、 いる 私 た ち は 列車 イ ンタ ー シ テ イー ︵I C ︶ でタ オ ル 、 ミ ーナ ま で お よ そ 7時 間 の 。 旅 を 楽 し ん だ 一つには 列 車 ︿シ チ リ ア ヘ﹀ 、 ポ ンペイ見学を終 えると や はりすポ リ見学 の大仕事が 終 。 わ った気が した そ してもう 、 。 明 日は シチリア ヘと向 かう ポンペイ遺跡から見た ヴェスヴィオ山 ナポリ湾から見た ヴェスヴィオ出 、 潤窟 の後 の 吸 い込まれそ うな着 い海を見なが ら の国食 、 も ト ラガ ーラ展望台か ら の 、 。 眺めも どれもお し ゃれ 小 道を 埋め 尽くすお店 もお し ゃ 。 れ 欽 んだ 白 い缶ビ ール のプ 。 ルト ツプ が薔 いのもおし ゃれ 、 カプ リはさすが セ ンス のよ 、 。 い お し ゃれな島だ った ポ ンペイ﹀ ︿ 先 日入れなか ったポ ンペイ 、 。 には 6月3日に再度挑戦 さすが 世界中か ら の ツア ー魯 、 も多 く 入揚券売 り揚は混み 。 合 っている も っと注意 深く 、 売 り揚近 辺を調 べれば 遺 跡 、 内 のガ イド ツア ーや イヤ フ オンガ イド の貸 し出 しなど に 、 も気 づ いた のだ ろうが そん な ことは少 しも者 えすに歩き 。 出 し てしま った のが 失敗 の元 歩き なが ら本を 調べる のも結 、 、 構 面倒 で ここはやはり 何 らか のガ イドを利 用する べき 。 、 だ った 遺 跡内は非常 に広 く カ ンカ ンに照る太陽を遮る木 。 陰も ほと んどな い ガ イドに 、 従 って効率よく 深 い内容を 。 案内 し ても ら ったほうが よ い 一見 ローマのフ オロのよう 、 、 な場所だが これが全部 ヴ ェスヴ ィオ山噴央 の灰に埋ま って いた のだ o・曽が 朝晩仰 ぎ 見 て諸 りと していた美 しい 、 出が 章音 と共に真 っ赤 な炎 。 を吹き あげ た のだ そ のヴ ェ スヴ ィオ山が 今 日はたおやか 。 な姿 を見せている 、 列車はなかなか立 派で 一 等車 両は横に 二人掛けと 一人 、 掛け の座席が並 ん でいるから 広さは新幹線 のグ リ ーン車並 、 。 みか 各 衆 の座席 の前に 飛 行機 のような小 テーブ ルが 出 、 。 て 座席 も快適 、 昔話 に花を咲かせ 居眠 り ですポ リ の疲れを解消 し てい 、 る内 に あ っと一 言う間に時 間 、 が たち セ ント ・ジ オバ ン二 、 と いう駅を過ぎ ると 列車が 、 スイ ッチバ ックを繰 り返し 、 2 3両す つに切り離され て、 。 連 絡船 に積 み込まれ ていく 乗客 は列車を降 り て狭 い鉄階 、 段を 上り 船 の甲板 へ出 る こ 。 、 とが でき る 右 に本 上 左 に シチ リアが 見える。 こんな狭 、 い海峡だ 日本ならすぐに橋 、 を架 ける のだろうが そう し 。 な い のが イタリアだ そ う違 、 くな い曽 本土と シチリアは 、 敵 同士 で 戦 いを繰 り返 して 。 いた 歴史が ある のだ 甲板 で強 い国に峡かれ て海 、 0 峡を演 る 3 分 ほどは 長 い列 。 車 の旅 では 一時 の楽 しみだ 周り の様 子から船が メ ッシ ーナ港 に入 ったよう で、 乗魯 。 は 三衆 五々と列車 へと戻る と ころが なかなか戻 らな い人 。 が 一人 しば し後 にや っと現 、 れた並本氏 さすが に晋 笑 い しなが ら説明し てくれた こと 、 によれば 港 の写真を撮 って いたら 列車 のドアが 閉ま って 、 しま い 引 こうと 叩 こうと関 。 かな いと いう しば らく して 、 気づ いた車撃が や ってき て 、 手 で開け てくれたそうだが 、 こうし て乗り損ね る人も 当 。 然 いるだ ろう 船内 アナウ ン 、 スなど は 英語 では 一切なか った。 イタリア語 でもあ った 。 のかど うか 、 ともかく全員無事 再び 列 、 車 の魯 となり 地中海 の業 し いリゾ ート地タオ ルミーナ ヘ 、 。 向 け て 再度出発生相成 った ︿ タオルミーナ﹀ タオ ルミーす の億 は ベ ル ・ 。 ソ ツジ ョルノ ここは 三 つ豊 とは感 えな い素晴 らしい立地 、 、 で 青 い海も エトナ山も 咲 、 き誇 る花 々も 独 り占め した ような気分 にさせ てくれ る僣 。 、 、 だ 初め 駅からも 町からも 観光地 か らも遷 いかと心配 し 、 た のだが そ のどれからも適 、 当な距離 で もあ るん町は徒 。 歩圏内だ 海 に面する出 の中 腹 に へば り つくようにあ る箇 、 で 丁度満 月だ った こと もあ 、 、 り 夜 に月 の光が 流れ る川 のように海に映る様 の美 しさ 、 。 は ど う表現 したらよ い のか Hotel Bel SogttOrno たら モータ ーボ ート で行 <か 、 、 バ スで行くか ああだ こう 。 だ と 言われ ていた だが ラ ッ 、 午 ︱な 私たち のこと 天気は 、 。 最高 署 いほど それに バス が いいと いう日井さ ん の憩 告 。 もあ る フ ェリーが カプ リに 、 到警 すると 迷う ことな くフ 。 エクラ で上 の広 場 へ そ こか ら バスを 二つ乗り替 えると い う のが あ よ っと 面倒だと 思 っ 、 ていたが なんと青 いホ ロを かけたかわ いいタクシ ーが あ 。 る ではな いか これ こそ 4人 。 旅 行 の強み タクシ ー代は パ ス代 x4人 x乗 り 書 え と 大 し 。 て違わ な い 絶壁 の上を快適 。 に飛ば し て潤鹿 の入り 日ま で そ こか ら細 い階 段を 下ると 下 、 はす ぐ洞議 の入り □で 洞窟 ほ 入る小舟がも う待 っている 。 ではな いか 港 からボ ート で来た人たち が 小舟 に乗る順番待ちを して 、 いる のを横 目で見ながら す 。 ぐに洞窟 に入る ﹁脅 の洞窟 ﹂ 、 な ん て 有 名なだけ で ・・と 、 も 闘かされ ていたが ど う し 、 てど うして これはやはり不 、 思議な簡 で 実世界 に紛れ込 。 んだ ような経験だ 洞種入りを待つボー ト魯 11月 第33号 (秋号) 2012年 /www geocttes」 ongsttyokohama/) ロ ングステイ横浜 会報 (httpノ p力 五α貿崩印 路氏oれo開 タ ク シ ー で上 った カ ス テ ル モ ツラ の小 さ い要塞 か ら 見 た 海 岸 や エト ナ 山 の景 色 ︵こ こ 、 は パ ス の暗 闇を 調 べ てお く か 帰 り ま でタ ク シ ーを 待 た せ た 、 ほ うが い い︶ さ ら に エト す と 海 を 背 景 に した ギ リ シ ャ劇 揚 、 の遺 跡 映 画 ﹁グ ラ ンブ ル ー﹂ が 撮 影 さ れ た イ ツ ラ ・ベ ッラ 、 、 の海岸 と ど れ も 只 短 美 し 。 い こ こに 泊 ま った のは 大 成功 、 。 で よ い愚 い出が でき た ︿ カタ ーニャ ・シラク ーサ﹀ カタ ー ニャは便 利だけを者 え てヴ ィラ ・ロメオと いう駅 、 前ホ テルに泊ま ったが これ 。 が 予想 以上 の成功だ った き 、 れ いとは言 い難 い街中 の 古 、 い館をホ テルに したも のだが 魯奎 に囲まれた中庭 にた っぷ 、 りと緑が 植えられ ていて 気 。 持 ち のよ い空 間が でき ている カタ ーニャの街は遊園地 の ような観光ト レイ ンで回 った 、 が これは地面 の凹凸を直 に 、 受け て激 しく上 下に揺れ るし ガ イド の英 語も上 手とは言え 、 す そば にあ った観光 バ スの 。 ほうが よか ったかも しれな い 、7 かな り大き い街だが 1 世紀 の エトナ山大噴火 で進積 した 、 黒 い溶着を使 って 綿密 な計 画 の下に作 られたブ ラ ックバ 。 ロ ツク の衛な のだ と いう そ 、 う いえば 主だ った建物はど 、 れも黒と 灰色 で 独特 の努囲 。 気を醸 し出している 翌 日はお疲れ の阿部さ んを 、 残 し 残る 3人はバ スでシラ 。 ク ーサ ヘ このカタ ーニ ャ中 、 央駅 のバス停が 働者 で 広 い 、 上 に切符売 り揚 バ スの乗り 場などが 一か所 でなく少 し離 、 れている ので ここは事前 に 下調 べを し てお い 一 て 正解 だ 一 った 。 一 シラ ク 一 ︱サ では 一 ギリシャ 十 揚 など を 一 見 学 した 一 、 後 タク 一 。 シ ーでオ ルテ ィージ ャ島 へ ド ウオ ーモから歩き始め てア レト ウーサ の泉 とか アポ ロ神 、 殿とか 島 をほと んど徒 歩 で 、 一周す るが それ ほど の感慨 、 。 はな い またバ スで1時 間余 。 カタ ー ニャに戻る 最 後 の晩 は ガ ン ベ ロ ー 二 デ ス の広 一 ア ルキ メ 一 屯 暁 一 囲 が タオルミーナ海岸とエ トナ山 ホテルから 、 ︵これは エビだが 東北ガ ン 、 バ ローに似 ている ので 以後 これが 我々 の合 言葉 にな る︶ 、 を食 べて の帰り道 道 の危々 。 に立 つ女性を何人も見た お 。 姉 サ マも いる こう いう場所 には 女性ば かり の旅 では決 し 、 て近づかな いから これを 見 、 た のは 私には今回 の旅 の収 。 種 の 一つだ った ︿ 生咀0パ レルモ﹀ DOの一 カ タ ー エ ヤから最後 の宿泊 。 地パ レルモには パスで行く 、 電車もあるが 時間が倍 くら 。 いかかる 電車は海岸線をた 、 ど るが パ スは内陸を対角線 。 に走 るか らだ パ レルモ のホ テ ル は 中央 駅 か らも 観 光 の中 b であ る ク n 。 t a魔 ア ト ロ ・ i 通 りにあ る ア ンバ 。 シ アト リ 私 、 た ちが こ こを 見 つけ た 時 に は す でに ネ ツト の紹 介 サ イト で 。 は 完 売 だ った だ が ホ ー ム ペ ージ を 見 る と な か な か よ く、 ぜ ひ こ こに した いと 思 った の 、 で 直 接 ホ テ ルに メ ー ルを 入 。 れ て 取 った のだ ど こか に パ レ ル モ 一の人気 と 書 い てあ っ 、 。 たが それも納 得 のホ テルだ 、 ここに 4泊だから 焦る こ 、 とな く滞在 し 観光する こと 。 、 が できた 初 日は地図を手 に 4 2 時 間 乗 り 放 題 の 三階 建 て 、 観光 バ スで パ レルモ全域を 、 。 回り 様 子を見る 2日目は 同 じバ スに追加 料金を払 って モ ンレア ーレ の見事な モザ イ 、 。 クを 見に行き しば し絶旬 そ の帰 りに見た ノルマン王宮 のパラ チ ーナ ︵つま リパ レ ス 、 チナ ︶礼拝堂も 言葉 に尽く 、 せな い感覚を味 わ ったし ど う しても見たく て 一人 で走 っ て行 った マ ッシモ劇 揚もまさ ゴ ッド フ アーザ ー皿﹂ で に ﹁ 、 見たまま で 自分が そ の場に 。 居る 不思議な感 動を味わ った 人 口に対 し て穂 くほど の数 の 、 教会 それ らが 末だ に生活 の 礎とな っている この地 の人 衆 、 の生活 背負 っている歴史 を 、 、 肌 で感 じ パ レルモは ど こ 、 か懐か し い 買筋SE い と い 。 う言葉が 浮かぶ街だ った アグ リジ エント﹀ ︿ 、 パ レルモ滞在中 の1日 電 、 車 でシチリアを縦断 して 南 、 海岸 の街 アグ リジ エント ヘ 。 行 った ギ リシ ャ文化華やか 、 な りし頃 この島が 地中海 の 中心 であ った こと の象徴 のよ 。 うな遺 跡 の街だ 紀 元前 5世 紀 のカ ルタゴ の奥 来とそ の後 の大地 震 で崩壊 したと いう こ 、 とだが これが全 部機能 して 、 いたとき には どれほど華 や 。 かな大都市だ った ことか い 、 く つも の神 殿 の跡に ツワモ 。 ノ共 の夢を見る こち ら遺跡、 向 こうに新市 、 そ の帰り道 車窓か ら見た 、 、 不毛とも いえる出 畑もな い 、 牧揚もな い荒地 私には これ が シチリア のす べての原点 の 。 ように思えた ここで他 民族 の侵皓 から身を守 って生き て 、 いくには それな り の生き方 。 が 必要だ った のだ ろう そ こ に マフ ィアが 生まれる土壊が 。 あ ったと いう ことだ 雪 首茨 墓 、 6月 2 1 日 旅行を計 画 した 、 当初 より す っと重くbに残 、 るも のに満 たされ て 私は シ 。 チリアを後に した 、 ゴ ツド フ 出鵜 ﹂﹁ 帰国後 ﹁ アーザ ILグ ラ ンブ ル IL 二 ューシネ マパラダ イス﹂ のD 。 VDを 見直 した 現地を 見る 前後 では こうも感 動が違 うか 。 、 と 改めて感じた ことであ った ヨンコルディア神殿 11月 窮 33号 (秋号) 2012年 ロ ングステイ横浜 会報 にsjp力 ontttawokohama/) /www reocた (httpノ 乙伊質 品切 比たoみα初 。 ︿いく つか のこと﹀ 0 1 年 前 に 夫が 亡 く な って 、 以来 私は いつも女性とだ け 。 旅行 を し ていた それが 今 回 、 は男性とご 一緒 の旅行 で プ ラ ンの立 て方から行動 の仕方 、 ま で 何かと い つもと違 うと 。 ころが あ った お 二人とも他 人様 の夫 である ことは百も承 、 知だが そんな こととは全 く 、 剛 の次 元 で 旅 行中 の男性と の日常 に新鮮なも のを感 じた も のだ は旅 行 の成 否を決定する重要 。 な要素だと思 っている だか ら私はたぶん他 の方 の何倍も 、 。 の時 間を使 い 想耐強く選ぶ そ し て予約サ イト にある リク 、 エスト の欄に 財す何かを く 。 ことにし ている 海 辺や川に 臨む ホ テ ルならそれに面した 、 部屋をとか す イス ・ビ ュー 、 の部屋をとか 友人と同室な らダブ ルベ ツド でなく ベ ツド 、 は必す 2台にとか バスタブ 。 が ほ し いと か ホ テ ル側 と し て 、 は リ ク エスト のあ る魯 と 何 も 言 わ な い魯 が い 、 れ ば か な うな らば リ ク エスト を 入れ た 書 のほ う に 希 望 の部 屋 、 を 回 し 何 も言 わ な い魯 には 残 り の部 屋 を 回す 。 だ ろう 必 要な 。 らば 手 紙 もを く 今は メ ールと いう便 利な ツー 、 ルが あ り いう いう電話や F axを 入れ た時 代よりす っと 。 簡単 にな った それが 効 いて 、 か これま でホ テ ル選び で失 。 敗 した ことはほとんどな い 、 、 これ に関 しては 皆様 少 し 、 おと な しすぎな いか 受け3 、 。 すぎ な いか と感う時が あ る 。 も う 一つ 旅行好き のLS Y のお 短に してはなぜあまり 利用 しな い のかと不思議 に愚 、 。 うも のが ある もち ろん 使 って いるよ、とお っし ゃる向 。 き もおられ ようが 飛行機 会 。 社 のマイレ ージ サ ービ スだ 飛行機 に乗 ったとき のマイ ル だけを貯 め ている方はあ るよ 、 うだが 私は 日常 に使 うク レ ジ ツトカ ードに マイルア ツプ サ ービ ス ︵ 利用価格 の五割増 し のマイルが付 く︶を付帯 し 、 てお り クレジ ツトが使 える す べ てをそ のカ ード で支払 っ 、 、 、 。 ている 電気 ガ ス 水道 、 、 、 新 聞 NHK ETC 保険 な ど は そ の カ ー ド で の自 動 支 、 払 いだ し 日常 のスーパ ーの 。 買 い物も当然カ ードだ する と 2年に 一度<ら いは ヨー ロ ツパ 行分くら いのマイルは貯 。 、 まる 多 少年会資が かかる し クレジ ツトを乱用すると いう 、 危険はあ ろうが それを 利用 し ての旅 行は、ち よ っと得 し 。 た気 分 で何かうれ しい 今回 のイタ リア旅行も そ の特典旅 。 行だ 、 で いくらかか った の?と 。 言われ そうだ そ の辺はかな 、 、 リアバウトだが 飛行機 お 、 0 主産 は剛にし て 約 2 万円と 。 いうと ころか 食 べた いも の 、 は食 べ 飲 みた いも のは飲ん 、 で の費用 で 特 に節約 した党 、 えは な いが 円高 のおかげ で 。 す いぶん安く済 んだようだ こんな旅 行ならまた 是非 じ 、 た いと 次 の機会 を狙 ってい 。 る私 である ︿了﹀ 壷軍 番辛 静 理あるのか 戸塚分会 増 渕 建 次 郎 5月 4 1 日か ら 4 週 間 か け 、 た イタリア旅行には ビ ート 。 、 たけ しが からむ 彼が 6 0 0年前 の1412年 に生まれ 、 た ある条 件化 での正三角形 ピ エロの問題﹂ 辺長を求める﹁ 。 を解 いた 、 そ こで ピ エロで知られ る 左の写真︶を 目指 ウ ルビ ーノ ︵ 、 し ローマー泊後、先す、 ペ 、 サ ロに2泊 し ウ ルビ ーノの 。 古城 にあ る大学を訪れた 、 、 また 旅行代理店 エデ ンで ボ ロー ニャからカタ ーニャま 、 0 で の航空券を求め 5月 2 日 ︲ 。 と 2 日 の宿 を予約 ・‐` ■■ ゃ軍轡 個人的に 男 性と旅 行な ど す れば 問 題 にな ろ う 、 が それ が 成立 し 、 た のも こう いう 会 に入 っ て いた か 、 ら であ り そ の意 味 。 でLSYに感謝 している や 、 は り この世は 男が いて女が 、 い て それ でハ ツピ ーな のだ 。 と感 じた 日々だ った 。 ホ テルの予約 に ついて 一言 今回は全部 インタ ーネ ツト の ホ テル紹介サイト で予約 した 、 が 膨大な数 の中か ら好 み の 、 ホ テルを選ぶ のは 想耐 のい 。 る仕事だ だが つまらな いホ テルに当た ったとき ほどが っ 。 か りす る ことはな い ホ テル これがシチリアの大地 11月 第33号 く 秋号) 2012年 とり竹 品卸 脇 ο力α初 (ht「〃― ge。 。 た にs3p力 ongstayy9kohama/) ロングステイ横浜 会報 国鉄 イ ンタ ーシテイ 一等 で 、 ボ ロー ニャに行き 予知 し て 、 いなか った見本市 のため に 3泊す るホ テル探 しに苦 労 し 、 。 た 幸 い ポ ロー ニャ大学 に 。 近 いホ テ ルに泊まれた 、 大学 で 空間曲線 を テーマ 、 にし ている駒手と会 い 当方 、 の意図を伝 え 今後 の交信 を 。 約す 、 空路 でカタ ーニ ャに行き 鉄道と バ ス の駅に近 いホ テル 。 。 に入る ここには 3違泊 した 、 そ の間 日井夫妻が 3違 泊中 、 。 とは 全 く気付かなか った 、 日帰 り のシラク ーサ で 眼鏡 、 、 。 を忘れ 以後 苦労した 、 、 バスで パ レルモに行き 、 2泊。パ レ ルモ大学 で 幾何 、 喜 円 の教授と会 い 今後 の交 。 倍を紬す パ レ ルモ発 イ ンタ ーシテイ 。 一等 ですポ リに向か う しか し、途中 下車 して、サプ リ ︵ 次 東の写菓︶に3泊。 、 滞在中 に パレルモ の教 授 。 、 に手紙を出す これを ニ ツ 。 、 クが 校 正し てくれた 彼は ケ ンブ リ ツジ英 語検定 の試験 。 。 宮 彼とは サプ リで知り含 う 9日 5月 2 にサポ リ で L S Y の6人と の台流 を約し てい 。 、 た 空き部屋が な い ので 手 、0 前 のサ レ ルノに3泊 し 3 日 。 に互い の無事を確認 でき た 、 、 そ の後 ローマに9泊 パ リ 、 。 に 1泊 し 6 月 = 日に帰 国 3年前 のスペイ ン旅行と同 11月 第33号 (秋号) 2012年 じ意 図 で、今回 の旅 行を 思 い 。 、 立 った それは 日常 の延長 。 を違う風土で震関する試 み 、 初め て の異国 で同志 をみ つけ 、 、 帰 国後 に そ の同意と交信 し 。 前 の日常 に戻る 事前 に旅程 、 を決めな いのは この理由に 。 よる 、 、 愚えば 私にと って 旅行 、 は 目的 であるよりも 手段 で 。 あ った 日常を実なる闘土に 、 。 延長す る 旅が 終われば 新 しい日常が始まる。 、 、 ま た 旅には 出会 いが あ 、 。 る 3年前 には オ ンダ リピ 。 、 アに巡 り台 った 今年は ペ 。 サ ロとサプ リに泊まれた い 、 。 つま でも 心 の中に残る風土 、 。 無論 人と の出会 いもあ る そ のような人とど のような交 。 流が 始まる のか ど のような 。 日常が 震関す る のか あ″ "切 てhttpノ /www.geocに わs3p力 ongstayy9kohama/) ロングステイ横浜 会報 あり智撤り 腕 館 本郷台分会 仁 洋 臼 井 ﹁/ ル度 伊輔穣鍋一 断解 卿 、 、 街道 では 書 も 今も 最も 名 。 前が 知 られ て いる いわ ゆ る 。 古代 の高速道路 である 街道 の建設は紀 元前 312 、 年 古 代 ローマの司政官 ︵コ 、 ンツル︶ ア ツピウ ス ・ク ラウ 、 デ イウ ス ・カ エク スにより 元老院 の反対を押 し切 って始 、 。 められた それ で ア ツピ ウ 。 ス衛道 と呼ば れ る ご 存知 の ﹁ 全 て の道は ロー 、 マに通す ﹂ の言葉 にある そ の第 一にあたる のが こ の衛適 、 で 以後 ヨー ロ ツパ中 に ロー 、 マ衛遣が 設置 され るが 様式 。 は この街道が基 本とな った 第 1 話 ア ツピ ア街 道 の終 点 を訪ねる 、 今 回 は 旅 そ のも のは 他 の 、 方 に 綴 っても ら い 私 は 感 じ 、 た こと 知 っても ら いた い こ 、 と な ど を 断 片 的 に 綴 る こと 。 に しま した 南イ毎i,7 ¬ ―― ―― 、 ローマを出発 し イタ リア 半島 のブ ーツのかかと に当た るアド リア海側 のプ リ ンデ イ 、 シが 終点 で ここには ﹁ 古代 狂の写真ご が建 っ □︱マの階 ︵ 。 ている 、 訪れ る人たちは少な いが 、 歴史 を 理解 し ていて 皆さ ん 。 領き なが ら塔を回 っている 私 も 美 し い 湾 を 銚 め なが ら ︵ 次段の写真︶古 代 に感 いを馳 、 せ 彼らと人種を越 えて共感 し ている のが 不思議 である。 半島 と島 々に囲まれた湾は 古 代 ローマが ここを基地と し 。 た理由が納得 でき る 、 だが 現代 の大型船 では警 、 港が 無 理となり バ ーリが 中 。 心とな った のだ ろう ブ リ ンデ イシは古代 ロ ーマ 、 の時代 には 中近東や エジプ ト航 路 の出港地 で寧事的 に襲 。 要 であ った 中世 には十字 寧 のパ レステナ遠征 の拠点港 と 、 して の役割があり さまざ ま 。 な物語が 伝えられ ている 、 、 現在は ギ リシ ャ 東地 中 海 の島 々やト ル コ方 面 への船 。 の発着所とな っている 、 0 駅前か ら湾ま で 歩 いて 2 分ほど の街並みは手入れが整 、 。 い ゴ ミ 一つ落ち て いな い いわゆ る南 イタ リア の笛とは 。 印象が 違 う 第 2 話 イタ リア 人 の話 好 き 概 れ順賊 囲鞘談難 較 。 話 し方 も上手と いわれる 多 く の民族が そ の地を 通り過ぎ 、 て行き 理解す る手段と し て 会議は聾要 であ ったからな の 、 だ ろうが そ の中 でもイタ リ 。 ア人は特に話好きと いわれ る 、 ただ し 内容 の良 し悪しは劇 。 のこと イタ リア人と い っても 民族 、 的 に多 系統 で 北と南と では 、 そ の混 じり合 いが 異なる ので 、 。 気性 も違 ってくる 今回 旅 した南 イタ リアは イタ リア人 もび っくり1 の話好き の人た 。 ち で知 られ ている 、 以前 航空機内 で2∼ 3時 間も絶 える ことな く話 し続 け る イタ リア人 のグ ループ に会 った ことが ある。話 の内容 は 、 分から な いが 陽気に 楽 しそ 、 う で 多 少うるさ いのが 気 に 、 。 な った しかも 彗睦後 の入 、 国霞査を 通り 空港建物か ら 、 出 て 車 に乗るま で続 く ので 。 あ る 私 のほうが疲れた !そ のエネ ルギ ーは何たる こと か!何を そんなに語し続け ら れる のだ ろうか? そ 証 硬纂 劇 轍 齢謡 り観光中 のこと。 、 そ の日は すポ リ中央 駅か 、 し 出 2 ら を 地 下 暑 鉄 利 用 線 側 の国立善古学博物館 ︵ ポン ベイ遺跡 に興味 の力 必見︶を 、 、 観 て ひと駅先ま で行き サ ンテルモ朔と マルテ イーノ美 術館 ︵入 □前広揚から の眺望 と館内 のバ ル コニーから の跳 次笛あ写真じ 望は素購 らし い ︵ 、 、 を見学 し そ の後 フ エ コラ ー レ のチ ェントラー レ線 に乗 って ︵フ エ コラー レとはケ ー ブ ルカ ーのこと︶海岸ま で下 、 りるため に フーガ 広場駅を 。 目指 す ことに した 無料 の観光地図 で駅 の近く 、 と思われる所ま で来た のだが 。 見あたらな い 員台 の悪 いこ 、 と に 道 を 聞 く のに 適 し た 、 。 人 ?が 通らな い 仕方が な い ゆ っくりと向 か ってくる上 最 。 な老婦人に声をかけた 11月 第 33号 (秋号) 2012年 onEstavvokohama/) ロ ングステイ横浜 会報 (httpノ /www ttcoctteSioな とθ″宮Sraッyotο力α初 私 の間きかたが 悪か った の 。 かも しれな い 観光地図 の行 、 きた い場所を指差 し 駅 の名 前と チ ェ ント ラーや レ線 を 言 、 い 指で 右方 向 そ し て左 を 、 示し 万 国共 通 語 の つも り 、 で 肩を 、 すぼ め て 腕 を 広げ 。 た これ で分 か る だ ろ1 老 婦人 が 話 し始 。 めた 今 、 来 た方 向 を 指 し 示 し 何 や ら 。 説 明 す る 私は 万 国 語 と 英 語 、 交 じ り で そ っち の方 向 か ら 。 来 た と 表 示 した つも り だ 、 今度 は ご 婦 人 は 反対 方 向 を 。 向 い て何 や ら 説 明 し始 め る 、 私 は そ ち ら の方 向 は 明 ら か 、 に違 うと 思 う ので ま た 共 通 、 。 語 を使 う 内 心 で は 海 外 で 、 たび たび 経 験 す る のだ が 知 ら な い のに無 責 任 に教 え る 人 。 が いる のを 思 い起 こした 婦 人 は さ ら に副 の方 向 に ついて も 説 明 し て いる よ う に 思 え る 。 の であ る 随 力 と 時 間 を 費 や 、 した ので だ んだ んと 焦 って 。 くる 、 打 ち 切 る つも り で 話 の途 、 中 だ が お 礼を 何 回 も イ タ リ 、 。 ア語 で言 い 劇 れ た あ あ ︱ 、 結局 駅 はす ぐ近 く 。 に あ った 建 物と 入 □ が想像 と異 、 な り 歴史 を 感 じ る立 、 派なも ので 表 示板は 目 。 立 たな い 私 は そ の建 物を見 てい 、 る のだ が フ エ コラlt レ の駅 と は 思 っても み 。 な か った 無事 に乗 、 車 し てか ら 。 は っと! した のです ご 婦人 。 は 駅を知らな いはすが な い そう いえば気が つかなか った 、 、 が 最初 になんとな く 駅 の 方向 を 示していた のではな い 、 か? 来た方向を 示した のは あ の美 し い美術館と広揚から のすポ リを銚めたか ?反対方 、 向 には 既に見学 した国立者 古学博物館が少 し離れ てある 、 。 のです また 剛方向にはき っと何か素晴ら しい所が ある 。 に違 いな い 明らかに東洋か 、 ら来た観光客に 近く の素敵 な所を 丁寧 に説明 していた の 、 。 だ き っとそうだ あま りに 、 も話 に時間が 過ぎ せ っから 、 な 私 日本 人は 目 的だ け の説 、 明 を 求 め そ の答 え は簡 潔 に 来 る も のと 思 い こん で いる の 。 だ 、 そ うだ ! こ こは すポ リ 名 。 だ た る 所 だ ご 婦 人 は ナポ リ 。 人 の親 切 を 示 し て いた のだ 延 衆 と ! 私は 失 礼 な こと を 。 した のか 、 。 心 と 思 った イタ リ ア の 、 。 財 政 状 態 は 今 大 変 だ 至急 。 の変 革が 叫ば れ て いる 南 イ タ リ ア では 対応 を ど うす る の 。 ︱ 、 う ん 大文 夫 だ ろ うかと 。 だ ろ うか 第 3 話 シ チ リ ア に つい て こ 胸鵡旋 郵索駐盛び貨 的 。 う 東 西 では地中海 のほぼ 真 、 ん中 にあり 南北 ではア フリ カ大陸 と ヨーロ ッパ大陸 を結 ぶ格好 の距離に位 置するか ら 。 である 覇権を争 う為政者 は 、 見逃すはすがな い島だが 意 外にも古代 ロー マと ノルマン 五朝以外 にはそれ ほど重 要視 。 していなか ったように愚う 最初 に この島にたど り曽 い た フ エエキ ア人やギ リシ ャ人 、 は この島 の各所 に植 民都市 、 を築き さ らに西 へと進出 し 。 ていく拠点だ った 古代 ローマ人が 進出 したと 、 きは この畠は緑豊 かな穀倉 、 地帯 で 特 に小麦 の産地と し 。 て ローマを潤したと いう 現 次段 在 の荒地 ?が 広が る最色︵ 。 ︶とはかなり違 うようだ の写宮本 エトナ 山 の大噴火と気候変動 、 の影響 で変わ った のだ ろうが 、 私には今 一つ 納得 できな い 。 でいる 、 約 7 00年間 古 代 ロー マ 、 による島 の支配は ローマを 地中 海 の覇者 へと押 し上げ た 、 と同時 に 島 の住 民も平安 の 。 時 を享 受したようだ 占 代 □ ︱マは この島を緩やかな 形 で 、 支配 した らしく 元老院 の属 州と した ︵元老院 の属州は安 。 定 した地だけを旨と した ︶ 元老院 の支配階級は各所 ほ 、 荘 園を作 ったが ローマに住 劇荘が 世界遺 ん でいた ので ︵ 、 産 にな っている︶ この島 の支 配は実際 には現地 の住民から 、 徴税者 を雇 い 荘園 の管 理を 任せ ていたとされ る ︵元老院 議員とはパト ロー ネとク リ エ 。 ント ス の関係 ︶ 、 この緩やかな支配は それ ま で の文明を結果と して残す 、 ことになり 以後 の支配 民族 に より破壊 は 、 さ れた も のの 他 所と 比 べて ギ リ シ ャや フ ェニキ ア の遺 跡が 多 く 残 る 。 こと に な った 、 また そ の 荘 園管 理 の名 、 残が さ ら に 6 0 0∼ 7 0 0年 後 の スペ イ ンと フ ラ ン ス の植 民 支 配 に 反抗 す る マ フ イア組 織 の 原 点 と な って いる と いう人 。 も いる 本 当 だ ろうか ? 現在 も 人 衆 の 、 中 には 島 に 森が 極 め て少 、 な い のは スペ イ ン統 治 下に 木 を 全 て伐 採 した か らだ と い 、 。 う 事 実 な のか は 不 明だ が こ の島 の住 民は フラ ンスと ス ペ イ ンに は 好意 を 抱 い て いな 。 いと 思 わ れ る (秋号) 、 、 そ の時 代 住民は 困盛 し 、 海外 へ移 民を多 く出 し 新 大 健 アメリカ ヘも多 く のシチリ 。 ア人が 移住した 、 同 じ時期に ノルマ ン人は イ ング ラ ンド ヘ進出 して王朝 、 を築 いている ので そ の 一族 と南 イタリア ヘ進 出 した 一派 とはど のような関係 にな って いた のだ ろうか? あまり話 、 題にはな っていな いが 興味 。 のあ る出来事 ではある 、 想 像するに 南 イタ リア ヘ 、 進出 した 一派は 言 い伝 えに 、 真実性が あ る のなら 十字 軍 、 に参加 した のだか ら ノルマ 、 ン族 の本流 ではな く イ ング 、 。 べきは ノルマン支配 であ る 、 ﹁ 世紀 初に ノルマン人騎 士数人が 十字寧 に参 戦 してパ 、 レスチすか ら の帰り プ リ ン デ ィシ港か ら北上 して改郷 の 、 ノルマンデ イヘ戻る途中 南 イタ リア の小さな出村に宿を 。 と った そ の村人は イスラー ム教徒 に支 配され てシチリア か ら逃れ てきた人々 であ った 、 。 と のこと そ こで 村人から 、 シチリア暮 選を頼まれ 約束 、 。 する 数年後に ノルマン騎 、 士団が 本当 に シチリア ヘ上 、 、 陵 し イ スラ ーム数徒を破 り ノルマン玉朝 へと発展したと 。 いう これが ノルマ ン進出 の 。 言 い伝え であ る 北 プX 支 醐 報 輸 銃 鞠 ∞ 嬢 腔 11月 第33号 2012年 ングス主ゴ横浜 会報 角初解 (htpノ/― ‐ cttesjp力 ongstayyokぃ ama/) ロ g● 。 Z切 管 説り 脇 ラ ンド ヘ進出した 一族が 本流 だ ったと善 える のが 妥当だ ろ 。 、 う な にせ 十字 軍 への参加 やキ リスト教騎士団 への加 入 者 は 一族 の相続から外れた者 。 たちが 多か った のだから る △ フ r鳩厳願 列妙確輸舶 つ ている建築物は ノルマン主朝 。 以後 のも のが多 い 私は この 、 島 を知れば 知るほど ノルマ ン王朝が 残 した多 く の価値を 、 知 ったかぶりを してでも 伝 。 えた くな る シチリアを征服 した ル ツジ 、 ーロ ︵ 後 の4世 兒はすポ リ を攻 幡 したすポ リエ︶は 見 の 、 死後 すポ リと シチリア両国 、 を支配 し ル ツジ ー □2世に 初代 ノルマン王で繁 継が れ ︵ 、 栄 を極め る︶ そ の娘 の子 ・フ ェデ リー コ ︵ 後 の神聖 ローマ 皇帝 ・フリード リ ッヒ2世 で シ リ まれ育 つ︶が 王 チ ア で 生 。 位を継 承する ︵ 詳細は館す ︶ 、 この 一族 は 当初から アラ 、 ブ 世界 のことを熱 知 しており 、 シチリア では多宗数を 調め アラブ の先進性を多く 取り入 。 れ る フリード リ ツとに至 っ 、 ては アラブ 語を十劣 に駆使 し 、 広 い学識と含 理性を有 し 科 、 学にも明 るか った人物 で 現 代 の歴史家から﹁世界 の驚 異﹂ とか ﹁王座 の最初 の近代入﹂ 、 とか ﹁数百年 生まれが 早す 。 ぎた 王﹂などと 評され る 先進 国と して のアラフ を深 、 く理解 して いた ので 中世 の この時期 ほ十字 寧 の悲惨 な血 、 の戦 いな しに エルサ レムを 。 交渉 で書 還す る 、 一方 で ローマ法 王庁か ら 、 、 は 異端者扱 いをされ 2回 、 も破 門され る ︵この時代 王 が 破 門されると神 に調め られ 。 た 王 ではなくなる ︶ しか し、 ヨーロ ツパにアラ ブ の先進文化を紹介す るき っ 、 かけとな り ﹁シチリアは ルネ ツサ ンスの発祥 の地 ﹂とする 歴史家が 近年多 くな っている 、 ︵剛に スペイ ンのグ ラナダ 。 が 発祥だ と いう人も いる︶ 、 暗 黒 の中世 ヨー ロ ツパ シ チ リアは ﹁文化 の中心地 ﹂とな 、 、 り 優れ た文化人が 集まり イタ リア各地 ヘルネ ッサ ンス 。 を伝 え てい った 、 現存 する建築物を主 に 多 、 く の遺 跡は驚 くほど豪華 で ここが ヨー ロ ツパ の外れ であ るとは感 じさせな いほど であ 。 る 、 フ ェデ リ ー コの死後 一族 、 の中 心は シチリアを離れ 神 。 聖 □︱マ市国 へ移 る シチリ アは法 主庁 の指 示 でフラ ンス 、 と スペイ ン支配に継が れるが 。 ここから苦難 の歴史が 始まる 、 また イスラーム の反撃が 始 、 まり 再び+字寧と の血 の戦 、 いとなり 地中海沿岸 のキ リ スト数徒はサラセ ンの海賊 に 。 よる幡害を 受ける ことになる 、 シ チリアを旅 し 特 にパ レ 、 ルモを訪ねたら ぜ ひ このこ 。 とを愚 い出し てほしい ◇ ◇ 編集後 記 ◇ ◇ ﹁ だ れかさんが だれかさ んが だれかさんが み つけた ち いさ い秋 ろ いさ い秋 ち いさ い秋 み つけた ⋮ ︵ サトウ ハチ ローごと いう季節も終わ ろうかと いうころになりま し 、 が 曽 さんはど んな ﹁あ いさ い 秋 ﹂ を み つけ ら れ ま し た 、 か?私は絶宅庭 の片 隅に咲く 大 輪 の菊 で は な い秋 明 菊 に ﹁あ いさ い秋﹂をみ つけま し 。 左の写真︶ た ︵ ゝ︵ 宮霞 LSYメンバー さア 企 画による南 イタリア旅行 に 、 9 ついて 6月 2 日に開催 され た﹁サ ロン﹂で報告された方 泉 。 に投稿 し ていただきま した ト ップ バ ッタ ーは、港北 分 、 会 の出 日信 子さ ん 並木 繁嗣 さん ︵写翼︶によるナポ リ ・ 。 シチリア記 ﹁男女 四人 の旅 物 、 語﹂とあるように 楽 し いと き を過ご された のが 伝わ って 。 き ます 、 次は 戸塚分会 の増渕建次 。 郎さ ん の瞳想風な旅 行記 氏 、 が多趣 昧 である ことは 正に 、 、 知る人 で知る ですが そ の 。 中に数学が あります ﹁今回 の 旅 行記にはビ ートたけ しが か 、 らむ ﹂とありま したが それ は フジ T Vで央躍 田年前 1時 0 1 分から始まる ﹁たけ し の コ 、 ピエ マ大 数学科 ﹂で 以前 ﹁ ロの問題﹂に ついて議論され 。 た のを見 ての由 です 本郷台分会 の日井洋仁 さん 、 には ﹁ 南 イタリア余 話﹂と題 し て、 関連 する歴史やそ の背 景に ついて紹介し ていただ き 。 ま した い つもなが ら の造 詣 。 の深さ に感 心するば かり です 最近 の会報は旅 行記が主 と 、 な っておりますが ﹁私 の紹介 、 趣味 ご ﹁最近 愚う こと﹂ ︵ とか ﹁旅 に関する質問﹂など 馬 を投 稿 ︵ 自薦 他薦 ︶し てい 。 ただ けるとありが た いです 、 、 最後 に この度 東分会 の 谷川博さ んが新たに編集 委員 。 に加わ りました 若 手と して新鮮な発想や行 。 動力に期待すると ころ大 です 、 今後とも 曽さ ん のご支援 。 を宣 しくお願 いいた します ︵田部井達記 ︶ 発行費任者 増 湖建次郎 編 集 ・LSY編集委員会 ︵五十書順︶︵ 敬称皓 ︶ 岡谷 繁興 谷川 博 田部井 達