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長兄・志賀多男も比島に散る

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長兄・志賀多男も比島に散る
長兄・志賀多男も比島に散る
写真の襟章は☆が三つ。上等兵に昇進したときに
撮った写真かと思われる。昭和 18 年 7 月のことだ。
目
年
次
表 ..........................................................................................2
戦後 2 年たっての戦死の通知 ......................................................3
多男が戦場に赴くまで .................................................................6
現役兵として満州へ.....................................................................8
満州からフィリピンへ ...............................................................13
母の祈り.....................................................................................15
バレテ峠.....................................................................................16
志賀多男の旧軍歴 ......................................................................18
長兄・志賀多男も比島に散る
1
年
表
(赤字:戦争関連、青字:敏美関連)
大正 9 年 10 月 11 日
福島県相馬郡石神村馬場にて誕生
昭和 2 年 4 月 1 日
石神第二尋常高等小学校入学
昭和 10 年 3 月 25 日
同校 高等科 2 年卒業
同
石神村青年学校に入学
4月 1日
昭和 12 年 7 月
7日
日中戦争勃発
昭和 16 年 1 月 20 日
現役兵として野戦重砲兵第 4 連隊に入営
同
1 月 27 日
鮮満国境ヲ通過 28 日牡丹江着
同
7月 6日
暗号手修業のため第 9 師団通信隊分遣
同
7 月 27 日
暗号手修業修了帰隊
同
7 月 28 日
一等兵に昇進
同
12 月 8 日
日本海軍、ハワイ真珠湾攻撃
昭和 17 年 3 月 15 日
牡丹江重砲連隊に転属、連隊本部に編入
同
9月 1日
敏美、横須賀第二海兵団に入団
同
10 月 11 日
牡丹江省禝陵県下城子着任
昭和 18 年 7 月 10 日
上等兵に昇進
昭和 19 年 1 月 10 日
兵長に昇進
同
3 月 中頃
敏美、シンガポール基地へ進出
同
5 月 30 日
第 3 航空特種通信隊要員として下城子出発
同
6月 2日
新京着、第 3 航空特種通信隊に転属
同
6 月 14 日
新京出発、16 日鮮満国境通過
同
6 月 15 日
アメリカ軍、サイパン島に上陸開始
同
6 月 18 日
釜山着、19 日内地に向け出発
同
6 月 18・19 日
敏美、マリアナ沖海戦に参戦
同
6 月 21 日
門司港上陸 (1 週間、門司に滞在)
同
6 月 28 日
門司港出発 (比島方面へ向かう)
同
7 月 17 日
マニラ港上陸、第 4 航空特殊通信隊に転属
長兄・志賀多男も比島に散る
2
同
10 月 20 日
アメリカ軍、レイテ島タクロバンに上陸開始
同
10 月 22 日
敏美、台湾から比島バムバム基地に進出
同
11 月 6 日
敏美、特攻直掩機としてルソン島沖にて戦死
昭和 19 年 1 月 9 日
アメリカ軍、ルソン島リンガエン湾に上陸開始
同
3 月 13 日
北部ルソン島に転進、歩兵第 10 連隊に配属
同
5月 1日
伍長に昇進
同日
北部ルソン島バレテ峠において戦死。25 歳
戦後2年たっての戦死の通知
昭和 20 年 8 月 15 日、長かった戦争は終りを告げた。生家に陣取っていた原
町飛行場の兵士たちも、その日のうちに、いずこへともなく去っていった。
やがて、外地からも生き残った兵士たちが、続々とそれぞれの故郷へ復員し
ていた。
敏美の長兄・多男も 18 年 7 月 17 日、フィリピンの首都マニラに上陸したこ
とまでは知らされていたが、その後の消息はまったくなかった。レイテ島は
もとよりルソン島でも玉砕のような戦い振りだった報じられていたから、帰
還を望む方が無理な話だったが、ひょっとすると還ってくるかも知れないと
の、かすかな期待もあった。
しかし、その期待もむなしく昭和 22 年 4 月半ば、村役場から下記の文面の「戦
死告知書」に、福島県地方世話部長名の「死亡通知書」
(下の写真)が添付さ
れて届けられた。多男もまた敏美の後を追って同じフィリピンの土となって
いたのだ。
長兄・志賀多男も比島に散る
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2 年前の 20 年 11 月 1 日、
マッカーサーが文部省と
内務省に対して「戦後者追
悼式を禁止せよ」との共同
通達を学校関係者や政治
団体に出させ、アメリカ軍
政局(第 8 軍が日本に駐
留)もまた、日本人の戦没
者追悼式を全て禁止する、
との指令を出していたか
ら、戦前のような公の行事
は一切なく、多男の葬儀は
近隣と親族だけで質素に
執り行われた。
アメリカ軍による日本の占領は、昭和 27 年 4 月 28 日、対日講和条約の発効
によって終わりを告げ日本は独立を回復した。その夏、盂蘭盆を迎えるに辺
り、福島県知事から次のような書簡と供物が届けられた。(句読点は引用者)
長兄・志賀多男も比島に散る
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拝啓
意外に永かった本年の梅雨も過ぎ愈々盛夏に入りましたが、皆々様には如
何にお過ごしのことかと案じ申し上げて居ります。
さて占領下 7 カ年の間は戦没者の英霊を親しくお慰め申上げることも出来
得なかったため、心中誠に申し訳なく常に心にかかって居ったのでありま
したが、御承知の様に本年は待望の講和条約の発効を見、独立の喜びを迎
えた年でありまして、今年の盂蘭盆は戦没者の御霊については初盆と申せ
るかと存じますので、初盂蘭盆の意味において在天の御霊に敬虔な誠を捧
げたく、心ばかりの供物をお届けいたしましたから、意のあるところをお
くみとり下さる様お願い申上げます。
時節柄皆様のご自愛の程をお祈り申上げます。
敬具
昭和 27 年盂蘭盆
福島県知事 大竹作摩
御遺族殿
つづいで 9 月、石神村から戦没者に対する村葬を行う旨の通知が届いた。
昭和 27 年 9 月 17 日
石神村長
羽根田 権
石神村遺族後援会長 渡部光喜
志賀多男御遺族殿
拝啓
初秋の候御遺族の皆々様には益々御清適の御事と御慶び申上げます。
さて、講和発効独立第 1 年に当たり英霊を御慰め申し上ぐる村主催の戦没
者追悼式典、続いて後援会主催の慰霊祭を左記により執行致しますから
御参列下されたく御案内申上げます。
記
日時 9 月 21 日(日曜日)午前 10 時より
場所 石神村役場裏山祭場
以上
長兄・志賀多男も比島に散る
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多男が戦場に赴くまで
志賀多男(かずお)は大正 9 年 10 月 11 日、志賀豹象・エン夫妻の 4 男 3 女
の長男として出生した。石神第二尋常高等小学校から石神青年学校へ進み、
きょうだいの面倒を見ながら家業の手伝いにも精を出した。敏美同様に身体
強健である。小学校高等科の修了にあたっては、8 年間無欠席の精勤証を授与
された。
同級生だった遠藤七
兵衛氏の回想による
と、「志賀さんの子供
たちは兄弟仲が良く、
親孝行の子供だった
と思います。長兄の多
男君などは高等小学
校時代に、お父さんと
一緒に田畑に出て一
人前の手伝いをして
いたようでした。」とある。上の写真は、多男の小学校入学式の記念写真であ
る。写真の下に、
「昭和 3 年石神第二小学校入学」とメモ書きしてあるが、
「8
学年間無欠席」の精勤証(右写真)
の日付は、昭和 10 年 3 月 25 日とな
っているところから、小学校への入
学は昭和 2 年ではないかと思われる。
当時の農村の子供たちは全員が着物
姿であった。
小学校高等科を卒業すると、大抵の子供は青年学校へ進んだ。青年学校は本
科 5 年と、本科終了後、研究科 2 年があったようだが、青年はすべて満 20 歳
になると兵役の義務があったから、卒業の有無にかかわらず、兵隊に行った。
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左の写真は青年学校時代の多
男と仲間たちである。後列中央
が多男。その右隣は、軍事教練
の教官である。
教科としては、剣道や銃剣術な
ど体育の向上と軍事教練を兼
ねた学科が重視された。
下の写真は、馬場青年団の後輩たちの剣道大会における優勝記念写真である。
多男は出征して不参加だったのか、左上に多男の顔写真がはめ込まれている。
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現役兵として満州へ
昭和 16 年 1 月、多男 20 歳。現役兵として野戦重砲兵第 4 連隊に入営、1 週間
後には朝鮮を経由して満州国の牡丹江省に着任した。
右の写真
撮影日時は不明だが、帽
章に「☆」マークがあるので、入営
を間近にした頃の記念写真だと思
われる。
日中戦争が始まって 3 年半を経過
していた。当時、満州には 20 個師
団、約 70 万の日本軍が駐留してお
り、
「無敵の関東軍」と呼ばれてい
た。
これら精鋭部隊は、陸軍第一の仮
想敵国・ソ連に対する専守防衛と、
約 100 万の在留邦人の保護を最大
の使命としていた。
写真の後列中央が多男
長兄・志賀多男も比島に散る
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多男が着任した牡丹江省(現・中国黒竜江省)は、満州国の東端にあって北
緯 45 度、北海道宗谷岬のやや南に相当する位置だが、大陸性気候のために冬
期は零下 30 度にもなる酷寒の地であった。
長兄・志賀多男も比島に散る
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省都・牡丹江は下図の左方にあり、その右方の黒丸で囲まれた地のいくつか
は、多男からの葉書に登場する場所である。右寄りタテに国境線が走り、そ
の右側がソ連領である。国境沿いには無数のトーチカの銃眼が満州国側に向
けられていた。
多男が満州に駐留した期間は 3
年 4 カ月、その間、生家の両親
宛、あるいは弟たちに手紙を書
いた。以下、そのなかからいく
つかを取り上げた。
(発信日が不
明なので順不同)
拝啓
春緑滴るばかりの候と
なりました。皆様には益々御
清勝の御事と遠察申上げます。お便りにては伊勢大廟に御参拝とか何より
結構と存じ上げます。敏美も横川校に先生でも通勤とか海兵入団後の為に
良いと思います。精々勉強の必要あります。当阿城にはすっかり春が訪れ
若草の色何とも云えぬ様になりましたがお陰にて小生も頗る壮健にて奮斗
致して居りますから他事乍御安心下さい。
長兄・志賀多男も比島に散る
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時局柄一層の御自愛あらん事満州より祈ります。後便乱筆
満州国浜江省阿城(県)満州第 4387 部隊纐纈隊 志賀多男
☆
☆ ☆
前略
ご両親様始め皆様には定めしご壮健にて歳末の御多端な日をお過ごしと思
推致して居ります。本年も愈々余日僅かとなってしまいました。先日は姉
上より便を戴きました。途中寒気厳しくさぞ困った事と思って居りました。
満州は愈々本格的寒さとなり零下 30 度前後、朝の点呼等には顔がひりひり
します。今日は休日でスキーをやりました。馴れないので倒れてばかり居
ります。勝ち抜く第 3 年私も将来在満中支方面に行き活躍する心算ですが。
皆様の御清祥と御奮闘を祈り便りとします。草々
牡丹江第 5 軍事郵便所気付満州第 4387 部隊纐纈隊 志賀多男
☆
☆ ☆
長らくご無沙汰致しました。その後御変わりありませんか。愈々農繁期が
訪れ御忙しい日を御過ごしの事と存来ます。植付けの際は筋引き位はと思
いましたが。
英勇や五三三は元気ですか。住所御存知でしたら御知らせ下さい。敏美も
愈々南方やら丹野兄より承知しました。其の内面白いニュースももたらす
事でしょう。私は相変わらず元気で御奉公致して居ります故御安心下さい。
満州にも春が訪れ枯れ枯れとした山の彼方此方の草木は新しき生命の生息
の準備に萌え始めて居ります。では御健斗を祈り後便と致します。
表記へ注意
草々
牡丹江第 5 軍事郵便所気付満州第 4387 部隊れ隊 志賀多男
☆
拝啓
☆ ☆
大変暖かく成って参りました。皆様にはお変わりありませんか。お
元気にてお暮らし居らるる事とお察し致して居ります。先ず、自分は元気
にやって居りますから御安心下さい。先日石神銃後会より村報を拝受致し
ました。満州も余程暖かく成って来ました。本日等は零下 3 度でありまし
長兄・志賀多男も比島に散る
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た。内地は桜が満開と成った事でしょう。この次の日曜は外出が許される
そうです。さようなら。
満州国牡丹江省牡丹江 満州第 969 部隊落合隊 志賀多男
☆
拝啓
☆ ☆
秋冷の候と相成りました。皆様には何時も御壮健のことと存じます。
私も変わり無く元気に務めて居ります。内地は残暑厳しき事でしょう。当
地はもう秋色に染められ広野には赤トンボが飛んで居ります。また、水稲
等はすっかり頭を下げ黄金の打つ如くなりました。耕土の作物等連雨のた
め障害はありませんか。時節柄皆様御身体大切に動いて下さい。余は後便
にて。さようなら。
満州国牡丹江省牡丹江 満州第 969 部隊落合隊 志賀多男
☆
☆ ☆
本日(26 日)お便り拝領した有難う。皆元気にて農務に精魂の由何時も喜
んで居ります。俺も変わりなく益々頑健に太るのみ母には伝えて呉れ。敏
美は 12 月 27 日卒業の由便りにて驚いた次第。忘れて居た航空隊受験の由
受かれば誠に良き考えと思う。勉強は大いにやっておけ、必ず合格する事
祈る。任地も愈々厳寒となり今日あたりは零下 15 度くらいあり全く寒くな
ってきた。どこでもばんばん凍結してしまった。慰問品はまだ到着せぬが
25 日位かかるそうだ。それから皆様の一寸片だが年を忘れたから教えて呉
れ。では元気に目的達成する事を祈る。
早々
10 月 26 日夜
志賀敏美殿
満州国牡丹江省牡丹江 満州第 969 部隊落合隊 志賀多男
☆
☆ ☆
英勇元気か、さっぱり便りないあなあ。
俺も御無沙汰ばかりして居るが催促でもたまには待っておるのだ。今は田
の草でも取って居るか。当方も特別に変わったこともありませんが近頃は
梅雨のような気候、毎日夕立雨のようなものが降ってくる。今日は代日、
日曜、内務班でゆっくり休んで居た。
長兄・志賀多男も比島に散る
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故郷ではもう野馬追いも過ぎ、この次は草花積んでお墓参りというところ
だね。
兎に角身体は一番大切だからね、気を付けて働いて呉れ。
余は後便にて。
さようなら
志賀英勇殿
牡丹江第 5 軍事郵便所気付満州第 4387 部隊れ隊 志賀多男
満州からフィリピンへ
関東軍は、昭和 18 年前半までは満州国東・北両面の防衛に没頭していたが、
昭和 19 年 4 月に入って、その全師団を挙げて南方へ転出し、アメリカ軍との
決戦に臨んだ。サイパン・グアム・ペリリューの玉砕戦も、レイテ決戦も、
ルソン島の持久戦も、大部分は関東軍の主力兵団によって戦われたのであっ
た。
南方への転出には、すべて、完全装備で出征させたから、例えば約 700 機あ
った航空機も 20 年春以降は、赤トンボ(練習機)が新京の上空に稀に姿を見
せるだけとなり、地上軍も、にわか編成の未熟・半装備の人間の集団となっ
ていた。これが、昭和 20 年 8 月 9 日、ソ連軍の突然の侵攻を受け、あっけな
く 1 週間で壊滅した理由である。
多男が満州を発ったのは昭和 19 年 6 月 14 日であった。同月 18 日、釜山港に
到着、翌 19 日内地へ向けて出港し、21 日に門司港に上陸した。ここで 1 週間
民家に滞在したのち南方へ向かったのだが、出発に先立ち両親宛に葉書を出
した。
永らく御無沙汰致して居りました。
父上様始めご壮健で御働きの事と思います。
私も相変わらず元気で働いて屈ます故、御安心下さい。
敏美の所へ行きたいと思って居りましたがとうとう駄目でした。
これから 2 年後頃帰省したいと思って居ります。
長兄・志賀多男も比島に散る
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生来親不孝ばかり致しました。孝行も出来ず、或いはあの世とやらも知り
ません。でも心配は無用です。
御両親には暮々も御体大切に留意せられます様、ただすがり祈って居ます。
貯金通帳送りましたが、御受納せられたら後でお便り下さい。
表記にはいません。念為
さようなら
門司市大里 末増栄之助様方 志賀多男
文末に発信元の住所を書いたが、「表記にはいません。念為」と書き。「どこ
へ向かう」とは一言も触れていない。多分、兵士たちも「南方へ向かう」と
いったことぐらいしか知らされていなかっただろう。
文中「敏美の所へ行きたいと思って」とあるが、このとき、敏美はマリアナ
沖海戦に参戦、上空直掩隊として空母翔鶴から飛び上がったが、空母の沈没
という憂き目にあっていた。
8 月 7 日、
「門司市大里二十町通り 3 丁目
森マサノ」発信の封書が生家に届
いた。多男が寄留した民家の方からである。
御免下さい。
始めてお伺い申し上げ知らない者よりと驚きの事と存じます。
実はこの度ご子息志賀多男兵長殿の部隊が門司に上陸なされ、私共民間に
お宿致すことになり、去る 6 月 22 目より 1 週間ご滞在になりました。
軍隊の規律は厳しく内地の地を踏みながらお手紙 1 本書くことも許されず、
諸兵士の方々には口には出されぬが、各々ご実家のことを思い出されて居
たことと存じます。
門司より近所の者は 1 日の休暇が出て家に帰られましたが、大抵の方が北
の遠方のこととて本当にお気の毒でした。でも内地の地はもう踏めないと
覚悟して居ましたが、図らずも日本の地を踏んだだけでも満足ですと申し
て居られました。
去る 6 月 28 日再び乗船なされお元気にて○○方面に出帆なされました。
何一つご満足なされる程おもてなしもできませんでしたが、発たれる際に
長兄・志賀多男も比島に散る
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御実家の住所をお知らせ下されば皆様に代ってお元気で居られたことを
お知らせしておきますと申し上げました所、大変に喜んで下さいました。
右の次第にて御座いますので乱筆にて失礼とは存じますが、
御通知申し上げました。
末筆乍らご子息の、武運長久をお祈り致しますと共に、
ご一家様のご健康をお祈り致して屠ります。
かしこ
森 マサノ
昭和 19 年 7 月 1 日
志賀豹象 様
母の祈り
この頃、多男の小学校の同級生だった遠藤七兵衛氏が生家の母親を訪ねてい
た。そのときの印象を七兵衛氏は次のように語っている。
「お母さんがその時私に話したことは『南方に行くのであれば多男は、松本
の敬一さんと同じく生きては帰ってはこれまい(註、松本敬一君も同じ同
級生で、昭和十七年ガダルカナル島の玉砕で戦死された)
兵隊に行った時からこのことは覚悟はしていたのだが、せめても南に行く
前に九州にいるのだから、今生の別れに一目でもいいから多男に会いたい、
そして話を聞いてやりたい』と涙を流しながら話されたのでありました。
私もその場でお母さんの心情、また、これから南方の敵地に決死の覚悟で
出かけようとしている、多男君の心境を、はるか馬場の地で察するに、と
もに私の心に余りあるものがあって、私も一緒に泣いたものでした。
私は、おかれている現実とは全く違った、慰めの『大丈夫だよ、多男君は
見事凱旋して来るから、元気を出して下さい』と云ったのでしたが …。
また、その時に、敏美君から来た元気な便りも見せていただいたのです。
いま、50 数年前のあの縁側でのお母さんとの会話の情景を思い出すたびに、
涙がひとりでに出るのです。軍神の母だとか武門の誉れ高き家の母だとか
長兄・志賀多男も比島に散る
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云われても、やっぱり母は人の親です。自らのおなかを痛めて産んだ可愛
い息子二人を戦争に送り出し、一目会いたいと思っても会えず、何時戦死
の知らせを受けるかわからない母だもの、涙が出たって泣いたって少しも
おかしくないと思います。
私と別れぎわに『もうこうなったらば二人の息子の武運長久を祈って立派
な手柄を立ててもらいたい。七兵衛さんも多男と同級生で小さい時からの
友達なんだから、銃後で頑張って下さい』と云われ、志賀さんの家を後に
したのでした。
お母さんは縁側に座ったままでした。淋しそうに遠い空を見詰め何か念じ
ていたあの姿が今でも忘れられない記憶として頭に深く残っているので
す。」
(遠藤七兵衛・寄稿『国見の里から』志賀五三三)
バレテ峠
8 月 7 日、多男から「7 月 17 日、フィリピンの首都マニラに上陸した」との
葉書が生家に届いた。
その後ご無沙汰しました。
御両親様始め御達者でお働きと遠察して居ります。
私も益々元気で軍務に邁進して居ります故、御安心下さい。
遠く離れて居る為か故郷の夢も度々見て居ります。
内地ではもう草花摘んでお盆を待って居る頃でせう。
扱、度々お便りを差し上げましたが、ずっと以前送った貯金と小包を受領
されましたか。それから、英勇と敏美の住所を御知らせ下さい。
尚、家より小生元気な旨、隣や親戚へ宜しく御伝い下さい。
当地はなかなか華美な所で珍しいものや、書き度い事等沢山あります。
暑さ厳しい折り暮々もお身体に留意せられます様祈って居ります。
さようなら
長兄・志賀多男も比島に散る
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比島派遣威第一二九〇四部隊
志賀多男
ルソン島の日本軍の総兵力は約 30 万人、
しかし、航空機も底をついていたし、
戦車も全体で 200 両程度しかなかったから、アメリカ軍に対し積極的に攻勢
に出る決戦ではなく、戦っては退き、息長く戦ってアメリカ軍を苦しめる戦
術、いわゆる持久戦に持ち込むことになった。
そのため首都マニラからは兵力
を引き揚げ、ルソン北部の山岳
地帯とルソン中南部、それに、
クラーク飛行場群のある西方山
地の 3 方面に分散させる戦術が
とられた。
多男の部隊は 3 月 13 日、歩兵第
10 連隊の一員としてルソン北部
の山岳地帯に転進、バレテ峠に
陣地を構築して、リンガエン湾
からバレテ峠の攻略を目指して
やってくるアメリカ軍を阻止し
ようと戦った。
右図は「ルソンの戦い」(『太平
洋戦争・主要戦闘事典』PHP 文庫 P395)
アメリカ軍はそれに対して砲弾の雨を降らせ、戦車で突進し、さらに連日に
わたって日本軍陣地を爆撃した。
日本軍は約 3 カ月間(2 月中旬から 5 月末まで)峠を死守したが、その間の 5
月 1 日、多男は「全身砲弾破片創」により戦死した。
バレテ峠の死闘に参加した主要部隊は、第 10 師団の歩兵第 10 連隊、同歩兵
第 63 連隊、津田支隊、その他第 103 師団など。日本軍の損害・戦死約 7、000
長兄・志賀多男も比島に散る
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人、アメリカ軍の損害・戦死 835 人、戦傷 2、570 人。
比島決戦参加人員と戦没者数 (昭和 33 年厚生省集計)
区 分
陸 軍
海
軍
計
参加兵力
503、606
127、361
630、967
戦没者数
369、029
107、747
476、776
志賀多男の旧軍歴
志賀多男の旧軍歴
年月日
昭和 16 年 1 月 20 日
大正 9 年 10 月 11 日生まれ
階級
二等兵
記事
現役兵として野戦重砲兵第 4 連隊に入営
第3中隊に編入
昭和 16 年 1 月 21 日
大阪港出発
昭和 16 年 1 月 27 日
羅津港上陸
昭和 16 年 1 月 27 日
鮮満国境通過
昭和 16 年 1 月 28 日
牡丹江省牡丹江着
昭和 16 年 7 月 6 日
暗号手修業のため第 9 師団通信隊に分遣
昭和 16 年 7 月 27 日
昭和 16 年 7 月 28 日
暗号手修業終了帰隊
一等兵
昭和 17 年 2 月 7 日
牡丹江出発
昭和 17 年 2 月 7 日
浜江省阿城着
昭和 17 年 3 月 15 日
牡丹江重砲連隊に転属
昭和 17 年 3 月 15 日
連隊本部に編入
昭和 17 年 10 月 10 日
阿城出発
昭和 17 年 10 月 11 日
牡丹江省穆陵県下城子着
昭和 18 年 7 月 10 日
上等兵
昭和 19 年 1 月 10 日
兵長
第 3 航空特種通信隊要員として転属のため下城
昭和 19 年 5 月 30 日
子出発
長兄・志賀多男も比島に散る
18
昭和 19 年 6 月 2 日
新京着
昭和 19 年 6 月 2 日
第 3 航空特種通信隊に転属
昭和 19 年 6 月 14 日
新京出発
昭和 19 年 6 月 16 日
鮮満国境通過
昭和 19 年 6 月 18 日
釜山着
昭和 19 年 6 月 19 日
釜山港出発
昭和 19 年 6 月 21 日
門司港上陸
昭和 19 年 6 月 28 日
門司港出発
昭和 19 年 7 月 17 日
マニラ港上陸
第 4 航空特種通信隊に転属(転属年月日不詳)
北部ルソン島に転進、歩兵第 10 連隊に配属とな
昭和 20 年 3 月 13 日
る
昭和 20 年 5 月 1 日
伍長
北部ルソン島ヌエバビスカヤ州バレテ峠に於い
昭和 20 年 5 月 1 日
て戦死
注:平成 4 年 10 月 22 日付け福島県生活福祉部高齢福祉課より。
長兄・志賀多男も比島に散る
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