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ケベクとヤサウル : チャガタイ・ハン國支配體制の確立
加藤, 和秀
東洋史研究 (1982), 40(4): 680-706
1982-03-31
https://doi.org/10.14989/153842
Right
Type
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Journal Article
publisher
Kyoto University
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ケ
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│ │ チャガ タイ ・ ハ ン 園 支 配 瞳 制 の 確 立│ │
はじめに
諸王ヤサウル
ケベクとヤサウルの反目
藤
ヤ
いわゆるチャガタイ・ハン園の成立を見た。この園家にあっては、 モンゴル支配層聞の長い擢力闘争によって混飽 ・疲弊
ハルトリドによれば、
一 八l二六年﹀ の治下に園家の中央集権化が果たさ
一
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一
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内
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巾
与
ハ
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ケベク・ハン 阿
、 その課題はドゥワ・ハン以後、彼の息子たちの手に託されることになる。
した統治 世制の建て直 しが急務であっ たが
そして、
内〆
れ、チヤガタイ.ハン園は初めて確固たる基盤を得たとされる 。
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- 5
諸王ケベクの 登 場
ホラサンのヤサウル
おわに
め
り
公正なるハン 、ケ ベク
じ
加
に
^
主
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三O六・七年)に よって統一され、
二 八二・三 │ 一
ハ ン、 ド ゥ ワ ロE乱(在位 一
三O 六年噴、中央ア ジアはチャガタイ ・
一
五四三二一
ガタ
本稿は、以上のごとき十四世紀の第一四牢期におけるチャガタイ・ハン園の支配瞳制確立の過程を、 ケベクとチャ
イ家諸王ヤサウルとの封立を主題として、具種的に跡寺つけようとするものである。
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官
たヴア
ケベクとヤサウルの封立のエピソードは、すでにド l ソンが詳細に記すが、素よりイル・ハン園史の絞述中のこととて、
た。一方、チャガタイ・ハン園史に直接関わっ
向
。
そのチャガタイ・ハン園史上に占める意味など全く考慮外に置かれ
u
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g-E包とヤサウルとのこととして数行で片附町、
ンベリ l及 び オ リ ヴ ァ l は 、 こ の 劃 立 を ケ ベ グ の 兄 エ セ ン ・プ カ ゲ
FO
て初めて専論がものされた。
リ
引
、
初め
ストロエヴァは、バルトリ町に始まり、ヤクボフスキ川、ベトルシェフスキ川等によって組立てられてきたモンゴ
中央アジア史の展開を律する基本的ファクターに関する作業偲設に依援して論を準める。
ル期
と無統
即ち、 モンゴル帝園成立後、 中央アジアのモンゴル支配層内部に矛盾する二つの政治的傾向が現われた。 第一の傾向
るもの
は、強力なハン権力による中央集権園家の確立を志向し、封建的な軍事遊牧貴族層の遠心的な志向を抑制せんとす
と結んだ在地
である。これは、在地定住社舎への接近、イスラ 1 ム と 土 着 文 化 の 保 護 等 を 特 徴 と し 、 主 と し て ハ ン と そ れ
の支配層がこの傾向の支持者であった。第二の傾向は、モンゴルの奮習と遊牧的俸統に従って、定住民を専ら掠奪
制な搾取の封象とみなして、反モンゴルの嬢黙となる都市の根絶や濯概地の牧地化を志向し、イスラ 1 ムと土着文化にチ
封立
ハ ンのヤサと遊牧ウイグル文化を封立させる。この傾向は大部分のモンゴル ・ト ルコ系の軍事遊牧貴族によって
ンギス ・
支持された。
十四世紀前牟のチャガタイ・ハン園史もこの二つの傾向の樹立抗争を軸として展開し、それはケベクとヤサウルの
肢を建て、貨
に最も良く反映している。 つまり、ヶベクは、マ lヴァランナフルの奥深くカシュカ・ダリア渓谷に自ら宮
9ー
- 5
グルヅセはチャガタイ・ハン園史及びイル・ハン園史の墜方において、 その封立の経過を簡単に記すのみである。また、
エヴァに至つ
バルトリド以下のソ聯邦のモンゴル史研究者はこのエピソードにはほとんど関心を示していないが、 ストロ
1
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6
2
8
6
幣制度の改革を行なうなど、定住地帯の統治に意を注ぎ、
ハン権力の強化と遊牧貴族の制御に努めた。
、 ケベクと封
方
一
立してホラサンに亡命したヤサウルは、政治的境界やハンの中央集権化政策などは全く意に介せず、自己の利害に従って
行動し、定住民の掠奪 に自 己の目的達成の唯一の這を見出した 。 まさにケベクは第一の傾向の強力な推進者であり、
に射してヤサウルはチャガタイ遊牧貴族の総ての特質と志向が現われた人物であった 。
例えば
ヤサウルがムスリムであった貼には燭れていないなど問題、が残ってい
こうしてストロエヴァは先の偲読の貿誼的補強を試みた詳であるが、 その所論はヤサウルを第二の傾向の完壁な追随者
に仕立てあげるべく帰された感が強く、
る。さらに、 ストロエヴァがひき縫いでまとめた偲説そのものにつレても、専ら軍事遊牧貴族層に封建化の方向と遊牧的
俸統維持の志向の壁方を蹄属せしめ、あたかもかの二つの傾向を遊牧か定住かという二者揮一の形で区別するがごとき
は、事態をやや単純化して捉えている嫌いがある。
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本稿では、このような問題貼をも念頭に置きつつ論を進めていきたい。なお、依援した史料とその略構は次の通りであ
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ヤサウルペ自担当同は、 チャガタイの第二子ムアトゥカン E0.mzrg の 第 二 子 ブ リ 切
に右翼の
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Jah--3。曾祖父カダクチ・セチェン O包ZnyFFnrg はブリの第三子で 、一二五五年のモンケの南宋遠征
。 ρ守件。自己同はチャガ タイ ・ハン(在位 一二七二年) を務め
賂 と し て 参 加 し て お り QH 包F83、 祖 父のトカ ・テ ムル 吋
、
た人物であっ向
a窓口長については知るところがないが、ャサウル杭れっきとした
23。父のオルグ・テムル O
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年﹀頃である(吋C
チャガタイ王族の出であった。その生年は、 カl シャ 1 ニlに従えば、六八八年(西暦一二八九
ヮワとカイドヮの子チャパル
ヤサウルが初めて登場するのは、 七O 五年(二ニO五 ・六年)頃、 チ ャ ガ タ イ ・ ハ ン 、 ド
。 この時、 ヤサウルは、 オゴタイ家諸王キュレ
ジ
兵を蹄 し
- の助力を得たバ lバ!と一度ならず戦闘を交えた。こ
E
∞
HEEE の協力を得て、 カイドウの子シャ lω町山r d
聞かれることになったが、
れを機に、 シャ l シ ュ ω広島の地においてチャパル波とドゥワ涯の聞に調停舎議が
ンクシ
Z をめぐって、 チャパル涯のジュチ・カサル家諸王パ Iメ l 切削ECmE- と劃立し、母方の叔父にあたる
スベ関口円相印
3同との劉立が深まりつつあったマ lヴァランナフルにおいてである
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て待機していたシャ lとバ lバ lに劃して、 ヤサウル等の率いるドゥワ側の大軍が突如として襲いかかり、バ 1パーをホ
ラズムに逐い、
EωlHd。 さらにこれよりやや
シャ lのタラス吋包官のオルドを掠奪するに至った (2haly 叶巧-E
u
E
ロ
O曲目担当のアム河上流域への任命に関わって、 ヤサウル
遅れて、 ドゥワによるチャガタイ家諸王ズルカルナイン
)。 右の二つの事件は、
はズルカルナイン及びジンクシと協力して、反抗するキュレスベと戦いこれを捕えた(吋者二出ω
崎刈,
w
マlヴァランナフルにおけるチャガタイ家の優位を確立したという黙において、ドゥワの統一事業の重要な一環を成して
いたのであり、その中で若冠十七、八歳のヤサウルはその軍事的才能を麓揮して、 いわばドゥワ波の急先鋒として活動し
ていた。
所で、 ヤサウルのオルドやユルトはどこにあったか。 ワッサ l フによれば、 サマルカンドに居住地(目白 ρ帥自)を有して
そして、
カlシャ l =ーによれば、
ヤサウルはブハラの切色円宮白ロ缶包
Y 叶巧hE) というから、
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いたといい(吋巧-臼S、 また後のホラサン亡命に際してもサマルカンドより鼓した(叶戸N
サマルカンド近溢にあったことは間違いない。
H ω思)。
uNHY ぇ(イプン・パトゥ!タの記す回包同午UE 弘山富宅街回目か?﹀の手によってムスリムになったという(叫,c
切
・
こ の 入 信 が い つ の こ と で あ っ た か は 不 明 で あ る が 、 ホ ラ サ ン 亡 命 に 多 数 の サ マ ル カ ン ド 及 び ブ ハ ラ の イ マ l ムたちを伴
なったこと(叶戸目。)などから、彼がかなり早くからイスラ l ムと接崩していたことが推測される。 つまり、 ヤサウル
は、中央アジアに経済的 ・文化的に大きな比重を占めるマ lヴァランナフルの中央部に位置して、 ドゥワ涯の有力な賂と
しての地位を固めつつ、 イスラ 1 ム文化の影響下に定住社曾との関係を深めていたのであろう。
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叶君"臼∞﹀。このクンチェクの治
さて、 七O 五年から翌六年にかけてカイドウ家諸王を遁い落し、中央アジアに単調主権を確立したドゥワは、七O 六年
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w が跡を襲った(吋z
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g
w包
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O六・七年﹀中に病設し、彼の息子クンチェク穴
(二二
下、ヤサウルはジンクシと共に、 不種な行動を示していたキュレスベを倒し、ドヮワ家政権の安定に貢献している(叶者-
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戸
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伯父にあたるタリク吋匙ρロ
しかし、クンチェクが七O 七 年 末 ( 二δ 八年五・六月頃﹀に設するや、代わってヤサウルの大
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トルグ・ホジャ O
が権力を掌握するに至った。この聞の事情は定かではないが、ドゥワの息子たちの内、年長のク
鯖途負傷がも
阿住者削古は先にカイドウによってアフガニスタンに涯遣され、六九八年(一二九 八 ・九年﹀頃、インド 遠征の
ドゥワによってクトルグ・ホジャの後
叶d・
5M13、 エセ γ ・ブカは七O 五年(二ニO五・六年﹀、
とで 浪 し て い た し (
れる。
gロ︼Urロ回目-UE の娘トルカ l ン 叶Rr削ロを母に持つ
タリクはケルマ 1 ンのスルタ l ン・ルクン・ウ γディ l ン ωロ
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司
始めたという。こ
ムスリムであり、イスラ l ムの普及に努める一方、ドゥワ一族やドゥワ涯のアミ l ルたちに匪力を加え
彼らに代わってウルスの
れに劃して、彼のいとこにあたるオルグ。E肉、が﹁ドゥワの息子たちの権威を認めず、他の者が
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んで彼に劃して軍を率
王たることがどうしてあって良いか?﹂と言って起ち上がり、次いで、ヤサウルがジンクシと結
、
ハン圏内の総意によるもので
いた(、HAHHhu吋君"臼∞13。 こ れ ら の こ と は 、 タ リ ク の 即 位が必ずしもチャガタイ・
タイ・ハン位へのドゥワ
なかったことを示すと同時に、とりわけタリグに近い血筋の諸王の反針は、この時すでにチャガ
、さらに抵抗した他の諸
家の権威が相嘗程度確立していたことを置する。しかし、結局、オルグはタリグと載って殺され
・マリク浜町宮出 ]FF の軍と一度は劃将
王たちも討たれた。他方、ヤサウルはフェルガ Iナにてタリクの涯遣したアリ 1
30 かくして、 タリクの勢威は盆々高ま
したが衆寡敵せず、軍備を整え直すベく退却せざるをえなかった(吋巧・臼∞1
た。だが事態はケベクの
り、ヤサウル等ドゥワ波の諸絡は窮地に立たされ、ドゥワ家の樺威もまさに地に堕ちたかに見え
登場によって急轄回を見ることになる。
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) という事情から察すれば、 クンチェク亡さ﹄
縫者に任命され、この時はるかアフガニスタンの地に居た(叶巧wmSl
クが立ったものと考えら
後、ドヮワ家には首面ハン位を継ぐべき人物が見つからず、チャガタイ家の長老格であったタリ
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諸王ケベクの登場
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y 官。│∞ 叶戸 EY 叶者-EC)。その生年は明らかではないが、七O 八年
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後にカイドウによって失脚させられたパラク切RZ(在位一二六六│七一年﹀を-組父に、
cロ・叶 O〆の系統に麗し、一時チャガタイ・ハンの
ケベクは、 ムアトゥカンの第三子、つまりブリの弟エスン・トアペg
権力を中央アジアに確立したが、
そしてドゥワを父として生まれた己、
R--wonzr・
) ︿削)あるいはタドヮワの年少の息子ク(℃U
(二ニO八 ・九年﹀頃に、 なお。ドヲワの少子φ(182EEロ ' F Hロ
、
匂
山
岡
向U、
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SZ C 4 6と 記 さ れ て い る こ と ( 吋 戸 広 三 吋 者 w臼S ゃ、兄クンチェクの浪時、彼がアルマリク地方の父や兄のオル
、
叶
ドの近くに居たにもかかわらず、前節で述べたごとくハン位を縫ぐに遁した人物とみなされなかったらしいことから推測
達しておらず、恐らくヤサウルより五、六歳年下であったと思われる。それ故、タリク涯が﹁我々
して、嘗時まだ成年に.
の王固とウルスの︹権威を確立するための︺最良の方策はドゥワ一族を完全に打倒して、彼らの子孫を根絶やしにするこ
とである﹂と決議したことを、タリクに従っていたあるアミ l ルから知らされた時、ケベクが﹁驚き慌わて、彼(タリク﹀
ウIザンに取りすがってタリクの意固と事情を説明した﹂ というのもある程度うなづける
を恐れるあまり、泣きわめきつつウ lザン ・バハ lドゥル CNS-EEE円の天幕に逃げ込んで、不運な時の危害を︹逃れ
るべく︺援助と保護を求め、
待 機 し て い た ケ ベ ク 及 び 彼 の 弟 エ ブ ゲ ン ﹀σ己向山口の二百騎とウ lザンの百
叶CUEd。この結果、 ウlザン ・バハlドゥルは彼に援助を誓い、宴曾中にタリクを襲う計霊園一を立てるに至った。そし
(
て、ゥ iザンが機を計って宴席を離れるや、
騎とはタリクのオルドに火を放ち、酒に酔っていたタリクやタリク振の諸絡をことごとく殺すことに成功したのである
吋CuHh!? ↓当・臼匂)。ワッサ l フによれば、このクーデターは七O 八年のことであったという。
(
しかし、この直後、政権をド?ワ家の手に奪回したケベクの前に早速危機が訪れた。すなわち、この機に乗じて、ドゥ
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、
町
g曲、オルラ I C同
wyR、 トクメ Hc
ワに屈服を徐儀なくされていたカイドウの息子チャパルが、 ヤンギチャルペ白ロm
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6
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オルス dH口凹等のオゴタイ家諸王を率いて、
ケベクに劃して軍を準めてきたのである。
ウズカ
ケベクは自ら軍を率いてアルマ
05官を護しチャパル軍を迎え撃ったが、敗北を喫し、彼の軍は総崩れをきたした。だが、
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。
、 チャパルはイリ河を越えて元朝に亡命するに至り、 トクメはケベク軍
方
一
ωrarr 吋回目。同並びにカイドウ家のシャl等が助力を申し出、ケベグはクナlス草原にて再びチャパル軍と交
zw・各与の息子のシャイフ・ティ
ロg
CNrg円四に居たタリクの甥のアリ I R﹀町 CmF巳 や ム バ lラック・シャ l 冨
リクのグナ l ス草原
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戦してようやく勝利を牧めることができた。
の迫撃を受けて殺された(、
HdwE∞!?叶当・日
かくして、 ケ ベ グ は ド ゥ ワ 家 政 擢 崩 療 の 危 機 を 脆 し 、 チ ャ ガ タ イ ・ ハ ン 園 の 支 配 穫 を 手 中 に 牧 め る こ と に 成 功 し た 。 と
同時に、 は し な く も オ ゴ タ イ 家 分 子 の 大 部 分 が 騒 逐 さ れ 、 チ ャ ガ タ イ ・ ハ ン 圏 内 の 最 大 の 不 安 定 要 素 が 除 か れ た の で あ
る。しかし、この成功においては、 ケベグ自身の非力さと劉照的に、 タリクに抵抗したオルグやヤサウル、 クーデターを
立案したウlザン・バハlドゥル、そしてケベクをチャバルに劃して勝利せしめたアリlのごとき諸王やアミlルたちの
力量の大きさが印象づけられる。このことは、ドヲワ 家 を支持する勢力の慶汎な存在を読する一方で、ドゥワ家政権自睡
がいまなお抱える惰弱性をも示すものに他ならなかった 。 再度タリクのごときハン位要求者さえ出現しないとは言い切れ
ない賦況がそこには存していた。その意味で、これ以後ケベクがとった諸策は注目に値する 。
すなわち、 ケベグは先ず元朝カlン、武宗カイシャン 03匹 目 に プ l ラ l ド 司 巳 包 OOHWEを 使 節 と し て 汲 遣 し 、 次
のごとく上申した。
﹁タリクは我々の父の地位を横領していた。私は偉大なる神とカ l ンの統治の力によ って彼から︹その地位を︺奪い
s。 こ れ は 、 ケ ベ ク が カ I ンの権威をもってタリクをク纂奪者。
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返した。また、トクメをも敵劉し叛いたので除去した。これ以後カ l ンに仕えたい﹂と。
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カ1 ンはこれを嘉し、彼に恩賜したという(吋
とみなし、 ドヲワ家政権の正賞性を主張せんとしたものと理解し得る。
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次いで、 ケベクは諸王アリ 1に劃してその功績を讃えて、﹁ホ 1タン地方の支配権CBEg
たにしかし、 アリーが任地へ向か
を輿え、 ﹁全トルキス タン 地方公曲目印S2・F Y Z仏 包 ム 吋5E2E) をその管理 下に置い
ニーによれば、 ﹁彼(アリ l)が
って出設するや、直ちに一部隊を汲遣して追跡させ、彼を殺害するに至った。カ l シャ l
)。 つまり、 ケベクのこの果断なる昆置は
C
勇敢な戦士であったので、 その反範を恐れた﹂ためであったという(叶戸 E
。
ドゥワ 家政権を脅かすに足る最大の存在を除去したものであった
の即位を決議せしめた。
そして、 七O九年の初め(ミδ 九年六月頃﹀、 ケベクはクリルタイを招集し、兄エセン・ブカ
ーシ ャl ニーによれば、彼はアフガニスタ ンの エセン・ブカに次のごとく俸えたという。
解放した。直ちに
﹁余は王園の玉座と王冠を汚濁した不純な者どもから清め、総ての敵を打倒して玉座を汝のために
あった軍と民を統べよ。﹂
童夜を問わず王閣の首都へ 向かい、長い期閉 その王座と王冠が従 土も主人も持たないままで
)。
C
E
(、叶戸
CWH色 │
ぎ出したのであったろう。
恐らく、 ケベクは自分の年齢等を考慮して敢えて立たず、年長で且つ経験も積んだ兄をかつ
たのである(叶
こうして、 急逮アフガ ニス タン より蹄還したエセン・ブカがチャガタイ・ハン園の王位に就い
ているが、
以上の経緯から見て、
この時にケベクの即位はありえなかった。むしろ、元朝カ 1 ンへの遣使、アリ lの謀
u
、
に位を譲ったとし
所で、 ド lソン以下は、 クーデターが成功した時黙でケベクがいったん即位し、 その後エセン・ブカ
A
内
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司
。
50u吋君 "ωElNO)
カ
エセン・プカは即位後、
﹁弟ケベクをフェルガ lナの地域とマ lヴァランナフル地方
し且つ危倶していて、そ
殺、そして兄エセン ・プカの推皐というケベクの諸策は、彼がドゥワ家政権の惰弱性を良く認識
の統治者としての資質の
れを克服すベく極めて慎重且つ冷静に 一連の事を運んだことを 示 しており、 そこにすでにケベク
がうかがえるのである。
一端、
さて、ヵ l シャ l ニーによると、
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、
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の、そして、 キシュとナフシてフ
凶
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r与の地の統治に振遣した﹂という(、HCW530 後に、
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Z島
い
内
,
V
恐らくハン位に即位後
∞ω) というから、これ以降、
のことと思われるが、彼がナフシてフの近くに自ら宮殿を造営した QZ¥JFH59Hll
クのオルドやユルトはカシュカ・ダリア関白島宮口同司曲漠谷に置かれ、そこが彼の根接地になったと考えられる。
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とは恐らく、有力
その輩下にあったドゥワの女婿アパチ﹀冨官 の子のテムル
吋 MHHMDHOEロ
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J司副官が任ぜ
エセン・プカの後任にクトル グ ・ホジャの子 ダウド・ホジャ ロ削者仏関r
られニクlダリlヤ 1 ンを率いていたが、
即ち、首時アフガニスタンでは
が起こった。
エセン・プカの治下には、 七O 四年(二ニO四・五年)の講和以来、久しく途絶えていた元朝及びイル・ハン園との争い
ケベクとヤサウルの反目
ねその地位を脅かすに充分であり、後の南者の封立の瑳端となったと考えられるのである。
とは疑いない。そしてまた、 ケベクのマ lヴァランナフル任命は、すでにその地に地歩を占めていたヤサウルの擢盆を損
ランナフルとフェルガ lナに確固たる地位を得たのであり、このことが後の彼の統治のあり方を大きく決したであろうこ
かくして、 ケベクは大きな権限と強力な家臣圏を擁して、 チャガタイ・ハン園の経済的・文化的中心であったマ Iヴア
なモンゴルの諸賂あるいは部族集圏を指し、 ケベクはそれらを。インジュ 10 つまり直属の家臣として自ら選ぶことを許
帥
されたのであろう。
ンジュ lたること e。
・1 関与mw)を自ら誇っていたという(冨H530 この﹂晶める者たち
目
旦 Dm曲
φ
める者たち 9 (自己曲目担当 4
さらに、ナタンズィーによれば、エセン・プカはケベクに﹁ウルス全佳から自らのために 富
巳
・
削ロ)を選ぶよう命じ、 ケベクはそのようにした﹂、そして、彼らの子孫たちはティ l ムl ル朝期に至っても、。ヶベクのイ
ケ
とラクミ 1 ル下島ヨ同は、その罵紳を脱するべくイル・ハン、 ウルジャイトゥの援助を求めた。これに雁じて、 七一二年
- 67ー
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.
.
.
0
9
6
とともにダウド ・ホジャを攻撃し、彼をアム河
の初め(一一一一一二年五 ・六月頃﹀、イル ・ハン園のホラサン駐屯軍はテム ル等
彼に援助を求めるに至った(吋CWEN
の彼方へ追いやった。 かくして、 ダウド ・ホジャはエセン ・ブカのもとへ逃れ、
。
O
M
H
)
N
l
│
8ー
-6
r
z
イル ・ハンによるチャガタイ ・ハ
ほぼ同じ頃、 ウルジャイトゥの元朝への使者アピシュカ﹀古与包の、 元朝カlンと
同
エセン ・ブカとアルタイ方面元朝軍の終
ン爽撃計霊を匂わす不用意な護言が問題化し (HdwM813、さらに、その後、
CWNON-3。
mE﹄乙門口印 との聞に行なわれた、園境地帯における笠方のユルト董定を園る禽談が決裂した(叶
トガチ吋o
に劃する不信が一気に高まり、遂に、彼は圏内
以上のごとき朕況が重なって、エセン・ブカの元朝カlン及びイル ・ハン
帥
て軍を汲遣すること三度、しかしい
を通過する商圏の使節を拘留する奉に出た(吋C-NE13。次いで彼はトガチに謝し
ジ ン ク シ 等 と 一高の軍を率いて
ずれも勝利を得ることができなかった。この内一度は、 ケ ベ ク が 弟 の エ ブ ゲ ン や シ ャ l
1 8。
いる(叶CMM8
て自己の所有にせよ ﹂ との敷令が護
この結果、ヵlンの﹁敵を彼らのユルトから腫逐し、彼らの夏営地・多営地を奪っ 川円
帥
た。 そ し て カ l シ ャ l ニ ー に よ れ
せられ、今度は逆にトガチ以下の元朝軍がチャガタイ・ハン園領内に攻め込むに至っ
ホラサン地方の占領をもって
エセン・プカは、元朝軍によって多大の領土とユルトが失なわれるのを懸念し、 西方の
(叶戸包∞﹀。
その失地を補ない、同時にダウド・ホジャのために報復を果たそうと決心したという
ミールたちの率いる遠征軍が
かくして、 ケベクを筆頭にヤサウル、 ジンクシ、ダウド・ホジャ、 シャl等の諸王やア
8・8 Y 叶者・ 230 このホラサン遠征軍の兵力は、 カl シャ I
H
七一三年の秩(一一一二三年秋)にアム河を越えた(叶己)、 サイフィーには六蔦騎とあり(吋戸 80 またケベク以下の諸
C
O
N
U
ニーによれば四寓あるいは五トゥメン(叶dwHE・
﹀
、
加した大規模なものであったことは疑
賂の顔ぶれを見てもマlヴァランナフル方面に駐屯する有力な諸絡のほとんどが参
の遅れたイル・ハン軍の先鋒を一蹴 し
いなく、これにかけるエセン ・ブカの期待の程が知られよう。チャガタイ軍は集結
:
a
1
9
6
アミlル・ヤサウルもかろうじて逃れ出
てムルガlプ草原に達した。これに劉して、ホラサンのアミlルの長アミlル・ヤサウル﹀自可ペ皆川問者一は急逮ホラサン
軍を招集してこれを迎え撃ったが敗れ、主将の一人ブジャイ回旦身は戦死し、
ケベグとヤサウルの意見の割立が表面化し始める。 先
, 。ョlpsc│ωωu り﹄吋wHOG-ロ
H
。
﹀
。
包"NS15hH,
F
・E
当
U、
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たという 3dwH
チャガタイ軍がこのように戦果をあげつつあったその最中に、
また、
サイフィl
マ
フ
ヤサウルは ﹁
アラl・ティlムlルを養子としてひき取ったという
ケベクとジンクシが敗走する敵を追ってトゥ 1 ス叶宮まで攻撃せんとした時、
ヤサウルはそれを妨げ、
25Rとその従士たちについて、
ず、チャガタイ軍がムルガlブにて捕えた千戸のアミlル、アラl・ティlムlル﹀B・
N030
ケベクが殺すよう主張したのに謝して、
(叶戸
ダン月にどうして信徒たちを殺害 ・討滅しえょうか﹂と言って 彼らをひき止めている(叶戸出。)。 さらに
﹁我々は戻るべきだ。何
によると、 ケベク位一すが敗走するホラサン軍を迫撃してことごとく殺したのに射して、 ヤサウルはホラサン軍将士からは馬
や武器などを取り上げるだけで放菟していた。そして他の諸王たちが夜も迫撃せんとしたのを、
故ならば、ホラサンのアミlルの多くが殺され、彼らの軍の兵 士たちの 多くが傷ついている。偉大なる博 士や高徳なる祭
。
者たちは、敗走者の追跡は賞讃さるべきものではないとしている﹂と言ってひき止めたという(叶FgT ロ﹄、戸口3
ここでは、任務の徹底遂行を目指すケベクの冷酷さにひきかえ、ヤサウルの寛容さがひときわ目立つ。無論、これらの
ヤサウルの行震は、信仰心に基づく純粋な寛容精神の褒露とはみなし難く、むしろ、イル・ハン園側に自分の寛大さを印
ヤサウルの亡命直後に筆を措いたカlシャl
象づけ、彼らと誼みを通じようとしたものと解される。事賞、後のイラン亡命の際、彼が肪けたアミlル・アラ l・ティ
口 ω)、 また
ー ム lルが彼とイル・ハン宮廷との仲をとり持ったし(吋C二
ニーは、彼の行震や人柄について極めて好意的に記す。ホラサン遠征中に、ヶベクがジンクシに ﹁ヤサウルはこの純緑の
N H 3 のは、まさにその故であった 。
ケベクはホラサン遠征の数年前より気附いてお
牧地、地上の楽園のごとき草原に留まる意固を有している﹂と語った(叶戸
所でサイフィーによれば、ヤサウルのイラン亡命の意固については、
9ー
-6
2
9
6
エセン ・ブカに次のように申し立てていた。
。 彼が騒観を起こして
を許してはならない 。 も し世 界統治者︹たるハ
好を求めている
﹁諸王ヤサウルは心をホラサンの方に傾け、 ウルジャイトゥ・スルタンとの友
マ1ヴァランナフルの人民をアム河の向こうのホラサンに連れ去るの
﹂
。
ン︺の救命が護せられる なら ば 、私 は彼を殺 すか あるいは 捕 え よう
U り﹄叶"ロω)。
C
エセ ン ・ブカはケベクの意見を取りあげずにいたという(叶戸 E
しかし
な っ て い た の で あ り 、 ホラサン遠征を機に
の怒意的な行動を抑えようとしたケベ
すなわ ち、すで に この 時に、 ドゥワ 家政権の安定強化を意園して諸王やアミール
、 その束縛を嫌って他に新天地を求めんとしたヤサウルの樹立は明らかと
﹂
クシ
L
マlダ第一月(一一一一一五年八 ・九月)には、
を得なかったのであろう。
一 70ー
,
司
国
。
その 封 立が表面 化したと考えられる
A
hwv
、
元朝軍の侵入のため蹄還せよ
七 一三年ズ ルカダ 月 ( 二 三 四年二・三月﹀ 、チャガタイ軍は、携行した糧 食 が 表 き また、
征は失敗に終ったのであるが、
とのエセン・ブカの命令に従って、急逮撤退する(、HdWHEWNElHC。結局、ホラサン遠
lニーによ
に蹄せしめた。カlシャ
蹄還したケベクはエセン ・ブカへの報告において、その失敗の原因をヤサウルの行震
年ジ
が出動し、パ lパ ーをイラン方面へ駆逐するという事件が起こっている(叶CuHalδ
をひき延ばさざる
イル ・ハン園との劉立が解消 されていない困難な獄況下に、ヤサウルの慮置
。 恐らくエセン ・ブ カ は 、 元 朝 や
、
方
を命じたという。 一
れば、 そこでエセン・プカはヤサウルの地位と寧の指揮権をケベクに輿えて、ヤサウルの討伐
い質すことを約束したと俸
イフィーは、 エセ ン ・ブ カ が ホ ラ サ ン 軍 の 反 攻 を 恐 れ て 多 に な っ て か ら ヤ サ ウ ル を 召 喚 し て 問
Uロ︼H 戸ω いずれにしても、 ヤサウルの離反は明白となったのであり、 エセン ・ブカとし
WNHf 叶出"。品H
える(吋C
﹀
。
際に下したのは、 ヤサウルが亡命す
ても何らかの措置を取る必要があった。 しかし、彼がケベクにヤサウ ル討伐 の命を質
帥
)。 この聞の七一五
C
寸 T 叶戸 E
Hl
N
るべく南下し始めた七二ハ年(一三二ハ ・七年)に入ってからのことであった(吋戸
ジュチ・カサル家諸王バlバlのホラズム地方掠奪に劃して、 ヤサウル
サ
り
3
9
6
七一六年、 ケベクは途にヤサウル討伐に向かった。しかし、 ジンクシより知らせを受けたヤサウルは汲め備えてケベク
ティ I ム
の攻獲をしりぞけ、 ケベグ輩下のアミ l ルや兵士たちの多くを自分の指揮下に従えたという。そして、アラ l ・
HSEF に向かった。ヤサウル
ールを使節としてウルジャイトゥのもとへ涯遣し 急逮サマルカンドを護ってテルメズ叶H
帥
帥
白と、キシュ、ナフシャブ、ク l ブタン
﹁彼(ヤサウル)の許可なく﹂、サマルカンド、サーガルジュ ω 同my
軍は南下の途次、
ホジエンドとブハラは彼らの通過方向から離れていた
、 ウルジャイトゥのもとに到着したアラ 1 ・ティ 1 ムl ルはヤサウルの亡命を願い出、パ
方
一
gロ等の地を掠奪し、住民たちを捕虜として連行した。
関口h
ので掠奪を兎れたという。
ル フ 切 と 罫 と シ ュ プ ル カ ン ωZFZ山口にユルトを要求してかなえられた。そして、直ちにアミ l ル・ヤサウル率いるホ
-71ー
ラサン軍がヤサウル支援のために涯遣され、 アム河を越えた。他方、 ケベクの苦戦を知ったエセン・ブカは念遅援軍を迭
り、ヶベクはジンクシ、 シャ l等とともに鍛門閥ロ白ヱ﹀ZEロにて再びヤサウルと劃戦したが、 ホラサン軍の到着のた
めにまたも敗退した。その後のテルメズ近迭での諸戦闘においても、 ケベク側に全く利あらず、 サイフィーによれば、
一六年ラジてフ月ハ一一一一一六年九・十月)、 ヤサウルはアム河を渡ってシュブルカンの草原に降り立ち、同時にホラサン軍も
同H
Hω15)。
HH!?吋戸 E0・Eωlru ︼J
莫大な戦利品や捕虜を携えて鯖還したという(斗ロ N
、
方
一
ハン擢力の強化にとっての大き
以上のごとく、ケベクはマ lヴアランナフルに大きな被害を蒙った上に、 ヤサウルのイラン亡命を阻止できなかった。
しかし、ヤサウルと彼に追随する諸王やアミ l ルたちの圏外退去によって、結果的には、
な障害が除かれるに至ったのであり、後の彼の統治にとってその意義は計り知れないほど大きかったに違いない。
ヤサウルを受け容れたイル・ハン園は、これ以後彼の活動に憎まされることになる。
ホラサンのヤサウル
七
た
だ
ヤサウルはホラサンに落着くや、直ちにウルジャイトずのもとへ使節を迭り恭順の意を表した。これに劃してウルジャ
四
694
イトヮは
﹁
余はアム河からマ lザンダラ 1 ンの境界に至る地を諸王ヤサウルに輿えた
﹂との
。 ホラサンのアミ l ル及、ひマリク
たちは可能な限り彼への奉仕と表敬に努め、彼のいかなる服従の篠件、命令と禁止にも違反することのないように
]HJHH
∞
15)。 これらのウルジャイトヮの措置が、 第 一にチャガ タイ ・ハン園からの攻撃に備える意固か
sEgと が 取 交 わ さ れ た と い う
一ーによれば、 同時に雨者の聞に約定書(〆E
救 令 を 渡 し た (叶戸。主13。カ l シャ l 一
口
H山
(叶 C W N ∞
帥
リクの
ら帰されたものであったことは疑いない。 いずれにしても、その結果、 ヤサウルは公式にホラサンのアミ l ルやマ
、
M,
机
・サ
上位に立つ権限を輿えられた。七一六年ラマダン月(一一一一一六年十一・十二月﹀にウルジャイトゥ設し、次いで、アブ l
h
u、
位は再確認された(吋戸
イ lド ﹀σロω同豆、が即位した際にも、 雨 者 の 聞 に 改 め て 約 定 書 が 交 わ さ れ 、 ヤ サ ウ ル の 地
これを阻止せんと、
g丹はヤサウルにアミ l ル・ヤサウル
r
アミ 1 ル・ベクトゥト﹀ヨロ∞H
アミ l ル・ヤサウルの復讐を果たすべく、
諸王ミンガン
、 アミlル・ヤサウルの後任のアミlル・
守
-72-
。巴│ム呂山口﹄ HHNC│ωω
AO﹃
ムHV
﹀
。
必然的に、 ホラサンのアミ l ルたちの聞に、 ヤサウルに誼みを通じて自らの地位を固めようとする動きが現われた。先
、
一方
ヤ サウルが、姻戚閥係を結ぶことを希望して、莫大な贈り物を携えてヤサウル
ず、ホラサンのアミ l ルの長、 アミ l ル ・
のオルドに赴いた。
これに劃して、
遂にアミ l ル・ヤサウルを謀 秘
に劃する疑惑の念を吹き込み、 サ イ フ ィ ー に よ れ ば 、 先 に 戦 死 し た ア ミ l ル ・ ブ ジ ャ イ の 後 任 を め ぐ る ア ミ l ル ・ ヤ サds
ヤサウルの信頼を勝ち取るに至った。
ウルとアブ l ・サイ lドの保護者アミ l ル ・ セ ヴ ィ ン ジ ﹀BMHωEとの封立に乗じて、
して、
冨5tu がア ミl ル ・ヤサウル の息子たちと結んで、ベクトヮトに劉抗したが
ホラサンのアミ l ルの多くが、 自護的にあるい
へラ lト の ク ル ト 政 権 の
gけ515。
!日・ミアω
寸u
州﹁が ベクトヮトを支持 したため、
エセン・クトゥル グ ﹀ ヨ可同日目,SEEm
glNNU 吋戸 g
は除儀なくヤサウルに服従したという(吋巧w
特
マリク・ギヤ l ス・ウッ‘ティーン宮釦-FOEU晶子と・ロEHハロえは、 嘗初よりヤサウルへの服従を拒否しており、そ
しかし、必ずしも総てのアミ l ルやマリクが彼への服従を認めたわけではなかった。
主
凶V
ls
J
アィ l ン
ク lダリ IヤI ンを率いるアバチの子テムルや、 シースターンのマリグ・ ナスィ 1 ル・ウヅ
一
れに倣って、
ロE、その他のホラサン地方のマリクたちが頑強に抵抗した。このためヤサウルは、 ヘラ Iトやシ l スタ
・
宮丸一 SHH巳
Z
w
・。=ーゴ UU]吋・ロ印│ω3。 それにもかかわらず、
l ンを攻めたがいずれも失敗している(叶一FEω│島・⑦印。
迭にイラン全土
の勢力の増大に意を強くしたヤサウルは、アブ 1 ・サイ 1ドのもとでのアミ l ル聞の権力闘争に乗じて、
,
.
a
A
A
、ホラサンからイラ
の支配擢を狙い始める。因みに、サイフィーによれば、アミ l ル・エセン・クトゥルグはヤサウルに
ヤサウルはマ 1ザンダラ l ンまで、
、 ヤサウルは部下の
)
)。七一八年ジ品マ Iダ第二月︿一一一一一八年七・ 八月
lクへの準出を促す 書簡 を 迭 っ て い る ( 吋 戸 弓ω
八年八・九月)、 ヤサウル軍
アミ l ルたちに、 ホラサンを経てイラ lクに攻め込む計重 を打ち明け、同年ラジてフ月(一一一一一
ロに達した。 しかし、
ベクトゥトはダlムガlン ロ帥目的﹁削
はホラサンに突入し、
マIザンダラ l ンより撤退を除儀なくされたのであ
では涯遣されたヤサウル軍の
ラサンの諸都市はヤサウルの服従要求をはねつけ、 メ シ ェ ド 冨gZM包などいくつかの都市
兵士を殺したという。結局、 ヤサウルはホラサンの制匪を震し得ず、
伐に任ぜ
同ロから援助の約束をひき出した 。 そして、直ちにアミ l ル・フセイ ン ﹀日同伺54ロがヤサウル討
wgや│∞rg∞ 白 )。
った(吋出
バン
マリク・ギヤ l ス・ウヅディ l ンは、 ヤ サ ウ ル の 行 動 に つ い て ア プ 1 ・サイ 1ドに訴え、 アミ l ル・チョ
Eσ
、
方
一
krBM
てン 園 嘗 局 は ヤ サ ウ ル の 行 動 を 反 凱 と み な す に 至
・いハ
こに
ルお
ω す な わ ち 、こイ
・5
叶
同
られた(叶戸 SNly 口
﹀
。
、 ヤサウルの留守に乗じてバ 1ドギ l ス切削牛肉宮田のブジ
マリク・ギヤ l ス・ウ γディ I ンは
例えば
イスフィザ 1ルゲ出品同のクト?ブ・ウッディ l ン
巳u
z、 フアラ l フ司同SF の イ ナ ル テ ギ ン
ο£σ-
・ギ
・
クデ
ィヤ l ス
ウリッ
。 以 後 、マ
)
寸
域を荒らしただけで撤退した(寸戸 Sωl己
たち、
- 73 ー
自
ら
ホ
の兵士たちの家
ャイの息子アプ 1 ・ヤズィ lド ﹀σロ吋自己のオルドを襲わせ、 アブl・ヤズィlドの家族とベグトクト
す、周遊地
が果せ .
族を捕えた。 ヤサウルは直ちに捕虜の返還を求め、拒否されるや三度にわたってへラ lト を 攻 圏 し た
I ンは、ヤサウルに従ったマリク
ったのである。かくして
円
。
5
9
6
、 バ I ハルズ切包会白円
口
包-E江
JEロ
︿
削
N
マリク・ギヤ l ス ・ウヅディ l ンは
ハーフ穴 yd司邸内
チャガタイ ・ハ
ヤサウルの支持基盤を徐々につき崩していった(叶戸寸口lbw
j
そして、
N
のザラ N白
E 要塞のアブドウル・アズィ lズ メ ゲ仏丘¥﹀ 町、
d Y Z丘正等を次々と制匪し、
g
迭に七二O年ジュマ 1ダ第一月(一三二O年六・七月﹀、
のホジャ・マジド阿
a?18)。
そして、
ン、ケベクに軍隊の 一波遣を要請した。これに麿じて、 ケベクはイルチギダイ出社}内正副可、 ルスタム河口洋曲目、 モンカリ l
5
EE-M・ 項削﹄曲、プラド回己包という諸王を四寓騎とともに汲遣し、さらに、アミ l ル・フセインに使者を迭つ
ホジャ Z
てホラサン軍とヤサウル爽撃を策した。かくして、 アミ l ル・フセインやマリク・ギヤ I ス ・ウッディ l ン等の率いるホ
。
マlヴァランナフルに戻った彼らの子孫たちは、十四
チャガタイ ・ハン園崩
ヤサウルと愛人の女奴隷とのエピ
肥満したE鎧︹の持主︺﹂であっ
4ー
- 7
、
ラサン軍四高騎もヤサウルに劃して出動した。 チャガタイ軍は、 ヤサウルの陣営に近づくや 秘かに 一国の者をヤサウル
軍の中へ迭り込み、好篠件を提示してヤサウルのアミ l ルたちの離反を促した。その結果、南軍が戦闘に入った時、
ウル軍のアミ l ルたちが一斉に離脱し、ベクトゥトを襲ってこれを殺した。 ヤサウルはこれを知って一族とともに逃れ出
、H
︼
JHalguZω ・
l岳山 口
イルチギダイは一千騎に追撃させ、ヤサウルを捕えてその場で殺すに至った(吋戸寸gl
巾
・
。
。
き人柄、賞讃すべき考えを有し、片眼が斜眼で、背が高く、頑強な鐙躯、分厚い鐙格、
TY)
市J
戸
ω ♂N品0・N
N
U
V
、 ヤサウルについて、
所で、 カl シャ 1 ニlは
、d
-NNO﹀、その剛勇さの記述に相嘗のベ lジを割く。ま た、彼の惇える、
H
たと停え(
﹁美しい顔立ち、善良な性格、少し突き出た顕著な贋いひたい、愛すべ
叶
ωlpNZ¥J戸田 QwgqWHEn 口⑦mHNEw--ω 円台ugwSWHOPZJ
ω
F
H
"
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慶後の政局に関わることになる(吋Z
世紀半ば以降、 いわゆる クヤサウル黛クペ
grz一ユロとしてサマルカンド地方に再び勢威を築き、
をもってホラサンにおけるヤサウル一葉の活動は終りを告げるが、
臼13。享年三二、三歳、ホラサンに穏を唱え、一時はイランをも窺った諸王ヤサウルのあっけない最期であった。これ
争?刀
@
、
告
団
‘
、
ヤ
サ
6
9
6
で豪放嘉落、剛勇無隻にして
ソードは、 かの項羽と虞美人の物語を想起させる(吋戸 N030 これらの記事からは、偉丈夫
しかし、彼の行動について、マリク・
且つ情の深い、典型的な遊牧貴族としてのヤサウルの風貌が浮かび上がってくる。
らされないであろう。何故なら
﹁諸王ヤサウルからは、余とこの地のアミ I ルやマリクたちにはいかなる恩恵ももた
れを知らぬ軍隊によって破滅した
ば、彼の行動の故に、マlヴァランナフルは荒慶し、何千というムスリムが彼の恐
軍隊は何年もの閉それを鎮めるこ
からである。:・:結局、諸王ヤサウルはこの地において騒凱をひき起こし、諸闘の
とができないであろう。﹂(吋戸 E 3
という観貼から見た場合、ヤサ
これはまさしく、定住吐舎の統治者たる者の言である。 つまり、園家統治や吐舎の安定
同
クトゥト一人に頼って重用し過ぎ、
ウルの行動は阻害保件でしかなかった。例えば、彼の最期の局面を見るなら、彼がベ
得という貼において結びついたいわば
他のアミlルたちを上手く掌握 していなかったこと、彼の軍はあくまでも戦利品獲
彼はムスリムであった。 彼の信仰について、
ルの活動は、車なる掠奪や武力行使に
寄せ集めの軍隊であり組織化が不充分であったことは明らかである。結局、ヤサウ
ないのである。この意味で、ヤサウル
終始しており、そこには何ら確たる政治的理念あるいは配慮というものが見出され
の志向は、ストロエヴァの述べる第二の政治傾向に確かに合致する。
マリク・ギヤlス・ウッディ 1 ンは言下に否定する。 つまり、
しかし
陶戸守主、
v
a
ムスリム男女の生命を奪うことに熱
﹁もし諸王ヤサウルが信仰に闘して最低限のものを身に附けていたなら、何千という
。
サンにおいて彼がへラ l
中はしなかったであろう。 :::彼の外面的な善行は信頼しえない﹂と(叶戸 E 3 犬、力 ホラ
宮
、 つまりアンサIリl﹀ロ包出の墓や、ジェシト﹄2Z のシャイフ・ジェシト ωrarrT印
戸
}
削
トのガlゾルガーの凶 NZH-m
F 0・83、また、
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fg包の墓などに詣でていること(吋国・ 8
可r ﹀
の墓、 ジャ l ム EB のシャイフ・アフマド ω ﹃印r
⑦
∞
三
・ウ γディ I ン・アサバ ω曲
イラン亡命に際して、 ナジュム・ウッディ l ン・アキ lリl Z &白色目。Ea﹀内副長、サイフ
- 75ー
ギヤlス・ウッディlンは次のごとく評する。
7
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サイフ ・ウッディ l ン ・バフシ lωミ!同
F-色・ロZ Z S同町円というブハラやサマルカンドのイマ l
M
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・サ ミ l 1 2とB
一
一
ジャマ l ル ・ウ ッディ 1 ン ・ナサフィ l
a
マリク・ギヤ l ス・ウ ッ
同時にイスラ l ム定住文化への傾倒を深めつつある遊牧貴族が 出 現 し て い た 。 つま
公正なるハン、 ケベク
のみ頼り、定住民統治において無策・無定見をさらけ出した。この貼に、 ヤ サ ウ ル の 政 治 行 動 の 限 界 が 見 出 さ れ る の で あ
1 ム受容の側面はともかくも、定住社曾との関わり合い方から言えば、蓄態然たる掠奪あるいは武力的強制という方法に
る。ストロエヴァの偲読の 一つの依陥は、このような観駐を包括しえない所にある 。 そして、ヤサウルの場合は、イスラ
帥
受容するか否かということではなくて、イスラ l ム 文 化 並 び に 定 住 祉 舎 と い か に 闘 わ る か と い う 貼 に あ っ た と 考 え ら れ
り、少なくともこの時期には、彼ら遊牧貴族に とって根本的な問題は、すでに遊牧か定住か、あるいはイスラ 1 ム文化を
牧 民 的 健質 を色濃く保持しながら、
のであろう。 モンゴルの征服から約 一世紀を経過した中央アジア、特にマ lヴァランナフルには、ヤサウルのごとく、遊
ディ 1 ンの非難にもかかわらず、恐らく、嘗時のトルコ・モンゴル系遊牧貴族によるイスラ l ム受容の一つの型を示すも
についてさえもなにがしかの理解力を有していたことが剣る。このような彼の信仰のあり方は、
ウルが、 スl フイズム的傾向を帯びつつも、明らかにイスラ l ム及びイスラ l ム文化に良く馴んでおり、 イスラ l ム諸皐
AZ仏帥ぺ
wMHC そして ウルジャイトゥが使節として汲遣したル l ムの司法長官内回仙台色
ムたちを傍に従えていたこと(叶d
﹀
、
、
ナジュム ・ウッディ l ン・タイイピ 1 ZとB と・ロE 吋昌三宮への封鷹の仕方(叶d-NH3 などから見て、ヤサ
白 血
代については、唯一ナタンズィ l(ZHHoc-ロ﹀が、 七O 九 年 ︿ 二δ 九 ・十年)即位し、十二年聞の統治後、七二一年
ケベクは兄エセン・ブカの跡を縫いでハンとなったが、その治世について諸史書が停える情報は極めて少ない。在位年
五
- 76ー
ロロ
る
川V
一 六 ・七年﹀の末頃には、 エセン
一
一
一
(一一一一一二・二年﹀に渡したとするが、信頼しえない。前述したごとく、七 一六年ゲ ペ グ 納
(
一
筋七年(一三二O年﹀弟怯別王立つ﹂ とあって、 至治元年(一一一一一一
プカがいまだハン位にあった。また、元朝史料には﹁延 一
q
A
一年﹀から泰定三年︿二ニ二六年﹀まで連年のごとく元朝に来貢してい却し、 さらにケベクの名が刻印された貨幣の現存す
帥
総合すると、ケベクの治
るものが、 七二二年三三二二・一三年﹀から七二五年(二三一四・五)に至っている。これらの貼を
られる。オリヴァーやバルトリドは
世は早くて一=二七年、遅くとも一三二O年には始まり、 一三二六年に終ったと考え
A
Mn、
'
る。
二一二八年頃の即位とし、この年次が現在まで採用されてきたが、その根擦はなお陵昧なままであ
- 77ー
ウル討伐軍涯遣要請に闘す
ハンとしてのケベクは、 七二O 年のへラlトのマリク・ギヤlス・ウッディ 1 ンによるヤサ
関与件)﹂のもとへ次のごとき書簡を濯った。
1a﹀円匡 一
(司包佐島岡山E ・
は大なる破壊を行ない、
﹁諸王ヤサウルは 7 1ヴアランナフル地方からこの園へ軍隊を率い、 ホラサンにおいて
﹁余が、近年、
これに醸えてケ ベクは言う。
サ
︹アム河の︺向こう側へ兵を迭る意固など全くなかったことは周知の逼りである。しかし、諸王ヤ
びまたそちらの諸地方に動範が勃設し、以前にも増して混飽と騒凱が起こるであろう。﹂
では、彼がマlヴァランナフルを狙っているとの情報が贋まって
カ ヘラlトの市内にて殺された。現在、 ホラサン
・1 ‘﹀在、が彼の駆逐と根絶のために一軍をこちらの園へ涯遣しなければ、再
釦
いる。 もし公正なる皇子回包岳山Z包
::そして、四0 日
ザンダラlンにおいてはサイイドやイマlムから婦女子や貧乏人に至る約一高の人々を殺した。:
恵とによ って、穀類を焼
間、流血を恐れぬ不敵な四高の兵をもってへラ lト の町を包囲したが、神の恩龍と王園の恩
。 ︹逆に︺彼の配下の千人もの名のある勇士たち
き梯い、若干の乞食やごろつきを殺した他は何ら篤しえなかった
ーr
ョ
る記事中に初めて現われる。
ウヅディlンは ﹁公正なる皇子ケベク
即ち、この年のジュマ 1ダ 第 一 月 三 三 二O年六・七月﹀に、 マリク・ギヤlス ・
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9
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7
ウルが大なる破壊を行なっており、 至高なる紳の下僕たちが彼の軍隊の匪迫と不正のために悲嘆と災禍のただ中にあ
ることをマリクが明らかにした以上、余にとって、軍隊を波遣して彼の駆逐のために可能な限り努めることは正首な
こととなった﹂と。
E5
2R・
・ 邑缶)、
イラン侵略の意園を有せず、
﹃元史﹄における連年の朝貢の記事とも考え合わせるなら、 それは
恐らく即位以後、
かくして、 ケベクは一軍を汲遣し、前節で述べたごとく、 ヤサウルを倒すに至ったのである(叶戸、芯ωlg
﹀
。
へラlトのマリクの
ここからは、 ケベクが。近年。
強い要請によって始めて軍隊を涯遣したことが剣る。
ホラサン軍のアミ I ル・アサインがケベクの呼びかけに即鷹したのも、
ケベクのこの努力に劃するイ
ケベクがイル ・
ハ ン園及び元朝の隻方と封立の解消に努めていたことを示す。 マリク・ギヤ l ス・ウ γディ l ンがわざわ
ざ汲兵を要請し
ル ・ハン園及びクルト政権側からの好意的評債の現われであったに違いない。結局、 ヤサウルは、統一と安定に利害の 一
4
単なる
N仰岳・三
Y
回包白E
致を見出したこれら園家諸権力によって翠げ て排 除されたのであり 、 ケベクはそれによってハン擢力の強化を果たしたと
考えられる。
公 正なる皇子
。
サイフィーが切包∞EZ包同と呼ぶのは他にドゥワのみであって、
所で、前掲の記事において、ケベクは従来の皐なる 。諸王。 ωzrN山骨とは異なり、
メ門巴という新たな呼稽を附輿されている。
WAFoch﹂とから考え、 これはまさにケベグがその時すでにハン位にあっ
}戸r
ω
削N
山岳とは明確に区別されている(四回・叶E
たことを示す一つの誼撲でもある。しかし、ここではそれにさらに長門邑が附されている貼に注目したい。 サイフィ!と
ψ(h
(a
包己﹀であり、抑座された者たちには公卒
一三三三年にマlヴァランナフルを訪れたイブ
﹀門邑)の暁を附すことが一般化していたことを推測
ほぽ同時代のワッサ 1 フが、 チャガタイ軍のホラサン遠征に閲する記事中で、ケベクをすでに ωEZ包向関与曲目内品門巴と
呼んでいる(叶巧入戸ω)ことは、嘗時、 ケベクの名に。公正なる
させる。そして、この呼稿が皐なる外交僻令でなかったことは、例えば、
ン・バトゥ 1タの﹁ケベクは異数徒であったが、 しかし、統治において公正
8ー
-7
(JW
門出﹀と寛容の印の現われる
達した時、王園は彼の
で、ムスリムには覚容と敬意を示した﹂という記述 Q ω己、あるいは、﹁順番がケベク・ハンに
切
〆
S、
E-O の名聾は世界中に知れわたった﹂ QZ¥ω-E)、﹁ド Pワ・
h偉大さにより立涯になり、彼の公正さと良貨 (包
さ、知恵と権威とによって
ハンの子ケベク・ハンは賞讃すべき性質の君主であり、 王園は彼の準備の完全さ、統治の卓越
ペ gb ﹁第十代目の玉である
あらゆる光輝を得た。 そして彼の公正さ(ぷ色)の名撃は世界中に知れわたった﹂(判Z¥ ﹀
、
H﹀で
佐官・密口・1B5E宇佐E
ケベク・ハ l ンは、その系統の内で性質の賞讃さるべき君主であり、 公正なる統治者 C
、 ﹁年代記作者たちの一致した意見により、 ケベク・ハ lンは正義
あった﹂(河川 V ︿wNNd
紀を正して定
そして、 そこからは、自身ムスリムではなかったにもかかわらず、 イスラ 1ム文化の理解に努め、園家の綱
貴族た
住祉舎の一幅一祉と安寧に意を注ぐ君主の委が浮かび上がってくる。このようなケベクの君主像は、 一方において遊牧
んとする、
ちの怒意的な行動を抑制し、他方において在地支配層の協力を得て、 ハン権力を強化し中央集権園家を確立せ
なるまい。そして、彼
タリク打倒のクーデター以来十徐年にわたって一貫して追求されてきた彼の政治的意園の反映に他
-79-
w 戸き)とするティ lムI ル朝諸史家の記述によって明らかである。諸
所、慈悲と恩恵の光の設する所であった﹂(司ω
イランの俸統的な。敬訓文率。 の型に従ったものであるこ
ではそれらの詳細について
書はさらにケベクの。公正なる統治。 の具睦的な諸相をいくつかの逸話を介して停える。ここ
マイダ l ニl ∞包同問-・己目口
γ
は省略ぜざるをえないが、 イブン・バトゥ lタの、 。神撃者バドル・ウ ディ l ン・アル
、
閲する劃話。 及び,貧しい婦人に劃するアミ I ルの横暴を裁く話。 (HFωN1ωω)
白 宮司門前巴とのケベクという名に
3、 そして、
、
ナタンズィ lの。エセン・プカとケベクの定住民への封慮の仕方の相違に闘する話 e (宮HJHS1
呂HHHO│戸山村Z¥JFgblq
ナタンズィーやヤズディ l等の惇える 。路傍の人骨についての調査と裁きの物語。 (
lp 叩ω・戸。。)がそれである 。これらの逸話が、
あ
ンで、このように多く
とは一目瞭然であり、必ずしも事買を語ったものではないであろう。ただ、歴代のチャガタイ・ハ
の程がしのばれよう。
の逸話を院仰せられた例は他にない。首時のムスリム祉曾におけるケベクの公正な君主としての名聾
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-るいは、
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が最大の敵であったヤサウルを討滅して、附和雷同しがちな遊牧貴族たちを強力に統御することが可能になった時、その
意園は最終的に達成されたと言える。その意味でまさにヤサウルの死は、 ケベクによるチャガタイ・ハン支配鐙制の確立
を象徴的に示すものであった。
り
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彼の治下チャガタ
9
と稿さ
の問題を解決せんとした統治努力と軌を一にするものと考えられ、それは モ ンゴル支配者たちが自らの支
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主として諸史書によってこの過程の政治的側面の一端を明らかにしたに過ぎない。 より詳細について、特にその社舎経済
時に、在地農耕定住祉舎における政治的・祉曾経済的秩序の再編を必須の要件としたことは疑いない。本稿においては、
れる所以であ討。しかし、この道程は撃にモンゴル支配層聞の政治的擢力闘争のみによって辿られた誇ではあるまい。同
配値制を維持していくために必然的に辿らなければならなかった道程であったと言えよう。ケベグが。小ガザン
タ部族と財政
イ ・ハン園はしばらく統一と安定を享受しえた。ここに至るまでにケベクが辿った方向は、まさにイル・ハン、ガザンの
理化の過程であった。そして、 その過程はケベクによるドゥワ家政権の安定的確立をもって終結し
十四世紀第一四牢期に中央アジアにおいて展開された権力抗争は、 モンゴル支配層内部における政治権力の 一元化・整
わ
的内貫については、 なお文書史料や貨幣資料等をも併わせ検討する必要がある。後日を期したい。
註
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お
足利惇氏博士喜高記念
拙稿 ﹁チヤガ タイ "ハン図の成立 ﹃
﹂
、
本オリエント皐禽編、一九
オリエント皐・インド皐論集﹄、日
七八年、一四三│二ハ0ページ参照。
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T.IV,pp.565-68,605-8,613-30,642-44.
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: A.Vambery,GeschichteBochara's,Pesth,1872,r
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.Oliver,TheChaghataiMughals,J
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: R. Grousset,L'EmPire des Steppes,Payot,Paris,1939,
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同 ヤ ズ デ ィ lは次のごとく記している。﹁その町がカルシ 1
02MEとして 知られ る理由 は、ケベク・ハlンが ナサフ Z自に
あるい はナフシャブから 2 フアルサフの地黙に宮殿 P3C を
建築 し、モンゴ ル人が 宮殿のことをカルシ!と呼んだことから
であった。﹂
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口
の記す。ケベク・ハ 1 ンのトクメンク(叶
がそれに嘗るかどうかは不明。
佐口透﹁十四世紀に於ける元朝大カ l ンと西方三王 家との連
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帯性について││チャガタイ ・ウルス史研究に寄せて﹂、﹃北亜
、 一九四二年、一│六四ページ、及び拙稿
瞬
細亜皐報﹄第 一
﹁チヤカタイ・ハン図の成立﹂、一四八│一五0 ページ参照。
慶
主
倒 ﹁湾住元 師出使事賞﹂(﹃清容居士文集﹄ 三十四所牧)の 自
二年(一 一一二三年﹀の僚にも、アピ シュカ(阿必失恰﹀の褒言
についての記事が見出される。
帥﹁奔住元師出使事寅﹂、自主慶二年の僚には、奔伎がウルジャ
イトクへの遺使の途次、エセン ・プカ に拘留され詰聞 を受けた
宅u ' J
経過が 述べられている。
一 八、林冗見(土土喰﹀停、及び﹁句容郡王世績
一
帥﹃元史﹄ 一
碑﹂(﹃園朝文類﹄二十六﹀、並びに前出﹁奔住元町出使事寅﹂
アカ
zh
。
は、延一拍元年 (一一一一一四年﹀に諸王也先不花が叛いたとする
河
伺 カ lシャ l ニl (斗C・53 は、チャガタイ軍のアム河渡
を 七 =二年ラマ ダン月の末 (一一一一一四年一月頃)とする が、別
の筒所(吋C-56 では、七一三年ズルカダ月(一一一二四年二
月頃)に チャガタ イ 軍 筋 還 の 報がウルジ ャイトゥのもとに届
き、彼らが 渡河 してすで に五箇月経過 していたこ とを記す。こ
れから逆算すると、チヤガタイ軍のアム河渡河は二ニ二二年の
十月頃でなければならない 。ワッ サl フ(吋巧・ 2 3が、チャ
ガタ イ軍に制到してウ ルシャイトゥ が出動 し、トゥlス叶口聞に
到着 した のが、七 一一一一年の冬の始め(一一 一二三年の 初冬) とす
るのがそれを裏附けるものとなろう。
、
年
帥 ﹃ 元 史 ﹄ 林 冗 見 停 及 び﹁句容郡王世績碑﹂ に は 延祐二
品プグ γ
(一一一一一五年)、林冗見等が エセン・ブカの汲遺した也不干及び
の75rEC の
tヨロ円か?)を 赤菱干 (
問7・
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(OC
己
忽都帖木見
地に破り、追跡して鍛門閥に至ったとあるが、元朝軍がキシュ
とテルメズの聞に 位置する銭円開。創刊rEL ﹀rsz まで 侵入
したとは 考え難 い。誇張か あるい は別の地 を指し ているかのい
、
﹀ は
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ずれかであろう。また、カ lシャ l z l (斗C.MHo
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百円身﹀のユ
E口mriF ω
族 ( C ZS
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元朝軍が チャガタイ 家一 一
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ルトである、 A,色町の 夏営 地と H
,
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は タラ
諸 オ ル ド や 妃 や 息 子 た ち を 掠奪 し た と記す。、
からチムケントのあるイスピ lジャ lブ HMZEF地方に至った
、
NE) が
安 に制到するモンゴル人の呼稀である(c・
円
ス 吋釦
同
は、タラス方面
rEEr の位置は不明である。恐らく 、元朝軍,
のであろう 。
帥 カ l シ ャ l ニlは、ャサウルの南下 及び ケベクとの戦闘酬を、
七一六年ラジャブ月三=二六年九・十月)からシャツバ l ン
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月(同年十・十一月﹀にかけて述べる。サイフィ lは、同年ジ
占
zzrE
7 1ダ第一月(一一一一一六年七・八月)からラジャブ月(同年
九・十月﹀にかけてヤ品ソウルの亡命事件を記す。
帆
ロ地方の村。巧-∞EZF
伺サマルカンドの北西
叫
q和的におお札。He誌 HZFG ﹄hgh。NLPGQhS-FO口仏OPVL・色・
N
d
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5
58・3 8
・ 1∞多照。
FZEE- 。
・
、
倒テルメズの北ののロ丘町宮地方か 0・ 巧。
下、足参照
HF N M M )は七二ハ年ラマダン月二十七日
帥 カ lシャ l ニl (、,
(一一一一一六年十二月十三日)、ヮッサ l フ(叶巧・ 23 は同二
地を得、財物と地位の所有者とならん﹂と言い︿吋,F 8 3、
また、﹁余は、帝王アプ l ・サイ lドが︹いまなお︺王園の玉
座に座したまわず、ア ミl ル等が勝手気ままに統治に介入 して
いると聞いている。この知らせが事食ならば、余はホラサンか
らイラ l pへ向かい、スルタン・アプ l ・サイ lドを玉座に就
かしめ、その主権の反抗者たちを狼紹やしにして錦還せん。も
しそれが俄りであり、スルタン・アプ l ・サイ lドが縫ぐべき
玉座に就きたもうておられたなら、余はマ lザンダラ!ンの地
∞
C。
よりひき返さん﹂とも言ったという(吋戸 20l
日開例えば、七一 九年ラピ l第 一月(二三九年四・五月)項、
ヤサウル自らへラ lトを包圏攻撃した 際、彼の箪の兵士たちは
彼が見守っ ている時には 奮戦 して見せ、見ていない時には 戦う
のを止めたという(斗Z・戸 ω﹀O
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門 戸 OESF 吋 宮 の250同任。。
で参照。
玄ロ四EZ-eN
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MW この観黙は、イランの場合については、すでにベトルシ ェ
アスキーに よって提示されている。ェ・口・口巾、﹃同︼可巨内田門田富田向。 2hRhh・・・・円弓・ 2 参照。
hW2h
﹁奔住元師出使事質﹂延祐七年の僚参照。
﹄ 二十七、 英宗 本紀一以降、同一一一十、 泰定帝本紀二ま
帥 ﹃ 元史
制
倒
叫 hw
kph・・宮門仲
回
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十九日(同十五日)、ハ l フィズ・イ・アプル l ( U﹄吋・己申﹀
は同年シャツワ l ル月一日(同年十二月十七日)とする。
一 七
二
帥 ワ ッ サ l フ (吋者・ 23 によれば七一七年の 春(一 一
﹄ HJHN3 によれば同年
年春﹀、ハ 1 フィズ・イ・アプル l (ロ
サフアル月の始め(一一一一一七年四・五月頃﹀のことであるとい
アミ l ル・ヤサウルの 求婚の相手については 、ヮッサ l フ
。
つ
詮
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巧 -巴。﹀はヤサウルの大伯 父 の子、ズルカルナインの娘エ
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、
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セン・クトルグ 釦ロム三宮間r とし、サイフィ l ( Z-E3
、
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は盟十にヤサウルの娘の一人とする 。
F E S による
帥 ア ミ l ル・ヤサウルの死は、サイフ ィl (叶
と、七一七年ムハツラム月(一一二一七年三・四月﹀のことであ
るという。
サイフィ ーによれば、ャサウルは部下のアミ l ルたちに﹁イ
ランの諸園を余のものになさしめよ。きすれば、汝等嫡慌ても領
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。
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帥 植 村清 二﹁察合墓汗園の興 亡﹂三、
、 一九四一年、七十一 ページ参照。
鏡
蒙古﹄第八巻、第 十二
﹃
4ー
-8
was
more
effective
than
single-crop cultivation in
soil there.
Moreover,
vation were
suitable for double-crop
geous
single-crop
than
However,
in these new
the narrow,
ten to fifteen mou畝areas
cultivation.
the
salty
under
It became
more
culti-
advanta-
cultivation。
in terms
of harvest
yield, double-crop
cultivation of wet
rice
coastal fields was inferior to the late-ripening, single-crop rice
cultivation in the fields of the interior.
to avoid the problems
of its productive
potential, nor
of wet
It had been
of irrigation and poor
cultivation of wet rice in the new
techniques
transforming
chosen
in an attempt
soil. Consequently,
double-crop
coastal fields did not attain the height
did it attain the standard
of
Song
period
rice cultivation.
KEBEK
AND
YASAWR
The Establishment of Rulership in the Chaghatai-khan
Kato
During
ghatai khan
the first quarter
commenced
family
In
of the fourteenth
a rulership.
Yasawr,
summary,
Kebek
of another
murdered
vered in strengthening
interest in opposition
to him.
by armies
of its inner
Kebek
of the Duwa's
kings' lineage.
of an a伍Hated
the powerful
the governmental
and failed in
defeated
the state of Cha-
political process is accurately
a member
as a“ usurper ” and, by checking
he was
This
this period in the struggle between
clan, and
to Khurasan
century,
on a course to centralize the authority
ruling circles in rebuilding
reflected during
Kazuhide
aristocracy, perse-
authority, tried to act in his own
Consequently,
his attempt
despatched
nomadic
clan, Taliqu,
Yasawr
was forced into exile
to seize control of Iran. In
by Kebek,
who
had
1320,
already become
Chaghatai-khan.
While
possessing
aristocrat, Yasawr
moslem,
was
the
typical qualities and
yet a new
eχhibited a leaning
government
Kebek,
because
on
gion, attempted
he had
toward
kind
appearance of
of nomadic
Islamic
culture.
no policy for governing
the other hand,
to understand
appearing
Islamic
−3−
a nomadic
aristocrat who,
He
lost charge
a non-nomadic
to be a follower
culture and made
of an
plans
as a
of the
people.
alien reli-
to strengthen
its relationship with the non・nomadicsociety. He
won
the fame
of being
a just ruler。
In conclusion, the process of centralization of rule developed
Khan
as the
authoritieswere able to control the selfish and separatistambitions
of the nomadic
aristocracy. Thus, this development,
the death of Yasawr,
may
to establisha stablegovernment
the rule of Kebek,
BANIA
ultimately based on
be said to have ended when
of the Duwa's
the aim of Kebek
family was attained. Under
the state of Chaghatai-khan
entered a peaceful period.
MERCHANTS
UNDER THE MUGHAL
EMPIRE
−A Case study on Those of Surat City―
Nagashima
Hiromu
In this paper the author examines
Jain merchants under the Mughal
the role and position of Hindu
Empire,
merchants (which included both Hindus
taking as an example
and
bania
and Jains) of Surat City, the big-
gest port of the Empire, in the 17th century. Though
considerable studies
have been done on merchants of Surat, the commercial
careers and political
roles of the merchants
are to be eχamined further.
In the 1st Chapter l
and Virii Vora 一the
therefore,follow the careers of Hari
two biggest bania merchant-bankers of
Vaisya
the city―,
the former since the year 1617 and the latter since 1616. Especially Virji Vora improved
and maintained his position as one of the leading bania
merchants of the Empire
during more
This career of his is remarkable
than fiftyyears up to around 1670.
one, when
we
consider that this period
witnessed three successivereigns of the emperors, more than thirtychanges
of the city-governors, and the attacks on the city at least twice.
In the 2nd Chapter the author eχamines the commercial careers of the
members
of the Thakur
family and the so-calledParakh
l do not consider that whoever
one and same
or money
family(-though
had the surname Parakh
belonged
to
family or lineage―), who played important roles as brokers
changers (§arrafs)of
the English East India Company,
emphasize the importance
occupations were
of brokers and money
mostly monopolized
−4−
and l
changers (both of which
by banias) in the commercial
world
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