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清渓125号

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清渓125号
東北大学山岳部・山の会ニュース
清溪 第 125 号
2012 年 9 月 1 日発行
東北大学山岳部 〒980-8576 仙台市青葉区川内 41
東北大学 教育・学生支援部 学生支援課 活動支援係 気付
東北大学山の会事務局〒980-8790 郵便事業(株)仙台支店私書箱 103 号 03 号
http://www.ocean.caos.tohoku.ac.jp/~taav/index.html
【CONTENTS】
◆現役活動報告(2011 年度後期、2012 年度前期) .............................................. 1
大東岳 /岩手山冬山合宿 /上荒井沢アイスクライミング /鎌倉/古賀志山クライミング /不
忘山、山スキー /八ガ岳 /浅間山 /北泉ヶ岳 /朝日連峰 /面白山 /月山 /鎌倉山山行 /飯豊
石転び沢雪上訓練 /山寺クライミング/
◆追悼 ............................................................................. 10
故三橋亮一君へ /畑岡信夫君を悼む
◆紀行 ............................................................................. 14
森岡前幹事長慰労のヨーロッパスキーツアーの旅 /スウェーデン訪問記 /5 月の清渓小屋ス
キー行 /飯豊・梅花皮沢行
◆報告・お知らせ ..................................................................... 26
2012 年度山の会総会報告 /幹事会日誌 /東北大学山の会会報 16 号発行について /2011 年四
川省登山隊記録 /東京支部便り /会員の個人山行抄
◆案内 ............................................................................. 30
平成 24 年度ヒュッテ祭のご案内 /東京支部ハイキング会のご案内 /関西支部、秋の山行のご
案内
◆会員の異動 ........................................................................ 30
◆訃報 ............................................................................. 31
◆編集後記.......................................................................... 31
通常/基金会計収支報告...........................エラー! ブックマークが定義されていません。
◆現役活動報告(2011 年度後期、2012
度進むと雪が深くなってきたので先頭の人を交代
しながら進む。自分の体力では付いて行くのが精い
年度前期)
っぱいだった。お昼過ぎに頂上に到着。頂上がどこ
◇◇大東岳◇◇
12 月 24 日
は岩から落ちないように注意が必要だった。ある程
にあるかわかりづらかったが、頂上には標識?が雪
中原、野村、角田、佐井、岡野、永
田、今村
に埋もれず出ていたので、それで着いたことが分か
った。そして下山。降りるときは滑ったり、走った
5 時に星陵キャンパス集合だったが、一人待って
りしたので、かなりスピーディーに降りることがで
も来ないので家まで迎えに行くことに笑。そして出
きた。暗くなる前に駐車場に到着し、仙台に向けて
発。七時前に秋保ビジターセンターに到着し、準備
車を走らせるのであった。
(岡野記)
を整え七時には登り始める。初めは雪もそれほど深
くなく、難なく進めたが、途中の川を渡るところで
清溪 125 号(1)
◇◇岩手山 冬山合宿◇◇
1 月 7,8,9 日
大江(OB)、中原、野村、石川、今村、
中には雪がかなり入り込んでいた。
久米、佐井、永田
今回の山行は僕にとって初めての本格的な冬山
登山だったため経験は無いけれどせめて体力だけ
は自信をつけて挑むべく、12 月に 3 週間ほどランニ
ングを続けたのち年末年始の 10 日間で実家に帰り
たっぷりと栄養を蓄えたあとでの登山だった。小休
止地点は抜けている点がいくつもあるように思う
があしからずご容赦いただきたい。
1 月 7 日、午前 4 時に星陵キャンパスに集合。2
台のレンタカーに分乗し岩手山方面へ。馬返しへ続
く道路は少ししか車で進めずに登山口まで歩くこ
ととなった。スノーシューを履き、9:35 に駐車地点
1 月 8 日、4:10 起床。テントの中、シュラフとシ
を出発。天気に恵まれ日差しが強く、上着を着てい
ュラフの間に置いていた靴たちがバリバリに凍り
ると汗がふき出した。馬返し駐車場に着き、後から
付いていた。僕は袋に入れて寝袋の中に入れて寝た
来る人を待つ間に上着を脱ぎ休憩をとる。今回の行
ため問題は無かった。準備を済ませて外に出ると、
動食は部で一括購入し分配したもので、自分に合う
空は晴れ渡り山頂から吹き降ろす強い風が吹いて
ものを各自必要な分だけ持ってくるのがいいと考
いた。片付けの途中、上のほうから来た何らかの茶
える向きの僕はやや疑問に思いながらもそれを 1 日
色い布が吹き飛ばされていくのを見る。案の定とい
分ずつに分けて持って行ったのだったが、他のメン
うかなんというか、テント本体を入れる袋がひとつ
バー全員がしっかりと独自の行動食を併せて持っ
行方不明になっていた。7:20、アイゼンをつけて行
て来ていたことをそのとき知った。10:38 に全員が
動開始。すごい時間のかかりようだと今記録を見て
駐車場に着き、小休止をとったあと入山。夏道に沿
思う。岩の露出が少なくなり、交代しながらのラッ
って樹林帯を行く。11:40 に新道と旧道の分岐に着
セルが続く。これはかなりいい運動になり、早く回
き旧道を行った。14:40 露岩帯に着き、この付近で
って来ないかなーと思うばかりであった。9:20 に大
アイゼンに履き替えた。アイゼンは一度冬の鎌倉山
岩のあるところで小休止。ハードさを増すラッセル
で履いて少し登っただけで、初めてのアイゼン歩行
をこなし、11:05 に八合目避難小屋に到着。ゆっく
だった。何度もアイゼン同士を引っ掛けそうになっ
りと休んだ。12:30、荷物のほとんどを小屋に置か
た。岩の露出帯を登っているうちに日は傾き、予定
せていただき、必要なものだけを小さなスタッフバ
より手前ではあるものの 16:00 に行動終了。斜面を
ッグに詰めて山頂を目指し出発。不動平避難小屋を
削ってつくった平地に幕営。冬山のテントなんてこ
経由し登った。上部はガスが濃くかかっており風雪
んなもんだと僕は思っていたが、これは割とイレギ
も強し。凍傷を回避すべくしごいていたつもりの頬
ュラーな行為だったらしい。露岩帯に幕営適地は少
のネックウォーマーは、その実感覚を無くした頬に
なく 2 つのテントの設営場所が離れることとなった
張り付いた氷だったのだった。14:30 前後に外輪山
が、テントのメンバー割りを事前に決めていなかっ
上に至る。時間があまり無かったことに加え何も見
たために共同装備を分けなおす作業が必要になっ
えなかったので、最高地点踏破はやめて写真撮影も
てしまった。食料が一極集中していた中原さんのザ
早々に下山を開始した。15:00 頃八合目避難小屋に
ックなどはわけのわからない重さだった。今後テン
到着。荷物を回収し小屋の裏の平地に幕営した。あ
トが複数個になる山行では事前にテント割を決め
とは翌日に下山するのみであり、時間の余裕とあい
た上で共同装備を分けるようにしようと思った。足
まって心理的にも余裕があったように思う。夕食を
の置き場や座る位置がかなり制限される中、どうに
食べて就寝。
か夕食を済ませて就寝。中原さんが持ち込んだバナ
1 月 9 日、4:00 起床。スノーシューを履いて 7:05
ナは、釘を打てそうには無くかつ皮むきが難儀だっ
に出発。やはり 3 時間かかっている。途中傾斜が強
たもののシャーベット状でおいしかった。テントの
くなるところでアイゼンに履き替えた。7:55 に登り
清溪 125 号(2)
でも休んだ大岩で小休止。8:35 に 2 日前の幕営地点
を通過。澄んだ視界の元、馬返しへと続く最初に歩
いた直線道路を見下ろしながら着々と下りていっ
たのだが、途中から道を反れてしまう。下るべき道
は尾根の南端部についていたものの北端を進んだ
らしく、地形図上に小さく記された尾根部分に入り
込み、尾根の終点まで進んだ。そこで現在地を特定
し軌道修正。地形図に現れないような小さな溝をい
くつか乗り越えたのち見覚えのある道に合流した。
残るは淡々とした雪道歩き。馬返し駐車場に着き、
不必要な装備を外し、東屋でゆっくり休んだ後
11:15 頃に駐車場発。
これまでロック、フリークライミングを経験してき
12:05 に車を停めた場所に着き、冬合宿は終わっ
た。
(永田記)
ましたが、アイスクライミングはこれらと比べてあ
る程度自由だなあと感じました。氷の上を登ってい
くので自分が登りたいルートで登っていくことも
◇◇上荒井沢アイスクライミング◇◇
1 月 14、15 日
野村、今村、久米、永田、佐井、
大江(OB)、矢吹(OB)
可能ですし、うまくアックスとアイゼンで固定され
れば、ロック、フリーとは違う安心感がありました。
しかし、アックスを使う、というのが今回初めてだ
山梨県南アルプス上荒井沢にてアイスクライミ
ングをしました。
ったので力の入れ具合が分からず、最初の一往復は
手がとても疲れました。数をこなしていくにつれて
1 月 14 日、15 日の 2 日間はアイスクライミング
感覚が分かっていく頃にはもうアイスクライミン
漬けの 2 日間でした。
グにハマってしまいました。日が暮れる前に駐車場
場所が山梨県、ということで仙台を 13 日の 19 時に
所に戻り、車の横にテントを 2 つ張り、そこで夜を
出発して高速道路を駆使して、14 日の 3 時に待ち合
明かしました。寝る前の夜空と焚火はとてもきれい
わせのコンビニに着きました。
で印象的でした。この景色は街中では絶対に見るこ
3 時間ほど仮眠をとってから、OB2 人と合流して矢
とができないものでした。これを見ることができた
吹さんの案内の元、駐車場所までドライブし、そこ
だけで十分満足できる、それほど素晴らしかったで
からさらに 30-40 分ほど歩いてアイスクライミン
す。
グをする目的の滝に到着しました。
2 日目は久米君と永田君と野村さんは矢吹さんと
僕を含めほぼみんながアイスクライミングに初挑
一緒に別の滝でクライミングを、僕と佐井君は大江
戦だったので、OB の方にアックスの持ち方、使い方、
さんと昨日と同じ滝でクライミングしました。
アイゼンの活用法、基本的な登り方等アイスクライ
僕と佐井君は時間の関係で昨日のうちに応用ルー
ミングの初歩技術を教わり、トップロープで 2 通り
トをまだクリアしていなかったので、リベンジとい
の基本ルート(距離短め)と 1 通りの応用ルート(距
う形です。
離長め)を作りまして、初日はその 3 種類を何度も
往復しました。
10 時前には 2 人とも登り終わり、大江さんがトッ
プロープを解除するために僕がビレイをとって再
び登りました。その後ロープを回収しようとしたら、
ロープが上部でからまってしまいました。
一気にロープを引っ張ってしまったせいか、僕の勉
強不足で再び大江さんが登っていくことになって
しまいました。トップロープ解除時に引き続き、僕
がビレイをとっていました。大江さんがちょうどピ
ークを越えたところで落下し、予想以上に強い衝撃
に耐えられなくて引っ張られる形で僕は氷の滝に
清溪 125 号(3)
激突しました。ロープは放しませんでしたが大江さ
ルートは青葉よりも長かったと思う。リードでは無
んも全身をくまなく打ってしまったそうです。しか
理なところも樋口さんがいたのでトップロープで
し、そんな状態でもパニックに陥っていた僕を励ま
楽しめた。周りの人たちを見るといつもすごいと思
してくださいました。佐井君がほかの 4 人を呼んで
う。明らかにレベルの差が目に見えてわかる。自分
きてくれたおかげで僕と大江さんは救出され、絡ま
たちも危険防止の知識やザイルワーク、ビレイのテ
ったロープは矢吹さんがとってくれました。周りの
クニックを含めクライミングの技術を少しずつで
みなさんの応急処置のおかげで無事に下山でき、14
も上げていきたいと思う。古賀志山は高速を使って
時くらいに車で出発し 21 時に仙台に着くことがで
約 3 時間だったと思う。思ったよりは近かった。
きました。
(松澤記)
今回の山行では、アイスクライミングという人生
◇◇不忘山、山スキー◇◇
初の試みに胸躍らせ、楽しくやらせていただいた一
方で、油断が生んだ事故を起こしてしまったという
2 月 25 日
野村、石川、久米、永田、樋口(OB)
反省もありました。これを機に事故の原因をより細
この日は午前 7 時に部室に集合し、不忘山に向か
かく分析し、二度と起こさないようにするためにど
いました。前日の大雪で高速道路は雪に覆われ 50km
のようなことをしなければならないかを考え、次の
規制をしかれていたので慎重に一路白石スキー場
山行に踏まえていこうと考えております。
へ。やはりスキー場は一面パウダーでした。しかも
皆様には多大なるご迷惑、ご心配をおかけしました。
白石スキー場はゲレンデを圧雪することがないそ
本当に申し訳ありませんでした。(今村記)
うで文字通りふかふかの状態でした。部員メンバー
のほとんどが山スキー初体験だったので、まずはゲ
◇◇鎌倉◇◇
2月4日
レンデで 2,3 本滑ってから登り始めることに。そし
中原、石川、宇野、橋本、今村、久米、
ていよいよゲレンデトップから登り始める事にな
永田、佐井
りましたが、当然シール登高も初めてなわけなので
天気:晴れのち雪
最初は少し進むのにも苦労しました。あとシールが
今回は確保と救助の練習をしに鎌倉山へ・・・
古いせいもあって人によってはかなりきつかった
だが、想像以上に雪が積もっていて、マッテルで支
と思います。山の状況はというと視界は良くなく、
点を探すのにだいぶ時間を取られる。
雪がぱらつく程度でした。風が吹いていなかったの
雪が若干溶けて氷になっていればまだ登りやすか
でずいぶん助かりました。そんなこんなで歩いて行
ったが、そのようなところもなく、すべって非常に
くにつれて皆シールに慣れてきたようで程よいペ
登りにくかった。そうこうしているうちに雪が降り
ースで登れました。上りは雪崩の危険を避けて主に
始め、また風も強く、吹雪いてきたので撤退。
樹林帯を登っていきましたが傾斜によっては何度
今回は満足に確保、救助の練習はできなかったが、
もシールが滑りました。一度休憩をとり頂上を目指
次回鎌倉山に行った際にまた練習したいと思う。個
しましたが支尾根の稜線上でタイムリミットの
人的にはライジングシステムの練習をしたい。
13:00 が近く、行く手に雪屁が張り出していて先に
(佐井記)
進むのは危険との判断で引き返すことになりまし
た。ここで大休憩をとったのですが、樋口さんに雪
◇◇古賀志山クライミング◇◇
2 月 12 日
崩の危険性を判断する方法のひとつであるシャベ
松澤、永田、久米、今村、樋口(OB)
ルコンプレッションテストを教えていただきまし
もともと栗駒山に行く予定だったが、直前に樋口
た。前述の通り前日降った新雪がいったんしまった
さんに古賀志山でのクライミングに誘って頂いた
雪の上に重なっていて、その境界が弱層になりえる
為予定を変更した。仙台の天気は曇りだった。栗駒
ことが目でみてわかりました。そしていよいよ滑り
は悪天候で山頂までいけなかったかもしれない。一
始めることに。このために登ってきたわけなので心
方、宇都宮にある古賀志山は仙台より暖かかった。
が躍りました。滑ってみると山スキーを愛する人た
日が当たると春のような気がした。フリークライミ
ちの気持ちがわかった気がします。誰も滑っていな
ングの岩場でルートはたくさんあった。1 本 1 本の
いきれいな一枚バーンに最初に自分たちのシュプ
清溪 125 号(4)
ールが刻まれるのは言葉で表現できないくらい爽
行者小屋の前のスペースにテントを張ってこの日
快でした。苦労して登ってきたルートもスキーで下
の行程は終了。このまま雨が降り続けると予定通り
るとあっという間で、もっと長く滑っていたい気分
には動けそうもないので、翌日以降の天候別の予定
でしたが無事ゲレンデトップに到着しました。そし
を立ててから、晩御飯を食べて泥のように眠った。
てここで今度はビーコンを使って雪に埋もれたザ
三月六日
雨→曇
ックを人と仮定して雪崩捜索の練習をしました。こ
4 時起床。雨が降っているので、二度寝。7 時ご
れがなかなかに難しく、ある程度ビーコンに近づい
ろに起きて、まだ雨が降り続いているのでテントの
てからの正確な場所を特定するまでに苦労しまし
中でだらだら。10 時過ぎにようやく雨が止んで動け
た。自分のやり方では発見が遅くなりもっと他のツ
るようになる。
ールを有効活用すべきと感じました。最後はゲレン
今から赤岳山頂に行くのは不可能だが、翌日に少
デを滑って帰仙し山スキーを無事終えました。そし
しでも素早く行動できるよう、文三郎道にトレース
て今回同行してくださった樋口さん、ほんとうにあ
をつけに行く。
りがとうございました。以上、不忘山山行記でした。
(石川記)
11 時 30 分に行者小屋を出発。中岳道との分岐に
12 時 30 分到着。膝から腰のあたりまでの深い雪で
ある上、さっきまでの雨で雪がかなり重くなってい
◇◇八ガ岳◇◇
3 月 4-8 日
て、アイゼンすら持たない軽装なのに、なかなかし
野村、久米、永田、大江(OB)
三月四日、晴→雨
んどい。
そして、文三郎尾根を登り樹林帯を抜けて鎖が出
仙台から青春十八きっぷを使い茅野駅まで、半日
てくるところまで登る。ここから先はアイゼンがな
以上かけて鈍行列車で向かう。大荷物を持って公共
いと厳しいのでここで引き返すことにする。13 時
交通機関での長距離移動は少し気が引けた。が、4、
30 分に到着したが、赤岳山頂がガスの切れ間から覗
5 時間も電車に揺られているとどうでもよくなった。
くことを期待して一時間ほどツェルトにこもりな
小淵沢で大江さんと合流。 その日の夜は茅野駅
がら天気を待つ。が、ガスが切れそうにないので 14
の駅ビル?の地階で野宿することにする。通勤客か
らしたら異様な光景であっただろうが、全く気にせ
時 30 分引き返す。15 時 30 分テントに到着。
赤岳鉱泉の人があると言っていた水場を求めて
ずぐっすり眠った。
スコップ片手に探し回るが、そんなものはなかった。
三月五日
残念。 天気が良くなり、テントから赤岳を始め八
雨
茅野駅からタクシーで八ヶ岳山荘に向かい、そこ
ヶ岳の主稜線がはっきり見えるようになった。西の
で朝食を作らせてもらった。9 時少し前に八ヶ岳山
空にうっすらとガスがあるのが気がかりだが、明日
荘を出発、10 時ちょうどに美濃戸山荘に着く。少し
は少なくとも稜線には登れそうだと期待してその
休憩して、17 分に北沢沿いに赤岳鉱泉へと向かう。
日は終わり。
北沢沿いの道は雨のせいか少し固いシャーベット
三月七日
状の雪に覆われていて歩きにくい。しかしながら、
晴
3 時起床。5 時にはテントを出る。これまでの悪
ラッセルはなかったのでそれほど苦労せずに進め
天候とは打って変わってきれいな星空が見える。文
た。
三郎尾根を登り前日引き返したところに 6 時 30 分
12 時 50 分赤岳鉱泉着。アイスキャンディーで遊
頃到着。アイゼンを履いて、赤岳と阿弥陀岳を結ぶ
ぶ予定であったが、雨が降っていたこともあり断念。
稜線上に 6 時 50 分に到着。風を耐えながらちょっ
のんびり休んでから、13 時 50 分に赤岳鉱泉を出発
とずつ進んで、8 時頃に赤岳‐権現岳の稜線の一歩
し行者小屋に向かう。 ガイドブックに書いてあっ
手前で風待ちをして、8 時 50 分ごろロープを出して
たコースタイムは 40 分であったので一時間もあれ
稜線に出る。そこから険しい道を慎重に進んで、9
ば行けるだろうと考えていたが、この道にはトレー
時 45 分に山頂に到着。
スが一切なく、所々で腰や胸まで埋まる所もあり、
交代でラッセルをしながら行者小屋に着いた頃に
はそろそろ 16 時になろうかという時間であった。
清溪 125 号(5)
ルートは取れなかった。しかしながら、一日で主稜
線を回って下山してしまうような人たちが結構い
ることを知っていい刺激になった。いずれ彼らの様
にサクサク雪山を進めるようになるべく、精進しよ
うと思った。
(久米記)
◇◇浅間山◇◇
3 月 19 日
中原、石川、宇野
僕が山岳部に入部して 3 ヶ月、中原さんが春休み
360 度展望の赤岳山頂にて
に九州まで車で帰省するとのことで関西出身の僕
北アルプスの槍ヶ岳あたりから、乗鞍、御嶽、中
もご一緒させてもらうことに。どうせなら登山もし
央アルプスに南アルプス、さらには富士山や浅間山
ようと、それに石川さんを加えた 3 人で浅間山(前
まで見えて、かなり驚く。
掛山 2524m)を登る事になった。僕にとって初めて
10 時過ぎに赤岳山頂を出て 11 時前に赤岳天望荘
の本格的な登山だった。18 日の夕方に仙台を出発し
に到着。予定通り硫黄岳の方まで回るには時間がな
22 時ごろ、あの浅間山荘に着いた。そして朝、車中
いとの判断で、地蔵尾根を下ることにする。11 時
泊だったのであまりの寒さに皆、5 時には目が覚め
50 分ごろ天望荘を出て、肩幅ほどもない切れたとこ
ていた。朝食をとり、準備にとりかかり、6 時半に
ろもある尾根をおっかなびっくり下る。行者小屋に
入山した。
13 時過ぎに着き、一休みしながらテントを撤収。南
雲一つないほどの晴天で道には雪が積もってい
沢沿いに下山することにする。この 2,3 日で南沢
たが、登山者が少なくないのだろうかトレースが出
から登ってきた人たちは、みな沢に膝ぐらいまでは
来ていた。そしてところどころに見かけない足の形
浸かったとの話だったので冬にそんな場所がある
をしたトレースがあった。看板を見て知ったのだが
もんかと思いながら進む。しかしながら、さっそく
カモシカが生息しているらしい、もしかすると彼た
濡れそうな渡渉点を発見。気温が高くなっているせ
ちのトレースなのかもしれない。人のトレースをし
いか沢に張った氷が薄く、そのせいで多くの人が氷
ばらく歩くと鳥居が出てきた。一ノ鳥居である。僕
を踏み抜いて濡れてしまったのだろう。わずかに氷
にはなぜ鳥居があるのかわからなかった。というよ
がしっかり張っているところを選んで、荷物なしで
り、気にも留めなかった。もうしばらく緩い山道を
渡り、荷物は後続の人に投げてもらうことで、濡れ
歩くと不動の滝についた。大部分が赤褐色に凍結し
ずに沢を渡った。
ていた。不動の滝からしばらくするとまたもや鳥居
そんな渡渉点をいくつか越えて進むと、今度は凍
が見えた。二ノ鳥居である。ここで少し鳥居の存在
った道が出てきた。さらに工事をしていたために山
意義を疑問視しはじめた。しかし、僕は履き慣れな
の方へ道が迂回しており、慎重に進んでいるとかな
い登山靴で疲れて息が上がっていた。もう少しで休
り時間が経ってしまった。何とか美濃戸山荘の前に
憩するよと言われたので休憩することで頭がいっ
着いた時には日が沈みかけていた。
ぱいになっていた。ザックの横に入れていた表面が
正直今回の山行で一番辛かったのは南沢をくだ
うっすらと凍ったポカリを飲みながら積雪が深ま
った時かもしれない。その日は山荘前のスペースに
ってくる道を歩いた。すると急に右前方からとてつ
テントを張って就寝。
もない日光が降り注ぐ、日光は時折変な形をした山
三月八日
に隠れる。牙山だった。とても綺麗だった。よくみ
晴
5 時起床。美濃戸山荘を出て八ヶ岳山荘へ。山荘
ると周囲には名前の知らない立派な山がいっぱい
のお風呂に入る。数日分の汚れを流してすっきりし
あった。心なしか歩くのが楽になってきた。それも
たところでタクシーで茅野駅まで。それぞれ頑張っ
束の間、急に異臭が漂い始めた。文字通りの腐卵臭
て帰宅。
だった。その臭が一番強いところに、モクモクと煙
今回の山行は雪山のアイゼン歩行の経験が浅い
をあげる煙突のついた小屋がある。こんなところに
者がいたために、硫黄岳まで回っていく予定通りの
人が住んでいるのかと驚いた。8 時過ぎ火山館に到
清溪 125 号(6)
着した。そのそばには浅間神社があった。疑問は解
澤記)
消された。登山の安全を祈願し、歩き始める。林に
◇◇朝日連峰◇◇
囲まれた道を、草木をかき分け進むと目の前にドー
ンと浅間山が見えた。さあこれから浅間山を登るぞ
4 月 28 日-29 日
大江(OB) 松澤
と気持ちがしまった。アイゼン、ピッケルを装備し、
永田
ピッケルで斜面の雪の状況を見ながら登る。思った
4 月 28 日(土) 天気:快晴
野村
久米
加藤
よりも急だった。しかもてっぺんは見えているのに
前日の夜にレンタカーで仙台を出発し、白滝前に
なかなかつかない。横からは強い風吹いていて、麓
停車し車内泊をした。6 時に起床し準備をして、6
とは大違いだった。そして登りきったと思ったらこ
時 45 分に白滝を出発。7 時 50 分、木川ダム管理所
こが頂上ではなかったようで、もうしばらく尾根を
前で小休止。8 時 50 分に登山口。その後数回の小休
あるいて、ついに 10 時半ごろ登頂した。景色はも
止を挟んで登り、14 時に鳥原山山頂。雲一つない天
のすごく雄大なもので富士山は見えなかったもの
気でとても眺めが良かった。14 時 30 分、もう少し
の数々の山が見えた。あまりの風の強さにゆっくり
進み平坦な場所でテントの設営をする。15 時ごろか
せずにすぐに下山を開始する。下山は速いものであ
ら夕食づくり開始。カレーライスを作った。とても
る。しかし、途中でなんかザックが軽い事に気づく。
おいしくおかわりをした。後片付けや、次の日の準
スノーシューを片方落としていた。しかし、お二人
備をして 19 時頃に就寝。天気にも恵まれ、平和に 1
のおかげでなんとか回収し 1 時頃浅間山荘に下山し
日を終えた。
た。疲れきった体を浅間山荘の赤く濁った効用の強
そうな温泉で癒したあと、各自帰路についた。そし
て 1 週間後、大阪伊丹から仙台に向かう飛行機から
は大きく浅間山がくっきりと見えていた。
(宇野記)
◇◇北泉ヶ岳◇◇
4 月 21 日
加藤
松澤
佐井
永田
今村
久米
増澤
天気:雨後晴れ
当日は山開きだったらしく、200
人以上の人がいた。そのため、始めの予定を変更し
雪上で夕食の準備(鳥原山頂付近)
4 月 29 日(日) 天気:快晴
て表ルートから登ることに。9:50 に登山口を出発
2 時に起床し朝食を食べた。朝食は雑炊。前日の
し、道中、胎内くぐりという岩の間を抜ける場所を
カレーを作ったコッヘルで作り、ツナ缶を入れた。
通った。去年の東日本大震災でも崩れたりしなかっ
これもカレー同様おいしかった。3 時 40 分に出発し、
たんだなと感心した。11:10 に泉ヶ岳山頂に着いた
4 時 40 分に小朝日岳登頂。4 時 44 分にご来光を拝
が、悪天候のために何も見えなかったのは残念だっ
むことができた。とても美しくて感動した。7 時 30
た。10 分程休憩した後出発して、12:15 に北泉ヶ
分、大朝日岳避難小屋。デポして空身で大朝日岳山
岳に到着した。170cm 程の積雪があり、先輩は周り
頂を目指す。8 時に大朝日岳山頂。天気がとてもよ
にいた高校生たちの目もはばからずに埋まって遊
く、周りの山々がよく見えた。その後、小朝日岳山
んでいた。自分は疲れてあまり余裕がなかった。下
頂での小休止を挟み、11 時ころにテントの場所に戻
りは、程よく柔らかく積もった雪のおかげで楽しか
り、テントを撤収する。その後、15 時には車に戻る
った。また、天気も回復してきていたので周りの様
だろうと予想し、下山開始。順調に下りてきたと思
子も少しは見えた。ハトがいたのには思わず和んだ。
われたが、12 時に尾根を間違えていることに気づく。
今回は自分にとって初の登山だったが、そのことを
このまま沢を下るのは危険だと判断し、登り返す。
差し引いても自分の体力の無さが情けなかった。山
2 時間後に登り終えトレースを探す。トレースらし
岳部に入るからには色々な山に行きたいので、今後
きものを発見し、下山する。日没までには車に戻る
バリバリトレーニングしていきたいと思った。(増
かと思ったが、しばらくすると急斜面の藪の中に入
清溪 125 号(7)
る。はじめは、登ってきた道の雪がとけたのだと勘
とになりました。ここからは徒歩組 5 人とスキー組
違いしていた。ところが途中で、再び道を間違えた
4 人の二手に分かれました。私はスキーで下山しま
ことに気づく。もう引き返すこともできず、藪こぎ
した。久しぶりのスキーでしたが、15 分程度しか滑
して下りることに。下りるのは結構危なかったが、
れず不完全燃焼に終わってしまい残念です。
19 時ごろ、登山口に到着。その後ヘッドライトをつ
月山リフト乗り場に 12 時ごろ到着し、その後は
けながら歩き、21 時 20 分ごろ白滝に着く。その後、
先輩方に教えていただいて 1 年生 3 人でビーコンと
車で仙台に戻りみんなで食事をし、2 時に解散。と
ゾンデを使って雪崩に巻き込まれた人を探す練習
ても中身の濃い山行となった。
をしました。埋まっている場所が特定できても雪を
(加藤記)
掘り出すのに時間がかかってしまいました。15 分で
◇◇面白山◇◇
5 月 12 日
足もとに埋まっている人が死んでしまうと聞き、恐
久米、佐井、大山、加藤、鈴木
ろしいと思いました。いい勉強になりました。 (大
天気:基本晴れ強風
山記)
今回は面白山へ行ってきた。当初は増澤君も参加
◇◇鎌倉山山行◇◇
予定だったが、電車に乗り遅れたため今回は不参加
となった。8 時頃に面白山高原駅に着くと思ったよ
5/26 晴
りも風が冷たく寒かった。スパッツ着用後、山行開
鈴木・増澤
始。ほとんど休憩もなく順調なペースで登り 10 時
朝 8 時前
には面白山の頂上にいた。風が強くて寒くて頂上は
マッテルへ。冬の間の崖崩れにより、従来使用して
あまり満喫できず残念。時間に余裕があったため予
いたクライミングコースの一つが使えなくなり、残
定を変更し中面白山の頂上も踏んだあとに下山開
る 1 つを全員で利用することに。今回は 1 年生のク
始。13 時前には駅に着いたが電車がなく、2 時間ほ
ライミングの訓練が主な目的で、上級生はその補助
ど暇をもてあます。駅の休憩所のカメムシの死骸の
がメインであった。1 年生は全員実地でのクライミ
量には気持ち悪くなった。15 時頃電車に乗って流れ
ングは初体験ではあったが、上級生の力を借りつつ
解散。あと途中でカモシカに遭遇した。急な道を降
も、しっかりザイルを扱い自力で岩場を登り降りす
りる様はかっこいい。(自身の反省点)
ることが出来ていた。
スパッツを持っていかなかったことが一番の
宇野・今村・久米・佐井・橋本・大山・
仙山線作並駅着
各自休憩をはさみつつ、4 時ごろに下山。皆、クラ
反省点。また、下山中の歩行が不安定だったのでも
イミングの初体験を無事に終えることが出来たが、
うちょい改善できるはず。読図ももっと丁寧にやれ
習熟とともにコースが足りなくなることが予測さ
たと思う。
れ、今後の課題である。(橋本記)
(鈴木記)
◇◇月山◇◇
◇◇飯豊石転び沢、雪上訓練◇◇
5/19 松澤、角田、今村、久米、佐井、永田、大山、
6 月 22-24 日
加藤、橋本(和)
大山、加藤、鈴木、所、増澤、大江(OB)
天気:霧
天気:晴れ時々曇り
この日の午前中は肌寒かったです。まだたくさん
松澤、角田、久米、佐井、永田、
6 月の第二週頃から山岳部に入った自分にとって、
雪が残っていましたが、トレッキングシューズで十
部員としての初めての登山だった。自分の親と行く
分間に合いました。月山リフト乗り場を 9 時 23 分
登山と違う融通の利かなさに少し戸惑いながらの
に出発。リフト降り場付近で小休止し、先輩お手製
登山ではあった。
のそりを試したのちに姥ヶ岳へ向かいました。視界
22 日、午後 6 時ごろ飯豊山荘の駐車場を出発し午
が悪かったためコンパスを使っての行動となりま
後 7 時ごろに温身平に到着。大江さんの指示により
した。10 時 56 分に姥ヶ岳山頂に到着し、お昼休憩
暗くなる前に温身平にテントを張ることにした。テ
をとりました。
ントの部屋割は大江、永田、鈴木、増澤と、久米、
当初は姥ヶ岳を経て月山山頂まで行く予定でし
佐井、大山、加藤、所にわかれた。ここで、団体装
たが、視界が悪かったため姥ヶ岳までで下山するこ
備のテントマットが足りないことが発覚。2 枚を 1
清溪 125 号(8)
枚ずつ分配して事なきを得る。夕飯はカレーライス。
確保ができることを感じた。最後にアイゼン歩行の
山の上で普通の米でご飯を炊くのは初めてだった
練習を行った。やはり安定感があると思った。4 時
ので失敗しないか不安だったが、お焦げもいい具合
30 分ごろ訓練を終え、テントに帰った。午後 6 時ご
にでき、おいしく食べることができた。午後 9 時過
ろ夕食を食べた。夕食はスパゲッティ。午後 8 時ご
ぎに就寝。ダムが近かったため、鳴りやまぬ轟音の
ろ就寝。初の雪上就寝は思った以上に寒かった。
中で寝たので、寝つけるか心配だったが、案外すぐ
に眠ることができた。
23 日、午前 4 時に起床。朝食は前日炊いた米の残
りでサケ雑炊を作った。テントを片づけ、温身平の
看板の前で、記念写真を撮った。6 時ちょうどに松
澤さんと、角田さんが合流。もう一度記念撮影をし
た。このときビーコンが一つしかないことが発覚。
ビーコンの訓練は断念した。6 時過ぎに出発。7 時
ごろ雪渓の始まる直前の開けた河原で小休止。20
分ほど休憩したのち、出発。40 分ほど歩き、石転び
沢の出会いに到着。斜面の雪を掘り平らな部分を作
り、その上にテントを張った。テントは 3 張張り部
訓練の合間に
屋割は、久米、佐井、大山、加藤と大江、松澤、鈴
木、増澤と角田、永田、所であった。その後、訓練
に必要な道具だけを持って午前 9 時ごろにテントを
出発。30 分ほど登り、そこに荷物を置き午前 9 時
30 分ごろ訓練開始。まずはキックステップで雪の斜
面を登る訓練を行った。斜面に対して平行な向きの
登り降り、斜めの向きの登り降り、トラバース時の
歩き方について訓練した。自分は、大江さんに足が
部分的にしか雪面に接していないことを指摘され
た。初めは足全体でキックステップをやるのが難し
かったが、だんだんになれることができた。次は滑
コンテで止める練習
落停止訓練を行った。うつ伏せになった状態で滑落
24 日午前 3 時 30 分起床。朝食は棒ラーメンであ
し、ピッケルのピックを用いて止まる訓練を行った。
った。具は魚肉ソーセージとキャベツとねぎであっ
両足を上げることはできたが、なかなか正しい体勢
た。朝から重いと思ったが案外食べられた。午前 5
を保つのは難しかった。おのおの三回ずつ訓練を行
時過ぎに出発し、1 時間ほど雪渓を登り、前日より
った。この後昼食を兼ねた小休止をとった。食後は
も 3 つほど上まで行きそこで確保のコンティニュア
確保の訓練を行った。この日行ったのは、確保の中
スの訓練を行った。ロープが 4 本しかなかったので
でもスタカットと呼ばれるものであった。スノーバ
交代で行った。ピッケルを使った確保はタイミング
ー、シュリンゲ、ロープ、環付きカラビナ、ピッケ
が難しく何度か持っていかれてしまった。何回もや
ルを用いて行った。腰はみな比較的安定して行えて
って慣れていくしかないと思った。コンテの訓練の
いたが、やはり立った状態で行う肩はバランスを崩
後は、自己確保の支点の作り方の練習を行った。そ
し、滑落者に持っていかれる人が続出していた。踏
して午前 10 時ごろアイゼン歩行の訓練もかねて、
ん張る足と肩の部分を一直線にすることが大事な
皆アイゼンを装着しテントに戻る。戻るとすぐにテ
のだと感じた。最後にスタンディングアックスをお
ントを片付け、すぐに下山を開始した。暖かくなる
こなった。これはみな安定して行うことができた。
季節ということもあり、急速な雪解けがあったため
ロープが足元に補導されることがやはり体の安定
行きとは違った光景になっていた。自分はこんなに
性を生んでいて、大江さんの言うとおり一番確実に
も極端に景色が変わることを知らなかったので、と
清溪 125 号(9)
ても驚いた。午後 1 時ごろに一日目にテントを張っ
た温身平で小休止。そこを出発し、午後 1 時 30 分
ごろのぼり口に到着。下山。3 日間の雪上訓練を終
えた。内心、大変に疲れを感じたが、楽しくて、と
ても勉強になる中身の濃い日々となった。
(所
記)
◇◇山寺クライミング◇◇
6 月 30 日
永田、久米、今村、樋口(OB)
山行記を書かせていただきます、2 年今村です。
今回、OB の樋口さんに山寺に連れて行ってもらいま
した。
天候は晴れ、暑いくらいの良い天気でした。富沢
左衛門小屋での故三橋亮一会員
駅を 7 時 30 分に出発、8 時半過ぎに駐車場に着きま
弔辞
した。ここから約 10 分の登りの後、今回クライミ
塩澤厚(S26 年入)
ングを行った岩場に着きました。チャレンジした課
三橋君、俺がお前の弔辞を述べるような事になる
題は「おくのほそみち」(5.10a)、「セーフティ」
とは、思ってもいなかった。こんなに急に去ってし
(5.10a)、「さざなみ」(5.10c)の 3 種類でした。
まうなんて残念だ、悲しい・・・。
まず最初に「おくのほそみち」に挑戦しました。現
つい今月の 2 日に蔵王山麓で開かれた東北大学山
役 3 人は久しぶりの外岩でのクライミングだったの
の会の総会でお前の元気な顔を見、談笑しあい、ま
で苦労しました。結局登れたのは永田君だけで僕と
た、俺の記念講演のために講師紹介もしてくれたお
久米君は核心を乗り越えられずリタイアしました。
前の姿は、今もまぶたに焼き付いている。
次に「さざなみ」に挑戦しましたが、手も足も出な
丁度 60 年前の 8 月、蔵王の熊野岳の東側に我々
いまま終わってしまいました。ホールドの持ち方や
山岳部の新しい山小屋、左衛門小屋を建設した時が、
ムーブなどをもっと研究していく必要があると強
お前と山の中で長く暮した最初の時であった。青根
く感じました。
温泉の近くの紅葉台からリヤカーで峩々温泉まで
最後に「セーフティ」に挑戦しました。時間が押し
運んだ建設資材、それをまた、賽の磧から左衛門沢
ているということもあってか満足に登れず、結局終
のほとりの建設現場まで重荷に喘ぎながら一緒に
点まで登ることはできませんでした。
担いで運んだのも青春の思い出になった。約 1 ヶ月
16 時頃に下山し始め仙台に着いたのが 17 時半でし
間のアルバイトに最後まで残った部員 8 名の内にお
た。
前と俺を含め同期のニ年生部員が 4 名もいるのを撮
最後に、久しぶりの外でのクライミングであってか
った写真を後年俺に送ってくれた。
忘れている点が多々ありました。また、改善すべき
翌年の三年生部員の折、穂高の奥又白の谷で新制
ところ、向上していけるところなどが見つかりクラ
大学の山岳部として初めて北アルプスで正式に行
イミングをより頑張りたいと思いました。 (今村
った夏山合宿の際に、リーダーであった俺の判断不
記)
足から落石のためにお前に怪我を負わせてしまっ
たことは、大事には至らなかったとはいえ今も悔い
ている。
◆追悼
その年の暮れ、飯豊に挑んだ時も日本海側特有の
◇◇故三橋亮一君へ◇◇
重い深い雪にまみれながら建てたキャンプから、当
時ニ年生部員の作山君と北股岳に厳冬期としての
初登攀に向かった際、自分も頂きに立ちたいという
気持ちを抑えて、「いざという時に備えて自分はキ
ャンプキーパーとして残る」と言ってくれたお前の
清溪 125 号(10)
言葉は今でも忘れない。
12 日の朝、電話をよこされた時もいつもと変わらぬ
仙台近郊の鎌倉山や天狗岩の岩場にもよく岩登
落ち着いた声でした。
「緊急ですか」と尋ねると「緊
りに出掛けた。天狗岩は今や「幻の山」となってし
急だ」との返事でしたが、結局、それが三橋さんと
まったが、その正面に新しいルートを同期の丸芳君
の最後の会話になりました。
と三人で開拓したことも忘れ得ない思い出だ。
俺が昭和 30 年に卒業し仙台を離れたのちも、お
翌 13 日午前、解剖。食道吻合部に小さな潰瘍瘢
痕、癒着した右鎖骨下動脈にはごく小さな傷があり、
前は仙台に教員として永く残り山岳部の指導に尽
この間に瘻孔が出来、大出血を起こして吐血したよ
力してくれた。昭和 30 年代後半から 40 年にかけて
うでした。佐山先生は「がんの再発は全く見られま
続発した四っの遭難事故では、捜索、救援隊長とし
せんね、それなのに」と悔しそうにぽつりと言って
て部員を指揮して活躍された事には本当に頭が下
おられました。かつて、佐山先生の上司であった元
がる思いだ。
外科部長、副院長の酒井信光君も前夜、治療に立ち
お前の山登りのハイライトと言うか総決算と言
会い、「経験したことの無い、実に稀なケースだ」
うべきものは、昭和 44 年に行われたカナダ、アラ
と言っておりました。食道がん外科の第一人者であ
スカにまたがるルケニア峰への遠征であった。若干
る酒井にしての言葉でした。これを思う時、ご家族
37 歳の若さで若手 OB、現役 8 名を引き連れての隊
が解剖にご同意なさったことはひときわ意義があ
長として、誰も登って無い初登攀の西の稜線から山
り、深い敬意を表さずにはいられません。三橋さん
頂に立つことに成功、東北大学山の会のその後の海
の解剖所見は、この後、食道がんに携わる医師たち
外遠征への口火を切った事は、後世に永く伝えられ
に長く読み継がれるものと思います。
るべき偉業であろう。
私が三橋さんの知己を得たのは、高校 2 年の時、
1982 年、昭和 57 年に蔵王・清渓小屋が建て替え
高体連山岳部門で南蔵王に登った時だったと思い
られて以来、俺も正月や 3 月に行われていた清渓小
ます。三橋さんの 1 年先輩の早坂功さんが
「おーい、
屋でのスキー合宿に参加出来るようになり、現役時
三橋」と何かにつけて声をかけると今と変わらぬ笑
代と同じようにお前と山スキーを楽しむ事が出来
顔で応じている姿は、山に親しみ始めた高校生を強
た。
く印象付けたのでした。その三橋さんが、「苦労を
その後も、スイスの山にスキーをしに一緒に出掛
嫌う若者」に強い警鐘を鳴らしていたことを知った
けたり、関東や北アルプスの山にも出掛けてくれた。
のは、かなり最近になってからのことです。相変わ
今年の 3 月の清渓小屋での恒例のスキー合宿の際、
らずの診察室での雑談で思い出したらしく、ある日、
満 80 歳を超えて 1 月から 3 月の間に小屋を訪れた
「こんなものが出て来たよ」と言って、古い紙切れ
会員を顕彰するプレートに、お前と俺の名を刻める
を見せてくれました。昭和 45 年 12 月 2 日発行の河
事が出来たのを何時までも忘れる事は出来ないで
北新報の切り抜きで、若かりし頃の三橋さんの顔写
あろう。
真つきの論説「山岳部を嫌う若者たち---」と言う
まあ、人生、五十歩百歩の違いだ。あっちの世界で
ものでした。文章は、「若い愛情溢れる心の復興に
元気でな。最後にお前と過ごした「清渓小屋の歌」
努めたいと思う」と締めくくられていました。
を聴いてくれ。
平成 24 年 6 月 17 日。
その前年の昭和 44 年夏、東北大学山岳部・山の
会は初の海外登山に出かけましたが、この時の隊長
弔辞
を務めて下さったのが三橋さんでした。若い会員た
阿部郁夫(S36 入)
ち全員の希望でした。若い隊員の意見をじっくりと
今日、このようにお別れの時を迎えるとは、とて
聞き、自らも第 3 キャンプまで登り、指揮を取られ
も信じられない思いです。
ました。常に若者を思う日常が、若い会員の心を掴
「市立病院で佐山先生から、『食道がんの手術後 6
む基礎にあったことを改めて思うのです。
年経ち再発の兆候もないので、もう来なくてもいい
最近はすっかり健康を回復され、今年 2 月の西吾
よ』と言われた」と、いつにも増して、にこにこと
妻天元台、3 月の蔵王清渓小屋での元気な姿は後輩
診察室に入って来られたのは今月 8 日の事でした。
たちを驚かせたのでした。本当に残念で、信じられ
こんなに急にとは予想もしていませんでした。実際、
ません。
清溪 125 号(11)
三橋さん、長い間、大変有難うございました。至
いろ教えてもらったのをよく覚えている。4 年生の
らぬ藪医者の後輩に最後まで信頼を寄せて下さり、
時、剣の定着後に二人で剱に残り、三の窓にテント
本当に有り難うございました。どうぞ、安らかにお
を張り、チンネや池の谷側の岩場を登ったが、非常
眠りください、そして、時々、目を覚まして、我々
に楽しい岩登りであった。
を、また残されたご家族をお見守り下さい。
4 年生を終えると畑岡君は大学の方が忙しくなり、
平成 24 年 6 月 17 日
東北大学山の会
一緒に山に行くことも少なくなった。その後、日立
阿部郁夫
製作所に勤務し、日立の山岳部で活動していたよう
である。仕事への取り組みも際立っていて、音声処
理、特に音声認識に関しては世界のトップクラスの
研究者であったようである。平成 16 年の蔵王での
◇◇畑岡信夫君を悼む◇◇
山の会総会では「ユビキタス時代の音声認識応用」
の演題で講演してくれた。日立製作所を去り、東北
工業大学に移っても精力的に仕事をこなし、また学
科長としての重責も果たしており多忙な毎日だっ
たことがうかがえる。
畑岡君は人生を駆け抜けてきたような気がする。
いつも頑張って先頭を進んでいたのであろう。早す
ぎる死が残念で仕方ない。もう少し年をとって余裕
ができたら、一緒にゆっくり酒を酌み交わすことも
できたのにと悔やまれる。もし天国というものがあ
ればそこでゆっくりしてほしいと思うが、彼の性分
故畑岡信夫会員
ではそこでも何かしら頑張っているのかもしれな
畑岡信夫君を悼む
い。
片山正文(S45 入)
山の会の金森君からの電話で畑岡君の逝去を知
畑岡さんの思い出
った。河北新報に記事が載っているとのことであっ
桒原康雄
(S46 入)
た。記事には「4 月 9 日午後 11 時 59 分、脳出血の
連絡によって畑岡さんの逝去を伝えられ、4 月 12
ため、仙台市内の病院で死去 61 歳」となっていた。
日の告別式に参列しました。しばらく前から体調を
畑岡君は私と同期で昭和 45 年入部である。日立製
崩されていたとのことですが、早過ぎる死だと感ぜ
作所に勤務していたが、平成 19 年仙台市の東北工
ざるを得ませんでした。ニコニコと笑い、首を大き
業大学に赴任し知能エレクトロニクス学科・学科長
くふって頷きながら、後輩の話を聞いていた姿を再
として活躍していた。自宅は神奈川県相模原市にあ
び見ることはできないことになりました。
り、週末は相模原市で過ごすという多忙な日々を送
現役当時、山行をともにする機会は同期よりも 1
っていた。仙台に赴任してきた時には歓迎会で仙台
年上か下の人の方が多く、私も畑岡さんとは何回か
山の会の皆と一緒に飲んだが、多忙のためここ 2~3
一緒に山行をしていますが、特に印象に残っている
年は会う機会もなかった。昨年の 12 月にメールで
のは、昭和 46 年 11 月の初冬訓練、同 47 年 6 月の
忘年会に欠席との連絡を受けたのが最後の音信と
沢登り及び夏合宿などです。
なった。4 月 13 日の葬儀に参列したが、早すぎる死
に参列者全員悲嘆にくれるばかりであった。
昭和 46 年 11 月の初冬訓練は後立山(五竜→唐松)
で行なわれ、私にとって初めての積雪期の山でした
入部以来の 4 年間は畑岡君との濃厚な付き合いが
が、夏の間、故障のため、山行を行えなかった畑岡
あった。畑岡君は高校時代から山をやっていて、大
さんのはつらつとした行動が記憶に残っています。
学から山を始めた私からみると兄貴分といった感
昭和 47 年 6 月の沢登りは、仙台神室でした。こ
じで、いろいろ教えてもらった。いつも頑張り屋で
のときはパーティ全員がヒルの被害を受け、テン場
山に向かって突っ走っていた。岩登りが好きでいろ
に着いて軍手をはずし、靴下を下げたところ、知ら
清溪 125 号(12)
ない間にヒルのために血が流れていました。
まず、夏合宿に向けて鎌倉での岩登り訓練、そし
昭和 47 年の剣の合宿は畑岡さんがハウプトとし
て夏合宿での岩稜、雪訓の指導を頂きました。特に
て行なわれ、天気に恵まれない合宿となりました
鎌倉では、経験がない者に緊張する岩登りでしたが、
が、岩場からの落下事故により、テン場を真砂から
畑岡さんは厳しさの中にもジョークも交え、我々新
剣沢に移すことになり、2 年生以上が交代でケガを
人をリラックスさせてくれたことを思い出します。
した大沢を背負子に背負って剣沢まで運び上げた
冬合宿では、神室山塊の火打岳をこえて縦走しま
ことは、その日がスカッ晴れだったこととともに印
した。大変な豪雪で、悪天に苦労しました。思い出
象に残っています。
深いのは下山途中のことで、尾根から林道におりて
上述したとおり畑岡さんは昭和 47 年度前半のハ
まもなく、雪の中に孤立した集落がありました。農
ウプトとして大学紛争の影響で春合宿が行なえな
家には誰もおらず鍵もかかっておらず、我々は中に
かったルームの運営に苦労されましたが、現役当
入らせてもらい、そこでエッセンのラーメンを食べ
時、最も気合がはいっていたのはやはりこの時期だ
たのを覚えています。帰りの際、私は疲れもあり、
ったと思います。
自分達のものだけを片付けて出ようとしましたが、
山行以外、下にいるときは、ほとんど毎日トレー
畑岡さんは、お世話になったのだから家の中をきれ
ニングと夜 8 時から 9 時過ぎまでルームコンパが開
いに整頓し、掃除して帰ろうと叱責されました。誠
かれて、山行の検討、反省が行なわれ、ルームの仲
実さを教わりました。
間は兄弟よりも濃密な時間を共有していたもので
す。
年明けには蔵王につれて言ってもらい、山スキー
の指導を頂くだけでなく、何度か面白山スキー場で
畑岡さんの早すぎる死により、このような仲間が
こんなに早くいなくなってしまったことについて、
あらためて、寂しさと喪失感を感じています。
のゲレンデスキーも教えてもらいました。
春合宿では日高・幌尻岳に連れて行ってもらいま
した。雪稜のアイゼンワークや吹雪の中でのテント
設営で、厳しい指導を頂いたことを覚えています。
亡き畑岡さんを想う
それだけでなく、下山後は札幌・手稲山やニセコの
吉田幸市(S51 入)
ゲレンデスキー・ツアーもお付き合い頂きました。
畑岡さんの逝去を山の会・豊水さんからのメール
その後、2 年生になったあとは上級生の数も増え、
で知り、葬儀に参列させて頂き、その場で会社・大
山行にご参加いただくことはなくなりましたが、私
学などでの多くのご活躍を伺い、
「さすが畑岡さん」
どもの年代前後の下級生は畑岡さんを慕って、何度
と想うとともに、早すぎる死を惜しみ、悲しみにく
もお宅にお邪魔し、すき焼きなどをご馳走になりま
れました。畑岡さんの印象を一言で言うとすれば、
した。卒業後、私は学士入学で早稲田大学を経て東
「大変面倒見が良い先輩であるとともに、厳しさと
京にて就職し、現在に至りますが、何度かご自宅に
楽しさを兼ね備えた方」であったかと想います。後
お邪魔し、時には泊めて頂き、また、お勤め先であ
輩の目でその様な思い出を書かせて頂き、追悼文に
った日立中央研究所にも訪問させて頂きました。
変えさせて頂きたいと想います。
エネルギッシュで面倒見がよく、時に厳しく、ま
小生は畑岡さんの 6 年下の後輩に当たります。即
た面白く人間味あふれた畑岡さんを慕い、死を悼む
ち、1 年生として入部した際、畑岡さんは OB3 年目
後輩や学生が、TAAV だけでなく、会社や大学などに
であり、通常であれば雲の上の人で、なかなか気安
たくさんいらっしゃることと想います。ご冥福をお
くお付き合いできるものではないはずです。1 年入
祈り致します。
部の当時、シンギカンリ遠征があり、少なかった上
級生がそれに参加することもなどがあり、1 年生の
夏合宿から春山まで、畑岡さんが多くの山行のリー
ダーとして参加して下さいました。これをきっかけ
に畑岡さんと当時の現役下級生層は、通常の OB の
方との関係を超えて、親密に指導して頂く幸運を得
ることができました。
清溪 125 号(13)
◆紀行
◇◇森岡前幹事長慰労の
ヨーロッパスキーツアーの旅◇◇
近藤孝(S41 入)
4 月 7 日~4 月 15 日の 9 日間のスケジュールでフ
ランスのシャモニーを訪れ、前森岡幹事長慰労が訪
宿泊したホテルエイグロン
れたいと希望されていたヨーロッパアルプスでの
スキーを 9 名のメンバーで楽しんできたので報告す
4 月 8 日(日)
る。
し】
【ブレバンスキー場でまず足慣ら
このスキー行の発端は、2011 年 8 月の左衛門小屋
7:00 起床。ガスがかかって天気はよくない。バイ
整備山行のときに、塩澤会員から「前森岡幹事長を
キングの朝食をとって、9 時に受け付けに集合。今
ヨーロッパアルプススキーへ誘ったら如何か」との
日案内してくれる白野さん(男性、ガイドの資格あ
アドバイスがあり、その後、スキーに熱心な会員が
り)と岡村さん(女性)の車でブレバンスキー場に
集まり実現したものである。旅行社は佐藤正樹会員
向かう。6 日間共通のスキー券(カード)を渡され
が以前に使ったことがある㈱フェロースキーとし
る。
た。
ロープウエーで 2000mの場所まで上がる。比較的緩
参加メンバーは、海老沢、大木、佐藤正樹、小関、
い斜面で足慣らしに 2~3 本滑って、隣のフレジエ
森岡、菅村、斎藤公夫の諸会員に近藤、そして伊那
ールスキー場へ水平ロープウエーで移動する。前日
在住の松島信雄さんが加わり、総勢 9 名であった。
の凍ったシュプール上に新雪が 5cmくらい積って
いて、足をとられやすい。周囲は岩山に雪が積もっ
4 月 7 日(土):
【出発の日】
て、アルプスらしい景色であるが、降雪の中の滑降
7:55 予定通り全員が成田空港に集合。仙台勢は夜
であるためあまり景色が見えない。昼食は近くのレ
行バスにて成田着の強行軍。出発まで十分に時間が
ストランでワインとサラダ、フランスパンにチーズ
あるのでチェックイン後、門出の祝杯を上げられた
をかけてオーブンしたものなどを食べる。意外とお
方もあった由。成田発 10:25(スイス航空)→15:
いしい。
50 チュッリッヒ空港 16:55→17:40 ジュネーブ。
昼食後、天候は回復しないが、ブレバンスキー場の
現地係員の神田さんの奥さんに出迎えられ、大型バ
最高峰(2525m)まで登り、上級者コースを降りる。
スでシャモニーに向かう。ホテルエイグロンにチェ
残念ながら回りの山は見えない。数本滑って、初日
ックインして、早速夕食。ワインを飲みながら歓談。
でもあり時差ぼけに疲れもあるので切り上げ宿に
初日であり夜行バスと飛行機の疲れがあるので早
戻
めに切り上げ就寝。
清溪 125 号(14)
る
。
ロープウエーで登るにつれてグランドジョラス
南面がかろじて見えてくる。モンブラン南面はガス
で見えない。一旦、最下点まで滑り降りてから、リ
フト、ロープウエーを乗り継いで最も高い展望台
(クレスタ・デ・アルプ 2755m)まで登る。暖かく
手袋がいらないくらいである。少し晴れてきたので、
白野氏に周囲の山の説明をしてもらう。スキーツア
ーができる山がいっぱいある。グランドジョラスを
バックに記念撮影。
ブレバンスキー場
夕食前、岡村さんが来てこれから行くスキー場や
ヴァレブランシュ(氷河滑降)の説明を写真を使っ
てしてくれた。ヴァレブランシュ氷河滑降は天気が
良くないとガイドは出発しないとのことで、予定し
ていても当日にならないとわからないとのこと。岡
村さんの説明の後、シャモニーの町を案内してもら
う。予想していた通りの落ち着いた街で、多くの観
光客が来ている。有名な水晶取りのパルマがモンブ
ランを指さす銅像、教会、店などを見て回る。
クランドジョラスをバックに
夕食はコースのフランス料理にワインを堪能する。
大きな斜面をスイスイと
シャモニーのご存じの像の前
2500m地点から滑り降りる。雪がガリガリに凍っ
で
シャモニーのご存じの像の前で
ていてスキーで削られたザラメ雪がたまっている
4 月 9 日(月)【クールマイユールスキー場】
が、斜面は広く快適に滑ることができる。奥志賀の
6:10 分起床。月が出ていて、天気はよい。モン
ブラン西稜が望める。
一番急な斜面くらいの斜度である。
12:20 レストランの屋外で昼食。ハムやソーセー
朝食をとり、白野氏の案内で大型バスにてイタリヤ
ジの盛り合わせとパスタをさかなにビールを飲む。
側のクールマイユールスキー場に向かう。エーギュ
このスキー場は本日が最終日とのこと。晴天のなか、
ディミディの下に掘られた長いトンネル(11Km)
屋外で食事をとる。
を抜けてイタリア側に入る。9:20 ロープウエー乗
り場着。
昨日もそうだが、スキー場でスノーボードをほと
んど見かけない。日本なら 7 割の人がボード、こち
清溪 125 号(15)
らは 9 割がスキーという感じである。
雪の状態があまり良くないので、この日は滑るの
は切り上げて、バスでクールマイユールの町に向か
い観光をする。イースター休暇のためか人が多く、
多くの露店がでていて、木工製品や皮加工製品を売
っている。
17:00 シャモニーの町に帰ってくる。明日は天候
が良さそうなのでヴァレブランシュへ行くとのこ
とで、昼食のビスケットや水などをスーパーに買い
に行く。夕食は、牛肉のカルパッチョ、豚肉のロー
ストあるいは鯛のローストを選ぶ。今日は暖かかっ
出発点のコルからエーギュディミディを見る
たのでビールを頼んだがまずいので、またワインを
頼む。
9:30 頃、滑走開始。ガイドのギーさんが先導し、
そのあとを忠実にたどってくるようにアドバイス
4 月 10 日(火)【ヴァレブランシュの氷河滑降】
をうける。最初、雪の状態がよかったが、途中から
6:00 起床。晴れている。この天気ならヴァレブ
ブレーカブルになり、スキーを取られて転倒する人
ランシュに行けそうだ。朝食を取り、8:30 に出発
が続出する。岩峰群に囲まれた広いゆるい斜面を滑
してホテルから 200mくらいのところにあるロープ
って行く。やがて、クレバス帯に入り、滑るところ
ウエー乗り場まで歩く。たくさんの人がいて混雑し
が狭く限定されるので、滑りにくい。また、人が多
ている。第一ロープウエーで上がり、さらに第二ロ
くて滑る順番待ちも多く、休息にはなるが快適にス
ープウエーでエーギュディミディ(3842m)山頂ま
ピードを上げて滑るという状態ではない。
で上がる。展望台に上がると周囲の山が一望のもと
12:20 ガイドのギーさんの案内で佐藤正樹さん、小
である。モンブランが鮮やかに見える。
関さん、森岡さん、菅村さん、斎藤さんと近藤が小
ガイドは、フランス人のギーさんと白野氏。ガイ
屋(2516m)で昼食をとる。スープとパン、スモー
ドからハーネスとビーコンを渡され装着する。ザイ
クドサーモンやジャガイモのチーズオーブンなど
ルで数m置きにつながり確保してもらい雪稜を降
をワインで食べる。素朴な味でおいしい。ガイドの
りてコルへ着く。コルには 100 人くらいの人がいて
白野氏と大木さん、海老沢さん、松島さんは小屋で
皆ヴァレブランシュ滑走組である。
ビールだけを飲んで、屋外でビスケットで昼食。ガ
ストンレビュファーが登ったドリュの西壁が鮮や
かに見える。
展望台からあざやかに見えたモンブラン
清溪 125 号(16)
6:00 起床。雪が降っている。今日はメジェーブス
キー場へ行く予定。
朝食をとり、8:30 出発。白野氏と神田さんの奥さ
んの車で、シャモニーの谷を南下し東側の谷に入っ
てメジェーブスキー場へ向かう。ところが、メジェ
ーブスキー場はもう休業していたので、コンタミン
スキー場へ向かう。こちらは開いていて、30 台くら
い車がある。9:30 ロープウエー2 本でスキー場の
中心部に登り、リフトで一番高い地点に登る。頂上
から上級者コースというのを降りるが、あまり大し
たことはなく、上部の雪は軽くて快適だが、下部は
少し重くなる。
ムービーで全員が滑る様子を白野氏に撮っても
らう。どんな映像が撮れたか楽しみである。
昼食後、元気のある 4 名と白野氏とでで非圧雪斜
面を滑りにゆく。白野氏はさすがに滑り慣れている。
14:00 頃ロープウエー乗り場まで降りて、迎えの
車と一緒に宿へ戻る。時間があるので、町に出て買
クレバス帯を下る
い物や散策で時間をつぶし、宿でウイスキーを飲み
ながら歓談する。
18:30 中華料理店「雪園」へゆく。牛肉と玉ねぎ
の炒め物、鶏肉の甘酢あんかけ、卵のスープ、チャ
ーハンと食べ慣れたものが出たので全員ですっか
り平らげる。20:00 ころになっても明るく、モンブ
ランがときどき顔を出すのを眺めながら宿に戻っ
た。
4 月 12 日(木)【グランモンテスキー場へ】
6 時起床、濃いガスがかかっている。朝食を取り、8:
平坦で広大な斜面
30 に白野氏と岡村さんの車でグランモンテスキー
昼食後、メールドグラース氷河を滑りおりる。傾
場へ向かう。まだ、休暇中(学校はイースター休暇
斜がゆるく、岩も出だして、あまり快適な滑降では
で 2 週間休む)のため多くの車が停まっていて、ロ
なかった。1700m地点の左岸の岩壁を多くの人がス
ープウエーは満員である。この日は風が強く、最高
キーをかついで登っている。モンタンベール登山鉄
地点の 3300mまで登るロープウエーは運転休止。リ
道の駅まで標高差 200mを登るとのことだが、われ
フトで登れるところまで登り、アルジェンチエール
われはさらに 100mほど下った地点のロープウエー
氷河側を覗き込むがガスでほとんど見えない。広大
乗り場にゆき、幸い動いていたロープウエーで登山
なスキー場で一応コースはあるがどこでも滑れる
鉄道(1905m)の駅まで登った。かってはこの高さ
という感じである。3~4 本滑ってお茶飲み休憩。子
まで氷河がきていたのであろう。
供たちが沢山滑っている。4 歳くらいの子供にもヘ
登山鉄道でシャモニーの町に帰りつく。17:00。
疲れたが、念願のヴァレブランシュの氷河滑降がで
ルメットをかぶらせて滑らせているが、子供たちは
斜面をこわがることもなくスイスイと滑ってゆく。
きてよかった。
4 月 11 日(水)【メジェーブスキー場が休業のため
をコンタミンスキー場へ】
清溪 125 号(17)
ベルビエは落ち着いた観光の町という雰囲気が
あり、シャモニーから鉄道を乗り継いでも来られる。
ロープウエーで 2500m地点まで登るが、ガスで視界
はほとんどなし。とりあえず 1 本滑る。その後、ロ
ープウエーで 2900m地点に登って滑るが視界は 20
~30m程度しかなく、全く楽しめない。
12:00 ロープウエー終点駅の大きなレストランで
昼食。スパゲティを頼むと日本の 2 人前くらいある。
味はさすがフランスだけあっておいしい。
元気な子供たち。4歳くらいの子供もいる
昼食後、元気のある 4 名とギー氏、岡村さんとで
されに 2 本滑って昼食にする。種々の料理を皿にと
最高地点 3300mに登る。視界全くなし。出だしのと
って重さで料金を払う。ジャガイモ、ベーコン、卵
ころは斜度 40 度くらいあってコブと非圧雪で極め
のはいったグラタンにロゼワイン。しめて 17 ユー
て滑りにくい。ギー氏は 2 ターンくらい滑ってわれ
ロ。
われを待ち、さらに滑るというのを繰り返す。岡村
3 人の若者が大きな荷物を背負いスキーにシールを
さんは全く問題なしに滑り降りてくる。ロープウエ
つけて登ってゆく。登り下りのある決められたコー
ー終点駅で全員がそろい、もう一度登って滑る途中
スを数日かけてポイントを通過して時間を競う競
で小関さんを見失う。ロープウエー中間駅にギー氏、
技があるとの白野氏の説明。山岳警備隊の行動を競
岡村さん、近藤で行ってみるとそこに小関さんがい
技にしたのであろう。この若者たちの質実剛健さに
た。16:00 過ぎに大型バスでシャモニーに戻った。
感動する。日本の若者達がこのような競技を行う気
今日でスキーも終わりなので、荷物をまとめる。
迫を持ってほしいものである。
夕食は、スープ、子牛のグラタン、アイスクリーム。
昼食後、元気のある 5 名は黒コース(上級者コース)
ワインは 4 本空けて、全員の無事を祝う。夕食後、
を滑ることにし、4 名の人は近くで遊ぶということ
バーでコニャックを飲みながら歓談。やはり、6 日
にする。白野氏の案内で黒コースを滑る。急な斜面
連続のスキーはつらいので、中日に休養を設ける方
が続き、雪質も良く楽しめたが、さすがに足がガク
がよいという意見があり、その通りだと思う。
ガクしてくる。菅村さんと斎藤さんは快調に滑走し
てゆくが、こちらは休みを入れないとつらい。14:
4 月 14 日(土)~15 日(日)【帰国】
30 に 1 本目のロープウエーの降口に集合。
5:20 起床。雨。出発準備をして荷物をロビーに下
元気のある 5 名はさらにロープウエーの乗り場まで
ろし、6:30 に開いたレストランの朝食をあわてて
滑走する。急な斜面が続き、雪がざらめ化していて
掻き込み、6:45 大型バスで出発。岡村さんが見送
慎重に下る。15:00 頃スキー場入口に帰着。
りにきてくれる。白野氏は別の客と昨日からツアー
宿に戻り、ムービーの映像を森岡さんと菅村さん
に出ているとのこと。神田夫妻は奥さんの車で、隣
のパソコンに移し、自分の滑る姿を見る。何とも様
の部屋だった大阪からの夫婦を乗せてジュネーブ
にならずがっかりする。もっと練習しないといけな
空港へ向かう。
い。
成田着
15 日
7:50 着
夕食は、エスカルゴ、鯛のグリル、イチゴのタル
トとおいしく、全員でまたまたワインを 2 本空ける。
以上、9 日間の旅を終えて全員無事に帰国した。最
高齢 77 歳から 65 歳までの山の会一行は、天候には
4 月 13 日(金)【最終日、ベルビエスキー場へ】
あまり恵まれなかったがヨーロッパの岩峰を望む
6:00 起床。曇りで家の屋根に少し雪がある。朝食
スキー場にて心行くまでスキーを楽しみ、またフラ
をとり、8:30 大型バスでベルビエスキー場に向か
ンスワインを楽しんだ。
う。今日は、ガイドのギー氏と岡村さんがアテンド
なお、今回の旅行の費用と反省点、感想に触れてお
してくれる。途中、雪の峠を 2 つ越えて 9:40 ベル
きたい。
ビエスキー場に着く。
①費用は、航空券やホテル代、移動費用、スキー場
清溪 125 号(18)
のリフト代等、昼食代以外をすべてを含んで一人約
Touring
35 万円であった。燃料サーチャージが加わり一人約
28 March Wednesday: Touring and arriving to
40 万円である。
Abisko
毎日スキー場にアテンドしてくれる人がつかない
29 March Thursday: Go and see Kiruna
と初めての場合、広大なスキー場をどう滑ってよい
30 March Friday: Arriving around 11.00at Uppsala
か迷うし、移動も慣れないと難しいので、幹事が不
31 March Saturday: Stockholm
慣れということもあり今回は旅行社に頼んだ。
1 April Sunday: Return to Japan
②森岡さんの慰労とは言いながら、実はわれわれが
ことの始まりは、元東北大学への留学生で、昨年
楽しんできたという忸怩たる思いがあり、慰労のた
の夏に帰国したスウェーデン人のマグヌス(Magnus
めの工夫をもっとすべきだった。今回の報告の写真
Ahnesjö)さんが、12 月上旬に、春休み中にスウェ
もほとんどが森岡さん撮影のものである。
ーデンに来ないか、とメールをくれたことだった。
③ヨーロッパは日本のように簡単にアメリカナイ
都合があうメンバーを募ったところ、今回の 3 人の
ズされないということを、スノーボーダーが少ない
みが残ったのだった。パスポート取得にもたついた
ことや、シールを付けて重荷を背負い登る若者を見
り、あくせく航空券や防寒着を買い求めたりはした
て感じた。非常に好感が持てる。また、いくつかの
ものの、どうにか出国の日を迎えた。
山の麓の町を通りかかったが日本のように過疎化
しておらず、若者も多く、建物もしっかりしている。
観光で暮らしているのであろうが、地に足がついて
いると感じられ、これも好感が持てた。
3 月 19 日
成田空港国際線ターミナルに集合。山行用の道具
のほとんどはマグヌスさんが用意してくれたので、
65 リットルのザックの中身はぎりぎりの量の服と
最後に、今回の貴重な経験を得る機会を与えてくだ
少しの個人装備と、直前に新調したデジカメと、大
さった、塩澤会員はじめご指導いただいた諸先輩に
きなお土産の菓子折りだけだった。ほとんどの体積
お礼を申し上げ報告とさせていただきます。
をクローズドセルのロールマットとおかきの菓子
折りが占めていた。スウェーデンは寒かろうと、多
◇◇スウェーデン訪問記◇◇
めの防寒着を機内持ち込み用のかばんに移し、搭乗
永田(工学部 2 年)
口に向かった。
参加者:野村、久米、永田
飛行機に浮かされ地球の自転を逆行し、まず経由
日程:3 月 19 日~4 月 2 日
地のモスクワへ。座席は前の席の背もたれの後ろに
行動概要(マグヌスさんより配布された計画書より
モニターがついている仕様で、ゲームができたり映
抜粋,一部略):
画を見れたり現在位置がわかったりしたが、みな持
Proposed schedule
参した本を読んで過ごした。アエロフロートの CA
19 March Monday: 19:37 arrival at Arlanda Airport.
の方々はどこかぶっきらぼうだった。ロシア人の気
We go to Magnus family's house in Uppsala were
質というものだろうか。
we have dinner and stay the night.
約 10 時間後、モスクワのシェレメチボ空港に到
20 March Tuesday: We take our time and explore
着。乗り換えの際にも搭乗時と同じように手荷物検
Uppsala and adjust to Swedish time. Also we try
査や金属探知機をくぐる検査があった。この検査員
out our equipment.
であるロシア人のおばさまはやはりぶっきらぼう
21 March Wednesday: In the morning we enjoy some
で、手順を間違えた乗客にびしばしと檄を飛ばして
countryside nature. In the afternoon we pack our
いた。ここで久米ちゃんは精密機械類のいくつかを
equipment into the sledges. Our train leaves at
身につけたままゲートに侵入するミスをし、ブザー
18.00 for Abisko.
を鳴り響かせていた。ひとつのポケットから何かを
22 March Thursday: Arrival at Kaisepakte around
取り出してはゲートをくぐってブザーを鳴らし、ま
lunch.
た別のポケットから何か取り出してはブザーを鳴
23 March Friday to 27 March Tusday: Mountain
らし、ぐるぐる回ってようやく抜け出した久米ちゃ
清溪 125 号(19)
んは泣き出しそうな子供さながらだった。1 時間
メージされるパンと、クラッカーのような硬くて薄
少々待ち、スカンディナビア航空のストックホルム
平たいパンの 2 種類があった。僕にはよくわからな
行きに乗った。
かったが、二人によると前者のほうのパンは日本の
親切な CA さんの下、2 時間半ほどのフライトの後
ものとは比べものにならないくらいにおいしいら
にストックホルム、アーランダ空港に着陸。入国審
しかった。食への順応力が低いらしく難儀している
査で「Do you speak English?」と聞かれてしまっ
久米ちゃんを横目に、うまいうまいと食い意地を張
た僕はひどくショックだった。到着ロビーに出ると
ってがっついた僕だった。
マグヌスさんが待っていてくれた。久々の対面、無
食後、車に乗り込み、ウプサラの中心部へと向か
性なうれしさがあった。移動中は空調が効いた中に
った。ウプサラ大学の駐車場に車を止め、マグヌス
いたために、長ズボンに長袖シャツを着ただけの格
さんの案内で大学のキャンパスや植物園、ウプサラ
好であったが、アーランダの夜は思いのほか気温が
大聖堂などを見て回った。お昼はウプサラ市街で手
高く、少し肌寒い程度だった。マグヌス家(苗字の
ごろな店を探して入った。僕は魚のパイを食べた。
読み方がわかりません)の車に荷物を載せ、彼の家
魚のパイだなんて魔女の宅急便の映画でしか見た
族の家へと送っていただいた。駐車場はボルボ率が
ことがなかったが、それは当たり前にそこにあった
高く、しかもほとんどが MT であるらしかった。信
のだった。久米ちゃんがナイフとフォークの扱いが
号は少なくほとんどの交差点がロータリーになっ
よくわからず大変そうだった。不器用な男よのう。
ていた。交通量が多いとこうはいかないのだろう。
午後には市街地を歩き回り、町の近くの森にも行っ
走るのは旅番組でいつか見たオートルート。いかに
た。この森との近しさがいかにもスウェーデンっぽ
もスウェーデンらしい、ヨーロッパらしいものを見
い。
せ付けられて、僕はかなり興奮していた。オートル
記憶があいまいで申し訳ない限りだが、確かこの
ートっぽい映像が撮りたくて動画を回したが、暗く
日の夕食にはマグヌスさんと一緒に日本に留学し
て何も映ってはいなかった。
ていた方も加わった。主食としてのつぶしたじゃが
郊外の一軒家に到着。ご両親の出迎えを受け、夕
食に招かれた。タイ米にサーモンのシチューにサラ
芋やトナカイ肉のシチューを食べた。オフの日かと
思いきやいろいろあった 2 日目が終わった。
ダにパン、茹でたじゃが芋と人参、それと現地では
頻繁に食されるらしいリンゴンというフルーツの
3 月 21 日
ジュース。興奮したままの僕はやたらとカメラを振
朝食の後、荷造りをした。そり(スウェーデン語
りかざす恥ずかしい観光客になっていたらしく、後
でプルカ)に防水処理をした荷物を敷き詰めていく。
で野村さんに咎められたのだった。2 階建ての 2 階
たくさんの食料。プリムスのガソリンストーブとク
には寝床が用意されていただいてあった。眠る場所
ッカーにヒルバーグのテント。いずれもスウェーデ
が確保されていることの、なんと安息感のあること
ンのメーカーだ。アバランチビーコンはマムート製、
か。マグヌスさん一家に感謝多謝である。興奮は冷
これはスイスか。プルカにはたっぷりの容量があり、
めやらぬものの、日本時間ではもはや早朝。すぐに
余裕で荷物を積めた。プルカを引くためのU字型の
眠りに落ち、1 日目は終わった。
棒にも何か名前があったはずだが忘れてしまった。
その後は、お弁当のサンドイッチを作ってマグヌ
3 月 20 日
ス家から徒歩で行ける森の散策をした。この日も暖
ぐっすり眠った。普段の生活でもあれほど深く眠
かく、長袖シャツ一枚で十分だった。針葉樹が並ぶ
った記憶はあまりない。心地よい目覚めの後、階下
光景は故郷の北海道を彷彿とさせるものがあった。
の食卓で朝ごはんをいただく。シリアルと牛乳やヨ
写真を撮りまくり、目にも存分に焼きつかせた。と
ーグルト、パンにバターとチーズやジャム。シリア
ても心地よい時間が流れていた。
ルは殻つきのままつぶして乾燥させた、という感じ
帰宅後、いよいよ出発である。プルカを車に積み
の麦に、ドライフルーツやナッツを加えたもので、
込み、バスでウプサラ駅に向かった。バスの天井に
素朴な味わいがあった。日本で言えばシリアルとい
は、横転したときにでも使うのであろう、非常用の
うよりグラノーラだろうか。パンには、一般的にイ
ハッチがついていた。駅に着き、荷物をホームへ担
清溪 125 号(20)
ぎ上げる。日本のような改札はなく、事前に買った
いな方のパンとバターとチーズとサラミ。食べ終え
切符を列車内で車掌さんに見せる形式だった。外国
たら荷物をしまい、余裕があればスキーの上にシュ
の駅のホーム。高校 2 年の冬ごろから 3 年の終わり
ラフを干し、テントをたたみ、プルカにパッキング
まで、世界の車窓からとういう平日の夜にやる 3 分
し、スキーを履いて出発する。
くらいの番組を毎日録画して見ていた僕にとって、
10 時ごろに休憩を入れる。スウェーデンの風習で
そこにあるのはまさに夢にまで見た光景だった。番
あるフィカというもので、テルモスのお湯で作った
組を真似て列車がホームに入るところを動画に撮
即席スープを飲み、サラミやビスケット、チョコレ
った。
ートなどを食べ、休憩する。昼になると昼食の時間
列車が来て、荷物を狭い通路から運び込み、いよ
いよ出発。客室は 6 人用のコンパメートひとつ分で、
寝台 2 つにプルカをまとめた。マグヌスさんの母上
が持たせてくれた弁当を食べ、眠った。
で、前もって作ったサンドイッチを食べ、スープを
飲む。
そのあとは夕方まで行動する。幸いなことに、全
日程にわたって景色を楽しめないような悪天の日
は無かったように思う。雄大な自然が絶え間なく目
3 月 22 日
にとび込む、疲れ知らずのウォーキングだった。い
暗いうちに目が覚める。周りを起こさないように
い時間になったらキャンプ適地を見定め、行動を終
コンパメートを出て、通路にある折りたたみ式の簡
了し、2 人用のテントを 2 つ張る。テント割りは、
易いすに腰掛け、本を読みつつ黄昏てみたりした。
ガソリンストーブの扱いに慣れていたのがマグヌ
過ぎ行く車窓は林業の町ばかりだった。
スさんと僕だったので、野村さんと久米ちゃんがど
昼前にカイセパクテ駅に到着。タクシーに乗り、
ちらかに加わるということになったが、旅が進むう
入山地点に移動。タクシーといっても日本のような
ちに体格や食事量の関係からか、自然とマグヌス&
それではなく、そり 4 つとスキー4 人分が余裕でつ
野村、永田&久米という形で定着した。プルカは外
めるほどのバンだった。トヨタのハイエースをイメ
に置いて必要な荷物だけを運び込む。熱を妨げるた
ージしてもらえればだいたい合っている。ドライバ
めにマットは 2 重にひいた。そして待ちに待った夕
ーは女性で、サングラスがかっこよかった。
食作り。メニューはプレーンのパスタに冷凍野菜、
入山地点は古い小さな駅。スキー板にシールを張
乾燥肉、粉末スープを加えたものだったり、ワンタ
り、スキーとプルカを装着し、出発。さっそく防獣
ンのような野菜や肉が内蔵されたパスタに粉末ス
のものらしきフェンスに行く手を阻まれるも、金具
ープを加えたものだったり、米とソーセージとスー
をはずして無理やり乗り越えた。しばらく登った後
プを煮込んだものだったりした。旅の最後はフリー
は平坦となり、しばらく歩いて、夕方になってキャ
ズドライのものも食べた。いずれのものにもたっぷ
ンプ適地を探し、テントを張った。テントはいわゆ
りのタバスコをかけて食べた。どれもこれもおいし
るカマボコ型で、4 本のポールがあり、3 本分が寝
かった。それから、片方のテントに集まって、その
室、残りが前室だった。前室はガソリンストーブの
日どこから歩いて今どこにいるのかと、翌日の行動
プレヒート(余熱。染み出させた液体のままのガソ
予定を確認する。自分のテントに戻ったら、次の日
リンに火をつける。少し大きな火があがる)も余裕
のためのサンドイッチを作る。これは次の日の朝に
でできるだけの広さがあった。フライとインナーテ
作る場合もあった気がするが記憶が定かでない。ス
ントが一体化した、雑誌で見たままのヒルバーグの
ウェーデンのおいしいパンに、バターを塗り、チー
テントだった。翌日の打ち合わせをし、昼ごはんも
ズとサラミをはさむ。シンプルでおいしく、栄養も
用意して、山歩き初日は終わった。
十分だと感じた。作業を終えたら歯を磨いて就寝。
とまあ、およそこういった具合だった。
ここらで、この後数日山を歩く間繰り返されたこ
山行の残りは、まとめて書かせていただく。
とを大まかに説明しておこうと思う。
朝目が覚めたら、ストーブに火をつけて朝食とテ
ルモスに入れていく用のお湯を作る。朝食はシリア
ルとお湯で溶いたスキムミルクに、クラッカーみた
清溪 125 号(21)
ひたすら進む
そしてオーロラ
3 月 23 日は移動の日。ひたすら進む。晩に、僕が大
26 日はテントを残して近くの山に登った。やや天
量の鼻血を出すというちょっとした事件があった。
気が荒れ気味で、地面に突き刺さった鉄の角棒の先
スウェーデンに来る少し前からやたらと鼻血の出
にプラスチックの細長い板をバツの字につけた、道
る日々が続いてはいたが、このときの量はひどかっ
しるべを頼りに歩いたりもした。登頂はあきらめて
た。オーロラを見ることができたのはこの日だった
途中から滑降した。下りの途中で、遠くにトナカイ
だろうか。見上げた空の端から端まで、夜闇を 2 等
を見つけた。下山後、小屋を掘り出し、中に入って
分するようなアーチ状の白いオーロラが見えた。オ
ストーブに火を入れたりした。これはあとから聞い
ーロラを見ることができたのはこの 1 日だけだった。
た話だが、マグヌスさんが生まれるよりも前に、マ
グヌスさんのご両親がこの小屋を訪れ、泊まったこ
24 日はスキーを履いて山に登り、滑降の練習をし
とがあったのだそうだ。
た。革の靴+クロスカントリーの 3 ピンのビンディ
ング+細長い板で、ガリガリに固まった斜面をすべ
るのはとても難しかった。転びに転んだような気が
する。このあたりからして、僕がはいていた靴のつ
ま先部分の、3 つのピンを差し込む部分が崩壊して
きていた。登ったのはごくマイナーな山で、もしか
したら日本人初登頂かも、とマグヌスさんが言って
いた。
25 日は移動の日。ついに靴のつま先部分が壊れた。
マグヌスさんに応急処置をしてもらったもののま
た壊れ、とりあえずつま先の穴が必要ないテレマー
クのビンディングだった久米ちゃんの板と交換し
小屋のストーブに火入れ
た。夕方に古いがいまだに使える小屋とトイレを見
27 日。やはり歩く。たんたんと歩く。途中で人通
つけ、その近くの林の影にテントを張った。夜にな
りの多いルートに合流し、トレースに沿って歩く。
って久米ちゃんと僕の板のビンディングを付け替
途中でマグヌスさんが、たわむれにイヌイットの伝
えるてみようとしたが失敗し、翌日以降は板を交換
統的な住居であるイグルーを作ることを提案した
したまま歩くことになった。
が、行動終了が夜遅くになるのを嫌った我々3 人は
少しでも前進することを選択。丁重にお断りし、歩
いた。途中でイヌイットの方々に出会い、ご挨拶を
したりした。雲に覆われた空のひし形の切れ間から、
太陽が眼球のようにこちらをのぞいていた。神の存
在を感じないでもなく、無意識に背筋がのびた。前
清溪 125 号(22)
日にトナカイを見つけることができたり、移動中に
いた。いつも思うが、旅行から帰ってきた後の片付
苔むした小さなトナカイの角を拾ったりしたあた
けほど面倒なものは無い。しかし、道具たちのこと
り、悪く思われてはいなかっただろう。国立公園の
を思えばやらないわけにはいかない。テントを干し
エリアは幕営禁止のため、その手前にテントを張っ
ている途中でにわか雨が降ってきたりして大変だ
た。翌日は国立公園を一気に通過しなければならな
ったが、ひとしきりの作業をした。昼食は、日本人
かったが、下りなうえ踏み跡がしっかりしているか
が経営しているという寿司屋の寿司をマグヌスさ
らいけるだろうと、たかをくくって眠った。
んの母上が買ってきてくれて、それを食べた。まる
28 日。最後の日。前日までと違い、完全に道とし
っきり日本の寿司だった。夕食には、マグヌスさん
て出来上がったところを歩いた。途中で道を間違え
の母上の知り合いの、東北大からウプサラ大の大学
たり、雪が解けた水溜りをスピードをつけて一気に
院にきた方と、その友人の、留学中の東北大生の方
通過したり、度重なるアップダウンに苦戦したりし
が招かれた。日本人のお二人には日本の食べ物が恋
たものの、とにかく先へ進んだ。最後のトレイル終
しいらしく、僕が持ってきたおかきをたいそうおい
点のゲートで盛大に転んで、スキーツアーは終わっ
しそうに食べてくれた。スウェーデンの食事は全般
た。近くの旅行者用案内所の裏のキャンプ場にテン
においしくて僕らはとても満足していたが、お二人
トを張り、旅行者用のサウナに入った。あまり垢は
によると「1 ヶ月もすればうんざりする」のだそう
落とせなかったが温まった。濡れた靴の中で 1 週間
だ。食後にそこにいた全員で長い時間歓談をした。
がんばった足の裏はしわくちゃだった。サウナと同
少し英語がうまくうなったような気分になった。
じ建物には共用のキッチンと食卓があり、そこで夕
食を食べた。それに、濡れたものを干すための部屋
まであった。至れりつくせりだった。
3 月 31 日
ストックホルム観光の日。バスで駅まで行って列
車に乗り、ストックホルムへ向かった。ストックホ
3 月 29 日
ルムではひたすらぶらぶら歩いた。町並みを眺めな
バスに乗り、キルナへ向かった。ホテルの貸し会
がら歩くだけで価値があった。あるきながら写真を
議室にプルカを預け、観光をした。キルナは炭鉱の
たくさん撮った。観光地では特に何も買わなかった
町で、遠くに露天掘りをしているのが見えた。掘り
気がする。ストックホルムはウプサラと違い色々な
進めすぎて町が地下へと落ちてしまう危険が出て
国の人がいて、拍子抜けしたような気分だった。シ
きたために、町の移転が計画されており、重要な文
ョッキングピンクのターバンを巻いた人に写真撮
化財は分解して新たな町に持っていくのだそうだ。
影を頼まれたりもした。帰りにスーパーマーケット
その、取り壊されずに移される建物のいくつかを見
に寄って、お土産の買い物をした。シリアルやビス
て回った。その後は買い物をした。ヘラジカやトナ
ケット、チーズ、リンゴンのジャムなどを買った。
カイの肉の店があり、お土産に干し肉とソーセージ
僕がクレジットカードの暗証番号を忘れるトラブ
とステッカーを買った。トナカイの肉はウプサラで
ルを起こし、久米ちゃんと野村さんにお金を借りな
買うと 4,5 倍の値段で数分の 1 の量しか買えない
ければならなかった。帰宅後、マグヌスさんがたて
らしく、マグヌスさんは大量に買い込んでいた。そ
かえてくれていたスキーツアーの交通費の清算を
の日の夕食と翌日の朝食をスーパーで買い、夕方に
した。僕らの財布に残っていた現金は思いのほか少
列車に乗り込んだ。寝台は行きの列車と同じものだ
なく、マグヌスさんに頭を下げなければならなかっ
った。夕食のメニューは薄平たいパンにポテトサラ
た。最後の晩だった。何かお礼がしたいと思った僕
ダ、チューブの洋からし、サラミ、きゅうり。たら
らは日本食を作ってご馳走することにした。作った
ふく食べて、久々のベッドに眠った。
のは肉じゃがといわしの蒲焼とお好み焼き。調味料
は前日のお二人にお借りした。肉じゃがはひどく汁
3 月 30 日
だくだったものの味はよかった。蒲焼はうまくいっ
昼前にウプサラ駅に到着。マグヌスさんの母上が
た。お好み焼きはひどかった。あまりに申し訳ない
待っていてくれた。車に荷物を積み込み、バスで家
ので、大半を僕らの腹に収めた。お礼になったかど
へと向かった。帰宅後は、道具の後片付けが待って
うかはわからないが、ひとまずマグヌスさんとご両
清溪 125 号(23)
親は喜んでくれていたようだった。
4月1日
マグヌスさんの父上がこの日にグリーンランド
へと出発するのを、マグヌスさんが車で送っていく
都合で、マグヌスさんとの別れのときは思いのほか
早く訪れた。マグヌスさんは僕らとの別れをとても
悲しんでいてくれていて嬉しかった。最後にハグを
して、お別れを言った。本を読んだりして時間をつ
ぶた。出発の時が来た。マグヌスさんの母上がお弁
当を持たせてくれ、車で空港まで送ってくれた。さ
らに、空港での手続きも手伝ってくれた。お礼とお
別れの言葉を言って、帰路についた。
予定では翌日、熊野岳から丸山沢を滑降する予定
ではあったが、こんな積雪の状況では丸山沢の F1
と F2 の口はかなり空いていて快適な滑りはできな
◇◇5 月の清渓小屋スキー行◇◇
いと思ったので、佐藤君はだいぶ行きたかったよう
塩澤 厚(S26 入)
であったが帰り道の「ひよどり越え」を登り賽の磧
今年、2012 年 3 月の清渓小屋での恒例の OB スキ
を歩いて清渓小屋に戻るアルバイトを考えると、80
ー合宿に参加した際は、積雪量が多く、今年の 5 月
歳を超えた織方さんや私にとってはかなりきつい
は大分快適に滑られる事を期待していた。
事になるのでこれも断念した。
5 月の連休を終えた 7、8、9 日の 3 日間、織方郁
結局、翌日は刈田岳に登り、刈田の斜面から金吹
映さん(東大スキー山岳部 OB,澤さんと二高同期)
、
沢の源頭に入って峠の方に行き前日のコースをた
佐藤正樹君(昭 30 入)と一緒に清渓小屋に出掛け
どって小屋に帰るといった全く不本意なツアー行
た。遠刈田よりのタクシーの運ちゃんの話では、今
に終わり、豪雨による融雪の凄まじさを身にしみた
年のエコーラインの除雪では高い所では 20 メート
山行であった。
ル程の雪壁が出来ていたと言っていたがそんなも
◇◇飯豊・梅花皮沢行◇◇
のは全然見当たらなかった。小屋で小憩後、シール
を付けて金吹沢を横切って刈田峠の避難小屋に向
かったが、やはり予想外に雪が少なくルートを探す
塩澤 厚(S26 入)
飯豊山麓のここ小国町・長者原(チョウジャハラ)
のに苦労した。例年ならばこんな雪が融けて少なく
を訪れたのは、2008 年 5 月に長者原・泡の湯で山の
なっていることは無いのだが、その前の週に東北地
会総会が催されて以来、4 年振りである。
方を襲った豪雨のためとしか考えられない。小屋の
今回の訪問の目的は、久し振りに梅花皮沢(カイ
付近で一月半で 1 メートル半以上は融けていると思
ラギザワ)の雪渓に行って見たかったのと、丁度、
われた。金吹沢のなかの表面に雨水による水流が流
大江隆夫君(昭 42 入)が現役部員 10 名を連れて石
れた跡が歴然と残されているのは初めて見る光景
転び沢で雪上訓練をすると聞いていたので、それの
であった。峠の避難小屋も土台までむき出しになり、
激励、慰問するためと、そして、長者原で私が知っ
積雪期の入り口についている鉄梯子は宙に浮いて
ている恐らく唯一の人であろう前田春枝さん(満 80
いて届かない状態であった。
歳)に会うためであった。同行の友は、作山宗久君
そんなことで前杉の手前まで行ったものの、普段
(昭 27 入)と佐野英彦君(昭 31 入)の二人である。
なら快適な滑降ができる前杉から峠の沢に落ちて
作山君は、1953(昭 28)年 12 月 30 日、厳冬期として
いる斜面も断念せざるを得なかった。
は初めて北股岳に一緒に登頂した一年後輩であり、
佐野君は、1958(昭 33)年 12 月、同じく梶川尾根を
経由して北面からの厳冬期の飯豊主峰・大日岳に向
かった一人であったので、両君とも長者原、温身平
(ヌクミダイラ)は懐かしい青春の場であろうと思
清溪 125 号(24)
い一緒に出掛けたのである。
のは疲れる。温身平のブナ林は、昔よりは少なくな
天気予報で 6 月 22 日から 24 日は、梅雨の中休み
ったとはいえ、立派なブナ林である。温身平から先、
で天気は割に良さそうなのを確認して山形新幹線
沢の左岸沿いをたどる道は、以前と少し変わってい
で米沢に向かった。幸い、この時期の 4 日間を JR
るのか特徴のある大きな岩、上、下のツブテ石が見
東日本管内なら新幹線も含め乗り降り自由のパス
当たらなかった。梶川が左岸より入り込む手前で雪
が 13,000 円で売られていたのを利用できた。米坂
渓になった。梅花皮沢の雪渓を歩くのは、1998(平
線の小国駅で小国町の町営バスに乗り替えて長者
10)年 5 月以来 14 年ぶりである。川入の梅花皮荘
原に向かった。昔利用した米坂線の玉川口の駅舎は
で行われたその年度の総会後、板橋
とうの昔に廃駅になり、また小国と長者原を結んで
入)と渡辺定久さん(昭 25 入、故人)との三人で
いた JR バスも無くなり、唯一つの交通機関は町営
石転び沢の出合まで来たことがある。作山君は 56
バスだけである。
年ぶりだと言って喜んでいる。温身平では、石転び
眞さん(昭 24
小国から乗った客は我々三人のみ、駅前を出て間
沢の稜線にある梅花皮小屋まで行くという青年二
もなく一人の元気な婆さんが乗りこんで来た。私が
人に追い越されたが、雪渓に入ると今度は、上から
運転手と昔の長者原のことを話していたら、突然、
下りてくる数人の登山者に出会った。やがて石転び
その婆さんが話しかけてきた。良く見ると前田春枝
沢と門内沢との分岐が望まれるようになり、午後 2
さんであった。小国へ所用で出てきていて偶然に乗
時丁度頃に出合(860m)に着いた。雪訓に来ている
り合わせたのである。春枝さんは、昔の私の現役時
現役連中のテントが三張り張られている。石転び沢
代は言うに及ばず、昭和 6 年 3 月、旧二高山岳部の
を見上げると 500m ほど先の右岸の斜面で部員たち
大島正隆さん等三人が初めて飯豊にきた時以来、飯
が雪訓をしているのが見える。ヤッホーをかけ笛を
豊に来た二高山岳部や東北大山岳部の連中が大変
吹いたが聴こえないのか反応が無かった。ここまで
お世話になった佐藤勇さん、とよいさん一家(屋号
来たことの証拠写真を撮り、部員への優待として手
を庄右衛門と言った)の四女である。当時、小国電
持ちのキャンデーとチョコレートをテント内にメ
工の長者原発電所の取水口の管理小屋が温身平に
ッセージと共に置き、下ることにする。好天のもと、
あり、通称「堰堤小屋」と呼んでいたが、そこの職
楽しい気分で雪渓を下った。
員として働いていた鉄砲撃ちの名手、前田治二さん
(平 18 年頃、76 歳で没)と結婚し、既に廃校にな
ってしまった小玉川小中学校の職員として永年勤
めてきた人である。
小国駅より 40 分余りで長者原に着いた。バス停
の前の民宿「越後屋」に荷を下ろしてから春枝さん
と一緒に佐藤家と前田治二さんの墓参りに行く。春
枝さんの自宅のすぐ裏手、梶川の頭から地神の峰々
を望める絶好の場所にある。「越後屋」でひと風呂
を浴びて休んでいたら、大江君率いる部員連中が温
舗装道路の終点の飯豊山荘に午後 4 時過ぎに帰着、
身平に行く途中に立寄ってくれた。今年入部した一
その日の宿の奥川入の民宿「奥川入」に電話を掛け
年生部員が五名もいるのには心強く感じた。それに
車で迎えに来て貰うよう依頼する。当日が土曜日で
しても、大江君はじめ近藤
孝君(昭 41 入)、樋口
あったためか前日の「越後屋」は満員で予約が取れ
明夫君(昭 58 入)、や矢吹仁人君(平 11 入)らの
なかった。辛うじて取れたこの宿は、初めて泊まる
皆さんが、多忙のなか時間をみつけて、指導層の薄
民宿であったが、ここ小玉川は狭いものである。昔、
い現在の部員を山に連れて行って指導されている
玉川口よりの飯豊登山の際にベースとしてお世話
ことに先輩の一人として礼を言いたい。
になった温身平の「堰堤小屋」にやはり発電所の職
翌 23 日、思っていたより好天になり、温身平へ
員でおられた岩魚釣りの名人、横山春美さん(昭 57
の道を行く。夏場には温身平の入り口、湯ノ沢の出
年、75 歳で没)の親戚であることが、宿の婆さんの
合にある飯豊山荘までバスが走る舗装道路を歩く
話で知った。この宿は、川釣りに来る人が多く泊ま
清溪 125 号(25)
るようである。
(4)
チベット研究会報告
翌日、飯豊の山々が見渡せる樽口峠まで行こうと
(5)
左衛門小屋 60 周年事業について
思ったが、峠への入り口で道路が崩壊して交通止め
(6)
その他
になっていると聞いたので残念ながら断念した。宿
の爺さんが他の客と一緒に坂町まで車で送ってく
2.審議(通常/基金会計収支報告書は巻末に別添)
(1)
れるとのことなので、出発時間まで長者原と川入の
中間位にある「マタギの館」を見に行く。6 年位前
平成 23 年度山の会会計の決算について
(通常会計、山の会基金)
(2)
に作られたそうであるが、訊ねるのは初めてであっ
平成 24 年度山の会通常会計予算案につ
いて
た。(財)小国町自然環境保全公社がやっているそ
(3)
うで、長者原に戻って来た春枝さんの長男の利治さ
総会の議事を終え、古田元副部長のご冥福を祈
んが一人できりもりしている。内部には、長者原の
その他
り黙祷を捧げました。
山の猟師、所謂「マタギ」の熊狩りの様子を撮った
【記念講演】:『左衛門小屋の過去と現在』塩澤 厚
写真、昔の狩りの時の装束、熊とカモシカ(青じし)
会員(昭 26 入部・理)
の剥製、熊狩りの罠の模型、そして、湯ノ沢で夏場
【参加者】
だけ開いていた「飯豊温泉」の昔の写真等が二階の
赤間啓介(1951)、塩澤
展示室に飾られている。展示品を見終えて三人で下
加藤正信(1953)、佐藤正樹(1955)、白川公男(1958)
、
のレストランで今回の山行を祝してビールで乾杯。
田代
坂町まで送ってくれる「奥川入」の車が宿の爺さん
菅村和夫(1964)、斉藤公夫(1965)、佐藤行彦(1967)
、
の運転でやって来た。初夏の陽射しに映える飯豊の
大江隆夫(1967)、本藏良三(1967)、今井順一(1970)
、
山々を振り返り見ながら長者原の部落を後にした。
片山正文(1970)、桒原康雄(1971)、豊水正昭(1972)
、
終
古谷信之(1973)、
(OB の括弧内は入学年度)
厚(1951)、三橋亮一(1951)、
侃(1958)、石田頼平(1959)、森岡
◎以下現役部員;松澤
智、宇野
昭(1962)
、
渉、永田哲也、
加藤祐介、角田貴彦、久米恭司、佐井康真、増澤慶
汰、大山綾音
◆報告・お知らせ
◇◇幹事会日誌◇◇
◇◇2012 年度山の会総会報告◇◇
片山正文(S45 入)
今年度の山の会総会は 6 月 2 日、蔵王山麓・遠刈
幹事会
4 月 5 日 幹事会(農学研究科・豊水研究室)
清渓発送について
田七日原高原の蔵王高原荘で開催されました。OB:
会計関連
19 名に加えて、多くの現役部員(9 名)も参加し、
現役の活動報告
総勢 28 名となりました。議事は桒原康雄会員(昭 46
OB 合宿について
入部・法)の議長のもと、下記の次第に従い進行さ
24 年度山の会総会日程及び会場について
れました。記念講演では塩澤
左衛門小屋 60 周年事業について
厚会員(昭 26 入部・
理)より「左衛門小屋の過去と現在」という演題で、
役員連絡先並びに緊急連絡網整備
興味深いお話をしていただきました。翌 3 日には車
森岡前幹事長慰労スキーツアー計画
に分乗して、清渓小屋や左衛門小屋への散策が行わ
5 月 9 日 幹事会(農学研究科・豊水研究室)
れ、新緑の蔵王を満喫しました。
現役の活動報告
【総会次第】
会計関連(決算監査中)
1.報告事項
24 年度山の会総会準備について
(1)
山岳部活動報告
役員連絡先並びに緊急連絡網について
(2)
幹事会報告ならびに平成 24 年度山の会
森岡前幹事長慰労スキーツアー報告
活動予定
清渓小屋冬季訪問記念プレートについて
役割分掌
清渓小屋の利用の手引きについて
(3)
清溪 125 号(26)
会員の異動・訃報
5 月 28 日 幹事会(農学研究科・豊水研究室)
◇◇2011 年四川省登山隊記録◇◇
24 年度山の会総会準備
大江隆夫(S42 入)
役員連絡先並びに緊急連絡網について
昨年夏に実施した「2011 年夏 四川省未踏峰登山」
古田先生偲ぶ会について
の記録が以下の山岳関連誌に掲載されましたので
備品の維持管理について
お知らせいたします。
6 月 25 日 幹事会(農学研究科・豊水研究室)
日本ヒマラヤ協会発行の季報ヒマラヤ459号
山の会総会の反省
(2011年12月発行)及び米国山岳会(The American
会計関連
Alpine Club)発行の年報The American Alpine
川村部長の退任について
Journal 2012 (2012年 8月発行)。なお米国山岳会
7 月 23 日 幹事会(農学研究科・豊水研究室)
はネットで内容を公開しており次のURLからアクセ
部長代行について
スできます。
現役の活動報告
(http://aaj.americanalpineclub.org/)
現役支援計画
◇◇東京支部便り◇◇
清渓 125 号発行について
小屋維持管理について
近藤孝(S41 入)
ヒュッテ祭日程について
平成 24 年春のハイキング会を浅間山周辺で行い
会報 16 号への寄稿呼びかけについて
ましたので報告いたします。
5 月 26 日(土)朝 8 時 30 分に長野新幹線の佐久平
◇◇東北大学山の会会報 16 号
発行について◇◇
会報 16 号担当
今井
駅に全員集合。恩田会員の車とレンタカーの計 2 台
で車坂峠にむかった。車坂峠の駐車場に車を置いて、
順一(S45 入)
9 時 35 分に歩き始める。天気はうす曇りで視界はあ
会報 15 号(1997 年~2002 年の活動記録)が 2005
まり良くないが、四阿山(あずまやさん)がはっき
年に発行されてから、7 年が経ちました。この間、
りと見える。芽ぶきはじめたカラマツの林のなかの
東北帝大山岳部 30 年のあゆみ「遥かなる山と友」
、
ゆるい登り道をゆっくり登り、やがて避雷小屋につ
旧制第二高等学校山岳部々史「清き渓から眞夏の空
いた。避雷小屋となっているが、浅間山が爆発した
へ」、東北大学山岳部 50 年史「新たなる高みへ」が
ときの避難小屋でもある。さらに 2~3 分登ると、
相次いで発行されました。2003 年以降の、この 10
浅間山が東にどっしりと見え、その外輪山を伝う道
年間の山岳部・山の会のあゆみをまとめる会報 16
となる。
号を、来年平成 25 年夏を目処として、発行の準備
残雪が融けて道がぬかるみ歩きにくい。12 時過ぎに
を進めたいと思っております。
黒斑山(約 2000m)の頂上着。
特にこの 10 年間は、現役部員の減少に、頭を悩
登山者が多い。日本百名山の浅間山は、まだ活動し
ましてきました。幸い、今年は現役部員が久し振り
ているので黒斑山にのぼって、浅間山に登ったこと
に 20 名を越えて、工学部 7 名、医学部 6 名、理学
にするのだそうだ。浅間山を眺めながら昼食をとり、
部 5 名、農学部・文学部・歯学部各 1 名とバランス
塩澤写真館のカメラで記念撮影をして、下山にかか
良く色々な学部の学生が集まって、山岳部の活発な
る。14 時前に車坂峠にもどり、15 時過ぎ軽井沢駅
活動が期待されております。
で大木会員を見送り、代わりに海老沢会員と前田会
会報 16 号発行にあたり、会員諸兄から、会報に
関するアイデア・原稿・写真等を広く募集します。
員をピックアップして、近くのスーパーで食材の買
い出しをおこなう。
さまざまな年代からの寄稿を期待しておりますの
今日の泊まり場所は川俣会員のご厚意で北軽井
でよろしくお願いいたします。また、編集委員から
沢にある会社保有のリゾートマンションをわずか
も、直接、会員に原稿の寄稿をお願いする事も考え
3000 円(一人ではなく全員で)という信じられない
られますので、その節には、よろしくご協力いただ
料金で借りたところである。温泉もついている。た
きますようにお願いいたします。
だし、自炊である。
清溪 125 号(27)
夕食は塩澤会員のメニューになる、「牛肉とキノ
の利尻、蔵王、富士山、乗鞍、穂高、立山の
コとブロッコリーいため」
「野菜入り揚げ蒲鉾」
「鶏
経験は吹き飛び、惨憺たるあり様で反省しき
ときゅうりのごまだれあえ」にじゃがバターとやき
り。ガイドが言う様に、八甲田ではゴーグル
そばなどで、遅くまで歓談した。
と流れ止めが必携である事を改めて悟った。
5 月 27 日(日)は 6 時ころ起床して、つけめんの朝
期待したパウダースノーは 2 月~3 月上旬ま
食。昼食のおにぎりを作り、準備を整え、9 時にリ
でとの事、時季が遅かったようだ。問合せ時
ゾートマンション前で記念撮影して、2 台の車で浅
にそう言ってほしかった。同行の 2 人は皆に
間隠山に向かう。30 分くらいで登山口に着いたが、
ついて降り、私一人面目を失う。後輩の白川
ここも車が多い。天気は昨日と同じで、曇りだが雨
公男君の経験談によると、彼が以前ニセコで
の心配はなさそうである。9 時 50 分に出発。林の中
滑った時、同行者のスキーが外れ、膝上の深
のゆるい登りをゆっくりと登る。展望はない。12
いパウダーの中をスキーが潜水艦の様に滑っ
時 10 分全員が頂上に立った。360 度の展望が可能だ
て行ったとの事。たまたま下にあった太い立
が、近くの山しか見えない。13 時ころ下山にかかる。
木にスキーがぶつかったので発見できたそう
14 時 40 分駐車場にもどり、一旦リゾートマンショ
だが、もし見つからなかったら非常に困難な
ンに行って置いていた荷物をまとめ掃除をして帰
事態になった事だろうと感じたとの話。青森
路についた。
以北の冬は流れ止めが必携であると改めて教
今回の参加者は、岩田、塩澤、川俣、海老沢、大木、
えられた。
佐野、日出平、近藤、近藤夫人、前田、恩田の 1 名
3/28 白河高原スキー場。原孜
であった。
同行はいつもの 2 人。シール登攀 2 時間。積
初夏の浅間周辺の山を楽しむことができた。
雪はスキー表面がかすかに隠れる位。雪は粘
る。非圧雪にも大分慣れた。降りたらかなり
◇◇会員の個人山行抄◇◇
の吹雪となる。
3/17-20 蔵王清渓小屋 塩澤厚他
4/1「大山(房の大山)」川俣俊一
OB スキー合宿に参加、満 80 歳超で 1 月~3
月に小屋に来た人を顕彰する板に岩田敏夫
日本山岳会有志山行、平山元会長と同行
4/6,7 熊野古道
今井 順一
会員(昭 24 入)と三橋亮一会員(昭 26 入、
前年に引き続き家内と熊野古道を歩きました。
同期、残念ながら 6 月 12 日急逝)と共に名
昨年秋の豪雨の爪跡が所々に残っていました。
前を刻む事が出来た。
(今回行った登山道は問題ありません。)4/6
3/18-20 八甲田スキー。原孜 75 歳
牛馬童子バス停から滝尻王子まで、4/7 発
同行 65 歳女性、55 歳女性。酸ケ湯で-12.5℃、
風速 19.5m、積雪 4.75m。レンタルのビーコン
心門から湯ノ峰温泉まで(赤木越え)
4/14「高畑山、倉岳山」川俣俊一
を装着し、公募パーティに参加。吹雪で、ゴ
ンドラ内からの視界は頭上のケーブルが数メ
千葉高校山岳部 OB 会公式山行
4/21「仏果山、経ヶ岳」川俣俊一
ートルのみ。山頂駅に降りると誇張無く一寸
先も見えない吹雪。10 名前後のパーティの誰
日本ゼオン山の会 4 月定例山行
4/21-22 八甲田山。原孜
一人として止めようと言う者がおらず、山岳
積雪は酸ケ湯で 3.5m。同行はいつもの 2 人。
部の蔵王合宿の様に全員黙々としてガイドの
前回スキーを紛失した時に世話になった徳差
後につくのには驚いた。曇るメガネを止む無
ガイドに案内を頼む。
強風でゴンドラは運休、
く取り去り、0.04 の視力のまま滑り下りる。
目的の北八甲田を止めて南八甲田の駒ヶ峰の
斜度も何も判らず、ついて行くだけで必死。
8 合目まで。雪は湿ったザラメ。結構曲がれ
途中深雪に突っ込み片側のスキーが外れる。
た。岩木山、岩手山も真っ白だった。
深雪と吹雪で見つからずにいると、ガイドの
4/25 白河高原スキー場。原孜単独。
徳差辰男さんが降りてきて懸命に雪を掘り見
下は雪無くスキーを担いで歩く。登り 2 時間。
つけてくれ、最悪の事態は免れた。現役の頃
上部の雪は締り、ザラメ状。結構滑れた。半
清溪 125 号(28)
袖シャツ。
ブナの原生林、宇和海の眺望と天候にも恵ま
5/5「南高尾山稜」川俣俊一
れ、四国にもこんなにも良い山があるのだと
日本ゼオン山の会有志
5/7-9 蔵王清渓小屋
再認識しました。抄
塩澤厚、佐藤正樹
6/22-24
同行織方郁英(TUSAC)、南蔵王方面スキー
飯豊・梅花皮沢行
塩澤厚、作山宗久、
佐野英彦。
5/9 茶臼岳。原孜
14 年振りに梅花皮の雪渓を石転び沢の出合
本院職員と総勢 5 名。ゴンドラは動いている
まで往復したが 10 時間弱の山行は超老人組
が駐車場から歩く。雪は殆ど無い。頂上まで
にはきつかった。温身平のブナの林はやはり
登り 1 時間 45 分。頂上で一天俄かにかき曇り、
見事であった。(紀行文を参照)
すぐ傍で雷しきり。急いで下り 1 時間。同行
7/4 半月山 1753m(日光)。原孜
者にとって印象深い思い出となる。
同行本院職員 5 名。登り 2 時間 40 分。曇り。
5/19「雨乞岳、(南アルプス前衛)
」川俣俊一
7/8 徳島県三嶺中腹の池巡り
日本山岳会三水会山行
麓の四国支部の山小屋、菅生ロッジで前泊。
5/20 千葉県・御所塚山(270.93m、一等三角点)
川俣俊一
今井順一
神秘的な池を 3 ヶ所巡る。頂上には行けませ
JAC 千葉支部会員 20 名
んでしたが、藪漕ぎもなく、一般登山道から
5/21-22「夜叉神峠」川俣俊一
はずれ地図を読みながらの山行でした。スマ
千葉高校山岳部 OB 会有志
-トフォンの GPS 機能は使えます。
5/26-27「黒班山、浅間隠山」塩澤厚他
7/14-15 立山。原孜
山の会東京支部の春のハイキング会。泊北軽
同行は例の 2 名。計画では室堂に前夜泊、翌
井沢
朝早出して雷鳥沢から別山乗越で剣を眺め、
6/2 安達太良山
今井順一
大日の方に尾根を降り、室堂乗越から 50 年前
山の会総会の前日、磐梯吾妻スカイライン経
に登った駒草ルンゼを眺め、その足で宇都宮
由で岳温泉泊。ロープウェイで中腹まで登り、
に戻る計画だったが、暴風雨で断念。残雪が
くろがね小屋経由で下山。麓では、春蝉が鳴
多く、たとえ晴天でもピッケル、アイゼン無
いていました。
しの我々では無理だったろう。反省点多し。
6/3 蔵王左衛門小屋
塩澤厚他
一の越までの往復で終わった。50 年前、美女
蔵王高原荘での山の会総会の翌日、訪問。
平から未だ動いていないケーブル道を許可を
6/3-5「鳥海山笙ガ岳」川俣俊一
得て重荷を担いでひた登り、手つかずの弥陀
千葉高校山岳部 OB 有志山行、地元本庄山の会
が原をシールをつけて一の越まで行き、美女
会員の案内で残雪を踏んで、山頂はハクサン
平まで滑降した。当時は数日間誰にも会わな
イチゲの白い花が満開だった。
かった。今回は一生の思い出に、当時は出来
6/7,8 伯耆大山・蒜山 海老沢裕・大木安弘
る事すら想像もしていなかったホテル立山に
佐藤正樹・佐野英彦
6/8 箱根長尾峠
一泊した。あの室堂でお金を払ってバス、ト
川俣俊一
イレ付きのホテルに泊まるなど、誰に対して
単独行
でも無く、申し訳ない気がした。
6/10 愛媛県三本杭、見黒鳥屋、八面山、鬼ヶ城。
7/21-23「四阿山」川俣俊一
今井順一
日本ゼオン山の会 7 月定例山行。菅平より
塩沢会員・川俣会員の推薦で日本山岳会に 4
8/9-10 清渓小屋行
塩澤厚他
月に入会しました。今年 2 月に出来た四国支
故・洲嵜幸久会員(昭 28 入)の 13 回忌のた
部に所属しております。山の会の活動と重な
め、川俣俊一会員(昭 28 入)
、斎藤雅英会員
らない月は月例山行で四国の山々を登る予定
(昭 31 入)、洲嵜夫人他家族 12 名と小屋を訪
です。以下は参加した月例山行です。今井順
問。
一他 10 名程度。黒尊林道経由で四国山地西部
の山々を登る。黒尊川源流の渓谷沿いの道、
清溪 125 号(29)
◆案内
申込の際には、JR 利用かマイカー利用かを連絡く
ださい。
詳細連絡:3 週間前に詳細のご連絡をする予定です。
◇◇平成 24 年度ヒュッテ祭のご案内◇◇
松澤智(理学部 3 年)
◇◇関西支部、秋の山行のご案内◇◇
関西支部幹事 難波 健(S44 入)
今年度のヒュッテ祭は、下記の日程で行います。
OB の皆様にはお忙しい時期とは思いますが、紅葉の
TAAV 関西
秋の山行のお知らせ
蔵王を楽しむのはいかがでしょうか。現役一同お待
平成 14 年の大山に始まり、毎年実施している山
ちしております。今年度のヒュッテ祭幹事は山岳部
行(ハイキング)は今年、第 11 回を迎え、広島の
3 年の松澤智です。ご不明な点はご遠慮なくお問い
日下理さんが計画された以下の日程、行程で実施す
合わせ下さい。
ることとしております。参加ご希望の方は関西会員
[日程] 10 月 13 日(土)16 時~
に限らず早めにご連絡ください。
[場所] 清渓小屋
日程・行程:2012 年 11 月 23・24 日(三段峡)25
[費用] 3,500 円位
日(オプション:恐羅漢山)
[申し込み方法] 同封のはがきに記載の上、10 月 6
連絡先:難波健
日(土)までにお送り下さい。
◆会員の異動
[お問合せ先] 松澤智(理学部 3 年)
住所変更
井関 正昭(S27 法文)
◇◇東京支部ハイキング゙会のご案内◇◇
阿部 郁夫(S36 医)
東京支部幹事 近藤孝(S41 入)
2012 年秋の東京支部ハイキング会は上越国境周
辺で行いたくご案内いたします。お誘い合わせの上
ご参加をお願いいたします。
記
日 程:10 月 27 日(土)8 時 30 分上越新幹線
上毛高原駅改札口集合
8:40 上毛高原駅→(レンタカー)→9:30 三
国スキー場跡→11:00 西稲包山→12:00 稲
包山(約 2000m)→15:00 三国スキー場跡
→16:00 猿ヶ京温泉(泊)、18 時より夕食、
懇談。
10 月 28 日(日) 吾妻耶山(1341m)、子持山(約
1296m)、小野子山などの中から適切な山を選ん
で登りたいと思います。あるいは、天気が良け
れば谷川岳の天神平へロープウェーで上がっ
ても良いです。参加各位とご相談しながらきめ
たいと思います。レンタカーで移動します。
宿泊 : 猿ヶ京温泉 ホテル生京園
〒379-1403 群馬県利根郡みなかみ町大字猿ヶ
京温泉 1121
電話 0278-66-0311
交 通:
JR 利用(上越新幹線)の場合
(とき 305 号)東京 7 時 08 分→大宮 7 時 33 分
→上毛高原 8 時 27 分の新幹線が適当です。
マイカー利用の場合
関越自動車道の沼田 IC で降り、国道 17 号線
で法師温泉の手前から三国スキー場跡へ。
会 費:新幹線の交通費を除き、一人 14,000 円程度
(レンタカー代を含む)。
申 込:10 月 5 日までに、近藤へ申し込みください。
近藤孝
安中 信仁(H3 工)
持田 晶良(H5 工)
岡崎 祥司(H10 理)
嘉門 洋介(H14 経)
岡田 広司(H19 医)
田代 侃(S33 工)
太田 嶺人(H18 医)
塚本 大樹(H7 理)
渡辺 秀人(H7 工)
勤務先変更
服部 秀夫(S28 法)
菅村 和夫(S39 医)
高橋 昭平(S42 工)
手塚 重久(S42 工)
有山 尚夫(S49 農)
佐藤 嘉洋(S49 工)
黒川 伸一(S53 経)
浅田 睦彦(S55 工)
邦武 英彦(S55 工)
砂古 伸二(S57 文)
メールアドレス変更
丸山 祐介(S52 法)
鍵谷 将人(H9 理) :
清溪 125 号(30)
:藤本 有美(H8 文)
:
郵便番号の訂正
ましたら何でも結構です、下記までお寄せくだ
本蔵
さい。
良三(S42 農)
転居先不明
大江隆夫
今年中に名簿を発行いたしますが、以下の方が転居
先不明です。 ご存知の方は事務局まで一報願いま
す。
立沢 喜正(S26 経)、打木 城太郎(S27 文)、藤村 徹
(S29 法)、比嘉 昭彦(S37 工)、野村 昌弘(S54 理)、
安田
浩(S54 薬)、小林 幸夫(S57 理)、井上 貴史
(S63 農)、浦川 嘉哉(H5 文)、中村 和也(H5 工)、西
村 陽彦(H9 工)、岩村 武(H10 理)、矢野 寛(H11 工)、
江面
道典(H18 医)
◆訃報
村松 巌会員(二高 S20 文 1)平成 22 年 3 月 11 日 逝
去
鳥塚 賀治 会員(二高 S19 理 6)平成 23 年 11 月 逝
去
鈴木 正也 会員(二高 S18 理 3)平成 24 年
畑岡
逝去
信夫 会員(S45 工) 平成 24 年 4 月 9 日 逝
去
三橋 亮一 会員(S26 教)
平成 24 年 6 月 12 日 逝
去
謹んでご冥福をお祈りいたします。
◆編集後記

4 月以来の清渓発行で前回発刊に間に合わなか
った現役の活動報告、スウェーデン訪問記、4
月のスイススキー紀行など盛りだくさんな内
容で前例のない厚さの号となってしまった。予
算管理者さん、ごめんなさい。

三橋先輩と後輩の畑岡君が相次いでなくなっ
た。お世話になり、また若かりし頃お互いに切
磋琢磨した同年代の先輩、後輩が世を去ってい
くのは本当にさみしい。掲載した追悼文からお
ふたりの人柄が偲ばれる。

125 号発行作業が完了したので 9 月はじめから
しばらくヒマラヤ周辺のトレッキングに出か
ける予定です。何に出会い、何を感じるのか今
から楽しみにしています。

清渓編集に関してご意見、アドバイスなどあり
清溪 125 号(31)
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