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Gender 学からみる 江副碧の生涯
広島経済大学研究論集 第38巻第 4 号 2016年 3 月 Gender 学からみる 江副碧の生涯 ──リクルート事件を乗り越えて(前編)── 上 田 み ど り* 1. 序 に勤務し,中国電力勤務の姉と始めたサロン店 が成功,発展し,やがて多くの女性経営者たち 江副碧氏に会ったのは,1999年 3 月29日,場 を束ね,その女性たちに数々の学習の場を与え 所は「広島全日空ホテル」。広島の女性経営者 てもいた。このシンポジウムは,その一環だっ で組織される‘エンゲル会’という会が開催し た。 た,「激動の時代―女性がひらく21世紀」と題 1999年その日のシンポジウムの司会は,広島 するシンポジウムでのことだった。男女共同参 経済界で誰でもが知るフェミニスト,今は亡き, 画の法律が施行されて時を経たが,実社会で意 (株)モルテンの社長,民秋史也氏だった。パネ 識が変わるまでには時間がかかる。 リストは,東京から江副碧氏,当時「NTT 中 江副碧氏は「リクルート」という会社の創設 国」で唯一女性管理職と言われた野村氏,そし 者,江副浩正氏の妻として知られていても,そ て40歳過ぎて大学で職を得た筆者だった。女性 れは彼女の一面であって,それだけではないこ たちはそれぞれの立場から話した。この頃, 「江 とを,彼女はこのシンポジウムの中で示した。 副」の名前は,リクルートの創始者として一般 自己実現をしながら,社会貢献を視野に入れた に知られていたものの,大半の人は,彼女の実 仕事をすでに始めている彼女の別の顔をその場 像を知らなかった。いつもニコニコ顔の江副碧 で披露した。 氏が,「むずかしいことはわかりません」と言 時代は女性の社会進出に,社会が目を向け始 いながら,二人の娘を育てつつ,あの世間を騒 めた頃である。広島は,中国地方の中でも昔か がせたが,内容がはっきりわからない‘リク ら男尊女卑の風土を持つ地域でもあったし今な ルート事件’の荒波を乗り越えようとする真っ おその傾向は消えていない。多少の差こそあれ, 最中で,国際的な事業を展開し,後に1999年 地方では意識の変革は起こっていない。特に広 「Forbes」誌の女性起業家欄記事に載るような 1) 島は宗教的影響もあり,家父長制の強い地域で 仕事を手掛けていた 。 ある。その中で,いち早く時代の動きに気付き, それから20年以上も経て,今なお‘海洋ミネ 問題を捉え,行動を起こした人たちがいた。そ ラル’という自然科学分野に関心を持ち,社会 の中心となったのは,広島の繁華街「流川」界 貢献を視野に入れ実践した会社を立ち上げた, 隈の飲食関連の経営者とデパート周辺の商店経 江副碧という人物をこの論文において,社会参 営の女性群だった。そのリーダーとして,多く 画する女性代表として取り上げ,ジェンダー学 の若い女性を引っ張っていたのが,高田沙夜氏 の観点から彼女の生き方を考察するものである。 だった。警察官を父親に持つ彼女は,広島県庁 まず江副碧氏の生い立ちを本人の著したこれ までのエッセイと,自らが語る話を基に,E. H. * 広島経済大学経済学部教授 エリックソン著の『幼児期と社会』Ⅰ,2 を援 12 広島経済大学研究論集 第38巻第 4 号 用し,彼女の生き方の基盤となる精神性を証左 気分や興味に任せて,好きな道を通って家に する。 帰った。 2. 第一章 戦時下の環境─母と父の役 目 碧の歩く目の前を機銃掃射が砂利に落ちてき たこともある。あたり一面に砂利や破片が飛び 跳ね,いつも手にしている防空頭巾を被り砂利 江副碧は,西田己喜蔵を父に,激しい喘息持 道に身を伏せたこともあった。家に帰るやいな ちのエンを母に,大阪市内で1936年11月28日に や,今起こったことを母親に話すと,母親は興 生まれた。1942年(昭和17年),碧は大阪市大 奮して恐怖で震える碧を抱きしめた。二週間ほ 正区立小学校に入学。戦禍はひどくなって行く どだって,今度は生瀬の小学校に転校すること ばかりの時代,小学校に上がってすぐ,貝塚に になった。1944年三田小学校に転校と言うこと 母,兄弟,そしてばあやと集団疎開した。日常 になる。三田と言えば,母とばあやが,月に一 生活の必需品に欠いていた親は,塩,鍋,食料 二度リュックサックに生活必需品を詰めて農家 品,日常雑貨,軍手,地下足袋,靴下,タオル, に行き,それらを食料に代えて帰る道筋だった。 石鹸,歯ブラシを,全財産を投げ打って買い, その小学校は,小さな田舎の校舎で複式学級で, 大八車三台に乗せて疎開場所に運んだ。父は軍 小学校が一つの大きな家族のようだったという。 事物資調達のための大阪の工場に残った。小学 裏山の小高い丘には,どんぐりの木や,野イチ 校からの帰り道,焼夷弾に直撃されそうな出来 ゴやあけびが茂っていて自然に囲まれた碧のお 事は日常茶飯事だった。母とばあやは度々三田 気に入りの場所だったし,学校ではいたずら好 の農家に物々交換にでかけ,碧は弟をおんぶし きのわんぱくな男の子が,碧の机の近くに座っ て母の帰りを待ちわびた。家事の手伝いといえ ていた。明るくて親分肌で,いつも碧と他に二 ば,学校から帰宅後,裏山で小枝や松笠を拾い 人の友人で一緒に遊んでいた。当時,碧をから 集めた。ガス・電気の普及はまだない時代だか かったり,いたずらをして困らせたが,決して ら,それは風呂を沸かすための焚き木用だった。 ひどいことはしなかった。 こうした生活の中で,子どもらはたくさんの遊 びが工夫できた。例えば,山崩れがあった場所 エピソード 1 . に,いらなくなった板を敷いて,坂の上から一 新しい学校に慣れてきて,一か月位経った頃, 人で滑り降りるなど,楽しい遊びを考えた。母 虱騒動があった。母親が気づいて,それから毎 は帰りが遅くなった時でも,碧はひとり遊びの 晩,碧は頭を酢で洗われ,ツゲの梳き櫛で,髪 楽しさを知るようになる。 の毛をといた。小さな虱や卵が梳き櫛にひっか 碧は五か所の小学校に通った。初めは,北恩 かるので,爪をあわせてぷちぷちと殺した。毎 加島国民小学校に入学し,二年生になると宝塚 晩そのような日が続いたが,大丈夫になったこ に疎開となり,宝塚第二小学校に転校した。疎 ろには,碧の髪の毛はすっかり茶色くなってい 開先の家は,宝塚駅に近い,学校から歩いて約 た。 50分あまり,武庫川の流れに沿って三田に向か ある日,そのいたずら好きのグループが碧の う道沿いの長寿村にあった。自然の景観が散見 茶色っぽい髪の毛に気がついて,「外国人,外 できる道沿いに滝の水しぶきが舞い散る山道や, 国人」と細長い棒を振りながら囃し立てている 川側の道は,武庫川に架けけられた仮橋を渡り, うち,その棒につまづいて,碧は転んでしまっ 川辺の砂利道を歩くこともできた。その時々の た。たまたま煉瓦のかけらで,おでこをすりむ Gender 学からみる 江副碧の生涯 いてしまったため,母親は赤チンで消毒し,軟 膏を塗り,ガーゼを貼り,お出かけ用のモンペ と上着に着替えた。「これから,その男の子の 13 とで,当時,阪急宝塚線中山観音に移動した。 エピソード 2 . 家に行きます。碧も用意をしなさい」と言い, その頃,裏道に通じる山道を数人の行軍訓練 碧の手を握って力強く,そのわんぱくな男の子 生がジョッギングで駆け登っていくのを碧は気 の家に向かった。何か重大なことが起こると, づいていた。母屋から裏道に続く小さな果樹園 喘息持ちの母親はいつも凛となった。碧は,事 には,日よけの東屋があり,若い訓練生たちは の重大さに気づくより前に,母に喘息の発作が 水を飲んだり,体を拭いたりと一時の休憩を 出ていないことが嬉しくて安心するのだった。 取っていた。そしてその庭には母が,あらゆる 「どうしてこんなことになったのかを,その 季節の野菜を植えてもいた。ある日,野菜の手 男の子から話を聞きましょう」と母は凛として 入れをしていた母に四人の青年たちが,「失礼 言った。農作業をしていたその男の子の母親が します。水を頂戴します」と挨拶し水道の蛇口 出てきて,その子を呼んだ。いきさつを聞いて に付けてあるアルミニウムのコップで美味しそ その母親は,一緒に「ごめんなさい」と謝った。 うに水を飲みほしていた。「ご苦労さんですね」 「謝るのは娘にして下さい。これからは怪我が と母はねぎらいの言葉をかけて少しの間その訓 ないよう遊んでね。」と母はその子に言った。 練生と話をしていた。そうして何日か経った朝, 転校すると,いじめっ子やいじめられっ子の話 母は貴重なもち米や小豆を煮た。その頃小豆は はよく出てくる。そんな時,母親は碧をいじめ 家族の慶事がないと使わなかったはずである。 た男の子の家に行き,いじめの理由を尋ね聞い やがてその貴重な小豆が五つのおはぎになり, た母は,いじめた理由が大したことではないこ 碧はうれしくかいがいしく手伝った。やがて, ともわかって,いじめた側の言い分といじめら 行軍訓練生たちが,いつも通り裏庭で束の間の れた側の気持ちとをつきあわせて,お互いを納 休憩を取った時,母はおはぎとさらにとってお 得させ,子ども同志が以前のように普通に遊ぶ きの日本茶を入れ,彼らに振る舞ったという。 ように仕向けたのだった。その時も,帰り道, 碧は彼らが帰ってしまうやいなや,「私も食べ 碧は母親の手を強く握りしめながら,母の自分 たかった」と半べそをかいた。母親は碧を抱き への愛情と信頼を確信した。後になって,これ 寄せて土間に座り,碧の目を見ながら,やさし ほどの優しさと凛とした母のけじめの取り方は, く,しかしきっぱりとした口調で言った。「今 碧がどんなに努力しても越えられないのではな は日本では,皆がひもじい思いをしているの。 いかと思ったものだった。特に碧が二人の娘の お母さんはあなたたちを飢え死にさせるような 母親となってから,自分を母親と重ね合わせて ことは決してしない。あの人たちは若いのに, 考えることが多くなったが,考えれば考えるほ 兵隊になり,お国の為に,私たちを守るために, ど,より一層,母の愛情というものに,畏敬の 命を捧げようとしている。おはぎは,せめて私 2) 念が溢れたと言う 。母の毅然とした態度に, があの人たちのおかあさんに代わってしてあげ 人間愛の大きさと深さを碧が感じ取った思い出 たいことだったの」というエピソードがあった。 の一場面である。人間対人間の間に生まれる信 子どもながらに,母親の毅然とした態度と気 頼関係が,どのように育成されたかが窺われる。 迫に,碧はただうなづくだけだったという。そ その年の10月ごろには,箕面(ミノオ)自由学 れから半年経った頃,母親は小さなおはぎを作 園に転校した。しかしここがまた危険というこ り,近くの農家の人から分けてもらった材料で, 14 広島経済大学研究論集 第38巻第 4 号 ドーナッツを揚げた。碧は再び兵隊たちのため の日から碧は,毎日その毛が伸びることばかり かと思いながらも,手伝っていたら,今度は自 を気にしないようになった。そうなると,時に 分たちのためだとわかり,めずらしくも譬えよ は草を刈ってくることすら忘れてしまい,一日 うもなく幸せな気分だったことを碧は書き記し 一食の日が続いてしまったこともあった。 3) ている 。食料も思うように手に入れられない 当時の碧は,自転車で遠くまで遊びに出かけ 時期に,自分の手にいれたもので,自分さえよ て,夕日が落ちる頃に家に戻っていた。家に近 ければという精神ではなく,できる範囲で周り い当たりの草はほとんど刈ってしまい,だんだ の人に分け与えることのやさしさと,自分の守 んと遠くに行かなければならなくなり,遠くに るべき者はしっかり守るという基本を忘れない ゆくには疲れすぎ,近くのあぜ道に植えられて でいる母に碧は支えられていたのだ。 いる枝豆の葉をちぎったこともあった。ほどほ エピソード 3 . どに籠に詰めて兎小屋にばらまくと,兎はとて もおいしそうに食べるのでだが,あっという間 終戦前後は物のない時代だったから碧は 5 , に無くなった。兎はこの葉っぱが一番好きなの 6 歳から母に習い,残り毛糸で靴下や手袋,マ だとその時,思ったが,学校に行く前にやる草 フラーなどを編んで,それらを大切に身につけ は,前日から残しておくとか,朝早く刈りに行 ていた。戦後になってカラフルなアンゴラ毛糸 かなければならないし,近くのあぜ道で集める を見た時,その美しさや柔らかさにうっとりし 方が楽なのである。その上,兎が一番すきなの てその毛糸でマフラーやセーターを編みたいと は,枝豆の葉っぱだと信じていたから,周り近 憧れた。そんな時,アンゴラ兎を飼って毛を刈 くの枝豆の葉を順にちぎって行った。その内見 り取り,交換所に持って行けば,毛糸と引き換 渡す限りのあぜ道沿いの枝豆の小枝が丸坊主に えてくれるという話を聴いた。碧は有頂天にな なってしまった。自分では「ああ,枝豆の葉っ り,アンゴラ兎を 3 匹わけてもらった。犬小屋 ぱも無くなってしまった。自転車で,もっと遠 の横に金網を張って,大きな兎小屋を作っても くまで取りに行かなきゃ」と思っている時, 「お らい,毎日毛が伸びるのを楽しみにした。朝夕, 父さんがおよびです。」と庭師が碧を迎えに来 草を刈ってそれを小屋に入れてやり,日曜日に た。父は「お前はお百姓さんにたいへんな迷惑 は毛が刈れると思うとうれしく,もぐもぐ食べ をかけてしもうたなあ」と碧に言った。碧には る兎に「おあがり,おあがり」と声を掛けた。 何の事だか分からずきょとんとしていると,父 数か月に渡って,ため込んだアンゴラ兎の毛 は,枝豆は葉がなければ,実がつかないことを はダンボール箱一杯になったので,碧は嬉々と 教え,農家に謝りに行ったと言った。そして次 して,教えられたところに毛糸と交換してもら の日に碧に,番頭さんと一緒に農家の人たちに うため持って行ったが,刈った兎の毛を秤に載 謝りに行くように諭したのである。その時碧は せ,交換された毛糸は小さな玉だった。「ダン 初めて,あぜ道の枝豆は農家の人たちが大切に ボールに一杯もあったのに…」と,碧は間違い 植えたものだと知った。そこで日曜日の朝,家 ではないかと思い,半べそをかいたが,担当の を出て農家を一軒一軒歩いて行き,軒先に立ち, 男性はアンゴラの毛をおさえてみせ,慰めるよ 頭を下げて謝りを言ったのだった。番頭さんは うに碧に言った。「ほうら,こんなに少しにな 父からの意向で何かを渡しているようだったこ るだろう。糸に撚っていくと,毛がつまるので, とに,碧は気づいている。ぎらつく太陽の下で, 少しになるのだよ」と,こんな説明を聞いたそ 広い範囲に散らばって立っている農家を一軒ず Gender 学からみる 江副碧の生涯 15 つ謝り歩いているうち,腹も空くし,咽も渇い 1946年 碧が 9 歳になり,12月17日 妹円が たが大変な事をしたと碧は悟ってもいた。最後 誕生した喜びも束の間,12月23日母は産後の産 の七軒目まで,どうにか終え,途中アイスを 褥熱と肺炎のため疎開していた宝塚で36歳の若 買ってもらい,日陰に座ってそよ風の中で食べ さで亡くなった。そのあと 2 日して妹もなくな る味は唯々おいしく,また歩く元気を取り戻し る。大阪で小さな軍事工場を営んでいた父は, た。番頭さんの後ろに立って「ごめんなさい」 母の亡くなる前日にやっと疎開先まで戻ってく と言ってぺコンと頭を下げると,叱るべきなの ることが出来たようだ。甘えたい母を亡くし, に,叱りもしないで,農家の人は「わざわざよ いとおしい妹を亡くし,碧の寂しさは何ものに く来てくれはった」と砂糖水や蜂蜜水,かき氷 も例えようがなかった。喘息の持病で,ぜいぜ などを差し出してねぎらってくれた。このこと い,ヒーヒーとよく咳き込んでいた母に寄り を父に報告すると,「よう行ってきた。自分で 添って,碧は背中をゆっくりとさすったり,か しでかしたことは,自分がけじめをつけないと いがいしく手伝いをした。母の姉は医師として いかんとわかったね?お百姓さんは精魂込めて 陸軍病院で活躍していたし,喘息で苦しむ母の 野菜を育てているんやから,これからは,こん 為に,大阪から 1 日がかりで何度も電車を乗り な迷惑をかけてはいかんよ」と言い,碧は素直 継ぎ,さらに長い距離歩いて母の診察にきてい に「はい」とうなずいた。 た。二人姉妹の互いを思いやる心は平常時より 翌朝起きてみたら,兎小屋の前に草の山が 一層短時間でも心深く刻まれたと思われる。 あった。毎度,農家の誰かが,草を刈って置い てくれていた。碧の一生忘れられない貴重な体 後になって,母を想い,母との絆を感じなが 験だった。 ら物事を見つめる時,碧はどんな苦労や困難が 「このような児童訓練の重要な点は,子ども あっても,すぐに自分を取り戻すことができ, は幼い時から責任を持って社会生活に参加する 元気で明るく活動できる。母とは,ほんの 9 年 よう絶えず条件づけられていること,同時に子 間の短いかかわりでしかなかった。しかし,人 どもにできると期待される仕事はその子どもの と人のつながりは,時間の長さではなく,関わ 能力に適合したものであるということ」と, 「子 り方や密度にある。父母は今もなお,碧の心の どもは大人の口先だけの褒め言葉や勿体ぶった 中にずっと生き続けており,碧を守り励まし続 励ましでだまされることはない」とエリクソン けていると信じているのである。 4) が述べる ように,碧の父親は社会の中で生き ていくすべとして,小さい時から責任の取り方 エピソード 4 . をはっきりと碧に示した。家族の代表として親 母の死の翌年,1947年,父は大阪と京都の間 が謝って歩くことはできるが,それでは子のた にある茨木に新しい広い用地を得て,宝塚から めにはならない。幼い頃から社会性を培うよう 下中条の工場の近くに住居を作り,宝塚から転 碧に教えた。自己責任と言う言葉があるが,責 居した。その頃は交通事情もよくない時期だっ 任の所在はどこか,曖昧にしないで,長い物に たから工場近くに居を構えることになった。 巻かれる方式ではなく,悪いことをしたのであ その家は省線の茨木駅に近いものの,あたり れば,自分の言葉で謝り,二度と同じ過ちを繰 一面は見渡す限り田畑で裏庭から外に出る時は り返さない覚悟と責任が人間にはあるのだと碧 あぜ道を右に左に曲がって大通りに出た。その に徹底して教えた。 ような田園風景の中に大きなお屋敷が点在して 16 広島経済大学研究論集 第38巻第 4 号 おり,何とものどかな自然環境で, 6 月の田植 きな庭石を運んできたり,大工が茶室を作るの えの頃は,日に日に成長する苗が美しく,夏が を碧は,何時間も飽きることなく見ていた。そ 過ぎる頃には実った稲穂が垂れ下がり,一面が んな頃,家の雑用をする男衆として,‘草場の 黄金色の絨毯になり,周りは牧歌的眺めとなり, おっちゃん’という人が来た。草場さんは,軍 心が休まったと碧は思い返す。 隊で体罰を受けて鼓膜が破れて耳がきこえなく その頃,碧は,箕面自由学園への電車通学を なっていて,碧の家と会社に近いところに建て していた。当時は交通事情が悪く,11歳の小柄 られた,会社のバラックに住んでいた。家や会 な子どもが満員電車で押しつぶされそうになり 社の片付けや雑用をこなし用務員のような役目 ながら,必死で通学した。ある日,恐れていた だった。草場さんは,仕事を終えてから,毎晩 ことが起こった。プラットフォームに乗客が電 バラックの前の草庭に床机を出して,空を見上 車から溢れ出て,将棋倒しになり,碧は皆の下 げていた。手作りの望遠鏡で星を観察していた。 敷きになった。病院で手当てを受けている時, ある晩,碧が横に座ると,草場さんは嬉しそ 父からの迎えの者が来て,一緒に帰ることがで うに言った。「とうちゃん,お星さまをみても きたのは幸いで,父は真剣に,碧に心からわび ええのか」「うん」とうなづくと,草場さんは た。「怖かったろう?痛くないか。こんなこと 星を指しながら星座の説明をし,望遠鏡を渡し になってはと,心配しておったのに,仕事の忙 た。星が大きく見えた。 しさにかまけて,親としての対応がきちんと出 草場さんは一生懸命に話してくれたが,碧に 来ずすまなかった。許してくれ」と父は,親と はそれを半分も理解できなかった。なぜなら, しての考慮が足りなかったと,自分を責め,反 草場さんは耳が聞こえないので,言葉の発音や 省しているようだった。「ううん。私がいかん 抑揚が,明快ではない。それでも,碧は少し分 かったの。皆が急いで電車からおりはるのに, かるような気がして楽しんだ。 私がまだ降りへんので,すぐ出えへんと,ドア 空にはこんなにぎっしり星が輝いている。碧 にしがみついていたさかいに,出る人たちがけ は月の中で兎が餅をついていると本当に信じた。 躓いて,倒れてしまはったんよ。それで私まで それから時折,草場さんの横に座って,話が分 ひっぱられてしもうた」と,碧はあわてて状況 からないながら満天の星を眺めるのがとても幸 を説明した。父のせいではないと言いたかった せだった。傍にいるだけで,暖かくて優しくて のである。 心地がいい。二人とも黙って夜空を見上げ,宇 碧は大人になり,親になってから,ふと,父 宙という感覚はなかったけれども,遠い星から や母の対応を思い出すことがある。本気で詫び きらきら光る何かを碧たちに運んできているよ てくれた父,本気で憤ってくれた父,愛情を惜 うな気持ちになった。 しみなく与えた母,しつけやけじめに几帳面 姉がある日,「草場さんは,星を発見した人 だった母。碧はこの中の何かひとつでも父や母 やて。とてもえらい人なんよ」と教えてくれた。 のように娘たちに伝えられているかと自分を振 り返って考える。 エピソード 5 . 「そうやさかいに,おっちゃんはお星さまが大 好きなんやねえ」と碧は答えた。草場さんは, いつも質素な食事を慈しむように食べていた。 碧は自分の夕食を半分草場さんにあげたいと その広々とした畑の中,大きな旧家に建て増 思った。「お腹が痛いの。後で食べるからお弁 しをして住むことになったわけだが,庭師が大 当箱にとっといて」と家の者に頼んで,碧の残 Gender 学からみる 江副碧の生涯 17 した鮭とキャベツ炒めとご飯を入れたお弁当箱 碧は父から草場さんの調子が悪いらしいと聞き, が,台所に置かれるのを見て,碧は安心した。 父が「リンゴを持って行ってあげなさい。そし 父がねえやに「これから時々,みどりに夜食を て,これを渡してあげなさい」と封筒を預かっ 作っといてやりなさい」と言う。碧がお弁当を た。以前,りんごを持って行くと草場さんは皆 持って行くと,草場さんはびっくりしたが,嬉 に分けてあげるから,そこにあった木箱四箱の しそうだった。碧は草場さんには,聞こえない まま持って行きたいと碧は思った。ねえやが けれど,「心配せんでもええの。お父さんがね 「半分くらいにすれば」と言っても碧は聞き入 えやさんに作ってあげなさいと言ってくれたの」 れず,一つでも多くみんなの為に持って行こう と言った。草場さんは,お弁当を何度も拝むよ とした。そこで,縄でしっかりと括り付け出発 うにして,ゆっくり食べた。井戸水を汲み上げ した。しかし余りにも後ろが重過ぎて,ハンド て,お弁当箱を洗い,「こんなおいしいご飯を ルを取られそうだったが,がんばって,やっと いただけて,本当にありがたい」と言って,碧 坂道に入った。 にお弁当箱を返した。それから時々お弁当を 自転車から降りて,自転車を押すのだが,あ 持って行き,二人で夜空を見上げて幸せな心地 んまり重くて自転車ごと何度も倒してしまった。 になった。 小箱は壊れ,もみ殻があたり一面に散り,転ん 一年位経った頃,草場さんの姿がみえなく だはずみに自転車や木箱で,脚に切り傷ができ, なった。すると,「草場さんは具合が悪くて, ひっくり返った時,腕や頬も擦りむいてしまっ 高槻の老人病院ホームに先週入院したよ。みど た。とうとう碧は自転車を起す元気もなく,半 りに一目会いたかったと気にしていたよ」とあ べそをかいて途方にくれた。十二月中旬の寒さ る日,父が話した。「どないしたーん!」と, と心細さで自転車の側で,しくしくと泣いてい 碧は涙をぽろぽろ流しながら大声で叫んだ。 ると,トラックが丁度登ってきた。その運転手 「じゃあ,リンゴを持ってお見舞いに行ってあ が碧のこの様子を見て,「こりゃ,えらいこっ げなさい」と父親が勧めた。 ちゃ」と言いながら,碧を励ましてくれ,壊れ 碧は八個のリンゴをきれいな紙袋に入れて, た木箱に,もみがらや落ちたリンゴを入れ,自 口をリボンで結び,少し遠いけれど頑張ってそ 転車を荷台に積み,碧を運転席に載せ,やっと の老人ホームに行こうと自転車で勢いよく出か 老人ホームに着いた。 けた。 草場さんはベッドの中で静かに目をつむって 高台にある老人ホームに,自転車を押しなが いた。私が汚れてくしゃくしゃになった顔で らやっと到着した。草場さんは,思いのほか元 「おっちゃん!」と呼びかけると,目を開けて 気で,碧が草場さんに持ってきたリンゴを突き 碧の顔を慈しむように見て,手で涙をぬぐった。 出すと,彼は,うれしそうに,何度も拝むよう 「また,リンゴ持ってきた」と言って,リンゴ にして,袋を開け,同じ部屋の人たちに一つず 一つと父からの封筒を手に握らせたが,いつも つあげた。碧は草場さんに全部食べて欲しいと と違って草場さんは,とても静かだった。その 思って持ってきたのでどうなるかとはらはらし 翌々日,草場さんは,亡くなった。あれから50 ていたが,一個残った。草場さんはそれを大切 年あまり,空を見上げる度,碧は草場さんが発 そうにベッドの枕元に置いたそうである。 見した星を探す。宇宙の壮大さ,太陽,月,地 碧は草場さんが元気そうなので,もうすぐ退 球,そして銀河系の不思議な魅力を教え,ちっ 院すると信じて帰った。それから一ヶ月位して, ぽけな人間の存在を碧に気づかせた人だった 。 5) 18 広島経済大学研究論集 子どもは学校で学ぶことが多いけれど,隣近 所の大人が,自然に近隣の子どもたちを育てて 第38巻第 4 号 エピソード 6 . もいるのである。そのようなことが当たり前に 碧が14, 5 歳の頃,東京から外国の大使一家 なされていた時代だった。人は宇宙の中のほん が視察のため来阪し,碧の家で茶席を設けるこ の小さな存在ではあるが,その命は重く,家族 とになった。当時は招待できるような瀟洒な料 以外でも大切であることを身近な人の死に出 亭や気の利いたレストランが少なかった。その 会って知ることになる。命を受けこの世に現れ かわりに,大切な客を自宅に招き,誠心誠意も 出て,いつかは生物として枯れ,消滅する終り てなすという日本の伝統風土が,しっかり生き を迎えることを,碧は一番近い母親の死から学 ていた。碧の父は商工会の役員をしていた為, んだし,親しい存在の他人からつぶさに経験し 会員の役に立つことも考えたのかもしれない。 てゆくことになった。人間の‘定命’と言われ 一週間程前から,父親,義母,茶の先生,道具 る悲しい定めに出会う。その上,肉親だけでな 屋たちが,道具の取り合わせやもてなしに気を く,自分の側に住む地域の人たちの心遣いがこ 配りをしながら,準備を進めた。お点前をする のエピソードを知る者にまで伝わってくる。社 はずの碧は稽古もほどほどに,新しい道具に興 会がその地域の子どもたちを育てていることが 味をそそられながら,客が迎えられる準備が整 分かる。それまでの暖かく懐かしい思い出だけ えられていく様子を心躍らせ眺めた。 が,成長過程にある子どものせめてもの救いと あわただしかった準備も終り,客人がみえる なってその後のその子の人生を支える一つの柱 日になった。茶道の先生が,一升瓶からお水を にもなる。 窯 に 注 い だ。碧 が 驚 き,「お 酒 を い れ て る の ん?」と尋ねると,茶の先生は,「お父様が朝 1948年(昭和23年)碧は,茨木市立小学校を 早く四時に起きて,奈良まで行って,お茶にお 卒業し, 4 月には同中学校に入学した。父は, いしい井戸水を汲んで来てくれはったんです。 後妻を迎えた。1949年昭和24年,碧は中学校二 これがほんまのおもてなしの心や」とその水を 年生になる。この頃,碧は数学の代用教員にか 愛おしむように窯に注ぎ終わった。碧の父は目 わいがってもらっていたが,その教員がどうい 立たないところで最後まで,納得いくまで,も うわけか碧の知らぬ間に,彼の風呂場で自殺す てなしを考える人間だった。父は夕食に必ず 2 , るという事件が起こっていた。ここでも再び碧 3 号の晩酌を楽しむ。時には二時間以上もかけ の身近な死と対峙することになる。それも碧は ながら,昼間のいろいろな事柄を碧に話すの だいぶ経ってから友人からそのことを知らされ だった。他の者は,食事が済むとさっさと自分 6) 衝撃を受けた 。 の部屋に引き上げるが,碧は勉強やしなければ 11月になると,碧は神戸松蔭女学院中等部に ならないことが気になりながらも,父の側にい 転入した。碧は12, 3 歳で茶道の稽古を始めた。 てお酌をしながら話を聴くのが楽しみになって 二月の寒い日に茶事の招待を受けた。お点前を いた。碧の日本文化への理解は,父と共有した 拝見しながら,稽古を始めた頃のことが懐かし 時間のこうしたコミュニケーションが大きく影 く思い出された。袱紗さばきや手順を思い出し 響している。 ながらお茶を賞味し久しく心静かな良い時間を ある時,古美術商が,丁寧に風呂敷に包んだ 過ごした。 茶道具をにこにこ顔で,父のところに持ってき た。「見ていただきたいお品が手に入りました」 Gender 学からみる 江副碧の生涯 19 「そりゃ,楽しみやな。珍しいもんかい?」と 分の一くらいの値段にしてやるんや。‘満月’ 父の顔がほころんだ。急いで用意された食卓で の部屋には入れておく所がないやろ。ここに置 お酌を交わすうちに,その古美術商はおもむろ いといて読みたい時に取りに来たらええ。この に風呂敷を解き,古い桐箱から茶碗を取り出す。 本箱も使わせたるわ」という。碧の顔が真ん丸 「のんこうの黒茶碗です。何とも言えん味わい だったので,兄はいつも碧を‘満月’とか‘フ です」と慈しむように手のひらにそれを載せ, ルムーン’とか呼んでいた。兄の一方的な要望 得意そうな顔で目を細め,故事来歴を披露する。 で,その商談は成立,碧はお金を渡した。それ 父は左手の平にそれを置き,右手で抱き込むよ らの本を読むこともなく,一年が過ぎる。本を うにして「うん,うん」と頷く。父が自分で道 買ったことすらすっかり忘れた頃,兄がまた同 具を見極める時の厳しい目と,いかにも道具を じ条件を持ちかけ,前もお金を渡したのに,ま 愛でる様子を見て,碧もなぜか心が高鳴り,そ た払うことになるのかと思いながら,兄が言う の場に引き付けられた。本物を鑑賞する目はこ ことに素直に従い,碧はまた同じように金を の頃から培われた。 払った。 ある時,歴代の楽家の系図の勉強を古美術商 父がこのことを知って,兄に言った。「お前 としていた父は,前日全部きちんと言えたはず は妹のお金を巻き上げて,恥ずかしいと思わん だったが,次の日なかなか言えないことがあっ のか?」「一年間は読んでええ,という権利を た。たまたま碧はそばにいて,それを聞き覚え 与えたんや。もう二年目や。それに今度は『世 ていて,「あ」とか,「す」とか,頭文字を言う 界文学全集』や,妹の教養を養うためや」と兄 と,父は考えた末,うれしそうに答え,「当た は言い,父は「そんな理屈で,妹のお金を巻き り。おりこうさんでした」と碧は言う。そのや 上げることは,兄貴として,恥ずかしいことや りとりが碧はうれしかった。道具屋はにこにこ ないのか」と諭す。父は年の多い者の取るべき してその様子を見ながら,すかさず説明を続け 「責任」と物事の「けじめ」を厳しく子どもた る。いつの間にかその茶碗は,茶室の床の間に ちに教えた人だった。 置かれることになる。その遺品は今でも碧は大 その後,父は碧に父の親しい友人に届け物を 事に保管している。すべてが大切な思い出の品 する用事を言った。無事に帰ってきた時,父は 7) なのである 。美術品を鑑識する眼というのは 法外なお駄賃をくれた。碧が「いつもより,仰 一朝一夕では育たない。本物を常に見ることに 山過ぎるわ。それにおじちゃんからも,ご苦労 より,碧の鑑識眼は磨かれ偽物かどうかを見分 さんってお小遣いもろうた」というと,「今回 けることが出来るようになる。 は,大切なものをお前が届けてくれたことで, エピソード 7 . お父さんはとても助かったのやさかい,それに 似合ったお駄賃なんや。ちゃんと取っときなさ 碧は手伝いを気軽にするので,小遣いが貯っ い」と父は言った。父は碧が兄に払った代金を た。兄は小遣いがなくなると,自分の部屋に碧 碧に戻してやりたい気持ちなのだとその時思っ を入れて,三十巻揃っている「世界文学全集」 た。父の気遣いがうれしくて,碧は自分の大切 や「日本文学全集」の本棚の前で碧に言ったも な秘密の箱にそっとしまった。 のだった。「こんな本くらい,若い時に全部読 また,兄は碧をよくからかった。丸顔だから んでいないと,恥ずかしいぞ。特別価格で譲っ ‘満月’だとか‘フルムーン’というのは好い たろ。今回は日本文学全集を全部買い揃えた四 が,時には‘鼻ぺちゃ’とか‘ホッテントット’ 20 広島経済大学研究論集 第38巻第 4 号 とか言って囃し立てた。それをみていた碧をか を取得後,ドイツのゲッティンゲン大学で高等 わいがってくれるお手伝いの鈴木さんが,竹ぼ 数学博士号を取得し,ペシャワール大学副総長 うきを持って兄を追いかけた。背中をばんばん となった。戦後まもなくインドから独立を果た と竹の先が首や腕をひっかけて痛いのか,兄は したパキスタンの初代大使として赴任した。そ 叫ぶ。「許せ,許せ。もう二度とブス,ブスと の後インドネシア赴任後,日本大使として赴任 言わん。誓う,誓う!」それを聞いて碧は,兄 した。国際的な学者で文化人でもあり,当時, が可哀そうになり,「堪忍したって」と泣きそ 日本の商工業視察のため大阪を訪問したのだっ うになって,鈴木さんに言う。おばさんは「と た。大使が来阪の際,碧の父は商工会の役員を うさんに免じて許したげる。もう言うたらあか していて,仕事の関係上,自宅訪問することに んで!」と言うが,数日も経たない間にまた, なった。その際碧は,茶室で抹茶をたてること 同じことを繰り返す。「仕方がないね。これは になった。ところがこの人との出会いにより, 仲がええ証拠なんやから」と,おばさんも半分 成長期の碧の人生に対する考え方は,大きく変 8) あきらめ顔で言う 。 わることになる。 兄弟としてこの世に生まれたことは何億分の 1956年 3 月,碧は短大を卒業した。その時代, 一の割合と言ってもよいくらいの不思議なめぐ 女子は,基本的に短大教育位は受けて,嫁に行 り合わせである。戦後すぐの日本は,「産めよ くのが当たり前という時代だった。短大教育は 育てよ」の時代であった。兄弟姉妹が多いのは 大抵二年間で,そのあと,少し企業で働いたと 当たり前だった。兄弟けんかがあることで,大 しても結婚までの少しの間世の中の仕組みを体 人数の中,仲良くすることや折り合いのつけ方 験する期間もできるので,女性にとっては適当 も自然に覚えていくのだった。こうした小さな だろうという考え方が多かった。1950年代から やんちゃな行為を重ねる人間についても,後に 約20年間,短期大学が,花盛りだった。社会学 江副氏が興したビジネスの途中で,碧は大勢の 者が,女性の25歳を25と言う数字にかけて,ク 従業員と人間関係をうまく保つ方法を自然に身 リスマスケーキにも例えることもあった。クリ に付けたといえるかもしれない。 スマスケーキはクリスマス前にはそれなりの値 そして,1951年昭和26年 3 月神戸松蔭女学院 段で売られるけれども,クリスマスが過ぎると 中等部を碧は卒業することになり,同年 4 月高 セールになるというわけである。「世間」とい 等部に進学し,1953年(昭和28年)に高校三年 う得体のしれない集合体は「結婚適齢期」25歳 生となる。 という時期を女性にのみ当てはめた。 3. 第二章 異文化との出会い ところで,マリク大使と手紙のやり取りをし ているうちに,碧は続けて勉強したくなった。 人との出会い,巡り合いというのは,不思議 とりあえず, 4 月から大阪大学の法学部聴講生 なもので,一期一会と人は簡単に言うけれど, となった。法律を学びながら,以前から続けて 人生の中で出会うべくして出会い,縁ができる いた華道・嵯峨未生流師範の免状も取った。花 ということに,何か不思議な力を感じざるを得 嫁修業も当然と思っていたので自分磨きのため ない。碧は初代駐日パキスタン大使・オマー には何でもやった。マリク駐日大使と自由に英 ル・ハイヤット・マリク博士との不思議な出会 語でおしゃべりしたい碧は,近くの神戸セント いがあった。マリク博士は,インドの貴族で, ミカエル教会に英語の勉強にも出かけた。しか 英国ケンブリッジ大学で法律を勉強し,博士号 し親しくなったマリク駐日大使は,1957年帰国 Gender 学からみる 江副碧の生涯 21 ということになった。短期間であったけれど, 本から近いアジア諸国のことさえ知らなかった。 マリク大使との交流は今考えても何物にも代え 次第に碧は世界の国々,それぞれの国の仕組み がたい貴重な経験だった。大使の考え,思想の や日本との違いをもっと知りたいと思うように 中で,戦後の日本における女性の地位を示す疑 なっていた。 問の言葉を投げかけた人だった。1958年(昭和 33年),華道と同時に茶道・裏千家師範免状, 4. 第三章 父の死と運命の人との出会 いへ 琴の生田流師範免状を取得した碧は,当時の日 本女性の取るべき資格をほとんど完璧に取得し 1961年の 6 月には第52回国際ロータリクラブ た。当時の「嫁入り前の女性の習い事」なるも ―年次大会が帝国ホテルで開催され,碧も父と のはすべてそろったことになる。 継母について出席した。当時,父親は茨木市内 1959年(昭和34年)伊勢湾台風がきた。碧は で会社経営し,商工会議所第三代会頭を務め, 復旧ボランティアとして参加した。マリク博士 経済界で大活躍していたのだが,その56歳の父 はこの時,駐スイス大使に任命され,その頃碧 が,京都日赤病院で,肺臓癌の宣告を受けた。 の父とは,益々親交を深めていた。ところが, その為,急遽上京し,山王病院に 3 か月入院後, 任期を終えて帰国してから,健康を害した。そ 築地の国立ガンセンターに入った。その時の主 れを聞いた碧は,それまで自分たち家族が別荘 治医は石川一郎医師だった。碧は慶応大学と病 に使っていた葉山の家での静養を彼に薦めた。 院を往復する毎日だった。大学の方は 3 年生に マリク博士は再来日し,二年余り,葉山で静養 なり,三田キャンパスに通うことになった。 ということになった。学ぶことに目覚めた碧は, この頃,碧は,父の手術のために輸血が必要 博士の葉山滞在中,大学受験についての特訓, だと言われ,知り合いの商社マンの岡田氏に手 指導を受けた。話しているうちに,碧は自分の 術に必要な血液を集める手段を相談した。碧ひ 実力をつけるため,本格的に勉強する必要性に とりでは到底無理だったからである。すると, 気づいた。受験科目だけではなく,政治,哲学, 岡田氏は,彼の友人の江副浩正氏を碧に紹介す 歴史,人生観について,マリク博士から深く広 ると言った。その頃,江副氏は学生の就職事業 く学んだ。博士は模擬試験のように課題を碧に を始めたばかりで,人集めがうまく,若い人た 与え,小論文を書かせた。これらの学習経験を ちの血液がたくさん集まるだろうとの考えだっ 碧は何ものにも代えがたい日々だったと受け止 た。 めている。 東大生だった江副浩正氏は,アルバイトで東 マリク元大使は,「人は社会に貢献し,人の 大新聞の広告取りをしていた。当時の大学新聞 ために役立つこと」を人生で一番大切なことと の広告といえば,キャンパス近くの書店や喫茶 して碧に教えた。人のために役立つためには, 店やマージャン荘など,広告内容も同じような 碧自身が実力をつけなければならないと気付い ものが多く,学生に積極的にアピールできるも た。その自覚がなければ,自分を磨くことはで のは少なく,廃刊の瀬戸際にあった。江副氏は きない。現在よく言われる女性の「エンパワー 「新聞を下から読む男」という異名を取り,記 メント」である。1961年 4 月から碧は,慶応大 事より広告を重視していた。たまたま‘神武景 学法学部政治学科 2 年生に編入学した。通う場 気’と言う時代を迎えようとしていたので,彼 所は日吉キャンパス。碧は比較的恵まれた社会 は次々と企業広告を取り始め,東大新聞は学生 環境と言える近隣の人しか知らなかったし,日 たちに大いに歓迎され,廃刊を免れた。彼は一 22 広島経済大学研究論集 第38巻第 4 号 年留年し,東大新聞の将来性を見込み,卒業し, しかしまた別の気持ちも湧いてきた。そこまで その延長線上で大学新聞広告社を創業するよう 懸命に仕事をしながらも,私といたい気持ちが になった。その名も「企業への招待」と言う創 あるというのは,一体なぜだろうか。相手の気 刊名だった。 持ちはどのように働いているのだろうかと碧は 岡田氏は神田砂場のそば屋で,この江副氏を 考えた。そして何度か江副氏と会って話をして 碧に紹介した。その時の江副氏の印象は,「静 いくうちに,不思議に怒りの感情が溶け,同情 かでさわやか」だった。ところが,しばらくし 心が湧くのだった。 て,父の病気の治療には輸血の必要がなくなっ た。その結果,江副氏に会う必要がなくなった。 江副浩正氏は九州佐賀の出身である。氏は三 しかし,不思議なことに,江副氏から「今度 歳の時に母親と別れた。生みの母との離別後, の休みの日に会わないか」と電話がかかってき 後妻と父の妾が,同居状態で住んでいた。新潟 た。当時は母やお手伝いさんがいるとはいえ, から佐賀に嫁ぐ「おしん」で知られた嫁いびり 父親の看病のために病院通いをしなくてはいけ の伝説のある佐賀の土地柄である。現代日本の ない碧は忙しく,なかなか都合の良い日がな 家庭環境としてはありえないかもしれない環境 かった。そのため何度も断わったが,江副氏は の中で江副氏は過ごした。母と別れた後,親戚 辛抱強く電話をしてきた。 をたらい回しにされ,辛いとは思わなかったか やっとある土曜日の午後,銀座の資生堂パー もしれないが,度々変わる家庭環境の中で成長 ラーで会うことになった。ところが,約束の時 し,まわりの大人の顔色を常に窺って過ごした 間に江副氏は来ない。江副氏が来るまで相手を という。江副氏の不安定な精神状態は,このあ するよう言われた,社員の小倉という人がやっ たりから生まれたのではないかと察せられる。 て来た。三十分位して当の本人がやって来たが, このような環境下にある幼児の精神状態を説 再びオフィスに帰らないといけないと告げたの 明するために,社会学や文化人類学で指摘され で,仕方なく碧は大学新聞広告社の事務所につ る成長段階説をあてはめることができそうだ。 いて行くことになった。その事務所は新橋駅か アメリカの心理学者 E. H. エリクソンの「ライ ら電車に乗り,神田駅で降りて歩いてゆくと, フサイクル論」によると,氏は「子どもが養育 駅から 7 , 8 分の雑居ビルの七階にあった。江 者との間に,強い情緒的絆を形成する中で,自 副氏が「今日中に仕上げなければならない仕事 分が他者から愛され,大切にされているという がある」というので,その部屋の壊れた椅子に 感覚が育ってこそ,基本的信頼が生まれる。こ 腰かけ,碧は待った。待っている間,自宅の葉 の成長段階ごとに起こる心理的状況に幼児期に 山まで帰らなければならないのに,時間ばかり は子が親に抱く無条件の基礎的信頼がないと年 が気になった。もう九時を過ぎていたのだ。そ 齢が重ねられるごとに起こりやすい心理的危機 こで勇気を出して,「私,帰りたい」と言うと, をのりこえられない場合がある。基本的信頼感 碧がいることを忘れ,一心不乱に仕事をしてい は,将来の人間関係の土台となり,良い人間関 た江副氏は,自分が東京駅の郵便局にこの書類 係,その後に来る困難や試練というものを乗り を出すので,一緒に東京駅まで行こうと言い, 越えていくための支えや希望となる」と説明す それが初めてのデートとなった。 る 。 葉山への帰り,逗子駅までの電車の中で,碧 幼いころから確実に両親からの絶対的愛情に は時間に対する怒りの感情が込み上げてきた。 包まれ発達段階で習得するべき基礎信頼が出来 9) Gender 学からみる 江副碧の生涯 23 ている碧とは真反対の座にいたのが江副浩正氏 ないのだから,碧から借りることになった。江 だった。 副氏は東大の三木安正教授に仲人を頼み,三木 それではお互い家庭環境の全く異なる二人が, 夫妻と一緒に,築地のガンセンターにいる父親 どのような状況を経て一緒になって行くのか考 の病室へ結納品として指輪を届けた。 察する。 1963年 4 月26日日曜日,江副浩正氏と碧の結 婚披露宴が京都の「都ホテル」で行われた。こ 碧は葉山から大学の通学や父の看病のため通 の日に出席が可能になった碧の父は,人との関 う時間が余りにかかる為,目黒のマンションに わりや縁・絆を大切にしてきた人だったので披 移ることになる。江副氏は,碧のマンションに 露宴は縁のある人たちで一杯だった。それから 出かけてくるようになり,東大の先輩である森 5 か月後, 9 月に父親は56歳で亡なった。1964 ビルの森稔氏も一緒に連れてきて,囲碁をした。 年は,東京オリンピック開幕の年で,東海道新 夕方になると碧が手料理をするので,当然のよ 幹線開通など戦後日本が新しく生まれ変わる幕 うに,皆がそれを食べて帰るという日々だった。 開けの年だった。碧にとっては, 3 月に慶応義 ある時,大きな段ボールの箱が届き,開けてみ 塾大学をめでたく卒業した年でもあった。 ると,それは江副氏の汚い掛け布団だった。ど うしてこんな布団が送られてきたのかわけも分 5. 第四章 二人三脚 からないまま,碧は,その布団を踏み洗いし, 碧が江副浩正と結婚したのは「大学広告社」 きれいに直した。このことを聞いた友人の森氏 を創業し 2 年半経った時だった。その頃社長の が,この布団を碧に送った意味を説明した。そ 他には社員 2 名とアルバイト16名で,大学の のことから碧は,江副氏の結婚の意思を確認し サークルのような雰囲気だった。当時学生に就 た。碧はまず,父親に相談し,今結婚などでき 職の情報を提供することが,仕事になると考え る状態ではないことを江副氏に伝えた。すると, る人はなかった。それは「隙間産業」と言われ, 江副氏は父親の許諾を得るため病院に行った。 この時代が長く続く。 病に伏せたまま,父は碧の意思を確認し,結婚 一方その頃のアメリカは,経済・医療・教 の申し込みをしに来た江副氏に,碧の釣書を渡 育・生産技術等々,日本の10年先を走り進んで した。父はベッドに横になったまま,江副氏と いると言われた。日本は氷屋が運んでくる氷で 筆談した。碧には今でもはっきりと父の真の気 物を冷やしていた時代から,やっと簡単な電気 持ちが分かっていない。半紙に書かれていた 冷蔵庫が出来た時,アメリカでは,GE の大型 「鷹揚な…」「無駄の多い…」と言う言葉は文字 冷蔵庫から一口大の氷が受け皿に貯まった。ま として残っているが,父がそれで何を言いた さにアメリカンドリームだった。発想の違いは かったのかは二人にも分からなかった。いずれ 大きく,技術の遅れは甚だしかった。碧はアメ にしても父は二人の結婚を許可した。 リカの知人から,プリンストン大学で出してい それから結納という運びになった。関西の結 る「キャリア」という就職情報誌が学生たちに 納のしきたりを碧は聞いていたが,その頃は依 人気が高く,重宝されていると聞いた。「キャ 然より簡略になり,その上,江副氏には全くお リア」誌はまず,アイビーリーグの名門 8 大学 金がないということもわかり,小さなダイヤの から,さらに全米の大学へと広がり,アメリカ 指輪を結納品として,碧に贈ることになった。 の産業界や企業社会に大きく貢献していた。 ところが購入のための現金を江副氏は持ってい 現代社会の発達・進歩のキーは,「人,物, 24 広島経済大学研究論集 第38巻第 4 号 金,情報」である。また,古代エジプトの昔か の外部の労働組合員が大勢家に押しかけたりし ら,「情報を制する者は世界を制す」と言われ た。しかしこれとは別に,自社ビルとして, 7 ている。江副氏はすでに「企業への招待」と言 階建てのリクルート大塚ビルが出来,江副氏の う情報誌を制作し,全国大学への配布にこぎつ 社会的評価は上がり,権力,権威を持ち始め金 けていた。とはいえ,前例がない仕事なので, も豊かになると,人間性も変貌していった。社 試行錯誤の連続だった。江副氏はどうしてもプ 員に対する態度も碧には理解しかねることが リンストン大学まで行って,就職情報誌の実態 あった。しかし会社に関することは碧の感知す や状況を知りたいと言い,通訳を兼ねて,碧に ることではないし,経営については門外漢なの も同行するよう言った。当時は業務渡航以外許 で碧は意見を一切言わなかった。江副氏は企業 可されない, 1 ドルが360円時代である。江副 にありがちな組織の派閥はなく,喜怒哀楽を表 氏は業務渡航の許可を取ったが,碧は以前教育 現する人間ではなかった。彼は東大で教育の専 してくれたマリク元大使から招聘の手続きをし 門家として教師を目指すはずであったのだが, てもらった。当時のアメリカでは,空港でも街 依怙贔屓をする自分の性癖を自覚していて,教 でも,日本人に会うことはほとんどなかった。 師には向かないと自ら公言していたという。 シカゴに着いた時,ダラスでケネディ大統領が 毎年,正月に社員を集め餅つきをした。100 暗殺されたという歴史的事件に遭遇した。 キロのもち米を,碧は一人で洗い,大みそかか 幸い,碧の父親と親交のあったロータリー財 ら,元日, 3 日まで延べ200食の食事を家族と 団の役員夫妻の案内で,アメリカ社会の実態を 社員のため準備した。子どもの頃であれば,お 緊張しながら見聞し学ぶことが出来た。江副氏 手伝いがいる生活だったが,結婚後はそのよう は目的を持って,プリンストン大学を訪れただ な生活を江副氏が望むわけもないことを碧は察 けに,必要かつ有意義な情報を掴み,リクルー していた。碧がいて手料理も厭わず人を和ませ ト社の仕事に生かすことが出来た。これがまさ るから従業員も関係者も皆集まったのだ。初め に,ふたりの新婚旅行だった。 ての子どもを宿し 8 か月の時,子宮筋腫の手術 新婚生活は目黒のマンションから三田のワン をしたが, 7 月 7 日長女を無事出産した。その ルームマンションへ移りスタートした。当時の 後1970年 9 月には次女を出産,碧は依然に増し 江副氏の給料では,家賃も払えないし,生活も て育児・家事に追われた。 苦しかった。しかし次第にそのワンルームマン 時に日本では「神武景気」が訪れていた。江 ションは耐えられなくなり,不動産物件を相当 副氏はこのチャンスを逃すことはなかった。誰 見て回り1969年,神奈川県逗子に一軒家を見つ もが行っていないことのタイミングを見極め実 けることが出来,碧が購入した。 行していく天才だった。必ず勝者になることを ある時,新橋から横須賀線で逗子に帰る時, 意識していた人でもある。「二番目を追いかけ ホームで電車を待っていると,江副氏が碧に る二番煎じはだめだ」は,江副氏の口癖だった 「自社ビルがほしいな」と言った。碧は即座に と碧は言う。リクルート社はこの日本の高度成 「買ってあげる」と約束したのだ。その頃のリ 長期の波に乗った。「物も金も人が作る」適材 クルート社員数は100名を突破していた。1970 適所に意欲に燃えた若者が,日本を栄えさせる 年 9 月頃,全臨労問題が起こった。江副氏の社 というのが彼の信念だった。人生の要所にリク 員に対する態度は厳しいことで定評があった。 ルート社が新しい仕事を生み出した。就職だけ 逗子の自宅近くでビラまきがあったり,20人位 でなく,入学情報から,住宅産業,結婚,趣味, Gender 学からみる 江副碧の生涯 25 旅行情報など,次から次へと販路を拡げていっ と持ち帰った人物でもある。彼は条例や法律に た。「やっていないのは,葬儀屋だけだ」と。 も詳しく知的対応ができる人間だった。正に会 しかし江副氏は社員の給料は払えても,ボーナ 社が持つべき宝の人材だった。 スまでは払えないことも多かった。ボーナスは この隙間産業と言われた会社も次第に社会に 株に代えて渡したこともあった。家賃や給料が 認知されていったのは,「人材」という経済を 足りないという江副氏に,碧はその資金を渡し 動かす要因に欠くことのできない重要な部分を た。このリクルートの社員持ち株制度というの ついていたからだと言える。しかし同時にこの は,伝統として長年続いた。筆頭株主は江副碧 会社の急速な発展,繁栄は新たな誤解や危険に だった。何故なら開業当初,江副氏は金がなく, さらされた。 資金はすべて碧が提供していたからである。 この本業の仕事とは別に,鹿児島県志布志に 6. 第五章 発生した問題 広大な農場を開設して500頭もの牛を放牧し, リクルート関連事業不動産部が初期の頃,マ その糞で農薬を使用しない自然栽培の農作物を ンションを建設していると,右翼や左翼が日照 作り,ビーフシチューやビーフカレー,コーン 権や様々な問題をぶつけてきた。自宅の近くで の缶詰,バターやチーズ,そして牛肉そのもの シュプレヒコールやビラ槇きを始めた。碧は急 までミートレール車で東京まで運んだものだっ いでリクルート社に連絡して,社員たちが来る た。食べ物がない子供時代に育った碧は,食へ までに,装甲車は消え,ビラも近所の人たちが の本能的欲求を持ち続けていたのだろう。必ず 協力して拾ってくれたこともあった。 食糧難に陥る時代が来る,その時のためにもリ 1973年は設立10周年だった。安比高原牧場の クルートの社員と家族が食べて生き延びられる 前身である竜が森プロジェクトが発表された。 環境を作っておかなければと,江副氏は真剣に 家族みんなで北海道ニセコスキーにもでかけ, 考えていた。この場所を購入した最初のコンセ 4 月には長女が幼稚園に入園した。 プトは,会社が大きくなるにつれ,部署が違え 1974年になるとリクルートも年商100億円と ば社員同士のコミュニケーションが少なくなる なった。碧にとってうれしかったことは, 4 月 のでそれを補うことだった。リクルートという 終わりからゴールデンウィークにかけて,志布 会社は頭脳集団でストレスが多い。田舎で農作 志のリクルートファームを訪ね,最初に生まれ 業することにより,社員自身が自然に触れたり, た牛を「みどり号」と名付け対面したことだっ また東京でコンタクトできない社員同士が,異 た。 6 月には分譲マンション事業にも乗り出し なった自然環境の中で,癒され,人間関係が育 た。10月にはリクルート社のニューヨーク出張 まれ,活性化された。 所が開設され,12月にはリクルート新大阪ビル 当時,片腕として働いていた小倉義昭氏は, が竣工となった。この頃は家族みんなで行動す 江副浩正氏と性格が違っていて,ある時期弁護 ることが多かった。 士の資格を取りたいといって会社を辞めようと 1975年にはハワイ,カナダ,ニューヨークへ したが,江副氏に慰留された人物だった。彼は 外遊した。長女は夏のバレエフェスティバルに ハートのある人間で,決別はしないが側面から 出演し娘の成長を楽しんだ。長女は1976年 4 月 江副氏を最後まで助けた人物だった。ある時, に東洋英和女学院小学部に入学。その頃,財団 江副氏が600万円の包みを列車の棚に置き忘れ 法人江副育英会を創設し,リクルートスカラー たことがある。それを小倉氏は交渉してきちん シップ制度ができ文部省から認可を受けた。碧 26 広島経済大学研究論集 第38巻第 4 号 は毎朝,車で江副氏を田村町のリクルートビル 単に教育方針の違いなのか,納得行かないこと に送り届けることが日課になっていた。次女は が多かった。また,碧の友人関係の対応もなか 1977年東京教育大学付属小学校に入学した。 なか難しかった。それは単に江副氏が人見知り 1973年には第一次オイルショックがあり,1979 をするという一言で片づけるのも大人げないこ 年第二次オイルショックと続き,日本国内では, とで,リクルート社員の冠婚葬祭の付き合いも 紙不足が深刻で,リクルートブックが厚く重く すべて碧の出番だった。 なったのでカタログ販売「SEARS」の紙を購 酒を飲まない江副氏は,不眠症には睡眠薬を 入すべく,スイスのバイヤーとの交渉のため, 使った。江副氏の考えでは睡眠時間を合理的に 江副氏と碧はロンドン,スイス,パリ,デュッ 使いたいというのがあった。そこで,一番近い セルドルフと回った。1978年 6 月には盛岡グラ 部下である小倉氏が,アルコールに弱い江副氏 ンドホテルの経営そ引き受け,改装し,竜ヶ森 に,睡眠薬をビールに代えてうまく眠ることを ゴルフ場もオープンした。1979年正月にはリク 教えた。次第に酒を睡眠薬代わりに呑むように ルート油壺研修センターが完成した。1980年元 なり,その習慣は,江副氏にとって,結局よい 旦には「とらばーゆ」が創刊となり,安比総合 ことではなかった。 開発(株)が設立された。江副家のゲストハウ その後,リクルートは不動産購入に進んでい スへ,ハーバート大ケネディスクールの James く。ある時,東北の土地を探す時,東北新幹線 Brown 教授が 1 ヶ月間滞在,娘も来日訪問した。 もまだ通っていない時期,市場調査がてら,碧 その後日中友交協会の蓼承志が財界人を招待し, は盛岡駅近くのマンションを借り,みんなと泊 北京や桂林,杭州や香港を回った。 まり,社員と議論した。信頼の高い小倉氏や他 長女が 6 年生の時,碧は東洋英和女学院「母 の部下と議論を交わしていたが,購入すべき土 の会」の会長になり,保護者の代表となった。 地を決めかねていた。新幹線が秋田側を通るの 1982年リクルートファームが10周年迎えた時, か,青森の方向に延びるのか未決定の時期で, 3 月に長女は東洋英和女学院の中等部に入学。 どちら側にするのか大きな選択だった。これま 1983年 3 月に次女が筑波大付属小学校を卒業し で碧は仕事に口出しすることはほとんどなく, 中学に入学した。次の年,1984年リクルート 休んでいる隣の部屋で,社員が討論していた。 G7 ビル(コスモスビル)が完成した。子供は すると,小倉氏が,青森側の八甲田山麓がよい ほっておいても体は成長するが,教育だけは親 か,秋田方面の竜ヶ森の土地がよいかを,碧に がしっかりつけてやることが務めだと,碧は常 尋ねようと提案した。碧は,自分の感によると 日頃から思っていた。次女が東京教育大付属小 ころが多かった。「八甲田山の方には二度と行 学校(現・筑波大学付属小学校)を受験する時 きたくない気がする」と,はっきりみんなの前 も,碧は徹夜して願書を書き,まず,一次試験 で言った。江副氏がすんなり受け入れるとは思 は合格した。二次試験は親がくじ引きをするこ わなかったが,小倉氏の采配があった為か,碧 とになっていたので,碧はくじをひいた。する の意見が,受け入れられることになった。結局, と,思い通りにくじが当たった。娘と喜んだの 竜ケ森の土地を購入と決まり,安比高原の大開 も束の間,江副氏はこれに対して大層立腹した。 発が始まることになった。 小学校は,子が走って行けるところでいいのだ このころから家族関係の何かがおかしくなっ と言い張った。子どもの教育にはことごとく碧 ていた。江副氏は子どもたちの教育に関し,私 の反対を言い,碧のすることが気に入らない。 立よりも公立を好んだ。1986年次女が筑波大学 Gender 学からみる 江副碧の生涯 27 付属中学校を卒業したが,父と安比スキーから くれた。そのお宅も今は主を亡くし,建物も変 帰宅せず,そのため高等部入学試験を受けられ わった。 ず,大沼淳理事長に願い出て, 4 月に文化女子 酒もたばこもしない江副氏の楽しみは,社交 大付属杉並高校に入学した。江副氏の娘二人へ ダンスだった。そのために彼は授業料,衣装代 の対応はそれぞれ違って,姉の方には厳しく, 等金をかけ,その発表会には各界の著名な人々 妹の方にはとても甘い対応をした。いつだった を招待した。仕事以外で費やす時間は,他に何 か,碧が気づいたことがある。それは次女と江 もなかったと碧は確信する。 副氏はウマが合うというのか,歓談したあと, 1981年の梅雨の頃,江副氏の父親が何度目か 部屋のテーブルの下に彼女の為におこずかいだ の妻と,東京に遊びにきた。その頃の江副氏起 と言って100万円の札束を置いて行ったことも 業の成功は父親にも伝わっていて,自慢の息子 ある。後に1989年(平成元年)長女は父を励ま であったようだ。家族で夕食をし,その日は何 す手紙を書くぐらい,優しい性格だった。そし 事もなく静かに休んだ。翌朝,子どもたちは学 て 4 月には上智大学文学部に入学した。次女は 校へ,碧は江副氏を会社へ送り出した。そのあ 同年 4 月に文化女子大学付属杉並高校を中退し と,父親たちの朝食の準備も整い,同時に父親 たが, 8 月に大検に合格し,1991年には慶応大 への電話もかかっていたので,碧は声をかけ 学文学部美学美術史学科に入学できた。 待った。ところが,父親がトイレに入ってなか この頃江副氏の家庭内暴力はひどくなり,碧 なか出てこないので,義母に様子をたずねた。 は,彼を理解し難かったが,どんなに口論して その時,ドアの閉まる大きな音と,義母が叫ぶ も,穏やかな収束を求めるのが常だった。 声と共に,トイレで倒れている父親があった。 時には,碧の着物はずたずたにされることも 碧は義母と一緒に,いびきをかいて倒れている あった。江副のいじめは昭和60年頃からピーク 義父を応接間に運んだ。そのいびきが尋常では に達していることは,大下英治氏の著書『リク ないことに気づき,不安になった碧は,近所の ルートの深層』にも記してある。碧をどんなに 親しい医者の指示を仰いだ。すぐに救急車を呼 いじめても,へこたれないため,自分の社員よ ぶ状況ではあったが,結局病院に搬送すること りも手こずると江副本人が述べている。昭和63 もなく,その医師の診断により,死亡が確認さ 年 8 月には右翼が南麻布の江副邸の玄関に散弾 れた。77歳だった。江副氏の悲しみは尋常では 銃を撃ち込んだことがある。そのようなこと なかった。そしてその葬儀も億単位の荘厳盛大 から出るストレス発散のはけ口に,江副氏は なものだった。父親の財産相続はすぐに手続き 碧に当たり散らしたのである。真に Domestic され,江副氏は父親名義の財産をすべて自分に Violence である。 移し換えた。江副浩正が描いていた理想の男性 ある寒い冬の晩,江副氏の暴力から逃れよう 像はいなくなり,自らが,父親の姿を体現する と,履物を履く間もなく,碧は隣家に逃げ込ん ことになった。碧にはそのことがある程度予想 だことがあった。彼の攻撃から逃れ,はだしの できた。 まま隣の与謝野家に逃げ込んだ。その時の土の ぬくもりがなんと暖かかったことか碧は忘れら 7. 第六章 会社に関わる事件の始まり れないと言う。与謝野晶子の子孫にあたる与謝 1987年 1 月23日には自宅に発煙筒が投げ込ま 野薫氏の母親は,碧を暖かく迎えてくれ,匿っ れる事件が起こり,新聞雑誌報道された。外の た。少し落ち着くと温まるようにお茶を出して 用事を済ませて帰宅した碧が 3 階の子供部屋に 28 広島経済大学研究論集 上がっていくと,辺り一面が乳白色になり,強 烈な火炎のにおいがした。高校生の娘が,「 8 時過ぎにガラスを壊すような大きな音がして, 怖いから部屋の鍵をかけてじっとしていた」と 言った。玄関のガラスが割れて,鉄格子がねじ 曲がり,玄関に敷き詰めてある絨毯が焼け焦げ た。会社に電話して娘を安心させている時,新 聞記者やメディア関係者たちが集まり,その後 警察が来た。碧はどこにも連絡していないのに と驚いた。江副氏は安比に出張中であった。 娘たちに,そして碧にも入れ替わり,警察の 事情聴取があった。その後 3 ∼ 4 週間は,24時 間警護を含め, 1 日述べ50名近い人々が,家の 中をうろついた。この状態が何時まで続き終わ るのか見当がつかなかった。娘たちは食事にも 降りて来ないこともあり,碧は入浴も気を使っ た。思い切って碧はマンションを借り,娘二人 を連れて安心安全な場所に移り住んだ。 第38巻第 4 号 注 1) Forbes 誌 1999年 5 月号 女性起業家 日本版 p. 71 2) Epic World 誌 No.43, 2004 Spring 号(エピック・ ジャパン) 3) Epic World 誌 No. 45, 2004 Summer 号(エピッ ク・ジャパン) 4) Epic World 誌 No. 42, 2003 Autumn 号(エ ピ ッ ク・ジャパン)のエピソードは,E. H. エリクソン 『幼児期と社会』I の p. 303の例に当てはまる論解 釈である。 5) Epic World 誌 No. 48, 2005 Spring 号(エピック・ ジャパン) 6) 京都新聞紙上に掲載された記事にもなった事件 だと言われている。 7) Epic World 誌 No. 50, 2005 Autumn 号(エ ピ ッ ク・ジャパン) 8) ibid, ここまでのエピソードは,E. H. エリクソ ン著書の『幼児期と社会』Ⅰ,2 を参考にした。 9) E. H. エリクソン‘ライフサイクル論’の中で, Basic Trust と言う観念を論じている。このことは 教育心理学者ロバート・J・ハヴィガーストが,最 初に提唱した。『自我同一性』アイデンティティと ライフサイクル,小此木圭吾訳(1992. 誠信書房) をここでは援用した。 犯人が検挙されなかったので事実は分からな かったが,警察やリクルート関係者によると, 女性の就職情報誌「とらばーゆ」に女性スタッ フ募集の掲載を依頼した企業が,実は暴力団関 係者と分かって断ったため,半年以上も揉め, 決着がついていなかったのが原因ではないかと 言われた。当時は会社にもめ事があると,社長 の自宅や家族がターゲットになることがあった。 娘たちを守る為自宅を離れマンションに移り, 碧はやっと安心して眠れるようになった。しか し1987年 8 月18日には,リクルート本社会議室 で,江副浩正氏が碧に暴行傷害事件を起し,碧 は慈恵医大病院に緊急搬送された。碧はどんな DV も外部にもらさないようにしたわけではな いが,大げさに騒ぐことはなく,内輪で治めて いた。しかしこの事件が公になり,そういうわ けにもゆかなくなった。 付記:この論文は江副碧氏本人からの話の協力を得て, それを基に,これまで本人が書いたものなど参考に した。 参 考 文 献 Erik H. Erikson Psychological Issues Identity And The Life Cycle『自己同一性』 小此木圭吾訳・編 (誠 信書房,1973,1992) 江副浩正氏についての言動はこの論からの説明 が納得できる。 Erik H. Erikson 『幼児期と社会』I(みすず書房, 1977・1992)訳 仁科弥生 1938年スー族の幼児教育を調査し,人間の成長 と文化的・社会的環境との関係を理論づけた。 幼児期から老年に至る人間の生命過程を歴史, 文化,社会との関わり合いの中で的確に捉え, また青年期の同一性の問題点を浮き彫りにする。 同 上 『幼 児 期 と 社 会』 2 (み す ず 書 房,1980・ 1992)訳 仁科弥生 幼児期形成についての理論づけの立脚点となる。 大下英治 『リクルートの深層』(イースト・プレス, 2014) これまで政治家や著名なアーティストの伝記や 回想録を手掛けてきた作家として,氏が綴る文 字通りリクルート事件の真相を深く探っている。 土 居 健 郎 『甘 え の 構 造』(弘 文 堂,1971)英 訳 Anatomy of Dependence 子どもが自ら甘えを卒業し,健全な成長を成し 遂げて立派に機能できる社会人・家庭人となる プロセスに沿って大人になると解説する。 ブルーノ・ベッテルハイム The Uses of Enchantment Gender 学からみる 江副碧の生涯 波多野・乾祐見子訳 『昔話の魔力』評論社, 1978 大人になりたくない子どもたちの心理に沿って 29 自力で成長せざるを得ない魔法を書ける筋書き をおとぎ話の本質的テーマとみて詳しく分析し たものを参考にした。