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尾道文学談話会について

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尾道文学談話会について
尾道文学談話会について
尾道市立大学公開講座「尾道文学談話会」は日本文学科を中心とした本学の教員
が、文学や言葉にかかわる様々な話題を提供し、市民の皆様と談話形式で講義を行う
公開講座です。平成21年より毎月1回開催されています。
※本書には平成25年度と平成26年度に行われました「尾道文学談話会」各回の要旨を
掲載しております。
−4−
平成25年度尾道文学談話会
第一回 志賀直哉の旅―尾道―
平成25年4月4日開催
日本文学科教授 寺杣 雅人
志賀直哉がその尾道時代に成しえた仕事の一つは、いわゆる「暗夜行路草稿」を書き残し
たことであろう。むろん草稿であるから、作品として発表されたものではないが、後に日本近
代文学を代表する長編「暗夜行路」として結実するのはこの草稿である。
「暗夜行路」は、もともと自伝的小説として書き始められたものであった。そのため、尾
道時代の草稿は、直哉自身の日記とも言うべき内容をもっており、尾道への旅の実際を知
ることができるのもこの草稿のおかげである。「歸る旅」(尾道に帰る旅の意)という表題
のある草稿11(菊判『志賀直哉全集』第6巻所収)を見てみよう。
(大正2年―引用者注)正月九日夜十一時、有嶋と仁木とに送られて新橋を立つた。
自分は昨年十一月から尾道市の寶土寺といふ寺の上の山の中腹に一人借家住ひをして
たが、五週間程經つと祖母(七十六才)の病氣で、東京へ呼びかへされた。東京へは
0 0
それから四週間ゐた。祖母の病氣ももう心配が要らなくなると、自分は尾道の一人住
いが切りと戀しくなつて來た。向ふへ置いて來た仕事が自分を呼んでゐる。其呼び聲
0 0
が耳のわきで聽えるやうな心持がした。(傍線引用者)
これはまさに直哉自身の生活譜である。傍線部に注意したい。ここにこの尾道への旅の
目的がはっきりと示されていると思われる。拙著『志賀直哉の尾道時代』参照。
第二回 志賀直哉の旅―城崎―
平成25年5月2日開催
日本文学科教授 寺杣 雅人
志賀直哉が城崎温泉にはじめて滞在したのは、大正2年の10月18日(土)から11月7日
(金)の3週間である。このとき直哉は、あの「城の崎にて」に描かれているような体験
(蜂の死骸や首に長い串を刺された鼠などとの遭遇)をしているが、城崎でのこの3週間
は、直哉の尾道時代(大正元年11月10日∼同2年11月15日)の最後尾に位置する。
城崎への旅が尾道への旅に包摂されるならば、その目的もまた前者は後者に包摂される
だろう。では、直哉が尾道にやってきた目的は何であったか。端的に言えば、それは人類
のための「仕事」をすることであり、具体的には自伝的な長編小説を執筆することであっ
た。城崎への旅もその大きな「仕事」を成し遂げるためであったはずである。
「城の崎にて」では、山手線の電車にはね飛ばされて怪我をした「其後養生」に城崎温泉
に出かけたとあるが、ほんとうの目的はそれではないであろう。滞在中の10月30日(木)
の日記に「蜂の死と鼠の竹クシをさゝれて川へなげ込まれた話」は「長 の尾道」に入れ
ることにしたとある。直哉の念頭にあったのはこの「長 」であり、それは後の「暗夜行
路」となる自伝的長編小説と考えられる。つまり、「城の崎にて」という作品もその大きな
「仕事」に組み入れる計画であったのである。また、
「長 の尾道」は、その長編の表題が「尾
道」であったことを示しているのではないだろうか。拙著『志賀直哉の尾道時代』参照。
−5−
平成25年度尾道文学談話会
第三回 姥捨山伝承のいろいろ
平成25年6月6日開催
日本文学科准教授 藤井 佐美
「智恵のはたらき」「巧智譚」と分類されてきた民話「姥捨山」(姨棄伝承)には、代表的
な話型として枝折型・畚型・難題型・福運型の四つがあります。類話は海外にも確認され
ますが、現在知られる最も古い事例としては、紀元前420年頃のパピルスの断簡に難題型の
類話があります。また、仏教経典にも含まれており、我が国の文学作品では『大和物語』
『今昔物語集』
『枕草子』などに同話が含まれています。ただ、いずれの話も親は棄てられ
ていません。あるいは、一度棄てたとしても、親への思いから迎えに行く話もあります。
育ててもらった恩を思い起こす子ども、山入の最中でも子どもが帰り道に迷わないよう枝
を折る親、そしてひたすら親を隠し続けながら、敵国からの難題を親の知恵で克服し、殿
様に涙ながらに訴える子どもなど……。全国的には昔話としての報告数が伝説の報告数を
上回っており、真偽の程は定かではありませんが、いずれも高齢化社会を迎えた現代の問
題と重なります。厄年、隠居、葬送儀礼など、民俗学上の問題とあわせて、本話の魅力を
御説明し、また音声資料として岩手県の伝承なども御紹介しました。
第四回 絵で読む『百人一首』
平成25年7月4日開催
藤原定家が
日本文学科准教授 藤川 功和
んだと目されている『百人一首』は、中世、近世、そして現代まで多くの
読者を獲得してきました。そのように営々と享受され続けたのは、『百人一首』それ自体が
非常に優れた歌集であったからことは言うまでもありませんが、それぞれの時代に『百人
一首』が様々な形で享受されていたことも由縁の一つとしてあげてよいでしょう。
談話会では、
「絵」を手掛かりに、『百人一首』享受の一端を探りました。具体的には、
『百人一首』の本文に歌人や歌の意味を絵にしたもの(それぞれ「歌仙絵」、「歌意絵」等と
言う)が付載された「百人一首絵」や、『百人一首』の古注釈書に歌仙絵や歌意絵の付いた
「絵入り本百人一首古注釈」等、本学が収蔵する版本を実際に手に取りながら、『百人一首』
が人々のどのように楽しまれてきたのかについてお話しました。
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平成25年度尾道文学談話会
第五回 逆さ絵の謎―裏の文脈を読む―
平成25年8月1日開催
日本文学科教授 藤沢 毅
『西鶴織留』巻4−1「家主殿の鼻ばしら」という作品を読んだ。『西鶴織留』は、元禄
七年(1694)に刊行されており、浮世草子というジャンルに分類されている。
「家主殿の鼻はしら」は、一見、紙衣を作る夫と扇を作る妻という夫婦が、妻が家主の妻
と喧嘩したことから家を出ることとなり、その後、転居を重ねるもののうまくいかず、最
後には夫婦が喧嘩別れするという話である。しかし、まず前半を熟読してみると、喧嘩し
ている女性の台詞の中に、表面には顕れていないが、お互いを愚弄する内容が含まれてお
り、読者の笑いを誘う仕掛けになっていることがわかる。
また、挿絵には逆様に描かれた女性の姿があり、これは本文中にまったく言及されてい
ないという問題がある。しかし、挿絵に描かれた内容を一つ一つ吟味をすることと、本文
の中に存在するいくつかの問題のある表現をつなぎ合わせることで、本文に直接的に描か
れていない別の文脈が浮かび上がってくるのである。『西鶴織留』出版当時の読者の視点で
は、この挿絵をどのように捉えることができるのか。これについては、信多純一氏、服部
幸雄氏といった研究者からの指摘があり、それらを紹介しつつ、あらためてこの挿絵のお
もしろさを評価していった。こうした文学には、主題という概念を基として作られた文学
とは全く違う評価の仕方があるのである。
第六回 英語で読む小泉八雲の松江
平成25年9月5日開催
日本文学科准教授 平山 直樹
平成24年2月5日に尾道市と松江市の間で姉妹都市提携がなされ、平成26年度中には高速
道路尾道松江線が開通予定であった。これを機に、平成25年9月5日開催の「尾道文学談話
会」においては、明治23(1890)年から約1年3か月の間松江に滞在した小泉八雲(ラフカ
ディオ・ハーン)による作品『知られぬ日本の面影』
(Glimpses of Unfamiliar Japan)に注目し
た。これは、明治時代に八雲が外国人として肌で感じた日本人の生活や文化を、独自の感
想や想像を加えながら綴り、広く世界に紹介した作品である。
当日は、まず、現在の松江市、および小泉八雲の生涯について簡単に紹介し、その後、上記作品
中で紹介されている松江城をはじめとする、松江の名所に関する原文(英語)を読んだ。その
際、各名所の地図や写真を提示しながら、私が実際に現地に訪れた時の体験談を交えて説明を
加えた。また、各英文には設問を付し、英文を読み解く内に解答を考えていただいた。
この活動を通して、小泉八雲が紹介した名所の多くが現代においても重要な観光地であ
り、彼が時代を超えて今もなお松江の観光に貢献している人物であるということを確認し
た。松江市内に点在する「小泉八雲ゆかりの地」という説明板には日本文と英文が併記さ
れており、その多くには、『知られぬ日本の面影』からの引用が含まれている。
なお、談話会当日の詳しい報告は、本学芸術文化学部日本文学科発行の『尾道文学談話
会会報』第5号に掲載されている。
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平成25年度尾道文学談話会
第七回 志賀直哉の旅―松江―
平成25年10月10日開催
日本文学科教授 寺杣 雅人
志賀直哉の松江への旅(大正3年5月∼同年7月)は、尾道への旅から1年半ばかり後
になるが、その目的ははっきりと引き継がれている。つまり、それは自伝的な長編小説を
執筆することであった。
この前年の12 月に直哉は夏目漱石から『東京朝日新聞』に連載小説の執筆を勧められ、
この自伝的小説をもってそれに応じるつもりで承諾していた。漱石は同紙に大正3年4月
20日(月)から8月11日(火)まで「心」(先生の遺書)を連載することになるが、その後
を直哉に託そうとしたのであった。
そのため、この松江への旅では、自伝的小説を執筆するという目的は、より計画的に着
実に実現していく必要があった。ところが未経験の新聞小説ということもあり、執筆は意
のごとく進 せず、ついに7月中旬に上京して辞退を申し出ることとなった。
その後、約3年間、直哉は創作から遠ざかっているが、漱石への不義理が直哉の心を圧
していたのかもしれない。
そして大正6年にいたって執筆意欲再燃、5月に「城の崎にて」(『白樺』)、6月には
「佐々木の場合」
(『黒潮』)を発表する。漱石はその前年、大正5年12 月に没していた。
直哉は「佐々木の場合」に「亡き夏目先生に捧ぐ」と漱石への献辞をしたためている。
第八回 千光寺山の歌碑を読む
平成25年11月7日開催
日本文学科教授 寺杣 雅人
千光寺山の文学のこみちには、志賀直哉の「暗夜行路」の碑を始め、25 基の文学碑が建つ。こ
のうちの8基は歌碑で、それぞれに短歌1首が刻まれている。
その8首の短歌を鑑賞しつつ、結句(=第5句、傍線部)の語構成に注目した。
①日のかげは青海原を照らしつゝ光る孔雀の尾の道の沖(十返舎一九)《C》
②かげとものをのみちのやどのこよなきにたびのつかれをわすれていこへり(金田一京助)
《字
余り》
③軒しげくたてる家居よあしびきの山のおのみち道せまきまで(緒方洪庵)《C》
④ちゝ母の声かときこゆ瀬戸海にみ寺の鐘のなりひびくとき(柳原白蓮)《C》
⑤千光寺に夜もすがらなる時の鐘耳にまぢかく寝ねがてにける(中村憲吉)《C》
⑥千光寺の御堂へのぼる石段はわが旅よりも長かりしかな(吉井勇)《C》
⑦ぬばたまの夜は明ぬらし玉の浦にあさりする鶴鳴き渡るなり(古歌=万葉集3598)《C》
⑧岩のまに古きほとけのすみたまふ千光寺山かすみたりけり(小杉放庵)《B》
通常、定型の七音句を語構成で分類すると、A(四三型等)とB(三四型等)が多く、C(二三
二型、五二型)はきわめて少ない。しかし、これらの結句はCが7首中の6首を占め、Aは1首も
ない。これは偶然ではない。拙著『五音と七音のリズム』参照。
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平成25年度尾道文学談話会
第九回 リドルストーリーについて
平成25年12月5日開催
日本文学科教授 光原 百合
文学において「リドルストーリー」とは、作者があえて物語の結末を書かずに終わらせた
作品であり、
そこに様々な味わいや解釈の余地、
面白さが生まれる。
この談話会においては、
有
名なリドルストーリーのいくつかを紹介し、
どのような面白さがあるのかを分析した。
多くのリドルストーリーは「結末がどちらになったかわからない」あるいは「いったい
何が起こったのかわからない」の二つに大別される。
前者のもっとも有名な例はアメリカの作家ストックトンの「女か虎か」であろう。極限
状況に置かれた女性がどちらを選んだかが として提示された物語で、女性の心理につい
て様々な解釈が生まれ、多くの続編が書かれた。
後者の有名な例としては、やはりアメリカの作家であるモフェットの「 のカード」が
ある。見知らぬ女性から のカードを受け取ったばかりに散々な目にあう男性の物語で、
結局そのカードが何であったかがわからないままに終わる。こういった型の物語は、不気
味さ・不条理感が魅力となる場合が多く、怪談と似た味わいがある。
興味深い例として芥川龍之介の「藪の中」がある。この作品は、とある事件について関
係者の証言が食い違い、何が真相かわからないリドルストーリーであるとされる場合が多
いが、芥川は実はこれをリドルストーリーとして書いたわけではなく、本文を精読すれば
どの証言が正しいかは指摘できるとする説もある。その説について詳しく紹介した。
第十回 昔話の登場人物−潜在的印象の分析
日本文学科准教授 塚本 真紀
平成26年1月9日開催
きつねとたぬきの印象の違いについて、大学生を対象にした調査結果をもとに論じた。
どちらも昔話では「化けて人間をだます動物」として描かれているが、たぬきが東アジア
にのみに自然分布する動物であるのに対し、きつねは世界各国に広く分布する動物であり、
きつねが登場する話には、東アジア以外の文化圏から紹介・報告された作品も多く含まれ
る。現代の大学生には、きつねとたぬきはどのような印象でとらえられているのであろう
か。潜在連合テストという手法を用いて、通常の印象評価(顕在的なレベルでの印象評価)
だけではなく、自分では意識することができない潜在的なレベルでの印象評価も含めて比
較検討を試みた。「親しみやすさ」の印象について、潜在的なレベルでは違いが認められな
かったが、顕在的なレベルでは「友達にするならたぬき、きつねはずるいから」と評価さ
れていた。また、「頭のよさ」については、「きつねはたぬきより頭がよい」という潜在的
印象が形成されていることが明らかになった。さまざまな文化圏の作品に触れた影響を受
けて豊かになったきつねへの意識的処理が浸透し、「きつねは頭がよい」という潜在的印象
を形成している可能性が考えられる。たぬきは、主人公として取り扱われる作品のバリ
エーションが多くないために存在感が薄く、その分、きつねのように「ずるさ」を意識さ
れることもないのかもしれない。
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平成25年度尾道文学談話会
第十一回 古代都市・尾道をさぐる
尾道市立大学名誉教授 児玉 康兵
平成26年2月13日開催
尾道の都市形成の歴史を探ると、尾道は平安末期(1169年)、北部の穀倉地帯太田庄(現
世羅郡)の荘園米を京の都に送る倉敷地(港)に指定された事により、それ以降商人の町
として栄え、財を成した豪商達により多くの神社仏閣が寄進創建、又は再興され、室町期
から江戸期に商港都市として発展し、現在の都市が形成されて行った。これが尾道市史の
一般的解釈であります。私の提唱している「古代都市」という概念は、従来なかった国策
としての都市づくりの考え方です。
それは、古代中国で形成された「陰陽思想」(古代中国の環境哲学)による都市づくりが
飛鳥時代に我が国に仏教と同時に伝播し藤原京、平城京、平安京と中国の思想に基づき都
市が形成されていった。この思想が「四神相応」思想で古代中国(長安)では都を置くに
相応しい吉相の地形とされた。
「四神」とは東の青龍、西の白虎、南の朱雀、北の玄武を指し
四神獣により四方を守られた地形を指し、すべて山をもって「四神」と成すとされた。
尾道、宮島も同様に四山ないしは丘陵により囲まれ、都と同じ「四神相応」の吉相の地
と言える。都と違う点は都市の中軸線が南北では無い点である。
尾道・宮島とも創建時期は推古天皇期とされ、飛鳥に都が出来た時期と符号する。大阪大
学環境工学専攻博士課程に留学されていた友人廣永融氏の論文「風水都市」を参考に論考
を重ねた内容を「古代都市・尾道をさぐる」と題して判りやすく解説致しました。
第十二回 志賀直哉の旅―赤城―
平成26年3月6日開催
日本文学科教授 寺杣 雅人
今年度の談話会では、大正元年から大正4年(直哉29歳∼ 32歳)にかけての、志賀直哉
の4度の旅についてお話しすることにした。第1回では尾道への旅(大正元年11月∼大正
2年11月)を、第2回では城崎への旅(大正2年10月∼同11月)を、第7回では松江への旅
(大正3年5月∼同8月)を紹介した。そして今回の第12回は赤城への旅(大正4年5月∼
同9月)である。
直哉は、これらの旅で材を得た佳編を必ずものしている。具体的にいえば、尾道では
「清兵衛と瓢簞」
(大正2年1月、
『讀賣新聞』)、城崎では「城の崎にて」
(大正6年5月、
『白
樺』
)
、松江では「濠端の住まひ」(大正14年1月、『不二』)、そして赤城では「焚火」(大正
9年4月、
『改造』)を得ている。直哉の旅は、創作と深く関わっていることがわかるだろ
う。つまりそれは、その文学が実生活と密接な関係をもっているということである。
「焚火」は原題が「山の生活にて」であったが、赤城山上の大沼湖畔に掘っ立て小屋を建
て、 の木に登り(前日の記憶)、湖に舟を浮かべ、暗くなり焚き火を囲んで不思議な体験
を語り合う……まさに山の一日である。種々の動植物があり、夜鷹が鳴き、四方の山が
蠑螈の背のよう……山の生活が読む者の耳目と心に直に伝わってくるのである。
芥川龍之介は「文芸的な、余りに文芸的な」で「詩歌的」として特にこの作品に敬意を
表している。
−10−
平成26年度尾道文学談話会
第一回 志賀直哉「或る親子」を読む
平成26年4月3日開催
日本文学科教授 寺杣 雅人
志賀直哉に「或る親子」と題する、尾道ゆかりの短編がある。
大正6年に発表された、原稿用紙2枚半ほどのこの小説は全集にも収録されているが、
実は直哉自身の作ではない。尾道で知り合いになった「F」(=藤井福一氏)の書いた「長
い物の一節」である。直哉は前置きでそうはっきりと断っている。
だが、なぜ知り合いの小説の一部を切り抜き、自分の名を付して発表したのだろう。
直哉の選んだのは、一人の青年が結婚したい女性がいるとおそるおそる両親に打ち明け
ると、意外にも両親は喜んでくれ、結婚を許されるという一節である。直哉自身の実生活
では、父直温との不和が長く続いていた。結婚をめぐっても激しく衝突し、結婚式にも出
席してもらっていない。自分自身とは対照的な親子関係がここにはある。この場面は強く
直哉の胸を打ったにちがいない。
「或る親子」は、この表題と志賀直哉の署名によって父子の和解を切望する直哉自身の新
たなメッセージとなったのではなかろうか。
「或る親子」は大正6年8月5日の『読売新聞』日曜付録に掲載される。そして同月30
日、直温と直哉の父子は、小説「和解」に書かれているように、長い間の不和が溶け、つ
いに和解するにいたるのである。
第二回 室町時代のことば̶幸若舞曲̶
尾道市立大学名誉教授 村田 正英
平成26年5月1日開催
室町時代に、
「幸若舞(こうわかまい)」と呼ばれる芸能があった。当時の人々の書き記
した記録に拠れば、それは少年または女性(のちには男性も)が2∼3人で舞台に立ち、
テンポよく舞いながら物語を一定の曲調に乗せて語ったものであったらしい。その物語は、
現在残されている台本(幸若舞曲)に拠れば、「敦盛(あつもり)」「高館(たかだち)」な
ど『平家物語』や源義経の生涯に取材したものが中心である。その幸若舞曲の表現の特徴
を考えてみようとした。
ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ
同じ室町時代の国語資料で口語的(といっても、室町時代の口語であるが)性格が強い
とされている『天草版平家物語』や狂言の表現と比較してみると、幸若舞曲はかなり文語
的な性格が強いことが分かる(狂言等に見られる「∼おじゃる」「∼まらする」といった表
現は幸若舞曲にはない)。しかし、その幸若の表現の中にもところどころに室町時代の言葉
ゝ
ゝ
の特徴がほころびのように出てきてしまっている(「明ければ」「たちわきばさむだ男」な
ど)
。当時の人々は、そうした幸若舞を、今の我々が時代劇を楽しむような感じで享受して
いたものであろうか。なお、幸若舞曲の諸本の中には半濁音(パ・ピ…)を表す符号(文
字の右肩に丸ではなく、点を一つ付けたもの)が見られる資料がある。
−11−
平成26年度尾道文学談話会
第三回 藁しべで得たモノ
日本文学科准教授 藤井 佐美
平成26年6月5日開催
ここでは、日本の民話、説話文学、海外の民話という3つの視点から、有名な昔話「藁
しべ長者」についてお話をしました。本話は、一筋の藁を次々と交換して立身出世する本
格昔話ですが、これまでにも国内外を問わず多数の類話が報告されています。
まず、日本の民話に注目すると、大きく二つの話型、三年味 型と観音祈願型に分類さ
れます。前者はさらに発端部が出世型と致富型に細分化され、展開も宝剣退治型に結びつ
くようなエンターテインメント性に満ちた要素も含まれています。ここでは青森県を含む
数多の報告話の中から、偉人伝説にも関わる三年味 型の音声資料も御紹介しました。
また、民間での報告数は少ないものの一般に知られる観音祈願型は、『今昔物語集』『宇
治拾遺物語』
『古本説話集』『雑談集』に含まれており、それぞれの話の魅力を御紹介しま
した。さらに、グリム童話「幸せハンス」、アンデルセン童話「父さんのすることはいつも
よし」など、様々な類話に触れながら、本話が伝承されてきた過程やさまざまな教訓につ
いて御説明をしました。参加者の方からは、「なぜ藁しべなのか」という御質問もあり、大
いに盛り上がりました。
第四回 百花繚乱!! 百人一首─緑亭川柳の世界─
日本文学科准教授 藤川 功和
平成26年7月3日開催
『百人一首』と言えば、藤原定家
とされる『百人一首』を想起される方が殆どでしょう。
ところが、
「百人一首」は、百人の歌人それぞれの代表作一首ずつを んで百首に纏めた形
式そのものを指してもいます。つまり、我々が一般的に認知している『百人一首』とは別
に、実に様々な「百人一首」が生み出されているのです。そのような「百人一首」は、定
家 のものと区別して「異種百人一首」と呼ばれています。
談話会では、それら「異種百人一首」の内、江戸時代後期に出版された、緑亭川柳による
「異種百人一首」ものを読みました。川柳作家として活躍する緑亭が著した「異種百人一
首」は、神話から江戸時代までの歴史上の英雄百人の和歌を集めた『英雄百人一首』をそ
の嚆矢としますが、売れ行きが好調のため、その後シリーズ化され、様々な「異種百人一
首」が刊行されました。現在の読者にはなじみのない緑亭による「異種百人一首」の魅力
について、本学収蔵の版本を用いながら述べました
−12−
平成26年度尾道文学談話会
第五回 石川
平成26年8月7日開催
石川
木の釧路時代
経済情報学部教授 川田 一義
木は、明治四十一年一月二十一日から同年四月五日までの七十六日間、厳冬の釧路に滞
在し、その間、釧路新聞社、料亭、そして下宿を日々行き交った。そんな中、三月上旬に、釧路
地方を空前絶後の暴風雪が襲い、死者五十一名、家屋全壊五十八件等の大被害をもたらした。う
ち太田村からは通行人一名の凍死の報せがあった。その人が釧路税務署の井上耕介属であった。
木は二十六歳で夭折するまでに詩、短歌、小説、評論等様々な分野で優れた作品を残してい
るが、白眉の日記は全集の中でも最も頁数が多い。その魅力は、極めて正直にかつ赤裸々に記さ
れていること、そして作品としての物語性を持っていること等である。
木の釧路時代の日々の出来事は、
「明治四十一年日誌」に詳しく述べられていることから、文
学談話会では日記に沿いながら、
木の釧路での暮らしぶりと共に、釧路新聞社の記者として彼
が書いた記事等の中から上記井上属(三十二歳)の遭難記事(三月十一日付、及び、十八日付)
について語った。
なお、
木の書いた三月十一日付釧路新聞の記事は次のとおりである。
▲ 雜 報
◎ 職務の為めに斃る
釧路税務署の税務署属井上耕介氏(間税係)は去る六日専売局の書記二名と同行し官塩販路状
況視察の為出張したるが片無去阿歴内間にて風雪の為に死亡したる旨阿歴内駅逓主人某より
届出ありたる由なるも交通杜絶の為詳細を知るに由なし委細後報を待ちて報導する所あるべし
第六回 15世紀イギリスの家族の生活
平成26年9月18日開催
日本文学科准教授 平山 直樹
私の研究対象である、15世紀の英語で書かれた『パストン家書簡集』を取り上げた。今回は、
手紙の書き手であるパストン家の人々の生活に着目した。
まず、パストン家という家族について説明した。元々農民であった彼らが、法律を学んで弁護
士としての職を得た結果、貴族と同等の「ジェントリ(gentry)」という階級にまで地位を上昇させ
たことを示した。また、大学や仕事でロンドンと密接に関わっていた彼らの言語が、その後のロ
ンドン方言、つまり標準英語につながるものの1つであることも示した。その後、彼らの実生活が
うかがわれる、土地の所有権争いや衣食住に関わる典型的な手紙を読んだ。
さらに、彼らがジェントリとして生活するうえで大切なもう1つの要素である結婚にも着目し
た。まず、当時地位の高い家系では、財産や良家とのつながりを得るための政略結婚が主流で
あったことを説明した。そして、彼らもそのような結婚をしていたことがわかる手紙を読んだ。
手紙内のgentle(家柄の良い)という言葉にも着目し、階級がとても意識されていたことを示した。
その一方で、ジェントリの慣習に反した2つの恋愛結婚に関わる手紙も読んだ。
以上、
『パストン家書簡集』内の手紙を読むことにより、当時の人々の生活、および階級意識の
一端を観察することができた。本書簡集は、現代においても15世紀のイギリスを知ることができ
る、優れた歴史資料と言えよう。
−13−
平成26年度尾道文学談話会
第七回 尾道で怪談を書く
日本文学科教授 光原 百合
平成26年10月2日開催
作家・佐藤春夫は、
「文学の極意は怪談である」と語ったとされる。ただし幻想文学評論の第
一人者である東雅夫氏によれば、佐藤春夫の著書の中にはこの言葉は確認されておらず、三島由
紀夫がその著書の中で、佐藤春夫の言葉として引用しているのみらしい。ともあれ、怪談という
ジャンルが非常に魅力的であることは、多くの文豪が怪談に分類される傑作を残していることか
らも明らかであろう(もっとも有名な例は夏目漱石の「夢十夜」か)。
この談話会では、まず怪談の持つ様々な今日的意義について語った。数年来、怪談は文
芸の世界においてブームを迎えている。その理由の一つとして、怪談はその土地の歴史と
密着した魅力があることがあげられる。近代化・都市化によってそれぞれの土地の個性が
薄れつつある現代だからこそ、土地の個性を後世に残していくためのツールとして、怪談
が注目されているのではないか。前述の東氏も関わっておられる「ふるさと怪談」と呼ば
れる企画が、各地で立ち上がっているのはその証左であろう。
もうひとつ、怪談には、幽霊などの怪現象を語ることにより、亡き人の思いを生きてい
る者たちに伝え、忘れさせないよう促すという働きがある。怪談には「鎮魂の文学」とい
う役割もあるのだ。
こういったことを踏まえ、尾道においても、土地の魅力を伝える手段として新たな怪談
文芸を創造していくことは意義ある試みではないかとお話しした。
第八回 王朝の歌人−清少納言−
平成26年11月6日開催
日本文学科准教授 岸本 理恵
『枕草子』を執筆したことで広く知られる清少納言ではあるが、実は中古三十六歌仙の一
人ということはあまり知られていない。しかし、清少納言の家系をたどってみれば、父の
清原元輔は『後 和歌集』の 者であり、重代の歌人としての意識が非常に高いことが
『枕草子』に見える清少納言の言動からうかがわれるし、仕えていた中宮定子などの言動か
らもそうした期待があったことがわかる。しかも、『枕草子』の各章段を分析してみると、
清少納言の言動は常に和歌的知識に裏打ちされたものとなっている。同じ時代に活躍した
紫式部の『紫式部日記』などを見ても、当時の宮廷女房として和歌の知識は必須であるだ
けでなく、とっさの機転で上手く使いこなせることが求められていた。こうした対応が見
事に出来ていたのが清少納言であったということになる。「島は」「里は」などの類聚的章
段についても、和歌的発想でたどってみると、当時の流行を踏まえた教養の発露として読
むことができるものであることがわかる。こうしたことから、清少納言をあえて歌人とし
て位置付けてみた。
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平成26年度尾道文学談話会
第九回 真田幸村のはなし
日本文学科教授 藤沢 毅
平成26年12月4日開催
2014年は、大坂の陣(1614 ∼ 1615)からちょうど400年にあたる。大坂の陣で活躍した真
田幸村は、江戸時代にどのようなイメージで捉えられていたのか、文学作品の中から読み
取ってみた。まず、大坂の陣ものの大きな流れとして、徳川贔屓で書かれた『難波戦記』、
豊臣贔屓で書かれた『厭 太平楽記』、諸々の「真田軍記」系と『厭 太平楽記』を併せた
『真田三代記』
、さらにそれを増補した『本朝盛衰記』があることを示した。これらは全て
写本であり、実録あるいは通俗軍書と呼ばれるジャンルである。
この中から、特に真田幸村が英雄化していく源流とも言える『厭 太平楽記』を採りあ
げ、幸村がどのように描かれているかを追った。幸村は複数の影武者を使い、何度にもわ
たって死んでいく様子を徳川家康に見せ、逆襲の機会を窺った。幸村が死ねば安心という
家康を描くことによって、絶対的不利な状況下に奮闘する幸村という像を作ったのである。
最終的に大坂方は敗れることになるが、幸村は豊臣秀頼とともに 摩の国へ落ちのびてい
く。これも、家康を討てなかった場合の策として幸村が計画していたものであった。
『厭 太平楽記』で描かれた英雄としての幸村像は受け継がれ、やがて明治時代になり猿
飛佐助などで有名な真田十勇士を生み出す。この十勇士の原型も多く『厭 太平楽記』で
見いだすことができ、そうした意味でもこの作品の文学史的な意義は大きいのである。
第十回 歳神を迎える頃
日本文学科准教授 藤井 佐美
平成27年1月8日開催
ここでは、年越し時分、大歳と民話、七草の伝承というキーワードを中心にお話をしま
した。まず、歳神を迎えるための準備「正月迎え」を確認し、改めて正月の若水迎え、灯
明上げ、三元日の食事や禁忌、二日の山神への礼拝、七日の七草粥、十一日の鏡開きと鍬
立て、十五日の小正月など、一連の流れについて御紹介しました。
『徒然草』や『後拾遺和歌集』には、年越しの晩は「亡き人の来る夜」という解説があ
り、盆行事との共通点を確認することができます。そして、大 日の来訪者を語る民話
「大歳の客」では、日本人の年越しへの思いが顕著に語られています。大 日の晩、貧しい
身なりをした人を歓待した人が富を得る話です。来訪者は歳徳神であり、以降は家々の祭
祀にも結びつきます。他にも「大歳の火」「大歳の亀」「猿長者」なども類話として知られ
ますが、中でも年越しの晩に預かった死骸の黄金化は、神聖な火を守っていたかつての日
本人の精神面を伝える話でもあります。また、ここでは音声資料として岩手県と山形県の
「笠地蔵」を御紹介し、御伽草子『七草草紙』に説かれる由来譚や、七草を打つ時の唱え言
についても、山陰の音声資料とあわせて御紹介しました。参加者の中には七草を口にした
ことがない方もいらっしゃいましたが、今なお御自身で菜摘みをされている方の声も寄せ
られ、開催時期が松の内と重なったこともあり、日本の伝統行事に思いを馳せる談話会と
なりました。
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平成26年度尾道文学談話会
第十一回 共感覚的表現を考える
平成27年2月12日開催
日本文学科准教授 塚本 真紀
ひとつの感覚刺激によって別の感覚が不随意的に引き起こされるような知覚を示す人を
共感覚者という。共感覚者は100 ∼ 200人に1人程度の存在といわれている。一方、「黄色い
声」
「つめたい色」のように、修飾語が被修飾語と異なる感覚モダリティに属する表現を共
感覚表現と言い、こちらは日常的に多くの人が用い、理解が共有されている。談話会では、
共感覚者の共感覚的知覚と、だれもが日常的に用いている共感覚表現の成り立ちとを連続
的にとらえる考え方を紹介した。さらに、共感覚表現がすべての感覚の組み合わせにおい
てみられるわけではなく、使用頻度が高く理解されやすい共感覚表現と、使用頻度が低く
理解されにくい共感覚表現が存在することを方向性仮説に沿って説明した。その上で、使
用頻度が低く理解されにくい共感覚表現をあえて文学作品の中に取り入れることの効果に
ついて論じた。具体的には「赤い味・青い味」という共感覚表現が俳句の中に使用される
ことで、俳句の味わいにどのような影響がもたらされるのかについて調査結果をもとに報
告した。
第十二回 大林映画を語る
日本文学科教授 寺杣 雅人
平成27年3月5日開催
今回、大林映画について語ってくださったのは、数々の大林宣彦監督作品の製作にかか
わった、元尾道瑠理ライオンズクラブ会長の大田貞男氏である。寺杣は聞き役であった。
大田氏は、
『大林宣彦のa movie book 尾道』では次のように紹介されている。
本職は尾道に居を構える建築会社社長。 谷和夫美術監督に惚れ込み《転校生》以降
の尾道作品の建て込みはすべて大田一家の手によるもの。廃材や古い家具、瓦屋根な
どいつか映画に使えるのではないかといつも集めている。《天国にいちばん近い島》で
はニューカレドニアロケにも参加。日本人大工の心意気と技を伝え、現地の人たちを
感動させた。……
本談話会では、大田氏秘蔵のアルバムから60点あまりの画像をスクリーンに映し出し、
「転校生」
(1982)の御袖天満宮の石段、「時をかける少女」(1983)の温室や落下する屋根
瓦、
「あした」
(1995)の呼子浜港の待合所や浮き桟橋などについて、それらの製作に関わ
るたいへん興味深いエピソードや苦労話を披露された。
なお、この平成26年度第12回談話会は、寺杣の尾道市立大学教員としての最終担当回で
あったので、参加された皆さんから、最後に寺杣にとってはサプライズの花束や記念品の
贈呈があった。深謝。
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