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咀嚼と精神的ストレスの緩和

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咀嚼と精神的ストレスの緩和
● 歯科医の時間●
<ラジオNIKKEI>2004年9月7日午後9時15分∼午後9時30分放送
企画協力:日 本 歯 科 医 師 会
咀嚼と精神的ストレスの緩和
東京歯科大学歯科補綴学第一講座
教授
櫻井
薫
◆咀嚼の意義は消化吸収のためだけ?
誰もが、多かれ少なかれ精神的ストレスを受けて生活していますが、その質や量によって
は、ストレスは様々な疾病の原因になります。疾病に罹患しなくても、ストレスにより、筋
肉の緊張、心臓への血液流入量の増加、心拍数の増加、血圧の上昇、皮膚や内臓血管の収縮
などが起こります。
本日はストレスの緩和について、日常誰もが行っている「咀嚼」という行為を通してお話
ししたいいと思います。
ご存知のように、咀嚼とは、食物を取り込んで、切断・破砕し、唾液とまぜて食塊とする
までの一連の過程を言います。この過程には、歯、歯周組織、咀嚼筋、顎関節、舌筋、顔面
筋など多くの器官や組織が関与しています。そして口腔顔面領域の種々な感覚情報をもとに、
食物の量や性状に合わせて、咀嚼の中枢神経機構によって調節されています。
咀嚼の際には、「味覚」、「温度感覚」、「触圧覚」など多様の情報が脳に送り込まれて、それ
に生体は反応しています。有名な Penfield らの文献にもあるように、大脳皮質の運動野の中
で、咀嚼に関係する運動野がその3分の1以上を占めています。
すなわち咀嚼という行為は、知覚においても運動においても非常に広範囲にわたって「脳」
を使用することがわかります。
さて咀嚼の意義は、消化吸収を助けることだけなのでしょうか?
もしそうならば、食品を口腔外で唾液と混ぜて軟らかくしたものを直接、食道に流し込ん
だり、胃瘻のように胃に流し込んだりすれば良いことになります。
その回答を得るために、ダイヤモンドらの実験を紹介しましょう。
イヌが食物を咀嚼し、通常どおりその食塊が食道を通って胃に到達した場合をAとします。
次にイヌが食物を咀嚼して、できあがった食塊が食道を通った後に、胃には到達させないで、
実験的に食塊を体外に出した場合をBとします。さらにイヌに食物を咀嚼させないで、口腔
外で食物を液状にしたものを、直接食道に流し込み、胃に到達した場合をCとします。
Cの場合、すなわち咀嚼をしなかった場合には、食事直後に急激な体温上昇は、起こりま
せん。しかしAとBの場合、すなわち咀嚼をした場合には食事直後に急激な体温上昇が起こ
りました。Bの場合のように、食塊が胃に入らなくても咀嚼という行為のみで食事直後に急
激な体温上昇が生じることがわかりました。
このような実験からも、咀嚼の意義は単に消化吸収を助けることだけではないことがわか
ります。
咀嚼の生理的な意義は、消化吸収過程を助けること以外に、体内の血液循環をよくするこ
と、食物中の異物を発見し、それが消化管に入らないように消化管を保護すること、食物を
唾液と混ぜて食塊を形成し、嚥下しやすくすること、味覚を刺激して唾液分泌を促進するこ
と、口腔軟組織の血流を増加させること、顎口腔系の生理的発育を推進すること、口腔衛生
を保持することなどが挙げられます。
使用中の総義歯を観察しますと、習慣性咀嚼側の方が、非習慣性咀嚼側より人工歯の着色
が少ないことがありますが、これは咀嚼による自浄性を表した一例でしょう。
◆咀嚼回数とストレス緩和の関係
では咀嚼の精神的な意義は何でしょうか?
食欲という欲求を満足させるだけでしょうか?
ラットにストレスを加えると、血中の副腎皮質ホルモン濃度が上昇します。このときに割
り箸を咬ませておくと、副腎皮質ホルモンは正常域に戻るという報告があります。またアメ
リカのプロ野球の選手が、試合中にガムをよくかんでいることを見受けます。
この噛むという行為には、ストレス緩和効果があるのではないでしょうか?
この疑問に関しては、当講座の田原らの研究があります。それは唾液中に分泌されるスト
レスホルモンであるコルチゾールに着目し、その濃度を指標として、チューイングや実験的
噛みしめによるストレス緩和の効果を明らかにすることを目的とした研究です。
実験では、精神的ストレスを負荷させた後に、持参した自分の本や雑誌を読みながらワッ
クスを10分間チューイングしていただきました。そして、ストレスレベルの指標として、唾
液中のコルチゾール濃度を経時的に測定しました。この方法では、血液採取のように被検者
に精神的ストレスをかけてデータの正確性を失うことはありません。調査は17名に対して行
いました。結果として、ストレスレベルは、10分間のワックスチューイングによって減少し
ました。
同じような実験方法で、被検者に3分間の軽い噛みしめを、1分間の休みを挟んで3回行
っていただきました。この結果でもストレスレベルは、軽い噛みしめによって低下しました。
咀嚼や噛みしめを行わなかったコントロール群では、ストレスレベルの低下は起こりませ
んでした。これによって、咀嚼することや軽い噛みしめは、ストレス緩和効果があることが
わかりました。
咀嚼の様々な生理的な意義に加えて、咀嚼の精神的な意義が認められたことになります。
さて、咀嚼回数ですが、これは同一食品でもヒトによって様々です。
ここで当講座の上田らの研究成果を紹介しましょう。75名の被検者に対して、グミひとつ
を咀嚼していただきました。5回の平均で、最多は92回、最少は10回、中央値は39回となり
ました。
あまり咀嚼回数が少ないようでは、食事をしても咀嚼によるストレス緩和効果は期待でき
ません。
歯科医師は、患者の咀嚼回数をコントロールできるのでしょうか?
咀嚼回数の決定に関与すると考えられる因子は、咀嚼能率、咬合接触点数や咬合接触面積、
咬合力、刺激時全唾液量、刺激時唾液粘度、咀嚼運動パターン、咀嚼リズム、さらにパーソ
ナリティが考えられます。
上田らは、それらすべての因子と咀嚼回数との関連を多変量解析により分析したところ、
特定の一つの因子のみで咀嚼回数は決定されず、咀嚼リズムとパーソナリティとが咀嚼回数
の決定に関与する因子であることがわかりました。すなわち咀嚼回数は、ヒトの局所的な因
子ではなく、脳が決定していることになります。
以上をまとめますと、
①軽い噛みしめや咀嚼によって、精神的ストレスを緩和することができます。
②同一食品を咀嚼しても、咀嚼回数はヒトによって異なり、大きなひらきがあります。それ
は脳がコントロールしています。
したがって、歯科医師や歯科衛生士は、よく咀嚼することにより、日々のストレスが緩和
できることを、患者に知らせてください。
また咀嚼回数は、中枢からの指令によって決まるので、「歯を磨きましょう」と言うのと同
じように、意識的によく噛むことも指導する必要があります。
当然のことですが、患者が咀嚼を通して精神的ストレスの緩和を行うには、歯科医師が、
適正な保存処置や補綴処置などを行う技量を身に付けて、それを患者に提供しなければなり
ません。
◆番組1タイトル(1研修コード)の研修で、日本歯科医師会生涯研修の1単位を取得でき
ます。詳しくは日本歯科医師会へ。
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