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英国における医療保障の起源

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英国における医療保障の起源
英国における医療保障の起源
樫 原 朗
(神戸学院大学講師)
1 序
社会保障は革命ではなく、進化であるO経済的保障政策の進化は以前
の習慣の放棄によるよりもむしろ、福祉制度の変遷してゆく型の中にそ
れらを合体せしめることにより特徴づけられてきた9)社会責任の原則も
古くから様々な形態をとりなから、社会体制の変化とともに次第に明確
に浮かび上がってきたOこのことは英国の福祉国家の展開により明瞭にう
かがわれる。ロバーツ(David Roberts)がいうごとく、英国の福祉国家
は1911年の国民保険法によって突如として生まれ、1945年以降に成熟期
に達したのではない01834年の改正救貧法は英国の福祉国家への出発点
としての意味をもっている(ぎ)もちろん、1834年の改正救貧法は懲戒的機
能をもち、否定的なものであったが、救済は廃止さるべきではなかった
し、貧困に対する社会責任の原則も完全に捨てられたわけではなかった。
自由主義信条に忠実であった古典派経済学者ですら、政府にさまざまな
福祉的射旨を割当てる余地を見出したのである誓)ときどき彼らは大衆の
教育、児童の労働制限、医療、貧民の移民、公共事業、社会保険、住居
及び保健規制などの運動を支持しさえしたのであるO 従って、1834年の
救貧法原則の不十分さと現実のギャップを埋めたものは戸外救済の緩和
ばかりではなかった。その後の経済発展による雇用機会の増進はさらに
大きな理由であったし、また労働者たちの自助意識の芽ばえ、保険思想
の発達も大きく側面援助していた。その結果、マルサス主義的救貧法が
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英国における医療保障の起源(樫原)
貧困を罪悪視したというエンゲルスの金言に対しては、ビクトリア朝の
経済学者により次の回答が与えられた。
「救貧法は労働者の生活及び健康に対する保険であるO それは老齢に
おいて彼を扶養し、疾病に際して彼を助け、精が」にかかっていると
き彼を保護し、医務官の形で高度な専門職業家のサービスを彼に与え
る。………現在あ農業賃金率では農業労働者及び、ある程度は職人も、
自身でこれらのサービスを供与することはできぬであろう悪)
この言葉にはいくらか誇張があるかもしれないが、貧民(一般労働者
を含む)に対する医寮の起源はこの救貧法の中にやどされていた。幾回
かの救貧法修正の中で1867年法以外には医療に関するものはなかったけ
れども、医療保障は救貧法の日常の運蛍の変遷と医師その他の人々の努
力のなかにその初歩的姿容をあらわすに至るのであるO救貧法の哲学に
相反する救貧法の医療援助の展開は救貧法崩壊の基礎を作っていったと
いってよいO この意味において救貧法の医療面の発達は次の時代への橋
渡しに最大の役割を果したといえようO
〔注〕(1)SamuelMencher,PoorI且WtOPovertyProgram,1967,P.1.
(2)David Roberts,Victorian Originsof the BritishWelfare State,
1960.preface,
(3)Mencher,ibid.,Pp.96∼97.
(4)RuthG.Hodgkinson,TheOrigins of theNational HealthService
1967,P.695.
2.新救貪法の医療サービス(1834-47)
1834年の救貧法は労役場で救済を受ける疾病者の治療に関する規則作
成の権限を救貧法委員会に与えていたO しかし疾病被救済貧民の戸外救
済の当時の慣習に干渉する企ては何ら行なわれなかったO中央当局の受け
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英国における医療保障の起源(樫原)
た指導は地方事務所を指導し統制する規則を作成すべきこと、突然の危
急な疾病の際には治安判事は無制限に施療の命令を下しうることのみで
あった伊しかし組織的な医擦サービスが進展したのは実にこの貧弱な二
条の規定からであった。
疾病貧民に対する有効な治療の必要性は早くから痛感されており、
1834年にはすでに一部で実施されていた。ただそれは各地区で区々であ
ると同時に弊害の多い制度でもあったO独立労働者の多い北部地方では
労働貧民は殆んど救済を受けなかった。むしろ、貧困な南部の農業地帯
では貧民は教区の医療援助を権利とみなしていた。しかしここですら医
療は極めて制限されたものであった。大抵の教区は医師一人あたり年15
ポンドあるいは20ポンド以上支出することはなかったO
田舎の教区ではその疾病貧民を治療する契約を医務官と取り固めるの
が常であった。医務官の報酬は極端に低く、そのため彼らは多くの教区
を担当し、その責任は無限であった。医務官はその地位を失うことを恐
れ、不当な搾取を黙認しなければならなかった。それゆえ、医学の未発
達とも重なって、医療の水準は極端に低かづたO貧民の多い地域では労働
人口の大半が医療を要する立場にあったのである。教区医師は最良の医
薬や治療を多くの階級に与える余裕がなかった。そこで、当初考えられ
ていなかったPoorという意味の拡大解釈によりこれに対処していたた
め、真の困窮者が影響を蒙らねばならない状態であった(ぎ)
このような事情にかんがみ、1834年の中央当局は被救済貧民のみに対
する診療を契約するよう貧民救済委員会に指示するに至ったO従って、
この場合、・救貧税の使途は絶対的窮乏の場合だけに限られるべきであり、
一
医療救済は全体としての労働者階級に与えられるべきではなかった。
この政策は最初は成功したかにみえた。F3人の王様」(救貧法委員はそ
う呼ばれていた)の一人であるショー・ル7ェーバーは、1837年に改正
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英国における医療保障の起源(樫原)
救貧法の最も明瞭にして直接的利益は税率の削減であると明言していた誓)
しかしすでにその年の始めにはインフルエンザの蔓延のためテスト・ケ
ースがきていたO委員会は方々の教区からの苦情や反対にも、さらには現
在の医療救済制度が医療専業者に不十分かつ有害であるという不屈の認
識にもとづく主張も理解しえなかった。その結果、1834年から1847年の
期間中、政策の根本的変化を示す委員会の命令は何らなかった。その中
でただ1842年の一般医療令(GeneralMedical Order)及び1847年の
一般統合令(General ConsolidatedOrder)が始めて包括的医療制度
の確立の指針を規定するにとどまったのである。そして、この二条令へ
の地ならしをしたのが、1838年と1844年の特別委員会及び医師協会であ
った。
英国内科医協会はこの間題に関心をいだき調査を行なったO彼らは制度
の一貫性の欠如に注目し、その最大の弊害のいくつかを、医務官の採用
及びその支払方法の相違、担当医療地域の広大なること、被救済貧民の
医療援助の阻止などにみたO また一貫性の欠如は老齢者や虚弱者の救済
申請の方法にも明確にあらわれていた。 当時、貧民が医療救済を受け
るには、多くは医学的知識を有しない救助官(relieving officer)
の命令書を要した。救助官は形式的には貧民救済委員会により任命され
その決定.により職啓を執行するものとされていたが、実質的には貧民救
済委員会における援助の申請は殆ど救助官の調査と助言に左右される
のが常であったO 救助官は文字どおり「救貧法が作用するためのピヴォ
ット」たる地位をしめていたのである(ま)喋って、命令書なしに危急の場
合以外は医師の診察を要求しえなかった。救助官と医務官が互いに隔たっ
た場所に住んでいるときこの弊害が大きかったが、医師の担当する区域
は大抵の場合広大であったので、こういう場合が通例であった。
この調査にもとづき医療サービスの改革計画が作成された。この計画
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英国における医療保障の起源(樫原)
では居住者10,000人単位の医療区域の設定、医務官はできるかぎり中心
部に居住すべきこと、被救済者名簿を廃止し、医療の迅速なる運営を可
能ならしむべきことなどが規定されていた。
この計画の根底にある認識の多くが3年後の1842年の一般医療令に具
体化された。医療地域の最高面積は人口が15,000人を超えない15,000エ
ーカーに限られ、被救済貧民に救済命令を与える方法も再検討されたO
さらに将来6ケ月毎に絶えず救済を受けている老齢者・虚弱者・疾病者
・不具廃疾者などの名簿を作成すること、医務官はこの名簿の救済申請
者宅をすべて訪問すべきことなどが規定された(吾)
しかしこの条令には各地の貧民救済委員から様々な反対があり、また
医療救済の十分性とか方法は明確ではなかったO そのため1844年に一般
状態の調査のために救貧法医療救済に関する特別委員会が任命された。
この調査は長期間にわたり、しかも徹底的なものであったが、不幸にし
て何ら立法は行なわれなかった。だが同時にこの時期には1834年原則の強
行に関する懐疑論とともに再度の改革案も考えられていたO 医師ラムゼ
イは救助官が疾病者と医療専業者の間で妨害することの弊害、すなわち
救助官が医療救済に関する命令権限を有する弊害、あるいはそれによる
医療救済の不必要なる遅滞、及びその結果疾病者が彼のとこうへ行くの
を嫌う傾向のあることを指摘し、改革の必要を力説したO しかし救貧法
当局はこの議論に一向に耳をかさなかったO その結果、1847年の一般統
合令は大体において42年の医療令を繰返し、救助官の義務あるいは権限
を更改することはなかったO依然として疾病者の医療救済の受給資格は
「非医療的環境にかかわる非医務官の決定j6)によったのである。
47年令は一般には42年令の繰返しに過ぎなかったけれども一つの重要
な成果を残したO それは救貧法を綜合的に調査し、医療救済を含ましめ
l
たことであるO ここに始めて「医療サービスは救貧法制度の認知された
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る部分になった」艶れは二つの意味において重要であると考えられる。
第一は医療援助が救貧法を基礎として発展するための根拠をこの条令が
与えたこと、第二にそれゆえに、医療援助を申込む人々を困窮者として
分類する初期の政策から離脱しえなかったことであるO この時期におい
ては貧困の原因に関する時代錯誤な見解が救済の根本原則であったO
ところ_で、医療サービスが救貧法制度の認知されたる部分となるとと
もに、救貧法医務官も確乎と_して必要な制度となったO 貧民救済委員会
も医務官への依存度の大きいことを熟知していたO また救貧法委員も疾
病貧民に有効な医療を保証することが彼らの目的であり、これを保証す
るのに責任を有するのが地方当局であることを繰返し強調していた。し
かし、一方では、この時期に医療救済の申請を妨害することにより救貧
税を引き下げ、また医務官の給与を安く押えることを目的としていたO
従って、医務官に与えられた仕事は地方の貧民救済委月会の政策に、さ
らに救助官の性格に大きく左右されたO
以上とは別に、この時期をヘルス・サービスの起源として注目すべき事
柄に1840-41年法以後の予防接種の展開がある0
1840年までに、教区連合の医療費支出及び医師の仕事量はかなり増大
していたO この傾向は40∼41年法以後、救貧法医務官が公衆予防接種医
をも兼務したため、ますます顕著になっていたO 従って予防接種は救貧
法行政官の管轄にはなかったいま一つのヘルス・サービスであった。
まず1837年にはインフルエンザが流行し、その後天然痘は貧民の間に
猛威をふ'るっていた。それゆえ1838年の救貧法委員会の報告書でも全国
的規模の予防接種の必要性がとかれていたO 当時一部に接種が行なわれ
ても不適格・無資格な人が実施にあたっており、また貧民は彼らの子供
の接種を怠ったため、天然痘は日々幾倍にも増加するというすきまじき
で、過密な貧民階級地域により多く流行していった。
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英国における医療保障の起源(樫原)
1840年における救貧法委員会の報告書によると、10,434名の天然痘に
よる死亡者があったと報告・されている。この年の予防接種法は無料予防
接種の特権を貧民の境遇に関係なく、申請したあらゆる人々に拡大する
こととし、さらに1841年法は「無料救済の被救済貧民化傾向及びその推
論」を拭い去ってしまった讐)ここに救貧法性の払拭の第一歩が始まった
と考えてよいOトーマス・ウェィタリー(ThomasWakley・・・国会議員)
は一条を挿入せしめて、天然痘に感染し、また人々に感染せしめること
を犯罪としたのであるO
この種痘の規定は強行規定でないことが大きな欠陥ではあったが、そ
れでも流行病への対策としては非常な進歩であったO かくて、「予防接
種は無料のヘルス・サービスの最初のもの」となった9)しかも、それが
救貧法の経路により管理されたことが英国における特質であり、これが
後々まで影響を及ぼすこととなったO
問題はなにゆえ荒涼時代の産物といわれる新救貧法のもとでこのよう
な立法が行なわれるに至ったかである。それは端的にいって「最も魅力な
ゝ
き荒涼時代の価値、すなわち経費節減への欲望に訴えたゆえであった」(と伽
流行病は窮乏の主要な原因となって地方税を大幅にのみつくし、資産階
級の財布に大きな負担をかけることを恐れたためであったO この事実は
何よりも救貧法委員会の意見に見出しうる(と1)それはベンザム主義の産物
であったO ベンザム学徒にとって経費の節約は抵抗Lがたい論議であっ
たO ベンサム主義は自由な個人主義的信条ではあったが、自由に放任さ
れた社会が悲惨を生み出すならば、社会改革的集団主義を何のためらい
もなく採用したのきある。彼ら、殊にチャドウィク(Edwin Chadwick)
などの考えは原子論的であると同時に集団主義的であった輿このベンザ
ム主義を基軸にして、これ以後の公衆衛生運動が展開されて行くのであ
るO 矛盾する救貧法の求援抑制原理と医療原理もこの限界内ではたく
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みに調和されたのであった。
以上の如く、予防接種は大いに改善され、顕著な成績をおさめたけれ
ども、この点を除くと、この時期には見るべきものは極めて少ない。一
般労働者に対する医療は制限された上に粗末なものであったO 多くの人
々は救助官及び貧民救剤委員会の施与に対する統制の撤廃を望んでいた
が、決してかなえられることはなかったO また、当局も栄養失調と医薬
の関係をも十分に熟知していなかった。従って、痛気であることと法律
上の被救済貧民であることは19世紀においては決して分離していなかっ
たのである。この間題の重要性は医薬のみを受けた人が比較的少数であ
ったことによっても示されているO
例えば、ウエスト・ハムの統計によると、医療救済を必要とする人数
は年に%ずつ増加したが、人口の増加は%にすぎなかった。この傾向は
救貧法医療に対する警告であったのみならず、貧国と疾痛の密接なる関
係を明確にしたのである。 全国的にも一般救済を要しない疾病者は
殆どいなかったO 平均して一般救済の受領者の50%は医療を必要とし
たのであるO しかも現実に仝救貧費支出にしめる医療費の比率は一般に
3-4%が普通であった禦従って、労役場の内外では非常に多くの、し
かも多種類の病気が発生していた。救貧法医務官の報告書には、熱病
(fevers)、気管支炎(bronchitis)、リューマチ(rheumatism)、
肺炎(pneumonia)、結核(consumption)、かいせん(iches)、梅
毒(syphilis)、眼病などさまざまなものがみられたO
医師たちはこのような事情とその原因を熟知していたO Lかしそれに
対する予防的措置をとる権限は何ら与えられていなかったO医師の義務
は予防ではなく、疾病の結果生じる困窮を救済することであったO「救貧
法フロンティアと医療救済のフロンティアの峻別は19世紀社会立法の造
りだした最も近視眼的な政策の一つ当4)であったO貧民の病気は医師が介
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英国における医療保障の起源(樫原)
入することを認められたときは被救済貧民の病気と化してしまっていた
のである(㌘
医療政済がかくも欠陥多きものとして生成しためは、1由4年原則、す
なわち劣等処遇及び求援抑制の救貧法原則が医療救済に適用されたこと
に帰国するといわねばならない。救貧法は幾多修正されたが、それがこ
とごとく、より多くの労働者階級を救貧法の医療サービスの影響下に入
れる方向での改正であった。それゆえ、一方では被救済貧民をつくり出
しながら、他方ではそれを減少せしめる努力を要するという全く矛盾し
た条件に立つことになったのであるO
こういう状態のもとで医師たちはさまざまな改革を提案し、また現実
に努力していた。しかし、.すでに一部考察したとおり、40年代に提案さ
れた革命的な改革は救貧法委員会またはその後の救貧法庁によって実施
されることはなかった。当局がその制度の細目について改善の努力を.し
たことは疑わないが、それは根本的改革ではなく、基本的には以前から
連合により制定されていた有益なる慣習を確立することであった。
医療救済の発展はきわめて遅々たるものであった。しかしながら救貧
法制定後10年間に他のいかなる種類の救済に比べても医療救済がはるか
に自由化され、改善され、拡大されたこともまた事実であったO しかも
危急の際には救貧法医療サービスは有効な役割を果たしたのである。それ
はもともと功利主義の経費節減の欲望に訴えたものであったとしても、
それが基本となり、医師やチャドウィック、サイモンの非常な努力のも
とに次の時期に医療救済を進展せしめる原動力を醸成していった。
〔注〕(1)S&B.Webb,EnglishfborLawPolicy,1910,1963ed,PP.17∼18.
労役場の収容者であるか、労働能力者とその家族という漠然とした階
級に属している以外では、疾病者の救済の規則作成の権限は何ら中央
当局には与えられていなかった。
(2)RuthG.Hodgkinson,National Health Service,1967,PP.8-9
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英国における医療保障の起源(樫原)
(3)Ibid.,P.11.
(4)小川喜一、「イギリス国営医療事業の成立過程に関する研究」26頁
(5)Hodgkinson,ibid.,P.14.
(6)Ibid.,PP.24-25.
(7)Ibid.,P.15.
(8)1bid.,P.29・.
(9)Ibid.,P.31.
(10 HarryEckstein,TheEnglish Health Service,1958,高須裕二訳
「医療保障」14頁
(11)「すべての流行病やすべての伝染病は直接あるいは最終的に救貧税の
支出を士もなう。伝染痛によって労働者たちは突然窮乏状態に投げださ
れるO それに対しては直接の救助か与えられねばならない。労働者が死ん
だ場合には未亡人や子どもたちはその教区の被救済貧民として投げださ
れる。こうして生ずる負担の量はしばしば極めて大きいので、肉体的原
因に帰せられる災危の予防のための費用負担は救貧税の行政側にとり経
費の節約となるJJohnRussel卿への救貧法委員会の報告より.
(12)Eckstein 高須訳、前掲書15頁.
(13)Hodgkinson,ibid.,PP.43-44.
(14)1bid.,P.59
(用 一般には医師は貧民救済委員会にその弊害を指摘することすら許され
ていなかった。ベスナル・グリーン連合の一医師は裁判所で恐るべき状
態を治安判事に訴えたために、その年の終りに再任しないと脅迫された
といわれるO 医師の職業的良心の命ずるところですら、窮乏という一語
により制約されてしまったO
3.1847年以後の戸外医療救済
1847年は救貧法史における分水界となったO医療サービスについては特
にそうであった。改正救貧法により誕生した制度は形式的には全国的な
ものへの前進ではあったが、実質は全国的責任と地方的責任の妥協であ
ったと)それゆえ、地方教区統制は殆ど以前のまま残され、中央当局か
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英国における医療保障の起源(樫原)
ら攻撃されることはなかった。かような状態を考慮すれば救貧法委員た
ちはなお活動的であった。ある意味で1847年の一般統合令は彼らの努力
の結晶であったといいうるO この条令は19世紀の終り頃まで救貧法官の
仕事を規制する規則の基礎であったので、以後の困窮者の治療の歴史は
この原理をいかに実施するかにあった01847年以降の救貧法庁は前任者
たちの経験から利益をえ、何ら積極的な活動をしなかったために、一部
をのぞき非難もこうむらなかった。それは純粋に行政的な機関となり、
自身の性格とか政策をもたなかった(三)提案に対する批判もイニシアティ
ブもとることなく、従って立法権限も殆ど使用されなかった。 こうい
う過程のうちに1834年原則は次第に廃絶状態におちいり、1871年までに
救済の方法は殆ど完全に逆転されるに至る0 1847年には検査官が任命
されたが、彼らは医療面の知識も経験も判断の基準ももたなかったため
救貧法運営の専門家になりえなかった。「救貧法検査官は工場検査官と
は全く反対のポールにあった」…)中央当局の指導の技量の欠如に加え新設
の検査官が以上の如き状態であったため、中央当局の権限は貧民救済委
月会に譲り渡されていったO それゆえ検査官などにかわって現実の改革
の役割を果したのが医務官であったO
かくて1847年は重要な慈善的方面への分水界となるO その転換の具体
的な現象が①労働能力者に対する戸外救済の黙認一決して合法化されな
かった-と、②病人に対する院内救済の提供であったO この両者はそれ
ぞれの面で重要であるO 一方では労役場の建設は決して需要に追いつく
ことはなかった。そこで労役場の労働能力者収容の原則をくずし、彼ら
を石切場で雇用して救済を与えることとなる。これが後の公共事業の起
源につながるO 他方、病人に対する院内救済の重要性が次第に認識さ
れるに及び、居宅治療の減少、労役場の病院化へと向う。この面におい
て1834年と1871年とは全く異なっていた01871年には救貧法の運営は貧
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英国における医療保障の起源(樫直)
民のための国家の医療当局に発展する空)
それでは1847年以後の医療救済の発展過程はどうであろうか。
まず妊娠及び事故の二つの範疇の疾病には常に医療救済が認められた。
1848年の改正救貧法の第2条は事故、身体の傷害または突然の疾病に対
しては医療手当を支給すべきことを規定していた。妻が産裾にあるとき、
労働能力者に無料救済を与えることは当時の慣習として確立していた。
検査官ケイン(C乱ne)は1862年に「所得に関連なく、疾病はあらゆる規
制に対する例外である空)として、地区医務官による労働能力者に対する
手当を妨げる規制はないと考えていた。しかし、こういう主張にも拘ら
ず、治療されない疾病患者は多かったO病気の発生は増加し回復は遅れ
た。それは貧民が救貧法医療救済の申請を嫌ったか、さし控えたためで
あったO
第二の重要な問題は1847年以前にその源を有する予防接種及び公衆衛
生の問題であるO 救貧法庁が始まった頃、貧民たちは予防接種の利用を
怠り始めていた。その結果、1852年には児童の死亡率は上昇しはじめた。
救貧法庁は貧民救済委員会に流行病から生ずる死亡について注意を喚起
し、また公衆予防官はあらゆる機会に天然痘の危険を貧民階級に知らし
めようとしていた。同時にランセット誌も1853年に予防接種法を修正し、
公衆衛生サービスと救貧法の関係をたち切ることを政府にせまっていた。
そして同年児童の予防接種は義務づけられた。その後1867年法は予防接
種官の任命を強制することとなったのである(舎)
第三の注目すべき展開は公立施療院(dispensary)の設立であった。
地方の大きな町では医務官はもはや院外の多数の疾病者に対処しえなく
なってい手Oそこで現われた解決方法は事実上公立病院の外来患者部門
の機能を果たす中央当局を創設することであった。事実、新公立施療院と
救貧法診療所(infirmary)は病院制度に非常に似たものになったので
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英国における医療保障の起源(樫原)
あるピ)
こういう方面への新発展はさらに1867年の首都救貧法(担etropolト
tan poorAct)により促進された。それはヴィラーズ(C.P.Villers)
を委員長とする特別調査委員会が「医療救済の現在の制度に実質的に干
渉する十分な根拠がない」と発表した3年後にすぎなかった。しかしこ
の法の必然的過程はすでに準備されつつあった01862-65年の期間は流
行病に対する公衆の激しい警鐘により特徴づけられた期間であった。ジ
フテリアは再度猛烈に発生し、多数の死者を出した。1862∼63年の木綿
飢饉はチブス熱の突発と関連していた。また1865年には脳脊髄膜炎(cerebrospinal menigitis)が欧州北部から広がってくるというおそれ
があったO 当然、ロンドン及び他の大きな都市の労役場の多くは病人
で極端に垣満月であった(ぎ)遂に議会でもその状態について激論を呼ぶに
至ったO かくて1865年にはじめて救貧法庁は大蔵省より医務官任命の許
可を得たO そこでヴィラーズは医務官にエドワード・スミス博士を任命
し、検査官のケイン及びファーネルとともに首都の労役場及びその他の
病人を収容している労役場を巡回させた。その結果、あらゆる病気で現
実に死亡しつつあった人々の処遇は弁護されえないことは明らかであっ
た。一一・般大衆の憤慨とともに1865-66年のスキャンダルの暴露は遂に救
貧法庁を目覚めせしめたO 変化の始まりは救貧法庁の長官バーデイ(CathorneHardy)の下院での過去の救貧法庁の対策の非難演説にあらわ
れた。そしてその後貧民に関する政策は完全に転換されたのであった。
彼は「不満を訴えられている弊害は主として労役場の運営方式-それ
は大なる程度において抑圧的なものでなければならない-が、かかる
制度にとって適切な対象ではないところの疾病者に適用されたことか、ら
生じたPことを認め、「疾痛者の処遇は全く異なった制度で行なわねばな
らない」と強調したのである。
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英国における医療保障の起源(樫原)
かくて成立した首都救貧法により連合及び首都の教区は結合されて疾
病貧民の受入れ及び救済のための養育院(asylum)地区となったOここ
に始めて、首都に残っていた地方特別法及びギルバート法により運営さ
れていた当局が救貧法庁のもとに統合されたのである。行政上の画一性
が達成され、新地区は単一中央当局一首都養育院局(Metropolita.n
AsylumBoard)-のもとに統一されることになったO
この法の規定する第二のものは共通救済基金(the common poor
f。通)である。この基金の使用目的は以下の如くであった禦
(1)精神異常者の扶養
(2)熱病及び天然痘にかかった収容所の患者
(3)医薬及び医療用以外の外科用器具
(4)職員の給与
(5)この法の結果失職した医務官に対する補償
(6)出生及び死亡登録の費用
(7)予防接種など
一般にはこの基金は1日1人あたり最高5ペンスまで院内救助の費用
を与えることを目的とした。しかし実際には医薬以外何らの補助金も与
えられず、貧民救済委員会は地方の基金からこの費用を支弁しなければ
ならなかったため、反対が生じた。
1867年法の第三の最大の革新は戸外の疾痛貧民治療のための施療院
(dispensary)の施設の認可であった。この法により、新施療院が建
築されるか、または労役場の一部が施療院に改築されねばならなかった。
・現実には、熱病・伝染痛のための地区病院、療病・白痴・低能者のため
の養育院の建設あるいは施設の転換はおこなわれたけれども、救貧法施
療院の設立は急速には進展しなかった竺1)
施療院制度の発達は遅かったけれども、そ.れが病気の予防に対する長
一14-
英国における医療保障の起源(樫原)
初のステップであるという意味で、その意義は大きかった。しかし、決
してそれは論理的帰結まで貫かれることはなかっ一た。その最大の欠陥は
範囲の狭陰なことであった。そのサービスの拡大をはかることは新救貧
法の存続期間中の要請された最大の改革であったにも拘らず、法はすべ
ての貧民を含めるよう拡大されることは決してなかった。改革者たちの
主張とは異なり、依然として一般医療救済の受領者は被救済貧民であっ
たO しかし救貧法庁がその任務を終える1871年頃にはその見解には非常
な変化がおこりつつあった。それは最後の救貧法庁の長官であるゴッシ
ェン(Goshen)の言によっても明白である。
「現実の被救済貧民と区別された貧民階級一般に対する無料の医療及び
完全な組織の下での四六時中の医療診療への完全な接近の経済的社会的
利益は、有益であるとして提示されるかもしれないあらゆる理由を最大
の配慮をもって考察することを必要ならしめるであろう程、それ自体重
要であるかもしれな
1834∼70年の期間中、一般的について医療サービスの法的な面に関し
ては政府からは殆ど何らの援助もなかった。 この期間に通過した18の
救貧法のうち医療面に貢献したのは首都救貧法のみであったO しかもそ
れが救貧法医療サービスの発達史における重要なステップとなったO そ
れは次節で考察するように首都養育院局を創設す飢こ際し、国における
最初の組織的な病院制度を確立したのである。この法以外に指導的な機
能を果た したのは国家でも救貧法当局でなくて、むしろ医師たちの自覚
と運動によるものであった。貧困と疾病と公衆衛生の関係は救貧法医務
官により確認されていたO しかし立法は改革のための先見の明のある要
求を無視したのであるO ただ試験的にのみ、医務検査官を従事させる提
案に嫌々譲歩した程度であったO
この期間に導入された医療改革は救貧法の枠内ではあったが、上から
-15-
英国における医療保障の起源(樫原)
の指導によってではなく、医務官の扇動と全く困難なとぼとぼ歩きの努
力のたまものといえる。それが故貧法による医療救済の起源を構成する。
〔注〕(1)S.Mencher,ibid.,P.123.
(2)チャドウィツタは救貧法庁の方針を「弊害ある原理を公衆の犠牲によ
り働かしめ」「しいられるまで活動せず、そしてできるだけ活動しない
こと」と評しているO
(Hodgkinson,ibid.,P.267.)
(3)Hodgkinson,ibid.,P.268.
(4)Ibid.,P.269.
(5)Ibid.,P.276.
1
(6)Ibid.,PP.298-99.
(7)Ibid.,P.303.
(8)S&B.Webb.English Poor LawHistory,partII.Vol.II,1963ed.
P.317.
(9)Webも,ibid-,P、319.
(川 ThomasMackay,AHistory of the English Poor Law,Vol.llI,
1834-1898,1898,1967ed.P.492.
(11)Hodgkinson,ibid.,PP.306-307.
(1め Ibid.,P.333.
4.労役場における公立病院制度の発生
1833年の救貧法報告書の提案は革命的であったにも拘らず、疾病者に
関しては新提案はなかったO求援抑制のため、労働能力のあるものは労
役場のみで救済し、他方、疾病者もごっいては戸外救済を与える習慣がそ
のまま継続されたO 当初の考えでは老齢者・虚弱者・児童にはそれぞれ
新施設を'建設する予定であった。だが実際にはそれは実施されず、依然
として混合労役場の形を採用したのであったO
1834年に救貧法運営者は労役場運営計画を作成したが、その中には病
-16-
英国における医療保障の起源(樫原)
院の性格を有するものは何ら含まれでいなかったO委月会は別個の部屋
に収容さるべきことは規定していたO しかし労役場の患者病棟は労役場
に収容した労働能力者のうちの患者の収容を意図していたため、制度的
治療については何の規定もケかった。
以上の如き状態で出発したが、次第に戸外救済と院内救済の類別過程
を逆転せしめることとなった。 それは絶えず増加して行く被救済貧民
の圧迫によるものであったO 家庭内の付添人の不在とか、劣悪なる家庭
環境が回復の妨げとなると考えられる場合、疾病被救済貧民を労役場に
収容する慣習が認められることとなった。彼らの収容のため労役場の部
屋が病棟に転換され、附属別館が偶然あるいは企画もなく建設されたの
であるO従って病院の性格を有するものの発生は全く漸進的であった。
1840年代の始めから地区診療所の政府案が提出されたり、いくらかの地
域で病棟の建設などが計画されたが、40年代のそれは全く革新的な例外
であり、救貧法病院の先駆にすぎなかった?)
明確な変化の兆が現われるのは1847年の一般統合令以後であったO一
般統合令はこれらの年月の経験の集約であった。従?て制度的医療救済
は表面上は比較的慈悲深いものになりつつあった。ただ、救貧療医療サ
ービスの目的は疾病の予防ではなく、治療であった。ヒューマニティあ
るいは節約の原理としての疾病の現実の予防の仕事を日程にのばすのは
50年代以後であったO 当時は予防的医薬を完全に無視して莫大な救済費
支出が正当化されるか否かの問題は大抵の救貧法委月たちには理解の及
ばないところであった誓)さらに疾病者の特別な要求が注目されるに至る
l
のは、この時期の間にあわせの措置の不十分さが認識されるに至った60
年代になってからであった。
かくして、条令とそれに集約された歴史的過程を通じて1847年は分水
界となった。1847年以後は方向を転換し、暗黙のうちに政策革命が行なわ
ー17-
英国における医療保障の起源(樫原)
れるに至る。すなわち疾病者の収容という至上の必要から労働能力者の
収容は差し控えられるO その結果、1871年頃までに救貧法制度は最初の
国立病院制度を創設するのであるO
そして同時にいま一つ重要な変化が生じはじめていたO それは労役場
診療所の求援抑制的性格の喪失であるO 救貧法の哲学と一致しない医療
痕理.の発生は実に労役場診療所制度の発達に求められるOそれは明瞭な
る過程を通じてではなく、漸進的進化の過程を通じてであったO
救貧法の病院部門は1860年代までは議会も大衆も無視していたO しか
し、この時期にはさまざまな調査が行なわれるに至る050年代及び60年代
初期に救貧法庁によって始められた最も顕著な調査は聖パンクラス労役
場のそれであった。聖ジョーンズ病院の医師であるヘンリー・ベンス・
ジョーンズ(HenryBenceJones)博士に委嘱されたこの調査は問題の
連合に有益な影響を及ぼしたのみならず、一般大衆、救貧法庁、医療専
門家の良心を起びさましたO それゆえ以後の調査及び改革の先かけとな
った誓)これらの調査の結果、救貧法庁は次第に規則的に規制するに至るO
最初は地方の個々の労役場に関するものであったが、次第に一般的命令
や規則が出されるようになったO この頃になると救済委員会あるいは検
査官がいかに不正確な報告をしょうと、 もはや救貧法医療サービスに
内在する重要な問題を隠蔽することはできなかったO 公的な統計は次第
に労役場に収容されている疾病者及び老齢者の数を明確にしていた0
1866年のスミス博士の調査では24,000名の収容者のうち医療を要するも
の9,000名で約38%であった。また1869年1月現在の首都労役場の困窮
者の分類は次の如くである(き)
通常の疾病考=‥=…………………6,000人
38% (戸外救済の場合は
医療を要する老齢者・虚弱者……5,000人
1,700人 6%
低能者
-18-
13.8%)
英国における医療保障の起源(樫原)
児 童………………………………1,700人 6%
健康な老人
10,500人 37%
労働能力のある者…………………3.,000人10%
地方の労役場の場合は首都の場合ほど高くはなかったO それでもほぼ
30%程度は医療を要する状態であった。スミスの言によると「労現場の
収容者数は必ずしも疾病者数の指標ではない。……だがそれらの間には
ぁる種の関係が存する等)とO
このことは同時に自宅治療の不十分さ及び不健康な生活状態のために
労役場が大規模に痛院に転換されつつあったことを示しているO 院内救
助の支出は英国全体では2倍になり、ロンドンでは3倍にも達していた。
また労役場内のいわゆる労働能力者は収容者の少数者になっていたけれ
ども、彼らの多くは健康からほど遠く、労働することもできなかったO
労役場の状態が知られるとともに、.異なった範疇の人々を同じ様に収
容す一ることの弊害は明瞭に認識されるに至ったO しかし狭い教区あるい
は単一の連合がそれぞれの等級の建物の建設費用を負担することは不可
能であった。そこで1867年の首都救貧法は疾病者、精神病者、または虚
弱者のために地区養育院(District Asylums)を創設すべきことを規
定したのであるOここに当初あ個別処遇の原理が再導入されたのである(空)
そしてこれを可能ならしめる単一の中央として首都養育院局(theMet
-rOpOlitan AsylumsBoards)が設立された01869年法は首都事業局
に50万ポンドまで資金を貸出す権限を与えた。さらに同年、疾病救済養
育院地区(SickAsylums Districts)にかわってすべての目的のた
めの連合の合同が行なわれ、それぞれの等級の被救済貧民のために別個の
施設を使う政策はさらに推進されることとなった0
1876年以後、特に首都養育院局が展開した仕事は隔離病院の施設であ
った。これまで首都では伝染病の組織的な除去及び隔離は行なわれてい
-19-
英匡=こおける医療保障の起源(樫原)
なかったし、予防の有効な手段もなかった。最初、養育院局は喝救済貧民
の間に発生する熱病・ジフテリア・天然痘を取扱う権限を与えられてい
たが、後にあらゆる階級のための公立隔離病院当局に拡大されたO
一方、600の地方の労役場でも収容者のうち40,000人あまりが、疾病・
老齢・虚弱などで医療を必要とする状態にあったO それが知られるよう
になったのもランセット誌の開拓者的仕事を通じてであった01867年12
月の救貧法の改正法は首都救貧法と同様な原則を全国に通用したO それ
以来、中央当局は地方労役場の改革運動を遂行するに至ったO 救済委員
会が改善を拒否した場合、一定日以後の閉鎖を命じ連合の解散をせまり
さえした。それ以後の労役場診療所の歴史は徐々にではあるが、継続的
に発達していくことになったのである。
かくて大多数の極貧の人々には労役場診療所は次第に求援抑制の作用
をしなくなった。しかし単にそれのみにはとどまらなかった。公立病院
生成に関してさらに重要なことはその対象の拡大であったO首都救貧法
では養育院は被救済貧民のみが使用すべきことを要求していたO 支払う
余裕のある患者の対策は地区当局の受持であったO しかし多くの地区当
局は義務を果たさなかったのであるOそこで1871∼72年の天然痘流行の際、
首都養育院局の病院は救貧税により運営されていたにも拘らず、被救済
貧民以外の人々をも収容するに至った。患者の%以上は収容の際、被救
済貧民でなかった(ご)しかも多くは救助官の命令書なしに認められたので
あった。これらの展開はもちろん法の規定するところでもなかったし、
「救貧法の全哲学」とも相いれなかった。しかし首都養育院局は事態を
冷静にうけとめ、病院の入院者を被救済貧民よりも患者として処遇する
ことに決定したのである(≡)また救貧法診療所は特殊な任意制度を有する
大都市以外では性病・熱痛・産裾熱・丹毒・はしか・百日咳の如き類の
患者収容の唯一の場所となったO篤志病院がある場合ですら、入院期間
-20-
英国における医療保障の起源(樫原)
の制限、あるいは待機リストなどにより、医療救済は不十分なものであ
ったため、自然に救貧法診療所に依存することとなった。世紀の半ばに
おける労役場の状況が如何に不快なものであったにせよ、70年代の始め
までにはより魅力的なものへと変遷していったJ
70年代以後、病院の医療を求める急性患者の数は着実に増加していっ
たO それは戸外救済を拒否された被救済貧民ばかりでなく、被救済貧民
以上の人々によっても利用されたO そのため旧い施設の多くは慢性病患
者のために留保され、他方労役場や病院がその他に建設された。ハマー
スミスのフルハム労役場、ロンドン市のハックネィ労役場、聖タレメン
ト労役場及びグリーニッチの旧い病院はすべで慢性病患者の受入れのた
めの施設となったO
ところで設備のよい診療所への入院の需要の増加は患者選択のある種
の制度を必要とした。医療監督者たちは急性痛患者を欲していた。これ
が彼らが教育病院において治療訓練を受けた患者の型であった。監督者
の急性病院患者選好の理由の一つは医師の訓練参加の希望であった。首
都救貧法の第29条には労役場は医療教育に使用してもよいと規定されて
いた(この条項は1869年の改正法20条により廃止されただ)これにより在
来の診療所 (infirmary)は病院(Hospitalあるいはseparateinfirmary)と診療所に分化し始めた。救貧法病院(Hospital=separateinfimary)は急性病患者のものであり、労役場診療所はそれ
以外のものの収容施設となるに至った(㌘診療所への教育の導入は医療の
水準を向上させた。それにより良質の医師及び看護婦の募集も可能とな
った。篤志病院、殊に教育病院とせりあおうとする欲求から発生した急
性病患者への集中ま診療所の幾らかのものの性格を根底から変更した聖)
かくて、「1834年原則には知られなかった救貧法行政の病院部門と後に正
式に呼ばれたもの」が姿容をあらわし始める聖初歩の病院サービスが労
-21-
英国における医療保障の起源(樫原)
役場の中で徐々に発展し、.その結果、一部では救貧法検査官がr国立病
院」と呼び始めたものに変形しつつあった。救貧法当局(後の地方行政
庁も含めて)は次々、に回状を出し、前30年間の政策は捨てるべきこと、
病気であると判明した救貧法施設の収容者の粛ま劣等処遇の原則とかか
わりなく彼らの健康回復に最も好都合な方法で処遇すべきことを600の
貧民救済委員会に理解させようと絶えず努力したのであった(!心
と、ころで救貧法庁時代のいま一つの救貧法医療サービスに影響を及ぼ
したものは看護婦制度の確立であった。看護婦制度の進歩は救貧法診療
所の進化と関連していた。児童・老齢者・虚弱者・不治の病人・精神異
常者の状況改善は看護婦を以前の無能・自堕落な被救済貧民の代用看護
婦を正規の訓練を受けた熟練した高潔な看護婦に変更することに大いに
依存した。
病院の看護制度の改革はナイチンゲール(Florence Nightingale)
の貢献による。もちろん、改革の企てはクリミア戦争以前から行なわれ
ていた。1848年には病院の看護婦を訓練するために、英国教会のメンバー
たちは St.JohnHouseNurSingInstituteを創設した。この協会がク
リミア戦争中そのサービスをはじめて提供したのである01856年には
Kings College Hospitalのすべての看護がこの協会に委託された。
1855年、リノヾ-プールは看護婦訓練のための最初の組織を設立した。そ
してRoyalinfirmaryはそのメンバーの教育のために病疎に入る許可
を与えたのであるO そして同年有名なナイティ.ンゲール・ファンド(Ni一
ghtingale Fund)がRoyalの後援のもとに創設されたO さらに新しい
看護婦訓練学校が1860年に開設されて、St.Thomas Hospitalに合併さ
れたO ナイティンゲールはその規則を作成し、コンサルタントとして活
躍した。この学校から現代の看護婦制度が生じたのである(讐
以上要するに、1847年ことに60年代以後の医療制度の進歩と病院制度
-22-
英国における医療保障の起源(樫原)
の生成は理論的にも実際的にも劣等処遇の原則と矛盾していた。すでに
それらは被救済貧民階級以上の患者をひきつけつつあった。そして、も
しその慣習に正式の認可か与えられるとするならば1834年原則に何が残
るであろうか?その意味でこの時期の発展は約80年後の医療保障制度の
起源であり、最初のステップであったといわねばならない。
〔注〕(1)Hodgkinson,ibid,.P.159
(2)1bid,P.175.
(3)その調査によると、聖パンクラス労役場は1846年よりも 300名も多く
収容していたけれども、新しい建物は150人のベッドしか追加されなか
たO 男子用の治療棟は一人あたり570-650立方フィートの121部屋、女
子用の6棟は600-650立方フィートの151部屋であった。ジョーンズに
よると外科専門学校は患者一人あたり800立方フィート以下の病室は通
風がよくても患者に有害であるので、医学校として認められなかったと
いう。すべての棟は悪臭のある不快な雰囲気があり、換気施設は全く使
用されず、手入れもされていゑかったO最も不健康な部屋は埋葬地に隣
接していた。この事情は他の労役場でも一般に同様なものであった。
(Hodgkinsonibid.,PP.453-455.)
(4)Ibid.,P.466.
(5)IbidリP.467、
(6)Ibid.,P、500.
(7)BrianAbel-Smith,TheHospitals,1800-1948,1964,P.122
(8)Abel-Smith,ibid.,P.123.
(9)Ibid.,PP.205-209.
(10 Hodgkinson,ibid.,P.545.
(11)Abel-Smith,ibid.,P.209.
㈹ S&BWebb,EnglishIもor LawHistory,PartII.Vol.I,1929,
P.320.
(13 この光と首都救貧法病院の被救済貧民でない入院者数(%)と一致す
る。偶然の一致ではないと考えられるが、明確な証拠はない。
(14)Webb,ibid.,PP.320-321.
ただロンドン以外の診療所では1905年頃でも1865年以前と同様な労役
-23-
英国における医療保障の起源(樫原)
場も多かった。(Reportof RoyalCommissiononPoorLaws1905∼
1909,(Majority)PP.244∼5参照)
(19 Hodgkinson,ibid.,P.557.
5.救貧法と公衆衛生サービス
「疾病の病理学は初期産業組織の時代の新研究であった振れは救貧
法医療救済とともに展開した。予防由公衆衛生サービスは原子論的社会
観の彗こ芽ばえた救貧法自体に内在していたのである0そしてこの両者
が予防及び治療の両医療制度確立への道を準備していった。従ってそれ
は20世紀福祉国家への先駆者であった。
経済制度の変化は単純な競争的自由主義信条からの離脱を要求してい
たO社会的側面からは伝統的貴族主義的観念のもとに生まれた「二つの
国民Jの間に存する深淵-貴族主義的衛生観念にもとづき富裕階級は
居住する場所の相違を当然と考え、貧民地区に目をつぶり、ためにその相
違は目をおおうべきものであった-をうめる方策が必要とされた。こ
れを譲者に認識せしめる連動を行なったのが、一方においてはチャーティ
ズムの社会運動としての側面であった(ぎ)そしてもう一方の重要な役割を
果したのがエドウィン・チャドウィック(Edwin Chadwick)を中心と
する公衆衛生立法の推進者たちであった。彼は救貧法の求援抑制政策の
推進者として出発したが、経済制度が創り出す不安定をカバーする市民
的及び個人的福祉の最低基準確立の変遷過程へのイニシアティブをとっ
たのも彼の調査や著述を通じてであった。彼が救貧法運営にたずさわっ
たとき、.被救済貧民、疾病、非衛生的状態の相互関係を考慮しはじめて
いた。彼は救貧法の基礎となった貧困罪悪説を信奉していたにも拘らず、
環境状態が堕落の決定的要因であることを自覚し、労働者の非衛生的状
態は経済の進歩に決して有利に作用するものではないと信じはじめてい
-24-
英国における医療保障の起源(樫原)
た。この思想が基底となって公衆衛生の問題が発生したのである。
ところで予防原理の社会問題への適用は新しい型の活動を必然化した。
自由放任主義からの離脱、科学的調査、統計の使用、強力な中央集権化、
腐敗した地方自治体及び教区の蒙昧主義に対する統制が要求された。他
方、医療科学及び衛生技術は次第に発展し、専門家のサービスを必要と
するに至った。チャドウィックがあらゆる時代を通じて最大の社会改革
家の一人となりえたのは、彼がこのような変化の必要性の認識にもとづ
いた「新しい理想と新しい方法」を有したためであった(ぎ)しかしそれは
突然生じたものではない。チャドウイックの師であるベンザムは20年代
にその憲法論において保健大臣及び予防サービス大臣を要求していたの
である。
それゆえ「衛生思想」(SanitaryIdea)は社会進歩を背景として、
チャドウィックとともに科学的な形態にまで高められていった。ベンザ
ムとロバート・オウェンは全国的な健康及び建設的社会進化の基礎をき
ずいていた。ただ英国急進主義の父は医学の知識なしに社会の医師たる
ことを欲したのである(空)従って、チャドウィックの転換と社会立法によ
り行なわれた方向づけは気まぐれではなかったOLかしそれですべて解決
したわけではなかった。以後の歴史が示すであろうように、この後も依
然として救貧法医療サービスと公衆衛生運動は-一体化することはなかっ
た。救貧法医療サービスの目的は疾病の治療であり、その対象は被救済
貧民であった。公衆衛生運動は予防を目的としていたO ベンサム学徒た
ちは公共保健法を作ったが、公共医療法は作らなかった管)この意味で
彼らが依然としてその偏見に忠実であったことを知りうるであろう。
1830年頃にはコレラが猛威をふるったが、1837年から38年にかけてイ
ンフルエンザと腸チブスの流行がロンドンを荒れ狂っていた。チャドウ
イックはこの機会をのがきず、救貧法委員会に調査を要請したのであっ
-25-
英国における医療保障の・起源(樫原)
た。その結果、NeilArnott,J,Kay-ShuttleworthとSouthwood
-Smithがロンドンの熱病地域を特別調査するために任命されたO この
調査には二名の医師が数地区を訪問したのみならず、彼らは多くの貧民
救済委員会、医師とも相談したO 多くの情報は救貧法医務官のレポート
から集めれれたO 医務官は熱痛について二種類の原因を認めた。第一は
貧民の習慣とは独立に生ずるもの-下水、衛生施設、人口欄密地区の
公設屠殺場、狭い地域の換気の欠如など。第二はかなりの程度彼ら自身
の習慣に帰因するもの-家の不潔、過大な居住人などOこれらの弊害に対
しては時々の地方当局により不規則的に除去の努力が行なわれたOLかし
その実施には大抵は法的認可とか費用の承認を要したため、必然的に不
十分なものであった(舎)
三人の医療専門家のショッキングな報告は中流、上流階級の間に憤激
をまきおこしたO それはさらにチャドウイックを一層の調査へとかりた
てていったO それゆえ調査の扇動が彼の最初の公的活動であったO それ
により、彼は英国公衆衛生サービス運動の始祖としての地位を確保した
のである(Z)
チャドウイックは不健康の原因の調査のために司教のプロムフィール
ドをして上院を動かしめたO この調査には補助委員・貧民政済委員・救
貧法職員が従事し、彼自身も二年の歳月を費やしたO その報告書がチャ
ドウ!ツクの筆になる有名な「大ブリテンの労働住民の衛生状態に関す
る報告書』(Report on the SanitaryCondition ofI.abouringPopula・tion of GreatBritain1842)であった。 それは福祉国家の発展段
階を示す報告書として、18軍年、1恥9年の王立委員会報告の中間に位す
る重要な報告であったOさらにそれは米国にも影響を及ぼし、ニューヨー
クでも同者の報告書が発表されるに至った空)その後種々の調査が行なわ
れ悪環境の中にいるものの状態が次第に明らかにされていった。1843年
-26-
英国における医凍保障の起源(樫原)
には彼は大都市の埋葬制度について第二の報告書を追加した。これらの
レポートの結果、英国政府は都市保健委員会(Health of Towns C0mmission)を任命した。チャドウィックはメンバーではなかったが、
実質的には彼が受け持ったのであった01844年に発表された報告書には
独創的な特殊な提案がなされていた。こういう政治的な運動の結果が
1848年の公衆衛生立法となるO
立法の形成過程は次の如くである。メルポーン(Melbourne)内閣は
1841年に上院に建物規制法案と非常に改革的な下水法案を提出していたO
後者は委員会の審議過程で都市改良法案(BoroughImprovementBill)
と建築物下水法案(Drainage of BuildingBill)に分かれた。しかしこの法
案は同年の政府の倒壊により成功しなかった01845年にはリンカン(Lincoln)も一法案を提出したOリンカン法案は内務省を中央当局とし、
内務省長官に検査官任命の権限を与えるものであったO この方法は都市
保健協会(th。H。alth。fTムwnsAss。Ciati。n)などから支持を受け
たにも拘らず、1846年6月のピール保守党内閣の崩壊のため前進しなか
ったO しかし議会は二つの有益な措置をとったO一つは『浴場及び洗場
法』(the Baths andWash-house Act)であり、他が『不潔物除去
法』(the Nuisance RemovalAct)であったO 後者は臨時法であり、
1848年にr不潔物除去及び疾病予防法』(theNuisance Removaland
Disea。。Prev。ntionAct)という永続的立法となった?)
公衆衛生法の最終の法案は1848年2月10日のモルペス(Morpeth)の
提案によるものである。この法案は若干の点で以前のものと異なってい
たが、救貧法委月会をモデルにした中央当局の創設という面では以前の
ものと同様であったO 従って問題は監督権限を有する中央当局設立の提
案であったO もちろん公衆衛生法自体に反対するものはなかった。大都
市の疾病と排水不良には議論の余地はなかった。しかし彼らに地方自治
一27-
英国における医療保障の起源(樫原)
をおかす別個の中央当局を作ることは耐え難いことであったO それは英
国的伝統とは無縁のフランス的原理と表現された(とゆ社会的行政的改革の
必要性を認める政治哲学を有していたベンザマイトですら、「政府は無
政府よりはより少い害であるとはいえ、それ自体r害」であるという理
論を保持した聖当時、中央政府統制は地方自治を侵害し、個人の自立を
侵害するという信条は広く支持されていたO ベンザムなきあとの指導的
哲学者であるJ・S・ミルも、政府干渉はそれ自体「悪」であるという信
条を捨ててはいなかった禦
しかし1848年には差し迫ったコレラの来襲に衛生対策は急務になって
おり、恐怖の衝撃のもとにあったO タイムズ紙によると、「中央集権は
轟であった」としても、「この場合代替物はより悪かった黒改革の必要
は地方でも認められたO その結果、中央集権化の問題は曖昧な妥協のま
ま大幅な譲歩をしてやっと通過したのである。
この法により3名のメンバーよりなる中央保健局が設立され、地方に
ついてはある種の権限と義務が付与された地方保健局が設立された。し
かしそれは限られた監督権限を有したに過ぎなかLつた。中央保健局は流
行病発生の際、「不潔物除去及び疾病予防法』にもとづき(枢密院の決
定による)、コレラの予防のため救済委月会及び都市審議会を組織する
ために検査官を送ることができた。しかしその権限は勧告のみにとどま
ったのである。それは救貧法委員会の如き権限をもつことはなかった。
そのため法は「最初の法案の形骸にすぎなかった聖ともいわれる。
それでも、ともかくも、これら一連の法により、貧民救済委員会は真
に公衆衛生の機関となり、大都市においては救貧法と公衆衛生の管理は
分割されたO殊に1848年法が二?の社会サービス機関の永続的な法的分
離をもたらした意義は大であった。救貧法医務官により始められた国家
医療サービスの成長は公衆衛生法による保健医務官(MedicalOfficers
-28-
英国における医療保障の起源(樫原)
。fH。alth)の創設とともに確保せられた。救貧法は費用削減を目的と
した求援抑制型であった。それに比し、公衆衛生運動は予防に重点をお
き、多額の出を伴うため、救貧法原則とは表面上一致しなかった。
ところで、新公衆衛生機関は6年以上継続することはなかった。さな
がら新しい時代の到来を画するように思われたこの法律も1854年には反
中央集権の勢力の台頭とともに崩壊してしまったのである。1854年に廃
止されて以来、両者のサービスの改革の道は次第に離れていった。医務
官は新保健医務官と全く別個の職務上の地位にあった。彼らは時には協
議したけれども、間接的にのみ、そして無意識的にのみ盟友であるにす
ぎなかった。その結果、1867年頃には救貧法と公衆衛生サービスの医療
及び衛生分野における雲複は両サービスの効率的運営を阻害する傾向が
あったO行政的無秩序はあらゆるところに存した。公衆衛生局は変則的
な地位にあったのみならず、その機能は救貧法庁のそれと統合されてい
た。それゆえ多くの医師及び改革者たちは両者を統合せしめ-救貧法
上の義務を公衆衛生サービスに会同せしめ-すべての医療上の問題と
困窮との関係を断絶することを要請していた禦
1866年、67年に救貧法が改正され、また1866年にも衛生法(San,it8ry Act)が実施されたけれども、救貧法-公衆衛生の問題について
の改革者たちの声は無視されていた。そのため法と当局との錯雑は耐え
難いところまできていた。最初の抗議は医療従事者からであった。英国医
学協会と社会科学協会の合同委貞会が王立委員会の設置の請願書を政府
に提出するに至った。彼らは公衆衛生統計の編纂、衛生諸法の施行と管
理、諸法の改正統合に関する調査を行なrうことを望んでい.たのである。そ
の結果、69年に王立衛生委員会(Royal Sanitary Co汀mission)が任
命され、調査を行なった。その報告は地方当局の税率の無秩序をあばき、
中央の完全な混乱を指摘し、統合することを勧告した。それによると救
-29一
英国における医療保障の起源(樫原)
貧法医療サービスと公衆衛生サービスは衛生及び予防の目的のための単
一税により運営される医療サービスに統合されるべきであった(㌘
報告書は異議なく承認され、政府にも受け入れられた。しかし実際に
形成されたものはチャドウィックの後継者であるサイモン脚(JohnSト
mon)が扇動した如き保健省の案に右うものではなかった。議会では
多くの立法を如何にして一時に通過せしめるかという古くからの問題が
再び発生した。その打開策として政府が考えたのはまず組織の骨格(frame sheet)を作ることであった。 その時果導入されたのが地方行政
庁(Local Government Board)制度であった。 その計画は単に
中央の保健責任を集中し、衛生改革の残余の仕事を議会と新中央機構の
指導者にゆだねるものであった。以前、独自に活躍していたすべての他
の局や救貧法庁を吸収してはしまったが、他方では資産階級の中央集権
に対する恐怖はその組織上の形態以外はすべての公衆衛生法を奪い去り
省かれた条項は1875年まで実施されなかったO環境衛生の補助的な政策
は発展せしめられなかったし、公衆衛生の戦いは技術的な仕事にとどま
らねばならなかった禦
1871年の地方行政庁法は王立委員会の勧告履行の第一立疲段階であっ
たO それは英国衛生国家の根本的変化をもたらすに必要なものの出発点
にすぎなかった。
次の特記すべき発展は1875年の有名な衛生法である。この法の準備過
程は医師の扇動と、『健康の健康j(Sanitas Sanitatum omnia sanitas)を標楊するデイスレイリーの教唆のもとに、1869年に行なわれた
王立衛生委員会の調査に始まるO その結果が1872年及び1875年の公衆衛
生法として結失したのである。殊に1875年法はディスレィリーが首相時代
代に達成された偉大な統合法であった。この法は71年及び72年にも延期
された立法の多くを含んだためのみならず、新法が統合すべく目論んだ
-30-
英国における医療保障の起源(樫原)
過去の法の一掃のゆえに印象的であった。すなわち、1848年、59年、72
年の公衆衛生法、66年、68年、70年の衛生法、不潔物除去法、下水利用
法など。この法により以後のすべての発展が行なわれることとなった。
この法により衛生当局のサービスが全国的に-都市では自治体当局、
田舎の地域では1889年の州参事会(county council)・の設立まで他の
行政機構の欠如のため救貧法組合により-確立された。また、すべて
の地域で保健医務官及び衛生検査官が任命されることとなった。1869年
の王立委員会の言によると、その指導原理は「中央監督下の地方管理」
であった。しかしすべてが理想的というにはほど遠かった。王立委員会は
両部門にそれぞれの長官-公衆衛生部門及び貧民救済部門に-が必
要であると考えていた。実際には指導原理も機構もサイモン卿が望んだ
ようにはならなかった。1871年にサイモン脚は少数の医療姓をひきいる
医務官として就任したが、その地位は決しそ満足なものではなかった。
枢密院の保健責任と救貧法の行政の統合の結果、政策の統制は用心深い
救貧法官吏の手に委ねられ、公衆衛生は二次的な地位にあった。しかも
国家の衛生政策を指揮する救貧法官吏は効率的というにはほど遠かった。
初代の地方行政庁の長官のスタンス7ェルド(James Stansfeld)は
国民の医療面のニードIと全く無知であり、そのため彼はその助言をサイ
モン脚ではなく、ランバート(John Lambert・・・・・・古い救貧法のアドバ
イサー)に依頼した。当然の帰結として地方行政庁は死滅せる救貧法庁
の馬鹿らしい輪郭にもとづき組織され′たのである空の
しかし、それでも「この国におけるすべての都市はこの公衆衛生法の
どこかに含まれている規定のもとに生活するのに適した場所になったP
といわれることから知られるごとく、それは19世紀の最大の立法となら
た。欧州のいかなる国にも75年の公衆衛生法に比較しうるものはなかっ
たのであるこ こうして曲りなりにも一応チャドウイックの目的は達成さ
一31-
英国における医療保障の起源(樫原)
れた。
かくて、保健医務官は全国的に現実に任命されるようになり、また、
死亡原因証明書に医師の署名を命じた1874年のr登録法」(RegistrationAct)と1875年法にもとづきコレラで始まった流行病の強制的告知
により、疾病発生に関する知識は深化していっ,た。この告知は1889年の
r疾病告知法J(Notification of DiseaSeS Act)によって継続され
た。医務官自体も特別の訓龍を受けねばならなかった。1870年には最初
l
の公衆衛生の免印が交付され、1888年には公衆衛生サービスにかかる
免許を義務づけたのである。さらに、80年代及び90年代には遂に細菌学
者の偉大な発見か行なわれ、それがさらに予防と免疫への道を準備して
いったのである空け
以上の発展過程において、チャドウイックは敷革法と公衆衛生の間の
最初の絆となった。彼は_社会を原子論的に考えながら、他方では個人は無
力であり、集団的行動を必要と考えた。さらに物質的な環境の重要性を
信じ、有給の専門家を、個人よりも共同社会を、より高度な経済学の一
部として衛生思想-国民の健康は国民の富-を信じた。
彼は救貧法当局にはしばらくしかいなかったが、36年もの間、多くの社
会衛生問題の著作に従事し、学究的な協会に参加した。'こういう中央政
府とか、統計的探求とかへの信条が、彼を20世紀に生まれくるはずの福
祉国家の予言者にせしめたのである。彼は病院、収容所、異なる貧民階
級を収容する別個の施設を建設することを望んだ。さらに木のブロック
による道路の舗装、塵芥処理のための水上輸送、災害に対する雇用者責
任、公韓の施設を要求した。年金の現代的制度も彼の著述の中に輪郭が
描かれていたという。国家の求援抑制政策が積極的な予防策に席をゆず
ったのは一面では彼の先駆者的仕事の貢献によるところ大であった望1)彼
は決して評判のよい人間ではなかったが、その歴史において彼に重要な
-32-
英国における医療保障の起源(樫原)
地位を与えることは彼が福祉国家の先駆者であることを示すであろう。
〔注〕(1)Hodgkinson,ibid・,P・620・
(2)チャーテイズムの社会運動の側面については、小川喜一著
「イギリス国営医療事業の成立過程に関する研究」44頁参照
(3X4)Hodgkinson,ibid.,P.621.
(5)HarryEckstein,高須裕三訳「医療保障」17頁
(6)Hodgkinson,ibid.,P.623.
(7)JohnDuffy,Introduction to the SanitaryReport of1842.P.6.
(SocialWelfarein transition,1834-1909.1966.に所収)
(8)Duffy,ibid.,P.9.
(10 J.L.Hammondand Barbara Hammond,The Age of the Chartist,
1832-1854・AStudyof Discontent,1930,1967ed・PP・297∼298・
(10 HamTnOnd,ibid.,PP.302∼303.
(11)David声oberts,VictorianOrigins of theBritishWelfareStateT
1960,P.1(泊.
(1カ ミルはその著『経済学原理」の政府領域の限界についての章のなかで、
「……大抵の仕事についていえば、最も利害関係を多く有する私人がこ
れをなす場合に比ぶれば、政府の干渉による場合は成績が劣るものであ
るJと言う。(J・S・Mill,Principlesof PoliticalEconomy,1848.
戸田正男訳、経済学原理.5巻.252頁)
(13)Harrmond,ibid.,P.303.
(1㊥ チャドウィックが憤慨して、キャンベル卿に告げた言葉(Roberts,
ibid.,P.85.
(15)Hqdgkinson,ibid・,PP・669-670・
(16)Ibid.,P.676.
(17)Jeanne L.Brand,Doctors and the State,1965.P.14.;Hodgkinson,
ibid.,P.677
(1g)Brand・,ibid.,PP.24-25.
(19榊Maurice BruCe,TheComing of theWelfare State,1961.P.114.
位1)Hodgkinson,ibid.,P.640.
-33-
英国における医療保障の起源(樫原)
6.篇 び
1834年の改正救貧法には医療についてごく短い規定があっただけで、
全く無視されているに等しかった。だが以後は医療救済の量においても、
また質の改善についても顕著な進歩がみられた。しかしそれは救貧法と
の関連においてであり、この関連において発展したのが英国の特質であ
\
ったO この発展を通じて、疾病者の医療救済に対する劣等処遇の原則の
適用は次第に放棄せられるに至った。
この転換点が1847年であり、その具体的なあらわれが一般統合令と中
央当局の変化であったO この年以後、1834年原則は次第に放棄されてい
った。ヴィクトリア立法の冷厳な役人風とその根底をなす19世紀の倫理
観は依然として続いたが、ヒューマニイチイの感情は考える一般大衆の
中に浸透していった。
1834年から71年までに18もの救貧法の改正法が通過したが、最初の組
織的な病院制度を導入した67年の首都救貧法以外には医療に関するもの
はなかったO 医療保障の生成は法よりも実践の成果であったO まず救貧
一
法医琴官であるO彼らは自身の努力により次第に社会的ならびに医療分
野におけ・る地位を向上せしめていった。幸運にも彼らは救貧法行政に完
全に吸収されなかった。かくて医師と国家がはじめて協同したのは救貧
法医療の発展においてであったO また救貧法医務官が相互に職業的連絡
を維持したために、他の医師とか医師協会も彼らを援助した。従って自
由放任原則の崩壊に際して、一面では19世紀の医療専門家は重要な役割
を果たしたのである。
救貧法との関連において特に重要なのは公衆衛生の問題であるO救貧
、法の居宅医療は公衆衛生対策を含めずしては十分ではない。救済委員は
疾病を予防する力も意向もなかった。しかし1838年以後の諸調査の結果、
-34一
英国における医療保障の起源(樫原)
公衆衛生改革の必要性が叫ばれるに至り、医療救済と公衆衛生対策を結
合する機運が次第に芽ばえていった。1948年には公衆衛生法が制定され
地区医務官とは別に保健医務官制度が定められたのであるO その後多く
の医師及び改革者たちはこの両職務を統合し、もって医療問題と窮乏と
の関係をたち切るべきであると考えていたO現実には1867-71年の委員
会は救貧法と公衆衛生を分離せしめた。その後1872年及び殊に75年の衛
生法以後、新しい時代へと移っていたO環境弊害の除去とか、疾病の防
衛、健康維持の貴低条件にかかわっていた衛生観念は健康の増進、肉体
的・精神的・道徳的に健康な市民の養成という綜合的積極的計画に次第
に席を譲っていったのであるO
ところで、1867年の首都救貧法は改革のための高水標であった。その
目的は労役場の収容者に新分類原理を適用することにより、制度的条件
及び運営体制を中和することであったO 児童は労役場から排除され、精
神病患者は別の地域または棟に移され、伝染病患者も家庭から労役場に
移され、後には一時的隔離病舎も作られたO こうして次第に診療所と病
院が分化され、救貧法病院は篤志病院を上回る痛院になっていったO こ
ういう首都の状況は徐々に地方にも広がっていった01871年以後には首
都及びその周辺地城ではディケンズの記述は院内医療に対してはあては
まらなくなっていた0
1871年頃には求援抑制の原則は医療救済に関しては消失しつつあった。
ウェッブは後年、救貧法医療救済を非難して、「救貧法は窮乏が始まる
まで得たねばならなかったので、町でも田舎でも同様、疾病者に関して
は失敗であった㌣)と述べている。しかしホジキンソンによると、これは
部分的にしか正しいとはいえないこととなる。というのは適格性の問題
は決して満足に解決されることはなかったけれども、1871年頃には私的
な診療を受けえなかったものは、必ずしも厳密な意味の困窮者ではなく
-35-
英回における医療保障の起源(樫原)
とも、一般的に医療救済が与えられたのである。ただ、この時期には彼
らは治療を受けている間は依然として法律上、被救済貧民として分類さ
れており、また救貧法医療救済にたよることにより、性格の破壊や自身
の扶養の努力をしなくなるものもあったのは事実といわれる(ぎ)
医療救済に関する求援抑制原理の消滅は、1870年以後さらに明確とな
る。ほんらい被救済貧民のみの収容を目的とした首都養育院は無料で被
救済貧民以外の天然痘及び熱痛患者によっで使用されるに至った。1875
年には地方行政庁は命令なしに天然痘及び熱病患者を収容する権限を医
療監督官に与えたのである(ヨ)それでも、1877年には地方行政庁は「首都
養育院局……の…=・病院は本来は窮乏階級の要求を認めることを意図し
たものであり、救貧法救済を要しない人々……を認めるのは全く例外で
ぁる与)という線を表面上維持していたO Lかし1878年には地万行政庁は
多くの人々にとって、救算法病院の医療は「彼らの医療面の必要を十分に
満たしうる唯一の方式である空)と認め、5年後の1883年には疾病予防法
(Diseases Prevention Act)は貧民救済の問題なしに病院への収容を
法制化した。さらに1887年には危急ではない場合ですら開業医の証明に
ょり収容が認められたのである(タ)
その間、1885年にはより重大な法律が通過したO これまで救貧法によ
るいかなる形態の救済も選挙権を奪っていたO医療のみを受ける場合も
同様であったのであるOこの選挙資格喪失は都市の労働者に投票権が拡大
された1867年まではたいした問題ではなかったのであるO しかし1884年
に農村地区の労働者に投票権が拡大されたとき、重大問題となるに至っ
たO その結果、1885年にあまり体裁のよくない『医療救済資格喪失除去
法」(Medical Relief Disqualification Removal Act)が通過し
たのである。かくして医療救済のみは投票者の資格を奪うことはなくな
った。従ってそれは国家の援助を受ける者の選挙資格の喪失を除去する
一36-
英国における医療の保障の起源(樫原)
方向への第一歩となったのであるワ)
こうして次第に救貧法医療は体系的となり、極めて徐々にではあった
が、全国的なものへ広がりつつあった。その一方ではより広汎な範囲で、
ビィクトリア時代の独立労働者による医療保険あるいは慈善運動があっ
たO だがその医療面の成長は国営のものに比してはるかに遅れていた。
友愛組合は疾病に関する任意保険団体としてその全回的規模においては
るかに広大であり、保険的形態を助長する面で国民保険に重大な影響を
及ぼしたが、労働者階級の大多数に対する実際の医療の面では全く不十
分・不完全であった。1909年の王立委月会報告が、19世紀の終りにいか
に多くのなさるべきことが残されていたかを示したのは当然であった。
しかし救貧法面の成長を認めないがごとき批判は一面では当を失すると
考えられる。救貧法は貧民が独力で獲得しうる以上のはるかに優れた医
療を与えていた。
1834年には有効な公衆衛生、教育、精神病及び警察当局は存在しなか
った。また老齢者に対する年金制度もなかった。これらの施設の欠如が
救貧法当局の直接介入を不可避ならしめたO救貧法は社会サービスのあ
らゆるものを包含する機関であった。20世紀の英国福祉国家の立法の多
くは救貧法の遺漏から発生した。ベンザムの高弟であるチャドウイック
らの有名な先駆者たちは長く認められないまま、その是正のため異なる
社会経済哲学と闘い、苦難の道を歩まねばならなかった。そういう種々
の批判の中から生じた一つの成果が不統一な規則から医療サービスの綜
合的制度の進化であった。
チャドウイック以後、救貧法の非合理性を徹底的にあばき改革への道
を準備しょうとしたのが、フェビアン社会主義者であるウェッブである。
逆にいえば、チャドウイックほど後世の改革家でありフェビアン社会主
義者であるウェッブに似ていたものはないといわれが≡)チャドウイック
ー37-
英国における医療保障の起源(樫原)
の社会計画及び公共サービスの拡大の関心と浪費に対する不信感はフェ
ビアンによく似ていた。それはベンザムとフェビアンの顆似といってよ
い。ベンサムの方式は「最大多数の最大幸福であり」フェビアンのそれ
は「最大多数の最大効率であった」Oその類似は密接である9)より厳密に
は、個人主義的自由主蓑と民主的社会主義の明白な対立のために隠蔽さ
れてしまっているが、英国の集塵主義者たちはベンサム主挙に依存する
ところ大である.というのが正確であろう(望功利主義の名のもとに行政機
構を改革強化し、国家介入の余地を拡大することによって、ベンザム主
義者たちは(その信奉者の自由主義者も含めて)しらずしらずのうちに
社会主義者に最も必要とされる武器を鍛えていったのである。
しかし、類似性ゆえに両者の直接的継続性を主張するのは無理であろ
う。自由主義思想にも前期と後期では差があることは周知のところであ
る。19世紀の初期及び後期の主要な相違は後期の学者が国富の増加をは
かるために国家介入を容認し、富のより公正な分配を要請したことにあ
った。そしてこれらの初期の原子論的自由放任主義的思想と後期の自由
主義的国家介入思想との橋渡しをしたのが、19世紀後半の有力な哲学者
トマス・ヒル・グリーン(Thomas Hill Green)であった。彼の理想
主義的哲学は英国派の功利主義に対してその哲学的欠陥を是正したので
あった。それにより彼は自由主義思想家の間において社会主義への橋渡
しをしていったのである禦彼の考え方は個人及び社食的倫理の一体化に
あった。グリーンのアプローチは社会改革の観念に多くの支援を与える
こととなったのである。彼は「個人の健康のあらゆる危害はそれに関す
るかぎり、公共の危害である。それは一般的自由への障害である」と空の
こういう大きい思想の潮流は同時に国家と経済体制との間のこれまで
の関係を多くの面でゆるやかに変えっつあった。W・コートは1882年頃、
経済学者スタンリー・ジェポンスの小著とともに転換点に達したものと
-38-
英国における医療保障の起源(樫原)
考える(禦丁度その頃、1860年代よりの一段の医蝶救済の進化と魅療救済
資格喪失除去法』などの通過を背景に救貧法医療救済は体系的なものに
なりつつあった。従って、救貧法の意義はより多い程度において、医療
保障.との関連における福祉国家への連繋に見出されねばならないであろ
つ。
その後、友愛組合などによる疾病の偶然性に対処する労働者の自助の
努力と結合して、国家の保険をへて、国家の医療保障へと発展して行く。
19世紀の約半世紀にわたる医師たちの努力は今では完全に忘れられてし
まったO しかし彼らの40年代、50年代、60年代に輪郭を描いた改革は現
在の英国の政策の中にくみこまれている。以上の考察はNationalHealth Service が救貧法の医療サービスにその直接の根源を有すること
を証明するO
(注)(11(2)Hodgkinson,ibid.,P.694.
(3X4)Webb;EnglishPoor Law HistorylPartII,Vol.I P.325.
(5X7)Bruce,ibid.,P.103.
(6)Webb,ibid.,P.326.
(8)R.H.Tawney,TheWebbsinperSpeCtive,1953,P.7.
(9)M.Beer,AHIStOry Of BritishSoc ialism,Vol.IL1920.P.276
(10)A.V.Dicey,Law and Public Opinionin England,1914,P.303.
なお、ベンザミズムから集塵主義への立法面の移行については同書Lecture Ⅸに詳しいO ただし、その妥当性については一部後の学者により論
じられている。
(11)Mencher,ibid.,PP.178-182.
社会思想史研究会編、社会思想史10講、336頁。
㈹ Ibid.,P.181.
㈹ W.H.B.Court,AConciseEconmicHistory of Britain from1750.
to Recent Times,1954,荒井・天川訳、「イギリス近代経済史」296頁。
ジェポンスの著書はW.S.Jevons,The StateinRela,tion to Labour
(1882)のことであるO この著作については別の機会にふれたい。
一39一
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