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ROSEリポジトリいばらき (茨城大学学術情報リポジトリ)
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美術鑑賞教育における美術作品の記述の問題
甲斐, 教行; 金子, 一夫
茨城大学教育学部紀要(教育総合)(増刊号): 85-95
2014
http://hdl.handle.net/10109/11997
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お問合せ先
茨城大学学術企画部学術情報課(図書館) 情報支援係
http://www.lib.ibaraki.ac.jp/toiawase/toiawase.html
茨城大学教育学部紀要(教育総合)増刊号(2014)85 - 95
美術鑑賞教育における美術作品の記述の問題
甲斐教行 *・金子一夫 **
(2014 年 8 月 8 日 受理)
Description about Fine-Arts Works in Art Appreciation Education
Noriyuki KAI * and Kazuo KANEKO **
(Received August 8 , 2014)
Abstract
1 本稿の目的
多くの鑑賞及び鑑賞教育方法論は,当然ではあろうが作品をよく見る段階を最初に置く。昭和
60 年に理論的な鑑賞教育方法論を提案した川上実は,西欧の美術史研究の碩学を参照して鑑賞
過程を「観察―分析―解釈」という「三分肢」で捉えた 1)。川上の言う「観察」段階の内実は「自
然な観察と『記述』」,すなわち自然な観察によって作品を記述することである。「自然な」とは,
予断を持たずに「無批判的な」との意味である。また,平成5年に鑑賞学を提唱した吉川登も「見
る」「知る」「考える」という三段階で「見る」段階を最初に置く 2)。吉川も「見る」には一種の
訓練が必要であるとし,「見る」をさらに「直観」「分析」「統合」の三段階に分け,それぞれで
の視覚経験を正確な言葉で記述することを要求する。つまり,両者の「観察」「見る」は言語記
述を伴う「観察」する,「見る」である。
この「観察」「見る」に伴う記述は,簡単なようで理論的にも実践的にも検討すべき問題が次々
と発生する。まず作品の何をどのように記述すべきなのかという理論的課題がある。また,鑑賞
教育が対象とする児童生徒の様々な齢段階によって「自然な観察」と「記述」内容,及び程度は
違うはずである。それはどのように設定できるのであろうか。また,実践してみると,大学生で
あっても言語記述の指導の必要を感じる。しかし,言語記述の指導といっても,美術作品の鑑賞
教育におけるそれは鑑賞のための手段であって,国語教育での目的としての鑑賞文指導とは違う
はずである。そうであれば美術鑑賞教育での言語記述指導は,どうあるべきかが検討課題となる。
本稿は,美術鑑賞教育での作品記述に関して発生する様々な問題を検討する。そこで川上実と吉
*茨城大学教育学部西洋美術史研究室(〒 310-8512 水戸市文京 2-1-1; Laboratory of Western History of
Art, College of Education, Ibaraki University, Mito 310-8512 Japan)
**茨城大学教育学部美術科教育研究室(〒 310-8512 水戸市文京 2-1-1;Laboratory of Art Education, College
of Education, Ibaraki University, Mito 310-8512 Japan)
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茨城大学教育学部紀要(教育総合)増刊号 (2014)
川登において鑑賞過程における作品の言語記述がどのように捉えられているかを見,他の鑑賞教
育研究との関係を考察したい。なぜ,川上と吉川なのかといえば,両者が理論的に検討できる体
系性を持っているからである。
2 先行研究と問題の所在
昭和 60 年に出版された山本正男監修『美術教育学研究』叢書の第2巻『美術教育の方法』に
おいて,同巻編者である川上実は「鑑賞―その構造について」を発表した。それまでの日本でも
戦前には大正期の原貫之助や大竹拙三が今日でも通用する鑑賞教育方法論を提唱,実践した 3)。
戦後には岡田清や野島光洋といった優れた鑑賞教育方法論の提案があった。それゆえ,最近の
鑑賞教育論が自説の意義証明として発する,以前の鑑賞教育が美術史的な知識を伝授するもので
あったという言説は美術教育史的には疑問である。ただ,戦後初期の文部省の鑑賞資料解説が全
く美術史的説明であったので 4),そのような誤解を生んだのかもしれない。そして,原貫之助か
ら野島光洋に至るまで優れてはいても,彼らの主張が直観的な実践方法の提案にとどまり,理論
的な議論をするものではなかったのも事実である。
それに対して,川上はドイツ及びアメリカの先行研究を検討し,鑑賞過程の段階とその内実の
問題を理論的に示した。これによって日本の鑑賞教育研究は理論的,あるいは方法論的展開を可
能にする基礎を得たと言えよう。本稿著者の一人である金子の「美術の方法論の理解を目的とす
る鑑賞教育(1)~(7)」も,その流れにある 5)。
平成5年に発表された吉川登の鑑賞学は,前述のように「見る」「知る」「考える」という三段
階を設定し,さらに「見る」段階を「直観」「分析」「統合」の三段階に細分する。この最初の見
る段階を三区分して暫定的なまとまりを与えたことが,吉川の理論的功績であると判断する。川
上の「自然な観察」では,まだ前段階的性格が免れない。川上実が方法的に括弧にいれていた「初
動印象」を「直観」としてきちんと段階設定したことは特筆される。既に鑑賞実践で「初発の感想」
といった名称でなされていたと言う声があるかもしれない。しかし,全体を構成する明確な一段
階として位置づけはなされていなかった。これによって,例えば有田洋子の一連の研究「キャッ
チフレーズによる仏像様式の鑑賞」6)は,この直観段階を精緻に追及したものであると,鑑賞教
育方法全の中に位置づけることができる。
また,「対話型」「対話式」「対話による」といった冠をつける美術鑑賞教育方法論は,論者に
よって主張に違いはあるものの,指導者と鑑賞者の「対話」という方法を自己の概念規定とする
のは共通している 7)。ただ今日,鑑賞教育以前に教師が児童生徒と対話しない授業は低次元であ
り,問題外であろう。また,美術史的知識を一方的に教授する鑑賞授業も,かなり特殊な事例で
ある。美術館のギャラリートークでも少なくなってきている。それゆえ,そのような授業やギャ
ラリートークとの比較で意義を主張しては,逆に意義を疑われてしまう。「対話型」鑑賞教育方
法に関する本当の論点は,指導者が前もって鑑賞授業の目標・内容を設定することの是非である。
対話型鑑賞教育論者は,教育内容が対話の過程で創出されるべきと主張する。ただ,優れた教師
は授業目標・内容を設定していても,対話等を通しながら鑑賞者があたかも自力で発見・獲得し
たかのようにできる。しかもパターン化された対話を通してではなく臨機応変の対話による。児
甲斐・金子:美術鑑賞教育における美術作品の記述の問題
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童生徒の能力を信じているからできる。このような授業も外見的には対話型鑑賞であるし,優れ
た授業である。前もって教育内容を設定しても,授業で主に活動するのが教師ではなく児童生徒
であれば,問題はないであろう。
逆にいわゆる対話型鑑賞教育の問題は,本来計画的である学校教育で教育内容が不明確・不安
定になることである。さらにより問題であるのは,参照すべき外部・基準である美術作品や歴史
に対する謙虚さを軽視し,自己基準と自己言及を児童生徒に過大視させることへの懸念である。
何事においても外部参照に徹した結果,自然に自己言及になったというのがあるべき姿であろう。
美術鑑賞教育における作品記述という方法も,川上の論文によって美術教育界へもたらされたと
言えよう。ただ,美術史教育においては,それ以前から作品記述は導入・実践されていたはずで
ある。最初に美術史教育における記述の意義はどのようにとらえられているかを見てから,両人
の記述について検討する。
3 美術史教育における記述の意義
美術史研究の手法として,Description「記述」と呼ばれる作業がある。造形芸術作品に表された
内容を,できるだけ主観を排した「客観的」な見地から記述することである。これは美術史の初学
の段階で学ぶ訓練に属し,欧米ならびに日本の大学の美術史教育の中で一般に取り入れられている
もので,その教育的性格上,「記述」の意義と方法論を正面から論じた研究は必ずしも多くない 8)。
そもそも造形芸術作品を言語によって描写する伝統は古代ギリシャから存在し,ホメーロス
の『イーリアス』におけるアキレウスの盾の描写( 18,483-607 )はよく知られている。このよ
うな描写はやがて古代末ギリシャの修辞学の中で,初学者の文章修業の手法のひとつである「エ
クフラシス」(明示する,の意の動詞「エクフラゼイン」より派生)として定義づけられていっ
た。しかしそれは例えば古代ローマの修辞学者クィンティリアヌスが『弁論家の教育』
( Institutio
Oratoria)(4, 2)で説くように,聴衆が語られている内容は真実であると信じるように言語内容を
視覚化するための手法であった。それは客観的な事物描写ではなく,聴衆に与える効果を目的とす
る点で,近代の美術作品の記述とは異なっていた 9)。他方,ルネサンス期に『美術家列伝』10) を
著したジョルジョ・ヴァザーリの各伝記には,しばしば当該の作品との齟齬や乖離が認められ,
著者が作品を実見していなかった場合があることも指摘されるが,今日のように写真や画集等が
存在していなかった当時に,そもそも客観的な記述の概念が存在したかどうかも疑わしい。
美術史教育における「記述」の意義は,視覚情報を言語情報に変換する作業により,正確かつ
網羅的な観察が義務づけられる点にまず求められる。私たちの眼は,何かを見ているようでいて
しばしば注意深い識別を行うことなく漂っていることが多い。もちろんそうした状態においても
色彩や構成の魅力を味わったり心地よさを感じることは可能である。しかし芸術鑑賞においては,
感覚的段階を超えた視覚内容の知的認識段階も重要である。私たちが見ているようで捉えていな
かった細部に何が表されているかという認識は,感覚的段階とは別種の作品理解の領域を開示し
てくれるだろう。
厳密に言えば,認識の過程で解釈・研究が始まってしまうことも多い。画中に描かれた植物や
鳥の種類を判別する作業は必ずしも容易とは言えず,それ自体が研究の領域に属する。それぞれ
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の生物が個別の寓意を内包する可能性があるとすればなおさらである。表された人物の性別・職
業・感情等の識別も実はさほど明瞭ではなく,主観的な解釈とならざるを得ない場合がある。図
像解釈の場合と同様,読解全体を支える首尾一貫性こそが記述の担保となるはずである。
そうした限界を踏まえた上で,それでも美術史研究初学者の「記述」トレーニングは,解釈の
前提となる視覚データの言語データ化以外の何者でもない。曖昧な主観的受容を「客観的」かつ「自
覚的」な認識へと変換することによって,私たちは造形作品を「語る」ための第一歩を踏み出す
ことができる。
4 鑑賞教育における記述の基礎的な意義
美術史教育での言語による作品記述の意義は,曖昧な主観的内容を「客観的」かつ「自覚的」
な認識に変換することであった。そうすることによって,作品のより高度な理解へ入っていくこ
とができる。普通教育での記述指導は,美術史教育での意義と同じ面もあるが,それ以前の基礎
的な意義があると言える。
1)鑑賞や作品記述に役立つ用語や感覚・感情語を知る。
美術作品記述は,用語を知ることによってより適切にできる。たとえば「構図」「視点」「色彩
対比」「明暗対比」といった用語を知れば,美術作品を考察する手段が飛躍的に拡大する。また,
感情や感覚を表す言葉を知ることで,より正確に記述できる。
2)鑑賞が基本的に美術作品そのものを対象とすることを知る。
作品からの「連想」,作者・作品についての派生的情報はとりあえず括弧に入れる。作品のモチー
フからの「連想」は,作品内に表現された事実から離れることになるし,作品外部の評価,作者
のエピソード等様々な情報を先に知ると,それに沿って作品を見てしまう。たとえば,ピカソ「ゲ
ルニカ」の鑑賞実践の多くが作品ではなく,ピカソの人生・社会思想人生に感動させているのは,
鑑賞教育と言うより美術の社会的事実の教育,あるいは道徳教育と言うべきであろう。
ただ,近世以前の作品は,近代の美術作品と違い宗教や生活の場面で機能していた場合が多い。
たとえば仏像は現在の展示と全く違う状況下にあった。それゆえ,授業目標によっては作品を取
り巻いていた状況についても知らせることがあろう。
3)事実と美術表現は違うことを知る。
現実世界における事実がどうであれ,鑑賞は作品に表現された内容を基準にすることを知る。
美術と事実は違っても成り立つ。それゆえ,当該作品がなぜ事実と違う表現をしたかを解明する
過程が一つの鑑賞授業となりうる。たとえば,セザンヌの静物画は,よく見ると多数の不自然な
形態に満ちている。それは近代絵画の発生,あるいは多視点という美術の方法論を知る鑑賞授業
にできる。
ちなみに逆の形になるが,事実とは違うように見える表現が,実は事実を反映していることも
ある。後述するが,近代日本の西洋画家である神中糸子の「桃太郎」は,老婆が川から掬いあげ
ようとしている桃は通常の大きさで,桃太郎が入っていると想像する我々にとって小さすぎる。
また,ゴッホの「私の部屋」の天井は不自然な Y 字形で表現されている。これらは美術の方法
論の反映ではなく,それぞれの現実の反映である。その解明過程も一つの鑑賞授業にできる。
甲斐・金子:美術鑑賞教育における美術作品の記述の問題
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5 川上実と吉川登における記述
川上実は先の「鑑賞―その構造について」で「観察―分析―解釈」という三段階が多くの美術
史研究の碩学の主張と一致するとみている。パノフスキーの「観察―解明―解釈」,ゼーデルマ
イヤーの「形式地平の観察―直接的寓意的意味の解明―霊的・脱時間的意味の汲み取り」,ケネス・
クラークの「画面の検討―記憶の再生―新しい見方の獲得」といった具合である。
川上は最初の「観察」の段階を「無批判的な態度で,作品の意味内容や機能などに関する関心
を方法的に排除し,専ら造形的要素に準拠した『自然な観察』を加える」と整理する。その前の
鑑賞の端緒としての「対象全体の直観的な印象」「感動や衝撃などから成る初動印象」は,後の
分析や解釈作業でも「絶えず照合され,確認され,いわば原点である」としているものの,その
瞬間性から方法としては括弧に入れられている。児童生徒への鑑賞教育では,後述のようにもう
少し方法化しておくのがよいであろう。
そして記述の順序として要素に関しては,a. モチーフの領域,b. フォルムと造形の領域,c. 色彩,
となるのが通例とする。それとはまた別に画面の部位に関しては,鑑賞者が見る順序に従うのが
至当とする。しかし,ある作品の部位をどのような順序で見ていくべきか様々な説がある。一番
強く印象づけられる部位からそうでない部位へとか,近景から遠景へとか。またその逆とかが主
張される。この順序は作品の解釈にも影響する。
また川上は,記述すると三つの矛盾が出てくるとする。
1. 自然な観察といえども,観察する者の個性は払拭できるものではないこと。
2. 知覚された内容は言語に置き換えられるや否や直観から離脱して意識され,変質する傾向にあ
ること。
3. フォルムの総体として同時的に視覚に映ずるはずの作品が,部分的かつ時間的に分解されること。
ただ,これらは個人が美術作品を言語という時間的媒体で表現するため当然起こる事態である。
川上の論では,この後に第二段階「自覚的な観察=分析と解明」,第三段階「価値把握」と続く。
そこではもう記述の問題は出てこない。それは分析と解明,価値把握といった思考が言語でなさ
れるのは当然であるからであろう。
吉川登の「見る」の第二段階である「分析」では,細部をよく見て言語で記述する。そして,
第三段階で,第一段階の「直観」と第二段階の「分析」とを「統合」する。「直観」の内容がど
のような細部・要素からもたらされるかを確認する。
第二段階の「分析」は,川上のいう「自然な観察」に相当するものであろう。そして川上が「無
批判的な態度で」,吉川が「正確に受容する」というのは,その通りであろう。ただ,それだけ
では記述者にとって捉え所がないし,目的・目標も曖昧である。
6 鑑賞における作品記述の方法
そこで,考えられるのは方法あるいは目標を焦点化することである。いくつかのパターンが
考えられる。これら焦点化された記述では,すでに解釈・統合が始まっているので,鑑賞授業者
は当該授業目標との関係でどのような焦点化を選択するか決まってくる。
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○方法上の焦点化
1)川上の言うように a. モチーフ , b. フォルムと造形 , c. 色彩といった項目にわけて記述する。
2)近景,中景,遠景といった画面の部位にわけて記述する。
3)作品を鑑賞する視線経路に従って記述する。
これについては,「視線経路と鑑賞教育」として学会発表をした 11)。より総合的な形で学 会誌へ投稿中である 12)。詳細はそれらへ譲る。
○目標上の焦点化
4)吉川の言う「直観」をもたらす要因を「確認」するために記述する。
5)作品上から「疑問」「問題」を発見するために記述する。
金子「美術教育の方法論を理解させる鑑賞教育(6)」で,作品のもつ問題を発見し,それを「美
術の方法論」という上位概念で解決する弁証法的過程の授業を提案した 13)。
先に挙げたセザンヌの静物画における不自然な形態,たとえは机の縁が水差しを挟んで食い
違っている。これを多視点や認知のダイナミズムといった上位概念で解決する過程が鑑賞の授業
へつなげることができる。前述した神中糸子の「桃太郎」の桃の小ささ,ゴッホの「私の部屋」
にある天井と壁が作る不自然な Y 字形は,「美術の方法論」ではなく,不自然ではあるが事実の
反映であることを知れば解決する。この解決過程も,歴史的事実と作品の関係という観点で面白
い鑑賞授業につなげることができる。
図 1 神中糸子「桃太郎」 図 2 ゴッホ「アルルの寝室」(1888 年)
神中糸子「桃太郎」に関しては次のように考えられる。かつて桃は不老不死,生命力再生の霊
力があるという意味合いで語られた果実であった。もともと桃太郎の説話は,老婆が流れてきた
桃を掬って老爺と共に食べて若返り,桃太郎が生まれたという内容であった。明治時代中期に巌
谷小波が子供向けに現在流布している内容にしたという。
また,ゴッホの「アルルの寝室」に見られる Y 字形は,小林英樹の丹念な調査によって理由
が解明された 14)。すなわち,居室の床・天井(平面図)の一辺が斜めの台形をなしていた。ゴッ
ホはその斜めの壁に向かってこの絵を描いたので,壁と天井が不自然に見える Y 字形を作り出
しているのであった。
○記述水準の選択
甲斐・金子:美術鑑賞教育における美術作品の記述の問題
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また,記述には単語メモや単文メモから感想文,鑑賞文,批評文まで様々な水準があり得る。
すなわち,児童生徒の言語水準(年齢,国語教育での指導状況)や鑑賞授業の目標によってちがっ
てくる。いずれにせよ,美術鑑賞教育は言語記述を目的とする国語教育ではない。言語記述は手
段であるので,鑑賞教育の目的を阻害しない記述水準を選択することを原則とすべきである。
7 鑑賞教育における記述の問題
鑑賞者に合わせて美術作品は現象する。鑑賞教育は,具体的作品に即して各人への現象内容を
どう評価して,どう対応するかが課題となる。
記述内容は年齢や文化の違いによる基礎的知識の質・量の違いによって大きく違う。それぞれ
鑑賞者の属する社会の文化的規定が当然ある。文化は年齢や教育程度によっても違う。文化的規
定と言うと大げさになるが,後述のように猫を飼ったことがあるかないかで直観・記述が違って
くる。自然な(無批判的な)記述といっても,そのような違いを前提にしている。
また,どのような場合でも,記述から分析へという順序が適切かという問題がある。小学一年
生がピカソの「ゲルニカ」を見た瞬間に「お化けの集会」と解釈したことがある。このような場
合,記述を前にさせても生産的でない。というか,世の中にはこのような作品もあるという認識
の獲得,先を見越した前教育的効果を期待した実践となる。
すでに述べたように絵は絵であり,事実とは一線を画する。とはいえ,実際は様々な事態が発
生する。作者よりも描かれた事象に詳しい場合,作品の解釈が違ってしまう。ある講演後に歩み
寄ってきた年配の男性から質問を受けた。ラクダは必ず一列になって歩く。複数列では絶対に歩
かないのに複数列で歩いている絵がある。この実際と反する絵はどう考えたらよいのかという内
容であった。作者の名前から察するに作者はローマン的な情景としてかいたのであろう。しかし,
その年配の方にとっては不自然で,超現実的な趣をもって見えたのである。その方には我慢でき
る範囲で鑑賞するのがよいと思うと答えた。作者が鳥を一般的な「鳥」のイメージを描いたのに,
鑑賞者が「鴉」として解釈すれば,表現主題も変容する。
逆に知らなさすぎる場合も―現在の児童生徒では普通である―不都合が起こる。菱田春草「春夏
秋花鳥」三幅対の中央に描かれたスギナを「杉の木のような植物」「竹のような草」等と記述した
高校生たちがいた。「スギナ」と記せば何でもないのであるが,一生懸命比喩として記述したので
超現実的に異様な膨らみをもつ記述になっている。これら高校生には「スギナ」のことを教え,早
く次段階へ進む方がよいように思える。記述させてみて初めて児童生徒が知らないことに気づくこ
とが多い。美術鑑賞教育の目標を阻害しない程度に理科や社会科的内容の指導もするしかない。
作品に関する事実については近現代の作品は問題が少ない。しかし,前述のように近世以前の
作品は,社会環境の一部として機能するように作られているので,授業目標に応じてどのように
情報を与えるか検討しておく必要がある。
仏像の鑑賞で造像時の実態とどの程度離れてもよいかは,やはり授業目標との関係で決まって
くるであろう。彫刻的価値の理解や様式直観を目標とした場合,造像時の時代背景や周辺情報は
鑑賞の邪魔になる可能性がある。しかし,仏像の意味解釈を目標とした場合,小学校低学年なら
ともかく中学生に優等生的な通俗的解釈をさせるのはよくないであろう。たとえば興福寺の阿修
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羅像は,造像時は極彩色に塗られ,本尊の斜め後ろに配置されていた,群像の一つであった。また,
奈良時代の仏教は未だ国家鎮護・玉体安寧といった目的をもつ外来哲学でもあった。それらの事
実からも,像の印象からも阿修羅が仏教に帰依して畏まっているという解釈が整合的である。あ
る実践案で紹介されている,阿修羅が「みんなの幸せを祈っている」という解釈は,像をよく見
ていない,優等生的言説である。自由な解釈はあってよいし,それを否定することは教育方法上
よくない。しかし,明るく自信たっぷりの優等生的言説は知的ではないし,教育で奨励すべきで
はない。歴史や作品に対する謙虚さを含む言説を奨励すべきであろう。美術鑑賞教育も,自己言
及や自己基準を固執・過大視するのではなく外部参照が結果として自己言及になるべきであろう。
8 事例研究―菱田春草「黒き猫」の猫
菱田春草が「黒き猫」でモデルにした猫は近所から借りてきたことが知られている。実際,猫
は緊張していたであろう。でも,その歴史的事実とは関係なく,画面に描かれた猫は緊張してい
る状態である。眼は画家(鑑賞者)を見ている。前足は胴体の下に折りたたまれず前に出ている。
耳はリラックス時のようにやや前方に向くのではなく,左右の音を聞こうとしている。いつでも,
ぱっと飛び出せるようにしている。猫の緊張が作品の緊張感にもつながっている。
図 4 菱田春草「黒き猫」部分
図 3 菱田春草「黒き猫」
図 5 緊張している猫
図 6 リラックスしている猫
甲斐・金子:美術鑑賞教育における美術作品の記述の問題
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ところが,念のため大学生の授業でこの猫はリラックスしているか緊張しているかと聞いてみ
ると,3割くらいの学生がリラックスしていると答えた。予想外の数値に驚いた。ただ,猫を飼っ
たことのある学生はすべて緊張していると答えた。そこで,平成 26 年7月に茨城大学教育学部
附属小中学生に画中の黒猫は「のんびり(リラックス)」しているか「どきどき(緊張)」してい
るかのアンケートを実施した。その回答数とパーセンテージは以下のとおりである。小学1年生
は 100%,2,3年生は 70 %以上の児童がのんびりしていると回答した。しかも小学2年生では
猫を家で飼っている二人のうち二人とものんびりしていると回答した。つまり,現実の猫の記憶
というより,願望概念で見ようとしている。そして興味深いことに小学4年生で「のんびり」か
ら「どきどき」へ多数派が交代している。これは児童画で目に見えない自己を描き込まなくなる
時点,他教科で言う精神発達の転換点と近い。想像・願望から現実観察への転換と捉えられる。
中学一年生で「のんびり」回答は最低になるが,その後2年生,3年生と少しずつ上昇し,3年
生では小学校高学年の水準に戻っている。大学生も高校生も似た数値で推移すると想像されるが,
今後,調査したい。
表1 アンケート結果
この作品の鑑賞授業は上記結果を踏まえて構想されるべきであろう。ちなみに動物の心的状態
を誤解していることは,人間に対しても誤解している可能性が大である。それはそれで教育的課
題である。
9 結論
本稿は鑑賞教育における美術作品の記述の問題を検討した。まず,川上実と吉川登による鑑賞の
三段階論を評価し,特に吉川が鑑賞の最初の「直観」段階を明確に設定したことの意義と,いわゆ
る対話型鑑賞教育論の教育内容の曖昧さと自己参照の過大視に対する懸念を指摘した。美術史教育
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においては作品記述が主観的内容を客観的・自覚的内容に変換させ,高度な理解へ進ませる意義を
もつ。鑑賞教育では記述指導が記述用語の獲得や鑑賞の基本原則を知るという,より基礎的意義も
もつとした。作品をより効果的に言語記述させるのに鑑賞教育では記述方法と記述目標の焦点化,
記述水準の選択が必要であることを述べた。また,作品記述には鑑賞者の年齢,知識量,言語指導
の蓄積といった社会・文化環境に規定されて様々な問題が発生するが,鑑賞教育の目的・授業目標
を阻害しないように対処すべきとし最後に菱田春草「黒き猫」の猫の状態がリラックス・緊張のど
ちらであるか小中学生対象にアンケートした結果,小学4年生を境にリラックスから緊張へ多数派
が入れ替わることを紹介した。
註
1)川上実「鑑賞―その構造について」『美術教育学研究2 美術教育の方法』(玉川大学出版部,昭和 60 年)
2)吉川登「行為としての鑑賞―鑑賞学の序章としての鑑賞行為の分析」『大学美術教育学会誌』第 25 号,平
成5年,41-49 頁。
3)金子一夫「近代日本における美術鑑賞教育方法論の発生と展開―戦前―」堀典子『鑑賞と表現の統合を図
る(一体化を目指す)鑑賞教育の方法論に関する研究―』平成 13,14 年度科学研究費補助金研究成果報告書)
241-267 頁。
4)文部省『図画工作科鑑賞資料 彫刻編 解説書』(大日本図書,昭和 25 年)。『同 建築編』(昭和 25 年)
『同 絵画編第一集』
(昭和 25 年)。『同 絵画編第二集』
(昭和 26 年)。『同 絵画編第三集』
(昭和 26 年)。
文部省『図画工作鑑賞指導 美術史』(大日本図書 , 昭和 29 年)。
5)金子一夫「美術の方法論の理解を目的とする鑑賞教育(1)~(7)―及びその大学授業における実践― 」
『茨
城大学教育学部紀要(人文・社会科学,芸術)』第 44 ~ 53 号,1995 ~ 2004。
6)有田洋子「日本美術の諸様式を言語化して理解させる鑑賞教育方法―キャッチフレーズによる仏像様式の
鑑賞―」『美術教育学』第 34 号,平成 25 年,33-47 頁。同「同(2)―SD 法による仏像諸様式感情の全学
年調査結果とその考察―」『美術教育学』第 35 号,平成 26 年,45-59 頁。
7)上野行一「対話による美術鑑賞教育の日本における受容について」『帝京科学大学紀要』第8巻,平成 24
年,79-86 頁。佐野真知子「対話型鑑賞法を生かした美術鑑賞教育の価値と実践への視座(その1,2)」『大
学美術教育学会誌』第 43,44 号,平成 23,24 年。
対話型鑑賞の難点を克服しようとする論考としては,以下のものがある。奥本素子「協調的対話式美術
鑑賞法 対話式美術鑑賞法の認知心理学分析を加えた新仮説」『美術教育学』第 27 号,平成 18 年,93-105
頁。松岡宏明「対話型鑑賞と対象作品についての再考」『美術教育』第 296 号,平成 24 年。
8)人が記述において提供するのは,ある絵の再現というよりその絵についての考察であり,絵それ自体よ
りも私たちがその絵について抱く思考を説明しているとするバクサンドールの関心は,「記述」というよ
り「分析」の言葉に向けられている。M. Baxandall, Patterns of Intention – On the Historical Explanation of
Pictures, New Haven and London 1985, pp.1-11. 一方,リクテンスタインは「記述」を対象作品の外面的か
つ偶発的な特徴に限定し,対象作品の実際の特徴,本質的性格を理解するものとしての「定義」と峻別す
る。J. Lichtenstein,“La description de tableaux: énoncé de quelques problems”, in La description de l’œuvre d’art
– Du modèle classique aux variations contemporaines, actes du colloque organisé par Olivier Bonfait(Rome, Villa
Médicis, 2001), Rome, 2004, pp.295-302.
甲斐・金子:美術鑑賞教育における美術作品の記述の問題
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9)エクフラシスの歴史については以下に詳しい。秋山聡「テクストのなかのイメージ,あるいはエクフラシ
スをめぐる文献研究」,『西洋美術研究』,1, 1999, pp.164-176.
10)現在完訳版が刊行中。ジョルジョ・ヴァザーリ『美術家列伝』,第一巻,中央公論美術出版,2014(毎年
一巻刊行,全六巻の予定)。白水社,平凡社より部分訳も出版されている。
11)金子一夫「視線経路と鑑賞教育」第 36 回美術科教育学会奈良大会,平成 26 年3月 29 日
12)金子一夫「視線経路を利用した鑑賞教育方法の構想―言語記述及び構図決定格子との関連―」
『美術教育学』
第 36 号,平成 27 年3月発行予定。
13)金子一夫「美術の方法論の理解を目的とする鑑賞教育(6)―及びその大学授業における実践―」『茨城大
学教育学部紀要(人文・社会科学 , 芸術)』第 50 号,平成 13 年,31-46 頁。
14)小林英樹『ゴッホの遺言』(情報センター出版局,平成 11 年)99 頁。
付記 菱田春草「黒き猫」のアンケートに関しては,茨城大学教育学部附属小学校の安田和人教諭,同附属中
学校の高橋文子教諭に大変お世話になった。感謝申し上げる。
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