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中世城郭の歩き方 - 公益財団法人 かながわ考古学財団

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中世城郭の歩き方 - 公益財団法人 かながわ考古学財団
かながわ考古学財団
平成22年度第1回
入門考古学講座
中世城郭の歩き方
(財)かながわ考古学財団 宮坂淳一
津久井城跡馬込地区の発掘調査(平成18年度調査)
平成22年5月15日(土)
県立津久井湖城山公園パークセンター研修棟
1.城とは?
「城」~土を掘り、掘った土を土塁状に盛り上げ外敵から身を守る構築物
けんごさんだん
“堅固三段”の思想で城郭を構築
・「国堅固の城」~ 国内の政略的要地をしめる城。
・「所堅固の城」~ 城郭周辺の地勢からみて要害の地を選んだ城。
・「城堅固の城」~ 城自体が堅固な防備を持つ城。
縄張りはこの思想に基づき城地の選定にかかり、地形に応じ郭(曲輪)の配置を考える。
2.城の歴史
中世の館と山城~平時の館(やかた・たて)と戦時の山城とに特徴づけられる
・鎌倉から室町期~鎌倉御家人の館など,在地支配と農耕経営が目的。
・戦国期~領国支配の拠点として築城される。山城と根古屋。
近世の平山城・平城
・平山城~城主の平常の居館と戦時の軍事防衛の機能を重視して築かれる
・平 城~政治上の利便性を重視して平地に築かれる
※ 織田信長による天正4年(1576)に安土城の築城から近世城郭の建築が本格化。
いっこくいちじょうれい
ぶ け し ょ は っ と
徳川家康による元和元年(1615)の一 国 一 城 令と武家諸法度による大名の家格に
よる城郭の制限が行われるようになる。
城~堀と土塁・石垣を巡らし、戦略上の拠点に即応できる常備施設で複数の曲輪
陣屋~在地支配のための政庁で堀・土塁・石垣があっても戦闘に即応できない,単郭
3.城の構築
なわばり
① 縄張~城地の選定後、地形に応じて曲輪を配置する。本丸・二の丸・三の丸を設ける,必要に
応じて多数の曲輪を配置する。
② 曲輪配置の形態
りんかくしき
・輪郭式~本丸を中心として二の丸・三の丸を同心円的に配置する。
ていかくしき
・梯郭式~本丸を頂点とし曲輪配置を梯子状に重ねていく,本丸が直接外部にのぞむもので、
外部が要害であることが必要。
れんかくしき
・連郭式~本丸を中心として両側に曲輪を連続的
に並べる。
③ 縄張りの工夫
こ ぐち
・虎口~城の出入り口本来は口を小さく開けること
を原則としたので「小口」と記したが次第
に「虎口」の字を当てるようになった。
攻撃に対する防御、城兵の突出などの配慮
して構築する。
うまだし
・馬出~虎口前方に小さな曲輪を造り、この小曲輪
にいったん入城させてから虎口に入らせる
ますがた
・桝形~虎口内外の方形の一区画で、ここで敵兵を
周囲から攻撃する。
よこやがかり
・横矢掛~側面防備の方法で城壁に屈曲を設け枡形
とからめて構築する場合もある。隅が四角
に出張って側面からの攻撃、防御に適して
いる。
馬出と虎口の模式図
- 1 -
④ 曲輪と空堀
こしぐるわ
・腰曲輪~一つの曲輪の側面に設ける削平地の曲輪。
おびぐるわ
・帯曲輪~帯状に細長く曲輪の側面もしくは城のまわりを囲む曲輪。
ど るい
・土塁~堀を掘り、その土を盛り上げて壁としたもの。
たてぼり
・竪堀~山の斜面に直角に造った空堀。
・横堀~土塁や壁面に並行し、等高線上に沿って掘られた堀。山城において空堀とよばれる堀。
ほりきり
・堀切~丘陵の城や山城に用いる空堀で、通常の空堀が曲輪の一部分を回っているのに対して、
尾根や丘陵をナタで切ったように造る空堀。
ね ご や
・根小屋~城主の館や家臣団を麓に置いたもの。
典型的な山城
曲輪・土塁・堀切・空堀・竪堀の模式図
- 2 -
4.津久井城の歴史
しんぺんさがみくにのふどきこう
津久井城は『新編相模国風土記稿』(1841年成立)によると、鎌倉時代に三浦氏の支族の筑井義胤が
宝ヶ峰に築城したのがはじまりだとされているが伝承の域を出ていません。現在のところ戦国時代の
内藤氏以前に津久井城が存在したかは定かではありません。後北条氏と甲斐の武田氏との争いの中、
大永5年(1525)に「此年武田殿(武田信虎)ト新九郎殿(北条氏綱)ト合戦ヒマナシ(中略)未ダ津久井ノ
城不落」とある。これが、津久井城に関する信頼できる史料の初出となります。この頃津久井城主内
藤氏は北条方として武田氏と戦っていたと考えられています。内藤氏自体の出自は不明確で諸説があ
りますが、扇谷上杉氏の家臣、北条氏の譜代、武田氏の関係者等の説があります。永禄2年(1559)に
成立した『北条氏所領役帳』では、津久井衆の筆頭として内藤左近将監(綱秀)の名前が見えます。こ
の頃内藤氏は北条氏の下で津久井城を支城とする津久井領を支配していたと思われます。永禄12年(1
569)に武田信玄は小田原城攻めた際に、武田軍が甲斐国へ戻る帰途に津久井城から3km南の三増峠付
近で戦闘(三増峠の合戦)となりましたが、津久井城は戦闘地点に近い要所を占めていたにもかかわら
ず、あらかじめ武田方の小幡重貞勢に抑えられ、津久井城からの出撃ができなかったとされています。
天正18年(1590)には豊臣秀吉の小田原攻めが行われ、津久井城は徳川家康勢と戦闘を行っています。
5月24日には津久井城城主内藤綱秀が、津久井城の普請を三増、半原、角田の三ヶ村に命じています
が、6月には徳川家康の攻撃によって落城したものと思われます。津久井城主内藤綱秀が守備につい
ていた小田原城も7月5日に開城し、後北条氏は滅びることとなりました。
津久井城縄張図
津久井城古絵図
- 3 -
平成20年度
調査範囲
平成21年度
調査範囲
- 4 -
本城曲輪土塁
土蔵曲輪
竪堀
堀切
発掘調査報告書
赤星直忠 1968「津久井城跡」神奈川県文化財調査報告30
相模原市教育委員会 2007『津久井城の調査』Ⅸ
津久井城址調査会 1998『津久井城』神奈川県津久井土木事務所・津久井城址調査団
津久井城遺跡調査会 1997『津久井城の調査』Ⅰ 津久井城遺跡調査会・津久井城遺跡調査団
津久井城遺跡調査会 1998『津久井城の調査』Ⅱ 津久井城遺跡調査会・津久井城遺跡調査団
津久井城遺跡調査会 1999『津久井城の調査』Ⅲ 津久井城遺跡調査会・津久井城遺跡調査団
津久井城遺跡調査会 2000『津久井城の調査』Ⅳ 津久井城遺跡調査会・津久井城遺跡調査団
津久井城遺跡調査会 2001『津久井城の調査』Ⅴ 津久井城遺跡調査会・津久井城遺跡調査団
津久井城遺跡調査会 2002『津久井城の調査』Ⅵ 津久井城遺跡調査会・津久井城遺跡調査団
津久井城遺跡調査会 2004『津久井城の調査』Ⅶ 津久井城遺跡調査会・津久井城遺跡調査団
津久井城遺跡調査団 2005『津久井城の調査』Ⅷ 津久井城遺跡調査会・津久井城遺跡調査団
相模原市教育委員会 2007『津久井城の調査』Ⅸ 相模原市教育委員会
津久井城遺跡調査団 2008『津久井城の調査』Ⅹ 津久井城遺跡調査会・津久井城遺跡調査団
津久井城遺跡調査団 2003『津久井城の調査 1992-2001』津久井城遺跡調査会・津久井城遺跡調査団
津久井城遺跡調査団 2009『津久井城の調査 2002-2008』津久井城遺跡調査会・津久井城遺跡調査団
池田 治・木村吉行 2004『津久井城根小屋地区遺跡群』かながわ考古学財団調査報告166
相良秀樹 2009『津久井城跡(本城曲輪群地区)』かながわ考古学財団調査報告239
相良秀樹 2010『津久井城跡Ⅱ(本城曲輪群地区)』かながわ考古学財団調査報告46
その他
田中祥彦 1987 「津久井城」『図説中世城郭事典』第一巻 新人物往来社
津久井町史編集委員会 2002 『津久井の古地図 ふるさと津久井 第3号』
松蔭宣徳 1980 「津久井城」『日本城郭大系』6 新人物往来社
学習研究社 1991『戦国の城 目で見る築城と戦略の全貌』〈上〉
学習研究社 1993『戦国の城 目で見る築城と戦略の全貌』〈総説編〉
学習研究社 2004『戦国の堅城』
西東社 2010『図解日本の城』
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