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Title シルヴィア・プラスの詩にみる女性像 Author 渡部, 桃子(Watanabe

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Title シルヴィア・プラスの詩にみる女性像 Author 渡部, 桃子(Watanabe
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シルヴィア・プラスの詩にみる女性像
渡部, 桃子(Watanabe, Momoko)
慶應義塾大学藝文学会
藝文研究 (The geibun-kenkyu : journal of arts and letters). Vol.48, (1986. 3) ,p.71- 51
Journal Article
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00072643-00480001
-0195
シノレヴィア・プラスの詩にみる女性像
渡部桃子
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3)の詩,特に「エアリアル」詩(t
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poems) と呼ばれる後期の作品は 1)' 従来の伝統的な詩とはかなり異なっ
たもの,あるいは読者の心に何か特別な情動を喚起するものである。いき
なり「殴られたような...全身をアドレナリンが駆けめぐるような」気持
ち に な れ 睡眠時間を減らしてまでも「一気に読み終えた」と,その抵抗
しがたい魅力を語る読者も少なくないが 2),「詩というよりも暴力行為であ
ノ号ーツナル
る」と見なされることもある 3)。また伝統的な詩の技法を投げすて,私的,
または病的と見なされる事象を題材とするプラスの詩は,はたして詩であ
ろうかと疑問を抱く批評家たちの存在も無視できない 4
。
) しかし,
は日常生活における体験を題材として,
プラス
そこに潜在している「美的要素」
を 統 合 し , 詩 と い う 形 に 作 り あ げ る −John Dewey の言うような一一
芸術家の使命に忠実であったにすぎない 5)。そしてプラスの場合,その題
材となるのは私的体験でなければならなかった 6)。むろん,
プラスは詩人
として,どのような事柄,どのような「心の叫ひ、声」を詩とするか,慎重
に吟味しながら「操作」をおこなったのだ、が 7),一人の女性としての自分
自身の体験を,詩の中心的題材とし,テーマとして選んだのである c この
題材の「特殊性」のため,またそれによってきわめて直裁的に表現される
ことが可能となった一人の女性の感情の重み,激しさのために,プラスの
詩が従来の詩とは全く異質なものと感じられるのかもしれない。
じじっ,
女性(作家・詩人)であっても,性別を超えた「普遍的」な領域を題材とす
ることが規範とされてきた西欧文学においては,このような「特殊な」領
-51-
域がこれほど直接に取り扱われ,文学作品,特に詩の題材となることは少
なかったのである叱
プラスの作品に対する学術的興味がやや希薄である
のも,このような非伝統的,非主知主義的な基盤を持っているからであろ
う。またそこから生みだされた「青い稲妻のごとく駆け抜ける _J9)激情の
衝撃波と,
そこに感じられる傷つきやすい人間的「脆さ」のようなもの
が,読者の心を強く引きつけると共に,不安と恐怖にも似た感情をよびお
こすのかもしれない。 G
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6年,詩集「エアリアル」の
書評で指摘したように,プラスは「現代では詩人がなかなかやらないよう
なことをやってのけた。彼女は読者に自分たちの人間性を強く意識させ
る。すなわち,現代において人間であるということは,ショックを受ける
こと,喪失感を味わうこと,またあのフラストレーションという柔らかい
。
)
鎧で,辛うじて身を守っていると自覚することなのである」 10
したがって,
プラスの詩に触れ,
その全貌をとらえようとする時には,
この詩人のイメージャリー,テーマの根源、となっている私的体験,特に一
人の女性としての体験を考慮しなければならないだろう。しかし,プラス
が現実のありのままを告白していると見なす伝記的研究のように,詩人と
その私生活を完全に混同して論じること,あるいは伝記的事実を丹念に収
集し,どの体験がどの詩を生みだしたかを決定することは,きわめて無益
なことと思われる 11)。そこで本論では,プラスの女性としての体験が女性
であることに対する彼女の見解(女性観)にどのような影響をおよぼしてい
ったか,またそれがどのように作品に反映されているか(女性像), さらに
その女性観・女性像がいかに変化し,あるいは進化していったかに焦点を
あわせながら,ある特別な情動を読者の心によびおこすプラスの詩につい
て論i
じていきたい 12。
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プラスの初期の詩は,多くの批評家が指摘するように 13),後期の激情的
な詩とは異なり,感情がほどよく抑制され,硬いイメージできっちりと構
成されているが,そこにあらわれる女性像も保守的とさえ感じられ,既存
- 52-
体制への反抗を企てるものではない。慣習的に女性のものとされている役
割の枠組から大きくはずれる女性は登場しないのである。
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ブリッジ大学に存学中,夫となる TedHughes のために書かれた「テツ
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r Ted”)でのプラスは,自分が rこのアダムの
ドへのオード」(“ Odef
女」であることを誇り,またきわめて対照的な生を生きる姉妹の姿を描い
た「ペルセポネの姉妹」(“ TwoS
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fPersephone”)では,「太陽の
アース・マザー
花嫁」となり 「王者」を産む地母神的な女性を,ひたすら賛美する一方,
部屋にこもって「計算機で問題を解いている」女性を,「どんなレモンに
も劣らないほど/にがく,黄色く」なり「ぼろぼろになった肢体で死んで
いく」哀れな石女として描くのである。若き日のプラスにとって,女であ
ることは男性との関係によって定義されるもの,すなわち女であるために
は誰かのイヴ,花嫁,妻でなければならなかったのであろう。このような
女性観は,この時期に書かれた独身女性をテーマとした一連の「オール
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ド・ミス」詩にもうかがえる。たとえば文字通り,「独身女」(“ S
と名づけられた詩に登場する
「風変わりなお嬢さん」は,
「気狂いの春」
と共にやってきた求婚者によって性に目覚めても,その情動から身を守る
ために「白と黒/氷と岩,節度ある感情を保っていられる」冬を慕い,最
後には自分のまわりに「鉄条網」をはりめぐらすことで男性を締めだした
。
)
ために,人間の生からも,愛からも完全に締めだされてしまう 14
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また若く美しい頃に愛を拒んだ「エラ・メーソンと 1
1匹の猫」(“ E
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Mason and Her Eleven C
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s”)のエラは,その報いをうけなければな
らない。今や猫だけを友とする孤独なエラは,「ぶよぶょに太って,途方
もなく大きい」怪物のようなものに変身しているのである。
- 5
3-
むろん,
このような女性観は「素晴しい詩人...頑健なアダム」( LH,
p
.2
3
3)であるヒューズの存在にかなり影響されているのであろう。 Mary
,
Lynn Broe は
この頃のプラスを,「詩人としてのアイデンテイティと
(ヒューズとの)ロマンスとを完全に混同していた」と捉えているが 15),実
際プラスは母への手紙に,どうすればもっと「女らしく J なれるかをヒュ
ーズに「教わっている」,あるいは「彼はわたしを世界が口をあいて見とれ
.2
4
8)。ま
るくらいの女性詩人にしてくれる」などと書いていた( LH, p
た「彼は天才,わたしはその妻」 (
J
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.2
5
9)と誇らしげに記すプラスは,
「彼は知的な面でも,創造的なことでも,常にわたしよりずっと先に進ん
でいるので,わたしはとっても女らしい気持ちになって,崇拝するばかり
なのです J とも述べている( LH,p
.2
7
0
。
)
「このアダムの女J であることを楽しんでいたプラスは,女性の絶対的
な受動性を賛美することにも臨時しない。たとえば「ベルセポネの姉妹」
の「太陽の花嫁」は,太陽の「種」を受ける容器,すなわち太陽の創造力
を具現化する媒体にすぎないのだが,このように「創造活動」に受動的に
関与していく女性を詩人は称えているようである。だが花嫁になること自
体に対しては,
それほど肯定的な態度をとっているわけではない。「太陽
の花嫁」となる女は,まず嬰粟の花によって深い眠りに誘いこまれ,生賛
のごとく「緑の祭壇」によこたわる。彼女はそこで「太陽の刃」をうけな
ければならないのである。
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すなわち花嫁になることは,無感覚のまま切り裂かれること,あるいは自
分の意志によらず,性的に侵害されることに等しいとされている。
このようなアンビヴァレントな態度は,当時のプラスの女性観がそれほ
セクシユアリテイ
ど固定的なものではなかったこと,またプラスが自分の性
- 54ー
愛,あるい
は女性の性愛というものにやや暖味な態度をとっていたことを示している
ように思われる。じじっ,この時期のプラスは自分の心に重要な位置を占
めていたもう一人の男性, 8歳の時に亡くなった父について思いをめぐら
し,その父との関係において自分の性愛を定義しようとしていたのである。
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まだスミス大学の学生であった頃に自殺を図って病
院に収容され,フロイト派の精神分析医の治療を受けたこと,また退院後
も精神病理学に興味を示し,フロイト理論に精通するようになったこと
は,よく知られている 16)。精神分析学理論を応用してプラスの伝記研究を
おこなった EdwardB
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r は,病院にいた頃のプラスは医師の助けを
借りて,「自らのエレクトラ・コンプレックスを発掘し」,フロイト理論の
「装置」
カ~17)'
に自分の心理状態をあてはめることに活路を見いだしたとする
プラスが自分に下されたエレクトラ・コンプレックスという診断,
あるいはフロイト理論の「装置J をどの程度まで信じていたかは明らかで
ない 18)。だがエレクトラ・コンプレックスやその他のフロイト理論は,詩
の中である種のドラマを構築するための枠組として頻繁に利用されてい
た。たとえば,
1
9
5
9年にボストンで暮らしていた頃,
にも母親にも内緒で,
3
1
3)のだが,
プラスはヒューズ
昔の精神分析医の治療を受けていた (
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この時期に書かれた「つつじの咲く道のエレクトラ」
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lによれば「女児のエディプス的葛藤 J19),
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すなわちエレクトラ・コンプレックスを応用したものである。
「つつじの
咲く道のエレクトラ」では,クリュダイメーストラによるアガメムノンの
殺害をめぐるギリシア悲劇の世界に私的体験が導入され,プラスは自らの
エレクトラ・コンプレックスを定義づけようとしているものの,あまり成
功していない 20)。だが,「蜂飼いの娘」には性的な含み,また性的願望を
暗示するような言葉が巧みに用いられ,フロイト風の強烈な性愛のドラマ
が繰り広げられる。
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「蜂飼いの娘」の舞台となるのは,
むせるかえるほどに木々や草花が生
い茂り,少し不自然に思われるくらい豊かで肥沃な庭園である。
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この庭園の王者の娘は,
「わたしの心臓はあなたに踏みつけられる」 と言
って,この「蜂の巨匠」に完全に服従しているが,最後には女王蜂に扮し
て父親と結ばれる。濃厚な香りでむせかえるような雰囲気の裡に,近親相
姦的な結婚がとりおこなわれるのである。
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この詩は, 「蜂飼いの娘」の父に対する性的欲望の成就を描いたものと
言えよう。しかしプラス自身がこの詩によって,マルハナパチの世界的権
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h に対する性的欲望をあからさまに表
威であった自分の父親, O
現していると解釈したり,あるいはこの詩は自分の父親との結婚を夢みて
いたプラスの「病的感性」のあらわれであると論じたりするのは,言うま
でもなく愚かしいことである 21)。この頃のプラスは父に対して抱いていた
自分の複雑な気持ちを「分析J
L,22),父と自分との関係,また女としての
自分の性愛を一応定義することで,
新しい段階へと進もうとしていた 23
。
)
そしてその分析に使用したフロイト理論を意識的にとりいれ,父親に対す
るかつての自分の気持ちを,
「知識と理性ある精神で、操作」 して一つの芸
術として成立させたのである。フロイトによれば,女性の性愛の発達にお
ける最も重要な段階とは,
女児が
「ペニス=子どもという象徴的な方程
式」にそって,その性的エネルギーの方向を転換し,「ペニスへの願望を
棄てて,子供をもとうとする願望にかえようとし,このような意図から父
- 56-
親を愛の対象とする」時,
すなわち父親からペニスをもらうことを諦め,
父親によって子どもを得たいと望む,この「蜂飼いの娘」のような気持ち
)
になる時なのである 24。
このようにフロイト理論の「装置」,特にエレクトラ・コンプレックス
を中心とする父と娘との心理的関係に関するものは,私的体験を「もっと
大きな事柄J につなげていこうとするプラスにとっては,便利な約束事,
すなわちその中でドラマを構築していく際に,原型としても言及すること
。
) 1
9
5
9年の 1
1月に書かれた「巨
ができる文化的・思想的枠組となった 25
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s”),「誕生日の詩」(“ Poemf
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y”)にも,
像」(“ TheC
このような枠組が見られる 26)。また「エアリアルJ 詩で最も有名な「ダ
デイ」(“ Daddy”)には,エレクトラ・コンプレックスそのものが利用さ
れているが,そのことは詩人自身が明言しているのである。
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「ダデイ」は 1
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2日 に 書 か れ た が , 同 じ 年 の 1
0月 3
0日
,
BBC 放送の依頼によって詩の朗読をおこなった際に,プラスは次のよう
な解説をこの詩につけた。
これはエレクトラ・コンプレックスの少女によって語られた詩で、す。
父親が死んだ時,彼女は彼を神だと思っていました。彼女の症状は複
雑ですが,それは父がナチスであったのに,母はたぶんユダヤ人の血
をひいていると思われるからなのです。彼女の裡でこのこつの血は結
合し,また互いに麻2
庫 させあっています。彼女はこの恐ろしい寓話を
.2
9
3
)
実演しなければなりません。それから自由になるために。( p
この解説,特にその前半の部分を伝記的に解釈し,死んだ父親に歪んだ愛
情を抱いていたエレクトラ・コンプレックスのプラスが,見捨てられた恋
人としての気持ち,また自分の近親相姦的な愛情に対する罪の意識などを
) しかし,
さらけだした詩として「ダデイ」を読む批評家は少なくない 27。
エレクトラ・コンプレックスを持つ少女という設定が詩人の口から明らか
にされていること,また前述したように,父に対する自分の複雑な気持ち
- 57-
が,理論的にはエレクトラ・コンプレックスと呼ばれるものであり,それ
が自殺未遂事件と理論的には係わりがあると教えられていたプラスが,そ
れでもその診断を盲目的に信じていたわけではないことを考慮すれば,こ
のような伝記的な読みに固執するのはむずかしいように思われる。
また「ダデ、イ」を伝記的,もしくは実話風に読もうとする者たちにとっ
ては,この詩で吸血鬼退治の儀式のイメージによって描かれる父親殺し
も,プラスの「倒錯した心理 J を明らかにするものでしかない。あるいは
「愛と暴力との間で引き裂かれたペルソナは,一つの自己認識に到達する。
すなわち,自分が暴力を愛していること,また愛と暴力とは原理的にわか
ちがたいほどしっかりと結ひ、ついているので,愛を表現するのには暴力と
いう形をとるほかないことに気がつくのである」などと,手のこんだ少々
苦しげな解釈がなされることもある 28)。しかし,この父親殺し,死者の殺
害という理解に苦しむような「実演」も,
フロイトが 1
9
1
5年に発表した
小論文「悲哀とメランコリー」(“ Mourningand M
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a”)に描か
れた「病的な悲哀」,「メランコリー」の症状を応用したものと考えられる。
9
5
8年 1
2月にこの論文を読み,
プラスは 1
「自殺しようとした時の気持ち
とその理由をほぼ正確にあらわしている」と日記に記しているのである
(
J
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.2
8
0
)。このフロイトの論文を簡単に要約すれば,次のようなものと
なる。
悲哀とは愛するものを失った時に人間が示す正常な反応であって,
「苦
悩,死者の思い出につながらない外界の事象,および人間に対する興味の
喪失,思い出とは関連のない行動の回避」などの精神症状を含む。このよ
うに自我が抑制されてしまうのは,人間が悲しみの感情にすっかり身をゆ
だね,悲しむこと以外に費やすエネルギーが残っていないからである。し
かし現実はたえまなく,愛するものがもはや存在しないことを示し,悲し
みに浸る人聞はあらゆる心的エネルギーを死者から離すようにと要求され
る。したがって正常な悲哀では,多くの時間を費やした後,死者からあら
ゆる心的エネルギーが離れることによって,悲しんでいた人間の自我は自
由で抑制されないものとなる。一方,病的な悲哀,メランコリーにおいて
- 5
8-
も,同じような精神症状があらわれるが,悲哀の場合はむなしく空虚にな
るのは外界であったのに対し,メランコリーでは自我自体が空虚になって
いく。すなわち「メランコリーのコンプレックスはひらいた傷口のように,
あらゆる方面から備給エネルギーを吸収し,すっかり枯渇するまで自我を
使いはたしてしまう」のである O そしてこの自我の病的な状態のために,
現実への適応は容易になされない。そこで,メランコリーから脱却するた
めには,悲哀の場合よりももっとラデイカルな方法をとらなければならな
い。つまり死んでしまった愛するものを軽蔑し,侮辱し,さらにはあたか
も殺すようにして,その対象に対する心的エネルギーの回若を解消しなけ
ればならないのである 29)。これがまさに「ダデイ」の娘が「実演」したこ
とではないだろうか。娘は自分の自我を解放し自由にするために,すでに
死者となっている父親を「殺した」のである。
プラスはまずマザー・グースのリズムを用いて,お伽噺の世界に見られ
るような不条理な残忍さを喚起し,その中に読者を誘いこむと同時に,こ
の娘のあわれな状態を巧みに描きだす。
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娘は「靴のお家に住んでいて...どうしていいのかわからなし V お婆さん
のように, 3
0年間も黒い靴の中に閉じこもっていた。「わたしにチャンス
をくれないで、」死んでしまった父親のためにメランコリーになり,外界か
ら隔絶し,何もできずに麻庫したようになっていたのである。娘にとって
父親は「大理石のように重く」,
その「サンフランシスコのあざらしに似
た/大きな灰色の足のつま先」は太平洋に浸かっているが,頭は大西洋の
中にある。すなわち,この父親は,アメリカ全土におおいかぶさるように
倒れている巨大な「幽霊に似た彫像J なのである 30)。娘は押し潰されるよ
うな気がする。悲哀以上のものを感じるが,どうしていいのかわからな
- 5
9-
い。父親を取りもどそうとお祈りをしたり,父親の故郷の町をさがしだ
し,父親の言葉を習おうとした。また父親のもとへ行こうと,自殺をしよ
うとしたが,ついには父親に似た男と結婚してしまれだが娘の心にある
病的な悲哀の感情,メランコリーには,こんなことをいくらやっても効き
目がないのである。娘が自分は父親の犠牲者だと思いはじめるのも無理は
ない。マザー・グースのリズムが,第三帝国の忌まわしいブーツの行進の
リズムに変わる時,父と娘との関係はナチス対ユダヤ人,つまり迫害者と
犠牲者との敵対関係へと変化していくのである。
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2
3
)
娘は父親を神のように崇めること,またその死を否定し続けることは,自
分の心に吸血鬼を住みつかせ,血,すなわちエネルギーをすべて吸い取ら
れてしまうことだと気づいた。そして,この自己破壊にも通じる父親崇拝
に終止符をうつため,また父親を永久に葬るため,吸血鬼退治の儀式をお
こなうのである。
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4
)
「ダデイ」の娘は,父との「結婚」を望んでいない。「おとうさん」の吸血
鬼としての正体を暴き,その「黒い太った心臓」に杭を突き刺して,「お
とうさん,おとうさん,ろくでなし,もうおしまい」と叫ぶのである。多
くの批評家はこの最後の宣言を「わたしの命もおしまいよ」と解して,プ
ラス自身の自殺の予告と考えるのだが,この言葉はむしろ絶望的なメラン
- 60-
コリーの状態をおしまいにして,父親の亡霊から,エレクトラ・コンプレ
ックスから解放されたことを示すのではないだろうか。またこの娘はメラ
ンコリーやエレクトラ・コンプレックスから自由になっただけではない。
娘が父親との関係においては,自分が犠牲者でしかないことに気づいた
時,「黒板の前に立っているおとうさん」の写真は,
もう一人の男,彼女
の「赤いきれいな心臓」を「まっぷたつに食いちぎった」黒い男の姿と重
なっていく。
この男は父親の模型である 31l。「わが闘争の顔つきをして」,
娘の血を「一年間/七年間」も飲んでいた彼女の夫なのである。
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娘はきわめて意識的に,
また映像的に,
父の姿と夫の姿とを重ねあわせ,
父の亡霊を葬ると共に,彼女からエネルギーを吸い取っていたもう一人の
吸血鬼をも心の中から放逐する。そして完全な自由を取りもどすのであ
る
。
このように「ダデ、イ」の娘は,神だと思っていた父親からも,わが闘争
の顔つきをした夫からも解放されて自由になった。そしてこの詩を書いた
頃には,プラスもまた彼女の心の中で非常に重要な位置を占めていた二人
の男性,オットー・プラスとテッド・ヒューズの及ぼす影響力から完全に
解放されていたように思われる。かつては「このアダムの女」であること
を誇り,自分を父を恋するエレクトラになぞらえていたプラスの女性観
は,二人の子どもを産み育てるという体験,
特に 1
9
6
2年の夏から秋にか
けての出来事,またその結果としてのヒューズとの結婚の破綻をへて,ラ
デイカルに変化していたのである。この時期のプラスは,女というアイデ
ンティティを男性との関係を拠り所として確立しようとすること,すなわ
ち男性との関係に基づいて女であることを証明しようとすることも,定義
することもやめていた。
またそれと同時に男女両性問の力関係に注目し,
- 6
1-
その力関係の構造,その根源にあるものを探ろうとしていたのである。
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2年 9月,イギリスの BBC 第 3放送はプラスの「三人の女一一一三
つの芦のための詩」(“ Three Women: A Poem f
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”
を放送した。プラスは BBC 放送に依頼されて,このラジオ・ドラマを書
いたのだが, この「長い( 3
7
8行!)詩1 (
LH. p
.4
5
6)の題材となっている
のは妊娠,出産,流産などの女性特有の体験であり,これはまたプラス自
身が体験したことでもあった 32)。そしてこの「三人の女」の内的独自から
成るドラマを通じて,プラスは産む性である女性とその体とを称揚すると
共に,自分たちの「平べったい」原理・秩序を守るために女性を支配しょ
パトリアーキー
うとする「父権制文化」を批判したのである。
「三人の女」とは,男児を出産する主婦(第一の声),仕事中に流産して
入院する秘書(第二の声),女児を産むが,その子を残して大学へもどる女
子学生(第三の芦)であるが,
ドラマの底流をなす根源的な構造は,豊穣を
あらわす「丸み」のある神秘的・統合的く女性原理〉と,不毛性をあらわす
「平べったい」
科学的・分化的く男性原理〉との対比あるいは対立のように
思われる。この二つの原理の対比は,冒頭の二つの独自において明示さ
れ,まず最初に登場する第一の声は自分の妊娠を地球の自転になぞらえな
がら,自然との幸せな融合を楽しんでいる。
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)
自然の運行にあわせて時を過ごし,
「わたしはミルクの河/わたしは暖か
い丘」と言う第一の声に比べて,流産する第二の声は都会のオフィスで機
械に囲まれ, 「文字がタイプライターの黒い鍵盤からでてくる,
この黒い
鍵盤は/わたしのアルファベットの指からでてくる J ような環境で働いて
いる。「これはわたしが家へ持ち帰る病気。これは死」と言って,第二の
- 62-
芦は自分の内部に在る「死」を,オフィスで忙しそうに動きまわっている
「平べったい男達」と結び、つける一一一「わたしはオフィスで男達が歩きまわ
るのを見ていた。
あの人たちはすごく平べったい!/ボール紙みたいなと
ころがあって,それがわたしに感染ってしまった/あの平べったい,平べ
ったい,平板なものから
思想、や破壊/ブルドーザーやギロチン,悲鳴の
聞こえる白い部屋がでてくる/次から次へと一一あの冷たい天使たち
い
ろいろな抽象概念」。
平べったい男達の不毛な抽象思考は,自然を破壊するブルドーザーや人
間の命を奪うギロチンなどを,次々と作りだす。そして,そのような冷た
い天使たちこそが女性の性を侵害して,その体に死を生じさせるのであろ
う。続いて,第二の芦は父権制文化の基盤となっているキリスト教を,男
性の平べったい体を媒介として世界を「聖なるもの」にしようとすると,
激しく非難する。
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9
)
自らを「山のような女達に固まれている山」と感じている第三の声も,妊
婦の聞を歩きまわる医者たちが「自分たちの平べったさを
健康であるこ
との証かなにかのように抱きしめている」のに気がついた。またこの女子
学生は自分を,黄金の雨に姿を変えた神々の父,ゼウスによって身ごもっ
たダナエー,あるいは白鳥となったゼウスに凌辱されたレダに見たてるの
である 33。
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自分の意志によらず,生命を体内に宿すことになってしまった「用意ので
きていなかった」第三の声のような女性は,自分自身の体さえ,神のよう
な力が具現化されるための空っぽの器にすぎないと感じる。さらにこのよ
うな神の力は,
その空っぽの器を再び平べったくし,
「粗野なところは洗
ってアイロンをかけよう」とさえするのである。こうした三人の女の内的
独自に,父権制文化のもとでは女性の体は「領土であり,機械,開発され
なければならない処女地,生命を生産する組み立て工場でした」とする現
代のフェミニストたちの文明批判,その先駆となるものが含まれているこ
とは明らかであろう 34
。
)
「三人の女」は,女であることのすべてを顕現する「イブとしての自己」
を描こうとする試みが失敗に終わり,
「文学作品というよりもナイーブな
スピーチとなった」ものと言われるお)。だがプラスは,この女性特有の体
験を中心にすえた鮮烈なドラマを構築することにより,太陽の「種J を受
ける容器としての女性というような,かつての自分の女性観・女性像を完
全に覆すと共に,自然のリズムを刻む「粗野な」女性の肉体を蔑み,抑圧し
支配しようとする父権制文化の原理を批判したとも言えよう。そしてこの
ポリティックス
ようなコンテクストで,男女両性聞の関係を「支配と従属の政治的関係、」,
さらには強者と弱者との関係と捉えたプラスは,それによって女性の自己
表現の詩として高く評価される詩を書くようになっていったのである。
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ヒューズと別れて,新しい生活を始めようとしていたプラスが,
「わた
しの最良の詩,わたしの名声を高めてくれるもので、す」( LH.p.
4
6
8)と自
負していた
Fエアリアル」詩にあらわれる女性は,たいていの場合,男性
と敵対関係にあるように思われる。「ダデ、イ」を,
自分を迫害してきた男
性たちに対して女性が戦いを挑み,勝利をおさめる過程を描いた詩と読む
ことも可能なのである。
しかし,
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r”)や「死商会」
「看守」(“ The J
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.”)にあらわれる女性は,男性に対して全く無力である。
- 64-
「看守」では,「麻薬を与えられ,強姦され」た女性が,「いろいろなやり
方で死んでいく一一一/吊される,餓死させられる,焼かれる,突かれる」。
また「死商会」には,「死の二つの面を象徴する二人の男」を嫌悪しなが
らも,その死の魅力にひきつけられて,「身動きできない」女性が描かれ
ているのである 36
。
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したがって「エアリアル J 詩の女性は,破壊的な力を持つ男’性たちに対し
て戦いを挑み,
「男を空気みたいに」食べてしまう
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( Lady L
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「レデ、イ・ラザルス」
あるいは「誕生日の贈
り物」(“ A B
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t”)として「死」を贈られる主婦のように,
ほとんど無抵抗のままで男性によって滅ぼされてしまうと言えよう。そし
て
,
この二種類の女性像がプラスの「二重性」,ひいては「分裂症」を示
すものと考えられてきた 37)。だがどちらの場合も,男性は常に強者であ
り,魅力的な存在で、あると共に恐怖を感じさせる「他者」として描かれて
いる。そしてこれは,プラスが自分の新しい女性観,あるいは女性として
の自我を明確に表現するための一つの戦略だったのである。
従来,男性(作家・詩人)を中心として展開されてきた西欧文学一一特
に「自我」を最大の課題とする近代文学の伝統においては,他者として描
かれるのは常に女性であった。すなわち女性は常に,男性のサイキ,ある
いは男性の自己表現との関係においてのみ存在する「異」性として文学作
品に登場してきたのである。このことは,女性(詩人・作家)が文学を媒体
とする時,つまり書く立場になった時に,存在論的不安を感じてしまう要
因ともなったが,自己表現を試みようとする際に,あえて男性を,主体で
- 6
5ー
ある自分の他者として描こうとする女性は少なかった 38
。
)
だがプラスは,
男性を「異」性と捉えることに臨時せず,その他者と,主体である女性の
自我との葛藤や闘争を描くことで,
女性詩人・作家の自己表現の新しい可
能性を示したのである 39)0 rェアリアル」詩では,
この他者と女性との闘
争は,歴史的次元(ナチス対ユダヤ),神話的次元(「九帳」“ P
urdah” に
おけるアガメムノン対クリュタイメーストラ)へと敷街されていく。
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s”)では,
「針」(“ S
また
「何年間も塵を食べ/皿を厚い髪で拭いていた」
従順なマクダラのマリアを思わせる女性が,
追放し,「獅子のように赤い体
「白い微笑をうかべた男」を
ガラスの翼」を持った女王蜂としての自
我をイメージする。そしてその女王は,「赤い琴星J のごとく大空へと舞
。
)
い上がるのである 40
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このように,初期の詩においては慣習的に既存体制に受け入れられてい
る女性観を取りいれ,太陽の種をうける容器としての女,父を恋し神のよ
うに崇めるエレクトラなどの女性像を描いていたプラスは,後期の詩では
父権制文化を批判しながら,男性を強者,女性を弱者と捉えることから
はじめて,男性を他者として描きながら,主体である女性の自己表現あ
ふれる詩を書くようになっていった。この場合,男性を他者として描くこ
とが,女性詩人・作家が自己表現をおこなう,あるいは取り戻す重要な戦
略になったと言えよう。一般にプラスはフェミニスト詩人ではないと言わ
れるが,伝統的に女性に対して投影されてきたイメージをそのまま受け入
リ ヴイジヨシ
れるのではなく,自分の体験を「再−観望」して新しい言葉で語り直した
プラス,「「慣習やしきたり J ばかりでなく,自分自身であること,自己を
- 6
6-
表 現 す る こ と な ど に 対 す る 不 安 に も 惑 わ さ れ な か っ た 」 4U この詩人は,
Adrienne Rich ゃ Diane Wa
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i などのフェミニスト詩人たちの先駆
者であり,ひいては
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0年代, 8
0年 代 に 女 性 で あ る こ と を 創 作 活 動 の 根
源として開花したアメリカの女性詩人・作家たちの先駆者だったのである。
註
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)を出版したが(1
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) P
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hの死後, TedHughesは詩集「エアリアル」 (
年),プラスはこれとは多少内容の異なる「エアリアノレ」詩集の出版を考えて
いた。本論での「エアリアル』詩とは後者をさす。 C
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以下本書からの引用は本文中にページ数を示す。
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) プラスが「集中し専念できるほど魅力があった主題,それは自分自身の生活の
中の出来事であった」と,ヒューズは述べている。 C
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) プラスはインタビュー(1
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6
2年 1
0月)の中で,
自分の詩は「感覚的, 感情を
ゆすぶられるような体験J から生まれたものだと認めているが,その「心の叫
ひ、」を「知性ある精神で、操作する J のでなければ,詩にはならないと言明して
いる。 C
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)
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.
8
) 伝統的に男性詩人・作家を中軸としてきた西欧文学における女性詩人・作家
たちは,自らの女としての体験や視点が「普通的」なものとは認められず,そ
れを直接文学の題材, テーマにすることには抵抗があった。すなわち,女性
特有の体験に居直って書くことができなかったので、ある。このような「女であ
ること」と「書くこと」から生ずるディレンマの問題については, Sandra
6
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)に詳しい。
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1
) 現在,決定版的なプラスの伝記はまだ出版されていないが,この詩人の私生活
にアプローチするための資料としては, L
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h (New York: HarperandRow, 1
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)
以下本書からの引用はページ数と共に, L Hと略して本文中に示す
と The
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)一一一以下本書からの引用はページ数と共に, Jと略して本文中に示す
1
9
8
2
などがある。
Edward Butscher の有名な「伝記的研究」,
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MethodandMadness(NewYork:SeaburyP
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9
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6
)は,伝記的「事実」
を丹念に収集したものだが,その事実に基づいて詩の「心理的J 内容を決定
した後に,詩を「解読」し,またプラスをも解読するという少々問題のある
方法をとっている。
1
2
) 本論の一部は日本アメリカ文学会東京支部例会( 1
9
8
5年 3月)において,「シ
ルヴィア・プラスの「ダデイ」について」と題し,口頭発表したものである。
クラフト
1
3
) Hugh Kenner は初期の詩の「技巧」を好み,プラスには「Lowell の作品
を簡単に凌駕する」ものを書く技量があると思ったが,「エアリアノレ」詩の「ま
スピリチユアリテイ
やかしの精神性」には失望したと述べている。 C
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)
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3
2
.
1
4
) この頃のプラスは,ケンブリッジ大学の女性教官たちを,学問的に優れていて
も直接体験していないのだから「生ける屍」であると批判している( LH,
)。この詩のモデ、/レになったのも,そのような女性であったらしい。
p
.1
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5
) MaryLynnBroe,
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and Row, 1
9
8
5
)
,p
.8
3
.
1
6
) プラスはスミス大学の卒業論文を書くにあたって, OttoRank, Jung などの
理論と共にフロイト理論を参考としたが( LH. p
.1
4
6),その後も心理学の博
J
,p
.2
84
。
)
士号を取ることを考えるほど,心理学に関心を示していた (
1
7
) B
u
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c
h
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r
,p
.1
2
5
.
1
8
) 自殺未遂事件の前後の状況は,自伝的小説, TheB
e
l
ljarに詳しく描かれてい
るが,プラスの分身である Estherが「回復」するのは「分析」の結果ではな
く,友人の自殺を敗北と見なして自分はあくまでも生を希求していこうと決
- 6
8-
意したからである。
また短編小説,“ Johnny Panic and t
h
e B
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eo
f
Dreams”では,精神分析医たちの姿がかなり風刺的に描かれている。
1
9
) C
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, Women:TheL
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s(London: ViragoP
r
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,1
9
8
4
)
,p
.2
6
2
. ミッ
チェルは,女児のエデ、ィプス的葛藤に新しい名前を与えることに,フロイトは
最初から反対していたと言うが,フロイトの子どもの性発達に関する理論は
男児の発達のモデ、ノレを基盤としたものなので,女児のエディプス・コンプレ
ックスは演緯的にエレクトラ・コンプレックスと呼ばれることが多い。
2
0
) “E
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c
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a Path”は, 1
9
5
9年 3月に父の墓を訪れた時のことを題
J
.p
p
.299-300
。
)
材としている (
2
1
) C
f
. Holbrook, p
.2
6
.
2
2
) プラスは友人に父親のことを次のように語っている:「わたしは[幼い頃]父を
熱愛していたけど,軽蔑していたわ。たぶん父が死ねばいいと思っていたの
ね。そしてその願いが叶って父が死んだ時,わたしは自分が父を殺したと思っ
たの。」 a
squoted i
n Nancy Hunter S
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rLooka
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h(London: Faberand F
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3
)
,p
.2
1
.
Memoryo
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2
3
) ヒューズによれば,この詩はプラスの「新生J を記念する「重要な出来事」を
f
. Hughes,
“ Notesont
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l Orderof
詳述したものである。 C
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sPoems,
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, 7(
1
9
6
6
)
,p
.8
4
.
2
4
) シグムント・フロイト,「解剖学的な性の差別の心的帰結の二,三について j,
「フロイト著作集む,懸田克拐・吉村博次訳(人文書院, 1
9
6
9
)
,p
.1
6
8
.
2
5
) プラスは,個人の経験は詩の題材として重要なものとなるが,「それは閉じた
箱のような,自分の顔を鏡で覗いているような自己中心的な経験ではなく,も
っと大きな事柄につながる経験でなければならないと思います」と語ってい
る
。 P
o
e
tSpeaんs
,p
.1
7
0
.
2
6
) C
f
.渡部桃子,「「再生」の神話一一シルヴィア・プラスの「誕生日の詩」をめ
ぐって j,
I
fアメリカ文学研究」,
2
1(
1
9
8
5
)
,p
.7
9
.
2
7
) C
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.1
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2
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) A
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“ On‘
Daddy”
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s Newman (Bloomington: I
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9
7
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,
p
.2
3
5
.
2
9
) C
f
. フロイト,「悲哀とメランコリー j,
I
fフロイト著作集
6
」,井村恒郎訳
9
7
0
)
,p
p
.1
3
7
1
4
9
.
(人文書院, 1
3
0
) ヒューズが指摘するように“ O
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j
a”,“ F
u
l
l Fathom Fiveヘ“ The Beek
e
e
p
e
r’
s Daughter”などの初期の詩にあらわれる「神のような」父親像は,
1
9
5
9年の秋の“ The C
o
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s
s
u
s”では力を失って崩壊した「巨大な彫像J と
して描かれ, さらに“ Daddy”の半年前( 1962年 4月)に書かれた“ L
i
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l
e
- 69ー
Fugue”では,神としての資質をすっかり剥ぎとられている。 C
f
. Hughes,
“Sylvia PlathandHerJournals”i
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d
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,p
.1
6
2
.
3
1
) 父親の「模型」を作り,それを夫の姿と重ねあわせながら父と夫とを滅ぼして
しまう「儀式」は, フレイザーの
F金枝篇」の中に言及されている「共感呪
術 J を,「悪魔払いの儀式」に取りいれたものと見なす批評家も少なくない.
C
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(New York: Harper and Row, 1
9
7
6
)
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.1
2
4
; Guinevara A. Nance and
J
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. Jones,
“ DoingAwaywith Daddy: Exorcismand Sympathetic
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sPoetry", C
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)
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.7
5
8
1
.
Magici
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3
2
) プラスは 1
9
6
1年 2月に流産したが,
この喪失の悲しみは“ Parliament H
i
l
l
p
.1
5
2
3
。
)
F
i
e
l
d”に描かれている(p
3
3
) 「第三の声」は暴力によって妊娠したことが暗示されているが,相手の男性に
ついての言及はない。また幸せな母親となる「第一の声J も自分の夫について
は語っていない。したがって,「三人の女J は妊娠,出産,流産という経験に
対する女性の意識のみに焦点、をあわせたドラマで、あると言えよう。
3
4
) AdrienneR
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,OfWomanBorn:Motherhooda
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(NewYork:W.W.NortonandC
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)
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5
6
. リッチ(や E
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i など)は,自然や自然の営みのリズムを無視し,それを
利益を生みだす機械的なシステムとして搾取し,破壊することによって発展
してきた現代の産業文明を父性文明と見なし,母性を中心として自然との融合
マターナリスト
を重んじる調和のとれた文明を志向するために「母性主義者」と呼ばれる。
3
5
) Hughes,
“S
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hand HerJ
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s,
” p
.1
6
1
.
3
6
) プラスはこの詩に,次のような解説をつけている。「この詩は死の二重性,あ
るいは分裂症的な本質についてのものです一一ブレイクのデス・マスクの大
理石のような冷たさと...手袋をはめた手のような...姐虫や水,その他の
異化作用を誘発する物質のぞっとするような柔らかさなのです。この死の二
つの面を,二人の男,仕事の話でやってきた二人の実業家である友人たちと考
えました(p
.2
94
)
」
。
3
7
) たとえば Butscher は,“ b
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h goddess”としての自我と“ golden g
i
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l”
としての自我とが葛藤していたと考え, George Stade は“ uglyand h
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f,,と“ w
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t”の相克を想定する。 C
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5
; George S
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, Afterword t
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.6
6
7
.
3
8
) G
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t と Gub
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rは,このような存在論的不安を“ a
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fauthorship"
と名づけている。 C
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t andGubar, p
.4
9
. また JonathanC
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rも
次のように述べている。「女性を詩神になぞらえ,詩と同一視することは,詩
人は男性であると仮定することに等しい。これは女というものを称揚してい
るようだが,実際は女性が文学生産というシステムの中での能動的な役割を
- 70 -
はたすことを否定し,文学の伝統から女性を遠ざけているのである」一−
Jonathan C
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, On D
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9
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2
)
,p
.1
6
7
.
t
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r
a
l
i
s
m(NewYork; C
3
9
) Rich は,男性を「魅力的であるが恐怖を感じさせるもの」として描いたプラ
スの詩には,いままで、の女性詩人の作品にはなかった「女性のダイナミックな
エネルギー」が充満していると考える。 Adrienne Rich,
“ WhenWe Dead
Awaken: Writinga
s Re-Vision,
”C
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g
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s
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2(
1
9
7
2
)
,p
.1
9
.
4
0
) 「女王蜂」によって「創造力に溢れる自律的な自己」を表現しようとしたプラ
スの試みについては, SusanR. Van Dyne の“ Bee Poems”をめぐる研
f
. Susan R. Van Dyne,
“
‘ More T
e
r
r
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b
l
e Than She
究論文に詳しい。 C
Ever Was:
’ The ManuscriptsofS
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sBee Poems”i
nC
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i
aP
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,p
p
.1
5
4
1
7
0
.
“ When We Dead Awaken,
” p
.2
0
. リッチによれば,“ r
e
v
i
s
i
o
n
"
4
1
) Rich,
とは「過去を振り返り,新しい視点ですべてのものを見ること,新たに批評す
るという態勢で古いテキストにアプローチすること」である。
- 7
1-
Fly UP