Comments
Description
Transcript
- HERMES-IR
Title Author(s) Citation Issue Date Type ヒルデスハイム司教コンラート(二世)の領国形成政策 : (一二二一−一二四六年) 山田, 欣吾 一橋大学研究年報. 経済学研究, 18: 129-202 1974-03-30 Departmental Bulletin Paper Text Version publisher URL http://doi.org/10.15057/9338 Right Hitotsubashi University Repository ヒルデスハイム司教コンラート 領国形成政策︵三三⊥二四六年︶ はじめに ︵二世︶の 山 田 欣 吾 一二三五年の夏、皇帝フリードリヒニ世は彼の長い統治期間を通じて稀にしか訪れることのなかった有利な政治情 勢の中で、マインツに帝国会議︵“ミぎ恥ミミミ声もミ欝裟§ミ菖を開き、一連の﹁帝国改革﹂を試みた。その第︸ は自らの長子であるドイツ国王ハインリヒ七世の廃位、その第二はいわゆるマインツのラント平和立法︵8誤ミミご 篭§帖防︶の制定であり、そして、その第三はブラウンシュヴァイク・リュネブルク公領︵雷Rき讐∈・一卑窪霧。ヲ毒嘩 ︵1︶ ︵田ω99国o旨器く自国一58琴臣︶も出席し、ブラウンシュヴァイク・リュネブルク公領の新設を定めた証書に証人 い麟ロoσ費⑳︶の新設である。この帝国会議には、他の多くの帝国諸侯と並んで、ヒルデスハイムの司教コンラート ︵2︶ として名を連ねているが、全ドイツの政治秩序を改革するために︵㌣ミ魯・ミミ執§ミ&§聴ミ恥塁ミ§︶皇帝がとった ヒルデスハイム司教コンラート︵二世︶の領国形成政策 一二九 一橋大学研究年報 経済学研究 18 二二〇 この有名な措置は、その一般政治史的、国制史的意義のほかに、実は、ヒルデスハイム司教領国の形成史にとって、 特殊に重大な意義をもつものであった。 ︵3︶ 皇帝は都市プラウンシュヴァイクと城郭リュネブルクとを中心とする二大所領複合を合体して︵§職ミ§誤︶、そこ から新たな公領をつくり︵ミ馬§ミ§帆ミ恥飛§ミ§δ、他方、一二一八年に死去したドイツ皇帝オットi四世の甥であ りながら全く無官にとどまっていたヴェルフェン家のオットi︵98く8巨8どφOpω匹邑︶を公式に公とし て帝国諸侯の身分にひきあげ︵9§§醤ミ驚ミ魁㌣誉竃鷺§誉魯ミ塁︶、彼に新公領を帝国レーンとして授与した。こ うしてつくられた公領は、ハインリヒ獅子公のザクセン公領と異なって、超領国的支配としてのω$ヨヨ3箒養轟ε巳 ︵4︶ ではなく、マインツのラント平和立法が帝国の基本的構成単位として前提している領国︵曇、ミ︶の意味における笛, ︵5︶ 馨oユ巴o切国曾8αQεヨであった。したがって、ブラウンシュヴァイク公領を新設するというごとは、当然のことなが ら、周辺諸勢力との関係を領国的国家性の水準において定めること、言いかえれば、新公領を中心とする■群呂R奉7 ︵6︶ 護一9ぴ︵諸領国間の関係︶の一応の確定を伴わざるをえないことであった。このことは、ブラウンシュヴァイクの西南 に隣接するヒルデスハイムとの関係においても例外ではない。 ブラウンシュヴァイクとヒルデスハイムの領国関係確定をめぐって、マインツの帝国会議が激しい論争の揚となっ た。その際、オットーは自己の領国主的地歩をヒルデスハイムの犠牲において最大限伸張しておこうと努めたようで ある。この権利主張は司教コンラートの反論の前に結局しりぞけられたが、この事件を伝える唯一の史料である﹃ヒ ルデスハイム年代記﹄はその事情をつぎのように簡潔に記している。﹁さらにまた、ブラウンシュヴァイク公オット ︵7︶ iがマインツの帝国会議に際し皇帝と諸侯のまえで裁判権を寡奪しようとしたが、彼︵司教コンラート︶はわれらの全 司教管区を公の裁判権から聡明にも解放し、その際、公式発言において全員の前で、ヒルデスハイム司教領は司教た だ一人を除き他のいかなるヘル権力、いかなる公権力にも従属するものではないことを明示した。そして、これは並 ︵8︶ みいる諸侯により一致して是認された。﹂ ブラウンシュヴァイク公がどのような根拠にもとづいて、具体的に何を主張したのかをこの文章そのものから読み とることはできない。それが司教区全域についての旧部族公権の法的主張なのか、それとも、司教区内特定地域につ 、 、 ︵9︶ いての﹁裁判権纂奪﹂あ企てなのか、という問題もここではただ提起しうるにとどまり、その結論はすべて、これと 関連のありそうなもろもろの歴史過程の具体的検討の後まで留保しなければならぬ事柄に属する。その点は後で考察 するとして、ここで確認しておくべきは、マインツの帝国会議はヒルデスハイム司教領国の公的な存在確認の揚でも あったということである。年代記が明示しているように、司教はヒルデスハイムの領国に対し、公の権力と同格の ︵富旨oαQωぎ邑3︶領国主的権力をもつことが皇帝と諸侯とによって公認された。ブラウンシュヴァイク公の側からす ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ る異議申立てにもかかわらず、ヒルデスハイム司教領国は、その形成史上、このときにはじめて、異論の余地なき自 立的領国としてその存在を内外に示したのである。 そこで、右のような確認から、われわれの関心は、一二三五年にはっきりその姿を現わしたヒルデスハイム司教コ ンラートの領国なるものの具体的認識へと導かれる。 ところで、司教コンラートのもとにおけるヒルデスハイム司教領国の歴史を記述しようとするに当って、そもそも ヒルデスハイム司教コンラート︵二世︶の領国形成政策 一三一 竈 〆∼. ノ , } 1)ePI)nau 22 農》、娼 邸3㎎雛5蹴9 7 監△− 卯。 く ne 、曜2距・3.総▲▲楢.耐ノr 23 18 囲2▲訪▲乱鍵.ぬ㎞Q%㎜一 ㎞監 ▲ −聰㏄ 塊 、 雌﹄マ訪姐甜.嫁購蝶・蟹、 3● 獣羨郡▲銘。・Q蟹へ鷲︾、、漁 4▲ 、.\6 瀞㎜謡 〆! E ㎞ 私牲 Mfη4eπ 7 助 ﹄ 血ら6・ノ π ¥,ノb!凹 脆 碑!\\ブρ∼畢! ’ ㏄ 〆 ダ恥 一駁 2● H鋤nover 、爆 、 諺ノ ㌧、 、 ヘ ヤ〇三①一 ! ︸橋大学研究年報 経済学研究 13世紀前物ヒノレデ弘イ雨教領国 [ 、 0 4 8 12 16 20kπt 教区境界 8’ヒルデスハイム司教の城郭 ・一・一・ ●ヒルデスハイム司教のミニステリアーレン _ Oヒルデスハイム司教以外のミニステリアーレン三 δヒルデスハイム司教以外に属する城郭 ■司教の伯権のもとにある場所 △貴族のホーフ 口他の領主に伯粘のある場所 A司教およぴ聖堂参事会のホーフ ◎◎都市 一 Oelsburg Ohlum ヒ ル†Orsleve ア Ostharringen ス Othfressen ノ、 イdθP∫sc敵θ ム Reden 司 教 Rheden コ Rh血den と Ringe盟翫elm フ 1 Rdssing ト Salder ( ’Schmedenstedt − Schwiche董dt 世 ) Sbhlde の†Steinberg 領 国St6ckheim 形†Thidexen 成 Uetze 政 策 Upen Vohhm ∼Vassel Watenstedt Wehre †Werder WerlaBurgdorf 、Vesseln Wdhle 、Vrisbergholzen Giesen Barienrode Gustedt Beddingen †Hareb・rdessem Berelris †Harlissem Betheln Bettmar Harsum Hary Hasede Heckenbeck BIlm B eckenstedt Bledeln H口mmelsthUr Bodenl)urg HoheneggeIsen Bomum Borsum HohenhameLn HoHe Bortfeld Hotteln Clauen Ilten Cramme Itzum Dah監um Kemme Derneburg K監rchrode Dinklar Klem Schw面】per Dohren †D・lgen Lebenstedt Leifelde Dorstudt Lengede Drispenstedt Lewe DUngen †Losebeck †Ellstringe †Luthingessem Eitzum Lutter Eibe Nlah[erten Elze Emmerke MUlhngen Escherde Fiach St6ckheim Nette ラ ク ベ ン ス き の を 諸 、 すでに基本的に片付 体 目 り 的 の こ 作 イ ま 業 ン れ プ デ る ︵10︶ 具項 と Algermissen Baddeckenstedt Gleidingen た、その記述の中に ︵11︶ 所 Adenstedt A】ter Markt †Altes Dorf Fummelse 意味においてつくる な Freden Mahner 喘 したがって・あとは し 細かな力仕事とでも 鯖 いうぺき史料分析の 現 作業を残すだけなの 在 F6rste すいうの で う い構 に理 う 造 基論 こ の 本的 と 記 的間 な述 題 の と 片 は か は 付 ’ と ど 0 2 8 9 2 2 9 8 3 2 3 0 0 5 9 3 4 32領7 0 2 21 44 86 23 62 3 17 74 21 37 84 99 84 71 68 65 58 国なる 政治 共同8 体 9S7 Oede】um Flbthe ていると思う。ま 7 5 8 8 2 8 4 7 0 4 6 6 9 5 6 5 1 12い1 143462 84 62 5 8 5弓 74 65 31 81 5 4 23 29 96 59 58 7 Nienstedt † 在 967945740678533165 8 1 5851 こ7 とも可 能で1 ある。 36 3 1 1 2 9 9 10 67853213527 91 3969747 Netthngen・ だが、これは予想以上に骨の折れる仕事である。とくに、ヒルデスハイムの地域史研究の現状においては、それが従 一橋大学研究年報 経済学研究 18 一三四 ︵12︶ 来かなり論ぜられることの多かった地域であるにもかかわらず、いまだに人名、地名についての基礎研究すら欠いて 炉るため、われわれはしばしば一人の人物、一つの集落のアイデンティフィケーションのために、数日間も史料や地 図の中をかけまわらなければならない。しかし、いずれにしろ、それはやらざるをえない仕事である。ただ、そうし た作業が、多少ともプ・ジェクトに沿った成果をもたらすまでには、なお、さらに時と労力とを必要とする。 そこで、さしあたりここでは、右のような作業のある程度の進展を前提しつつ、間題を、ヒルデスハイム司教領国 の輪郭と骨格の大すじをえがくことに限りたい。すなわち、一二三五年に存在確認をえたこの領国はおよそどのよう な拡がりをもっていたのか、という問題である。ヒルデスハイム年代記は先に引用した個所で、司教の領国主的支配 権は尽蹄8憾ミ§霞帖ミ婁ミミ§粧を覆うかのごとくにのべているが、この愚房8㌧ミ誤が§。§葛︵司教管区︶の意味 で使われているとすれば、年代記の記事は明らかに正しくない。ヒルデスハイム司教区の北部一帯は、後にブラウン シュヴァイク公のレシデンツになるO亀Φを中心としたヴニルフェン家の大領土に属していたし、また、司教区の中 には都市ブラウンシュヴァイクの≦魯浮ま︵市域︶の一部すら含まれていたのである。したがって、ヒルデスハイ ム司教領国の輪郭は、司教管区の境界線などによってすっきり画することができず、境界領域の一つ一つについて、 また、断えざる変化動揺の姿に即して調べださなければならないことになる。その作業は、したがって、事実上、司 教と周辺諸侯・諸領主との関係を軸とした政治史の概要たらざるをえないだろう。 ︵1︶ マインツの帝国会議前後の政治情勢については、民p口88且自一団讐界国巴ω9卑一。今一9α輿勢∼或酔¢卜⊃ωαP堵o苧 餌﹃露O犀㌧H︾帥onoo①一αO一一一〇ひω一H 。 ω,いMN中’国ゆ彗℃①い一︿騨Hン∪㊤oo国OO﹃日一一梓O一帥一醗OH℃軌, ︾賃山︸ 一︷O一昌 一〇ひQ一 ω, いOい繭,O﹃仁昌αヨ騨P昌㌧ 。鷲圧。一ま・一・oQ葺茜震醗這罫ω■ま軌︷﹂囚9ぎ一“勺。耳︸∪一。身言≡おH︷。三αq︸H。一巨。一屋 一,。三8塁一℃。一義︻⋮自999’、Φαq自α頃巨一い阜琶︵一一命智寓.一⋮邑Rけ﹂一・”03ぎ﹃匹“国こ H肖O﹃びO貝一, ︵Pげ=︷ぴ一一一σqけロヨ、 qOαqO昌o陰①陣昌O口くP一〇﹃’ UoなN蒔這置あ﹄O論マインツのラント平和立法については、冒馨。声寓窪話。F一︶雲ω9緯 国P昌ασ口Oげ ユ①貝 α①目歴のOげOコ ,) 信コ自ぎお≦一﹃犀目”σq一目αOロ富9拓昌QQけP鉢閏二〇α﹁矧プω=こ≦9ヨP﹃一〇頓魯QD’OM中ブラウンシ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ち ヤ 巨ヨ§茎喜。o昌区一品窪留。・寄互鉱ξ卑。冨g区串曼喜ぎ区一琶σq自虞呂g・− ︸O畿軸㌦這帖ぴミ動、嫡亀馬い蕊“霜肋覧、O特馬、へ帆醤馬§賎帖ぴ黛肋ヘヘ のOゴ’く〇一αミー︼﹁O昌Oσ口﹃のくOロ 一NQ軌, 図を参照。 いわれるものは、リュボブルク周辺の広大な領土のみならず・ヴェルフェン家の ヒルデスハイム司教コンラート︵二世︶の領国形成政策 三五 Oαヰぎαqo昌一8yψ9R弓暮Nρコこ]︶δ≦色評079一目寓二ε旨9,穿穿○㌧ψ卜oOにある地 領を指す。属三3σ,警鱒Rり■ o 簿 o ︸U四ω団耳げO一︷O一目羅O一一U畠¢の]﹁α≠、O昌 ︼︾幽O↑O旨H一肯Oユ鎖一〇コ○一,ロ一一島一P⑳O一一畠OOnH白O圏NOαq砕⊆昌一もη閉岸卿=昌I 皇帝により帝国領に組み い れ ら れ た 旧 ヴ エルフェン家領、具体的にはブラウンシュヴァイク周辺の比較的コンパクトな所 自由世襲地全体を意味し、㌔ミ賊ミ馬ミ蘭ミ漢§暮・⋮:婁ミミミ嵩警塗ミ笈薗恥﹂Nミミ醤きま魁、ミ、ミミ罵ミ砺簑達..とはこの時点で ︵3︶ ご、、O、、帖黛ミ輪ら黛恥転、ミ罵い軌 寒 寒 ミ 尊 トミ嵩もぴ窯、h、U一崎貸Q戚凧&帆Oヤ這黛∼馬↓、罵∼賊︸O醤軸“O 噌O“麟音い、 馬随恥馬き㌧ “hミこミ窺匙訂砺 喬趣軸q q貸動鳳憶幅勲 馬馬、、賊硫 馬﹄ ︵2︶宕O国60一巨﹂一、2戸 一〇ざω﹄ひい臣 峠①㎏ω口Oケ9冒⑳O昌N=﹃︻ロ一梓けO一斜一 酔① 一 一〇 げ O昌 O のO 一 一〇 け ①、 ︻ O ︸ プ H3ぎ一8ρoo■嵩。。ぬ■を参照。 ω一①コσpOご ]国α一5ロロ島 悔己 ]﹁P昌ユーロロ匹 ]UO厩 αO口げのOげΦ ↓O﹃﹃剛↑O﹃一ρ一ω酔P勢け 凶ヨ 峯甘ぼどa。拝目ω碍昌毘おgG置︵くg#黄。⋮︵一蓼霧星轟8,×ミ︶ω一Nい ァ イ ク ・ ユ ヴ リ ュ ネ ブ 設 立 に つ い て ル ク 公 領 の は 、勺暮NP国P5いUざ一奉三の9窪、一、①目一8ユ自一日猛■冒耳一一一5山O拝一昌 目昌α 一Nω軌■ Hび﹃ ≦O﹃ユ㊦昌 ユ①切 げOげ①口 7自一孫酔O一即一一ΦNoo, 斜 >島こ≦①目胃這墨ω呂塁匹一夷。一ま団p団旨7望。園魯一壽羅§く8一認。﹂謡一鳶 (1 一橋大学研究年報 経済学研究 18 一三六 ︵4︶ 目Oコ・Oo霧◎=・Z﹃6動ω・N畠・例えぱその第四条の、︸砺§ら議ミ§い⋮⋮層ミ、註§愚象§箕蕊災o§︸§ミ揖喝ミ 魯ミ詩欝賊寒馬ミ鶏ミ&融黛§鴨ミミ馬㌧“§携ゑsミ§亀防黛&帖ミ暴句恥ミ§§馬§鳶ミ黛憶ミ§唖ミご隷霜轡凡や§“§象ミミミ唾罵§ミ箕o黛感職o ミ噛ミミミ⋮⋮ . . の 個 所 に そ れ が 示 さ れ て い る 。 ︵5︶ oo9ヨヨ。旨RNoσq註β審三εユ已窃国①嵩品貫ヨなどの概念については、拙稿﹁十−十二世紀ドイツにおける太公領の 展開ー領邦国家成立史への予備的考察!﹂﹃一橋論叢﹄五九巻三号、 一九六八年参照。なお、国段8四国曾8のεヨの 訳語としては、それぞれ﹁公﹂、﹁公領﹂をあてて今後、統一をはかりたい。 ︵6︶ それは公領をとりまくすぺての方向において、多かれ少なかれ激しい権利主張のぶつかりあいを惹き起したが、それ については、さしあたり、℃緯器い甲︸9曾語一39①昌日①三εユ窪画画・○・、OO・峯宍参照。 ︵7︶ Gミo這8識寅帖ミ馬罫亀§§罫竃O国あωN一〇。&oo,o。轟qIo。冨■編者の史料批判によれぱ、司教コンラートニ世の事績を 記した部分は十三世紀中葉の手になっている。また、記録の内容を証書とつきあわせて検討すると、この年代記は一般に 事実の記録という点で高い史料的信愚性を感じさせる。したがって、この事件についての言及を含む他の史料は存在しな いものの、年代記の記事は基本的に信用してよかろう。また、これまでの研究史上、この年代記の記慕に疑いを提起した 学者はいない。なお、マインツの帝国会議の際にコンラートは、新公領樹立に関する前記の証書に証人として現れるほか、 皇帝から八月二十三日付の証書を獲得、ヒルデスハイム聖堂参事会によるO鋸8昌くo昌譲書三窪冨﹃⑳およぴ団傷oヲo目2 <o昌コ帥σQ①昌からのフォークタイの買い戻しを承認してもらっている。q詩葺益9き¢oげロ窃︸ざo訂江︷房瞑一匡$冨凶旨ロコユ ωoすR切﹃99p=話のく福︷﹂曽巨$言αコ■コ8αQ9<品■HO践ぎ旨鼻這3︵Zg費g一︻山霞︾島繋富一〇。まソ目・1<[・ 瞑睾き︿R這O学這=■︵以下では単にdω﹂,2︻ドω■ドという形で略記する︶HH25畠命ψ這P蜜昌一N︵旨呂︶>夷, N曾 ︵8︶9§野ミ駄φ。。ひ一ーり、ミミ、§§§&ミき§a、貸︸︸◎ミミ義軸誉§駄§馬輔い恥﹄㊤噛§⇔嚇ミ軌§ミ§恥§§⇔ミるミ。 感ミ切ミミ匙蔚§旨簸黛誤ミ㌧ミ馬8、ミ嵩§§ま§博ミミミ恥衷博篭§曹凡罫防きミミ窺旨、恥§感§もミミ義§q貯§噺ミ§、 “さミもミ賊恥ミミ§ミ霜ミさ野魯こミ。ミ辱さ§麟︾ミ更§ξミ窺ミミ§き誤・山悼ミ恥誤鴨睾畑馬菖§嚇奪傍h。憶黛w吋︷ミ噛一ミ註§織。噛醤国樽篭p ヨ §hミ塞匙§衰ミ㌧愁ミミ饗§ニミ§恥魯誉。誉旨黛§ミ鋭魁ぎ“淺篭&楠ミ篭ミ旨㌣帖§も&誤尽黛&ミ§畑・.、 ︵m︶ 拙稿﹁く。﹃﹃塁旨お茜窃。﹃。算。についてiW・シュレジンガーとO・ブルンナーの揚合i﹂︵﹃一橋論叢﹄六四t ︵9︶ ℃緯Nρ国■U5毛05の昌9↓o霞凶8=魯§■Pρω■くはそのような理解を暗示している。 ノ五、一九七〇︶四五頁以下参照。成瀬治﹁身分制社会の構造史的考察についてーオットー・ブルンナーの理論の再検 討を中心にー﹂︵西洋中世史研究会編﹃西洋中世世界の展開﹄一九七三、 一七七−一二二頁︶はこの点でも教えるとこ ろ多い。 ︵11︶ その際に最低限欠かすことのできない項目としては、つぎのようなものを列挙することができる。例えば、①0.ブ ルンナーの意味におけるピ目島oωαQoヨ①ぎ号の人的構成を明らかにすること、したがって、司教領国についていえぱ、Uoヨ、 とでしばしば証人の役割を果たしている貴族的封臣、司教および司教の設立になる諸修道院の、・・ニステリァーレン、十三 ζロ琶︵司教座聖堂参事会︶のメムバーおよぴ臣欝窃貧亀ぎ号︵司教管区会議︶の少なくとも常連的出席者、司教のも かにすること。②ランデスヘルの支配の諸要素を明らかにすること。すなわち、司教、聖堂参事会およぴ司教の﹁私有修道 世紀にはすでにある規則性をもって司教の証書に証人として現われる市民等々を一人一人hpヨ三窪鴨8三9岳号に明ら 院﹂の所領・十分一税徴集権などの分布、城の分布と機能、各毬ゲリヒト︵O声厨9鉱戸舅﹃①西﹃p房oぎ爵OoσQ.鉱。。。7”拝 ■墜︵蒔豊。年︶の分布とその相関的構造、貨幣鋳造所・関税徴集所の分布と機能などをその8℃品.巷臣ω島な構造ととも に明らかにすること。③そうした支配の諸要素に対する管理の構造を明らかにすること、すなわち、それらのうち授封さ ヒルデスハイム司教コンラート︵二世︶の領国形成政策 一三七 一橋大学研究年報 経済学研究 18 一三八 れている部分と直轄部分との識別の上にたって、後者についてはとくにランデスヘルの家政管理役人と地方行政役人を洗 い出し、彼らのランデスヘルに対するアムト法的関係のあり方を確認し、あわせて、類型的概念としての行政管区︵ン誉巽︶ の形成過程をその一っ一つについて追跡すること。④最もひろい意味におけろいき鼻品琶oq︵したがって司教領国の揚合 には司教管区会議ω岩aoも含まれる︶の構造と機能とをその歴史的変化において把握し、そのなかからr睾3蕪マ ヘ ヤ ヤ ヤ α。<oぽ霧誓夷の制度的形成過程を明らかにすること。⑤最後に極めて困難なことながら、領国内で現実に妥当する法の 諸層︵帝国法からフnoδ巳一夷で適用されるホーフレヒトに至るまでの︶をつかみ出し、領国において妥当する法の多次元 的モザイク構造を、明らかにするとともに、εコ芸きω39三〇誤としてのラント法︵領国の法︶の形成過程を追究すること、 それとの関連において住民諸層のラント帰属意識をー研究の現段階ではなお方法的模索の域を脱することができていな いにせよー探求すること。最後の点については、例えば勺暮器㍉討器”>号一β昌αooけ旨臼oぼo巳﹃蜀ε臨o旨一曾ε畦詳oー ︵12︶ ヒルデスハイムの歴史を新しい国制史の観点から綜合的に叙述したものに、目o冒oヨ磐P≦o一お言αq㌧∪器匪。ほεヨ ユ巴RO89三昌器3貝2ぎおゆ旨ヨ三巴巴岳島畠g幻9号﹄≡ω一圃﹂9鼻’い睾号品窃﹂OO﹂8避を参照。 M[二島雷げ9日帥ヨ民﹃餌律窃℃ε一畠¢H国08げoo−ロ昌山一、O員答oユ巴唱o=鉱κくo﹃コoプヨ一8げ08一ト﹂,︸p﹃二≡ロαo耳9=一蜀霧一器一ヨ一〇ひoo’が ある。これは=o冒ユ9閃再言Rのもとで成ったU凶ω器ユ象δ昌であるが、ラントの歴史を帝国政治史の脈絡の中で見なお す試みとして、かなりの成功をおさめている。しかし、その叙述は一一九〇年司教アデロークの死の年にまでしか及んで いない。十三世紀についての新しい綜合叙述は、まだ誰によってもなされていない。この時代については、ヒルデスハイ ムの東南に隣接する≦〇三号p訂品伯に関する≦o=撃夷勺暮ぎの∪一。。。。。詳暮⋮ごU置O奉h雲<op≦σ三お寓&?づ、〇三ー α窪げoお■>留房ぎ旨8一β織賞民α三讐ヨ昌⊆p島■”口α島訂﹃お9p津ρ旨客o巳乏霧9賃N一ヨ旨■垣コO嵩’冒一巳葺昌3拝一S一酢 り 匹往窃訂昌がわれわれに対しても教えるところ極めて多い。また領国史研究の上で特に重要な文献だけをあげればつぎ のようなものがある。因一〇≦犀き頃四P甲薯巳冨斜ω一信α一Φ⇒N=味盆旨詫〇二巴①β団β酔≦8巨=コσq山鵠ωぢε目ω頃=山$げ巴ヨ■国ぎ 閃①凶昏おNa三緯9,一。。畠睾08讐竜三①Zおαo島8訂gμ09ααq魯這鴇、℃簿oβ︾ヨ〇一ρUδ国馨緯魯目お畠R>目話7 げ一。・oげ騒一9①国。婁詳窪言目一日冒一ヰΦ巨一〇び<o旨魯ヨ=9営α窪∪6器し。雲国巴げ。﹃の鼠蜂﹄,H一こ①跨①一β窯m豊Φげ目の目呂冒o目− お魯器呂の冒田8鼻蜂凝ま亀邑ヨ︵鼻旨8−嵩8y喜&・国昇ダ匿留9。。﹂8怠ω﹄監−鴇。。・野旨㌧≧ぎ﹃ρu霧 器ご昌σq,⋮目N国p﹃Nくしい﹂8ρωω認−台o。。固夷のPO鷺ごU一〇<oαq砕oニヨ一W凶ωεヨ国臨αo旨o凶日,U一器Rβ二g国二pお自 一。零ω&ρ08嶺uRdβo。一ぎ○畏巴雪︵閏gの号,N,o$z島霧房ω︶=目3<RおF霊ヨ3、一〇8壌冒。 望雪烏ωく。﹃鼠ぎ講。曾ω目匡窃︸蚤ヨ震Uoヨ匿ロ芭ω一巳置ぎ芭8門■u誘鼠帥ぎ昌国o⋮む8■野、。声︵首色β望① 名誘一琶σq窪山窃匹=。昏Φ目9,望&①雛﹂旨2。器ω≧。﹃乞αoop。げ。・■一い一3。ω﹂&占い曾団コαq。野ρ切,∪一。9曾N窪=一ム Oきo山震弩什R窪U凶αN。。q。国凶江。旨。ぎ﹂畳国包8く●O。の﹂W=臼2男・ω’鵠Φ津Q玉﹂Oい軌uo﹂占ω’H=o日嘗p国o錺“U亀急、 閃警。二凶9①ω①・。一言﹃。9叶①巨国。なξヨ雷5。旨①目■国ぎ。O器=。屋ε島①旨伴Rσ。ωo民RRω①急。厨一。耳蒔⋮のα臼Q﹃琶阜 ぎ旨鴇一蚕津伽臼①♂ヨ螢一碍盤峯8需話uo鉾零ε︸一器一一ωヨ田凶匡霧ぼ凶ヨ深耳茜・一8PQo盆oFい08目”望①U5霧畦8犀o<g 冒Pのq①げ口﹃σq口昌q一一︷=αOω﹃Oご5,U一〇〇ω①﹃叶Pけ一〇一一〇α叶叶一βσqOコ一〇ひO, 司教選挙をめぐる紛争 ︵2︶ ︵3︶ ルデスハイム司教コンラート︵二世﹀の領国形成政策 一三九 って、つとにパリで名高く、司教選出時にはマインツ大司教座聖堂のoogo5簿R︵聖堂学校管長︶ の地位 ラートはヨi・ッパ的なスケールの人物であった。コンラートの出身地、出身家系は分らない。 彼は神 μ子のW字識によ に対 し 、 , コ ン 司教ジー クフリート︵一世、一二一六i一二一工︶が地元小貴族ご。窪魯幕お家出身の・ーカルな人物であ ったの ︵1︶ 一 セ へ 一橋大学研究年報 経済学研究 B 一四〇 にあった。彼はまた、教皇づきの勺9箒暮置ス聴罪司祭︶、国ぞ一窪︵礼拝堂司祭︶であり、国お目層R凝R︵十字軍勧奨説教 師︶としてはさきにアルビジョア十字軍に際して名をなし、τ二五年にはアーヘンで国王戴冠後のフリードリヒニ ︵4︶ 世の前で聖地奪還のための十字軍を説いた。そして一二二〇年には教皇から、ドイツ人に対する十字軍勧奨説教師と ︵5︶ しての特別の任務と権限を与えられていた。 一二一二年の恐らく八月中旬、ヒルデスハイム聖堂参事会は全員一致の票をもって、さきに辞職した前司教ジーク フリートの後任にコンラiトを選出した。知らせをうけたマインツ大司教は直ちにヒルデスハイム司教区のグラーフ、 ︵6︶ 、・・ニステリァールたちに祝福の挨拶を送った。しかし、この選挙はマインツ大司教の予想したほどスムーズには進行 しなかった。、・・ニステリァーレンが選挙手続きに異をとなえてその無効を主張し、コンラートを司教口君主として認 めることを拒否したのである。ヒルデスハイムでのコンラートの初仕事は、本来、領国君主にとって、その支配の支 柱たるべき、・・ニステリァーレンとの対決という皮肉なめぐりあわせになった。 折から≦。る窪どお修道院滞在中の国王の前で開かれた諸侯会議に争いがもちこまれた。そこにはコンラート自身 が出頭して、聖堂参事会による選挙の正当性を主張する一方、ミニステリアーレン側からは冒鴛。。3匙民o目区︵<9 国ヨヨRぎ︶篇漆ヨヨRR国犀げ①詳︵<睾↓8器日︶が出席し、従来、﹁法と長き慣習に基づき、ヒルデスハイム司教選挙 における権利をもち来りたる﹂彼らに対し、今回はその権利侵害がなされたため、国王は被選出者の︵俗権授与の︶ ︵7︶ 請求に応ずるぺきではないという主張を行なった。しかし、司教選挙への参与権を求めるこのミニステリァーレンの 主張は、居並ぶ聖俗諸侯、帝国・教会ミニステリアーレン全員により、﹁適当でない、聞いたこともない、すべての ︵8︶ 教会に共通の法に反するもの﹂として却けられ、逆に彼らに対しては新司教への服従が要請されるとともに、さらに 不服がある揚合には、九月一日にフランクフルトで開催される帝国会議に出頭し、国王と諸侯の前で充分に権利主張 をすぺきことが指示された。 ところで、ヒルデスハイムのミニステリァーレンの主張は、一二一五年、第四次ラテラン公会議において、いわば ︵9︶ 十二世紀いらいの教会史的一般傾向の総仕上げとして、聖堂参事会による司教選挙手続きが明瞭・詳細に定められた 直後のことだっただけに、法律論としては最初から通る見込みのないものだった、といってよい。だから、ケルン大 ︵10︶ 司教エンゲルベルトがヒルデスハイムのミニステリアーレンにあてた論争的で高圧的な書状によると、、・、ニステリァ ーレン代表は当初の論拠を奪われて追いつめられた結果、司教に世俗大権を与えうるのは皇帝のみであって、国王に その権限はない、といった勝ち目のない議論までもちだして傷を深くしているらしい。しかし、逆にいえば、彼らが これほどはっきりと不利な論争を諸侯会議の席にもちだしたこと自体、彼らの主張が法律論の上ではともかく、現実 にはいかに深くヒルデスハイムの慣習に根ざしており、彼らが領国を支える不可欠の主体として、自らの実力をいか に強く自覚していたかを物語っている。 ヒルデスハイムのミニステリアーレンは、これに先立つこと約二十年、一一九九年の司教ハルトベルトの選挙に際 しても、これと似たような経験をもっていた。当時、皇帝ハインリヒ六世急死後のシュタウフェン、ヴェルフェン両 家にょる王位争い・両王対立という政治状勢のなかで、教皇は亡帝のカンツラーでもあったヒルデスハイム司教コン ラート一世を免職・破門に処し、新司教の選出を聖堂参事会に命令した。その際、教皇は三名の選挙監査者に対し、 ︵ 1 1 ︶ ヒルデスハイム司教コンラート︵二世︶の領国形成政策 一四一 一橋大学研究年報 経済学研究 18 一四二 選挙への俗人の介入を排除し、彼らに対しては、義務的な協賛以外のことを︵ミaミ黛黛砺軸§ミ偽§動§肋§§駐ミ畑§︶ 許さないよう指示している。参事会は全会一致で=p言ぎ陣<90菩ξヨを選出したが、司教区の貴族、、・・ニステリァ ︵12︶ ーレンの大多数がそれを認めず、依然としてコンラート一世とシュタウフェン王朝の側にたって、都市ヒルデスハイ ムと領国の全域をその軍事的支配下においた。その結果、新司教は自らの司教座聖堂に近づくこ乏もできず、逆に、 職務を剥奪されたはずのコンラートの方は、折からヒルデスハイムに入城した国王フィリップに随行し、一二〇〇年 ︵13︶ 一月一九日の文書に﹁ヒルデスハイム司教、ヴュルツブルク司教被選出者﹂と署名を残している。同年二月二日付け で教皇がパーダーボルン司教にあてたハルトベルト支持の要請状によれぱ、領国を事実上支配していたのはOβ︷ >αo一h<o昌ω9碧一巳げ旨鯨O轟︷o一一国03声ココ三己国05ユoワ<opタδ7誌窪びoお曽Oβ︷閏ユ&ユ9<o昌1<〇三〇噌レ自獣ω$ユp一①昌 ご唱o匡く8閃ω9。巳ρ<o鷺頃品○<9≧け窪ヨp詩汁と㌔ミミミ8§黛§砺..︵彼らの一味︶であり、彼らは司教や参事会 ︵M︶ 員の財産や僧禄や年貢をコンラートの権威に仮託して強制徴集し、ハルトベルトが﹁もろもろの城や都市や所領を領 有するのを阻止して﹂いた。そして、この状態は、同年六月、国王オソトー四世の兄ライン宮廷伯寓魯三9<9ω声− ︵15︶ 一目ω9毛o蒔の軍が彼らを決定的に破り、ヒルデスハイムを陥すことによってはじめて一応の終結にいたったのである。 ︵16︶ この二十年前の場合と同じく、一二二一年の紛争の際にも、ミニステリアーレンは都市ヒルデスハイムと領国の諸 ︵17︶ 軍事拠点を制圧し、教会と聖職者の財産に手をつけ、金品、物資を強制徴発した。とくに彼らは、この時、前司教の 残した金品、家具、調度のたぐいをひどく奪ったらしい。二十年前と違って、今回は有力なグラーフたちを含まぬミ ニステリブーレンだけの行動であったが、彼らはそれを敢えてするほどまでこの二十年の間に実力を高めていたので ハぬロ ある。司教ジークフリートの選挙誓約︵≦昌一一塗覧言鼠什§一︶と職務始末書︵菊8ぎ畠。鼠δは、ヒルデスハイムの司 教と聖堂参事会にとって、、、、ニステリアーレンの自立領主化がいかに危険な状態にまで達していたかを明示している。 とくに後者においてジークフリートは、領国の城と都市と所領とが、・・ニステリアーレンのもとで事実上、レーン類似 のとり扱いを受けている実情をうかがわせつつ、その一つ一つにつき、自分はそれをレーンとして公認したことはな い、と弁明にこれつとめている。ジークフリートが﹁余はわれらの“ミ罰砺匙ミ鍵鳶魯に城を築くことをい唱℃o崔に もその息たちにも許さず、余は当該馬ミ罫を彼に与えず、またいかなる者に対してもわれらの司教領内にて城を築く 許可を与、”起なかった﹂と述べるとき、われわれはそこから、一二〇〇年の際にも﹁反抗者一味﹂の頭株に数えられて いた口唱o崔<8騨9。吋号による留韓。段城建設をはじめ、他のミニステリァーレンによっても、類似の無断築城 が行なわれていたことを容易に読みとることができる。したがって、新司教コンラートがこうしたミニステリァーレ ンに対して自らの司教領国主としての地位を貫徹するためには、いやおうなしに、彼らの制圧下にある司教の都市と 城を解放し、彼らが無断で築いた城を破壊することから始めなけれぱならなかったのである。 コンラートはこの仕事を、彼の人物にふさわしいスケールとスタイルをもってなしとげた。ジ、。お曾ξおいらい、 彼は教皇ホノリゥス三世の全幅の信頼を後楯にしつつ、聖俗諸侯のすぺてから固い支持をとりつけることに成功した。 ≦。る詔どおでの諸侯会議の結論は上述したが、それに基づいて、トリァー大司教、メッツ・シュパイァi司教、レ ーゲンスブルク司教、バーゼル司教、ヴァイセンプルク修道院長、ムーアバッハ修道院長は聖界諸侯として、エルザ ス、ツヴァイブリュッケン、ディーツ、エーバーシュタイン、ライニンゲン、ボイネブルクのグラーフたちは世俗諸 ヒルデスハイム司教コンラート︵二世︶の領国形成政策 . ︸四三 一橋大学研究年報 経済学研究 18 一四四 侯として、また帝国内膳官タ、。9Rく9ωo巨邑窪は⋮ニステリアールに属するものとして、相ついでヒルデスハイ ムのミニステリァーレンに書を送り、異口同音に彼らの主張の非なることをのぺ、司教に対する服従を要請した。一 ︵ 1 9 ︶ 方、国王のカンツラー・コンラートは、都市ヒルデスハイムに対して!−、①葛雪薯義の経過と結果を報知し、市民が、、、 ︵20︶ ニステリアーレンに同調しないよう牽制の手をうっている。 コンラートは、ブラウンシ.一ヴァイクの﹁公﹂ハインリヒ︵ラィン宮廷伯︶の支持を確保するために特別に大きな配 慮を払った。≦。5魯σ霞σqからの文書に予告されていた帝国会議がフランクフルトで開かれ、そこにザクセンの地か ら多数参集したと思われる聖俗諸侯の前で、﹁ザクセンの古きラント平和の更改﹂がなされ、彼らがそのラントフリi ︵飢︶ デに対する誓約を行なったとき、﹁公ハインリヒ﹂に対してはとくに国王ハインリヒ七世からの親書が出されている。 その中で国王は、自分は、ヒルデスハイムの司教被選出者に対し、あらゆる必要手続きを慎重にふんだ上で世俗大権 ︵機磯ミ§§魯誉尽&誤聖ミ象ξ帖ミ§翁︶を授与したと報じ、それに対してヒルデスハイムの、・・ニステリアーレンが依 然として反対している状況を指摘したのち、﹁汝の高貴さと栄光﹂にかけて、﹁汝がよしと思い、またなしうるような やり方で﹂︵ミ。§偽﹄ミミ3蓼ミ唐醇匙ミ醤§ミe菱ミ◎彼らをして主君u司教と和せしめ、服従せしめることを求 め、さらにその結果を文書で報告するように要請した。また、同じくザクセン公ハインリヒに対しては、九月九日付 ︵22︶ で教皇ホノリウス三世も親書を送り、教会の財を荒す犯罪者たち︵ミミ督窯ミ塁︶に抗してコンラートを守るように求 めている。 ︵23︶ このように、コンラートは、ミニステリア⋮レンを討つために、およそ考えられうる最も壮大な大義名分︵皇帝の 命により更改された古きよき﹁ザクセンの平和﹂の侵犯者に対する戦い!︶を手にいれるとともに、現実にも圧倒的 に有利な政治的力関係をつくりだすことに成功した。そして、これを背景としたミニステリアーレンとの軍事対決は、 翌年の春に行なわれたようである。というのは、一二二二年四月、ケルン大司教エンゲルベルトが、ハルバーシュタ ット司教、、・、ンデン司教、コルヴァイ修道院長、ザクセン公ハインリヒ、リュネブルクのオットーおよぴ﹁某々城を 攻囲中のすぺての伯、貴族﹂︵。ミ§ミ偽§ミ§塁§Φ帖§§萄。富ミ帖§ミ§ミ⋮⋮︶に対して挨拶を送り、彼らが﹁神 と皇帝の畏倣ゆえに、また汝らが平和とラントの正義のためになしたる誓約を守って﹂︵㌣ミミミ馬ミ融警帖§賊§感ミ薮 ミ§§恥§§恥§ミミ恥ミひ餐&黛。憾§恥冷§畿鴛なミミ旨議ミミミ︶ヒルデスハイム司教に与えた支援をたたえ、感謝 しているのである。 ︵24︶ 諸侯の連合軍によって攻囲された城の名を、われわれはヒルデスハイム年代記から推測することができる。すなわ へ25︶ ち、そこに、﹁平和の破壊者たちが巣くったところの、われらの都市に近き≦①巳曾城︵∼§ミ§いミ§ミδを攻略し 破壊した﹂と書かれているのがそれであり、また、司教の屋敷地に﹁不法にも築かれたuり碧ω言騨の塔城を完全にひ き倒し破壊した﹂というのも間違いなくこの戦争に関係があるだろう。oo貧簿Φ響城は最有力のミニステリアールごマ ︵25︶ ℃oざく9国8ぎ巳①により、前司教ジークフリートの時代にその許可なく築かれたものであった︵上述︶。エシェルデ 家は司教の領国統治にとって当面最も厄介な障害だったが、コンラートは圧倒的な軍事力によりそれを一気におしつ ぶしてしまワたわけである。 三年後の七月、コンラートは口毛〇一︵﹃且豆。窪9くo昌野。冨巳。と和解する。すなわち、司教は同兄弟に一〇〇 ヒルデスハイム司教コンラ;ト︵二世︶の領国形成政策 一四五 一橋大学研究年報 経済学研究 18 一四六 マルクを支払い、また、このつぎに空領となるレーンから一〇プフントの土地を受封する期待権を約束、それに対し て彼らは司教、聖堂参事会、多くの、、・・ニステリァーレンおよび市民の前で、﹁おおやけにまた自発的に、⋮−彼らが ≦5N窪薯撮城の奇襲︵壽︾ミ。ミ偽ミきモ帖§&ミ匙︶、ヨ雲2のアムト︵愚8︶、都市ヒルデスハイムのフォークタ イおよびザルステド塔城の破壊につき、余と余の教会に対して抱いていた怨恨、争訟およぴ要求のすべて︵。ミ琶 ミ§ミごミミ§§諺誉鷺ミごミ︶を放棄した﹂。そして、=唱o江目αω器=く8国の9。盈。兄弟のつくった年時不明 ︵26︶ の証書によれば、彼らは司教との間でつぎのような注目すべき協約を結んでいる。すなわち、司教は六二五プフント ︵27︶ という大金を支払い、︼置毘は棄ぎ器呂霞の城の、ご疇o匡は閃o。。目夢巴城のミ§§§騎︵城守り︶となる。ただし、 ﹁レーン法に基づくのではなく、︵司教が︶他の城守りたちを置く揚合と同じ法に基づいて﹂である。そして、兄弟 のその地位は、彼らが司教と教会に忠誠をつくす限りにおいて保証され、彼らに対しては、当該城郭に住む他の城守 ︵28︶ りたちと同様の貨幣給付︵切鐘一には九プフント、■首言盈には八プフント︶が支給される。つまり、国の9R︹ざ家は、 いまや再ぴ、家人法に基づくミニステリァールの地位にはっきり引き戻され、かつては事実上存在していた∪す曇匡5 ︵29︶ に対する世襲権を明示的に否定させられただけに、ある意味では一層劣悪な法的地位にたたされることになったので ある。 いずれにしろ、慣習的な司教選挙権を主張して新司教への服従を拒否したミニステリアーレンの勢力は決定的に敗 れた。コンラートは、ブラウンシュヴァイク公をはじめとするザクセン諸侯の軍隊により、この﹁ラント平和の破壊 ︵30︶ 者﹂を討ち、自己の司教としての座を確保するとともに、反抗的なミニステリァーレンに対してその領国主としての 、 権利を貫徹した。ヒルデスハイム司教選挙をめぐるこの騒乱は、一二二二年夏までには基本的に片付いていたらしい。 その頃、コンラートは、教皇ホノリゥスに書を送り、この事件を通じて彼のために大きな役割を果たしたケルン大司 ︵誕︶ 教エンゲルベルトをたたえ、特別の恩顧を求めているからである。 ︵1︶ d切﹄Hψ軌o。P乞p9ζ騨の①塁旨R簿o一一田帥昌α①、ωN甲 ︵2︶国o品9話中口魅虫。。3aH3旨践目︿自国ま毘邑目ゆデ幻①姦巨母も。叶﹂≡Nレ馨’ダ2α留o富﹂。。εω﹄お−ま勢が 司教コンラートに関する唯一の独立論文である。それは二ーダーザクセン歴史協会で、恐らく一般聴衆に対してなされた 講演であり、帝国政治の水準におけるコンラートの活動についてはよい概観を与えるが、ヒルデスハイムの証害集︵証書 集編纂の模範と称賛されている︶編者の作品としてはやや突っ込みに欠けるうらみがある。なお、い雪93国>・O霧畠7 0算OOo﹃U5NO。・Oロ昌Oω訂αけ国一一︵一〇旨O帥5巴W9,コ一置Oω冨一旨一〇。軌o。﹂W巽#睾!>αOFU凶O国の号鐵o<g︸H一乙O昏o一ヨ一国一一− 留旨虫巳一〇〇8,URω■Oo零三色洋oα窃閃訪言ヨω瞑一5霧7鉱ヨ■いωαρ田=畠o旨9営一〇〇ε占8弥におけるコンラートニ世の記 ︵3︶ 国o轟9お⑳はH︷2言Rがコンラートを男色。月窪げR⑳家出身なりと主張したのに対し、確かな証拠が欠けるとして却け 述も、人物像についての素材はすべて、Gミ§一記帆ミ■冒O胃ωoo’詣,o。8の記事に拠っている。 ている。d切’目,bo,ψH ︵4︶ 男①σqoω鼠ぎも①二醐。く,o。一〇げ。oo﹄Oド ︵5︶≦一・琶一ぎ琶噂匿轟具一︷繋R写一aH一。巳H﹄望¢■い昌N一αq一。。c。pりψいN9>一巨”ω●︸一。昌o言。・一器。浮げ■ま目一三 >冥一一一りひ這や9奪。 ︵6︶d甲目、。■ ヒルデスハイム司教コンラート︵二世︶の領国形成政策 一四七 一橋大学研究年報 経済学研究 18 一四八 ︵7︶ 両者の主張は≦05曾言嶺から、トリアー大司教、メッツ、シェパイアー司教、ゑ。5曾ゴφ三霞ぎ9両修道院長 の名において、ヒルデスハイムの全ミニステリアーレンにあてた書状、d蜀目鮮およぴ国王のカンツラーたるメッツ、シ ェバイアー司教コンラートが都市ヒルデスハイムに対して諸侯会議の決定を報じた書状、Uo害髭さ犀、d蒔9山窪玄一〇プ 畠9003鼻国=号号虫ヨ・oo削号・一頃一乞8訂冒一〇。8ー這2・︵以下Uooげ昌oHH・応o・の形で略記︶同・o。曾などから知りうるのみ で、ミニテスリアーレン側の手になる文書は残っていない。 ︵8︶ q中目い﹄層Q噛ミ冬ミ、ミ嵩ぎ騨嶋§噛醤ミ§&器&ミ&器ミ§ミ§務ミ蟻§憾ミ識ミ§§隻§、亀ミ唾§§帖ミ箕ミ帖, ミ&塞るミ§ミ尋§鷺ミ器ミ§、﹂§§qミ誉ま匙きミ§∼§︸軸魁8ミミ8§§剛ミ恥ミ。§ミミ藁象壽箋ミ噛§戚§誉融§eミ&ミミ・ 凡醤、ミ“恥O軌︸這噛旨賊§恥“ミ鞭暁ミ国楠胡鴨疑黛楠ミ厭ミ紬靴O吻= ︵9︶孝§一おぎや≧げ。苫<。﹃︷婁⋮麗。。・。げ一。犀&。乙8§プ9国ぼ。ぎ巨言ヰ。巨霞・い9℃Nお一。。ドω﹄。。・ ︵10︶ d印目。o。︵旨曽<o巴ω①一︶酔oヨσR一︶■ ︵11︶ その理由は、同年秋、ヴュルツブルク司教座聖堂参事会が国王フィリップの意向をうけてコンラートをヴュルツブル ク司教に選んだとき、教皇の反対にもかかわらずコンラートがそれを受けたことにある。dω・目象い一5$βコ旨8>℃⊇ P ︵12︶ d中一。鋒“ぎ口08言H目。ピ鉢o門㊤昌一這O客鉱避 ︵13︶ O、喧§砺9ミ鴬“ミリ9ミ・富&§向8§軌讐■ぎN⇔§§恥§§■9・い縛ぎ匙、﹄目・驚§§器ミ=凝b。・9P ︵14︶ d国,H ﹄ 軌 旨 ■ 緯 o 旨 昌 旨 O O 問 o げ ■ N 、 ︵15︶ この戦争の経過は国声ロ霧9≦①葱。。3Φ菊。一p一。汀o琶︷■︸⇒馨<、r巧o凶一男9冒O︸H。∪¢O訂o昌N,一。。謡,ω、&O−鴇“ が詳細に記述している。 ︵16︶ 国王のカンツラー、ω一。り〇一6=8旨区くo昌旨o言暮qω℃2Rがヒルデスハイムのミニステリアーレンに発した書状が それを示唆している。d切﹂目軌︵一認一くoHωo℃げ一■︶ ︵17︶ のちに司教コンラートニ世が皇帝フリードリヒニ世から、その功績に対する恩賞として、oo℃o=目器。年放棄の証書を 与えられたとき、とくにq蔦竪ミ竃恥亀9ミ騎亀ミミ乾ミ∼ミ§筋、8禽ξ謡紬ミ塁ミ§§偽あてのマンダートを同時に獲得し、 死去せる司教の動産、家財を奪い去る.悪習を禁止させているのは、このことと無関係ではあるまい。d中F一。。卜。﹁一。。ω q中H■ひo。句︹鵠ま<o吋目鉱一一︺”まい︵旨圏y ωo﹃αQoω田一Uo巳⇒〇一器9一巳帥9 ( ( ( ( 21 20 19 18 一一〇D己鐸≧喜﹂一と局畠ぎ巳け篇診二−>夷島け﹂8。耳号ぎぼ韓区西・目9。聾・鼻昌雪破認身魯ω留。房窪畳。豊。。 一〇〇〇。丼幹o。o。舞の一ニニ三年説︵呂O峯はこの年代を採用している︶も、≦ぎぎ一ヨ導P蝉﹂9δR舅ユ&ユ3HH・騨鉾 へ剛Roo似3路93≦①写。耳oゑぎ切包﹃這巽・ω・訟宍によって一応支配的見解となった一二二一年九月一日説も、 ヒルデスハイム司教コンラート︵二世︶の領国形成政策 一四九 =一邑 ○. して 1 < 9﹃ ニ 身 毛藪 o 募 冨0 い 四 昌 象ユ Φ 窪 一 。。 N o・ 律閃 8o 訂ω 昌 o吸■円お二⑳斜国o一彗一〇#o咀㎝■N刃O■ 、 昌 貸 ピ G O 餌 7 R o 島 α R ロユ 昌o 負身象 れば な ら な。 いただ、H︷﹃三三〇﹂疑Z讐o竃一雰畠■些05路99<o﹃①ヨの■メく自﹃一〇。o。9ψ器O中の一二三四年説は論外と σ 。したがって、そのあらましを説明するだけでも一つの小論文を要するほどで、それにたちいることは一切放棄しなけ ぴた に 直 接 の 影 響 その論争はザクセンシュピーゲルの成立年代確定の試みともからんで特に熱をお ゲル を 与 え て い る だ け に、 その年代確定をめぐって長い激しい論争が闘わされてきた。このラント平和の少なからざる条項がザクセンシュピー 零O国ho審壁目﹄oo9この、いわゆる﹁ザクセンのラント平和﹂が一︵急ゲ器により、マグデブルクから発見されていら Uooげ器詳d甲一■o。M,ω﹄爵甲︵一8一くo﹃ooo℃け﹂︶● q閃﹂’ρ♪博■︵一8一くo﹃ooo冥■一︶● い ) ) ) ) 、 一橋大学研究年報 経済学研究 18 一五〇 ともに絶対の確証は欠いているとはいえ、あらゆる状況証拠は決定的に後者に有利であり︵国o穿巽象の論拠を一つ一つ批 判したωoダお旨ごΩ一・<‘冒・N即O・O曾ヨ・>耳・器﹂O旨・ω・い潟中も結論についてはエックハルトと争うことをさけて いる︶、ザクセン地域史の観点からしても、このラント平和更改の動機をヒルデスハイム司教選挙をめぐる騒乱と、この時 点における司教コンラートの﹁中央政界﹂における特別の地位、彼のイニシアティーブに結ぴつけることは最も自然な解 釈である。なお、菊紹窃言H旨℃o旨鵠総占Oも頃o品9お中d切・9ε﹂一,も事実上この立場をとっている。この点につい ては、さらに、詫o一詫oお国ユoFU巽Ooαp昌犀窪αq騨目のOoo。ω8誹o屋営品包ω■閃巴け轟鴨窪器ぼRロ昌言87瓢=中N勾ρO霞ヨ・ >耳■a■這≒噸¢岩弾Oo﹃昌げロσ05一〇8三旨いUδいp口儀︷ユa①島げ9くoαq賃昌αqぎUo暮。。o匡帥昌ασぴ昌ヨ霞臥昌NR勾90﹃σ昌匹− q切目■二﹄o■U●︵一器一〇〇①℃け曝一︶、 窪&聲<8§雛・ωO旨一這踏、ψo。O。い>ロきo。丼O∩。一〇〇酔も同じ結論に達している。 27 26 25 24 23 22 ○ミミ軸■定輪ミ■勲帥■○こoo■ooひド 一〇。軌Oー一〇。o。ω■一,ω,N薯●︵漏ヨ一認軌1≒︶. ωロロo一旨o蔦国,d詩自昌畠9き50びN霞Ooωoピo鐸oαR国RNO⑳Φ<o昌切β仁昌ω07箋o一〇qβロαピゆ昌oび仁お=昌山一ぼ巽Up昌α9 Uooご昌oきq甲HO一、頃二自oω一お一旨一8軌一巳陣一Q、 一ー一一。 こうしたU一〇房#9彦に基づくミ砺ミ、§ミ肋と並んで、レーン法的な国口おヨ彗器巽8算に基づいて勤務する城郭守 コO吋包 麟 昌昌 <9 一毛註。島宮鼻に﹁ミニステリアールの権利ならぬ封臣の権利をもって﹂与え、彼らから臣従の誓いと、皇 い た 備兵が 。 すなわち、司教は一二二八年、封臣の死去によって空領となったゑ岳げR讐9N自の土地を一〇︸β昌昌=旨島 ︵28︶ ⊂ω■自、a・旨8︾b邑’閑o碧・。σH日℃RF<﹂Oo。睾’ dω﹄H一M、い緯o﹃目一b。N一ω①筥.O. (((((( )))))) 帝を除くすぺての人に抗して、司教を助けるという誓約をうけた︵⋮馨亀慧§醇、§獣ミミ§馬ミミ︸蕊、ミミ帖ミミミミ§ドミ& ミ窯防翰亀魯ミ8ミミ§§恥§ぎミ帖ミミ巽驚黛o帖§辱ミさ︶。彼らは、さらに、司教と九名のヒルデスハイムのミニステリ アーレンに対し、司教の要求通りどの城においてであれ、四年間の勤務を誠実に果たし、その際、城守りの貨幣給付は受 けない︵&冬§oミ§博蓋ミoミ偽ミ§器︶ことを約束した。d印目﹄欝﹂80。毎g⑳島けト﹂P ︵29︶ >’Uo富基国算馨〇一∈コのαR>ヨ畠<oヰ器旨ロσq,曽■鉾○■一の■卜oNooいげoω,>昌ヨ’QN、 ︵30︶ コンラートは、一二二一年九月一九日エアフルトにおいて、マインツ大司教により正式に司教として叙階されている。 ︵31︶ d甲目奪・︵お器︾℃三yただし、﹁四月﹂という推測の根拠は示されておらず、男。σQ﹂目や<﹂Oo。8でフィッカー 菊おoゆ$同ヨ℃①旨■く’いo。岩。髭o一一Gミ、§。砺&ミ憾ミき が書いている.ことく、﹁秋以前﹂としておくのが至当であろう。 ニ グラーフシャフト・パイネをめぐる争い 一二二三年二月一八日、司教コンラートがイタリアからヒルデスハイムのミニステリアーレンに送った書簡と、同 年三月ごろのものと推測されている他の二つの文書は、われわれをつぎの問題に導く。コンラートの書簡は﹁余のい たく信頼する﹂教会ミニステリアーレン全員に対し、彼の長期にわたる外地滞在の理由と報告とを書き送ったものだ が、その中で彼は、目下、聖地の問題と一般的な平和を議すべき教皇と皇帝と諸侯の会議が開かれるのを待機中であ ることを述べたのち、その問、自分は﹁われらの諸問題﹂︵ミ鷺ミ§恥§︶を、願い通りに教皇ならびに皇帝のもと ヒルデスハイム司教コンラート︵二世︶の領国形成政策 一五一 一橋大学研究年報 経済学研究 18 一五二 ︵−︶ で片づけ、期待した通りの恩寵をえた、と書いている。コンラートが獲得した成果の一つに二月五日カプァで交付さ ︵2︶ れた皇帝フリードリヒニ世の証書が含まれていたことは確かである。しかし、それが特に、・・ニステリァーレンに報知 を要すると彼が思った事項であったとは考えられない。というのは、この証書は、諸侯の家政役人が主君の同意なく ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ぶ 下役人を任命したり、管理下にある所領を処分することを禁止した、いわぱ、・・ニステリァーレンしめつけ立法であり、 わざわざ彼らに対して手柄顔で予告するに値いするような事柄ではなかった。 そこで問題になるのが国王ハインリヒ七世の日付のないマンダートである。それは、ヴェルフェン家とアスカニア 家の両公︵前者は、乱嚢い嚢§萄、後者は§疑昏粛ミ萄と奇妙に古めかしい形で呼ばれている︶および彼らの権力下にある者 たち︵誉恥ミ§噛ミミ蹄§ミ。§︶に宛てられている。国王はその中で、現在イタリァ滞在中のヒルデスハイム司教コン ラートが、教皇と皇帝から、かの地方︵ザクセン︶の平和と平穏のために配慮すべき特別の任務を託されたことを報 ︵3︶ じ、公たちに対し、司教が指示する時と揚所に出頭して平和を誓うよう要請した。司教に対する教皇と皇帝の任務授 ︵4︶ 与を一二二三年三月の寄お暮首o会議と関連づけるという点で諸学者の見解は一致している。つまり、その頃、ザク ︵5︶ センの地ではある憂慮すべき紛争状態があって、それはヒルデスハイム司教と特に深い関係をもつものだったのであ り、その治安の乱れをおさめるための全権を彼は委任されたわけである。 国王のマンダiトが実際にどのような事件と関連していたか、をつきとめるのは非常に難かしい。とくに、同年五 月七日99瞑魯三9!、9009≦豊ロによるデンマーク国王父子の拘禁という事件が降ってわき、計画されていたラ ︵6︶ ント平和のための会議が流れてしまったとみられるだけになおさらである。ただ、ザクセンにおける最大の実力者た ⊇ ちによる平和会議が、ある一つの事件を、対象にするのではなく、その地方の︵ミミ§⇔憾ミミミ︶幾つかの﹁平和素 乱﹂を問題にする予定であったと考える方が自然であるかもしれない。だとすれば、こうした事件としては、一二二 ︵7︶ 一年9駄属魯三9く2>一身鳶が蜜8喜薦修道院長に加えた体罰にさかのぼる両者の争い、︺肇乱窪9嶺辺境伯領 ︵8︶ の後見と同地の司教選挙をめぐるアスカニァ家、ヴ.一ルフェン家、マグデブルク大司教の対立、O=a言望お修道院 ︵9︶ にたてこもった﹁睦民﹂の周辺劫掠とその武力鎮圧なども除外することはできないだろう。しかし、そうした諸事件 と並んで、もう一つ、ヒルデスハイムと直接のかかわりをもつ事件が、さきに示唆しておいた第三の文書にその顔を ヤ ヤ のぞかせるのである。 ︵10︶ その文書というのは、司教コンラートの95N。ぎく8≦o浮号穽梓色に対する破門状である。この証書は、まず、 司教が先年︵§§篭ミミ§︶、教会の用務のために、またとりわけ﹁悪しき状況にみまわれたるわれらのラントの一 般状勢のために﹂、・ーマ教皇と皇帝フリードリヒのもとを訪れ、﹁彼らから特別に、敵どもの悪行を却け、十字軍の 車業をより効果的に促がすことにより、われらのラントにおける平和を回復すべく細心の努力をいたせ、との勅令を 受け、また、平和の棄乱者どもを適わしき懲罰によって断罪するための権威を彼らから拝受した﹂と述べたのち、 ﹁したがって、︹帝国︺内膳官グンツェリンと彼の息たちおよびそれらの一味が、われらのラントの諸侯と貴族たち によってもたらされたる平和を無分別なる冒険によって破りたる故に、正義を熟慮せるのち、教皇の権威により、ま ︵U︶ た、皇帝の裁判権が︹これに随って︺発動されんがために、同人たちを厳粛に破門する﹂と宣告している。 ところで、コンラートが教皇と皇帝のもとにあり、彼らからザクセン地方のラント平和実現のためのマンダートを ヒルデスハイム司教コンラート︵二世︶の領国形成政策 一五三. 一橋大学研究年報 経済学研究 18 一五四 与えられたのが甲二二三年の二月ないし三月のことだったとすれば、グンツェリンの破門は明らかに翌二四年のこと に属する。事実、グンツェリンは司教コンラートのための前記一二二三年二月五日、カプァでの皇帝証書に証人とし ︵12︶ て名を連ねている。もっとも、そのことが遠くザクセンの地における﹁友好的﹂関係をも推測せしめる根拠にならな いことは言うまでもないが。それどころか、両者の関係は早くから領国形成への努力という水準で激しい対立状態に あったと思われる。 グンツェリンが属する≦o一︷自窪ヰΦ一家は、遠く田琶89のミニステリアールにさかのぼり、遺領の相続関係を ︵13︶ 通じていo夢胃く3ωξ喜轟睾σ環09︵皇帝・タール三世︶のそれを経て、ヴェルフェン家のミニステリァ⋮ルになった 家柄である。一二〇〇年いらい、グンツェリンはヴェルフェン家の国王オットー四世の内膳官として現われ、オット ーの死後、その兄ハインリヒ︵ライン宮廷伯︶のもとで数回文書に名をとどめた後、シュタウフェン家の皇帝フリード ︵14︶ リヒニ世の内膳官の地位についている。グンツェリンの父国犀げ。濤く9≦&9σ薄富一は自由貴族<8bd一。毛魯留家の ︵15︶ ︵16︶ 娘と結婚、爾来両家は協力して勢力の拡大につとめ、十三世紀のはじめには共同で密器げ旨σqを築城した。≦&9− σ蓉琶家の門閥貴族類似の地位は、しかし、何よりもまず、同家がヒルデスハイム司教から受封していた9ph脚9鋒 勺o言Φに基づいていた。同家は十二世紀中葉からしばしば、同時にく8勺Φ50を名のり、﹄§㊦ミ題曽匙ミ窃ミ無ま跨の ︵∬︶ 中では何回も、またハインリヒ獅子公の証書においても一度㌔§§誉、魯駕..とよばれている︵ミニステリアール のグラーフ!︶。 ︵18︶ Oβぎ募ヰ評嘗Φのひろがりを同時代の史料から再構成することは絶望的に困難である。切’国夷Φ一ぎは十四・十五 、、 ︵⑲︶ 世紀に㌔ミ誉鞘需Nミ噌§誌き㌧§ミ八㌧駐ミ︶..とよぱれる写9鵯鉱毘匡津がO寅幹鼠ヰ℃畠器の制度的後継者なり ︵20︶ との想定の上にたって、その﹁区域﹂を再構成しているが、その方法的正当性に対しては深刻な疑問が提起されてい る。したがって、われわれは、いまのところ、かなり大雑把な確認で満足しなければならないのだが、二一〇〇年前 ︵飢︶ 後のO舜ぎ鼠諌勺Φ旨。は、確実にそれに属することの分る諸聚落の分布から推して、およそ零ご。から≦&窪げ簿笹 の西にまで及んでいたと考えられる。そうしてみると、乏o冨号算琶−>霧3自お家の勢力圏は、ブラウンシュヴァイ クとヒルデスハイムの間に斜めに割って入るような形で、西北の℃①50から東南の>ωの。σ弩σqにまで長くひろがって いたことが分る。そして、この政治地理的勢力酎置が、ヒルデスハイムと≦o浮呂葺巨出。。器言おとの衝突を必然化 するとともに、ヒルデスハイムとブラウンシュヴァイクとの決戦1それはまさに宏ω3璃⑫R頴区。という形で起 ったーを約三〇年ほど先にのばしたのである。 ところで、99毘影ヰ男Φ5。は十二世紀の三〇年代いらい、≦〇一︷窪窪ヰΦ一家の手中に、そのU一〇諾跨R同たるω言マ 一言鴨言霞αqン剣&曾両家からレーンとして与えられていた。一方、ヒルデスハイムの司教は、皇帝オットi三世、ハ ︵22︶ インリヒ三世、ハインリヒ四世の証書を根拠にして、このO§﹂砺誉ミ︵○。。窪巴2︶東部のグラーフシャフトに対する 上級封主権を主張することができた。とりわけ、一一八○年にハインリヒ獅子公から一切の帝国レーンが没収された ︵23︶ 後には、司教とゑ○一h窪宴ヰ巴家との間にはパイネをめぐって直接のレーン関係が成立したと思われる。一一九二年 の獅子公とその息ハインリヒ︵ライン宮廷伯︶によるパイネ攻撃と破壊は、自己の、・・ニステリァールのこうした﹁離 叛﹂に対する報復であった。爾来、≦o浮善穽琶レ鶉。ど嶺家の領域支配形成への努力は、ヴェルフェン家寄りの立 ︵24︶ ヒルデスハイム司教コンラート︵二世︶の領国形成政策 一五五 一橋大学研究年報 経済学研究 18 一五六 場においてなされたが、そのことがヒルデスハイムにとっては黙視しえぬ危険を意味していたことはいうまでもない。 一一九九年にい区&く8評3。ータ、o浮号痒琶の遺領をついだグンツェリンは、パイネの都市と城とを大規模に改 築する。一二〇二年以降に、グンツェリン兄弟は≦o浮呂舞芭に近い司教のヴィリカチオンooa。穿。目を荒らした ︵25︶ ことが報じられている。そして、まさにこうした動きに対抗するため、司教コンラートはヒルデスハイム司教として ︵駈︶ ははじめての大がかりな城郭建設政策を展開するのである。司教は一二二三年、故9鉱ω。ヨ罫こ<9≦色需の寡 ︵27︶ 婦国§お日乱①から園8魯夢巴の小城を買いとり、そこに新しい城と聚落を建設した。これは明らかに五キ・東のパイ ネに直接対抗するための築城であった。司教はまた、置巨界魯巴ロ一もo匡く自騨9。乱。によって無断で築かれ、選 挙をめぐる紛争中に破壊したoo費。・8鼻の城︵上述︶を﹁重い負担と出費をもって﹂今度は司教の城として再建した。 ︵28︶ 彼はその資金を作るために、司教直領地を聖堂参事会とヒルデスハイムの富裕市民に抵当に入れている。 こうして、ヒルデスハイムとパイネの対立関係は、司教がイタリァで教皇と皇帝のもとにあった一二二三年はじめ には最高潮に達していたものと思われる。そして、この場合にも、彼は、ミニステリアーレンの叛抗を圧しつぶした 蒔と同様、キリスト教世界最高の権威から﹁ラント平和の擁護者﹂としての特命を与えられ、その錦のみ旗によって、 グンツェリンの背後にあるヴェルフェン家の動きを封ずるという策をとっている。両者の軍事的衝突は・iゼンタ; ルとパイネをめぐって戦われた。年代記は、司教コンラートが・ーゼンタールの城と﹁都市﹂を建設したことを報じ た個所につづけて、司教はその購入、建設および同城の﹁攻囲を解くため、また都市パイネを攻め囲むため八千タレ ンタのヒルデスハイム貨幣を支出した﹂と述べている。一ニニ四年のグンツェリンらの破門はこの戦争の過程でなさ ヘ29︶ れたに違いない。 この戦いの結果、司教は9鉱8富津窄言①に対する封主権を貰いたとみられる。というのは、グンツェリンの過去. 帳︵﹀尽ミ髭きミ︶には、彼がパイネ城をグラーフシャフトおよび諸村落とともにヒルデスハイム教会にさしだした ことが記されているからだ。また、こうした結果に対しては、ヴェルフェン家もこの段階においては、基本的に異を ︵30︶ 唱えることが出来なかったらしい。二一二三年七月のハインリヒ公の遺言により、ヴェルフェン家のア・ッド、レー ンすべての単独相続者と指定された○窪oく包寡罵9嶺は司教コンラートに書簡を送り、自らのミニステリァール ︵ 3 1 ︶ ω弩o一一p置<○昌一<o一h自げ薄8一︵グンツェリンの息︶が司教とO声︷=oすユ3<o昌︾巳一巴什︵=RNoσq匿耳8算<op>。。一声昌す の後見人︶に対してなした告発について償いをさせる積りだ、という意思表明を行なっている。だが、9畦零鼠津 ︵324 ℃。5①に対するヴェルフェン家の権利主張は、これで最終的に引込められたわけではない。オットーが一二三五年の マインツ帝国会議においてヒルデスハイム司教から﹁纂奪﹂しようとした﹁裁判権﹂の中には、別の地域のそれと並 んでパイネのグラーフシャフトも含まれていたかもしれないが、それはともかく、コンラートによりこの時点で封主 権だけは確保された同グラーフシャフトを、ヒルデスハイム司教が最終的に領国の中にくみこむためには、ブラウン ︵詔4 シュヴァイク公との長くきびしいフェーデ︵一二五三−五八年︶を戦い抜かなければならなかったのである。 ︵−︶d甲HH象ω弩O。目目o︵旨Nい︶閃①げ﹂。。’即。の①。。雷H日℃。吋一一,く,二爵。 ︵2︶d中昌ひド9℃毒旨卜。。頴げ、い ︵3︶ q中目■ま,oU甲︵感8冒鋒N︶ ヒルデスハイム司教コンラート︵二世︶の領国形成政策 一五七 一橋大学研究年報 経済学研究 18 一五八 ︵4︶い■≦亀p&あ鐘毫毘義■書裂﹃巨。,騨費○あ罫口≦一爵①巨窪p国昏R写一。監9目鉾pOあ鴇9”罐婁四 言も震芦く﹂ooo。Pもっとも、任務依託の動機については、ヴァイラントとヴィンケルマンは異なった解釈をしているが。 ︵5︶ 皇帝の十字軍出発期日を最終的にきめるぺきこの会議には、ザクセンから三夷留ど品大司教をはじめ、ゆβ区Φ〒 げ三,σq’No凶葺<①巳窪司教など多くの聖界諸侯も出席していたのであり、その中から特にヒルデスハイムの司教が任務を 託されている点も考慮に値いするだろう。男o⑳窪泣Hヨ需旨曹<﹂ま印一まo。一 ︵6︶国目o夷9ぎσq、国。。90=︷9声創目<9国邑gぎ巨員レ・○■ひ﹄a中国ン≦昌臣ヨp目︸国塁R零一㊦9.︻。三H﹄﹄■ ○‘ ω,Q回鴎’ ︵7︶ω3巨黛o島鼠くレ屋σq≧一嚇孚ぎ区2宮93ω嵩8訂二剛誘匿巴ぎ翼盆げβ区ω。幕門切巨匡貧苗3トΦ⋮窟一σQ一。。。。い− ︵8︶ 国餌一σ,d用W甲H●軌轟轟・U、≦O=P口α︾ω四〇7の画のOげO﹃]﹃費昌α︷門帥①αΦ。9’即’︵︾こω、Oひ, 国甲譲一昌犀O一ヨ帥ココ讐H︷四曲切O峠男一。一〇山﹃一〇︸一H一隆帥,四■○。ω■ωM軌噛﹃ ドoQoQO、H甲軌ω一讐 U轟O︸ ω斜一’ ︵9︶ q︼W。 一目甲 ひM, O︼U︾。 軸醤帆喝窯O憶裳ミ ミ噛&ミ計黛︸器 、馬、、帖ミ軸恥醤亀蟄§詳ミ蕊感、O辱鳳恥憶 §鵯恥O識ミ︸鳶 “、軸燃“帖防 慧“麟も帖馬馬、盛、OミO畳恥書職黛ミ 画博醤憾恥ミ縞馬、恥ミ貸砺O憾免憶黛︸§ こ・:黛崎黛帖守黛い︵砺“驚’博魯、象恥馬軸§︾魅、a馬O、馬︶§黛醤亀黛詳ミ醤黛馬馬恥博帖悼討貰防砺憾馬“帖喬∼辞ミ∼博霜も凡嘆恥醤、ミ麟a醤織恥蝉醤鷺、、aミO吻鳳憶aもミミ甲感㌣OI ︵10︶ ︵11︶ 黛ミ 匙軌頴鴨 恥毬 嚇 § 、a 馬 O 、慧 馬 窺 ぴ帖 暁 防隣 馬 憶 ∼a 帖 博 匙“ 帖 ミ 、Φ O 慢燭 § 賊 §窺 馬 、 一凡 恥 恥 恥Φ a 辱設 唖 恥 §黛 馬 馬 黛 “ 匙 馬 特 恥 “ 偽 馳 § 帖 り a 、 偽 黛 職 ミ O 毬 画 馬 “ 亀 G鉾 ミ︸醤蝋恥篭§憤O ︵黛醤も恥N賊ミま砺︶ 亀鶏︾N 瀞 ﹃ 恥 鳳 、 ミ 賊 防 窪 画 亀 “ 悼 感 晦 O、 感 、 馬 罷 偽 帖 博 賊 ぴ 繋 恥ミ 鳳O 恥砺 笑馬 鴨、 恥馬 9“醤Oぴ磯画ぴ寂恥憾、O“窯憤象蝋aミ悼象ミ偽設、馬ミ⇔恥、黛、帖Oe輔O、喬1 ミ ミ “ O 遣 N 腎 隷 “ 馬 防 愁 霜 q 恥 ミ 黛 壁ミミ、骨§巽膏恥ミ恥ざ罫畿畠嚢ミ。ミミ馬&§§博尽恥㌣竜ミ§憾ミミミ傍黛ミ峯ミ§詠博。§ミ§§ミ誉§§ミ凡ミ§砧 防O∼馬恥ミ噛書嶋W恥、::リドヘヘ ︵12︶ 寓ooσQ①毒品はこの文書の年時を一二二三年三月と推定し、推定の根拠として1<巨鼠ヨ馨P国巴の霞写更三9F一 ホーゲヴェークの錯覚だろう・ ω﹂謎︸昆昌﹂、を挙げているが、その個所でヴィンケルマンは破門状の年時推定については何ものぺておらず、明らかに ︵13︶=四。邑pOぎ・u一。u一Φ鼻塁旨窪国。冒門一。訂q。。−罫§・国ぼ窒一藷窪o。㎝。菩犀a。じ豊弩量一警,ω茸茜壁 晒ヨウ︷一酔什①一帥一け①円■Oα叶峠凶嵩⑳Oロ一〇ひM■ω■OQO’ 一〇ωO・ω・“O臨・冒o一〇﹃・男目島o一抄U一〇Uo日評卑唱#o一N一一〇〇〇〇一p同信昌α国巳ごo貝の停費山δ一昌障肖o﹃℃①富α昌一一〇一お昌N仁oop日ヨo昌ωoけNg⇒面 ︵14︶ 上註︵2︶に.掲げた皇帝文書参照。 ︵15︶ マイァーは、これがオストファーレンにおいて、最初に実証される貴族とミステリァーレンの婚姻の例だと指摘して いる。園,尾oお5U一〇Uo日犀四℃淳巴NgQ8ポ鉾鉾費一〇4σ︸N避 ︵妬︶ 頃■OOO仲一一口鵬”︾ωの①げ口目の,一昌一頃帥づ含げ口OげαO﹃国凶ω叶O﹃一のOげOuり叶餌叶叶OμUO自伴ωOげ一帥昌αロo、H一,一〇ひOoD壁のOい ︵17︶∪目αqoβ○辞o<oP>留一。DげRお9鉱氏目目一梓o芭8りG鴇●ψo。>昌ヨ■ド ︵18︶﹄§ミ塁曽肉翫ミぴミ寒§・冒O軍ωω・図≦・ψ恥一軌・酵。げ碁R9ざ邑⑦昌まダω臣。﹂。・博?一8q■H﹂一︵ま。y ︵19︶ 国ロσq。一ぎ﹂W。∪一ΦO声罐&P津∪。ヨ。﹂丑国撃一一〇<o房。プ・O窃o鼠9露げ醇ヰ舞鴇﹂旨命ω謡陣 ω。剛.90ざく8零ぎoがロタールの、・・ニステリアールとして初出するのは一=二〇年である。鍍邑︶中qω■H丼 ︵20︶ ℃o蒔ρ≦9蒔目叩UεO量︷曾くo昌≦巳訟ロ⑳R&①−≦9置窪げ①嶺■艶艶P一〇〇’羨oo■同種の批判としては、>,H︷、 毘α日嘗おの諸研究に対するミ・ω。匡aおRのそれ、閃。ヨ9,一ε品a塁ヨ℃8一︶一窪一α段≦。降蘇ヲ昌自O挙塗9gヰ茸=区 蜀円O蒔量房巳βヰ9一﹂≡qo旨﹂W9葺群αq①N霞αげくo焦器o印ロコαqooσっ島〇三〇げ言・b﹂’一〇ひ曾ψboごぬ■がある。 ヒルデスハイム司教コンラート︵二世︶の領国形成政策 一五九 ︵21︶ H︵一。一コωoげ一<P一℃o旨臥§醤ミ・砺膏織馬壌窒づ画O国・ωψ図く一・いNOO︵一一ひひyU①罵o吋α90げ〇一一︹500,N一い︵一一Vひyω巴Nσq凶ヰo﹃ー 一橋大学研究年報 経済学研究 18 一六〇 自Rω審象Oo巴胃巨αqR一冨巨oσ90区霞σ。一品①壽昌σQ。一ωけ︼一昌窪 ︷什首コσqob,頓一WαO’一QQOいー一〇NN’目 ωNO︵一一QQoo︶・くσq一・ 1<ーH︷一〇’く詳N、↓O﹃ユげO同剛ρ一〇昌=ひ毛一〇犀一==顕畠Oωω一ω一=ヨ切︸一=住Oooげ①一ヨ壁P。帥, 1 、 讐 ︵31︶ ︵30︶ G、い憶O養,賓軸、霞恥い、㍗費,費■○,一ω,Qoひ一■dω■HH■凱轟。︵⊆︻P一トoNNッ︶りU圃︵一■NNNIN軌︶, G詠、o醤■定蔑賊鳴肋︸●帥、餌、○︷ωじQQひピ弓q象砺馬、巽韓軸偽W“帖壁激象鷺§肉O防恥醤織魯NもOミ防畑、ミね、慧馬馬暑富ミミe蔑簡匙恥“黛帆ミ防恥ミ願、営O、ミこい鴨叙唾愚,“黛勘陰 ︵︾昌一αq’O⊆O一いH< Ooc ぞ<・一く一〇プ晶叶N”円O円﹃律O吋曲曽一〇国5梓一<一〇犀一=コのユ①ω一Wあ叶=目の頃=ユOωびΦ=昌・P、P・○こω・轟鉾 瓢蟄馬恥達駄O、袖底ミ軸■ = 03馬︸ 蕊 匙Oぴ砺帖織軸o醤帖砺計守馬唖黛畿o醤ミ醤醤馬も鳶o醤黛織、恥黛蕊恥“軋ミ篭黛議恥oぴ旨亀凡oミ馬ミ一貼疑憾恥醤職魯ミ幅oミ災偽蔑賊織恥醤防ミ器ミ嵩蔚 q亀o ミ織欺騒 ︵29︶ ︵28︶ んだ ︵いミミミ斗︶とのべている。9ミ§,鳶凡ミ題鳶P費○こψoo2 わ れ て い る 。 年代記は、この時建設された聚落を﹁都市﹂︵織ミミ肋︶とよぴ、それを司教が城壁で囲 蕊、 ミ 笥 8 § 糺 ミ 恥 が現 dω・目らO︵旨8y購入価絡五〇マルクという金額がその小規模さを物語る。なお、戸ぎP旨よ>嘆=§・にはミミ偽 O香﹃O醤”閑戚馬匙馬向︸■O置曽,○こ oD’Do頃O一 U魯目犀ρ勺o首pヨ”国史二σgげα巽=置けoユω9讐ω曄二〇コUo三ω〇三鎖巳伊目.一まO・ω﹂嬉・ ︸のoo①げσq。dω,一﹃bσM’一〇QO■]円昌αqO一犀ρ帥■㊤■○りω・騨 貴族封臣のグループに入っている から推測しうる。中曽一のo=βO箏房巳一僻h二、o一一一。・鋭鋭Oこω・N・ これは、ヒルデスハイム司教の証書の証人の中においてい仁αo一︷<o昌吋oぎ?≦o一︷9σ茸言一がしめる位置 グラー d一W’H,軌“㌧ ひOり Ooひ一 一一一曽 一一い ω、卜oい, 乙毯毯琶 フ弩召ρ Qn 名ρ一①昌ω梓○αげ”︵甲,ωO︹一〇りげ︻の吸,’、,d賊一2﹄昌島O昌げ口Oげ ( ( ( ( ( ( ︵32︶〇二αq’O審FHダOo。,国ミ帥目閃9目帥昌P囚巴ωR閏二aコ9目旨け幹鴇oo>昌ヨH 田oo⑳9’、oσqはこの日付のない書 簡を一二二三年としているが、前註︵12︶と同じ理由で少なくとも一二二四年以降にしなければならない。 ︵33︶ >﹂W①耳β目︸Ooωo窯〇一#o︵閏8里ωεヨの震五〇。。ぎ一幹m鉾○;ψ卜oま中国¶男跨・く・q。n一貰−O一90ぎP望o︾器oび霞αQ 昌昌自象o蜀魯匿国R80q。。≧ぼ9耳H<o昌団同p∈あ07お蒔σQ品害α霧≦o一︷自σ曽窪o一トG。ω3ξ四8ぎOo零包9耳・ヨ一目睾3く■ O①ωじ一W一一■一9 一〇QOOQOD﹄Oー一N、 三 ホムブルク家をめぐるフェーデと領国の西境 二一二六年の春から夏にかけて、コンラートは再びヒルデスハイムの司教区をあとにし、イタリアの皇帝フリード ︵1︶ リヒニ世のもとにおいて、十字軍勧奨者として重要な任務に従事した。七月十一日、切o嶺ooo,Uo三ぎの大聖堂にお いて、皇帝、聖俗諸侯、学者、市民多数の前で・ンバルディァ諸都市とその同盟者に対する破門と聖務停止︵言話巳一騨︶ ︵2︶ を宣言したのもコンラ ー ト で あ っ た 。 コンラートの活動と功績に対して、皇帝はもろもろの恩寵をもって報いた。前年の半ば頃から、都市ゴスラーの諸 教会に対する司教管轄権をめぐって、マインツ大司教との間で続けられていた争いを、教皇の特使ポルト司教コンラ ︵3︶ ートの確認に基づき、皇帝は、ヒルデスハイム司教に有利な判定をもって終結した。ミニステリアール国旨馨からの 世襲内膳官職︵愚“誉ミ§憾濤唖ミ§︶の買上げ︵銀︸五〇マルクとニプァントのヒルデスハイム貨︶を皇帝は確認し、同ア ︵4︶ ムトが今後何ぴとにも授封されることのないように定めた。皇帝はまた、ヒルデスハイム教会に対するぜ。ぎ震8浮 ヒルデスハイム司教コンラート︵二世︶の領国形成政策 一六一 一橋大学研究年報 経済学研究 18 一六二 を恩寵的に放棄し、同教会の家政役人や、・・ニステリァーレンにも、同時に特別のマンダートを発し、司教の死後、その ︵5︶ 動産、家財を持ち去るという悪習︵博ミミミ災亀§象§§ミ8誤§ミ§ミミ︶を禁止した。そして、皇帝はさらに、司 教コンラートの功績を多として、彼とその教会がレーンとして与えているフォークタイを、買収その他の手段でとり 戻すことの許可を与えた。コンラートは、後で述べるように、イタリアから帰った直後に︼︶一①三9<9U8言騨5か ︵6︶ ︵7︶ ら誠畠雪鼠ヨ。ぎのフォークタイを買いとる仕事に着手しており、それはこの時の勅許獲得の直接の狙いがどこにあ ったかを暗示している。 ところで、この第二回イタリア滞在に際しても、コンラートはヒルデスハイムに対する最大の脅威ヴェルフェン家 の動きを皇帝の権威によって抑えておくことを怠らなかった。すなわち、皇帝は﹁ザクセン公﹂ハインリヒにパルマ から親書を送り、司教コンラートの十字軍勧奨活動中に彼を苦しめるものあらば、司教の要請あるたびに、その者を ︵8︶ 皇帝の権威によって追放するように委託している。国8αq睾品は、このマンダートを、年時不明の司教コンラートに よる破門者リストと関連づけ、破門者たちの中にミ。醇ミミ塁︵禍をなすものたち︶を見ようとしているが、この解釈は ︵9︶ 恣意的に過ぎるというべきだろう。むしろ、この当時は、前述ゴスラーの司教管轄権をめぐる争いがこじれていたほ か、ヒルデスハイム司教領国の西の境界領域全体が、いわゆる属oヨど茜震閏9留の渦中にまきこまれるという不穏 な状勢にあったのである。 ︵10︶ ヴェーザー、ライネ間の地方は、ハインリヒ獅子公の失脚いらい、文字通り群雄割拠の様相を呈していた。そこで ︵n︶ は、ヴェーザー上流への進出をはかるヴェルフェン家に支持された頴。霞曾く9=oヨ9おを台風の目として、反ヴ エルフェンの急先鋒9緯窪く9国くR簿。5らの諸豪連合との間の対抗関係は公然たるフェーデにまで展開していた。 そこで、皇帝フリードリヒニ世は、司教コンラートの願いにより、このフェーデの調停をヴェルフェン家の﹁公﹂に託 ︵124 したのである。そのことをわれわれは、皇帝が≦9=臼冨お伯兄弟にあてた別のマンダートから知ることができる。 皇帝は、ヒルデス抵イム司教管区内において最も有力で、また司教と最も友好的な≦o包α9げ。茜伯に対し、フェー デの鎮静のために﹁ブラウンシュヴァイク公﹂を援助するよう命じている。すなわち、皇帝は、ωao︿9︸皆目ぎ粛 に対するOβhωo旨ぎ巳<o昌ω口o鵯ヲo嶺︵−℃oも℃窪ど韻y園o目践く9国07自σ宥一器POす器一曾く9団ヰ昌ヨのフェ ーデが大きな惨禍を招き、十字軍の事業を遷延させ、﹁とりわけ、わが親愛なる侯、ヒルデスハイム司教の土地と人 民を﹂掠奪の苦しみにさらしている、と述べ、両派の調停を﹁ブラウンシュヴァイク公﹂に託したことを指摘したの ち、≦〇三倉葛。嶺伯兄弟に対し、公を援助し、要請に備えて出軍の用意をしておぐよう︵&§ミ§匙§§噛亀§傍 博匙ミご。ミ§§婁§憾ミミ=、ミ帖§ミミ8ミミ喝§い︶指示している。また、皇帝は同じ日付で、フェーデの両当事 ︵B︶ 者に対しても、戦争を中止し、公の裁定にしたがえ、という趣旨の命令を発している。 フェーデがこの段階でどのように経過したかは不朋である。後の結果からみて、戦局が国oヨゴ嶺側に有利に展開 ︵14︶ したことは明らかだが、果たして≦o巨︵一曾訂鑛伯らの軍事介入があったのか否かを知る手懸りはない。ただ、フェ ーデの経過全体を通じて、ヒルデスハイム司教は、ラント平和の守護者、十字軍勧奨者の名分をかかげつつ、実際に はこの乱選にふさわしいマ。巴宕浮算震の面目を示し、司教領国の西境を固めるのに、司教に近い諸豪族を犠牲にし たり、﹁封建的﹂信義を破ることも辞さなかったことは確かである。だが、それを述べるためには、フェーデの推移 ヒルデスハイム司教コンラート︵二世︶の領国形成政策 一六三 一橋大学研究年報 経済学研究 18 一六四 そのものから少々脇にそれて、一つの、・てれ自体極めて重要な事実にふれておかなければならない。 一ニニ七年はヴェルフェン家にとって、まことに危機的な年であった。同年四月二八日、ハインリヒ獅子公の長子 ︵15︶ として動乱の生涯を送った﹁公﹂=oぎ奇プ<8騨雪岳o宴、Φ碍︵ライン宮廷伯︶が死ぬ。加えて、﹁子供﹂と渾名された 若きヴェルフェン家の当主9εく2雲琴εおは叔父デンマーク王のために軍事援助にのりだし、かえって北ドイツ ︵16︶ 諸侯、諸都市の連合軍によって捕虜になってしまう︵七月一三日︶。折から、ヴェルフェン家の遺領相続権を主張して、 シュタゥフェン家の国王ハインリヒ七世とヴィッテルスバッハ家のバイエルン公ルートヴィヒとがゴスラーに兵を進 め、ヴェルフェン家のミニステリアーレンまでそれと通ずる状勢のなかで、ブラウンシュヴァィクの市民のみが終始 オットーのために﹁首都﹂を守り通していた。このような情況のもとで、ヒルデスハイム司教コンラートは、意識的 ︵17︾ に静観の態度をとっているが、ちょうどその頃、彼は≦〇三号昌①お伯をしっかり自己の昧方に繋ぎとめるという極 ︹18ノ めて重要な政治的成果をおさめたのである。 ︵194 一二二六年ないしは一二二七年の七月十日、O峯暁窪く9ミ。こR家に属する唯一の俗人9母寡︵凝震が没する。 タδ&角家は>ヨσo嶺きを中心として、ヒルデスハイム司教区の南部に少なからざる所領、諸権利をもつ家柄であっ ていたもみもろのレーンを、若干の例外を留保した上で、9鉱=霞日§昌︵H、︶ぐ9タ、o乞︵一雪冨嶺に授封した。与えら た。そのア・ッドはなお存命の三〇旨錺叶5院長コンラートに継承されたが、この機会に、司教はリュディガーに与え ︵20︶ れたレーンは㌧§裳﹄ミ⋮虻ミ恥恕ミ§⋮誉噛糞§ミ§、ミ∼§魯息§瀞。§、.と一括されているので内容は分らないが、 除外物件の第一はbo電9げ9σq城。司教はこれについて、﹁余は同城におけるいかなる権利もレーンも伯リュディガ −に認めなかったし、また伯ヘルマンにも認めるものではない﹂と述べている。つまり、早くから9a撃く呂℃oマ ヘ214 ℃窪薯お−ω営品。ぎRαqが司教のレーンとして手中にしていたこの重要な城の少なくとも一部に対し、ヴェルダー伯は 夢勢2レーン類似の権利を行使していたのであり、司教はいまやそれを自己のもとに直接留保することになった。そ ︵ 2 2 ︶ して、第二、第三の留保物件の後ろに、第四のそれとして、い置圃曾の弟ギo甥二︷魯揖︹ゴδ昌ζo蜂錺[馨を経由して 切R三声巳くo昌oo一︶一濃色σΦおに与えられていたアフターレーンが挙げられていることを考えあわせるならぱ、司教がこ の時、勺8需一旨目σq城に関するuo怠品。=︶o嶺ンー、①三〇﹃の権利部分を召しあげていると考えて、ほぼ間違いなかろう。の ちに、司教はその晩年に﹁℃o署自言おを通過するものの危険と負担︵篭ミ嘗轟ミ匙恥ミ。ミ謹δに鑑みて、その城の一 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 部を二二〇プフントで、また小塔を一〇プフントで買取り、ほぼ一〇〇プフントの出費をもって業務揚づきの︵もミ、・。 、、、 ︵23︶ 亀蔦獣騎︶強固な住居をつくり、旅人の苦しみの種となる新たな徴税所︵§ミミ。§a︶の設置を許さなかった。﹂︵傍点 引用者︶。司教に対する売り手は明示されていないが、それは十三世紀の三〇1四〇年代に同城で証書を発行している ︵24︶ 9鉱≦&①ざ&く8℃o℃鷲&霞αQのほかに考えられない。司教は、こうして封臣の手から解放した城を、いまや隷属 身分︵動ミ竃︶のω&oく8葺窪に管理させる。彼は一二四六年ミ受8ミ毯愚討8黛斗、毫感§ざ㌣塁、として文書に現 われるのである。 ︵25︶ ところで、司教は右のような留保を除いて、ヴェルダー伯の手中にあった司教レーンをすべて9a頃o毎る琶く9 ≦o巳号3。記に与えた。そしてヘルマンは、﹁このレーンに対して特に﹂今後、司教およびその後継者の馬喧塞砺琶恥 馬きミぎ§oになり、司教によって﹁悪しざまに処遇されざる限り﹂皇帝を除くすべての人に対抗して臣下の忠誠をつ ヒルデスハイム司教コンラート︵二世︶の領国形成政策 一六五 一橋大学研究年報 経済学研究 18 一六六 くすことを誓った。タ、〇三留.きΦお伯家は、ヒルデスハイム司教区内に本拠をかまえる諸豪族の中で最有力だったば ︵26︶ かりか、帝国都市ゴスラーを含むハルツ西北部一帯に広大な勢力を張るこの地方最大の政治勢力であった。しかも同 ︵27︶ 家のヴェルフェン家に対する関係は、十二世紀末にみられたほど親密ではなかったにせよ、決して疎遠ではなかった。 そこで、司教はまさにブラウンシュヴァイクの情勢がヴェルフェン家にとって前途暗澹たるを想わせるこの時期に、 ヴェルダー伯の司教レーンをーそれがかなり大きなものだったことは、ヘルマンが﹁このレーンに対して特に﹂臣 ︵28︶ 従を誓っている点からも窺いうるーあえで遠い姻戚関係のダ、o乞号一き。お伯に与え、はじめて同家を明示的に司教 領国と結びつけたのである。ドイツでは耳なれぬぎミ貸喧§なる語を用いることにより、ほかならぬヒルデスハイ ム司教が皇帝につぐ最優位の主君たることが表現された。幅この封建関係の締結は、伯にとっても、むろん不利益では ︵29︶ なかったが、どちらかといえば、司教にとってのより大きな政治的成果であったことは否めない。 さて、脇道から閏oヨ9おR頴民。の本題にもどって。フェーデの新展開の過程で、右にのべた封建関係から生ず る援助義務を破ったのは司教の方であった。一二二八年、フェーデの中心人物艶己o<9匡o旨評薦が爵a魯<9 国くR簿。5によって暗殺されるという事件が起った。司教は事件に介入し、両者間を仲裁して、同年七月九日、国く零 、一伯側に重い贋罪の義務を課した。それは、死者の霊を慰めるためのおびただしい宗教的義務、被害者側の怨みを ︵ 3 0 ︶ しに平穏安泰に領有すぺき﹂ことが定められている。フェーデの軍事状勢がボドの側に傾いていたとみられるだけに、 関係などについては特別の変更を含まず、﹁ボドが死去の時点において領有せる所領は、その息たちが伯らの反対な ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 鎮めるための諸行為、下手人たちの一年間追放、騎士一名の聖地への派遣、等々をふくむ酷しいものだが、所領、封建 。。 暗殺事件の裁定としては加害者側にきびしいのが当然のこととはいえ、そこからは専ら国o日げξσQ側に有利な結果が 生じたであろうことは疑いない。 恐らく、切&o<8鵠9き霞αqの暗殺につづくこの司教のフェーデ介入過程に関連して書かれたと思われる9鉱 ︵31︶ 頃①﹃一回一国目<。昌≦。巨号3。目σQの書状がある。それは、ヒルデスハイムの、・、ニステリア;レンに宛てたいわぱ訴えであ へ32︶ って、情況の切迫感をよく示している。その中で伯は、自分の8偽ミ賊︵義父・兄弟を含む︶9鉱窪く曾国く臼吟魯・のた めに、自ら司教をおとずれ、﹁われらの友誼を侍んで、︵司教が︶彼らに武力をふるわないよう、また、われを通じて ︵33︶ 彼らが︵司教に︶購罪することによりその恩寵を再びうるよう嘆願したが、ああ! 何の役にもたたなかった﹂と書 。 ︵34︶ く それどころか、司教はタ、o巨α9ぎ品伯兄弟と国<o冨琶昌伯に属する博愚ミ、ミ恥§h§ミを暴力によって、﹁まさ にわれらから奪わんとし﹂ており、舅、震曾①5伯家の一人を﹁同所に軍隊をも・って攻め囲まんとしている﹂というの である。 ︵35︶ 司教の攻撃は実際に行なわれた。ヒルデスハイム年代記は、司教が﹁都市国⇒三㊤を攻囲して占領し、占領地を破 壊した﹂、と記している。ライネ沿いのこの重要な﹁都市﹂に対する司教の破壊がいかに徹底的であったかは、その後、 同地が住む人なく放棄されたことからも知りうる。これは、最も重大な﹁平和の破壊者﹂に対する懲罰手段としても ヤ ヤ ヤ ヤ 余りに苛酷である。また、国くoお蓬昌伯家のあるものが、恐らく、司教に対する最も有力な仲介者たる!−、〇三︵一窪富お 伯のとりなしの努力に期待しつつ、同伯の﹁都市﹂に待機していたと思われるだけに、司教の真の狙いは、暗殺者の 懲罰というより、エムナの破壊そのものにあったとみなければなるまい。彼は、領国の支柱ともいうべき≦5N9薯お ヒルデスハイム司教コンラート︵二世︶の領国形成政策 一六七 一橋大学研究年報 経済学研究 18 一六八 城と、9無呂く99δ鵯一げΦおからレーン権を召しあげたばかりの一、○毛96賃αq城との中間に位置する要衝エムナを 破壊することによって、ライネ川を領国の西の安定的境界たらしめようという意図をはっきり表明したのである。 ライネ川以西の地域は、教会行政的にはヒルデスハイム司教の管轄下にあったが、それを司教は世俗的領国関係の 点では、はっきり江。霞9<9国2菩弩αqの支配にゆだねた。フェーデののち、霧二〇三聲区=9嵐oプ!、書コoヨ夏嶺 ︵36冒 兄弟は9⋮品色ぎ嶺城で証書を発行しているし、国①霞豊く︵首=oぎ三︶︷一9睾もライネ左岸の本領地との関係を断たれ、 へ瀞︶ むしろ他の地域で多く文書に現われている。つまり、頃○ヨ望お震閏9︹一〇を経て、ライネ左岸の地域は、ほぼ全体と してホムブルク家の領国にくみこまれたのであり、いまや、ライネ川が同領国とヒルデスハイム司教領国の境界線に なったのである。一二二九年と一二四一年の二つの文書がこのことを象徴的に示している。前者において、司教はホ ムブルク家の人々の願いにより、故ボドの魂の平安のために、同家の国窪ω三〇雪曾累①ヨ塁留に、司教レーンから五 ︵38︶ フーフェを寄進したが、司教に対するホムブルク家当主のレーン放棄は、98ぎ近くのライネ川の橋で行なわれた。 また、一二四一年には、ゴスラーのZΦ⋮δ芽修道院に対するある十分一税徴集権の売却がなされたが、それは野7 8崔<oコ国o巨9一おと司教の偽ミ詮ミミ蛍賄■集ざ需との会談︵感ミ織ミ§︶において、しかも覧ミミ﹁肉ミ感醤ミ醤衷卜恥ミ§い 罠特ミ喚愚亀ミト亀誉も象醤ミ慧ミ§駄、︵エムナとレデン問のライネ川橋上で︶なされたのである。 ︵39︶ ︵−︶匡国o。吸⑦語中剴ω。ぎhH︷o員&Hり<9国詮窃訂一ヨ巴の男①一。房3韓るレ,○‘ω﹄q一中■ ︵2︶国斗ぎぎ一日弩P一︷巴器同写一a﹃一。ゴ=,p,p,ρ﹂’ω﹄oヌ>冒ヨ﹂﹄。 ︵3︶ 争いにっいては、Oo巴曽一9W﹂﹂鴇上鴇︸まけ教皇特使の判定についてはOo巴胃,q国減■まO。&ド皇帝フリード リヒニ世の決定については08一震■dω﹄■まド&曾高象㌧まひ■<撃U費洋器︼︸頃9.目彗一一>︹一〇FUご豊3おU60霧o国等 OOω一一①凶一昌・ M申一﹁島Oω一一〇一H口 一〇〇一M’ GD一 QO一1“OO, ︵4︶ ¢ω,=、ま9℃震ヨp︵一器ひ︶冒巴獣,ヒルデスハイム年代記は、司教が﹁内膳官エルンストから一七〇マルクで内膳 官職を買上げ、多くの不便をしのんで食糧を自ら調達した﹂︵Gミ§,鳶ミ亀畑■鋭欝○こω,。。8︶と述べている。なお、 §讐㌦ミ肉ミ婁§がなに家に属するかを確認するための乎がかりは、筆者には、いまのところまだつかめていない。 ︵5︶d切山H﹂。。N口。。9切○お3睾U9目o一Nま甘一乙ー ︵6︶ d甲自まどげ9男胃包p罵Nひ冒巴ま,ヒルデスハイムでは、すでに聖堂参事会が一一八○年、皇帝フリードリヒ︸ d︼W りいO頓︵一一〇〇〇︶讐高ON︵一一〇〇一︶曽高ドQ︵一一〇〇N︶”阜ooい︵一一〇一︶’軌一い︵一一〇軌︶”頃ω轟︵一一〇〇〇︶嚇凱ON︵一NO斜︶”ひO一︵一NO軌︶㌧ひいα︵一bの一■O︶噌 世からフォークタイ買戻し許可を与えられており、それいらい、フォークタイ解消のための努力が相ついで行なわれた。 ひひO︵一N一ω︶’M一い︵一bJ一Qo︶︾Vいoo︵一NNO︶魍団ひ⑩︵一さoN一︶曽一H一〇い︵一NNひ︶’N春斜︵一駆JNV︶讐轟O一︵一トoω“︶噂わ一U︵一NいU︶一わN“︵一Nい軌︶置 ︵7︶ 本稿一七四頁以下。 ︵8︶ qM野一[ー一ひい勺ρ﹃ヨ騨︵一NNひ︸nP凶︶り男①αQ①ω仲”Hヨ勺①﹃幽凶。!N■一ひ一〇Q甲 ︵9︶ d甲口﹂象これは9⑮Oロ。F=一6ぴo。轟では一ニニニ年と推定されているリストだが、その根拠もない。この文 書の年代確定は今後の研究に侯たなければならない。 ︵m︶ ωo︸一昌p仲げいOΦO﹃中∪猷︸Ho﹃﹃㎝07pヰo⇒国<o門のけ①一一ご記O一昌ご貿﹃σ含=pαω℃一〇σqo一げo﹃頓O﹃ロp畠げ頓信昌吸N一嘗︸一∬[o一。ぢ070ロOooσ々帰帥− 喜p&Rヨ.霧。馬幕ぎ・邑国妥邑且隼9鼠昌σQ聲ご鐸ψ。中9おρ譲窪・g望。9。ヲ品琶9一窪訂豪望。 >ヨ一〇﹃一一コq<oの酔o一〇昌O巴oコげo吋σqいoo℃﹃ぎ頓o噌U露づσq①昌プ盤⑳臼!Zo=のけpα砕くo﹃H︷田=一〇<o﹃信⇒α因〇一畠帥一一⑳曾ゼOσ簿5⑳oβ一〇いい,ψ一識ー ︵11︶ ホムブルク家については、︸HU宥﹃ρ望o勾o鴨緯曾畠R︼冠島さ昌9<8頃o目9品・三”N・三4・ダ写5霧雰・おo。O ヒルデスハイム司教コンラート︵二世︶の領国形成政策 一六九 一橋大学研究年報 経済学研究 18 一七〇 ω﹂1まo。﹂o。。。ドω昌占。。にもかかわらず、不明の部分が多い。 ︵招︶ dω,HH、一刈O・切OHαqO幹一︾O⇒一=O一Nωひ一⊆=ひ■ ︵13︶ d切・目﹂oQO﹂o。ド切o茜o切・U9貯6罵駅一三ま・両者はほとんど同文である。なお、フェーデの当事者中に同<R馨oヨ 伯の名が出てこないのは、彼がフェーデのこの段階でその圏外にいたというより、皇帝の諸文書が専らヒルデスハイムの 利害に基づいて発せられていたことによると思われる。 ︵14︶ρぎ量望。田塞。言h一田ぎ号冒蕃;区酵。守。・凝雰写一£。ω&。墨鐸雲且♂皇雪α。舅葛茎一99委 ぎ”一すゆβロ霧3三〇。幹くふ﹂8ざ幹這−蹟o。,V甲這Oo。﹄る㌣NPは、のちに閏9。一一窪99城が≦o匿畠窪σ。お伯 の手中にあるところから、︵Oo巴碧,Cω﹄ぴ09目,&■ロ87Uo鱒ρoo己ひo。嚇菊品Φ誓自2鮮旨’ご︶伯がフェーデに軍事 介入し城を確保した可能性を指摘しているが、 ≦・℃o鱒9望。O岳蚕一<o昌≦駐9韻費&。−ミ9己。一き。嶺・鋭穿○”oo・ ω弓・おQ はこの可能性を否定、岡城はd三9<9頃9窪暮3。コがモンゴル人に対する戦争のためシュレージエンに おもむく際︵一二四一年︶、≦畠置自訂お伯に入質したものと推測し、その根拠として串Uoσ富三P家巴脅超3の睾 昌一一畠ωO一﹂ooo’く一破−田〇一ωけ①一一一〇叫一日OO目一ロoO一一〇昌○ω什O目一日一ω’臼Pけ︻げ5口匹oHけ■=ビ20同山山〇二けoooげO男ρ昌一出一〇P匿口昌αo一■“,一〇ひ“ω。高OIひO をあげている 。 ︵15︶ ハインリヒとその時代については、ずダ頃9膏日讐三b国oぼユ3<2ω3霞駐9’お萸瞑巴おβhげo一寄oぎ・国ぼω2嘗お N霞09。臣o犀Q︹一。ωのけ婁訣号窪N99一けRω甲一〇。o。b∂■URPU一。毒9静。一蚕一日。a8ユ①昌ωΦ一けαΦヨω9﹃No瞑窪三。一拐畠窃 まジ、窪募N竃9言身昌⑳号田頃霞品君霧ω冨⋮。。・賃惹⑳−■言。巨嶺u語零一鼠巴。。。。“⊃がある。 ︵垢︶ 国、名一昌犀〇一ヨ四5昌︸囚㊤一ωOH悶﹃一〇α貝一〇げHH’ド■斜,帥 ○‘ω’軌Oひ■ ︵∬︶ 国■一<一昌犀OマコPコ昌㌧H︵P﹃Φ﹃悶ユOα﹃凶oげH一’一■P。騨’○■、ω,QOい1軌OO, ︵18︶ 国王ハインリヒ七世のゴスラー滞在中に、コンラートは一度もそのホーフに顔を現わしていない。Ooω一貰。d中H ホ令おPゴスラーの司教管轄権をめぐる争いがコンラートに有利な解決をみた直後だけに、これは、かなり意識的な態 度表明と解釈しなけれぱなるまい。 ︵19︶ ︵■勺o蒔①’U圃①O田臣自<o昌ミO一菖品Ro血o−≦〇三山昌げo韻、費費O、魎ψah鴇o。。 ︵20︶ q中H ︻ ﹄ 鴇 ﹂ N 鴇 ︾ 夷 5 一 一 9 ︵21︶ ポッペンプルク城と同伯の歴史については、国ρ属ヨ㊤昌Pゑ三邑B望oO声︻曾<9勺ε需一旨霞σq由口品巴訂品﹂ぼ ︾目三∼旨80窪o巴o鴨。⋮α旨おoo一品卑ぎ一Z島8房﹂げ﹂■阜い窪α。茜Φの﹂o。,這台oD﹂一下這一にもかかわらず不明の 点が多い。皇帝ハインリヒ三世、四世の証書d田減,o。N︵εお︶﹂8︵5$︶﹂目︵一8。。︶レご︵ε$︶からして、それが 国王の森林高権を含む王領であったことは明瞭だが、築城事情は分らない。国p昌ヨ四目は一一二二年ごろ&§題﹄さミ、譜 ㌧愚博§ミ蒔が初出するところから、既に城が存在していたものと考えているが︵ω■二。。︶、それほど単純な推論が許され 帥げR色o≧げ。房βαQ⋮嶺・δロ一〇占ω、図■這認α。ω因o昌の葺旨窪≧げ。団畠ζ。置,ψ鴇−ひo。。 ないのはい、フまでもない。U器戸フ蜀二一P田∈σqΦづユ窃目,目コαヰゆゲ⑦口旨’︸即ご7三α震註︷昌2ε畠お8び器づ﹂歪勺﹃08一6= ︵22︶ 第二はリュディガーの寡婦に与えられる糺譜匙き㎏、、とよぱれる権利、第三はU巴窪ゲ塁雲と≦巴号一6R9の新開 地十分一税で、それは教会に留保される。 ︵23︶ Gミ§一鳶噛ミ﹄■勲Oこoo・o。9・なお、この記事に対応する文書がd中目﹄軌にある。それによると司教はポッペンブ ルク城を︵︸部とは書かれていない︶二〇〇マルクで買取ったことになっている。証書集の編者はこれを一二二一−一ニ ニ七年と年時推定しているが、これは後代の書式集から採られた文書であって、年代記にまさる史料的価値をもつものと は考えられない。また、コ8σq。プ、①⑳の年時推定は全く根拠薄弱である。 ヒルデスハイム司教コンラート︵二世︶の領国形成政策 一七一 一橋大学研究年報 経済学研究 18 一七二 ︵別︶ d国目﹄8︵旨8︶﹄3︵一§Oyo。Oyo。Oo。︵冨畠y一方、司教の方は、一二四一年をはじめとして、それ以後しばし ぱポッペンブルクで証書を発行している。d中目、3♪ひホ℃訟yまQふ歌ふま一$ざ籍o。ふo。ω”ひo。PΣy獣曾 ︵25︶ d中目・蓋曾旨ま>℃三一軌・ω&o<自目8⇒は、 一二四一年三月二八日の司教証書にボッペンブルクの全騎士たち ︵oミミ防ミミ醇魯ヤ︶と共に現われていらい、つねに同城またはポッペンブルク伯との関係において姿をみせている。 d]W、HH。ひNO一ひい圃,OいO讐⑪恥一層M一博。 ︵%︶ こ閏馬憶、O︸O“、馬O織O砺篭鴨“庶黛馬帖誉、焼窯、蟄竪篤監斜凡“馬繋偽もO蟻嵩恥砺頃馬、︸隷霜↓ミ一ミ向馬∼博矯、Oミ試恥帖斜喝設O織馬、画篤織馬軸ミも、、q黛.恥画ミ偽向賊ミ恥ミ鰹馬㌣、胸O嚇嵩Q ミO恥鳳恥﹃馬、恥巽““魅h防O㌣黛矯書 醤O偽馬、O隔、nミ醤 馬馬 喝ミo戚 氣恥恥画句馬恥∼ミQΦ帆防 馬W 防ミ““馬恥向o憶賊⑪ミ恥 醤o騎畑、帖や:・:“O醤牲憶黛 O矯ミミ馬ミ脚 、軸o噛旨帖旨恥§馬訣“恥暦∼O 腕ミ噛感恥、賊O馬馬.嶋ミO駄醤黛罵軸喝ミ鳥︸き醤O守帖や::・亀偽&凡“馬∼︸黛ミ“恥馬、鯉計軌輔 馬、、織恥ミヘ黛喬防匂馬ら窯喰疑笥、、ミ3醤帆恥賊貸乱鴨oミ畑亀、恥9醤O⑪凡肋:::馬、亀偽馬馬誉︷3 葭まO織︸醤恥、軸、O軸a噛蕊肋恥憧ミ黛、恥醤Oき織馬む恥魯賎言恥喝巽馬博O偽砺帆W恥馬︸O““O、氣い罵“象感激ミ、O㌧鯉議動a鶏斡砺馬馬ミ試醤∼吻馬、、凡霞鳶ぴミω鳴qq、鴨防帖恥琶O砺畑唖恥誉も“、庶馬 ミNa旨軸層砺鳳黛ミ噛恥W亀鴨︾oも魁ミミ国織g蔑o醤ミ醤黛ミ崎窯黛等w蕊O§憾O晦砺篭o憾畿ミ馬喰馬,.、︵一G]ΨHHoり一一〇い︶臼 ︵認︶ Oσ①一一山Pω甲ひN、 ︵艀︶ ∼<■悶①一犀①㌧U一〇〇同餌暁O昌<○昌ノ<O一瓜昌σp①﹃OαOl≦O一二qO口びO︻⑳,騨,即,○こω い一〇中、QωNぬ, ︵29︶ <σqピ冒轟o星国o言ユ。FU号葺8算≡ム望p彗諮9毒霊≦9ヨ曽這恥ω・幹象O森なお、ω巴く甲目αq﹃条項は、もちろん ≦〇三q9きRαq伯が諸グラーフシャフトを帝国から直接受封していたことに基づいているが、 この時、国王がゴスラーに おり、同日付けでヘルマンの弟ハインリヒに、シトー会修道院≦二§ヨ&のフォークタイを与える、という情況に対す る考慮も働いていただろう。!ぐ■一︷050含2三,鋭欝P︸ψωおhOo巴巽。dω﹂■畠避 ︵30︶ q印目﹄器この証書自体は一二二七年の日付をもっており、証書集の編者もそれに従っているが、正しくはそれが 一二二八年七月九日であることは、コU旦登国oヨ薯義る、勲○■㌧ψ繋ン忽勺。詩ρ!<〇三3三︶巽叩勲鉾○一㌧ψ鴇P>昌5 器O、の考証に よ っ て 明 ら か で あ る 。 ︵31︶ d切’HHりNOoo。<S憎〇一犀ρ≦Oげ一α①昌げO同αq・P勢・○こω・ωVP ︵32︶。OH鉱国實旨pコ昌<oP1<o巨αo惨げo品の妻ゾフィーはO﹃鉱>εお色昌︵一自︶<o昌国奉お8ぎの娘であった。∼<・℃9犀ρ ゑO︸﹂山①昌げO﹃頓曽餌,P。○こω’MM中・ ︵33︶ こqミき恥奉貸黛器o塁讐畠馬醤ミ設ミ軸、&9§ミ勲醤o砺、馬§o鳶黛詳鷺憧蟄ミ勘&砺言o乳、蹄a防砺黛§欺的織o§軌唾ミミ遷鴨博帖象o暦黛§a織計砺馬ミミ避翰誌 憶、o醤o肋㌣勢句o“恥蕊争:・:賊恥ミ鷺い黛博憾ミ“畠跨斜ミ恥噌帖ミ嚇竃恥㊦爵、ミ帖b偽馬戚憾恥、旨o砺恥、蟄ミ象ミ硫軸§ミ砺麟ミ偽S象ミ恥養職o喚隻恥黛轡恥還§き帆書崎震o ン鵯窯■、置庶“、嵐W鳩、爵も帆§ミ肋:りd国・H戸OOooω、oQoQ。 ︵34︶ 国ヨ冨は廃所となり、今日の03昌君がそのあとに出来る。=帥昌ヨ目P!、≦臣9芦○拝ω奉ヨ9自昌α腔o色彗鵯鴨, ωo臣9$一目い斜昌qN三ω9自空匡①昏色ヨΦ﹃≦巴αeる一9・ヨ目≧“閏一乙窃ぎ一ヨま・一3ドoo・撃o。・この世襲所有地は元 来Oβ8昌<8巧〇三Rに属していた。U一9ユ畠<8を〇三Rがく8国含冨を名乗っていたことが知られている。ミ・ ○’ωO畠①︸コO門﹃ωOげ帥︷けH由OびO昌げOOげO口■即■P■○;ω。一〇轟︷■ d︼W,一一マ軌一ひoo℃一ΦσqO一げO﹃吸一NωQQ20<●N一酢 一一↑〇一一一 ℃o蒔Pミ〇三q魯げoお,騨孚9輸ω﹂o。O>昌ヨ■呂曾したがって、ヴェルダー伯のアロッドも一部は≦9匡馨げoおRに相続 されていたわけである。 ︵37︶ ︵36︶ d︼W,一いトoV軌︵一bゆbQOyO甲ωoげ昌P該ご国くO︻。のけOずど︸一〇日げ一霞⑳gコ山ω℃一〇σ自O一σO﹃αq・pP・○‘ω・N一・ 一W 5 ︶ Gン 、O ︸ N , 鳶 画 、 織 魁防 、 ㍗ 即甲 帥 , ○’ ℃ し ∩ 、 0 0 ひ肉 一” 噛嵩蕊題ミ“軌磐欺蟄馬恥︸きOぴ砺帖亀馬嵩砺も驚︾蹄恥蝋も黛博W轟ミ軸賊馬砺W、黛疑鳶り ︵ 3 ︵38︶ Ooω一鴛・d切﹄’総い誌#影[簑鵠ーエムナもレデンも廃所となった。証書.集の編者ボーデはそれを現在の 七三 ︵39︶ ルデスハイム司教コンラート︵二世︶ の領国形成政策 に近いところにあったと推定している。 一橋大学研究年報 経済学研究 着手している。 一七四 司教はイタリアから帰還後、ただちにu一Φ鼠3く8u名聲窪から=9窪富9①﹃のフォークタイを買いとる仕事に 般的要請かも発したというより、この時点における特殊な狙いと結ぴついていたと解釈した方がよいだろう。事実、 すでにかなりの進展がみられていた。このような段階でコンラートが獲得した皇帝の勅許は、フォークタイ解消の一 ︵3︶ 勅許を得ていらい、歴代の司教によるフォークタイ解消︵閃暮く品詳お︶の努力が続けられ、十三世紀はじめまでには、 とを意味する。ヒルデスハイムにおいても、したがって、さきに一一八○年、聖堂参事会が皇帝フリードリヒ一世の ︵2︶ が、そのことは、教会の側からすれば、フォークタイの解消がその領国形成の努力に際して決定的に重要であったこ ークタイは、それを教会か巧与えられている俗人領主にとっては、自己の領域支配形成のための重要な要素であった 買収その他の手段でとり戻す許可を与えられた。教会イムニテート権域の人と土地に対する保護目支配権であるフォ 前に述べたように、コンラートは一二二六年のイタリア滞在の際に、皇帝フリードリヒニ世から、フォークタイを ︵−︶ たは買い戻す﹁交渉﹂の形で追求された。 !δコU呂曾欝およびO声︷窪く9菊o︹一睾︵い碧一魯8号︶から、城やフォークタイやグラーフシャフトを買いとる、ま ための努力が一貫して行なわれた時期である。それは、通婚によって互いに親族関係にある二つの貴族、国号野。轟窪 =8き環σQ震浮ま。につづく一二三〇年代は、コンラートにより、ヒルデスハイム司教領国を北にむかって固める 四 デーペナウ家および・ーデン伯家からの所領、諸権利の獲得 18 同年十月二十三日、ヒルデスハイムのラゥレンティゥス礼拝堂で、司教はこれについての証書を交付した。それに よると貴族︵竃、§ミ跨︶冒Φ鼠9く9U①℃自営は、国o一器昌p日oぎの諏3三島巴︷9暮︵教会監督轡離︶のフォークタイ を司教からレーンとして与ええていると申したてていた︵§賊§§が∼豊量。こ爵聖︶から士マルクの 補償を得て、彼が主張していた︵鯉§箋“&ミ︶または追求していた︵8ミ慧ぎミ︶権利のすべてを司教に放棄レ紀。こ れが一つの争いの結着であることは言葉のはしぱしから明らかである。コンラートの年時不明の破門者リストの中に は、︾㍉ミ鴨鳩.ら袋賄ぎ馬、亀恥O馬篭魅醤。馬馬殺ら。§§悼§魯ミ虜㌣。§ミ誉ミ§跨..が含まれてい、彼がいろいろな間題で司教と争 ったことを示している。そして、この一見些細な争いの結着が、小さからぬ意味をもっていたことは、聖堂参事会員 ハアレ 全員︵。ミい§鴨砺馬黛ミ。ミ軌馬噛国。ミ馬醤晒恥§§動塁︶を含む証人の筆頭に、さきに引退して五年以上にもなる前司教ジークフリー パ レ トがわざわざ引張り出されていることから充分うかがいうる。司教は、国9窪冨ヨ巴P国20こbΩ呂①Poo畠ヨ鴛四教 区を含むこの>賊。ま&卑一.。昌p一についての権利関係を調整する過程で、=9魯訂ヨΦぎのフォークタイそのものの買収 工作を進めたものと思われる。翌二一二七年の夏以前に、彼はそのフォークタイ︵ミS馬ミ音ミ欝国§>§ミ§︶を u一。叶.一.げ<・ロ∪Φ窓ロp二その妻、子供たちから銀一五〇マルクと八プフントの貨幣で買いとつ︵撃ヒルデスハイム 年代記もこの事にふれて、司教が=99訂目Φぎのフォークタイを﹁銀一七〇マルクで﹂買ったとのべたのち、それ に続けて、また、暫.凶.︸一.﹃﹃.づ∪一①け﹃一.7から六・マルクの貨幣でデーペナウ城の所有権︵嘗㌣帖ミ§整§− §§︶を買いとった﹂と重要な事実を記している。 デーペナウ家は、ほかに︿。ロ謹。ヰ。一昌モ8>訂ぽお窪とも称したが、十二世紀中葉以降はもっぱらU招窪窪︵現 ヒルデスハイム司教コンラート︵二世︶の領国形成政策 一七五 一橋大学研究年報 経済学研究 18 一七六 在の切邑齢︶の館または城によって自らを呼んだ有力貴族であった.同家は、士垂紀初頭いらいヒルデスハイム ゆロ の蕊驚&§欝誤︵司教君主代︶をつとめた国号旨。畦臼<9薯霧塗と同一家系に属し、都市ハノーファーの初期史と深 ハるレ い関係のある9a9<8国区Sとも親族関係にあった。デーペナゥ家自身はヒルデスハイム司教聖ベルンワルドに ヨ田鉦8縛Rω三盆のフ淀iクトでもあった。つまり、十二世紀前半からライネ川”フーゼ川間の地域をほとんど大半 よって設立された最重要の修道院卑屋9器冴のフォークトをつとめ、恐らく同じくヒルデスハイムのω螢円二一。一。, ハハロ 支配していたこの三貴族は、密接な親族関係によって相互に結ばれていたのであり、一一七五年にヴァッセル家が断 響て後は・デーペナウ・7デン璽泳奮の幾の政治的力関係を黎参勢ガだったわけである.したが.て、 ヒルデスハイム司教の領国形成政策がーもちろん、ヴェルフェン家のそれもふ+“たーこの両貴族に集中的にむけら れたのは当然であり、司教が頃o箒旨器芭昌のフォークタイにつづいてデーペナウ家の本拠を獲得したことは、ヒル デスハイムにとって極めて大きな意義をもつ出来事であった。同家がその後、もろもろの所領を09。一一p鳩琶.一。ωけΦ. その他の修道院に相ついで売却していること︵後述︶を考えあわせるならば、司教がデーペナウの手中にあるフォー クタイを取得するために、特に皇帝の勅許を得たことの真意もおのずから明らかになろうというものである。 デーペナウ城の買収がいつ行なわれたのかを伝える直接の史料はない。ただ、デーペナウ家の揚合、luoロ。顧。一, おレ げ震叩男o竈臼言嶺伯家や=3聲区9魯家の揚合と同様−家名の元になっている本城を含む所領、諸権利の連続的 売却は、プロイセン地方への十字軍・植民、ドイツ騎士団国家形成の過程と結びついた﹁東方への転出﹂を契機とし ており、その関連を考慮に入れることによって、城の売却時期をだいたい割りだすことができる。すなわち、望9.一3 く自U名魯器は、恐らく十字軍勧奨者”司教コンラートの働きかけの結果、Hぐ2凪巴崔角︵十字軍参加者︶として妻子 ともども西プ・イセンヘ転出し、一二三六年、竃畳2≦。乱R近くに匿虫oめ琶島昌城︵今日の↓蔦自雲︶を含む三〇 ︵ 1 7 ︶ ○フーフェをレーンとして与えられている。ディートリヒは、この城を後にディーペナゥ︵O埴窪o≦︶と改名する。 この事実からして、U一①庄3がザクセンのハイマートで本城を処分したのは、彼が頃99富ヨ。冒のフォークタイを 司教に売却して、自らの領域支配形成を断念した一二二七年から一二三六年までの間であった、とみて誤りはないだ ろう。 さて、一二二七年に司教が買いとったも警。ミ罰誉鞘§ぎミ器§..とは何か、という問題がまだ残っている。これ は、もちろん避けて通ることのできない問題であるが、実は、いったんそこに首をつっこんだら最期、まともな生還 は期待できないほど複雑で大きな問題複合への、それは危険な入口なのである。というのは、この﹁フォークタイ﹂ の在所とされているホーエンハメルンは、司教がこれにひきつづいて・iデン伯から六年がかりで買いとった︵後述︶ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ それはあのOβh。。9鉱“舅8お声房3p津︸Oo噸鉱ω9p津をめぐる泥沼のような論争につながっていかざるをえないから いわゆる﹁小グラーフシャフト﹂︵8ミ“音ミ斗ミ︶の中心聚落でもある、と考えられており、そうした関連を通じて、 ︵B︶ である。こうした問題複合とまともに取り組むには、本稿はふさわしい揚所ではない。したがって、ここでは、司教 コンラートの領国形成政策をその輪郭において知ろうとする上で最低必要とされる限りにおいて間題を取り扱うにと どめたい。 デーペナゥの手中にあったフォークタイが、司教の直領地に対する保護支配権という狭義のそれでなかったことは、 ヒルデスハイム司教コンラート︵二世︶の領国形成政策 一七七 一橋大学研究年報 経済学研究 18 . 一七八 ︵19︶ ホーエンハメルンに司教のミ款ミ誉ないしは所領管理所としての“ミ8が検出されないこと、にもかかわらず、一五 〇ないし一七〇マルクの買収金額は、それが少なからざる権益であることを物語っている、という両面から明らかで ある。同村およびその周辺の所領関係はまだ充分明らかではないが、そこには司教座聖堂をはじめヒルデヌハイムの 諸修道院、O賞︷曾!δ昌≦αぢρO轟︷9ぐ2ジδ﹃匡9σΦ命国号房①畦9<O昌U88窪b︿自UO諾貫3’δ口頴Oωω。P 召巳簿a巴窪<g国p琶。一pく20=毒8<g冒洋Rp<g弼己自8霊β<8舅a幕房什。身く8山帥巨3。戸く曾 号ヨ㌧く9ω9三9巴鼻などの所領が検出される。その中には、諸領主の自由世襲地も存在したではあろうが、や へ20︶ 9島ム琶匿。亨し。。一ω。ぎp家貫・β国2。旦○巨・p田ξβし。3身β≧喜R鴨p匪Rぎ韓p>号房8鼻9&,窪一− ︵25︶ 言P閃889塾国房鼠お2︵一急ω梓yOa①ξβ誓宴、ざ冨一騨の村漁に分布していた。また、ここではコ鱗ヨΦ一R∼奉匡 閃邑象おに属するこ穿①戯5..は、国o冨コ鼠ヨo一P匡魯讐ヨ”oo3ξR︵三響yΩ程①Pω9ヨ貰9呂、口区困。ぎ,閏警馨ρ いた。十五世紀以降の史料は、同じく一bo三。ω①..で開かれるこ写㊦§品.・について詳細な知識を与えてくれる。この ︵器︶ ︵24︶ 国9雪3露Φ亘ω①首旨”国20邑あ呂ヨ鴛国Φ&①茜ΦP零魯旨ヨ﹄〇三ロβω9三9Φ一騨と、パイネの耕地部分に及んで 中心をなしていたのである。 ︵22︾ 村のはずれにあるとΩ〇三。器.、では、十四世紀前半に︸bo鳴号犀..が開催された。当時、このゲリヒトの管轄は ルンはアルヒディアコナートの在所として教会行政上の中心だったのみならず、世俗生活の面でも広く周辺諸村落の 含む司教のイムニテート権域に広く及んでいたものと考えるのが最も常識的だし自然だろう。しかも、ホーエンハメ はり大部分は司教のレーンだったようだ。したがって、デーペナウの手中にあった保護支配権は、そうした知行地を ︵21︶ uり ︵26︶ に入会権をもつ人々のご国o一Nσq窪。拝.、が開かれた。さらに、ラントの地方行政組織としてのアムト制が完成した後の ︵27︶ 史料では、アムト.パイネの下部組織として、八村を含む<oσq鼠=9窪訂ヨoぎが現われる。エンゲルケは、アムト ︵28︶ の下部組織としてのこのフォークタイを、一二二七年の㌔き8ミ貯き霞§ぎミ器..と﹁関連させたい﹂、と述べてい るが、これは彼の研究全体を貫ぬく手軽な短絡方法の現れの一つであって、<夷琶なる多義的用語の共通性いがい一 切の根拠を欠くきめつけにすぎない。したがって、以上の観察の後にも、われわれは㌔き8ミ欝..のひろがりを確定 することはできないのだが、さしあたって、それはホーエンハメルンを中心とする周辺諸村落に及ぴ︵つまり、一村に 限られるのではない︶、司教のイムニテート権域に対する保謹支配権を内容とするものだったと考えておきたい。 さて、∪一〇鼠9<9∪β自きからホーエンハメルンのフォークタイを買収したヒルデスハイム司教は、つづいて、 同じ地域を内包するグラーフシャフトを、もう一人の有力貴族爵鉱国9βαく9菊9S︵U碧。目oα。︶から獲得する ための工作にかかる。 一二三〇年六月二日、司教コンラートは8§ミ9ミ霜§籍卜§§こ魯に対し、つぎのような条件で五〇プフントの ヒルデスハイム貨幣を供与した︵㌣婁ミ§§︶。すなわち、伯および伯側の騎士︵§ミ醇︶五人が、司教および司教 ︵29︶ の、・、ニステリァーレン五人に対し誓いをたて、伯は小グラーフシャフト︵8ミ欝ミミ§ミミ︶を司教ならびにその後 継者いがいの何ぴとに対しても入質︵。黛む&δ、授封︵誉誉ミ。㌣婁&δ、売却︵e§§︶しないことを約束する。 もし、伯がグラーフシャフトをヒルデスハイム教会から、疎外しようとするならば、それは教会にハイムファルする ︵ミミ婁§騨︶。伯は翌年の聖ヤコブの日︵七月二五日︶までに金を返済すべきであるが、返済なき場合は、グラーフ ヒルデスハイム司教コンラート︵二世︶の領国形成政策 一七九 一橋大学研究年報 経済学研究 18 一八O シャフトは保証物として押えられ︵>&§§§軸§§8ミ§§巽ミミ貯罰ミミ欝誉讐ミ恥︶、金額は一〇〇プフント まで高められる。伯がそのグラーフシャフトを教会に売却しようとする時は、金額の評価はその時に任命されている であろう教会側管理者が行なう。その間に伯が死去した揚合は、教会にハイムファルする。 ・ーデン伯がいかなる事情の故にこの不利な質契約を結ばなければならなかったのかはよく分らない。前にのべた 司教コンラートの破門者リストには、ラゥエンローデ伯コンラートとその息たちものっており、﹁聖堂参事会に対す る度重なる争訟、われらの土地の侵犯およびわれらが冨お90の犯罪者とその一味を保護せること﹂がその理由に ︵30︶ 挙げられている。しかし、ヒルデスハイムの家臣、あるいはミニステリアールと思われる=醇話昌<9H9鴨3につ いては、ほとんど何も分っていないため、そこから多くを読みとることはできない。・ーデン伯は、また二一二六年 ︵31︶ .ころから、・、ンデン司教との間で不断の紛争状態にあり、その渦中で伯コンラート自身が≦oぢΦ伯の城内でU一①豊9 討品。を殺害するという事件を起しているところから、あるいはその購罪のための入費と関係があったのかもしれな ︵32︶ い。さらに、この地方の一般的政治情況としては、さきに捕虜となった○ヰo<8切声ロ冨9≦Φお−い旨。薯嶺が、一二 二九年のはじめに長い捕囚から解かれて故郷へ帰り、同年末には旧敵とも和解し、名実ともにヴェルフェン家の遺領 へ33︶ 全体の支配者になりえた、という点も指摘しておくに値いするところだろう。 さて、小グラーフシャフトの質契約からちょうど五年のち、司教は伯との間で再びほとんど同じような質契約を結 ︵糾︶ んだ。一二三五年六月一日にヒルデスハイムで作成された証書によれば、伯は一三〇プフントのヒルデスハイム貨を 供与され、その抵当として、司教からレーンとして保有している小グラーフシャフトを︵8§馬言§簑a§ミきミ恥§層 餐§N魯§§§ミ罫ミ§偽ミ§喬。き︶、五年の間、前回と同じような条件で司教にいれる。五年から先は、復活祭から 聖ヨハネの日︵六月二四日︶までの間に金額が完済されないたぴに一年ずつそれは保証物としておさえられるが、返 済は﹁借金によってではなく自己の財によって﹂︵ぎ醤魯ミ§ミ砺幾魯砺ミマ。博言︶なさるぺきものとされる。また、 前回と違うもう一つの点としては、つぎの条項が契約に加えられる。﹁もし、ある臣民が大グラーフシャフトから︵職恥 8§ミ黛§駅&︶小グラーフシャフトヘ、またはその逆に移動することあぢば、彼らが退去し来れるグラーフシャフ トのヘルに、以前と同様、役務提供の義務を負い続けるものとする﹂。この条項は㌔ミミもζ..なるものがある領域性 ︵35︶ 、 、 、 、 、 をもっていること、ここでは大小の㌔。§8ミ.、が恐らく隣接して存在していること、しかし、両者が相互排他的な支 配空間にはなっていないこと、を示すものとして注意しておくに値いする。 ところで、本稿の冒頭にのべたマインツの帝国会議は、まさにこの直後に開かれる︵八月十五ー二十五日︶。それがブ ラウンシュヴァイク・リュネブルク公国誕生の時であったと同時に、ヒルデスハイム司教領国の公的な存在確認の機 会でもあったこと、その会議の席上、ブラウンシュヴァイク公は﹁裁判権を纂奪しようとした﹂が司教の反論の前に 目的を果さなかったことはすでに指摘しておいた。そこで、この時に争われたミ蕊動ミミ。とは何であったかという問 ︵36︶ 題に関連して、何よりもまず、この大小グラーフシャフトが浮ぴ上ってくるのだが、その推論にたちいる前に、しば らく、司教の同グラーフシャフト獲得政策の経過を追っておく方が便利である。 マインツの帝国会議の翌年二月、司教コンラートはラウエン・iデ伯コンラートから小グラーフシャフトを三八○ プ7ントのヒルデスハイム貨で買いとった。そのかわりに、司教は子供のいない伯に対し、大グラーフシャフトほか ヒルデスハイム司教コンラート︵二世︶の領国形成政策 一八一 司教からレーンとして与えられている所領のすべてを妻、兄弟、母箱響しめることを認め癖伯に老小グラー 一橋大学研究年報 経済学研究 18 一八二 フシャフトの放棄は問o.。。酔。の司教の館において、つぎの六フーフェの場合をのぞき無権利の第三者からの権利主張 ∼ ︵38︾ ︵39︶ 力 出されないような配慮のもとでなされた。例外とされるのは国勢三品。の四フーフェとω畠三9。一鼻のニフーフェ で、それを司教は三人の、、、ニステリァーレンに各ニフーフェずつ与える。さらに、大小両グラーフシャフトの関係に ついて、幾つかの協定がとりきめられる。すなわち、一方のグラーフシャフトから他方へ嫁していった婦人は、夫側 のグラーフシャフトに属する。両グラーフシャフトに土地をもつ者は、一方の土地を手離そうとしない限り、両方の ヘルに奉仕する︵ミ㌧こ喝§魯ミ§o防ミミ恥ミ︶。どちらのグラーフシャフトにも土地をもたぬ﹁ドイッ語で暮鵯σ乱艶 とよばれる者﹂︵喚§§ミミミ欝ぽミo§8ミミ恥罫oミ魯︶は、契約締結時にいたグラーフシャフトにとどまる。もし・ 彼が一方から他方へ逃げた時は、彼のヘルが連れもどしてよい。しかし、契約締結時にエルベの彼方その他ラント外 にいた者は、帰還時にどちらのグラーフシャフトにとどまるかを選ぶことができる。 この証書は、先の第二の質契約文書とも関連して、大小二つのグラーフシャフトの関係について、一つの想像をさ そう。それは、この二つのグラーフシャフトが、そもそも、ヒルデスハイム司教とローデン伯とのこの交渉過程では じめてはっきりと分割.劃定された一つの8§§畠ではなかったかという想像である。§ミら罫§討ミ㌧8ミ§&ミ&ミ ヤ ヤ ヤ ヤ れヴ なる名称はもちろん一二三〇年以前には見当らないし、契約締結時にラント外にいたものが帰還後に改めてどちらの グラーフシャフトに属するかをきめるという条項などは、二つの地域がかつて同一の支配権に服していたのみならず、 二つの地域なるものがそもそもなかったことを示していないだろうか。. 実は、このグラーフシャフトについての詳細な研究を行なったエンゲルケは、中世後期以降の諸津。窪夷oの開催 日の一致と相違を根拠として、匹Φ旨ΦOβ匿。冨津︵鯉写o益お目出9曾鼠ヨ。ぎ︶とOβh8富ヰ評言①︵日岡お一色品昌 ω①#ヨ碧︶とが本来一つのグラーフシャフトであり、他方、のちの一劫透窪<9号日20aミ巴鼠、、一犀①莚お鍔困。言 ○一①器戸9駄鴇冨津留幹①鼻をふくむ03曾9鉱胃鼠律がもう一つのグラーフシャフトであったと断じ、さらに、 ︵42︶ それらを一〇二二年の偽文書︵!︶に出てくる二つのグラーフシャフトと一気に結びつけているのだが、右で観察し た大小グラーフシャフトの関係は、どうみても、コ一〇〇年の伝統を閲した境界によって分けられる二つのグラーフ シャフト﹂というイメージとは調和しない。むしろ、エンゲルケが右の論断とは全く関係なしに行なっているつぎの 指摘の方が、はるかに真実に近づいているように思われる。彼は1一切の論証ぬきではあるがー﹁司教はラウエ ン・ーデ伯に授封していた二つのグラーフシャフトを、自己の無制約な権力のもとに再獲得しようと試みている﹂と 書く。そして、この企図が小グラーフシャフトについてしか成功しなかったことを指摘したのち、司教が目的の半ば で妥協せざるをえなかった事情を、﹁彼は両グラーフシャフトの獲得において、ブラウンシュヴァイク・リュネブル ハ“︶ ク公オットーに先を越されないために、交渉の長期化でこれ以上時を失うべきではないと思ったのだ﹂、と説明して いる。 エンゲルケが右の説明の傍証として註記しているのは、マインツの帝国会議の論争を伝える年代記のあの個所だけ だが、この時点におけるブラウンシュヴァイク公の領国拡大政策の方向がまさにこの・iデン伯の支配領域にむけら れていたことは、さらに、つぎの二つの事実からも推測されうる。その第一は、十三世紀初頭から急速な発展をはじ ヒルデスハイム司教コンラート︵二世︶の領国形成政策 一八三 一橋大学研究年報 経済学研究 18 一八四 めた都市国雪きく震σ獲得である。ブラウンシュヴァイク公がローデン伯からそれを獲得した時と方法を示す証書は 伝えられていないが、それが一二四一年以前になされていたことは、同年六月、公が都市に対して与えた証書から明 らかである。公は都市ハノーファーの﹁古き法慣習﹂を認め、自らの都市領主としての権利を限定的に規定したが、 ︵鱈“ 同時に、・ーデン伯の授与していたレーンはそのままの形で安堵している。また、第二の事実は、司教コンラートも 伯コンラートも共にすでに亡き一二四八年、ブラウンシュヴァイク公が9鉱鵠9目一3︿8富器一肖o号︵伯コンラート の弟︶から、他の諸権利とともに大グラーフシャフトを獲得したことである。伯ハインリヒは、公オットーから毎年 二〇マルクの定期金を受けとることを代償として、すぺての世襲地、、・・ニステリアーレン、教会からのレーンを譲り ︵454 渡した。ヴェルフェン家は、かように・iデン伯家の旧領をそっくり継承することによって、ハノーファーを中心と する後の領国支配の基礎をきずいたのである。ヴェルフェン公家によるハノーファーと大グラーフシャフトの獲得が、 同家とヒルデスハイム司教との激突をひき起したのは当然であって、数十年にわたり断続したフェーデは、一二八三 年、オソトー峻厳公︵霞震N轟○穽o鳥R曽屋品Φ︶が司教に対し、都市ハノーファーの封主権を認めるという形で﹁名﹂ ︵妬︶ を与えることによって、はじめて一つの安定的な結着に至ったのである。 右のような経過を全体として考えあわせるとき、一二三五年のマインツ帝国会議のころヒルデスハイム司教とブラ ウンシュヴァイク公の間で争われていた誉ミい§ミ。、、とは、・iデン伯の手中にあった﹁グラーフシャフト﹂ではな かったかという推測がほぼ動かし難いものになるだろう。そこで、この﹁グラーフシャフト﹂であるが、いわゆる大 小グラーフシャフトが年代記その他の史料に記される揚合、前者は㌔受ミ匙暴葦ミ§ミミミ之ミwぎミ亀..︵ノルトヴ ︵47︶ ︵娼︶ ︵49︶ アルトと呼ぱれる森林の周囲︶と、また後者は㌔さ8︸8§ミミ疑ミ之ミ§ミ..︵ノルトヴァルトのわきの小グラーフシャフ ト︶と呼ばれていることに特別の注意を喚起したのはヘルムート・プラートだった。ノルトヴァルトは、ヒルデスハ イムから見て北に拡がる広大な森林で、かつてはハノーファーの東からパイネの西にまで及んでいたのであり、この ︵50︶ ︵51︶ 時代にはまさに四方から開墾活動の波をかぶりつつあったが、この大森林を含むグラーフシャフトこそが争いの焦点 だったと思われる。この、大雑把にいってオストファーレン西部地方一帯の伯権は、かつて十二世紀にはヒルデスハ イム司教の言驚魯誉§aヴァッセル家の手中にあり、同家の断絶とハインリヒ獅子公の失脚後、恐らく二八二年ご ろ口﹁デン伯家に司教のレーンとして与えられたと考えられるのだが、ヴェルフェン家にとっても、このグラーフシ ︵52︶ ャフトに対する封主権を主張する根拠があったことは、いo昌碧<8ω言讐お窪ぎおについてのH・W・フォークト の研究からして明らかである。そうしてみると、司教コンラートがグラーフシャフト獲得競争における=三一〇1三 ︵53︶ 六年の時点で、ノルトヴァルトの南西から北にまで及ぶ地域の帰趨はひとまず措いても、デーペナゥ家から獲得した ぱかりのホーエンハメルンを中心とする地域の伯権︵8ミミ象§欝ミ︶だけは獲得を急いだとする推測は、相当の蓋然 性をもって成りたつのではないだろうか。 ところで、司教コンラートによって獲得された小グラーフシャフトの領域構造が、後の写①面声欝訂需鵠9目げ㌣ ヨ。ぎと同一なのか否かという問題にはたちいらないでおきたい。後にホーエンハメルンで開かれるOo鳴言算や へ54︶ 響。蒔Φ旨耳が、この8ミ黛Rミきミと何の連がりももたなかった筈はないが、その関連はまさに明らかにしなければ ならないのであって、頭から直接的連続性を前提してかかれる性質のものではない。したがって、ここでも、グラー ヒルデスハイム司教コンラート︵二世︶の領国形成政策 一八五 一橋大学研究年報 経済学研究 18 一八六 フシャフト.パイネの揚合と同様、小グラーフシャフトヘの所属が明示されている揚所の確認だけで、さしあたりは 満足しなければならない。そうしたものとしてまず挙げられるのは、一二三六年の買収文書で司教がミニステリァー レ ン に ニ フ ー フ 一 。 。 梓 ﹃ 言 鵯 算 ぎ 一 ︶ と ︵ω 595 ェ ず つ を 与 え た田 ︵ ≦ 富 け び 且 切 80 三︶ 号巴鼻。それから、ホーエンハメルンの東 南にある○。αΦ一=一一一。すなわち、コンラートの二代後の司教ヨハンが、一二五八年同村の五フーフェを・ソクム修道 院に売却した際、その一了乙F§§嚢・§§ε属すると裏て聴・そしてご紮すべてである・ 他方、一二三四年、三五年と相ついで国α。臣。旨冒。E9く2Uβ。塁仁がゴデハルト修道院に所領を売却した際に 作られた有名な証書は、ヒルデスハイム北方の8ミ誉黛の所属関係について補足的情報を提供してくれる。すなわち、 ︵57︶ 一二三四年ディートリヒは妻および二人の息子とともに、>碍R巨器窪のニフーフェを﹁フォークタイとすべての権 利ないし収益とともに﹂︵§、§&§8ミ誉ミ。ミミ篤ミ恥§博8恥ミ蜜馬ミ§奪δ三〇プフントで修道院に売却したが、こ の権利移転は、O﹃騨︷の昌区o一崔区⋮α頃巴目凶9︿9冒p自昌33の前で︸誉8ミ§。..︵グラーフェンディンクにおいて︶なされ た。集会開催場所、証書発行揚所は述べられていないが、と碧﹃ヨ誘窪の自由世襲地は明らかに・ーデン伯の8ミ§& ︵恐らく.。ミ..軸画ミ9。。、︶に属しているわけである。一二三五年の売却はO奮雪の教会と人民と土地に関するディート リヒの自由世襲権︵斎恥、恥賊凶馬黛w恥ミ︶全部を対象としていた︵一〇ニプフント︶。この場合は修道院教会の聖遺物の前で金 の授受がなされたのち、ディートリヒと相続人たちは﹁俗語でグラーフェンディンクとよばれるコミチァにおいて﹂ ︵ き ︵58︶ .。ミ偽帖。・ミ。亀㊤ミ恥aミミ匙ミミ恥鳶器§薦︶彼らの権利を放棄した。この揚合も集会開催地の指摘はないが、この 集会を主宰しているのは︵喝ミ職魯ミ㌣馬鷺§蝋黛§誉︶、・ーデン伯ではなく、ヒルデスハイムの有カミニステリァー ︵59︶ ルω震8匡<ob≧富コヨ胃葬である。つまり、O一〇ωΦ一一はヒルデスハイム司教の8§帆9萄︵だが恐らく8§§麟§菩ミと は別の︶に属しているのである。 こうした関連において、最後にみておかなければならないのは、同じく国α。浮。霞望Φ鼠号<8∪名窪帥目による大 きな所領売却である。ディートリヒは一二三九年九月、u9。轟戸︾ぼげ①お窪と並んでデーペナウ家の三大所領中心 をなしていた国o津①巨の全家産︵ミミ鯉ミ連§譜ミ註§。ミミ§︶を三三〇プフントでヒルデスハイム郊外の切巽多〇一〇− ヨ旺匡o簿段に売却する。代金の授受は直ちになされたようだが、司教コンラートは翌一二四〇年五月、聖堂参事会 ︵60︶ ︵61︶ やドームプ・ープストの勧めと願いにより、支払われた代金の巨額さと売買された所領の重要性にかんがみ、あらた めて、慎重極まりない証書を作成しそれを﹁ブラウンシュヴァイク公オット⋮殿と余とラントの豪族たちとの間で ︵62・ 田洋ヨp﹃の森においてなされたラント集会﹂の際に交付した。司教がブラウンシュヴァイク公と共に会談を行なう ︵63︶ のは、マインツの帝国会議を別とすれば、二一三〇年にω①旦冨又霊。。︶で開かれたラント平和についての会議いらい 十年ぶりのこと。司教は、守洋ヨ鶏でのラント集会ーというより﹁国際会議﹂1に、ディートリヒの妻ヘレナの ︵64︶ 権利放棄証書をプ・イセンからとりよせ、それをはるぱる携えてきた息国。ぎ誉げく曾U名8きをして、公と司教の 面前において、﹁両者側からの列席者多数のもとで﹂︵§ミ誉㌣§ミ戚ミ動ミ憶&§ε相続権を放棄させている。 コンラートがホッテルンの所領売買につき、かくも慎重にブラウンシュヴァイク公の承認をとりつけた理由は、公 の側に権利主張のための直接的根拠があったため、というより、ホッテルンが公の側からも獲得目標となっている・ ーデン伯の8ミ誉ζ︵恐らく8慧§§ミミと総称されたもの︶の中にあったためだと思われる。同村は、・ーデン伯の 叱ルデスハイム司教コンラート︵二世﹀の領国形成政策 一八七 一橋大学研究年報 経済学研究 18 一八八 ︵衡︶ ︵66︶ 8§ミ&に属する≧σq巽巨器Sのすぐ西にあり、ヒルデスハイム司教はその8ミミ割を、国一①営■o穿oおよぴ噂ト昌− 需冨ε3、.その他のそれとともに、約三十年のちにはじめて買取るのである。つまり、司教コンラートの時にはホソ テルンの自由世襲領に対する伯権は、まだローデン伯の手中にあったわけで、その帰趨の未決状態から生ずるかもし れぬトラブルを、司教は、所領売買についてブラウンシュヴァイク公の政治的承認をとりつけるという形で防止した のである。ω。ヰヨ碧のラント集会においてとられたこの措置は、デーペナウ家領の新たな獲得にともなう領国境界の 事実上の決定であった。それに較べれば、三十年後の8ミ9黛買収は、いわば既成事実の単なる法的仕上げにすぎな かった。実際、買収時に伯権を手中にしていた切旨8<89韓Φ簿の本拠はヒルデスハイムのはるか東方にあって、 この地域の領域的支配とは何のかかわりもなく、恐らく彼にとらてこの伯権は、政治的意味というより一つの利権の ︵67︶ 意味七かもっていなかったのである。 ︵1︶ 本稿一六二頁。 ︵2︶7n還9目。&。き票馨昌⋮αω9界ωε︵一一窪N自<。昌ωω⋮鵯の。ω量・拝&①区。耳ω号。一夢葺け。巨§ω﹂3。ω’一中 一〇隼 ︵3︶ 閏置器P9昌Uぴくoαq言一巨里のε鍔国旨号跨包ヲU一鋒日冨お撃G雛・ω疏軌矯本稿一六九頁、註︵6︶参照。 ︵4︶ >門〇一二q昼犀o昌異については、>■ミ巽ヨ旨αQ︸6算︿自富器9嶺のσQΦ零げ8げ$αR山o¢緋95コ国凶言ンρP鋭ρ・ω肋V︷・フn 国号p累&。詩一巨5妻、。ω自首9冨8﹃g届画■○こω■・。い顕匿豪お”穿一邑卑一β∪すゴ8ま強90ω帥目σq9轟F畠臼≧。巨− 層o。。げ≦R暮巨匹α饒>8び一島毘目馨5自窪蕗。訂凶㎝畠雪国。。9ヨ。ヨー5u>﹃o巨<h騨一β些o一一。り90のH︵一H3。目。。算■。。ρ 這09ψO。O中民一。一轟F︸一。H日塁P国冒諾ロR日①蓉α①ω︾門・ゴ&異O墨梓ω−<①旨。8︸巨。。ωOのα8]Wδεヨの田孟O書。§,員 閃声琶の魯≦﹂σ・$﹂3c。・ψo。“第を参照。なお、︸貝3己す犀oロがそのω竃茜9奉犀をゼント裁判において行使する手 続き、形式などが世俗領国の裁判制度たる義&ぎαq.、に大きな影響を与えた点は、一Po雷o富F國貰どN貫国具里9口お O曾。nぎ冨院3窪O品。=。耳o﹂罠周8富。ぼ一h諏宥零O・国夷色ヨ雪P一﹂O踏ω﹄3占ご・によって指摘された。 ︵5︶ =oげ窪げ四ヨΦ﹃の監督管職をもっていた甘げ睾昌なる入物を司教コンラート時代の聖堂参事会員の中に探すとすれば、 一〇げ帥ロ昌<o昌切oおP一〇﹃2一昌くoβ切β兇ン匂oロ帥昌昌くo昌Oo窪冒鵯P一〇げ即昌昌く9一くoぎヨ霞一の四人が問題になる。そのうち <o昌ω堅ぎ一は当該文書の証人中に、忌§§塁驚Nミ帖誤として現われ、︿9ωo嶺oは同じく証人中に、罫ミ§跨鴇oミ向畿“§ ヤ憩8ミ葛boミ職§h§旨として現われている。ところが、残った二人の活動年代はいずれも一二六三−六五年にまで及ん でいるところから、恐らく二六年にはまだカノニカーではなかったと思われる。ところで、つぎに検討する翌二七年のホ ーエンハメルンのフォークタイ買収証書にはく呂ω﹃巴畠一が現われず、筆頭証人とレて㌣暑象ミ葛﹄息§ミ象防8避怨ミ砺 が現われているところから、ホ⋮エンハメルンのアルヒディアコンは、聖堂参事会の行政管長︵プ・ーズスト︶であり、 後にく。&窪司教区のそれをも務めた甘鼠目<9切o品oとみてまず間違いなかろう。彼はく。&自−閃8ヨ9地方の貴 族出身者だが、ベルゲ家の研究がないため、このヨハンなる人物の出身家系から何らかの意味を読みとって来ることはで きない。話一る・[弩睾9島鼠且。㎝<。3巴巨馨鼠毘自8のM邑ヨ巽U。彗5箪。﹃PPO■、し。■タ ︵6︶dω﹂H一3国一一山o号。冒一器ひ○耳﹄9 ︵7︶ d甲目■ま轟証書集の編者はこれを一二二六年のものと推測しているが、その根拠は弱い。ディートリヒは、 一二四 三年の文書でもさ9器房匹畠叶震と、ある水車の権利をめぐって争ワている。⊂甲目ひo。鉾℃名℃9訂磯旨“ω≧φへ ︵8︶ 国・民ζ壁F>a﹂象mFざ冨甲くR器8ご誘・Pp・○‘oo■o。8なお一四八一年の史料によると、国巴ヨp5国畦げ9竃①ー ヒルデスハイム司教コンラート︵二世︶の領国形成政策 一八九 一 大学研究年報 経済学研究 18 一九〇 閏四ヨ⋮目巨区¢器﹂ま軌oo・お18あ豆品色訂お伯家については、阿部謹也﹁ハメルンの笛吹き男伝説の成立と変貌﹂︵﹃思 ︵蔦︶ Uoげげ①吋鉱旨讐国p昌望2お麟o﹃q口騨oげωopロロqoooゲ一〇望三σqーコ〇一ωけo一昌o賊一目畠oロ一ωoプoロOoo詩oコ一ヨ一曾匂艶げ﹃げ=コ山o吋ひ﹂昌一乞o﹃自α“ 帥口“ N. αゆ 用︻口唖N !㍉り 一〇一〇■ ︵蔦︶ ωoαρOOO味op’U即の国﹃げo山①﹃団α巴7①営﹃①昌くo昌く¢o犀o昌㎝けo畠梓ロ冨αくぎoαo旨一5凶<o昌==自¢ωげ2昌ンO﹃麟税①一一くo昌巧曽ooonor ︵14︶ <9≧8Poo・爵・ま﹂︷型緯Foo・田渉同家の所領分布については、’δ昌≧言Pψ旨・中が大雑把な概観を与える。 ナウ家の断絶︵一二八三︶後、その遺領は・ーデン伯家にひきつがれたことだけを指摘するにとどめる。 閃昌げのo。。o鼠3密α窪ω5隻=聲口oくR﹂員三区曾路o房・一σ器﹂8ピψ命によって修正補完された。ここでは、デー ︵B︶ ︿9≧8コが作った家系図︵ψ8︶は、曳簿F国色旨暮噸Z帥目窪g乱湿角ざ三一自ROβ噛窪く8菊o山窪旨α倉o ぞく‘∪騨ω頃①﹃No⑳けロヨ■o酔げ9嵯ωくO昌uDロ℃℃一寓一⑳o昌げ仁同σo嚇一一〇ひー一一bo9国二畠o巴一〇ごβ一〇軌Pω・軌O欺・ ︵12︶ ミ驚きミ軌§嵩<o昌ぐ﹃p器包については、∈,国oぎΦ日の昌P切訂εヨ︸H一5窃訂凶ヨ’PPO‘ω・oo“卑8ひn<oσq“コRげΦ詳 ω’一〇し 茎評一募93&§葺窪器浮牙莫一巨αq︵号。。い睾爵§虜切巨豊。5﹂⇒己R審&ζ霧野品&・卑弩窪一。蟄 ︵11︶ くo昌>犀oPd﹃犀漏目α一一〇げoの酵σo﹃α一〇国Oo一げ①同﹃①ロくo昌U①℃①=騨鐸凶⇒一N・い=剛o。け・<・Z血ω弾oげoo・一〇〇ひoo・ψO軌・民四圃ωoさ ︵10︶ 9ミ§マ韓ミ恥忌る・PO‘oo・。。8・デーペナウ城の売買についての証書は伝えられていない。 一一’N“軌ヤ bの鼻α︸ひDわM’ ︵9︶ q甲目﹄盆国=宮鴇o巨旨鴇︵<自ooo筥︶・同年九月はじめ、司教は皇帝の十字軍を送って弱﹃ぎ色£にあった。dω・ oD餌Oげの・︸げ’栖 ] ﹁ ” 一 一 ユ ① o o ⑳ ① 9 客 岡 , 一 〇 , 一 〇 “ O ■ ω 。 匂 O O , ぼ偉臣の教会も同アルヒディアコンの管轄に属している。国お①幹P閃oヨげ臼“Uo﹃︷∈こ三貧一容コoぎ巳一pヨ色昌﹂員2Ω ︵∬︶ 一︾oげげo﹃鉱昌い嗣H帥昌ω,○一二仁ヨ’M︷吋Oδ娼O一昌90プ﹃O昌坤犀①凶ロΦのUo同hoωOo同閃貝o一〇昌<O﹃αo円乞oHα毛四一α9 0一ニロヨ 一〇ひN qo。N一■ 想﹄五八一号、一九七二︶五七頁以下を参照。 八年夏と関係づけて推測しているが、もちろん誤りである。︿8≧8鼻目号一ぎ旨聲くo昌∪聲曾き襲■鋭Oこω■ざじ <9≧器昌はU一9﹃凶畠<8U聲窪窪の転出時期を、国R8αqO#o︿9ω冨ロ田oダ奉碍がプロイセン出兵を行った一二 ︵23︶ bご ]円一一㏄O一犀O曽一︾一⑦の吋OaO口⇒α犀一〇一昌OO﹃騨晒oηOげ騨︷け畠¢﹃OH費︷O昌 <O昌 M野]円口のO一犀①’UO﹃︷目口畠ン︷帥﹃犀峠H肖OげO昌げ帥ヨΦ一コ■即。四■○この,いOO 2 一 く ︵2 ︶ d ω , 。 軌Oq︵一いbのO︶噂oDOM︵一ωN“︶。 ︵24︶ が詳細な記録をとどめている。 パイネのアムツゲリヒトに保管されていたホーエンハメルンの 冊︶ ルデスハイム司教コンラート︵二世︶の領国形成政策 一肖P昌口O︿’ ︵︸Oψ一 ︼W一; 一〇bo一, ω■ N一Mf い帥目O目﹃O自①■ 一昌” ︵一七四一1一 八〇七年にわたる三 九 いいbo・ ヒ 閃﹃O凶山﹁50qげ勝OげO﹃ ︵園一#。﹃くoロO﹃p目ヨo︶¶N圃O︵O﹃帥hΦ昌くo目∼ぐα言o︶嚇一ωいoo︵OH騨8コ︿oロ≦oげ一畠oロげRαo︶ロ㎝ミ■ ︵21︶ d国・一H・Zpo一一一﹃鮮σQo一い︵フ︷一〇7帥o一凶巴畠o里①﹃︶一ひ“い ︵轟頃=8げ巴頃巴ロユoゲくo口寓②ヨ9ロyoo軌一︵頃H①¢Nω岳津︶い 一一H卜∂軌O ン鼠ユ騨,≧お鼠8器?困o珍霞その他の修道院の手に移っていく傾向も指摘している。 ︵20︶ 国団夷。鱒。㌧U。﹃囲口区7鼠詩一頃o冨コ訂ヨ巴戸P騨O‘ω,ω8■>口きま エンゲルケは同時に、こうした所領が ついては、土地台帳が一篇も伝えられていないので、 この確認にも百%の信をおくことはできないが。 ︵19︶ 少なくとも、ヒルデスハイムの証書輿全六巻を通じて、そうしたものへの言及は一度もない。ただ、ヒルデスハイム <oヨ①げヨ=oげぎ・。ぎ訂冒oげ窪ω鼠ヨ目8碧巨魯﹂員客凶o畠①おぎぼ9一ワ這まω﹂18のみをあげておく。 のO一一臼h“Oo目pα︼ピρコ山①ωげΦ﹃﹃ロリoげ四津・閏一ロ<o﹃ooロoげPげΦHα一〇国昌け一<一〇一︷一ロコの ヰニ7−gβ山 700ゲヨ律一〇︼四一けΦ二凶oぴ①﹃ の伶国帥二一〇げ閥①旨 ︵18︶ それに関するおぴただしい文献を列挙することはやめて、最近発表された一つの優れた展望論文竃①蒔90#PO﹃a・ 一橋大学研究年報 経済学研究 18 一九二 H玄α‘ω。8い脇■国o冨旨p旨Φ一pψいOド さO P 喝§§ミ§ミ§§薯㌧§喝§§婁ミ§ミ§§価ミミ§塁き亀“一“ミ噛◎眺恥§§恥象噛㊦§書&議・.、 噛、⋮”§ミ§ミ§ミ§ミ§㌧.豊ミミ息§暑恥嚢§ζ§§導醤§き塗ミ§ミ§㌧−−、. dω﹂H。 云 軌 ・ 田 ﹂ α o 旨 o 一 ヨ 一 N ま 閃 o げ ﹂ ひ ’ 本稿一三〇頁以下。 §旨特ミ、§蔑§§﹄ミ計ミミ§軌&§ミ貯“蓬ミ§ミ§ミ§:ぎ§、胸。ミ“§∼﹃§篭喰鴨§§窒・ d切﹂同.“這=ま①旨。冒一ト。累冒巳一’ 閏,毛5ぎぎ暫目り因霧R零一。黛一9目騨,費O‘ω■a︷・$。︾昌旨、ρい・ ■一一〇︷■ d試。Fよ。FN目o①ω。巨受&段o艮魯くg男aΦ昌巨貰巨匹一曾智ぼ7雪貧け﹂糞Nω・匹ωけ・く・家ω8げ幹 鋭Oこψεざ o出。匹ρugd邑。一59一暁巴。p塞■pωひ旨∴。・一●≦男。憂∪一①o邑。:。昌壽一諏お。邑。キ。巨雪げ。﹃。q・ d国噸昌。一〇避 d切﹂H,No。軌﹂舘o冒巳応。, 中国お舞。b。窪目αさ最国。富嘗器。一p曽・pρω・u。い M肖ー名困。&貫目。琶一。︻一巴。国纂&。匹琶のα。ψ国ωε暴国ま。ω鼠ヨ,帥・帥90。・盆中 o﹃冒β冒ぎダ≦島注目蒋一目ω﹄訟中 ((( ( ((((((( ((( ψ芭ε酋ミ琶き鰻お馨騨8鰻釜弩乙毯毯 ︵39︶ 廃所、現在は園o。隠窪浮巴の耕地にその名をとどめている。]W■国夷o野PO8留きα民一①ヨ①Oβ駐o冨霊騨ρO■いω■ ︵40︶ [麟げげoP>qαq臣“蜜詳竃一コ8号&雲富島窃=即β含譲α﹃盆び暮﹃には仁”αq魯oく9“三〇耳げα評oげ・g三①ぎとあるのみだ Nひ一”>昌ヨ,い, が、この﹁土地なきもの﹂は、ザクセンシュビーゲルのラント法第一部第二条四項およぴ第三部四五条六項に現われる し睾駐甲田自、、なる﹁自由人﹂範疇を想わせる。ザクセンシュビーゲルの﹁ラントザ7セン﹂は、﹁ラント内にアイゲンを もたない﹂、﹁よそものの如くに、来ては去り、ラント内に土地をもたない﹂こくユご号、嘱であり、OoσQβ富昌α5αpに裁判籍を もつものとされている︵︹一5。町巳窪onロ犀o昌帥耳3吸oαqおく窪αぼのoくRω雷毛o犀①旨ωψHN伽轟・︶。 ︵41︶ これと同℃推測を前提した上で、頃・国緯F2餌田曾目昌畠田o詩βロ津α震OH鉱窪くoμ男o号員費野○こω・舘聴はそ の議論を展開している。 ︵42︶ 中国o⑳o憂やOヨ留信昌α民亙岩O声﹃oプ鋒抄PPOこψ獣いRげo。p。譲oo崩なお、一〇二二年の皇帝ハインリヒニ世の 真正な証書とそれに関連した二つの偽文書については、d切﹄,ψひヌδ’基の史料批判を参照。 ︵ 43 ︶ ︼W国お①一訂’9&。⋮q困。5①9鉱の9駄一■mp9りω﹄一〇■ ︵ 糾 ︶ 9ぎ民。暮8げ自①﹃ω5簿頃pコ8<。﹃■ぼ。。αq≧’ρい、90竃h①呂FO■劉国①巳①H■国窪8く⑦﹃一。。ひ。H寄9F ︵ 45 ︶ ω巨o邑o罫d︼W﹄■いρ>,三ロoFN目O。ωoピo耳Φ畠RO轟︷曾<g菊&①戸鋭四■○‘ω■§o。い ︵ 4ω 6︶ gα①⇒山o風、¢中一、ド090︸ξ醤.鴫帖ミ’9■騨・○‘ω■ooひoo︸ 47︶ ︵ dω﹂H届品■この文書は、後代の書式集から収録されたもので、司教がラウエン・ーデ伯との間で8§焼9&§&ミを めぐる争いを、三四〇プフントの支払いにより同グラーフシャフトを買取る形で解決したという内容のもの。事実という より、司教側の政策意図を示すものと解されよう。 ヒ旭デスハイム司教コンラート︵二世︶の領国形成政策 一九三 一橋大学研究年報 経済学研究 18 一九四 ︵48︶ qミ§’驚凡ミ.m鉾○‘ω・。。ひ一・ ︵49︶頃后毎F蜜§:一星頃。鱒⋮︷三臼o邑9<9男&串帥・騨9ψ塁 ︵51︶ 開墾定住の過程については、U。﹃い馨爵邑の=ま窃箒一ヨシ討ユ魯げ賓中ω憂き5−頃o﹃一一一8命ψ一お中UΦ吋い帥&犀﹃①凶の ︵50︶ 中国轟o一ぎ㌧08詔9己遷。一器Oβ厨。訂︷叶勲費・○こω﹄Nド bo59切8ヨo〒頃o旨一30。,oo﹂云RU巽[釜︵一犀話冒田ξ賢o第ωε巳o昌這9甲oo旨O摯を参照。 ︵52︶顕=暮FZ鎖ヨ①一=一&コ臼吋⋮[呂震Oβ︷目く8閃9窪・鉾野O‘on穽︸9﹃喜・NロHO。切。匿98α。HO声崩。ロ く8園o留員鉾費○■、¢一〇Pこの年、・ーデン伯は四十一年ぶりにヒルデスハイム司教の証書で証人の役をつとめてい るo ︵53︶<。撃頃3葺≦ヒ霧田﹃N。讐暮8量誘<8ω言喜お雪ど嶺一まー一一塁=ま婁①目ま。φ軌。律 ︵54︶ ω,国昌吸①野ρ08留琶α困①言oO雷房号鉱鈴P鐸○‘ψN8中によって主張された連続説は、プラートその他によ っても支持さポているが、エンゲルケの方法の批判的検討なしには、容易に結論だけを採用するわけにはいかない。 ︵55︶ d中目 , 輩 軌 , 国 帥 ざ 8 一 巨 日 嵩 ま 守 げ ﹂ 9 ︵56︶ ¢閃﹂H﹂08雷ざ①し。一邑一所二誤。。, ︵57︶ q蜀目﹄O♪にい分台9一N鼠︵<9冒一;︶ヱ嵩口8凱冒一玉。これらの証書は、ザクセンにおける裁判制度、身分制度 などの研究史の上で極めてしばしぱ取り扱われた。それは、これらの証書がザクセンシュビーゲルのO冨蚕嶺R8耳を典 型的に示す史料だと考えられたためであり、およそザクセンシュピーゲルの裁判制度を研究した学者で、この証書に言及 しなかった人はないと思われるほどである。地域史の観点から特に問題となる研究だけをあげておこう。∼<鐸εF!ダ、 ≧窪冨箭o詫口5α望9馨げ即詩。犀α窃q3幕一のぎ名a雲切鍔訂窪﹂﹃ぐω≦O﹄ダGOguo﹃ま中顕①。ぎ℃臣一首ヤUoH ω費o﹃ωΦ昌ロo℃一①αqo一 ロ昌α 畠一① ωけ餌⇒ユoαo﹃岡﹃o一〇昌, =帥一一〇 一〇〇怠 ω, Q軌℃議、 ωo含や OΦo門σq︾ Uo﹃ d﹃臼α①一 一昌 Oω貯臣p一Φ昌, 国p言。く。﹃一。Fo。・筆弾7n。韓g国。閃胃90。−酔筐一ω9。o①誉ゲ諾<。碁ωω琶σQぎ置ヰ。巨葺’切。ユ一昌這一9ω姦。血■ ℃ゲ=一℃℃ン蜀‘N仁﹃O①ユoげげω︿oH︷騨ωωβロαQQ∩騨Oげωo昌の一ヨp70び①5冒捧一〇一”開①︻一旨”セn一〇〇,い弥 一〇一轟ω,NOOぬ■︼田Φo犀︸℃﹃こ一閃一昌Φ ︵58︶ 集会がO一〇器昌そのもので行なわれた可能性がある。というのは、中世末期以降、十八世紀にいたるまで、民一巴亭 器器冨8幕号塞ぎ訂一の99即皿9夷。﹂歪N,ら廿蜂■く﹄2島霧冴,。。o,む峯oo﹂8睦■ O一〇ω①昌では閏お置ぎαqの開催が知られるからである。田騨旨ヨ四昌P1<邑お一ヨ㌧U器閃8こぎの昌民一鉱早O一〇。。o昌一日>旨8 ω袴①口OH’ぐ僻岡α,一コ“>一梓ー一肖一一αOQoプO陣ヨ 一〇■ 一〇一〇■ω,博ぬ齢 ︵59︶ 彼は都市巴ルデスハイムのフォークトのほか、冒o鼻謎け葬のフォークトでもあったので、この証書では山ミごミ誤 急き象ミ§とかa織εミミ一ミoミ携とか呼ぱれている。 ︵60︶ d︼W,HH・軌ωひ噌国旨qOのプo一ヨ一NいOQo①℃槽■NU甲 ︵α︶ d︸W■一一、軌いMo 円︶,︵N自一NいOωo℃壁N凱噌︶■ 、黛§§織§§蔚boミ蕊防§ミ§象衷§寒ミ騎馬ミ魯ミ亀裟ミミ切ミ§ミ恥⋮⋮.、陰 ︵62︶ d︼W・一一・軌ひ令国o一ヨ≦餌一ユ①︿o旨ωo洋ヨ帥﹃、一N令07n田N卜o●こb魯馬裳ミや醤、碧9&、、oミ噛いミa鳶b喝蜜o戚、黛畏賊ミ鷺㌣亀o§賊討窯§ ︵63︶ Oooo5︻・dω・H:高Ooo・・:・:ご騨ご“9崎棋一“融貰ミ、葡い砺ヤ鴫ミ隣番載o“裳§織9醤嚇30駄鴨卜寒§恥§轡o、頭黛苫oぴ匙醇窯砺馬馬ミ賊詰蹄壽ミ9欺ぴミ勲 為職職賊呼黛恥醤o設ヤ畦勲織馬憾黛“恥W驚、、恥らO﹄版O鴫窯賊ミミ軸匙W、&災a㌧窯噛き︸蟄ぴ馬守匙ミま防:;:.麟ハ ︵64︶ ヘレナの権利放棄は、 =一四〇年四月十八日プロイセンのフ鼠ユ雪づδ&Rにおいて、騎士修道士の前でなされてい 重要だったわけである。<o昌︾岸oPq爵E益ご9霧啓σ窪90団α2一お目o昌<oコUo唱聲⇔;勲費○㌧ωーひoo融 る。なお、ホッテルンの所領は、鵠⑦旨自ぐ睾ミ83ロ家から嫁したヘレナの遺贈分であったため、彼女の権利放棄は特 ヒルデスハイム司教コンラート︵二世︶の領国形成政策 一九五 一橋大学研究年報 経済学研究 18 一九六 ︵65︶ [尋ロ留と>蒔角ヨ募雪の間にあった廃所。国’、o量≦一ぎ鉱βUε≦冴ε目σQ睾自oω国一匡窃訂曲ヨ曾U睾山窃・帥・卑ρ・ ψニド ︵66︶ Gミ§・唄帖ミ跨鳶P卑○・︸ψo。3・司教オットー︵一二六〇1七九︶の時にそれらの&ミ魯鞘は五〇プフントで ω旨昌oくo昌O口ω言舞から買収された。 ︵67︶ ω﹃∈一〇︿o昌O島審鼻のこの地域における諸権利は、ローデン伯のミニステリアール∪一〇注3<9≧8昌の娘との結 婚によってもたらされたものであろう。ホッテルンを含む地域の伯権は、・ーデン伯への貨幣貸与“質関係を通じて同家 の手に至ったものと思われる。<oロ≧8P国号ぎ①睡臼一<oロ∪ε窪即FP穿Oこω■曾中中聾嶺①評①曽08窄口昌q 民一〇ぎoOβ富07駄◎四:轡○‘ooこb⊃NOい おわりに 以上、われわれは、コンラートの司教選出いらい一二四〇年ごろにいたるまでの領国政策を、領国の輪郭と骨格の 決定にかかわるような事柄に焦点をあわせつつ概観してきた。コンラートは、領内、・三ステリアーレンの反抗ないし 自立領主化への努力をうち砕くことから始めて、ヒルデスハイム司教領国を順次東と西と北にむかって固めていった。 ︵−︶ 南に対しては、を3置曾訂お伯家との、全体として友好的で緊密な関係のゆえに、両者の勢力圏はいわば相互に閉 ざされない状態にあり、その方面での﹁領土関係﹂の確定は、初のヴェルフェン家出身の司教オットー︵一二六〇ー 一二七九︶の時代までひきのぱされた。それはともかく、コンラートの場合、領国を外にむかって固める努力は、四 ︵2︶ ︵3︶ ○ー四一年で一段落し、最後の数年は相対的に日常的な統治業務にうち過.こしたようである。 ところで、司教コンラートニ世のこうした領国政策は、ヒルデスハイム司教領国形成史の上でどのような位置を占 めるものだったのであろうか。ヒルデスハイムの中世諸史料を国制史的観点から多少とも長期にわたって通観したこ とのある人にとっては、コンラートニ世の時代が大きな劃期をなすという印象は、容易に共有しうるところだろう。 ヒルデスハイム司教領国における﹁アムト制度﹂の成立を研究して、この地方の本格的国制史研究に先鞭をつけた >ヨo置℃9Φ誘は、彼にとって﹁領国﹂の形成過程そのものである﹁アムト制度﹂の成立過程を、まさに皇帝フリー 、、、、、 ︵4︶ ドリヒニ世と司教コンラートニ世の時代にはじまったとみる。彼によれぱ、ほぼ一二二〇1一二六〇年の第一期は、 ﹁イムニテート権域におけるフォークタイ制の再編﹂期、すなわち、再取得、集積されたフォークタイを、新設、獲 の野一嶺富N三︷における融合”アムト制度の確立がなしとげられる時期、ととらえられる。 得、改築された城を中心として再編成する時期、ほぼ一二六〇ー二壬二〇年の第二期は、司教によって獲得された多 一 くのグラーフシャフトを新しいH旨ヨ冒一準匿<88に依託することにより、グラーフシャフトと、イムニテート権域 ︵5︶ また、今日までのところ、ヒルデスハイム司教領国史の全体的概観を与えた唯一の学者頃きω−名巴叶霞困9葺Nは、 極めて斬新な観点にたちつつ、この点におけるコンラートニ世の劃期性を強調した。彼によれば、あたかもフリード ㍉Φ三〇注琶一、.の形成に導いた決定的な動きを㍉①三8器言呂巳︷巴ψ閃葺鵯弓o浮算、.に求めるという、当時としては ︵6︶ リヒニ世の﹁聖界諸侯との協約﹂が出された一二二〇年.ごろ、﹁ほとんど突然に様相が変る。これ以後、ヒルデスハ ︵7︶ イム年代記はほとんど毎頁に司教の城郭建設と城の獲得を報ずるようになる﹂。クレーヴィツはコンラートニ世を ヒルデスハイム司教コンラート︵二世︶の領国形成政策 一九七 一“ 謙串蕪潔引温 一橋大学研究年報 経済学研究 ヨ薄暑麟簿 =零30言 ︵一一。。⊥曽①︶ ㎝ω Oo。 亀 一一 σ、マ洩メ︶潮トペ・謙諭 一ω㎝ κ、マ当メン義卜蛇孚ぺ,謙⇒ 一刈駅︶ 一九八 げ、ぐ瑛メ、ノ函卜眞享3謙嚇引蕪翠ψ遼幅︶耳 ω跨g&一﹃一閃oo。雪p﹃一㎝ゆ≦ぎN雪ぼおω矯︼w話⋮のoンミ㊦蒔ω一ωgぼ冨ヨ一.国曽ぎ氏①一噸>罵①=一ゆン匙騒濫ミs蒜卜 ■ロヨoηヌぎ鴨 oo一≦α三コoq①﹃&①一噂≦﹃N雪げ=農一︸2貯3鴇o象一”Oけ試﹃o画①㎝oo雪一矯一W﹃αoぎ一一 譜︵畠訳︶ ℃①ぎ㊦一典”暮ぽGo.08一胃ω曽切﹃”⋮胃﹃話蒔N一ω零の言象一甲>=①=一噛ω3蔓一.寓a雪一”5、巴犀雪二〇傷一一卜一①げ㊦コσ⊆弓瞬一.=貸コロoく㊦弓一 =冨零買話蒔ω響勺①ぎo一り菊‘90一”湊一3ロ島o﹃hぴ9>①h①髭ン剖捧滋.図孚卜o 勺o等雪げζおoゆ 7自o﹃一訂げo薦げo⋮頴=匹雷﹃o一ヨ圃噸勺o℃需冨﹃薦剃ゆい5仲①﹃b⊃噂切﹃m‘=胃ヲ毒蒔N一ω暫﹃oりg鐸一一国oo畠①門島の一 に。︵誌獣︶ 8︵認訳︶ ミ︵卜。。訳︶ 一一応。︵ホ濃︶ 。。 κ、マ当×ン屯卜副聾 ωざ職二巴一, ︵一N閤山卜。曽︶ =9胃ざ7 一’ ︵誌&⊥N鴇︶ 一〇 ﹃O 18 一 ブルゲノボリテイリク 烹 簿$︶とよぶ。そして、﹁まさにコンラートニ世のもとで、城郭政策と名、づけうるものが現われるのであり、われ ↓。﹃﹃一8﹃一卑曇.ω8=︵領国諸侯︶の典型とみ、﹁司教領国領域の本当の建設者﹂︵αR。お8豊30団轟昌コ自醇α窃oo蔑粛oー いω“ =0 m一 020 H■ ︵一霧。⊥い。お︶ ﹄o訂⋮ 一■ ︵誌鴇ー一80︶ 区g﹃&昌. ︵一器7誌&︶ ミ ω凶濃h該&一︻。 ︵一曽。←ω一。︶ O 舘 ㎝ 零 8 竃 謹 卜o ω 器 卜o ︵8︶ われはその中に、最終的なランデスヘルシャフトに向う最も重大な歩みをみるのである﹂、と述べている。 われわれは、クレーヴィツの言葉に、そのセンセーショナルな調子をも含めて同意することができる。そして、最 後に、そうした判断を支える一つの史料的所見をつけ加えることによって、ひとまず本稿を閉じたいと思う。 表は、司教ハルトベルトからジークフリートニ世にいたるまで︵二九九1=三〇︶、ほぽ十三世紀いっぱいに発 ︵9︶ 行されたヒルデスハイム司教の証書について、その作成または交付揚所をまとめたものである。これは、実は別の目 的で行なった史料研究の副産物であるため、司教文書の中でも純粋に宗教的な事柄に関するものなどは含まれておら ず、数量それ自体には大きな意味をおき難い。しかし、司教の世俗君主としての機能に多少とも関係のある文書は、 できるだけ広く考察の対象にとりこまれており、そうした基準はどの司教の揚合にも崩されていないから、相対的比 較の目的には充分役だつ。 さて、表を一見すれば明らかなように、コンラートニ世の時代は証書の作成揚所についてドラスチックな変化を示 す。ジークフリート一世までは、発行揚所の確認できる大部分の司教文書がヒルデスハイムで作られ、例外的に司教 座都市いがいで発行される揚合にも、それは、例えば証書の受領者たる修道院や教会の在所そのものに限られていた。, これと同じ事情は、十二世紀の史料についてもさかのぼってあてはまる。ところが、コンラートのもとでは、ヒルデ スハイムいがいの場所で作られた文書の数は全体の四五%にも及ぶ。しかも、この傾向が一二三〇年から顕著になっ ていることを考慮して、同年から四六年までの一七年間だけに限ってみると、それは一九〇点中の一〇七点と約五六 %にも達する。これとやや似た傾向は、ハインリヒ一世の時代まで引き継がれるが、ヨハン一世からは再び中央で発 ヒルデスハイム司教コンラート︵二世︶の領国形成政策 一九九 一橋大学研究年報 経済学研究 18 二〇〇 行される証書が多くなる。 このことは、コンラートの時に、司教の統治活動のスタイルにおけるある大きな変化が起ったことを示している。 それが何であったかは、文書発行地のうちわけそれ自体が雄弁に物語る。すなわち、そこでわれわれの注意をひくの は、ラントの内外にわたって広く残された活動の足跡もさることながら、何といっても司教がとくにしぱしば訪れて ︵10︶ いる閏α赫5!♂醤9一影お’⇒o器⇒9塾頃o琶窪日夷の四つの揚所である。閃警馨①は一二三〇年ごろ建設された館であ. ︵11︶ って、機能的には同じく司教が巨費を投じて築いたoo巽簿。簿城と一体であり、したがってコンラートの後継司教ハ インリヒ以後には男α韓。にかわってωp邑Φ琴が証書発行地として現われることになる。ダゴN窪ビ嶺は十二世紀い らい、ヒルデスハイム司教の手中にあった唯一の城。コンラートは治世冒頭のミニステリアーレン鎮圧過程において、 ︵12︶ この城を国Φ霞雪<8鼎9。三ρ=①旨自くo昌望8ぎヨの手から﹁奇襲によって﹂奪いとり、その後、自らも居住しう ︵篇︶ るような形に増改築を加えた。国8。暮鼠一はコンラートが一二二三年に獲得した城であって、9きN。ぎく窪乏9︷雪− ︵14︶ 宴ヰ巴の手中にあるパイネ城に対抗してその﹁都市﹂と城が大造営されたことは上述した。そして、ぎ隠窪σ脅σq城 はヒルデスハイムヘの幹線道路がライネ川を渡る橋畔に位置し、司教は恐らくコ一四〇年ころまでにはそれを封臣か ︵15︶ ら買いとって︵全部ではないが︶、そこに自らの館と税関所を営んだ。 つまり、それらはいずれも司教コンラートの時にはじめて、そうしたものとして新生ないし転生した城郭であって、 しかも、それらは一様に、厳密な意味での9。旨薯嶺窪︵境界防衛城郭︶ではないが、当時の司教領国を外にむかって 固めるとともに、それぞれの方面の対内的管理行政の中心をなすという二重の機能にふさわしい位置を占めている。 ︵巧︶ 司教はそうした城にミニステリアーレンから成る“§ミ、§婁︵城守り︶を駐屯せしめるとともに、所領管理や関税徴 ︵∬︶ 集にたずさわるぺき役人として非自由人フォークトを配置する。そして、彼自身、極めてしばしぱそれらの城をおと ずれ、君主としてのさまざまな統治任務を果たしたのであり、その一端が今日に伝わる諸証書に跡をとどめているの である。コンラートのこうした統治活動のスタイルは、新しい体制をつくり出し定着せしめようとする君主が、いわ ば創設者の熱意をもって事に当っている姿を反映している。ここにわれわれが見るのは、君主主導型の領国形成過程 の一典型である。その意味で司教コンラートは、まさにクレーヴィツのいわゆる︸凋o霞一δ話巴℃o年騨巴ω国仁おΦぞo一葺犀、. の開始者であり、 ﹁ヒルデスハイム司教領国領域の本当の建設者﹂だったのである。. ︵1︶ このことを最もよく示すのは、司教コンラートが、ヴォ:ルデンベルク伯のグラーフシャフトに属するUぼのo詳で、 しばしばラント集会を開いている事実である。すなわち、コンラートは切oおマ厨︵閃厨Yd劇・目・N$︵旨8y蟄一︵旨いo。y 国o=9d甲目﹄8λ罵81ωひyU①焦舞酵d中目﹂鴇︵旨鴇yUぎの〇一σ9q中目﹂訟︵お器︶でラント集会を開いている が、それらはいずれもヴォールデンベルク伯のSミ§貸集会揚所である。≦。りR葬PO声︷窪︿9≦α三韻R&?≦〇三− αΦ&①品p野○‘ω■総ご◆>コβまOムミ矯 ︵2︶H三貸o。,&。。律︸ω舞旨旨、o①の。毎。耳。q8]w蜂・一岡募コま。号。冒甲9・鎖○こω・H﹄。。累戸 ︵3︶ 年代記が彼の晩年の事績としている℃o℃℃①一きロ轟の一部買取り、改造も、一二四一年には終っていたと思われる。と いうのは、同年六月、℃〇三︶魯9一おの礼拝堂で証書を交付していらい、司教は極めてしぱしば、この城に滞在して証書を 交付しているからであるDd切減H9♪9ざ象鉾ひ鴇㌧まρ象辞ま9驚y宅oo㌧ひOo鉾ひooFΣy圃ひ曾ooOざo。Ooo。 ︵4︶旭§ヌ>ヨ。年u一。塑茸9毒。qq。嵯︾昌ω<鼠婁一ヨσqぎ鵠。。訂象二幽二畠。号。ぎ’︵一8軌︶箆■曾○■︸ψ§軌h・ ヒルデスハイム司教コンラート︵二世︶の領国形成政策 二〇一 ︵5︶ 一σ三・o∩・譲9器轟宍ミ一R ぺータースの研究は、全体として水準の高いものであり、とくに司教のアムトマンの権 一橋大学研究年報 経済学研究 18 二〇二 限、地位などについて教えるところ多いが、﹁アムト﹂の完成期をやや早期にくりあげすぎている。これは、彼が十四− 五世紀の史料をほとんど利用していないことと関係があると思われる。 ︵6︶室①三F属き。。−≦巴挫9009象9N弩葺葺oH邑睾響葺莫一琶αQ紆ω国のεヨω雷59琶ヨλ這鵠︶る■錯Pψ呂 彼は﹁十三・十四世紀の領国史は、基本的に、城の歴史、その獲得、建築およぴ破壊の歴史である﹂、と述べている。 ︵7︶ 一σ盈一ψ錯,もし、クレーヴィツが皇帝のω99けに﹁様相の一変﹂した原因を求めているのだとしたら、われわれ 一σ一住●o D . い O 栖 は田幽9室一お。年9P望o悔虫o訂αpo紹90■鉾ρ○、、ω﹂ま唐とともにその判断の不当を鳴らさなければならない。 ︵8︶ ︵11︶ G︸ε藁鳶軸ミ塁︾曾pO‘ω.ooひO● 本稿一四六頁参照。 本稿一四五頁以下、一五六頁を参照。 ただし、q詩三6撃げ蓉げ匹雷国oo訂試h岳国阿置窃げ臥目・目・目どに収録されている限りにおける司教文書である。 ︵12︶ 本稿一五六頁参照。 ︵9︶ ︵13︶ 本稿一六四頁以下参照。 <o⇒≧εpq詩口目α諏90ωロげRgo国匹o浮o目自くo昌U699F鉾錯O﹄ω,ひOh ︵14︶ ︵−o︶ ︵15︶ 本稿一四 六 頁 参 照 。 ︵昭和四九年一月二五日 受理︶ 本稿一六五頁参照。 ︵16︶ 7︶ p(