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映像文化論

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映像文化論
映像文化論 第9回 ハリウッド的ジャンルの映画の外へ
その2 ヌーヴェル・ヴァーグ 第8回の復習
ジョン・グリアソンの定義「現実の創造的な処理」 第8回の復習(2)ケース・スタディ
吉田喜重『夢のシネマ 東京の夢——明治の日本
を映像に記録したエトランジェ ガブリエル・
ヴェール』
映画の創始者リュミエール兄弟に、撮影技師として雇
われ、明治時代の日本にやって来てその映像を記録した
ガブリエル・ヴェールについてのドキュメンタリー
考察のポイント:
・「映画」とは何か?
(そのフィクション性、ドキュメンタリー性)
・「見る」とはどういうことか?
(撮影者と被写体の関係性/文化のステレオタイプ、エ
キゾチシズムとの関連性)
(1)撮影者と被写体(見ることの権力)の関係
メキシコで、白人男性が原住民女性の顔を
無理矢理カメラに向ける
☞映画のカメラ=見る行為=権力・支配
☞無理矢理=演出=フィクション化?
カメラに眼を向けない日本女性
☞撮影者による見ることの権力への問題意識
(2)映画が映し出す現実
過去と現代を重ね合わせる
☞映画は過去/現代問わず、現実を平等に映し出す?
現代の銀座=ガラス越し
☞過去の現実を厳しく映す映画
⇔現代の現実をきちんと「見て」いない人々?
(3)エキゾチズムの否定
歌舞伎=民衆芸術 (旅回り一座の小芝居) ☞夢:日本=東洋の神秘
☞現実:貧しい日本
(4)ドキュメンタリーとフィクション 「こわれた夢」?
過去の写真(ドキュメント)と見えたものが、
作られた映像(フィクション)へとつながる
☞映画=現実と夢のあわい?
傘をさし、同方向(画面右)を向く人物たち
=反ハリウッド的? ハリウッド的ジャンル映画=夢?(物語)
反ハリウッド的映画=こわれた夢?(物語の外部) 1. 物語の外部へ (1)これまでの復習
(a)物語(narrative)
・持続(時間=ストーリーの展開) ・変化(因果=プロットの展開) (b)映画における「物語」の表現技法
・コンティニュイティ編集
・イマジナリー・ライン(180度ルール)
・ミザンセーヌ (第2回資料より)
↑「古典的ハリウッド映画」の技法
2.ヌーヴェル・ヴァーグ (1)定義
1950年代後半から60年代初頭にかけての、若い
映画作家(批評家)たちが主導した、フランス映画の新
しい潮流(ただし明確な定義はない)
(2)経緯 1950年代までのフランス映画
・「心理的レアリスム」に重点(1930年代に成立した
「詩的レアリスム」)
・「良質の伝統」(シナリオ重視=文学的)
←フランソワ・トリュフォーによる批判
(3)『カイエ・デュ・シネマ』紙による映画批評
フランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴ
ダール、エリック・ロメール、ジャック・リヴェット、
クロード・シャブロルらの評論活動
・創造の責任者は脚本家ではなく監督(映画「作家」)
にある
・作家は登場人物の心理を支配できない。登場人物は作家
の操り人形ではない。
(3)『カイエ・デュ・シネマ』紙による映画批評(続)
・スタジオの分業システムでの安定したドラマ作りを否定
「作家主義」を標榜
・文学的な表現から解放され、娯楽に徹する「ハリウッド
映画作家」を評価
「ヒッチコック=ホークス主義者」を自称
(4)表現上の特徴
・同時代的、かつ、個人的な主題
・表現技法における実験意識
ジャンプ・カット、ファスト・モーション
スロー・モーション
フリーズ・フレーム、アイリス
・物語構造の刷新
ロング・テイク
ジャンプ・カット
ロケーション、自然光撮影
←低予算、手持ちカメラによる撮影
・映画の諸慣例に対する強い「自意識」 (5)ヌーヴェル・ヴァーグ(仏)の代表作
(1959) クロード・シャブロル『いとこ同志』
(1959) フランソワ・トリュフォー『大人は判ってくれない』
(1959)アラン・レネ『二十四時間の情事(ヒロシマ、わが
愛)』
(196o) ジャン=リュック・ゴダール『勝手にしやがれ』
(63)『軽蔑』、(64)『はなればなれに』、(65)『気狂いピエ
ロ』
(1961) ジャック・リヴェット『パリはわれらのもの』
その他、ジャック・ドゥミ、アニエス・ヴァルダ(アラ
ン・レネとともに「左岸派」)、広義にはストローブ=ユ
イレを含めることもある。
(6)作品例1 ジャン=リュック・ゴダール『勝手にしやがれ』(1959)
警官を殺してパリに逃げて来た自動車泥棒のミシェルは、
アメリカ人の恋人パトリシアとお互い自由で束縛のない関
係を楽しんでいた。そんなある日、彼の元に警察の手が及
んでくる。パトリシアはミシェルの愛を確かめる為、彼の
居場所を警察に密告、そして彼にも同様に警察が追ってき
た事を伝えるが……。
まさに商業的娯楽映画という概念をひっ繰り返し、これ
までの映画文法や常識といったものまでもことごとくブチ
壊した、映画史の分岐点とも言える記念碑的作品。(all
cinema onlineより)
3.日本とヌーヴェル・ヴァーグ (1)「カイエ」派による日本映画評価
(a)ゴダールによる溝口健二の評価
「ブレッソンのような映画作家が仕上げるのに二年も必
要とするような映画を、彼は三カ月で撮り上げる(中
略)しかもしれを完璧な映画に仕上げる」(1958年)
(b)トリュフォーによる、中平康『狂った果実』(石原
裕次郎主演、1956、日活)の評価
「みずみずしい創意と、ありきたりの手法を無視した奇
抜さにみちた」演出(1958年) (2)松竹ヌーヴェル・ヴァーグ(1959 数年)
停滞していた松竹に、戦後活動を始めた若い世代が新
風を吹き込む。(ジャーナリズムの呼称で、明確な定義
なし)
大島渚 『日本の夜と霧』(1960)、『白昼の通り魔』
(1962)、『絞死刑』(1968)
吉田喜重 『秋津温泉』(1962)、『さらば夏の光』
(1968) ⇔ 小津安二郎との対立(と理解)
篠田正浩 『乾いた湖』(寺山修司脚本、1960)、『心
中天網島』(1969)
(3)映像に対する「(自)意識」
(a)戦前派
溝口健二 ワン・シーン=ワン・カット 小津安二郎 ロー・アングル
(b)戦後派
大島渚 手持ちカメラ(『青春残酷物語』、1960)、
同一ショットのなかでの時間の移行(『日本の夜と
霧』)、膨大なショットの集積(『白昼の通り魔』、
1962)
吉田喜重 「見ることのアナーキズム」
鈴木清順 原色の多用、極度のクローズアップ
遠近法の無視
(4)再び「見ること」について (a)「見るという行為はそれ自体どこまで行っても見果て
ることのない錯覚の延長であり、その構造を支えている
ものは自己欺瞞の論理であるかもしれない。」
(吉田喜重「見ることのアナーキズム」)
(b)映像間には「である」「でない」という「繋辞(コプ
ラ)」がない
「観照者は、自分自分勝手の、胸三寸に潜めている願いを
もって、それらのカットを自分でつないで見ていくので
ある。」
(中井正一「映画のもつ文法」)
(5)再び「こわれた夢」について
溝口の芸術は《真の人生はよそにある》ということと、
それでも人生はここにある、人生の輝くばかりの不思議
な美のなかにこそ人生はあるということを同時に証明し
ようとするものである。
(『ゴダール全評論・全発言1959-1967』)
人生はよそにある=夢
映画=こわれた夢 人生はここにある=現実
(5)作品例2 溝口健二『近松物語』(1954)
近松門左衛門の人形浄瑠璃『大経師昔暦』を映画化。不
義密通の物語
おさん (香川京子) ・・・ 大経師屋の2人目の若
い妻。外見は幸せそうだが、物足りない日々を送る。手
代の茂兵衛に、兄の借金について相談するうち、夫が女
中のお玉(南田洋子)を口説いていたと知り憤慨。お玉
の寝床で夫を待ち伏せしていたところ、茂兵衛が現れ、
不義密通を疑われ逃走する。
茂兵衛 (長谷川一夫) ・・・ 大経師屋の手代。お
さんにひそかに思いを寄せている。おさんの兄の借金返
済のため取引先からお金を都合したことが旦那にばれた
のを、女中のお玉に助けられる。礼を述べるためお玉の
部屋を訪れるとそこには、夫を待ち伏せていた、おさん
が・・・ 参考文献 1. 浅沼圭司他編『新映画事典』(美術出版社)
2. 中条省平『フランス映画史の誘惑』(集英社
新書)
3. 四方田犬彦『日本映画史100年』(集英社
新書)
4. 吉田喜重著・蓮實重彦編『吉田喜重の全体
像』(青土社)
5. 中井正一「映画のもつ文法」(青空文庫)
6. ブランドフォード他『フィルム・スタディー
ズ事典』(フィルムアート社)
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