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クラスター化する高度人材の国際移動―アメリカへ移動

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クラスター化する高度人材の国際移動―アメリカへ移動
クラスター化する高度人材の国際移動―アメリカへ移動するインド人 IT 技術者の
集団的移動をもとに―
Clusterization of Highly Skilled Global Mobility: Collective Movement of Indian IT Engineers
who move to United States
名古屋産業大学 環境情報ビジネス学部
松下 奈美子
要約
本論分では、立場競争理論の分析概念を用いてインドからアメリカへ移動した IT 技術者がアメリカの IT 産業
構造の中でアメリカ人 IT 技術者とポジションをめぐる競争の結果どのようなポジションを獲得しているのかを
考察する。
大企業から高額のオファーを受けてヘッドハントされるごく少数の人材を除くと、インド国内大学出身者らは
グローバルデリバリーモデルによってアメリカやイギリスに移動するか、あるいはグローバル企業がオフショア
先としてインドに設けた拠点で働くことになる。これらのインド人 IT 技術者をチャクラバーティはグローバリ
ゼーションの“弱い勝者”
(Weak Winner)とした。
グローバルな労働市場では、国籍、エスニシティ、階級、性別といったあらゆる要素をもとに競争が行われる。
サクセニアンが、1970 年代以前にアメリカのベル研究所などアメリカ東部のハイテク集積地域で働いていたイ
ンド人や中国人研究開発者がシリコンバレーへと移動した動機を、アメリカ東部地域出身の技術者集団からの排
除や昇進昇格の場面での限界などによるものであったと指摘しているように、アメリカの労働市場で同じ学歴や
資格を持つ国内の上位地位集団と外国人集団が 1 つのポジションをめぐって競争した場合、強い強者(Strong
Winner)となるのは、その国の中で最も支配的な地位集団である。
本稿では、インドからアメリカへ移動した IT 技術者たちは、グローバルデリバリーモデルによって集団とし
て送り出されたことを明らかにする。クラスター化する高度人材の移動は中国や韓国などアジア地域でも見られ
る現象である。高等教育の普及にともない高度人材のクラスター化現象は一層顕著なものとなるであろう。
「高度人材の国際移動」と密接に関連するもう一つの問題は、
「学歴社会のグローバル化」である。先進諸国の多
くは中間層が膨らんだ社会構造であり、高等教育が広く普及している。大学進学率が過半数を超える国では大卒
というキャリアだけで高い賃金を得ることは難しい。インドは 10%に満たない水準の大学進学率にもかかわら
ず、その絶対数が多いこと、インドの国内市場や産業構造が未発達であるがゆえに、IIT や NIT のような国立大
学で高等教育を受けた人材を国内労働市場で吸収するのが難しい。そのため、インド国内水準の低賃金労働を選
択するか、あるいは海外での不安定雇用でもインドよりは高い賃金水準の職を探すということになる。さらにそ
れよりも競争劣位なインド人グループはアジアへと移動しているものと考えられる。しかし、インドの高学歴 IT
技術者が国内の労働市場では吸収しきれずに、IT サービスに関するグローバルなデリバリーシステムの担い手と
して“輸出”され、フレキシブルで安価な労働力として、比較的単純で非創造的な業務に従事している実態は、
ライシュが「シンボリックアナリスト」と形容し、人的資本理論が頭脳獲得競争の対象として想定する「高度人
材」とは明らかに異なるものであると言えよう
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Abstract
This Article argued about why the global mobility of highly skilled is turned into clusterization.
Especially in Asia, the clustered highly skilled mobilization caused a regionalization which means a certain
social status group monopolized a certain industry. Most apparent case is Indian IT engineers moved to
United States. According to neo-classical economists and human capital theorist, a global market is widely
open to highly skilled that their mobilization will be omnidirection and it would not be restricted regionally.
Contrarily to the theorists, practical phenomenon is obviously convergent. One of the considerable
explanation is that each social status group as mother country, native language, and educational background
continued positional competition, a strong status group monopolized a certain segment in industry.
2
1. はじめに
(1)問題意識と研究の背景
20 世紀末の情報通信技術の劇的な進歩により、従来の距離的な障壁を克服できたことは世界中に多くの可能性
を提示した。20 世紀には存在しなかったビジネスが新たに生み出され、世界経済のパイが拡大する状態をフリー
ドマンは「世界のフラット化」と形容した。世界のフラット化が進化するにつれ分業や協業が水平垂直方向に拡
大し、自国の比較優位は常に脅かされるため産業の高度な部分を担うことこそが自国の経済成長にとって非常に
重要となる。つまり、世界的な市場拡大競争の中で自国が主導権を握るためにはいかに優秀な人材をライバルよ
り多く獲得できるかにかかっているのである。
1990 年代以降のアメリカの新興 IT 産業の勃興は、かつてシュンペーターが唱えたイノベーション、起業家精
神、産業競争力の強化という概念の具現化として受け止められ、主に先進国を中心に優秀な外国人 IT 技術者を
はじめ、研究者や留学生を確保するための積極的な誘致合戦が始まった。
「高度人材の国際移動」の必然性とグロ
ーバルエリートの獲得の必要性を説くロジックは、今日の世界各国の移民政策、雇用政策、高等教育政策に対し
て、無視することのできない現実的な影響力を及ぼすようになっている。本稿は人的資本理論の通説に対し、社
会学の立場から、また現実に観察される「高度人材の国際移動」の移動実態から批判的考察を行うことを目的と
している。
(2)研究の対象と方法
統計的に見ると高学歴を有する専門的・技術的な職業能力を持つ人材の国際的な移動は年々拡大していること
は事実だが、
国境を越える移動のメカニズムは明らかになっていない部分が多い。
新古典派経済学的な理論では、
高度人材の移動は自由であり、各々が自己の利益を最大化する行動を取っているということになるが、実際に国
境を越える人間の移動が完全な無制限ということにはならない。一握りの人材を除いた大多数の高度人材の移動
は、自由な移動というよりもむしろ制御された移動に近いのではないだろうか。高度人材は人的資本も社会関係
資本も比較的豊富に持つため、低技能移民のようにセグメントを形成し、特定の地域や産業に集中することはな
いと考えられてきた。しかし、2000 年代に世界規模で急拡大した実際の IT 技術者の国境を越えた労働移動の実
態を見てみると、その国際労働移動は特定の地域や産業に集中していることがわかる。IT 技術者の世界的な送り
出し大国であるインドからは、アメリカとイギリスに集中しているのに対し、その他のヨーロッパやアジアへの
移動は極端に少ない。また、来日外国人 IT 技術者の大多数が中国や韓国をはじめ、アジア地域出身者であり、欧
米出身者は非常に少ない。また、どの国も情報通信産業で働く高度人材は多いが、それ以外の産業で働く高度人
材は非常に少ない。
なぜ高い学歴を有して専門的な知識や技術を持つはずの高度人材でさえも特定の産業に、しかも特定地域から
の出身者が集中しているのか。受け入れ国側が特定地域国との間で査証に関する協定を締結したり、あるいは特
定の産業にだけ高度人材を受け入れるようにしているとすれば、それは完全に自由な移動ではなく制御された移
動となる。また、高度人材であっても、やはり移動先の労働市場内で獲得できるポジションに限界があり、結果
的に特定の集団が特定の産業に集中しているのだろうか。
近年ではインドからアメリカに移動した IT 技術者を対象とした社会学的なアプローチからの実証研究が徐々
に積み重ねられてきているが、理論的な説明枠組みの提示はまだ十分であるとはいえない。世界全体で一年間に
数十万人単位の国際移動が行われる IT 技術者の国際移動を説明する際に、従来のほんの一握りのグローバルエ
リートを念頭に置いた説明枠組みを用いるのではなく、
本稿では、
労働市場におけるパイは決して無限ではなく、
外国人という外部集団と国内の内部集団が労働市場内の有限のポジションをめぐって競争を繰り広げると考える
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立場競争理論(positional competition theory)を用いて説明する。本稿では IT 技術者に焦点を当て、IT 技術者
の国際移動を社会学的に説明することを試みる。その理由は、第一には世界規模で国際移動する高度人材のなか
で、職種別に最大規模の集団を形成しているのが IT 技術者であること、そして第二には、1990 年代から各国が
追求してきた高度人材を獲得するための競争政策において、獲得すべき主要ターゲットとして IT 技術者が具体
的に対象設定される場合が多かったからである。
2. 本稿の主要な分析枠組み:立場競争理論
(1)ブラウンの立場競争理論
高度人材研究では、豊富な人的資本を持つ高度人材はローバルオークションによって高い賃金や好条件で働く
ことが可能であるという議論が多い。グローバルオークションの典型例であるヨーロッパのサッカー市場では、
一握りの一流選手を求めてビッグクラブが何百億円という金額を提示して選手を獲得する。しかし、こうした高
額の移籍金で移動するスポーツ選手ですら、完全に市場の原理だけで移動しているのではない。サッカー移籍市
場の制度によって、1 シーズンに移籍可能な選手の人数には上限が定められている。ヨーロッパ地域以外の国の
出身者の獲得人数にはさらに厳しい上限が設けられている。人数の上限を超えた場合にはどんな金額であっても
移籍は実現しない。つまり、制度やルールで定められた枠の中で空いたポジションをめぐる競争が行われている
のである。
本稿では高度人材の国際移動を次のように考える。 高度人材の国際的な労働市場においては“アウトサイダ
ー”である外国人高度人材と、
“メンバー”である国内の高度人材が労働市場の限られた立場(ポジション)をめ
ぐって集団間での競合が生じ、場合によっては対立が生じる。そこでは個人を単位とする実力本位の競争が行わ
れているわけではなく、
“メンバー”であるか否かという点で線引きされた集団間の競争が行われる。さらに、競
争の対象となるポジションは有限であり、
決して需要に応じて供給が無限に拡大されることはない。
本論文では、
労働市場に用意された限られた椅子をめぐって“アウトサイダー”である外部集団は簒奪(usurpation)を、既
存“メンバー”である内部集団は排除(exclusion)を試みようとする紛争が労働市場で起こっているという視点
で高度人材の国際移動を分析する。その際に援用する理論はブラウンの立場競争理論(Positional Competition
Theory)である[Brown 2000]。立場をめぐる競争の社会構造がグローバル化した状況を、様々な地位集団(status
group)間の競争と対立として分析するブラウンの立場競争理論は、おおよそ次のような諸概念を中心に展開さ
れている。立場競争理論では、経済的に発展した労働市場と教育システムの下では、全ての競争参加者の能力と
努力に見合った職業を獲得するための開放的で公平な競争が行われるというネオリベラリズムの楽観的な見方を
否定する。むしろ立場をめぐる競争は構造化し、競合し対立する利益集団間で行われる競争は閉鎖的で不平等な
ものになると考える。この閉鎖的で不平等な競争は個人間で行われるのではなく、例えば EU の中で労働許可を
得られない EU 域外外国籍労働者と社会、という集団と社会との関係性の中で行われる[Brown 2000:642]。
ブラウンの立場競争理論は基本的にはマルクスやウェーバーの階級、階層闘争理論の系譜を辿るものである。
後にコリンズやダーレンドルフらによって紛争理論として確立されるマルクスやウェーバーの対立、闘争の概念
では、社会全体は紐帯や連帯を持った小規模の準拠集団が相互に争い続ける集合体に過ぎないとした。つまり、
独自の利益集団として分断された集団同士が、富や地位のより支配的な独占をめぐって常に争い続ける状態その
ものが社会を構成しているのである。ウェーバーはエスニックや宗教、地域コミュニティなど何らかの共通の文
化的側面を持つ集団が 1 つの身分集団として組織化されると、単に同水準の経済的状態にある集団を超えるだけ
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の力を獲得していくとする一方で、ウェーバーは、
“機会”の独占状態を、
「閉鎖性」という概念で説明している。
ある特定の集団が部外者集団に対して機会を与えないという閉鎖的行動を取ることによって自分たちの権益を独
占する [Weber 1978:901-940]。部外者集団は内部集団から機会や立場を簒奪しなければならず、そのためにも
集団化する必要があるのである。
ブラウンは資本や階級、
階層という概念を直接は用いてはいないが、市場において個人ではなく集団を重視し、
既存集団が独占的、支配的に市場で有しているポジションをめぐって新規集団と対立し、互いに排除と簒奪を目
的とした行動を取ると考える。さらに、ブラウンの立場競争理論では、社会的地位集団とメンバーシップという
概念が加わる。国籍やエスニック、言語などの要素によって異なるステイタス、社会的地位に属する集団によっ
て社会は構成され、社会的地位集団間での争いが常に繰り返されているのである。立場競争理論では個人の特性
を強調する新古典派理論など従来の高度人材研究の理論と異なり、個人は簒奪あるいは排除の目的のための集合
体のメンバーであると位置づけられている。
グローバルな労働市場に世界中のありとあらゆる地域、国家から高度人材が集まってきたとしても、国内の支
配的な力を持つメンバーに近い社会的地位を持つ集団から順に優劣がつき、立場簒奪可能性も高まる。母語や国
籍、エスニシティは容易に変更できないため、どうしてもそれらの社会的地位に拘束されながらの国際移動にな
らざるを得ない。ブラウンはヨーロッパの情報通信産業で働く熟練したインド人 IT 技術者がイギリス国内労働
市場で排除されている事例を挙げ、実力による評価以前に、国籍というメンバーシップ、EU の国籍を持ってい
るか否かというルールによってインドから来た労働者は評価されていると指摘した。つまりイギリスの労働市場
は知識やスキル、経験に基づいて評価される自由で公平な競争市場ではなく、国籍や民族、学歴、社会階級とい
った社会的地位によって評価される閉鎖的で不平等な競争市場が生じているのである[Brown 2000:644)。
3. 社会的地位集団として送り出される外国人 IT 技術者
(1)インドからアメリカへ向かう高度人材
近年、アメリカへ移住し被雇用者として働く外国人 IT 技術者のストックの増加に伴い、労働条件が悪化する
実態などが実証研究から少しずつ明らかにされてきている。Aneesh や Xiang は、アメリカの IT 産業で働く最大
のクラスターを形成しているインド人技術者の移動は安価な労働力としてのボディショッピングであり、シンボ
リックアナリストの国際移動ではないと指摘している。1990 年代から 2000 年代にかけてアメリカへ向かった外
国人技術者の多くはインド人技術者であった。アメリカのドットコム景気が過熱していた 1998 年から 1999 年
にかけて発給された H-1-B ビザの実に 74%がインド人であり、H-1-B ビザは別名インド人ビザであるとも言わ
れた。アメリカの情報通信産業内で最大規模のインド人クラスターが形成されていた状態を、Xiang はエスニシ
ゼーションであると指摘した1 [Xiang 2006]。なぜインド人がこれだけ圧倒的多数を市場で占有できたのだろう
か。理由としてはインドの公用語が英語であり英語圏であるアメリカで他の外国人よりも言語的に優位であった
ということ、そして高水準の理数教育による人材育成が比較的早い段階から行われていたということは指摘でき
る。しかし、この段階ではまだ国際移動が“可能な”人材のストックを説明したに過ぎない。以下ではインドか
らアメリカへの IT 技術者の移動のプロセスについてみていくことにする。
(2)グローバルデリバリーモデルによるインド人 IT 技術者の国際移動
インド人 IT 技術者の国際移動を考察する上で、重要なのはインドにおける情報通信産業のピラミッド構造であ
る。インドの情報通信産業は TCS・Infosys・Wipro・HCL・Cognizant の 5 大企業を頂点とする強固な大企業中
5
心のピラミッド構造となっている2。この一握りの巨大 IT 企業はインド人 IT 技術者の国際移動にどのような役
割を果たしてきたのか。
IT 産業では、従来プロジェクト毎にどの程度の人員や予算が必要かを計算するために人月という概念を使う
が、必要な期間に必要な人員を売るというビジネスモデルを確立させたのがインド系 IT 企業、なかでも TCS で
あると Xiang は指摘する[Xiang 2006:5]。タタ財閥一つとして 1968 年に操業開始し、1974 年に IT サービスの
輸出を始めた TCS は、当初から海外市場で大規模な展開を模索する輸出志向型の企業であった。TCS に続き、
後続の IT 企業も同様の海外輸出型のビジネスサービスを展開した。また、アメリカで経営学修士の学位を取得
後インドに帰還したラマリンガ・ラジュが起業したサティヤムもアメリカと母国のインドを結ぶネットワークを
活用して、インド人技術者をアメリカへと輸出した。ラマリンガはこのインド人技術者送り出しモデルを「グロ
ーバルデリバリーモデル」と呼び、後発企業ではあったが短期間に急成長を遂げた3。1980 年代に入り、アメリ
カ国内で働く IT 技術者の需要が急増したことに加え、2000 年の Y2K 問題への対処にも人員が必要となり、イ
ンド人 IT 技術者はアメリカの多くの企業へと“輸出”されたのである。
アメリカの H-1-B ビザで働く外国人 IT 技術者の実態は必要な時に必要な分だけ労働力を確保したい IT 企業
の都合良く利用されていることは早い段階から指摘されていた。アニーシュは、H-1-B ビザで働くインド人 IT 技
術者を「
(他の移民と比較すれば)高い給与ではあるが、その職務内容はローコストなジャストインタイム労働者
であり、専門的労働者とはいえない」と指摘している[Aneesh 2000:6]。
(3)高等教育の普及とグローバルデリバリーモデルの拡大
インド人 IT 技術者をアメリカに送り出すグローバルデリバリーモデルの背景には、インド国内の高等教育事
情が密接に関係していると考えられる。ブラウンがいうように労働市場に高学歴・高技能をもつ人材が安定的か
つ大量に供給され、次第にストックされていくと高度な知識や技術であってもその限定的な価値が次第に逓減し
ていくことは避けられない。インドの大学進学率は 2004 年の時点で約 9%と OECD 平均と比較するとかなり低
いが、2004 年の大学卒業者数は約 250 万人となっている。これは同年の日本の大学進学率が 40%、約 60 万人
であることを考えると、進学率が 10%に満たない中で大学卒業者数が 250 万人、そのうち理工系学部の学生が
全体の 38%の 82 万人、さらに IT の専攻者だけでも約 17 万人というのは非常にインパクトのある数字である
[小島 2005:112]。現在ではこの理工系出身者が 100 万人に達しているが、インド工科大学(Indian Institute of
Technology: IIT)や国立工科大学(National Institute of Technology: NIT)の学生は、欧米企業に高待遇でヘッ
ドハンティングされると言われる。
IIT が約 1 万 5 千人、NIT 約 2 万 5 千人を合わせて 4 万人ほどであり、この層の最上部のごく少数の最も優秀
な学生を対しては、アメリカの IT 企業を頂点に、新卒の学生に中には 1000 万円を超える高額報酬を提示しての
争奪戦が行われるケースもあるほどの競争になっていると分析している。大学のネームバリューは IIT や NIT に
及ばないものの、その次の層の学生の質は上位層と大きな差はないと言われる。しかし第二集団の卒業生はおも
にインドに開発拠点を置く大手 IT 企業に就職するとされ、平均的な給与は、第一集団と比較すると約半分の平
均年収が 30 万ルピー(約 50 万円)である[リクルートワークス 2013:13-22]。
図 1 「インドの工学系大学の構造」
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IIT/NIT の上位 30~50 校
欧米企業やグローバル企業、インド IT 大手企業による争奪戦
Tier 1
Tier1 を除くトップ 100~150 校
Tier 2
成績上位者は Tier1 と変わらない給与・待遇
おもにインド現地の大手企業へ就職
Tier 3~Tier 4
数千から数万校が存在すると言われる
出典)リクルートワークス『インドにおける新卒採用の現状』P13 図表 5 より
世界的な IT 企業が 1000 万円を超えるようなオファーを出して IIT や NIT のインド人学生を確保すると大き
く報道されるが、全ての卒業生がそのような破格の待遇で就職しているわけではなく、むしろ稀なケースである
という指摘もある。IIT や NIT の学生が Tier2 や Tier3 の学生と比較して就職に有利なことは事実であるが、そ
れでも年収 50 万ルピー(日本円で約 75 万円)であればかなり上位層であり、実際には 50 万ルピーももらえな
い学生の方が多いとされる[山田 2013]。山田が指摘したこの数字は、リクルートワークスの出した Tier2 の学生
の平均給与は Tier1 の約半分の 30 万ルピーという数字とも符合する。つまり、Tier1 の中のさらにごく少数のエ
リートが破格の待遇で採用されるが、それ以外の学生は入学倍率が 60 倍以上とも言われる IIT 卒業生でもイン
ドの給与体系では年収が 100 万円にも満たないのである。立場競争論で言えば、IIT を卒業してインド国内で就
職する場合、この Tier1 はもっとも高い学歴上の優位性を保持した地位集団であり、現地企業であれば他のいか
なる集団をも排除できる最も有利な層であり、インド国内であれば Tier1 の学生は学歴やスキルに見合った最高
のポジションを手に入れられる可能性が高い。
しかし、欧米の上位理工系大学出身者の新卒平均年収が 500 万円~700 万円であることを考えると、この層の
学生がインドに留まった場合の平均年収 75 万円というのは先進国で同水準の学生が母国に留まった場合と比較
してかなり低い。Tier1 の学生がインド企業で得られる賃金に満足できず、インド以外の国で就職する場合、全
く異なる競争環境に直面する。インド国内では学歴的な優位性に基づいて最上位集団として発揮できた排除圧力
を、外国においても地位簒奪の手段として用いることはできない。英語圏のアメリカであったとしてもポジショ
ン獲得競争では劣位な位置に立たされる。インドに留まった場合に得られたはずのポジションと同等のそれを海
外で獲得することはほぼ不可能である。そうすると金銭的にはインドよりも高い賃金を得られても、自分の学歴
やスキルに見合ったといえる職種や職務につくことは難しい。さらに、海外に移動した場合、インド国内では
Tier1 であった人材の多くは Tier2 や Tier3 と同じインド人という国籍の社会的地位集団として他の集団との競
争になる。2010 年に発表されたアメリカの経済政策研究所(Economic Policy Institute :EPI)の報告書では、本
来優秀な専門的外国人労働者をアメリカに定住させるための入り口としての位置づけであったはずの H-1-B ビ
ザや L-1 ビザが、短期就労ビザであることを利用し、インド人技術者を一時的に雇用するものの、アメリカ企業
方式で職業訓練や経験を積ませた後はインドに帰国させ、インドのオフショア企業で現地の賃金水準で雇用して
いる事例が少なくないという[Hira 2010]。一方で、インド人 IT 技術者がアメリカに移動しなければ、あるいは
アメリカ国内の業務の一部がインドにオフショアされなければその職を得られていたであろうアメリカ国内で下
位集団に位置する集団と高学歴で高い技術や専門的知識を持つインド人 IT 技術者がポジションをめぐって競争
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した場合、インド人 IT 技術者は国内下位集団からの排除圧力を退けてポジションの簒奪に成功している。この
状況をチャクラバーティはインド人技術者がグローバリゼーションの弱い勝者(Weak Winner)であり、ポジシ
ョンを簒奪された国内の下位集団は強い敗者(Strong loser)とした(Charkvattey, 2005: 2-3)。
「高度人材の国際移動」と密接に関連するもう一つの問題は、
「学歴社会のグローバル化」である。先進諸国の
多くは中間層が膨らんだ社会構造であり、高等教育が広く普及している。大学進学率が過半数を超える国では大
卒というキャリアだけで高い賃金を得ることは難しい。インドは 10%に満たない水準の大学進学率にもかかわら
ず、その絶対数が多いこと、インドの国内市場や産業構造が未発達であるがゆえに、IIT や NIT のような国立大
学で高等教育を受けた人材を国内労働市場で吸収するのが難しい。そのため、インド国内水準の低賃金労働を選
択するか、あるいは海外での不安定雇用でもインドよりは高い賃金水準の職を探すということになる。さらにそ
れよりも競争劣位なインド人グループはアジアへと移動しているものと考えられる。しかし、インドの高学歴 IT
技術者が国内の労働市場では吸収しきれずに、IT サービスに関するグローバルなデリバリーシステムの担い手と
して“輸出”され、フレキシブルで安価な労働力として、比較的単純で非創造的な業務に従事している実態は、
ライシュが「シンボリックアナリスト」と形容し、人的資本理論が頭脳獲得競争の対象として想定する「高度人
材」とは明らかに異なるものであると言えよう。
学歴社会が国内の労働市場に留まらず、グローバルな労働市場にも学歴という基準が持ち込まれた結果、経済
学理論上の頭脳獲得競争論と、現実の高度人材の移動に大きな乖離が生じているのではないかと考える。高等教
育の普及とそれに伴う国際労働移動の拡大と高度人材の質の変化については今後更なる分析が必要であろう。市
場原理でいえば財の供給が過剰になれば市場価格が低下するように、高等教育の普及によって大卒者が飛躍的に
増えてもそれを吸収できるだけの雇用が国内労働市場に用意されなければ、
「高度人材」は国内でキャリアに見合
わない職業、つまり低賃金労働を選択するか、あるいは海外で自身のキャリアに見合う職を探すということにな
るのである。つまり、グローバリゼーションが進んだ現代で国際的な移動を選択した人たちの中には国内の真の
エリート層出身ではなく、国内に留まっていたのではそれ以上の上昇機会が得られないため、海外の労働市場に
上昇の機会を求めて国際移動を決断したという人材も一定数いるのではないだろうか。
Aneesh,A. 2000, "Rethinking Migration: High-Skilled Labor Flows from India to the United States" . Center for
Comparative Immigration Studies. Working Papers, 18.
Brown, Phillip, 2000, The Globalisation of Positional Competition, Sociology,.34(4), 633-653.
Chakravartty, Paula, 2005, Weak Winners of Globalization: Indian H-1B Workers in the American Information Economy,
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Hira, Ron, 2010, “Bridge to Immigration or Cheap Temporary Labor? The H-1B & L-1 VisaPrograms Are a Source of
Both”, EPI BRIEFING PAPER, Economic Policy Institute.
註
(1) Xiang はインド人のアメリカへの国際移動を個人単位のエスニックネットワークを利用した国際移動という分析
枠組みで考察しているため、本論文の分析枠組みとは立場をやや異にするが、IT 技術者の国際移動を抽象的な新
古典派経済学的理論で分析することには批判的である。
(2) ガートナー社の報告によれば 2010 年におけるインド系 IT 企業全ての世界売り上げ合計は約 574 億ドルであ
り、そのうち本文中の上位 5 社が占める売り上げの合計は 242 億ドルとなっている(ガートナー社, 2011 年 5 月
プレスリリース http://www.gartner.co.jp/press/html/pr20110519-01.html)
。
(3) Satyam Mahindra は急成長したが、2009 年に前年度 2008 年の売り上げを大幅に水増しする粉飾決算を行うな
ど巨額の不正が明らかになり、Tec Mahindra に買収された。
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