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ミスターと私

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ミスターと私
<うちの例会>
ミスターと私
松川 白堂
(福岡禅会)
私は人間禅に入会して丁度1年になりました。昨年の鎮西道場3月摂心会で講
演会講師をお引き受けしたのがきっかけで、葆光庵丸川春譚総裁老師に参禅させ
て頂き、次の摂心会で入会のお許しを頂きました。
会社勤めを卒業して所在ない毎日に戸惑っていた時だったものですから、有り
余る時間を全て坐禅にぶつけました。日々充実を取り戻して行きました。私自身
よりも亭主の加齢臭に窒息状態だった家内が大喜びをしてくれました。
以来1年、
真剣な修行をしているつもりにもかかわらず煩悩は却って増殖して、最近は煩悩
花盛りの中でかなり自信喪失しております。
ところが先日、家内に督促されて会社勤め時代の膨大な新聞スクラップ帳を整
理しているうちに、入社当時の1冊から坐禅修行のありがたさに気づかされる記
事を見つけました。この記事を中心に私の娑婆当時のお話をさせて頂きます。
◇◇◇
私は学校を卒業して新聞社に入社しました。新聞社には関連会社への出向を含
めて都合 43 年間在籍させて頂きました。従って新聞以外は何も知らない、いわ
ゆる“新聞バカ”です。
様々な分野の仕事をしましたが、編集局にいた当時整理部と言うセクションで
仕事をした時期があります。全国と言うより世界中から流れて来る記事を取捨選
択して、掲載するかボツにするかを決め、掲載するならどの面でどの大きさで扱
うかを判断します。最後に面ごとにレイアウトをして見出しを付けるのが仕事で
す。
ちょっと余談になりますが、アポロが月に着陸した時に1面を担当しました。
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歴史に残る紙面ですから歴史的な見出しにしようと肩に力が入って、胃が痛くな
るほど苦吟しました。蓋を開けてみたらどの新聞社も「人類、月に立つ」という
見出しだったことなどが懐かしい思い出です。
また、長嶋茂雄さんを「ミスター」と最初に見出しにしたのは私ではないかと
思っています。あの名台詞を残した引退セレモニーの記事に「ミスターが泣いた」
という見出しを付けました。
「ミスタープロ野球」の「プロ野球」を省略しただけ
ですが、当時そんな呼び方はなかったものですからデスクがクレームをつけて来
ました。議論の末、
「でも長嶋さんだと分かるよな」ということで掲載となりまし
た。その後、マスコミ各社が次第に「ミスター」だけで長嶋さんを呼ぶようにな
りました。見出しに著作権登録がないので、今さら何を言っても誰も相手にして
くれないのですが、私の造語だと信じています。
◇◇◇
さて、いよいよ悩める老修行者に法喜禅悦を感じさせてくれた記事のお話をし
ましょう。実はこの記事は私が新聞社に入社する前のものです。
当時の八幡製鉄に君原健二さんというマラソンの名選手がいました。レースに
は修行僧のような、何物も寄せ付けない雰囲気で臨む人でした。円谷幸吉さんと
いう盟友が亡くなった後は、命がけでレースをしているようにさえ見えました。
1966 年その君原さんがボストンマラソンで優勝しました。2時間 17 分 11 秒と
いうタイムでした。記事は君原さんが帰国して北九州の小倉駅に降り立った時の
ものです。
八幡製鉄の関係者だけでなく市民が小倉駅に詰めかけて、ロンドンオリンピッ
クのメダリストパレードと同じような騒ぎになりました。君原さんのご両親と新
婚の奥様も駅前に出迎えに来たものだから、
新聞各社が見逃すはずがありません。
早速、大勢の人垣を前に4人並んで各社のカメラマンが一斉撮影です。君原さん
は相変わらず修行僧の顔、ご両親は人の多さに驚いた風情、新婚の奥様は何やら
恥ずかしげ、という写真が出来あがりました。配られた新聞を見ると各社とも4
人並んだ写真を使って、見出しは多少の違いはあるものの「君原選手が凱旋」
「小
倉駅 市民のバンザイのこだま」といった調子でした。
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私が勤めていた新聞社だけが大胆な編集をしていました。写真をトリミングし
て奥さんだけを残して縦位置で大きくアップし、その写真に見出しをくっつけて
「新妻に月桂冠」となっていました。新妻のちょっと“はにかんだ”表情に見出
しが映えて名画を見るような出来栄えです。どちらが読者の共感を得られるか、
一目瞭然でした。
◇◇◇
私はこの紙面を編集した先輩を新聞界の天才として、畏敬の念で崇め奉って来
ました。ニュースセンス、人に対する慈しみ、さらに見出しの言葉の繊細さ、ど
れをとっても生まれながらの天才だと思った訳です。
ところが 50 年ぶりにスクラップを眺めていて、天才の秘密をやっとかいま見
ることができました。天才は君原さんになりきって編集していたのです。君原さ
んになりきれば心臓破りの丘で、新妻の名を心の中で呼びながら苦しさに耐えて
いたことが分かります。いま小倉駅に着いて一番したいのは、優勝の月桂冠を新
妻の頭に載せて「ありがとう」と言いたかったに違い有りません。
孤高の天才だと私が崇拝していた先輩は、実は不二一如の三昧状態で新聞を作
っていたのです。私はこの1年間坐禅修行をして来て初めてそれが見えました。
もし私が入社当時に禅と触れ合えていたら、先輩と同じように事件・事故の当事
者になりきって、新聞を作ることが出来たのではないかと思います。そして、一
字一句に「心」の入った歴史的な新聞が出来上がっていたと思うと残念でなりま
せん。
◇◇◇
相も変わらず煩悩無尽の毎日ですが、次は何が見えるのか。ともかく坐り続け
るより他にありません。
(平成 24 年 7 月の例会講話から)
■著者プロフィール
松川白堂(本名/光一郎)
昭和 20 年、岡山県生まれ。平成 23 年、人間禅葆光庵春潭老師
に入門。現在、人間禅輔教師。
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