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法然上人鎖仰会 - 法然上人鑽仰会

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法然上人鎖仰会 - 法然上人鑽仰会
第二十 八巻
•
法然上人鎖仰会
昭和+隼五月サ B-R=-a・使晶町民同可 可m- 日宛邑
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昭和二十回毎回月三十八日 s ・a・《縛別思承 g・u.
,三官品二号V
五月-自 殉 n
回 月三十墨田印周耐和三+七隼
咽-EZ+七毎
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五
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第
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号
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、
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五 月号
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中央ア ジ ア ・ ア ス ターナ の七世紀の
装地で発見された 副書F品 で,慈~ の
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主、言
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、
土人形の頭部。彩色されている 。
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まさしく蓮台に登らんま で は
閑.
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法然上人御法務
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いかでかこのおもひはたゆむべき
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一
、句.,
来
ミ幸
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、
フルダ
、
、
、
た閣僚宗教史会議に出席
さらに一週間は
、
、
主
して 、一週間を過したあ
と
、
つぶさに視祭し
催側が計画してくれた見
西ドイツの宗教事情を
、
l
マインツ
、
の大聖堂を
ポン
、
、
ケルン
l
イタリーで
・
l ルプルクのエリザペスキルへを手はじ
フランクフルト
スペインではトレド
l
ム
l マなどの大寺院を見た。アテネ
、
…ではギリシ+正教の教会を見たし カイロではイスラ
… はミラノとヴェニスとロ
… アベーを
ア
マ l ルプルクで聞かれ
マ
賢
、
JI国
ノ、
効であ
っ
、
、
、
プロテスタント
、
信仰の現状を実際に見てき一
、
殆んど思い出せないのもある。しかしこ …
…
クといわず
7
l ロァパ諸国の寺院を見学して
T
y
ァ
想してみよう。
、
lρ
…
…
マリア ・ラl ハはライン河の西洋およそ六マイルの爽に
ポンまでパスで約二時聞かかる。空気の澄明な平…
あって
・ 4y
、極めて有 一
たことは、仏教の現状と比較して考えるうえで
た。そのうちから特に印象に残っているこ三を
…回
といわずカトリ
うしてヨ
メモを出しても
多数持ち帰っているのだが 余りたくさん見てきたので
になるであろう。細かいメモを取ってあるし 写真なども …
•
、
…な教会もたくさん見ているので その数は何十ということ
、
の芦の湖の半分の大きさで周りにはなだらかに起伏した …
原の
に小
紺さ
碧の水を滋えた静かな湖である。日本でいう
と箱根
…
…教のそスク〈寺院〉まで入ってみた。そのほか段村
-2-
コ
フ
ン
•
サ
と
ノレ
藤
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佐
修道院
ー ハ
リア ・ ラ
マ
…などの大聖堂を見た。ロンドンではウエストミンスタ
… めに
… た。ドイツではマ
…学旅行に出て
•
、
、
、
、
一は緋衣
…丘陵が二三あるが、大たい平原だから芦の湖ほど気象が鋭 で 厳粛で壮震なことは仏教によく似ている.司祭
に金欄の袈裟をかけ 腰には珠数ハロザリl〉を下げてい 司
ャン プ場として賑う
… くなく 和らかな感じである。夏はキ
一らしいが 今は気節はずれで 、観光客もごくまばらである。 る。手には錫杖に似た杖をついている。内陣正面の十字架
、
、
、
…この風光明加な湖畔には マリア ・ラ l ハ教会とその修道 の前には蝿燭 を点もし 花を供える。司祭は小さいバケツ
そこを訪れた人のためのホテルがあるだけである。のような形の芥炉で容を焚く。仏教の儀式と同じようであ
…院と
、
、
、
ここから四キ
、
、
る。儀式が終って退註していく僧侶の数を数えていたら
って、こ
一 午後 ルクセンプルグ国境に近いトリールを立
五十 人ほ どであ った。
夕方の勤行が始まる時
一こへ着いたのが六時だった。丁度
こ降
の型堂の近くにはホテルが一軒あるだけで大勢は泊
一刻だった。蒼花と暮れかかっている突しい湖畔でパスを
分宿することになっていて
、
まれないので
、
型誌前まできて見上げると 正面にはロマネクス様
、
一 りて
、
、
ンにして
ロほど離れたベルという村までパスで行ってわたくしと
a
ると、は
一式の搭が高く聾えていて壮麗である@堂内にはい
、
その下が内仰で数段高くなっている。そこで
、
、
二階へ上っていくと
l
、
うしろで
、
「ヤパン」と
の K 女史が案内されてき
ノヲクして人の入ってくる気配である。BO
AC から派遣されたセクレタリ
んでいると
いう戸が問えた。噂しているのである。ペッドへもぐり込
通り向けて
あるのである。そこの女の子に袋内されて 家族の居聞を
修道院へ巡礼にきた 人迷を泊めるためのパンシ
密雄教授とは島民家に泊った。長家の二階を少し改造して
、
一 るか彼方の天蓋形の天井に キリスト像のモザイクが捕か
一れていて
、
…今 、夕方の勤行(グzルスペルスという〉が始まっていた。
一黒の僧衣を調った人逮が 左右に居並んでラテン語の讃美
一執をパイプオルガンの奏鳴に合せて合唱して。
い幼
たい頃
よく揃って一人が歌っているとしか聞えない.壮震な
、
から音濃の厳重な教養を受けている人迷の合唱であるか
ら
、
、
た.われわれの部屋を通り抜けなければ隣り
っ
、
いてきましたので
、
維かと思って、心配でしたわ・」
「あら 先生方でよかったですわ。同宿の人があるとき
の部屋 へ行けない 、と いう不便な作りである。K女史は
たのであ
抑揚が六時礼讃を想い出させた。差し当り日没礼讃という
ところである。六時礼讃といえば、こ こでも朝四時の礼拝
、
ハマティンス〉から夜八時のお勤め〈コンプリン〉まで
一月日夜六時の礼拝が。あカる
トリヲクは儀式を重んずるの
3 ー
-
一といって
、
安心したように隣室に入っていった。
ここの主
、
これを廊下に位いておく 、といって隙り
、
…婦が金属性の嚇胞を持って上ってきて
この辿物にはトイレ
、
、
、
、
、
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、
、
、
、
、
一 て 削除まづいている灯従のところにき、稲
て荷酒にひたし
、
、
、
葡萄酒はキリストの瓜であり パンは肉である。
た.ハンを一片ずつロへ入れてくれる。いうまでもないこと
ながら
これを円に入れればキリストの車体を拝受したと川じこと
、
、
、
、
、
、
、
、
、
-4-
ミサが済んでから教会の内郎と附凪の修道院とを見学し
、
、
、
、
、
ランス政府の手に波ったこともあるしプロシャ政府の官
、
一教会のベンチが劇場のク シ ンのようになったり お守
た。ここは十一世紀の末に創設されてその後 幾多の消 一
一の本常に冷暖以仰の投側ができたりはしない方がよい。
長
が
あ
っ
た
が
今はそれをすべて案内記に凝ってただこ 一
一 コンミ品ニオンが終ると 僧侶がパンと葡萄柄を持つ れだけを記しておこう。十悶川紀には経済的に鋭フ俳し
一
、
一 翠朝は村のレストランで朝食を済ませて
八時からのミ
が 他の信者と同じように聖体を拝受して合掌していた。
一サに間に合うようにパスで教会へ行った。今朝のお勤
はスの人だからカトリ 7ク信者であることに不思議は
グめ
ェニ
一聖体拝領式〈コンミユニオン〉といわれて
るスサ
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ヴィ
で
ないが この中年の遅ましい体躯の女学者が膝まづいて一
一ある。-ハンと葡制酒を正面の十字架のキリストに供
たン
りを門に入れてもらっている姿は異様であった。と
片え
のパ
一下げたりして祈 m
仰をつづけ讃誕歌を歌う。幻徒は白いグ
い昌
うのは この女史は
マ lルプルの大会で 「小間哲学
一!ルを絞って踏まづいて砕を合せて祈っている。われわれ
における控」というテ ー マの研究発表をして なかなか評 一
…は遠慮してうしろの方で具ていたのであるが
マ l ルプル
判だったので インド思想に興味を持つほどの人だからカ …
一クのホフマン教授が もっと前へ出て御覧なさい という
トリックには批判的かと思っていたら 信仰的には純然た
一 ので 前へ進んで見ていた。会堂の板のペンチは
どこの
る信徒であったからである。ヨーロッパではキリスト教は
一教会でも 堅くて冷たい。日本のお寺の本堂の回目の方
がとま
国教
同じなのである。
一だ柔らかい。感覚的な楽しさを享楽する時代にな、っても
、
…ていった。大へんなホテルである。なるほど翌朝にな
でっ
ある。
… て 窓から外を見ると 牛小屋の隣りに原始的なトイレヲ
一し止にパス旅行を統けてきたイタリーの学者ペ7ヲツ
一トがある。用を足していると 牛がヌ l ツと顔を出した。
リ l女史も
白いヴア ールを被って敬度に膝まづいていた
… ;がないから
一
延命・1 ろ。保{まるの 313q; りおデ充 M 業ウトク
地二の
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、
。日の?上 J伊ル分のすス派ト
を
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るそ宗本教のげか皮で良る
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この教と脊維らら地
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と経やはも持れすとラは併11 ベイド作
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竹中教 授と一しょに
前佼泊った段門家一
、
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Xて細るのに足が附くなるほど広い.作道併の倒的小一…
、
一抑除
. 司制りした。どこもキチンと烹制されて
を
抑去や食付
一
V悦
が行き桁いていた、
が
新
て永述のJ…
Hらくの快裂を拾て、
って
…
…
一
どこも敷地内には花が 一
、
マリア ・ラ l ハなど
ロンドンのウエス
一
…
に生きようとする人述の周聞に源う然々しさがあった。 …
、ベル村へ帰
持呑こそあが って いないが
、
、
コ
京も慣もない。
守Y
、
、
ローマのサンペトロ
の近くの村有墓地を散歩した。キチンと区制が橡理されて一
いて
、
・
肘酬
は
・マルコ大mH
、
…
…
・マルコも数え挙
立派さであ
七…
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…
一めんに植えられて 美しく刊明いていた。亡き人に持げる
良心には
JY
4
ゲェニスのサン
パリのノ!トルダム
世オ 1 そ
このサン
、
、
とは全く越きを具にした観光寺院である。品川界で名だ
たる
…
、
l 、ミ ラノのド
大寺院といえば
トミンスタ
、
、
った大きさ
.
位紀から一 十世紀まで
-二
会く述
ケルンのド l ムなどとともに
、
ムなどは十
マルコの壮麗 一
・
…
げられるであろう。これらの大与は 円本の大与が大きく 一
l
てな派だというのとは
る。ケルンのド
って見泊されている。このサン
夜務も話のほかである。
命日内に唱がある。中山胞に 百年もかか
いくつかの基があるところは珍らしくない。 別械 の修道院
~ン
が済学 Z でどてべさイそが入院3 もし
!・ - 内 m 的問泥きこしてれンれあく長て べて
はへ陣要棋ののなろま段て地をつらはネベ
…
BO
、
わたくしは
った
。
、
、
サン
たほど
っ
、
運河とゴンドラ
この都市について
、
マル コそのほかの中世から
・
ヴ且ニスといえば
、
コを見てゲ
品目は海賊の根
マル
・
。
、
た。
、
っていて
、
…
具象的である 。こ の聖堂の創立は …
アレキサンドリアからマルコの遺骸を改葬 し て
かなり変
、
。
モザイクで描かれている。ハ
、
も っともそれは十七
…
山
世紀以後の作品だが。〉 今の聖堂は十}世紀の後半に出来 …
| テに
きたのが始まりである その改葬の模様が正一閣の四つアの
…
九世紀で
は
、
にされて い…
A Cが欧州旅行の日程にヴェニスの三日聞を入れて で 新教の教会が多くは十字架だけ〈はりつけ
と …
短い旅行期間にヴェニスで三日 るキリスト倣はぬきにして )を象徴的に使 っているの
…くれたとき
く知らなか
…もつぶすのは勿体ない と思
… はよ
…ぐらいしか知らなくて
た。サン
た。
っ
っ
てい
…近世へかけての榔やかしい芸術的作品が数多っく
残る
ったと患
知識がなか
、
ニス へ来てよか
… ことについては
且
、
ー
に統一されたのは十
ここの始まりは海賊文化であ
ヴェニスがイタリ
っ
く
、
丸形の天井の内部から
、
、
壁
柱まですべてモザ
、
イク
…
いるばかりでな …
る。床に簡単な模様のモザイクが組まれて
、
クを組んでいくやり方で 実に手の混んだ豪華なものであ …
ヴェエスは中世には東洋貿易の要衝として栄えた共和国 ピザンチン様式というのは、方形の建物のよにド 1 ム形一
の丸屋根を幾つも乗せて 内部は金属と色大理石でそザイ 一
、
。
たらしいから
っ
てきた
… で 東洋の文化や物資がここにっ集
…拠地であ
山たかもしれない
lプ
…九世紀半ばをすぎてからである。コンスタンチ
ノルが
。
サン
。
・
、
、
である型堂で
つ
、
キリストの弟子で
、
、
、
、
ガラス(エマイ ユ〉が搬め込んであ
、
、
、
そこにまた
一
…
それが特に輝く 一
っていて
五カ所の丸屋根があるが
。
丸天井にな
、
という技巧も用いられている
それは堂内から仰ぐと
って
で 燦然たる金地に 緑 紅 紫 背の大理石を指頭大に …
…東方教会の中心となってから ピザンチン芸術が盛んに移
・マルコはピザンチン芸術で飾り立てら刻んで倣め込んで 、 漆 喰 で閉めていく 。 ところどころに色 …
… 入せられた
…れたお守である
サン ・マルコはその名の示すように
…箔点目替の記録者の
一人であるマルコを祭
下から見るとお椀の内側を見 上げるようにな
一
旧約の物語りゃキリストの伝記や使徒行伝がつg
ぎに
つ描 …
、
、
そこに描かれたモザイククは こちらが見上げなが一
。
…正面に石棺が安置してあ って「福音記録者サン ・マルコの
。
るが
かれている
。
…遺骸 」 とラテン語で刻んである 十字架のキリスト像はそ
一 のうしろにある ここではマルコの遺骸が本尊というわけ
- 6 一
、
、
それが却って雑味豊かに見えるのである。
、
ニス市民は
、
、
、
そこで何かを飲みながら 夜中まで
、
いや明
、
聖堂の前はサン ・マルコ広場で 無数の鳩が舞い降りて 一
色彩の光り方が変ってき
ら歩いて移動するにしたがって
は態
抑炎
いよる。一方の側にはレストランが数府あって戸外 一
て 流動的な柴しさを示してくる。盛岡とは遣った動
にの
赤や貨の椅子がずらりと並べてある。お喋り好きの
ヴ孟
一
である。天井も壁も一面のモザイクでなかには古拙なも
もあって
カトリ
、
クはこうしたものを聖物とし
7
、
、
-7-
、
、
、
けの
方まででもお喋りをしている。
わたくしたちは盤内で殆んど半日を暮した.中央内陣
一一一 泊ったホテルがこの広場を通らないとどこへも行かれな
固
うしろ脇には 日本寺院の位牌堂に当る部室があって
い位置にあったので わたくしたちは毎日何度もこの広場 一
細る
工の装飾
十ゼンチくらいのガラスの慨が並ん。
で金い
みいら
を
斜に横切った。広場から大聖堂を見渡す正
と面ア l チ 一
が上下に施してある。中にひからびて木乃伊のようにな
っ
、
、
田教
寺は
体の形状は 特に五つ並んでいる丸屋線の形
状
…
院という感じで アグラのダ!ジマハルが思い幽されてく …
る。ピザンチン締式というものは、いかにも東洋的で…
ある
のの
モザ
た片手や指が入っている。恐らく代々の祭司か聖人
遺イ
体クが多彩に輝いて奨しい.しかし遠くからみる会一
の-部であろうが
、
人や
たちの金欄
て礼拝するのである。金銀細工の室聖物
の法衣なども沢山に陳列してあった.
…
のあ
である。
マリアがキリストを抱いている像が堂内に五六カ所は
い
る。十字架のキリストの像も幾っかある。ブロンズのヴ
像エ
のニスは百十八の小島と運河と八百の橋とでできて…
…
…
袈通りは迎河で 、船が直接に玄関へ務くようになって
、裏通りは狭い往来で手阜で物を運んでいる。だから
自動車の排 一
、
下水孔からコンクリートの舗道にプクプク上 …
、
…
自分も水の中へ沈んでいく …
、
ような気がし、
て心細くなってくる。ハ文学博士〉
ってくる水の泡を見ていると
さがあるが
気ガスにわざわいされず、 のんびり呼吸しながら歩く楽し
…
タクシーもトラックもダンプカーもないから
、
て
、
ピカピカに光っているのがある。これによく似
膝だけが
おり
、
ミラノ聖堂でも見たことだが膝に病気のある
、
キリストの躍をこすって 治してもらうように祈る
、
、
たことは
人が
のであろう。いずこも同じである。
、
冷々とした簿暗い廊下の片すみのマリア像の前に何は
、
本もの蝿燭が点もされて その前で若い娘が膝まづいてじ
、
っと祈っている。何を祈っているのか永い間動かない。
•
暮 す
事
中
精薄 児と共に
の
イ士
隆
、
}れ児意は一時大人遣の手におえなくとも
児の均合
、
、
このあわれな姿を十数年間家庭相談 児童
この中から特に取りのこされて行く制沼
人聞を作りよげる者として努力して釆ました
、
直伐の乎の・溢いさしのべのあることを阿ってい
ます。散の中の総べての人速の愛殺の乎がの
べられた時こそこの子等に明るい社会が聞き
希望の社会復帰が出来るのです。
。
足立児高虫学問は国の精神待弱児対策の一環
として東京都が昨年開閉したものす
で
均所は官民武納得西新井釈の東側で六百坪から
ーの
ある土地に経量鉄骨造りのツートンカラ
消しゃな百七十坪粍の建物です。ハ足立区島
根町七五三
本聞は児童福祉法による精神滞弱児の泌凶
、
い子供述の福祉をはかることを日的としてお
ります。
必法と愛にルれって人間としての本来 対象になる児蛍は知怨淫れの子供でも削刊に
、
として尊ばれ
抵の愛
、
認められることのあることを
、
じゃ ま者にあっかい勝です。そして家庭問題 祈りながら毎日子供述と乎をつな彦
、
、
にも行けない 就学を縮予か免除された子供
、
ですから普通の学校に行けず又特殊学級
、
から取りのこされ行くのです。一番身近の家 わけです。
のもとから通例出来る 消六才以上の子供で
政も続球児に対する態度は冷めたく幼児期に 仏天の加削減を町き不幸なこの子等が社会人 す。
は向し人間の仲間に生れながら世の中総べて 納得児疏通同セ γ タ lに一生の仕桜喝を得た 情上または身体上の欠陥のない子供で保純者
の限でながめ 仲間に入れてくれません.彼等
く社会に復帰 街患と云われる門知能指数五
の内
柑怖さを充分に見出し-目m
もT
家 れは勿治社会の人々も喰だ占町田
Ol 二六〉知能
出来る遣を聞いてぞらねばならないと決意し欠陥のある児島叫です。そしていちじるしい怜
して社会従姉し貢献して行 8ます。然し柿相官時
児こそ
俗に去う不内同化しても何時かは正常な人間と が
、
上の為 本人及その家侠の方々の相談相手と
訟も浄土宗の念仏の流れをくむ者として児 絡訟であって 舗内の制待相んm
を畑
w持者のもと
して十数年の絞月を過して来ました。その間帯地縮社司は仏の織さを子供述に伝えて常穏な
から毎日通わせて徐立内活に必要な
m出
時を行
w
それまでは児童福祉司として児島思の福祉相
向談で見せつけられて来ました。
び込みました。
雄
世の中を狭く小さくなって
、
•
野
問々長として続得袴溺児蛍の指導に飛 生きて行かねばならないのです。
私は昨年五月より東京都足立児童学 の中心に置かれ
私
は猪首愛いがりし 大きくなると乎におえず
- 8 ー
| 料fI等児に光明‘を 1
「とても駄目だろう」といわれていた心の感格異常者にするおそれがあることは一般の児
、
おおや人形劇 紙芝居等でこの子供述の為に ことがあるからです.何回
Aは子供遣を将来性
、
法です。定員は六O名で弘以下十一-一名の厳良
くれます。お念仏の州行の方々が時々祭しい供述の独立心を傷つけ 意志を地点弱くする
保母で関倒を見て居ります。
間には大型パスがあり登阿帰宅の送迎をし
、
又感情的 意議的な爾にお
、
、
作り上げつつあります。
こうして情操教育を与え協同の作業の羽の
、
、
、
、
ムをしたりして人間として与
、
、
児童の知能は四 五才相何度です。例え年
、
、
、
か出来ません。この総な不幸な子供はなぜ生
方ややることは凶
五才低いの子供の行為し
令が十三才 十五才になっていても物の考え
と
痴匝思錨悼の児童を大体わかりやすく廓・上ます
ません。
て居りますがなかなか大変です。
動性を与える指摘時に拍助力してくれますの蛍
でに
子も考えなければならない事ですが 特に
これらの子供は締神薄溺だけでなく身体的供述は白地に明るく 開政的ながら自制心を 知話おくれの子供述には注意しなければなり
な面においても
いても磁 hの
H 陣容があるので先ず健康の保全
、
と地巡並びに運鋤機能の釧終に留意し紛
て 歌や体燥 行進 言語の表現 数え方等を指
、
導し 指摘噂獲に入り絵をかいたり ヱ作をし
、
仙仰の安定を得る様に努力し
自信と興践を持
たり滋政やゲ
1
たさせ各自の持っている能カを充分に発四四さ
、
、
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ないと思います。統計や資料に依って見ても
が組れ 品派旋を与え食事のとり方や後片付 ならないと同じに生ないねにしなければなら
完全給食で毎月保健紛及栄餐士により献立 れて来るのでしょうか。弘述は深く考えねば
せて社会生活に出来るだけ適応させるよう指 えられた能力を呼びもどして居ります。
噂して行くのです。
、
通凶パス内の交通道徳の扱導から 学問に
、
来てからは持物の合理や用側 うがい
なんといっても痴患級の子供遣ですから保或る約伎はふせげます。年同では子供を係閣時
ー
ルス糾刊の
わない子供を生む此怖に努力しています。
、
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、
、
9 ー
-
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e一件びこの不釈な爪を品円お
勾先生方の佼析は大変です。一一緒に食事をし 指導するだドでなく俗刀伐の教行に露点を遣
た慰問者が-辺で円 mw
を必くしたれですから
すから大作俗仰者でなければ務玄りません。
、
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、
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、
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、
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、
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、
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、
立性を毎日くり返し指導して居るのです。こ
てくれますし
ではありませんでした。よくおを聞い
、
につく線 おはなし《滝おvをやって
致します。この時弘は情探を自然に身 毎日倣話する側は大変な努力がいり志す・で
十イムの向ーによりmq に集って朝礼を
、
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、
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慣を身
凶im 児に光 l 引きI
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、
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、
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ればいけないと考えついた母叙が沢山出て釆
、
、
思うままに喜々として遊んでいる
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、
ました・家に mu
いては伸びる子供も伸びずに
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、
V故防止等 総れにでも出来
の問問 山
「l|裂を綴ぜては生長
一歩々々力強く切り抜けて行く努力こそ私共が健印刷で常稲に過してゆけるは柑にと祈りたい
、
る予防についてじっくりと相殺し指導
、
、
膝に居いては成人の幸を願う
否が予に
が導びかなければならないのだと考えていま 織な気持が湧いて釆ます。まして予を持つ明快
ならば
しています。弘刊
に特に専門医及技師に
ざりにされているこの予等に光明合与え人間
、
という念願を持ち
、
悼惜する京は何人も変りな
平等に利総を及ぼされます。絞の中から坦置き 患にして愛mmく 賢にして飽片岡三伸し||」
E
毘溜棋の品棋界には差別はありません。仏様の
は遅きを念い
よる相殺指摘唱を行う相談室も設けてあ す・
ります。
間関当時暗いひ ねくれていた子 供述
自
も人間らしい開放と科学的観察格稼と
、
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、
実際的指摘貯により今日では明く活溌で
、
現在の生活の脊しさに
こそ念仏功徳に より救われている私共のやる
、
、
男
ですが
、
低の中には子供が日々成長する姿
、
、
丁度問舎の改祭を行っている処でし
を持っている「滝野川学問」を紡れた時の壌
かつて私が制神縛弱児施設として永い歴史
するにつれて深まって行く許りなのです。
、
締神薄弱児を持つ句の苦しみは子供が成長
多努いるのです。いわゆる知恵の遅れた子
を見る度に芯しムを増す併りだという朝刊遣が
しかし
な“m神鴨川綴という星を背おった子供途と手を そこには人間の真実が穏っていると思います
言葉は弘共が常 B頃聞かされる宮楽ですが、
も打ち克ってゆく事が出来るので
す」 という
楽しみがあればこそ
分の持つ能カ一ばい行動しています。わずか
これがうちの予が作ったものかと涙
、
探く御仏の前にひざまづぎこの仕事
、
ことと
、
の期間に子供述が手にした手官官品エ芸ロ聞が
、
思ったより上手に出来る様になった壌に朝刊逮
についた因縁を得た喜びを燃謝しつつ 不孝
は湾立
原因と対策
雅
必ず明るい歓声ゃ 汲んだ歌戸が
、
回
ι詠
v唱しています。喰だ可変忽可愛息の巡発でつなMe
ながら歩みつづけて居る次第です。
精薄児
古口
よく附れた日に小学校や幼稚樹等の近くを 通ると
の 、
- 10 ー
、
乳幼児期に於ける栄養
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、
児慣が向庭の
たので
、
g溜りで日向ボヲつを
そこいら辺を--一々
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五さ廻ったり
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絡が交わされました・
、
「ェェ 本当にそうだと思います。それ丈
、
人間として生きる得利は主張されな
に対する福祉は充分に与えられなければいけ
ないし
ければなりません・施設の拡充繋備はその為
、
に 彼等に何とかして人聞としての常穏を与
、
しているまことにのどかな光景が 門を入る
に是非必要な取です。ですが もっとあなた
、
方に考えて怠き度いのは 彼等の線御さん遣
、
える総に努力してゆきたいと考えています」
、
よく
、
戸を掛けて柊拶しても何の反応も示 「それは結構です。制問簿児の問一
題人は
でも
と同時に展開されていました。しかし
見れば
、
さずに只-占.を笠つろに見つめる目仙骨満児 多くの人々に関心を持って喰かなければ解決 の事なのです。私は児盆の入閣を希望して来
道巡れにして死のうと考えられた事があ
まり
、
られる綬伽押さんにお会いした時何時もこう
、
彼等を可哀想だ 不幸
、
きれません。しかし
いう質問をするのです。「貸方はこの予を
、
の半分担ほしかない小謂或
如は脳mm関の欠穏箇
な子供だと考えるのは間違っているとは患い
それはどういう取なの
ですか」「人聞が可哀想だとか不拳だとかい すか」とね。その答は品目同じです。句何度そ
、
、
所を示す禿一明等忍わず目をそむけさせられ
ませんか」「さア l
、
る子供詐りです。そこにはm液
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一
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、
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くなればなる
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、
、
、
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、
、
、
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、
、
、
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能力に AけA
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、
- 11 ー
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、
夜 そう思う自が多くなるのです』というの
です。この答は 家絞の事情
食神的を問わず
てもそうだと息われる常だと弘は忽います。
成は不幸
、
、
茨想た子供塗」という以外には何もありませ
、
、
a終仰な人間だ
終等には 門分札V可
、
んでした。
、
やがて吋内に伺き入九られて 問問 な人間だと考える熊カは的めから持っていな そうなのです。そして こうした苦しみの県
nx句生にお会いして “川仙欄寝間児の生いのです。ですから門分4不
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和だとペじる抽司 てに 自分の恥を人に公開する峨な気持で
、
、
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、
、
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私共は暫らくは無言でした。A見
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ここに収
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、
弘共に向って「あなた方は
一審一要している人々と絞らべたら
、
、
姿がもう一健自の前に浮かんで来るのです・
、
•
それから次の線な会 ょうか。勿鈴こう云ったからといって棉側諸持そ
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、
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る思いをしたのですが
〈湾断されて
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活指摘目叫終叫判守の方m
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速州事に利用したりしようとする人間速から会 持に対しては 可哀惣に とかいう丈で済ま
| あljiwt に光明を 目
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、
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、
四
、
、
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、
、
、
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、
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、
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、
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さて
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、
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、
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、
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、
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、
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、
、
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、
、
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、
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、
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、
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環燭の中で生きようとしている生命カ まいますが
、
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来るのが感じられました。
、
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、
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、
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、
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、
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、
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、
、
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、
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、
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、
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、
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、
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、
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、
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、
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、
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、
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、
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、
、
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、
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、
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-12-
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、
、
、
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、
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、
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、
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、
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、
、
、
、
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、
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て昭和二十六年に「乎をつなぐ毅の会」が給一みたいlにl
切り紙絵等の様に根気のいる仕療では伐作が
、
。
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精神宮神弱児の福祉を針るばかりではなし一がいっぱい.自はちゃんと見えます。算はい
、
、
、
、
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、
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、
、
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-
一 13
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に
、
当のお菜に卵焼きを入れてもたせた処 その
至りました。一ことができます。ポチはどうして元気なとこ
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後弁当には卵焼念しか悼げたないほになったと
Aに成立させる迄に一は匂とだって媛争ができるくらいに速く返る
者福祉法」を昭和三十r年
、
いう報告がありますが 卵焼きという
円前作的なものと弁当が結びついていて 「分かたれた喜びは的になり分かたれた苦一ゐ
gに
m しないのでし
、
しみは半分となる」事を知りよリ多くの下一「ぼくは
これを押し込めたカ一といって
、
他の御認では弁当そのものの意義がな
、
幸な子供の為にカを併せた人々の労苦が こ一おで念なんか はずかしくないぞ」
山下画伯の訂名な宮市最「兵隊の位」も
こに尖ったわけですが
、
ものは均の震であるといえましょう。
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常官補四行にも似た苦縫に打ち克つ裁に偉大な一を思い掲げ
繋べ
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つい
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、
抽象化して理解する吸が出来ずに具体 は 予の+辛抱を願う渡の心以外の何ものでも一でkう
しか。
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織だ占と 毎日おできのこと
がお判りになったと思います。
さて Jを一冗に陀しまし主う。戦前迄
、
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あ
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少しでも光明に向って 科学的指導を行一にかけて クヨクヨと心配していました。ま
下両泊が絵を画いている場面がよく出て釆ま
を必〈者も出て来ます。日以近はテレビ等に山 をつないで
った山下消向伯の絵のほに非常にすぐれた絵
仏童
心心
くなってしまうのです。一時涜行した
1 11川児に光 l リ!を
近代
高僧伝
俊
問
大
橋
俊
雄
、
しかしここで笠しくすごして来てんよりは東
新らしい文化に援し大いに活腕し宗
、
門のためにつくしたいという大いなる望みを
、
立をまって大正二年八月大恩寺に退いたが
その後任として-山寺院の輿望をにない住織
として選任されたのは誰あろう俊閉その人で
あった。
曹つての徒に徳川容撃御宗門寺としての誇
りをはなっていた伝通院も、明治の世を迎へ
るとはいえ檀林とは名のみで、彼が入山した
俊間み
、
当時は大変な荒廃ぶり・務地はおろか境内ま
でも草のはえるにまかせていたので
ましてせっせと
境内の祭備に黙々とはげんで
、
はげ
ずか ら箪とりも すれば海も掘る 従曲抑を
かけて再度上京したのは明治九年のこと、品中
、
い縁あって下谷泰寿院に入り兼ねて伝通院
いた。その頃彼が「足相恨のよにのせて鈴子を
とられたようなものだ」と述懐していたのを
、
ついて手を合わせ静かに念仏をとなえていた ついで二十年五月浄台院に 二十八年九月
、
如何に荒れはてていたかを察
もってしても
、
あって、紳仏合併大教院の附属学校や祭学第
、
正であった・学者でその名一世に高かった僧
容易なことではない。それに仮裳を本建築し
寺務は俊問があたるのを常と い。怠財のすべてを 投じて共の経営にあた
、
白夜その興隆に心をかけていた・ところ り、経済的苦情恨の中にあって良く再興の業を
、
であったから
し
て焼失し、ために僧正は当時京都にいたとはたろうか。
いえ住機なるが放にその費を負い、仮堂の建 浄土宗学本校の窮状を見るにしのびず
、
こ
掛錫し 引続き維新後何かと混乱したさ中に が四十一年十月伝通院は貌織の災にみまわれなしとげた彼のを幾たるや如何ばかりであっ
その後明治二年上京して小石川の伝通院に
った。
大念品寸の徳間の門に入って出家することにな 正は東京に京都にと出携し、とかく留守がち て大般を建て廊祖も新察しなければならな
万延元年四月九段の時両親の併しをえて石動
に無常を感じ山出家したいと念ずるようになり住したが、その頃の伝通院住職は勤怠綾城す
僧ることができるであろう。その復興たるや
、
それが祖母の死にあうに及んで、子供ながら には宝珠院 三十一年八月には光雲寺にと転
た彼は朝夕前殺の仏前におっとめするあとに 学察知月館刊の祭主となった。
ない後であったが、仏法のあつい越中に育っ
ならば同党
mm
なるが放に家をつがなければなら
生れたのは第永五年十一月八日のこと本来
都林村に、俊問が野沢五宕術門の長男として京に出
山の端にかかろうとするところ越中国首磁波
庄川と小矢部川の流れがつくったデルタが 同六年故山に帰り石動申畿学校に鵬帯磁した。
るぞ其のパトロンを失い、広大な寺域を有す
沢
二号伝教院などに学んで広く仏教学を究め
-14 ー
野
、
れを芝夫光院から伝通院山内に移し 又輸品
彼の時勢を蹄縦し宗門の恢興をはかろ
、
d
、
本来後はどちらかと言えば奈落な気性で
れたものであった.
登でも同様で、その人たちの中には彼の名
、
声を耳にして訪ねてくる者も多く 訪ねて
、
伝通院に留まる人も多かった。そのた すすめを受けてからはピタリとやめたという
、
きた人たちには心よく何かと細心の面倒を 斗酒なお辞せずという方であったが 医師の
見
、
起床
h、
hでも将氷を割って冷水に洗劇、白か
、
め人知れず 伝導慌のことを「加能総の本 芯の強い人でもあった。晩年に至るまで内時
山」と呼んでいた人もあったという。その
れ
、
、
、
つづいて念仏勤行し 十時頃まで毎日
後を愛弟子木村玄俊にゆずってからは唯
かかすことなく本堂と関山金で念仏を岨相続さ
給託
ように人にしたわれ人情にあつかった後は ら大衆をはげまして一時間にわたり三留経を
発更に郷土をも愛していた。
、そ
叉彼のすぐれた風貌と堂々たる体領
れに音声は自ずから人をひぎつけずにはおか
、
をそなえていた。「わしの考の小仰は
お経
、
、
、
和八年一月も末 臨終の近きを知った彼は来
、
迎仏を病床に安置し 五色の糸をもち 左手
、
閉山'をたすけて術徳女学校の創立につとめた
ず 何時か法悦に浸らしむという偉大な銚カ ひたすら念仏三昧のうちに余生をおく昭
り
のも
、
にはまけない」と申されていたのも 法要が
15 ー
、
wq
煩あっての俊聞であり 俊問あっての学順
、
仰のあつい土地であったから
、
、
、
、
、
、
、
、
の名がのこっているという。宗明閣法然上人七だけは念珠をくるかのように かすかな動き
、
、
、
、
出吋に世均八十二法名を大沼社万株上人広
の荘厳さに心うたれ法悦に浴きしめたさまは 生をとげられた。
、
今尚綴りったえられ 地上寺に伝えられてい
抽出 る法事情動行も当初は彼の指摘岬によって阿
行仏
わ居申厳俊岡大和尚という。
、
、
志をたて僧侶
それは館中ばかりではなく 院国の加賀
作業を目指して上京するものも多かったが
、
であって 二人は共に心を一にして かたく
百年御述患の際の地上品寸における唱導師ぷを
りぞめず そのかすかな動きもやむと時を同
結びつけられていた。彼の生関越中は仏教信 は実に堂々として人をして唖然たらしめそ
じくして 大衆犠和のうちに限るが如く大往
、
女子商業学校の設立にもカを用いたのには
につとめなければならないという意図からでかくて日はめぐって二月二日いよいよ臨終も
よく彼をたすけて共の成功の影武者となった 従って法式指採には特に心をくだいてその 近づき 念仏発戸の目的の
b動
も
q 次第に小さく
茅級学期のあったことを忘れてはなちない・ 向上に手をとって教え 今に「伝通院ぷし」 なり その鋤きが絶えんとしても怠乎の閉店指
、
て後が浄土宗全容の発刊にも手をかし出掛鴨 儀式である以上 法式は重要であるから荘厳 に念珠をくって静かに念仏を相続していた。
、
うとした心怖からであったが それにもまし
-
尾
廻
験
輪
国締
の
、
、
、
、
海
、
、
遂
ある。越生は いつも心中ひそかに己れの綴
、
の賎後さを鱗じていたが 或る自のこと
、
、
、
只身の此の山中に在るに縁るの
、
と締りすまして諮ってござるが 来して
、
っし
道を通るたんび
、
、
、
あいかわらず韓両面向くないま
抽間生は書ぎ終ってからも格別に気がはれ
た択ではなく
まにそこへごろりと械になって絞った。
、
夢の中なのであろうか 忽ちにして見も知
らねよ地へ来たものの縦である・そこはまる
、
で王者の官級の中の様で 傍らには立派な僚
金色燦然たる溺綴が鈴げ
文字は「而自給廼」と続まれた
、
、
の長い家が三列も立ちならんでいる。そ の一
、
つの家の欄聞には
られており
、
、
高い冠を被った道服の一人物が何
抗馬ろいたままきょとんと周囲を見聞して
、
掛相生はどうしてこんな所へ来たんだろう
と
いると
、
か大きな本を二冊乎に抱えて 悠然と剛山の方
よくよく観ると、普から綾しかった康錨侯
その人なのである。この人は元来叫問中の名士
うが
t
ゃりたいところでし
絵画に巧みなために符侯に招かれてはそ
闘っては油生と符
の貨客となった人であり、世
、
で
、
に女どもからきゃあきゃあと騒がれ ぶつけ
、
いうじゃあございませんか。一体
進化の不公平ということについて
、
どういう
こうした
閣成大王にお伺いしたいく
、
|こんな意味合いであろう・
|
おつもりなのか
らいですよ。
、
たのですね
、
私は浮世を静去してからという
、
「そうですか 大兄は御存知じゃあなかっ
、
出晴朗鋤侯懐
はかしがってきった。
叙ベ合い、近況を尋ね合ったのである。
臼と
の交際があった間柄である。二人は久測を
秤の滋倍は 水も満たる織な内民い悶刀だった
に我慢がならず 真 っ白な陪訟のよへ怒気たっられた来物で釆物がいっぱいになったという
民くろぐろと一首の
、
、
地識を投じて我れ闘宕に問わんと欲す
楠討を務怨したものである。
ぷりと鍛にふくませて
、
、
どんなものかねえ。「一孟酬の賦」で盛名をか
はら現われ山山て来たのである。
み
山の浪商目
この符の心は 蘇債という人は 識らず脇
m
遺品万
氷を個師げられしは来して何人ぞ?や
良
も引っかけたくなる様な紛い面相だったので せた管の左忠は えらく間男だったとお
、
鏡に己れの姿を映して見ると
、
時の符燃でもなかなかに霊復されていたので
油然と湧 bc
上って来るという風な人物で 当
、
中国の京江の地に 越前円相持という人が若し左息Mm
相多しと授かば
、
顔
実に御念の入った滋くい顔で それこそ唾で
ところが
ある。
牧
中
あった。並々ならず才智に長けており 文思
昔
I~
面目嵐山恐らくは米だ其ならず@
-16-
ー.・
rー『ー咽....
、
もの、もう久しいことになりますよ。訟は生 「貧者の相」と 曾いてある。ここに儲かれて
今では転
と怒りの気持が湧いて来て
織に捕かれるのですか?」
、
、
「貸方は 人や物を思うがままに進化で含
、
は 何れを見ても鴎〈揃い面相ばかり
ある蛸酬
前に衝窓を式くしたと いう ことで
、
周自の問、何とはなしに秀気
、
、
?
A7を
「大兄ともあろうお方が どうしてそんな
卑俗な物の見方しかしないのですか
、
派なのであって
、
、
人の物を盗むことが 大好であ
、
外貌など問題ではないので
時めく台閣諸公の顔をょっく御覧下さい。そ
各々創りみて自らを憐れんでいる
越生は むらむら
、
に乏しく
!
の方々は 心のうち嗣酬の中にあるものこそ立
、
、
る権限を鑑っておられるのに 何故この織に
、
これ又
、
あな
廊下の下
、
国土守惜棋讐
の いを実行した 汝は般かと問うと
、
、
「叙験に務第して自殺し
中閣の伝鋭によったものである。即ち市首の我玄主のために天下の小山泌を退治した」と答え
、
これは能の絡的の大筋であるが このおば たのに、緑砲を錫って紺押られた息に感じて、
、
御階の下までも忍び込み、鬼神を 角僚をつけ、朝靴をはいていた。皇帝は驚き
、
生前の裟を掴
慣わし 手に剖測をとって、祭実殿 た。 この大鬼は頭に破帽を頂き鷲絡を渚し
といって姿を消した。やがてしょうきは、 ると、にわかに一大曲泌が現れて小巾泌を退治し
った。皇帝は大いに怒って武士を呼ぼうとす
れたしようき〈餓 mv大臣の盆である。その り、民は人の警官中を粍して憂とするものであ
れにもかかわらずおの懸悲で及第し、贈官さ 鹿は安段で
これ はひ どい皮肉だ
同怖にも見えるのである。
である。然も
題してあり 婦女子の跡憾な美くしい顔ばかり
第二冊目の方はと見ると、「腿者の栂」と
と営った。
りである。
、
輸王に召されてその世帯客になっているという
で ややこれに箆ぐものを探しても
伐践の形を入れ轡えたり、災創をまるで逆な
、
釈です・凡そ 一切の衆生は この私がそのま­ ひげむくじゃらで色烈く肥え太ったものばか
g ロ鼻を鋪いておいて、 それから人間世界へ
降生させているんですよ」
、
康生 は 手に持っていた二冊の本を出して
柏崎生に示しながら言った。
、
「大兄がこれを御覧下されば 私の画祭の
苦心がよくお判りになりますよ 」
越生が先づ第二怖の方を見ると、表題に、
しようきの話
、
その途中で老翁が現われ
、
唐土終南山の穏に住む人が 都に向けて旅 執心を鶴し後世になお望あり」
に出ると
、
君賢人を用い給わば
、
畠日仔細あって、慈魔を亡ぼし 国土
「設は
一を守らんとの誓 あり
、
一宮市・に現じて奇瑞なを
す べぎ旨を奏し絵え」 求めては退治し
一といった。その 人は不思般に思って
、
たは維ですか と問うと
宗皇帝が病気になって盆寝をしていると、そ た。内mmは
wまもなく病気も悠えたので尚人兵
「我はその普進士の試験に窓を遂げず、玉
階に震と設が頭を打砕いて自殺を遂げた・その夢に段終という小巾泌が現れて暴れまわった道子にしようきの像を画かした。
17 ー
-
上
、
貸人の愛 織 に総せる様
、
た織なものの
、
、
そうでなかったら危いもので
候だって赤松予に従って行動したからよかっ
「これで良いです」
、
、
、
「私と大兄とは 十年余りも親交があった
、
と頼みこむと 出順位は
「もう少し、何とか筆削して下さい」
のちんぴらやくざに殺られてしまったし、mm がした。
、
前よりはいくらか男前になった様な気
「いやいや 安仁山公は大瀬を吸って千台 ときって鍍を郷いた。越生は卒巡銀を現きこ
りませんか?」
すよ。立派で 、峰神そうに術いてやるのは貧践
の者たちへの詔わば銭げなのです。この途中
、
と来ては いつまでも圏第して立つ瀬もない に酒臭い名を残したし 術却帆申品は通りすがりむと
、
哀れな者どもなので せめて一闘の好い面白
を賦与してやり
に、叉、下つては色町界隈で少しは女の子に
、
顔形などはどんなに拙く
、
一生の其の稲田を事受した方がどのく
、
どんなに宮われても納得ができず
、
、
二人が制作問答
その後 越智翼の顔つきは次第に好くはな
はっとうたたねから駁を巌ましたのである。
、
越生は急いで外へ飛び出たが その瞬間に
筒'が帽甘いて来た・
をしていると、急に奥の方から厳しい箸聞の
、
断乎として慾を取ろうとしないのであ
、
兄が餓えて死ぬ織な人相にしたくはありませ
、
者は 必ずや造物主の忌みを招くことになる のですから、もうこれ以上に鍍を加えて 大
、
もてて惚れられたりすねられたりできる様に したよ。つまるところ 形容の会きを求める
してぞっているんですよ。これこそ私が世の
中を救う老神安心の一一緒であり、造形の至妙の
のです。ですから
、
ん」
、
術なのです。今 貸方のお削酬を持見するのにても
とて
、
あるんですよ」
越生は
る。績んだり すかしたりで
言い絡もない貸い御人相とでも申し上げるべらい結構なことか 全く計り知れないものが
、
きです。若しそのお顔に手直しを加えてい
、
くらかでもみめよく修飾するとしますと 女
子供にもてはやされる眼前の悦びが}寸地え に、今はもうロをへの字に給んだまま返事も
恐らくいつまでも食践の世 しなかった。
、
時嶋生はやむなく又言った。
る認皮のことで
界に沈給してばかりいますよ。そんなことで
、
「若し大兄が 御自分の稲沢が減っても権
、
どうして持岐に文名を議われたり 国家試験
、
幅削叔室g侯などの人々は
、
、
、
越生は 現金に喜んで
、
、
その方法はと訊ね
「貸方の宮帯構は極舗に過ぎていますよ。普形を少しは怨削してあげたっていいですよ」
から奮の添 像
、
何れも美男の誉れ高く、顔つきは好い女の様 た。康生は机のよの怨をとり上げると掛岨生
いたが、やがて
、
、
いつも国家試験には落第する
〈掛川
・「間錫」執行〉
もたもたと総生のままで年老いたという
、
十何年もの問
し
こと
の耐酬に向って何か描いたり拭き取ったりし
てである。
品ロが島口、長く
、
.
貧践の境にいたという証左なかん
無いじゃあ
だったと伝えられていますが
部の泉は、だんだんと結焔してしまって、一二
に合格したりすることができるものですか」わぬと考えられるのでしたら 大兄のお稲酬の ったが、#回目、初くが如く滋れ来った彼の文
- 18 ー
御法語
の
が
、
それでも・満足せずによ人のお弟子になり
来顧問
mは初め其品討を学び天台を学びました
、
すということでしょう・またある本には前
「のお
ことであると 笑いながらゆされました・
、
、
「おはす」は有る、来 る 行
はせばや」と記されていますがもしこの方
、
、
,
、
けとらせて頂くべきお詞です。
、
、
、
当
り
、
、
釆販問仰がすでにある年飴に淫していた頃のも
のでし
、
う。上人の側からいえば、上人はす
t
わけで、伽仰向的の上人にして然りという点に
- 1
9-
でを
に六十とか七十とかの御路俄であったと思
ることですといいました。上人の二回一句
うにいわれたものです。
今度こそ はという思いがなくなるものでな をこえんとするのに、何んとか五尺とか八尺
べ来
をこと を念願し 、努力してゆくのが
す、来す等の意味がありますが、ここですは
で、毎日を暮したことだと思います。
伎のところで済まねものかと苦労していま
、「
「あはれ」はあっばれという愈味
でし」は い」といわれました。この世に生ぎている聞
す 。「おほす」は生す 仰 は、常に怠ることなく-歩でも半歩でも向よす・若い衆願房はこのお判例を一生胸に刻ん
緩舗を強める雪楽で
、
人、 一丈五
w
ゅの内容が何んであろうとるとか、怠けるという愈味ですから「まさし「-丈の織をこえんと思はんは
この場合も 時吋と
こえんと はげむべし」私どもは一文の織
は登
、 る尺
もさしっかえのないことで、広く一般的に
く受
極漢に往生して咽遇措中の台ょに
まをで
お詞が問仰の御法稀でしたた
。ゆ「む」は油断すうなお詞として次の御法穏を思い起します。
ばかりで、 従って前後の記述がありません。
第子たちの耳にいつか深く刻み込まれたお
す制
ると、上人は破額二六されて、出叩さこ
れの
たお詞の有難さがあります。ここに同じよ
の短いお飼が列紀されていますがどれもお
限よ
り一生涯続くものであると叡えられた
う人にと、殺しい師弟の聞ですから、先制い酬るの
よく判りません。「諸人勧化の御閤」にはよ
、
まま 仏さ まのお 言葉 として傾 聴して 、教 います。
ある時吋、上人は今度こそ成しとげたいそ
ものの
ょ
すると上人は、若い来阪房に向って、
A
7皮
である
と申され ま した・しかしどの ような えをいた だいているお弟子たちにとって
人はが確信のなさそうなことを仰せにならこねそよ
はと期待もし 努カもすること は生きて
時に、何をなされようというのかについて
、
V物と
けり。《鰭人勧化の御閥、閑亭後世
総を仰せられては、われわれ如き者はどうな
の宗
と源
恩われます。そして決断刷口仰は上人よりも
よ 人うちわらひて、疋懇台に登らんまでは その時、長くよ人に仕えていた采綴房
いかでかこのおもひはたゆむべきと仰らが
れ、上人に して尚かっその ような頼りないこ 三十五才も若く 綾子以よの殺しさがあった
ましてその余の人はいかが候ベぎ.そ途
のあ時りません。
れ ました。 勅伝には「よ人につかへ 法畿をう
やと。その時来阪間明由甲て云く。上人く
だと
にい
もう怠味になります。何はともあ上
この会誌は
は、
とるに
こ相
と多年」と ありますので
かやうに不定げなるおほせの候はん
に 人は「今度こそは」と強くいわれたこく
ある時又の給わく、あはれ此度しおほが
せ正
ばしければ
扉
さ
ま
相手はスタンドの内側に少し体をはすにして
(下〉
、
瀬
直
r
r
-
、
、
草の灰をおとす出吋の手つきそれを見れば
、
、
一径のあくはなく まず勤人の妻君とい
所で働いていた女に 、よくみるよう
水商売をくぐり抜けて来たことがわかる。が
、
そうした
な
うところであろう・
「この土地には古いの?」
、
、
、
ph 、.
e山 b
、
図ったものだという考えは 終始彼に
付き まとっていた。
、
、
まだ店をひら
一向に埼があきません」
「なんとかならないものかと思うんですけ
れど
「そんなことをいったって
いて、三月とたたないんだろう。何取も、そ
う思うようにはいきはしない。まずは辛抱と
いうところだろうね」
、
少しも感じられなかった。
い含として
がずみずみまでゆき渡って、い#C
いる。ところが
自酬明の影がそこ それが第一いげないのだ。浅草では問先がや
柔らかく響いた。とうとう浅草にまで流れつ
いてしまったというような
りやすいという声と、やりにくいという戸を
、
、
やりにくいという店£は 直ぐと
、
ている。女をおいたパ!なら これでもよい
入口に暖餓がかかっているが、ドアになっ
が、本当ではないか。
浅草程商売がやりよい袋り場はないというの
欠陥が自に付く。土地の気心をのみ込めば
、
にはきしていた。浅草の匂いでもするのであ
e いた.
開く。が
、
、
ろう。彼女は浅草に古くから住んでいるのか
と
ここで生まれて
、
、
なんのって
「古いの
、
図ったものだ」
この年まで生ぎながらえ
箆ぐ返事の出来るもので
、
「それはどうしてですか?」
なぜときかれて
理解してもらえるものでもない。それは直助
、
相応の装いをこらしている。
これだけでは、
ょっ三入りにくい。それにドア式なら、それ
はない。簡単に絞明が出米ないし、たやすく が、「かもめ 」のようなゆ倉方の店では 、ち
いう。そういえば盃を持った時の乎つぎ、煩
これでも新橋のパ lで働いたことがあると
「そんな夙に見えます?」
「こんな商売は初めてなの」
ると親しみを婚し うちとけていった。
ちを赤くしている。お玄に齢いがまわって米とび出した。彼には写新らしく どことなく
、
綬か け 自分の盃を前にのんでいた。限のふ
一
「そいつはやりにくいだろうな」
この女は皿思痴っぽい方だなあと思った。ど
彼女は酷酔ったらしく
時たま関西なまりが んなに小さな店でも、閉店当時は主人の覇気
彼の前にはからの徳利が一二四本並んでいた
のです」
酉
「いいえ 浅草についてはなにも知らない
だけの気持で 他の人には通じないかもしれ
20 ー
-
•
お
説
•
簿略く
、
陰気臭い。それにこの頃
、
?
」
、
、
、
「そん
だらしなく齢った時 傍の女に門ん融制半分に脇町
、
吻の真似をする。と そこは上手に
、
なことをしてはいけません」と 女の方でよ
、
、
自分を失う粍酔つ
それつぎりですんでいる。今夜
けてしまい
、
「:・・・・・・・」
はのんだことはのんだが
でいた。こんな徴尖いところに彼女の趣味が てはいない。そんな馬鹿な真似をする時は
どっちつかずの顔には淋しい微笑が浮かん
っているの
「こうした店の淡いは あんたの好みでや
あまりに鈴っぽい。店が狭いのは仕方がない人にあるのかと疑いたくなる。
としても
、
の寒きだというのに 暖房袋遺一つ設けてな
u
、
強いて店の特長をあげれば 周囲の箆に所
嫌わずべたべたと色紙や短冊がはり付けであ
、
、
突然 はやり唄を口ずさんでいた。ひど
、
、
、
いれば 友だちもいる。というのに
互の窓が触れてしまった。
これ は
、
どうした仕儀であろうか。鯵うともなく お
、
った。和歌や俳句が曾いてあったが お俊雄貯 あるとも思われない。思い出したように自分相対ずくではなく 側には大抵大 ぜいの女 も
のか
にも心ひかれる作はない。これでは苛薬だらの盃にロをつけていたが ふと気を取直した
けの鵠い年 よりの背を思い出させる。土地の
よ くとおった。それは今はやり
く戸が若く
「悪かったね」
、
した雰閤気の中 で渚をのむことを喜
の俗悪な唄であった。うたいながら 彼に自
う
ま るであら探しに来たようなことに
彼は照れれ宵いやらパツの怒さから 無防
者 はこ
・
をそそいで いる。心をからつぼにしているよ
、
かなりのんだが
、
自分の膝の上に
と手酌で恋をあげていた。相手はうたってい
、
じてのっては釆ないであろう。女の熱っぽき
てているのか。それならあんな風に目穫をと
うまく酔いまわって釆 般をおとしている。ぶしつけな鰍剛氏に肢を立
、
、
ない。それでなくとも小川恨の近い彼よ
はく
せ
下が=一利点なので足の方が冷えて断酬がの
たぼ
時とは がらっと変って
、
ばな い
これでは客がつかめない。自分の欠
今
、
、
、
、
なる が
うにもと れ た。
、
内側にいては容易にわから
、
点 はなか なか気付かない・外からみれば直
ぐわかることも
、
資金がなければないなりに
ないらしい。矢張そこには無理をおしている
のだ。だが
、
の若い巡中にも喜ばれる遊がとれる傾向だ・こ使所に通った。ふと立ったら 矢張隣って足
がふら付いた。そのまま便所へいって出て来 が消えない。
、
、
、
また
波が一滴頼をったわ
、
じっと彼をみつめている。ニ窓除
、
と玄ごついていた。と
、
やがて気不味い沈黙のあと 彼女は静かに
れでは万事中途半舗にみえる。といって そ
、
彼女はスタン
たら
阪をよげ
、
、
ドの内側から縦しタオルをひろげて待ってい
の大ぎな眼は 次第にうるんで来たが
せてめ主人が余計なお設静をいわないまで
「どうぞ ! 」といって
んなことをあけすけにいうことも出来なかっ
た。その手を引き寄せると 彼はいきなり援
たを一つしない。彼は相手の視線をそらそう
、
明るく客をもてなせばよいのだが 浮か
、
、
た。
助した。断口らくははなれないでいた。
も
ぬ師酬をしている。これでは本気でやる気が当よく彼はキャバレーやパーをのみ歩いて
- 21-
•
って務ちた。
じ 中ないか
!
」
、
、
とめどもなく
「なんだね。泣いたりなんかしてみっと
もない
彼女は表情も変えないでい
、
それさえ知らない。彼としても そうしたこ
とを沼の肴にしてのむことを好まなかった。
「今夜はお阿さまでしたわ」
、
一向
「だというのに『かもめ』はこんなですも
のね」
「わたしが笈あけで、それつbe
りというの
お商さまの晩といえば
、
おそくなる程人出が婚すんだ」
そんな時間でもなし
「自分から気をおとしては駄目だよ。まだ
「いやになってしまう」
、
「そうだよ。浅草で商売しながら暢気だね は ちょっと心細いね」
、
「あんたには お商さまときいても
興味がなさそうだね」
、
「だって 知らないんですもの」
波が流れ務ちて来た。さつをまでは酔って今
限夜あたり稼ぎどきだよ」
多少おHざめて来
、
白粉もっけなければ紅
、
のふちが赤くなっていたが
た。色の白い方だが
もひいていない。どことなくわびしい影がさ
阿さまの脇町から取輔祝されたようである。店の
、
したはそ衝に清俊叫怖が加わっていった・漉い 「話にはきいていますけれど::・」
いささかこれではひどいと思ったが 彼は
どうやら彼女の孤にも酔いが戻って来た。元気付けていた。まるで「かもめ」だけがお
たりしてだらしがないといったものの自分で
も変厳に怨いた。拭きもしないでいるのを見 思わず自らの銅みをさらけ出してしまったの
、
危い。
、
、
と人通りが多かった。「かもめ」の両側は同
よ
じようなのみ尽になっている。隣った客が店
、
「もう行っていらしたのですか?」
うたったりするのが
、
の女とふざけたり
、
「竜泉寺町の通りまでは出なかったけれど
やすく
かねて、彼はハンカチでやさしく漏れた頬をであろう。そうした時こそ、人から来ぜられ 抑制は狭いが いつもの晩と遣って がやがや
ぬぐってやった。
、
後はついでやった。ゆっく
、
そのうち気分を取直したのか からの盗を
さし出したので
千束通りを歩いて来た。随分人が幽ていたね
く聞えて来た。近所の店に客が出たり 入っ
、
りロに含んで なにか一つことを思いつめて
たりするのを見ると、彼女は -m気がいらい
、
ど
阪 がなくなってからは行く気がしなく
引回
、
「お阿さまの臨慨はかかしたことがないけれ
らするという。
いる団体子であった。よくあるように酒一
総のどこからこんなに人が集って来るのかと不
思議に思う位だ」
「そうですか。浅草も同じ ことでしょう」
、
つ 泣き上 戸 であろうか。それにしてはそれ
寝静っていない。あんな不作法に篤き、酔い
「お問さまの晩といえば 余計 阪ぅ。浅ぷ
、
も手伝って、感情が激したのであろう。そこ
間分品目とは違ったものね。吉田叩は
。
なったな
。
ゆきによっ て ゆく
あってのお阿さま だ もの
・
なやかな頃、お開さまの晩といえば 鼎官君や
帥附さん遣が地口出かけて見物して歩いた。普段
、
どっちみち一つも
とて込 山間錐するよ」
にはいうにいえない事情がひそんでいよう
、
、
同じことだから
か、nm
りによってゆくか
、
そういえば相相手の名前も知らないし今
、日ま
、
でどうして来たか 現在どうなっているか
22 ー
-
.
とか、女郎屋とか、もの珍らしそうに見て歩 「吉原だけは知らずじまいでした」
そんな場所には行かれないもの。引き手茶国
屋層賑わったものだ」
れて、少しずつ大きいのにしてゆく。そんな
きいのにしておく。一年ごとによくなるにつ
に来
水りになっていたよ。熊手を興ってくれた
いていた。店の中へ入って、並べてある写真 「その頃は品目熊手を買って帰った。殊仕
、
、
凶Ft
、
a,、
、
1LPIF
、,、,‘ tpp
‘,
Bg
ロを守れと教えられ一
P一
のです。 どうして若い身でありながら、お弟 「大王よ。仏は五官の
tJJB
.,、,、,、t 、,、,‘
えるんだ。道夫婦が栓館市をもった頃は緩くた
小な@長い間には風習も色々と変るね」
、
T食店の主は、馬鹿でっかいのをかつ 客の縁起を祝して 若衆が揃って乎じめをや
商売 h飲
を眺めたり、牛太郎やお女郎衆を垣間見たり
での得愈になっていた。毎年熊手は賢いか った。今でもやるが 品目の方が威勢がよかっ
好奇の限を円見張っていた。お開閉さいま
して
。
娩だけはおおっぴらだからね それで又
五官 に戸締りを
、
つことができるのでしょうか」
、
ができる」
、
、
、
宮というのである。その岨場合に好い姿に心
一を
その通りになることは容易なことでは 「大徳よ、仏ののたもうところは、まこと一
に
ありません。汚れたものとみようとしても、い
奇特であります。それは私の経験によっても
一
…たちは蕊い身でありながら、欲に溺れず、消ても
一かに身を保っている」
、
母ほどの人に対しても卑しい思い しても
、
、
、
いつしか美しい形に心を寄せてしまに卑しい欲にとらわれます。五宮の戸口を守一
、
~
一を起し、妹ほどの人に対しても汚
ることは、弘どもの行いを清
‘れた思いを います・若い人が浄かな行いを係ってゆくに
・かにするよに、 一
一あるから
一 司大徳よ。しかしながら誰の心にも貧りが つしか浄かな獲にとれます@磁さを見ょうと 五官の戸締りをしないでものに向うとすぐ 一
、
、
きをば鍛と見よと。この教えによって 弟子 ん。しかし未熟な人にはそのように教えられ 保つことができるのでる」
、
る考え方を教えられた。それによれ長
ばじ 婚を跨いているお弟子ならばこそ そのよう に、よく五官の戸口を守れと教えられる。こ
一
たるをば母と見よ。中なるをば妹と見よ。世
な相
考えと行いが容易にできるのかも知れませ
}
の教えによって若いものでも、滑らかに身を
、
「大王よ。仏は私どもに向っ婦
て人に対す 「大慾よ。身体を鍛え心を練り、さらに智 奪われず、よくない姿に心を苛立てないよ
一う
、
「大徳よ。仏のお弟子たちは、若い身でに
あ満
りちていることを見よと数えられた・それ
食べものの味を味うし 身を以て物にふれて 一
mwゆえに首相いものでも、補聞かな行いを保つ
ながら、どうして欲に溺れず 滑かに白河を
何こ
んと
であるかを知るのでゐるが これらを五 一
、
一
、耳
る。飯を以て色や形を見る
しを以て戸や
子たちは欲をおさらえているのでしょうか」
ウテン王はピンヅル尊者に教えを仰い「
だ大
。王よ。仏は 人の身体がいろいろの汚れ 昔を開くし、鼻を以て答を撲ぐし、舌を以て
一
}
寄せ 般ほどの人に対しても淫な心を起すも は もっと他に灘由がなくてはできません」 まことに大切なことです」
》
- 23 ー
岬町,、
し
、
素直に
ゃきき自が薄いんだ。相手にとけ
よ。気どらないで
人たちは
大抵近くの馬遊とか公園裂とかに
、
湿っているんだ」
そこへドアをあけて
二人の客が入って来
「お連れの方はどうしましたか?」
「あの時は酔ったよ」
「いらっしゃい。この間はどうも:::」
た。どっちも若く、動人風である。
、
「そんなことありませんわ。これから店を 住居を別にもっているよ。そこから毎日店へ
「その頃のわたしはよく東京を知りませんをきいてもきみには前自くないだろう」
子供でしたもの」
、
「そうだろうね。それ程遠い品目のことにはやってゆこうというんですもの。色々と教え
説明だけじ
「こいつ は実際に味ってみなければねえ。
忠われないけれど.今でも一番思い出される ていただかなくては:::」
大門前に並んだ馬肉屋もそうであった
、
、
公樹の中にあった牛肉震でも 独特の雰
、
のは
が
間気があったね。一家揃って 一つ鍋をつつ付 込んでゆくことだ
く。告しがない暮らしの人逮ばかりが客筋だ僚へとけ込むんだよ」
「むずかしいわ」
「今夜は来ないよ」
、
った。親父は上機織に動計い女房子供はこの
「御一絡にいらっしゃればいいのに」
、
「さては臭いぞ」
時とばかりにたらふく喰う。そうした店の女 彼女はわかったようで わからない師酬をし
ていた。左隣からは門付けのギタ l に合わせ
いっときに大ぜ
「そういう意味ではないの。変にからむわ
、
中は所帯もちの年婚が多く
て客がうたっている。中市隣からは流しの三味
決して粗末にはあっかわない。見知らぬ 線に合わせて客がうたっている。時たま女の
、
踊笑がもれて来る。「かもめ」だけは悶方か
例によって背を向けたまま一介肢から泊を
- 24-
つ却昔、繋聞につつ込んでいた。今までのこと
は忘れたように彼女は元気付き齢った気配
、
ね」
いの客をうまくさばく・やることは荒っぽい
が
客同志が内輸のように楽しく経り合っている
、
「住居は別にもっているの?」
も見せないで、明るく客をもてなしていた。
んなことになったものと思いながら
Z
ハ了ν
人込みを避け、路地裂を抜けていった。
てもひ
い、店を出た・かなり酔っている。それにし
、
そろそろしお時が来たと 庇助は勘定を払
、
板に付いていた。
、
「‘ぇ・え」
その様子は手g わよく
しょうか」
「この辺に小店をもっている人や仲見世の
「不便ですわ」
「そいつは毎日のこと 大変だね」
、
「そうですね。店まで小一時聞はかかるで
「遣いの? 」
なにか会体が一つにとけ合って叫飢えくり返 ら狭まれて お通夜のようにしめっぽい.
、
お向さまの晩の特長
、
っている。今回ではそうした店が無くなった
ね。そんなところにも
楽しい娩だった」
、
そ
こんな浅草の議釈
t う
、
があった。せっせと働く者にとってお前門き
まといえば
「わたしにはよくわかりませんけれど
、
うした点に、浅草の依打ちがあるのでし
ね
「そ んなもんだけれど
L,_
ミスタ
兜抜
ー
究段毘沙門天像
J
l
(
守
、
この特殊な姿は中国の故
神事ょに立つ姿は西崎明風の特色をよく出してい
、
かはわからないが
、
、
ミス
しかも森厳な寄り
る。そこには堂々とした
何とはなしに
、
事にもとずいたものである。つまり天袋年間
ー
m訟と呼びかけたくなるような叙しみを
に底は商蕃に攻められた。そのときこのよう がただよってはいるが
タ
ゐvhn
活智治た言葉が飛び出してくる。
、
この像が巡られた店時代は
、最 もこわい像
感じ
のである。毘沙門天はもともと北方を守る神
う
維でも子供の頃を思い出
、
の象徴であったに相途ない。そしてこの思想
を腹一杯吸い こんで泳いでいる鯉のぼ
りを兄ると
として造られたものであるが、このような理
、
ったのである。
こうして考えてくると
る。ところが千二百年後の今日、偶然にも女
平安京の組問城門に性の肌渚スタイルになっているのである。戦
、
白から兜敏箆沙門は国家を護る神となって行 は中国をはじめ日本にまで入って来たのであ
悶舎
すだ ろう。近頃は少ない ようで あるが
、
に行くと 鎌鬼 や武将の織を立てる。
起
数本立った柚慨が風にひらめ
いてる様子はお
伽の国の紙芝居をみて いる ような鈴角を
、
、
、
ほほえましい限りであり、長
刺殺を求める現在の社会であ
、
る。このような奇抜なスタイルを取り入れた
か変ったもの
何でも模倣の上手な日本である。そして何
生念はしたいものである。
のであるから
できないお mrmの材料となるスタイルに変る
n
Hが 平和な社会の必mwn
とm
して欠くことの
、
鋲盤技国家祈摺の根争のために作られ さんざん微を驚かした武
、
本道場であった東寺に安躍したというのも
安置したといういわれも
ような武絞した体を、風に
問 わず 魁りに その事情を説明しているものと
す。 my
にまでみるこわい鐙鬼や強い大将 が、
子供の何倍もある
プ以 上の迫
続らされる情景 は、シネマスコー
忘れられない強い印象を与えるに いえよう。
、
、
、
ギロフト捌いて
小さく結んだロは
、
正面に鳳川刷側面に武被人物を刻んだ四万
、
キリフト
宝冠をかぶり 逆立てた問
、
、
少々だぶつ含ぎみの額簡をひぎしめ 均勢の
フ℃
ー
成
、
る。それにしても肩まである海老形の節手と
τ
城門のよに
サロンエプロンともシミ
こ
あったとい
に身を閉め、左手に霊塔を拷げ右手に袋持を いおである。
bA陰
,
木
ズともつかない鎧 フルシチ"フさんぞケネディさんに聞かせた
う。それが
らA陸。
際情世と箆際婆の寄り添う地天の
、
揺りながら
とよりも、五 0 メガトンとか何とかいってる
況を尚めてい ら成功しないともか夕、らない.いやそんなこ
東寺にあるが、策室妃によると 弛日有名な綴 とれた体の表現により一層の効m
門であろう。写誕の兜駁勉沙門は現在京都の
つり上った呂
度見たら忘れられない異様なものは宛駿陣地沙
仏像の中にも動的なものが沢山あるが、一
相途ない。
カがあり
まぬ かれたとい
ったところ、 無事に回配地を
澄み渡った五月晴れの大 空に 抑制風 な婆の毘沙門天を造って都の城壁に安留し祈
•
•
寝 袋かどう
鈴
- 25 ー
表紙の写真
いつの頃からかお父さんや
この難波にきていたのです。
3ん
I1頂
た。 する とチピ助がいいました。
、
「ネ、阿波助さん いいものを
てやるからネ 」
、
、
とってき
向こうの方へとんでゆぎま
「おい 大丈夫だろうナ」
チピ助はもう
、
「お待ちどうさん。そら これだ」
の畑のものを やってきたにちがいありませ
生のおいもです。どこか
けになるので「ヌケ貼どだの「チピ助」だの
ん。
ある晴れた日でした。
「そうか よし、おれが分けるぞ。チピ助
「甘くてうまいョ 、た べてみな」
、
「どこへ行こうかナ」
、
といわれていました・
、
だの
した。
、
ついて行be
ます。やがて農家が見えてきまし
、
「チエ 7、阿波助さんはずるいや」
助三は不服そうにいいました。
、
「ぼくは向こうまでいって とって含たん
だゾ。自分は十もとったくせに、倹はこんな
のをたった三ツか」
、
「ナエヲ 十もとったというのか。よく見
ろ六ツだけだい」
、
十だって同じだい。僕たち
「占ハツだって
、
、
その時です
、
、
、
、
チピ助のやっ この頃
いいはしないヨ」
ョ l シ
。
、
、
、
たて」
「アッあそこにいるぞ」と戸
あの丸太ん棒のような腕をふりあげ ま した。
チピ助はなきべそをかいています。権太は
ょう」
「なにするんだヨ 倹がわるいんじゃない
た
「ォ ォォィ、す 、すけ 一一一
はこわいから、しかたがありません。
えてもチピ助がかわいそうです。でも阿波助
繍太はしかたなしに立ちよりました。どう考
少し生意気だ。権太、チピ助をやっちゃエ」
「そうか
「いや、な にも
阿波助が権太をニラムようにしていうと
、
「ナェ 権太 もう一ベんいってみろ」
「ウン、そうだ。そうだ」
阿波助を先頭にしてフト権とチピ助が後を よりか 倍じゃ ないか。ナア権太:::」
阿波助とお坊
難波(なにわ〉の町 l 今の大阪ですが、そ
、
こに阿波助ハあわすけ〉という浮浪児がいま
した。阿波助は
、
お母さんとわかれて、あちこちとさまよい歩
くうちに
阿波助には線太と劾三というこ人の仲間が
いました。権太はフトッチヨでノソノソして
いました。ですから権太のことを「フト繍」
謙
のぞいてみると
「ノロ権」だのと呼ぶものがいました
ネナ
助三はチピで小利口です.でもやる嘆が尻ぬ
、
オヒ
「きょうは町のはずれの方へ行こうヨ」 は三ッ、権太は三ッ それ」
「うん、そうしよう」
- 26-
童話
が叙に代っておわびもいたしますから
か許してやって下さい」
、
どう
お坊さんにこういわれると、お百姓さんも
かわいそうに思ったのでしょう「へイヘイ」
と顕を下げると引きあげて行ぎました。
、
天王寺の
、
う大ぎなお寺があるのを知っているかいあ
、
の近くなんだよ。そうだ あした
門の所にくるといいよ」
、
「あした あそこへ行くの。あそこは大ぜ
い人がいるね。携にもたれてならんでいるよ
「それに、みんなクサいよ。そばへ行くと
もあるよ」
お坊さんは、すぐ縄をといてくれました。ゴロ寝している人もあるし、中には病気の人
そして、ふかしたおいもを袋の中からとり出
、
ましたからたまりません。アフという開に三
すと、ご一人にわけてくれました。今度は生い
がして、 バラバラと-一一
四人の人がやってき
人とも縄でゆわえられてしまいました。お百
ンとしてたまらんたまらん」
三人が小廿をかしげて符えていると
「みんな・・・」
「うん、みんなに会うのさ」
「誰かに会うのかい」
「大ぜいきているところへくるといいな」
l
プ
いっしょに
姓さんは天ピン織や竹の岨帽をもっています。
もではありません。ポコポコとよくふけたお
、
チピ助が鼻をつまんでいいました。
、
「きあ もう行,』う。
そ うだ
早いこと。そうだ。たべ
「さあ町へbe
たな。きあこの辺でお別れし
主う・さようなら」
お坊さんは町の遊をスタスタと歩いて行って
しまいました.
、
次の自です・天王寺の門の怖にきて
きて
、
なかなか大ぜいの人がいます。この
みると
、
、
人たちは 、そ の頃 あいついで起った地震や
り
- 27-
これで一打ちに打ちのめされたら、もうおし いもの味に 、みんな 我を忘れてたべました。
まいです。助=一はガタガタふるえています・
「だいぶ、おなかがす いてたようだね。た
三人は黙って立ち上りました。
権太はじっとしています。動けないのです。 町まで行くかな」
阿波助は「たいへんなことになった」と思い
ながら目をつぶってじーっとしていました。
、
、
べるのが早いこと
、
「品目さんちょっと待って下さい」
るものがない時は 私の所へくるといいな・
、
やさしいおちついた戸が 政の上でしまし
人のものをとるの はよそ う。わかったかな」
、
た。阿波助がハヲとして目をあけて見ると
三人はおとなしく「ウン」とコックリしま
、
きあ歩ぎながら諮そう。天王寺とい キキンや火事などのために、家がなくな
「そうそう、そ れを教えてあげないといけ
阿波助がをきました。
「おうちは、どこなの」
した。
そこには一人のお坊さんが立っていました。
中は一ぱいにふくれよっています。
、
怨殺の衣で、わ らじばぎ、首から袋が下って
いて
、
「何をしたのかわかりませんが、見れば
まだ十二三の子供のようです。おそらくは住
むに家もない子供たちでございましょう。私 ないな
.
、
食べものがなくなり 体をいためて仕事ので
、
みんなじ
l
ヲとして並んでいるのです。
、
、
が急に我にかえると おなかがグ
「これはたまらん」
きない人たちでした。動けばおなかがへるか となりはじめました。
ら
ヲと開けられ
l
ツグ
l
ツ
、
先にでもいるのでしょう。ただ 体の動かせ
、
ない病人だとか老人たちは どこへも行けな
いので、そ のまま雨にうたれていました。
、
、
阿波助は一人で 擦にもたれ 足をなげ出
i
おなかをかかえたチピ助が お妨さんの所
天王寺の門がギイ
した まま、じっと 雨にうたれていました。き
、
へとんで行きました。権
太もノソノソとつ い
すると
ました。三人でそちらを見ていると、大ぎな
、
それも当然のことで
チピ劾も指太もきてくれません.ぎ
のうのことを考えると
、
ょうは
「今日は:」
・
お釜が市中にのせられて出てぎました。湯気が て行きました。
フワヲと立っています。「なんだろう」と思
昨日のお坊さんだタ」
、
んは二人のロにおかゆを入れてやりました。
けれど
、
お腹
阿波助はなにももらわないどころか
、
、
がへって動くこともやっとです。仕方がない
お坊さんはユッコリと笑いました。お幼さ おかゆを叩きつけて帰ったのですから
「おお、き たかい」
っていると、二三人の人の後から一人のお坊チピ助と稀太はベコリと頭を下げました。 す。二人はおかゆをもらったから まだよい
y
さんがきました・
「ア
チピ助がいいまし た。そ うです。昨日のお
、
じっとしてい
をねらしていきました。いくら待っても、今
、
から雨にうたれるにまかせて
阿波助が急にとび出して
ると
、
坊さんでした@手には
、大きな鉢とおさじの す
るのです。冷たい雨は容滋なく阿波助の品川物
と、チピ劫と権太が先におかゆをも ら った
、
「ォィ 俺のいるのを忘れたなツ」
中のものを鉢に移す と並んで
、
ます 。み んな急にえ
、
ガッとチピ助自がけて投げた
、
ことに肢をたて お坊さんのもっていた鉢を 日は門の問仰があきません。とうとう夕方近く
り
いる人たちの方に まい
まで 、そ のままでいました。阿波助はぞっぷ
、
ひったくると
りと漏れて 裂の毛がベヲタリと副聞について
、
りを合せたり すわり直したりガヤガヤとし
からたまりません。チピ助の捌に当って 鉢
いました。
どこかの軒
阿波助を呼ぶ戸にハヲと授に返ってみると
、
「これ これ」
れないのです。
できます。不思駆とお坊さんのことが忘れら
をのうのこと
、
ました。お 坊さん は}人一人におさじですく
はガラ ガラと地にころがりました。チピ助の
、
おとといのことが照に浮ん
ってはロの中へ入れております。おかゆで
よ けて
、
聞から瓜が流れました。阿波助はパヲととび
急いで町の中へ消えて行きました。
、
まばらです 。みんな筒を
いました。門前の人修も、そ の日はさすがに
そ のまたあくる日は利から冷い雨が降って
のくと
口へ温かいおかゆをたべさせているので
、
ます。
一-一人し
はばらくおどろいて兄ていました
、
す。中には手を合わせて
拝んでいる人もあり
に
す・ちょうどねている病人にたべさせるよう
のそばへ行き
ようなものを持っています。お坊さんはお釜
-
ー 28
お坊さんが立
っています。
あの方です。
「あフ」
阿波助は思
+
ュ
わず踊酬をそむ
けました。
けなさい」
ly
とロをあげると
、
おかゆが
お坊さんの衣から雨の滴がポタポタとおち
ています。ア
温かなスジがのどからおなかへ
、
ズ
口の中に入りました。思わずゴクンとのみお
、
ツとおりて行きました。ちょうどお母さん
ろすと
1
、
が赤ん坊にごはんをやるようだつたので 阿
の子供にかわりはないのだよ」
「・えヲ:::」
、
その時わたしを呼んで
、
「わたしのお父さんは わたしが九つの時
になくなったけれど
、
、
そんなこと」
みんなかわいがれとな」
いったことを、わたしはおぼえているのだ。
人をにくまず
、
「でも 倹にはで容ない
「そんなことはないよ」
、
波助もお母さんのことをチラフと厳に浮べま
いないのか
はい」
、
わからな
、
仏さま
、
ふいてもい
よごれていても
、
しっ
阿波助はお幼さんの袖に制酬をうずめてさめ
ご承知だろうよ」
「狩すも許さねもないよ。お月さまはよく
「狩して下さいますか」
なんだよ」
「そこに気がついてくれたか。それが大事
、
チピ助に鉢を投げたり だめなんだい
、
ずかしい思い
、
、
心配しているだ
「でも でも僕はいもを余計にとったり
ろうネ」
「生be
ているのか
いのです」
、
「だいぶ漏れたな。ふいてあげよう」
こはい自のおかゆがのどを通り玄す。
「そうか そうか
、
した。
お妨さ
恐
「お父さんやお母さんは
がしたからで
す。ぎのうの
、
自分のしたこ
とを
、
んは怒ってい
ないかと
い級でいるか
、
-【衣の袖で 阿波助を包むようにしてふいて ざめと泌をこぼしました。お幼さんは
しらと思い
お坊さんを兄
くださいました。阿波助は泌がこみあげてぎ かりと阿波助をだいて下さいました。
いのかい」
「容たなくても
、
「きたない倹みたいなものを
「どうしたね。淋しいのだろう」
、
似すとエコユ
ました。
ロをあ
は法然よ人でありました。
、
そばを総れずにすごしました。このお幼さん
、
阿波助は それからア生の問 お坊さんの
がかかっていました。
、
雨がいつかやんで 附れた夕空にお月さ支
コしていました。
「おこっていないの」
と e きました。
、
「おこってなどいないよ。 だが小さい友だ
ちはかわいがらねばいけない。 さあ
- 29
•
、
い出
第十話
士ロ
る
帰還列車は走り 車中の列車のわきを歩いて行った・各貸家の
ても住めないような荒野を
尉が}人いて そのそばに私の知らぬ若い兵
の事はひっそり静かであった。しかも金子少
、
ところが私の予想と全く反対に オルグ図
入口からは幾多の限が私たちを見送っていた
続けた。いかに列車の中にいるとはいいなが
士が坐 っていた。結局
伝令と私とを加えて四
五輔自がオルグ図の事で
にもまして私の気を楽にしたのは 相手が金
怠はこの車内の袋気にホヲと安心した。そ れ
あった。後は中野区で旅館業を榊門んでいたと
、
金子少尉とは、これまで二 三一図の節織が
、
オルグ間取
、
あった。私 は ここにくる玄でに
、
おそらく巡行される犯人のように見えたかも
、
見るもののない毎日を送っていると や
、
ら
オルグ図とし
子少尉であることであった。
、
人だけがこの貨準の人となったわけである・
、
はずい分と阪やかであろうと想像していた・
、
得意さうに縫愉をしていると
、
彼等にしてみれば ソ速に忠動をはげんで功
それから図
知れなかった。やがて炊事事の績を通りすぎ
、
ジ減税ばかりしていたのでは
ては物足りなかったのであろう。
、
彼等にしてみれば 反動は内地
くこのことで
、
どんな質問を受けようとも
、
で
が
性格もおだやかであった。決して自分の
、
りし
、
なかった。いつもオル グ聞の一 員
、
それでいて反動なるがゆえに直ちに敵視
、
としては卒先して活動し 弁論もよく立った
かって大勢のオルグたちの前に立された経験立て た
いよいよ最後の土鳩埼において
吊し上げをくうものと覚悟していた・
、
った。従って反動 は途中で下 車させるという
、
があるので
じの震後の説得が開始されたのも無理でなか毎度のことながら反ばくしまいと考えていた意見を相手に押しつけたり 相手のおに腹を
す答がなかった。いわば背水の陣といった感
そこで帰還 列車の旅という最後の機会を見逃 思った。敵は大勢味方は}人というのは、会 いう幹候出身の将校であった。彼は長身欄
棋舗
に岨押すべきでないと思われたに相違なかっ成
たったわけで
それよりも
、
はり気持まで荒々しくなるようであった。停
、
幹
ラ ー ゲルの思
来
私は呼びにきた若い伝令の後に従って停
船
ると
と
•
車時聞を利用して アカ餓その他の合唱やア
、
翠
還
実
話
情報を十分に涜しておいて -人一人をオル
グ聞に呼び寄せたのであった。
- 3Q ー
、
野
帰
人聞はもとより どんな動物も鳥類も
•
活も私も同じ均所で等し、同じから除されるという終告の立場であった。弘
、
過 Me
ないが
彼等の仲間には珍
することをしないという
d をどうとったか、弘は彼の孤色を穴の
ソ述人に嫁して念たのだ。同じ環境で同じこ の 4楽
、
しい好事H年であった。この取の貸任者に金子
のことはもちろん結権なことだと思っている視線を速く駿野にはしらせていた。列車はい
、
おは共産主義に賛成した。こ あく寂見つめていた。しかし彼は黙ったまま
とを見聞して
、
大事をとっておだやかな彼をす
、
少尉が選ばれていたのは 彼の説得力が買わ
れたためか
、
でぎることなら索直に署名して欲
もう
私のおが或いはソ速の窓口とな
、
君のよく知っている通りであ
、
いた。
、
、
、も の一人の若
すると伝令に会た方でない
い兵士が私に話しかけてきた。
、
「あなは戦争中 隊長として却下のために
お国のために命をかけてこられたので
「・・・・・・
・・
そ・
れ・
で ・・」
、
働き
、
る。但しおが 弘をどうしても内地に帰した
しょう」
せないでくれまいか。
「そのあなたは 今度は大衆のために働い
、
いつか沼からゆっくり芯の主張をぎぎたい
、
くないというなら別であるが 私に何もいわ
ものかどうか
るかも知れない。ここでソ巡の悪口をいえる
もいうなら
それを私はいいたくないのだ。君がどうして
それなら何故私は君と途う遂をとったか。 しい空気の中で 私は車輸の答に耳を傾げて
、
えたのか 、そ れは私に判らねが とにかく私 しかし弘は賛成しなかった。この弘に対して つか動き出していたので 次の停車まで 私
にとっては気安くほんとのことがいえるようも仕方がないのだと思ってくれないだろうか は彼の前を辞することができなかった。窓苦
。
に思われ、ここにくるまでの嫌な気持をなく
してくれた
金子少尉は弘に対して
、多 くを語らなかっ
、
た。ただ今以て弘が共産主義に賛成署名をし
ないのか
しいというだけであった・それで私も静かに
雪築少く答えた。
、
「その問問で
あったら
、
二人
いうことを止めた。彼は金子少射をさしおい
彼はそれ以上
て欲しいとお願いしているのに、何故それが
ものだと
紛がソ巡の領海外に出たと
8
、
、
お批判町でなくほんとうに望んでい
止めてもらえな
る・そして私の怠凡も娃亦おに聞いて欲しいできないのでしょうか」
、
いだろうか・主
たなら
思っ
・出掛主張の理と検
にている。事い弘が宕と}柑舶に更鉛でぎ金子少紛が g で制したので
.
ここで
骨骨りで十分指し合おうではないか。自由に患 てでも
、
怒りをぶつけずにはいられなかったのであろ
ついて
者と対治する気
いなり自分の考えの述べられる時まで、今回
う@弘は若い彼の短い営業に心を打たれてし
、
、
まった。若々しい熱嶋田に燃自
えを鯨かせて
、
反動と呼ばれる私に対して 自分の
持は令〈ないの
の織論を保留してくれないだろうか」
私として は、金子少尉の報告一つで 列車
、
だ・アングレン
という=用地に
- 31-
、
B・本を解放してくれたのでソ巡箪隊には心
私は祭荷なものを感ぜず
いった彼の 宮楽に
から万才を送らねばならなかった。現在のソ
、
にはいられなかった。
、
った時から
、
シ
ベリア本線に入
沿線の景色がまるで変った。そ
、
]がてノヴオシピルスクで
f
-
に努力している。従って天国の実現をみるま今までは北に北に進んでいた列車が、東に東
彼は特別品幹部候補生として少年航空志
哀を巡は共産主総国家という天国を
形成するためこには背々とした草木があり、人家があった
願した兵長であった。かつてお国のために滅
では
命に妨げ
、
、
本大衆のために像ハバロフスクも近づくわけであった@日本新
B
、
日本の共産主義の中
、
今こそ革命の戦士として日本に赦従って少なくとも私にとって、ハバロフスク
、
争で失なわなかった一命を 大衆のための草から降り、教育を行うということであった。
若い者は純真である。この世相い兵長も、戦心となっていた・そして.反動はこの池で列
、
いかなる辛苦も粂りこさなくてはならに進むことになった。それと同時に問題の
私影公を寄って出陣したが それから五年が
ない.われわれ同 志 は
一
、
たつてしまった・彼が物心のついた時分には
大なるソ述と痛く手を怒り合って 革命を起聞ハ日本経の新聞〉もこの地で編集発行され
、
すでに戦争も禾期症状を呈していたし 社会
すのである。ているといわれる位に
、
、
会放が異状であった。軍隊の内部剛すこ
られ
がかつての窓隊かと思われるような欠点ばか
、
りがつのって不快なものとなっていた。こう
、
した経験しかない彼が ソ巡で教育され
、
に停車した。私は金子少尉と分れて自分のタ地方も全く興味がなかった。臼一日と日本­
列車は二時間ほど走って水を補給するためた。往路にはあれほど騒いだパイカル湖もチ
つの方程式を償じ込んだにしても無理ではな前よ抽附するのだという僧念にもえていた。を通過しないことには安心できないのであっ
かった・
日本は天皐を顕とする資本主義国家であっ
mの方に戻った・長い列獄のそばを歩きながに近づく感じと、列車から降ろされる日が自
、
大衆を搾取U 大衆を貧しくし、大衆に
て
、
私の気持は鉛でも呑んだように重かったの前に迫ってくる恐れとが交錯して少しも落
ら
、
自由を与えね固であった。日本の選診は形
、
、
、
あの兵長がどんなに感激したことであろうとた。私は朝からいても立ってもいられない気
資本主畿に穆仕するものであった・ 入って、大衆のために闘いたい」といったらいよいよハバロフスクを通過する自になっ
、
、
、
略することを目的にした。ソ速の軍隊は若
い時代のソ速を侵略した仇敵を怒っと同時に
、
くる日もくる
Bも、列車は走り続けた・や
車内では毛布にもぐり込むものが多かった。
所に放り込 まれた。日本の箪隊は資本家の利 思った。それにしても白紙のような若い顕脳持であった。その限
日っ
にて列獄の速度をあ
益のために存複し 外国を持取するために侵 に -方的な教育を絡した者こ況
そわれてよげて走っているようであり、時間のたつのが
かった。速いようでもあった。その内に日が纂九た。
若し大衆に時味方する者があれば直ちに刑務
でなく
式こそ普通選本でも 買収と強圧以外のもの あの時 強でもいいから「私もお等の仲間にちっけなかった。
、
32 ー
-
'‘t-・レ'
た車 内 に戻った。私は独り床に坐ったまま
すると宿舎の移動があって いよいよ日本海
を以て数える開催の者であったろう。しばらく
、
耳を すませ ていた。するとコトリ列車が動き
のみえる場所に移った・
ナホトカには二週間位いた。その聞に再び
、
始めた。和は
仏線 路 の入れ替えが始ったと思っ
、
た・ところが列取 は 一度動ぎ始めると 段々
と速度をまして行った。そしてその玄ま走り 奥地に 追いやら れた者もあった。「剛の綜」
。
、
「同志諸君 日本に
私が糞尻プ ー ルに終日つか
、
っていたこともあった
続けて行った。列噂 は ハバロフスクで何療も で述べたように
起らずしまいに、夜半発ってしまったのであ
った。私は大宮戸を出して叫びたい衝動にか敵
ら前上陸する日は刻々に迫りつつある」との
帰還列車は
、
、
アングレン
かった。沖では毎日ソ避の岨押海艇が行ったり
る毎日は、どんなことがあっても若にならな
、
海の風に当りなが ら 紛の来るのを待ってい
万才を 三喝させられたこともあった。しかし
連名で感泌旬報を打ったこともあった。ソ連
演説を聞いたこともあった。スタ ーリン宛に
れた。宵州臨唱な車内にあって、私一人笑いがと
まらなかった。
このようにして
、
憂い汽車の旅のお
、
を発ってから二十五日を経過して 無事にナ
ホトカに掛川いた。
ナホトカで下車すると
、
水平線に鉛彫が見え 品目を長くし
、
て待っていると、ますます必が近づいた。遂
、
操車庫でもあるらしく 後本もの線絡があっ 建物 は古いものらしかったが、内 部は 二段ベ
、
に日本船がきたのであった。や がて鉛は岸壁
た。訟は静かに宮崎を降りて、列車の周りを歩
フトで
いてみた。臨岨い電灯があちこちにあるだけであった。しかしその理由は夜になって判った・ につけるため
、
スマートに見えた。誰かが「どうだ 日本紛
、
行ぎかう船員の白い股が 自にしみるように
かなかった。恐らく般もがしたように 私た
の燥縦はうまいものだ」というと、ま た「鉛
、
ちも早速外に出て、建物のそばで野宿した@
良 の服装をみよろ。立派なものじゃないか」
、
ナホ トカには どの位の者がいたのか、多分万
、
人の気配は少しもなかった。真夜中なので
つ、
まり南京織が多くて とても寝るわけにゆ
ま
ハバロフスク本舗との逮絡
は明朝になるかも
知れぬと考えた・
、
前進後退を始めた。甲絞上に
ゴミ一つ落ちていない位にきれいで
ある目
かげで足がふらついた。しかし一向は意気た ぎたりして爆帽闘を投じていた。
ど繋
午前 一時頃にやっと月が出て、 あたりが明る
今 イマー
~
中
いつ までも外にいるわけにゆかね ので
- 33 ー
Iザれヒてι,7. 7
ねJ1
からかに削割り当てられた宿舎に入った。その
ソ
くなった。午前二時頃列車が停 った。そこは
.
と感心する者があった。
、
けるまで
足腰のたた
しまった。反動 たちに
、
甲板よで反動の二凶が荒れ狂った
、
ね位に痛めつけられて
終戦直後 将校と下士宮共は全く隔離酷されそ のため大かたのオルグたちは
初めて日本に帰ったと実感がわいた。
これまで「日本新聞」によって内地の様子
それによれば内地は家も 将校は将校だけの一回としてソ速に拘留され
を知らされていた。
、
、
こうした暴行計画が 以前からあ ったも のか
、
因由射していると報ぜられてい ていた。ただ私たち一郎のものだけが大隊
なく食もなく
下りて下さい」といわれ、ま た船倉にもぐっ
、
どうか判らない。最初異様な物音を聞いて
、
長、副官 中隊長として千名単位の大隊に配
、
殺もが故郷の人々を集 じていたので
たので
、
、
「日本新聞」の報道が吸であると図やナ
っホトカに着くと 二三目して将校図もナホ
、
属されていたものである。ところが私たちが弘が甲板によってみると 「隊長、危いから
、
船 員を
あった。それを今回の怖で 掛品々たる
みて
我人も多く
、
あちこちでうめき声が聞かれた
トカに着いた。従って急に将校の数が婚したてしまった。鉄材ばかりの甲板であるから怪
て急に安心した嘆声であった。また船尾の方
わけである。
からは「日滋餓」だというどよめぎが怒った
第二日自の畳間は 終日吊し上げが行われ
、
品広飢開館隊の編
は階
成級によって行えという
た。今度は反動がオルグの首脳たちを吊し上
、
三年何月ぷりで 国旗を仰いだわけであった
ソ速の命令に従って 働団長 は箪医少伎がな
第二日自の夜になると、前夜と向織に反動
、
隊長となり 炭坑大隊に一僚に迫放された大
たちが再び荒れ狂った@夜半すぎに非常呼恒常
、
があって人員点検が行われた。海に投げ込ま
船中をあげて血鋭い大混乱に陥入った。この この夜はオルグの首脳たちが狙われたが、中
この飢闘が敦賀に入浴するまでの四日間にれ
、た者はいないかという心配からであった・
となった。
智大尉が分隊長となり 私はその分隊の列 兵
長 となり 、ラー ゲル当時の間官近藤大尉が中 れた通りに行ったわけである。
、
私の側にいた若いオルグの
、
フト気がつくと
り大垣中尉や金子少尉等のオルグ図は翻品開団
げたのである。反動たちはラーゲル当時にさ
、
日本を思い出
自に涙があった。彼も人の子
したのであろう。
、
いよいよ紛が洋銀につくと 甲板で働く 人
たちの鎖まで見えた。
「あれは何んだろう」
「あれば沢庵だヨ」
、
のか」
「何 沢陣聞が食える
でも大垣中紛が最も憎まれていた。ほんとに
、
大騒動については かつて「暴カの鉛」とし
味噌汁もあるゾ」
大寝を内地に縄問すなというのが合言楽だった
、
「そうす ると
て本誌にのったことがあるので、そ の大要を
没したが
間もなく日が
寝中尉はほんとに海に投げ入れられていた。
の通りかかっ た のがもう少し遅かったら 、大
、
その夜が明
洋よで第二伎を迎え
、
、
またしても歓 声でどよめいた。
これで
、
らしかった。そのため 若し数名の船員たち
、
ると
簡単にふれることとする。
手を扱りながら際れて行った。きあ
くソ速のランチが見送ってくれたが、やがて 紛がナホトカを出航す
乗船の終 ったのはタ導れ近か った。しばら
- 34-
、
ろで仕方がな い ので
、
いい加減の返静をして
香りのない華
、
営業だけ焚しくて 実行の伴わないのは
大垣中尉の身体を 反動と船員が引き合った 販を下げた.今吏大寝中尉に船閉まられたとこ
、
ということであった・これに驚いた船長は
主だったオルグを金制叩保綬検束してしまった 何んとなく部底のま ん中に坐っていた。
、
つまり三回目の朝 近藤大
梯団長の命令だから
、
、
反動も疲れたからであるが その日も
日 目は
、
、
その
日本の陵地 機しい山々が見え
夜も騒動が起らないですんだ。
第四
、
、
なおのこと気をつ
、
け ねばならない。言葉を特に飾る場合は
内
よく響くものであるだけ
揖式辞鑓句はまことに耳に入り口仰い。耳に快
おかげで人員点呼の時にいなかった者は船員もちろん私が間働団長になったためでなく 色あって寄りのない継の よ うなものである・
、
室に保護されていたことが判った。
そ のあくる日
尉が弘のと こ ろにきて
。弘は創梯図長 敦賀に近づくにつれて人家も見えた。
私に邸機図長になれといた
っ
それができなければ先任将校がなるべき
て
、
、
アメ
機団長室
、
ち得るものと信じて
、
よ い。其に実行し
、
実行
その反対に不営実行は 常に 人 の信用をか
、
に壌放が生じたら中隊長が代行すべきである その頃いつ乗り込んだのかアメリカ寧がい 容が乏しいために 言葉のよで怠回心している
弘たちに上甲信似並列を命じた。淡い甲板
のだと思って間違いがないようである・
、
しぶし ぶ承知をし
、
、
いかにぎ業が美しくても それだけで価低
お枇辞 は育審あって 一利 す らな い
。
、
る。もし長い交際を結ぶ栂宮ずであったなら
世の中にお世抽貯のよ手な人と下手人
ながあ
である・
突のならぬ花を大療に育てている よ うなもの
ある。寄りのない撃を同眺めるのと似ている。
、
実行さ れて初めて そこに効来が生 れ るので
つ彼が副働団長にもどったのか知らないが私が生ず るものでない。言葉があって、そ れが
宮分隊の方にもどって行った。誰
って大
久保かの子〉
・
- 35-
し
、
鐙織の方
副ぬ図長たる弘は
、
にギヲシリ列んで
、
メ
する自信のある場合は あえて言葉を飾る必
リカ将校の後から大 要がないのである・
だといってことわった。私にしてみれば 折
三人のア
リカ箪の案内でもするのかと考え
、
、
角列兵として容気にしているのに何の副ぬ
す ると二
に急いだ。
団長だといいたいところであった。しかし近
藤大尉は務めずにいろいろと私を説得するの
、
垣中
であった。私も朝鮮以来懇意にしていた上
官尉が従って歩いてくるのに出会った。い
でもあるので
、
ハカット
と戸をかけるものがあった・
す ヨ」
「隊長、上陵してから商白いものを見せ ま
、
か知らねが 後 の方から
は黙
に行 った。設と誰が劉品開団長であったのか
火の消えたような-室に幾人 かが身体を様た
ことを湾えると
えていた・すると聞の方から大垣中紛が私の
前にきて
「私が悪かった。今
ま での
金く申釈がない。定しくお願いする」
、
という意味のことをいい 私 に両手をついて
•
( あって
.eau ん
hu 。
、
、
見事矢がこれを射ぬいた。近づいてよくみたら
、
、
、
{虎にあらず一 塊 の岩石の真中に 深々と矢が射込まれてい
一 たのである。ひとの一念 こうと思 って信じこむ そのカ
‘
「執念の鬼」ということもいわれるが 自分の想念を}
、
一はかくばかりに強制無比なものなのである。
)
一 つのものに凝らして、最後まで押しとおしてゆく。ことの
迫力というか
、
、
この
いかりとかーといったものでは
単なる}側人
、
とにかく
~是非善悪はとも角として 、 その気錦には鬼気せまるものが
Aある。そうした精神カというか
、
、
~そこには鬼神も避けるものが源よっている。しかも
恨らみとか
一
そ
の
十
中
-・ー・圃.‘
ーー園開園.
信
常
.
.
よ・
ば
、
、
、
、
、
、
…
一
一
若しは ~
阿弥陀仏を
、
、
-心不乱なれば その人命終の 一
、
若しは三日 若しは四目、若しは五目、~
名号を執持ハしゅうじ)すること
、
、
若しは七目
、
、
すな
い
一
阿弥陀仏もろもろの聖衆とともに その前に 一
、
、
阿弥陀仏の名を称えることをすすめて
かならず極楽にうまれることが出来るというのであ
る。いままでも
、
叫
とある。阿弥陀仏の名号を執持すること一日乃至七日すれ一
…
わち阿弥陀仏の極楽園土に往生することを得」
現前したまう。この人終る時 、 心てんどうせずして
時に臨みて
若しは六回
一目 若しは二目
説くを聞きて
ぺからず。舎利弗 もし善男子養女人ありて
「少申電線徳徳の因縁もをって 、 かの国に生ずることを得
阿弥陀経の中ほどの文に
のとなる。
言語を絶した、原爆の如き巨大なエネルギーを発散するも
ふ
、
、そ
ひろ、
く
大きい
宗教的信念であ
るれ
場一
は
合
なし、
に
竹
す
選択集私解
-ーー-
木陰にうずくまる黒い影。あっ虎だ・そう思った瞬間 、
} 皮とみて務に立つ矢のためしあり
一一、岩を射
•
る
…ひょうとばかりに手なれの弓を射た。ぶすっと手ごえたが
一
義典
~ ような精神力の裏づけになっているものが
一の想念l
36 ー
-
構聖
、
}尊称名号とか一向専修とかいう言葉がしばしば使われて来ぜなれば 念仏には「多善根福徳因縁」があるからであるd。
、
、
、
、
、
、
、
、
、
という文字がはいっている。後世の学者は これはあとで
つけ加えたものだとか 、 あやまって伝えられたのだとかい
い
川
め
い
一心不乱に念仏引
名を称するを以つてのゆえに
、
それは阿弥陀仏の「本願の念仏」だからであると善一等大
い た。しかし 尊称 専修といわれるゆえんのものと意味
一
へ は 実にこの 阿体陀経の「執接名号」ということにあっ
師は教えて下さっている。仏の名をとなえることが「多前ん
甘
川 たものである。党鰐からの釈によると「彼の世琢無輩出吋如根」であるということは 、現荘伝わっている阿弥陀経には…
山 釆の名号を聞き 聞きおわりて思惟し」というのだし チ
ぬけているが 中国の湖北管 褒陽の電興寺にある石碑に刻 ザ
、
をとなえるという文句の次に
「もっぱら名号を持して
、
… ペヲト語からの訳も「世一等無量舟如来の御名を聞聞いて まれた阿弥陀絡には 、一 日乃至七日の問
… いてからも念じて」となっている。宗祖は執持名号とはこ
、
…れ正しく念仏を修するなり。またいわく一心にかの仏の
心をこめて一心不乱に仏名を称することで
、
}名号を称念するを名づけて念仏となす」といっておられる 路界消滅す。すなわちこれ多普根橋徳因縁なり」
、
… 〈阿弥陀経釈〉
} 要するに
、同じ「執持」でも 、
「執念」でもこころを凝
とんでもないことになる「コケ
清盛の息子の平重盛は }
、
…
前の宗像神社に伝えられているという。そうした信仰的い
価
、
しては大変述方の中国にまで使者をやって 現にそれが筑 ~
、
そのようなありがたいお経を是非手に入れたいと 当時と }
はすなおにこれを認められており
、家相一
億
一虎とみて無中で矢を射る心で念仏する。この念仏のカがそっているが、そうした学問上のことはとに角として
、
ところで
一 のままに その人を極楽往生にまではこびゆくのである。
~
、
少し脳の弱い者が何かの拍子で思いつ
、
… らす中心点がまちがうと
} の一念」といって
のである。
へ
健をこそ 、尊重すぺきではなかろうか。そしてまた 、 その
とんでもない大事を引きおこすことがある。同じ
、
、
} めると
、
同じく「執持」するのなら 正しく
「簡単なことほどむずかしい」とよくいわれる。「踏切ん
て廊なめ
ような信仰のカがあってこそ 、 岩に矢が立つことにもなる ~
、
、
しかも効果の多いものを執持すべきであ
、
「念仏」は完全無欠のものといえよう。な
る
ザ 思いを凝らすなら 良いことに凝らさねばならぬ。仏道修
、
}行の場合でも同じで
あやまちのない
る。その点で
を
守,
q
A
V
、
自分のいのちはむろんのこと
。
、
った
何百人という
りを渡るときは 一時停車せよ 」 この簡単なことが守れない
ばっかりに
、
流感にかかって十日もねこんでしまう・
「ウガイをして手を洗う」この簡単なことをついおこた
大勢の人のいのちを危うくするのである 外出から帰
ら
ったばっかりに
、
、
、
この一番簡
と
かえって
人生のむずかしさがある
一見簡単にみえることほど
句 「簡単」が簡単でないところに
。
、
、
高等数
一に一をたすと「なぜ」こになる
一に一たすとことなるという
、
ふくざつなものがひそんでいるのである。
それというのも
向 ょうである
{
、
、
それでは
、
って
、
…
その裂には宗組が選択祭を密かれ
、
、
そうだからといって
、
そんなむず 円
多くの祖師迷のばく大な教説がかくされて
一
「仏法」はないのだが
たのをはじめ
いるのである。しかし
、
、
、
「もろこしわが朝の もろもろの智者 一
かしい装の意味を とや角いったのでは宗祖のいましめで (
ある一枚起時文の
、
祖意に反する ザ
逮の沙汰し申さるる観念の念仏」や「学聞をして念のこ…
こ
って
、
お念仏をと
…
そうしたことに一切かかわることな }
、
ろをさとりて申す念仏」になってしま
ことになる・ここは
、
く「一文不知の愚鈍の身」として すなおに
一
山
なえさえすればよろしいということにしておかなければな い
らないのである。
、
すなわち
「念仏をとえなる、
となぜ 、極楽往生が出来るのか」ど
、
うしてもそう思うひとのために 宗祖はこの章
、
第十図書早「六方恒沙の持仏余行を証識せずただ念仏を在
一般の人々の念仏信仰をすすめる }
理窟の上からはこれを信ずることはむ}
、
、
上下の立方に無数においでになる}
- 3
8-
ん そのうらには
、
~数学については何の知識もないのだが 人の話にきい た
} ころによると
}単な公式も
、
一 のかということを証明するには 大変むずかしい
山学が入用であるとのことである。幼稚園の子供でも知
その本当の意味を理解するには専門
、
東西南北
、
阿弥陀仏の本願力の不可思議力をほめたたえる一
と
、
同じように
ために
ずかしい。したがって
なことではあるが
「一心不乱に称名すれば往生出来るということは 、 簡単 一
、
職したまうの文」をお書きになってるいのである・その意
、
、
ソ
凶 いる簡単なことでも
、
「ロ l
味するところは
。
この簡単な出来ごとについて
ム の学者でも頭をなやますものである・ロ l ソクが燃えて段
内 々に へっ てゆく
。
ツ」 とお念仏をとなえさえすれば
ん クの科学」という一冊の本を曹いた科学者もいるほどで
白 ある
「ナムアミダ プ
・
{な悪人でも極楽園に往生することが出来る これ程簡単な
ん
ん
ど
、
阿弥 陀仏と同様
念仏のまことなること
、
、
他の所行は証明されないのであるから 疑うこ
、
一 みほとけたちも
} を証明し
うその証明をす
仏さまには
、
る。額の真中に
われわれ人間とちがって
色々の瑞相があ 一
、
…
自適ハびゃくごう〉という白い光りが蹄
、
らほっとい
の一つである。
普通の人間だと
って
、
、
またそ
顕の天辺が一段ともりあが
、
ザ
~
…
だ」などとい ~
l
「舌が長い」 というと余り いい意味で ん
「自分の鼻がなめられるとドロポ
、
これは普通の人間世界でのことで 、}
自分の額まで及ぶ一
はなく
、
、 仏さまは鼻どころではなく 、
といわれる・しかし
われるが
、
ここで問題になっている 証明のための「舌」も
、
いているし
、
日 となく念仏にはげみなさい」
、
宣誓
、
もう少しの疑う余地もないこ
ここでは証人の数が二人どころでなく
っている.そういった瑞相が三十二あるとのことである@…
、
山 と教えさとされているのである.前の号で「正副保人
証」の
{ ことを述べたが
。
… 無数にふえているのだから
一 と明らかである
、
ハンコを押したりするのではない。そんなこと
時には「偽証」などといって
、
、
~ 仏さまの「証明」の仕方はわれわれ 人 間のように
ん をしたり
~ をしても
、
これはウ
、
三、ボディー・ガlド一
の本道である・一
のこと
うれしい時も
、
、
やるせない時も
、
.
、
}人切り…
一人切りで黙
っ…
AWV
内。
で生きて行くことはつらいことである・悲しい時は一
むろん
三人いると思え。その一人 は親鷲 なり」とある
、「
法然上人の弟子、奈の閥復の親鷲聖人のことばに
一人いて悲しい時は二人いると思え.二人いて悲し
九い時は
…
おにうけとって安隠〈あんのん〉に生きてゆくのが念同
仏者
、
仏さまの舌につつまれて 信じがたい念仏の信仰を すな 一
、
い る者もいる。仏さまの旺明の仕方は 、もっと身近かで 、 い 仏さまの世界 宗教の世界では そういったせまい人聞の }
叩 つわりのない仕方である。御自分の舌(した〉を出して「 はからいを越えて 、 三千世界をおおうような 、 広く大きい一
、
万
一人でも念仏往生の 出来
こ とのあかしとされるのである。しかも
、
その舌は再びもとのロの中におさま
、
、
日 三千世界」をおおいつくして 自分のいわれたことばのい
【 つわりでない
ったなら
{一、そのお言葉どおりにならず
、
、
腐ってしまうとなれば
ついにはただれ腐ってしまうというのである。出し
~ ぬものがあ
… らず
一 た舌がもとにもどらず
、
ザ カツに出せるものではない。しかも一人二人でなしに 無
、
}数の仏さまがすることなのだから 大地を金鎚で打つほど
にたしかなことこの上なしである。
、
~ ていることは耐えられぬつらさである・そうした誰
時か
、
、
、
、
、
ただ
これほどにカ強
人の心は明るくなる・それが
、
この現実の 裳婆世界を生きるのはなみなみのことでは
、
念仏というものは
、
、
死
六方無数の持仏が念仏行者の毎日の生活をまも
一
って下さることが説かれているのである。 いまその内容を
、
、
、
この人つね
が放に護念経と名づく。護念経というこころは またもろ
、
、
、
、
」
:::
一
、勢
かの国に往生ぜんと顕
一切の災陣 自然に消散す。
、
かの仏はすなわち無数の化仏 、無数の化慨管
:::」
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一
~
一
もしは夜 常に行者をは ~
、
百霊千霊に行者を囲遁(いねう)して 行住坐臥
自に見えずとも
、
、
この世に
、
安心して念仏生活をつづけることが出来 命終 {
たえ〉にしっかりと守っていて下さるのだから
、
瞬時にして極楽往生がかなうのである。〈文学博士
一)
ある聞は
れば
、
無数の諸仏諦菩躍が十重二十重(とえはい
山
病気にもかかることがないというのである。念仏者には
、一
、不
一
るから 、悪一神や鬼も手を出すことが出来
ず 慮の災害や
とあって 、念仏にはげむものには鯖仏が護衛してくだ一
さ
なれたまわず.
一切の時処を間わず もしは昼
等と
至理口躍をつかわして行者を護念す。また前の二十五の菩
品臨
ずれば
「:::
もし阿弥陀を称礼念じて
難あることなく
もろの悪鬼神をγ
し
船ず内
得て
しめ
。また横病横死、横に厄一
、
に六方恒河沙等の仏 共に来りて穫念したまうことを得る )
一心に専ら阿弥陀を念じて 往生を崩ずれば
、
…
「・
もし男子女人あ
七り
日て
七夜及び一生を
尽して
~自分のかたわらにいる。影のように身にまといついていて 少しくみると
たのもし・
、
みほとげであったならば
一 くれるものがあれば
、
~ の人間でなく
く
いるのである。
、
念仏の行者とても いま 即刻に往生するのではない。
、
、
仏の来迎にあずかつてかの国に往生するまで店
は、はり肉
、
が白河の この世の生活を送らねばならない。たべて 働いて、
、
一ねむる 、現実生活の幾年かを経なければならない。ところ
んが
、
折角の「念仏生活」はさまたげら
、
中絶してしまう。したがって
、
こしでも油 断 すると
、
んない。名利に鶴 わ れ 物欲にまどわされ 肉欲に耽溺して
~す
…れ
いんだ後に極楽に往生出来るというだけでなく、 生きている
、
、
一うちでも 、念仏さえしていれば 、確固たる信仰生活を堅持
品 して 無事息災にくらすことが出来なければ 安心して念
{仏に専心することも出来ぬというわけである。そ
こで 第
、
、念仏の行者を蟻念したまうの文」
「六方の蹄仏
九 十五意に
一
内 とあって
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御法語の莱り
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悶仰の御法
語」 とし て毎月執寝中のなかから著
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、
、
、
、
、
、
、
一 上人のご回常《われ聖教を見ざる日なし)
二 浄土宗の怠設《われ浄土宗をたつる心 は v
一、
-遣
一を求む《かくの如 くし て作臼もいたづら に採れね》
閥 決定の俗《我は応酬
問予もきぬ法然mw
也》
五 労陀名号の功徳円相
同
様光とは〉
六 信仰のすがた(つみは十悪五逆のものも〉
七 念仏を勧める《不経大士の杖木瓦石を〉
八 あとがき
然 上 人鎖仰
同似啓東京八二一八七
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第 二十八 巻
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