Comments
Description
Transcript
長崎通信 No.85 - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE Title 長崎通信 No.85 Author(s) Citation 長崎通信 No.85; 1986 Issue Date 1986-11-13 URL http://hdl.handle.net/10069/36432 Right © 長崎の証言の会 This document is downloaded at: 2017-03-28T12:12:24Z http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp 9月加日反戦・平和の原爆マン ︵池田杉男作︶が出版された。 ガ﹁ノーモア・ろうあ被爆者﹂ 9月n日ギリシャで開かれた国 た・ ■証言の会維持カンパ︵8月1m ︹富山︺石橋千鶴子︵一千円︶ 如月弱日.﹁SDIと核廃絶﹂を テーマとした国際平和年シンポ 月末現在・敬称略︶ ジウムが開催された。 ●国際平和年市民の集いの映画 ︹東京︺松尾繁︵一千円︶金葉エ 際平和セミナーに岡村進さん、 ■事務局日誌︵8月IⅥ月︶ 9月5日ピースボート反核講座 9月型日国際平和年シンポジウ ム側打ち合わせ会 加月劉日﹁ながさきへの旅﹂五 千冊印刷注文 扣月溺日●国際平和年シンポジウ イ子︵五千円︶永坂昭︵一千円︶ 鎌田春生︵三千円︶田中憲助︵五 ースボート︵五千円︶︹神奈川︺ 千円︶坂本五十鈴子二千円︶ピ 会が開かれた。 の﹁音楽と講演会﹂が開かれ、 如月沁日国際平和年市民の集い 中野清さんが参加した。 が富山県のろう学校の生徒に手 ●運営委員会 資料館を見学した。 恭子︵五千円︶松本セツ子︵三千 長崎︺小佐々八郎︵三千円︶本馬 ︹兵庫︺松岡ちま子︵二千円︶︹ の旅﹂の購入申し込みが続いた。 言﹂贈呈。また、﹁ながさきへ 千円︶望月寿美子︵帥円切手釦枚︶ 、 扣 月 長 野 県 立 高 校 氾 校 へ ﹁ 証 細田喜輔︵三千円︶久米武郎︵五 9月Ⅳ日長崎市のろうあ被爆者 如月羽日●来日中のチェコ議員団 早乙女勝元氏が講演した。 ム側﹁SDIと核兵器廃絶﹂ 話で被爆体験を語った。 発した。 ●北松・世知原町で初めて原爆 エ︵二万円︶放影研浦川陽子他︵ 円︶村山ふさえ︵二千円︶田吉チ 一行が平和公園で献花し、原爆 ●沖縄読谷村の我古トメさんら ●ピースフェローシップ部︵誓 写真展が開かれた。 9月お日●米国での反核行脚に谷 口稜嘩さんと下平作江さんが出 七人が長崎平和の母子像を作る ので、ご迷惑をおかけしたのがあ いう、事務局担当の岩永さんから の電話がありました。午後からで ると思います。お詫びします﹂と くて聞きとれないのがありました p甲pい○のp⑮、申pい⑨⑮pい⑨甲りゆ⑪①pゆゅ④pい⑨①ゆゆ○①pい⑨⑭りい⑪中pゆゅ甲pゆゆ⑭PゆゅPりゆoppゆゆやゆ ︵合計一二万五千円︶ 一万三千円︶川原竹一︵二千円︶ ﹁留守番電話のテープの調子が悪 ■編集後記 会と交流し、市長を表敬訪問し , いの火建設委員会︶が開かれた。 如月釦日長崎市は市長名で米ソ た。 9月記日県立ロ加高校の郷土研 回米ソ首脳会議の早期開催を求 首脳と国連事務総長あてに第二 すが、今、事務局の日勤態勢がで の調査をまとめた。 ●軍縮問題資料九・十月号︵宇都 ■寄贈図書 す。ごくろ窪フさまでした。 きています。長野県沌校への証言 誌発送は大変な作業だったようで める要請書を送った。 訂回めの平和祈念式が行われた。 宮軍縮研究所︶●原爆忘れまじ︵ 如月鉦日長崎市立山里小学校で 広大原爆被災学術資料センター︶ 亀沢深雪︶●資料調査通信記号︵ 話しあって、証言の会の反核の道 長崎の証言の会も、今、転換期 に来ています。三・四面の記事で おわかりと思います。総会で十分 ●英国のJ・ロートブラット博 fIfIff別f0KJL喝ばり り、 、r rゆ ゆゆ ゆの の雫 雫の の一 一c c乍 乍少 少や や心 心や やm mo oc co oの の企 企の のや やゆ ゆ傘 傘の の⑩ ⑩傘 傘の のや やゆ ゆ小 小心 心◇ ◇今 今や や③ ③印 印の の命 命の のわ わぐ ぐの の印 印の の④ ④⑩ のや ⑩ゆ 士が被爆致死量を四○○ラドと 究会は同校生の戦争・防衛意識 如月、日国連軍 縮 フ ェ ロ ー シ ッ プ計画で来日した一行は、六日 ・七日長崎で被爆の実情を学習 した。 如月哩日被爆者手帳友の会は、 発表した。︵これまでは六○○ ’七○○ラドといわれている︶ 被爆二・三対策を国会・政府に 陳情するために代表が上京した。 ■核実験抗議座り込み ユ 弱号の発行がおくれましたこと 、V女同謎髭抽詑 迩二全、癖叱釧鑑に命をうばい合うのだ の 達男n儲蕊鵠蝿 私全私達は一つ一つ縫いつづけるのだ rl女n筵確降誰鰭辮はいけない ル全、涯嘩娃睡雲してはいけない 男同誇来温準非ははずむ笑い声がある 女平和への願いは魂の叫び 全尊い命がある 全今私達は誓う永遠の平和を 一一一一=.廷■一 ロ'■一二ドーーーーーー=‐‐ をさぐりましょう。 をお詫びします。︵溌崎均︶ 昭和二十年八月九日十一時二分 暑い夏の空に炸裂した 一個の原爆が 地上のすべての命をうばい去った 長崎の町は焼け野が原となり 川には水を求める人々 道には死体がちらばり 長崎は地獄の街と化してしまった 一瞬にして ’ ●また、同博士が国連軍縮週間 ● 二三九回 二四○回 二四一回 − 如月別日●アイルランドの駐日大 9月M日アメリカ 加月5日アメリカ 加月沁日アメリカ ● 1J男同錘醗叩准諏載蝿緬“いという ● -1986年9月13日ギリシヤ・ハニアの教会で− 一 ‐一一一一一一 − − − 11.13 ●発行長崎の証言の会●事務局〒852長崎市宝栄町18-4念0958(62)8725 1986 した。 I﹂ 世界草の根平和セミナー ・行事の一環として長崎市で、核 崎 I 一 一 _ , --.-------一一一 ‐ 膣 − 一 人 全 女 全 男 全 − 琉球大学付属中学校 (11月3日長崎市平和公園にて) シュプレヒコール nO. 8 = ● した。 1 と人間と平和﹂という題で講演 −−■学年−−−−=I 使が来崎し、原爆資料館を見学 ’ ( 1 0 ) 長崎通信Nd85 長崎通信Nn85 ( 1 ) 加月鯉日国連軍縮週間が始まつ ’ ギリシャ平和の旅 一九八六年九月、ギリシャのク 着いたことを各社報じていた。一 へ参加する人たちがギリシャへ うで、最終日は十万人ぐらいだと たちが参加した夜は少ない日で、 三万人ぐらいの参加者があったそ 長崎原普協事務局長岡村 レタ島でひらかれたIPB︵国際 つの社は、長崎をとりあげ、灯火 時に基地による公害も数多く発生 している。﹂といった具合だった。 に関連した問題の中で核実験基地 次の日は分科会になり、私たち も発言できるようになった。基地 の問題も話題にのぼった。 私は座り込みを写した写真帳を 持っていたのでみんなに回覧して 抗議の実状を訴えた。 分科会のまとめの報告会のとき、 目的の一つであった平和団体と ナー﹂は、十二日、ハニァの地区 のセンター教会で開催された。テ クレタ島での﹁世界草の根セミ のは核兵器の存在の問題であり、 の平和活動家が一番心配している いう提案がだされて承認された。 IPBの総会での行動目標のなか の交流は、十日の夜に平和祭の反 いうもので、基地の問題だった。 ーマは﹁外国軍の駐留と平和﹂と い︾フO 台の現況を報じていた。 ていた。夜を中心にした催しで、 核署名に参加した。十年目という その会は港に接した広場で開かれ の平和団体の共催で今年が十年目 週間ぐらい続くという。いくつか 日本でいうお宮日の夜店と文化祭 をいっしょにしたようなもので一 よる同時通訳をしてくれたのでい しばらくして日本の原水協の報 告があり、そのころから日本語に 告していた。 が基地についての問題点などを報 各国の学者や軍事専門家や活動家 た。﹁人は何のために生きるのか﹂ この旅で一番印象に残ったのは ギリシャの人たちの生き方であっ いうことだった。 どうしたら廃絶へ追い込めるかと このセミナーで感じた事は世界 に世界中で核実験に抗議しようと 共闘の中野氏と原普協の私が建設 ということだったが、だだっ広い くらか内容を知ることができた。 さんは同じく招待されていた日本 のが作られて、そこではフォーク、 広場にコンサート会場のようなも ジャズ、映画、演劇、民族音楽、 る国にとってのメリットは何もな っている。そして基地をおいてい のだけでなく経済的な支配をも行 の基地の存在は、単に戦略的なも かいつまんで言うと、﹁外国軍 光景がどこでも見られた。 子を出して数人で語り合っている ・広島の役割りの重要さを感じた。 展覧会、パネル展、政治討論会、 い。かえって戦争へまきこまれる ての会議参加になった。 そして、私たちは被団協の﹁ギリ シャ平和の旅﹂のツアーに便乗し 被団協を代表しての出席だった。 成田出発は九月七日、アエロフ 一つに反核署名コーナーが設けら 夜店、食堂、植木屋、焼物店、各 国の特産品売場などがあり、その 危険にさらされているだけだ。同 IPB副会長ペリステキラス氏ら との関係については少し時間をか 成。ぼくは広瀬先生の教え子だが、 ﹁新しい方向を考えることに賛 ﹁季刊雑誌のテンポと証言の会 たらよいと思う。そうなればぼく できない。一番基本的な課題に集 は手伝えなくて申しわけない。私 もいまの証言誌の方向に対してや の核状況では自閉ないし自壊に追 い.。それ自体に終始すれば、今日 いう状況をかえる必要がある。だ が、個々の日常の生活と要求を追 求すればよい、というものではな ﹁入会して一年余。思うほどに 中したい。﹂︵末永︶ い視点から世界を見わたすという はわかるが、次世代や広い市民に 継承を訴えるのには、それではし かれない。﹂︵鎌田︶ その緊張関係の中でしか展望は開 を点検、再創造していくかであり、 議論が多い。そのことのもつ意味 はり違和感がある。論者が一段高 の活動との間に無理がでてきて、|| スケ︾ンユールの追跡にせい一杯と一 らももっと参加できる。﹂︵常石︶ うらやましい生き方だと思った。 ゆったりとして、家の前庭に椅 といった募し方が感じられた。 が迎えてくれた。そこで歓迎の言 れていた。 九月八日、アテネ着。空港には 葉を受け被団協の人たちといっし 人出は夜の二時ごろまで続き、私 翌日の新聞には、日本から会議 ょに記者会見らしいものをした。 証言運動の課題と展望 検討したい。具体的には年刊にも どし、じっくりと時間をかけて深 長崎の証言の会運営委員会 l今年度総会予備討議報告I 加月妬日、平和年シンポジウム ﹁SDIと核廃絶﹂の終了後、証 けて慎重に相互の条件、希望を出 みのある証言を発掘したい。広島 まず、8月”日に亡くなられた 言の会運営委員会を開いた。 運営委員の戸泉俊子さんをしのび ょうがないと思う。大状況中心に い込まれざるをえない。問題はこ の危機と対決しつつ、いかに自己 ﹁長崎の場合、証言活動以外の でなく、自分自身の日常からの出 しあい調整していきたい。﹂︵鎌田︶ 分野に相当幅広くコミットしてき た。むしろ証言の会が先導的に動 嶬歸岬咋唖岬碓函雫舜恥缶搾訓︾| ﹃旅﹄の売れゆきが順調で増刷発注 に協議することになった。 子にならどう伝えるかに、私自身 いと意味がない。﹂︵内村︶ 苦慮している。方向転換には賛成 だが、量のみでなく質的転換がな 発であってほしい。端的に、わが 時間をかけることが必要。﹂︵浜崎︶ 刊のぺlスならかなりやれよう。 いた場合も多く、忙しくなりすぎ 日程をきめた後、今後の証言の会 のあり方などで討議を行った。 ﹁十八年の歴史を刻んできたこ た。ここらで我々の中心的仕事は ﹁帥年代になって世界的な反核 したこと、そして﹃証言﹄加号編 の動きが強まる中で季刊体制を必 とは貴重だ。証言の会中心にいろ いろ企画してきたことも、それが 何かをもう一度問い直したい。年 死で維持してきた。﹃旅﹄の好評 過渡的に必要とされていたからだ。 本年度総会、n月運営委員会の に支えられ、事務局も専従化するな 崎の多彩な運動があるといっても いいすぎではないと思う。すぐに 島との関連で慎重にやりたい。﹂ ︵広瀬︶ んなで作りあげていく方向が出せ ある。もう少しゆとりをもってみ なか横から口を出せない雰囲気が ﹁編集方針などについてもなか ような本でありたい。﹂︵広瀬︶ ﹃池田さんの要求が入れられる い。非力を感じる。﹂︵池田︶ 後本格的に参加してきた。しかし まだまだ会のすべてを理解できな ﹁六十七歳で定年になり、その ど前進してきたが、肝心の編集体 制強化ができず、心身ともに限界 今後の方向が出せるかどうか。広 その歴史の蓄積の上に、今日の長 にきている。一方、平和推進協が 軌道にのり、まだ市内外に多様な 集作業の状況などが報告された。 冥福を祈った。ついで、長野県内 の高校沌校に﹃証言﹄バックナン バーをセットで贈呈したこと、 それぞれ体力の限界があり無理は ● ャ回りモスクワ経由だった。 あらためて、被爆国日本や長崎 ロート・ソ連航空により、シベリ 委員会へ届いた招待状に応じたも のだった。長崎からは、マスコミ 委員会を代表して、被災協の横山 これは﹁誓いの火﹂灯火台建設 の根平和セミナー﹂に参加した。 進 平和ビューロー︶主催の﹁世界草 ギリシャ・アクロポ リス神殿で−b 反核平和運動がひろがった。ここ らで長崎の証言運動のあり方を再 − 一 一 一 一 ∼ = 三 一 一 一 一 マ ー 一 二 一 ● − 一 ’ _ 一 一 ● ’ 一 一 一 - 一 一 ● ( 2 ) 長崎通信Nn85 長崎通信恥85 (31 I 絶望的となったが、長崎非核市民 の会、長崎の母子像建立運動など 他方、原水禁運動の再分裂も進 行、今年に至って統一世界大会は 長になり、鎌田その他も理事や部 証言の会の歩みは次の通りである。 多様な市民運動も始まっている。 会役員、事務局でこれを支えた。 ︿第一段階﹀一九六八年∼一九 七六年までの9年間、反核市民運 このような証言運動の歩みを、 二証言運動の歩みから の被爆者との連撹を強めてきた。 周知のように﹁長崎の証言﹂は 動の中核的役割をになう。当初は ﹁証言刊行委員会﹂としてスター トし、七○年より﹁証言の会﹂と なり、七十三年より﹁原爆と科学 と市民を始めとする全国的な証言 運動組織であり、﹃証言﹄と﹃長 証言運動のこれまでと今後 |妬年度総会を前に ①年刊﹁長崎の証言﹂の加年。 次の三つの時期を経過してきた。 ・教育・文化を考える集い﹂︵科 証言の会の役割は、半官半民の平 でも、次のようにのべた。 証言の会は長崎・広島の被爆者 崎通信﹄によって結ばれている。 他方、長崎の市民運動の中での 組織としての本来の独自的課題に ﹁東京その他に新しい協力者を ︿第一一段階﹀一九七七年∼一九 集中していくことが求められる。 和推進協の発足によって一定の調 整が必要となり、今後は証言運動 八二年までの六年間、NGO国際 シンポジウムを契機に各市民団体 災協、原普協など他の市民団体と 長崎の市民運動の面から見れば、 叩月妬日の証言の会運営委員会 ②季刊﹁長崎の証言﹂の3年。 学者会議、証言の会、長崎原爆被 災協、被爆教師の会などが参加︶ を開催、これは七十七年の﹁NG lその再編と新展開のためにl で、私は今後の証言運動について ③季刊﹁ヒロシマ・ナガサキの O被爆問題国際シンポジウム長崎 鎌田定夫 別掲の報告のような発言をした。 一九六八年春から始まった証言 準備委員会﹂へと発展していく。 三証言の会の現状と今後 得て運動や編集の枠の拡大もはか 運動は、この肥年半、長崎と日本、 そして﹃証言 ﹄ 加 号 の 編 集 後 記 られた。しかし肝腎の長崎側の編 および世界の反核証言運動の中で 辰一郎会長が述べているよ陰フに、 の幹部や研究者を含めた﹁長崎原 証言﹂の5年11現在。 長崎平和推進協会の誕生と共に、 集部の若返りと強化は果たせず、 ﹁今こそ二十一世紀への預言を﹂ ﹁そこで私の提案は再び3年前 サークルとして出発しながら、被 爆の実相を﹁証言﹂を通して究明 証言の会は、被爆地長崎の地域 一員としてこれに参加した。 も生まれ、証言の会は市民団体の 進み、原水協・原水禁・市民団体 の結集する原水禁世界大会準備会 爆問題研究普及協議会﹂が結成さ れ、他方では原水禁運動の統一が 今後とも持続することになる。 加、そして平和推進協への協力を 連係共同しての諸行事︵須磨子忌 長崎での市民運動としては、被 だ。こうして、私たちはいま新し という使命感を自覚している。 の構想l年刊証言集、季刊通信 ・普及し、あわせて核廃絶と被爆 市民運動の再編も進み、証言の会 の中心メンバーの高齢化もすすん い転機に立たされている。﹂ 発行へ返るのであるが、単に労力 者救援の運動をすすめてきた。 六月十三日、 教 育 会 館 で 池 田 さ んのお話をうかがい、午後、江平 中学校と交流会 を 持 ち ま し た 。 そ いますか。 なかまと支えあって生きていく という自信、なかまと本当につな がって初めて池田さんのようにた と続けました。 る事は、ここにいるクラスのみん できない﹂そして﹁ただ一つでき なに生活を言っていくこと・⋮⋮・﹂ してその夜、一 連 の ナ ガ サ キ 修 学 旅行のとりくみ の ま と め と し て ﹁ 生活を語る﹂事をしました。そこ 男子ではK君がみんなの前で初 めて﹁生活﹂を語りました。小学 校の時、父と母がお金のことでけ 望をもったようです。 かを語りあいました。 の生活、苦しさつらさから楽しい 事だけに逃げているのか、あるい はその中でどうがんばっているの まったこと、父のいない生活のし こうして、夜八時半ごろからの ができました。 くしていきたい事など、言葉はト ットッとですが、今までより一段 も二段もたくましい話を聞くこと 事を十分うけとめきれていない弱 さと、逆になかまの中で自分を強 んどさと寂しさ、また、被差別部 落に生まれた自分が今もまだその んかになり、父が突然家を出てし 今までクラス で 全 く ﹁ 生 活 ﹂ を 出した事のない S さ ん が 、 父 の 仕 母のパート収入だけに頼っている 事︵ダンプ運転︶がうまくいかず、 事、兄も働かずに遊んでぱかりで、 本人も修学旅行 の た め に 下 着 な ど 買うのにお金がかかり、一時はや める話をしてい た が 、 母 が 家 の 事 は心配せずに行けと言ってくれ、 やっと今ここに来れた事などを、 しかし、証言の会としては極力 その独自の証言活動︵証言発掘と 記録・創作活動、語りべ活動︶へ 集中し、それにふさわしい活動ス タイルとテンポを作りだしたい。 LId■81︲6■6日■■IJI’’’’0J11.72 同じく長崎新聞n月2日付には、 シュルッ米国務長官の演説で﹁明 確な結論を見ないまま終わったが、 核の〃廃絶〃という言葉が交わさ ビク会談後、二、三回同じ趣旨の 発言をしたことも報じている。 ﹁ヤスにおつき合い?﹂という見 出しで、〃失言“だが、レイキャ 崎新聞に報道された。︵n月1日︶ 統領が、レィキャビグあ米ソ首脳 会談では﹁核兵器の全廃で米ソが 合意した﹂と発言したことが、長 国連軍縮週間中にレーガン米大 核兵器廃絶の〃失言〃 ︲’111.804●fIl0rIlIII■■q■■■■■■■■0Ⅱ四足5︲’101口091.1.F︲I1lf1IllI4I︲111 い生き方ができることを学びまし た。そして大阪で、自分たちの足 もとを見すえていこうとしていま す。反戦・反核を毎日言いつづけ ているのではありませんが、自分 たちの日常に直面している事︵学 力の問題、障害をもつなかまのこ と、被差別部落のなかまの問題な ど︶に真剣にとりくんでいます。 それが本当の意味で、長崎の池田 さんをはじめ被爆された方がたと れたことは、驚くべき進展だ﹂と 指摘したことを報じている。 同じ失言でもこれは知的水準の 高い、人類に夢を持たせる内容で こんな姿を見ると、長崎での﹁生 英語を六時すぎまで教えています。 のはまさに世論の力であろう。 ある。実現の可能性はまだ極めて 薄いとはいうものの、米ソの首脳 が核廃絶を口にするようになった での池田さんの話の感想を語りあ っ.た子どもたちを思い出します。 池田さんもどうかお身体を大切 に、そして一人でも多くの修学旅 行生に生きざまをぶつけていただ いできる日を楽しみに。︵6月”且 ない。その必要性はいっそう強く なっているといえる。︵濃崎均︶ さを感じるが、私たちはさらに鉦 言運動を進め、失言でない核廃絶 の基礎を培っていかなければなら SDIを進めながら核兵器廃絶 を話題にする矛盾にはいらだたし 活を語る﹂を思い出します。そこ いS君やK君を中心に、三、四人 ずつの子が、一生けんめい理科や 連日、放課後、班学習にとりくん でいます。特にクラスで学力の低 今、七月の期末試験にむけて、 連帯する事だと思います。 や不戦の集いなど︶と研究会、学 習会等の開催、原水禁世界大会参 の問題ではなく 、 証 言 運 動 の あ り ︿第三段階﹀一九八三年∼現在 までの四年間。八三年二月に﹁長 そこで、長崎の証言運動の再検 方を含めて再検討してほしい。﹂ そのために、単なる地域サーク ルの枠をこえ、日本と世界の各地 討・新展開のた め に 、 以 下 、 若 干 大阪・松原三中教諭西村 健 になる。私、お金の事はどうにも f くましい生き方ができるという展 池田さん、お元気でいらっしゃ l 崎平和推進協会﹂が市長を会長に 発足、証言の会の秋月会長が理事 ● きたいと思います。ではまたお会 1 の補足をしてみたい。 ● で続きました・どの子も長崎に来 て、お話を聞いて、自分となかま がつながり、連帯によってより強 ● ﹁生活を語る﹂は、十二時ごろま ’ 一定の役割を果たしてきた。そし て、﹃長崎通信﹄副号巻頭で秋月 I ● に共鳴者と同志を得、とくに外国 人被爆者、韓国やアメリカその他 ウ で、池田さんのお話と、自分の今 !→ リ 語りべ、池田清一さんへの手紙 1 泣きながら話し・てくれ害した。 ﹁でも、家にかえったら、またいや Al 一‐-,....:..二二一・一乱:::唱..::可I…袖F=L,晶鋸奎丞。._。.・u叫屯・‐..。._..砧.。,…畢一壬 1 4 ) 長崎通信恥85 長崎通信恥85 ( 5 )