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徐志 詩文の比喩性

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徐志 詩文の比喩性
1
徐志 の詩歌の比喩
比喩の種 について
はじめに
(2)
加
とも
文
阿
幸
大使に
授やギリシャの
べた。また
(3)
作人は 散文方面
麿議柊猟垓覆豢麿議鮒;椎裡中麿議
である 。更に、北京大學の
も
詩議撹蛍曳壓塹猟裏謹
もなった親友の
とさえ賞賛し
志摩的成就也不小...可以與冰心女士歸在一起。他的文章流麗
輕脆…單從文體變遷上講也是很大的一個貢獻
(4)
特色
ほど殘しているが、詩
たほどである。
徐志 は生涯において散文を一四〇
特色
詩文の比喩性
2
徐志 の散文の比喩
歌の二九〇首に比べると 數は少ないものの、その分量たるや
徐志
3
結論
大である。これらを分 すると、およそ、①濃艷な 寫のもの、
な文章のもの、③政治談論風のものの三つになろうかと
巴黎》(愛欲のパリ)
鱗爪 (パリの斷片 記憶)、《曼殊斐兒》(マンスフィール
不開》(限りなく濃艷)、《肉
らびやかに輝やいている。②について、《濟
夜鶯歌》(キー
などは、讀めば實に艷麗な語彙や比喩で満ちており、文章はき
ド)、
《濃得
巴黎
思う。③の政治談論風散文を除いて言うならば、①について、
②秀
4
.
.
.
以
と語ったほど
5
1 はじめに
議柊猟 厘壼祥範葎曳麿議鮒珊挫
任した楊振聲も、 崛豢麿
べたことがあり、北京大學、武昌大
志
されるほど多くの人に稱贊された。例え
は浪漫派詩人として名を馳せたが、同時に、散文は詩
と
徐志
怒勸瀧
よりも優れていると
(1)
、更以散文
ば、アメリカで作家として名をなした林語堂は嘗て
詩
椎
學などの大學で文學部長や總長を
,
90
中國詩文論叢
第二十九集
知
の高校
ゆえに、本論文では、徐志
の詩文中の比喩
のが彼の文章の特 であろう。
な個
を幾つ
し、その比喩性と文章の綾どりの
2 比喩の種 について
性について考察してみたいと思う。
か取り上げ、その比喩を分
關
》(ロマン・ロ
幻想》
話》(フィレンツッェ山中閑話)、《我
話》は筆
中國の比喩樣式
ツのナインチンゲールに寄せるオード)、
《羅曼・羅
山居
山居
ラン)、
《翡冷
濱
濱の幻想) などは、實に感性豐かで、そこでは獨自の
康橋》(私の知っているケンブリッジ)、《北戴河
(北戴河
康橋》、《翡冷
知の り、比喩は詩文創作に缺かせない手法である。古く
2―1
新な言 使いで織り す唯美 な世界が繰り廣げられている。
なかでも《我 知
時代、國文 科書に必ず載るほどの優れた散文であった。
から『詩經』の「比」「興」が詩歌創作時の手法として廣く知
に見事であり、彼の散文が「詩
求の
の
怒勸瀧
果の一つが比喩の多用にあることを
な言
られている。故に比喩を論ずる 作や論文も多く存在している。
さは
への執拗な
一つであろう。本稿では「詩 散文」と稱される彼の美
語
事實、上 した楊振聲によって表現された徐志
指摘し、これを明らかにしたい。
元の別の事柄を語っているの
には單純なものであ
(5 )
には、二つの
分と二つの條
囂修辭學》(『 語修辭學 』) の中の比喩論
は基本
古今東西その數は夜空に輝く星のごとくあると言っても 言で
《
はあるまい。しかし、比喩の
氏
分とは、① こうとす
似點があること、である。 常、本體は比較
抽象
で分かり易く、聞き手には熟知しているものとする。
「直喩」は
知の
り、譬えようとする事物をはっきりと言
一般に比喩と言えば、「直喩」「隱喩」「換喩」に分けられる。
に
で、奧
なること、②兩
る對象 (本體) と②喩えに用いられる事物 (喩體) である。二
なる
得のいくような
似點があるのだと
深く、聞き手には馴染みのないものであるが、喩體は比較
く
がら、いつの
に妙に
*
體
の
氣付かせるのである。このような比喩が文中に多用されている
實はその兩
ではないか (いわゆる 怒勸瀧 式) と思わせ、よく吟味すると、
にか
で流れる水の如き散文」であり、その特
べている。二つの
(三八二頁) によれば、比喩の
る。王希
#
つの條件とは、①本體と喩體は本質が
件が必 となると
'
き比喩性に富むことではないかと思うのである。なぜならば、
議柊猟 、つまり「手綱なしで馬を走らせるような、自由自在
"
徐志 の文章を讀んでいると、一つの喩えで事柄を語っていな
)
&
!
!
の一つは、珠玉の如
"
$
$
%
(
散文」とされる理由の
彼の散文が 價される理由は、驅使される語彙の豐富さなど
樣々に げられるが、その中でも多樣に用いられる比喩の巧み
!
91
「迂喩」:迂回、
回りの方法で比喩する。
ち、本體を否
定するか、或いは喩體を否定することで比喩をする。
な比喩語は、「まるで」「~のように」「あたか
に表す。典型
べることを言う。幾つか
「曲喩」:一つや幾つかの曲がり角を迂回し、
えることを言う。
喩」:一氣に幾つかの比喩を
まわしに喩
も」などである。「隱喩」は比喩語を使わないし、一見比喩と
似が生
しても見なされないが、しかし喩える語 (喩體) と喩えられる
なる屬性なものでも、ある一定の
「
の喩體で一つの本體を喩える。または、一つの喩體の なる面
の形式」や「省略マーク」を使うことで
る。故に、「竝列列
を以って、一つの本體を喩えることもある。
ち「等價關係」が生じ、同じ意味や同じ事柄に見たて
隱喩を現わすこともできる。「換喩」には喩えられる語である
の
、標識、部
本體が現れない。喩體が直接本體の比喩に取って代わる。人や
することができる。常用されるのは特
分、 體などである。
を指
喩」:縱式で、
容が徐々に深まり、
ち、本體と喩體
により、比喩の項目を下
大辭典』(七三五~七六三頁 )
(7 )
なっていく形
の多種多樣な相似點を同時に竝べ利用する。
「
ちなみに、『中國文學言語
の比喩の項目では、 容と形式の變
)、隱喩 ( 暗
)、換喩 ( 借
) の三つを
、
げて
し、その數は七十項目余りもある。上位項目はやはり、
直喩 ( 明
位分
2―2
、聯
、
、曲
究は一般
日本の比喩樣式
究
日本の修辭學
日本の比喩
、
、物 、詳
、
には文體論を中心とするものが多
、同位
%
%
%
%
%
%
%
用語の相
%
いるが、下位項目では、例えば のようなものがある。補
) (
%
は嘗て「聞一多における動詞
%
%
、引 .
.
.
.
.
などなどである。
、
% %
(6)
$
"
、等 、對 、反 、反客爲 式比 、回 、互 、交 、
&
%
なお、「換喩」について、筆
すれ
較
% %
を中心とした比喩性 」において、日中の學
)
"
#
!
% % %
摘したことがあるので、參考していただきたい。
語修辭學』に從って細かく分
にする比喩。この方式には二種
詩文の比喩性(加
%
さらに比喩の樣式を『
「倒喩」:本體と喩體を
ば、以下の りである。
+喩體 (本體が喩體の修 語になる)
*
'
% % %
換喩を
事物本來の名稱を用いず、相互關係の人や事物の名稱を借用す
じる、
の比喩をいう。
ある。「甲式倒喩」: 喩體+像+本體 。「乙式倒喩」: 本體+
-
喩」:比較の方式で喩える。
徐志
,
+
「反喩」:否定の語氣で比喩を作り上げる。
「
+
る。事物 の相關關係は多種多樣であるから、どの相關關係も
く
語 (本體) は
年修辭學の
究に
本
修辭學發凡
以
Rhe
t
or
i
c
( )
「日
( )
語修辭學』の中
究動向 」を參照された
なお、日本の修辭學の 究動向について、詳しくは加
第二十九集
していない。しかし
究
びその他の分野の
ことができる。故に 究
新し
緊密
( )
識のレトリック 』
などを
から言語表現と比較
な修辭學のなかから
究にさらに大きな可能性をもたらす
は傳統
賢一『
代では、少なくとも表面上は
なお、山梨隱喩樣式は の項目 (一五~四〇頁) がある。
辭 隱喩
(Copul
at
i
ve
) な隱
隱喩の典型例としてよく出される「AはBである」(例:君
辭
かれる。無論、正確には「あの男は
然襲い掛かった場合、よく「狼が襲い掛
の瞳は寶石だ)の形をしたのがこの
喩である。
辭 隱喩
に
部の兩方に
められる複合
な比喩
られる、その分だけ修辭 な效果の高い表現とされる。
寫ではとらえきれない生き生きとして
況の 眞性が感じ
かってきた」と隱喩
)
收されるのである。
確
みるのは二十世紀、集團 な勢いを
(
論が日の出の勢いだった 」と
究熱はほとんど同時期に日本に 譯され
統合 隱喩
部と
μ
.
信夫の『レトリック
比喩の修辭性は
を斷ち切った!
(一九四九『第二の性』を出版した直後のボーボワールにたいする非 )
。
表現である。例えば、「フランスのメス犬が
日本現代修辭學復興の と見なされる佐
+
)
べている。そしてそれらの
狼のように襲いかかった」であるが、この隱喩樣式の方が、正
目つきの惡い男が
%
い 識にかたちを與えるあやの中
の
するのだ」と。
性のある 直喩、隱喩、換喩、提喩、誇張法、列敍法
取り上げ論
(一一九頁)は「デカルト以
#
!
である。その中でも七十年代の西洋からのメタファー (隱喩)
レトリックの知は地下に潛ることになる。それが再び日の目を
*
-
感覺』もベルギーのGr
oup 『一般修辭學』(一九七〇年)(
のために書かれたもののように
)
,
から
$
%
すのは六十年代後
(
'
を參照されたし) の問題點提
思われる。
11
&
'
明に、山梨正明『比喩と理解 』
多くある比喩樣式の中、本論文は王希 『
本論文の依據する比喩樣式
い。
中國詩文論叢
し、今に至って衰
究が多いと言われる (原子
信夫
いようである。中でも文體論の 究は一九三五年からすでに
(8 )
究』「序章」)。その理由について、佐
關しては、ほとんど比喩に對する
(9)
『修辭學の史
の比喩樣式に從うが、補足
のように
べられている。「ヨーロッパの古典修辭學の理論を學ぶことで
『レトリック感覺 』(五八~六一頁) の中で、凡そ
"
の隱喩論を中心とする比喩樣式に依據し、論を めたいと思う。
新しい修辭や思考力を開拓することができ、 論、作文、作品
92
部と
スの一女性 が
この句は、
もみな文の
ことを象
況を見
に示しているこ
會からの解放を、
ち取った
部の修辭性を介して、 意識の高いフラン
會の抑壓から解放を
に示している。さらに言えば、女性の
ボーボーワールの『第二の性』の出版が象
隱喩
、
後の文
素からなるその表現自體が問
とを、妬みやいまいましさを持ちながらも めている
文
、
な
を詠む」のに、
の
にその詠う對
が問題になる。
素であるゆえ、「
志
寫のうち、
;/ 入
境了
是
部で十段あり、一段
いたものとして、《
白
手法で く女性のうたた寢の美しさについて、その含
の詩歌の特 と言われる「愛、自由、美」の
隱喩
斜欹
な美の表現
一縷碧螺
/星光下一
寫の隱喩性
隱喩による含
な比喩性を論じたいと思う。
3―1
女性のうたた寢
是睡 了
/香爐裏
を
詩》) という詩がある。
は、女性のうたた寢の
了》(《志
徐志
目
斜欹
白
と四句目
を取り上げて論じたいと思う。
星光下一
に小首を傾げる白
一縷碧螺
二句目では、彼女のうたた寢の が、まるで「星の下で斜め
香爐裏
四行ある。上記はその中の一段目の引用である。その中の二句
睡
"
事に表現している。
上の
な文
隱喩の場合は、言語
や、その表現が發せられる言語外
題にされた。しかし、文
り、そもそも詩歌というのは、直截
3 徐志 の詩歌の比喩 特色
知の
時の一大
象を有りのまま 寫するのでは、詩興を感じられない。含
美が特に詩歌
是
」であるかのようであり、そして、彼女が
景は、あたかも「香爐からのゆ
境了
像是
是睡
白
とまた、實際の場景提示をし
斜欹
況が詠い出され
などの比喩詞がなく、ただ第一句に
好像
が立ち昇る」ようであると詠う、これが典型
の世界へとまどろむ
段々と
し推敲するもの
の
&
な隱喩の手法である。なぜならば、詩行には
似乎
入
)
と「彼女は寢入っている」という實際の
であり、第三句に
「
は徐
#
$
らゆらと
であろう。
了
」という字を詩行には出さないように斟
の詩歌に豐富な比喩性があってしかるべきものである。故に、
、そ
!
"
+
詩人である、それも名を馳せるような詩人である徐志
!
%
"
!
ている。そして續いて第二句が上記 星光下一
)
#
(
%
#
$
&
'
%
彼の詩文の比喩性は に散文の方から探求したいと思うので、
詩文の比喩性(加
,
ここでは、二、三の例を げるだけに止まる。從って、
徐志
*
である。これが中國の詩歌には隱喩の手法が多用されるゆえん
93
中國詩文論叢
第二十九集
一
碧螺烟
とある。
.
つまり、 後の文 からして、二、四句目は一、三句目の「.
ている。その後が、 香爐里
寫であることが分かる。ゆえに、
比喩の修辭性は 部と
、
部の兩方ともに
の
な比
部は女
められる複合
星光下一
斜欹
部は「星の下にうたた寢のために首がう
喩表現になっているのだからである。つまり、
白
性を指す
明
.
のような
つむき加減に垂れているその樣子」である
斜めに生えている樣子を
傾斜
という部分である。さらに仔細に分析するならば、白 の
の對象は明示されていないが、その表現 體の比喩 な解釋は、
とは言わずに、 斜欹
(xi
e
q
) という。實は、これはうたた寢の
明されてい
問題の表現の か後の發話
つむきになっていることを擬人
態の女性が首をう
知の
擇制素因が自ずと 語と目
ように、動詞は限られた名詞としか組み合わせない。動詞の
な手法で喩えている。
るからである。または、王希 『中國語修辭學』の隱喩論での
明に合
不明 (鐘は打たなければ
水不可斗量 人不
明する役
した動詞を使った場合、その動詞に共
が出ていなくても、 白
なお、『比喩と理解』の隱喩論で言えば、白
の女性であることが分かるのである。
故に、彼女である
語や目
という「
が
語が
辭
ちそ
現れなくても、コンテクストの中で暗示され得るものである。
すべき
語を制限してしまうので、擬人
の形式、或いは省略マークを使うこともできる」(三八三頁)
話不
明しなければ分からない)
という。例えば、 鐘不敲不
ならない、話は
の句に
を擔う
後二句をただ竝列に列 しただけであるが、
可貌相 ( 水は容 で測るものではない、人は容貌で 斷してはな
からして、自ずと
らない) などは、
後ろの句は文
隱喩」を用いたため、可憐で 純な乙女が「小首を傾げる」
天にも上
のである。 歇後語 (シャレ言 ) もそうである。例えば、 斷
(ni
ao) という形容詞を動
が得られたのである。また、
のゆっくり、ゆらゆらと上がって
な紫
りは白
ならもっと 祕
である。
柔らかく表現している。そして、その搖れ
に使って、
を
を思わせるイメージの重
風
地 (絲の切れた凧
搖れながら上がっていく
天 下不
ちない、どちらに行けばよいか分からない) では、
風箏
上不
了線
詞として隱喩
いくさまをより一
螺旋
の色を普
の形は
く初 であるから、
!
氏は、「隱喩は、竝列列
況に依っている」と
「文
隱喩とは、「その喩え
この二句目と四句目が『比喩と理解』の隱喩論でいうところの
景」の補足
つつ旋回しながらのぼる
の
(
がれず、地にも
%
,
+
有る 態が「正に」「絲の切れた凧」「のように」、「どちらに行
める。
'
# &
けばよいか分からない」ことを比喩するのである。
隱喩」(『比喩と理解』一八頁) であると
# "
隱喩」であると思われる。文
'
*
さらに、二句目や四句目を單獨に修辭學の角度からみれば、
これは「統合
)
(
(
$
,
(
,
,
する詩行でもある。王希
!
94
95
は 碧螺烟 (螺旋 の
) と歌っている。このさわやかな語感が、幾つもの比喩
色で形容するところであるが、徐志
色の
徐志 は
切な量詞を
ぶことで、豐かな詩
やイメージを
すべき
語や
釀し出し、美意識を高めるのである。本來量詞は名詞であるが、
一把戀愛
經
經
は
することで、束で
玉似 明
輪
で
(戀愛) に集中し、その戀愛
に修
の中に、
になり、大變含 の深い比喩性を持たせるのである。
例えば、①の
經が一箇
という名詞 (動詞でもある) を隱喩
掴めるほど量の多い
一彎
というように量詞が
の度合いの深さが讀 に傳わる。②の
は本來ならば、 一輪明
は、三日
のような形
という動詞 (形容詞でもあ
に用いたため、その時の
かれる。しかし、 彎
は、
に
光の量詞を常識
は、 掠める
な
や 線
景が 彎
という字によっ
いや幽玄
を隱喩
に用いたため、その
一掠顏色飛上了樹
で
さであることが
ではなく、 箭
って來る。④の
という動詞を量詞に隱喩
生き生きと目の に
に用いたため、その光は、弓矢のような形や
條
さを って目に かんでくるのである。③の 放一箭光 では、
て、まが玉の灣曲しているさま、悠久なる古代の息
白い光を放っている。その樣な
をしていることが分かる。そして、その光は、まが玉のように
る) を隱喩
把
かばせることができる。つまりその言外の意までも含むこと
暗示されうるものであるゆえ、我々に一
そのイメージを思い
語や 語が現れていなくても、コンテクストの中でそれが
しかし、 う品詞を使うことで、その品詞と共
した雰
)
きを感じさせる
のうねりを
な
目
な美は、詞
圍氣を釀し出してくれているのではないだろうか。このような
纖細な語彙で織り す含
(
」な美を感じさせるものがあると
の唯美性―語彙の美を中心に― 」の中
ものであると思われる。
は「徐志
に
と一般
嘗て筆
で、徐志 の詩語に「詞曲
な美の表現
の量詞の比喩性について取り上げたいと思う。
な美を實現できたのではないだろうか。
論じたことがある。上記は正に「詞 な語彙」で比喩を用いた
がゆえに、含
は、徐志
量詞の隱喩 用法による含
詩歌の語彙の美しさに、中國語の特 の一つである「量詞」
の詩歌
明
3―2
の跡が見える。例えば、
玉似
にも、徐志 の作詩時の斟
の中の量詞である。
夜聽琴》)、 ②一彎
經 (《
①一把戀愛
'
(《无籾》)、③放一箭光 (《怨得》)、④一掠顏色飛上了樹(《
重負 (《哈代》)、
"
*
思想
&
》)、⑤一針新碧 (《山中》)、⑥一
山 (《愛 靈感》)、⑧一翳 妙 暈 (《愛 靈感》)、
漲歇 (《地中
き出す序
(
⑦一髮
憂愁 (《新催妝曲》)
)
$
って、うたた寢の美女を
#
,
思想 (《愛 靈感》)、⑩一縷浪
》)、⑪一針針
詩文の比喩性(加
!
%
+
%
⑨一瓣瓣
徐志
-
)
中國詩文論叢
第二十九集
語は動くもの、しかもとても素早く動くと
では、 針
想される。とこ
という量詞を隱喩
のうちに
に用いた
って腦裏に映し出されるので
色のコウライ鶯 (詩の題は「 鶯」) が一
ろがその動くものが色である。すると喩えられている對象であ
る本體の
一針新碧
掠めていくその映像が 動感を
⑤の
ある。
しく
もまた
吹いた頃の松の
一翳
妙
暈
では、 翳
という「曇りの
態」を意
味する形容詞を隱喩 に量詞として用いたため、 のかさがいっ
⑧の
そう翳って見えて、朧 のもやっとした雰圍氣が釀し出される。
⑨の 一瓣瓣 思想 で、量詞を 瓣 で隱喩 に用いたため、
る。
思想が
々と
いてくると思わせ
は、「昔、嫁をもらう
日
は《新催妝曲》という詩の中の
り、 催妝
憂愁
びらが開くように、幾重も
知の
また、⑪の 一針針
詩句であるが、
ますのである。例に
して
はその
容
くもの
嫁の不
醒
氣づけるべく
句は 莫非這嘉禮
嫁を
を
という」のである。この詩の
し、同時に
げたこの詩句の
本意な結婚にたいして同
憂愁 (もしかしたら、このめでたき宴が汝の愁いを呼び覺ま
と續くのである。
後文
を理解すれば、「憂愁」の
してしまったのではあるまいか) である、その後の句は、
了
から語り始め、作
嫁の心の奧を顏の表
催妝詩
り物を持って嫁の家に行くこと、または、その
る詩を
に壻の家から
時作って
も、ある結婚式での
された表現となっているから、
新
であることが分かる。 さらに、 新碧
の瑞々しさを形象
嫁の心が愁いによって
き刺されているのであるか
ら。なお、この句は本體の「憂愁」を喩えする喩體、 ち「何々
の可憐な
量詞が「針」であることが 得するのである。なぜならば、そ
心刺
$
ため、詩人が く山中の樹木である 新碧 は、針のように尖っ
碧
な隱喩」である。それは
ている松の
辭
語であるた
である。
にか
嫁の沈痛な表
隱喩」であ
しく
という量詞を隱喩
され、その重
本體
語修辭學》(三八六頁)
は
は喩えられる本體で
#
の
象
では、
思想
「
定しえると思われる。しかも、
重負
ち、 一
では、 髮
に用い
!
'
) (
「あやあり」と
思想
め、山梨氏『比喩と理解』のいうところの「 辭
一
《
がいかにも見えてきそうな感覺を與え
に用いたため、思想の 重が
である。
のような憂愁」、 の何々という言
という量詞を隱喩
$ &
*
,
る。⑥の
かっている 思想の形
る。なお、この比喩の形式は王希
+喩體
によれば、「乙式倒喩」である。この方式の比喩
+
# +
々かつふさふさとした髮のようであると
は喩える喩體となるからである。
山
' '
1 $
.
がない。 あるのは量詞の
あり、 重負
一髮
が
" %
%
0
⑦の
2
思わせられる。無論この句も上記⑥同樣、
「乙式倒喩」である。 「針」だけである。しかし、この量詞だけでも十分に喩體は針
たため、山の深
/
96
り、隱喩
に量詞を用いることで、徐志
はそれ
の散文の
がいみじくも
べたように
麿議柊猟
豢麿議詩;
詩人であると思わせるのは、實は、この散文にある。親友であ
なのである。たしかに、
手法である隱喩など
愛する。
としてもっとも捉え易い
のは、論 文にあると思われる。どの論理 な散文を書くのも、
從って徐志 の散文の比喩性が特
に取り上げるのは 當ではない。ゆえにここでは
を多く用いていることはむしろ當然であり、これらの散文を例
とでも呼べるほどの抒 文である故、詩
散文は散文でありながら、詩のようであり、從って「詩 散文」
ンゲール」や「マンスフィールド」によくみられる。これらの
んでいる如き錯覺に
る時がある。例えば、「キーツのナイチ
徐志 の散文を讀んでいると、散文を讀んでいるのに、詩を讀
る
好像 (のような) がないゆえ、これも量詞を
のように く刺すものであるという形象がイメージされるので
した
は、徐志
の詩歌の比喩性の特色は、以上見てきたとおり、隱喩
のある詩を仕上げることができたのである。
ぞれの詩行に幾 にも言外の意を含ませることができ、大變含
徐志
を自在に用いることにあると思われる。
比喩 特色を考査したいと思う。
4 徐志 散文の比喩 特色
一
野馬
景を
するほうが、
寫する時、もっと表現を寫實
或いは 眞さを帶びさせるため、別な喩えで
あや
で、直
いないからであ
の
び、その
へと、その用いられ
した比喩に話が
に或いは擬人
讀む者により生き生きと感じさせ、效果 に
に、換喩 に、隱喩
る。しかし、その別の比喩を用いたら、言
喩
た比喩からさらに 生した別の關
喩」式の文型の多用ではないかと思うのである。
筆本來是最不受羈勒
べ
!
本人も承知しているようである。詩集
されない野生の馬である) と
そのことは、徐志
(私のペンは、もとより、最も束
#
)
&
象
一
$
野馬 の眞相かも
表現が形ある物のように
な比喩
されていく。これが 最不受羈勒
はやはりさすが
%
うち、話がどんどん深く縱式に なっていくのである。がしか
"
ているからである。ちなみに、この場合「野生の馬」とは「ペ
詩文の比喩性(加
の「換喩」でもある。いずれにしても、徐志
徐志
し、やがては一つの抽象
ン」の隱喩であり、そして、この「ペン」はさらに「文の び」
である「
結局は比喩の力を借りて論旨を めているように思われる。そ
の散文の特
れは、おそらく、一つの
り、徐志
の一つが
本論文の「はじめに」でも觸れた
上
ある。比喩詞の
( )
椎裡中麿議詩議撹蛍曳壓塹猟裏謹
うまく操作した隱喩であると見なされる。
ような、自由自在で流れる水の如き散文」である。そして、そ
怒勸瀧議柊猟 、つまり「手綱なしで馬を走らせる
の手綱なしで馬を走らせるような散文とは、比喩の中の複合式
『猛虎集』 の序文に、 我
97
98
中國詩文論叢
第二十九集
べ
風な文章より、
故に、徐志 の散文中の比喩性を檢證するのに、上文に
しれない。
たように、彼の 新や艷美な語彙を鏤めた抒
は典型
な複合
文
良三『レトリック辭典』(國書刊行會、一
九九八) の該當項目に依れば、
「 諷喩
いる。もっとも、野
で、なかなか 定が しい。…人 の 識活動そのものが諷喩=
隱喩
發想に支えられていると言えるだからである」(二八頁)
ここでは、 理
との記 がある。
以上日中の
語修辭學』の分
『
結果、本論文は、やはり王希
に從うこ
のに氣が付く。その定義は、「語句の隱喩が
王希
しかし比喩名稱の混亂を生じかねないということを配慮して、
この項目の例として取り上げる散文は、以下の
文の特
寫する
その1―「
な比喩で
喩」で抽象
な事
死木死》(「イズム」)、②《我也惑》(「私も困惑している」)
象
喩」を組み立て、抽象
するのかについて、以下の幾つかの
が如何に複數の比喩で「
物を
徐志 論
と③《劇刊始業》(「劇刊開業」) ④《猛虎集》序文など。
①《
りである。
及び比喩樣式の名稱に從うわけ
である。
て自立する。その自立した言 の世界が、もう一つの現實世界
と暗に對應しているのでなければならない。」この定義は王希
余り項目の中にも、
喩」と大變似ている。しかし、『中國
大辭典』にみる「比喩」の
である「
4―1
徐志
氏の分
な論理を 象の比喩で論
文學言語
「もっ
佐 の「諷喩」と同じ名稱の比喩はあるのだが、それは、
して
蒙、風刺、譴責する
である物語を設け、喩えられる對象と
し、或いは何かを
な比喩型式」(七五一頁) であると解
ぱら明らかに 風刺
し、以って 理を陳
ときに用いる特殊
$
"
の『 語修辭學』の分
體が隱喩となっているような形式は、隱喩と 別して、 諷喩
した「諷喩」の方が合 すると思われる場合もあるが、
ではない。一方、徐志 の比喩方式は、時には佐
信夫
大辭典』の「諷喩」項目に當てはまるほど
喩」の風刺 な性質は、
或いは、有るテーマについて論ずる文章を取
似した名稱を有する比喩方式を比較し考慮した
り上げ、その縱 無盡な筆の行くままに任せた複合式比喩の文
喩」の多くは、何かを風刺する比喩が
とにする。なぜならば、徐志 の「
明確
型を見てみる方が賢明であろう。
。
なお、徐志 の「
多いので、「諷喩」という比喩としても當てはまるのではない
)
で觸れた佐
の解
息 』(一七一~一八八頁)
(
l
e
gor
y) という比喩形式がある
の中に、「諷喩」(アレゴリー、al
信夫の『レトリックの
という別名で呼ばれている。完結した諷喩は、一つの物語とし
續展開されて
# 70
#
!
かと思い、 べてみたところ、本論文2―2「日本の比喩樣式」 『中國文學言語
題目を論ずる《
と
死木死》(「イズム」) という散文の
例を取り上げて解析してみたいと思う。 幅の關係上、
う。
集
とい
「到巴黎
中國人大
疼眼
心煩 再沒有別
病
了。
沒有一個省得了到皇宮畫院去走一轉
4―1―1 「イズム」一段目の中の比喩性
無非腿酸
有胃口
少數人 (中略)也只像是一個
但大部分人得到 利
知識
有美
稍
以然來」。
味 但他只能對
呆看
無珍不備
人坐上了一
美
滿
使
挾一
放
席 明知一碗碗
熱氣
了口去 也
是
是
に見學しにいくのだが、しかし大多數の人はほとんど何の
これは、パリに行った中國人は一人漏らさず必ずルーブル美
辨不出
,
' ! いう抽象
中からのみ取り
《 死木死》(「イズム」) について
載され
一日に北京の新聞
に文章を書いてくれるよ
集長に就任していた。就任
は一九二五年一〇
この文章は、一九二五年一〇 八日「晨報副刊」に
「晨報副刊」の
たものである。徐志
「晨報」の文
挨拶文の中にはいろんな文 人や識
が
八日にその「晨報副
義》(「ドラク
うに呼びかけている。畫家の劉 粟も呼びかけられた一人であ
義」)を一九二五年一〇
る。そのためか、劉 粟が《特拉克洛窪與浪漫
ロワとロマン
刊」に投稿したのである。「イズム」は、徐志
享受を蒙るほどの 質もなく、ただくたびれ儲けしただけ
であるということを皮肉っている文である。
は、まず一般
の價値にたいする理
下記の本體、喩體①、喩體②のように、徐志
人の美 にたいする鑑賞の目のなさ、
ている。劉 粟の文章を借りて、徐志
殿に入ったら、(中略)やはり
に少々美
席
斷さ
に座らせたようなもの
.
れる。しかし、この比喩の上に立って、その 況を設定し、話
也只像是 (やはり何々のように) があるから、直喩と
の
欲のない病人があらゆるご馳
知識のある人」でも、「このような本物の
や 義に對する意見をついでに べたように思われる。 容は、
な部分を見てい
卓に載せている 滿
である」と喩える。この喩體②の部分では、直喩を示す比喩詞
)
/
-
+
,
の宮
解のなさを喩體①で隱喩 に喩えてから、さらに喩體②で「假
走が
粟の投稿文よりも長くなっ
理論をただ鵜呑みしてもいけないのだということを諌めるもの
しかし、徐志 の文の方が實は劉
う地位を利用して、その文を解 する積りで添えたのであるが、
,
,
#
,
$
0
喩」であると思われる。
がどんどん別な場面に變わっていくのである。このような比喩
は正に王希 氏のいうところの「
2
3
である。そんなことを開陳するのに、徐志 はほとんど比喩で
詩文の比喩性(加
1
ねてからの
,
&
%
-
+
は、
,
(
,
*
べているのである。それでは、以下にその
くこととする。
徐志
,
4
"
,
)
「何々 義」というものを余り眞面目に受けて、
「イズム」 ち、
99
100
第二十九集
ち喩體①、喩體②
び喩體②の
な事柄」が、
な繪畫を一般の中國人は理解できないか」
、
な繪畫を
心煩 再
卓に座
使
無理に一口つまんで
工夫去
怎樣幾於不共
先生們管 他們
到了升官 做生意
管什
招足了紗
來管什麼藝
同士になっている…) =
交代
了火車頭 學紡織
問 反正做官
管
與一般人生觀
べてみたとしても、やはりその味が何ん
上做
多少藝
畫家當初曾經在藝
曾經有
であるかは皆目分からないのだ)
不願意費
仇敵
這些事本來不用他們隨便看看
戴天
到了發財 學鐵路工
他們這輩子就有了堂皇
(今
先生們 ( 當に見て回るお いさん)
の文の中にある「本體」
に一回り
畫家 ( 同士になっている
中國人 (ルーブル美
の文には表れていないが
作緊鄰
仇敵
の本當に表明し
上做
幾於不
こされた死活を分
在藝
から引き
けるほどの激烈な論爭」、喩體=
張の相
隱喩②:本體=文面には出ていないが作
畫家)
、喩體=
隱喩①:本體=
する中國人) の換喩。
到皇宮畫院去走一轉
=
換喩②: 隨便看看
の換喩。
ある「本體」 ち「畫 で 同士に陳列されている繪畫」
の文面には出ていないが作 の本當に表明したい事柄で
換喩①: 現在作緊鄰
麼人生!」
廠股
也
革命 在現在作緊鄰
「在這一群名家相承 中
!
,
中國詩文論叢
の中にある立
これで、その喩えられている本體である「如何にルーブル美
な」敍
(この文言は文面には出していない) という「抽象
その長い「 象
明白になってくるのである。
な比喩の解析である。
上に立った喩體③を して、一
以下はその 體
無非腿酸
疼眼
の中にある立
本體:文面には出ていないが作 の本當に表明したい事柄
である「如何にルーブル美
利
一般の中國人は理解できないか」
滿
席
了。 (ほとんどの人が得た利 は、足がだるく が
喩體①: 大部分人得到
沒有別
無珍不備
也只像是
なご馳走が竝べられている
病人坐上了一
欲のない病人)
席」のような立
有胃口
痛く目が回りうんざりしてくることぐらいしかない)
(「滿
喩體②:
らせられている
(ただ.
.
.
のようである)
呆看
以然來 (美味しそう
味 但他只能對
是辨不出
. ,
比喩詞:喩體①には比喩詞がなく、喩體②は
是
了口去 也
熱氣
喩體②の上に立ってさらなる比喩である喩體③: 明知一
碗碗
放
*
たい事柄「 義
-
#
0
挾一
+
1
に湯氣が立っている料理もどれもみな高價な珍味であると分かっ
ていても、ただ茫然とそれらの料理を見るほか手がない。假に
,
,
&
,
,
#
,
#
"
!
(
* *
,
,
' #
,
/
%
/
,
!
,
,
& $
$ ),
,
101
共戴天
仇敵 (
做官
學鐵路工
エンジニアを學ぶ人、紡績
做生意
先生們 ( 當に見て回る)
上では不倶戴天の仇敵)
いさん」、喩體=
(役人、
人、鐵
隱喩③:本體= 隨便看看
「お
學紡織
を學ぶ人)
堂
升官 發財
(出世する、金持ちになる、
交代 (立 に責務を果たす)、喩體=
隱喩④:隱喩③の上に立ったもう一つの隱喩。本體=
皇
という二つの
と換喩
語の換喩が設定されて
現在作緊鄰
という文には、上記したような複雜に組み合わさった
汽車の頭部を管理する、紡績工場の株を集められた)
管 了火車頭 招足了紗廠股
この
先生們
でど
育
目
是在
性靈活動
質生活外同時實現性靈
如果
是人
生活
發我們
靈性
門裏有
藝
我們在物
共有
人們應得有最低
活動
吼
面上
火車頭 它
戲
高 興趣
一律看作
の本當に表明し
自己最祕密
上戲臺
。」
顏色裏有
們對於藝
畫師
想
畫師
們最隱諱
信仰
頭八千枝燭光可以使一切野
。我們不輕
意到人
人格 引
育
我們就得
在
績 凡是受
同
孩們哭醒 它
希
了解與會晤 因爲只有在性靈生活普
中
才有向
限度
文
一民族
聲可以使睡
心;但我們同時也
僅僅看作
鬼們
加深 不 把弄顏色
感 戲子
們會知
子 。因爲遲早有一天
度の
功を收めた」、喩體=
了
吼聲 、 八千
管
の本當に表明し
先垂範の働き」、 喩體=
隱喩①:本體=文面には出ていないが作
たい事柄 「牽引車の働き、
火車頭
枝燭光
隱喩③:本體=「
孩們哭醒
隱喩⑤:本體=文面には出ていないが作
使睡 中
の本當に表明し
の本當に表明し
、喩體=
たい事柄「無知と混沌の 態から目を覺ませる」
隱喩④:本體=文面には出ていないが作
聲」と「光」、喩體=
火車頭 (「汽車の頭部」の操作を任せた)
たい事柄「有る
隱喩②:本體=文面には出ていないが作
:
比喩が仕掛けられている。まず換喩①
② 隨便看看
張の相
喩」となる。その結果、
ち換喩①からは隱喩①、②、換喩②からは隱喩③、④というよ
いる。それから、それぞれの換喩からさらに深く話が む。
うに展開していき、 體が一つの「
義
に
,
はいつも如何に
火車頭
會上去混一碗
' $
6
,
家という
怎樣到
,
/
讀 は、
是不僅
)
當に見て
當に見て回るお いさんがどれだけ「 當に見て回るのか」
れだけ「生死を分けた の論爭を行われるのか」ということと、
目
に有るような
理解できるのではないだろうか。しかし、「
育
詩文の比喩性(加
<
が一
回るお いさん」から、さらに文
「但如果
話が 生していくのである。
徐志
,
/
5
-
4
/
"
(
, ,
#
%
.
,
(
,
2
9
,
+
)
%
&
*
0 ,
'
!
,
;
7
2
1 ,
1
,
,
,
3
>
=
,
,
8 ,
,
,
102
中國詩文論叢
第二十九集
)
弄顏色
(色
心 (野にさまようよ
されていない世の中に知識の
喩體=
學鐵路工
管
りの意味である「汽車の頭部」のほか
という言
である。
了火車頭 (鐵 エンジニアを學ぶ人が
中にも「立 に責務を果たしたもの」がおり、その中の一つで
ある
は、文字
火車頭 を任された) の 火車頭
火車頭
という言
を
先垂範の働きであ
(
臺に上がる
戲子
使一切野鬼們
たい事柄「文明の開
をする」、喩體=
うな魂たちを かせる)
畫師
には、「牽引車の働きであり、
管 了火車頭
という句の隱喩にも
に用いたがために、上記 學鐵路工
交代
喩」ではあるが、
隱喩」でもあると
にまたがって考えないと分かりづらいこと
なるのである。故に、この一句は無論「
という句がさらに生きて、 堂皇
隱喩
る」という意味でもある。故に、この 火車頭
までの意味
會に出てから生活できる
希
育
交代 (立 に責務
に、隱喩
堂皇
の文の續きである。これは、徐志
の中の隱喩④で皮肉っていた
という文は、上の
を弄する ) 上戲臺
隱喩⑥:本體=
この
が
才有向
はただ
にも目を向けさせるようにする
思われる。
しかし、 後の段
文
育の目
同時に、感性も豐かにし、
喩」で
を幾つも幾つも深く掘り下げられてゆく。
隱喩① ②の上に立って、徐志
⑥を仕掛けて、
むことができ
に責務を果たし、出世するの
なお、隱喩④と⑤は同じ本體を比喩しているので、「
に
な活動があって、はじめて文
ことができるならば、文 がこれでやった
るのだ」と。言外の意は、「立
も大事ではあるが、しかし
の重
あると思われる。このようにして、この文を讀んだ はいつの
にか、工業の利 も大切であるが、
ようになったのではないだろうか。
にある言
に
するような文
は、まず生 に携わる業
を輕
對して釋明めいたことを一しきり 明したわけである。その上
衣 除非
「藝
親自貼肉穿上了身去
不會覺得眞
人生 解放 自由。這些不隨熟
性も理解する
他們有
渾
字眼就比如一件毛蓑
4―1―2 「イズム」第二段の中の比喩性
した隱喩
の隱喩の核心とは、
/
と
作品を見て回る人々」の
,
さらに工業はやはり生活には缺かせないものであると 價を與
當に
0
/
.
,
,
むものである。」と讀み取れる。ここでは、徐志
$
はさらに隱喩③、④、⑤、
を
一民族
#
' &
(
!
"
なので、山梨修辭學のいうところの「文
から
)
+
すると、「
ようにするためだけのものではなく、物質生活をも重 すると
目 是
!
/
えるのであるが、そのことを本 という文の上記列
げた「
①と②で いているのである。その
文章 でやり玉に
,
に
,
-
,
が
$
"
%
を果たした) ということに對する言い譯である。 但如果
,
*
,
,
103
有
!
他是一個活
得靠行軍散
癢
人
木乃伊!
力量
只是在孟婆亭
就比如
醒
天中了
希
。」
性靈生活也得
子盡義務 惡狠狠
嚏才有
醒 這時代
力量使勁地打上幾個大
嚏 腦筋才能回復
昏
來路貨 他在這世上除了骨頭見天加硬
怪事(中略)因爲這不曾發
變
了孟婆湯原封未動
身發癢
再
頭眩腦脹
打上幾個大
頭眩腦脹
昏
(
昏
、 喩體=
に熱中症にでもかかった人みたいに、
頭眩腦脹
醒 (氣付 「行軍散」でも嗅がせ、
子盡義務 惡狠狠 打上幾個大
天中了
頭は混濁して覺醒していない)
隱喩④:本體=
得靠行軍散 力量
嚏 腦筋才能回復
しっかりと二三發くしゃみを 發させなければ目覺めできない)
が本當に表明した
嚏
り、徐志
力量使勁地打上幾個大
の力で感性のない生活から目覺めること」、
隱喩⑤:本體=文面には出ていなく作
い事柄「
靠一撮行軍散
は
を知らない人は、生け
「
の地
で綴っ
や自由の氣風とはなんであ
在孟婆亭
、人生、解放、自由」などの言
除
徐志
喩」の見本のような比喩の
する。そして、こ
づる式文章である。最
がもっとも表明したい事柄である隱喩⑤の本體、「
に引っ張り出されたのが、文面には出ていないが、しかし
に「
仕掛け、また隱喩③の上に立って、隱喩④を引き出していく。
體②で喩える。さらに隱喩②の喩體②の上に立って、隱喩③を
んな痒い感覺を經驗したことのない人は、隱喩②の喩體①と喩
くら聞かせても駄目なのだということを
るかについて、自分で身を以って體驗してみなければ、人がい
ている。直喩①と隱喩①では、
了孟婆湯
る屍であると同じだということを比喩するのに、中國民
上記直喩や隱喩①、②、③、④で解析した
喩體=
靠一撮行軍散
直喩①:本體= 不隨熟 字眼 (馴染みのない文字)、喩體=
他們有
渾
の本當に表明した
不會覺得眞
一件毛蓑衣 (粗いささくれのある の紐で んだ雨合 )、
比喩詞= 就比如
隱喩①:本體=文面には出ていなが作
親自貼肉穿上了身去
%
い事柄「衷心より理解することの大切さ」、喩體=
非
人 (痒みをしたことがない
變
,
方古典劇によく出る話である
身が痒くなるのだという
怪事 (粗いささくれのある の紐で んだ雨合
癢
有
了孟婆湯原封未動
」に「孟婆湯」を飮まされ、
一
天中了
!
身發癢
を肌にじかに付けた時、あんなにも
不曾發
只是在孟婆亭
れさせるために「孟婆
木乃伊 、喩體=
)
$
&
'
ことを自分で感じなければ信じないのと同じのだ)
隱喩②:本體=
人)、喩體①=
世を
來路貨 他在這世上除了骨頭見天加硬再
(
一個活
木乃伊 (生ける屍のミイラ―)
この世に生まれてきても、何も感じない人)、喩體②=
個活
詩文の比喩性(加
隱喩③:本體=
徐志
,
!
,
"
!
,
# !
*
)
,
,
,
,
#
#
+ (
,
, ,
, ,
104
整齊
中國詩文論叢
國
第二十九集
簽
簽
批評家 我就聯想
整齊
生生
整齊
中西大藥
上貼
藥名:(中略)他們不把一個作
永
上就不得安眠。」
藥鋪子。
安
才算
裝進一個
簽條 簽條上
一類
の力で感性のない生活から目覺めること」である。
「想
4―1―3 「イズム」の中の第三段の比喩性
寫
鋪子裏架上排列
一類
藥鋪子 (中國の中西大 局のような
國 批評家 (ドイツの批 家)、喩體=
良心就不得安頓
子裏塞上軟木貼上題簽放上分類架上去 壽無疆
完事 他們
中西大藥
直喩①:本體=
想する)
(一人の作
を
に永
するときに、よく
に置くこと)
に詰め、コルクで閉め、ラベルを張り、分
された に、 長壽無窮
論家が何かを批
明すること
は直喩①の上に立って、さら
義である」とすぐ型に嵌めさせて
この文は、ドイツの
「これは何々
くる。
上
家たちが
良心就不得安頓
喩」を用いて、如何に物事をきちんと分
應得
ばせたのではないだろうか。
藝
在
上就不得安眠 、
に
か
拿一套沒有經驗
香
]咀嚼 雖則
逼
識美
也很有限;我們
義等等 放在口裡當[留
意:徹底
だというイメージを、讀 に訴えかけ、生き生きと眼
ち「良心に濟まないと思い、安眠できない」ほど苛立ちするの
イツの批
していないと、ド
したように、徐志 は幾つもの比喩を組み合わせた「
に隱喩①、②、③とたたみかけるように幾つも比喩を仕掛けて
を皮肉っているのである。徐志
(
簽條 簽條上寫
藥鋪子 、喩體= 架上
整齊
大字 什麼
「我以爲現在
托底
處 到底眞味
沒有經驗托底
背後開張一隻靈眼」
如其我們有這樣 本能 是他們
沒有多大
眼
直喩①:本體=
香
年輕人覺悟
義等等
本能 使他們肉
大字 什麼
義)、喩體=
(「スペアミントチューインガム」)、比喩詞=
(經驗を基礎としないようなスローガンや何々
留
聯想
一
上貼
の名が書かれて
(一人の作 )、喩體=一個
屋さん)、比喩詞=
藥
中西大藥
藥
藥名 ( の上に整然と竝べている の 、 には整
整齊
隱喩①:本體=
排列
整齊
一個作
安
子裏塞
!
然とラベルを張ってあり、ラベルには整然と
いる)
子 (一個の )
隱喩②:本體=
永
$
,
,
が本當に表明した
壽無疆
裝進一個
義という型に嵌めさせ
生生
&
,
,
隱喩③:本體=文面には出ていなく作
把一個作
,
,
'
%
い事柄「どの作 にも必ずある
ること」、喩體=
上軟木貼上題簽放上分類架上去
,
,
#
!
" ,
,
,
,
,
,
,
,
,
當
隱喩①:本體=文面には出ていなく作
在
識美
當[留
香
が本當に表明した
肉眼
背後開張一
本能 ( 在する美を
い事柄「舶來品と思って有 がる」、喩體=
]咀嚼
他們
識する本能を備えさせる)、喩體=
入品である「スペア
が出ている。
なテーマを、
文は、理路整然というよ
喩」式に
した
喩」
していくのがよ
りの「
「好容易
從
冷
極了
底裏撈
了一
4―2―1《劇業始刊》の中の典故による比喩
有安希
子 也
有
手上變了顏色 一瓣瓣
希
但是
下萎
輪
希
在
裏安去 左右
水 眼看這鮮
像
自
了 焦了 枯了 掉
を掴みかけたと言
を
を生ける
らかな水もなく、この生き生きとし
という名の
勞して取ってきたような百合の
からやっとちっぽけな希
了 結果只是傷慘。」(あたかも の中からやっと を掬うがご
己
得了幾莖百合
とく、寂れている
是從山谷裏
うのに、この深山幽谷から
を育てる
一體どこに置けばいいのか、手元には希
がなく、希
色になり、枯れて、
ちるのを力なく見るし
があなたの手の中でただみすみす色あせ、ひとひらずつ萎え
いばみ、
た
させ、
に慘めこの上ないものだ。)
かない。
が「晨報副刊」の
一回
一七日に、「晨報副刊」
容は「晨報副刊はこれから
で有ったころの一九二六年二
《劇業始刊》(「戲劇 刊開業」) は、徐志
集
載した文章である。
宣言したものである。
な比喩で
極了
底裏撈
了一
輪
希
の
撈
その1―抽象
と 一
は 從
冷
寫する」の中で多く取り上げた「
上記引用文も、4―1「徐志 論
な事物を 象
文の特
《劇刊》という戲劇のみを論ずるコラムを立ち上げる」ことを
に
)
隱喩②:本體=
隻靈眼 (肉眼の背後にもう一つの靈 な目を設けること)
この文は、當時おそらく流行っていた
論文の特
ミントガム」で、歐米から入って來た何々 義を比喩すること
で、徐志 の辛口
へと仕掛けていて「
な比喩で抽象
の論
以上は「イズム」という文からしか例を取り上げていないが、
しかし、見てきた り、徐志
から
り、解析しきれないほどの 象
の一つに上
く分るのではないだろうか。
また徐志 の散文の特
の文中によく現れる
+
喩」を用いた文である。この引用文の典故の個
輪
2
は徐志
その2―典故を比喩に取り入れ
による比喩の他に、もう一つ特 として「典故」を比喩に取り
文の特
徐志 の論
る
,
,
#
,
,
.
)
入れる手法がある。ゆえに、
4―2
1
)
%
,
! (
,&
' ,! ,
"
,
詩文の比喩性(加
*
,
.
$ ,
,
#
'
-
$
3
徐志
/
0
「典故」を見てみることにする。
105
106
中國詩文論叢
第二十九集
語
の量詞が
で「典故」を
希
を用いているが、 動詞は
することができるのかというと、目
という二つの言 である。なぜこの二つの言
を隱喩する言
した
底
は
底
という
の換喩であるこ
底撈
という典故を
り、「曲喩」とは「幾つかの曲
は『初刻拍案
と作
奇』卷二十一と卷二十七に
底撈
冷
極了
の本當の意圖で
底裏撈
」、喩體=幾つかの曲がり角を迂回し、
從
會」、喩體=
、喩體=
冷
百合
極了
了一
した
隱喩①:本體=文面には出ていないがこの文《劇業始刊》
ではない
底裏
の論題である「劇に對する無理解という人心の凋
理想
隱喩②:本體= 希
の中の
」を、まず
であると
識してくれる」、喩體①=
隱喩③:本體=文面には出ていない「劇を
百合
の中の
識してくれる」という「希
り、この一文は、「劇は
、喩體②=
であるということを人々が
希
上記した
き始め、幾つ
寫
喩であるをいうこと
していく樣を
」という典故を用いて迂回しながら
いうことを人々が
底撈
」に變
の
體が一つの
って徐々に「百合の
ができると思われる。
しているので、この段
もの比喩を
「
ま
ある「やがては無駄に わるであろうその を掴むこと=
曲喩①:本體=文面には出ていないが作
底撈
好容易
という
一
わしに喩える
輪
撈 了 (水中のものや水を掬いあげる)という隱喩を用いて
文。
底撈
)
輪
希
いるため、この一句の隱喩している場面は自ずと「水場」でな
めば、
ければならない設定になっていることが分かる。そして、この
設定に從って先を
體の比喩は、
底撈
とに氣が付く。結果として、この一句には
故に最初の一句の
典故が潛ませていることが分かる。
定できる。
用いて、「無駄である」ということを暗に比喩する「曲喩」で
あると
なお、
(
とある。無論いずれも「無駄で
容である「中國人は
西洋人のように劇に對する 虔な態度がないことを き、皮肉っ
なお、上の引用文は、その の段
!
がり角を迂回し、 まわしに喩える」ことをいうのであるから。
中撈
それぞれ出ている。しかし卷二十一の方は、
)
り、卷二十七では
(
ちなみに、この一文の比喩の仕組みは以下の りである。
會」、喩體
"
$
%
&
ある」という隱喩である。
な
ている」ことを汲んで べているので、この文は「
喩」で
隱
あると同時に、『理解と比喩』の中でいうところの「文
(
換喩①:本體=文面に出ていない「理想
#
)
、喩體②=
底」、喩體=
$
%
①=
底裏
換喩②:本體=文面には出ていない「
'
107
喩」にも當たると思われる。
。如同
一身
愚蠢暫時借給我
我也時常疑慮到我
因為憐憫我
交還
乾了完了
4―2―2 『猛虎集序』の中の典故による比喩
是眞
日子也是甚麼
融得來限定日子
「我常常疑心 一
些寫詩
美是問
な
は、經濟
にも
ま
機會 (これが私の眞なる復
第で
は再び自分を奮
に
であ
って來
も詩集を出していない自分は、もしかし
とは、
い立たせて詩集『猛虎集』を刊行し、この序文を書いた
年
の期限付きの
ないのではないか、それは、ちょうど
ノーベル文學賞受賞
踊劇の一つ
士で結婚したのであるが、しかし、結婚後の生活は、徐志 が
にお願
t
r
angada")の中のヒロインの名、
である「チットランゴダ」(“Ci
)
想像し、憧れていたエリザベス・バレットとロバート・ブラウ
(
いし、期限付きの美貌をもらったのである。實は、後、徐志
)
である詩人タゴールの三大
とはどのような典故であるか。それは、インドの
詰るのだった。
右の文は、この第三冊の詩集出版までの、自分の心の軌跡を
を經て、やっと時
ケッチェラである。ケッチェラは戀人のために、愛の
のハルピン 察局長夫人である陸小曼を夫と離婚させ、再婚同
年に筆舌に言い盡くせないほどの 勞と艱
えて、陸小曼は色々の心勞により、アヘンに走り、出費が重なっ
詩文の比喩性(加
*
(
ン詩人夫妻の詩歌創作 のできるような生活ではなかった。加
徐志
美貌のようなものではないだろうか」と、詩作できない自分を
たら、「あのいくらか詩歌を書けた日々はもう永
る。徐志 は、
上記引用文中の典故の個
ある。
に
深處 (もうほとんど枯 の底に
一個復活
は彼らに
え子たちが生き生きと『詩
な地獄のような日々を一人で耐え
直是到了枯窘
熱も底冷えしてしまい、自らのこの序文の言
助を得られない徐志
た。裕 な事業家である父親とも離婚や再婚のことで不和にな
り、經濟
も、詩歌への
( )
を借りれば、
ついた)
態であり、
這眞是我
熱を燃やしていたので、徐志
ていた。ちょうどその頃、大學の
( )
刊』の刊行 に
奢侈。」(私はこんどこそ本當に枯れ切ってしまっ
享用
)
"
という言
活の機會であってほしいと願っていた) と徐志
(
され、 我希
にお願いしてもらっ
て、何もかもおしまいになってしまったのではないかと諦めかけ
樣が私
さなければならないのと同じようなものかと。
ている。ちょうどケッチェラの美貌は愛の
て、期限付きで
の詩を書く日々というのは、やはりどこかの
して享受させてくれた身の丈
この何年
だけ
'
の愚鈍を憐れんで、暫くの
&
に合わない贅澤なのかもしれないと、一人で疑心暗鬼に思うのだ)
『猛虎集』は徐志 が一九三一年出した三冊目の詩集である。
$
非分
%
10
,
!
白している文の中から引用したものである。徐志 は一九二六
#
)
ち、4―1―2で
べたように、「
に關
和辭典』(卷三) には、
に、「幽冥の
はそれほど
・とい
知されていない「典故」
にたいしてなにも感じないのだと比喩して
した り、徐志
切な
・という「典故」を用い
寫になり、比喩としては少
の詩文の比喩性を特
・夜
氣
・ 這是危險
爛泥砌滿了原來多少
づけることとして考える
があるので、以下
結果
是
小事暗裡 把我們變
因爲做夜
王
靈竅。(「話匣子」六段目)
典故:「夜 自大」。出典:『史記』「西南夷傳」。原文:「
把自大
了不自覺
①我們裡面很少人反省到單只會一點洋文
のように幾つかを指摘のみさせていただく。
にも多くの典故を用いて比喩をしている個
紙幅の關係で、以上三つだけ取り上げ詳しく解析したが、他
ことができると思われる。
用もまた徐志
しも陳腐に感ぜず、新鮮である。ゆえに、このような典故の多
て比喩することがもっとも
は高くないが、その場合は、・
を用いて比喩に使うことがよくある。例えば、・
4―1―2の「イズム」の「第二段の中の比喩性」で引用し
4―2―3 「イズム」の中の「孟婆」という典故
のいう一句の中に、 孟婆亭 、
が出てきた。『大
來路貨
た文を論析する中で、隱喩②の喩體①である 只是在孟婆亭
という言
了孟婆湯原封未動
孟婆湯
代の仙女であるともいう。一
れ
$
「『詞品』に、「俗謂風曰孟婆」」とある。つまり「孟婆」は俗に
」は
世を
%
'
風と言い、中國江南地方でこのような言い方があるという。ま
た、「孟婆
り、これを飮んで
!
(
(
)
」で、「酒に似た一種の湯を
しめる を知る」とある。徐志 のここの比喩は後 の を取っ
#
,
" '
,
'
わけである。
きて、如何にもあのケッチェラの美貌は期限があるように、自
上
いるわけである。
ない」ように、
に「孟婆湯」を飮まされ、この世に生まれて來ても、何も感じ
第二十九集
)
が擔當し、題目
を演じていた。
譯も徐志
は自ら愛の
中國詩文論叢
(
して皆目分からない人とは、 世を れさせるために「孟婆 」
たようである。
行事の一つとして一九二四年四
一八日北京で仲
と親子ほどの親しい交流を持つことになるタゴール が一九二
は、
と譯し、徐志
を呼んだ經 がある。無論臺本の
とともに上記タゴールの「チットランゴタ」を演じ、大變話題
四年中國に初めて來たとき、 譯と世話の役目を預かった徐志
ゆえに、徐志 は自分の詩のインスピレーションはもう底つ
を 齊特拉
う「典故」がそうである。このタゴールの 踊劇の中のヒロイ
ンは、シェクスピアの作品中に登場してくる人物ほど「知名度」
分の詩歌の才能も期限が來て、インスピレーションがすべて使
い果てしまったのではないかと き、その典故を比喩に用いた
&
108
109
夜
侯亦然。以
不
故
史 現在雖知 卻輪 我來續貂!
廣大。」比喩:自分の力量を知らず
言曰:・ 孰與我大?・
不知
使
各自以爲一州
。
與
にいばることの
②我也很知 晨副 去光榮
」二段目)
希
雖則
珠 我
⑥
景象我再也
不了 尤其是
地獄裏一定
添加一
氣味!悲憫心禁止我盡
子ハムレットのように人生について深く考え惱むことの
假如到此地來
他
寫;丹
・七西伯利亞]八段目)
地獄」(ダンテの地獄)。出典:『
([歐 漫
、他
色
。
。
曲』「地
他們 我想胖
位得叨光楊志與王 兩位:
施耐庵先生纔對得
號
。
らば、彼の大作『 曲』の中の「地獄 」の 寫もきっともっ
容眞得
、 面獸」(「歐 漫 ・六兩個生客」三段目)
位可以借用 旋風
⑦他們兩位
とその悲慘の色が濃くなったであろうということの
4
我想怎麼
(「我爲什麼來
盈座 時人爲之
有登
」。比喩:もしダンテがシベリヤの悲慘さを目にしたな
典故:「丹
會 貂
稿件
。
曰:・貂不足 狗
獄
位。
典故:「續貂」。出典:『晉書』「趙王倫傳」。原文:「奴卒廝役
亦加以
來
愼。(「我爲什麼來 我想怎麼 」四段目)
4
典故:
「施耐庵、 旋風、楊志與王 、矮 、 面獸」
。出典:
「矮
尾續・」。比喩:善美なものに粗惡なものがつづく
這裡 擇也不得不
③同時我當然不敢保證
乎赤
其玄珠」。比喩:人に
。([猛虎集・
な容貌の持ち
5 結論
。
の詩や文には優美
であることの
した
ならではの、
り、比喩は詩歌創作に缺かせない
な手法であり、詩人として名を馳せた徐志
「隱喩による含
な美の表現」で
べたように、徐志
の詩
豐富な比喩性で詩文が散りばめられていた。本論文の3―1
重
に詩については、
ことながら、多くの比喩で られていることが分かった。とく
以上見てきた り、徐志
な語彙もさる
『水滸傳』。比喩:『水滸傳』の中の人物にぴったりするよう
=
子』「天地」。原文:「
歸
取經似
<
珠」。出典:『
不經
6
3
?
典故:「
。
水之北 登乎崑崙之邱 而南
作の
幾個字沒有一
記』。比喩:詩を書くと言
+
知られぬ詩文の
④這中
序]七段目)
取經」。出典:『西
。
頭窮思
丹麥王子 ([我
法師が天竺へお經を取りに行くよ
を經ることの
記』の三
是
,
: 7
,
;
+
2
1 @
典故:「
うのは、『西
うに、多くの
一個個小孩們
丹麥王子」。出典:『ハムレット』。比喩:
)
,
-
8
>
@
⑤我們不能期
母之死]三段目)
頭窮思
詩文の比喩性(加
頭を掻きかき、死ぬか生きるべきか惱むあのデンマークの王
典故:「
徐志
,
1 - 0
3
,
/
9
A
B
5
>
<
@
.
2 .
,
+
+
,
,
&
'
=
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(
E
B
C
,
#
!
& '
"
,
,
,
,
)
) $
%
@
D
,
,
*
中國詩文論叢
隱喩 手法で
第二十九集
く女性のうたた寢の美しさについて、含
に
歌の特 であると言われている「愛、自由、美」の 寫のうち、
」(・星
かれていることを論じた。例えば、「彼女のうた
が」まるで「星の下で斜めに小首を傾げる白
富む比喩で
た寢の
景は、あたかも「香爐からゆらゆら
光下一 斜欹 白 ・) のようであると詠い、そして彼女が段々
と の世界へとまどろむ
の文章を讀むうちに、幾つもの 象
が論じようとした抽象
な比喩によってイメージ
飛に感じさ
かぶことができたのではないかと思うので
がどんどん膨らみ、結果として、徐志
な事象が眼 に
ある。
また、典故を比喩に潛ませた結果、その典故が
せるほど、陳腐さが少なく、新鮮な感覺を與える文として仕上
の比喩の特
げられてゆく。ゆえに、典故の多用もまた徐志
・) ようであると
と
の一つとして考えることができるのではないだろうか。
】
(3)「志
『徐志
が彼
、
の死後、
した名隨筆家の林語堂が、かつて徐志
」という文に序文を書いたが、徐志
(陳從
の文を書き足した。 志
、更以散文
、
一別)」(一九三一年《新
怒勸瀧
年
大
授、文學部部長や
誌《
との最後の別れ
經》一九三六、
》四卷一期)の中で
は「志
の知人である。 崛豢麿椎
島大學、西南聯合大學などの大學の
任した、徐志
最後
大きな子ども」(上
記している文言である。
(與志
議柊猟 厘壼祥認為曳麿議詩還挫
總長を
學、
(2) 楊振聲は北京大學、武昌大學、中山大學、燕京大學、
譜』より
才、亦一奇才也、以詩
林語堂が更にその序文のところに
の「新豐折臂
はアメリカで活
(1) 文 雜誌『論語』、『人世 』などを創刊し、一九三六年以
【
詠うなど、典型 な隱喩の手法で 寫されていることが分かる。
・・一縷・・碧螺
・といった言葉で比喩を用
そしてその纖細な「詞 な」語彙、例えば、・星光・・斜欹・・白
・・香爐・・
に富む美の世界を表現することが
いたため、ほのかに香るその白い肌を白 で表現するなど、
に特色のある「詞 」で含
美を繰り廣げることができたと思われる。
'
できたのだと思われる。
また、中國語の特 の一つである「量詞」についても、徐志
は樣々な比喩を設け、斟 し、結果として、比喩 な「量詞」
による詩歌の含
の詩文の比
いた散文においてである。
式
には
そして、すでに上 したように、もっとも徐志
喩性が表れているのは多く 幅を
野馬
0
一つの比喩を設定した後に、すぐまたその比喩を土臺に別の比
はその
&
+
-
"
一縷碧螺
%
.
が立ち昇る」(・香爐裏
!
&
#
$
/
-
, *
,
喩を仕掛けてくる。一文のうちに、直喩あり、換喩あり、曲喩
喩」として仕上げられていく。讀
あり、隱喩ありと、幾つもの比喩が組み立てられ、最
「
の
(
)
110
111
六、二〇)より
(4)「志 記念」(一九三一「新 」四卷一期)より
(5) 務印書 (北京)二〇〇四
(6)「 和 究論集」二〇〇一年九 、第七號
(7) 重慶出版 、一九九三、
(8) 早稻田大學出版部、一九九四、
(9) 談 、一九七八
( ) 鳴 、一九九七年
Bl
ac
kの “Mode
l
sandMe
t
aphor
"1962,“Mor
e
( ) 例えば、M.
aboutMe
t
aphe
r
"や F.
Saarの “Me
t
aphor
,1979",G.
Lakof
f
、一
である。
兩個轎夫 卻又不知姓名
究論集」第十號、二〇〇四年
址 有影無蹤
) 原文は 先
)を參照されたし。
直是到了枯窘
いる。その
詩
量也《向
小裏
》(最
凡というだけでなく、むしろ枯
の底に
の詩歌への竝みならぬ決意を
べ
μ
寫不像。我卻以爲這
:用中文寫 s
onne
t永
のようないろんな詩形を實驗したい文言があ
言にも、徐志
) 徐志 は、一九三一年一 二〇日『詩刊』創刊號を發行して
なる」のだ)
ついたと言った方がいいくらい、無論詩の量も「どんどん細く
の何年の生活は極々
深處。跟
) 原文は の りである。 最 這幾年 生活不僅是極 凡
三
筆動機に關する一考察」(「
中撈
(
) 加 阿幸「徐志 の「ブラウニング夫人のラブ・ポエム」執
(
(
和
(
,
る。 梁實秋雖則
嘗試 在不只是學皮毛
渾
可能性
性乃至探檢語體文
樂 (wor
dmus
i
c
)
較爲方便
緻密以
一條路
別一種單
手裡 正是我們鉤
,
& Johns
onの『レトリックと人生』(渡邊昇一譯、大修
,
ている。例えば
字
柔
別種同性質
" 九八四)、ベルギーのGr
oup 『一般修辭學』一九七〇(佐々
中國語言
種以
純
,
木健一、樋口桂子譯、大修 書店、一九八一年初版、 年再版)
など。
)『修辭學論叢』第一輯、一九九九年中國修辭學會、國立臺灣
%
(
是去年在中大
識了
家和諱
字の
な
不
樂性 (wor
dmus
i
c
)
他們對於詩
熱
在無形中又
) そのことについて、徐志 は のように べている。
の可能性を探求するのに便利な であると思う。)
の
體性、緻密性ないし單純な
倣でない限り、むしろ却って、中國語の柔軟性と、口語文體
私が思うには、この詩形や別の詩形を試みることは、表面
ぬものしかできない」と言ってましたが、私はそうは思わない。
(梁實秋さんは「中國語では s
onne
tを書くことは到底似つかわ
師範大學 、六九八~七一一頁
)
!
+
究」第十八期、一九九二年一二
$
/
文學
( ) 東京大學出版 、一九八八年5刷
( )「徐志 の唯美性―語彙の美を中心に―」(早稻田大學「中國
,
'
) なお、この一句の中の「韻文」は「詩歌」の換喩である。こ
,
.,
* (
21
(
&, #
!
け
一
18
19
20
$ '
1996
,
の句の中にはすでに「詩」という字を使ったので、重複を
-
るために、換喩 に「韻文」としたのである。
個 である。
)
,
( ) 白水 、一九八七
( ) 原文は 一面點 民壯 分點 捕 多應是 底撈
徐志 詩文の比喩性(加
,
,
)
(
22
1110
12
1413
15
1716
112
(
第二十九集
詩心...北京
開始跳
風光卻又在無形中搖活了我久蟄
開了心也跟
頭居然又見到天了。眼睛
中國詩文論叢
性靈。抬
鼓動了我奄奄
了
動。
年四
中國に招
されたとき、責任
の一人である徐志
は
見つかっている。その文面から二人
は、タゴールに關する隨筆を計四
?1974)とは、一時徐志
に對して金錢上の
阿幸
助までした形跡
收》四五~七九頁。大
外國語學院
與阿瑟・魏理(Ar
t
hur
があるほど親しく交友していたのである。詳しくは加
思》
》)に參照されたい。
とアーサー・ウェリ」(《徐志
Wal
e
y)《《散叫
發行、二〇〇二年一二
「徐志
比較 究
のイギリス祕書、エルム・ハースト(Le
onar
ad K.
El
mhi
r
s
t
,
の親しい交流ぶりが窺える、特にタゴールのイギリスに滯在時
たのである。徐志
あり、現存する手紙も6
書いて
譯と世話役として 行 を共にし、その後親交を持つことになっ
ndr
anat
h Tagor
e
,18611941)が一九二四
) タゴール(Rabi
23
Fly UP