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それでも私は行く』論 : 「京都日日新聞

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それでも私は行く』論 : 「京都日日新聞
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織田作之助『それでも私は行く』論 : 「京都日日新聞」
を手がかりに
斎藤, 理生
國語と國文學. 89(10) P.33-P.47
2012-10
Text Version publisher
URL
http://hdl.handle.net/11094/56972
DOI
Rights
Osaka University
織田作之助 ﹁それでも私は行く﹄
ii
れでも私は行く﹄はその最初の作品である。のち大幅に手が
日日新聞﹂に四月二六日から七月一一五日まで連載された吋そ
織田作之助は、その年の内に一一一篇の新開小説を書く。﹁京都
間﹂にと大舞台に話題作を立て続けに発表して注目を集めた
昭和二一年四月にを﹁改造﹂に、円世相﹄を﹁人
ために摘摸をする相馬弓子と知り合う︵木屋町三燦︶。また、
︵回線河原町︶、新丹成金の小郷虎吉の犠牲になった姉を救う
年・梶鶴雄は、サイコロの日が出るままに京都の町を間歩し
とめられよう。先斗町のお茶屋の怠子で三高に、通う美貌の青
梗概を記すのは容易ではない。が、さしあたり次のようにま
ように、途中で構造や筋の進行に大きな変化が起こるため、
1 1 1﹁京都日日新開﹂を手がかりに
入った単行本︵大阪新聞社、昭和二一一年二月︶が出版され、内定
京都の新間に﹁それでも私は行く﹂という小説を連載する予
1a寸zdv
車
本織田作之助金集第六巻﹄︵文泉堂出版、昭和友一年四月︶で
町﹂﹁木鹿町一ニ係﹂﹁寺町通﹂﹁下鴨﹂﹁先斗町﹂﹁一一一候河原町い
一篇は九つの章から成る。それぞれの章題は﹁田線河原
出して、安の浮気現場を目撃させる。混乱した小郷は、金力
︵下総︶。弓子は新聞記者を装って小郷に会い︵先斗刈︶、連れ
紹介される。そこで虎吉の妹の宮子に誘惑されるが、逃げる
0
鶴雄は三高教授の山吹に、小郷家での家庭教師を
定で、鶴雄をモデルにしたいという作家小田策之助にも会う
生
は単行本の本文が使われている。しかし本論では、初出の形
藤
︵
点
寸
町
通
︶
斎
でこの小説を読み解きたいと思う。
長岡
守山台寺﹂﹁京極﹂﹁それでも私は行く﹂である。後に述べる
3
3
モ~b.
誘惑されて逃げた際に小田に会う。小田から胸った財布を返
わりになる︵一一一線河阪町︶。翌日、鶴雄は宮子に遭遇し、降、び
しかし護者の君勇が、総燥が鈴??に寄せる想いを知って身代
にものをいわせて初対而の舞妓の鈴子の旦那になろうとする。
て﹁実名小説﹂などの様、ざまな要素を編み上げた総合小説の
小説﹂にして当役風俗小説、犯罪実話形式の探偵小説、そし
タージュ的効果を盛った小説を書いたという点に実験的な特
l
色がある﹂と指摘している。鈴木貞美は﹁﹁この小説を書く
なかったこの町の操り場の風物を背景にした、一種ルポル
︶
小郷は君努と狭一間館に
︵
しに来た弓子にも再会する︵古川ムピサ︶
体裁﹂を取っているとしている。西町長夫は﹁奇抜な務想と
︵
な関心を引く一方では、それらの現実の人物たちがい燦構上の
︶
行った先で何者かに殺される。犯人は君勇の一冗旦那の一一一好で
構成をもった小説﹂として、﹁作者の日常生活や京都の日々
2
あった公開小板︶。事件は終息し、鶴雄は北海道へ旅立つ︵それ
の出来事がそのまま同時的に小説に掛かれて読者の私小説的
織問はこの小説について、単行本の﹁あとがき﹂で、﹁京
人物や出来事とかかわって思いがけない展開をして読者のロ
0
でも私は行く︶。
都の人はこれまで自分たちの土地を舞台にした小説が、土地
︵
︶
マネスクな関心を引くように工夫されており、地方紙の連載
3
の新開に執るといふやうな経験がなかったので、この小説は
館織問文防総︶でも、﹁毎日の新聞山が出るのを待ちかねて、販
を語っている。その﹁あとがき﹂の草稿︵大阪府立中之島閣議
く﹂といふ言葉は、京都の町々で流行した﹂とその人気ぶり
たとは苦いがたい。しかし織田の作品を、大販やデカダンと
評判にならなかったし、研究史でも詳細な考察がなされてき
てきた。ただ、地方紙に連載されたことで同時代の文壇では
を誇った新聞小説であり、その後も実験的な試みを評価され
このように﹁それでも私は行く﹄は戦後の京都で高い人気
小説という特色を十分に生かした野心作﹂だと述べている。
売店まで貿ひに行った読者も随分あるといふ。自己宣伝のた
めゃうぬぼれで言ふのではないが、﹁京都日日は小説で売れ
いった既成のイメージではなく、その方法から見直すうえで
その意味で意外に多く読まれた。題名の﹁それでも私は行
てゐる﹂といふことであった﹂と書いている。
は無視できない小説だと考える。
以下、本論では初出紙に注目し、今では見えにくくなった
研究史では、青山光二がで﹂の新関連載小説は、京都に仮
説まいする作者が、現実の京都の阿を舞台にし、戦災をうけ
-34
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り学生の都であり、映一闘の郊である京都をあますところ
なく描写したい意欲に燃えてゐる。いはば京都の﹁昨
日・今日・明日﹂を描きたいのだ。これは至難だ然し私
は﹁それでも私は行く﹂の決心である﹁紅燃ゆる﹂紅顔
の美少年と共に、そして読者と共に、私はこの小説で京
都の町町を歩きたい。再び京都へ還って来た男の気持で、
化の都、京都の近代相を描かうとしてゐる。かつて学生生活
る若人の新恋愛諮﹂という見出しで、﹁作者は女の都、文
れでも私は行く﹄の予告が載っている。﹁京都を舞台に奏で
ふ﹂︵凶月二問日︶とあり、地元の読者を引きつけようという
を舞台に美しい若人たちが奏でる新恋愛諸i 御期待を乞
いることである。連載開始直前に出た予告でも﹁みやこ京都
ここで日を引くのは、新聞社も作者もコぷ都﹂を強調して
京都の町々を歩きたい。
を京都に送って京都をよく知る作者が、特にこの小説創作の
こうした新開社の意志は、第一号から表れていた。﹁京都
ねらいがうかがえる。
作者が鋭い感覚と特異の筆致をもって文現に気を吐く売れツ
のみなさん﹂という呼びかけで始まる﹁創刊のことば﹂では、
学んだ私の第二の故郷としての京都の古い情緒を懐むと
部として多くの明日を持ってゐる。かつて京都の一二高に
昨日の古い都であった京都は今日では日本の一番新しい
しては当然の戦略だったろう。この時期には表向き言論の自
葉もある。地域管着は、経営基盤の不安定な新興地方新問と
﹁郷土夕刊紙として、待望に応へて発足した本紙﹂という一言
ようと決心してゐます﹂と宣言されていた。加の記事には
﹁社述を賭して京都の発展の為に紙面総動員の活動をつづけ
同時に、今日の京都の新しい姿に娘を股ってゐる。私は
由が認められただけでなく、紙の割当でも優遇措置があった
田作之助は﹁作者の言葉﹂で次のように述べている。
児である事は喋々するまでもない﹂などと記されている。織
ため京都に居を移して傑作をものせんとの情熱に燃えてゐる。
年四月 六日︶には、﹁そ
吋それでも私は行く﹄と﹁京都日日新開﹂
試な
﹁京都日日新開﹂第一︵川町和二
子方
この小説では十日く、そして新しく、更に﹁女の都﹂であ
3
5
の「
︵
4
︶
ので、多くの新しい地方紙が誕生していた。とはいえ、当時
の﹁京都日日新聞﹂はペラ一枚目一一面しかなかった。非常に
浪られたスペースである。そのなかで織田とその小説は自玉
として、破格の扱いを受けてゆく。
たとえば連載開始前日には、﹁にがみ走った男がスキ
S姐さんの紅気焔﹂︵問月二五日︶という、モデ
説のモデル
ル女性へのインタビューが載る。そこで挿絵画家の一一一谷十糸
子がモデルの女性に﹁祇闘や先斗町や木屋町や京都のいろ町
がとてもくわしく小説に出て来るらしいのよ﹂と告げている。
また、﹁織田氏麟然﹁それでも私は行く﹂あひにく雨の鴨川
踊初日﹂︵五月間日︶という記事では、﹁作家織田作之助氏が
小説の題名通り雨天にも拘らず﹁それでも私は行く﹂と鴨川
踊見物にでかけると、喫茶店べにやの主人が現れて本紙の小
説に自分の店の舞台になってゐるのを喜んで挨拶にくる織田
氏はまた踊風物を作品に取り込むつもりらしい﹂と報じられ
ている。これらの記事で、身近な場所やイベントが使われそ
うだと知ることで、少なからぬ読者が小説への期待と関心を
高めたであろう。
昭和二一年の﹁京都日日新聞﹂には、撤回が雑誌に発表し
た小説や、別の小説の映湖北に関する記事もしばしば載る。
文鳥生﹁四月号綜合雑誌の創作﹂︵五月一二日︶には、﹁改造
所載、織田作之助の﹁競馬﹂は一寸読みごたへのある作品で
あった︵中略︶著者最近の傑作である、氏の文章達者な筆致
は今後如何に大成して行くであらうか﹂とある。﹁織田氏の
小説映画化﹂︵六月一五日︶には、﹁本紙の連載小説でおなじ
みの織間作之助氏の小説﹁昨日、今日、明日﹂が、こんど松
竹京都で﹁鶏鵡は何を覗いたか﹂といふ題名で映閥化され
る﹂とある。当然ながら、すべての作家の快爾化や作品が記
事になるわけではない。こうした記事から、当時のコ口小都日
日新聞﹂の︿オダサク推し﹀の一端がうかがえる。
さらに﹁近頃の街の流行語﹂︵六月九日︶では、﹁本紙連載
小説﹁それでも私は行く﹂は各方面で好評を博しこの題名を
まねた﹁しかも私は行く﹂などといふ一言葉がちかごろ流行語
のやうになってゐる﹂と報じられる。ここにも作品の人気と、
その人気に拍車を掛けようとする新聞社の意欲が表れていよ
。
ノ
内
、
こうした新聞社の支援に、作家も応えようと努めたようだ。
青山光ニは前掲論で﹁現実の町名﹂や﹁じっさいにあった﹂
詰や﹁京都生えぬきのフランス文学者﹂たちが﹁名をかえて、
とび出してくる﹂ことに触れ、そうした方法が﹁著者がいつ
36-
と指摘していた。その最もわかりやすい痕跡が章題であろう。
という具体性をてっとりばやくつよめるのに役立っている﹂
名や商売の種類をあらわす名称とおなじように、戦後の京都
も作中にばらまく金額等をあらわすおびただしい数字や 商品
れたのであるが、たとえば五月二日にあった出来事が、翌一一一
月下旬から三ヵ月間、﹃京都日日﹄という夕刊新聞に連載さ
敏捷であった。?でれでも私は行く h は、昭和二十一年の四
に催しないが、織旧作の場合は、そのク小説化。がはなはだ
の見聞を小説化するのは当然のことであり、あえて特筆する
E
梗概の説明の際に記したように、円それでも私は行く﹄の章
日、または四日の新開に出るというぐあいで、いってみれば
談﹂﹁鳩﹂﹁キヤツキヤツ団﹂﹁暮色﹂﹁登場人物﹂﹁走馬燈﹂
でいた可能性があることだ。弓子の掬棋は作中で重要な役割
さらに見逃せないのは、織田が新関紙面との対応も目論ん
︵
であり、京都の地名は一つもない。中石孝は﹁﹁それでも私
を来たしているが、掬摸の頻発は﹁京にひそむ。悪。スリが
︶
題は、ほほ京都の地名で裂い尽くされている。それに対し、
それはニュースみたいなものだった﹂と述べている。そして
6
同じく京都を舞台にした同年発表の新聞小説内土曜夫人﹂
は行く﹂が、京都の中心部の町名をただ単に並べているにす
祭顕一一一月間に七百件﹂︵五月⋮一一日︶等、当時しばしば紙上
︵
ぎないようなぶっきら様なのに比べ、﹁土曜夫人﹂は、こん
を賑わせていた。また、弓子の姉の千枚子が縮る、酌婦が体
︶
笑傑に、連載時の京都では、こうした現実との対応が人気を
7
月六日︶の章題は﹁女の構図﹂
﹁設資新開﹂八月一二 O日1
博していたらしい。
なふうに書き出してみると、かなり考えられたものであるこ
を売らねばならない状況も、間月一七日の記事﹁公娼は廃止
﹁東京へ﹂﹁身上柑
とが一目瞭然である﹂と述べ、作家の雨作品への力の入れ具
されたか終戦後ふえる酌婦生きるために居残る荊の地﹂
﹁夜光時計﹂﹁貴族﹂﹁夜の花﹂﹁兄ちゃ
合に差異の原因を見出している。が、円それでも私は行く﹂
で報じられていた。第四日間︵凶月二九日︶で鶴泌がスピード
が引きつけられる﹁悲願﹂の救援義援金も、四月一一一O日の記
︵
また執筆当時、実際に遭遇した出来事を積極的に小説に取
﹁冷たい。焼けぬ京都人。。焼けたのが悪い。戦災者の
︶
の場合、同じ土地の空気を吸っている読者をひきつけるため
銭で得た金を差しだそうとし、第一四回︵五月九日︶で弓子
5
に地名が章題にされたと考えるべきだろう。
りこんでいたことは有名である。伊吹武彦は﹁小説家が日常
37
身にならう﹂で報じられている。第八四郎︵七月 五日︶で
鶴雄が﹁食綴難で、満足に技業は受けられない と一一段うこと
﹁京大講義より食糧
も、﹁食総事情急迫にかんがみ京大では講義を一まづ
で切上げ一七日から夏期休暇に入ることになった﹂という六
一七日から夏期休
月一問日の
暇﹂を想起させる。
8
むろん、これらを織田が紙而と対応させようと一つ一つ
画的に織りこんだとは考えにくい。ただ織聞は当時、役相を
︵
︶
報じる新聞記事に注目していたので、最新の京都の世態風俗
を積極的に取り入れることで、報道との接点が生まれたらと
いう期待はあったのではないか。少なくとも紙而は、読者が
報道記事と創作欄とを見比べて、震なる話題に気がつけるも
のになっていたのだ。
また、織田の小説は記事以外の紙而にも触手を延ばしてい
る。第五四︵四月一一一 O日︶には、﹁商産の芝居や、松竹肢のチ
ャンプリンの咲凶や、接吻が出て来るといふ大映の映画の噂
ばかりして﹂いる﹁察者たち﹂を描いた場一仰がある。ここで
投目されるのが、連載限始直前の悶月一九日および一一二日の
﹁京都日日新聞﹂に、﹁チャップリンの黄金狂時代﹂と﹁彼と
彼女は行く﹂の広告が出ていることである。特に後者の広告
﹁//﹂は改
には、﹁あの夜の接吻は/イツハリだったのか
行を表す。以下同じ︶だの、﹁触れ合ふ容と唇/脱皮する日本
の/恋愛映画が発散/する新鮮なエロ/チシズム!﹂だのと
あり、﹁接吻が出て来る﹂ことが強制されていた。これらの
広告が繊問の臼に触れ、小説に使われた可能性は高い。他に
も、第一凶閣で弓子が見かける﹁南座﹂の﹁文楽﹂の広告も、
五月二・四・六日の創作欄の真一下に掲載されている。読者は
小説を、広告欄とも絡み合わせて読めたはずなのだ。
さらに興味深いのは、こうした部作と広告との関わりに、
広告主も反応することだ。作中に出て来る︵五月一一一一1 一九日、
六月二 1四日︶﹁吸界文学﹂および怯界文学社は、連載中に二
0
度、創作欄の下に広告を出している︵五月二五日、六月一六
その広告では﹁世界文学第二号﹂﹁アンドレ・ジイド著
︶
日
伊吹武彦訳註/架空のインタヴュ l﹂﹁アンドレ・シiグフ
リード著伊吹武彦訳/アメリカとは何ぞや﹂など、作中に
登場する永田物や文学者たちの名前が出ている。また、その恢
界文学社に鶴雄が訪ねて行く第一八回︵五月一一一一日︶で、通
りぬ一ぎるだけなのに詳細に語られる牛肉店﹁三島亭﹂が五月
二六日に広告を出している。さらには、之、れでも私は行く
/甘味の店/二十九日開店/四谷堂﹂︵五月二八日︶だの、
-38
五
日
﹁それでも私は行く/同じ行くなら此の店へ/吉着古滋兵御
不用品一切︵山中時︶鈴木商店﹂︵七月一三日︶だの、作品内容
とは無関係に、題名だけ用いた広告さえ登場する。
つまり﹁それでも私は行く﹄連載中の﹁京都日日新聞﹂に
は、小説と報道と広告との相互交流があったのである。創作
欄は独立してあったのではなく、紙一郎の他の部分と連動して
いた。織凶の新開小説が、このように媒体と密に関わり合っ
ていた事実は、映画シナリオやラジオドラマ等、多彩な領域
で活躍した彼の創作活動を捉え直す手がかりになろう。
しかし作家と新開社との蜜月は、長くは続かなかった。
﹁小田策之助﹂禁場の背景と効果
作家と新開社との協力体制は、傍闘には大いに成功してい
たように見える。しかし単行本が別の新聞社から出版された
事実が端的に示しているように、内幕では、両者の関係はほ
どなくして険悪になっていたようだ。作家によれば、引き金
は誤植の多さと原稿紛失であった。織自は単行本の﹁あとが
き﹂で、﹁新開問社はひどい誤植を以て私を悩ました。何回目
だったか、原稿の終りの一枚が次の間の最初の一枚とすれち
がって、意味が判らなくなったり、つひにはある闘の原稿が
印刷工場で紛失したのも知らず、引州側引制凶リ引]洲叫州州
りした。引制出川町和出制創出刻刻じ引っ刷出
制判矧叫判制 MM
策之助などといふ作者とおぼしき人物を議場させたりして、
筋を運ばざるを符なくなってしまった﹂と述べている。﹁あ
とがき﹂の草稿ではよりくわしく、﹁まづおびただしい誤植
が小説欄の各行にあって私を悩ました。ある時は、原稿の終
りの一枚が、次の日にのるべき原稿の最初の一枚とすりかへ
られて、作者にも仰のことか判らぬやうな一日分になってゐ
u
る日もあった。訂正を申し込むと、次の日はまた最初の一枚
が首切られて載ってゐた。そして、つひに作者を呆然とさせ
た こ と に は 、 司 例 叫 謝 料 利 引 剖割、たとへば二十
五回の次の日に二十七回の原稿が絞るといふ乱暴さであった。
︵山中略︶そのため構想が変り、作中に作者自身とおぼしき人
物を設場させるなどといふ無理な工夫をして、書きつ、づけ
た﹂と述べている。
実際に﹁京都日日新聞﹂を確認すると、第八閥︵五月一一百︶
の終擦が途中から不自然になっている。そのため翌日には、
第九聞の本文と共に﹁一一一日附本紙小説中﹁弓子はズボンの中
から百円紙幣を出すと餓雄の前に置いた﹂の次章﹁と、弓子
も総くなって﹂以下は本日の分の組み迷ひにつきここに訂正、
-39一
第一一一八闘が二回ある代わりに、第三九闘がない。第七四国も
また、その前後には大きな誤械が頻繁に起こっている。第
三国が二回あり、第問団がない。﹁寺町通︵友こは二関ある。
原稿用紙約一枚分の本文が間に補われている。
上手く接続しない。ゆえに、単行本の﹁木屋町一一一候四﹂では、
一円掲載致します﹂という﹁訂正﹂が掲載されている。しかし
実は、その第九闘の冒頭と、第八回でおかしくなる直前とも
ここでも、普通の恋愛小説を書く気などなかったとしても不
も、敢て非難を覚情して、この作品を書いた﹂と述べている。
を以て描くべきものといふ新聞小説の常識を、打破るために
男美女の甘い恋を良家の家庭が悶胞をひそめない程度の上品さ
済新聞﹂昭和二 O年九月五 1 一九日︶について﹁新聞小説は美
ろう。織田は当時、前年に発表した吋十五夜物語同︵﹁際業経
事件には、誇張があるようなのだのならば、作中作家の登場
思議ではない。
︵
9
︶
も、苦肉の策ではなく、当初から計画されていた可能性があ
二回あり、第七五回がない︵ただしそれぞれ内容は切れ臼なく
誤椴や原稿紛失による読者への最大の不利益は、小説の筋
0
本文における細かい誤字脱字は枚挙に逗がない。
が混乱することであろう。そのため織田は﹁小田策之助﹂を
進んでいる︶
国有名詞に限つでも﹁山吹教授﹂が﹁山教授﹂に、﹁小郷﹂
でしまった形跡は、どこにも見られないのである。
織田が二重線部で強調していた﹁一日分の原稿﹂全部が飛ん
まし﹂が二一一行に渡って説明されている。こうした解決が可
閥抗になったか、総雄への弓子の告白はつづく:::こという断り書
きが付いている。第一一一六回︵六月一日︶では﹁今までのあら
て書かれている。第一一一回︵五月七日︶の冒頭には﹁︵なぜ総
しかし、要約そのものは前後の閤にもあり、作品と区別し
1vJ
﹂0
よ
、
ノ
す
、
作ることで、要約を自然に挿入し、読者の使立をはかったわ
人公の鶴雄が、小田に間われてそこまでの行動を語る場面を
盛場させたという。すなわち、第ニ二回︵五月一八日︶で主
が﹁少郷﹂に、﹁が﹁ユリ子﹂になるなど大きなミス
が見受けられる。
ただ注意したいのは、原稿紛失を裏づける事態は第八1九
閣のみであることだ。なるほど点線郊で一言われているように、
第八閣の終わりの一枚が別の原稿になったのも、訂正したは
ゆえに織田の﹁あとがき﹂も全而的には信用できない。作
ずの第九回の冒頭がおかしくなっているのも事実である。が、
中作家を出さざるを得なくなった最大の理由である原稿紛失
-40-
能であった以上、読者への配慮のためだけなら、作中作家を
このよ、つに
になることによって、読者は小
う。挿絵一間家の⋮一一谷十糸子もそれを意識したらしく、第一一一
をかき立て、現実との結びつきを強化する効果もあっただろ
フィールを写真付きで知っている新聞読者の私小説的な興味
作中作家の出銭湯には、鋭利時の﹁予告﹂で織悶のプロ
ことだ。この小説が実験小説として評価される所以である。
思想﹂ではなく、﹁小説の思想﹂ へ読者を導いているという
考えさせるだろう。 織聞の一一訪問業を使えば、﹁小説の中にある
く、小説という表現そのものによって何が語られているかを
識は、作品を対象化して、小説内で何が語られるかだけでな
︵山川︶
回︵五刃一七日︶の挿絵などは、﹁予告﹂に載った作者の近影
て一篇を読むことを難しくさせるはずである。
らずに、一つ実際にあった事件を書かうと思ってるんだ。人
ん、第一二回での﹁こんどの小説ではね、想像力にあまり頼
仕掛けだと言える。その錯覚は、作家と題名の類似はもちろ
小説が作中で舎かれようとしているかのような錯覚を与える
京都へ来てる﹂ことが明かされる。これは読者に、自の前の
ある﹂ o その原因は、鶴雄の女性関係に、物語を推進させる
以外の作中人物を描くことに築が割かれることになるからで
れは作家の小間策之助という作中人物が抑銭湯し、また、それ
に﹁次第に彼︵引用者校・鶴放︶は後景へと追いやられる。そ
作品のように読める。しかし尾崎名津子が指摘しているよう
梶鶴雄と彼が京都の町々で出会う女性たちとの関係を描いた
吋それでも私は行く﹄は迷戦前の予告や序燥を読む限り、
梶鶴雄の後退
物も実在の人間を出すし事件の背崇も、京都の実在の場所を
力が欠けていることだ。鶴雄と鈴子は前思いで、話一労は自ら
二人の犠牲になり、弓子は身分の遠いを感じて引き下がり、
︵孔︶
いろいろ使ってみようと思ふんだ﹂という小聞の発言と、織
に﹁それでも私は行く﹂といふ妙な題で、小説を書くので、
る。第一一O 関︵五月一五日︶で、小出が﹁こんど京都の新聞
しかし最も大事なことは、小説の構造が変化することであ
が、こうした読みへの誘いは、鶴娩を軸にした恋愛小説とし
説の筋だけでなく、 その作られ方を意識させられる。 その意
、、/’
と酷似しており、読者が結びつけることを誘っている。
登場させなくてもよかったはずなのだ。
小
説
の
小
説
田作之助による現実の京都の取りこみとが対応していること
で強められる。
-41
〆〆\、
むしろ後半は、小郷虎吉の言動が物語の推進力となる。小
って自分の行動を左右しながら、運命の刃の上を渡るや
﹁ジユリアンになれたら本望だ﹂/つねにサイコロによ
ると言える。鶴雄もそれら名作の主人公にあこがれる。が、
郷は弓子の策にはまって妥の浮気現場に出くわし、鈴子に手
うな激しいスリルを求めてやまない鶴雄は捲怠した生活
ん明日子は誘惑に失敗する。織田の他作品と同様に、この小説で
を出しかけて語数と関係を持ち、一一一好に嫉妬されて殺される。
から脱け出す胤路を、下鴨の小郷の家に求めてやって来
そこには大きなへだたりがある。次の引用は、第一一八開︵五
この惑玉の破滅劇が、後半の筋の中心と一言うべきである。特
たのである/ところが、和製のジユリアン・ソレルもい
も嫉妬の役割は重要だが、鶴雄と鈴子の心は他の誌にも傾か
に、小郷が﹁クンパルシ!タ﹂の旋律が流れる中で安の不倫
きなり出戻り娘に浴室へ侵入されるやうでは、随分相場
月二問日︶の、鶴雄が小郷山本で宮子に誘惑される場閣である。
を目撃する場而は、まさにメロ+ドラマで、通俗的な而白さ
たものぢゃない。ただ、官能的な、はしたない場而が鶴
も下落したものである。高貴な精神もへったくれもあっ
読んだ時、鈴雄はほっと溜息をついた。/﹁ラスコリニ
まったのを、ラスコリニコフは感じた::・。/そこまで
-42
ないので、二人の関に嫉妬は生まれない。
をもたらしている。ところが、この場面に総雄はまったく関
i11ラスコリニコフは老婆の顔をにらみつけながら、斧
また第五二関︵六月一九日︶では次のように拙かれる。
鶴雄はジュリアンになぞらえられつつ、相対化されている。
却を待ち受けてゐたに過ぎない。
与しないのである。
鶴雄を中心とした筋は、小出策之助によっても後退させら
れる。鶴雄は小出による作中作のモデルになるが、実態は情
を振り上げた。が、その時ふっと自分から力が抜けてし
報源に過ぎない。しかも情報源としての役割さえ、最後は刑
事︵単行本では司法、五任︶に取って代わられる。結局、一連の
作品では、前半にスタンダiルの T亦と黒﹂が、後半にド
コフには人が殺せなかったのだ。観念では殺人は出来な
︶
は
︵
物語において、鶴械はこれといった活躍をしないのだ。
ストエフスキ!の門罪と罰いが長々と紹介される。美青年・
/さう舷いて、活字から限を離した時、鈴子の戸が
家庭教師・身売り・殺人といった接点を介して、﹁それでも
私は行くいは間作品と重ね合わせて読むことが期待されてい
、
し
聴えて来たのだ:::。
﹂こで鶴雄が共感しているのは、未だ殺人を犯していない
︽
ラスコリニコフでしかない。 なるほど鶴雄はこのあと夜通し
を読み枕り、 小郷を斧で殺す夢を見る。だがそれ
川刻刀
も夢どまりで、実行には移さない。宮子とは関係を持たない
η〆しま
芯
・
を
川
町 4aヲ
し、愛する鈴子の危機を救うのは君勇で、 ト
1M
,
r
p 2 3ι
hv
﹂の三高生は主人公の座から滑り落
好である。鶴雄はジユリアンにもラスコリニコフにもなれな
︵門川︶
い。小説が進むに連れ、
ちてゆくのだ。
鶴雄は、最終︵第八四︶間で、小田と次のように一言葉を交
わす。
﹁どうしてって:・:・。君勇にも弓子にも鈴子にも、もう
会ひたくないんです﹂/﹁ふーん﹂/﹁それに、京都と
いふ土地がつくづくいやになりました﹂/﹁ぢや、どこ
へ行くの:::/﹁友人が北海道にゐるんです。そい
つを頼って牧場で働きます﹂/﹁学校は:::?﹂/﹁よ
します。どうせ、食糧難で、満足に授業は受けられない
し、北海道の牧場で、独学する方が気が利いてゐます﹂
鶴雄は女たちからも、京都からも離れようとする。しかし
この小説はわずか五日間の物語であり、鶴雄の決意もここ数
日の内に生まれてサイコロで決めたものに過ぎ、す、 総弱さは
百めない。 北海道での肉体労働生活に憧れる京都の学生とい
う設定は、 間木田独歩の 吋牛肉と馬鈴薯い ﹁小天地﹂明治三間
年二月︶を想起させよう。 吋牛肉と馬鈴薯﹄ では、 同志社を
出て、 理想に燃えて北海道に赴き問阿部唯一事業に取りかかったも
のの五ヶ月で挫折し、 現実主義者になった炭鉱会社の紳士
上村の過去が紹介される。苦労知らずで間関に﹁坊ン坊ン﹂
と呼ばれている鵠雄が、 上村と同様の挫折する可能性は決し
﹁現実﹂を描く関難
て低くないはずである。
間
第七O関︵七月八日︶で、鶴雄に﹁こんどのあなたの小説
は通俗小説になるんですか﹂と聞かれた小田は ﹁残念だが、
中/宇J
酒田、主血
通俗小説、だね。新聞小説は通俗小説でなくっちゃ読まれない
し、だいいちかう偶然が多くっちゃね﹂と答えている。
斗ゴ十やふ品、 まさにこうした批評的な言及
吋それでも私は行く﹂ i
il
があるゆえに、通俗小説から距離を取っている。第七六回
︵七月一五日︶ では、﹁新聞小説で受ける小説を書くのは、小
﹁凝って書けば、受けないし、凝
聞のやうに癖の多い純文学の小説を惑いてゐる作家にとって
は、かなり苦痛であっ
-43一
らなければかへって受けるかはり作家としての良心が許さな
書きかけた作中作の官頭が引用されるが、その本文は読者が
に冷笑され、相対化されている。また、第七六闘には小田が
の冒頭と、よく似てはいるが、文の切り方や細部の表現が異
い﹂等と語られていた。つまり﹁それでも私は行く﹄は終盤
二点本で山引用したように、小防は新聞小説に﹁実際にあった
なる。作中作の構想にはいなかった三好が実際の小説では捕
第一回︵限月一一六日︶で読んだ現実の﹁それでも私は行くい
事件﹂を書くつもりだと述べていた。その計画は、第六五閉
かれていることも含め、小田と織問、作中作とこの作品とは、
に、メタ通俗/新聞小説としての貌を鮮明にしてゆく。
︵七月一一一日︶でも﹁小田は、こんどの新作の﹁それでも私は行
第八二閲で小田は挫折するが、﹁開時に、小田の職業意識
近づけられつつ、明確に線引きされているのだ。
ルポルタージュ式に、出来るだけ小出自身の想像を加へずに
は強い好奇心の食指を動かせた﹂ゆえ﹁一一一好ってどんな男で
く﹂といふ新間小説では、本当にあったことを、そのまま、
書き、場所も人物も実在のまま使ふといふ奇妙な計闘を樹て
得ょうと努めるさまが拙かれている。そのため、小田がこの
すか。なぜ小郷を殺したんですか。なぜ、一一一好だといふこと
探す。しかし最終的には、それまで知らなかった三好という
あと、まさに読者の目の前にある吋それでも私は行く﹂と同
てゐた﹂と強調される。事実のままに書きつつあったゆえに、
人物が犯人だったとわかる。﹁本当にあったこと﹂を写して
じ小説を書いたと考えることは可能である。ただし、一一一好を
が判ったんですか﹂と﹁畳み掛けるやうにきい﹂て、情報を
も、複雑な﹁現実﹂の諸相には対応しきれないことが判明す
はじめ複数の登場人物の内閣に立ち入るその書き方は、彼の
小郷殺しが起こったとき、小田は作中人物候補の中に犯人を
るのだ。だから第八二部︵七月二一一一日︶で﹁現実を甘く見て
当初の計一則とはちがったものだと言わざるを得ない。
織田の小説は、実際にあったことを書くという小閣が考え
ゐたこの小説家﹂は、﹁現実といふものは、それに挑み掛ら
うとする作者に、どんな不意打ちのいたづらをするか、判っ
る。よく似た仕組みは石山祁﹂にも見られる。﹃位相﹂の
た方法では表現できない﹁現実﹂があることを浮き彫りにす
しかし作中作の破粧は、織田の作品の破綻を意味しない。
﹁私﹂は敗戦後の現実を描こうとして紘一十を執るが、気が付け
たものぢゃない﹂と己の限界を泌感する。
もともと小関の小説の櫛惣や文学論は、口にされるたび鶴雄
-44
︵
M
︶
てゐるのだ﹂と繍くが、﹁だからといって背のスタイルがの
自分に一戸惑う。彼は﹁今日の世抑制が俺の昔の小説の真似をし
でも私は行く hとは、新聞という媒体と強く速読しつつ、そ
﹁現実﹂を表象することの閤難を訴えている点である。ヌιれ
要なのは、原則として事実を報道する媒体である新関紙上で、
と京都批判をさせていることにもうかがえる。しかしより重
このこはびこるのは自慢にもなるまい﹂。かといって﹁才能
の特性を逆手に取った小説でもあったのだ。
ば過去に得意とした小説のスタイルを反復してしまっている
の乏しさは世相を生かす新しいスタイルも生み出せなかっ
た﹂。やはり作中作の失調を介して、敗戦後の混乱した世相
敗戦直後の織田作之助は、斬新な新聞小説を企関していた。
その怠欲は吋十五夜物語同からもうかがえる。この小説は、
を逆説的に表そうとしているのである。
吋それでも私は行く﹄の特徴は、そうした同時代の世相を
夢想判官という空想癖の強い男の活躍を筋の中心としている。
h
の連載が始まったのは、
では一一おえまい。 一議の︿小説の小説﹀という﹁形式﹂は、織
なるほど、この小説で斬新な﹁形式﹂が⋮編み出されたとま
その三ヶ月後である。
と書いていた。吋それでも私は行く
もあってもいいのではないか﹂︵前拘吋狭飛佐助﹄﹁あとがき﹂︶
M由は一古川されたが、内容だけでなく、形式の自由
てみたい。 P
れると思ってゐる。誰もやらなければ、作者はもう二度やっ
りずに、?﹂のやうな新開小説の形式は何れ誰かがやってく
社にも実際の読者にも頗る不評であったようだが、織田は懲
ら鴎いたという質問や批判を取りあげることさえある。新聞
が、冒頭から書いている﹁私﹂が前景化し、途中では読者か
写す困難が、新聞間小説で書かれたことである。この小説では、
新聞報道がしばしば作家に後れを取っている。小聞が新聞を
読んで疑問を感じ、警察署にかけつける第八O回︵七月一一一
日︶はその典型だが、その後も作中の新聞は行き当たりばっ
と誤植されてゐた﹂というミスまで
たりの報道をする。第八一一回︵じ月一一二日︶では、﹁君勇の勇
の字が男になり
したことになっている。作中の報道はいい加減で、作品は現
実を写すことの間維を訴えかける。これらの要素は、読者を
してまさに﹁京都日日新開﹂紙面を素朴に受け取ることを妨
げかねない。
明らかに、織問は新開社との後月的協力から軌道修正した
と言える。新開社への非協力的な姿勢は、終盤で小田に長々
-45一
聞が﹁可能性の文学﹂︵﹁改造﹂昭和二月︶で理解を示
しているジイドの﹁殴金つくりいの﹁ややこしい形式﹂に似
ている。作中にはジイドへの言及もあるし、一元的な現実解
釈を相対化する﹁劇中劇﹂や﹁作者﹂の導入に、内償金つく
り﹂を意識した部分があるのは明らかである。ただ、そうし
た方法は昭和一 0年代に太宰治や石川浮が、より先鋭的な形
︵
日
︶
で試みていたと言える。しかし、一見すでに手垢の付いた方
法に映る︿小説の小説﹀も、戦後に、地方新開という媒体の
特性を活かした形で用いると、新鮮さと批評性を持つ。その
文から始まる
レス・コード﹂︵日山内向令官
ニュースは厳絡に真実に符号しなければな
着眼はまぎれもなく織問のものだ。
否、占領下、
らぬ﹂という
司令第一一一三条﹁日本に与うる新聞滋刻﹂昭和二O年九月一九日︶の
下で、﹁現実﹂と積極的に絡みつつ、﹁現実﹂を書くことの関
難を考えさせる新聞小説を書いたこと。それは、織間作之助
の権威に対する批判が、文域内部にとどまらぬ射程を持った
︶
﹁作品解題﹂︵吋P
X
本総凶作之助全集第六巻い文泉州けし山川町帆、削川和⋮九
可能性を示しているはずである。
︹
注
︺
︵
l
2
︶
﹁
二 O佐紀の芸人iii
織副作之助の佼置﹂︵﹁奈川ア iガ 三 平
成八年一一月︶
︵
小説い円わ波市対応、問削利六一二年八月︶
︵
3︶﹁織凶作之効と焼跡のジュリアン・ソレルたち﹂二日本の戦後
平成二年一O月︶によると、発行部数は一 O万。のち経営不振に
4︶﹁京都日日新聞﹂は夕刊紙で、﹃京都新聞凶年史い︵京都新川同社、
︵
陥り、昭和二四年七月に﹁京都新開﹂に合併される。
余木問主編集工泌ノア、平成一O年六月︶
︵
5︶﹁務麗なる未完の大作111吋土限夫人ピ︵吋織川制作之助稲川以
然出版、昭和双一年間月︶
︵
6︶﹁織田作の。気ィっかいし︵吋定水制制限作之助金銭第一巻い文泉
︵
7︶中村勝﹁治中先斗町・木殿町それでも私は行く織悶作之
ター、平成⋮八年二月︶には、コそれでも私は行くいは毎日、新
助山絞り場にうごめく男女計像﹂︵コ爪都文学散がい次郎新聞出版セン
川仰を待って読んだ記憶があります。、河原町三条のキャバレー吋歌
舞伎﹂や、しるこ屋の﹃べにゃいなんかが出てきますねえ。筋は
もう党えていませんが、人気ありましたよ﹂と語る﹁昭和二十一
ている。
年に活水原町週間条上ルに喫茶店を開いた﹂女性の証言が記され
﹂︵﹁夕刊新大阪﹂問和二一年二バて八日︶で、﹁今日の作家﹂
ムii1
︵
8︶織閃は﹁間相と文学︵上︶ 111時代に怒れた作家のリアリズ
-46一
f
ド
ム
ハ
−
二
が拙かれるのは第一− 了一一一・九・二ハ・二一一−一一一一了二 mm−
ている。
iitさいとう・まさお/群府内ふ入学准教授iii
会︵平成一一一一一年九月二五日、於ド H山学院大げさでの口頭発表を必にし
︹付記︺本稿は、太宇治スタディ1ズの会・石川涼研究会共同研究
aO
、a tれ 、
L
L ふU
すれば、太宰や石川の過去の作品に似ただろうが、そうはなって
説執筆の苦悩が小羽ではなく誇り手のものとして古かれていたと
今まさに書き、脅かれていることは問題にならない。もし新開小
れてゆくさまに特徴があった。しかし吋それでも私は行くい では、
山川て米て、市一日くものと者かれるものとが反射し合って小説が紡が
口問併では、書き手の市泣きつつある文’ネへの批評的な滋識が前胤に
来い︵﹁日本淡民派﹂︶と石川涼﹁伎人い︵﹁作品﹂︶をはじめとする作
︵日︶たとえば、共に昭和一 O年五月に発表された太挙治吋道化の
半分近くが削削除される。
︵孔︶第七一間︵七月一一日︶参照。単行本では、この京都批判の
絵に登場し、終盤に存在感を地していると一万える。
・ムハムハ・六八・七一・七六・七七・八二回の帰
L
二一・ムハ一一− ハ⋮一
以降は存在感を失ってゆくと一添える。対照的に、小田は第一九・
m二・五七・五九・ムハ一・ムハ一一了ムハムハ・七一凶であり、中盤
が﹁いたづらに過去の夢を追うて心すきにくい世相の方は新聞に任
よりは日々の新聞を弘一んでゐる方が、興味深んべたりと感ずる﹂と
せてゐる﹂ことを批判し、﹁今日の雑誌に発表される小説を読む
述べていた。
H一
、的利一一
︵
9︶﹁あとがき﹂会談終佐助︺一一一偽札 一
m
w︶﹁小説の忠惣﹂︵﹁大阪初日新聞﹂附利一五年六月二二・一四日︶
︵
︵孔︶﹁小説における︿偶然﹀ iii織間作之助、昭和二十一年の実
﹂︵﹁祭文研究﹂一平成二 O年六月︶
践ili
︵ロ︶物語に﹁偶然﹂をもたらすはずだったサイコロも、しだいに
役目を来たさなくなる。冒頭では、欠泌悶鶴子なるタイピストに
会いに行くのかと思いきやサイコロの指示によって会わず、その
後も凶鶴子は山山て米ない。新開小説の二回目で名前となれそめと
手紙まで出てきた女性が最後まで笠場しないことは、読者の怒表
を突くだろう。が、こうしたな外な展開がもたらされるのは議初
の典型的な場而が第五九問︵六日月一一六互にある。﹁鶴雄は何だか
だけである。鶴郎は途中からあまりサイコロを振らなくなる。そ
気が准一まなかったが、しぶしぶついて行った。宮子と一緒に歩く
のはいやだったが、しかし、弓子にはやはり会ひたかったのだ。
/だから、サイコロを振ってみもしなかった o﹂
︵日︶鶴雄の筋からの後退は、挿絵に掛かれる凶数の役移からもう
m
かがえる。挿絵後場関数を服佼づけると、 一佼・鶴雄︵一六 m
、
︶
二佼:弓子士山岡︶、三位・:小問︵一 O隊︶と続く。ただし餓雄
-47-
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