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ドイツ国法理論における法律の概念について

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ドイツ国法理論における法律の概念について
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一・
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ドイツ国法理論における法律の概念について
hイツ国法理論の二つの流れ
城
の衝突へと還元して論理的分析の方法で解決し、それによって評価的決断を避けて演繹的認識へと逃込まねばならな
説
ークは、基本的概念を形成し明確化しそれによって内的統一と独立の生命を持った学問的全体を形成する事を目的と
ニ
すると共に、一切の非法律的要素を排除するものでなければならないのであり、実践的社会的利益の紛争は形式的量
律学の使命は法の概念的類型と法律的形式とを確定する事であり、この形式と類型は法の歴史的内容から得られるも
ニ のであるが、しかし、学問的には思考三・段によってのみ完成され得るものであり、ゲルバーにとっては、ドグマティ
者の対立は、両者が自ら掲げる方法論に明瞭に現はれている。即ち、十九世紀国法学の創始者ゲルバーによれば、法
性、固定性を与えたのに反して,後者がル規範的なるものゲに対する〃政治的なるもの〃の優位を強調し、法規範を
ご
〃政治的なるもの〃との関連の下にのみ解釈し,法規範から安定性、固定性を奪ったと言はれている。このような両
徴的に表現されている。即ち,前者が所与の法規範を絶対的なものとして受取って之を忠実に解釈し、注規範に安定
治的憲法論とがそれであって、この両者の対立は〃規範的なるもの〃と〃政治的なるもの〃との対立と言う言葉で象
ェリネック・アンシュ由.ツを代表者とする十九世紀後半の国法学とシュミット。スメントを代表者亡する二十世紀の政
従来、ドイツ国法理論の歴史の中に一般的傾向として二つの流れが存在する事が指摘されて来た。ラーバンド・イ
栗
いのであった。 又、ラーバントにとっては、実定法のドグマティークの使命は個々の法律規定を一般的概念に還元
論 ︵四・
26 (3079) 319
一、
説 へさ
し、且つこの一般的概念から生ずる結論をひき出して来る事にあり、法とは非論理的素材を超越し、前提や目的から
切離された一般的法概念の論理的に整序された体系に外ならず、従って実践的諸問題は常に法の問題として論理的三
論 ︵き
摂の方法によって論理的操作によってのみ解決されるべきものであった。従って、ラーバントにとっては。法律には
組帯はありえても法秩序自体には自然の秩序と同様に欠欲はあり得ないのであった。之に対して二十世紀の政治的憲
法論は全く反対の態度をとる。シュミットは言う。〃純粋に規範的性質の完結的な憲法体系は存在しない。一連の個
別的憲法規定を体系的統一と秩序として取扱う事は統一が前提された、統一的な意思から生じない場合には恣意的で
ある。〃〃憲法の意味する政治的決断は決断の主体に反作用する事が出来ず、その政治的実存を廃葉する事が出来な
い。憲法と並んで又憲法の上にこの意思が存在している。政治的綜体的決断の基底自体にかかはる真の憲法争議はす
コ べて憲法制定権力自身の意思によってのみ解決され得る。憲法におけるすべての欠敏も憲法制定権力の行為によって
のみ充填され得る。〃又、スメントは言う。〃国家はその憲法の中で規制された生活部面によってのみ生活している
めではない。憲法自身政治生活の中に転化され得るためにはその補完のために政治的生活の基底的衝動とそめ他の多
ご
くの社会的動機づけをあてにしなければならない。しかも憲法はそれによって規制された国家の生活作用をすらも完
全に把握する事は出来ない。〃従ってスメントにとっては、国家生活は僅かのシェrマティッシュな憲法規定によっ
では完全に把握、規制されず、憲法の使命とする統合の成果は憲法規定に忠実な解釈によるよりも憲法規定にこだは
らない政治の動きによって達成される事が多く、従って憲法の意味自身.が斯かる弾力的で他のすべての法解釈から遙
ニ かに異った憲法解釈を要求すると言う事になる。
このように方法、目標を異にする二つの国法理論の流れが現実の社会生活において営んだ作用も早馬っていたのは
当然であって、十九世紀的な実証主義的国法学が、市民社会の比較的安定した斯間に、当時の国法体制の維持、強固
26 (3080) 320
化に仕へ、当時の国法体制が不充分ながらも具備していた、〃ダス。ノルマティーヴェ〃と言う語で象徴される,合
理主義的・市民社会的要素を擁護したのに反して、 二十世紀の政治的憲法論は、市民社会の動揺期にあって、斯か
る、究極的には市民社会的な厨怯体制に激しい攻撃を浴びせて、それに代えて〃ダス。ポリティッシェ〃の語で象徴さ
れる全体主義的な独裁休制を樹立するのに多かれ少かれ貢献したと言う事が出来よ・努⊆㎡者は斯様にその方法論にお
いてのみならず、その社会的作用においても、明確に相違しでいるのであって、斯かる相違は両者の歴史的し社会的
意義を規定するものとして決定的重要性を持っている。しかし、それにも拘わらず、国法理論のこの二つの流れを底
燕藩
礎し、両者の言わば共通の母胎をなし、従って十九世紀的国法学から二十世紀政治的憲法論への推移を自然的とでば
ないにしても尤もなものとして思わしめるものが存在した事も亦、ドイツ語法理論にとって決定的重要性を持つ.もの
と考えねばならない。
時代の相違或ほ歴史的秘曲の相違が異った国法理論を産み出したけれども、特殊ドィッ的な思想地盤と言う共通の
母胎が二つの国法理論を深く規定していて両者をしてひとしくナチス独裁体制を直接。間接、積極的一消極的に肯認
せしめたのである。以下、二つの国法理論において激しく論議された﹁法律﹂の概念の検討を通じて、この〃共通の
母胎〃が何であったかを考察 し て み た い 。
二、ドイツ国法理論における法律の概念
先づ、法律の一般的意義の考祭から出発せねばならない。絵律の法本質概念としては国家の最高機関によって定立
説 された上級法規範と言う事が考えられるが・その時代、その社会が国家の最高機関についてどう考え、法皇範と言う
論文についてどう考えるか忙よって・更にその時代・その社会の法律の法内容的概念が規定されて来る.⋮で先づ.
26 (3●8ゴ) 321
26 (3●82) 322
近代の国法体制に決定的影響を及ぼしたし又現に及ぼしている立憲主義的・法治国的思想の怯律概念についで考えて
論
見るとqそれは上述二点について次のような規定を持っていた。即ち、法律は先づ自然法或は法原則を具体化し明細
み説明され得ず、やはり特殊ドイツ的な事情に負うていると言う事は、二元説の成立の直接のきっかけからも窺えるα
一75化が確立され、支配的となって行った。ただ、この二元説の成立が、法律的認識の進化や権限配分の必要性からの
定への参与権を獲得したために議会と政府との間の権限配分を確定する実践的必要性が増すにつれて、法律概念の二
つたと言う事であ都鰯︶所が十九世紀後半になると・国法についての法律学的研究が進み、且つ議会がすべての法律制
律概念を特徴づけるのは、そこでは法律が統一的に理解されていて、十九世紀後半における如く二元化されていなか
ネラルを代表する国民代表機関による定立と言う要素は余り強調されなかった。しかし、十九世紀前半のドイツの法
しい、合理的な.一般的な法規範として理解されていたと言う事は出来よう。しかし、法律におけるボロンテ・ジェ
ら、明確な、一般的な法律概念の存在は認められなかったが、ただ大体の傾向として.法律が自然怯に適合した,正
・ω 十九世紀前半のドイツにおいては、法律を概念的に規定する事が未だ特に実践的な意義を持っていなかったか
ω 十九世紀後半の国法学における法律の概念。
対比において.以下ドイツ国法理論における法律概念を検討する事にしたい。
念のメルクマールであった。この二つのメルクマールに焦点を合わせつつ、この立憲主義的・法治国的法律概念との
ハ つた。従って、自然法原則による拘束とボロンテ。ジェネラルによる定立と言うのが、立憲主義的、法治国的法律概
即ちボロンテ・ジェネラルによって或はボロンテ・ジェネラルを代表する国民代表議会によって定立されるものであ
つた。第二にそれは、自己の認識し得た自然法を社会生活において実現したいと言うすべての個人の意思︵“良心︶
化したもの或は少くともそれの実現に仕えるものであり、従,って正しく、理性的.で、一般的で、確固不動のものであ
説
即ち、所謂二元説を最初に学問的に明確な形で樹立したのは一八七一年置ラーバントの〃予算法論〃と言う論文であ
うたが、この論文は⋮八六二年から︸八六六年迄のプロイセン憲法争議における、ビスマルクによる予算怯の成立の
ないままの統治の強行を法論理的に合法化する意図と効果とを以って書かれたものであった。しかもこの憲怯争議に
コ ヒ おけるビスマルクの勝利は議会主義原理に対する君主主義原理の勝利を決定的にし、特殊ドイツ的立憲君主制の確立
を決定的にしたものであった。ラーパントによって提唱され、イエリネック。アンシュッツによって継承されて支配
的となった二元説によると、法律には実質的意義のそれと形式的意議のそれとがあり、前者は所謂〃法規〃の拘束的
指令を意味し、後者は議会の参与の下に定立される国家行為を意味している。実質的意義の法律は必ず形式的意義の
法律によって定立されなければならないが,それ以外のものは形式的意義の法律によって定立される必要はなく、又
ソ
定立されても法的拘束力を持たない。このような二元説の問題性は法律が内容的要素から全く切離しても考えられ得
るとされた事と、そこで立てられた〃法規〃の概念が消極的・外部的であった事とであった。
の 二元説は形式的意義の法律を独立させ、しかも、之に国家法体系における決定的地位を与え、実質的意義の法
︵
律を単に形式的意義の法律の可能な内容にすぎないものとした。又、ラーバントは形式的意義の法律についても、法
︵二〇︶
律命令と法律内容とを区別して、法律の本質は法律命令に乞そあると主張し、更に、およそ法律の内容となり得ない
︵二一︶
ものはなく、どんな無意義なものでも法律の内容となり得ると主張した。ラーバントは、〃法律をして法律たらしめ
るのは怯律の内容の性質であって、法律が法律としての内容を持てば当然法律命令もそなわる〃と言うギールケの批
判を反駁して、〃怯律が怯律命令を待たずして法律としてめ内容を持つ事はなく、法律をして法律たらしめるのは主
説権者の命令である”と述べな三白ールケが指摘したように・ここでは法はラチォかボルンタスかの法哲学上の根本
問題が明らかにボルンタスの側に解決されている。従って、ラーバントにとっては、立法行為は責任を負ほない、自
︵二三︶
論
26 (3●83) 323
由な意思決定に漸く行為であり、法秩序自体に対してさへも自由な行為である臼同様な事はイェリネツクについても
て個人の権利、自由に直接関係する領域については議会のコントロールが確保されるようになった。しかし、独立主
間の権利関係の規制縁形式的意義の法律によってか或は法律の授権に基いてか行はれなければならず、この事によっ
あった。従って、法規とは独立主体相互間の外部的関係を規制する規範であり、従って、個人と個入、個入と国家の
︵三︸︶ ︵三二︶
り、アンシニ,ッツによれば、個人の自由、財産に墓準と制限とを与える規範、個人の自由、財産に介入する法規範で
26 (3●ε4) 324
ニの jキ をなす規範であり、イェリネックによれば、諸人格の自由活動の領域を劃定する事を直近の目的どする法規範であ
︵二九︶
先づ第一の面について言うと、み法規〃とはうーバントによれば、個々の独立的主休相互の権利・義務の境界劃定
ニ 格限配分が論理的.形式,的に遂行されている事である。
ため非當に狭いものになっている事であり、他の面は、この〃法規〃と言う一般的概念によって政府と議会との間の
︵ニヒ︶
働二元説の〃法規〃概念の問題性は二つ需を持っていた・;の面は”法規”概念が外部的に把握され・その
のと言う事が出来る。十九世紀ドイツ国法学は決して本質的には規範的ではなかったのである。
構成されている。この意味では、その法律概念は後述の政治的憲法論の公然たる決断主義的法律概念の先駆をなすも
法原則、法理念によって拘束されると言う事が全然認められず、法律定立は完全に立法者の自由な意思的決断として
ではなく 法とは国家の意思、国家の秩序である。斯様に、十九世紀ドィッ国法学においては、法律定立が内容的に
ニ に拘束する事を考えるのは明らかに維持し難い考えであり、国家は法的に万能であり、法理念は函家権力の法的制限
留保。法律による行政の原理を彊調したアソシュッツにおいても同様であって、彼によれば、法定立意思自体を怯的
拘束される事を強調すると共に、他方で法律の制定自体には何らの内容的拘束をも要求しない理論であった。法律の
ニ 言へるのであって、有名な彼の自己拘束説は一方で法律が一且制定されてしまへばすべての国家作用が法律に厳格に
論説
体間の外的関係の規制以外のものほ無規でないとされたために、就巾所謂国家の内部関係の規制即ち国家機関の組・
織、権限の規制や特別権力関係の規制などが議会の固有のコントロールからはすされて政府単独の規制に委ねられて
しまう事にな久.㌍第二の面について言うと、もともと二元説は法律の留保領域或は議会の権限の留保領域を劃定し
ようとする一つの試みなのであるが、二元説は、現実にはその時々の意思的決断を介して歴史的。政治的に形成され
て来た議会の権限の留保領域の弓懸.蔀.・法規と言う雇的法概念を基準にして、論理必然的に行われ得るように説明
し楚駄︶このような論理的・形式的操作は、現実の権限配分が政治的決断の結果である事をかくして、権限配分の現況
に絶対性の外観を与えるもので あ っ た 。
所で、今述べた、第一の面と第二の面とは決して無関係なのではなくて、実は相互に密接に連関しているので病.
る。即ち、法規の概念が示すように、二元説にとっては一国家の内部関係は、法的には把握され得ない、従って国民
︵国民代表議会︶の介入し得ない絶対的な実休であったが.斯かる考えの根底にほ、国家は自己完結的な権力機構と
して倒民に外的に対立し国民の権利・自由を侵害するものであり、要するに園家は国民から隔絶した固有の存在であ
ニセ ると言う考えがあり、従って、斯かる考え忙は、国家は国民個々人の活動の統合を通じてのみ存立し得る作用統一体
であり、国民個々人の積極的参与によって形成され得る作用型一休であると言う考えが欠けていた。むしろ、当時の
ぺ ドイソの国家構成の根木原理は所謂君主主義原理であり、それによって、君主は国家権力を一身に統合し︵単にその
権力行使において.のみ憲法上の制限に服するにすぎなかったから、すべての国家作用従って法律制定も究極的には君
主の意思的決断に外ならず、国民は国家の積極的な共同決定要素ではなくて、単に君主権力の発動を制限する要素に
説すぎなかった・しかし、他方において、当時の・錦ッにおいても既に近代的な合理的な思惟が、国家の民主的な正当
丁づけど竪の内在的鵬に向っていたかり・君森力の意息的決断を需から持出す事は出来なかつ気響て・法
26 (3085) 32ラ
酊H∫
のである。その他、十九世紀後半の厨法学は国法上の諸問題を形式的・論理的。表面的操作によって解決しょうと試
みたが、之は一方では,君主権力の無制約な権力主張に対する防壁にはなったが、他方でほ、国民を国政における決
断の主体或は少くとも共同決断の主体として立てる事を放棄するも・のであった。
.現に、ラーバンーにとって、議会が全国民を代表すると言う事は積極的な法律的意味を持つものではなく、議会は
その議決がその内容め如何にかかわらず、ただ単に指定せられた技術的な形式を有すると言う理由だけで、法律と呼
︵四︻︶ ︵四二︶
ばれる所の、実定法によって指定せられた,立法の技術的機構にすぎず、又、国民の選挙権も単なる客観的法規の反
ニ 射敷にすぎず、アンシュッツにとっても、議会は単に国家の機関であるにすぎず、議会と国民全体との間には何らの
法的紐帯も存せず﹁国民全体を一つの人格と考える事は国民を国家に対立させ国家と国民とを相互に疎外させる事に
なるのであった。しかし、このアンシュッツの考えには、国民全体が一つの人格となったものが国家であって国民全
り 体と函家とはもともと対立するものではないと言う認識の欠如が明らかである。
︵
切 以上の法律概念の検討を通じて、十九世紀国法学が.立法作用を規範的に拘束されない意思的決断として構成
した事、及び君主権力に化体された国家を国民から超越した固有の実体として構成し、そのため国民にこの報奨にお
ける共同決定的作用も共同責任者としての地位も与えなかった事が明らかになった事と思う。
② 二十世紀の政治的憲法論における法律の概念。
帝政の崩壊とワイマール共和政の成立は国家構成原理としての君主主義原理を消滅させたが.しかし、君主主義原
理が国法理論の上に印した二つの痕跡は消えなかった。この事はワイマール時代の代表的公法学者ケルゼンにおいて
26 (3●86) 326
律の留保領域の劃定に当っても、それを君主権力め政治的決断の所産とtて説明せずに、論理的・形式的に説明した
説
払
顕著なのであって、彼は一方で、従前の国法学が絶対化し、実体化していた国家それ自体を解休し、従前の国法学が
君主権力に与えていた剰余価値を撒結して、すべての国家現象を純粋に法の創設関係に還元してしまい、その事によ
へ ぬ って国家現象の全象面を法理論的に把握する事を可能にし、その点で十九世紀国法学を一歩進めたが、他方において
第一に一切の超実定法的規範の法的存在を否定し、従って法律制定における自然法原則による拘束を否定して法律制
定を純粋に立法者の意思的決断として構成し、第二に、法治国的.議会主義的立法機構や立法作用をボロンテ・ジェ
ネラルの原理に基いて価値的に正当化せずに、それらを形式論理的に法秩序の自己運動として説明するに止まり、す
べての個人の、法原則によって拘束された主体的決断が法秩序の維持展開を支えると言う認識を打出さなかった点で
十九世紀国怯学と変らない。勿論、ケルゼン的な規範論理的方法も、市民社会が一画安定し、市民社会的。法治国的
立法機構が一応充分な作用を営んでいる限り、斯かる機構の中で産み出された法律の円滑で徹底した支配を進めるの
に役立つと言う意義を持っている。しかし、社会が動揺して斯かる機構の作用能力が問題にされ始めると、ケルゼン
的規範論理的方法は。法治国的立法機構を擁護出来ずに、容易に他の政治体制及びそれを反映する国法理論によって
圧倒されてしまう。しかし、斯かる政治的状況の中から生れて来て、十九世紀的国怯学或はケルゼン的国法学を圧倒
して、ナチス体制確立のための地均ちしをした政治的憲法論にも十九世紀的国法学の二つの特質がはっきりと現はれ
ていた。
ω シュミットは一見規範主義的法治国的主張を展開する。即ち、彼は法治国的。議会主義的体制が維持されるた
めには法律の概念が特定の実質を持たねばならないとして、内容上の実質として法律が正義・正当性・合理性と言っ
説た理念に適合している事・少くともそのた竺般性を持っている事を挙㌦、ギ続上・〃所有と教育”によって特徴づ
論
けられ、且つ政党その他の利益団体の指令によって拘束されない議貫によって構成され、”公開性ダと”討議〃とを
26 (3087) 327
粥
P/L」
26 (3●ξ38) 328
ハ 活動原理とする国民代表議会によつで議決される事を挙げる。 しかし、彼は、ワイマール憲政の現実を測るに当っ
て、この法律の規範的要素を極端に厳格に適・早し、理念と現実との間にある当然の一定のシュパヌンクめ存在を許さ
地 位を
持
っ
て
い
る
。
し
か
し
。
、〃法作用の休系ゲはこの固有法則性の故忙憲法或は国法にとって異質体にすぎない。け
︵五八︶ ︹五九︶
一体となって〃法作用の譜系〃を構成し、法価値、正義価値によって支配され、国家生活に対しても独立した固有の
ヘコ モ 家の立法によって客観的法或は正義価値を実定化したものであり、斯かる意味での実質的意義の法律の定立は裁判ど
ノ
スメントも或る点では法律における規範的要素を強調す、る。彼によると実質的意義の法律とはそれぞれの時代が国
ズ 主義思想であ.る。
は秩序確立のために権力によって、内容の如何を間わず、とにかく何らの決断がなされなければならないと言う決断
ぼハ 主権者の具体的意思・命令。行為として構成する。シュ、・、四.トのこのような理論の底を流れているのは政治的統一或
代えて国家の政治的実存形態と支配組織の具体的形成方法とから生ずる概念としての政治的法律概念を立て、それを
体制を停止して、純粋な国民の実存的決断を行う事が必要である。そこで、シュミットは前記の怯治国的法律概念に
ニ 議会主義的体制は政治的統一を制限し弱めるためのものにすぎず、従って政治的統.一を維持するためには、法治国的
いと思われる。 むしろ、もともと、シュミットにとっては、憲法及び憲法の一部たる法治国的・議会主義的体制は
ご
〃政治的統一の方法と形態についての国民の実存的綜体的決断〃に基.くものであり㍉﹁且つ国民の実存的決断が政治的
ニ 統一の維持と言う最高目的に照らして見て、一切の規範的拘束から離れて、絶対的に正しいめに反して、法治国的。ゴ
国的体制が内包している最小限の規範的なものによる拘束から離れた決断を正当化するための伏線以上のものではな
ったと主張す輪%︶それ故\前記の如き法律の規範的要素の強調は法治国的休制のレギティミテートを否定して、法治
ず、この法律の規範的要素が充分に実現されていないから、法治国的。議会主義的体制はそのレギティミテートを失
払
瀦」
へ だし、スメントによれば憲法或は国法は統合過程の個々の警め法律的規制だからである。 勿論、スメントにおいて
こ
も、統合過程においても、形式的意義の法律が作用し、それが統合過程を法的に規制する事は認められているし、む
︵←ハニ︶ ︵六三︶
しろ、権利者・義務者間の意思領域の直接.的限界づけのみを法律の領域として把握した十九世紀後半の国法学に比し
て、統合過程と言う国家生活の全象面に法律の介入を認めた点では全く正当であったと言えよう。しかし、斯様に法
律の支配の対象領域を拡張したにも拘はらず、スメントは、この形式的意義の法律を正義価値による規範的拘束を受
けないものとした。スメントが前述の〃法作用の体系ゲの独自性を認め〃統合め体系〃と異った取扱をしているのは
〃法作用の体系ゲの固有価値を救った点では正しいとしても、〃統合の体系〃への〃法作用の体系〃の介入を否定し
た点で謬っている。スメントは、憲法生活或は統合過程における法律定立を、法原則。法価値による拘束から離れて
統合即ち国家と言う全体の確立維持の観点からのみ構成し、従って、意思的決断としてのみ構成する。スメントにお
エハガ けるように、み統合〃が自己目的とされれば、〃統合〃との関係に立たされる一切の規範は、統合の機能的全体の中
よハ に組み込まれてしまって、規範としての価値・弾固性・恒常性を失ってしまわざるを得ない。
このように、シュミットやスメントにおいて顕著な事は、法律定立が馬上定図法原則によって拘束される事なく純
粋に意思的決断として行はれるとされているだけでなくて、更に一且制定された油律が政治的決断によって容易に左
ハ ヒ 2(1 (3●89) 329
右され得るとされている事である。
鱒 シュミットにとって憲法も政治的法律も国民の実存的政治的決断の所産であったが、しかし、シュミットはこ
︵
の国民の政治的決断を国民個々人から超越した方法で発動させた。即ち シュミットは、秘密の、私的な、個々人め
アクラマテイオンを政治的決断の最も純粋で自然な形式とし.て主張し、アクラマテイオン或はそれに最も近いプレビ
論 ︵六八︶
意思の寄せ集めからは国民の政治的決断は行われ得ないとして、国民が公開の場所に集合して賛否を表明する事即ち
説
26 (孕●90) 313Q
︵六九︶
スチット以外にレギティミテートの基礎になり得るものはないと主張し、このような根拠から アクマラマティオン
による正当化を根拠にして大統領への権力集中をも正当化した。ナチス成立後も、シュミットはへ依然として権力の
セ へ ら つ
民主的な正当化につとめたが、それは、真の民主政においては、国民の間に同質性が存在しているから、国民の中か
らアクラマテイオンによって選出された総統の政治的決断は直ちに国民の客観的政治的意思に斜ならないと言う理論
であった。この理論の持つ問題性は次のこ点にある。一つはアクラマテイオンと言うのが非合理的。非組織的なもの
モこ
であるため.結局、自己を承認する任意の群衆を国民と同一化する事に成功する者は誰でも、国民の真の意思に基く
︵七二︶
と称して総統になる事が出来る事にあり、他の一つは、国民の間の同質性は自然的に存在するのではなくて、異質的
なものを強制的に国民の中から排除して成立するものであり、しかも何が異質的なものかの決定は総統にのみ委ねら
︵,﹄二︶
れると言う事にあった。斯様にシュミットにおいては、〃国民〃は総統の独裁的決断を正当化するための表看板とし
て利用されているが、国政における究極の政治的決断の主体としては作用していない。
セ スメントにおいては国家に対する国民の無関心を克服して国家に対する国民の内的関心を高める事が志向され、国
︵
切 場上見たように、シュミット。スメ払トにおいても、法律定立が内実定的或は実定的規範による拘束によって
あるものとされ、国民個々人が究極の政治的決断の主体とはされていない。
からも知られるように.国民個々人の基本権に基く政治的活動も国家的全体の確立強化に仕へる手段としてのみ意義
セ に対して君主政が有していた統合作用に代って国家全体の統合を行う役割を帰属させ且つこの役割を強調している所
家に内的に参与する国民筆入も.結局は.〃全体〃の価値を休験するものとされるにすぎず、スメント自身、基本権
体の存在が始めから前提されていて、その全体の形成、維持が自己目的とされているために、価値的体験を通じて国
家が国民の意思から不断に新に統合されてのみ存立している事が強調されているが、しかし、スメントにおいても全
司HI
説
;ノ㌦
制約されない純粋に意思的決断の作用として構成されているだけでなくて、この意思的決断も国民個人の、規範によ
って拘束された、主体的決断を核心としそれと内在的連関を持つものとして構成されず、国民個人から超越して始め
から存在している国家と言う全体の・全体による・全体のための決断として構成されている。
三、以上の如くにして、十九世紀後半の実証主義的国法学も二十世紀の政治的憲法論も、それぞれその方法論と歴史
的役割とを全く異にするにも拘はらず、猶、規範論理的操作によるにせよ、或は〃国民ヴからの義挙を用いるにせ
よ、ともかく一方で国家を超越的実体へと絶対化し、他方で国民個人を国家の積極的形成者として構成していない点
で共通である事が明らかにされた事と思う。そして、ドイツ国法理論における他の共通要素たる、立法における無拘
束の意思的決断の強調も、一つには、〃具体的経験的国民個人から隔絶した全体的国家が謬る事はない〃と言う暗黙の
信仰が底にあったからではないだろうか。政治的・社会的には、ドイツが各ラントに分割されて、ラントと言う狭い
領域内で絶対主義の支配が徹底的に滲透した事、ドイツの資本主義の発達が遅れていた事、ユンカーによって代表さ
れる封建的要素が存続していた事、ビスマルクが非議懸守的統治を強行した事などによって条件づけられ、精神史的
には、ルターの〃二つの国〃の理論や、カントにおける〃理論〃と〃実践〃の分離や、ロマン主義における内面への
沈潜や、ヘーゲルによる国家の絶対化などによって条件づけられて成立した、この、国家を自己の事柄として、それ
ヒ 26 (3●91) 3;31
に責任を以って積極的に参与しようと言う国民個々入の意思の欠如−之がドイツ国法理論の底にある共通の精神地盤
である。この精神地盤の上に、安定した時代には実証主義国法学が、動揺した時代には政治的憲経論が支配的になり
つつ,ひとしく.ナチス体制と言う〃不法の体系〃の成立に間接的に或は直接的に責任を負う事になったのであると
う。〃国家とは我々なのだ〃と言う意識がすべての国民に根ざさなければならないであろう。
論 ︵七ヒ︶
すれば、真の民主政、真の法治国家の確立のためには先づ、斯かる精神地盤の改革がなされなければならないであろ
説
26’(3●・92) 33零
もともと.・〃法律グと言うものは実定法の最も合理的で明確な形式として、歴史的。社会的に如何なる具体的形態
をとるにせよ、自然法原則或は法理念の現実化・個別化・具体化と言う意味を持つべきものであるが、法理念の現実
︵七八︶
化、貝体化即ち法律定立は法理念・法原則からの論理的操作や野性的熟慮によってのみ行はれるのではなく、必ず人
イツ国法理論におげる法律概念の検討はドイツ国法理論の二つの傾向に共通に見られる斯かる意思の欠如の悲劇性.
々の種類の入間の行為を統合して、,法原則。法理念を現実化・具体化して行く過程であるが、この過程を推進する最
ニ も強い力は、﹂、自己の主体性において法原則を現実化①具休化しようと言う国民個々人の積極的意思に外ならない。ド
活は強い程度における或は弱い程度における法網・則による規範的拘束と主体.的決断との交錯の中で、糎々の段階や種
ば、法律はその意味に適した社会的作用を果し得ず、〃不法の休系〃の成立を妨げ得ない。法律を基軸とする国家生
の責任において現,実化するための国民個々人の主体的決断と言う意味が内在的。合理的に貫徹されているのでなけれ
されている。しかし、法定された機関と形式とを通じてなされる決断の中に、無原則。法理念を認識してそれを自己
生活においては.法的安定性.の要求に基いて、立法その他の国政において具質的決断を行う機関と形式とは予め法定
入権を自己のうちに,内在さ,せている具休的個々入の人格的決断を通じてなされなければならないっ勿論、今日の国家
て形成すべく課されてもい,るのである。しかも、斯かる決断は、究極的には、法原則。妙々念の核心としての基本的
︵八二︶
に人間に委ねられているのでありハ法は人間にとって、,客観的法則として与えられていると共に、実存的決断によっ
こ
あるゆ従って、,法は人間に、完成したものとして何らの苦労なしに贈られるものではなくて、不確実性と問題性と共
間〃を必要とし、逆に人間はゾレンからザインへの仲介者であり、斯かる地位を持つ所に人間のエートスと責任とが
ヒ となってレアルなものを規定し得るためには、その拠点として〃主休〃、しかも経験的でレアルな主体、、即ち〃人
間の意思的決断を媒介としてなされる。法原則や法価値はアン傷ジッヒ・ザインを持ってはいるが、自らレアルな力
巨照
説
ヨム.
問題性.の立証.を通して、逆に斯かる意思の切実な必要性を立証する.と思はれる。
︵一︶ 小林直樹、憲法における政、治的なるもの、ジュリスト一五二号、五頁以下。 鵠●国7日目ρOおロN①鵠畠臼♂、①♂ωω虞昌σQω1
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ュ.リスト、馳一五三号、三九頁 ,
三︶鵜飼信成、行政法の歴史的展開、昭和二七年、・四五頁以下う=二四頁以下。小林直樹、憲法における現範的なるもの、ジ
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論説
論説
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︵四二︶.
エルツェンは、十九世紀実証主義的国法学の形式性が、ドイツ市民階級が宙己の自由主義的憲法理想の実現を放棄して支
︵四一︶
︵四五︶
配的な保守勢力と妥協を結び国塚権力の核心を君主とその行政機構忙委ねてしまった事に基く事を強調しつつも、この国法学
をあくまでも声曲階級の立場に立つものとして捉え、市民階級が持ち且つ必要としていた自由主義的な要素と合理的・技術的
要素とを内含していた事をも強調している。︵勺Φ8︻く。昌O①震①PU一〇。,oNゆ巴Φ喝ロロ閃けδ昌α①ωω鼠異ω︻oo旨集。﹃①ロ℃oの一けア
鵜飼信成、前掲書、=ハ九頁以下・
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︵四六︶
︵五二︶
︵五〇︶
︵四九︶
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︵六一︶即ωヨ①pPg。.。鉾O・ω・心心ごP鳶=づ侮Pひ一” ︵六四︶ 即ωヨ①昌P聾・①・O.ω・ち一︷hり慧W隣 .
︵六五︶幻.ω目①昌ρP9.O.ωし一〇べ ︵六六︶ 菊・ωヨΦ昌負PPO・ω・鵠。。hh
︵六七︶甫・国蔚陣一鋤・鋤・O・oo・一世臨 ︵六八︶ ρω魯ヨ諜叶鋤・鋤・O・ψc。Whbも。.沁お自
︵六九︶O.ω。げ巳け8UΦσq⇔葺響ロコ臼いΦαq一江a感!宣︿Φ蔑鎖ωω信ロαq段①。ゲ葺。ぴ①﹀鼠組辟Nρ這噛。。”QD.逡O
︵七〇︶ O.ωoゴヨ算戸くΦH貯ωω⊆⊆αqω一〇寓ρω・切凱O”℃・ωoゴづ①乙Φ斜ロ・四・O・Qり.一心℃”ω.聖職
︵七一︶雪の9旨Φ崔雲・僧POQり.D二h戸一・固冨涛。箋ω江山⇔.”.O.ω・一お自.
︶勺.ω07員①こ①き鋤・鋤●○・ω・一煩。。 ︵七三︶ い司ごゆ涛。堵q・憲−山.帥・O・ω・嬬一”頓心一重盗
26 (3●96) 336
@ω①爵N一ゆ固W、Qo9一9国.勺一ΦωωロΦさ︼︶冨く①h砿℃属国Φ什Φ署鋤甑oP一〇い℃℃QD●.心ど心悼
︵七六︶以上、宮田光雄、ドイツ。ファシズムの思想史的基盤、思想一九五六年一二月号、一.六頁一三四頁参照、 h①ヨ①﹃国●
@国ぎ買血陰。.ρω﹂心﹁oぼ互一きト霊①盆g,箒謁・除﹄①島①σQユhこΦωω。N芭窪幻Φ隻ω器籍ψ一昌切。言①同9雪傷
︵七四︶即●ωヨ①巳鉾9。.O・ω二嵩”ω・笛①跨 ︵七五︶ 幻・ωヨΦ旨Ppロ●O●Qり.まひh眺
(七
@ ソq
参照。
への意思〃︵ぐく臨﹁① N二︻ <①︻h餌ωω仁二幅 G︶については、囚。昌雷傷出ΦωωρUδ昌。﹃ヨ鋤樽ぞ⑦國鎚津傷①噌く①ぽ⇔ωω⊆βαq℃ち遣ω’這
︵八三︶ 小林直樹、憲法における政治的なるもの、四一頁参照、を・国似σq卸”①・O.Qn.轟。。跨。憲法の規範的効力に宣する〃憲法
︵八二︶国・閃①oぽ旨①h●鋤・勲○・Qo’NO轡B9嫡O
.︿八○︶U・ωoげ毒心Φさ9.9。・O●ω.℃悼1℃切 ︵八一︶ 国●喝①。げ昌Φさ幻Φ9富弓ゴ一一〇ωo℃三p這い9ω●Dも
八七九︶U●ωoゲぎ巳⑦59.⇔・O・ω.旨一℃P︾・bd同ロロ旨①び即Φo匿ωω朴鋤象oq①ひq①,口↓o鉦叩畠母”一↓Φ総量ム。。℃qD●一露
@幻oo7計.qつS讐、<O罠Φ同σq①]日①一口ωoゴp津”這恥。◎℃ω.D一hh 、、 回
︵七八︶国.出Φ濠♪σエδ鉾田①訂ρ一3心ω●一句.ω.悼PP山・出自巽ψωo即く①鼠紙&fもDゴω・ωNh降口P一遭﹂︶●ω。ゴぎ像一三い
︵七七︶雪O筒β℃窪δのooげ①p一昌の嘗①σq①一二昌像N醇ω且。σq虫”6漣”の・、曽N驚 ,、
説
重八
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